『無名抄』の現代語訳を、4ページに分けて掲載しています。このページ(3)には、第41段「歌の半臂の句」から第70段「式部・赤染勝劣のこと」までの章段を収めました。原文とあわせて読みたい方は、『無名抄』原文(3)をご覧ください。
第41段 歌の半臂の句
俊恵が、話のついでに尋ねて言うには、
「遍昭僧正の歌に、
たらちねはかかれとてしもむばたまのわが黒髪をなでずやありけむ
母は、私がこのように出家せよと思って、幼い私の黒髪をなでたのではなかっただろうに
この歌の中で、どの言葉が特にすぐれているか。思うままにおっしゃってください」
と言う。
私が言うには、
「『かかれとてしも』と言って、『むばたまの』と休めたところが、特にすばらしいと思います」
と言う。
「そうだ、そうだ。早くも歌の境地に入られたものだ。歌詠みとはこういうことなのだ。それにつけて、『月』と言おうとして『ひさかた』と置き、『山』と言おうとして『あしびき』と言うのは、ありふれたことである。けれども、初めの5文字ではたいした趣はない。第3句にうまく続けて言葉の休めとして置いたのは、たいそう歌の品格も出てきて、振る舞いの様子ともなるのである。昔の人は、これを『半臂の句』と言いました。半臂はたいして役に立たないものだが、装束の中では飾りとなるものである。歌の31文字という、いくらもない中で思うことを言い尽くそうとするには、むだなことは1文字でも増やすべきではないけれども、この半臂の句は必ず品格となって、歌の姿を飾るものである。姿にこのうえない華やかさが備われば、また自然と余情ともなる。これを心得ることを、境地に入るというべきである。よくよくこの歌を考えてごらんなさい。半臂の句も、肝心なのはその次のことだ。眼目はただ『とてしも』という4文字である。こう言わなければ、半臂も役に立たなかっただろうと見える」
とのことでした。
第42段 蘇合の姿
そもそも、雅楽の中に蘇合という曲がある。これを舞うときには、5帖まで、帖ごとに区切って舞い、それが終わってから破を舞う。そのまま続けて急を舞うはずなのに、急の初めの1反は本格的には舞わない。型どおりに拍子に合わせて足を踏み合わせるだけで、少し休みながら、2反目の初めからきちんと舞うのである。この様子は、まさに半臂の句の心である。歌と音楽とは道が違うけれども、すばらしいことは自然と通じ合うのだろう。両方に通じて知らない人は、どうして思い分けることができようか。型どおりにでも両方を心得て考える者にとっては、特に興味深いことである。だから、蘇合を半臂の句のある舞と言い、この歌の様子を蘇合の姿とも言ってよいだろう。
第43段 上の句劣れる秀歌
俊恵が言うには、
「歌は、秀句を思いついても、上の句と下の句とをうまく言いかなえることが難しいのである。後徳大寺左大臣(藤原実定)のお歌に、
なごの海の霞の間よりながむれば入る日を洗ふ沖つ白波
なごの海の霞の間から遠く眺めると、沈む夕日を洗うように沖の白波が立っている
頼政卿(源頼政)の歌に、
住吉の松の木間よりながむれば月落ちかかる淡路島山
住吉の松の木の間から遠く眺めると、月が淡路島の山に沈みかかっている
この2首は、どちらも上の句が思うようにいかなかった歌である。『入る日を洗ふ』と言い、『月落ちかかる』などと言っているのは、すばらしい言葉であるけれども、第2句と第3句をうまく言いかなえられず、残念なことだ」。
第44段 歌言葉の糟糠
二条中将(藤原雅経)が語って言うには、
「歌には、この文字はないほうがよいと思われることがあるのだ。兼資という者の歌に、
月は知るや憂き世の中のはかなさをながめてもまたいくめぐりかは
月は知っているのだろうか、つらい世の中のはかなさを。眺めていても、あと何回めぐり会えることか
これはまずまず詠んでいるが、『世の中』の『なか』という2文字がひどく悪いのである。ただ『憂き世のはかなさを』と言いたいのである。
また、頼政卿の歌に、
澄みのぼる月の光に横ぎれて渡るあきさの音の寒けさ
澄みのぼる月の光を横切って渡っていく秋沙鴨の羽音の、なんと寒々しいことよ
これも『ひかり』という3文字が悪いのである。『月に横ぎれて』とあれば、もう少しきらきらと聞こえるはずだ。このような言葉を、歌の中の傷と言うべきなのだろう。深く考えない人には見分けがたい」。
第45段 歌をいたくつくろへば必ず劣ること
覚盛法師が言うには、
「歌は、荒々しくまとまりのないようなのも、1つの姿である。それをあまりに細工してあれこれすると、しまいにはたまに立派に見えていたところまで失って、何でもないつまらないものになるのだ」
と申したのは、なるほどと思われる。
季経卿(藤原季経)の歌に、
年を経て返しもやらぬ小山田は種貸す人もあらじとぞ思ふ
年がたっても借りを返すことも、耕し返すこともできない小山田には、種を貸してくれる人もいないだろうと思う
この歌は、優美なところこそないけれど、一工夫を言っていて、それなりの歌だと見ておりましたが、何年かたってから、あの人の家集の中にあるのを見ると、
賤の男が返しもやらぬ小山田にさのみはいかが種を貸すべき
身分の低い男が耕し返すこともできない小山田に、どうしてそうむやみに種を貸すことができようか
これは直されたのだろうか。ひどく見劣りして思われます。よくよく気をつけるべきことである。
第46段 秀句によりて心劣りすること
円玄阿闍梨という人の歌に、
夕暮れに難波の浦をながむれば霞に浮かぶ沖の釣り舟
夕暮れに難波の浦を眺めると、霞の中に浮かぶように沖の釣り舟が見える
この歌は優美ではあるが、作者の心が劣って見える歌である。その理由は、「霞に浮かぶ沖の釣り舟」という、すばらしい趣向を思いついたのであれば、どうして「夕暮れに難波の浦をながむれば」という上の句を置くだろうか。まったく残念で、見どころもない言葉の続き具合である。同じ浦であっても、夕暮れであっても、めずらしく思えるように工夫して続ける方法もあったろうに、それほど下手なのに、どうやって下の句を思いついたのだろうかと思われます。
第47段 案じ過ぎて失となること
私の歌の中に、
時雨にはつれなくもれし松の色を降りかへてけり今朝の初雪
時雨にはつれなく色を変えずにいた松の緑を、今朝の初雪は白く降り変えてしまったことだ
これを俊恵が非難して言うには、
「ただ『つれなく見えし』と言うべきである。あまりにむやみに工夫を凝らしたために、かえって耳にとまる節となったのだ。ある所の歌合で、霞の題を俊恵が詠んだ歌に、
夕なぎに由良の門渡る海女小舟霞のうちに漕ぎぞ入りぬる
夕凪の頃に由良の海峡を渡る海女の小舟は、霞の中に漕ぎ入って見えなくなってしまった
そのときの会で、清輔朝臣(藤原清輔)がまったく同じように詠んだのだが、清輔は『霞の底に』と詠んだので、人が『入り海かと思われる』と非難しました。さりげないところは、ただ普通に言い流すべきなのに、ひどく考えすぎてしまうと、かえって耳にとまる節となるのである。たとえば、糸をよる人が、とても美しくよろうとして、よりすぎると節ができてしまうようなものである。これをうまく加減するのを上手というべきだ。趣向は自然と出てくるものなので、それぞれの力量に応じて見つけることもあるけれど、このようなことが上手かどうかで、その差は見えるのである。だから、下手な歌人の秀句には、多くの場合、足りないところが出てくるのだ」。
第48段 静縁こけ歌詠むこと
静縁法師が、自分の歌を語って言うには、
鹿の音を聞くにわれさへ泣かれぬる谷の庵は住み憂かりけり
鹿の声を聞くと私まで泣けてくる、この谷の庵は住みにくいことだ
「と詠みました。いかがでしょうか」
と言う。
私が言うには、
「よろしゅうございます。ただし『泣かれぬる』という言葉は、あまりにやりすぎていて、どうかと思われます」
と言うと、静縁法師が言うには、
「その言葉こそこの歌の眼目だと思っておりますのに、この非難は思いもよらないことです」
と言って、ひどく悪く非難すると思っている様子で去っていった。
つまらないことに思うままにものを言って、気をつけるべきだったのに、と後悔しているうちに、10日ほどして、また来て言うことには、
「先日、私の歌を非難なさいましたのを、隠し立てはいたしません、納得できないと思いまして、どうもすっきりしませんでしたので、そうは言っても大夫公のもとに行って、私が間違って思っているのか、あなたが悪く非難なさったのか、決着をつけようと思って、行って話しましたところ、『どうして、お坊様がこんなやりすぎの歌をお詠みになるのか。「泣かれぬる」とは何事だ。そこまで泣くような心根か』と、きまり悪い思いをさせられました。それで、よく非難してくださいました。私が悪く心得ていたのだと、おわびを申し上げに参ったのです」
と言って帰りました。心の清らかさこそめったにないものです。
第49段 代々恋の中の秀歌
俊恵が語って言うには、
「亡くなった左京大夫顕輔(藤原顕輔)が語って言うには、『後拾遺和歌集の恋の歌の中では、
夕暮れは待たれしものを今はただ行くらむ方を思ひこそやれ
以前は夕暮れになると自然とあの人が待たれたのに、今はただ、あの人が通っているであろう方角を思いやるばかりだ
これを代表的な秀歌と思っている。金葉和歌集では、
待ちし夜の更けしを何に嘆きけむ思ひ絶えても過ぐしける身を
待っていた夜が更けてゆくのを、どうして嘆いたのだろう。あの人への思いを断ち切っても、こうして過ごしてこられた身なのに
これをすぐれた恋の歌としている。私が選んだ詞花和歌集では、
忘らるる人目ばかりを嘆きにて恋しきことのなからましかば
忘れられて人目に恥ずかしいことだけを嘆いていればよく、あの人を恋しく思う気持ちさえなければよいのに
この歌をそれらと同じ類にしようと思っております。それらにもまったく劣らず、悪くはないのです』と言われた。それなのに、この俊恵の『歌苑抄』の中では、
ひと夜とて夜離れし床のさむしろにやがても塵の積もりぬるかな
一夜だけと言って訪れが途絶えた寝床の筵には、そのまますぐに塵が積もってしまったことだ
これを代表的な秀歌と思っておりますが、いかがでしょうか」
ということだ。
今、これらに気づいて『新古今和歌集』を見ると、私の心にすぐれていると思われる歌が3首見える。どれとも優劣はつけがたい。後の人が判定するがよい。
かくてさは命や限りいたづらに寝ぬ夜の月の影をのみ見て
こうしてそれでは命も尽きてしまうのだろうか。むなしく寝られない夜の月の光ばかりを見て
野辺の露は色もなくてやこぼれつる袖より過ぐる荻の上風
野辺の露は色もないままでこぼれたのだろうか。私の袖を吹き過ぎて荻の葉の上を渡る風よ
帰るさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらの有明の月
帰り道に見るものとして、あの人は眺めているのだろうか。私が待ちながら夜を明かしてしまった有明の月を
俊恵が言うには、
「顕輔卿の歌に、
逢ふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞ命なりける
逢うと見た夢は、現実には何のかいもないけれど、そのはかない夢こそが命なのであった
この歌を源俊頼朝臣が感心して言うには、
『これは椋の葉で磨いて鼻の脂を引いたように、念入りにつやを出して仕上げたお歌である。普通の人なら、うつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞ嬉しかりける、と詠むだろう。誰がこのように詠めるだろうか』
とほめられた」。
第50段 歌人は証得すべからざること
俊恵と和歌の師弟の約束を結びましたときの、初めの言葉に言うには、
「歌には究極の故実があるのです。私を本当に師として頼るなら、このことに背かないでいただきたい。あなたは必ず後の世の歌仙になられるはずのうえに、このように約束をなさるので申し上げるのです。決して決して、自分が人に認められるほどになったとしても、悟りきった顔をして、自分は名人だという態度で歌をお詠みなさるな。絶対にあってはならないことである。後徳大寺の大臣(藤原実定)は、並ぶ者のない名手でいらっしゃったが、その故実がなくて、今は詠みぶりが人に後れを取るようになってしまわれた。昔、前大納言などと申し上げたとき、歌の道に執心し、人の目をはばかって、磨き上げていた頃のままであったなら、今では肩を並べる人も少なかったろうに。自分はもう達したと思って、この頃お詠みになる歌は少しも深く考えず、やや気に入らない言葉を交ぜているので、どうして秀歌も出てこようか。秀逸な歌がなければ、また人も重んじない。歌は、その場でこそ人柄によってよくも悪くも聞こえるけれど、翌朝にもう一度静かに見るときには、何と言っても、趣向が内にこもり、姿も素直な歌こそが見通しよく思われるものです。このように申すのはおこがましい例ですが、この俊恵は今でもただ初心の頃のように歌を考えております。また、自分の考えは後回しにして、不思議に思われるかもしれませんが、人がほめたりけなしたりするのを重んじております。これは昔の人が教えてくれたことです。このことを守っているしるしだろうか、すっかり年老いてしまったけれども、俊恵を名手でないと言う人はいないのです。ほかでもない、この故実を誤らないからなのです」。
第51段 非歌仙、歌の難したること
歌は名の知られた歌人でなくても、道理を第一として、耳になじみやすい道なので、身分の低い者の心にも自然とよしあしはわかるのである。長守が語って言うには、
「述懐の歌をたくさん詠みました中で、ふざけた歌として、
火おこさぬ夏の炭櫃の心地して人もすさめずすさまじの身や
火をおこしていない夏の火鉢のような気持ちがして、人も見向きもしない、興ざめなわが身であることよ
と詠んだのを、12歳になる娘がこれを聞いて、
『冬の火鉢のほうこそ、火がないのはもっと興ざめでしょう。どうしてそうお詠みにならないのですか』
と申しましたので、非難されて言い返しようもありませんでした」
と語ったのは、本当におもしろかった。
第52段 思ひ余る頃、自然に歌詠まるること
また、心にひどく思うことがあると、自然と歌は詠まれるものである。『金葉和歌集』に、詠み人知らずとしてありましたでしょうか。
身の憂さを思ひしとけば冬の夜もとどこほらぬは涙なりけり
わが身のつらさを思い続けていると、冬の夜でも凍りつかずに流れるのは涙であったよ
この歌は、仁和寺の淡路の阿闍梨という人の妹のもとにいた新参の女房が、ひどく世の中をつらく思って詠んだ歌である。もともと歌人ではないので、ほかに詠んだ歌もない。ただ思いのあまりに、自然と言葉に出たのだろう。
第53段 範兼の家の会優なること
俊恵が言うには、
「和歌の会の様子が、本当にそれらしく優美に思われたのは、それ相応の所としては、近年では範兼卿(藤原範兼)の家の会のようなものはない。主人が立派な人で、たいそう心を尽くしてもてなし、何かにつけていいかげんではない。人に対して恥じ、歌の道に執心して、ほめるべきものには感心し、けなすべきものは非難し、何事にも張り合いがあって、乱れたことは少しもなかったので、参加する人もみなその趣旨に従って、何とかしてよい歌を詠み出そうと思っていた。だから、よい歌もでき、ちょっとしためずらしい趣向を思いついたにつけても、かいのある気持ちがして、心が勇み立ったものだ。前もって題が出される会では、みな歌を懐に入れてきて、当日の儀式も、むだに時間がかかることはない。もしその場で題が出される会であれば、それぞれあちこちに退いては、思いにふけり合っている様子までも、優美で好ましく思われましたので、たいしたことのない歌も、その場の雰囲気に飾られて優美に聞こえました」
第54段 近代の会狼藉のこと
「この頃、人々の会に連なってみると、まず会場のしつらえから始まって、人々の装束のくだけた様子や、それぞれの態度や様子まで、乱れていることこのうえない。わざわざ10日、20日も前から題を出しているのに、日頃は何をしていたのだろうか、その場でばかり歌を考えて、むやみに夜を更かして興をさまし、披講のときもかまわず思い思いにおしゃべりをし、先輩にも遠慮せず、それぞれが悟りきった顔をしている様子ははなはだしいけれど、本当に歌のよしあしを知ってほめたりけなしたりする人はいない。たまに年配の人がよしあしを判定しても、人の顔色をうかがって、えこひいきを第一にしているので、歌を考えるにつけてもつまらなく、よい歌を詠んだにつけても、夜の錦のようにかいがない。声高に詠ずるのがよいことだと思って、首筋をこわばらせ、声を合わせて張り上げている様子など、ひどく気に入らない。総じて、にぎやかにしても品がなく、優美ぶっても、わざとらしい。本当のところは、人が心の底から歌を好んでいるのではなく、ただ人まねで歌の道を好んでいるからだろうと思われます」
ということだ。
第55段 俊成入道の物語
五条三位入道(藤原俊成)が言うには、
「俊恵は当代の名手である。けれども、源俊頼にはやはり及ばない。俊頼は隙がなく、思い至らないところもなく、さまざまな方面に詠んでいるので、とても力が及ばないのだ。今の世では、源頼政こそたいへんな名手である。あの人さえ座にいれば、そちらに目が向いて、あの人に一本取られたと思われるのである」。
第56段 頼政歌道に好けること
俊恵が言うには、
「頼政卿はすばらしい歌仙である。心の底まで歌になりきって、いつもこのことを忘れずに心にかけては、鳥がひと声鳴き、風がそよそよと吹くにつけても、まして花が散り、木の葉が落ち、月が出入りし、雨や雪などが降るにつけても、立っても座っても、起きても寝ても、趣向をめぐらさないということがない。まことに秀歌が生まれるのも当然だと思われました。そうだから、しかるべきときに名を上げた歌の多くは、前もって作っておいたものだったとかいうことだ。総じて、あちこちの歌会の座に連なって、歌を詠じたり、よしあしを判定したりなさる様子も、深く心を込めていると見えてすばらしかったので、あの人のいる座では、何事も張り合いがあるようでした」。
第57段 清輔弘才のこと
勝命が言うには、
「清輔朝臣は、歌に関する学識の広さでは肩を並べる人がいない。まさかご覧になってはいないだろうと思われることを、わざわざ用意して探し出して尋ねると、みな以前から詳しく調べつくしたことばかりでした。晴れの歌を詠もうとするときには、
『大事なときは、何といっても古い歌集を見てこそだ』
と言って、『万葉集』を繰り返し繰り返しご覧になっていました」。
第58段 俊成の自讃歌のこと
俊恵が言うには、
「五条の三位入道(藤原俊成)のお住まいに参上しましたついでに、
『あなたのお歌の中では、どれがすぐれているとお思いですか。人はよそでいろいろと判定しておりますが、それは当てにいたしません。直接うかがいたいのです』
と申し上げたところ、
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
夕方になると、野辺を吹く秋風が身にしみて、鶉が鳴いているようだ、この深草の里では
『これを、自分にとっての代表歌と思っております』
と言われたので、俊恵がまた言うには、
『世間一般の人が申しておりますのには、
面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峰の白雲
心に浮かぶ桜の花の姿を先に立てて、いくつ越えてきたことだろう、峰にかかる白雲を
これをすぐれているように申しておりますのは、いかがですか』
と申し上げた。
『さあ、よそではそのように判定しているのでしょうか、私は存じません。やはり私自身としては、先の歌とは比べものになりません』
とのことでした」
第59段 俊恵俊成の秀歌を難ずること
と語って、これをこっそりと申したことには、
「あの歌は、『身にしみて』という第3句がひどく残念に思われるのです。これほどの歌になったら、景色を言い流して、ただなんとなく身にしみたのだろうなあと思わせているのこそ、奥ゆかしくも優美でもあるのです。たいそうよく言い進めていって、歌の眼目とすべきところをはっきりと言い表してしまったので、ひどく浅い感じになってしまったのです」
ということだ。
第60段 俊恵の秀歌
そのついでに、
「私の歌の中では、
み吉野の山かき曇り雪降ればふもとの里はうちしぐれつつ
み吉野の山が一面に曇って雪が降ると、ふもとの里ではしきりに時雨が降っている
これを、あの代表歌の類にしようと思っております。もし後の世に、はっきりしないと言う人がいたら、『このように言っていた』と語ってください」
ということだ。


第61段 俊成・清輔の歌の判、偏頗あること
顕昭が言うには、
「この頃の和歌の判は、藤原俊成卿と藤原清輔朝臣が並ぶ者のない判者である。けれども、どちらもえこひいきのある判者であるのに、その様子が違っているのだ。俊成卿は、自分も誤ったことをすると思っておられる様子で、まったく言い争いをせず、
『世の中の習いですから、そうしないわけにもいきますまい』
などというように言われた。清輔朝臣は、うわべはたいそう清廉なようで、えこひいきということを少しも顔色に出さない。たまたま人が異議をはさむことなどもあると、顔色を変えて言い争い論じられたので、人はみなその事情を心得て、それ以上言い出すこともなかった」。
第62段 作者を隠すこと
総じて、歌を判定するには作者を隠すといいながら、まったく知らないのも大変な問題である。また、作者名が明らかなのも遠慮されて、表向き負けにすることが多い。ただ隠しているようにして、内々に少し心得ているのがよいのである。
第63段 道因歌に志深きこと
この道に志が深かったことでは、道因入道(藤原敦頼)が並ぶ者のない人である。70、80歳になるまで、秀歌を詠ませてくださいと祈るため、徒歩で住吉神社へ毎月参詣したのは、たいへんめったにないことである。
ある歌合で、清輔が判者で、道因の歌を負けにしたところ、道因はわざわざ判者のもとに出向いて、本気で涙を流しながら泣いて恨んだので、清輔は言いようもなく、
「これほどの大事にはあったことがない」
と語られた。
90歳ほどになってからは、耳なども遠くなっていたのだろうか、歌会のときはわざわざ講師の座のそばに分け入って寄り、そのわきにぴったりと寄り添って座り、年老いた姿で耳を傾けながら、一心に聞いていた様子など、いいかげんなこととは見えなかった。
『千載和歌集』が選ばれましたのは、あの入道が亡くなった後のことである。けれども亡くなった後でも、あれほど歌の道に志の深かった者だということで、特別に配慮して18首を入れられたところ、撰者(藤原俊成)の夢の中に来て、涙を落としながら喜びを言うと見なさったので、たいそう心を動かされて、さらに2首を加えて、20首になさったということだ。そうなるべきことであったのだろう。
第64段 隆信・定長一双のこと
近頃は、隆信(藤原隆信)と定長(寂蓮)が対にされて、若い頃から人々の口に同じように言われておりました。あの俊恵の家で、百首を10首ずつ10回に分けて詠んで、「十座の百首」と名付けた催しがあったときには、張り合ってそれぞれ心を尽くした。なるほどどちらも劣らなかった。また、俊成卿が10首の歌を詠ませましたときも、2人ともよく詠んだので、俊成卿は、
「世間で人が第一の歌人と申していると聞いたけれど、たいしたことはあるまいと思って過ごしてきたが、この10首の歌によって、その評判を認める受け取り状を与えてもよいと思われる」
と言われた。
ところが、九条殿(藤原兼実)が右大臣と申し上げたとき、人々に百首の歌を召されたが、隆信は作者に加えられて、公務の多い中で日数もなく、あわただしかったので、まったくよい歌もなかった。その頃、定長は出家した後で、身の暇もあり、もう少しゆっくりと考えて、題のない百首を磨き上げて差し出したところ、比べものにならないほどまさっていたので、そのときから「寂蓮は並ぶ者がない」ということになった。御所のあたりでは、
「どんな愚か者が、同じ程度の歌人だと対にし始めたのか」
とまでおっしゃったということだ。後に隆信はつらく思って、
「早く死んでいたなら、それなりの歌仙で終わっただろうに。つまらない命が長くて、このように歌の道での恥をさらすことよ」
と言われた。
第65段 大輔・小侍従一双のこと
近頃の女流歌人の名手としては、大輔と小侍従とが、それぞれに評判でした。大輔はもう少し物事を知っていて、根気強く詠むところがまさり、小侍従は華やかで、人の目を驚かすような点を詠み込むことにすぐれていたのである。中でも歌の返しをすることは、誰よりもすぐれていたということだ。
「もとの歌に言っていることの中で、なるほどそうでもあろうというところをよく見つめて、それを返す心づかいには、肩を並べる者がいない」
と、俊恵法師は申しました。
第66段 俊成卿女・宮内卿、両人歌の詠みやうの変はること
今の御所(後鳥羽院)には、俊成卿女と申し上げる人と宮内卿と、この2人の女房が、昔の名手にも劣らない名手たちである。歌の詠み方は、ことのほか違っておりました。人が語りましたことには、俊成卿女は、晴れの歌を詠もうとするときには、まず何日も前からさまざまな歌集を繰り返しよくよく見て、思う存分見終わると、みな片付けて、灯火をかすかにともし、人を遠ざけて物音もしない中で考えられた。
宮内卿は、初めから終わりまで、草子や巻物を取り広げて、切灯台に火を近々とともしながら、少しずつ書きつけ書きつけして、夜も昼も怠らず考えた。この人はあまり歌を深く考えすぎて病気になって、一度は死にかけたことがあった。父の禅門(源師光)が、
「何事も身があってのことだ。こんなに病気になるまで、どうしてそこまで考えなさるのか」
といさめられたけれども、聞き入れなかった。とうとう命も尽きてしまったのは、その無理が積もったのだろうか。
第67段 具親、歌を心に入れざること
寂蓮入道は、とりわけ歌に打ち込むことを大切に思っていて、宮内卿の兄である兵衛佐の具親少将(源具親)が歌に心を入れないのを憎んでおりました。
「どういうわけで、身を立てた人だからといって、そうなのだろうか。宿直所をたまにのぞいて見ると、晴れの御歌会などがある頃でも、『弓よ、ひきべよ』などと取り散らかして、細工を前に置いて、歌を大事とも思っていない」
と言って、残念なことに言っておりました。
第68段 会の歌に姿分かつこと
私が御所に朝夕お仕えしていた頃、いつもと違ってめずらしい御歌会があった。
「6首の歌を、すべて歌の姿を詠み変えて差し出せ」
ということで、
「春と夏の歌は太く大きく、秋と冬の歌は細く枯れた感じに、恋と旅の歌は優美にやさしくお詠みなさい。これを、もし思うように詠みこなせないなら、その旨をありのままに申し上げよ。歌の姿をわきまえている程度をご覧になるためである」
とおっしゃったので、たいへんな大事で、何人かは辞退した。奥ゆかしくない程度の人は、もとからお召しにならない。そういうわけで、実際にその座に参上して連なった人は、殿下(藤原良経)、大僧正の御房(慈円)、藤原定家、藤原家隆、寂蓮、私と、わずか6人でありました。
私の歌で、太く大きな歌として、
雲さそふ天つ春風かをるなり高間の山の花ざかりかも
雲を誘う空の春風がかおってくる。高間の山は、今が花盛りなのだろうか
打ち羽ぶき今も鳴かなむほととぎす卯の花月夜さかり更けゆく
羽ばたいて今こそ鳴いてほしい、ほととぎすよ。卯の花の咲く月夜は、盛りのうちに更けてゆく
細く枯れた感じの歌として、
宵の間も月の桂の薄紅葉照るとしもなき初秋の空
宵のうちも、月の桂がわずかに紅葉して照っているとも見えない、初秋の空よ
寂しさはなほ残りけり跡絶ゆる落葉が上に今朝は初雪
寂しさはやはり残っていることだ。人の跡も絶えた落ち葉の上に、今朝は初雪が降っている
優美にやさしい歌として、
忍ばずよ絞りかねつと語れ人もの思ふ袖の朽ちはてぬ間に
こらえきれずに、涙を絞りきれないと、あの人に語っておくれ。もの思いをする私の袖が朽ち果ててしまわないうちに
旅衣立つ暁の別れよりしをれしはてや宮城野の露
旅衣をまとって旅立つ暁の別れから、しおれ果ててしまったのだろうか、宮城野の露に濡れて
第69段 寂蓮・顕昭両人の心のこと
この中で、春の歌をたくさん詠んで、寂蓮入道にお見せしたとき、この高間の歌を「よい」と言って、点を付けてくださったので、書いて差し上げた。いよいよ披講されるときになってこれを聞くと、あの入道の歌でも、同じく高間の花を詠まれていた。自分の歌に似ていたら変えさせようなどと思う心もなく、ありのままに判断されたのは、たいへんめったにない心であることよ。もっとも、本当の気立てなどについては、それほど殊勝な人とも言われていなかったのに、自分が身につけた道のこととなると、心ばえもよくなるのだろう。
昔、宣陽門院の御供花の会の歌で、「常夏契り久し」という題で、「動きなき世のやまとなでしこ」と詠んだのを、ある先輩が見て、「私の歌に似ている。詠み替えよ」と、無理に申しましたので、しかたなくその場で詠み替えてしまった。比べものにならない心である。
そもそも、人の徳をほめようとするうちに、自分にとって名誉だったときのことを長々と書き続けておりますのは、おかしなことです。けれども、この書物の役得として、自慢話を少々交ぜてもよいでしょう。
第70段 式部・赤染勝劣のこと
ある人が言うには、
「源俊頼の『髄脳』に、定頼中納言(藤原定頼)が公任大納言(藤原公任)に、和泉式部と赤染衛門との優劣をお尋ねになった。大納言が言うには、
『「式部は、こやとも人をいふべきにと詠んだ者である。一口に論じられる人ではない」とおっしゃったので、中納言が重ねて言うには、「式部の歌では、はるかに照らせ山の端の月という歌を、世の人は秀歌と申しているようですが」と言う。大納言が言うには、「それこそ、世の人が知らないことを言うものだ。暗きより暗きに入るというのは、お経の文句なので、言うまでもない。下の句は、また上の句に引かれて、たやすく詠めるだろう。こやとも人をいふべきにと言って、ひまこそなけれ葦の八重葺きと続けたのこそ、凡人の思いつけることではない」とお答えになった』ということがあるようです。
これには2つの不審があります。1つには、式部をすぐれているとご判断になったが、その頃のしかるべき歌会や晴れの歌合などを見ると、赤染を盛んに賞賛して、式部は漏れていることが多い。もう1つには、式部の2首の歌を今見ると、はるかに照らせという歌は、言葉も姿も、ことのほか格調高く、また景色も浮かぶ。どうして大納言はそのようにご判断になったのだろうか。いろいろと不審に思われます」
と言う。
私が試しにこれを解釈してみる。
式部と赤染の優劣は、大納言1人が定められたのではない。世間こぞって、式部をすぐれていると思っていた。けれども、人のすることは、本人が生きている間は、その人柄によって劣ったりまさったりすることがある。歌のほうでは式部は並ぶ者のない名手だけれど、身の振る舞いや人当たり、心づかいなどが、赤染には及ばなかったのだろうか。紫式部の日記というものを見ましたところ、
「和泉式部は感心できない面もあるけれど、気楽に手紙を走り書きしたときに、その方面の才能のあるところも、ちょっとした言葉のつやも見えるようです。歌は、本当の歌詠みではありません。口にまかせて詠んだものの中に、必ずおもしろい一節が目にとまるところを詠み添えているようです。けれども、人が詠んだ歌を非難し判定したりするのは、いやもう、そこまでは心得ていないでしょう。ただ口をついて歌が詠まれるのでしょう。気後れするほどの歌詠みとは思われません。丹波守の北の方(赤染衛門)を、中宮や殿のあたりでは、匡衡衛門と呼んでおります。特に高貴な身分ではないけれど、まことに由緒ある歌詠みとして、何事につけても詠み散らすことはしないけれど、知られている限りでは、ちょっとした折々のことでも、それこそこちらが恥ずかしくなるような詠みぶりです」
と書いている。そうであるから、その当時は人柄に評判を消されて、歌のほうも思うほどには重んじられなかったけれど、本当は名手なので、秀歌も多く、何かにつけて間をおかず詠みためていったので、勅撰集などにもたくさん入っているのだろう。
曽祢好忠という者は、人の数にも入らない身分で、円融院の子の日の御遊びに押しかけて参加までして、愚か者という評判を立てた者である。けれども今では、歌のほうでは尊い者と思われている。一条院の御代に、さまざまな道が盛んであったことを江帥(大江匡房)が記した中にも、
「歌人は、道信、実方、長能、輔親、式部、衛門、曽祢好忠」
と、この7人を記しておられるようだ。これも、本人の人柄のせいで、生きている間は世の評判もなかったのだろう。
さて、あの式部の歌についての優劣は、公任卿の判断がいわれのないことでもなく、今の不審が間違いだというわけでもない。これはよく心得て、区別して考えるべきことである。歌は、作り立てた趣向や巧みさはすばらしくても、その歌の品格を定めるときに、たいしたことのないこともある。また、思いついたところはそれほど及びがたいものではないけれど、ちょっと聞くと格調もあり、優美にも思われて、景色が浮かぶ歌もあるのです。だから結局、歌人としての力量を正しく判定するには、こやとも人をという歌を取るとしても、式部の秀歌はどれかと選ぶなら、はるかに照らせという歌がまさるはずである。たとえば、道ばたでなにげなく見つけたとしても、黄金は宝であるにちがいない。たいそう巧みに作り立てても、櫛や針などの類は決して宝とするには足りない。また、技量を論じるならば、黄金を見つけたのは決して持ち主の手柄ではない。針の類は宝ではないけれど、これこそ名人の仕事だと判定すべきであるようなものだ。けれども、大納言はそういう意味でお考えになったのだろうか。あるいはまた、歌のよしあしも時代によって変わるものなので、その当時はこやとも人をという歌がまさる点もあったのを、後の人が理解しなかったのだろうか。後の人が判定するがよい。



