『平家物語』第11巻(巻十一)の原文を、4ページに分けて全文ルビ付きで掲載しています。このページ(4)には、平家一門の最期を描いた「副将被斬」から「重衡被斬」までの章段を収めました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『平家物語』第11巻 現代語訳(4)をご覧ください。
(4)平家一門の最期のあらすじ
- 副将被斬:宗盛の幼い子・副将、父と引き離されて斬られる。
- 腰越:鎌倉入りを許されない義経、腰越から頼朝に弁明の書状を送る。
- 大臣殿被斬:都へ戻る途中の近江篠原で、宗盛父子が斬られる。
- 重衡被斬:南都を焼いた重衡、奈良へ送られ斬られる。
前回はこちら
『平家物語』第11巻 原文(3)平家一門の帰京(内侍所都入~文之沙汰・全文ルビ付き)
『平家物語』第11巻(巻十一)の原文を、4ページに分けて全文ルビ付きで掲載しています。このページ(3)には、平家一門の帰京を描いた「内侍所都入」から「文之沙汰」…
目次
副将被斬
同じき五月七日、九郎大夫判官、平氏の生捕ども相具して関東へ下向と聞こえしかば、大臣殿、判官のもとへ使者を立てて、
「明日関東へ下向と承り候。恩愛の道は思ひ切られぬことにて候なり。生捕の中に、八歳の童とつけられて候ひし者は、いまだこの世に候やらん。いま一度見候はばや」
とのたまひつかはされたりければ、判官の返事には、
「誰も恩愛の道は思ひ切られぬことにて候へば、まことにさこそおぼしめされ候らめ」
とて、河越小太郎重房がもとに預かり奉りたりけるを、大臣殿のもとへ若君入れ奉るべき由のたまひければ、人に車借って乗せ奉り、女房二人つき奉りたりしも一つ車に乗り具して、大臣殿へぞ参られける。若君ははるかに父を見奉りたまひて、世に嬉しげにおはしたり。大臣殿、
「いかにこれへ」とのたまへば、やがて御膝の上に参りたまふ。
大臣殿、若君の御ぐしをかき撫で、涙をはらはらと流いて、守護の武士どもにのたまひけるは、
「これは、各聞きたまへ、母もなき者にてあるぞとよ。この子が母は、これを産むとて、産をば平らかにしたりしかども、やがてうち臥して悩みしが、『この後いかなる人の腹に公達を設けたまふとも、思ひかへずして生ひ立て、わが形見に御覧ぜよ。さし放って乳母などのもとへつかはすな』といひしことの不便さに、『あの右衛門督をば、朝敵を平らげん時は大将軍をせさせ、これをば副将軍をせさせんずれば』とて、名を副将とつけたりしかば、斜めならず嬉しげに思ひて、すでに限りの時までも名を呼ぶなどして愛せしが、七日といふにはかなくなりてあるぞとよ。この子を見るたびごとには、そのことが忘れがたくおぼゆるなり」
とて、涙もせきあへたまはねば、守護の武士どもも皆袖をぞ絞りける。右衛門督も泣きたまへば、乳母も袖を絞りけり。
やや久しくあって、大臣殿、
「さらば副将、とく帰れ。嬉しう見つる」
とのたまへども、若君帰りたまはず。右衛門督これを見て、涙を押へてのたまひけるは、
「やや副将御前、今夜はとくとく帰れ。ただ今客人の来うずるぞ。朝は急ぎ参れ」
とのたまへども、父の御浄衣の袖にひしと取りついて、
「いなや、帰らじ」
とこそ泣きたまへ。かくてはるかにほど経れば、日もやうやう暮れにけり。さてしもあるべきことならねば、乳母の女房抱き取って御車に乗せ奉り、二人の女房どもも袖を顔に押しあてて、泣く泣く暇申しつつ、ともに乗ってぞ出でにける。大臣殿は後をはるかに御覧じ送りて、日ごろの恋しさはことの数ならずとぞ悲しみたまふ。
「この子は母の遺言が無慚なれば」
とて、乳母のもとへもつかはさず、朝夕御前にてそだてたまふ。三歳にて始冠して、義宗とぞ名のらせける。やうやう生ひ立ちたまふままに、みめ容美しく、心ざま優におはしければ、大臣殿もかなしういとほしきことにおぼして、西海の旅の空、浪の上、船の中の住みかにも、片時も離れたまはず。しかるを、軍破れて後は、今日ぞ互ひに見たまひける。
河越小太郎、判官の御前に参りていひけるは、
「さて若君の御事をば、なにと御計らひ候やらん」と申しければ、
「鎌倉まで具し奉るに及ばず。汝ともかうもこれであひはからへ」とぞのたまひける。
河越小太郎宿所に帰りて、二人の女房どもに申しけるは、
「大臣殿は鎌倉へ御下り候が、若君は京に御とどまりあるべきにて候。重房も罷り下り候あひだ、緒方三郎惟義が手へ渡し奉るべきにて候。とうとう召され候へ」
とて、御車寄せたりければ、若君なに心もなう乗りたまひぬ。
「また昨日のやうに父御前の御もとへか」
とて悦ばれけるこそはかなけれ。六条を東へやって行く。この女房ども、
「あはや、あやしきものかな」
と、肝魂を消して思ひけるほどに、少し引き下って、兵五六十騎がほど、河原へうち出でたり。やがて車をやりとどめて、敷皮しき、
「下りさせたまへ」
と申しければ、若君車より下りたまひぬ。世にあやしげにおぼして、
「われをばいづちへ具して行かんとするぞ」
と問ひたまへば、二人の女房ども、とかうの御返事にも及ばず。重房が郎等、太刀をひきそばめて、左の方より御後に立ち回り、すでに斬り奉らんとしけるを、若君見つけたまひて、いくほど逃るべきことのやうに、急ぎ乳母の懐の中へぞ逃げ入りたまふ。さすが心強う取り出し奉るにも及ばねば、若君をかかへ奉り、人の聞くをもはばからず、天に仰ぎ地に伏して、をめき叫びける心の中、推量られてあはれなり。
かくて時刻はるかに推し移りければ、河越小太郎重房涙をおさへて、
「今はいかにおぼしめされ候とも、かなはせたまひ候まじ。とうとう」
と申しければ、その時乳母の懐の中より引き出し奉り、腰の刀にて押し伏せて、つひに頸をぞかいてける。猛き武士どももさすが岩木ならねば、皆涙を流しけり。頸をば、
「判官の見参に入れん」
とて取って行く。乳母の女房、徒跣にて追ひつきて、
「なにかくるしう候べき。御頸ばかりをばたまはって、後世を弔ひまゐらせん」
と申せば、判官も世にあはれげに思ひ、涙をはらはらと流いて、
「まことにさこそは思ひたまふらめ。もっともさあるべし。とうとう」
とてたびにけり。これを取って懐に入れて、泣く泣く京の方へ帰るとぞ見えし。
その後五六日して、桂川に女房二人身を投げたることありけり。一人幼き人の頸を懐に入れて沈みたりけるは、この若君の乳母の女房にてぞありける。いま一人屍を抱いてありけるは、介錯の女房なり。乳母が思ひきるは、せめていかがせん、介錯の女房さへ身を投げけるこそありがたけれ。
腰越
さるほどに、大臣殿父子は九郎大夫判官に具せられて、七日の暁関東へ下りたまふ。粟田口を過ぎたまへば、大内山も雲井のよそに隔たりぬ。逢坂にもなりしかば、関の清水を見たまひて、大臣殿泣く泣くかうぞ詠じたまひける。
都をば今日を限りの関水にまたあふ坂の影やうつさむ
道すがらもあまりに心細げにおはしければ、判官情けある人にて、さまざまに慰め奉る。大臣殿、判官に向かって、
「相構へ、今度親子の命を助けてたまへ」とのたまへば、
「遠き国、はるかの島へも遷しぞまゐらせ候はんずらん。御命失ひ奉るまではよも候はじ。たとひさ候とも、義経が勲功の賞に申しかへて、御命ばかりは助けまゐらせ候べし。御心安うおぼしめされ候へ」
と憑もしげに申されければ、
「たとひ夷が千島なりとも、かひなき命だにあらば」
とのたまひけるこそ口惜しけれ。日数経れば、同じき二十四日、鎌倉へ下り着きたまふ。
梶原、判官に一日先立って、鎌倉殿に申しけるは、
「日本国は今は残るところなう従ひ奉り候。ただし御弟九郎大夫判官殿こそ、つひの御敵とは見えさせたまひ候へ。その故は、『一の谷を上の山より義経が落とさずば、東西の木戸口破れがたし。生捕も死捕も義経にこそ見すべきに、物の用にもあひたまはぬ蒲殿の方へ見参に入るべきやうやある。本三位中将殿こなたへたばずば、参りてたまはるべし』とて、すでに軍出で来候はんとし候ひしを、景時が土肥に心を合はせて、三位中将殿を土肥次郎に預けて後こそ、静まりたまひて候ひしか」
と語り申しければ、鎌倉殿うちうなづいて、
「今日九郎が鎌倉へ入るなるに、各用意したまへ」
とて仰せられければ、大名小名馳せ集まって、ほどなく数千騎になりにけり。
金洗沢に関すゑて、大臣殿父子請け取り奉って、判官をば腰越へ追ひ返さる。鎌倉殿は随兵七重八重にすゑ置いて、わが身はその中におはしながら、
「九郎はすすどきをのこなれば、この畳の下よりも這ひ出でんずる者なり。ただし頼朝はせらるまじ」
とぞのたまひける。
判官思はれけるは、
「去年の正月木曽義仲を追討せしよりこのかた、一の谷、壇の浦に至るまで、命を捨てて平家を責め落とし、内侍所、璽の御箱、ことゆゑなく返し入れ奉り、大将軍父子生捕にして、具してこれまで下りたらんには、たとひいかなる不思議ありとも、一度はなどか対面なかるべき。およそは九国の惣追捕使にもなされ、山陰、山陽、南海道、いづれにても預け、一方の固めともなされんずるとこそ思ひつるに、わづかに伊予の国ばかりを知行すべき由仰せられて、あまつさへ鎌倉へだにも入れられぬこそ本意なけれ。さればこはなにごとぞ。日本国を静むること、義仲、義経がしわざにあらずや。たとへば同じ父が子で、先に生るるを兄とし、後に生るるを弟とするばかりなり。誰か天下を知らんに知らざるべき。あまつさへ今度見参をだにも遂げずして、追ひ上らるるこそ遺恨の次第なれ。謝するところを知らず」
とつぶやかれけれども力なし。まったく不忠なき由、たびたび起請文をもって申されけれども、景時が讒言によって、鎌倉殿用ゐたまはねば、判官泣く泣く一通の状を書いて、広元のもとへつかはす。その状にいはく、
源義経恐れながら申し上げ候意趣は、御代官のその一に選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、会稽の恥辱を雪ぐ。勲賞行はるべきところに、思ひのほか虎口の讒言によって、莫大の勲功を黙止せらる。義経犯しなうして咎を被り、功あって誤りなしといへども、御勘気を被り、むなしく紅涙に沈む。讒者の実否をただされず、鎌倉中へ入れられざるあひだ、素意を述ぶるにあたはず、いたづらに数日を送る。この時にあたって、永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の義すでに絶え、宿運きはめてむなしきに似たるか。はたまた先世の業因の感ずるか。悲しきかな、この条、故亡父尊霊再誕したまはずば、誰の人か愚意の悲嘆を申し開かん。いづれの人か哀憐を垂れられんかな。
ことあたらしき申し状、述懐に似たりといへども、義経身体髪膚を父母に受けて、いくばくの時節を経ず、故頭殿御他界のあひだ、みなし子となり、母の懐の中に抱かれて、大和国宇多郡に越しより以降、いまだ一日片時安堵の思ひに住せず。甲斐なき命をば存すといへども、京都の経廻難治のあひだ、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖として、土民百姓等に服仕せらる。しかれども交契たちまちに純熟して、平家の一族追討のために上洛せしむる手合に、木曽義仲を誅戮の後、平氏を傾けんがために、ある時は峨々たる巌石に駿馬に鞭うち、敵のために命をほろぼさんことを顧みず、ある時は漫々たる大海に風波の難をしのぎ、海底に沈まんことを痛まずして、屍を鯨鯢の鰓にかく。しかのみならず、甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併ら亡魂の憤りを休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲するほか他事なし。あまつさへ義経五位の尉に補任の条、当家の重職なにごとかこれにしかん。しかりといへども、愁へ深く嘆き切なり。
仏神の御助けにあらずよりほかは、いかでか愁訴を達せん。これによって、諸寺諸社の牛王宝印の裏をもって、野心を挿まざる旨、日本国中の大小の神祇冥道を請じ驚かし奉って、数通の起請文を書き進ずといへども、なほもって御宥免なし。それわが国は神国なり。神は非礼を享けたまふべからず。憑むところ他にあらず、ひとへに貴殿広大の慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひ、高聞に達せしめ、秘計をめぐらし、誤りなき由をゆうぜられ、赦免に預からば、積善の余慶家門に及び、栄華を永く子孫に伝へん。よって年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に尽くさず、併ら省略せしめ候ひをはんぬ。義経恐惶謹言。
元暦二年六月五日 源義経進上 因幡守殿へ、とぞ書かれたる。
大臣殿被斬
さるほどに、鎌倉殿、大臣殿に対面あり。おはしける所に庭を一つ隔てて、向かひなる屋にすゑ奉り、簾の中より見出だし、比企藤四郎義員を使者で申されけるは、
「平家の人々に別の意趣思ひ奉ること、ゆめゆめ候はず。その故は、池殿の尼御前いかに申したまふとも、故入道殿の御ゆるされ候はずば、頼朝いかでか助かり候べき。流罪に宥められしこと、ひとへに入道殿の御恩なり。されば二十余年まで、さてこそ罷り過ぎ候ひしかども、朝敵となりたまひて、追討すべき由院宣をたまはるあひだ、さのみ王地にはらまれて、詔命を背くべきにもあらねば、力及ばず。かやうに見参に入りたまひぬるこそ本意に候へ」
と申されければ、義員この由申さんとて御前に参りたりければ、居なほりかしこまりたまひけるこそうたてけれ。国々の大名小名並み居たるその中に、京の者どもいくらもあり、皆爪はじきをして申しけるは、
「居なほりかしこまりたまひたらば、御命の助かりたまふべきか。西国でいかにもなりたまふべき人の、生きながらとらはれて、これまで下りたまふこそ理なれ」
とぞ申しける。あるいは涙を流す人もあり。その中にある人の申しけるは、
「猛虎深山にある時は、百獣震ひ怖づ。檻穽の中にあるに及んで、尾を揺らして食を求むとて、猛き虎の深き山にある時は、百の獣恐るといへども、檻の中に籠められぬる時は、尾を掉って人に向かふらんやうに、いかに猛き大将軍なれども、かやうになって後は心かはることなれば、大臣殿もかくおはするにこそ」
と申しける人もありけるとかや。
さるほどに、九郎大夫判官さまざまに陳じ申されけれども、景時が讒言によって、鎌倉殿さらに分明の御返事もなし。
「急ぎ上らるべし」
と仰せられければ、同じき六月九日、大臣殿父子具し奉って、都へぞ返り上られける。大臣殿は、いま少しも日数の延びるを嬉しきことに思はれける。道すがらも、
「ここにてや、ここにてや」
とおぼしけれども、国々宿々うち過ぎうち過ぎ通りぬ。尾張国内海といふ所あり。ここは故左馬頭義朝が誅せられし所なれば、これにてぞ一定と思はれけれども、それをも過ぎしかば、大臣殿少し憑もしき心出で来て、
「さては命の生きんずるやらん」
とのたまひけるこそはかなけれ。右衛門督は、
「なじかは命を生くべき。かやうに暑きころなれば、頸の損ぜぬやうにはからひて、京近うなって斬らんずるにこそ」
と思はれけれども、大臣殿のいたく心細げにおぼしたるが心苦しさに、さは申されず。ひとへに念仏をのみぞ申したまふ。
日数経れば、都も近づいて、近江国篠原の宿に着きたまひぬ。判官情け深き人なれば、三日路より人を先立てて、善知識のために、大原の本性房湛豪といふ聖請じ下されたり。昨日までは親子一所におはしけるを、今朝より引き放って、別の所にすゑ奉りければ、
「さては今日を最後にてあるやらん」
と、いとど心細うぞ思はれける。大臣殿涙をはらはらと流いて、
「そもそも右衛門督はいづくに候やらん。たとひ頸は落つとも、体は一つ席に臥さんとこそ思ひつるに、生きながら別れぬることこそ悲しけれ。十七年が間、一日片時も離るることなし。西国にて海底に沈までうき名を流すも、あれゆゑなり」
とて泣かれければ、聖もあはれに思ひけれども、われさへ心弱くてはかなはじと思ひて、涙を拭ひ、さらぬ体にもてないて申しけるは、
「今はとかくおぼしめすべからず。最後の御有様を御覧ぜんにつけても、互ひの御心の中悲しかるべし。生を受けさせたまひてよりこのかた、楽しみ栄え、昔もたぐひ少なし。御門の御外戚にて、丞相の位に至らせたまへり。今生の御栄華、一事も残るところなし。今またかかる御目にあはせたまふも、先世の宿業なり。世をも人をも恨みおぼしめすべからず。大梵王宮の深禅定の楽しみ、思へばほどなし。いはんや電光朝露の下界の命においてをや。忉利天の億千歳、ただ夢のごとし。三十九年を過ごさせたまひけんも、わづかに一時の間なり。誰か嘗めたりし不老不死の薬、誰か保ちたりし東父西母が命。秦の始皇の奢りをきはめしも、つひには驪山の墓に埋もれ、漢の武帝の命を惜しみたまひしも、むなしく杜陵の苔に朽ちにき。生ある者は必ず滅す、釈尊いまだ栴檀の煙を免れたまはず。楽しみ尽きて悲しみ来る、天人なほ五衰の日にあへりとこそ承れ。されば仏は、『我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法』とて、善も悪も空なりと観ずるが、まさしく仏の御心に相かなふことにて候なり。いかなれば弥陀如来は、五劫が間思惟して発しがたき願を発しましますに、いかなる我等なれば、億々万劫が間生死に輪廻して、宝の山に入って手をむなしくせんこと、恨みの中の恨み、愚かなるが中の口惜しきことに候はずや。ゆめゆめ余念をおぼしめすべからず」
とて、戒保たせ奉り、念仏勧め申す。大臣殿、しかるべき善知識かなとおぼしめし、たちまちに妄念を翻して、西に向かひ手を合はせ、高声に念仏したまふところに、橘右馬允公長、太刀を引きそばめて、左の方より御後に立ち回り、すでに斬り奉らんとしければ、大臣殿念仏をとどめて、
「右衛門督もすでにか」
とのたまひけるこそあはれなれ。公長後へ回るかと見えしかば、頸は前にぞ落ちにける。善知識の聖も涙にむせびたまひけり。猛き武士もいかでかあはれと思はざるべき。ましてかの公長は、平家重代の家人、新中納言のもとに朝夕祗候の侍なり。さこそ世を諂ふならひといひながら、無下に情けなかりける者かなとぞ、人皆慚愧しける。
その後、右衛門督をも、聖前のごとくに戒保たせ奉り、念仏勧め申す。
「大臣殿の最後いかがおはしましつる」
と問はれけるこそいとほしけれ。
「めでたうましまし候ひつるなり。御心安うおぼしめされ候へ」
と申されければ、涙を流し悦んで、
「今は思ふことなし。さらばとう」
とぞのたまひける。今度は堀弥太郎斬ってけり。頸をば判官持たせて都へ入る。体をば公長が沙汰として、親子一つ穴にぞ埋めける。さしも罪深く離れがたくのたまひければ、かやうにしてんげり。
同じき二十三日、大臣殿父子の頭都へ入る。検非違使ども三条河原に出で向かって、これを請け取り、大路を渡して、獄門の左の樗の木にぞ懸けたりける。三位以上の人の頸、大路を渡して獄門に懸けらるること、異国にはその例もやあるらん、わが朝においてはいまだその先蹤を聞かず。されば平治に信頼は悪人たりしかば、頸をば刎ねられたりしかども、獄門には懸けられず。平家にとってぞ懸けられける。西国より上っては、生きて六条を東へ渡され、東国より帰っては、死んで三条を西へ渡されたまふ。生きての恥、死んでの恥、いづれも劣らざりけり。
重衡被斬
本三位中将重衡卿は、狩野介宗茂に預けられて、去年より伊豆国におはしけるを、南都の大衆しきりに申しければ、
「さらば渡せ」
とて、源三位入道頼政の孫、伊豆蔵人大夫頼兼に仰せて、つひに奈良へぞつかはしける。都へは入れられずして、大津より山科通りに醍醐路を経て行けば、日野は近かりけり。
この重衡卿の北の方と申すは、鳥飼中納言惟実の娘、五条大納言邦綱の養子、先帝の御乳母、大納言佐殿とぞ申しける。三位中将一の谷で生捕にせられたまひし後も、先帝につきまゐらせておはせしが、壇の浦にて海に入らせたまひしかば、武士の荒けなきにとらはれて、旧里に帰り、姉の大夫三位に同宿して、日野といふ所におはしけり。中将の露の命、草葉の末にかかって消えやらぬと聞きたまへば、夢ならずして、いま一度見もし見えもすることもやと思はれけれども、それもかなはねば、泣くよりほかの慰めなくて、明かし暮らしたまひけり。
三位中将、守護の武士にのたまひけるは、
「このほどことに触れて情け深う芳心おはしつるこそ、ありがたう嬉しけれ。同じくは最後にいま一度芳恩蒙りたきことあり。われは一人の子なければ、この世に思ひおくことなし。年ごろ相具したりし女房の、日野といふ所にありと聞く。いま一度対面して、後生のことをも申しおかばやと思ふなり」
とて、片時の暇をこはれけり。武士どもさすが岩木ならねば、各涙を流しつつ、
「なにかは苦しう候べき」とてゆるし奉る。
中将斜めならず悦んで、
「大納言佐殿の御局は、これに渡らせたまひ候やらん。本三位中将殿のただ今奈良へ御通り候が、立ちながら見参に入らばやと仰せ候」
と、人を入れていはせければ、北の方聞きもあへず、
「いづらやいづら」
とて走り出でて見たまへば、藍摺の直垂に折烏帽子着たる男の、痩せ黒みたるが、縁に寄りゐたるぞ、そなりける。北の方、御簾の際近く寄って、
「いかに夢かや現か。これへ入らせたまへ」
とのたまひける御声を聞きたまふに、いつしか先立つものは涙なり。大納言佐殿は、目もくれ心も消え果てて、しばしはものものたまはず。三位中将、御簾うちかづいて、泣く泣くのたまひけるは、
「去年の春、一の谷でいかにもなるべかりし身の、せめての罪の報いにや、生きながらとらはれて大路を渡され、京鎌倉に恥をさらすだに口惜しきに、果ては奈良の大衆の手に渡されて、斬らるべしとて罷り候。いかにもして、いま一度御姿を見奉らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思ひおくことなし。出家して形見に髪をも奉らばやと思へども、ゆるされなければ力及ばず」
とて、額の髪を少し引き分けて、口の及ぶところをくひ切って、
「これを形見に御覧ぜよ」
とて奉りたまへば、北の方は日ごろおぼつかなくおはしけるより、いま一入悲しみの色をぞ増したまふ。
「まことに別れ奉りし後は、越前三位の上のやうに、水の底にも沈むべかりしが、まさしうこの世におはせぬ人とも聞かざりしかば、もし不思議にていま一度かはらぬ姿を見もし見えもやすると思ひてこそ、憂きながら今までもながらへてありつるに、今日を限りにておはせんずらん悲しさよ。今まで延びつるは、もしやと思ふ憑みもありつるものを」
とて、昔今のことどものたまひかはすにつけても、ただ尽きせぬものは涙なり。
「あまりの御姿のしをれてさぶらふに、奉りかへよ」
とて、袷の小袖に浄衣を添へて出されたりければ、三位中将これを着かへて、もと着たまへる物どもをば、
「形見に御覧ぜよ」とて置かれけり。
北の方、
「それもさることにてさぶらへども、はかなき筆の跡こそ、永き世の形見にてさぶらへ」
とて、御硯を出されたりければ、中将泣く泣く一首の歌をぞ書かれける。
せきかねて涙のかかる唐衣のちのかたみにぬぎぞかへぬる
北の方聞きもあへず、
ぬぎかふる衣も今はなにかせん今日を限りの形見と思へば
「契りあらば、後世にては必ず生れあひ奉らん。一つ蓮にと祈りたまへ。日もたけぬ。奈良へも遠う候。武士の待つも心なし」
とて出でたまへば、北の方袖にすがりて、
「いかにやいかに、しばし」
とて引きとどめたまふに、中将、
「心のうちをばただ推し量りたまふべし。されどもつひには逃れ果つべき身にもあらず。また来ん世にてこそ見奉らめ」
とて出でたまへども、まことにこの世にてあひ見んことは、これぞ限りと思はれければ、いま一度立ち帰りたくおぼしけれども、心弱くてはかなはじと、思ひきってぞ出でられける。北の方、御簾の際近く伏しまろび、をめき叫びたまふ御声の、門の外まではるかに聞こえければ、駒をもさらにはやめたまはず、涙にくれて行く先も見えねば、なかなかなりける見参かなと、今は悔しうぞ思はれける。大納言佐殿、やがて走りついてもおはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、引きかづいてぞ臥したまふ。
さるほどに、三位中将をば南都の大衆請け取って僉議す。
「そもそもこの重衡卿は、大犯の悪人たる上、三千五刑の中に漏れ、修因感果の道理極定せり。仏敵法敵の逆臣なれば、東大寺、興福寺の大垣をめぐらして鋸にてや斬るべき、堀頸にやすべき」
と僉議す。老僧どもの申されけるは、
「それも僧徒の法に穏便ならず。ただ守護の武士にたまうで、木津の辺にて斬らすべし」
とて、武士の手へぞかへしける。武士これを請け取って、木津川の端にて斬らんとするに、数千人の大衆、見る人いくらといふ数を知らず。
三位中将の年ごろ召し使はれける侍に、木工右馬允知時といふ者あり。八条女院に候ひけるが、最後を見奉らんとて、鞭を打ってぞ馳せたりける。すでにただ今斬り奉らんとするところに馳せついて、千万立ち囲うだる人の中をかき分け、三位中将のおはしける御傍近う参りたり。
「知時こそ、ただ今最後の御有様見まゐらせ候はんとて、これまで参りて候へ」
と泣く泣く申しければ、中将、
「まことに志のほど神妙なり。いかに知時、仏を拝み奉って斬らればやと思ふはいかがせんずる。あまりに罪深う覚ゆるに」
とのたまへば、知時、
「やすい御事候なり」
とて、守護の武士に申し合はせ、その辺におはしける仏を一体迎へ奉って出で来たり。幸ひに阿弥陀にてぞましましける。河原の沙の上に立てまゐらせ、やがて知時が狩衣の袖のくくりを解いて、仏の御手にかけ、中将に引かへさせ奉る。中将これを引かへつつ、仏に向かひ奉って申されけるは、
「伝へ聞く、調達が三逆を作り、八万蔵の聖教を焼滅したりしも、つひには天王如来の記別にあづかり、所作の罪業まことに深しといへども、聖教に値遇せし逆縁朽ちずして、かへって得道の因となる。今重衡が逆罪を犯すこと、まったく愚意の発起にあらず、ただ世に従ふ理を存ずるばかりなり。命を保つ者、誰か王命を蔑如する。生を受くる者、誰か父の命を背かん。かれといひこれといひ、辞するにところなし。理非仏陀の照覧にあり。そもそも罪報たちどころに報い、運命ただ今を限りとす。後悔千万、悲しんでも余りあり。ただし三宝の境界は、慈悲を心として、済度の良縁まちまちなり。唯円教意、逆即是順、この文肝に銘ず。一念弥陀仏、即滅無量罪、願はくは逆縁をもって順縁とし、ただ今最後の念仏によって、九品託生を遂ぐべし」
とて、高声に十念唱へつつ、頸を延べてぞ斬らせられける。日ごろの悪行はさることなれども、ただ今の有様を見奉るに、数千人の大衆も守護の武士も、皆涙をぞ流しける。その頸をば、般若寺の大鳥居の前に釘付けにこそ懸けられけれ。治承の合戦の時、ここにうち立って伽藍を滅ぼしたまへる故なり。
北の方大納言佐殿、首をばはねられたりとも、屍をば取り寄せて孝養せんとて、輿を迎へにつかはす。げにも捨て置きたりければ、取って輿に入れ、日野へかいてぞ帰りける。これを待ち受け見たまひける北の方の心の中、推量られてあはれなり。昨日まではゆゆしげにおはせしかども、暑きころなれば、いつしかあらぬさまになりたまひぬ。さてもあるべきならねば、その辺に法界寺といふ所にて、さるべき僧どもあまた語らひて孝養あり。頸をば大仏の聖俊乗房にとかくのたまへば、大衆に乞うて日野へぞつかはしける。頸も屍も煙になし、骨をば高野へ送り、墓をば日野にぞせられける。北の方も様をかへ、後世菩提を弔はれけるこそあはれなれ。
現代語訳を読む
『平家物語』第11巻 現代語訳(1)屋島の戦い(逆櫓~志度合戦)
『平家物語』第11巻(巻十一)の現代語訳を、4ページに分けて掲載しています。このページ(1)には、屋島の戦いを描いた「逆櫓」から「志度合戦」までの章段を収めまし…