秋の気配が深まり、土御門殿の邸は、言いようもなく風情があった。池のほとりの梢や遣水に沿った草むらは、それぞれに色づき始め、今日この頃の空が美しいのに引き立てられて、絶え間のない安産読経の声が響き渡って、ますますあわれを感じた。ようやく風が涼しくなり、例の絶え間ない遣水の音が夜通し読経の声にまじって聞こえた。
宮様にあっては、女房たちのとりとめのない話を聞いても、身重な体で苦しいに違いないのだが、さりげなくされてそのことを感じさせない様子が立派なのはいうまでもなく、憂き世の慰めには、こんなお方にお仕えすべきで、平常の気持ちと違って、例えようもなく一切の憂さが消えてしまうのも、不思議だ。
まだ夜も深く月も曇り、木の下も暗いときに、「格子を上げたいね」「女官はまだ出仕していないでしょう」「蔵人に上げさしたら」など言い合っているうち、後夜の鐘が鳴って驚き、五壇の御修法が始まった。われもわれもと張り上げた僧たちの声が、遠く近くに聞こえて、重々しく尊い。
観音院の僧正が、東の対で二十人ほどの僧たちを率いて、加持に参上する足音、渡殿の橋をどんどんと踏み鳴らして渡るさまは、普通ではない。法住寺の座主は馬場に面した殿舎、浄土寺の僧都は書庫を控室にして、おそろいの浄衣姿で趣向をこらした唐橋を渡って、木の間を通って帰る様子もずっと遠くまで見える心地がして、さいき阿闍梨も大威徳を敬って、腰をかがめて拝礼している。女房たちが出仕してくると、夜が明ける。
渡殿の戸口の局から見れば、朝霧の露もまだ残っているのに、道長様が歩いていて、随身を呼んで、遣水が通るように手入れさせた。橋の南の女郎花が今が盛りと咲いているのを、一枝折って、わたしの几帳の上から覗いている様子が、とても立派なお姿なので、起きたままの素顔が恥ずかしく思っていると、「この和歌遅かったら、興覚めでしょう」というので、硯の処に急いだ。女郎花が今が盛りと露をおいて咲いています 露は別け隔てしてわが身においてくれません(一) 「さすが、早いこと」と、ほほ笑んで、硯を求める。白露は分け隔てしないでしょう 女郎花は自ずから咲き誇っているのでしょう(二)
しっとりした夕暮れ、宰相の君と二人で話をしていた時、道長様の子息の頼通様が簾の下を持ち上げた。年の頃よりは大人びて、奥ゆかしい様をして、「女はなんといっても心ばえでしょう。難しいようですが」など、男女の物語を、しんみり話をする様子は、幼いと人が軽く見るのは間違いで、とても立派に見える。打ち解けた話にならない程度に 「多かる野辺に」と口ずさんでお立ちになったのは、物語でよくほめる男の様だ。この程度のことを思い出すのも、その時は面白いと思ったことも、過ぎてしまえば忘れてしまうのは、どういうことだろう。
播磨の守が、碁の負けわざで饗応したとき、わたしはちょっと里にさがっていて、あとで見せてもらったのですが、盤など拝見すると、華足など奥ゆかしくて、作り物の洲浜の水辺においてあった。紀伊の国の白良の浜で拾ったという この石こそは御代末永く巌となりますように(三) 扇なども、趣向を凝らしたものを、その頃の人は持っていた。
お産も近い八月二十余日ころからは、上達部、殿上人は、宿直すべき人はみな泊まることが多く、橋の上や対の屋の簀子に仮寝して、とりとめのない演奏をしたりして夜を明かした。琴、笛などまだうまく習熟していない若人たちが、読経を競ったり、今様のはやり歌なども、その時は面白かった。宮の大夫斉信ただのぶ様、左の宰相中将の経房よしふさ様、右衛門督様、美濃守の少将様、などが一緒に演奏して遊ぶ夜もあった。表立った管弦の遊びは、道長様にお考えがあるのだろう、させなかった。
長年里帰りしていた人々が、ご無沙汰を思い出して、参上するときはにぎやかで、そんな時は邸もざわついていた。
八月二十六日、薫物の調合が終わって、中宮様は女房たちにお分けになる。薫物を丸めていた女房たちはたくさんいた。
中宮様の御前から下がる途中で、弁の宰相の君の戸口を覗くと、昼寝の最中だった。萩・紫苑などいろいろな色目の衣に、濃い紅の砧を打った艶のある袿をかけて、顔は埋めて、硯の箱を枕にして、寝ている姿が、とても美しくかわいらしかった。絵にかいた姫君の様だったので、口もとの覆いを引くと、「物語の女のようだわ」と言うと、宰相の君は見上げて、「なんて馬鹿なことをするのよ。寝てる人をいきなり起こすなんて」といって、少し起きあがった顔が赤みを帯びて、ととのって美しかった。平素から美しい人なので、こんな折、さらに美しく見えたのだった。
九日、菊の綿を兵部のおもとが持ってきて、「これは殿の北の方から特別にあなたにとのことです。『よく老いをぬぐい捨てなさい』と仰せです」とあったので、 菊の露は若返る程度に袖にふれて 千代の寿命はあるじに譲りましょう(四) と、歌でお返ししようとしましたが、「あちらにお帰りになりました」となったので、役に立たずとりやめになった。
その日の夜、中宮様の御前に参れば、月が美しく照り、端の方に、御簾の下から裳の裾をのぞかせて、小少将の君、大納言の君などが侍していた。香炉に火を入れて先日の薫物を取り出して、試してみた。御前の庭の美しさや蔦が色づかない待ち遠しさ、など口々に話をするに、中宮様ががいつもより苦しそうなので、加持をする時刻でもあり、落ち着かない気持ちでお傍に寄った。
人が呼ぶので、局に下がって、少し休もうとしたが、寝てしまった。夜中に、産気づいて騒がしくなった。
十日の、明け方、装いがすっかり変わった。。中宮様は白い御帳に移る。道長様をはじめ、君達、四位五位たちが騒いで、御帷のかたびらかけ、ご座を取り違えたりして大騒ぎだった。中宮様は一日中、不安げに起きたり臥したりして過ごした。
物の怪を駆り出そうと、大声でののしる。日頃から邸にいる僧はもとより、山々寺々を尋ねて験者といわれる人々はすべて集めて祈祷するので、三世の仏たちも呼びたてられてどんなに急いで飛んでいることか。陰陽師も、世にいる限りを集めて、祈らせるので八百万の神々も聞き耳を立ないはずはないだろうと思われる。
安産祈願で読経を頼む寺々への布施の使者たちも騒がしく、その夜は明けた。
御帷の東の間には、内裏から派遣された女房たちが集まっている。西の間は、物の怪が移った人たちが集まっていて、屏風一具で囲み入り口には几帳を立てて憑人一人ひとりに験者がついて大声を上げている。南側の間には、極めて尊い僧正、僧都が重なるように並びいて、不道明王を生きたまま呼び出そうとするかのように、頼んだり恨んだり声をからして唱える様は尊く聞こえる。北側の御帷と障子の間の狭い所に、後で数えたら四十余人ばかりいた。身じろぎもできず、のぼせて息もつまりそうだ。遅れて里から戻った人は、なかなか中に入れない。裳の裾、衣の袖がどこにあるか分からない、しかるべき年輩の女房たちは、中宮様の身を案じて忍んで泣きまどった。
十一日の明け方、北の障子を二間開け放って、中宮様は廂の間に移られた。御簾を掛けるわけにはいかないので、几帳を重ねてならべる。僧正、定済僧都、法務僧都などが伺候して加持を行う。院源僧都は、道長様が昨日書かれた願文に、尊い言葉を書き加えて、読み上げた言葉がとて尊く頼もしいこと限りなく、道長様が一緒になって仏の加護を祈念する姿が頼もしく、いくら何でも大丈夫だろうと思うものの、とても悲しくなり皆涙をとめることができず、 「縁起が悪いから、そんなに泣かないで」 など互に言いながらも涙をとめることができない。
さらに、この後ろの際に、几帳を立て、内侍の中務の乳母、姫君の少納言の乳母、いと姫君の小式部の乳母など押し入って、帳二つの後ろの細道は人が通れない。すれ違いに行き来しても顔も見分けられない。殿の子息たちや、宰相中将の兼隆様、四位の少将の雅通様、宮の大夫など、いつもは親しくない人々まで、御几帳の上から時々覗いて、わたしたちの泣きはらした目を見るので、恥も忘れた。頭のうえには、邪気を払う米が雪のようにまかれ、くしゃくしゃになった衣の見苦しかったことも、後で考えるとおかしかった。
中宮様の頭のてっぺんの髪を少しおろして受戒させるほど、すっかり動揺して、どうしたことか、とても悲しんでいるさなかに、安らかに出産されて、後産のことがまだすまない間は、これほど広い母屋、南の廂の間、簀子すのこの高欄こうらんにまで立て込んだ僧や俗人たちはもう一度声を張り上げて、額を床につけて礼拝する。
東の廂の間の女房たちは、殿上人に交ったようになって、小中将の君は、左の頭中将と鉢合せしそうになって、茫然とした様子を、のちに人に話して笑う。化粧などきちんとして上品で美しい人の、暁に化粧したのを、泣き腫れて、涙にくずれて、あきれるほどで、その人とも見えない。宰相の君が顔が変わった様子など、たいへん珍しいものです。ましてわたしなどどうなっていたでしょう。けれど、その時会った人の有様はお互いに覚えていないのは、いい具合だった。
今お産みになるという時は、物の怪がくやしがりののしる声は恐ろしかった。源の蔵人の憑人よりましには心誉阿闍梨、兵衛の蔵人の憑人には妙尊といふ人、右近の蔵人のには法住寺の律師、宮の内侍の局には千算阿闍梨をつけて、阿闍梨が物の怪に引き倒されて、気の毒だったので、念覚阿闍梨をさらに呼んで祈祷させた。阿闍梨の祈祷の効験が薄いのではない、物の怪がとても手ごわいからだ。宰相の君の係に叡効を加えて、一晩中ののしり明かして、声も涸れてしまった。物の怪が移るように召しだした憑人よりましにもみな移らないで、騒がしかった。
午の時にお生まれになる。空が晴れて朝日が出た心地がした。安産であるうれしさに、その上男だった喜びがどうして平静でいられよう。昨日までは涙にくれ、今朝は、亡きあかした女房たちは、みな局にさがって休む。御前には、年輩の女房たちで、こんな折に相応しい者がお仕えする。
殿も北の方も、あちらにさがって、月ごろ、修法、読経に勤め、昨日今日参上してくれた僧の布施を賜い、医師、陰陽師など、それぞれの方面で効験あった者に禄を賜い、内には御湯殿の儀式の準備をさせているのだろう。
女房たちの局では、晴れ着を入れた大きな袋や包みを実家から持ってくる者たちが出入りし、唐衣の刺繍や、裳のくみ紐、螺鈿入りの縫いものなど、人に見せないように隠して、 「扇は来てないか」など言い交しながら化粧をしている。
いつものように、渡殿から寝殿を見れば、 宮の大夫、春宮の大夫など、その他の上達部もたくさんいた。道長様は、お出でましになり、日頃つまった遣水の手入れを指図される。人々の気色はうれしそうだ。心の内で悩みがある人も、今は忘れてしまいそうな邸の雰囲気のなかで、宮の大夫はとりわけ得意げであるというのではないが、人よりうれしそうなのが自ずから表れているのも当然だろう。右の宰相中将は権中納言と楽しそうにして、簀子の間にいた。
内裏から、御佩刀を持って、頭中将の頼定が参上。今日伊勢へ奉幣使が行く日、帰っても殿上に昇れないので、立って、安産の奏上をするよう、殿は指図する。禄なども賜ったがそれは見ていない。
臍の緒を切るのは殿の北の方。乳つけは橘の三位徳子。乳母は以前からお仕えしている大左衛門のおもとがお仕えする。彼女は備中守道の朝臣の娘、蔵人の弁の妻だ。
湯殿の儀は、酉の時に行われた。火を灯して、中宮のしもべが緑の衣の上に白い袍を着て、湯を持ってくる。桶を据えた台など、みな白でおおっている。尾張守知光と宮の侍の長の仲信がかついで御簾まで運んだ。湯係が二人、清子の命婦と播磨が取り次ぎ湯加減をして、女房二人、大木工と右馬に手渡して、お湯を御瓮ほとぎ十六に注ぎ、余りは浴槽に入れる。薄物の表着、かとりの裳、唐衣、釵子さして、白き元結にしている。頭つき映えて美しい。
湯殿役は宰相の君、脇に大納言の君<源廉子>。湯巻姿が、いつもと違い風情がある。
道長の子息二人が、源少将雅通などと、散米を大声でまいて騒ぎ、自分が大きい声だと争っている。浄土寺の僧護身がやって来て、頭にも目にも当たるので、扇で防いで若い人に笑われる。
文読む博士の蔵人弁広業は高欄の処に立って、『史記』の一巻を読む。弦打ち二十人、五位十人、六位十人、二列になって並んでいた。
夕刻の湯殿も、仕来たりを守ってやっている。儀式も同じだ。文の博士だけは交代している。伊勢守致時の博士は、例によって『孝経』を読むのだろう。又挙周は、『史記』文帝の巻を読むのだろう。替わ替わる七日のほど奉仕する。
すべてが白い中宮の御前では、女房の容姿や色合いまで、はっきり現れる状態を見ると、墨絵に髪を描いたようにも見える。わたしはとてもおもはゆく、恥ずかしかったので、昼には御前に出仕せず、局でゆっくりして、東の対から参上する女房たちを見ると、禁色をゆるされた女房は織物の唐衣に、同じく袿うちかけを着ているので、美しいのだが、各自の色が出ていない。禁色の女房も、少し年配のひとは、見っともないことはしまいと思って、美しい三重五重の袿に、表着は織物、無紋の唐衣を地味に着て、襲かさねに綾や羅うすもの着ている人もいる。扇なども、見た目に仰々しくきらきらしないで、趣があるようにしている。詩文なども、相談したようなのも、各自のものと思っていたが、年齢が同じくらいの者は、同じ詩文だった。人の心の、負けまいとする気持ちが表れている。裳や唐衣の刺繍はいうまでもなく、袖口に縁取りをつけ、裳の縫い目に白金の糸を伏組にして、箔の飾りを綾の紋につけ、扇などは白一色なので、雪深い山のなかで月の明かりに照らされた心地がし、きらきらしてどれが誰か分からず、ちょうど鏡をかけたようだった。
三日の夜は、中宮職の宮司や大夫はじめ一同が、産養いをお祝いする。中宮職の右衛門の督の斉信が御祝膳を用意したが、 沈の懸盤じんのかけばんや白金の皿などは詳しく見ていない。源中納言の権大夫俊賢と藤宰相の権亮実成さねなりはともに、御衣、御襁褓、衣筥の折立、入帷子、包、覆、下机などを用意して、すべてが白で同じようであるが、人々のやり方にはそれぞれ工夫が凝らしてある。近江の守がその他膳部ぜんぱんを担当したのだろうか。東の対の西の廂の間は公卿たちの座で、北を上として二列に並べ、南の廂の間は殿上人たちの座で、西が上だ。白い綾の屏風が、母屋との間を仕切るべく、御簾に添えて、外向きに立てている。
五日の夜は、道長様主催の産養いだった。十五日の月は曇りなく晴れ、池の近く、篝火を木の下に灯し、屯食を並べて供した。下賤の者たちが喋ったり歩いたりする様子にも、晴れがまし気だ。主殿寮の役人が、松明を持って、懸命に明るくしているので、昼のようだが、あちこちの岩の影や木の元に群れている上達部の随身のような者たちも、互に話し合っていることは、こんな世の中の光の誕生に、陰ながらお待ちしていたことに、出会えた喜びに自ずと笑みがこぼれている。まして、土御門家の家人たちは、五位など物の数にもはいらぬ者も、忙しそうに腰をかがめて行き交い、良い時に出会ったという顔つきだ。
中宮に食膳を差し上げるということで、女房八人、白一色で、髪上げをし、元結して、白銀の盤を捧げて次々と参上する。今宵の給仕役は、中宮の内侍で、堂々として、華やかな姿で、元結した髪の下がりばな、いつもより好ましく、扇からはずれた横顔などとても美しかった。髪上げした女房は、源式部(加賀守源重文の娘)、小左衛門(故備中守橘道時の娘)、小兵衛(左京大夫源明理の娘と言った)、大輔(伊勢斎主大中臣輔親の娘)、大馬(左衛門大輔藤原頼信の娘)、小馬(左衛門佐高階道順の娘)、小兵部(蔵人である藤原庶政の娘)、小木工(木工允平文義と言います人の娘である)、みな容貌などすぐれた若人で、向かい合って並んでいた様子は、見る甲斐があった。いつも、中宮様に食膳をさし上げるときは、髪あげするのだが、こんな特別の機会なので、道長様が自ら選んだ者たちだが、つらい、大変だと泣いたりして、困ったことだった。
食膳が終わって、女房たちは、御簾を出てきた。火影にきらきら見えたが、大式部のおもとの裳、唐衣は、小塩山の小松原を刺繍しているのは、気が利いている。大式部は陸奥の守の妻で、この邸の宣旨だった。大輔の命婦は、唐衣には何もせず、裳を白金の泥であざやかに大海の波の模様を摺っているのは、派手ではないが、見た目に感じがよい。弁の内侍の、裳に白金の洲浜に鶴を立たせているのは、斬新だ。裳の刺繍も、松を配して、鶴と齢の長さを競わせているのは才気が感じられる。少将のおもとの、これらには劣る銀箔を使っているのを、人々は口うるさい。少将のおもとというのは、信濃の守佐光の妹で、邸の古参だ。その夜の中宮の御前の様子は、人に見せたかったので、夜居の僧がいる屏風を押し開けて、 「この世では、こんなに素晴らしいことは、またと見ることはできないでしょう」 と言うと、 「ああ、ありがたい、ありがたい」 と本尊を措いて、手をすって喜ぶのだった。
上達部たちは、座を立ち渡殿に来る。殿を始め攤を打ちはじめた。高貴な方々が賭け事で争うのは見苦しい。
詠歌のことがあって、 「女房よ、盃を受けて歌を詠みなさい」などと言われたら、どう詠んだらいいのだろう、とめいめいが口に出して試みる。若宮ご誕生の祝いの盃は望月に照らされ 世々に渡り千代にめぐってゆくでしょう(五) 「四条大納言に歌をだす時は、歌もさることながら、誦詠のやり方まで、気をつけなければ」 など、言い合っているうち、なにやかやと、夜もふけたので、特に盃もなくて退出された。禄などは、上達部には女の装束に若君の衣、襁褓がついていただろうか。殿上人の四位には、袷一揃いと、袴、五位は袿一揃い、六位は袴一揃いだったようだ。
またの夜、月が美しい。時候もよいので、若い女房たちは舟に乗って遊ぶ。色々な衣裳をつけているよりも、白一色の装束の方が、姿や髪の具合がはっきり見える。小大輔、源式部、宮城の侍従、五節の弁、右近、小兵衛、小衛門、馬、やすらひ、伊勢人などが端近くいたので、左宰相中将の君と、殿の子息の中将の君が誘い出して、右宰相中将の君に棹ささせて、舟に乗せたのだった。一部の女房は残ったが、さすがにうらやましかったのだろう外を眺めて座っていた。白砂の庭に、月明かりが当たって、女房たちの姿や容貌も風情ある様だった。
北門に牛車がたくさん集まったのは、内裏の女房たちがきたのだ。藤三位をはじめ、侍従の命婦、藤少将の命婦、馬の命婦、左近の命婦、筑前の命婦、少輔の命婦、近江の命婦だったと聞いている。詳しく知らないひとたちなので、間違っていることもあるだろう。舟の女房たちはあわてて邸に入った。殿が出てきて、しごくご満悦で、歓待し冗談を言っている。贈物は、身分に応じて賜った。
七日目の夜は、朝廷の御産湯だった。蔵人少将が使いにきて、数々の御下賜品ごかしひんを書いた文を柳筥に入れてやって来た。中宮は目を通されて、すぐに係にお返しになる。勧学院の学生たちが列をなして、歩いてくる。参加者の名簿を御覧にいれ、お祝い申し上げる。中宮は目を通されて係にお返しになる。禄もお与えになったようだ。
今宵の儀式は、格別に盛大で、騒ぎも大きい。御簾の内を覗いてみましたら、中宮様は国の親とも騒がれているが、格式ばった気色にも見えず、少し具合が悪そうで、面やせて休まれている御様子は、いつもより弱々し気で若く美しかった。小さい灯篭を御簾の中にかけていたので、隅々まで明るく一段と美しいお顔が、限りなくきれいで、多すぎるほどの髪を結っているので、一層美しさがまさるのだろうと思う。こう書き連ねるのも、今さらと思われるので、これ以上書きません。
おおよそのところは、先夜と同じだ。上達部への禄は、御簾の内からなされ、女装束、若宮の御衣を添えて出した。殿上人への禄は、蔵人頭二人をはじめ、寄ってきて受け取る。朝廷からの禄は、大袿おおうちき、衾ふすま、腰差こしざしなど、いつもの公式のものだろう。乳付けに奉仕した橘の三位への禄は、例の女の装束に、織物の細長を添えて、白金の衣筥・包みも、同じく白いものだったか。また包んだ品物を添えて賜ったなどと後から聞きました。詳しくは見ていません。
八日目からは、女房たちは平常にもどり、色とりどりの衣装になった。
九日の夜は、春宮権大夫が産養いのお祝いをした。白い逗子一揃いを据えた。儀式は変わっていて今風だ。白銀の衣裳箱に海賦模様を打ち出して、蓬莱山は珍しくないが、今めかしく精巧ですばらしく、ひとつづつとりたてて、ここに表し尽くせないのが残念です。
今宵は、おもて朽木形の几帳で、いつものように、人々は濃いうち物を上に着ている。新鮮に感じ、魅力があり、美しい。透いた唐衣などの下に、つややかにはっきり見える。それぞれの人の姿も鮮やかに見える。
こまのおもとという人が恥をかいた夜だった。
中宮は十月十余日まで御帳を出なかった。西側の御座にわたしは、夜も昼も控えていた。殿が夜中にも明け方にも若宮のところにくる。乳母の懐をさぐるので、気をゆるして寝ている時などは、寝ぼけて目が覚めてしまうのが、気の毒だった。首もすわらない若宮を満足そうに高くさし上げるのも、当然ですばらしいことだ。ある時は、おしっこをされたので、直衣の紐を解いて、几帳の後ろであぶっていた。「あわれ、この宮の尿しとに濡れるのは、うれしいことだ。濡れてあぶっていると、望みがかなった思いだ」と喜んだ。
中務の宮具平親王家との縁談には熱心で、わたしも宮家に関係ある者と見られて、殿が相談されるのも、あれこれと思案にくれることが多かった。
行幸が近くなり、邸を一段と手入れしさせてきれいにする。世に珍しい菊を探しだして、掘ってきて移植する。様々に色変わりするが、黄色が見どころがあり、色々と植えているが、朝霧の絶え間に見ていると、実に老いも退く心地がするのだが、どうしたことか、もし、悩みごとが、並み一通りのものだったら、色めいたり若やいだりして、この無常の世を過ごしていくだろうが、めでたきことやおめでたいことを見ても聞いても、ただ自分の心の思いに引かれてもの憂く、嘆かわしいことがまさるのが苦しい。どうにかして今はすべてを忘れよう、思っても甲斐ないことだし、罪障も深いだろうと、明け方になって、水鳥たちが何の屈託もなく遊んでいるのを眺めている。水鳥が水の上で浮いているよとよそごとに見れるだろうか わたしもこの憂き世を浮いて過ごしているのに (六) 水鳥も楽しく遊んでいると見えるが、内心は苦しいのだろう、とわが身に替えて思ってしまう。
小少将の君が文をくれたその返事に、時雨がさっときて空も暗くなり、使いも急いでいた。「わたしも空の気色もざわついた心地がして」と、腰折れ歌を書いて渡した。暗くなって、また文が来て、ぼかした濃染紙に 雲間なく眺める空は暗くなり 時雨れは何を偲んで降っているのでしょうか(七) 先に書いた歌は覚えていない、 時雨れはその時がきたので降っているのです あなたのことを思いわたしも時雨れています (八)
その日は、新しく造った舟を岸に寄せて、殿は御覧になる。龍頭や鷁首が生きているように思われて、あざやかだ。行幸は御前八時頃ということで、まだ夜明け前から女房たちは化粧をし気を使う。上達部の席は西の対なので、東の対のこちらは騒がしくない。あちらの内侍の督の御殿では、女房たちの衣裳も、大そう念入りに整えたようだ。
御簾の中を見れば、禁色をゆるされた女房たちは、例の青色、赤色の唐衣に地摺りの裳をつけ、表着は一様に蘇芳すほうの織物だった。ただ馬の中将だけは、葡萄染めを着ていた。打衣はそれぞれで、濃い薄い紅葉が交ったり、内側に着こんだ衣は、いつものくちなし襲かさねの濃いのや薄いのや、裏を青くした菊襲や、もしくは三枚重ねを着たり、それぞれの思いがある。
綾が許されていない、年輩の女房は、唐衣は無紋の青色もしくは蘇芳など、みな五枚襲の袿で、襲はすべて綾だった。大海の摺模様の裳の水色がはなやかで、あざやかで、裳の腰は固紋を多く使っている。袿は菊の三重五重だった。若い人は、五重の唐衣をそれぞれに着ている。表は白く青色の上を薄い蘇芳にしたり、一枚は青いのもある。表は薄い蘇芳にして、次第に濃い蘇芳にし、内側に白いのをまぜたのもあるが、すべて色どり趣のいいのが、気が利いている。斬新で仰々しい扇も見える。
くつろいだ時には、容貌の劣っている人は交っていても分るが、心を尽くしてつくろい、負けまいと一心に化粧したあとでは、女絵と同じで、見分けがつかず、年を取っているのか、若いのか、よくわからない、髪が豊かなのか衰えているのか、が分かる程度だ。さらに、扇をかざして、それより上に見える額の恰好が、不思議と品があるのとそうでないのとがある。こんな状態でも美しい人が本当の美人なのだろう。
以前から、内裏の女房で中宮付きを兼ねている五人は、参上して伺候している。内侍が二人、命婦二人、給仕係が一人だ。お帝に御膳をさし上げるというので、筑前、左京が髪を結いあげて、内侍の出入する隅の柱の傍から出てくる。これはまさに天女の趣だ。左京は、青色に柳襲の無紋の唐衣、筑前は、菊襲の五重の唐衣に、裳はいつもの摺裳だ。給仕は橘三位。青色の唐衣、唐綾の黄の菊襲の袿を羽織っている。ひとつ髷の髪上げしている。柱にかくれて、よく見えない。
道長様が、若宮を抱いて、御前にお連れする。帝が若宮を抱き取る時、赤子らしく少し泣いた。弁の宰相の君が御佩刀を持って若宮のところまできた。母屋の中戸から西の方へ殿の北の方のおられる方へ若宮をそれとなくお誘いする。帝が御簾の外で御椅子に座られているあいだ、宰相の君がこちらに戻ってきて、 「晴れがましくてきまり悪い思いを致しました」と実際顔が赤みをおびていて、ととのって美しい感じがする。衣の色も他の女房より着映えがするようだ。
暮れ行くままに、楽の演奏がされて趣があった。上達部が御前に伺候している。万歳楽、太平楽、賀殿などという舞いも、長慶子は退出の時奏して、中島の山の先をこぎまわって、遠くなるまま、笛の音も鼓の音も、松風も楽器とまじりあって、とても趣があった。
よく手入れされた遣水が心地よい感じで、池の水波がたち、寒い気色なので、帝が召していたのが衵二枚だけだった。左京の命婦が自分が寒いので、ご同情されるのを、人々は忍び笑っていた。筑前の命婦は、「故院が生前、この殿に度々お越しになりました。その時、あの時」など思い出を言うのを、泣き出すなど縁起でもないことが起こりそうで、面倒なことになると、相手にせず、几帳を隔てている。「まあ、どんなだったでしょうか」 など相槌をうつ人があれば、すぐ泣きだしそうだ。
御前での遊びが始まって、とても趣があるが、若宮の声が美しく聞こえた。右大臣が「万歳楽の声が、若宮に和してきこえますなあ」と、座を引き立てる。左衛門督などは、「万歳、千秋」とと声をそろえて朗誦し、主人の道長様は、「ああ、どうして、先の行幸をありがたく思っていたか。これほどの栄誉にあずかるとは」と酔い泣きした。今さらながら、今日の栄光を殿ご自身が感じておられるのがすばらしい。
道長様はじめ公卿たちは、西の対へ戻った。帝は御簾に入られて、右大臣を召して、筆をとって書かせた。中宮職の役人、この邸の家司たちのしかるべき者の階位はすべて上った。頭の弁に命じて加階の案は奏上される。
親王宣下の喜びに伴い、殿は一族の上達部をひきつれ、拝礼する。藤原系列でも門別れした家系は、列に入らない。次に別当になった、大宮の大夫や宮の亮や、この日加階した侍従の宰相、等次々と拝礼の舞踏する。
帝が中宮の御簾に入ってどれほどもたたないのに、「夜も更けました」「御輿が来ます」と大声で騒ぐので、御帳台からお出になった。
翌朝、朝霧も晴れぬ間に、内裏の使いがやって来た。わたしは寝過ごして見れなかった。今日初めて若宮を剃いだのだった。あえて行幸のあとで。またこの日は、若宮の家司、すなわち別当や、侍者など職員が決まった。かねてから打診もなく、残念に思う人も多いだろう。
このところ、中宮様の居間の設備は、簡素にしていたが、もとに戻って、まったく申し分ない。年ごろ待ち望んでいた慶事があって、明けてから、殿の北の方もやってきて、お世話をする様子は、晴れやかでこの上ない。
日が暮れて月が美しいとき、中宮の亮が、女房に会って、加階の喜びを中宮様にお伝えしてもらおうとでもおもったのか、妻戸のわたりも湯殿の湯気がたち人の気配もなかったので、この渡殿の東の端にある宮の内侍の局に立ち寄り、 ここですか」と声をかける。宰相の実成様が中の間に入って、まだ桟を鎖していない格子を押し上げて、「おられますか」などと声をかける、答えずにいると、中宮大夫の斉信様が「こちらですか」と言うのを、聞こえないふりをするのも大人げないので、ちょっと応じる。二人とも何の屈託もない様子だ。「わたしには返事をされず、大夫を格別に扱われる。もっともだが、悪い習慣だ。こんなときに上下の差をつけるもんじゃないでしょう」と戒められる。「今日の尊さ」と催馬楽をいい声で詠う。
夜が更けるまま、月ががとても美しい。「格子の下を取って下さい。ゆっくり話しましょう」と迫ってくるが、こんな下様の処に上達部がお座りになるのも、私的な場所といえ、見っともない。若い人たちならものを知らないで許されるが、好色がましく見られるので、取り外さなかった。
生誕五十日は霜月のついたちの日だった。例によって人々が着飾って中宮の御前に集う様は、絵に描かれた物合わせに、よく似ていた。御帳の東側のきわに、几帳を奥の障子から廂の柱まで隙なく立て、御座の南側に御膳を用意してある。その中で西側は中宮の御膳、例によって沈の式敷、何やかやの台なのだろう。それは見ていない。お給仕役の宰相の君讃岐、取次の女房も釵子、元結などをしている。若宮のまかないは大納言の君で東に寄って侍している。小さい食卓、お皿、お箸台、州浜なども、雛遊びの道具のようだ。それより東の間の廂は御簾を少し上げて、弁の内侍、中務の命婦、小中将の君など、しかるべき女房だけが控えている。奥にいてくわしくは見ていない。
今宵、少輔の乳母が禁食をゆるされる。おっとりしたお方だ。若宮を抱いていて、御帳のうちでは殿の北の方が乳母から若宮を抱き取って、いざり出る様子は、火影に移って、とても立派だ。赤色の唐の御衣、地摺りの裳をきちんとお召しになっていらっしゃるのももったいなく立派に見える。中宮様は葡萄染めの五重の御衣、蘇芳の御小袿をお召しになっている。殿は若宮へ餅をさし上げる。
上達部の座は、例によって対の西の廂だ。二人の大臣もやって来た。橋の上で、また見苦しく酔って大声を出している。殿の方から、折櫃物・籠物を続々と家司が持ってきて、高欄に並べる。松明の光が心もとないので、四位少将を呼び寄せて、紙燭をかかげさせるのを、人は見ている。内裏の台盤所に持参するのだが、明日からは物忌みなので、今宵急いで取り払うのだった。
宮の大夫が、中宮の御簾のところに参って、「上達部を御前に御呼びしてください」と奏上すると、「お聞きあそばした」とあったので、殿より始め皆参上する。階の東の間を上席にして、東の妻戸の前までいっぱいだった。女房たちは二列三列に重なって、御簾が当たる人は巻き上げて座った。大納言の君、宰相の君、小少将の君、宮の内侍が座っておられる。右大臣がきて、几帳の帷子の一部を引きちぎって、酔っている。「いい年をして」と女房たちが批判するのも知らずに、女房の扇を取って、品の良くない冗談も多く出る。中宮の大夫が、そちらに行った。催馬楽の「美濃山」を謡って、面白い。
次の間の東の柱のもとに右大将(藤原実資さねすけ)がいて、几帳の下から見える女房の衣の褄や袖口などを数えていたのだろうか、ちょっと違った様子だった。酔っているからと軽く思い申しあげて、わたしを誰と分からないだろうと思って、たわいのないことを言うと、今めいて洒落た人よりも、恥ずかしいほどに立派な態度でいらっしゃった。盃が順にくるのを気にされて、びくびくされていたが、いつもの当たり障りのない、「千年、万代」で終わってしまった。1.2.9 解説 藤原実資
衛門督(藤原公任)がきて、「失礼します、こちらに若紫さんはいらっしゃいますか」と聞くのだった。源氏に似た人もいないのに、どうして紫の上がいることがありましょう、と聞き流していた。「三位の亮、盃を受けなさい」と道長様が言われるので、侍従の宰相は立って、父の内大臣がいるので、下からまわったのを見て、大臣が酔って泣くのだった。権中納言、隅の間の柱に寄って、兵部のおもとをむりに引っ張り、聞き苦しい戯れごとを言うが、道長様は何も仰らない。1.2.9 解説 あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ。
今夜の宴は何か乱れそうだと見て、宴が終わって、宰相の君と相談し、隠れようとして、東面は殿の子息や、宰相中将などがいて、騒がしいので、二人で几帳の後ろに隠れていたが、取り払われて見つかってしまった。「和歌を一首ずつ詠め、そうすれば許す」と道長様が仰る。逃げたくもあり恐ろしくもあったので、詠んだ。今日は五十日のお祝いですこれからの幾千年 永い御代をどうやって数えたものでしょう (九) 「やあ、うまく詠んだものだなあ」といって二度も朗誦するのだった。鶴のような千年の歳がわたしにあったなら 永い君の御代も数えられるでしょう (一〇)
あれほど酩酊していても、この歌は日頃から思っていることを詠んでいるので、感動するのもごもっとなことだ。こうして若宮をお引き立てして大切に世話しているので、若君も輝くのだ。千年でも充分でない行く末を、わたしのような物の数にも入らぬ者にも願われるのだ。「中宮様、お聞きですか、みごとに歌を詠みましたよ」と褒められて、「中宮の父親としてわたしは悪くないだろう、わたしの娘で中宮は悪くありません、母親も幸せと思って、笑っているだろう。良い夫を持ったと、思っているだろう」と戯れているのも、酔った勢いだろうと見える。たいしたこともないので、ちょっとやりすぎと思うが、中宮はご機嫌よく聞いていた。殿の北の方は、見苦しいと思ったのか、退出される気配なので、「お見送りしなければ、母はお恨みされるだろう」とて、急いで御帳の内を通るのだった。「中宮様、失礼と思いますか。この親あって賢い子ができた」とつぶやくのを女房たちは笑うのだった。
内裏へ入る時も近くなってきたころ、女房たちは次々と気が休まらないのに、中宮のところでは御冊子を作るということで、夜が明ければ、中宮の御前に伺候して、色々の紙をととのえて、物語の原本を添えてありこちに書写の依頼の文を書きくばる。一方では冊子に綴じて作る。「産後で、冷えることして障りはないか」と道長様が仰せになるが、上等の鳥の子紙や筆、墨を持ってきて、硯も持ってきたのを、中宮様はわたしに下さるのを惜しんで、「奥に隠れていてこんな仕事を始めるとは」と注意する。しかし道長様からは上等な墨挟や墨を賜るのだった。
物語の本を里に取りにやって、わたしの局に隠しておいたのを、わたしが中宮様のところに出仕中、道長様が来て探し出して、みな内侍の督様にさし上げてしまった。どうにかみられる程度に清書したのはみな失って、良くないのが伝わって、芳しくない評判を得ることだろう。
若宮は何かしゃべり始めた。帝が参内の日を待ち遠しくしているのは、当然のことだろう。
土御門殿の池の水鳥が多くなってゆくのを見ながら、「内裏に入る前に雪が降って欲しい。土御門が雪の御殿になると、すばらしいだろう」と思っていると、ちょっと里へ行っているあいだの二日ばかりして、雪が降るではないか。見どころのない実家の木立を見るにも、何とも気が重く、宮仕え前は、さびしく物思いしてながめ暮らしていて、花の色や鳥の音にも、春秋に移り変わ る空の気色を感じ、月の光や霜雪を見て、その時節が来たのだと分かるばかりで、歌に詠まれたように「いかにやいかにこの先はどうなる」と行く末の心細さを嘆いていた頃、はかない物語について語りあえる人と、感動の文を交わし、少し近づきがたい人にも文などかわして、こんな物語をいろいろいじったりして、つれづれを慰めていたが、自分など世に存在価値がないと思いながらも、今さしあたって恥ずかしい辛いと思うことのみ避けていたが、宮仕えしてからは、本当にわが身のつらさを味わい尽くすことになった。
試しに当時の物語を読んでみても、以前のように感興もわかず、仲の良く親しかった人も、わたしを恥知らずで心の浅い人だと軽蔑しているだろうと思って、わたしがそう思うのさえ嫌で、文も出さなくなった。奥ゆかしい人は、わたしのような普通の宮仕えの者は、出した文も散逸するだろうと、疑われるので、どうしてわが心の内を深く推し量れよう、と思うのも道理で、味気ない気持ちがして、絶交ではないが、自然と交際の絶えたひとが多くあり、住まいが一定ではないからだろうか、訪れてくる人も来にくくなり、すべては、ちょっとしたことでも、別の世界に来た心地がして、実家にいてももの悲しいのだった。
ただ、終始話し合って、少しでも心にとめている人、ねんごろにものを言い交す人、さしあたって、自然と仲良く話し合う人を懐かしく思っている自分の変わりようがはかないものだ。大納言の君は、夜々は御前に近くに臥して、互に物語した様子も恋しいのは、環境に順応したということか。中宮様の御前であなたと仮根した水の上が恋しく ひとり寝の里の寒さは鴨の上毛にさえ劣りません (一一) 大納言の君の返し、 上毛の霜を払う友なきころの寝覚めには つがった鴛鴦が恋しい夜半の目覚めです (一二) 書きざまも趣があり、万事完全な人です。「中宮が雪を御覧になって、雪景色の美しい折、あなたがいないのは残念だ」 と他の人々も文で伝えてくれます。殿の北の方の文には、 「わたしが止めた里帰りですが、あなたが急いで帰省しまして『すぐ戻ります』と言っていたのも空ごとで、里帰りもずいぶん経ちますね」と仰せなので、冗談にしても、すぐ戻ると言ってお暇を賜ったので、恐縮して戻りました。
中宮様の還御は十七日だった。午後八時ころと聞いていたが、だんだん夜も更けてきた。髪上げした女房たち総勢三十余人、顔はよく分からない、母屋の東の間や廂に内裏の女房も十余人、南の廂の妻戸で隔てている。
中宮の御輿には宮の宣旨が乗る。糸毛の御車に殿の北の方、少輔の乳母が若宮をだいて乗る。大納言の君と宰相の君は黄金造りの車に、次の車に小少将、宮の内侍、次の車に馬の中将とわたしが乗って、嫌な人と乗り合わせたと相手が思っているのが、勿体ぶっている様子が分かり、こんなことが宮仕えの難しさだ。殿司の侍従の君・弁の内侍次に左衛門の内侍・殿の宣旨式部までは順序がきまっていて、その次は思い思いに乗った。月が隈なく明るく、顔がみえるので、恥ずかしいことと思い、足が浮ついている。馬の中将の君を先に立てたので、わたしの後ろ姿も同じ恰好で恥ずかしく思われる。
細殿の三の口に入って臥すと、小少将の君がいて、こんな時のつらいことを語らいながら、こわばった衣を押しやり、厚い綿入れを着て香炉に火を入れて、体も冷えて、その不格好な様を言っていると、侍従の宰相、左の宰相の中将、公信の中将などが次々にやってきて話かけるのが、ありがた迷惑だ。今宵はいないものと思われてやり過ごしたいと思っているのに、誰かに所在を聞いたのだろう。「明朝早く参りましょう。今宵は寒く体もこわばっている」など何でもない挨拶をして、こちらの陣から出ていく。それぞれが家路に急ぐのも、何ばかりの里人が待っているのかと思ってしまう。自分を顧みて言うのではない。世のありさまは、小少将の君の、とても美しいのに、世を憂しと思っているのを見ています。父君の出家からはじまって、人柄に比し幸が薄いと思われるのです。
昨夜の道長様からの贈り物を、今朝つぶさに見る。御櫛箱の中の具どもは、言い尽くすことも見尽くすこともできないすばらしいものだ。手箱一対の他に一方には白い紙の冊子に、『古今』、『後撰集』、『拾遺抄』、それぞれ五帖になっていて、侍従の中納言(藤原行成)と能書家の延幹とに、おのおの冊子の四巻を書かせていた。表紙は羅ら、紐も同じ羅の唐様の組紐で、かけごの上段に入れてある。下段には能宣や元輔などんな古今の歌人たちの歌集を集めている。延幹と行成ゆきなりの書はいうまでもなく立派で、これらの歌集は身近に置いてお使いになるもので、見知らぬものたちにかかせたものだ。新しみがあり斬新だ。
五節の舞姫は二十日に参上する。中宮様は、侍従の宰相に舞姫の装束など下賜する。右の宰相の中将が日陰の鬘の下賜かしを申請したのを、そのついでに、一対の箱に薫物を入れて、心葉、梅の枝など競い合えるようにした。
にわかに用意された例年より、今年は競って立派なものにしたという評判なので、当日は、東の御前の向かいにある立蔀に隙間なく並べた灯火が、昼よりも明るくて、きまりが悪い程なのに、舞姫たちはよくもまあ平然としていること、他人事とは思えない。中宮還御の折も、殿上人に近くにじかに顔を突き合わせて、紙燭をさしていないだけのことだ。幔幕を引いて、さえぎっているとしても、大体の様子はあらわに見えるのは同じことだ、とその時を思い出すについても、胸のふさがる思いがする。
業遠なりとおの朝臣の介添えの女房は、錦の唐衣が闇の夜にも紛れず、立派に見える。たくさん重ね着して、身動きも自由にできそうにない。付き添いの殿上人が格別気を遣って世話をしている。帝が中宮の座に来られて御覧になる。殿も忍んで来て遣戸より北の方にいたので、気楽にできず煩わしい。
中清の介添えは、「背丈がそろっていて大そう優雅で心にくい気配があり、他に引けを取らない」と評される。右の宰相中将の介添えは、なすべきことはすべて整えている。樋洗の二人は、畏まった様子をして、鄙びていたので、人々は微笑んでいた。最後の藤宰相の介添え役は、気のせいか格別に趣がある。かしづきは十人いた。又廂の御簾をおろして、こぼれでた衣裳の褄などは、得意然としているよりは、見どころがあって火影に見えるのだった。1.2.15 解説 五節の舞姫
寅の日の朝、殿上人たちが参上する。いつものことだが、中宮のお産で土御門の里に長くいて馴れたのか、若い女房たちは殿上人の参上を珍しいと見ている。青い摺衣は見えない。その夜、春宮の亮の高階業遠を召して、薫物を賜った。大きな箱にうず高く入っていた。尾張の藤原中清へは、殿の北の方が賜った。その夜は、御前の試みで、中宮は清涼殿にお越しになって御覧になる。若宮がいるので散米して大声を上げる。いつもと違った。
気が重かったので、少しやすんで、様子を見て参上しようと思って、小兵衛、小兵部などと、炭火にあたっていて、「人が混んでいてよく見えませんね」などと言っていると、道長様が来られて、「どうしてこんなところにいるのか。一緒に行こう」と誘うので気が進まないままやって来た。舞姫たちはどんなに辛いだろうと見ていると、尾張守の舞姫が気分が悪くなって退出したが、この様子が夢のなかのように見えたよ。やがて御前の試みが終わって、中宮は退出された。
このごろの若い殿方は、ただ五節所の、風流なことを語る。「簾のはしや、帽額もこうさえ、局ごとに変わっていて、頭つきや、所作などそれぞれに趣がある」と聞きにくいことを言っていた。1.2.16 解説 舞姫について
今年のように競わない普通の年でも、舞姫の緊張は並大抵ではないだろうが、早く見たいので気になり、舞姫と童女が並んで歩み来る様子を見るのは、わけもなく胸がつぶれる思いがして、気の毒で可哀想だった。特別ひいきにするのもいないのだが。あれほどの人たちが自信をもってさしだした童女なので、目移りして優劣は決められない。ただこのように曇りもない日中に顔を隠す扇もきちんと持っていないし、公達の若者たちもいるのに、衆人環視のなかこんな所にでて恥ずかしくない身分や心もちがあるとはいうものの、人に劣るまいと競う心地のなかで、どんなに気後れすることだろうと、わけもなく気の毒に思われるのは、わたしは融通のきかない性分であることよ。
丹波守の童女の青い白橡の汗衫をがおもしろいと思ったが、藤宰相の童女は、赤色を着せて、下仕えは唐衣に青色にしているのは、心にくい。童女たちの容貌も、丹波守の童女は十分じゃなかったが、宰相の中将の童女は、とても背がすらりとして、髪の具合も美しい、その中のもの馴れたのはどうもよくないと人々は話題にした。みな濃い紅の衵を着て表着は各自めいめいだ。汗衫は五重に着ているなかで、尾張守の童女は、ただ葡萄染を着せていた。それがかえって品があり色目や艶など、とてもすぐれて見えた。
下仕えの中に顔の美しいがいて、六位の蔵人が扇を取ろうとして寄ると、自分から扇を投げたのは、優しい手つきだったが、あまり女らしい所作とはいえなかった。
わたしが、あの人たちにように衆人の前に出ることになったら、あのようにまごついて歩くばかりだろう。こうまで、人前に出るなど、思いもしなかった。見ているうちにあきれるほどに変わるのは人の心なので、今よりのちの厚かましさは、宮仕えにすっかり馴れてしまって、直に顔を合わせるのもたやすい、とこの身が夢のように思われて、あるまじきことさえ思ってしまい、空恐ろしくなって眼前の儀式も、いつものように見る気がしなくなった。1.2.17 解説 御覧の日について
侍従の宰相の舞姫の控所は、中宮の御座所のすぐ近くだった。立蔀の上から評判の簾すだれのはしも見える。人が話す声もかすかに聞こえる。「あの弘徽殿の女御の処に、左京の君という馴れた女房がいました」と宰相中将が昔見知っていたのを語る。「先夜、介添役で出ていましたね。東側にいたのが左京ですよ」と、源少将も知っていて、何かの縁で伝え聞いた人々が、「おもしろそうね」と言いながら、素知らぬ顔はできない、左京の君は昔は上品そうに住みならしていたその宮中で介添役で出るなんて、人目を忍んでいるらしいが、それを暴露してやろうの気持ちで、中宮の御前に扇がたくさんあったなかで、蓬莱山の絵柄のを選んだ、意図がお分かりだろうか。箱の蓋の上で扇を広げ、日陰の鬘をまるめ、反った櫛をつけ、白い物忌をのせて端を結ったのをそえた。「少し年とっているので、櫛の反りざまはまだ少し足りないな」と公達が言えば、今様のどぎついほどに反らして、黒方を丸めてのばして両端を不格好に切って、白い紙を二枚重ねて立文の形にした。大輔のおもと殿と書きつけた。豊明の節会に大勢の大宮人いましたなかで とりわけ目立った日陰の鬘の君に感銘しました (一三)
中宮様は、「同じ、贈るのなら、趣を考えて扇などもたくさんにしたらどうか」とおっしゃるが、「大げさにするのも、この趣旨にそぐわないのです。特別に下賜なされるのなら、このように内緒でするものでもありません。これはほんとうに私的なことですから」と言って、顔を知られていない人をやって、「これは中納言さまからの文で、女御さまから左京の君へさし上げてください」声高く言って置いてきた。引き止められたら厄介と、走って戻ってきた。女の声で、「どこから入ってきたのか」と尋ねているらしいのは、女御様からのものと、疑いなく思っていらしい。
たいして聞きおくべくもない日々が続いて、五節が終わった内裏の気配は、急にもの寂しくなるなか、巳の日の夜の試楽はとてもよかった。若い殿上人などは、どんなに名残おしかっただろう。
高松邸の小公達さえ今回の内裏還御の夜から、女房たちの局への出入りが許されて、近くを通るので、とてもきまりが悪い。盛りを過ぎた年を口実に隠れている。五節が恋しいなどと思っておらず、やすらい、小兵衛など童女の裳の裾、汗衫にまとわりついて小鳥のようにキャッキャ騒いでいる。
賀茂神社の臨時の祭りの使いは、殿の子息の権中将の君だった。その日は帝の物忌みの日に当たっていたので、事前に宿直していた。上達部も舞人も宮中にこもって、夜どおし、細殿のあたりは、騒がしかった。
翌朝、内大臣の随身がこちらの殿の随身に手渡したのは、先日の箱の蓋に、白金の冊子箱を添えたものだった。それには鏡がはめられていて、沈の櫛や白金の笄を添えて、権中納言の君が鬢の手入れをさせるようにとの体裁がしてあった。冊子箱の蓋に葦手に書いてあるのは、「しるき日陰」の歌の返歌らしい。文字二つ抜けていて変だし、さらに趣旨が違っているな、内大臣が中宮様からの贈物と勘違いされて、このように仰々しくされたのだ。ちょっとしたいたずらだったのに、大げさになってしまった。
殿の北の方も、参上して奉幣使出立の儀式をご覧になる。使いの君がさした藤の花が、とても大人びて見えたので、内蔵の命婦は、舞人には目もくれず、うっとりして泣くのだった。
物忌みなので、翌朝丑の時に宮中へ上がり、神楽もほんの形式だけだった。兼時が去年まではうってつけの役だったが、すっかり衰えた所作で、自分にかかわりのない人だが、あわれでわが身に寄せて思った。
師走の二十九日に里から戻る。初めての出仕も同じ日だった。あのときは、まったく夢路に惑う心地だったが、すっかり馴れてしまったのも、嫌なわが身だとつくづく思う。夜がふけた。物忌みなので中宮の御前にも参らず、心細く打ち臥していると、女房たちが、「内裏というところは、全く気配が違うわね。里だったら今頃は寝ているのに。しきりに沓音がするわ」と色めかしく言うのを聞いている。歳暮れてわが世もふけてゆく吹きわたる風の音に 心の中はなんとすざましく共鳴することか (一四) と独りごとを詠った。
大晦日の夜、追儺に儀は早く終わったので、おはぐろなど、ちょとした化粧をしようと、くつろいでいたら、弁の内侍が来て、話をして臥してしまった。
内匠たくみの蔵人は長押の下にいて、あてきに縫いものを、重ねやひねりを教えていて、しんみりしていた。御前の方から大声がする。内侍を起こそうとしたすぐには起きない。人の泣き叫ぶ声も聞こえ、とても恐ろしかった。なんにも分からず、火事と思ったが、そうじゃなかった。「内匠の君、さあ早く早く」と先におしたてて。「ともかく中宮様下におられます、まずそこへ行って確かめましょう」と、内侍を起こして、三人がふるえて、足も宙に浮いて参上すると、裸の人が二人いた。靫負と小兵部だった。こういうことだったのか、ますます気味が悪い。
御厨子所の人もみな退出していて、中宮職の侍も滝口もみな退出してしまっていた。手をたたいて大声をだすが、応える人はない。御膳宿1おもやどりの刀自とじを呼び出して、直接「殿上にいる兵部の丞という蔵人を呼んできなさい」恥も忘れてこの口で言ったが、退出した後だった。恨めしいことこの上ない。式部の資業が来てあちこちの油をひとりでさして回った。
女房たちはぼんやり顔を見合わせている。帝から見舞いの使いがあった。とても恐ろしかった。納殿にある衣を取り出させて、女房たちに賜う。元日の装束は盗られなかった何もなかったようにしてるが、裸姿は忘れられず、恐ろしくもおかしくもあった。
正月一日。元日なので、昨夜のことは言忌みしなければならないのだがつい話してしまう。坎日かんにちなので、若宮の戴餅も中止になり。若宮は三日に参内する。
今年の若宮の屠蘇の給仕は、大納言の君がする。装束は、朔日ついたちは紅、葡萄染、唐衣は赤色、地摺の裳。二日は、紅梅の織物、掻練は濃い紅、青色の唐衣、色摺の裳、三日は、唐綾の桜襲、唐衣は蘇芳の織物。掻練は濃い紅を着る日は紅は中に、紅を着る日は濃い紅はなかに着るのはいつもの通りだ。萌黄・蘇芳・山吹の濃いのや薄いの・紅梅・淡色など、普通の色目の袿を一度に六つばかり、表着に、とても体裁のよい着こなしだ。
宰相の君が御佩刀を持って、殿の若宮を抱いてくる後に続く。紅の三重五重、三重五重とまぜながら。同じ色合いの砧で打った七重とひとえを縫い合わせ、その上に同じ色合いの固紋の五重、袿、葡萄染の浮紋のかたぎの紋を織って、縫い方まで気が利いている。三重がさねの裳、赤色の唐衣、ひえの紋を織って、作りも唐めいている。髪などもいつもよりうつくしくつくろって、容姿や態度も、もの馴れていてすばらしい。背丈も程よい高さで、ふっくらして、顔は整っていて、色つやも美しい。
大納言の君は、小柄で、むしろ小さいといったほうがいい方で、白く美しく太っているのだが、見た目はすらりとして、髪、丈に三寸ばかりあまったその裾の様子や、髪の生えぎわなど、似る者もなくよくととのっていて美しい。顔も愛らしく、身のこなしも可愛らしくもの柔らかだ。
宣旨の君は小柄な人で、細くすらりとして髪の毛筋はととのっていて、衣の裾から一尺ばかりあまっている。まったくこちらが恥ずかしくなるほど、限りなく上品な気配をしている。物影から歩み出ておいでになった時も、とても気が置けて、心配りをせずにはいられない。上品な人とはこういうものなのだ、と気だてもものを仰るにも、そう思う。
このついでに、女房たちの容姿について語れば、口さがないということになりましょうか。それも現存の人では。現に顔を合わせているひとは面倒なことになるだろうし、少しでも足りないところがある人はやめましょう。
宰相の君は、あの北野の三位の女の方ですが、ふっくらして、容姿がとても整っていて才気のある顔だちをして、対座している時よりも、長く付き合えば良さが出て来る人で、洗練されていて、口もとにとても気品があり美しい色つやをしている。物腰などとても立派で、華やかだ。気だてもとてもよくて難点がなく、心も素直で美しく、気おくれするような気品があった。
小宰相の君はどことなく上品で美しい。二月のしだれ柳のようだ。姿態はとても美しく物腰は奥ゆかしく、心ばえも自分では何も決められないように遠慮がちで、人目に立つのを恥ずかしがり、見るに忍びないほど純だ。意地の悪い人やひどい扱いをする人がいると、すぐにそのことばかり思いつめて死んでしまいそうになり弱々しくてどうしようもないところがおありで、あまりにも気がかりな感じだ。
宮の内侍は、また美しい人だ。背丈もちょうどよいくらいで、座っている様子や体つきは、実に堂々として、晴れやかな体つきで、取り立ててどこに魅力があるようには見えないが、美しくすらりとして、鼻筋が通って、 髪に映えた顔の色合いや肌の白さなど、人に優れている。頭の恰好、前髪の生え具合額の様子はまあなんときれいなと思われて、はなやかで愛らしい。気どることなく自然に振舞って、性格も非の打ちどころがなく、どの面から見ても懸念されるところはなく、すべてにおいてあのようにあるべきだと、手本にしたいような人柄です。風流がることもしない。
式部のおもとは宮の内侍の妹だ。ふっくらという程度を越えて太っている人で、色白でつややかで、顔はととのって器量はよい。髪も非常にきちんとしているが、長くはない。かつらをつかって、宮に出仕した。その折は太った体つきがとても魅力的でした。目もと、額の様子など、本当に美しい。にっこりした時はとても愛嬌がある。
若い女房たちのなかで、器量がよいとみなが思うのは、小大輔、源式部などだ。小大輔は小柄な人で、体つきは今風で、髪はきちんとして、以前はたくさんあって、丈に一尺もあまっていたが、少なくなってしまった。顔も才気が感じられ、ああ素敵な人だと思える。容姿は難点のつけようがない。源式部は背丈も適当ですらりとしており、顔は細かく見るほど美しく感じられ可憐な感じで、すがすがしくさっぱりしていて、良家のお嬢さんの趣があります。小兵衛、少弐なども、とても美しい。彼女らは殿上人が見逃すことはなどない人たちです。まかり間違うと知れ渡ってしまいますので、人目に届かないところで用心しているので、知られずにすんでいます。
宮城の侍従こそ、顔がととのって美しかった人だ。小さく細かく童女にしてもよさそうで、自分から老けて剃髪してそれっきりになってしまった。髪は袿の裾に少しあまっていたが、それをさっぱりと切りそろえてやって来たのが、最後だった。その時の顔も美しかった。
五節の弁という人がいた。平中納言惟仲が養女にして世話したと聞いている。絵に描いたような顔をして額が広く、目尻が長くて、顔も、ここは難点というところもなく、色白で、手つき腕つきがとても美しく、髪は見はじめた春頃は、丈に一尺ばかりあまっていて、多すぎるほどだったが、意外にも分けとったように少なくなって、それでも裾は細くならず、長さは少し余るようだった。
小馬という人がいて、髪はとても長かった。むかしはよい女房だったが、琴柱を膠でくっつけたように、里居してしまった。
このように述べてきましたが、気立てのよい人となるとなかなかいないものです。それぞれに個性もあり、悪いというのもいない。しかし、すぐれて立派な人、思慮深く、才覚もあり趣味もよくて、安心もできる、全部備えているのは難しい。各人各様で、どれをとるかということになるのです。まあ、実にけしからんことを言いましたね。
斎院に、中将の君という人がいると聞いていましたが、あるつてがあって、その人が他人に出した文をこっそりわたしにみせてくれました。とても気どって、自分だけがこの世の情趣がわかり、その思慮の深さは例がない。自分以外のすべての世の人は感受性も分別もないと思っているような手紙を見ると、むやみに不愉快で、他人事ながら腹が立ち、身分の賤しい人のいうように憎らしく思われました。「文の書きぶりであってもまた歌などのすぐれたのがあるなら、わが院より他に誰が分るでしょう。今の世に歌のすぐれた人が出現するなら、わが院のみが鑑別できるでしょう。などと書いている。
なるほど、それもごもっともですが、自分の側のことをそんなにいうのなら、斎院側の歌がすぐれてよいということもないでしょう。斎院は実に趣があり、風情のある生活をなされているところのようです。しかし、仕えている女房を比較して優劣を争うなら、わたしのまわりの女房たちについては、あちらが優っていることはないでしょう。
斎院は人の出入りも少ない。美しい夕月の夕べ、風情のある有明の頃、花のたより、時鳥の声を聞きに、参上してみると、斎院様は実にみ心が風流であられ、場所柄は俗界から離れて神々しい。
また斎院は雑事に取り紛れることもない。例えば中宮が清涼殿に参上するとか、もしくは殿がお越しになる。殿が宿直でお泊りになるなど、心の落ち着かないことも起こらずに取り繕って、自ずから、風情を好むところとなれば、気のきいた歌を詠むに、言い損ないをすることもないでしょう。
わたしのような埋もれ木をさらに深く埋めたような内気な者でも、斎院にお仕えしたら、そこで知らぬ男に応接して、歌を詠み交わすとも、誰も軽薄だと噂を立てることはないだろうと元気になり、自ずから色めいた交際にも馴れるでしょう。まして、若い女房で、容貌も年齢も引けを取らない者が、それぞれ思う存分に色めかしくして歌も詠んだりして、本気になったら斎院方の女房たちに、劣るものでもないでしょう。
しかし、こちらは内裏で明け暮れ顔を見馴れていて、競うような女御・后はおらず、あの御方この御方といい並べる御方もなく、男も女も、競う必要もなくのんびりしていて、また中宮の気風として、色めかしいのは、軽薄だと思われているので、少しはましにしていようと思う女房は、並大抵のことでは、男との応接に出ません。気安くて恥ずかしがらず人の評判を気にしない女房は、中宮の気風と異なることを述べることもないわけではない。男が来ると、中宮方の女房は引っ込み思案だとかまた気づかいがないとか言われるのでしょう。上臈や中臈当たりの人は引き込んで上品ぶっているようです。そうばかりしていては、中宮のための引き立て役にもならず、かえって見苦しいのです。
こう言うと、上臈中臈の女房のことをよく知っているようだが、人はみな様々なので、すぐれた面があれば、劣っている面もあるものです。若い人たちが慎重に所作しようと真面目にやっている時に、上臈中臈の人々が見苦しくふざけるのも、不体裁なものです。とにかく、全体として、まったく風情がないということのないようにしたいものです。
とはいっても、中宮の御心に不足な処はなく、洗練されて奥ゆかしいく、あまりに控え目なご性分ですから、女房たちに何も言い出すまい、口に出したとしても、信頼でき、恥ずかしくない女房はなかなかいないものだと思っておられる。実際、何か行事の折、失敗をすれば、不十分な者よりよくないものだ。実際、思慮のない人で、得意顔をしている者が筋の通らないことを言い出して、中宮はまだ幼かったので、ひどく見苦しいと思ったが、ただ格別な落ち度もなくて過ごすのを、無難なこととお思いになり、それにそって中宮のお気持ちに適うべく、子供っぽい良家の子女がそのようにお仕えして、馴れてしまったのだと思います。
今は中宮様はだんだん大人になり、世のあるべき姿も、人の心の良し悪しも、過度なのも不足なのもみなご存じで、この中宮御所のことを、殿上人も他の人も馴れて、特に興味のあることもないと思い、言ってもいるようだと、万事ご承知です。
といっても、奥ゆかしさで通すわけにもゆかず、ちょっと間違うと、軽薄なことにもなりかねず、無風流の引き籠っている女房たちにこうしてほしい、と思いそう仰るけれど、今までの習慣はなおり難く、当世の貴公子たちは、気風に順応しますので、これらでは真面目に振る舞います。斎院などんなところでは、月を見て花を愛で、風流一筋の会話をして自然と風流を求め、心がけるものです。朝夕出入りして、趣の乏しい所で、普通の会話も、風流に関連づけて聞き、また言い、興あることを話しかけられて、恥ずかしくない返事ができる女房は、少なくなったと、男たちは話題にしているようです。自分は直接聞いていないので、実際のところは知らない。
殿上人が来られて、話しかけられてちょっとした返事をしようとして、相手の気分を損なってしまうのは、困ったことだ。上手に対応して当然なのだ。ところがこの当然のことが難しいのです。どうして、面にくいことに、引き籠ってしまうのが賢いといえましょう。また、だらしなく人前にしゃしゃり出てよいだろうか。その都度、適宜状況に応じて対応するのが難しいのだろう。
例えば、中宮大夫の藤原斉信様が参って、啓したいことがあり、なよなよして子供じみた上臈たちが、応接にでるのは難しい。また、会っても何かをきちんと申し上げるのはむつかしい。言葉が十分でないわけではなく、心持が行き届かないからでもなく、きまり悪い、恥ずかしいと思って、間違った言動をしてしまう。自分の言葉や姿を一切を聞かれまい見られまいとして簾越しに自分を隠してしまう、他所の女房はそうではないでしょう。こうした宮仕えがはじまると、とても高貴な生まれの人も、世の習わしに従うものですが、全く宮仕え以前の姫君の時のままの振舞で、みないらっしゃる。下臈が応接にでるのを大納言の宮の大夫が心よく思わないので、しかるべき女房が里に下がったり、休憩でで局にいたりしてどうにもならないときは、応接する人がいなくて、訪問者が帰ってしまうこともあります。
その他の公家方が、中宮の御所に参って啓したいときは、おのおの仲の良い女房がいて、その女房がいないときは、がっかりして帰っていくのは、そんな人たちが、折に触れて、中宮の御所は「消極的だ」などといわれる時もある。
斎院の人たちも、こんなところを、軽蔑するのでしょう。だからといって、自分の方こそ、見どころがあり、他の人はものを見る目もないだろう、と軽んずるのも、道理のないことです。すべて、人を誹るのは容易で、自分の方で心配りするのは難いものですから、そう思わないで、まず自分が賢い、人を無視し、世間を非難するのは、当人の見えすいた心根が見えてくるものです。
まったくお見せしたいような手紙の書きぶりでした。ある人が隠したものをこっそり見せてくれて、持ちかえったのが、残念です。
和泉式部という人とは、興ある文を交わしました。けれど和泉はけしからん面があるが、気楽に文を走り書きした時、文章の才がある人で、ちょっとした言葉の美しさも感じられます。歌はうまく趣向をこらし、古歌の知識、歌の良し悪しの判断、これらについて本当の歌人ではないようだが、口から出るにまかせたあれこれの歌に、かならず魅力のある点があり、目にとまります。そうであっても、人の歌を、非難し批評するときは、さあ十分歌を分かっていないだろうと思われる歌こちらが恥ずかしくなるほどの歌詠みではない。
丹波の守の北の方を、内裏や土御門あたりでは、匡衡まさひら衛門/と呼んでいる。格別優れた歌人ではないが、歌は風格があり、歌人だからといってよろずのことについて詠んでいるわけではなく、世に知られている歌はみなちょっとしたその折々の歌も立派な詠いぶりです。
どうかすると、腰折れ歌になりそうな歌を詠み出して、あやしげな由緒ありげなことをしてまでも、自分こそすぐれていると思っている人は、憎らしくも気の毒にも思われる。
清少納言こそとても得意そうな顔していた人です。あれほど賢そうに振る舞って、漢字を書き散らすのだが、よく見れば、まだ足りないところが多い。あれほど、人とは違うことを好んでいる人は、必ず見劣りがして、行く末は悪くなってゆくばかりですし、風流を気どる人は、ひどく殺風景で漫然としているときにも、もののあわれがあるかのように振る舞い、自ずから見当はずれの実意のない振舞ともなるでしょう。そのように実意のない振舞をする人の果てがどうしてよいことがありましょう。
このように色々な方々について語ってきたが、わたしとしては一つとして思い出に残る事柄もなく過ごしてきて、これという将来の頼みもなく、慰めにするものもありませんが、せめて荒んだ身で振舞うようなことだけはするまいと思う。その思いが消えないのか、物思いにふける秋の世も、簀子にでて外を眺めて物思いにふけっていたら、昔の人は月を愛でたろうか、いやそうではない老いを怖れて賞美しなかったろう、月はわが身の老いを照らすばかりだ、世間の人が月を見る咎を避けても、わが身にはやってくると、憚られて、少し奥へ引っ込みはしたが、さすがに心の内はもの思いは尽きない。2.2.1 ある解釈
風の涼しい夕方、聞きよくもない琴をひとり奏でては、「嘆きが増えた」と、聞く人がいるのか、忌まわしくおもうのは、おろかしくもあり悲しくもあります。
とはいっても、見苦しくすすけた曹司に、箏の琴・和琴を調べながら、気をつけて「雨降る日、琴柱倒せ」などとなどともいわないのに、そのままにして、塵が積り、箏や和琴をそのまま厨子と柱の間に立てかけ、琵琶もその左右に立ててある。
大きな厨子一つに、隙もなく積んであるのは、ひとつには古歌、物語の類で、すっかり虫食いになって、気味悪く動くので、開けて見る人もいない。漢籍があり、大切にしていた夫も亡くなったあとは、手を触れる人もいない。それらを所在なさがひどい時に、一つ二つ引き出して見ていると、女房が来て、「奥様はこのようだから幸い少ないのです。なぜ女が漢字を読みますか。昔はお経でも読むのを禁じられたのに」と蔭口をきくので、縁起をかついだ人が行く末寿命が長いという例は見当たらないと言い返したかったが、それでは思いやりがないようだ。実際は女房の言うことにも一理ある。
何ごとも、人それぞれです。いかにも得意そうで目立って、心地よさそうにしている人もいる。何につけ、所在なくさびしそうな人が、気が紛れることのないまま、古い反故を探しだして、お勤めに熱心になり、読経で口をもぐもぐさせたり、数珠の音高くならすのは、人には好感がもたれないし、自分の思いのままにしてよいことでも、使用人の眼を憚って、胸に納めておく。まして宮仕えで人に交わり、言いたいことも、どうかと思って、分かってくれそうにない人には、言っても無駄だし、何かと文句をつけて得意になっている人には、面倒でものを言う気もしない。とりわけ、何事にもすぐれている人はめったにいるものではない。ただ、自分の思惑を盾に、他人を無視しているのだ。
そもそも、本心とは違うわが姿を恥ずかしいとは思うが、避けられずに一緒に座っていた時もあり、あれこれと批難されるおそれがあり、気おくれするわけではないが、弁解するのも面倒なので、痴れたぼけ役に徹していたら、「あなたがこんな人だとは思わなかった。とても気どって、気がおけて、近づきにくく、よそよそしくて、物語好きで、風流ぶって、何かというと歌を詠み、人を人とも思わず、憎らしいほど人を軽蔑するような人だと、みな思っていたし、言ってもいましたので、会ってみると不思議なくらいおっとりして、別人かと思われました」とみな言っていたので、きまりが悪く、痴れ者と蔑まれるとは思っていたが、これがわたしが望んだ姿ですから、中宮も「本当には打ち解けたお付き合いはできないだろうと思っていましたが、他の人よりずっと親しくなりましたね」と言っていただけるようになりました。個性が強く上品な人々、そのため中宮には一目置かれている上臈の女房たちにも疎まれずにいたいものです。
総じて、女は、見苦しくなく、穏やかで、少しゆったりして落ち着いているのを基本としてこそ、たしなみも風流も魅力があり親しみがもてる。色っぽく浮気であっても本来の人柄に癖がなく、傍で見る者に見っともない振る舞いをしなければ、嫌な感じはしないだろう。
自分は違うと仰々しい態度に馴れた人は、立居振舞につけてこちらで自然に注意するようになるから、人の目が集まります。注意して見れば必ず、もの言う言葉の中にも、来て座る所作にも、立ってゆく後ろ姿にも、必ず癖を見つけられます。言うことが少し食い違うようになった人と、人をけなした人には、ますます耳をそばだて目を見開くようになりましょう。癖のない人には、すべて、とりとめのない噂など、聞こえないようにして、仮にも好意も見せたい気になります。
人が故意にいやなことをしたときは、自分が誤ってへまをしたとしても、そう言って笑っても、いいのだと思います。至極心の美しい人は、憎まれても、その人に好意を持って世話をするべきかも知れないが、とてもそんなことはできないでしょう。慈悲深い仏でさえ、三宝そしる罪は軽いなんて説いているだろうか。まして、これほど濁りきった世の人としては、自分に薄情な人には、薄情になるだろう。それなのに、自分が勝れていると言おうとして、ひどい言葉を言いふらし対座して険悪な気色でにらみあっているのと、そうではなく心の中をもて隠し、うわべはなだらかににしているのと、その違いに、心根の程度は現れるものです。
左衛門の内侍という人がいた。変にわけもなくわたしを快からず思って、わたしには心当たりのないいやな陰口があれこれと聞こえた。帝が、源氏の物語を人に読ませてお聞きになっていた時に、「この人は日本記を読んでいるに違いない。ずい分と学識がある人だ」と言ったのを聞いた内侍はあて推量に「学問を鼻にかけている」と殿上人に言いふらして、日本記の御局とあだ名をつけた。実におかしなことです。実家の女房の前でさえおし隠しているのに、あんな所で学識をひけらかすなんて。
式部丞が、童で読み書きを学んでいた時、式部丞は暗誦するのに遅く、忘れるのに、わたしは不思議と聰く覚えているので、学問に熱心だった父は、「残念だ。この子を男の子として持たなかったのが不運だった」といっていつも嘆いていた。それを、「男でも学問を鼻にかける人はどんなもんでしょうか。栄達しないようです」と、次第に人のいうのを聞いてからは、一という文字さえ書きませんし、実に無学で無様なありさまを装ってきました。かって読んだ書も目にしないようにしているのに、、こんな話を聞いたので、どんなに人に伝わっているだろうと恥ずかしく、屏風の上に書かれた文字も読めない顔をしていたのだが、中宮様の御前で『白氏文集』のところどころをわたくしにお読ませになりなどして、漢籍の世界をお知りになりたそうにしていましたので、隠れて、女房がお傍に控えていない合間に、一昨年の夏ごろから、楽府という書二巻を、正式にではないが、教えてきましたことは、隠していました。中宮も隠していましたが、殿も帝もそれを知って、殿は書を名筆家に書かせて、賜わるのだった。本当に、わたくしに中宮様が漢籍を読ませることを、ひょっとするとあの口うるさい左衛門の内侍は聞いていないだろう。知ったら、どんな悪口を言うだろうと思われ、すべて世の中、何かとことが多く、憂きものだろう。
さあ、今は、物言いに遠慮しますまい。人が何といおうと、ただ阿弥陀仏に向かってたゆみなく経を唱えましょう。世の厭わしいことは、まったく未練がなくなりましたので、出家しても怠けることはないでしょう。一途に出家しても、来迎の雲に乗るまでは気持ちがぐらつくときがあるかもしれません。そのためためらっているのです。
年齢もよい頃になり、これ以上老けて目が悪くなって経も読めず、怠け心がまさって、信心深い人のまねをしているようだが、今はただそんな生活のことを思っています。その願いも、罪深いわたしなどは、叶わないかもしれない。前世の因縁を知られることが多く、何につけても悲しく思います。
文に書けなかったこと、良いのも悪いのも、世にあること、この身の憂いも、残らず申し上げておきたいと思っています。
好まぬ人のことを申し上げるとしても、こんなことをしてよいものでしょうか。あなたが所在なくされておられるなら、わたしの所在なさを御覧ください。またあなたがお考えのことで、無益なことはたくさんおありでなくとも書いてください。拝見したいです。万一これが人目に触れたら、ほんとうに大変です。世間の耳も気をつけましょう。
最近、古い文の類もみな破り捨て、この春、人形の家作りに使ってしまいましたので、人の文はなくなり、まともな紙にはもう書くことはないと思っています。誠に貧相です。でも不如意のためではない。
ご覧になったら、これは早く返してください。あちこち読めない処や、文字の脱けたところもありましょう。そこは飛ばしてください。
このように、世間の評判を気にしながら、この文を閉じます、この身を捨てられず、俗世への執着がとても深いのです。いったいどうしようというのでしょう。
二十二日の暁、御堂へ移った。御車には殿の北の方、女房たちは舟で渡った。わたしは遅れて、夜になるころ、参上する。教化を行う所であり、叡山や三井寺の作法そのままに大懺悔を行う。
白印塔などたくさん絵に描いて、遊び卿じる。上達部の多くは退席して、少しは残っていた。
後夜の導師、教化のやり方はみなそれぞれで、二十人の僧が、中宮がこうして臨席しているのを、慶び、常葉が途切れて笑われることも多々あった。
法会が終わって、殿上人は舟に乗り、こぎ出して遊ぶ。御堂の東の端、北向きに開けた妻戸の前に、池に降りられる階の高欄に手をかけて、宮の大夫の斉信様が座っていた。殿がちょっと中宮の御前に参上なさっている間、宰相の君などと話をされて、御前なので気を許さぬ心遣いは御簾の内も外も趣のある雰囲気だった。
月が朧にでていて、若い君達は、今風の歌を詠って舟に乗っていたが、若い人々の中に、大蔵卿が交っていて、さすがに一緒に詠うわけにもいかず、ひっそり座っている後姿が、おかしかったので、御簾のうちの人もこっそり笑った。「舟の中で老いました」とわたしが言ったのを、聞きつけて、大夫が「徐福文成誑誕多し」と、誦じる声もその調子も、とても新鮮に感じられた。「池の浮草」と詠って、笛など合わせる様子は暁方の風の気配さへ格別の風情があった。ちょっとしたことも、場所柄やその時の様子で感動するものだ。
『源氏の物語』が中宮の御前にあるのを、殿が御覧になり、いつものたわいない冗談を言って、梅の実の下にの紙にお書きになり。「好きものの名が立っているので、会う人は 折らずに過ぎる人はいないでしょう (一五) という歌をくださったので、 「人にまだ口説かれてもいませんのに 誰が好きものなどと広めたのでしょう (一六) 心外ですわ」と御返事しました。
渡殿に寝た夜、戸をたたく人がいてその音を聞いたけれど、恐ろしさに、音をたてず明かした、翌朝、殿から、 昨夜は水鶏のように夜通し 真木の戸口をたたきました (一七) 返し ただごとではないとばかりに水鶏がたたきますので 開けたらどんなに悔しかったろうか (一八)
寛弘七年の正月三日まで、敦成あつひら・敦良あつなが親王の御戴餅の儀に毎日清涼殿に参る御供に、上臈もみな参上する。左衛門の督の頼通様がお抱きになって、殿は餅をとって帝にさし上げされる。二間の東の戸に向かって、帝が若宮たちの頭上にお載せ申し上げるのだ。清涼殿に参上・退下する儀式は見ものだった。母宮は参上しなかった。
今年の朔日、御給仕役は宰相の君。例によって衣裳の色合いは格別で尋常ではない。女蔵人は、内匠・兵庫が仕った。髪を上げた形など御給仕役は格段に素晴らしく見えるが、やむをえないことだ。薬の女官で文室の博士、利口ぶって進んでくる。膏薬が例によって配られる。
上達部は、傅大納言、右大将、中宮大夫、四条大納言、権中納言、侍従の中納言、左衛門督、有国の宰相、大蔵卿、左兵衛督、源宰相たちが向かい合って座っている。源中納言、右衛門督、左右の宰相の中将は廂の間の長押の下に、殿上人の座の上に着いた。
殿は若宮をお抱きになって、例の幼時語で挨拶させた、かわいがって、北の方に「弟宮を抱きましょう」と道長様が申し上げると、若宮はいやがって、「ああ」とむずがるのを、かわいがって、道長様があれこれなだめるのを、右大臣などが興じた。
その後、清涼殿に参上して、帝が殿上の間にお越しになって、管弦の遊びがあった。道長様もいつものように酔っていた。わたしは面倒なこととおもって、隠れていたが、「なぜ、おまえの父親は、御前の遊びに召したのに、最後までお仕えしないで、退出したのかなどとご機嫌がわるい。「父の罪が勘弁されるほどの歌を詠め。親の代わりに初子の日だから読め詠め」と責められる。言われるままに歌を詠んだら、見っともないだろうと格別酔ってもいないので、いつもより顔色が美しく、火影に映えて、申し分なく、「年来中宮も寂しそうで、おひとりでいらっしゃったのが、物足りなく拝していましたが、右も左も子がいてうれしい」とお休みになっている宮たちを帷子をあげて見ている。「 野べに小松のなかりせば」とうち誦じる。新しく詠まれた歌であるよりも、折にあった歌を引かれる殿のようすがめでたく思われる。
翌日、夕方、早くも霞んでいる空を、建てまし続けた軒の隙間が、ただ渡殿の上の空をわずかに見て、中務の乳母と、昨夜道長が口ずさんだ古歌の話をする。この命婦はものの道理をわきまえて、才気のある人だ。
わたしはちょっと里に下がっていて、二の宮の御五十日は、正月十五日なので、暁に参内した。小少将の君、すっかり明けて間が悪くなってから参内した。ふたりの局をひとつに合わせて、一方が里にいるときも、そこに住んでいる。同時にいるときは、几帳で隔てている。殿は笑っている。「互いに知らぬ男がいて、そんな男が忍んできたら」などと聞きにくい冗談を言う。二人ともそんな内緒の男はいないので、安心だ。
日が高くなってから参内した。小少将の君は、桜の織物の袿、赤色の唐衣、例の摺裳を着ている。わたしは、紅梅の萌黄、柳の唐衣、喪の摺目など派手だったので、君のと取り換えたほうがよいくらいだ。内裏の女房は十七人が中宮の御座の方に来る。
弟宮の給仕は橘三位。取り次ぎ役は、端の方に小大輔、源式部、母屋に小少将。
帝と后は、御帳の中に二人でいます。朝日の光が入り、まばゆいほどの美しい御前だった。帝は御直衣に小口の袴を着け、中宮は紅の御衣、紅梅の萌黄、柳・山吹の御衣、上には葡萄の織物の御衣、柳の小袿、紋も色も珍しく華やかなものをお召しになっている。東廂の方はよく見えて、女房たちは奥のほうにひっそりしていた。
中務の乳母は、弟宮をを」抱いて、御帳のはざまから南面の方にお連れ申し上げる。乳母は、ととのって、背丈は高くはないが、ただゆったりと、重々しい気配で、人を教育するにふさわしく、才気の感じられ様子だ。葡萄染の織物の袿、無紋の青色に、桜の唐衣を着ていた。
その日の女房たちの衣裳は、みな優劣はつけがたく、袖口の色合いが悪い人の、御前に供するものを取り次ぐ時に、大勢の上達部や殿上人に袖口を出すのでじろじろ見られるのを、のちに、宰相の君などが残念がっていらっしゃった。とはいっても、それほど悪い配色でもなかったのであるが。小大輔は、紅ひとかさね、上に紅梅の濃い薄いを五つ重ねていた。唐衣は桜襲だ。源式部は、濃い紅梅襲に、また紅梅襲の綾入りを着ている。唐衣が織物でないのがよくないのか。それは禁色なので無理でしょう。もっと公式の場だったら、過ちがちらりと見えたなら、批判もよろしいが、こんな場では衣裳の優劣はとやかく言うべきではないでしょう。
餅をさし上げる儀式も終わって、食膳を下げて廂の御簾を上げると、帝の女房たちは、御帳の西側の昼の御座所のあたりに、重なるように座っている。橘の三位をはじめ内侍のすけたちもたくさん参列していた。
中宮の女房たちは、若い人は長押の下、東の廂の南の障子を開け放って御簾をかけたあたりに、上臈はいた。御帳の東のあたりに、大納言の君と小少将の君がいるところにわたしは尋ねて行った。
帝の平敷の御座に食膳が並べられた。お膳は作りが言い尽くせなおほど素晴らしい。南の簀子に北向きに西を上座にして、上達部、左・右・内の大臣、春宮傳、四条大納言が着席し、それより下の官職はいらっしゃらない。
管弦の遊びが催された。殿上人はこの対の辰巳にあたる廊に伺候している。庭の席は決まっている。景斉朝臣、惟風朝臣、行義、遠理などだ。殿上で、四条の大納言が拍子をとり、頭の弁は琵琶、琴は□□、左の宰相中将、笙の笛を奏する。双調の声にて、催馬楽の「あな尊と」、次に「席田」「此の殿」などを謡う。楽曲は、鳥の破、急を演奏する。地下の座にも調子などを吹く。歌の調子が違って、とがめられたのは伊勢の守だった。
右の大臣が、和琴、とてもいい」とほめた。戯れの果てにひどい失態をして、見ているほうもひやりとした。
道長から帝への贈りものは横笛二本、箱に入れて送呈した。

