『源氏物語』第36帖「柏木」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第36帖「柏木」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第36帖「柏木」現代語訳全文をご覧ください。

目次

衛門督の君、悩みわたりたまふ

 衛門督ゑもんのかみの君きみ、かくのみ悩なやみわたりたまふこと、なほおこたらで、年としも返かへりぬ。大臣おとど、北きたの方かた、思おぼし嘆なげくさまを見みたてまつるに、

「しひてかけ離はなれなむ命いのち、かひなく、罪つみ重おもかるべきことを思おもふ、心こころは心こころとして、また、あながちにこの世よに離はなれがたく、惜をしみ留とどめまほしき身みかは。いはけなかりしほどより、思おもふ心こころ異ことにて、何なにごとをも、人ひとに今いま一際ひときはまさらむと、公私おほやけわたくしのことに触ふれて、なのめならず思おもひ上のぼりしかど、その心こころ叶かなひがたかりけり」

 と、一ひとつ二ふたつの節ふしごとに、身みを思おもひ落おとしてしこなた、なべての世よの中なかすさまじう思おもひなりて、後のちの世よの行おこなひに本意ほい深ふかく進すすみにしを、親おやたちの御おほん恨うらみを思おもひて、野山のやまにもあくがれむ道みちの重おもきほだしなるべくおぼえしかば、とざまかうざまに紛まぎらはしつつ過すぐしつるを、つひに、

「なほ、世よに立たちまふべくもおぼえぬもの思おもひの、一方ひとかたならず身みに添そひにたるは、我われより他ほかに誰たれかはつらき、心こころづからもてそこなひつるにこそあめれ」

 と思おもふに、恨うらむべき人ひともなし。

「神かみ、仏ほとけをもかこたむ方かたなきは、これ皆みなさるべきにこそはあらめ。誰たれも千年ちとせの松まつならぬ世よは、つひに止とまるべきにもあらぬを、かく、人ひとにも、すこしうちしのばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ人ひとあらむをこそは、一ひとつ思おもひに燃もえぬるしるしにはせめ。

せめてながらへば、おのづからあるまじき名なをも立たち、我われも人ひとも、やすからぬ乱みだれ出いで来くるやうもあらむよりは、なめしと、心置こころおいたまふらむあたりにも、さりとも思おぼし許ゆるいてむかし。よろづのこと、今いまはのとぢめには、皆みな消きえぬべきわざなり。また、異ことざまの過あやまちしなければ、年としごろものの折をりふしごとには、まつはしならひたまひにし方かたのあはれも出いで来きなむ」

 など、つれづれに思おもひ続つづくるも、うち返かへし、いとあぢきなし。

などかく、ほどもなく

「などかく、ほどもなくしなしつる身みならむ」と、かきくらし思おもひ乱みだれて、枕まくらも浮うきぬばかり、人ひとやりならず流ながし添そへつつ、いささか隙ひまありとて、人ひとびと立たち去さりたまへるほどに、かしこに御文おほんふみたてまつれたまふ。

「今いまは限かぎりになりにてはべるありさまは、おのづから聞きこしめすやうもはべらむを、いかがなりぬるとだに、御耳おほんみみとどめさせたまはぬも、ことわりなれど、いと憂うくもはべるかな」

 など聞きこゆるに、いみじうわななけば、思おもふことも皆みな書かきさして、

「今いまはとて燃もえむ煙けぶりもむすぼほれ絶たえぬ思おもひのなほや残のこらむ

あはれとだにのたまはせよ。心こころのどめて、人ひとやりならぬ闇やみに惑まどはむ道みちの光ひかりにもしはべらむ」

 と聞きこえたまふ。

 侍従じじうにも、こりずまに、あはれなることどもを言いひおこせたまへり。

「みづからも、今いま一度ひとたび言いふべきことなむ」

 とのたまへれば、この人ひとも、童わらはより、さるたよりに参まゐり通かよひつつ、見みたてまつり馴なれたる人ひとなれば、おほけなき心こころこそうたておぼえたまひつれ、今いまはと聞きくは、いと悲かなしうて、泣なく泣なく、

「なほ、この御返おほんかへり。まことにこれをとぢめにもこそはべれ」

 と聞きこゆれば、

「われも、今日けふか明日あすかの心地ここちして、もの心細こころぼそければ、おほかたのあはればかりは思おもひ知しらるれど、いと心憂こころうきことと思おもひ懲こりにしかば、いみじうなむつつましき」

 とて、さらに書かいたまはず。

 御心みこころ本性ほんじゃうの、強つよくづしやかなるにはあらねど、恥はづかしげなる人ひとの御みけしきの、折々をりをりにまほならぬが、いと恐おそろしうわびしきなるべし。されど、御硯おほんすずりなどまかなひて責せめきこゆれば、しぶしぶに書かいたまふ。取とりて、忍しのびて宵よひの紛まぎれに、かしこに参まゐりぬ。

大臣、葛城山より聖を請ず

 大臣おとど、かしこき行おこなひ人びと、葛城かづらき山やまより請さうじ出いでたる、待まち受うけたまひて、加持かぢ参まゐらせむとしたまふ。御修法みすほふ、読経どきゃうなども、いとおどろおどろしう騷さわぎたり。人ひとの申まうすままに、さまざま聖ひじりだつ験者げんざなどの、をさをさ世よにも聞きこえず、深ふかき山やまに籠こもりたるなどをも、弟おとうとの君きみたちを遣つかはしつつ、尋たづね召めすに、けにくく心こころづきなき山伏やまぶしどもなども、いと多おほく参まゐる。患わづらひたまふさまの、そこはかとなくものを心細こころぼそく思おもひて、音ねをのみ、時々ときどき泣なきたまふ。

 陰陽師おみゃうじなども、多おほくは女をんなの霊りゃうとのみ占うらなひ申まうしければ、さることもやと思おぼせど、さらにもののけの現あらはれ出いで来くるもなきに、思おもほしわづらひて、かかる隈々くまぐまをも尋たづねたまふなりけり。

 この聖ひじりも、丈たけ高たかやかに、まぶしつべたましくて、荒あららかにおどろおどろしく陀羅尼だらに読よむを、

「いで、あな憎にくや。罪つみの深ふかき身みにやあらむ、陀羅尼だらにの声こゑ高たかきは、いと気け恐おそろしくて、いよいよ死しぬべくこそおぼゆれ」

 とて、やをらすべり出いでて、この侍従じじうと語かたらひたまふ。

 大臣おとどは、さも知しりたまはず、うち休やすみたると、人ひとびとして申まうさせたまへば、さ思おぼして、忍しのびやかにこの聖ひじりと物語ものがたりしたまふ。おとなびたまへれど、なほはなやぎたるところつきて、もの笑わらひしたまふ大臣おとどの、かかる者ものどもと向むかひゐて、この患わづらひそめたまひしありさま、何なにともなくうちたゆみつつ、重おもりたまへること、

「まことに、このもののけ、現あらはるべう念ねんじたまへ」

 など、こまやかに語かたらひたまふも、いとあはれなり。

「かれ聞ききたまへ。何なにの罪つみとも思おぼし寄よらぬに、占うらなひよりけむ女をんなの霊りゃうこそ、まことにさる御おほん執しふの身みに添そひたるならば、厭いとはしき身みをひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ。

さてもおほけなき心こころありて、さるまじき過あやまちを引ひき出いでて、人ひとの御名おほんなをも立たて、身みをも顧かへりみぬたぐひ、昔むかしの世よにもなくやはありける、と思おもひ直なほすに、なほけはひわづらはしう、かの御心みこころに、かかる咎とがを知しられたてまつりて、世よにながらへむことも、いとまばゆくおぼゆるは、げに異ことなる御光おほんひかりなるべし。

深ふかき過あやまちもなきに、見合みあはせたてまつりし夕ゆふべのほどより、やがてかき乱みだり、惑まどひそめにし魂たましひの、身みにも返かへらずなりにしを、かの院ゐんのうちにあくがれありかば、結むすびとどめたまへよ」

 など、いと弱よわげに、殻からのやうなるさまして、泣なきみ笑わらひみ語かたらひたまふ。

宮もものをのみ恥づかしう

 宮みやもものをのみ恥はづかしうつつましと思おぼしたるさまを語かたる。さてうちしめり、面痩おもやせたまへらむ御おほんさまの、面影おもかげに見みたてまつる心地ここちして、思おもひやられたまへば、げにあくがるらむ魂たまや、行ゆき通かよふらむなど、いとどしき心地ここちも乱みだるれば、

「今いまさらに、この御おほんことよ、かけても聞きこえじ。この世よはかうはかなくて過すぎぬるを、長ながき世よのほだしにもこそと思おもふなむ、いとほしき。心苦こころぐるしき御おほんことを、平たひらかにとだにいかで聞きき置おいたてまつらむ。見みし夢ゆめを心こころ一ひとつに思おもひ合あはせて、また語かたる人ひともなきが、いみじういぶせくもあるかな」

 など、取とり集あつめ思おもひしみたまへるさまの深ふかきを、かつはいとうたて恐おそろしう思おもへど、あはれはた、え忍しのばず、この人ひともいみじう泣なく。

 紙燭しそく召めして、御返おほんかへり見みたまへば、御手おほんてもなほいとはかなげに、をかしきほどに書かいたまひて、

「心苦こころぐるしう聞ききながら、いかでかは。ただ推おし量はかり。残のこらむとあるは、

立たち添そひて消きえやしなまし憂うきことを思おもひ乱みだるる煙けぶり比くらべに

後おくるべうやは」

 とばかりあるを、あはれにかたじけなしと思おもふ。

「いでや、この煙けぶりばかりこそは、この世よの思おもひ出いでならめ。はかなくもありけるかな」

 と、いとど泣なきまさりたまひて、御返おほんかへり、臥ふしながら、うち休やすみつつ書かいたまふ。言ことの葉はの続つづきもなう、あやしき鳥とりの跡あとのやうにて、

「行方ゆくへなき空そらの煙けぶりとなりぬとも思おもふあたりを立たちは離はなれじ

夕ゆふべはわきて眺ながめさせたまへ。咎とがめきこえさせたまはむ人目ひとめをも、今いまは心こころやすく思おぼしなりて、かひなきあはれをだにも、絶たえずかけさせたまへ」

 など書かき乱みだりて、心地ここちの苦くるしさまさりければ、

「よし。いたう更ふけぬさきに、帰かへり参まゐりたまひて、かく限かぎりのさまになむとも聞きこえたまへ。今いまさらに、人ひとあやしと思おもひ合あはせむを、わが世よの後のちさへ思おもふこそ口惜くちをしけれ。いかなる昔むかしの契ちぎりにて、いとかかることしも心こころにしみけむ」

 と、泣なく泣なくゐざり入いりたまひぬれば、例れいは無期むごに迎むかへ据すゑて、すずろ言ごとをさへ言いはせまほしうしたまふを、言少ことずくなにても、と思おもふがあはれなるに、えも出いでやらず。御おほんありさまを乳母めのとも語かたりて、いみじく泣なき惑まどふ。大臣おとどなどの思おぼしたるけしきぞいみじきや。

「昨日きのふ今日けふ、すこしよろしかりつるを、などかいと弱よわげには見みえたまふ」

 と騷さわぎたまふ。

「何なにか、なほとまりはべるまじきなめり」

 と聞きこえたまひて、みづからも泣ないたまふ。

宮は暮れつ方より悩ましう

 宮みやは、この暮くれつ方かたより悩なやましうしたまひけるを、その御みけしきと、見みたてまつり知しりたる人ひとびと、騷さわぎみちて、大殿おとどにも聞きこえたりければ、驚おどろきて渡わたりたまへり。御心みこころのうちは、

「あな、口惜くちをしや。思おもひまずる方かたなくて見みたてまつらましかば、めづらしくうれしからまし」

 と思おぼせど、人ひとにはけしき漏もらさじと思おぼせば、験者げんざなど召めし、御修法みすほふはいつとなく不断ふだんにせらるれば、僧そうどもの中なかに験げんある限かぎり皆みな参まゐりて、加持かぢ参まゐり騒さわぐ。

 夜一夜よひとよ悩なやみ明あかさせたまひて、日ひさし上あがるほどに生むまれたまひぬ。男君をとこぎみと聞ききたまふに、

「かく忍しのびたることの、あやにくに、いちじるき顔かほつきにてさし出いでたまへらむこそ苦くるしかるべけれ。女をんなこそ、何なにとなく紛まぎれ、あまたの人ひとの見みるものならねばやすけれ」

 と思おぼすに、また、

「かく、心苦こころぐるしき疑うたがひ混まじりたるにては、心こころやすき方かたにものしたまふもいとよしかし。さても、あやしや。わが世よとともに恐おそろしと思おもひしことの報むくいなめり。この世よにて、かく思おもひかけぬことにむかはりぬれば、後のちの世よの罪つみも、すこし軽かろみなむや」

 と思おぼす。

 人ひとはた知しらぬことなれば、かく心こころことなる御腹おほんはらにて、末すゑに出いでおはしたる御おほんおぼえいみじかりなむと、思おもひいとなみ仕つかうまつる。

 御おほん産屋うぶやの儀式ぎしき、いかめしうおどろおどろし。御方々おほんかたがた、さまざまにし出いでたまふ御産養おほんうぶやしなひ、世よの常つねの折敷をしき、衝重ついがさね、高たか坏つきなどの心こころばへも、ことさらに心々こころごころに挑いどましさ見みえつつなむ。

 五日いつかの夜よる、中宮ちうぐうの御方おほんかたより、子こ持もちの御前おまへの物もの、女房にょうばうの中なかにも、品々しなじなに思おもひ当あてたる際々きはぎは、公事おほやけごとにいかめしうせさせたまへり。御粥おほんかゆ、屯食とんじき五十ごじふ具ぐ、所々ところどころの饗きゃう、院ゐんの下部しもべ、庁ちゃうの召次所めしつぎどころ、何なにかの隈くままで、いかめしくせさせたまへり。宮司みやづかさ、大夫だいぶよりはじめて、院ゐんの殿上人てんじゃうびと、皆みな参まゐれり。

 七夜しちやは、内裏うちより、それも公おほやけざまなり。致仕ちじの大臣おとどなど、心こころことに仕つかうまつりたまふべきに、このころは、何なにごとも思おぼされで、おほぞうの御訪おほんとぶらひのみぞありける。

 宮みやたち、上達部かむだちめなど、あまた参まゐりたまふ。おほかたのけしきも、世よになきまでかしづききこえたまへど、大殿おとどの御心みこころのうちに、心苦こころぐるしと思おぼすことありて、いたうももてはやしきこえたまはず、御遊おほんあそびなどはなかりけり。

宮、尼にならばやと思す

 宮みやは、さばかりひはづなる御おほんさまにて、いとむくつけう、ならはぬことの恐おそろしう思おぼされけるに、御湯おほんゆなどもきこしめさず、身みの心憂こころうきことを、かかるにつけても思おぼし入いれば、

「さはれ、このついでにも死しなばや」

 と思おぼす。大殿おとどは、いとよう人目ひとめを飾かざり思おぼせど、まだむつかしげにおはするなどを、取とり分わきても見みたてまつりたまはずなどあれば、老おいしらへる人ひとなどは、

「いでや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさし出いでたまへる御おほんありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはしますを」

 と、うつくしみきこゆれば、片かた耳みみに聞ききたまひて、

「さのみこそは、思おぼし隔へだつることもまさらめ」

 と恨うらめしう、わが身みつらくて、尼あまにもなりなばや、の御心みこころ尽つきぬ。

 夜よるなども、こなたには大殿籠おほとのごもらず、昼ひるつ方かたなどぞさしのぞきたまふ。

「世よの中なかのはかなきを見みるままに、行ゆく末すゑ短みじかう、もの心細こころぼそくて、行おこなひがちになりにてはべれば、かかるほどのらうがはしき心地ここちするにより、え参まゐり来こぬを、いかが、御心地みここちはさはやかに思おぼしなりにたりや。心苦こころぐるしうこそ」

 とて、御几帳みきちゃうの側そばよりさしのぞきたまへり。御頭みぐしもたげたまひて、

「なほ、え生いきたるまじき心地ここちなむしはべるを、かかる人ひとは罪つみも重おもかなり。尼あまになりて、もしそれにや生いきとまると試こころみ、また亡なくなるとも、罪つみを失うしなふこともやとなむ思おもひはべる」

 と、常つねの御おほんけはひよりは、いとおとなびて聞きこえたまふを、

「いとうたて、ゆゆしき御おほんことなり。などてか、さまでは思おぼす。かかることは、さのみこそ恐おそろしかなれど、さてながらへぬわざならばこそあらめ」

 と聞きこえたまふ。御心みこころのうちには、

「まことにさも思おぼし寄よりてのたまはば、さやうにて見みたてまつらむは、あはれなりなむかし。かつ見みつつも、ことに触ふれて心置こころおかれたまはむが心苦こころぐるしう、我われながらも、え思おもひ直なほすまじう、憂うきことうち混まじりぬべきを、おのづからおろかに人ひとの見咎みとがむることもあらむが、いといとほしう、院ゐんなどの聞きこし召めさむことも、わがおこたりにのみこそはならめ。御悩おほんなやみにことづけて、さもやなしたてまつりてまし」

 など思おぼし寄よれど、また、いとあたらしう、あはれに、かばかり遠とほき御髪みぐしの生おひ先さきを、しかやつさむことも心苦こころぐるしければ、

「なほ、強つよく思おぼしなれ。けしうはおはせじ。限かぎりと見みゆる人ひとも、たひらなる例ためし近ちかければ、さすがに頼たのみある世よになむ」

 など聞きこえたまひて、御湯おほんゆ参まゐりたまふ。いといたう青あをみ痩やせて、あさましうはかなげにてうち臥ふしたまへる御おほんさま、おほどき、うつくしげなれば、

「いみじき過あやまちありとも、心弱こころよわく許ゆるしつべき御おほんさまかな」

 と見みたてまつりたまふ。

山の帝、夜に隠れて渡る

 山やまの帝みかどは、めづらしき御おほんこと平たひらかなりと聞きこし召めして、あはれにゆかしう思おもほすに、

「かく悩なやみたまふよしのみあれば、いかにものしたまふべきにか」

 と、御行おほんおこなひも乱みだれて思おぼしけり。

 さばかり弱よわりたまへる人ひとの、ものを聞きこし召めさで、日ひごろ経へたまへば、いと頼たのもしげなくなりたまひて、年としごろ見みたてまつらざりしほどよりも、院ゐんのいと恋こひしくおぼえたまふを、

「またも見みたてまつらずなりぬるにや」

 と、いたう泣ないたまふ。かく聞きこえたまふさま、さるべき人ひとして伝つたへ奏そうせさせたまひければ、いと堪たへがたう悲かなしと思おぼして、あるまじきこととは思おぼし召めしながら、夜よに隠かくれて出いでさせたまへり。

 かねてさる御消息おほんせうそこもなくて、にはかにかく渡わたりおはしまいたれば、主人あるじの院ゐん、おどろきかしこまりきこえたまふ。

「世よの中なかを顧かへりみすまじう思おもひはべりしかど、なほ惑まどひ覚さめがたきものは、子この道みちの闇やみになむはべりければ、行おこなひも懈怠けたいして、もし後おくれ先さき立だつ道みちの道理だうりのままならで別わかれなば、やがてこの恨うらみもやかたみに残のこらむと、あぢきなさに、この世よのそしりをば知しらで、かくものしはべる」

 と聞きこえたまふ。御容貌おほんかたち、異ことにても、なまめかしうなつかしきさまに、うち忍しのびやつれたまひて、うるはしき御おほん法服ほふぶくならず、墨染すみぞめの御姿おほんすがた、あらまほしうきよらなるも、うらやましく見みたてまつりたまふ。例れいの、まづ涙なみだ落おとしたまふ。

「患わづらひたまふ御おほんさま、ことなる御悩おほんなやみにもはべらず。ただ月つきごろ弱よわりたまへる御おほんありさまに、はかばかしう物ものなども参まゐらぬ積つもりにや、かくものしたまふにこそ」

 など聞きこえたまふ。

かたはらいたき御座なれども

「かたはらいたき御座おましなれども」

 とて、御帳みちゃうの前まへに、御茵おほんしとね参まゐりて入いれたてまつりたまふ。宮みやをも、とかう人ひとびと繕つくろひきこえて、床ゆかのしもに下おろしたてまつる。御几帳みきちゃうすこし押おしやらせたまひて、

「夜居よゐ加持かぢ僧そうなどの心地ここちすれど、まだ験げんつくばかりの行おこなひにもあらねば、かたはらいたけれど、ただおぼつかなくおぼえたまふらむさまを、さながら見みたまふべきなり」

 とて、御目おほんめおし拭のごはせたまふ。宮みやも、いと弱よわげに泣ないたまひて、

「生いくべうもおぼえはべらぬを、かくおはしまいたるついでに、尼あまになさせたまひてよ」

 と聞きこえたまふ。

「さる御おほん本意ほいあらば、いと尊たふときことなるを、さすがに、限かぎらぬ命いのちのほどにて、行ゆく末すゑ遠とほき人ひとは、かへりてことの乱みだれあり、世よの人ひとに誹そしらるるやうありぬべき」

 などのたまはせて、大殿おとどの君きみに、

「かくなむ進すすみのたまふを、今いまは限かぎりのさまならば、片かた時ときのほどにても、その助たすけあるべきさまにてとなむ、思おもひたまふる」

 とのたまへば、

「日ひごろもかくなむのたまへど、邪気ざけなどの、人ひとの心こころたぶろかして、かかる方かたにて進すすむるやうもはべなるをとて、聞ききも入いれはべらぬなり」

 と聞きこえたまふ。

「もののけの教をしへにても、それに負まけぬとて、悪あしかるべきことならばこそ憚はばからめ、弱よわりにたる人ひとの、限かぎりとてものしたまはむことを、聞きき過すぐさむは、後のちの悔くい心苦こころぐるしうや」

 とのたまふ。

御心の内、限りなう

 御心みこころの内うち、限かぎりなううしろやすく譲ゆづりおきし御おほんことを、受うけとりたまひて、さしも心こころざし深ふかからず、わが思おもふやうにはあらぬ御みけしきを、ことに触ふれつつ、年としごろ聞きこし召めし思おぼしつめけること、色いろに出いでて恨うらみきこえたまふべきにもあらねば、世よの人ひとの思おもひ言いふらむところも口惜くちをしう思おぼしわたるに、

「かかる折をりに、もて離はなれなむも、何なにかは、人ひと笑わらへに、世よを恨うらみたるけしきならで、さもあらざらむ。おほかたの後見うしろみには、なほ頼たのまれぬべき御おほんおきてなるを、ただ預あづけおきたてまつりししるしには思おもひなして、憎にくげに背そむくさまにはあらずとも、御処分ごしょぶんに広ひろくおもしろき宮みや賜たまはりたまへるを、繕つくろひて住すませたてまつらむ。

わがおはします世よに、さる方かたにても、うしろめたからず聞ききおき、またかの大殿おとども、さいふとも、いとおろかにはよも思おもひ放はなちたまはじ、その心こころばへをも見果みはてむ」

 と思おもほし取とりて、

「さらば、かくものしたるついでに、忌いむこと受うけたまはむをだに、結縁けちえんにせむかし」

 とのたまはす。

 大殿おとどの君きみ、憂うしと思おぼす方かたも忘わすれて、こはいかなるべきことぞと、悲かなしく口惜くちをしければ、え堪たへたまはず、内うちに入いりて、

「などか、いくばくもはべるまじき身みをふり捨すてて、かうは思おぼしなりにける。なほ、しばし心こころを静しづめたまひて、御湯おほんゆ参まゐり、物ものなどをも聞きこし召めせ。尊たふときことなりとも、御身おほんみ弱よわうては、行おこなひもしたまひてむや。かつは、つくろひたまひてこそ」

 と聞きこえたまへど、頭かしらふりて、いとつらうのたまふと思おぼしたり。つれなくて、恨うらめしと思おぼすこともありけるにやと見みたてまつりたまふに、いとほしうあはれなり。とかく聞きこえ返かへさひ、思おぼしやすらふほどに、夜明よあけ方がたになりぬ。

帰り入らむに、道も昼は

 帰かへり入いらむに、道みちも昼ひるははしたなかるべしと急いそがせたまひて、御おほん祈いのりにさぶらふ中なかに、やむごとなう尊たふとき限かぎり召めし入いれて、御髪みぐし下おろさせたまふ。いと盛さかりにきよらなる御髪みぐしを削そぎ捨すてて、忌いむこと受うけたまふ作法さほふ、悲かなしう口惜くちをしければ、大殿おとどはえ忍しのびあへたまはず、いみじう泣ないたまふ。

 院ゐんはた、もとより取とり分わきてやむごとなう、人ひとよりもすぐれて見みたてまつらむと思おぼししを、この世よには甲斐かひなきやうにないたてまつるも、飽あかず悲かなしければ、うちしほたれたまふ。

「かくても、平たひらかにて、同おなじうは念誦ねんずをも勤つとめたまへ」

 と聞きこえ置おきたまひて、明あけ果はてぬるに、急いそぎて出いでさせたまひぬ。

 宮みやは、なほ弱よわう消きえ入いるやうにしたまひて、はかばかしうもえ見みたてまつらず、ものなども聞きこえたまはず。大殿おとども、

「夢ゆめのやうに思おもひたまへ乱みだるる心こころ惑まどひに、かう昔むかしおぼえたる御幸みゆきのかしこまりをも、え御覧ごらんぜられぬらうがはしさは、ことさらに参まゐりはべりてなむ」

 と聞きこえたまふ。御送おほんおくりに人ひとびと参まゐらせたまふ。

「世よの中なかの、今日けふか明日あすかにおぼえはべりしほどに、また知しる人ひともなくて、漂ただよはむことの、あはれに避さりがたうおぼえはべしかば、御おほん本意ほいにはあらざりけめど、かく聞きこえつけて、年としごろは心こころやすく思おもひたまへつるを、もしも生いきとまりはべらば、さま異ことに変かはりて、人ひとしげき住すまひはつきなかるべきを、さるべき山里やまざとなどにかけ離はなれたらむありさまも、またさすがに心細こころぼそかるべくや。さまに従したがひて、なほ、思おぼし放はなつまじく」

 など聞きこえたまへば、

「さらにかくまで仰おほせらるるなむ、かへりて恥はづかしう思おもひたまへらるる。乱みだり心地ごこち、とかく乱みだれはべりて、何事なにごともえわきまへはべらず」

 とて、げに、いと堪たへがたげに思おぼしたり。

 後夜ごやの御加持おほんかぢに、御おほんもののけ出いで来きて、

「かうぞあるよ。いとかしこう取とり返かへしつと、一人ひとりをば思おぼしたりしが、いとねたかりしかば、このわたりに、さりげなくてなむ、日ひごろさぶらひつる。今いまは帰かへりなむ」

 とて、うち笑わらふ。いとあさましう、

「さは、このもののけのここにも、離はなれざりけるにやあらむ」

 と思おぼすに、いとほしう悔くやしう思おぼさる。宮みや、すこし生いき出いでたまふやうなれど、なほ頼たのみがたげに見みえたまふ。さぶらふ人ひとびとも、いといふかひなうおぼゆれど、「かうても、平たひらかにだにおはしまさば」と、念ねんじつつ、御修法みすほふまた延のべて、たゆみなく行おこなはせなど、よろづにせさせたまふ。

かの衛門督、御事を聞く

 かの衛門督ゑもんのかみは、かかる御おほん事ことを聞ききたまふに、いとど消きえ入いるやうにしたまひて、むげに頼たのむ方かた少すくなうなりたまひにたり。女をんな宮みやのあはれにおぼえたまへば、ここに渡わたりたまはむことは、今いまさらに軽々かるがるしきやうにもあらむを、上うへも大臣おとども、かくつと添そひおはすれば、おのづからとりはづして見みたてまつりたまふやうもあらむに、あぢきなしと思おぼして、

「かの宮みやに、とかくして今いま一度ひとたび参まうでむ」

 とのたまふを、さらに許ゆるしきこえたまはず。誰たれにも、この宮みやの御おほんことを聞きこえつけたまふ。はじめより母はは御息所みやすんどころは、をさをさ心こころゆきたまはざりしを、この大臣おとどの居立ゐたちねむごろに聞きこえたまひて、心こころざし深ふかかりしに負まけたまひて、院ゐんにも、いかがはせむと思おぼし許ゆるしけるを、二品にほんの宮みやの御おほんこと思おもほし乱みだれけるついでに、

「なかなか、この宮みやは行ゆく先さきうしろやすく、まめやかなる後見うしろみまうけたまへり」

 と、のたまはすと聞ききたまひしを、かたじけなう思おもひ出いづ。

「かくて、見捨みすてたてまつりぬるなめりと思おもふにつけては、さまざまにいとほしけれど、心こころよりほかなる命いのちなれば、堪たへぬ契ちぎり恨うらめしうて、思おぼし嘆なげかれむが、心苦こころぐるしきこと。御心みこころざしありて訪とぶらひものせさせたまへ」

 と、母はは上うへにも聞きこえたまふ。

「いで、あなゆゆし。後おくれたてまつりては、いくばく世よに経ふべき身みとて、かうまで行ゆく先さきのことをばのたまふ」

 とて、泣なきにのみ泣なきたまへば、え聞きこえやりたまはず。右大弁うだいべんの君きみにぞ、大おほ方かたの事ことどもは詳くはしう聞きこえたまふ。

 心こころばへののどかによくおはしつる君きみなれば、弟おとうとの君きみたちも、まだ末々すゑずゑの若わかきは、親おやとのみ頼たのみきこえたまへるに、かう心細こころぼそうのたまふを、悲かなしと思おもはぬ人ひとなく、殿とののうちの人ひとも嘆なげく。

 公おほやけも、惜をしみ口惜くちをしがらせたまふ。かく限かぎりと聞きこし召めして、にはかに権大納言ごんのだいなごんになさせたまへり。よろこびに思おもひ起おこして、今いま一度ひとたびも参まゐりたまふやうもやあると、思おぼしのたまはせけれど、さらにえためらひやりたまはで、苦くるしきなかにも、かしこまり申まうしたまふ。大臣おとども、かく重おもき御おほんおぼえを見みたまふにつけても、いよいよ悲かなしうあたらしと思おぼし惑まどふ。

大将の君、常に思ひ嘆く

 大将だいしゃうの君きみ、常つねにいと深ふかう思おもひ嘆なげき、訪とぶらひきこえたまふ。御おほん喜よろこびにもまづ参まうでたまへり。このおはする対たいのほとり、こなたの御門みかどは、馬むま、車くるまたち込こみ、人ひと騒さわがしう騷さわぎ満みちたり。今年ことしとなりては、起おき上あがることもをさをさしたまはねば、重々おもおもしき御おほんさまに、乱みだれながらは、え対面たいめんしたまはで、思おもひつつ弱よわりぬること、と思おもふに口惜くちをしければ、

「なほ、こなたに入いらせたまへ。いとらうがはしきさまにはべる罪つみは、おのづから思おぼし許ゆるされなむ」

 とて、臥ふしたまへる枕上まくらがみの方かたに、僧そうなどしばし出いだしたまひて、入いれたてまつりたまふ。

 早はやうより、いささか隔へだてたまふことなう、睦むつび交かはしたまふ御仲おほんなかなれば、別わかれむことの悲かなしう恋こひしかるべき嘆なげき、親おや兄弟はらからの御思おほんおもひにも劣おとらず。今日けふは喜よろこびとて、心地ここちよげならましをと思おもふに、いと口惜くちをしう、かひなし。

「などかく頼たのもしげなくはなりたまひにける。今日けふは、かかる御おほん喜よろこびに、いささかすくよかにもやとこそ思おもひはべりつれ」

 とて、几帳きちゃうのつま引ひき上あげたまへれば、

「いと口惜くちをしう、その人ひとにもあらずなりにてはべりや」

 とて、烏帽子えぼうしばかりおし入いれて、すこし起おき上あがらむとしたまへど、いと苦くるしげなり。白しろき衣きぬどもの、なつかしうなよよかなるをあまた重かさねて、衾ふすまひきかけて臥ふしたまへり。御座おましのあたりものきよげに、けはひ香かうばしう、心こころにくくぞ住すみなしたまへる。

 うちとけながら、用意よういありと見みゆ。重おもく患わづらひたる人ひとは、おのづから髪髭かみひげも乱みだれ、ものむつかしきけはひも添そふわざなるを、痩やせさらぼひたるしも、いよいよ白しろうあてなるさまして、枕まくらをそばだてて、ものなど聞きこえたまふけはひ、いと弱よわげに、息いきも絶たえつつ、あはれげなり。

久しう患ひたまへるほどより

「久ひさしう患わづらひたまへるほどよりは、ことにいたうもそこなはれたまはざりけり。常つねの御容貌おほんかたちよりも、なかなかまさりてなむ見みえたまふ」

 とのたまふものから、涙なみだおし拭のごひて、

「後おくれ先さき立だつ隔へだてなくとこそ契ちぎりきこえしか。いみじうもあるかな。この御心地みここちのさまを、何事なにごとにて重おもりたまふとだに、え聞きき分わきはべらず。かく親したしきほどながら、おぼつかなくのみ」

 などのたまふに、

「心こころには、重おもくなるけぢめもおぼえはべらず。そこどころと苦くるしきこともなければ、たちまちにかうも思おもひたまへざりしほどに、月日つきひも経へで弱よわりはべりにければ、今いまはうつし心ごころも失うせたるやうになむ。

惜をしげなき身みを、さまざまにひき留とどめらるる祈いのり、願ぐわんなどの力ちからにや、さすがにかかづらふも、なかなか苦くるしうはべれば、心こころもてなむ、急いそぎ立たつ心地ここちしはべる。

さるは、この世よの別わかれ、避さりがたきことは、いと多おほうなむ。親おやにも仕つかうまつりさして、今いまさらに御心みこころどもを悩なやまし、君きみに仕つかうまつることも半なかばのほどにて、身みを顧かへりみる方かた、はた、ましてはかばかしからぬ恨うらみを留とどめつる大おほ方かたの嘆なげきをば、さるものにて。

また心こころの内うちに思おもひたまへ乱みだるることのはべるを、かかる今いまはのきざみにて、何なにかは漏もらすべきと思おもひはべれど、なほ忍しのびがたきことを、誰たれにかは愁うれへはべらむ。これかれあまたものすれど、さまざまなることにて、さらにかすめはべらむも、あいなしかし。

六条院ろくでうのゐんにいささかなる事ことの違たがひ目めありて、月つきごろ、心こころの内うちにかしこまり申まうすことなむはべりしを、いと本意ほいなう、世よの中なか心細こころぼそう思おもひなりて、病やまひづきぬとおぼえはべしに、召めしありて、院ゐんの御賀おほんがの楽所がくその試こころみの日ひ参まゐりて、御みけしきを賜たまはりしに、なほ許ゆるされぬ御心みこころばへあるさまに、御おほん目尻まじりを見みたてまつりはべりて、いとど世よにながらへむことも憚はばかり多おほうおぼえなりはべりて、あぢきなう思おもひたまへしに、心こころの騷さわぎそめて、かく静しづまらずなりぬるになむ。

人数ひとかずには思おぼし入いれざりけめど、いはけなうはべし時ときより、深ふかく頼たのみ申まうす心こころのはべりしを、いかなる讒言ざうげんなどのありけるにかと、これなむ、この世よの愁うれへにて残のこりはべるべければ、論ろんなうかの後のちの世よの妨さまたげにもやと思おもひたまふるを、ことのついではべらば、御耳おほんみみ留とどめて、よろしう明あきらめ申まうさせたまへ。

亡なからむ後うしろにも、この勘事かうじ許ゆるされたらむなむ、御徳おほんとくにはべるべき」

 などのたまふままに、いと苦くるしげにのみ見みえまされば、いみじうて、心こころの内うちに思おもひ合あはすることどもあれど、さして確たしかには、えしも推おし量はからず。

「いかなる御心みこころの鬼おににかは。さらに、さやうなる御みけしきもなく、かく重おもりたまへる由よしをも聞ききおどろき嘆なげきたまふこと、限かぎりなうこそ口惜くちをしがり申まうしたまふめりしか。など、かく思おぼすことあるにては、今いままで残のこいたまひつらむ。こなたかなた明あきらめ申まうすべかりけるものを。今いまはいふかひなしや」

 とて、取とり返かへさまほしう悲かなしく思おぼさる。

「げに、いささかも隙ひまありつる折をり、聞きこえうけたまはるべうこそはべりけれ。されど、いとかう今日けふ明日あすとしもやはと、みづからながら知しらぬ命いのちのほどを、思おもひのどめはべりけるもはかなくなむ。このことは、さらに御心みこころより漏もらしたまふまじ。さるべきついではべらむ折をりには、御用意おほんようい加くはへたまへとて、聞きこえおくになむ。

一条いちでうにものしたまふ宮みや、ことに触ふれて訪とぶらひきこえたまへ。心苦こころぐるしきさまにて、院ゐんなどにも聞きこし召めされたまはむを、つくろひたまへ」

 などのたまふ。言いはまほしきことは多おほかるべけれど、心地ここちせむかたなくなりにければ、

「出いでさせたまひね」

 と、手てかききこえたまふ。加持かぢ参まゐる僧そうども近ちかう参まゐり、上うへ、大臣おとどなどおはし集あつまりて、人ひとびとも立たち騒さわげば、泣なく泣なく出いでたまひぬ。

女御をばさらにも聞こえず

 女御にょうごをばさらにも聞きこえず、この大将だいしゃうの御方おほんかたなどもいみじう嘆なげきたまふ。心こころおきての、あまねく人ひとのこのかみ心ごころにものしたまひければ、右みぎの大殿おほとのの北きたの方かたも、この君きみをのみぞ、睦むつましきものに思おもひきこえたまひければ、よろづに思おもひ嘆なげきたまひて、御おほん祈いのりなど取とり分わきてせさせたまひけれど、やむ薬くすりならねば、かひなきわざになむありける。女をんな宮みやにも、つひにえ対面たいめんしきこえたまはで、泡あわの消きえ入いるやうにて亡うせたまひぬ。

 年としごろ、下したの心こころこそねむごろに深ふかくもなかりしか、大おほ方かたには、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、気けなつかしう、心こころばへをかしう、うちとけぬさまにて過すぐいたまひければ、つらき節ふしもことになし。ただ、

「かく短みじかかりける御身おほんみにて、あやしくなべての世よのすさまじう思おもひたまへけるなりけり」

 と思おもひ出いでたまふに、いみじうて、思おぼし入いりたるさま、いと心苦こころぐるし。

 御息所みやすんどころも、「いみじう人ひと笑わらへに口惜くちをし」と、見みたてまつり嘆なげきたまふこと、限かぎりなし。

 大臣おとど、北きたの方かたなどは、ましていはむかたなく、

「我われこそ先さき立だため。世よのことわりなうつらいこと」

 と焦こがれたまへど、何なにのかひなし。

 尼あま宮みやは、おほけなき心こころもうたてのみ思おぼされて、世よに長ながかれとしも思おぼさざりしを、かくなむと聞ききたまふは、さすがにいとあはれなりかし。

「若君わかぎみの御おほんことを、さぞと思おもひたりしも、げに、かかるべき契ちぎりにてや、思おもひのほかに心憂こころうきこともありけむ」と思おぼし寄よるに、さまざまもの心細こころぼそうて、うち泣なかれたまひぬ。

弥生になれば空うららかに

 弥生やよひになれば、空そらのけしきもものうららかにて、この君きみ、五十日いかのほどになりたまひて、いと白しろううつくしう、ほどよりはおよすけて、物語ものがたりなどしたまふ。大殿おとど渡わたりたまひて、

「御心地みここちは、さはやかになりたまひにたりや。いでや、いとかひなくもはべるかな。例れいの御おほんありさまにて、かく見みなしたてまつらましかば、いかにうれしうはべらまし。心憂こころうく、思おぼし捨すてけること」

 と、涙なみだぐみて怨うらみきこえたまふ。日々ひびに渡わたりたまひて、今いましも、やむごとなく限かぎりなきさまにもてなしきこえたまふ。

 御おほん五十日いかに餅もちひ参まゐらせたまはむとて、容貌かたち異ことなる御おほんさまを、人ひとびと、「いかに」など聞きこえやすらへど、院ゐん渡わたらせたまひて、

「何なにか。女をんなにものしたまはばこそ、同おなじ筋すぢにて、いまいましくもあらめ」

 とて、南面みなみおもてに小ちひさき御座おましなどよそひて、参まゐらせたまふ。御乳母おほんめのと、いとはなやかに装束さうぞきて、御前おまへのもの、いろいろを尽つくしたる籠こ物もの、桧破籠ひわりごの心こころばへどもを、内うちにも外とにも、もとの心こころを知しらぬことなれば、取とり散ちらし、何心なにごころもなきを、「いと心苦こころぐるしうまばゆきわざなりや」と思おぼす。

宮も起きゐたまひて

 宮みやも起おきゐたまひて、御髪みぐしの末すゑの所狭ところせう広ひろごりたるを、いと苦くるしと思おぼして、額ひたひなど撫なでつけておはするに、几帳きちゃうを引ひきやりてゐたまへば、いと恥はづかしうて背そむきたまへるを、いとど小ちひさう細ほそりたまひて、御髪みぐしは惜をしみきこえて、長ながう削そぎたりければ、後うしろは異ことにけぢめも見みえたまはぬほどなり。

 すぎすぎ見みゆる鈍色にびいろども、黄きがちなる今様色いまやういろなど着きたまひて、まだありつかぬ御おほんかたはらめ、かくてしもうつくしき子こどもの心地ここちして、なまめかしうをかしげなり。

「いで、あな心憂こころう。墨染すみぞめこそ、なほ、いとうたて目めもくるる色いろなりけれ。かやうにても、見みたてまつることは、絶たゆまじきぞかしと、思おもひ慰なぐさめはべれど、古ふりがたうわりなき心地ここちする涙なみだの人悪ひとわろさを、いとかう思おもひ捨すてられたてまつる身みの咎とがに思おもひなすも、さまざまに胸むねいたう口惜くちをしくなむ。取とり返かへすものにもがなや」

 と、うち嘆なげきたまひて、

「今いまはとて思おぼし離はなれば、まことに御心みこころと厭いとひ捨すてたまひけると、恥はづかしう心憂こころうくなむおぼゆべき。なほ、あはれと思おぼせ」

 と聞きこえたまへば、

「かかるさまの人ひとは、もののあはれも知しらぬものと聞ききしを、ましてもとより知しらぬことにて、いかがは聞きこゆべからむ」

 とのたまへば、

「かひなのことや。思おぼし知しる方かたもあらむものを」

 とばかりのたまひさして、若君わかぎみを見みたてまつりたまふ。

御乳母たちは、やむごとなく

 御乳母おほんめのとたちは、やむごとなく、めやすき限かぎりあまたさぶらふ。召めし出いでて、仕つかうまつるべき心こころおきてなどのたまふ。

「あはれ、残のこり少すくなき世よに、生おひ出いづべき人ひとにこそ」

 とて、抱いだき取とりたまへば、いと心こころやすくうち笑ゑみて、つぶつぶと肥こえて白しろううつくし。大将だいしゃうなどの稚児ちご生おひ、ほのかに思おぼし出いづるには似にたまはず。女御にょうごの御おほん宮みやたち、はた、父帝ちちみかどの御方おほんかたざまに、王気わうけづきて気高けだかうこそおはしませ、ことにすぐれてめでたうしもおはせず。

 この君きみ、いとあてなるに添そへて、愛敬あいぎゃうづき、まみの薫かをりて、笑ゑがちなるなどを、いとあはれと見みたまふ。思おもひなしにや、なほ、いとようおぼえたりかし。ただ今いまながら、眼居まなこゐののどかに恥はづかしきさまも、やう離はなれて、薫かをりをかしき顔かほざまなり。

 宮みやはさしも思おぼし分わかず。人ひとはた、さらに知しらぬことなれば、ただ一所ひとところの御心みこころの内うちにのみぞ、

「あはれ、はかなかりける人ひとの契ちぎりかな」

 と見みたまふに、大おほ方かたの世よの定さだめなさも思おぼし続つづけられて、涙なみだのほろほろとこぼれぬるを、今日けふは言忌こといみすべき日ひをと、おし拭のごひ隠かくしたまふ。

「静しづかに思おもひて嗟なげくに堪たへたり」

 と、うち誦ずうじたまふ。五十ごじふ八はちを十とを取とり捨すてたる御齢おほんよはひなれど、末すゑになりたる心地ここちしたまひて、いとものあはれに思おぼさる。「汝なんぢが爺ちちに」とも、諌いさめまほしう思おぼしけむかし。

このことの心知れる人

「このことの心こころ知しれる人ひと、女房にょうばうの中なかにもあらむかし。知しらぬこそ、ねたけれ。烏滸をこなりと見みるらむ」と、安やすからず思おぼせど、「わが御おほん咎とがあることはあへなむ。二ふたつ言いはむには、女をんなの御おほんためこそ、いとほしけれ」

 など思おぼして、色いろにも出いだしたまはず。いと何心なにごころなう物語ものがたりして笑わらひたまへるまみ、口くちつきのうつくしきも、「心こころ知しらざらむ人ひとはいかがあらむ。なほ、いとよく似に通かよひたりけり」と見みたまふに、「親おやたちの、子こだにあれかしと、泣ないたまふらむにも、え見みせず、人ひと知しれずはかなき形見かたみばかりをとどめ置おきて、さばかり思おもひ上あがり、およすけたりし身みを、心こころもて失うしなひつるよ」

 と、あはれに惜をしければ、めざましと思おもふ心こころもひき返かへし、うち泣なかれたまひぬ。

 人ひとびとすべり隠かくれたるほどに、宮みやの御おほんもとに寄よりたまひて、

「この人ひとをば、いかが見みたまふや。かかる人ひとを捨すてて、背そむき果はてたまひぬべき世よにやありける。あな、心憂こころう」

 と、おどろかしきこえたまへば、顔かほうち赤あかめておはす。

「誰たが世よにか種たねは蒔まきしと人ひと問とはばいかが岩根いはねの松まつは答こたへむ

あはれなり」

 など、忍しのびて聞きこえたまふに、御おほんいらへもなうて、ひれふしたまへり。ことわりと思おぼせば、しひても聞きこえたまはず。

「いかに思おぼすらむ。もの深ふかうなどはおはせねど、いかでかはただには」

 と、推おし量はかりきこえたまふも、いと心苦こころぐるしうなむ。

大将の君、心に余りて

 大将だいしゃうの君きみは、かの心こころに余あまりて、ほのめかし出いでたりしを、

「いかなることにかありけむ。すこしものおぼえたるさまならましかば、さばかりうち出いでそめたりしに、いとようけしきは見みてましを。いふかひなきとぢめにて、折をり悪あしういぶせくて、あはれにもありしかな」

 と、面影おもかげ忘わすれがたうて、兄弟はらからの君きみたちよりも、しひて悲かなしとおぼえたまひけり。

「女をんな宮みやのかく世よを背そむきたまへるありさま、おどろおどろしき御悩おほんなやみにもあらで、すがやかに思おぼし立たちけるほどよ。また、さりとも、許ゆるしきこえたまふべきことかは。

二条にでうの上うへの、さばかり限かぎりにて、泣なく泣なく申まうしたまふと聞ききしをば、いみじきことに思おぼして、つひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを」

 など、取とり集あつめて思おもひくだくに、

「なほ、昔むかしより絶たえず見みゆる心こころばへ、え忍しのばぬ折々をりをりありきかし。いとようもて静しづめたるうはべは、人ひとよりけに用意よういあり、のどかに、何なにごとをこの人ひとの心こころのうちに思おもふらむと、見みる人ひとも苦くるしきまでありしかど、すこし弱よわきところつきて、なよび過すぎたりしけぞかし。

いみじうとも、さるまじきことに心こころを乱みだりて、かくしも身みに代かふべきことにやはありける。人ひとのためにもいとほしう、わが身みはいたづらにやなすべき。さるべき昔むかしの契ちぎりといひながら、いと軽々かるがるしう、あぢきなきことなりかし」

 など、心こころ一ひとつに思おもへど、女君をんなぎみにだに聞きこえ出いでたまはず。さるべきついでなくて、院ゐんにもまだえ申まうしたまはざりけり。さるは、かかることをなむかすめし、と申まうし出いでて、御みけしきも見みまほしかりけり。

 父大臣ちちおとど、母はは北きたの方かたは、涙なみだのいとまなく思おぼし沈しづみて、はかなく過すぐる日数ひかずをも知しりたまはず、御おほんわざの法服ほふぶく、御装束おほんさうぞく、何なにくれのいそぎをも、君きみたち、御方々おほんかたがた、とりどりになむ、せさせたまひける。

 経きゃう仏ほとけのおきてなども、右大弁うだいべんの君きみせさせたまふ。七日なぬか七日なぬかの御誦経みずきゃうなどを、人ひとの聞きこえおどろかすにも、

「我われにな聞きかせそ。かくいみじと思おもひ惑まどふに、なかなか道みち妨さまたげにもこそ」

 とて、亡なきやうに思おぼし惚ほれたり。

一条の宮には、まして

 一条いちでうの宮みやには、まして、おぼつかなうて別わかれたまひにし恨うらみさへ添そひて、日ひごろ経ふるままに、広ひろき宮みやの内うち、人ひと気け少すくなう心細こころぼそげにて、親したしく使つかひ慣ならしたまひし人ひとは、なほ参まゐり訪とぶらひきこゆ。

 好このみたまひし鷹たか、馬むまなど、その方かたの預あづかりどもも、皆みなつくところなう思おもひ倦うじて、かすかに出いで入いるを見みたまふも、ことに触ふれてあはれは尽つきぬものになむありける。もて使つかひたまひし御調度みてうどども、常つねに弾ひきたまひし琵琶びは、和琴わごんなどの緒をも取とり放はなちやつされて、音ねを立たてぬも、いと埋むもれいたきわざなりや。

 御前おまへの木立こだちいたう煙けぶりて、花はなは時ときを忘わすれぬけしきなるを眺ながめつつ、もの悲がなしく、さぶらふ人ひとびとも、鈍色にびいろにやつれつつ、寂さびしうつれづれなる昼ひるつ方かた、前駆さきはなやかに追おふ音おとして、ここに止とまりぬる人ひとあり。

「あはれ、故殿ことのの御おほんけはひとこそ、うち忘わすれては思おもひつれ」

 とて、泣なくもあり。大将殿だいしゃうどののおはしたるなりけり。御消息おほんせうそこ聞きこえ入いれたまへり。例れいの弁べんの君きみ、宰相さいしゃうなどのおはしたると思おぼしつるを、いと恥はづかしげにきよらなるもてなしにて入いりたまへり。

 母屋もやの廂ひさしに御座おましよそひて入いれたてまつる。おしなべたるやうに、人ひとびとのあへしらひきこえむは、かたじけなきさまのしたまへれば、御息所みやすんどころぞ対面たいめんしたまへる。

「いみじきことを思おもひたまへ嘆なげく心こころは、さるべき人ひとびとにも越こえてはべれど、限かぎりあれば、聞きこえさせやる方かたなうて、世よの常つねになりはべりにけり。今いまはのほどにも、のたまひ置おくことはべりしかば、おろかならずなむ。

誰たれものどめがたき世よなれど、後おくれ先さき立だつほどのけぢめには、思おもひたまへ及およばむに従したがひて、深ふかき心こころのほどをも御覧ごらんぜられにしがなとなむ。神事かみわざなどのしげきころほひ、私わたくしの心こころざしにまかせて、つくづくと籠こもりゐはべらむも、例れいならぬことなりければ、立たちながらはた、なかなかに飽あかず思おもひたまへらるべうてなむ、日ひごろを過すぐしはべりにける。

大臣おとどなどの心こころを乱みだりたまふさま、見聞みききはべるにつけても、親子おやこの道みちの闇やみをばさるものにて、かかる御仲おほんなからひの、深ふかく思おもひとどめたまひけむほどを、推おし量はかりきこえさするに、いと尽つきせずなむ」

 とて、しばしばおし拭のごひ、鼻はなうちかみたまふ。あざやかに気高けだかきものから、なつかしうなまめいたり。

御息所も鼻声になりたまひて

 御息所みやすんどころも鼻はな声ごゑになりたまひて、

「あはれなることは、その常つねなき世よのさがにこそは。いみじとても、またたぐひなきことにやはと、年とし積つもりぬる人ひとは、しひて心強こころづようさましはべるを、さらに思おぼし入いりたるさまの、いとゆゆしきまで、しばしも立たち後おくれたまふまじきやうに見みえはべれば、すべていと心憂こころうかりける身みの、今いままでながらへはべりて、かくかたがたにはかなき世よの末すゑのありさまを見みたまへ過すぐすべきにやと、いと静心しづごころなくなむ。

おのづから近ちかき御仲おほんなからひにて、聞きき及およばせたまふやうもはべりけむ。初はじめつ方かたより、をさをさうけひききこえざりし御おほんことを、大臣おとどの御心みこころむけも心苦こころぐるしう、院ゐんにもよろしきやうに思おぼし許ゆるいたる御みけしきなどのはべしかば、さらばみづからの心こころおきての及およばぬなりけりと、思おもひたまへなしてなむ、見みたてまつりつるを、かく夢ゆめのやうなることを見みたまふるに、思おもひたまへ合あはすれば、みづからの心こころのほどなむ、同おなじうは強つようもあらがひきこえましを、と思おもひはべるに、なほいと悔くやしう。それは、かやうにしも思おもひ寄よりはべらざりきかし。

皇女みこたちは、おぼろけのことならで、悪あしくも善よくも、かやうに世よづきたまふことは、え心こころにくからぬことなりと、古ふるめき心ごころには思おもひはべしを、いづかたにもよらず、中空なかぞらに憂うき御宿世おほんすくせなりければ、何なにかは、かかるついでに煙けぶりにも紛まぎれたまひなむは、この御身おほんみのための人聞ひとぎきなどは、ことに口惜くちをしかるまじけれど、さりとても、しかすくよかに、え思おもひ静しづむまじう、悲かなしう見みたてまつりはべるに、いとうれしう、浅あさからぬ御訪おほんとぶらひのたびたびになりはべめるを、有あり難がたうもと聞きこえはべるも、さらば、かの御契おほんちぎりありけるにこそはと、思おもふやうにしも見みえざりし御心みこころばへなれど、今いまはとて、これかれにつけおきたまひける御遺言ごゆいごんの、あはれなるになむ、憂うきにもうれしき瀬せはまじりはべりける」

 とて、いといたう泣ないたまふけはひなり。

大将も、とみにえためらひ

 大将だいしゃうも、とみにえためらひたまはず。

「あやしう、いとこよなくおよすけたまへりし人ひとの、かかるべうてや、この二に、三年さんねんのこなたなむ、いたうしめりて、もの心細こころぼそげに見みえたまひしかば、あまり世よのことわりを思おもひ知しり、もの深ふかうなりぬる人ひとの、澄すみ過すぎて、かかる例ためし、心こころうつくしからず、かへりては、あざやかなる方かたのおぼえ薄うすらぐものなりとなむ、常つねにはかばかしからぬ心こころに諌いさめきこえしかば、心浅こころあさしと思おもひたまへりし。よろづよりも、人ひとにまさりて、げに、かの思おぼし嘆なげくらむ御心みこころの内うちの、かたじけなけれど、いと心苦こころぐるしうもはべるかな」

 など、なつかしうこまやかに聞きこえたまひて、ややほど経へてぞ出いでたまふ。

 かの君きみは、五ご、六ろく年ねんのほどのこのかみなりしかど、なほ、いと若わかやかに、なまめき、あいだれてものしたまひし。これは、いとすくよかに重々おもおもしく、男々ををしきけはひして、顔かほのみぞいと若わかうきよらなること、人ひとにすぐれたまへる。若わかき人ひとびとは、もの悲がなしさもすこし紛まぎれて見出みいだしたてまつる。

 御前おまへ近ちかき桜さくらのいとおもしろきを、「今年ことしばかりは」と、うちおぼゆるも、いまいましき筋すぢなりければ、

「あひ見みむことは」

 と口くちずさびて、

「時ときしあれば変かはらぬ色いろに匂にほひけり片かた枝え枯かれにし宿やどの桜さくらも」

 わざとならず誦ずじなして立たちたまふに、いととう、

「この春はるは柳やなぎの芽めにぞ玉たまはぬく咲さき散ちる花はなの行方ゆくへ知しらねば」

 と聞きこえたまふ。いと深ふかきよしにはあらねど、今いまめかしう、かどありとは言いはれたまひし更衣かういなりけり。「げに、めやすきほどの用意よういなめり」と見みたまふ。

致仕の大殿に参りたまへれば

 致仕ちじの大殿おほとのに、やがて参まゐりたまへれば、君きみたちあまたものしたまひけり。

「こなたに入いらせたまへ」

 とあれば、大臣おとどの御出居おほんいでゐの方かたに入いりたまへり。ためらひて対面たいめんしたまへり。古ふりがたうきよげなる御容貌おほんかたち、いたう痩やせ衰おとろへて、御髭おほんひげなどもとりつくろひたまはねば、しげりて、親おやの孝けうよりも、けにやつれたまへり。見みたてまつりたまふより、いと忍しのびがたければ、「あまりにをさまらず乱みだれ落おつる涙なみだこそ、はしたなけれ」と思おもへば、せめてぞもて隠かくしたまふ。

 大臣おとども、「取とり分わきて御仲おほんなかよくものしたまひしを」と見みたまふに、ただ降ふりに降ふり落おちて、えとどめたまはず、尽つきせぬ御おほん事ことどもを聞きこえ交かはしたまふ。

 一条いちでうの宮みやに参までたりつるありさまなど聞きこえたまふ。いとどしう、春雨はるさめかと見みゆるまで、軒のきの雫しづくに異ことならず、濡ぬらし添そへたまふ。畳紙たたんがみに、かの「柳やなぎの芽めにぞ」とありつるを、書かいたまへるをたてまつりたまへば、「目めも見みえずや」と、おし絞しぼりつつ見みたまふ。

 うちひそみつつぞ見みたまふ御おほんさま、例れいは心強こころづようあざやかに、誇ほこりかなる御みけしき名残なごりなく、人悪ひとわろし。さるは、異ことなることなかめれど、この「玉たまはぬく」とある節ふしの、げにと思おぼさるるに、心こころ乱みだれて、久ひさしうえためらひたまはず。

「君きみの御おほん母君ははぎみの隠かくれたまへりし秋あきなむ、世よに悲かなしきことの際きはにはおぼえはべりしを、女をんなは限かぎりありて、見みる人少ひとずくなう、とあることもかかることもあらはならねば、悲かなしびも隠かくろへてなむありける。

はかばかしからねど、朝廷おほやけも捨すてたまはず、やうやう人ひととなり、官位つかさくらゐにつけて、あひ頼たのむ人ひとびと、おのづから次々つぎつぎに多おほうなりなどして、おどろき口惜くちをしがるも、類るいに触ふれてあるべし。

かう深ふかき思おもひは、その大おほ方かたの世よのおぼえも、官位つかさくらゐも思おもほえず。ただことなることなかりしみづからのありさまのみこそ、堪たへがたく恋こひしかりけれ。何なにばかりのことにてか、思おもひさますべからむ」

 と、空そらを仰あふぎて眺ながめたまふ。

 夕暮ゆふぐれの雲くものけしき、鈍色にびいろに霞かすみて、花はなの散ちりたる梢こずゑどもをも、今日けふぞ目めとどめたまふ。この御畳紙おほんたたんがみに、

「木この下したの雫しづくに濡ぬれてさかさまに霞かすみの衣ころも着きたる春はるかな」

 大将だいしゃうの君きみ、

「亡なき人ひとも思おもはざりけむうち捨すてて夕ゆふべの霞かすみ君きみ着きたれとは」

 弁べんの君きみ、

「恨うらめしや霞かすみの衣ころも誰たれ着きよと春はるよりさきに花はなの散ちりけむ」

 御おほんわざなど、世よの常つねならず、いかめしうなむありける。大将殿だいしゃうどのの北きたの方かたをばさるものにて、殿とのは心こころことに、誦ず経きゃうなども、あはれに深ふかき心こころばへを加くはへたまふ。

かの一条の宮にも

 かの一条いちでうの宮みやにも、常つねに訪とぶらひきこえたまふ。卯月うづきばかりの卯うの花はなは、そこはかとなう心地ここちよげに、一ひとつ色いろなる四方よもの梢こずゑもをかしう見みえわたるを、もの思おもふ宿やどは、よろづのことにつけて静しづかに心細こころぼそう、暮くらしかねたまふに、例れいの渡わたりたまへり。

 庭にはもやうやう青あをみ出いづる若草わかくさ見みえわたり、ここかしこの砂子すなご薄うすきものの隠かくれの方かたに、蓬よも所得顔ところえがほなり。前栽せんざいに心こころ入いれてつくろひたまひしも、心こころにまかせて茂しげりあひ、一村ひとむら薄すすきも頼たのもしげに広ひろごりて、虫むしの音ね添そへむ秋あき思おもひやらるるより、いとものあはれに露つゆけくて、分わけ入いりたまふ。

 伊予簾いよすかけ渡わたして、鈍色にびいろの几帳きちゃうの衣更ころもがへしたる透影すきかげ、涼すずしげに見みえて、よき童女わらはの、こまやかに鈍にばめる汗衫かざみのつま、頭かしらつきなどほの見みえたる、をかしけれど、なほ目めおどろかるる色いろなりかし。

 今日けふは簀子すのこにゐたまへば、茵しとねさし出いでたり。「いと軽かるらかなる御座おましなり」とて、例れいの、御息所みやすんどころおどろかしきこゆれど、このごろ、悩なやましとて寄より臥ふしたまへり。とかく聞きこえ紛まぎらはすほど、御前おまへの木立こだちども、思おもふことなげなるけしきを見みたまふも、いとものあはれなり。

 柏木かしはぎと楓かへでとの、ものよりけに若わかやかなる色いろして、枝えださし交かはしたるを、

「いかなる契ちぎりにか、末すゑ逢あへる頼たのもしさよ」

 などのたまひて、忍しのびやかにさし寄よりて、

「ことならば馴ならしの枝えだにならさなむ葉守はもりの神かみの許ゆるしありきと

御簾みすの外との隔へだてあるほどこそ、恨うらめしけれ」

 とて、長押なげしに寄よりゐたまへり。

「なよび姿すがたはた、いといたうたをやぎけるをや」

 と、これかれつきしろふ。この御おほんあへしらひきこゆる少将せうしゃうの君きみといふ人ひとして、

「柏木かしはぎに葉守はもりの神かみはまさずとも人ひとならすべき宿やどの梢こずゑか

うちつけなる御言おほんことの葉はになむ、浅あさう思おもひたまへなりぬる」

 と聞きこゆれば、げにと思おぼすに、すこしほほ笑ゑみたまひぬ。

御息所ゐざり出でたまふ

 御息所みやすんどころゐざり出いでたまふけはひすれば、やをらゐ直なほりたまひぬ。

「憂うき世よの中なかを、思おもひたまへ沈しづむ月日つきひの積つもるけぢめにや、乱みだり心地ごこちも、あやしうほれぼれしうて過すぐしはべるを、かくたびたび重かさねさせたまふ御訪おほんとぶらひの、いとかたじけなきに、思おもひたまへ起おこしてなむ」

 とて、げに悩なやましげなる御おほんけはひなり。

「思おもほし嘆なげくは、世よのことわりなれど、またいとさのみはいかが。よろづのこと、さるべきにこそはべめれ。さすがに限かぎりある世よになむ」

 と、慰なぐさめきこえたまふ。

「この宮みやこそ、聞ききしよりは心こころの奥おく見みえたまへ、あはれ、げに、いかに人ひと笑わらはれなることを取とり添そへて思おぼすらむ」

 と思おもふもただならねば、いたう心こころとどめて、御おほんありさまも問とひきこえたまひけり。

「容貌かたちぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、いと見苦みぐるしうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて、見みる目めにより人ひとをも思おもひ飽あき、また、さるまじきに心こころをも惑まどはすべきぞ。さま悪あしや。ただ、心こころばせのみこそ、言いひもてゆかむには、やむごとなかるべけれ」と思おもほす。

「今いまはなほ昔むかしに思おもほしなずらへて、疎うとからずもてなさせたまへ」

 など、わざと懸想けさうびてはあらねど、ねむごろにけしきばみて聞きこえたまふ。直衣なほし姿すがたいとあざやかにて、丈たけだちものものしう、そぞろかにぞ見みえたまひける。

「かの大殿おとどは、よろづのことなつかしうなまめき、あてに愛敬あいぎゃうづきたまへることの並ならびなきなり」

「これは、男々ををしうはなやかに、あなきよらと、ふと見みえたまふにほひぞ、人ひとに似にぬや」

 と、うちささめきて、

「同おなじうは、かやうにても出いで入いりたまはましかば」

 など、人ひとびと言いふめり。

「右将軍いうしゃうぐんが墓つかに草くさ初はじめて青あをし」

 と、うち口くちずさびて、それもいと近ちかき世よのことなれば、さまざまに近ちかう遠とほう、心こころ乱みだるやうなりし世よの中なかに、高たかきも下くだれるも、惜をしみあたらしがらぬはなきも、むべむべしき方かたをばさるものにて、あやしう情なさけを立たてたる人ひとにぞものしたまひければ、さしもあるまじき公人おほやけびと、女房にょうばうなどの年とし古ふるめきたるどもさへ、恋こひ悲かなしびきこゆる。まして、上うへには、御遊おほんあそびなどの折をりごとにも、まづ思おぼし出いでてなむ、しのばせたまひける。

「あはれ、衛門督ゑもんのかみ」

 といふ言種ことぐさ、何なにごとにつけても言いはぬ人ひとなし。六条院ろくでうのゐんには、ましてあはれと思おぼし出いづること、月日つきひに添そへて多おほかり。

 この若君わかぎみを、御心おほんこころ一ひとつには形見かたみと見みなしたまへど、人ひとの思おもひ寄よらぬことなれば、いとかひなし。秋あきつ方かたになれば、この君きみは、ゐざりなど。

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