
このページでは、『源氏物語』第36帖「柏木」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第36帖「柏木」原文全文をご覧ください。
柏木、死を覚悟して最後の手紙を送る
柏木はその後も病が少しもよくならないまま、新しい年を迎えた。父の致仕の大臣や母北の方が嘆き悲しんでいるのを見ると、無理に命を絶つようなことをすれば、むなしく罪を重ねるだけだとは思う。しかし一方で、この世にどうしても離れがたいほど未練があるわけでもなかった。幼いころから、人より一段すぐれた人間になりたいと思い、公のことでも私事でも高いところを目指してきたのに、思うようにはいかなかった。いくつかの挫折を重ねるうち、この世そのものがつまらなくなり、出家して来世のために修行したいという思いを深くしてきた。それでも父母を悲しませることを思えば、山へ入るにも親の情が重い絆となり、気持ちを紛らわせながら今日まで生きてきたのだった。
そして今となっては、もう世間に立ち交じって生きていく気力もないほどの物思いが、いくつも身にまとわりついている。「いったい誰を恨めばよいのだろう。結局は自分自身が自分を駄目にしたのだ」と思えば、恨むべき相手さえいなかった。「神や仏へ恨みを言う筋合いもない。すべて、こうなるべき宿命だったのだろう。誰だって千年の松のように生き続けられるわけではない。せめて、まだ人が少しは惜しんでくれる年齢で死んで、ほんのわずかでも『かわいそうに』と思ってくださる方があるなら、それを、これほど一つの恋に身を焼いた証と思うことにしよう。
「無理に生き延びれば、いつかあってはならない噂まで世に立ち、自分にもあの方にも、さらに厄介な騒ぎを招くかもしれない。それよりは、私を無礼な男だと思っておられるあの方も、死んだあとなら、さすがに少しは許してくださるだろう。すべてのことは、死ぬ時には消えてしまうものだ。それに、あのこと以外には大きな過ちを犯してきたつもりもない。長年そば近く召してくださった方々も、何かの折には少しは昔を思い出してくださるだろう」。そんなことを一人で考え続けても、結局はむなしいばかりだった。
「どうして私は、こんなに短い間に、自分をここまでしてしまったのだろう」。胸の内は暗く乱れ、自分から流す涙で枕さえ浮いてしまいそうだった。ある時、人々が少し席を外した隙に、柏木は女三の宮へ手紙を書いた。「もう命も終わりに近づいていることは、自然とお耳に入っているかもしれません。それなのに、『どうなったのだろう』とさえお気に留めてくださらない。それも当然とは思いますが、本当につらくてなりません」と書き始めたものの、手がひどく震え、思うことを全部書くことさえできなかった。
今はとて燃えむ煙もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ
もうこれまでと、私の身が煙になって消える時にも、その煙は思いに絡まって立ち迷うのでしょう。尽きることのなかったこの思いだけは、死んだあとにも残るのでしょうか。
「せめて『かわいそうに』と、それだけでもおっしゃってください。そうすれば少しは心を鎮めて、この身から生まれた闇の中をさまよう死後の道にも、その言葉が光になるかもしれません」と書き送った。小侍従にも懲りることなく、切々とした言葉を寄せ、「自分自身でもう一度だけ、直接申し上げたいことがある」と頼んだ。
小侍従は、幼いころから柏木を知っている。女三の宮への身のほど知らずな思いはひどいと思ってきたが、「もうこれが最後」と聞けば、やはり悲しい。泣きながら姫宮へ、「どうか御返事を。これが本当に最後になるかもしれません」と勧めた。女三の宮は、「私自身も今日か明日かと思うほど心細いので、人が死にそうだと聞けば、その悲しさくらいはわかります。でも、あのことがあまりにもつらくて、もう懲りてしまったので……恐ろしくてなりません」と、どうしても書こうとしなかった。
もともと女三の宮は、強情で意志の強い人ではない。ただ、源氏が時折見せる、はっきりとは言わないながらも責めるような気配があまりに恐ろしいのである。小侍従が硯を用意し、何度も頼み込むと、ようやく渋々筆を取った。小侍従はその返事を持ち、宵闇に紛れて柏木のところへ向かった。
死を前に交わされた女三の宮との歌
一方、父の致仕の大臣は、評判の高い行者を葛城山からまで招き、柏木へ加持をさせようとしていた。修法も読経も大がかりに行われ、世間にはほとんど知られていない深山の聖や験者まで、弟たちを遣わして探し出してくる。中には見ただけで気味の悪い山伏まで大勢集まっていた。しかし柏木の病には、ここが悪いというはっきりしたところがない。ただ心細そうに、時々声を上げて泣くばかりである。陰陽師の占いでは、多くが女の霊の仕業だと言ったが、物の怪が姿を現すわけでもないので、父は手を尽くし、山々の隅にまで名僧を探していたのだった。
葛城から来た聖は背が高く、目つきまで鋭そうな男で、荒々しい声を張り上げて陀羅尼を唱える。柏木は、「ああ、嫌だな。私がそれほど罪深いせいなのか、あんな大声で陀羅尼を読まれると、かえって恐ろしくて、ますます死にそうな気がする」と言い、そっとその場を抜けて小侍従と話した。
父大臣はそんなことも知らず、「少し眠って休んでいます」と女房たちから聞かされ、そのつもりで聖とひそやかに話し込んでいた。年を重ねてもなお華やかで、笑い好きでもある父が、こんな山伏たちを相手に、柏木がどのように病み始め、これというきっかけもないまま次第に重くなってきたのかを細かく説明し、「どうか本当に物の怪が姿を現すよう、念を入れて祈ってください」と頼んでいる。その姿を思えば、柏木にはあまりにも悲しかった。
「聞きましたか」と柏木は小侍従に言った。「自分では何の罪とも思い当たらないのに、占いに出る女の霊――もし本当にそんな執念深いものが私に取りついているのなら、この厭わしい自分の身も、かえって大したものになったと言えるかもしれませんね。
「昔だって、身のほどを越えた心から、あってはならない過ちを犯し、相手の女性の名まで傷つけ、自分の身を滅ぼした人間がいなかったわけではない。そう思い直そうとしても、やはり苦しいのです。源氏の院にこの罪を知られたまま、生きてこの世にいることが、どうにも恥ずかしくてならない。それはきっと、あの方が普通の人とは違うほどまぶしい御方だからなのでしょう。
「まだ本当の過ちなど起こる前、初めて姫宮と目を合わせたあの夕方から、私の魂はかき乱されてしまった。そして今まで身体へ戻ってこない。もしその魂が六条院の中をさまよい歩いているのなら、どうかあちらへ結び留めておいてください」。柏木は抜け殻のように弱り切った姿で、泣いたり笑ったりしながら話した。
小侍従から、女三の宮も何もかも恥ずかしく、恐ろしく思い詰めていると聞けば、柏木には、痩せて沈み込んでいるであろう姫宮の姿が目の前に浮かぶ。自分の魂は本当にそこへ通っているのだろうかとまで思い、心はいっそう乱れた。「もう二度とこのことを申し上げるまい。この世はこんなにも短く終わろうとしているのに、来世まで二人を縛る妨げになっては、あまりにもお気の毒だから。ただ、姫宮が御無事だということだけは、何とか聞いてから死にたい。あの夢の意味も、自分一人で思い合わせるばかりで、誰とも語れないことが苦しくてならない」と言う。
小侍従は、恐ろしいと思う一方で、その深い思いには耐えられず、やはり泣いた。灯りを寄せて姫宮の返事を見ると、筆跡は相変わらず頼りないほど若々しく、美しかった。
立ち添ひて消えやしなまし憂きことを思ひ乱るる煙比べに
あなたが煙となって消えるというのなら、私もそばへ立ち添って消えてしまいたい。どちらのほうが、このつらいことに思い乱れて煙を立てるのか、比べるように。
どうして私だけが後に残れましょう。
たったそれだけだったが、柏木には身に余るほどありがたく、胸へ染みた。「この煙のことだけが、この世で得た思い出になるのだろうか。なんと儚い人生だったのだろう」。さらに涙を流し、横になったまま何度も休みながら返事を書いた。文字もつながらず、鳥が這った跡のように乱れている。
行方なき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ
行く先も知れない空の煙となってしまっても、私は思い続けたあなたのいるあたりを、決して離れません。
「夕方には、ことさら空を眺めてください。今となっては、人目を気にして私を咎める者もいません。何の甲斐もない私への哀れみだけでも、どうか絶やさず心に掛けてください」と書き散らしたところで、またひどく苦しくなった。
「もうよい。あまり夜が更けないうちにお帰りなさい。そして、本当にもう最後のようだと姫宮へお伝えください。今さら人が怪しみ、事情を思い合わせたりすることを、死んだあとまで考えなければならないのが残念です。いったいどんな前世の縁で、こんなことがこれほどまで心に染みついたのでしょうね」。柏木は泣きながら奥へいざっていった。普段なら小侍従をいつまでも引き留め、取り留めもない話までさせたがる人なのに、今は言葉も少ない。そのことがかえって悲しく、小侍従はなかなか立ち去れなかった。
女三の宮、男児を出産する
その同じ夕方から、女三の宮も急に苦しみ始めた。それが産気だと気づいた女房たちは大騒ぎし、源氏へ知らせた。源氏は驚いて六条院へ渡った。心の中では、「ああ、残念なことだ。何の疑いもないままこの子の誕生を迎えられたなら、どれほど珍しく嬉しかっただろう」と思う。それでも一切顔には出さず、験者を集め、絶えず続けていた修法に加えて、効験ある僧たちを総動員して加持をさせた。
姫宮は一晩中苦しみ、日が高くなったころ、ようやく子を産んだ。男の子だと聞いた瞬間、源氏の胸にはまた複雑な思いが走った。「これほどひそかにしていることなのに、よりによって誰の子かはっきりわかるような顔で生まれてきたら、どれほど苦しいだろう。女の子なら、男ほど多くの人前へ出るものでもないから、まだ紛らわせやすいのに」。そう思う一方で、「これほど胸の痛む疑いを抱えた子なら、むしろ男として生まれ、こちらの気持ちが少し楽になる形なのもよいのかもしれない」とも思った。
そして、自分でも不思議なほど、藤壺との過去が胸へ迫った。「やはりこれは、私が一生恐ろしいと思ってきた過ちへの報いなのだろう。この世でこうして思いがけない形で報いを受けたのなら、せめて来世で負う罪が少しは軽くなるだろうか」。周囲の人々はもちろん何も知らない。源氏が特別に大切に扱う女三の宮から、しかも末になって生まれた御子なのだから、さぞ格別な寵愛を受けるだろうと考え、華やかに世話をした。
産屋の儀式は実に盛大だった。六条院の御方々がそれぞれ趣向を凝らして贈る産養の品々は、普通の折敷や衝重、高坏一つに至るまで、互いに競うような心尽くしが見える。五日の夜には明石中宮から、子持ちの祝いの品から女房たちへの贈り物まで、それぞれの身分に合わせて公的な儀礼と見まがうほど盛大に贈られた。粥や屯食は五十具、六条院の下働きの者に至るまで饗応が行き渡り、宮司や大夫をはじめ、院の殿上人も皆参上した。
七夜には内裏から祝いがあり、こちらも公の儀式そのものだった。本来なら致仕の大臣なども特別に祝いへ加わるはずだったが、今は柏木の病で何も考えられず、形だけの見舞いを寄せるにとどまった。親王や上達部も大勢集まり、世にないほど大切にされる御子ではあったが、源氏の心には人知れぬ痛みがあったため、派手に浮かれることはせず、管弦の遊びなども行われなかった。
女三の宮、出家を願う
女三の宮はもともとひどく華奢な身体で、初めて経験した出産を恐ろしいものと感じ、産後も湯さえほとんど飲めなかった。それにつけても、自分の身のつらさを思い詰め、「もういい。このまま死んでしまいたい」とまで思う。
源氏は世間の目にはよく気を配っていたが、まだ産後で不安定な姫宮を特別にかわいがって眺めるようなことはしなかった。年老いた女房たちが、「まあ、院はずいぶん淡白でいらっしゃいますね。これほど珍しい御子がお生まれになり、しかもこんなに御立派なのに」と言うのを姫宮は聞き、「これからますます私をお嫌いになり、隔てるお気持ちが強くなるのだろう」と恨めしくなった。自分の身がいっそうつらく思われ、尼になりたいという願いは尽きなかった。
源氏は夜にはこちらで休まず、昼間に時々顔を見せるだけだった。「世の中の無常を見るにつけ、残された時間も短く感じられ、このごろは仏道修行にばかり心が向いています。産後の騒がしいところへ来る気分になれなくて、なかなか参れませんでしたが、いかがですか。少しはさっぱりした御気分になりましたか。心配しています」と、几帳のそばから覗き込んだ。
女三の宮は頭を上げ、「やはり、生きていられそうにない気がいたします。子を産んだ女は罪も重いと申します。尼になって、それで命が助かるか試してみたいのです。たとえ死ぬとしても、少しでも罪を消すことができればと思います」と、いつもの幼い調子とは違って、ひどく大人びた口ぶりで申し上げた。
源氏は表向きには、「そんな不吉なことを、どうしてそこまでお考えになるのです。出産は恐ろしいものではありますが、それで皆が死んでしまうものでもないでしょう」と止めた。しかし心の中には、別の思いもあった。「もし本当に御自分からそう望まれるのなら、尼となったお姿でお世話するのも、しみじみとしたものだろう。こうして俗世の夫婦として眺め続ければ、何かにつけてこちらが心を置いてしまう。それは姫宮にも気の毒だし、自分でももう元の気持ちには戻れない。人から私が粗略に扱っていると思われるのも気の毒だし、朱雀院のお耳に入れば、すべて私の落ち度になる。病を理由に、このまま出家させてしまうのもよいかもしれない」
そう考えはしたものの、若く美しい姫宮の、長く豊かな髪を切ってしまうことを思えば、やはり惜しく悲しい。「もう少し気を強くお持ちなさい。ひどいことにはならないでしょう。もう駄目だと見えた人が助かった例だって、すぐ近くにあるのですから」と言って、湯を飲ませた。青ざめ、ひどく痩せ、頼りなく横たわる姫宮は、あまりにもおっとりとしてかわいらしい。「これほどの過ちがあったとしても、見ていればつい心弱く許してしまいそうな人だ」と源氏には思われた。
朱雀院、夜ひそかに娘を訪ねる
山に籠もる朱雀院は、無事に御子が生まれたとは聞いたものの、その後も女三の宮がひどく弱っているとばかり伝わってくるので、仏道修行にまで心が乱れるほど心配していた。姫宮のほうも、何日もまともに物を食べないため、いよいよ命の頼みも少なくなり、長く会っていなかった父院が以前にもまして恋しく思われた。「もう二度とお目にかかれないのだろうか」と激しく泣く。
その様子がしかるべき人を通して朱雀院へ伝えられると、院はとても耐えられなくなった。世を捨てた身がこうして俗世へ出るのは本来あってはならないことだと思いながらも、夜に紛れて山を下り、娘を訪ねてきた。何の前触れもない突然の来訪だったので、源氏は驚き、畏まって迎えた。
朱雀院は、「もう世俗を顧みるまいと思っておりましたが、どうしても悟りきれないものは、やはり親が子を思う闇でした。修行さえ怠るほど心が乱れ、もし親子の順序どおりでない別れになり、この恨みが互いに残ったらと思うと、もう世間から何を言われようとかまわず、こうして来てしまいました」と言った。正装の法服ではなく、ひそかな外出にふさわしい墨染姿だったが、その姿さえ優雅で、親しみ深く、美しかった。源氏はそれを見て羨ましいほどに思い、いつものようにまず涙を流した。
「姫宮は、これという特別な病ではないようなのです。ただ何か月も弱っておられ、ろくに物も召し上がらないことが積もって、こうなったのでしょう」と源氏は説明した。
御帳の前へ朱雀院の座が用意され、女房たちは女三の宮を何とか整え、床近くへ移した。朱雀院は几帳を少し押しやり、「まるで夜通し加持をする僧のようで、まだ人を救えるほど修行を積んだ身でもないので気恥ずかしいが、あなたがどんな様子なのかと心配でならなかった。今日はそのまま見せてもらいましょう」と涙を拭った。
女三の宮も弱々しく泣き、「もう生きていけそうにありません。こうして父上がおいでくださったこの機会に、どうか私を尼にしてください」と頼んだ。朱雀院は、「本当にそれがあなたの願いなら、尊いことです。ただ、まだ命が尽きたと決まったわけでもなく、若く先の長い人が出家すれば、かえって後々心が乱れ、世間から非難されることもある」と言い、源氏へ「本人はこうまで強く願っています。もし本当に今が最期というほどなら、一時でも仏の助けになるようにしてやりたいと思うのですが」と相談した。
源氏は、「この数日もそうおっしゃるのですが、邪気などが人の心を惑わせ、出家するよう仕向けることもあると聞きますので、まともには取り合わずにおりました」と答える。すると朱雀院は、「たとえ物の怪に勧められたとしても、それに負けて悪いことをするわけではない。これほど弱った人が最期を迎えるのに、その願いを聞き流してしまっては、あとで悔いが残るでしょう」と言った。
女三の宮、父の手で髪を下ろす
朱雀院の心には、長年積もっていた思いもあった。自分は女三の宮を何より大切に思い、安心して託せる人として源氏へ預けた。しかし聞こえてくるところでは、源氏は思ったほど姫宮へ深い愛情を寄せていないらしい。だからといって今さらその不満を露骨に口にすることもできず、世間がどう噂しているかも気にかかっていた。
けれど、「こんな時に姫宮を源氏から完全に引き離せば、世間から『父院が夫を恨んで娘を取り戻した』と笑われるだけだ。源氏は夫としてはともかく、大きな後見としては、やはり頼める人である。姫宮には広く立派な御領地も与えてある。そこを整えて住まわせ、私が生きているうちは、出家後も心配のない暮らしをさせよう。源氏だって、いくら何でも完全に見捨てることはあるまい。その心も最後まで見てみよう」。そう心を決め、「では、せっかく私がこうして来たのだから、あなたが戒を受けることを、私にとっても仏縁としましょう」と許した。
その言葉を聞いた源氏は、それまで姫宮に対して抱いていた嫌な気持ちまで忘れてしまった。「こんなことになってしまうのか」と、悲しさと口惜しさに耐えられず、奥へ入った。「どうして、残り少ない私を捨ててまで、そんなふうにお考えになってしまったのです。もう少しだけ心を落ち着けて、湯や食事を取ってください。出家は尊いことでも、身体がこんなに弱っていては修行だってできないでしょう。まず身体を治してからでもよいではありませんか」と懸命に引き止めた。
けれど女三の宮は首を振り、源氏があまりにもつらいことを言うと思っているようだった。源氏は、その様子を見ているうち、「これほど恨めしそうにされるのは、姫宮のほうにも私を冷たいと思う理由があるのだろう」と思えば、やはりかわいそうになる。何度も言葉を尽くすうち、夜は明け方近くなった。
朱雀院は、昼になってから山へ戻るのは人目につきすぎると急ぎ、祈祷のために集まっている僧の中から、とりわけ高徳の者たちだけを呼び入れた。そして女三の宮の髪を下ろさせた。まだ盛りの、見事に美しく長い髪を切り落とし、戒を受ける儀式が始まる。源氏は悲しさをこらえきれず、声を押さえることもできないほど泣いた。朱雀院も、もともとこの娘だけは誰より大切に、幸せにしたいと思っていた。その娘を、若い身のまま世俗を離れた姿にしてしまうことが悲しく、涙に沈んだ。
「こうなっても、どうか命だけは無事で、同じことなら念誦などをお勤めなさい」と朱雀院は娘へ言い残し、夜がすっかり明けてしまったので急いで帰っていった。女三の宮はなお弱く、消え入りそうで、まともに父を見送ることも、言葉を申し上げることもできない。源氏も、「夢のように心が乱れており、昔のような御幸をお迎えする畏まりも、満足にお見せできませんでした。改めてこちらから参上いたします」と申し上げた。
朱雀院はさらに源氏へ、「私は、自分が今日死ぬか明日死ぬかと思われたころ、この娘があとに残って、頼る人もなく漂うことだけがどうしても気がかりでした。あなた御自身の望みではなかったかもしれませんが、こうしてお願いし、それから何年も安心して過ごしてきました。もし娘が生き残りましたら、今度は姿を変え、人の多い華やかな住まいには似つかわしくなくなるでしょう。かといって山里に離れて暮らせば、それも心細い。姿が変わっても、どうか見放さないでください」と頼んだ。
源氏は、「そこまでおっしゃられると、かえって自分が恥ずかしくなります。この数日は何も考えられないほど心が乱れていて、物事の分別さえつきません」と答えた。実際、耐え難い思いだった。
朱雀院が帰ったあと、後夜の加持の場で物の怪が現れた。「こういうことだったのですよ。あの人をずいぶんうまく取り返した、と御一人ではお思いだったので、それが悔しくて、こちらに何食わぬ顔でずっと控えていたのです。もう帰りますよ」と笑った。源氏は愕然とした。「では、紫の上から離れた物の怪が、今度はこちらへ取りついていたというのか」。あまりにかわいそうで、悔しく思われた。姫宮は少し息を吹き返したようには見えたものの、まだ安心できる状態ではない。女房たちも出家までしてしまったことをむなしく思ったが、「せめてこのまま命だけでも助かってくだされば」と祈り、修法をさらに延長して絶えず続けさせた。
柏木、妻との別れを思う
柏木は女三の宮が出家したと聞くと、いよいよ消え入りそうに弱り、もう生きる望みはほとんどなくなった。それでも今、胸へ迫ってきたのは、自分の妻である女二の宮のことだった。病床のある実家へ妻を呼び寄せるのは、今さら軽々しいようにも思われる。けれど母と父がずっと自分のそばについている今なら、何かの折に人目を外し、もう一度妻に会えるかもしれない。そう考えて、「どうにかして、一条の宮へもう一度参りたい」と言ったが、周囲は決して許さなかった。
柏木は誰に対しても、妻の女二の宮のことを頼んだ。もともと母御息所は、この縁談をそれほど喜んでいなかった。しかし柏木の父大臣が熱心に申し入れ、本人の気持ちも深かったので、朱雀院も最終的に許したのだった。朱雀院が女三の宮のことで思い悩んでいた折、「むしろ女二の宮のほうは、行く末も安心だ。あれほど真面目な後見を夫として持ったのだから」と話していたとも聞いている。その言葉を、柏木は身に余ることとして思い出した。
「このまま死ねば、私が妻を見捨てたようになるのでしょう。あの方がどれほど嘆かれるかと思えば、本当にかわいそうです。でも命は自分の思いどおりにはならない。どうか母上も、お心を掛けてあの方をお訪ねください」と頼んだ。母は、「まあ、なんて不吉なことを。あなたに先立たれて、私がいったいどれほど長く生きられるというのです。どうしてそんな先々のことまで言うのです」と、ただ泣くばかりである。柏木はそれ以上話せず、弟の右大弁に、死後のさまざまなことを詳しく言い残した。
柏木は普段から穏やかで、人々をよく気遣い、弟たちにとっては兄というより親のような存在だった。まだ幼い弟たちは特に柏木を頼りにしていたので、弱々しい遺言をする姿を見て、悲しまない者はいなかった。邸じゅうの人々が嘆いた。
帝もこの才ある臣下を惜しまれた。もう最期が近いと聞くと、突然、柏木を権大納言へ昇進させた。この昇進を喜びに、少しでも気力を取り戻し、もう一度参内できないかという御心だったが、柏木はもはや身体を立て直すことができなかった。それでも苦しい中で、昇進への御礼だけは丁重に申し上げた。父大臣は、帝からこれほど重く思われている息子を見るほど、惜しく、悲しくてならなかった。
柏木、夕霧へ最後の胸の内を託す
夕霧は絶えず深く心配し、柏木を見舞っていた。権大納言昇進の祝いにも真っ先に訪れた。邸の門には馬や車が立ち並び、人々が騒がしく出入りしている。しかし柏木は年が明けてからほとんど起き上がることもなく、病み乱れた姿で親友に会うのをためらっていた。それでも、このまま思うばかりで弱り、顔も見せず別れるのはあまりに残念だと思い、「どうかこちらへお入りください。こんな取り乱した姿をお見せする失礼は、きっとお許しいただけるでしょう」と、僧たちをしばらく枕元から退けて夕霧を入れた。
二人は若いころから、ほとんど隔てなく付き合ってきた。別れる悲しみは、親や兄弟に劣らないほど深い。今日は本来、昇進を祝って明るい顔で会うはずだったのにと思えば、夕霧には悔しくてならない。「どうして、こんなに頼りない御様子になってしまわれたのです。今日はせっかくの御昇進ですから、少しはお元気になるかと思っていたのに」と、几帳の端を持ち上げた。
柏木は、「残念ながら、もう自分が自分ではないようになってしまいました」と答え、烏帽子だけは押し入れて、少し起き上がろうとした。しかしひどく苦しそうだった。柔らかな白い衣を何枚も重ね、衾を引き掛けて寝ている。身の回りは清潔に整えられ、よい香りが漂い、病床でさえ奥ゆかしい。重病人なら髪や髭も乱れ、自然とむさ苦しくなるものなのに、痩せ細ったことでかえって肌は白く、上品さが際立っている。枕を高くし、途切れ途切れの息で話す姿は、あまりにも弱々しかった。
夕霧は涙を拭いながら、「これほど長く病んでいらしたのに、お姿そのものはそれほど損なわれていませんね。普段より、かえって美しくさえ見えます」と言った。そして、「先に死ぬも後に死ぬもなく、ともに生きようと約束したではありませんか。本当にひどいことです。この御病気が、いったい何のためにここまで重くなったのかさえ、私にはわからない。これほど親しい仲なのに、何も知らないままなのがつらい」と嘆いた。
柏木は、息を継ぎながら答えた。「自分では、いつから重くなったという感覚もありません。ここが苦しいという場所もないので、まさか急にこんなことになるとも思わなかった。それなのに、たいして日も経たないうちにどんどん弱って、今では正気さえなくなりそうです。
「惜しくもない命を、皆が祈りや願を立て、さまざまな力で引き留めてくださるので、かえってそのため生と死の間に引っ掛かっているようで苦しい。だから自分の心では、もう急いで出発したいくらいなのです。それでも、この世を離れるのに心残りがないわけではない。父母へ孝行も途中で終わり、今さら御心をこれほど乱してしまった。帝への奉仕も道半ばです。自分の妻のことも、十分に大切にできず、恨みを残してしまった。そのような普通の嘆きはもちろんあります。
「けれど、それとは別に、胸の中にどうしても消えないことがあるのです。こんな最期の時に、今さら誰かへ漏らすことでもないと思っていました。でも、どうしても一人では抱えきれない。誰に話せばよいのでしょう。ほかにも親しい人は大勢いますが、内容が内容だけに、ほのめかすことさえできません。
「六条院との間に、ほんの少し行き違いがありまして、この数か月、ずっと心の中でお詫び申し上げていることがありました。それが本当に心残りで、世の中まで心細くなり、そのころから病み始めたように思います。院からお召しがあり、御賀の試楽の日に参上して御様子を拝したところ、やはりまだお許しになっていないような御目つきに見えた。それ以来、生き続けることまで憚られるように思われ、気持ちが大きく乱れて、そのまま静まらなくなってしまったのです。
「院にとって私は取るに足りない人間だったでしょう。それでも幼いころから、私はあの方を深く頼りにしてきました。いったいどんな讒言があったのか、それだけが、この世に残す恨みになりそうです。来世の妨げにもなりそうで怖い。もし何かの機会があれば、あなたから院のお耳へ入れ、どうか私に悪意はなかったと明らかにしてください。死んだあとにでも、この勘気を解いていただけたなら、それがあなたから受ける何よりの恩になります」
そう話すほどにも柏木は苦しそうになっていく。夕霧の胸には、これまでのいくつかの出来事が浮かんだが、何が本当の原因なのかまでは、やはり推し量れなかった。「それは、御自分の心が罪を感じているだけではありませんか。院にはまったくそのような御様子はなく、あなたが重く病んでいると聞かれてからは、限りなく惜しみ、嘆いていらっしゃいました。それほど思うことがあったのなら、どうして今まで黙っていたのです。早く双方のお話を聞いて、行き違いを解いて差し上げればよかった。今になっては、どうしようもないではありませんか」と、死へ向かう友を引き戻したい気持ちで悲しんだ。
柏木は、「本当に、少しでも身体に余裕のあるころに、あなたへ相談すればよかった。けれど、自分でもまさか今日明日の命だとは思わず、先へ延ばしてしまったのです。このことだけは、決してほかへ漏らさないでください。そして機会があれば、院へ申し上げる時にも十分気をつけてください。それから、一条にいらっしゃる宮を、何かにつけて訪ね、力になって差し上げてください。心細く暮らしていると朱雀院のお耳に入れば、それもお気の毒ですから」と頼んだ。
まだ言いたいことはいくらでもあったのだろうが、もう身体が耐えられなくなった。柏木は手だけ動かして、「もう、お帰りください」と合図した。加持をする僧たちが近くへ戻り、母上や父大臣も集まってきて、邸じゅうがまた騒がしくなったので、夕霧は泣きながら退出した。
柏木の死
柏木の姉である女御はもちろんのこと、夕霧の妻をはじめ親しい人々は皆、深く嘆いた。柏木は誰に対しても兄のように面倒見がよかったので、右大臣の北の方も、この人だけは特別に親しく思っており、さまざまな祈りを行わせた。しかし死を止める薬ではない。柏木はついに妻の女二の宮とも、もう一度会うことができないまま、泡が消えるように亡くなった。
女二の宮に対する柏木の心の底の愛情は、もともと燃え上がるほど深いものではなかった。それでも夫としての表向きの扱いは申し分なく、姫宮を大切にし、優しく、風情のある人として、打ち解けすぎることなく暮らしてきた。そのため妻には、これというつらい思い出もない。ただ、「こんなに短い命の人だったからこそ、どこか昔から、この世すべてをつまらなく思っているようなところがあったのだろうか」と思い出せば、悲しみはさらに深く、心を沈める姿は見る者にも痛々しかった。
一条御息所も、「これほど人から笑われるような、情けない結末になるとは」と、娘を見ながら嘆くこと限りない。父大臣と母北の方の悲しみは、まして言葉にできない。「私たちのほうが先に死ぬはずだったのに。なんと道理のない、つらいことだ」と焦がれるように泣いても、何の甲斐もなかった。
尼となった女三の宮は、柏木の身のほど知らずな心をただ恐ろしく嫌だと思い、長生きしてほしいと願っていたわけではない。それでも「亡くなった」と聞けば、さすがに深く哀れに思われた。「若君のことを、あれほど気にしていたのも、やはりこうなる縁があったからなのだろうか。思いもかけず、私にはこんなにつらいことまで起こる宿命だったのだろうか」。さまざまに心細くなり、自然と涙がこぼれた。
五十日の若君――源氏だけが知る面影
三月になると空はうららかになり、女三の宮の若君も五十日ほどになった。肌はとても白く、かわいらしく、月齢のわりにはしっかりしていて、何か話しかけるような声まで出す。源氏は女三の宮のもとへ渡り、「御気分はもうさっぱりしましたか。まったく、何とも甲斐のないことをなさいましたね。以前のままのお姿で、こうして御子と一緒にいらっしゃるところを見られたなら、どれほど嬉しかったでしょう。私を捨ててしまわれたのが、本当につらい」と涙ぐみながら恨みを言った。出家してからのほうが、かえって毎日のように訪れ、これまで以上に姫宮を大切な方として扱うようになっていた。
若君の五十日の祝いに餅を食べさせることになった。普通とは違う出生の事情を源氏一人だけが知っているので、女房たちは「どうなさいますか」とためらったが、源氏は、「何をためらうのです。女の子なら同じような筋で不吉にも思うかもしれませんが、男の子なのですから」と言い、南面に小さな御座を整え、祝いをさせた。
乳母は華やかに装い、御前の食べ物や色とりどりの籠、桧破籠など、祝いの品々を内にも外にも広げている。誰も本当の事情を知らないから、何の疑いもなく喜び合っている。その様子を源氏だけが、「なんと胸の痛む、目をそむけたくなる光景だろう」と見ていた。
女三の宮も起きていた。髪を切ったとはいえ、もともとあまりに長かったので、後ろ姿だけなら以前とそれほど変わらないほどである。小さく細くなった身体に、鈍色や黄みを帯びた今様色を重ねた姿は、尼姿にまだ馴染まない。それがかえって幼い少女のようで、優美でかわいらしかった。
源氏は几帳を引きやって姫宮のそばへ座る。恥ずかしがって背を向ける姿を見ながら、「ああ、墨染という色は、やはり目の前が暗くなるほど嫌なものですね。姿が変わっても、こうしてお会いすることだけは絶えないのだと思って自分を慰めていますが、それでも涙が止まらない。こんなふうに私を捨ててしまわれた自分の至らなさのせいだと思えば、何もかも胸が痛く、悔しくてならない。以前の姿へ取り返せるものなら、取り返したい」と嘆いた。
さらに、「もう世を捨てたのだからと、私への心まで離してしまわれたら、本当に御自分から私を嫌って捨てたのだと思うしかなく、恥ずかしく、つらいでしょう。どうか今までどおり、少しは私を哀れと思ってください」と言う。女三の宮は、「尼になった人は、ものの哀れなどわからないものだと聞いていました。それに私はもともと、そんなことを知る人間でもありませんから、何と申し上げればよいのでしょう」と答えた。
源氏は、「何とも張り合いのないことをおっしゃる。御自身でも、思い当たることはあるでしょうに」とだけ言い、途中で言葉を切って、若君へ目を移した。
若君には身分の高い乳母を大勢つけていた。源氏は乳母たちを呼び出し、これからどのように仕えるべきか、細かく言いつけた。そして、「ああ、私の残り少ない世に、この子はこれから育っていくのですね」と言いながら抱き上げた。
若君は安心したようににこにこと笑い、ふっくらと太り、真っ白でかわいらしい。源氏は、夕霧が幼かったころの姿をかすかに思い出してみるが、似ていない。明石中宮の皇子たちは父帝の系統らしい高貴な面差しで、王者の気品はあるが、格別に美しいというほどでもない。ところがこの若君は高貴さに加えて愛嬌があり、目元には薫るような美しさがあって、よく笑う。
――やはり、よく似ている。
そう思うのは、自分が事情を知っているせいなのだろうか。それでも、生まれたばかりの今から目の据わり方には穏やかな品があり、普通の子とは違って、どこか薫るような美しい顔立ちだった。女三の宮自身は、そこまで見分けている様子もない。ほかの人々は何も知らない。だから源氏一人だけが胸の中で、「ああ、なんと儚い人の契りだったのだろう」と思う。そのまま世の無常へ思いが広がり、涙がぽろぽろと落ちた。今日は祝いの日だから泣いてはいけないと、慌てて拭い隠した。
若君を見つめながら、源氏は「静かに思い、嘆くことに堪える」という古い言葉を小声で口ずさんだ。自分は四十八歳になったばかりなのに、もう人生の末へ来たような心地がする。この子へ、「おまえの父は……」と諭してやりたいような気持ちまで、胸の中にはあったのだろう。
「誰が世にか種は蒔きし」
「この秘密を知っている女房が、あの中にはきっといる。何も知らないのは悔しいものだ。その女房は、私をなんて間抜けな男だと思って見ているのだろう」。源氏は心穏やかではなかった。しかし、自分自身が恥をかくことなどかまわない。下手に問い詰めれば、何より女三の宮の名が傷つく。それがかわいそうなので、源氏は一切顔には出さなかった。
何も知らず、にこにこと笑っている若君の目元や口元のかわいらしさを見るほど、「事情を知らない者なら何も感じないのだろう。しかし、やはりあの人によく似ている」と思われる。「父母は、せめて子だけでも残っていればと泣いているだろう。それなのに、この子を見せることもできない。柏木は誰にも知られない形見だけを残し、あれほど誇り高く、分別のある男だったのに、自分から自分を死なせてしまった」。そう思えば、源氏の中の「けしからぬ男だ」という気持ちも引き返し、惜しさに涙がこぼれた。
人々が少し離れた時、源氏は女三の宮のそばへ寄った。「この子を、あなたはどう御覧になりますか。こんな子を残して、本当にこの世を完全に捨ててしまうおつもりだったのですか。ひどいものですね」と、わざと目を覚まさせるように言った。姫宮は顔を赤くしている。
誰が世にか種は蒔きしと人問はばいかが岩根の松は答へむ
この種はいったい誰の世に蒔かれたのかと人に問われたなら、岩根に生えたこの松は、何と答えるのでしょう。
「あわれなことですね」と、源氏は小声で続けた。女三の宮は何も返せず、うつ伏してしまった。源氏には、それも当然だと思われ、それ以上は追及しなかった。「いったいどんな気持ちなのだろう。深く考える人ではないとしても、さすがに何も感じないはずはない」。そう思えば、やはり痛々しくてならなかった。
夕霧の胸に残った柏木の言葉
夕霧は、柏木が死の間際に、堪えきれず何かをほのめかしたことが忘れられなかった。「いったい、何のことだったのだろう。柏木がもう少し意識のはっきりした状態であったなら、あそこまで口にしたところで、こちらももっとよく気配を読めただろうに。あまりにも最期の最期で、時機も悪く、何もわからないままなのが、もどかしくも悲しい」と、面影とともに思い続けていた。
女三の宮が、これという致命的な病でもないのに突然出家したことも不思議だった。「紫の上が本当に命も危ない状態で、泣きながら出家を願った時には、父上はあれほど重大なことと思い、最後まで引き留めたという。それなのに女三の宮には、なぜこんなにあっさり許されたのだろう」。さまざまなことを合わせて考えるうち、夕霧は、「やはり昔から、何か隠しきれない気配はあった。柏木は表面こそ誰より慎重で落ち着き、何を考えているのかわからないほど用意深い男だったが、どこかに少し弱いところがあり、情に流されすぎるところもあった。
「いくら深く思ったからといって、あってはならないことのために命まで捨てるようなことをする必要があったのか。相手の方にも迷惑で、自分自身もむなしく死ぬことになる。前世からの縁だったとはいえ、何とも軽率で、つまらないことだ」。そう一人では思っても、妻にさえ話さなかった。源氏へ申し上げる機会もまだなく、本当は「柏木がこんなことをほのめかしていました」と話して、父の顔色を見てみたい気持ちもあった。
柏木の父大臣と母北の方は、涙の乾く暇もなく沈み込んでいた。葬儀の法服や装束、そのほかの準備は、弟たちや姉妹たちがそれぞれ分担した。経や仏像のことは右大弁が整えた。七日ごとの誦経について誰かが知らせても、父大臣は、「私には聞かせないでくれ。これほど悲しみに取り乱しているうえに、そんなことを一つ一つ聞けば、かえってあの子の往生の妨げになるかもしれない」と言い、魂が抜けたように呆然としていた。
一条宮に残された女二の宮
一条の宮では、女二の宮の悲しみはさらに深かった。最後にきちんと会うこともできないまま別れた恨みまで加わり、日が経つほど、広い邸は人の気配が減って心細くなる。柏木が親しく使っていた人々だけは、今も忘れず訪ねてきた。好んでいた鷹や馬を預かっていた者たちも、主人を失ってどうしてよいかわからず、ひっそり出入りしている。それを見るたび、何もかもが悲しみの種になった。
柏木が使っていた調度、いつも弾いていた琵琶や和琴も、弦を外され、音を立てないまま置かれている。庭の木々には春霞がかかり、花だけは季節を忘れず咲いている。女房たちも鈍色の喪服で、寂しく所在なげに過ごしていた。
そんな昼下がり、華やかな前駆の声が近づき、一条宮の前で止まった。人々は一瞬、「ああ、亡くなった殿がお戻りになったような気がした」と言って泣いた。やって来たのは夕霧だった。いつもの弁や宰相が訪ねてきたのだろうと思っていたところへ、身分も高く、見ているこちらが恥ずかしくなるほど端正な夕霧が入ってきたのである。
母屋の廂に座を整えた。普通の女房が気軽に応対するには畏れ多い身分なので、一条御息所自身が対面した。夕霧は、「この悲しみを私が深く嘆いていることは、御家族にも負けないつもりです。しかし何事にも限りがあり、十分にお慰め申し上げることもできないまま、日が過ぎてしまいました。柏木も最期に私へ言い残したことがありましたから、決して軽く思っているわけではありません。
「誰もいつまでも生きられる世ではありません。それでも先に逝く者と残る者との間には時間があります。その間に、できるだけ深い心を尽くしているところを御覧いただければと思っています。神事の多い時期に、私情だけで長くこちらへ籠もるのもいつにないことになりますし、かといって立ち寄るだけでは、かえって名残惜しく思われて、この数日は参れずにいました。父大臣が取り乱していらっしゃる様子を見るにつけても、親子の悲しみはもちろんですが、御夫婦の間にあった思いの深さも推し量られ、尽きることなく悲しく思っています」と語った。
何度も涙を拭い、鼻をかむ姿は、凛々しく気高い一方で、どこか親しみ深く優雅だった。
一条御息所も鼻声になり、「悲しいことも、すべてこの無常な世の定めなのでしょう。どれほどつらくても、まったく例のないことではないと、年を取った者なら無理にも心を強くしてきました。でも娘があまりにも深く悲しみ、今にも夫のあとを追うように見えるので、自分がこんなにつらい身のまま長生きし、あちらこちらの人の死を見送っていかなければならないのかと思うと、心が少しも静まりません。
「あなたもお親しかったので、御存じのところもあったでしょう。この縁談は、私は初めからそれほど賛成ではありませんでした。けれど父大臣の熱心なお気持ちもあり、朱雀院もよい縁とお認めになっているようでしたので、ならば私の考えが足りないのだと思い直して、お任せしたのです。それが今、こんな夢のような結末になり、あの時もっと強く反対していればよかったのかと、やはり悔やまれます。もちろん、こんなことになろうとは思いもしませんでした。
「皇女というものは、よほどのことでなければ、よくも悪くもこのように普通の男女の仲へ深く入り込むのは、昔気質の私には好ましいこととは思えなかった。それなのに、どちらへ転んでも安心できない、中途半端につらい運命だったのでしょう。いっそこの機会に娘も煙となって夫のあとへ消えてしまえば、世間体としてはむしろ悪くなかったかもしれません。でも、そう簡単に諦められるはずもなく、やはり悲しい。それだけに、あなたが何度も深いお見舞いをくださることが、ありがたくてなりません。柏木が最期にあなたへ言い残したこともあったそうですから、本人が思うようには見せなかった心の中にも、きっとあなたを頼る深い契りがあったのでしょう。つらい中にも嬉しいことが混じるというのは、こういうことなのでしょうね」と泣いた。
夕霧もしばらく涙を止めることができなかった。「柏木は妙に大人びた人でした。ここ二、三年ほどは特に物静かで、心細そうなところがあったので、私は『あまりにも世の道理を悟り、何でも深く考えすぎる人は、かえって生き生きした魅力が薄れるものだ』などと、浅い考えで忠告したものです。本人には、私のほうが心の浅い人間だと思われていたでしょう。何よりも、これほど柏木を深く思っていらっしゃる姫宮のお心を考えると、畏れ多いながら、本当にお気の毒です」と、親しみ深く語った。
柏木は夕霧より五、六歳年上だったが、ずっと若々しく、優雅で、柔らかな魅力のある人だった。それに対して夕霧は、実直で重々しく、男らしい雰囲気が強く、ただ顔だけは非常に若く清らかで、人より抜きん出ている。一条宮の若い女房たちは、その姿を眺めることで、悲しみがほんの少し紛れるようだった。
桜の下に柏木を偲ぶ
庭近くの桜がひどく美しく咲いている。夕霧は、「今年だけは、この花を見るのも……」と思いかけたが、死者を結びつけて不吉なことを考えるのはよくないと思い、「また会うことは――」と古歌の一節を口ずさんでから、自分でも一首詠んだ。
時しあれば変はらぬ色に匂ひけり片枝枯れにし宿の桜も
季節が来れば、いつもと変わらない色で美しく咲くのですね。片方の枝を失ってしまったこの家の桜でさえ。
するとすぐに返歌があった。
この春は柳の芽にぞ玉はぬく咲き散る花の行方知らねば
この春は柳の芽に涙の玉を貫いているようです。咲いて散っていったあの花が、どこへ行ったのかもわからないのですから。
格別に深い技巧の歌ではないが、今風で気が利いていると評判だった一条御息所らしい返しだった。夕霧も、「やはり、行き届いた心のある方だ」と思った。
その足で夕霧は柏木の父、致仕の大臣の邸へ向かった。そこには兄弟たちが大勢集まっていた。「こちらへ」と呼ばれ、大臣の居間へ入る。しばらく心を落ち着けてから父大臣が対面した。もともと年を取っても清らかな顔立ちだった人がひどく痩せ衰え、髭も整えず伸びたままで、普通に親が喪に服しているという以上にやつれている。
夕霧は顔を見るなり涙を抑えられなくなったが、あまり取り乱して泣くのも気まずいと思い、必死に隠した。父大臣のほうは、「この人は柏木と特に仲がよかった」と思うだけで、涙が次から次へ落ち、止めることもできない。二人は尽きることなく柏木の思い出を語り合った。
夕霧は先ほど一条宮を訪ねてきたことも話した。父大臣はさらに泣き、春雨のように、軒から落ちる雫と変わらないほど涙を流す。夕霧が一条宮で返された「柳の芽にぞ」の歌を畳紙へ書き、それを差し出すと、「もう涙で目も見えないよ」と言いながら、紙を押し絞るようにして読んだ。
普段なら気が強く、鮮やかに振る舞い、誇り高い父大臣なのに、今はその面影もない。歌の「涙の玉を貫く」という言葉が、いかにも今の自分そのものと思われ、いつまでも心を鎮められなかった。
「あなたの母君が亡くなった秋こそ、この世で最も悲しいことだと思いました。しかし女というものには行動に限りがあり、人前に姿を見せることも少ない。何が起きても世間へはっきり現れないので、悲しみも家の内に隠れていました。柏木は取り立ててどうという子ではなかったかもしれない。それでも朝廷からも見捨てられず、成長して官位も上がり、頼りにする人が次々増えて、これほど大勢が死を惜しんでいる。それも身分相応のことなのでしょう。
「けれど私のこの悲しみには、世間での評判も官位も何も関係がない。ただ、いつもそこにいた我が子がいないことだけが、どうにも耐えられず恋しい。いったい何を考えれば、この悲しみを冷ますことができるのでしょう」と、空を仰いでぼんやりした。
夕暮れの雲は鈍色に霞み、花の散った梢が目に入る。父大臣は、先ほどの畳紙へ書いた。
木の下の雫に濡れてさかさまに霞の衣着たる春かな
木の下の雫のような涙に濡れながら、子が親に先立った逆さまの喪に、霞の衣を着る春となってしまいました。
夕霧も続けた。
亡き人も思はざりけむうち捨てて夕べの霞君着たれとは
亡くなったあの人自身も、思いもしなかったでしょう。父上を残して先立ち、こうして夕霞のような喪の衣をあなたに着せることになるとは。
弁の君も詠んだ。
恨めしや霞の衣誰着よと春よりさきに花の散りけむ
恨めしいことです。この霞の喪服を、いったい誰に着せようとして、春が終わるより先に花は散ってしまったのでしょう。
柏木の法事は、普通では考えられないほど盛大に行われた。夕霧自身も、妻の縁というだけではなく、特別に深い心をこめて読経などを供養した。
卯月、一条宮を訪れる夕霧
夕霧はその後も一条宮をたびたび訪ねた。四月になると卯の花がどことなく爽やかに咲き、どちらを見ても木々は同じように青みを増して美しい。けれど物思いに沈む邸では、何を見ても静かで心細く、日を暮らしかねている。そんなところへ、また夕霧が訪れた。
庭には若草が青く広がり、砂の薄い物陰では蓬が我が物顔に茂っている。柏木が生前、心を込めて整えていた前栽も、今では手入れする主人を失い、思うままに茂り合っていた。一群の薄まで頼もしげに広がり、秋になればここへ虫の声が加わるのだろうと思うだけで、夕霧はひどく胸が濡れるような気持ちになりながら入っていった。
伊予簾が掛け渡され、衣替えをした鈍色の几帳が透けて見える。童女の濃い鈍色の汗衫の裾や頭の様子がほのかに見え、美しくはあるが、やはり喪の色には思わず目が止まる。
今日は夕霧が簀子へ座ったので、茵だけが差し出された。「ずいぶん簡素な御座ですね」と言って、いつものように一条御息所へ対面を求めたが、御息所はこのごろ体調が悪く、横になっているという。その間、女房たちと言葉を交わしながら庭の木々を見る。木々だけは何の物思いもないように若々しく伸びている。
柏の木と楓が、ほかの木よりひときわ若々しい色を見せ、枝を差し交わしている。夕霧は、「いったいどんな縁で、この二つの木は末になって枝を合わせられたのでしょう。頼もしいことですね」などと言い、ひそやかに御簾近くへ寄った。
ことならば馴らしの枝にならさなむ葉守の神の許しありきと
同じことなら、私も親しく馴れた枝の一つにしていただきたい。柏の葉を守る神――亡きあの人からも、その許しがあったのだと思って。
「御簾の外にこうして隔てられているのが、どうにも恨めしいですね」と言い、長押にもたれて座った。
「あら、この方も意外なほど柔らかく、恋をする人の姿になっていらっしゃること」と、女房たちは互いにつつき合う。この時夕霧へ応対していた少将の君が返した。
柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か
柏木にはもう葉を守る神がおられないとしても、だからといって、誰かを馴れ親しませてよいこの家の梢なのでしょうか。
「突然そんなお言葉をいただきましたので、あなたのお気持ちはずいぶん浅いのだと思ってしまいました」とまで言われ、夕霧も「なるほど」と思って少し笑った。
そこへ一条御息所がいざり出てくる気配がしたので、夕霧はそっと姿勢を正した。御息所は、「つらい世の中を思って沈む日々が重なるうち、気分までおかしく、ぼんやりして過ごしております。それでも、あなたがこうして何度もお見舞いくださるのがあまりにもありがたく、今日は何とか起き出してまいりました」と言った。実際、具合の悪そうな声だった。
夕霧は、「お嘆きになるのは当然ですが、あまりにも思い詰めてばかりではいけません。何事も、そうなる宿命だったのでしょう。どれほど悲しくても、この世には限りがあります」と慰める。
そして話しながら、「この姫宮は、聞いていたよりもずっと心の奥のある方らしい。それだけに、御自分の運命に、世間からどう見られるかという悲しみまで重ねて、どれほどつらく思っていらっしゃるのだろう」と、女二の宮へ強く心を惹かれるようになった。
「お顔立ちが完璧でなくてもよい。見るに耐えないほどでさえなければ、どうして顔だけで人を嫌い、また、あってはならない相手へ心を狂わせる必要があるのだろう。結局、人の価値は心なのだ」。柏木の一件を思いながら、夕霧はそう考えた。
「今はどうか、私を亡き柏木と同じような昔からの縁の人と思って、疎遠にはなさらないでください」。露骨な求愛ではないが、それでもどこか特別な心を込めて、夕霧は何度も申し上げた。直衣姿は鮮やかで、背も高く堂々としている。
女房たちは小声で、「亡くなった殿は、何をなさっても優しく、優雅で、上品で、愛嬌があって、あんな方はほかにいませんでした」「でもこちらの大将殿は、男らしく華やかで、一目見ただけで『なんて美しい方』と思う輝きがあります。これもまた人にないものですね」「同じことなら、こんなふうにこれからも通ってきてくださればいいのに」などと話していた。
夕霧は「右将軍の墓に草が初めて青くなった」という古い言葉を口ずさんだ。柏木が亡くなったのはまだあまりにも最近のことだった。身分の高い者も低い者も、この死を惜しまない者はいない。柏木は官人として優れていたことはもちろんだが、それ以上に、人への情が深い人だったので、普通ならそれほど縁のない下級の役人や、年老いた女房たちまでが恋しがり、悲しんでいた。まして帝は、管弦の遊びのたびに真っ先に柏木を思い出し、懐かしんだ。
「ああ、衛門督が生きていたなら――」。何かにつけ、そう言わない人はいなかった。六条院の源氏も、時が経つほど柏木を思い出すことが多くなっていった。
そして源氏の胸の中だけでは、女三の宮の若君を、柏木が残していった形見と思って見ていた。けれど、そんなことを誰一人思いもしない以上、その思いを誰かと分かち合うこともできない。秋が近づくころになると、この若君は、いざり歩きなど――
