
このページでは、『源氏物語』第53帖「手習」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第53帖「手習」原文全文をご覧ください。
横川の僧都、一夜の宿を宇治院に求める
そのころ、比叡山の横川に、たいそう徳の高いことで知られる僧都が住んでいた。僧都には八十を過ぎた母と、五十歳ほどの妹がいる。二人はかねてからの願を果たすため初瀬へ参詣し、僧都も、親しく大切にしている弟子の阿闍梨を付き添わせて、仏や経の供養をさせていた。
ところが帰り道、奈良坂を越えたあたりから母の尼君の具合が悪くなった。「このままでは、とても残りの道を行ききれない」と皆が騒ぎ、宇治のあたりに知人の家があったので、そこで一日休ませることにした。しかし病状はますます重くなり、横川の僧都へ知らせが送られた。
僧都は山に籠もる決意が深く、今年いっぱいは山を出まいと思っていた。それでも、「年老いた母が旅先で死ぬことになっては」と驚き、急いで宇治へ下った。自分でも、また弟子の中でも験力のある者を集め、必死に加持祈祷をする。
宿の主人から、「御嶽詣での精進中なのに、これほど御高齢の方が重く患っていては心配でしょう」と言われると、それももっともだった。家も狭く、人の出入りが多くて落ち着かない。そこで僧都は、昔、故朱雀院の御領だった「宇治院」という場所がこの近くにあったことを思い出した。
院を守る僧は僧都の知人だったので、「一日か二日、泊めてもらいたい」と使いをやると、その僧は皆と初瀬へ参詣して留守だった。しかし留守番の老人が、「人のいない寝殿がございます。物詣での方はいつもお泊まりになります」と案内してくれた。人のいない公の施設のような所なら、かえって気兼ねもない。そうして一行は、荒れ果てた宇治院へ移ることになった。
木の下に横たわる白いもの
僧都が先に宇治院へ渡ってみると、たいそう荒れ果て、何とも恐ろしげな場所だった。「おまえたち、経を読みなさい」と弟子たちに命じる。
弟子の法師二人が灯火を持ち、人の寄りつかない建物の裏手へ回った。森かと思うほど木の生い茂った場所を覗くと、木の下に白いものが広がっている。
「何だ、あれは」
灯火を明るくして見ると、どうやら何かが座り込んでいる。
「狐が人に化けたんだろう。正体を暴いてやろう」
一人は近づこうとするが、もう一人は、「やめておけ。ろくなものではないぞ」と言い、魔物を退ける印を結びながら見守った。
勇気のあるほうの法師がためらいもなく近づいて見ると、それは長くつややかな髪をした女だった。大きく荒々しい木にもたれかかり、激しく泣いている。
「これは珍しいものを見つけた。僧都さまにも御覧いただこう」
一人が僧都へ知らせに走った。僧都も、「狐が人に化けるという話は昔から聞くが、私はまだ見たことがない」と、わざわざ自分で見に来た。
四、五人で囲み、夜が明けるまで様子を見ても、女の姿は変わらない。僧都は真言を唱え、印を結びながらよく見た末、「これは人間だ。化け物ではない。近寄って尋ねてみなさい。死体でもないようだ。もしかすると、死んだと思われて捨てられた人が蘇ったのかもしれない」と言った。
弟子たちは、「こんな院に人を捨てる者がいるでしょうか。たとえ人間でも、狐や木霊のようなものが連れて来たのかもしれません。穢れまで起きたら困ります」と顔をしかめる。
「狐の仕業でしょう」と言う宿守
院の留守番をしている老人を呼んで、「ここには若い女などが住んでいるのか。こんな者がいる」と見せると、老人は慣れた様子で、「狐の仕業でございましょう。この木のあたりでは時々妙なことが起こります。一昨年の秋も、ここに住む者の二歳ほどの子を狐がさらって来ました」と言う。
「その子は死んだのか」
「いいえ、生きています。狐は人を驚かせはしますが、たいした奴でもございません」
僧都はそれを聞き、「それなら、やはりそういうものの仕業なのかもしれない。もう一度よく見なさい」と弟子へ命じた。
恐れを知らない法師が近づき、「鬼か、神か、狐か、木霊か。これほどの験者である僧都さまの前では、正体を隠せるものではない。名を名乗れ」と衣を引っぱる。女は顔を伏せ、ますます激しく泣くだけだった。
「まさか昔話に出てくる、目も鼻もない女鬼ではないだろうな」
そう思うとさすがに気味が悪い。それでも法師は、自分の勇ましさを見せるように衣を引きのけようとした。女はうつ伏せになり、声を上げて泣いた。
雨もひどくなりそうだった。「このまま置けば死んでしまう。垣根の外へ出してしまおう」と言う弟子に、僧都は首を振った。
「確かに人の姿をしている。まだ命があるのを目の前で見ながら捨てるなど、あまりにひどいことだ。池の魚や山の鹿でさえ、人に捕らえられ殺されようとしているのを見れば、助けずにはいられないものだ。まして人の命ではないか。一日、二日の命であっても、惜しまないでよいはずがない。
鬼や神に捕らえられたのか、人に追われたのか、騙されたのかはわからない。だが、今まさに横死しかかっている者なら、仏が救ってくださるべき者だ。しばらく湯でも飲ませて助けてみよう。それでも死ぬのなら、その時は仕方がない」
僧都は、最初に女を見つけた法師に抱き上げさせた。弟子たちの中には、「病人のお側へこんな得体の知れないものを入れれば、穢れが起こります」と非難する者もいたが、「たとえ化け物でも、目の前の生きた人間を雨の中で死なせるわけにはいかない」と言う者もいた。
結局、人の目につかない奥まった部屋へ女を寝かせることになった。
尼君は「亡き娘が帰ってきた」と思う
やがて母の尼君たちも車で宇治院へ移ってきた。しばらくして僧都が、「さっきの人はどうした」と尋ねると、「ぐったりして何も言いません。息をしているかどうかさえわからないほどです。何かに魂を抜かれた人でしょう」と弟子が答えた。
その話を聞きつけた僧都の妹の尼君が、「何のことです」と尋ねる。事情を聞くなり、「寺にいたころ、妙な夢を見たことがあります。いったいどんな人なのです。まず私に見せてください」と言い出した。
急いで女のところへ行くと、誰も近づかず、まるで捨てたように寝かせてある。まだ若く、たいそう愛らしい女だった。白い綾の衣を一襲、紅の袴を着ている。衣からはすばらしい香りが漂い、高貴な人らしい気配がはっきり感じられた。
妹尼君はひと目見るなり泣いた。
「きっと、私が恋しくてならない亡き娘が、こうして帰って来たのだわ」
女房たちを呼び、女を抱いて部屋へ入れさせた。女は生きているようにも見えない。それでも目をかすかに開いている。
「何かおっしゃって。あなたはいったいどなたなの。どうしてこんな所にいらしたの」
呼びかけても、何もわかっていない様子だった。尼君が自分の手で湯を口へ含ませても、ますます弱り、今にも息が絶えそうになる。
「このままでは死んでしまう。加持をしてください」
験者の阿闍梨は「だから申し上げたでしょう。面倒なものを拾われたものです」と言いながらも、経を読み、祈祷を始めた。
知らない女なのに、その容貌があまりに美しいので、尼君はどうしても死なせたくなかった。母の看病よりも、この女を何とか生かしてやりたいという思いのほうが強くなり、つききりで世話をした。
女は時々目を開け、涙ばかりを流す。
尼君が、「私は、亡くした娘の代わりに仏さまがあなたを導いてくださったのだと思っています。それなのに死んでしまわれたら、かえって私はもっと悲しくなってしまうでしょう。こうして出会ったのも何かの縁です。お願いだから、少しでもお話しして」と頼み続けると、女はようやく、息の下で言った。
「たとえ生き返っても、私は何の役にも立たない人間です。誰にも見せないで、夜になったら、この川へ落としてしまってください」
「せっかく初めて言葉を話してくださったと思ったのに、何てことを。なぜそんなことを言うのです。いったいどうして、あの場所にいたのです」
それ以上は何も答えない。身体に傷がないか調べても、どこにも傷らしいものはなく、あまりに美しい姿のままだった。
「宇治で亡くなった八の宮の姫君」の噂
一行は二日ほど宇治院に籠もり、母の尼君と、この見知らぬ女のために祈祷を続けた。
僧都の知り合いの土地の者が見舞いにやって来た時、こんな話をした。
「故八の宮の御娘で、右大将殿がお通いになっていた方が、特に病気でもなかったのに突然お姿を消され、大騒ぎになりました。昨日はその御葬送の雑事を手伝っておりまして、こちらへ伺えなかったのです」
その話を聞き、僧都たちは、「では、この人はその姫君の魂を鬼が運んで来たものではないか」と恐ろしくなった。昨夜、遠くに見えた葬送の火のことまで思い出された。
けれど誰も、目の前の女こそ浮舟本人だとは考えられない。「右大将殿には宮の御娘がいらっしゃるではないか。その方のほかに心を寄せる人などあるまい」などと話していた。
小野へ運ばれた浮舟
母の尼君の具合も回復し、方角の障りもなくなったので、一行は宇治院を出た。見知らぬ女はまだひどく弱っている。二台の車を用意し、老尼たちは一方へ、女はもう一方の車に寝かせ、一人が付き添った。道の途中でも何度も車を止め、湯を飲ませながらゆっくり進んだ。
一行の住まいは比叡山の坂本に近い、小野という山里だった。夜も更けてからようやく着いた。
僧都は母の看病をし、妹の尼君は見知らぬ女を自分の娘のように抱いて世話をした。母の尼君は次第に回復し、僧都は横川へ戻っていった。
僧都も尼君も、「こんな女性を連れて来た」と法師たちの間で噂になるのを嫌い、事情を知らない者には何も話さなかった。尼君は、いつかこの女を探しに来る者があるのではないかと思いながらも、誰にも秘密を漏らさせなかった。
女が口にしたのは、「川へ流してほしい」という一言くらいで、自分が誰なのか、どこから来たのかはまったく語らない。尼君は、「いつか元気にして、本当のことを聞きたい」と願い、阿闍梨にも人知れず祈祷を頼み続けた。
物の怪が語った、あの夜の真相
そうして四月、五月も過ぎた。それでも浮舟はなかなか回復しない。困り果てた尼君は横川の僧都へ、「どうかもう一度下りて、この人を助けてください。今日まで生きているということは、本来なら死ぬはずの人ではないのでしょう。それでも何かが憑いて離れないのだと思います」と必死に手紙を書いた。
僧都も、「これほどまで生きていた人を、あの時そのまま捨てていたら大変なことだった。私が見つけたのも、きっと何かの縁なのだろう。最後まで助けてみよう」と小野へ下ってきた。
あらためて浮舟を見ると、長く病んだというのに容貌は少しも醜く衰えず、清らかで整っている。僧都まで、「何ともすばらしい顔立ちの人だ。どんな功徳の報いで、これほどの容貌に生まれたのだろう。それなのに、どんな宿縁の狂いでこんな目に遭ったのか」と不思議に思った。
そして本格的な修法を始めた。
僧都は朝廷から召されても山を下りないほどの高僧だったので、弟子たちは、「女一人のために山を出て祈祷していると噂されては、聞こえがよくありません」と心配する。しかし僧都は、「私は六十を過ぎた今まで、女のことで人から非難されたことは一度もない。今さら何を言われても、それも宿縁だろう」と意に介さなかった。
一晩中、激しく加持を続けた明け方、ついに物の怪が別の人へ乗り移り、正体を語った。
「私は本来、このような所まで出てきて、僧都に責め立てられるような身ではない。昔は修行をしていた法師だった。だがこの世へわずかな恨みを残して死に、さまよっているうち、美しい女たちが大勢住む所に取り憑き、その中の何人かを死なせた。
この女は自分から世を恨み、『どうか死にたい』と昼も夜も言っていた。それを好都合と思い、ひどく暗い夜に一人でいるところを連れ出したのだ。だが観音があちらからもこちらからもこの女を守っていたので、とうとうこの僧都に負けてしまった。もう私は立ち去る」
そう叫んだ。
浮舟、正気を取り戻す
その後、浮舟自身の心は急にすっきりした。少し意識が戻って周囲を見回すと、知った顔が一人もいない。いるのは老いた法師や年老いた尼ばかりで、まるで知らない国へ来てしまったような心細さだった。
以前のことを思い出そうとしても、自分が住んでいた場所や、誰と呼ばれていた人々なのかさえ、はっきりとは浮かんでこない。
ただ一つ、――私は最後だと思って、身を投げようとした人間だった――ということだけは思い出された。
皆が眠ったあと、ひどく思い悩んで妻戸を開け、外へ出た。風は激しく、宇治川の波の音も荒々しかった。一人になると急に恐ろしくなり、どこへ行けばいいのかわからない。簀子の端から足を下ろしたまま、外へも行けず、家の中へ戻ることもできず座り込んでいた。
それでも、「今さら人に見つかって笑われるくらいなら、このまま死んでしまおう。鬼でも何でもいい、私を食い殺してしまえ」と思っていた。
すると、とても美しい男が近づいて来て、「さあ、おいで。私のところへ」と言い、抱きかかえられたような気がした。その男を、あの宮――匂宮だと思ったところまでは覚えている。
そのあと意識を失ったらしい。知らない場所へ置かれ、男が消えていくところを見た気がする。その時、「結局、死ぬことさえできなかったのだ」と泣いたようにも思うが、それから先はまったく記憶がない。
人々の話を聞けば、もう何日も何か月も過ぎているという。
――知らない人たちに、どれほどみじめな姿を見られ、世話をされたことだろう。しかも結局、生き返ってしまった。
それが口惜しくてならず、意識が戻ってからは、かえって食事も取らなくなった。
「尼になしてください」
尼君は、「どうして、いつまでたってもそんなに生きる気力がないのです。あれほど長く続いた病もようやく治り、顔色もすっきりしてきたと喜んでいるのに」と、泣きながら一日中付き添っていた。
周囲の者も、これほど惜しい美貌の人なのだからと、心を尽くして看病する。
けれど浮舟の心は、「どうにかして死にたい」という一点から動かなかった。それでも一度ここまで生き延びた命はしぶとく、少しずつ起き上がれるようになり、食事も取るようになった。
浮舟は尼君へ言った。
「私を尼にしてください。そうしていただかなければ、生きていくことなどできません」
尼君は、「こんなに美しいお姿なのに、どうしてそんなことができますか」と拒んだ。ひとまず髪の先を少し切り、五戒だけを受けさせることにした。
亡き娘の代わりとして愛される浮舟
尼君は、「まるで夢の中の人を見ているようだ」と喜び、浮舟を無理にでも起こし、自分の手で髪を梳いた。
あれほど長い間ろくに手入れもせず、結んだまま放ってあった髪なのに、ほどいてみればひどく乱れてもいない。つやつやとして、本当に美しかった。白髪の老人ばかりの家に、天人が降りてきたように見える。
尼君は何度も、「どうしてそんなに悲しい顔ばかりしているのです。私はこれほどあなたを大切に思っているのに。いったい、どこのどなたで、どうしてあんな所にいらしたの」と尋ねた。
浮舟は、自分の身の上を明かすことが恥ずかしく、「あのころのことは、何もかも忘れてしまったようなのです。ほんの少し思い出すのは、毎日夕暮れになると、どうかこの世から消えてしまいたいと考えながら外を眺めていたこと。そして庭の大きな木の下から誰かが現れ、私をどこかへ連れて行ったような気がすること。それ以外は、自分が誰だったのかさえ思い出せません」と答えた。
さらに、「私がまだこの世に生きているなどと、どうか誰にも知られたくありません。知っている人の耳に入ったら、本当に恐ろしいのです」と泣く。
尼君は、それ以上問い詰めることができなかった。竹取の翁がかぐや姫を見つけた時よりも珍しいものを手に入れたような気持ちで、「いつか、この人がまた突然消えてしまうのではないか」と気が気ではなかった。
小野の山里での暮らし
この尼君自身、もとは身分のある女性だった。上達部の北の方だったが、夫を亡くしたあと、一人娘を大切に育て、立派な公達を婿に迎えた。ところがその娘まで亡くなったため、深い悲しみから出家し、この小野の山里へ住むようになったのである。
「せめて亡き娘を思い重ねられるような人がいれば」と常々願っていたところへ、娘以上とも思えるほど美しい浮舟が突然現れた。現実のこととは思えないながらも、嬉しくてならなかった。
小野の家は山深いが、宇治よりは水音も穏やかで、造りにも趣があり、木立も前栽も美しかった。秋になると、門近くの田では稲を刈り、若い女たちが土地の歌を歌う。鳴子の音まで面白く、浮舟は昔見た東国の景色を思い出した。
尼君たちは月の明るい夜には琴や琵琶を弾いた。「あなたも何かお弾きにならないの。退屈でしょう」と誘われることもある。
浮舟は、昔から落ち着いて楽器を習うような身の上ではなかったことを思い、「私は何一つ人並みに身につけずに育ってしまった」と自分を情けなく感じた。
思いが胸にあふれると、誰かに話すかわりに硯へ向かい、手習いとして歌を書きつけるようになった。
身を投げし涙の川の早き瀬をしがらみかけて誰か止めし
身を投げて消えるはずだった、涙の川の激しい流れを、いったい誰が柵をかけてせき止め、私を生き残らせたのでしょう。
自分の望みとはまったく違うところへ人生が流れてしまったことが、ひどくつらかった。
我かくて憂き世の中にめぐるとも誰かは知らむ月の都に
私がこうして、またつらいこの世を生き続けているとしても、いったい誰が知るのでしょう。あの人たちはもう、私を月の都へ消えた者のように思っているでしょうに。
死のうとしていたころには恋しい人が大勢いたように思った。だが今となっては、不思議なほど多くの人を思い出さない。
ただ、母君のことだけは胸に迫った。
――母はどれほど取り乱しただろう。乳母も、何とか私を人並みの身の上にしようと一生懸命だったのに、どれほど呆然としただろう。今どこにいるのだろう。私が生きていることなど、知るはずもない。
何でも隔てなく話していた右近のことも、時折思い出された。
尼君の元婿、中将が浮舟を垣間見る
若い女性がこんな山里へ完全に籠もり続けるのは珍しいことなので、小野には年老いた尼たちしか常には住んでいなかった。その娘や孫で都へ宮仕えしている者などが、時々出入りする。
浮舟は、そういう人の目から自分の存在が都へ漏れることを何より恐れ、ほとんど姿を見せなかった。尼君が自分付きにしてくれた侍従とこもきという二人だけを身近に置いた。
ある日、尼君の亡き娘の夫だった中将が訪ねてきた。彼の弟は禅師となり、横川の僧都のもとにいたので、兄弟たちは時々山へ上っていた。その道の途中で、中将は小野へ立ち寄ったのである。
年は二十七、八ほど。容貌も人柄もよく整った男だった。尼君は障子口に几帳を立てて対面し、亡くなった娘や昔のことを語り合った。
浮舟は物陰からその姿を眺めた。人知れず忍んでやって来た匂宮の姿が、ありありと思い出される。白い単衣に黒っぽい袴を着せられ、昔とはまるで違う自分の姿で、ただ黙って眺めていた。
ところが風が吹き、簾の隙から浮舟の長い髪がちらりと見えた。
中将は帰り際、昔なじみの少将の尼へ、「さっき廊の端から入る時、風で簾が開いて、普通の人とは思えない長い髪の女性が見えた。世を捨てた方々ばかりのところに、いったい誰なのだろう」と尋ねた。
少将の尼は、「亡くした姫君を忘れられずにいらした尼君が、思いがけず一人の女性を見つけ、この数か月、朝夕の慰めとして大切になさっているのです」とだけ答えた。
中将は、「そんな人がいるとは。いったい誰なのだろう。本当に美しく見えた」と、かえって気になってしまった。
中将からの歌
翌日、中将は帰る前にもう一度小野へ立ち寄った。
「人知れず暮らしていらっしゃるという方は、どなたなのです」
尼君は隠しきれないと思い、「亡き娘を忘れられず苦しんでいた私の慰めとして、この数か月お世話している人です。どういう事情か、たいそう物思いが深く、自分がこの世に生きていると人に知られることをひどく嫌がっているので、この谷の底なら誰も探しには来まいと思っているのです」と答えた。
中将はますます興味を持ち、「どんな事情で世を恨んでいる方なのです。私も慰めて差し上げたい」と言う。
帰り際、中将は懐紙へ歌を書き、少将の尼を通じて浮舟へ送った。
あだし野の風になびくな女郎花我しめ結はむ道遠くとも
はかない野を吹く風になびいてはいけません、女郎花よ。道がどれほど遠くても、私があなたを自分のものとして守りましょう。
尼君は浮舟へ、「お返事を書きなさい。たいそう思慮深そうな方ですから、心配することはありません」と勧めた。しかし浮舟は、「こんなひどい字で、どうしてお返事など」と、まったく聞こうとしない。
仕方なく尼君が代わりに返した。
移し植ゑて思ひ乱れぬ女郎花憂き世を背く草の庵に
この草庵へ移し植えてからは、女郎花も心を乱してはおりません。つらい世に背を向けた、この山里で。
中将、たびたび小野へ通う
中将は、わざわざ手紙を送り続けるのもまだ馴れ馴れしい気がしたが、あの日ちらりと見た浮舟の姿が忘れられなかった。八月十日過ぎ、小鷹狩のついでということにして、また小野へやって来た。
「ひと目見てから、どうにも心が静まりません」と訴える。
尼君たちは、「ほんの少しでもお返事をなさいませ。こんな山里に住んでいても、人の情けを知ることまで捨てるものではありません」と浮舟を説得した。
しかし浮舟は、「私は人に何を申し上げればよいのか、その方法さえもうわかりません。何もかも、今さらどうにもならないことばかりです」と背を向けて横になっている。
中将は外から恨めしそうに歌を送った。
松虫の声を尋ねて来つれどもまた萩原の露に惑ひぬ
あなたを待つという松虫の声を頼りにここまで来たのに、また萩原の露に迷わされて、あなたのもとへたどり着けません。
それでも浮舟は返さない。尼君が代わりに、
秋の野の露分け来たる狩衣葎茂れる宿にかこつな
秋の野の露を分けて来られた狩衣だからといって、葎の茂ったこの粗末な宿のせいにしないでください。
と返した。
浮舟は、こうして自分が生きていることを人に知られ始めるのが、ただ苦しかった。かつて薫と匂宮の間で心を追い詰められた日々を思い出せば、男の心がどれほど強引なものになるのか、もう嫌というほど知っている。
――あれほどつらい人生だったと見切って、終わったはずの命が、こんなにも長く続いている。私はこれから、どんなふうにさすらっていかなければならないのだろう。いっそ、このまま世間には死んだ人と思われて終わりたい。
月夜の笛と、老尼たちの音楽
中将も何か物思いがあるらしく、深くため息をつき、静かに笛を吹いた。「鹿の鳴く音に……」などと独り口ずさむ気配も、決して軽々しいものではない。
そのまま帰ろうとすると、尼君が「こんな美しい夜を途中でお捨てになるのですか」と引き止めた。
中将は、あまり恋に浮かれた男のように振る舞うのもみっともないとは思いながら、初めて見た浮舟の姿がやはり忘れられず、歌を送った。
深き夜の月をあはれと見ぬ人や山の端近き宿に泊まらぬ
夜更けの月を美しいと思わない人なのでしょうか。だから、山の端に近いこの宿にも泊まってくださらないのでしょうか。
尼君たちは浮舟を促し、代わりにこんな歌を伝えた。
山の端に入るまで月を眺め見む閨の板間もしるしありやと
月が山の端へ沈むまで、こちらから眺めていましょう。この寝屋の板の隙からでも、待った甲斐のあるしるしが見えるでしょうか。
そのころ大尼君まで笛の音を聞きつけて出てきた。「琴をお弾きなさい。横笛は月の夜にはとてもよいものです」と言い出し、娘の尼君も琴を弾いた。
笛と琴の音に、月の光まで澄み渡るようだった。さらに大尼君は昔得意だった東琴まで取り出し、古風な調べを夢中になって弾いた。中将が褒めると、「今の若い方は、こういうものがお好きではないのでしょう。このところここにいる姫君は、たいそう美しい方だけれど、こういう遊びは何一つなさらず、ただ引っ込んでいらっしゃいます」と得意げに話した。
それを聞いて、尼君たちはさすがにいたたまれない思いがした。
翌朝、中将から歌が届く。
忘られぬ昔のことも笛竹のつらきふしにも音ぞ泣かれける
忘れられない昔のことまで思い出され、笛竹の一節一節につらさが重なって、声を上げて泣きたくなるほどでした。
浮舟はますます困りながら、
笛の音に昔のことも偲ばれて帰りしほども袖ぞ濡れにし
笛の音を聞けば昔のことまで偲ばれて、あなたがお帰りになったあとも、私の袖は涙に濡れておりました。
とだけ返した。
中将からの便りはその後も絶えなかった。浮舟は、「人の心というものは、やはりこんなにも強引になるものなのだ」と思い知り、「どうか早く私を、誰もこんな気持ちを向けられない姿にしてください」と、ますます出家を願うようになった。
初瀬へ行く尼君を見送る
九月になると、尼君は初瀬へ参詣することにした。長年、亡き娘を恋い続けていた自分に、こうして浮舟という思いがけない慰めを与えてくれた観音へ、お礼参りをするためである。
「あなたも一緒に行きましょう。誰があなたを知るというの。同じ仏さまでも、霊験のある所まで参るのはよいことですよ」
そう誘われても、浮舟には、昔、母や乳母に連れられて何度も物詣でをしたことが思い出された。
――あれほど仏へお参りしたところで、私はこんな目に遭った。死ぬことさえ自分の望みどおりにはならなかった。それなのに今度は、見ず知らずの人に連れられて、また同じ道を行くというのか。
恐ろしくてならず、「どうも体調が悪いので、長い道中に耐えられるか心配です」と穏やかに断った。
尼君は無理には誘わなかった。
浮舟が手習いに書いた歌を尼君が見つけた。
はかなくて世に古川の憂き瀬には尋ねも行かじ二本の杉
むなしく流される古川のような、つらいこの世の瀬へ、私はもう二度と戻っていきません。初瀬の二本の杉を尋ねにも行かないでしょう。
尼君は「『二本』と書くからには、もう一度会いたい人が二人くらいいるのでしょう」と冗談を言った。浮舟は胸を突かれ、思わず頬を赤くした。その様子はたいそう愛嬌があり、美しかった。
尼君も歌を返した。
古川の杉のもとだち知らねども過ぎにし人によそへてぞ見る
その古川の杉がどんな由緒を持つのか私は知りません。ただ、あなたを見ていると、亡くなったあの人を重ねずにはいられないのです。
尼君の留守に中将が訪ねてくる
尼君たちが初瀬へ出発すると、浮舟は急に心細くなった。頼りにしている人が一人もいない山里は、ひどく寂しい。
そこへ中将から手紙が来たが、浮舟は見ようともしない。少将の尼に誘われて碁を打ってみると、意外にも浮舟はかなり強かった。周囲は面白がったが、浮舟自身は、こんなことまで始めてしまったと鬱陶しくなり、具合が悪いと言って横になった。
夕暮れの風の音がもの悲しい。浮舟はさまざまなことを思い出し、また手習いをした。
心には秋の夕べを分かねども眺むる袖に露ぞ乱るる
私の心には秋の夕暮れだけが特別につらいわけではない。それなのに眺めている袖には、秋露のような涙が乱れ落ちるのです。
月が美しく昇ったころ、中将が突然やって来た。
浮舟は、「なんて嫌なこと」と思い、家の奥深くへ逃げ込んだ。尼たちは、「いくら何でも避けすぎです。せめてお声くらいお聞かせなさい」と説得する。
中将も、「声を聞こうとは申しません。ただ近くでお話しすることを聞いて、嫌なら嫌だと御自分でおっしゃってください」と粘った。
山里の秋の夜深きあはれをももの思ふ人は思ひこそ知れ
山里の秋の深い夜がどれほど心に染みるかは、同じように物思いをする人なら、きっとわかってくださるでしょう。
どうしても返事をと責められ、浮舟は、返事ともいえないほど小さく言った。
憂きものと思ひも知らで過ぐす身をもの思ふ人と人は知りけり
自分がつらい世を生きているとさえ、もう思わずに過ごしている私を、あなたはまだ「物思いをする人」だと見ていらしたのですね。
中将はそれだけでも胸を打たれ、「もう少しだけ出てきてください」と頼み続ける。
浮舟はとうとう、大尼君たち老人の寝所へ逃げ込んだ。
恐ろしい老人たちの寝所で一夜を明かす
浮舟は日ごろ近寄ったこともない老尼たちのそばでうつ伏せになった。だが、これがまた恐ろしかった。
老人たちは早々に眠り、ものすごいいびきをかく。二人の尼まで競い合うようにいびきを響かせている。
――今夜はこの人たちに食べられてしまうのではないか。
死んでも惜しくないと思っていたはずの自分なのに、いざとなると怖い。宇治で死のうとして外へ出ながら、怖くなって戻れなくなったあの夜と、少しも変わっていない。
夜中になると、一人の老尼が咳き込みながら起き上がった。火の光に白い頭を浮かべ、黒い衣をかぶった姿で、浮舟の額へ手を当て、「おや、これは誰だ」と執念深そうな声で覗き込む。
浮舟には、今にも食いつかれそうに見えた。
――鬼にさらわれた時には意識がなかったから、かえって怖くなかった。こんな形で生き返り、また人間として昔のつらいことを思い出し、嫌だ、怖いと感じている。けれど死んでいたなら、もっと恐ろしい者たちの中にいたのかもしれない。
眠れないまま、浮舟はこれまでの人生を一つ一つ思い返した。
父と呼ぶべき人の顔さえ知らず、遠い東国を行き来し、ようやく都へ戻って、姉の中君を頼りにしたのに、その縁も思いがけず切れてしまった。薫を頼れば少しは自分の身の不幸も慰められるかと思った、そのぎりぎりのところで、匂宮とのことで何もかも壊してしまった。
今になって考えれば、匂宮を少しでも愛しいと思った自分の心が腹立たしいほどだった。
一方、初めから気持ちはそれほど激しくなくても、穏やかに自分を思ってくれていた薫のことは、折に触れて強く思い出された。
――私がこうして生きているとあの方に知られたら、どれほど恥ずかしいだろう。
それでも、――この世に生きている間に、遠くからでももう一度、あの人の姿を見たい――と思う心が残っている。
「そんなことさえ、もう思うまい」
浮舟は自分の心を何度も押さえつけた。
横川の僧都が下山する
翌朝、多くの下僧たちがやって来て、「僧都さまが今日、山を下りられる」と騒いでいた。
理由を聞くと、一品宮が物の怪に苦しんでおり、山の座主が御修法をしても治らず、「横川の僧都でなければ験がない」と、后の宮から二度も召されたのだという。
浮舟はそれを聞き、今こそよい機会だと思った。
――尼君が戻ってくる前に、僧都にお願いして尼にしてもらおう。
髪を梳きながら、これが人としての長い髪を最後に見る時になるのだと思うと、さすがに母のことが悲しかった。
長く病んだため少し細くなったとはいえ、髪はまだたいそう豊かで、末は六尺ほどもある。一本一本まで細く美しい。
「こんなことになるために、この髪も長く伸びたのかしら」
浮舟は一人つぶやいた。
僧都に出家を願う
夕方、僧都が小野へ下りてきた。浮舟は几帳の近くまで進み出て、僧都へ直接願った。
僧都は、「思いがけずあなたを見つけたこと自体、昔からの深い縁があったのでしょう。御祈りも心を込めてしてまいりました。しかし法師の身では、特別な用もなく女性へ手紙を送るわけにもいかず、その後は御無沙汰のようになってしまいました。こちらでどのようにお暮らしですか」と穏やかに尋ねた。
浮舟は、「もともと、この世に生きていたくないと思っていた身が、不思議にも今日まで生きてしまいました。それをつらく思う一方、私を助けるためにいろいろしてくださった御心だけは、何もわからない状態だった時からありがたく感じております。でも、やはり私は普通の人としてこの世にとどまれそうにありません。どうか尼にしてください」と頼んだ。
僧都は、「まだ先の長いお年なのに、どうしてそこまで一途に出家をお決めになるのです。初めは強い決意でも、年月がたてば女の身にはたいそう苦しいものですよ」と諭す。
しかし浮舟は、「幼いころから物思いばかりする身の上で、母も『いっそ尼にしてしまおうか』と言っていたほどです。少し物心がついてからは、普通の人として生きるより、せめて後の世だけでもと思う心が深くなりました。今は死ぬ時が近いのかと思うほど心も弱っています。どうか、お願いいたします」と泣いた。
僧都は、物の怪が「この女は自分から死にたいと言い続けていた」と語ったことを思い出した。
――これほど美しい人が、どうして自分の身をそれほど嫌うようになったのだろう。やはり何か深い事情があるのだ。あの悪い物に一度目をつけられた人でもある。このままにしておくのも危うい。
僧都は、「そこまで御決心なさっているのなら、三宝もお褒めになることでしょう。本来なら七日後、宮の御修法が終わってからと思いましたが、そんなにお急ぎなら、今日お授けしましょう」と言った。
浮舟は心から嬉しかった。
浮舟、髪を下ろす
鋏と櫛箱が用意された。僧都は、最初に宇治院で浮舟を見つけた二人の弟子を呼び入れ、「御髪を下ろして差し上げなさい」と命じた。
几帳のほころびから浮舟が髪を引き出す。その髪があまりに美しく惜しいので、阿闍梨でさえ、鋏を持ったまましばらく手を止めた。
ちょうどそのころ、少将の尼たちは別の客の相手をしていて、何が始まったのか知らなかった。こもきから知らせを受け、慌てて駆けつけると、浮舟はもう法衣をまとわされている。
「親に代わる尼君の御方を拝んでおきなさい」
そう言われた瞬間、浮舟はさすがに涙をこらえきれなくなった。
少将の尼は、「まあ、何てことを。どうしてこんな勝手なことをなさるのです。尼君がお帰りになったら、何とおっしゃるでしょう」と騒いだ。
しかし、もう始めてしまったことを途中で乱すわけにもいかない。僧都が制した。
出家の詞に「流転三界中」と聞こえる。
――私はもう、一度すべてを断ち切ったつもりだったのに。
そんな思いも胸をよぎる。
僧都自身が額の髪を削ぎ、「これほど美しいお姿を変えたことを、あとで悔やんではなりませんよ」と、出家の尊さを説いて聞かせた。
浮舟には、これこそ自分が生き返ったことに意味があったと思える、初めての出来事だった。
手習いに思いを書きつける
皆が退出し、夜の風が鳴るころになると、尼たちは、「この山里暮らしもほんのしばらくのこと、いずれ立派な身の上になられるだろうと思っていたのに。こんなお姿になって、これから先の長い人生をどうなさるおつもりです」と嘆いた。
けれど浮舟は、今だけは心が晴れていた。
――もう自分が普通の人として世を生きていくことはない。それだけで、何と嬉しいことだろう。
翌朝になると、さすがに変わり果てた姿を人に見られるのは恥ずかしかった。急に短く乱れた髪を整えてくれる人もほしいと思う。それでも、自分の思いを語れる相手はいない。
浮舟は硯へ向かい、胸に余る思いをひたすら手習いに書いた。
なきものに身をも人をも思ひつつ捨ててし世をぞさらに捨てつる
自分も、昔の人々も、もうこの世にはいないものと思って、一度捨てた世を、私は今日、あらためて本当に捨てました。
限りぞと思ひなりにし世の中を返す返すも背きぬるかな
あの時すでにこれが最後だと思ったこの世に、思いがけず戻ってきてしまった。でも今度こそ、重ねてその世へ背を向けたのです。
中将、出家を知って嘆く
そんなところへ、中将からまた手紙が届いた。小野の人々は動転していたので、つい浮舟が出家したことを使いへ話してしまった。
中将は呆然とした。
――これほど出家の志が深かった人だからこそ、私へのほんのわずかな返事さえ始めるまいと、あれほど拒んでいたのか。それにしても、なんというあっけないことだ。あんなに美しかった髪を、いつかはもっとよく見せてほしいと話していたのに。
すぐに歌を送ってきた。
岸遠く漕ぎ離るらむ海人舟に乗り遅れじと急がるるかな
あなたはもう、この世の岸から遠く漕ぎ離れていく海人舟に乗ったのでしょう。私も乗り遅れまいと、急いで追いかけたくなります。
浮舟は珍しく自分で手紙を手に取った。今となっては、この男の思いも哀れではある。それでも、いつものように手習いへ書いた歌を、そのまま包ませた。
心こそ憂き世の岸を離るれど行方も知らぬ海人の浮木を
心だけはつらいこの世の岸から離れました。でも私は、どこへ流れていくのかもわからない、海人の浮木のようなものなのです。
「せめてきれいに書き写してお出しになれば」と言われても、「書き直せば、かえって駄目にしてしまうでしょう」と、そのまま送った。
初瀬から帰った尼君の嘆き
初瀬参詣から尼君たちが戻り、浮舟の姿を見ると、その騒ぎと悲しみは限りなかった。
「私も尼なのだから、出家を勧めるのが本当なのかもしれません。でも、こんなに先の長いあなたが、この先どう生きていくのか、それが心配でならなかったからこそ、仏さまにもお願いしていたのに」
尼君が伏しまろぶようにして泣く。それを見ると浮舟には、本当の母が、自分を亡骸さえないまま死んだと思い、どれほど取り乱しただろうということが胸に迫った。
しかし浮舟は何も答えず、背を向けている。その若く愛らしい姿に、尼君はますます悲しくなり、急いで法衣を整えてやった。
一品宮の病と、僧都の不思議な話
一方、横川の僧都が祈祷した一品宮の病は、目に見えてよくなった。そのため僧都の評判はいっそう高まり、御修法も延長されて、しばらく宮中に留められた。
ある雨の夜、后の宮は僧都を近くへ召して話をした。
物の怪の執念深さや、さまざまな霊が名乗った恐ろしい話をしているうち、僧都はふと思い出したように言った。
「そういえば、この三月、たいそう珍しいことがございました。年老いた母が初瀬へ参詣した帰り、宇治院という荒れた所へ泊まったのですが……」
そして、木の下で一人の女を見つけたこと、その女が死にかけていたこと、物の怪に憑かれていたことなどを語った。
后の宮も、「それは本当に珍しい話ですね」と驚いた。そばに仕えていた宰相の君だけが、この話をしっかり聞いていた。
僧都はさらに、「今回、山を下りたついでに小野へ寄りましたところ、その女が泣きながら出家したいと強く願いましたので、髪を下ろしてやりました。私の妹の尼が、亡くした娘の代わりだと大切にしていたので、ひどく恨まれております。容貌は本当に美しく清らかで、尼姿にしてしまうのも惜しいほどの人でした。いったい誰だったのでしょう」と話した。
それを聞いた宰相の君は、宇治で不思議な消え方をした浮舟の話を知っていたので、――もしかすると、その人では――と思った。
后の宮も同じことを思い、「それなのかもしれない。大将に聞かせてあげたい」と考えた。しかし確かなことではないし、匂宮との秘密まで絡む話である。すぐ薫へ知らせることはためらわれ、そのままになった。
出家後の浮舟を中将が垣間見る
一品宮がすっかり回復し、僧都が横川へ戻る途中、小野にも立ち寄った。尼君は、「どうして私に何の相談もなく、こんな姿にしてしまわれたのです」と恨んだが、もう取り返しはつかない。
僧都は浮舟へ、「今はただ修行をなさい。老いも若きも、いつ死ぬかわからない世です。この世をはかないものと見切ったのは、あなたの身にはもっともなことです」と言い、法衣のための綾や薄物、絹などを贈った。
その日、秋風が一日中吹き、山はひどく心細かった。そんな中、紅葉の山道を中将がやって来た。
尼君は、
木枯らしの吹きにし山の麓には立ち隠すべき蔭だにぞなき
木枯らしが吹いてしまったこの山の麓には、もうあなたをお休ませするほどの木陰さえ残っておりません。
と告げる。中将は、
待つ人もあらじと思ふ山里の梢を見つつなほぞ過ぎ憂き
私を待つ人などいない山里だとは思いながらも、この梢を眺めると、どうしても素通りしにくいのです。
と返した。
そして、「せめて姿の変わったところを少し見せてほしい。それだけでも、これまで思ってきた証にしたい」と強く頼んだ。
少将の尼が浮舟を見ると、その日はかえって人に見せたいほど美しい姿だった。薄い鈍色の綾に、萱草色など澄んだ色を重ね、細身で品よく、短くなった髪は五重の扇を広げたように豊かに末が広がっている。
顔は化粧をしたように明るく美しく、経を読む姿は絵に描きたいほどだった。
少将の尼は、――私でさえ見るたび涙が出るのだから、恋い焦がれている中将が見たらどれほどだろう――と思い、障子の掛金のあたりにある穴から覗けるよう、几帳を少しどけてやった。
中将は浮舟を見ると、息を呑んだ。
――これほどの人だとは思わなかった。自分が思い描いていた以上の人だったのに。
自分が何か取り返しのつかない過ちを犯したように、惜しく、悔しく、悲しかった。気配まで浮舟へ聞こえそうになり、慌ててその場を離れた。
そして尼君へ、「普通の女としては人目を憚ることがあったとしても、もう尼なのですから、かえって気兼ねなくお話しできるでしょう。兄妹だと思ってくださればいい。これからも慰める相手にさせてください」と頼んだ。
浮舟へも歌を送った。
おほかたの世を背きける君なれど厭ふによせて身こそつらけれ
あなたは世間すべてに背を向けて出家されたのでしょう。それでも、その「世を厭う」という言葉にかこつけて、私まで厭われたようでつらいのです。
浮舟は、その意味へは返事をしなかった。
出家してからの浮舟は、以前より少し心が晴れた。尼君と冗談を交わしたり、碁を打ったりもするようになり、法華経はもちろん、多くの経や法文を読んで修行に励んだ。
雪の小野で迎える新しい年
やがて深い雪が積もり、人の訪れも絶えた。
年が改まっても、山里には春の気配さえない。凍りついた水は音も立てず、それがかえって心細かった。
匂宮のことは今では「つらい人だった」と思い切っている。それでも昔の一つ一つの出来事まで、完全に忘れたわけではない。
かきくらす野山の雪を眺めても降りにしことぞ今日も悲しき
野も山も暗くするように降り積もる雪を眺めていると、降り積もった昔の出来事が、今日もなお悲しく思い出されます。
自分が世間では死んだ人となって、もう一年近くになる。「今でも私を思い出す人がいるのだろうか」と考えることも多かった。
ある日、山で摘んだ若菜が届き、尼君は歌を添えて浮舟へ差し出した。
山里の雪間の若菜摘みはやしなほ生ひ先の頼まるるかな
山里の雪の間から出た若菜を摘んで祝っていると、やはりあなたのこれから先の長い人生を頼もしく思わずにはいられません。
浮舟も返した。
雪深き野辺の若菜も今よりは君がためにぞ年も摘むべき
この雪深い野辺の若菜も、これからはあなたのために、毎年摘むことにいたしましょう。
尼君は、「本当にそうして長く生きてくだされば」と思うと、涙をこぼした。
寝所近くの紅梅は、昔と変わらぬ色と香りで咲いている。浮舟には、特にその香りが心に染みた。かつて誰かの衣に染みていた、忘れがたい薫りを思い出すからなのだろうか。
袖触れし人こそ見えね花の香のそれかと匂ふ春のあけぼの
かつて袖を触れ合わせた人の姿は、もうここには見えない。それなのに花の香だけが、あの人の薫りではないかと思わせる春の明け方です。
紀伊守の口から薫のことを聞く
そんなころ、大尼君の孫にあたる紀伊守が都へ上って来た。三十歳ほどで、顔立ちもよく、自信ありげな男だった。
大尼君と話しながら、「常陸の北の方は、このごろお便りを寄こされますか」と口にした。
浮舟は思わず耳をそばだてた。
それは、自分の母のことだった。
紀伊守は続けた。「都へ上って何日かたちましたが、公の用事が多くてなかなか伺えませんでした。昨日もこちらへ来ようと思ったのですが、右大将殿が宇治へお出かけになる御供をして、故八の宮がお住まいだった所へ参りました。
故宮の御娘へ大将殿がお通いになっていて、一人は数年前に亡くなりました。その妹君も、人知れず別の所へ住まわせていらしたのですが、去年の春にまた亡くなられました。その方の法事をなさるため、寺の律師へいろいろ御指図なさっていました」
浮舟は胸を突かれた。
――私のことを、まだ忘れてはいらっしゃらないのだ。
だが怪しまれてはいけないと思い、奥へ顔を向けたまま動かなかった。
紀伊守はさらに薫の様子を語った。
「昨日も川の近くへ行かれ、水面を御覧になって、たいそう泣いていらっしゃいました。建物へ上がられて、柱にこんな歌を書きつけられたのです」
見し人は影も止まらぬ水の上に落ち添ふ涙いとどせきあへず
かつて見たあの人の面影さえ残らない水の上に、私の涙まで落ち重なってゆく。もうどうしても、せき止めることができない。
「大将殿は言葉に出してお気持ちを語ることの少ない方ですが、御様子だけを見ても、本当に深く悲しんでいらっしゃることがわかりました。私は若いころから、あの方ほど立派な人はいないと思っております」
浮舟は、こんな深いことなど考えそうにない男にまで薫の人柄がわかるのだと思い、胸がいっぱいになった。
それでも、自分が生きていることを薫へ知らせようとは思えない。
――母の心を思えば、知らせるべきなのかもしれない。でも、こんな姿になって生きていると母に見せるのも、やはりためらわれる。
浮舟は、薫の法事のために用意される衣を目にしても、何も言えなかった。
尼衣変れる身にやありし世の形見に袖をかけて偲ばむ
尼衣を着る別人のような身になった今、昔の世の形見であるこの袖に触れて、過ぎた日々を偲ぶのでしょうか。
薫、浮舟が生きているかもしれないと知る
薫は浮舟の一周忌の法要を営み、「本当にあっけなく終わってしまった」と、なお深く悲しんでいた。
常陸介の子どもたちにも目をかけ、一人を蔵人にし、自分の役所の将監に取り立てるなど、浮舟の縁者として大切にした。まだ童の弟の中にも顔立ちのよい子がいるので、いずれ自分の近くで使おうとも思っていた。
ある雨の静かな夜、薫は后の宮のもとへ参上した。話のついでに宇治のことを語り、「あそこへ長く通いましたが、あの土地には人の心を出家へ向かわせるような何かがあるように思われます」と言った。
后の宮は、以前僧都から聞いた話を思い出した。
「そこには、何か恐ろしいものでも住んでいるのでしょうか。あの人は、いったいどんなふうに亡くなったのです」
薫は、その問い方に何か含みがあると感じた。しかし浮舟と匂宮の秘密を后の宮が知っているのではないかと思うと気の毒で、詳しくは話さなかった。
その後、后の宮は小宰相の君へ、「大将があの人のことをたいそう悲しんでいたので、話してしまおうかと思ったけれど、もし人違いなら気の毒でしょう。あなたから、僧都がこんな話をしていたと、世間話のついでに話してみなさい」と命じた。
小宰相がその話を薫へ伝えると、薫が驚かないはずがなかった。
宇治院。春。突然姿を消した女。人知れぬ場所へ運ばれていたこと。そして、今は小野で尼になっているという。
一つ一つを考え合わせると、浮舟と違う点がほとんどない。
「本当に、あの人を見つけ出したのだとしたら、どんな気持ちがするだろう。けれど自分で山中を探し回るのも、世間から見れば物好きだと言われるかもしれない。また匂宮がこのことを知れば、必ず昔を思い出し、せっかく浮舟が選んだ出家の道を邪魔するだろう。
宮も関わることになるのなら、どれほど愛しいと思っても、もう本当に死んだ人と思って終わりにしたほうがいいのかもしれない。いつかずっと先、自分もこの世の人でなくなるころに、あの世の境で偶然語り合うことができれば、それでいい。もう自分の女として取り戻そうなどとは思うまい」
薫はそう考えようとした。
しかし、本当に黙ったままでいられるはずもなかった。
薫、横川へ向かうことを決める
薫は機会を作り、后の宮へもう少し詳しく尋ねた。
「私はすっかり亡くなったと思っていた人が、どこかで生きているらしいと、人づてに聞きました。そんなことが本当にあるのだろうかとは思います。でも、もともと自分から大騒ぎを起こしたり、思い切ったことをしそうにない人でしたから、聞いた話には妙に思い当たるところがあるのです」
そして匂宮のことは、宮を責めるようには言わず、「もしそのことまで宮がお聞きになれば、また面倒なことになるでしょう。たとえ本当に生きていたとわかっても、私は知らない顔をして過ごそうかと思います」と話した。
后の宮も、「僧都が話したのは、とても恐ろしい夜のことでしたので、私も細かいところまで耳を留めておりませんでした。宮には、このことをどうしてお知らせできるでしょう。聞きつけられたら、かえってお苦しみになるでしょうから」と言った。
薫の心は、もうそのことから離れなかった。
――浮舟が住んでいるという山里はいったいどこなのか。どうすれば不自然でない形で尋ね当てられるだろう。まず横川の僧都に会い、詳しい事情を聞くしかない。
毎月八日、薫は薬師仏への信仰から比叡山の中堂へ参詣する習慣があった。その機会に、そのまま横川へ行こうと決めた。
そして常陸介の子で、浮舟の弟にあたるまだ幼い童を一人、供に連れて行くことにした。
――浮舟本人だとわかっても、すぐこちらの身分を明かすまい。相手の様子を見てから決めよう。
そう考える一方で、もし本当に浮舟だったなら、別人のような尼姿で、見知らぬ人々の中に暮らしているところを目の当たりにすることになる。それを思うだけで、どれほどつらいだろうとも思われる。
薫は、さまざまに心を乱しながら、横川へ向かう道を急いだのだった。
