『無名抄』の現代語訳を、4ページに分けて掲載しています。このページ(4)には、第71段「近代の歌体」から第83段「とこねのこと」までの章段を収めました。原文とあわせて読みたい方は、『無名抄』原文(4)をご覧ください。
第71段 近代の歌体
ある人が尋ねて言うには、
「この頃の人の歌の詠みぶりは、2つの方面に分かれています。中頃の歌体を重んじる人は、今の世の歌をつまらないもののように思って、『達磨宗』などというあだ名を付けて、けなしあざける。また、この頃の新しい様式を好む人は、中頃の歌体を、『俗っぽい、見どころがない』と嫌う。まるで宗派どうしの論争のようで、決着がつきそうもない。後から学ぶ者にとっては、どちらが正しいか迷ってしまうにちがいない。どのように心得ればよいのでしょうか」
と言う。
ある人が答えて言うには、
「これは当代の歌仙たちの大きな争いなので、どうしてたやすく判定できましょう。ただし、人というものは、月や星の運行をも悟り、鬼神の心をも推し量るものなので、確かではないけれども心の及ぶ範囲で申し上げましょう。また、あなたが思われるとおりに判断なさるのがよい。
そもそも、このことを人々が水と火のように相いれないものと思っているのが、私には納得できないのです。総じて歌の様子は、時代によって異なり、昔は文字の数も定まらず、思うままに口にまかせて言っていた。あの『出雲八重垣』の歌から、5句31文字に定まったけれど、『万葉集』の頃などまでは、やはり心のこもった思いを述べるだけで、無理に姿や言葉を選ばなかったのだろうかと思われる。中頃、『古今和歌集』の時代に、華やかさと内容がともに備わって、その様子はさまざまに分かれた。『後撰和歌集』では、よい歌は『古今和歌集』に取り尽くされた後で、いくらも時がたっていなかったので、よい歌が得がたくて、姿を選ばず、ただ心を第一とした。『拾遺和歌集』の頃から、その歌体はことのほか身近になって、道理がすみずみまで表れ、姿が素直なものをよしとした。その後、『後拾遺和歌集』の時代に、もう少し柔らかくなって、昔の風を忘れてしまった。その時代の年配の人などは、これを受け入れなかったのだろうか、『後拾遺姿』と名付けて、残念なことにしていたと、ある先輩が語りました。『金葉和歌集』はまた、ことさらおもしろくしようとして、軽々しい歌が多い。『詞花和歌集』『千載和歌集』は、だいたい『後拾遺和歌集』の風であろう。歌が昔から伝わってきた様子は、このようなものである。
そうであるから、『拾遺和歌集』以後、その様子が1つのまま長く続いたために、趣向はしだいに尽き、言葉は代々使い古されて、この道は時代とともに衰えていく。昔はただ花を雲に見まがえ、月を氷に似せ、紅葉を錦に思いなぞらえるような類をおもしろいことにしていたけれど、今ではその趣向は言い尽くされて、雲の中にさまざまな雲を求め、氷についてめずらしい趣向を加え、錦について変わった点を探し、このように苦心して工夫を重ねて思いついても、めずらしい趣向は得がたくなっていく。たまに思いついても、昔のまねをした趣向ばかりなので、卑しく、くだけた様子である。まして言葉に至っては、言い尽くしてしまったので、めずらしい言葉もなく、目にとまる節もない。特別な秀逸でなければ、5・7・5を詠むと、7・7はおのずと推測できるようなものだ。
ここに、今の人は、歌の様子が代々詠み古されてしまったことを知って、改めて古風に立ち返って、幽玄の歌体を学ぶことが起こってきたのである。これによって、中古の流れを習う人々は、目を見張ってけなしあざける。けれども、本当のところ志は1つなので、名手と秀歌とは、どちらの側にも背くものではない。いわゆる清輔、頼政、俊恵、登蓮などの詠みぶりは、今の世の人も捨てがたいものとしている。今様の姿の歌の中でも、よく詠んだものは、非難する人々も非難することはない。下手な歌に至っては、またどちらもよくない。中頃のたいしたことのない歌を、今の世の歌と並べてみると、化粧した人の中に尼の顔で交じっているのと変わらない。今の世の、まったく詠みこなせていない歌は、あるいはまったく意味がわからない。あるいはひどく悪趣味である。だから、一方に偏ってこだわってはならないことなのです」
尋ねて言うには、
「今の世の歌体を、新しく生まれたもののように思っているのは、誤りなのでしょうか」。
答えて言うには、
「この非難はいわれのないことです。たとえ新しく生まれたとしても、必ずしも悪いはずがない。中国では、決まりのある文体でさえ、時代ごとに改まるのです。この国は小国で、人の心の働きが劣っているので、さまざまなことを昔と違えまいとしているのです。まして、歌は思いを述べ、耳を喜ばせるためのものなので、その時代の人がもてはやし、好むことにまさるものがありましょうか。ましてや、決して今になって巧み出したものではない。『万葉集』までは時代が遠い。『古今和歌集』の歌をよく見分けていない人が、この非難をするのです。あの集の中には、さまざまな歌体がある。そうであるから、中古の姿も『古今和歌集』から出たものだ。この幽玄の様子もこの集から出たものだ。たとえ、今の姿を詠み尽くして、また改まる時代が来るとしても、ふざけた歌までも漏らさず選び載せているので、やはりあの集から外れることはないだろう。これをひたすら耳慣れないものと思ってけなしいやしめるのは、ひとえに中古の歌の様子にとらわれているのです」。
尋ねて言うには、
「この2つの歌体は、どちらが詠みやすく、また秀歌も得られるでしょうか」。
答えて言うには、
「中頃の歌体は、学びやすくて、しかも秀歌は難しいでしょう。言葉が古びていて、しかも趣向だけを肝心とすべきだからです。今の歌体は、習うのが難しくて、よく心得れば詠みやすい。その様子がめずらしいので、姿と心との両方にわたっておもしろみがあるはずだからです」。
尋ねて言うには、
「お聞きしたところでは、どちらもよいものはよく、悪いものは悪いようです。学ぶ者はまた、我こそはと争っています。どのようにして、その優劣を定めればよいのでしょうか」。
答えて言うには、
「必ず優劣を定めなければならないことでしょうか。ただ、どちらの方面でもよく詠んだものをよいと知ればよいのでしょう。ただし、寂蓮入道が申したことがありました。
『この争いには、たやすく決着をつける方法がある。その理由は、書道を習うにも、自分より劣った人の文字はまねしやすく、自分より上手な人の筆跡は習って似せることが難しいと言う。そうであるから、私たちが詠むように詠めと言っても、季経卿や顕昭法師などといった人々は、いくら考えても詠めないだろう。私はあの人々が詠むようには、ただ筆を濡らしてすぐに、たいそううまく書けるだろう。それで決着がつくだろう』と申されました。
人のことは知りません。私自身としては、中頃の人々が大勢集まっておりました歌会に連なって、人々の歌を聞いたときには、自分が思いつかない趣向はたいへん少なかった。自分が続けたものより、これはよかったなどと思われることこそありましたが、少しも思いつかないことはめったにありませんでした。それなのに、御所の御歌会にお仕えしたときには、まったく思いもよらないことばかりを、人それぞれに詠まれたので、この道はもはや底もなく、際限もないものになってしまったのだと、恐ろしく思われました。
だから、何といってもこの歌体を心得ることは、骨法を身につけた人が境地に入り、峠を越えてから、あるべきことなのです。それでさえ、なお外してしまうと、聞き苦しいことが多い。まして、趣向の足りない人が、まだ峰まで登りつかないで、推し量ってまねしたものは、それほどみっともないことはない。化粧はするものだと知って、卑しい身分の女などが、心にまかせていろいろと塗り付けたようなものに思われました。このような類は、自分では作り上げられない。人が詠み捨てた言葉を拾って、その様子をまねるだけなのです。いわゆる『露さびて』『風吹けて』『心の奥』『あはれの底』『月の有明』『風の夕暮』『春のふるさと』などは、初めてめずらしく詠んだときこそよいが、2度目ともなると、何の思いもない言葉の癖ばかりをわずかにまねているようだ。あるいはまた、はっきりしないように心をこめて詠もうとするうちに、しまいには自分でも意味がわからなくなり、まさに無心所着の歌になってしまう。このような類の歌は、幽玄の境地ではない。本当に達磨歌とはこれらをいうべきでしょう」。
尋ねて言うには、
「事情はおおよそわかりました。その幽玄とかいう歌体については、どのようなものとも理解しがたいのです。その様子をうかがいたい」
と言う。
答えて言うには、
「総じて、歌の口伝や髄脳などでも、難しいことは手を取って教えるほどに解説しているけれど、姿に至っては、はっきりと書かれたものはない。まして幽玄の歌体は、まず名前を聞くだけで迷ってしまうにちがいない。私自身もよく理解していないことなので、はっきりとどう申し上げればよいかもわかりませんが、よく境地に入った人々が申された趣旨は、結局はただ言葉に表れない余情、姿に見えない景気であろう。心にも道理が深く、言葉にも優美さが極まれば、これらの徳は自然と備わるのでしょう。
たとえば、秋の夕暮れの空の様子は、色もなく、音もない。どこに、どのような理由があるとも思われないけれど、なんとなく涙がこぼれるようなものである。これを情趣を解さない類の者は、少しもすばらしいと思わない。ただ目に見える花や紅葉ばかりをめでています。また、立派な女性が、恨めしいことがあっても、言葉に表さず、深く耐え忍んでいる様子を、そうなのだとほのかに見つけたのは、言葉を尽くして恨み、袖を絞って泣いて見せるよりも、心苦しく、しみじみと深く感じられるようなものである。これもまた、幼い者などは、こまごまと言わせるほかに、どうして様子を見て察することができよう。つまり、この2つのたとえで、趣向が少なく、心の浅い人には悟りがたいことがわかるだろう。
また、幼い子のかわいらしいのが、片言で、何とも聞き取れないことを言っているのは、たわいないことであっても、いとおしく、聞きどころがあるのに似ていることもあるでしょうか。これらを、どうしてたやすくまねたり、はっきりと言い表したりできようか。ただ、自分で心得るべきことである。また、霧の絶え間から秋の山を眺めると、見える所はほのかだけれど、奥が知りたくなって、どれほど一面に紅葉しておもしろいだろうと限りなく推し量られる面影は、ほとんどはっきりと見るよりもすぐれているにちがいない。
総じて、思いが言葉に表れて、月を曇りないと言い、花をすばらしいとほめることは、何の難しいことがあろう。どこに歌がただの言葉にまさる徳があるといえようか。1つの言葉に多くの道理をこめ、表さないで深い思いを尽くし、見たことのない世のことを面影に浮かべ、卑しいものを借りて優美さを表し、愚かなようでいて霊妙な言葉を極めるからこそ、心も及ばず言葉も足りないときに、これによって思いを述べ、わずか31文字の中に天地を動かす徳を備え、鬼神をもなごませる術となるのです」。
第72段 俊恵歌体を定むること
俊恵が言うには、
「世間で普通のよい歌は、たとえば固文の織物のようなものである。よく優美さのすぐれた歌は、浮文の織物などを見るように、空中に景色が浮かんでいるのである。
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
ほのぼのと明けてゆく明石の浦の朝霧の中に、島に隠れて行く舟をしみじみと思うことだ
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
月は昔の月ではないのか。春は昔の春ではないのか。わが身ひとつだけは、もとのままの身でありながら
これこそは余情が内にこもり、景色が空中に浮かんでいるものです。また、たいした趣向もないけれど、言葉をうまく続けると、自然と姿に飾られて、この徳を備えることもあるはずだ。木工頭(源俊頼)の歌に、
鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮れ
鶉が鳴く真野の入り江の浜風に、尾花が波のように寄せる秋の夕暮れよ
これもまさしく浮文でございましょう。ただし、よい言葉を続けていても、わざわざ求めたようになってしまったものは、また欠点とすべきである。ある人の歌に、
月冴ゆる氷の上に霰降り心砕くる玉川の里
月が冴える氷の上に霰が降って、心も砕けるように思われる玉川の里よ
これは、たとえば庭に石を立てる人が、よい石を据えることができずに、小さな石をいくつも集めて、うまく組み合わせて立てたけれど、どうしても本当の大きな石には劣っているように、わざとらしいのが欠点なのです」。
また言うには、
「匡房卿(大江匡房)の歌に、
白雲と見ゆるにしるしみ吉野の吉野の山の花盛りかも
白雲かと見えるのでそれとわかる。み吉野の吉野の山は、今が花盛りなのだろう
これこそはよい歌の手本と思われます。たいした秀句もなく、飾った言葉もないけれど、姿が整っていてすっきりと言い下して、格調高く雄大なのである。たとえば、白い色が特別な色合いもないのに、さまざまな色にまさっているようなものだ。あらゆることは、極まってすぐれたものは、淡く簡素なのである。この歌体はやさしいようでいて、きわめて難しい。1文字でも違えば、みっともない腰折れの歌になってしまうだろう。何といっても境地に入らないでは詠み出しがたい様子である」。
また言うには、
心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春の気色を
情趣を解する人に見せたいものだ。摂津の国の難波あたりの春の景色を
「これは初めの歌のように、限りなく雄大などではないけれど、優美さが深く、しなやかである。たとえば、能筆の人が書いた仮名の『し』の文字などのようなものである。たいした点も加えず、筆を振るったところもないけれど、ただ穏やかで簡潔で、しかも霊妙なのである」。
また言うには、
思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり
恋しさに耐えかねて恋人のもとへ行くと、冬の夜の川風が寒いので、千鳥が鳴いている
「この歌ほど面影の浮かぶ歌はない。『6月26日の寛算の日でも、これを詠ずると寒くなる』と、ある人は申しておりました。総じて、優美な心や言葉であっても、わざわざ求めたように見えるのは、歌にとって欠点とすべきである。ただ、結ってもいない峰の梢や、染めてもいない野辺の草葉に、春や秋につれてさまざまな花の色を表すように、自然と寄ってくることを、穏やかに言ったようなのが秀歌なのです。歌には故実の体というものがある。よい趣向を思いつかないとき、心の工夫で作り上げる方法を習うのである」
1つには、たいしたことはないけれど、ただ言葉の続き具合をつややかに深く言い流すと、まずまずよく聞こえる。
風の音に秋の夜深く寝覚めして見果てぬ夢の名残をぞ思ふ
風の音に、秋の夜更けに目が覚めて、見終わらなかった夢の名残を思うことだ
1つには、古歌の言葉で無理なものを取って、おもしろく言いなしたのも、またおもしろい。
わが背子をかた待つ宵の秋風は荻の上葉をよきて吹かなむ
夫の訪れをひたすら待つ宵の秋風は、荻の葉の上をよけて吹いてほしい
狩人の朝伏す野辺の草若み隠ろひかねて雉子鳴くなり
狩人が朝に伏して獲物を待つ野辺の草がまだ若いので、隠れきれずに雉が鳴いている
また、聞き心地のよくない言葉をおもしろく続けたものは、ことさら秀句となる。
播磨なる飾磨に染むるあながちに人を恋しと思ふ頃かな
播磨の飾磨で染める布が色濃く染まるように、ひたすらに人を恋しいと思うこの頃であることよ
思ひ草葉末に結ぶ白露のたまたまきては手にもたまらず
思い草の葉先に結ぶ白露のように、たまたまやって来ても、手にもたまらず消えてしまう
1つには、秀句ではあるけれど、ただ言葉の使い方をおもしろく続けたので、また見どころがある。
あさてほすあづま乙女の萱筵敷き忍びても過ぐす頃かな
麻を手で干す東国の乙女の萱の筵を敷くように、ひたすら耐え忍んで過ごすこの頃であることよ
葦の屋の賤機帯の片結び心やすくもうち解くるかな
葦葺きの家の粗末な機織りの帯の片結びのように、気安くも打ち解けることよ
今ははや天の戸渡る月の舟また村雲に島隠れすな
今はもう、天の門を渡る月の舟よ、また群雲の中に島隠れするように隠れないでおくれ
第73段 名所を取る様
1つには、名所を取り入れる故実がある。国々の歌枕は、数え切れないほど多いけれど、その歌の姿に従って詠むべきところがあるのである。たとえば、庭園を造るのに、松を植えるべき所には岩を立て池を掘り、花を咲かせるべき所には山を築いて眺望を作るように、その場所の名によって歌の姿を飾るべきである。これらは、たいへん大切な口伝である。もし、歌の姿と名所とがかみ合わなくなってしまうと、ちぐはぐなようで、すばらしい趣向があっても、破綻して聞こえるのである。
よそにのみ見てややみなん葛城の高間の山の峰の白雲
よそ目にばかり見て終わってしまうのだろうか。葛城の高間の山の峰にかかる白雲のように遠いあの人を
照射する宮城が原の下露に花摺衣乾く間ぞなき
照射をする宮城野の原の下露に濡れて、萩の花で摺った衣が乾く間もないことよ
東路を朝立ち来れば葛飾や真間の継橋霞わたれり
東国への道を朝に旅立って来ると、葛飾の真間の継ぎ橋に霞が一面にかかっている
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
夕方になると、野辺を吹く秋風が身にしみて、鶉が鳴いているようだ、この深草の里では
初めの歌は、姿がすっきりとして雄大なので、高間の山が特によく合って聞こえる。照射の歌は、言葉の使い方が優美なので、宮城野の原を思いついたのである。東国への道の歌は、ひたすら思うところのある歌体なので、葛飾・真間の継ぎ橋が、なるほどとふさわしく聞こえる。秋風の歌は、もの寂しい姿なので、深草の里が特によく合っている。言い尽くして書くべきではない。これらで心得るがよい。
第74段 新古の歌
1つには、古歌を取ることにも、また方法がある。古い歌の中で、おもしろい言葉で、自分の歌に取り入れると飾りになりそうなものを取って、うまく続けるべきである。たとえば、
夏か秋か問へど白玉岩根より離れて落つる谷川の水
夏か秋かと問うても答えずに、白玉のような水しぶきとなって岩から離れて落ちていく谷川の水よ
これらが手本となる歌体である。それなのに、古歌を盗み取るのは1つの故実だとばかり知って、よしあしの言葉も見分けず、むやみに取って、おかしな具合に続けるのは、残念なことである。何といっても、はっきりと取るべきである。中途半端に隠しているのは、たいへんよくない。
また、古歌から、特別な秀句を取ってはならない。なにげなく隠れている言葉で、おもしろく作り変えられそうなものを見計らうことが大切なのである。ある人が、「空に知られぬ雪ぞ降りける」という古歌の言葉を取って、月の歌に、「水に知られぬ氷なりけり」と詠んだのを、「これこそ本当の盗みだ。それなりの身分の者が、人の衣を盗んで、小袖に仕立て直して着ているように思われる」と、人が申しました。
また、御所の御歌合で、「暁の鹿」を詠みましたとき、
今来んと妻や契りし長月の有明の月に牡鹿鳴くなり
すぐに来ようと妻と約束したのだろうか。9月の有明の月の下で、雄鹿が鳴いている
この歌は「歌の様子が優美だ」ということで勝ちました。けれども、藤原定家朝臣が、その場で非難された。
「あの素性の歌と、わずか2句が変わっているだけです。このように多くが似ている歌は、その句を置きかえて、上の句を下にするなど、作り改めるのがよいのです。これはただもとの位置のままで、第2句と結句だけが変わっているのは、欠点とすべきです」
とのことでした。
第75段 仮名の筆
昔の人が言うには、
「仮名で物を書くには、歌の序は『古今和歌集』の仮名序を手本とする。日記は『大鏡』の書きぶりを習う。和歌の言葉は『伊勢物語』と『後撰和歌集』の歌の言葉をまねる。物語は『源氏物語』にまさるものはない。みなこれらを考えて書くべきである。
いずれにしても、決して漢語の言葉を書くまいとするのである。心の及ぶ限りは、何とかして和らげて書いて、どうしようもないところは漢字で書く。それについては、撥ねる音の文字や入声の文字の書きにくいものなどは、みな省いて書くのである。『万葉集』では、新羅を『しら』と書いている。『古今和歌集』の序では、喜撰を『きせ』と書く。これらはみなその証拠である。
また、言葉の飾りを求めて対句を好んで書いてはならない。ほんの少し自然に寄ってくるところだけを書くのである。対句をむやみに書くと、漢文に似て、仮名の本意ではない。これは悪い時代のやり方である。あの『古今和歌集』の序で、『花に鳴く鶯、水に棲む蛙』などのように、避けられないところだけを自然に彩っているのがすばらしいのである。言葉のついでというのは、『菅の根の長き夜』とも、『こゆるぎの急ぎて』とも、『石の上古りぬる』などというようなことを、あるいは古いものを取り、あるいはめずらしく巧みなように作り変えるべきである」。
勝命が言うには、
「仮名で物を書くことでは、藤原清輔がたいへんな名手である。中でも、初めての影供の日記は、たいそうおもしろく書いている。『花の下に花の客人来たり。柿の下に柿本の影をかけたり』とあるところなど、特に目を引く。仮名の対句は、このように書くべきなのである」。
第76段 諸の波の名
波の名はたくさんある。範綱入道(藤原範綱)が言ったと言って人が語ったことには、
「おなみ、さなみ、ささらなみ、はうのてかえし、はまならし、という。みなこれは波の名である」
と言ったけれども、どのようなものをそう言うのかとは、区別しては言わなかった。これは、その国のその土地で言うことなのでしょうか。歌などでは、まったく見たことがありません。顕昭に尋ねましたところ、
「さなみ、さざなみ、ささらなみ、ということがある。これはみな小さな波の名である。言葉を広げたり略したりしたものなので、時に応じて用いるのである」
と申しましたが、筑紫のしまとという所に通う者が、何かのついでに語りましたことには、
「筑紫のうちで南の方、大隅、薩摩のあたりの、どこの国だったか忘れました。大きな港があります。そこでは、4月、5月には朝晩波が立って、静まる間もありません。4月に立つ波を『うなみ』と言い、5月に立つ波を『さなみ』と申します」
と言った。卯月、皐月というからだろうか。たいへんおもしろいことである。
第77段 あさり・いさりの差別
ある人が言うには、
「あさりと言い、いさりと言うのは、同じことである。そのうえで、朝にするのを『あさり』と名付け、夕方にするのを『いさり』と言っている。これは東国の漁師の言い習わしである」
ということだ。本当におもしろいことである。
第78段 五月五日かつみを葺くこと
ある人が言うには、
「橘為仲が陸奥の国の国司として下ったとき、5月5日に家ごとに菰を葺いていたので、不思議に思ってこれを尋ねた。そのとき役所の役人が言うには、
『この国では、昔から、今日菖蒲を葺くということを知りませんでした。それなのに、亡くなった中将のお館様の御代に、「今日は菖蒲を葺くものだ。探して葺け」とおっしゃったので、この国には菖蒲がないということを申し上げました。そのとき、「それなら、安積の沼の花かつみというものがあるだろう、それを葺け」とおっしゃってから、このように葺き始めたのです』
と言った。中将のお館様というのは、藤原実方朝臣である」。
第79段 為仲宮城野の萩を掘りて上ること
この為仲が、任期が終わって都に上ったとき、宮城野の萩を掘り取って、長櫃12個に入れて持って上ったので、人々は広く聞き伝えて、京へ入った日には二条大路でこれを見物しようと、人が大勢集まって、車などもたくさん止まっていたということだ。
第80段 頼実が数寄のこと
左衛門尉で蔵人の頼実(源頼実)は、たいへんな風流人である。和歌に志が深くて、
「5年分の命を差し上げましょう。秀歌を詠ませてください」
と住吉の神に祈り申し上げた。その後、何年かたって、重い病気にかかったとき、命が助かるための祈りなどをしていたところ、家にいた女に住吉の明神が乗り移りなさって、
「以前に祈り申したことを忘れたのか。
木の葉散る宿は聞き分くことぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も
木の葉が散る宿では聞き分けることができない、時雨の降る夜も、時雨の降らない夜も
という秀歌を詠ませたのは、お前が信心を尽くして、私に願いを申し上げたからである。だから、このたびは、どうしても生き延びることはできないのだ」
とおっしゃった。
第81段 業平髻切らるること
ある人が言うには、
「在原業平朝臣が、二条の后(藤原高子)がまだ臣下の娘でいらっしゃったとき、盗み出して連れて行ったところ、后の兄たちに取り返されたということが、物語に書かれている。このことは、また『日本紀式』にもある。事の次第は、あの物語に書いてあるとおりであるが、后を迎え返したとき、兄たちはその怒りを静めがたくて、業平朝臣の髻を切ってしまった。けれども、誰のためにもよくないことなので、人にも知らせず、自分の心ひとつに収めて過ごしていたが、業平朝臣は、髪を伸ばそうとして、引きこもっていた間に、歌枕を見ようと風流にかこつけて、東国の方へ行ってしまった」
第82段 小野とはいはじといふこと
「陸奥の国に着いて、かそしまという所に泊まった夜、野の中で歌の上の句を詠ずる声がする。その言葉は、
秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
秋風が吹くにつけても、ああ目が痛い、ああ目が痛い
と言う。不思議に思って、声をたどりながらこれを探すと、まったく人はいない。ただ死人の頭が1つある。翌朝になって改めてこれを見ると、そのどくろの目の穴から、すすきが1本生え出ていた。そのすすきが風になびく音がこのように聞こえたので、不思議に思って、あたりの人にこのことを尋ねる。ある人が語って言うには、
『小野小町がこの国に下って、この所で命が尽きました。つまり、あの頭がそれです』
と言う。そこで業平は、しみじみと悲しく思われたので、涙をこらえながら下の句を付けた。
小野とはいはじ薄生ひけり
小野とは言うまい、すすきが生えているだけの野だ
と付けた。その野を玉造と言った」
とのことです。
玉造の小町と小野小町とは同じ人か、別人かと、人々が不確かなことだと申して争いましたとき、ある人が語ったのです。
第83段 とこねのこと
ある人が言うには、
「ある歌合で、五月雨の歌に、『小屋の床寝も浮きぬべきかな』と詠んだ。ところが、清輔朝臣が判者で、『床寝という言葉は聞き心地がよくない』と言って負けにした。この道の博士であるけれども、このことはがっかりさせられる。『後撰和歌集』に、
竹近く夜床寝はせじ鶯の鳴く声聞けば朝寝せられず
竹の近くで寝床に寝ることはするまい。鶯の鳴く声を聞くと、朝寝もしていられないから
と詠んでいる。この歌を覚えていなかったのだろうか」
という。
この非難は、たいへんつたない。総じて和歌の歌体を理解していないのである。その理由は、歌の習いとして、時代に従って用いる姿があり、賞賛する言葉がある。だから、古い歌集の歌だからといって、みなすばらしいと仰ぐべきではない。これは古い歌集を軽んじるのではない。時代の風が異なるからである。そうであるから、古い歌集の中にはさまざまな姿や言葉があって、一様ではない。その中で、今の世の風に合うものを見計らって、これを手本として、一方ではその歌体を習い、一方ではその言葉を取り入れるべきなのである。あの『後撰和歌集』の歌は、今の時代なら勅撰集に入るはずもない。題を賞賛しないのは、歌の大きな欠点である。並々の秀逸でなければ、これを許さない。次に、「夜床寝はせじ」と言い、「朝寝せられず」と言っているのは、姿も言葉もよくない。それなのに、あの「夜床寝」という、たいしたことのない言葉を取って、さらに「夜」の字を略して「床寝」と言ったのは、本当に変わった言葉である。これを『後撰和歌集』の威光を借りて、見当違いの非難だと思うのは、この道によく通じていないのである。



