このページでは、清少納言『枕草子』第200段から第232段までの現代語訳全文を掲載しています。
原文は古文の教科書や参考書にも多く採用され、一般に広く知られている「三巻本」をもとにしています。原文の内容を保ちながら、わかりやすく読みやすい口語訳にしました。原文とあわせて読みたい方は、『枕草子』原文全文(11)第200段~第232段をご覧ください。
第200段「野分のまたの日こそ」
秋の暴風の翌日は、たいそうしみじみとして趣がある。立蔀や透垣などが乱れ、前栽の草木もひどく痛ましそうである。大きな木々も倒れ、枝などを吹き折られたものが、萩や女郎花などの上に横倒しになっているのは、まったく思いがけない姿である。格子の壺などに、木の葉が、わざとそうしたかのように細かく吹き込まれているのは、あれほど荒かった風のしわざとは思えない。
とても濃い色の衣が少しくすんでいるところに、黄朽葉の織物や薄物などの小袿を着た、きちんとして美しい人が、夜は風の騒ぎで眠れなかったので、長く寝起きしたままの姿で母屋から少しいざり出ている。髪は風に吹き乱されて少しふくらみ、それが肩にかかっている様子は、まことにすばらしい。
しみじみとした様子で外を眺めて、
「なるほど、山風を――」
などと言うのも、風情を解する人らしく見える。十七、八歳ほどであろうか、小さくはないが、まだすっかり大人とは見えない人が、生絹の単衣がひどくほころび切れ、花模様なども濡れた薄色の宿直着を着ている。髪は色つやよく、細やかに整っていて、毛先も尾花のようにそろい、身の丈ほどもあるので、衣の裾からはみ出して袴の両脇から見えている。童や若い人々が、根ごと吹き折られた草木をあちこちで集め、起こし立てなどしているのを、うらやましそうに身を乗り出して見ながら、簾に寄り添って後ろ手をついている姿も趣がある。
第201段「心にくきもの」
奥ゆかしいもの。
物を隔てて聞いていると、女房のものとは思えない手を打つ音が、ひそやかに美しく聞こえ、それにきびきびと返事をして、衣をそよがせながら参上する気配。物の後ろや障子などを隔てて聞いていると、御膳を差し上げているころなのだろう、箸や匙などが触れ合って鳴るのも趣がある。ひさげの柄が倒れる音にも、つい耳がとまる。
よく打ってつやを出した衣の上に、騒がしくはなく髪が振りやられているのを見ると、その長さが想像される。たいそう立派に整えた所で、大殿油はともさず、炭櫃などにたくさん起こした火の光だけが満ちている中、御帳の紐などがつややかに見えるのは、たいそう美しい。御簾の帽額や総角などに上げてある鈎が鮮やかなのも、はっきりと見える。きれいに整えた火桶の、灰の縁がすっきりとして、起こした火に内側に描いた絵などが見えるのも趣がある。火箸がくっきりとつやめいて、斜めに立っているのもとてもよい。
夜がたいそう更けて、中宮もお休みになり、人々がみな寝たあと、外の方で殿上人などが話している。奥では、碁石を笥に入れる音が何度も聞こえるのが、たいそう奥ゆかしい。火箸をひそやかにすっと立てる音がして、まだ起きている人がいたのだと分かるのも趣がある。やはり、夜更けまで寝ない人は奥ゆかしい。
人が寝ているところで、物を隔てて聞いていると、夜中ごろ、ふと目を覚まして耳を澄ますと、誰かが起きているらしい気配がする。話している内容までは聞こえず、男がひそやかに笑う声だけがするのは、何の話だろうと知りたくなる。
また、中宮がおいでになり、女房たちが伺候しているところへ、上人や内侍のすけなど、こちらが気後れするような立派な人が参上した時、御前近くでお話をなさっている間、大殿油を消してあっても、長炭櫃の火で物の様子がよく見えるのもよい。
高貴な方のお邸などで、奥ゆかしい新参の女房が、まだ特別に目をかけられるほどではないけれど、少し夜が更けてから上がって来る。衣のそよぐ音がやさしく聞こえ、いざり出て御前に伺候すると、ほのかに言葉をかけられ、幼げでつつましそうに、聞き取れるかどうかというほど静かな声で答えるのもよい。
女房たちがあちらこちらに集まって話をし、上り下りする衣の音などが、大げさではないけれど、そうしているのだと分かるほどに聞こえるのは、とても奥ゆかしい。
内裏の局などで、気を許してはならない人がいるので、こちらの火を消している時、隣の光が物の上などを通して差し込み、さすがに物の様子がほのかに見える。短い几帳を引き寄せ、昼間はそれほど向かい合わない人なので、その几帳の方に寄り添って横になり、少し傾けた頭の形のよしあしが隠れず見えるのも趣がある。
直衣や指貫などを几帳に掛けてある。六位の蔵人の青色の袍なら、まだそれでもよい。緑衫などは、後ろの方にくしゃくしゃにして置いて、明け方になっても探し出せず、困ればよいと思う。
夏でも冬でも、几帳の片側に衣を掛け、人が横になっているのを、奥の方からそっとのぞいて見るのも、とても趣がある。
薫物の香りは、とても奥ゆかしい。
第202段「五月の長雨の頃」
五月の長雨のころ、上の御局の小戸の簾に、斉信中将が寄りかかっておられた時の香りは、本当にすばらしかった。何の香りだとはっきり分かるものでもなく、あたり一帯が雨に湿ってしっとりとした風情になっているのは、珍しいことではないけれど、どうして言わずにいられよう。翌日まで御簾に香りがしみ込んで残っていたのを、若い人たちがこの上なくすばらしいと思ったのも、もっともなことである。
第203段「ことにきらきらしからぬ男の」
とりわけ華やかでもない男が、背の高い者や低い者を大勢連れて歩くよりも、少し乗り慣らしたつややかな車に、牛飼童がいかにもふさわしい姿で付き、勢いよく進む牛に、童が遅れまいとするように綱を引かれながら進ませている方がよい。
ほっそりした男が、裾濃のような袴か二藍の袴かを着け、髪はともかくとして、掻練や山吹色などの衣を着て、たいそうつややかな沓で、とうのもとの近くを走っている姿は、かえって奥ゆかしく見える。
第204段「島は」
島は、八十島。浮島。たはれ島。江島。松が浦島。豊浦の島。まがきの島。
第205段「浜は」
浜は、うど浜。長浜。吹上の浜。打出の浜。もろよせの浜。千里の浜。広々としたさまが思い浮かぶ。
第206段「浦は」
浦は、大野浦。塩竈の浦。こりずまの浦。名高の浦。
第207段「森は」
森は、植木の森。岩田の森。木枯の森。うたた寝の森。岩瀬の森。大荒木の森。たれその森。くるべきの森。立聞の森。よこたての森という名が耳にとまるのは、不思議なことだ。
森などと呼べるほどでもなく、ただ一本の木があるだけなのに、どういうわけでその名をつけたのだろう。
第208段「寺は」
寺は、壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏のお住まいであるというのがしみじみと感じられる。石山。粉河。志賀。
第209段「経は」
経は、法華経は言うまでもない。普賢十願。千手経。随求経。金剛般若。薬師経。仁王経の下巻。
第210段「仏は」
仏は、如意輪。千手、そして六観音すべて。薬師仏。釈迦仏。弥勒。地蔵。文殊。不動尊。普賢。
第211段「書は」
書物は、『文集』。『文選』。『新賦』。『史記』。『五帝本紀』。願文。表。博士の申文。
第212段「物語は」
物語は、『住吉』。『うつほ』。『殿移り』。『国譲り』は気に入らない。『埋木』。『月待つ女』。『梅壺の大将』。『道心すすむる』。『松が枝』。
『こまのの物語』は、古い蝙蝠扇を探し出して持って行ったところがおもしろい。ものうらやみの中将が、宰相に子を産ませて、形見の衣などを求めたところは気に入らない。『交野の少将』。
第213段「陀羅尼は」
陀羅尼は明け方がよい。経は夕暮れがよい。
第214段「遊びは」
遊びは夜がよい。人の顔が見えないくらいがよい。
第215段「遊びわざは」
遊びごとは、小弓。碁。見た目はよくないけれど、鞠もおもしろい。
第216段「舞は」
舞は、駿河舞。求子は、とてもおもしろい。
太平楽は、太刀などが少しいやな感じではあるが、とてもおもしろい。唐土で敵同士になって舞ったものだなどと聞くとなおさらである。
鳥の舞。抜頭は髪を振り上げて舞う。目もとなどは気味が悪いけれど、楽もやはりとてもおもしろい。
落蹲は、二人で膝を踏むようにして舞う。こまがた。
第217段「弾くものは」
弾くものは、琵琶。調べは、風香調。黄鐘調。蘇合の急。鶯の囀りという調べ。
筝の琴はたいそうすばらしい。調べは、さうふうれん。
第218段「笛は」
笛は、横笛がたいそうよい。遠くから聞こえていた音が、だんだん近くなってくるのも趣がある。
近くで聞こえていた音が遠ざかり、はるかにかすかに聞こえるのもとてもよい。車に乗っていても、歩いていても、馬に乗っていても、懐に差し入れて持てば何でもないもののように見えるのに、これほど趣のある物はない。まして、聞き覚えのある調子などなら、たいそうすばらしい。
明け方などに誰かが忘れていって、趣のある笛が枕もとにあるのを見つけるのも、やはりよい。持ち主が取りに人をよこした時、それを包んで返してやると、立文のように見える。
笙の笛は、月の明るい夜に、車などで聞こえるのがとてもよい。かさばって扱いにくそうには見える。それにしても、吹いている顔はどのようなものだろう。もっとも、それは横笛でも吹き方しだいなのだろう。
篳篥はたいそう騒がしく、秋の虫にたとえるなら轡虫のような感じがして、むやみに近くで聞きたいものではない。まして下手に吹くのはとてもいやだが、臨時の祭の日、まだ御前へ出る前に、物の後ろで横笛をたいそう見事に吹き立てているのを「ああ、おもしろい」と聞いている途中から、篳篥が加わって高く吹き上げると、もうなんとも激しく、きれいな髪を持つ人でもみな逆立ちしてしまいそうな気がする。やがて琴や笛に合わせて歩み出てくるのは、たいそう趣がある。
第219段「見ものは」
見ものは、臨時の祭。行幸。祭の帰り。御賀茂詣で。
第220段「賀茂の臨時の祭」
賀茂の臨時の祭は、空が曇って寒そうなところに、雪が少しちらついて、かざしの花や青摺などにかかっているのが、何とも言えず美しい。
太刀の鞘が鮮やかで、黒いまだらの中に白く見え、半臂の緒のようにかかっている。地摺の袴の中から、氷かと驚くほどつややかな打目が見えるなど、すべてたいそう美しい。
もう少し大勢通ってほしいと思うのだが、使は必ずしも身分の高い人ばかりではない。受領などで、目にもとまらず見栄えのしない者も、藤の花に隠れている間は趣がある。
なおも通り過ぎた方を見送っていると、陪従の中でも身分の低い者が、柳に山吹のかざしをしているのはひどく不釣り合いに見えるけれど、泥障を高く鳴らして、
「賀茂の社のゆうだすき」
と歌うのは、とても趣がある。
第221段「行幸にならぶものはなににかはあらむ」
行幸に並ぶものが、ほかに何かあるだろうか。帝が御輿にお乗りになるのを拝見すると、日ごろ朝夕、御前に伺候してお仕えしている方とも思えないほど、神々しく威厳があってすばらしい。ふだんは何とも見えない何とかいう官人や姫まうちぎみまでが、たいそう尊く珍しく思われる。
御綱の助の中では少将がとてもよい。近衛の大将は、何よりも格別にすばらしい。近衛司はやはりたいそう趣がある。
五月の行事というものは、この上なく優美であったらしい。けれども、今の世には絶えてしまったことのようなので、とても残念である。昔話として人の語るのを聞いて想像すると、どんなにすばらしかっただろう。その日には菖蒲を屋根に葺くだけでも、普通の家でさえ美しいのに、御殿の様子や、あちこちの御桟敷に菖蒲を葺き渡し、あらゆる人々が菖蒲鬘をつけ、あやめの蔵人には容姿のよい者ばかりが選び出され、薬玉を賜ると、拝礼して腰につけたりしたという、その様子はどれほど見事だっただろう。
「ゑいのすいゑうつりよきも」などと声を上げたのであろうか、そのあたりはおかしくもあり、また趣深くも思われる。お帰りになる御輿の前で、獅子や狛犬などが舞い、折よくほととぎすまで鳴いたなら、その季節の趣まで含めて、比べるもののない眺めだったことだろう。
行幸はすばらしいものではあるけれど、君達が車などに思い思いに大勢乗り込み、上へ下へと走らせたりする姿がないのが残念だ。何でもない車が人を押し分けて止まったりする方が、かえって胸がときめく。
第222段「祭のかへさいとをかし」
祭の帰りは、とても趣がある。
昨日は何もかもきちんと整っていて、一条大路が広く美しいところに日差しも暑く、車の中へ射し込む光もまぶしいので、扇で顔を隠したり、座り直したりしながら長く待つのも苦しく、汗まで流れた。今日はたいそう早く急いで出て、雲林院や知足院などのあたりに並ぶ車を見ると、葵のかずらなども風になびいている。
日は出ているものの、空はまだ曇っている。どうにかして声を聞きたいと、目を覚まして起きたまま待っていたほととぎすが、何羽もいるのかと思うほど鳴き響くのを、たいそうすばらしいと思っていると、鶯が年老いたような声で、それにまねようと勇ましく鳴き添えるのが、憎らしいけれどまたおもしろい。
今か今かと待っていると、御社の方から赤衣を着た者たちが連れ立って来るので、
「どうだった。もう終わったの」
と聞くと、
「まだ、いつになるとも分かりません」
などと答えて、御輿などを持って戻っていく。斎院があの御輿にお乗りになっているのであろうと思うと、すばらしく気高い。それなのに、どうしてあのような下衆たちが近くにお仕えできるのだろうと、恐ろしくさえ思う。
まだずっと先のように言っていたけれど、ほどなくお帰りになる。扇をはじめ、青朽葉の装束などがたいそう美しく見える中、所の衆が青色に白襲をほんの少し掛けている姿は、卯の花の垣根が近くにあるように思われ、ほととぎすもその陰に隠れてしまいそうに見える。
昨日は一台の車に大勢乗り、同じ二藍の指貫や狩衣などを乱し、簾を取り外して、正気を失ったかと思うほどに見えた君達が、今日は斎院の垣下として晴れの日の装束をきちんと整え、一人ずつ物足りなそうに車に乗り、その後ろにかわいらしい殿上童を乗せているのも趣がある。
一行が通り過ぎてしまうと、皆、気も動転するのだろうか、我先にと、危なっかしく恐ろしいほど先へ出ようと急ぐので、
「そんなに急がないで」
と扇を差し出して止めるが、聞き入れない。どうしようもないので、少し広い所で無理に止めさせて車を立てていると、きっとじれったく憎らしいと思っているのだろうが、後ろに控えている車々を見やる様子がおもしろい。
誰のものとも分からない男車が後ろに続いて来るのも、何もないより趣がある。道が分かれる所で、
「峰にわかるる――」
と言うのもおもしろい。まだ見飽きないので、斎院の鳥居のもとまで行って見ることもある。
内侍の車などがたいそう騒がしいので、別の道から帰ると、本当の山里のようでしみじみとした趣がある。うつぎ垣根というものが、たいそう荒々しくものものしい様子で、突き出した枝も多く、花はまだすっかり開ききらず、つぼみが多く見える。それを折らせて車のあちらこちらに挿すのも、かずらなどがしおれているのが残念な折なので、趣深く思われる。たいそう狭く、とても通れそうに見えない行く手も、近くまで進んでみると、それほどでもなかったというのがおもしろい。
第223段「五月ばかりなどに山里にありく」
五月ごろに山里を歩き回るのは、とても趣がある。
草の葉も水も一面にたいそう青く見える中、表面は何事もないように草が生い茂っている所を、長くまっすぐ進んでいくと、その下には思いもよらないほどきれいな水が流れている。深くはないけれど、人が歩くには少し歩きにくいほどなのも、とてもおもしろい。
左右の垣にある木の枝などが車の屋形に差し入ってくるのを、急いでつかんで折ろうとするうちに、車がさっと通り過ぎて手から外れてしまうのは、とても残念だ。
蓬が車に押しつぶされていたのが、車輪の回るにつれて近くへ掛かってくるのも趣がある。
第224段「いみじう暑きころ」
たいそう暑いころ、夕涼みをする時分で、物の様子もはっきり見えない中、男車が前駆を立てて走るのは言うまでもないが、普通の人でも、後ろの簾を上げ、二人でも一人でも乗って走らせていくのは涼しげである。まして、琵琶を調べたり、笛の音などが聞こえたりする車は、通り過ぎてしまうのが惜しい。そのような車では、牛の鞦のにおいも、相変わらず何のにおいとも分からないようなものなのに、なぜか趣深く感じられるのがおかしい。
たいそう暗い闇の中、前でともした松明の煙のにおいが車の中に流れ込んでくるのも趣がある。
第225段「五月四日の夕つ方」
五月四日の夕方、青い草をたくさん、とてもきれいに切りそろえ、左右の肩に担いで、赤衣を着た男が歩いていく姿は趣がある。
第226段「賀茂へまゐる道に」
賀茂へ参る道で、田植えをするため、女たちが新しい折敷のようなものを笠としてかぶり、大勢立って歌を歌っている。折れ伏すように身をかがめたり、また何をしているとも見えないまま後ろ向きに進んだりするのは、どういう作業なのだろう。
おもしろいと思って見ているうちに、ほととぎすのことをたいそう無礼に歌うのを聞くと、情けなくなる。
「ほととぎす、おまえ、あいつめ。おまえが鳴くからこそ、私は田を植えるのだ」
と歌うのを聞くにつけても、どんな人が、
「そんなに鳴くな」
などと言ったのだろうと思う。
仲忠の幼少時代をけなす人と、ほととぎすは鶯に劣ると言う人は、本当につらく、憎らしい。
第227段「八月つごもり」
八月の末、太秦へ参詣する途中で見ると、穂の出た田に大勢の人が集まって騒いでいる。稲を刈っているのだった。早苗を取って植えていたのはいつのことだっただろう。本当に、ついこの前、賀茂へ参る途中で見たばかりなのに、もうこんな姿になったのかとしみじみする。今度は男たちが、たいそう赤く実った稲の、根もとはまだ青いものを手に取って刈っている。何を使っているのだろう、その根もとを切る様子は、いかにも簡単そうで、自分でもやってみたくなる。
どうしてそうするのだろう、穂を敷き並べているのも趣がある。田の庵の様子などもよい。
第228段「九月二十日あまりのほど」
九月二十日過ぎのころ、長谷へ参詣して、たいそう粗末な家に泊まったところ、とても具合が悪くて、ひたすら眠り込んでしまった。
夜が更けて、月の光が窓から漏れ入り、一緒に寝ていた人たちの衣の上に白く映っていたのは、たいそうしみじみと感じられた。こういう時にこそ、人は歌を詠むものなのだろう。
第229段「清水などに参りて」
清水などへ参詣して、坂を登っていく途中、柴を焚くにおいがたいそうしみじみと感じられるのは趣がある。
第230段「五月の菖蒲の」
五月の菖蒲が秋、冬を過ぎるまで残っていて、ひどく白っぽく枯れて見苦しくなっているのを、折り取ってみると、その時の香りがまだ残って漂うのは、とても趣がある。
第231段「よくたきしめたる薫物の」
よく薫物を焚きしめた衣を、昨日、一昨日、今日とそのことを忘れていて、ふと取り上げた時に、香の煙の名残が残っているのは、焚いたばかりの香りよりもすばらしい。
第232段「月のいと明かきに」
月がたいそう明るい夜に川を渡ると、牛が歩くたびに、水晶などが割れたように水が散るのが趣深い。

