『無名抄』の現代語訳を、4ページに分けて掲載しています。このページ(2)には、第16段「ますほのすすき」から第40段「榎葉井」までの章段を収めました。原文とあわせて読みたい方は、『無名抄』原文(2)をご覧ください。
第16段 ますほのすすき
雨の降っていた日、ある人のもとに親しい者どうしが集まって、昔のことなどを語り出していたついでに、
「ますほのすすきというのは、どのようなすすきか」
などと言い合っているうちに、ある老人が言うには、
「渡辺という所に、このことを知っている聖がいると聞きました」
と、かすかに言い出した。
登蓮法師がその中にいて、このことを聞いて、口数が少なくなり、それ以上尋ねることもなく、主人に、
「蓑と笠をしばらく貸してください」
と言ったので、不思議に思いながら取り出した。登蓮は話も聞きかけのまま、蓑を着て、わら沓を履いて、急いで出て行ったので、人々は不思議がって、その理由を尋ねた。
「渡辺へ行くのです。長年知りたいと思っておりましたことを、知っている人がいると聞いて、どうして尋ねに行かずにいられましょう」
と言う。人々は驚きながら、
「それにしても、雨がやんでからお出かけなさい」
といさめたけれども、
「いや、つまらないことをおっしゃるものだ。命というものは、私も人も、雨の晴れ間など待っていられるものか。何事もまた後でゆっくりと」
とだけ言い捨てて行ってしまった。たいへんな風流人であったことだ。そうして、望みどおりに聖を訪ねて会い、尋ねて聞き、たいそう大切に秘蔵した。
このことを、私は3代目の弟子として伝え習っております。このすすきには、同じような名前のものがたくさんあります。ますほのすすき、まそをのすすき、まそうのすすきといって、3種類あるのです。ますほのすすきというのは、穂が長くて、1尺(約30センチメートル)ほどあるものをいう。あの「ます鏡」を、『万葉集』では「十寸の鏡」と書いていることから理解するとよい。まそをのすすきというのは、真麻の意味である。これは源俊頼朝臣の歌に詠んでおります。「まそをの糸を繰りかけて」とあったかと思う。糸などが乱れているようなものである。まそうのすすきとは、本当に蘇芳色だという意味である。「真蘇芳のすすき」と言うべきところを、言葉を略したのである。色の濃いすすきの名であろう。これらは、古い歌集などにはっきり見えることではないけれど、和歌の習いとして、このような古い言葉を用いるのも、よくあることである。人々は広く知らない。むやみに説明してはならない。
第17段 井手の山吹並びに蛙
ある人が語って言うには、
「ある縁があって、井手という所に行って、1晩泊まったことがありました。その土地の様子や、井手川が流れている様子は、想像も及ばないほどでした。あの井手の大臣(橘諸兄)の旧跡なので当然ですが、川に立ち並んでいる石なども10余町(約1キロメートル余り)ほど続いていて、そう遠くまで立てて置かれたのだろうか、石ごとに、ただいいかげんに置いたものとは見えず、わざわざ立てたようでありました。そこにいた古老を相手に、昔のことを尋ねましたついでに、
『井手の山吹といって名高いものが、まったく見当たらないのは、どこにあるのか』
と尋ねましたところ、
『そういうことがございます。あの井手の大臣のお堂は、ある年に焼けてしまいました。その前に、ものすごく大きな山吹が、あちこちに群がって見えました。その花の輪は小さな素焼きの皿ほどの大きさで、幾重とも知れず重なっておりました。それをそのように言い伝えているのでしょうか。また、あの井手川の水際にそってすき間もなく咲いておりましたので、花の盛りには黄金の堤を築きわたしたようで、ほかの所よりすぐれておりましたので、どちらのことを申したのか、今となっては見分けがたいことです。ただし、身分の低い者のどうしようもないことには、このように名高い草だからといって遠慮もせず、田を作るには草を刈り入れるとよく育つと申して、なんの気もなく刈り取ってしまいましたので、今は跡形もなくなっております。
それにつけて、井手のかわずと申すことこそ、わけのあることなのです。世間の人が思っておりますのは、ただ蛙をみな「かわず」というのだと思っているようです。それも間違いではありません。けれども、かわずと申す蛙は、ほかには決しておりません。ただこの井手川にだけいるのです。色は黒っぽく、それほど大きくもありません。世間の普通の蛙のように、目立って跳ね回ることなどもほとんどありません。いつも水の中にだけすんでいて、夜が更けた頃にあれが鳴いているのは、たいそう心が澄み、しみじみとした声なのです。春や夏の頃に、必ずいらっしゃってお聞きなさい』
と申しましたけれども、その後なにかとまぎれて、まだ訪ねておりません」
と語りました。
このことは心にしみて、すばらしく思われましたが、かいもなく3年になってしまいました。また、年老いては歩くこともままならず、思いながらもまだあの声を聞いていない。あの登蓮が雨の中を急いで出かけたというのとは、比べものにならない。これを思うと、これから後の世の人は、たとえ偶然なにかのついでがあって、そこに行ったとしても、心をとめて聞こうと思う人も少ないにちがいない。人の風流心と情趣とは、年月がたつにつれて衰えていくからである。
第18段 関の清水
ある人が言うには、
「逢坂の関の清水というのは、走り井と同じ水だと、一般に人は思っているようです。そうではありません。清水は別の所にあります。今は水もないので、そこがその場所だと知っている人さえいません。三井寺に円実房の阿闍梨という年老いた僧がただ1人、その場所を知っていました。そうではあるが、そのような旧跡を知っているかと尋ねる人もいません。
『私が死んだ後は、知る人もいなくなってしまうにちがいないことだ』
と、人に会って語ったということを伝え聞いて、その阿闍梨を知っている人の手紙をもらって、建暦元年の10月20日過ぎの頃、三井寺へ行った。阿闍梨が会ってくれて、
『このように昔のことを聞きたがる人もめったにいないようですのに、めずらしいことです。どうしてご案内しないことがありましょう』
と言って、連れ立って行く。関寺から西へ2、3町(約200〜300メートル)ほど行って、道から北側の少し高くなっている所に、1丈(約3メートル)ほどの石の塔がある。その塔の東へ3段ほど下って、くぼんでいる所が、すなわち昔の関の清水の跡である。道からも3段ほど入っているだろうか。今は小さな家の裏手になって、今では水もなく、見どころもないけれど、昔の名残が面影に浮かんで、優美に思われました。阿闍梨が語って言うには、
『この清水に向かって、水より北に、薄く檜皮で葺いた家が、近年までありました。誰の住まいかは知らないけれど、どう見ても普通の人の住まいではなかったようです』
と語りました」。
第19段 貫之の家
ある人が言うには、
「紀貫之が長年住んでいた家の跡は、勘解由小路より北、富小路より東の角である」。
第20段 業平の家
また、在原業平中将の家は、三条坊門より南、高倉より西で、高倉小路に面して近年までありました。柱なども普通のものとは違い、ちまき柱というものでしたが、いつ頃の人のしわざだろうか、後に普通の柱のように削ってしまっていました。長押もみな丸く、角もなくすり減って、本当に古い時代の家と見えました。中頃、安倍晴明が封じたということで、火事にも焼けずに長く残っていたけれども、末世にはかいもなく、ある年の火事で焼けてしまった。
第21段 周防内侍の家
また、周防内侍が「われさへ軒のしのぶ草」と詠んだ家は、冷泉小路より北、堀川小路より西の角である。
第22段 浅茂川の明神
丹後の国の与謝郡に、浅茂川の明神と申す神がいらっしゃる。国司が着任して神々に参拝する儀式でも、幣などをお受けになって、数のうちに入れられるほどの神でいらっしゃるということだ。これは昔、浦島の翁が神になったのだと言い伝えている。たいへんおもしろいことである。あわただしく箱を開けてしまったような心で、神として跡をとどめなさったのは、仏や菩薩が仮に人の姿となって現れた者などであったのだろうか。
第23段 関の明神
逢坂の関の明神と申すのは、昔の蝉丸である。あのわら屋の跡を失わずに、そこに神となってお住みになっているのだろう。今も通り過ぎるついでに見ると、昔、深草の帝(仁明天皇)の御使いとして、和琴を習いに良岑宗貞が、良少将と呼ばれて通っていたという頃のことまで面影に浮かんで、たいへん心ひかれます。
第24段 和琴の起こり
ある人が言うには、
「和琴の起こりは、弓を6張並べて引き鳴らして、これを神楽に用いていたのを、煩わしいということで、後の人が琴に作り移したのだと言い伝えているが、上総の国から納めた貢ぎ物の古い目録の中に『弓6張』と書いて、注に『御神楽の料』と書いてある」
ということだ。すばらしいことである。
第25段 中将の垣内
河内の国の高安郡に、在中将(在原業平)が通い住んでいたということは、あの『伊勢物語』に書かれている。けれども、その跡はどことも知られていないのを、その土地の住民の説では、その跡ははっきりしているということだ。今、「中将の垣内」と名付けているのが、つまりそれである。
第26段 人麻呂の墓
柿本人麻呂の墓は、大和の国にある。初瀬へ参詣する道の途中である。「人麻呂の墓」と言って尋ねても、知る人もいない。その土地では「歌塚」というそうだ。
第27段 貫之・躬恒の勝劣
俊恵法師が語って言うには、
「三条の太政大臣(藤原実行)が検非違使の別当と呼ばれていたとき、二条の帥(藤原俊忠)と2人で、凡河内躬恒と紀貫之の優劣を論じ合われた。互いにさまざまに言葉を尽くして争われたけれども、まったく決着がつきそうもなかったので、帥は気がかりに思って、
『院のご意向をうかがって決めよう』
と言って、白河院にご意向をおうかがいした。院がおっしゃるには、
『私がどうして決められよう。俊頼などに尋ねなさい』
とお言葉があったので、2人ともその機会を待っておられたところ、2、3日たって、源俊頼が参上した。帥がこのことを話し出して、初めに争い始めたことから、院のお言葉の趣旨まで語られたので、俊頼は聞いて、何度もうなずいて、
『躬恒を侮ってはなりませんぞ』
と言う。帥は意外に思って、
『それでは貫之が劣っているのですか。決着をつけてください』
と責めたけれども、なおもただ同じように、
『躬恒を侮りなさってはなりませんぞ』
と言ったので、
『だいたいの事情はわかりました。私の負けになったということですね』
と言って、つらいことと思われた。まことに躬恒の詠みぶりの、深く思いを込めた点では、また比べる者のいない歌人である」
ということだ。
第28段 俊頼の歌を傀儡歌ふこと
富家の入道殿(藤原忠実)のもとに源俊頼朝臣がお仕えしていた日、鏡の宿の傀儡たちが参上して歌をお聞かせしたが、神歌になって、
世の中は憂き身に添へる影なれや思ひ捨つれど離れざりけり
世の中は、つらいこの身に寄り添う影なのだろうか。思い捨てても、離れることがない
この歌を歌い出したので、「この俊頼も、とうとうここまで来ましたな」と言って座っていたのは、すばらしいことであった。
永縁僧正がこのことを伝え聞いてうらやましく思い、琵琶法師たちを誘って、さまざまに物を与えなどして、自分の詠んだ「いつも初音の心地こそすれ」という歌を、あちこちで歌わせたので、当時の人は、めったにない風流人だと言った。
今の敦頼入道(藤原敦頼)が、またこれをうらやましく思ったのだろうか、物も与えずに、盲目の琵琶法師たちに「歌え、歌え」と無理に歌わせて、世間の人に笑われたということだ。
第29段 同人、歌に名字を詠むこと
法性寺殿(藤原忠通)で歌会があったとき、源俊頼朝臣が参上した。兼昌(源兼昌)が講師として歌を読み上げていたところ、俊頼の歌に名前が書いてなかったので、目を合わせて、せき払いをして、「お名前はどうしますか」と小声で言ったのを、「そのままお読みください」と言われたので、読み上げた歌に、
卯の花の身の白髪とも見ゆるかな賤が垣根もとしよりにけり
卯の花が白く咲いて、わが身の白髪とも見えることよ。賤しい者の家の垣根も、年寄りになってしまったのだなあ
と書いてあったのを、兼昌は声を忍んで泣いて、しきりにうなずきながら感心した。殿がお聞きになって、お召しになってご覧になり、たいそうおもしろがりなさったということだ。あの3首の題を1首の歌に詠み込んだという工夫よりも、少しまさっております。
第30段 三位入道、基俊の弟子になること
五条三位入道(藤原俊成)が語って言うには、
「昔、25歳だったとき、基俊(藤原基俊)の弟子になろうと思って、和泉前司道経を仲立ちとして、その人と車に同乗して、基俊の家に訪ねて行ったことがあった。基俊はそのとき85歳である。その夜は8月15夜で、月までも明るかったので、主人はことのほか興に乗って、歌の上の句を言う。
中の秋十日五日の月を見て
中秋の15日の月を見て
と、たいそう重々しく朗詠されたので、私はこれに下の句を付けた。
君が宿にて君と明かさむ
あなたの家で、あなたと夜を明かそう
と付けたが、何のめずらしさもないのを、たいそう感心なさった。そうして、のんびりと話をして、
『長いこと引きこもっていて、今の世の人の様子なども知りません。この頃は誰を物事をよく知る人として師事しているのか』
と尋ねられたので、
『九条大納言(藤原伊通)、中院大臣(源雅定)などを、奥ゆかしい方だと思っております』
と申し上げたところ、
ああ気の毒にと言って膝をたたいて、扇を大げさにお使いになった。このように師弟の約束を申し上げたけれども、詠みぶりに至っては、俊頼には及びもつかない。俊頼はたいそう尊い歌人である」
ということだ。
第31段 俊頼・基俊挑むこと
ある人が言うには、
「基俊は、俊頼を取るに足らない者だと言って、
『そうは言っても、馬が道を行く程度のことだろう』
と言われたけれども、俊頼はそれを伝え聞いて、
『菅原文時や大江朝綱が詠んだ秀歌はない。躬恒や貫之が作った秀句はない』
とおっしゃった」。
第32段 腰の句のをはりのて文字、難のこと
また言うには、
「雲居寺の聖のもとで、秋の暮れの心を、源俊頼朝臣が、
明けぬともなほ秋風の訪づれて野辺の気色よ面変りすな
夜が明けても、なお秋風が訪れて吹いている。野辺の景色よ、様変わりしないでおくれ
名前を隠していたけれども、これを俊頼の歌だと察して、基俊は張り合う人だったので、非難して言うには、
『どうあっても、歌は第3句の末に「て」の文字を置いたものに、よいものはない。つかえて、たいそう聞き苦しいものだ』
と、口を開かせる余地もなく非難なさったので、俊頼は何とも言わなかった。その座に伊勢の君琳賢がいたが、
『変わった証拠の歌を、1首覚えております』
と言い出したので、
『さあさあ、うかがおう。まさかたいした歌ではあるまい』
と言うと、
桜散る木の下風は寒からで
桜が散る木の下を吹く風は寒くはなくて
と、最後の「て」の文字を長々と詠じたところ、基俊は顔色が真っ青になって、物も言わずにうつむいてしまったが、そのときに俊頼朝臣はひそかに笑われた」
第33段 琳賢基俊をたばかること
「どういうわけだったのか、琳賢は基俊と仲が悪かったので、だましてやろうと思って、あるとき、『後撰和歌集』の恋の歌の中から、人もあまり知らず、耳慣れないものばかり20首を選び出し、歌合の形に組み合わせて書いて、基俊のもとへ持って行った。
『ここである人が変わった歌合をして、勝ち負けを知りたがっておりますので、判を付けていただきたい』
と言って取り出したので、基俊はこれを見て、『後撰和歌集』の歌だとは少しも思いつかず、思うままにさまざまに非難なさったのを、琳賢はあちこちに持ち歩いて、
『左衛門佐(藤原基俊)にお見せしたところ、梨壺の5人の判断も問題にならない。ああ、昔の人にもまさっていらっしゃる歌仙だなあ。これをご覧なさい』
と言って馬鹿にしたので、見る人はたいそう笑った。基俊はそれを伝え聞いて、心穏やかでなく思われたけれども、どうしようもなかった」。
第34段 基俊僻難すること
俊恵が言うには、
「法性寺殿で歌合があったとき、俊頼と基俊の2人が判者で、作者名を隠してその場で判定したが、俊頼の歌に、
口惜しや雲井隠れにすむたつも思ふ人には見えけるものを
残念なことよ。雲のかなたに隠れ住む竜も、心から思う人には姿を見せたというのに
これを基俊は鶴のことだと思い込んで、
『鶴は沢にこそすむものだ。雲の中にすむことなどあろうか』
と非難して負けにしてしまった。けれども、俊頼はその座では言葉も加えなかった。そのとき、殿下が、
『今夜の判の言葉を、それぞれ書いて差し出しなさい』
とおっしゃったときに、俊頼朝臣は、
『これは鶴ではない。竜である。あの何とかいう人が、竜を見たいと思う心が深かったので、その人のために竜が現れて姿を見せたということがございますのを詠んだのである』
と書いた。基俊は学識の広い人であるが、思い違いをしたのだろうか。総じて、深く考えもせずに人のことを非難する癖がありましたので、何かにつけて失敗が多かったのである」。
第35段 艶書に古歌書くこと
ある人が、女のもとから手紙をもらった。その手紙に歌が2首あった。
「これに返歌をしてください」
と頼まれましたのを見ると、この歌は2首とも『古今和歌集』の恋の歌である。返歌をすべきものではない。どうしようかと思いめぐらして、その言いたい心に合う古歌を2首教えて書かせました。
このことをある昔気質の人に話しましたところ、
「すばらしいことだ。昔、恋の道に通じた人がわざわざ好んでしたことである。相手が知らないことを推し量って、昔のやり方にかなっているのは、優美なことだ」
と感心しました。
第36段 女の歌詠みかけたる故実
勝命が語って言うには、
「しかるべき所などで、無風流な女房などが歌を詠みかけてくるのは、どうしようもないことが多い。それには故実があるのだ。まず、聞こえないふりをしてとぼけて、何度も聞き返す。そうすると、後には恥ずかしがって、はっきりとも言わない。そうしてやりとりしているうちに返歌を思いついたら言えばよいし、詠めそうもなければ、そのままとぼけて終わらせる、これが1つのやり方である。また、生半可な宮仕えの人であっても、しかるべきしゃれた女などが、添えごとと称して、聞いたこともない歌の1句、2句などを言いかけてくることがある。もしわかったなら、どのようにでも返事をすればよい。知らないことなら、ただ『まさかそうはお思いになりますまい』などと言っておけばよい。これはどちらの場合にも外れないことである。深く思っているという意味にも、また、つらい、恨めしいという意味にも、自然と通用するはずだ。気に入らないという意味で言いかけてきたのであれば、こちらが思いを晴らしたようにもなるし、それもしゃれた冗談に言いなしたことにもなるにちがいない」。
第37段 猿丸大夫が墓
ある人が言うには、
「田上の下流に曽束という所がある。そこに猿丸大夫の墓がある。荘園の境界で、そこの証文に書き載せてあるので、誰もが知っている」
第38段 黒主、神になること
「また、志賀郡に、大きな道から少し入った山際に、黒主の明神と申す神がいらっしゃる。これは、昔の大友黒主が神になったのである」
第39段 喜撰が跡
「また、御室戸の奥に、20余町(約2キロメートル余り)ほど山の中へ入ると、宇治山の喜撰が住んでいた跡がある。家はないけれど、お堂の礎石などがはっきり残っている。これらは必ず訪ねてみるべきである」。
第40段 榎葉井
ある人が言うには、
「宮内卿有賢朝臣(源有賢)が、当時の殿上人7、8人を連れて、大和の国の葛城の方へ遊びにお出かけになったことがあった。そのとき、ある所に、荒れたお堂で大きく堂々としたものが見えたので、不思議に思って、その名を会う人ごとに尋ねたけれども、知っている人はいなかった。そうしているうちに、ことのほか鬢の白い老人が1人現れた。この人はきっとわけを知っているだろうと思って尋ねたところ、
『これは豊浦の寺と申します』
と言う。人々は、すばらしいことだと何度も感心して、
『それなら、このあたりに榎葉井という井戸はあるか』
と尋ねる。
『すっかり涸れて、水もございませんが、跡は今も残っております』
と言って、お堂から西へいくらも離れていない所へ行って教えたので、人々は興に乗って、そのままそこに群がって座り、「葛城」という歌を何十回も歌って、この老人に着物を脱いで与えたので、老人は思いがけないことにあって、喜び恐縮して去っていった」
ということだ。
近年、土御門の内大臣(源通親)の家で、毎月、柿本人麻呂の像を祭る影供の歌会をなさっていた頃、ひそかに上皇のお出ましなどがあるときもありました。その会で、「古寺月」という題で詠んで差し上げた歌、
古りにける豊浦の寺の榎葉井になほ白玉を残す月影
古びてしまった豊浦の寺の榎葉井に、今もなお白玉を残すように映る月の光よ
五条三位入道がこれを聞いて、
「優美にお詠みになったものだ。この入道がしかるべきときに詠み出そうと思っておりましたことを、残念にも先を越されてしまった」
と言って、しきりに感心されました。このことは催馬楽の言葉なので、誰もが知っているけれども、これより前には歌に詠んだ例は見えない。その後になって、冷泉中将定家(藤原定家)の歌に詠まれました。



