『徒然草』の現代語訳を、8ページに分けて全文掲載しています。このページ(8)には、第218段「狐は人に食ひつくものなり」から第243段「八つになりし年」までの章段を収めました。原文とあわせて読みたい方は、『徒然草』原文(8)をご覧ください。
第218段 狐は人に食ひつくものなり
狐は人にかみつくものである。堀川殿で、舎人が寝ていたところ足を狐にかまれた。仁和寺で、夜、本堂の前を通っていた身分の低い法師に、狐が3匹飛びかかってかみついたので、刀を抜いてこれを防ぐうちに、狐2匹を突いた。1匹は突き殺した。2匹は逃げた。法師は何か所もかまれたが、命に別状はなかった。
第219段 四条黄門命ぜられて言ふ
四条中納言(藤原隆資)がおっしゃったことには、
「竜秋(豊原竜秋)は、笛の道にかけては尊い者である。先日やって来て言うには、『浅はかな考えの極みで、まことに軽率なことではございますが、横笛の五の穴は、少し不審なところがあるのではないかと、ひそかに思っております。そのわけは、干の穴は平調、五の穴は下無調です。その間に勝絶調を隔てています。上の穴は双調。次に鳧鐘調を置いて、夕の穴は黄鐘調です。その次に鸞鏡調を置いて、中の穴は盤渉調、中と六との間に、神仙調があります。このように穴と穴との間にみな1つずつ音律を隠しているのに、五の穴だけは、上の穴との間に調子を持たないで、しかも穴の間隔は等しくしてあるので、その音が不快なのです。だから、この穴を吹くときは、必ず口を笛から少し離します。離しきれないときは、ほかの楽器と合いません。うまく吹きこなせる人はめったにいません』と申した。考え抜いた末のことで、本当に興味深い。先輩が後輩を恐れるというのは、このことである」
とおっしゃいました。
後日、景茂(大神景茂)が申しましたことには、
「笙は、あらかじめ調律を済ませて持っているので、ただ吹くだけである。笛は、吹きながら、息遣いの中で、同時に調子を整えていくものなので、穴ごとに口伝のうえに、生まれつきの才能を加えて、心を込めて吹くことは、五の穴だけに限らない。一概に口を離すとばかり決めるべきでもない。下手に吹けば、どの穴も気持ちよく鳴らない。名人はどの穴でも吹き合わせる。音律がほかの楽器と合わないのは、吹く人の罪である。楽器の欠点ではない」
と申した。
第220段 何事も辺土は賤しく
何事も田舎は卑しく、洗練されていないけれども、天王寺の舞楽だけは都に劣らないと言うので、天王寺の楽人が申しましたことには、
「当寺の音楽は、よく基準の音に合わせて、楽器の音がすばらしく整っていることは、ほかよりもすぐれています。そのわけは、聖徳太子の時代の基準の音が、今もございますのを手本としているからです。いわゆる六時堂の前の鐘です。その音は、黄鐘調のちょうど真ん中の音です。寒さ暑さによって音が上がったり下がったりするはずなので、2月の涅槃会から聖霊会までの間の音を基準とします。秘伝のことです。この1つの調子によって、どの楽器の音も整えるのです」
と申した。
だいたい、鐘の音は黄鐘調であるべきである。これは無常を表す調子で、祇園精舎の無常院の鐘の音である。
西園寺の鐘を、
「黄鐘調に鋳造すべきである」
と言って、何度も鋳造し直されたけれども、うまくいかなかったので、遠国から探し出された。浄金剛院の鐘の音も、また黄鐘調である。
第221段 建治、弘安のころは
「建治、弘安のころは、賀茂祭の日の放免の付け物に、変わった紺の布5反で馬を作って、尾やたてがみには灯心を使い、蜘蛛の巣を描いた水干につけて、歌の意味などを言いながら行列したことを、いつも見ておりましたが、それなども、趣向を凝らしてしている感じがしたものでございます」
と、年老いた道志たちが、今日も語っております。
近ごろは、付け物が、年を追ってぜいたくが度を越して、あらゆる重いものをたくさんつけて、左右の袖を人に持たせて、自分は鉾さえ持たず、息を切らして苦しんでいる様子は、たいそう見苦しい。
第222段 竹谷の乗願房
竹谷の乗願房が、東二条院のもとへ参上なさったときに、
「亡くなった人の追善供養には、何がいちばん功徳が多いか」
とお尋ねになったので、
「光明真言と宝篋印陀羅尼です」
と申し上げなさったのを、弟子たちが、
「どうしてそのように申し上げなさったのですか。念仏にまさるものはございませんとは、なぜ申し上げなさらないのですか」
と申したところ、
「わが宗派のことであるから、そう申し上げたかったけれども、はっきりと念仏を唱えることを追善のために修めて大きな利益があると説いた経文を見たことがないので、『何に書かれているのか』と重ねてお尋ねになったら、どう申し上げようかと思って、根拠となる経典の確かなものに基づいて、この真言と陀羅尼を申し上げたのである」
と申されたということだ。
第223段 鶴の大臣殿は
鶴の大臣殿(藤原基家)は、幼名が「たず君」である。鶴を飼っておられたからだと言うのは、間違いである。
第224段 陰陽師有宗入道
陰陽師の有宗入道(安倍有宗)が、鎌倉から上京して、私を訪ねて来たが、まず家に入るなり、
「この庭がむやみに広いのは、あきれたことで、あってはならないことです。道理をわきまえた者は、作物を植えることに努めます。細い道を1本残して、全部畑になさい」
といさめました。
本当に、少しの土地でも、無駄にしておくのは、無益なことである。食べ物や薬草などを植えておくべきである。
第225段 多久助が申しけるは
多久助が申したことには、
「通憲入道(藤原通憲)が、舞の型の中から面白いものを選んで、磯禅師といった女に教えて舞わせた。白い水干に、鞘巻を差させ、烏帽子をかぶらせていたので、男舞と言った。禅師の娘で、静といった者が、この芸を継いだ。これが、白拍子の起源である。仏や神の由来を歌う。その後、源光行が、多くの歌詞を作った。後鳥羽院がお作りになったものもある。それを亀菊にお教えになった」
ということだ。
第226段 後鳥羽院の御時、信濃前司行長
後鳥羽院の御代に、信濃前司行長は、学問の誉れがあったが、楽府についての御論議の席に召されて、七徳の舞のうち2つを忘れてしまったので、「五徳の冠者」とあだ名をつけられてしまったのを、情けないことに思って、学問を捨てて出家してしまったが、慈鎮和尚(慈円)は、1つでも芸のある者は下々の者までも召し抱えて、大切になさっていたので、この信濃入道を養っておられた。
この行長入道が、平家物語を作って、生仏という盲目の琵琶法師に教えて語らせた。そして、比叡山のことを、特に立派に書いた。九郎判官(源義経)のことは詳しく知って書き載せている。蒲冠者(源範頼)のことは、よく知らなかったのだろうか、多くのことを書き漏らしている。
武士のことや、弓や馬の技は、生仏が東国の者であったので、武士に尋ね聞いて書かせた。その生仏の生まれつきの声を、今の琵琶法師はまねているのである。
第227段 六時礼讃は
六時礼讃は、法然上人の弟子の、安楽といった僧が、経文を集めて作って、勤行に用いた。その後、太秦の善観房という僧が、節回しの譜を定めて、声明にした。一念の念仏の最初である。後嵯峨院の御代から始まった。法事讃も、同じく善観房が始めたのである。
第228段 千本の釈迦念仏は
千本の釈迦念仏は、文永年間のころ、如輪上人が、これを始められた。
第229段 よき細工は
すぐれた細工師は、少し切れ味の鈍い小刀を使うという。妙観の小刀は、それほど切れない。
第230段 五条内裏には妖物ありけり
五条の内裏には、化け物が出た。藤大納言殿が語られましたことには、
「殿上人たちが、黒戸の御所で碁を打っていたところ、御簾を持ち上げてのぞく者がいる。誰かと振り向くと、狐が、人のようにひざまずいて、のぞいていたのを、『あれ、狐だ』と騒がれて、あわてて逃げてしまった。未熟な狐が、化けそこなったのだろう」
第231段 園の別当入道は
園別当入道(藤原基氏)は、並ぶ者のない料理の名人である。
ある人の家で、見事な鯉を出したので、人々はみな、別当入道の包丁さばきを見たいと思ったが、軽々しく言い出すのもどうかとためらっていたのを、別当入道は察しのよい人で、
「このところ100日の間、毎日鯉を切っておりますので、今日欠かすわけにはまいりません。ぜひともその鯉をいただきましょう」
と言ってお切りになったのは、たいそうその場にふさわしく、面白いと人々が思ったと、ある人が、北山太政入道殿(西園寺実兼)にお話し申し上げたところ、
「このようなことは、私はひどくわずらわしく思われる。『切る人がいないなら、こちらにください。切りましょう』と言ったほうが、もっとよかっただろう。どうして、100日の鯉を切るなどと言うのか」
とおっしゃったのが、面白く思われたと、ある人が語られたのは、たいそう面白い。
だいたい、趣向を凝らして面白いよりも、面白みがなくても穏やかなほうが、まさっているのである。客をもてなすことなども、きっかけを面白いように取り繕うのも、本当によいけれども、ただ何ということもなく出したのが、たいそうよい。
人に物を与えるのも、何のきっかけもなく、「これを差し上げましょう」と言うのが、本当の好意である。惜しむふりをして欲しがられようと思ったり、勝負事の負けの償いにかこつけたりなどするのは、不愉快である。
第232段 すべて人は無智無能なるべきものなり
総じて人は、知恵も才能もないようにふるまうべきものである。ある人の子で、見た目なども悪くない者が、父の前で人と話をするといって、歴史書の文章を引用したのは、賢そうには聞こえたけれども、目上の人の前ではそうしなくてもよいのにと思われた。
また、ある人の家で、琵琶法師の語りを聞こうとして、琵琶を取り寄せたところ、柱が1つ落ちていたので、
「作ってつけよ」
と言うと、ある男たちの中で、悪くないと見える者が、
「古いひしゃくの柄はないか」
などと言うので見ると、爪を伸ばしている。琵琶などを弾くのだろう。盲目の法師の琵琶に、そのような手間をかけるまでもないことである。その道に心得があるということを見せたいのだろうかと、見ていて苦々しかった。ひしゃくの柄は、檜物木とかいって、柱にはよくないものだと、ある人がおっしゃった。
若い人は、少しのことでも、よく見えたり、悪く見えたりするものである。
第233段 よろづの咎あらじと思はば
何事にも過ちがないようにと思うならば、何事にも誠実で、人を分け隔てせずに礼儀正しく、口数が少ないのに越したことはない。男女や老若を問わず、みなそのような人がよいけれども、特に若く、容貌の美しい人が、言葉遣いのきちんとしているのは、忘れがたく、心ひかれるものである。
あらゆる過ちは、物慣れた様子で上手ぶり、得意げな様子をして、人をばかにするところにある。
第234段 人のもの問ひたるに
人が何かを尋ねたときに、まさか知らないこともあるまい、ありのままに言うのはばかばかしいとでも思うのか、相手を迷わせるような返事をするのは、よくないことである。知っていることでも、さらに確かめようと思って尋ねるのだろう。また、本当に知らない人も、どうしていないことがあろうか。はっきりと言い聞かせたなら、穏やかに聞こえるだろうに。
人がまだ聞き知らないことを、自分が知っているままに、「それにしても、あの人の件のあきれたことよ」などとだけ書き送ったので、「どんなことがあったのか」と、問い返しに使いをやるのは、不愉快である。世間に知れ渡って古くなったことでも、たまたま聞き漏らすような人もいるのだから、はっきりわかるように知らせてやったら、悪いことがあろうか。
このようなことは、世慣れない人のすることである。
第235段 主ある家には
主人のいる家には、無関係な人が、勝手に入って来ることはない。主人のいない所には、道を行く人がむやみに立ち入り、狐やふくろうのようなものも、人の気配に妨げられないので、わがもの顔に入り込んで住み、木霊などというあやしい姿も現れるものである。
また、鏡には色も形もないので、あらゆるものの姿がやって来て映る。鏡に色や形があったならば、映らないだろう。何もない空間は、よくものを受け入れる。
私たちの心に、さまざまな思いが勝手にやって来て浮かぶのも、心というものの実体がないからであろうか。心に主人がいたならば、胸の中に、これほど多くのことは入って来ないだろう。
第236段 丹波に出雲といふ所あり
丹波に出雲という所がある。出雲大社の神霊を移して、立派に造ってある。
しだの何某とかいう人の領地なので、秋のころ、聖海上人や、そのほかにも大勢の人を誘って、
「さあいらっしゃい、出雲神社の参拝に。ぼたもちをごちそうしましょう」
と言って、連れて行ったところ、それぞれ拝んで、たいそう信仰心を起こした。
社殿の前にある獅子と狛犬が、背中合わせに、後ろ向きに立っていたので、上人はたいそう感心して、
「ああすばらしい。この獅子の立ち方は、たいそう珍しい。深いわけがあるのだろう」
と涙ぐんで、
「どうですか皆さん、このすばらしいことにお気づきになりませんか。あまりにもひどい」
と言うと、それぞれ不思議がって、
「本当にほかと違っている。都への土産話にしよう」
などと言うので、上人はさらに知りたがって、年配の、物を知っていそうな顔をした神官を呼んで、
「このお社の獅子の立てられ方は、きっといわれのあることでございましょう。少しお聞きしたい」
とおっしゃったところ、
「そのことでございます。いたずらな子どもたちがいたしました、けしからぬことでございます」
と言って、近寄って、置き直して行ってしまったので、上人の感涙は、無駄になってしまった。
第237段 柳筥に据ゆるものは
柳筥に載せるものは、縦向きにするか、横向きにするかは、物によるのだろうか。巻物などは、縦向きに置いて、木の間からこよりを通して結びつける。
「硯も縦向きに置いたほうが、筆が転がらなくてよい」
と、三条右大臣殿(藤原実重)がおっしゃった。
勘解由小路家の能書家の人々は、かりそめにも縦向きに置かれることはない。必ず横向きに置かれました。
第238段 御随身近友が自讃とて
御随身の近友(中原近友)が自慢話として、7か条を書き留めたものがある。どれも馬術のことで、大したことのないものばかりである。
その例にならって、私にも自慢話が7つある。
1つ 大勢の人を連れて花見をして歩いたときに、最勝光院のあたりで、男が馬を走らせているのを見て、
「もう一度馬を走らせたら、馬が倒れて落ちるだろう。しばらく見ていてごらんなさい」
と言って立ち止まっていると、また馬を走らせる。止める所で、馬を引き倒して、乗っていた人は、泥の中に転げ落ちた。その言葉が外れなかったことに、人々はみな感心した。
1つ 今の天皇(後醍醐天皇)が、まだ皇太子でいらっしゃったころ、万里小路殿が御所であったが、堀川大納言殿(源具親)がお仕えしていらっしゃった部屋へ、用事があって参上したところ、論語の4、5、6の巻を繰り広げていらっしゃって、
「ただ今、御所で、『紫が朱の地位を奪うことを憎む』という文をご覧になりたいことがあって、ご本をご覧になるけれども、見つけ出せないでいらっしゃるのだ。さらによく調べてみよとおっしゃるので、探しているのだ」
とおっしゃるので、
「9の巻のこれこれのあたりにございます」
と申し上げたところ、
「ああ、うれしい」
と言って、持って参上なさった。
この程度のことは、子どもでも普通に知っていることだが、昔の人は、ちょっとしたことでもたいそう自慢したのである。後鳥羽院が、ご自分のお歌について、
「袖と袂とを、1首のうちに詠み込むのはよくないだろうか」
と、藤原定家卿にお尋ねになったところ、
秋の野の草の袂なのだろうか、花すすきは。穂が出て、人を招く袖のように見えるのは
という古歌がございますので、
「何の差し支えがございましょうか」
と申し上げなさったことも、「ちょうどよいときに本歌を思い出した。歌道の神仏のご加護であり、幸運である」などと、大げさに書き残しておられるのでございます。
九条相国伊通公(藤原伊通)の官職を願い出る文書にも、特に変わったこともない事柄を書き載せて、自慢しておられる。
1つ 常在光院の釣鐘の銘文は、在兼卿(菅原在兼)が下書きしたものである。行房朝臣(藤原行房)が清書して、鋳型に写させようとしたときに、担当の入道が、その下書きを取り出して私に見せましたところ、「花の外に夕を送れば、声百里に聞こゆ」という句がある。陽唐の韻を踏んでいると見えるので、
「百里は誤りではないか」
と申し上げたところ、
「よくぞお見せしたものだ。私の手柄だ」
と言って、筆者のもとへ言ってやったところ、
「誤りでございました。数行と直してください」
と返事がございました。
数行もどういう意味であろうか。もしや数歩という意味か。よくわからない。
数行もやはり不審である。数は4、5である。鐘の音が4、5歩では幾らもない。ただ遠くまで聞こえるという意味である。
1つ 大勢の人を連れて、比叡山の三塔を巡礼したことがございましたが、横川の常行堂の中に、竜華院と書いた古い額がある。
「佐理(藤原佐理)の筆か、行成(藤原行成)の筆か疑問があって、まだ決着がついていない」
と申し伝えていると、堂の僧が大げさに申しましたのを、
「行成ならば裏書があるはずだ。佐理ならば裏書はないはずだ」
と言ったところ、額の裏は塵が積もり、虫の巣になって汚らしいのを、よく掃いてふいて、それぞれが見ましたところ、行成の位階と署名、名字、年号が、はっきり見えましたので、人々はみな面白がった。
1つ 那蘭陀寺で、道眼上人が講義をしたときに、八災ということを忘れて、
「これを覚えていらっしゃいますか」
と言ったのを、弟子たちはみな覚えていなかったが、私が聴聞席の部屋の中から、
「これこれではありませんか」
と言い出したところ、たいそう感心されました。
1つ 賢助僧正にお供して、加持香水の儀式を見ましたが、まだ終わらないうちに、僧正がお帰りになりましたところ、陣の外まで来ても、お供の僧都の姿が見えない。法師たちを引き返させて探させたが、同じような姿の僧が大勢いて、探し出せないと言って、ずいぶん時間がたって出てきたので、
「ああ困った。あなたが探して来てください」
と僧正が言われたので、私が引き返して中に入り、すぐに僧都を連れて出てきた。
1つ 2月15日、月の明るい夜、夜が更けてから、千本の寺に参詣して、後ろから入って、一人で顔を深く隠して説法を聴聞しておりましたところ、優美な女で、姿や香りがほかの人よりすぐれている人が、人をかき分けて入ってきて私の膝に寄りかかるので、香りなども移るほどなので、具合が悪いと思って、ずり退いたところ、なおも寄ってきて、同じようにするので、席を立った。
その後、ある御所に仕える古参の女房が、とりとめのない話をされたついでに、
「あなたはひどく風流心のない方でいらっしゃったと、見下げ申し上げたことがありました。薄情だとお恨み申し上げている人がいます」
とおっしゃり出したので、
「まったく思い当たりません」
と申し上げて終わった。
このことを、後で聞きましたところでは、あの聴聞の夜、桟敷の中から、ある高貴な方が私に気づかれて、お仕えしている女房を着飾らせて送り出しなさって、
「うまくいったら、言葉などをかけるのですよ。その様子を戻って報告しなさい。面白いだろう」
と言って、試しなさったということだ。
第239段 八月十五日、九月十三日は
8月15日と9月13日は、婁宿に当たる。この星宿は、清らかで明るいので、月を観賞するのによい夜とするのである。
第240段 しのぶの浦の蜑の見るめも
人目を忍ぶ恋は、しのぶの浦の海女が海松布を刈るにも人目が多くて窮屈なように、くらぶの山も見張る人が多いように、人目をはばかることが多い中を、無理をして通おうとする心の深さこそ、浅くはなく、しみじみと思う折々の忘れがたいことも多いだろう。親や兄弟が許して、すんなりと迎え入れて住まわせたのでは、たいそう気恥ずかしいに違いない。
世の中で暮らしに困っている女が、不釣り合いな老法師や、卑しい東国の男であっても、裕福であるのにひかれて、「誘う水があれば」などと言うのを、仲人が、どちらにも好ましいように言いつくろって、知られもせず知りもしない人を迎えて連れてきたとしたら、なんとつまらないことか。何を、最初に口にする言葉にしようというのか。長い年月のつらさをも、「分け来し葉山の」などと語り合うのこそ、尽きることのない話の種ともなるだろう。総じて、他人が取り計らった縁組は、嫌で気に入らないことが多いに違いない。
よい女であるにつけても、身分が低く、醜く、年もとった男は、「こんなつまらない自分のために、惜しい身を台なしにしてよいものか」と、相手の女まで見下げられ、自分も向かい合っているのが、自分の姿が恥ずかしく思われるだろう、たいそうつまらないことであろう。
梅の花がかぐわしく香る夜の朧月の下にたたずみ、御垣が原の露を分けて帰る明け方の空も、わが身のこととして思い出すことのできないような人は、ただ色恋を好まないのに越したことはない。
第241段 望月の円かなることは
満月の丸い形は、しばらくもとどまらず、すぐに欠けてしまう。気をつけて見ない人は、一晩のうちに、それほど変わる様子も見えないのだろうか。
病気が重くなるのも、とどまる間もなく、死期はすでに近い。けれども、まだ病気が差し迫らず、死に向かっていないうちは、いつまでも変わらず平穏だという思いに慣れて、生きているうちに多くのことを成し遂げてから、静かに仏道を修めようと思っているうちに、病気になって死に臨むとき、願い事は1つも成し遂げられず、どうしようもなくて、長年の怠りを後悔して、「今度、もし病気が治って命が助かったら、昼夜を問わず、あのことも、このことも、怠けずに成し遂げよう」と願いを起こすのだろうが、まもなく重くなってしまうので、正気も失い取り乱して死んでしまう。世の中の人はこの類いばかりであろう。このことを、まず人々は、急いで心に留めておくべきである。
願い事を成し遂げてから、暇ができて仏道に向かおうとするならば、願い事は尽きることがないだろう。幻のような人生の中で、何を成し遂げようというのか。総じて願い事はみな妄想である。
願い事が心に浮かんだら、迷いの心が乱れているのだと知って、1つのこともしてはならない。ただちにあらゆることを捨てて仏道に向かうとき、妨げもなく、なすべき雑事もなくて、心身はいつまでも安らかである。
第242段 とこしなへに違順に使はるることは
人がいつまでも逆境と順境とに振り回されるのは、ひたすら苦と楽のためである。楽というのは、好み愛することである。これを求めることは、やむときがない。
人が欲しがるものは、第一に名誉である。名誉には2種類ある。行いの立派さと才芸の誉れである。第二には色欲、第三には食欲である。あらゆる願いも、この3つには及ばない。
これらは、物事を逆さまに見る迷いの心から起こって、多くの災いがある。求めないのに越したことはない。
第243段 八つになりし年
8歳になった年、私は父に尋ねて言った、
「仏とはどのようなものでございましょうか」
と言う。父が言うには、
「仏には人がなったのである」
と。また尋ねる、
「人はどのようにして仏になるのでございましょうか」
と。父はまた、
「仏の教えによってなるのである」
と答える。また尋ねる、
「その教えてくださった仏には、誰が教えたのでございましょうか」
と。父はまた答える、
「それもまた、その前の仏の教えによっておなりになったのである」
と。また尋ねる、
「その教えを始めた最初の仏は、どのような仏でございましたか」
と言うとき、父は、
「空から降ってきたのだろうか、土からわいてきたのだろうか」
と言って笑う。
「問い詰められて、答えられなくなってしまいました」
と、父は人々に語って面白がった。



