
このページでは、『源氏物語』第15帖「蓬生」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第15帖「蓬生」原文全文をご覧ください。
源氏を待ち続ける末摘花
源氏が須磨で涙に暮れていたころ、都でもさまざまな人がその身を案じ、嘆いていた。とはいえ、二条院の紫の上のように確かなよりどころのある人は、離れている寂しさこそあっても、源氏の旅先の様子を絶えず聞き、手紙も交わし、官位を失って質素な身なりで暮らしている源氏のために、その時々に必要なものを整えてやることもできた。それが少しは慰めにもなっただろう。けれど、源氏と関わりがあるとも世間には知られておらず、別れた時のことだけを胸に、遠くから源氏を思い続けていた女性たちの中には、人知れず心を砕いていた人も大勢いた。
常陸宮の姫君――末摘花も、その一人だった。父宮を亡くしてからは、ほかに世話をしてくれる人もなく、もともとひどく心細い身の上だった。それが思いがけず源氏と縁ができ、以来、折々の見舞いや援助が絶えることなく続いていた。あれほどの勢いのある源氏にとっては、ほんのささやかな心遣いにすぎなかったかもしれない。それでも、わずかなものを待ち受ける末摘花には、大空の星の光を小さな盥の水に映して眺めるような、ありがたい恵みに思われていた。
ところが世の中があれほど騒がしくなり、源氏自身がすべてを嫌になって都を離れることになると、もともとそれほど深い関係ではなかった相手のことなどは、自然と心から遠ざかってしまった。遠い須磨から、わざわざ末摘花のもとへ使いをやることもできない。そのあとしばらくは、彼女も泣きながら日々を過ごしていたが、年月が重なるにつれ、暮らしはいよいよ寂しくなっていった。
昔から仕えている老女房たちは、「まあ、なんというつらいご運命なのでしょう。思いがけず神仏が姿を現してくださったのかと思うほど、大将殿が心をかけてくださるようになって、こんな私たちにも頼れる方というのは現れるものなのだと、ありがたく思っておりましたのに。世の中全体の騒ぎとはいえ、また何の頼みもないお暮らしになってしまわれるとは」と、ぶつぶつ嘆いていた。
以前は、何の望みもない寂しい暮らしにすっかり慣れていた。ところが源氏と縁ができ、ほんの少しとはいえ世間らしい生活を知ってしまった年月がある。それだけに、元の暮らしへ戻ることは、かえって耐えがたかった。少しでもほかに行き場のある人は、一人、また一人と暇を取って去っていった。年老いた女房には亡くなる者もあり、月日とともに、上も下も仕える人の数は減る一方だった。
蓬に埋もれてゆく常陸宮邸
もともと荒れていた常陸宮邸は、いよいよ狐でも住みつきそうな有様になった。薄暗く人を寄せつけない木立では、朝夕、梟の鳴き声が聞こえる。以前なら人の気配を恐れて姿を隠していたような怪しいものまで、今ではここぞとばかりに我が物顔で出てきそうで、心細いことは数えきれなかった。
わずかに残った女房たちは、さすがに耐えかねて進言した。「もう、とてもここでは暮らせません。最近の受領たちには立派な邸を造ることを好む人も多く、この宮のお庭の木を欲しがって、譲っていただけないかと人づてに申し込んでくる者までおります。そのようになさって、もう少し恐ろしくないところへお移りになってはいかがでしょう。残ってお仕えする者たちも、とても耐えられません」
けれど末摘花は、泣きながら首を振った。「まあ、なんということを。世間の人が聞いたら、どう思うでしょう。私が生きているうちに、父宮がお残しになったものを跡形もなくしてしまうなど、とてもできません。こんなに恐ろしく荒れ果ててしまっても、ここにいれば父宮の面影がまだ残っているような気がして、それだけが慰めなのです」
邸には、父宮の時代からの古い調度品も残されていた。いかにも昔風の、きちんとした品ばかりである。少し古物に詳しい者が、誰それに特別に作らせた品だなどと聞きつけて買いたいと申し込んでくることもあった。どうせ貧しい家だろうと見くびって話を持ちかけてくるのである。女房たちは、「仕方ありません。こういう時には売れるものを売るのも世間では普通のことです」と、目の前の窮乏を少しでもしのごうとすることがあった。
それを末摘花はひどく叱った。「父宮が、私が使うようにと思って残してくださったものなのでしょう。それをどうして、軽々しい人の家の飾り物にできるのです。亡くなった父上のお心に背くことになるのが悲しいではありませんか」と言って、どうしても売らせようとはしなかった。
ちょっとした見舞いをしてくれる人さえ、今では誰もいなかった。ただ兄の禅師の君だけが、まれに京へ出てくる時には立ち寄ることがあった。ところがこの人も、世にも珍しいほど昔気質なうえ、同じ僧侶の中でも現世のことにはまるで頓着しない聖だったから、庭に生い茂った草や蓬を少し払ってやろうなどという気さえ起こさない。
そんなありさまなので、浅茅は庭の地面が見えないほどに茂り、蓬は軒の高さを競うように伸びていた。葎は東西の門を覆い隠してくれているので、その点だけはまだ用心になるものの、周囲の垣は崩れかけ、馬や牛が踏みならした道までできている。春や夏ともなれば、放し飼いのものまで我が物顔で入り込み、ますます目も当てられなかった。
ある年の八月、野分が激しく吹いた時には、廊まで倒れ伏した。下屋など、もともと粗末な板葺きだった建物は骨組みがわずかに残るばかりとなり、そこに住みつく下人さえいない。炊事の煙も絶え、見るからに悲惨だった。乱暴な盗人さえ、あまりの寂しさに盗むものもないと思うのか、この宮だけは素通りして近づかなかった。そのおかげというのも妙な話だが、野原や藪のようになった邸の中でも、寝殿の内側だけは昔のしつらえがそのまま残っていた。
掃除をする者さえいないので塵は積もっている。それでも物を持ち去ったり乱したりする者もないから、昔どおり整った部屋の中で、末摘花はただ朝から晩まで過ごしていた。
こんな時には、古い歌や物語でも読んで暇を紛らわせ、寂しい住まいを慰めるものなのだろう。ところが末摘花は、そういうことにもどうも疎かった。特別に風流好きでなくても、ほかに急いですることもない若い女性なら、同じような境遇の相手と手紙くらい交わし、木や草の移り変わりに心を慰めるものだが、末摘花は父宮から大切にかしずかれて育ったころの慎み深さをそのまま守り、めったに手紙を交わしてよいような相手とも、決して馴れ馴れしく付き合おうとはしない。
時々、古びた厨子を開けて、『唐守』や『藐姑射の刀自』、『かぐや姫』など、昔の物語を描いた絵を眺めるくらいが慰めだった。古歌にしても、趣のあるものを選び、題や詠み人までわかっている歌ならまだ見どころもあるけれど、古びた紙屋紙や陸奥紙に、昔から見慣れた歌がただ書きつけてあるようなものは、何とも味気ない。それでもあまりに退屈な時には広げて眺めた。
今どきの人がするように、経を読んだり仏道の勤めをしたりすることは、なぜかひどく気恥ずかしく思っている。見る人など誰もいないのに、数珠さえ手に取ろうとはしない。こんな時にまで、末摘花はどこまでも昔ながらの堅苦しい姫君なのであった。
大弐の北の方からの誘い
侍従という乳母子だけは長年離れずに仕えていたが、その侍従も以前通っていた斎院がお亡くなりになるなどして、暮らしはひどく心細くなっていた。そんなころ、末摘花の母君の姉妹で、今はすっかり身分を落とし、受領の北の方となっている女性がいた。この叔母には大切に育てている娘たちがあり、若い女房たちもそれなりに揃っている。侍従は、まったく知らない家へ出るよりは親類の家のほうがよいと思い、時々そちらへ通うようになった。
末摘花自身はもともと人と親しくするのが苦手なので、この叔母ともそれほど付き合いを深めようとはしなかった。叔母のほうはそれが気に入らず、「あの方の母君は私を見下して、親類として付き合うのを恥ずかしくお思いだったのでしょう。だから姫君があんなに気の毒な暮らしをしていらしても、こちらから見舞いに行くこともできません」などと、少し意地の悪いことを侍従へ言って聞かせていた。
世間では、もともと普通の身分に生まれた人ほど、かえって上流の人を真似て気取ったり、自分を高く見せたりすることも多い。ところがこの叔母は、血筋だけは高貴なのに、ここまで落ちぶれる宿世だったせいなのか、考え方はどこか俗っぽかった。昔、自分が末摘花の母君から下に見られていたことを今でも根に持ち、いつかこの姫君を自分の娘たちに仕える女房同然にしてやりたい、と内心考えていたのである。気の利かなさや古臭さはあっても、身分だけは確かで、娘たちの世話役としては安心だろう、というわけだった。
「たまにはこちらへお越しになってください。姫君のお琴の音をぜひ聞いてみたいという者もおりますよ」と誘ってきたが、侍従が何度勧めても末摘花は動かなかった。誰かと張り合って気位を高くしているわけではない。ただ、生来あまりにも大げさなほど人を警戒し、身を慎む性格なので、親類とさえ親しくしようとしない。それが叔母にはまた腹立たしかった。
やがて叔母の夫が大弐となり、一家で筑紫へ下ることになった。娘たちの縁組などもそれなりに整えたうえで出発するつもりだったが、叔母はなお末摘花を連れていくことを諦めていなかった。
「こんな遠いところへ下ってしまいますと、姫君のあのお心細い暮らしを、いつもお見舞いしていたわけではないにしても、近くに親類がいるというだけの頼みさえなくなってしまいます。それが本当に心配でございます」
もっともらしく言葉を尽くしたが、末摘花はどうしても承知しなかった。とうとう叔母は、「まあ憎らしい。何をそんな大げさに。いくら一人で気位高くしていらしたところで、こんな藪の中で何年も暮らしている人を、大将殿だってそれほど大切な方とはお思いにならないでしょうに」と、恨み言まで言うようになった。
源氏は都へ戻ったのに
そんなころ、本当に源氏の罪が許され、都へ帰ってくるという知らせが広がった。天下の人々が喜び、誰もが、自分こそ誰より先に深い忠誠を源氏へ見せたいと競い合った。男も女も、身分の高い者も低い者も、さまざまな思いで源氏のもとへ集まってくる。その人々の心を見ながら、源氏も人情についてさまざまに感じることがあった。
けれど、そんな慌ただしさの中で、末摘花を思い出した様子はまったくないまま月日が過ぎていった。
末摘花は、もうこれで終わりなのだと思った。この何年もの間、源氏がつらい境遇に沈んでいることを悲しく思いながらも、いつかまた春が巡ってきて、元の華やかな身になってくださる日が来ればと、ただそれだけを頼みに耐えてきた。それなのに今、旅人さえ喜ぶというほどの源氏の復帰を、自分だけは遠くから聞いているしかない。
源氏が不遇だった時には、その苦しみがまるで自分一人のための悲しみのように胸に迫った。それなのに、幸せが戻った時には、その喜びから自分だけが取り残されている。なんという甲斐のない世の中なのだろう。そう思えば胸が潰れそうで、人知れず泣くことしかできなかった。
大弐の北の方は、「ほら、やっぱり。こんなに頼るものもない、みっともない暮らしをしているあなたを、いったい誰がまともに数へ入れてくださるというのです。仏様や聖でさえ、罪の軽い者のほうが救いやすいといいます。こんな有様なのに、昔、宮様や母君がいらしたころと同じ気位のままでいるなんて、本当にお気の毒なこと」と、ますます馬鹿にしたように思った。
「もう決心なさいませ。世の中がつらい時には、人の目につかない山道へでも逃れるものだといいます。田舎暮らしは嫌なものだと想像なさっているのでしょうが、決して人前に出られないような扱いはいたしませんよ」と、今度はたいそう口当たりよく説得した。
すっかり気弱くなっていた女房たちまで、「どうか、お従いになればよいのに。今のご身分で、いつまでもそんなに強情を張っていられるものでもないでしょうに」と陰でぶつぶつ言っている。
侍従にも、大弐の北の方の甥にあたる男との縁ができ、どうしても都へ残るわけにはいかなくなった。自分の意志ではないとはいえ、筑紫へ向かうことになったのである。それでも末摘花を一人残していくのがあまりに気がかりで、「このままお一人にしておくのが本当に心配です」と何度も一緒に行くよう勧めた。
それでも末摘花は、長い間会っていない源氏にまだ望みをかけていた。いくら何でも、いつか何かの折には思い出してくださることがないだろうか。昔、あれほど深い言葉で心変わりはしないと約束してくださったのだから。自分の運が悪く、今は忘れられているだけなのだ。風の便りにでも、こんなひどい暮らしをしていると源氏が知れば、きっと訪ねてくださる――そう長年信じていた。
邸は以前にもまして目を覆いたくなるほど荒れていたが、それでも父から残されたわずかな調度品を自分の意志で手放そうとはせず、昔と同じ姿のまま、じっと耐え続けていた。泣いてばかりいるので、もともと赤みの強い鼻がいっそう際立ち、その横顔などは、山人がいつも一つだけ赤い木の実を顔につけているようにも見えたというのだが――これ以上詳しく言うのはやめておこう。あまり書けば、こちらが意地悪をしているようで気の毒である。
侍従との別れ
冬が深まるにつれ、末摘花はいよいよ何にすがればよいのかわからないまま、悲しそうに日々を過ごした。そのころ源氏は、亡き桐壺院のための法華八講を、世間中が驚くほど盛大に営んでいた。僧も誰でもよいというのではなく、学問に優れ、修行を積んだ尊い僧だけが選ばれたので、末摘花の兄である禅師の君も招かれていた。
禅師は帰り道に妹のところへ立ち寄り、「これこれこういうわけで、権大納言殿の八講へ参ってきたところです。それはもう見事なもので、生きながら見る極楽浄土の飾りにも劣らないほど、荘厳で素晴らしいことを尽くされました。あのお方は、仏や菩薩がこの世へ姿を変えて現れた方なのではありませんか。この濁りきった世の中に、どうしてお生まれになったのでしょう」とだけ言い、そのまま帰っていった。
もともと言葉少なで、世間普通の人とはまるで違う兄なので、妹がどれほど困っているかという話など、ろくに聞きもしない。末摘花には、こんなにみじめな私の暮らしを見ながら、気にも留めず帰ってしまうとは、ずいぶん情けのない仏菩薩だこと、と恨めしく思われた。もう本当に、これが自分の運命なのだろうと、次第に諦めかけていたところへ、大弐の北の方が突然やって来た。
普段それほど親しくもしないのに、何とか連れ出そうというつもりで、末摘花に着せる装束まで用意し、立派な車に乗ってきた。本人は得意そうで、何の悩みもなさそうな顔をしている。突然車が走り込んできて門を開けさせようとすると、もう左右の扉は傾き倒れているので、男たちが支えながら大騒ぎで開けなければならない。こんな寂しい宿にも、隠者の庵へ通じるという三本の小径くらいはあるのだろうか、とでもいうように、手探りで中へ入ってきた。
どうにか南面の格子が二間ほど上がっているところへ車を寄せた。末摘花はあまりの見苦しさに恥ずかしく思ったが、煤けきった几帳を差し出して、侍従が出てきた。侍従も長年の苦労でずいぶんやつれていた。それでも清潔で品のある様子は残っていて、恐れ多いことながら、叔母の家の女房たちと取り替えてもよいくらいに見えた。
北の方は言った。「いよいよ出発しようと思っておりますが、姫君のこの心細いご様子をお見捨てするのがつらくて、今日は侍従を迎えに参ったのです。姫君ご自身は私を遠ざけて、ほんの少しの間さえこちらへいらっしゃいませんけれど、せめてこの人だけでもお許しください。それにしても、どうしてこんなに悲しいご様子になってしまったのでしょう」と、今にも涙を見せそうなことを言う。
けれど心はもう旅立ちのほうへ向いているので、本人はむしろ晴れ晴れしていた。「故宮がおいでになったころ、姉君は私のことを恥になる者とお思いだったようで、それ以来どうしても疎遠になってしまいました。でも長年、私は姫君が高貴な身分を守り、大将殿のような方がお通いになる運のある方なのだと思えば、私ごときが親しくするのも畏れ多く、遠慮していたのです。世の中というものは本当に定まりませんね。私のような取るに足りない身は、かえって気楽なものです。とても手の届かない方と思っていた姫君が、今こうしてお困りなのを見るのは、本当に悲しく気がかりです。近くにいるうちは、それでも何となく安心していられましたが、これから遠い筑紫へ下ると思うと心配でなりません」
いろいろ話しかけても、末摘花は心を開いて答えようとしない。ただ、「本当にありがたいお話ですが、私は世間普通の人とは違うこんな身ですから、もう何をどうしようとも思いません。このままここで朽ちてしまおうと思っております」としか言わなかった。
「まあ、そうお思いになるのもわかります。でも、生きているのに世間を捨てて、こんな恐ろしいところで暮らしている人など、ほかにいらっしゃるでしょうか。大将殿がこの邸を造り直してくだされば、一転して玉の台のようになるかもしれないと期待することもできましょうが、今の大将殿は式部卿宮の姫君のほかに、特別に心を分けていらっしゃる女性はいないと聞きます。もともと恋多き方で、軽い気持ちで通っていた昔の女性たちからも、今では皆お離れになったとか。まして、こんなふうに藪の中へ埋もれて暮らしている方を、『一途に私を信じて待っている』とわざわざ探し出してくださることなど、とてもありそうには思えません」
叔母からそう言い聞かされると、たしかにそうなのだろうと思われ、末摘花はたまらなく悲しくなって、ただ静かに泣き続けた。
それでも動く気はまったくない。北の方は一日中あれこれ説得して疲れ果て、夕方になると、「それなら、せめて侍従だけでも」と言い出した。侍従は慌て、泣きながら、「それでは、とりあえず今日は、お急かしになる叔母様をお送りするだけのつもりで参ります。叔母様のおっしゃることももっともですし、姫君がお迷いになるのも当然です。その間におります私もつらくてなりません」と、末摘花へそっと申し上げた。
長年そばを離れなかったこの人まで自分を置いていこうとしている。末摘花には恨めしくもあり、悲しくもあったが、止める言葉さえ出てこない。ただ声を立てて泣くばかりだった。形見として与えられるような長年着慣れた衣も、すっかり古びてしまっている。そこで、抜け落ちた自分の髪を集めて作ってあった、九尺余りもある見事な鬘を、美しい箱へ入れた。それに昔の薫衣香の、たいそうよい香りのするものを一壺添えて侍従へ贈った。
絶ゆまじき筋を頼みし玉かづら思ひのほかにかけ離れぬる
決して切れることはないと頼みにしていた私たちの縁なのに、玉鬘の髪の筋が離れるように、思いもしなかった形で遠く離れてしまうのですね。
「亡くなった母君も、あなたのことをよろしくとおっしゃっていましたから、たとえ何の甲斐もない私の身でも、最後まで一緒にいられるものと思っていました。見捨てられるのも仕方のないこととは思いますが、私はいったい誰にこの身を託せばよいのでしょう」と言って、末摘花はひどく泣いた。
侍従も、まともに返事をすることができなかった。「母君のお言葉は、もちろん決して忘れてはおりません。この何年もの間、耐え難い暮らしも一緒に耐えてまいりました。それなのに、思いもよらない道へ誘われ、こんな遠いところへまで行かなければならなくなって……」
玉かづら絶えてもやまじ行く道の手向の神もかけて誓はむ
こうして離れても、私たちの縁まで絶えることはありません。これから行く道を守る手向けの神にかけても、そうお誓いいたします。
「ただ、これからの命がどうなるかだけはわかりません」と侍従が言っているところへ、「ほら、どこにいるの。もう暗くなってしまいましたよ」と北の方から急かす声がする。侍従は心ここにあらずという様子で車へ乗せられ、何度も後ろを振り返りながら出ていった。
何年も、つらいと言いながら一度も自分を置いていかなかった人がとうとう去ってしまった。末摘花がたまらなく心細く思っていると、世間ではもう使いものにならないような年老いた女房まで、「まあ、仕方のないことです。どうしてあの人だけ残れましょう。私たちだって、いつまで我慢できるかわかりません」と、自分にもそれぞれ頼れるところがあることを思い出し、いつまでもここにいる気はないらしいことを口にした。末摘花はそれを聞きながら、ひどく惨めな思いをした。
ただ一人、雪の中で年を越す
十一月ごろになると雪や霰の降る日が多くなった。ほかの場所なら日が差せば消える雪も、朝日も夕日も遮る蓬や葎の陰には深く積もったままで、越の白山というのはこんなものだろうかと思われるほどだった。出入りする下人さえ一人もいない。末摘花はただ一人、所在なく外を眺めていた。
以前なら、ちょっとしたことを話して慰め、泣いたり笑ったりして気を紛らわせてくれた侍従さえいない。夜になれば、塵の積もった御帳の中まで片側が空いてしまったように感じられ、いよいよ物悲しかった。
一方、源氏の邸では、帰京後に新しく集まってくる人々も多く、ますます騒がしい毎日が続いていた。それほど大切に思っていない女性たちのもとへは、わざわざ出向く暇さえない。まして末摘花については、「まだこの世にいるのだろうか」と、ふと思い出す時がないわけではなかったものの、今すぐ探し出そうというほど気持ちが急ぐこともなく、そのまま年が改まった。
卯月の夜、忘れられた邸を見つける
四月ごろ、源氏はふと花散里を思い出し、紫の上にそっと外出の暇を告げて出かけた。何日か降り続いた雨の名残がまだ少し落ちてくる中、やがて月が美しく顔を出した。源氏は昔、こうして人目を忍んで女性のもとへ通ったころのことを思い出した。風情のある夕月夜で、道を行きながらさまざまな昔のことが胸をよぎる。
その途中、もはや家の形さえわからないほど荒れ果て、木々が森のように茂っている場所の前を通りかかった。大きな松に藤の花が咲きかかり、月明かりの中でしなやかに垂れている。風が吹くたび、さっと漂う香りがどこか懐かしい。橘の香とはまた違った趣があり、源氏は車から少し身を乗り出して眺めた。柳もひどく枝垂れ、築地さえ邪魔にならないほど崩れて、枝が乱れ伏している。
「どこかで見たような木立だな」
そう思って、ようやく気づいた。昔訪ねた常陸宮の邸だったのである。源氏は急にしみじみした気持ちになり、車を止めさせた。惟光は、こんな忍び歩きの時には昔から決して遅れない男なので、今夜も供をしている。
「ここは、常陸宮の邸だったね」
「はい、そのとおりでございます」
「ここにいた人は、今でもまだ、一人で物思いをしているのだろうか。訪ねてやらなければならないとは思っていたが、そのためだけにわざわざ出てくるのも、今の身ではいろいろ面倒だ。せっかくここを通ったのだから、中へ入って様子を聞いてきてくれ。よく確かめてから戻ってこいよ。人違いだったら笑いものだからね」
ちょうどそのころ、末摘花はいよいよ物思いの深い日々を送っていた。その日の昼寝の夢に亡き父宮が現れたので、目覚めてからも名残が悲しくてならなかった。雨漏りで濡れている廂の端を拭かせ、あちらこちらの御座を少し整えさせるなど、珍しく身の回りをきちんとしていた。
亡き人を恋ふる袂のひまなきに荒れたる軒のしづくさへ添ふ
亡き父を恋しく思い、涙で乾く暇もない私の袖に、荒れた軒から落ちる雨の雫まで重なっていきます。
そんな、あまりにも気の毒な夜だった。
蓬を分け入る源氏
惟光は中へ入った。人のいる気配がどこかにないかと、ぐるぐる歩き回ってみるが、まるで物音がしない。やっぱりそうか。道を通るたび目には入っていたが、誰かが住んでいるようには見えなかった――そう思って引き返しかけた時、月が明るく差し出した。
見ると、格子が二間ほど上がっていて、簾がわずかに動いている。ようやく人の気配を見つけたことに、かえって恐ろしくなるほどだった。それでも近づいて声をかけると、ひどく年老いた声が、まず咳払いをしてから答えた。
「そこにいるのは誰です。どなたですか」
惟光は名を名乗り、「昔、侍従の君とお呼びしていた方に、お目にかかりたいのですが」と言った。
「その人は今、ほかのところにおります。でも、その代わりと言っては何ですが、事情のわかる女ならおりますよ」
声はずいぶん年老いていたが、惟光には聞き覚えがあった。侍従の叔母で、少将と呼ばれていた老女である。
邸の人々のほうは、こんな所へ突然、狩衣姿の男が人目を忍ぶように、しかも柔らかな物腰で入ってきたので驚いた。長い間、まともな男の姿など見ていないものだから、狐か何かが人に化けて出てきたのではないかとさえ思ったらしい。
惟光はさらに近寄り、「はっきり事情を伺っておきたいのです。もし昔と変わらず姫君がいらっしゃるのなら、あの方もお訪ねしたいというお気持ちはずっとお持ちだったようです。今夜もここをそのまま通り過ぎることができず、車をお止めになっています。何と申し上げればよいでしょう。安心してお話しください」と言った。
老女は思わず笑った。「もし姫君のご様子が昔と変わってしまったのでしたら、こんな浅茅の原にいつまでも住んでなどいらっしゃるでしょうか。そこからお察しになって、そのまま大将殿へ申し上げてくださいませ。長く生きてきた私の目にも、これほど珍しい身の上はほかにないと思うような年月を、姫君はお過ごしなのです」
このまま話させれば、聞かれもしないことまで延々としゃべり出しそうだったので、惟光は「わかった、わかった。まずはそのように申し上げよう」と切り上げ、源氏のもとへ戻った。
「どうしてそんなに時間がかかったのだ。どうだった。それにしても、昔の面影も見えないほど蓬が茂っているね」
源氏が尋ねると、惟光は一部始終を話し、「侍従の叔母で、少将と申していたあの老女が、昔とまったく変わらない声でおりました」と報告した。
源氏は胸を衝かれた。こんな深い草の中で、いったいどんな気持ちで何年も過ごしてきたのだろう。どうして自分は、今まで訪ねもしなかったのだ――自分自身の薄情さまで、今さらながら思い知らされた。
「どうしたものかな。こういう忍び歩きも、今ではなかなかできない。今日のように偶然通りかかりでもしなければ、また立ち寄ることも難しいだろう。昔と変わらない人なら、たしかにずっと同じようにしているのだろうと想像できる人だからね」
そう言いながらも、いきなり中へ入っていくのはさすがにためらわれる。気の利いた手紙を送ってみたい気もしたが、昔会った時の、あまりにも返事の遅い末摘花の様子が今も変わっていないのなら、使者をいつまでも立たせておくことになるだろう。それも気の毒だと思い、やめた。
惟光も、「これはとても、このままではお分け入りになれません。蓬の露がひどいので、少し露を払わせてからお入りになるほうがよろしいでしょう」と言う。
源氏は独り言のように歌を口ずさんだ。
尋ねても我こそ訪はめ道もなく深き蓬のもとの心を
道さえなくなるほど深い蓬の中に隠れていても、変わらず待っているあなたの心を、やはり私自身が探し出して訪ねなければならないのでしょう。
そしてとうとう車を下りた。供の者が馬の鞭で前の蓬についた露を払いながら、源氏を中へ通していく。雨の名残もまだ時雨のようにぱらぱら落ちてきた。
「お傘を。たしかに木の下の露のほうが、雨よりひどいくらいでございます」
惟光が言うとおり、源氏の指貫の裾はすっかり濡れてしまった。昔から、あるのかないのかわからないほどだった中門などは、今では跡形もない。そんな中を歩いていく自分が、何とも格好のつかない姿に思われたが、それを見ている人が誰もいないことだけは気楽だった。
長い年月を越えた再会
末摘花は、それでもいつかは源氏が来てくれるはずだと長年待ち続けてきた。その願いが本当に叶ったのだから、うれしくないはずはない。けれど今のあまりにも恥ずかしい暮らしぶりで、こんな立派になった源氏と顔を合わせることを思うと、身が縮むほどだった。
大弐の北の方が置いていった衣類も、あの人のことが気に入らなかったので見ることさえしなかったが、女房たちが香を入れた唐櫃にしまっておいたため、今もたいそうよい香りがしていた。ほかにどうしようもないので、その衣へ着替え、例の煤けた几帳を引き寄せて、その陰に座った。
源氏が入ってきた。
「長い年月、離れて暮らしてはいましたが、私の心だけは変わらず、いつもあなたのことを思っていたのですよ。それなのに、あなたのほうからは少しも私を驚かせるようなお便りがない。それが恨めしくて、いったいいつまで何も言ってこないのかと、こちらもずっと様子を見ていたのです。でも今夜は、杉ではありませんが、昔の木立があまりにはっきりこの家を教えてくれたので、そのまま通り過ぎることができず、とうとう私のほうが根負けしてしまいました」
そう言って源氏が帷子を少しかき上げても、末摘花は昔と同じくひどく恥ずかしがり、すぐには返事もしない。けれど、これほどの蓬を分け入ってまで源氏が来てくれたのだ。その気持ちが浅いものではないと思えば、何とか心を奮い立たせ、かすかな声でようやく言葉を返した。
源氏はさらに、優しく話しかけた。「こんな草の中に隠れるようにして何年も過ごしていらしたことを思うと、本当に胸が痛みます。それでもあなたの心が昔と変わっていないらしいと思えば、こうして露に濡れながら分け入ってきた甲斐もありました。私が長いことご無沙汰してしまったことは、この数年の世の中全体の騒ぎに紛れたこととして許していただけるでしょうか。これから先まで、もしあなたの心に添わないようなことがあれば、その時こそ昔言ったことに背いた罪を負わなければなりませんね」
実際にはそこまで深刻に考えていたわけでもないことまで、源氏は実に情け深そうな言葉にして聞かせた。けれど長くここへ留まるには、住まいのありさまから何から、今の源氏にはあまりにも似つかわしくない。ひととおり心のこもった話をして、そろそろ帰ろうとした。
自分が植えた松ではないが、以前見たころよりずっと高く成長している。その木を見ると、過ぎ去った年月の長さがしみじみと感じられる。自分自身も、かつてここへ通っていたころから須磨、明石を経て、今の身になるまで、夢のような変転を重ねてきた。
藤波のうち過ぎがたく見えつるは松こそ宿のしるしなりけれ
藤の花の波があまりに美しくて通り過ぎがたく思ったのですが、本当はこの高い松こそが、ここが昔のあなたの家だと教えてくれた目印だったのですね。
「数えてみれば、ずいぶん長い年月が積もったものですね。都でも、昔とは変わってしまったことが本当に多く、それぞれに感慨があります。今度またゆっくりと、私が田舎へ別れていってから世の中が衰えていたころのことも、全部お話ししましょう。あなたもこれまで、春や秋をどんな思いで過ごしてきたのか、いったい誰に愚痴を言えばよかったのでしょうね。そんなことを何の疑いもなく今さら思える自分も、考えてみれば妙なものです」
末摘花は、かすかな声で返した。
年を経て待つしるしなきわが宿を花のたよりに過ぎぬばかりか
長い年月、待ち続けても何の甲斐もなかったこの家を、今日はただ藤の花に誘われて、たまたま通り過ぎる途中にお立ち寄りになっただけなのでしょうか。
そう詠んで、ほんの少し身じろぎする気配にも、袖から漂う香りにも、昔より大人びたところが感じられた。
月はもう西へ傾き、開いた妻戸から明るい光が差し込んでいた。邪魔になる渡殿のような建物はみな崩れ、軒先までほとんど残っていないので、月は遮られることなく部屋の中を照らしている。そうすると周囲の様子もよく見えた。外から見れば蓬や忍草に埋もれ、見る影もない邸なのに、室内のしつらえだけは昔と変わっていない。その様子がかえって優雅に見えた。
源氏は、昔の物語に、住んでいる人はそのままなのに塔だけが壊れてしまったという話があったことまで思い出した。人も調度も同じ姿のまま、ただ年月だけが古びてしまったことが、ひどく心にしみる。ひたすら人を避け、慎ましく暮らしてきた末摘花の気配も、相変わらず品があった。
昔から、こういうところだけは忘れず面倒を見てやりたいと気の毒に思っていたのに、この数年、自分もさまざまな物思いに心を奪われ、すっかり忘れたように遠ざかってしまった。どれほど恨めしく思っていただろう、と源氏は今さら申し訳なくなった。もっとも、花散里もそうなのだが、格別に華やかで目を奪うような美貌の女性ではないため、久しぶりに見ても以前との落差がそれほど目につかない。そのおかげで、いろいろな欠点もかえって目立たずに済んだのであった。
再び差し込んだ光
賀茂祭や御禊などの時期になると、源氏のもとにはさまざまな品が数多く贈られてきた。源氏はその中から、必要なところには自分でもさらに品を添えて贈った。とりわけ末摘花のところには細かく心を配り、信頼できる者たちへ言いつけ、下人まで送り込んで蓬を刈り払わせた。周囲の見苦しいところには板垣を造らせ、きちんと修理もさせた。
ただ、源氏があれほどの有様になった末摘花を今になって探し出したと世間に知れれば、自分にとっても体裁のよい話ではない。そのため、すぐにまた自分から訪ねることはしなかった。それでも手紙はとても細やかに書き、「二条院の近くに住まいを用意させています。いずれそちらへお移ししましょう。身の回りに仕える、きちんとした童女なども探しておいてください」と、仕える人々のことにまで気を配って便りを送った。
あの恐ろしい蓬の中では、贈られてくる品を置く場所にも困るほどになった。残っている老女房たちは空を仰ぎ、源氏のいる方角へ向かって拝むように喜んだ。
源氏という人は、ほんの気まぐれな恋の相手でさえ、世間並みの何の特徴もない女性なら目にも耳にも留めない。それなりに「この人は」と思わせるものがあり、何か一つでも心に引っかかるところのある女性のもとへ、自分から訪ねていく人だと世間にも知られていた。
それなのに今回はまるで反対に、何につけても格別というところのない末摘花を、ここまで一人前の女性として遇し、暮らしを立て直してやろうとしている。いったいどんな心からなのだろう。これもやはり、昔からの不思議な縁というものなのだろう。
もうこの家も終わりだと見切りをつけ、末摘花を見下して散り散りになっていった上も下もの人々も、源氏が再び面倒を見ていると聞くと、「私も戻ろう」「私も」と争うように帰ってくる者が出てきた。
末摘花は、人柄だけなら奥ゆかしいと言いたくなるほど素直で、仕える者に厳しいことも言わない。それに慣れていた人々の中には、並の受領の家などへ移ってみると、かえって気詰まりで居心地が悪く、すぐに戻ってくる者もいた。
今の源氏は昔以上の勢いを持ち、しかもさまざまな苦労を経て、人の境遇を思いやる心もいっそう深くなっている。末摘花の暮らしについても細かく指図をしていたので、その威光が自然とこの荒れた宮にも及んだ。次第に人の出入りが戻り、庭も人目に耐えるようになっていく。遣水はきれいにさらわれ、前栽の根元もすっきり整えられた。これまで特に目をかけられることもなかった下級の家司まで、「これほど大将殿がお心にかけているところなのだ」と察し、源氏の意向をうかがいながら競って奉仕するようになった。
末摘花はその古い宮でさらに二年ほど暮らしたのち、やがて源氏によって東の院へ移された。直接顔を合わせることは相変わらずめったになかったが、すぐ近くに住むようになったので、源氏もほかの用で東の院へ行った折には時々様子を覗き、決して軽く扱うことはなかった。
あの大弐の北の方がのちに都へ戻り、この変わりようを見てどれほど驚いたか。また侍従が、末摘花の幸せを喜びながらも、自分がもう少し待つことができなかった浅はかさをどれほど恥ずかしく思ったか――そのあたりも、もう少し詳しく話してみたいところではある。
けれど、あれこれ書いていると頭まで痛くなり、いささか面倒になってきた。またいつか、よい機会があれば思い出してお話しすることにしよう。
