『徒然草』の原文を、8ページに分けて全文ルビ付きで掲載しています。このページ(7)には、第190段「妻といふものこそ」から第217段「ある大福長者の言ふ」までの章段を収めました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『徒然草』現代語訳(7)をご覧ください。
第190段 妻といふものこそ
妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ。「誰がしが婿になりぬ」とも、また、「いかなる女を取り据ゑて、あひ住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるるわざなり。
ことなることなき女を、よしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、賤しくも推し量られ、よき女ならば、この男をぞらうたくして、あが仏とまもりゐたらめ、たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家のうちを行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男亡くなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空にこそならめ。
よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬなからひともならめ。あからさまに来て、泊まりゐなどせんは、めづらしかりぬべし。
第191段 夜に入りて物の映えなし
「夜に入りて、物の映えなし」と言ふ人、いと口惜し。よろづのもののきら、飾り、色ふしも、夜のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎ、およすけたる姿にてもありなん。夜は、きららかに、花やかなる装束、いとよし。人のけしきも、夜のほかげぞ、よきはよく、物言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。匂ひも、ものの音も、ただ夜ぞひときはめでたき。
さしてことなることなき夜、うち更けて参れる人の、清げなるさましたる、いとよし。若きどち、心とどめて見る人は、時をも分かぬものなれば、ことにうちとけぬべき折節ぞ、褻晴なくひきつくろはまほしき。
よき男の、日暮れてゆするし、女も、夜更くるほどにすべりつつ、鏡取りて、顔などつくろひて出づるこそ、をかしけれ。
第192段 神、仏にも
神、仏にも、人の詣でぬ日、夜参りたる、よし。
第193段 暗き人の、人をはかりて
暗き人の、人をはかりて、その智を知れりと思はん、さらに当たるべからず。つたなき人の、碁打つことばかりにさとく巧みなるは、賢き人の、この芸におろかなるを見て、おのれが智に及ばずと定めて、よろづの道の匠、我が道を人の知らざるを見て、おのれすぐれたりと思はんこと、大きなる誤りなるべし。
文字の法師、暗証の禅師、互ひにはかりて、おのれにしかずと思へる、ともに当たらず。
おのれが境界にあらざるものをば、争ふべからず。是非すべからず。
第194段 達人の人を見る眼は
達人の人を見る眼は、少しも誤るところあるべからず。
たとへば、ある人の、世に虚言を構へ出だして人をはかることあらんに、すなほにまことと思ひて、言ふままにはからるる人あり。あまりに深く信をおこして、なほわづらはしく虚言を心得添ふる人あり。また、何としも思はで、心をつけぬ人あり。また、いささかおぼつかなく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じゐたる人あり。また、まことしくは覚えねども、人の言ふことなれば、さもあらんとてやみぬる人もあり。また、さまざまに推し、心得たるよしして、賢げにうちうなづき、ほほ笑みてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。また、推し出だして、「あはれ、さるめり」と思ひながら、「なほ誤りもこそあれ」と怪しむ人あり。また、「異なるやうもなかりけり」と、手を打ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりとも言はず、おぼつかなからぬは、とかくのことなく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、少しもあざむかず、構へ出だしたる人と同じ心になりて、力を合はする人あり。
愚者の中の戯れだに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たるところ、詞にても顔にても、隠れなく知られぬべし。まして、明らかならん人の、惑へる我らを見んこと、掌の上の物を見んがごとし。
ただし、かやうの推し量りにて、仏法までをなずらへ言ふべきにはあらず。
第195段 ある人、久我縄手を通りけるに
ある人、久我縄手を通りけるに、小袖に大口着たる人、木造の地蔵を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗ひけり。心得がたく見るほどに、狩衣の男二、三人出で来て、
「ここにおはしましけり」
とて、この人を具して去にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。尋常におはしましける時は、神妙に、やんごとなき人にておはしけり。
第196段 東大寺の神輿
東大寺の神輿、東寺の若宮より帰座の時、源氏の公卿参られけるに、この殿、大将にて先を追はれけるを、土御門相国、
「社頭にて警蹕いかがはべるべからん」
と申されければ、
「随身のふるまひは、兵仗の家が知ることに候ふ」
とばかり答へたまひけり。
さて、後に仰せられけるは、
「この相国、北山抄を見て、西宮の説をこそ知られざりけれ。眷属の悪鬼、悪神を恐るるゆゑに、神社にて、ことに先を追ふべき理あり」
とぞ仰せられける。
第197段 諸寺の僧のみにもあらず
諸寺の僧のみにもあらず、定額の女嬬といふこと、延喜式に見えたり。すべて、数定まりたる公人の通号にこそ。
第198段 揚名介に限らず
揚名介に限らず、揚名目といふものあり。政事要略にあり。
第199段 横川の行宣法印が申しはべりしは
横川行宣法印が申しはべりしは、
「唐土は呂の国なり。律の音なし。和国は単律の国にて、呂の音なし」
と申しき。
第200段 呉竹は葉細く
呉竹は葉細く、河竹は葉広し。御溝に近きは河竹、仁寿殿の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。
第201段 退凡、下乗の卒都婆
退凡、下乗の卒都婆、外なるは下乗、内なるは退凡なり。
第202段 十月を神無月と言ひて
十月を神無月と言ひて、神事に憚るべきよしは、記したるものなし。もと文も見えず。
ただし、当月、諸社の祭なきゆゑに、この名あるか。この月、よろづの神たち、太神宮へ集まりたまふなどいふ説あれども、その本説なし。さることならば、伊勢にはことに祭月とすべきに、その例もなし。
十月、諸社の行幸、その例も多し。ただし、多くは不吉の例なり。
第203段 勅勘の所に靫懸くる作法
勅勘の所に靫懸くる作法、今はたえて知れる人なし。主上の御悩、おほかた世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。
看督長の負ひたる靫を、その家に懸けられぬれば、人出で入らず。このこと絶えて後、今の世には封をつくることになりにけり。
第204段 犯人を笞にて打つ時は
犯人を笞にて打つ時は、拷器に寄せて結ひつくるなり。拷器のやうも、寄する作法も、今はわきまへ知れる人なしとぞ。
第205段 比叡山に大師勧請の起請といふことは
比叡山に、大師勧請の起請といふことは、慈恵僧正書き始めたまひけるなり。
起請文といふこと、法曹にはその沙汰なし。いにしへの聖代、すべて起請文につきて行はるる政はなきを、近代このこと流布したるなり。
また、法令には、水火に穢れを立てず。入れ物には穢れあるべし。
第206段 徳大寺右大臣殿
徳大寺右大臣殿、検非違使の別当の時、中門にて使庁の評定行はれけるほどに、官人章兼が牛放れて、庁のうちへ入りて、大理の座の浜床の上に登りて、にれうちかみて臥したりけり。「重き怪異なり」とて、牛を陰陽師のもとへつかはすべきよし、おのおの申しけるを、父の相国聞きたまひて、
「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。尫弱の官人、たまたま出仕の微牛を取らるべきやうなし」
とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば替へられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。
第207段 亀山殿建てられんとて
亀山殿建てられんとて、地を引かれけるに、大きなる蛇、数も知らず凝り集まりたる塚ありけり。「この所の神なり」と言ひて、ことのよしを申しければ、
「いかがあるべき」
と勅問ありけるに、
「古くよりこの地を占めたるものならば、さうなく掘り捨てられがたし」
とみな人申されけるに、このおとど一人、
「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神はよこしまなし。咎むべからず。ただみな掘り捨つべし」
と申されたりければ、塚を崩して、蛇をば大井川に流してけり。さらに祟りなかりけり。
第208段 経文などの紐を結ふに
経文などの紐を結ふに、上下よりたすきに違へて、二筋の中より、わなの頭を横さまに引き出だすことは、常のことなり。
さやうにしたるをば、華厳院弘舜僧正、解きて直させけり。
「これはこのごろやうのことなり。いとにくし。うるはしくは、ただくるくると巻きて、上より下へ、わなの先をさし挟むべし」
と申されけり。古き人にて、かやうのこと知れる人になんはべりける。
第209段 人の田を論ずる者
人の田を論ずる者、訴へに負けて、ねたさに、
「その田を刈りて取れ」
とて、人をつかはしけるに、まづ道すがらの田をさへ刈りもて行くを、
「これは論じたまふ所にあらず。いかにかくは」
と言ひければ、刈る者ども、
「その所とても刈るべき理なけれども、僻事せんとてまかる者なれば、いづくをか刈らざらん」
とぞ言ひける。理、いとをかしかりけり。
第210段 喚子鳥は春のものなり
「喚子鳥は春のものなり」とばかり言ひて、いかなる鳥ともさだかに記せるものなし。ある真言書の中に、喚子鳥鳴く時、招魂の法をば行ふ次第あり。これは鵺なり。万葉集の長歌に、「霞立つ長き春日の」などつづけたり。鵺鳥も喚子鳥のことざまに通ひて聞こゆ。
第211段 よろづのことは頼むべからず
よろづのことは頼むべからず。愚かなる人は、深くものを頼むゆゑに、恨み怒ることあり。
勢ひありとて頼むべからず。こはき者まづ滅ぶ。財多しとて頼むべからず。時の間に失ひやすし。才ありとて頼むべからず。孔子も時にあはず。徳ありとて頼むべからず。顔回も不幸なりき。君の寵をも頼むべからず。誅を受くること速やかなり。奴従へりとて頼むべからず。背き走ることあり。人の志をも頼むべからず。必ず変ず。約をも頼むべからず。信あること少なし。
身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右広ければさはらず、前後遠ければ塞がらず。狭き時はひしげ砕く。
心を用ゐること少しきにして厳しき時は、物に逆ひ、争ひて破る。緩くして柔らかなる時は、一毛も損ぜず。
人は天地の霊なり。天地は限るところなし。人の性、何ぞ異ならん。
寛大にして極まらざる時は、喜怒これにさはらずして、物のためにわづらはず。
第212段 秋の月は
秋の月は、限りなくめでたきものなり。
「いつとても、月はかくこそあれ」
とて、思ひ分かざらん人は、無下に心憂かるべきことなり。
第213段 御前の火炉に火置く時は
御前の火炉に火置く時は、火箸して挟むことなし。土器よりただちに移すべし。されば、転び落ちぬやうに心得て、炭を積むべきなり。
八幡の御幸に供奉の人、浄衣を着て、手にて炭をさされければ、ある有職の人、
「白きものを着たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず」
と申されけり。
第214段 想夫恋といふ楽は
想夫恋といふ楽は、女、男を恋ふるゆゑの名にはあらず。もとは相府蓮、文字の通へるなり。晋の王倹、大臣として、家に蓮を植ゑて愛せし時の楽なり。これより、大臣を蓮府といふ。
廻忽も廻鶻なり。廻鶻国とて、夷のこはき国あり。その夷、漢に伏して後に来たりて、おのれが国の楽を奏せしなり。
第215段 平宣時朝臣、老いの後
平宣時朝臣、老の後、昔語に、
「最明寺入道、ある宵の間に呼ばるることありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、また使来たりて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば異やうなりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのままにてまかりたりしに、銚子に土器取り添へて持て出でて、『この酒をひとりたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人はしづまりぬらん。さりぬべき物やあると、いづくまでも求めたまへ』とありしかば、紙燭さして、くまぐまを求めしほどに、台所の棚に、小土器に味噌の少しつきたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献に及びて、興に入られはべりき。その世には、かくこそはべりしか」
と申されき。
第216段 最明寺入道、鶴岡の社参のついでに
最明寺入道、鶴岡の社参のついでに、足利左馬入道のもとへ、まづ使をつかはして、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりけるやう、一献にうちあはび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ。その座には、亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。
「さて、年ごとにたまはる足利の染物、心もとなく候ふ」
と申されければ、
「用意し候ふ」
とて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。
その時見たる人の、近くまではべりしが、語りはべりしなり。
第217段 ある大福長者の言ふ
ある大福長者の言ふ、
「人は、よろづをさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかんと思はば、すべからく、まづその心づかひを修行すべし。その心といふは、他のことにあらず。人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずることなかれ。これ第一の用心なり。次に、万事の用をかなふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に随ひて志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、しばらくも住すべからず。所願はやむ時なし。財は尽くる期あり。限りある財をもちて、限りなき願ひに従ふこと、得べからず。所願心にきざすことあらば、『我を滅ぼすべき悪念来れり』と、かたく慎み恐れて、小要をもなすべからず。次に、銭を奴のごとくして使ひ用ゐるものと知らば、長く貧苦を免るべからず。君のごとく、神のごとく、恐れ尊みて、従へ用ゐることなかれ。次に、恥に臨むといふとも、怒り恨むることなかれ。次に、正直にして約をかたくすべし。この義を守りて利を求めん人は、富の来ること、火の乾けるに就き、水の下れるに従ふがごとくなるべし。銭積もりて尽きざる時は、宴飲、声色をこととせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く楽し」
と申しき。
そもそも人は、所願を成ぜんがために財を求む。銭を財とすることは、願ひをかなふるがゆゑなり。所願あれどもかなへず、銭あれども用ゐざらんは、まつたく貧者と同じ。何をか楽しびとせん。
このおきては、ただ人間の望みを絶ちて、貧を憂ふべからずと聞こえたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、しかじ、財なからんには。
癰疽を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんにはしかじ。
ここに至りては、貧富分くところなし。究竟は理即に等し。大欲は無欲に似たり。



