
このページでは、『源氏物語』第32帖「梅枝」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第32帖「梅枝」原文全文をご覧ください。
明石の姫君の裳着と、薫物合の準備
明石の姫君の裳着を迎えるにあたって、源氏の準備は並大抵のものではなかった。同じ二月には春宮の元服も予定されているので、そのまま続いて姫君の入内ということになるのだろうか。
正月の晦日、朝廷のことも私事も比較的のんびりしているころ、六条院では薫物合が行われた。大宰大弐から献上された香を源氏が試してみると、「やはり昔の香には及ばないのではないか」と思われる。そこで二条院の御倉を開かせ、昔から伝わる唐物を運び出して比べてみた。
「錦や綾などにしても、やはり古いもののほうが、味わいがあって、色も深いものだね」
源氏はそう言い、姫君の身近な調度の覆いや敷物、茵の縁などには、故桐壺院の御代の初めごろに高麗人が献上した綾や緋金錦など、今の世のものとはまったく違う古い品々を、それぞれふさわしいところを選んで使わせた。今回新しく用意した綾や薄物などは、女房たちへ与えた。
香についても、古いものと今のものとを取りそろえ、六条院のそれぞれの女君へ配った。
「二種類ずつ、御自分で調合してみてください」
そう申し送ったのである。
入内の贈り物や、上達部への禄など、内でも外でも前例がないほど多くの品を整える忙しさに加え、女君たちもそれぞれ材料を吟味して薫物を作る。そのため六条院のあちらこちらで、香料を搗く鉄臼の音が耳にうるさいほど響いていた。
源氏は寝殿に一人離れてこもり、承和の御代から伝えられたという二種の秘伝の調合法を、いったいどこで耳にしたものなのか、心にしっかり覚えていて、自分で香を合わせていた。
紫の上は、東側中央の放出を特別に奥深くしつらえ、八条の式部卿宮から伝わった調合法を用いて香を作っている。二人とも互いに負けまいと競いながら、ひどく秘密にするので、源氏は笑って言った。
「香りの深い浅いにも、きちんと勝ち負けをつけなくてはいけませんね」
姫君の親として準備しているというのに、どこか子供じみた競争心である。
どの御殿でも、そばに仕える人をあまり多くせず、ひそかに調合していた。姫君のための調度はどれも美を尽くしているが、その中でも香壺を入れる箱や壺の形、火取りなどは、見慣れないほど新しく趣向を凝らして作られていた。それぞれの女君が精いっぱい工夫した香のうち、とりわけ優れたものを選び、その器へ入れようというのである。
前斎院から届いた梅の枝
二月十日。少し雨が降り、御前近くの紅梅がちょうど盛りで、色も香りも比べるもののない美しさだった。
そこへ兵部卿宮が六条院を訪れた。裳着の準備も、いよいよ今日明日というところまで来ているので、その様子を見舞いに来たのである。源氏とは昔から特に親しい間柄なので、あれこれと隔てなく話しながら梅を眺めていると、前斎院からという使いが、少し盛りを過ぎた梅の枝に手紙を結んで持って来た。
宮も以前から何か知っているところがあったらしく、「いったい、どんな御消息がこうして積極的に送られてきたのでしょう」と、面白がって聞いた。
源氏は微笑んで、「あまりに馴れ馴れしいお願いをしてしまったので、律儀に急いでくださったようですよ」と答えたが、手紙そのものはさっと隠してしまった。
前斎院からは、沈香の箱に瑠璃の坏を二つ据え、大きく丸めた薫物を入れて送られていた。添えられた飾りも、紺瑠璃の器には五葉の枝、白い器には梅の枝を選び、それぞれを結んだ糸まで柔らかく優美である。
「なんとも艶のある贈り物ですね」
兵部卿宮が目を留めていると、ほんのわずかに書かれた歌まで見つけてしまい、わざと大げさな声で読み上げた。
花の香は散りにし枝にとまらねどうつらむ袖に浅くしまめや
花の香りは、散ってしまった枝にはもう留まりません。それでも、その香りが移るあなたの袖に、私の思いまで浅く染まることがありましょうか。
夕霧は使者を探して引き止め、たっぷり酒を飲ませた。紅梅襲の唐の細長を添えた女装束まで褒美に与える。
源氏の返事も同じような色の紙に書かれ、御前の梅を折らせて添えた。
兵部卿宮は、「ずいぶん内々のことを想像させる手紙ですね。いったい何を隠していらっしゃるのか、そんなに奥深くしまい込まれるとは」と恨みがましく言い、ますます中身を知りたそうにしている。
源氏は、「何があるというのでしょう。そうやって何でも意味ありげにお考えになるから困るのですよ」と言い、硯が出ていたついでに返歌を書いた。
花の枝にいとど心をしむるかな人のとがめむ香をばつつめど
人に怪しまれそうな香りだけは隠していても、この花の枝には、かえってますます心が惹かれてしまいます。
そして源氏は、少し真面目な顔になって言った。
「本当のところ、いかにも風流人めいたことですが、こんな例はほかにないほど大切な姫君のことで、こういう準備こそ当然だと思っているのです。あまりに大がかりでみっともないほどですから、親しくない人には見られるのも気恥ずかしい。中宮にもいったんこちらへ退出していただいて、その時にお見せしようかと思っています。あなたとは昔から親しく行き来しているけれど、どこかこちらが気後れするほど立派なところのある宮ですから、何でも普通の程度のものをお見せするのは恐れ多くてね」
兵部卿宮も、「なるほど。姫君が春宮へ入られるのなら、こうした準備をなさるのも当然のことですね」と納得した。
六条院の女君たちの薫物を競べる
せっかく兵部卿宮がいるので、源氏は六条院の女君たちが調合した香を、それぞれ使いを出して取り寄せた。
「この夕暮れの湿り気の中で試してみましょう」
女君たちは、それぞれに趣向を凝らした形で香を届けてきた。
源氏は宮へ、「あなたが判定してください。ほかに誰にお願いできましょう」と言って、火取りをいくつも持って来させ、順々に香を試した。
宮は「私など、香を判じるほど詳しい人間でもありませんよ」と謙遜したが、言葉では表せないほど微妙な香りの違いまで、ほんの少し強すぎる、遅れて香り立つ、といったわずかな欠点を嗅ぎ分け、無理にでも優劣をつけていった。
最後に、源氏自身の二種の香も取り出された。それは右近の陣の御溝水になぞらえ、西の渡殿の下から流れ出る水辺近くへ埋めておいたものだった。惟光の宰相の息子である兵衛尉が掘り出し、夕霧が受け取って源氏のもとへ届けた。
兵部卿宮は、「いやはや、たいへんな判者を引き受けてしまいました。煙たくて仕方がない」と困ってみせる。
同じ香ならどこで焚いても似たように広がりそうなものだが、それぞれが自分の心のままに調合した香を比べてみると、濃淡にも奥行きにも実にさまざまな違いがあって、面白いことが多かった。
どれが明らかに一番とも決めにくい中で、前斎院の「黒方」は、さすがにひときわ奥ゆかしく、静かな深みのある香りだった。
「侍従」は源氏自身が調合したものが、格別に艶やかで、親しみ深い香りだと判定された。
紫の上は三種類を作っていた。その中の「梅花」は華やかで今風で、少し鋭く立ち上がる趣まで加え、珍しい薫りに仕上げてある。
「今の季節の風に香らせるのなら、これに勝るものはないでしょう」
皆がそう褒めた。
夏の御方――花散里は、ほかの人たちがそれぞれ競って香を作っている中へ、自分まで数に入るほどのものを出してどうするのだろう、と煙と一緒に自分まで消えてしまいそうな控えめな気持ちで、「荷葉」だけを一種調合していた。
ほかとは趣が違い、しっとりと静かな香りで、なんとも懐かしい。
冬の御方――明石の御方は、季節ごとにふさわしい香が決まっている中で、同じ土俵に出て劣ってしまうのも面白くないと考え、「薫衣香」の優れた調合法を選んだ。かつての朱雀院の処方を写したものや、公忠朝臣が特に選び抜いて調合した「百歩」の方などを参考にし、この世にまたとないほど優美な要素を集めて、見事な香に仕上げていた。
兵部卿宮は、どの香にもそれぞれ長所があるとして、一つも悪くは言わない。
源氏は、「ずいぶん八方美人な判者ですね」と笑った。
梅が枝を奏でる春の夜
月が昇ると、酒が運ばれ、源氏と宮は昔話などを始めた。
霞んだ月の光は奥ゆかしく、雨の名残の風が少し吹いて、梅の香を優しく運んでくる。六条院のあたり一面には、さまざまな薫物の香りまで言いようもなく満ち、誰もがひどく艶やかな心地になる夜だった。
蔵人所の方でも、翌日の御遊に備えて楽器の調整などをしており、大勢の殿上人が参集して、美しい笛の音が聞こえてくる。
内大臣家の柏木や弁少将なども、顔を出しただけで帰ろうとしていたところを、源氏が引き止め、楽器を取り寄せた。
兵部卿宮には琵琶、源氏には箏の琴が差し上げられ、柏木は和琴を与えられた。柏木が華やかに掻き鳴らす音は、実に面白い。夕霧は横笛を吹き、その夜にふさわしい調子を、天上まで届くかと思うほど鮮やかに響かせた。
弁少将が拍子を取り、「梅が枝」を歌い始めた。この少将は、子供のころ、韻塞ぎの折に「高砂」を歌ったあの少年である。
兵部卿宮も源氏も声を添え、大げさな宴ではないのに、ひどく風情のある夜の管弦となった。
酒杯が回ると、兵部卿宮が詠んだ。
鴬の声にやいとどあくがれむ心しめつる花のあたりに
ただでさえ心を深く惹かれているこの花のあたりで、鴬の声まで聞いたなら、ますます魂まで誘い出されてしまいそうです。
ここなら千年でも過ごせそうですよ。
源氏が返す。
色も香もうつるばかりにこの春は花咲く宿をかれずもあらなむ
この春は、花の色も香りもあなたの身に移るほど、どうぞ花咲くこの宿から離れずにいてください。
源氏が柏木へ杯を渡すと、柏木はそれを受け取り、夕霧へ差した。
鴬のねぐらの枝もなびくまでなほ吹きとほせ夜半の笛竹
鴬が眠る枝までも風になびくほど、夜半の笛をもっともっと吹き通してください。
夕霧は返した。
心ありて風の避くめる花の木にとりあへぬまで吹きや寄るべき
風でさえ心があって避けて通るらしい花の木へ、物の道理もわきまえず笛の風を吹きつけてよいものでしょうか。
そんな情けのないことはできません。
皆が笑った。
続いて弁少将が詠んだ。
霞だに月と花とを隔てずはねぐらの鳥もほころびなまし
せめて霞さえ月と花との間を隔てなかったなら、ねぐらの鳥も思わず声をほころばせることでしょうに。
本当に明け方になって、ようやく兵部卿宮は帰ることになった。
贈り物として、源氏自身のために仕立てた直衣一領に、まだ誰も手を触れていない薫物二壺を添えて車へ載せた。
宮はまた歌を詠んだ。
花の香をえならぬ袖にうつしもてことあやまりと妹やとがめむ
この花の香を、こんなに立派な袖へ移して帰ったなら、家の妻が「何か間違いでもあったのでは」と怪しむでしょうか。
源氏は、「ずいぶん弱気なことをおっしゃる」と笑った。
宮の車が出ようとしたところへ、追いかけてさらに歌を届けた。
めづらしと故里人も待ちぞ見む花の錦を着て帰る君
花の錦のような美しい衣を着てお帰りになるあなたを、家で待つ方も「まあ珍しい」と待ち受けて御覧になることでしょう。
きっと、またとないことだとお思いになるでしょうね。
兵部卿宮は、ひどく悔しそうに笑った。
そのほかの若君たちにも、大げさにならない程度に、細長や小袿などが褒美として与えられた。
明石の姫君の裳着
こうして、その日の戌の刻、源氏は西の御殿へ渡った。
中宮がおいでになる西の放出を特別にしつらえ、髪上げを担当する内侍などもそのままこちらへ参った。紫の上も、この機会に中宮と対面した。
六条院のそれぞれの御方から女房たちが集まり、その数はわからないほどだった。
子の刻、姫君に裳が着せられた。
大殿油はほのかな明るさだったが、その中に感じられる姫君の気配があまりにも美しいので、中宮も感心して御覧になった。
源氏は中宮へ言った。
「この姫君をお見捨てにはならないだろうと、それだけを頼みにして、このように身のほどをわきまえない形で、進んで御覧に入れているのです。後の世まで笑い草になるのではないかと、内心では狭い心で心配しているのですけれどね」
中宮は、「私にはどういうことになるのか、まだ何もよくわかっておりませんのに、そんなに大げさにおっしゃるものですから、かえって気をつかわなくてはいけないような気持ちになります」と、軽く打ち消すように答えた。
その声や様子が、まだとても若々しく、愛嬌がある。
源氏には、自分が思い描いていたとおりに美しい女君たちが、こうして一堂に集まっていることが、この上なくすばらしく思われた。
ただ、姫君の実母である明石の御方が、こんな大切な機会にさえ娘を見ることができない。そのことを、本人がどれほどつらく思っているだろうと考えると気の毒で、一度こちらへ上らせてはどうかとも思った。
しかし世間の口を憚り、結局そのままにした。
こういう儀式は、普通の家でさえ細かなことが多く、いちいち書けば煩わしいものだ。まして今回は大がかりである。その一端だけを、いつものように不十分に書き写すのもかえってどうかと思われるので、細かな儀式については省くことにしよう。
春宮の元服と、姫君の入内
春宮の元服は、二十日過ぎに行われた。
春宮は年齢以上に大人びていらっしゃるので、世の有力者たちは、我も我もと娘を入内させたいと思っていた。
しかし六条院の源氏が明石の姫君を入内させようとしている意向があまりにもはっきりしている。そのため左大臣なども、「そこへ競って娘を入れるのも、かえってどうだろう」と遠慮しているらしい。
それを聞いた源氏は言った。
「それは実につまらない話だ。宮仕えする女性が大勢いる中で、それぞれが少しずつ競い合ってこそ面白いのではないか。世の中にこれほど優れた姫君が大勢いるのに、皆が家へ引っ込んでしまったら、宮中も華やかさがなくなるでしょう」
そこで明石の姫君の入内は少し延期された。
周囲の人々もそれを知り、左大臣家の三の君が先に春宮へ参った。麗景殿と呼ばれるようになった。
明石の姫君には、かつて源氏自身が宿直所として使っていた淑景舎を改めて整え、御方とすることになった。
入内が延びているので、春宮も待ち遠しく思っていらっしゃる。そこで四月と日を定めた。
源氏は調度類も、もともとあるもの以上にさらに整え、自分自身でも器物の下絵や絵様などを一つ一つ見て、各分野の優れた職人を集め、細部まで磨き上げさせた。
草子箱へ入れる冊子についても、そのまま後世の手本になるほどのものを選ぼうとした。昔の名筆で、今も世に名を残す最高級の書も、六条院には数多く伝わっていた。
源氏が語る、仮名の名手たち
源氏は紫の上と、書について話した。
「何事につけても、昔に比べてだんだん浅くなっていく末の世だけれど、仮名だけは今の世が際限なく上達しているように思うよ。昔の筆跡には、確かに定まった形はあるけれど、心の広がりや豊かさがそれほどなく、一つの型へまっすぐ通っているものが多かった。
「もちろん、並外れて美しい字を書く人が、時々例外のように現れはしたけれどね。私が若いころ、女手を熱心に習っていた盛りには、何でもない手本まで大勢の人から集めたものだった。
「その中でも、中宮の母御息所――六条御息所が、特に気を入れたわけでもなく、ふと走り書きになさったほんの一行を手に入れたことがあった。あれだけは格別だと思ったものだ。
「その後、あの方にはあってはならないような評判まで立たせてしまったのだけれど。御自身はひどく悔しくお思いだっただろうね。しかし今となっては、そればかりでもなかったのだろう。私がこうして中宮の後見を心を込めて務めているのだから、亡くなられた今は、少しは私を見直してくださっているかもしれない。
「中宮御自身の字は、細やかでかわいらしいけれど、少し鋭さに欠けるところがあるかな」
そんなことを、源氏は紫の上に小声で話す。
「故藤壺の入道宮の御筆には、とても深い風情と艶のあるところがあったけれど、少し弱いところがあって、華やかな余韻が少なかった。
「今の世で上手なのは、院の尚侍――朧月夜だろうね。ただ、少しくだけすぎて、癖が加わっているように見える。
「それでも、あの方と前斎院、それにここにいるあなた。この三人こそ、今の世の書の名手として数えるべきだろう」
紫の上は、「私までその人数に入るのは、あまりに気恥ずかしいことでございます」と答えた。
源氏は、「あまり御自分を下げなさいますな。柔らかく、親しみのある字の美しさは格別ですよ。ただ、漢字を上手に書こうとなさるぶん、仮名には時々、少し無造作な字が混じるようだけれど」と評した。
源氏はさらに、まだ何も書かれていない新しい草子を作らせ、表紙や紐まで美しく整えた。
「兵部卿宮や左衛門督にも書いてもらおう。私も一揃いは書くつもりです。多少筆に自信がある方々でも、私と並べては書けまいと思いますがね」
そう言って、自分の腕前まで自分で褒めるのだった。
源氏と兵部卿宮、書の美を競う
墨も筆も、この上ないものだけを選び出した。
源氏からあちらこちらへ、ただならぬ熱のこもった依頼が届くので、頼まれた人々は難しいことを仰せになると困り、辞退する者もあれば、真面目に引き受ける者もいた。
高麗紙の中でも、薄様のように薄く、ひどく優美な紙があった。
「これは、こういう趣向を好む若い人たちに試させてみよう」
源氏は夕霧、式部卿宮の兵衛督、内大臣家の柏木などに、「葦手や歌絵を、それぞれ好きなように書いてみなさい」と命じた。
若君たちは皆、思い思いに腕を競うことになったらしい。
源氏自身はいつものように寝殿へ離れてこもり、書に打ち込んだ。
花盛りも過ぎ、空が淡い緑色に霞む、うららかな日である。古い歌や言葉を静かに思い浮かべながら、源氏は心の赴くままに、草書も普通の書体も女手も、驚くほど書き尽くしていった。
御前には人を多く置かず、女房二、三人ほどに墨を磨らせる。由緒ある古歌集から、これはどうだろう、と選び出す役には、書や歌に心得のある者だけを仕えさせていた。
御簾をすっかり上げ、脇息の上に草子を置き、端近くに少しくつろいで座る。筆の尻を口にくわえながら、何を書こうかと思いめぐらしている源氏の姿は、いつまで眺めても飽きることがない。
白や赤などの鮮やかな紙へ向かう時には、筆を持ち直し、いっそう心を配る。その一つ一つの仕草まで、わかる人が見れば感嘆せずにはいられない美しさだった。
そこへ、「兵部卿宮がお越しです」と知らせが入った。
源氏はすぐに姿を整え、直衣を着て、宮のための茵を用意させ、そのまま待ち受けて迎え入れた。
兵部卿宮もたいそう清らかな方で、階を優雅に昇ってくる姿を、奥の女房たちまでそっと覗いて見ていた。
二人がきちんとかしこまり、互いに少し改まった姿で向かい合うところも、実に絵になる。
源氏は、「あまりに暇で、籠もっているのも苦しくなるほど穏やかな日でしたから、ちょうどよい折にお越しくださいました」と喜んだ。
実は兵部卿宮も、源氏から頼まれていた草子を届けるために来たのである。
すぐに見せてもらうと、普段なら特別名筆というほどでもない宮の字が、一つの様式に気持ちを集中させて書いたためか、筆の運びがたいそう澄んでいる。
歌も、あえて少しひねった古い言葉を選び、わずか三行ほどに文字数を抑えて、好ましく書かれていた。
源氏は本気で驚いた。
「ここまでとは思っていませんでした。これでは、私はもう筆を投げ捨てたくなりますよ」
悔しそうにすると、宮は、「これほどの名手の中へ臆面もなく自分の筆を出す以上、さすがにこのくらいは、と思っておりました」と冗談を言った。
源氏の書いた草子も、別に隠すようなものではないので取り出し、二人で互いに見比べた。
硬質な唐紙に草書で書いたものは、際立って立派に見える。一方、肌が細かく柔らかな高麗紙――色は派手ではなく、しっとりと艶のある紙に、ゆったりとした女手を、端正に心を込めて書いたものは、たとえようもないほど美しかった。
眺める者の涙まで、その水茎の跡へ流れ添うような気がして、いつまで見ても飽きない。
また、紙屋院の華やかな色紙へ、乱れた草書の歌を、筆に任せて自由に書き散らしたものも、見どころが尽きない。少し崩れたところまで愛嬌があり、いつまでも見ていたくなるので、宮はほかの作品へ目を移すことさえできなかった。
古筆と葦手――姫君に伝える「書」の宝
左衛門督は、いかにも大げさで格調高く見える書風ばかりを好んでいたが、筆の運びがまだ十分に澄みきっておらず、どこか力を入れて作ったように見える。歌も、いかにも選びましたという古歌を選んで書いていた。
六条院の女君たちの筆は、さすがにそのまま表へ取り出して見せることはしなかった。前斎院の書などは、まして人前には出さない。
若い人々に書かせた葦手の草子は、それぞれ個性があって、どれも趣深い。
夕霧のものは、水の流れを勢い豊かに描き、乱れ生える葦の様子なども難波の浦を思わせ、その間に文字があちらこちら行き交いながら、全体にはひどく澄んだ趣がある。
また別の紙には、まるで正反対に、ひどく堂々とした文字の形や、石などのたたずまいまで工夫して書いたものもあった。
兵部卿宮は、「まったく目が追いつきませんね。これはもう、いつまでも見ていて暇がなくなりそうだ」と喜んで褒めた。何事にも趣味が深く、風雅を好む親王なので、心から感心している。
その日は一日中、書について語り明かした。
さまざまな継紙の見本を選び出している途中、源氏は宮の子である侍従を使いに出し、宮のところに保管されている古い名筆まで持って来させた。
嵯峨天皇が古万葉集を選び、書かせられた四巻。延喜の帝が古今和歌集を、唐の浅縹の紙を継いで作らせ、同色の濃い紋の綺を表紙にし、同じ色の玉軸、緞の唐組の紐を添えたもの。
巻ごとに書風を変えながら、驚くほど書の美を尽くしてある。
大殿油の灯芯を短くして、静かな灯りで眺めながら、源氏たちは感嘆した。
「本当に尽きないものですね。今の人は、こういう昔の名筆に比べれば、ほんの一面をそれらしく見せているにすぎないのかもしれない」
源氏はこの古筆をそのまま借り受け、姫君のために手元へ置くことにした。
宮は、「私に娘がいたとしても、ろくに価値をわからないような子なら、こんなものは伝えないでしょう。ましてこのまま私のところに置いて、朽ちさせてしまっても仕方ありません」と言って差し上げた。
源氏は侍従にも、特別に立派な唐本を沈香の箱に入れ、見事な高麗笛まで添えて贈った。
このころ源氏は、ひたすら仮名の名手を選び定めていた。世間で字を書くと評判の、上中下さまざまな身分の人へ、それぞれふさわしいものを選んで依頼し、書かせた。
ただし姫君へ贈る特別な箱には、身分も腕も劣る者の書を混ぜることはしない。書き手の身分や力量をきちんと分け、草子も巻物も、すべて選び抜かれた者に書かせてそろえた。
六条院には、今では帝の御代にさえ手に入れにくいような珍しい宝物が数多くある。その中でも、こうして集められた書の手本を一目見たいと心を動かす若者は、世間にたいそう多かった。
絵巻類も同じように準備させた。
あの須磨の日記も、いつかは姫君へ伝え、自分の過去を知らせようと源氏は思っている。けれど、「もう少し世の中のことがわかる年になってから」と思い直し、今はまだ取り出さなかった。
入内の準備を聞き、揺れる内大臣
内大臣は、六条院でこれほど盛大な姫君の入内準備が進んでいることを、まるで他人事のように聞くだけなのが、ひどく物足りなく、寂しかった。
というのも、自分の娘・雲居雁も今や美しく成長し、盛りの年ごろになっている。それなのに何となく物思いがちに過ごしている姿を見ることが、父には大きな嘆きの種だった。
一方、夕霧の態度も、相変わらず穏やかで、強引に迫ってくるようなところがない。
――自分から折れて夕霧へ近づいていくのも、人に笑われるだろう。それなら、あの男がもっと熱心だったころに許しておけばよかったのだ。
内大臣は誰にも知られず後悔しながら、かといって夕霧一人を責めることもできずにいた。
夕霧は、内大臣の心が少しだけ軟らかくなってきたという様子を聞いてはいた。
しかし、あれほど長く冷たく扱われたことを、まだ腹立たしく思っている。そのため、こちらからは何も感じていないような顔をして、じっと自分を抑えていた。
それでも雲居雁以外の女性へ心を移す気にはなれない。
自分からこんなに恋を難しくしてしまい、冗談一つ言えないような時も多い。それでも昔、「浅緑」と彼のことをからかった雲居雁の乳母たちに対しては、いつか納言にまで昇って立派になった姿を見せたいという思いが、夕霧の心には深く残っているらしい。
内大臣が娘に説く、女の生き方
内大臣は、娘がいつまでもこうして宙ぶらりんなままでいるのを、どうにも落ち着かないことだと思い悩んだ。
「もしあちらとのことを本当に諦めてしまったのなら、右大臣や中務宮なども、それらしい気持ちをこちらへ伝えてきている。どこでもよいから、自分で心を決めなさい」
そう言っても、雲居雁は何も答えない。ただかしこまった様子で父の前に座っている。
内大臣は続けた。
「こういうことは、いくら立派な親の教えでも、本人の心が動かなければ従えるものではない。私も昔はそう思っていたから、こんなことを言うのも気が進まないよ。
「けれど今になって振り返ってみると、やはり親の教えというものは、長い目で見れば正しいことが多いのだと思う。
「いつまでも一人で物思いをして暮らしていれば、世間では『まだあのことを思い続けているのだろう』と勝手に推量するだろう。それなのに結局、宿世に引かれたからといって、ずっと格の落ちる相手へ流されるようなことになったら、最後になって本当に体裁が悪い。
「自分の身を高く思いすぎるのもいけないが、だからといって、何でも心のままにしてよいわけではない。人の心というものは、抑えるものがなくなれば自然と驕っていくものだ。
「私自身、幼いころから宮中で育ち、自分の好きなように生きることもできず、少しでも間違ったことをすれば軽率な人間と非難されるだろうと気をつけていた。それでもなお、女好きだという評判を受け、世間から恥ずかしい思いをさせられたことがある。
「まして位もまだ浅く、これといった立場もない身のうちから、気を許して心のままに振る舞ってはいけない。
「自分を抑えるものがなくなった時、どれほど賢い男でも、昔から女のことで身を乱す例はいくらでもあるのだから。
「してはいけない恋へ心を向けて相手の評判まで傷つけ、自分も恨みを受ける。そういうことが、最後には人生の足かせになるものなのだ。
「もし選んだ相手に、後になって自分の思いどおりにならないところや、我慢しにくいところが見つかったとしても、そこでまた考え直せる心を身につけなさい。
「あるいは親の判断へ譲るのもよい。もし親がいなくて、身分などに多少不足のある人であっても、人柄に情があり、かわいそうに思えるようなところのある人なら、その一つの長所を頼りにしてでも、一緒に暮らしてみるのです。
「自分のためにも相手のためにも、最後に二人のためになることを考える。その心こそ、何より深く持っていなければならない」
暇で静かな時になると、内大臣は娘にこういう人生の心得ばかりを、ゆっくり教えるのだった。
雲居雁と夕霧――消えない思い
こんな父の訓戒を聞けば聞くほど、雲居雁には、たとえ冗談であっても夕霧以外の男へ心を向けることなど、自分から自分を苦しめることのように思われた。
雲居雁自身も、父がいつも以上に深く思い悩んでいる様子を見ると、自分の身が恥ずかしく、つらいものに思われて沈み込む。
それでも夕霧は、表向きは何も気にしていないように、おっとりとした態度を崩さず日を送っている。
ただ、どうしても思いが余る時には、雲居雁へ心の深い手紙を送ってきた。
雲居雁は、「いったい誰の言葉を本当だと信じればよいのだろう」と思いながら読む。
世慣れた女性なら、男の心を何でも疑ってかかるものなのだろう。けれど雲居雁には、夕霧の言葉をしみじみと思わずにはいられないところが多かった。
そんな時、「中務宮が、六条院の大殿にも御意向を伺って、雲居雁との縁談を進めることになるかもしれないと、お互いに話していらっしゃるらしい」という噂が、夕霧の耳へ入った。
夕霧は、それを聞くとたちまち胸が塞がった。
人知れず、雲居雁へ言った。
「そんな話を耳にしました。あなたもずいぶん情けのない心をお持ちなのですね。以前、私の父が仲へ入ってくださった時、あなたのお父上があまりにも強く反対なさった。その意趣返しのように、今度は私とまったく違う方へ心を移そうとなさるのでしょうか。
「もっとも、あなたがこちらへ弱々しくなびいてくださったとしても、それはそれで人の笑いものになっていたかもしれませんが」
夕霧は涙まで浮かべていた。
雲居雁も、ただでさえ恥ずかしいのに、理由もなく涙がこぼれてくる。人に見られるのが気まずくて背を向けた、その姿は限りなく愛らしかった。
夕霧は迷った。
――どうしよう。やはり自分から一歩踏み出して、あの人の本心を確かめるべきなのだろうか。
さまざまに思い乱れながら、夕霧は立ち去った。
その姿が消えたあとも、雲居雁はそのまま端近くに座って物思いに沈んでいた。
――どうしてあんなふうに、いつもより先に涙がこぼれてしまったのだろう。あの人は、どう思っただろう。
そんなことを何度も考えているところへ、夕霧から手紙が届いた。
雲居雁も、さすがに手に取って読んだ。
細やかな思いを込めて、こう書かれている。
つれなさは憂き世の常になりゆくを忘れぬ人や人にことなる
冷たくされることなど、このつらい世ではもう当たり前のことになりました。それでもあなたを忘れられない私は、ほかの人とは違う人間なのでしょうか。
ほんの少しでも、自分への思いを匂わせてくれない。その冷たさを夕霧がなお恨めしく思っているのは、雲居雁にはつらい。
それでも返歌を書いた。
限りとて忘れがたきを忘るるもこや世になびく心なるらむ
もうこれまでと思っても、忘れられない人を忘れてしまう――それが、あなたのおっしゃる「世の流れになびく心」というものなのでしょうか。
夕霧はその返事を、何とも不思議な歌だと思い、手から離すこともできず、首を傾けながらいつまでも眺めていた。
