『平家物語』第11巻(巻十一)の現代語訳を、4ページに分けて掲載しています。このページ(4)には、平家一門の最期を描いた「副将被斬」から「重衡被斬」までの章段を収めました。原文とあわせて読みたい方は、『平家物語』第11巻 原文(4)をご覧ください。
- (1)屋島の戦い:逆櫓/勝浦付大坂越/嗣信最期/那須与一/弓流/志度合戦
- (2)壇ノ浦の戦い:鶏合壇浦合戦/遠矢/先帝身投/能登殿最期
- (3)平家一門の帰京:内侍所都入/剣/一門大路渡/鏡/文之沙汰
- (4)平家一門の最期:副将被斬/腰越/大臣殿被斬/重衡被斬
- 副将被斬:宗盛の幼い子・副将、父と引き離されて斬られる。
- 腰越:鎌倉入りを許されない義経、腰越から頼朝に弁明の書状を送る。
- 大臣殿被斬:都へ戻る途中の近江篠原で、宗盛父子が斬られる。
- 重衡被斬:南都を焼いた重衡、奈良へ送られ斬られる。
副将被斬
同じ年の5月7日、九郎大夫判官(源義経)が平家の生け捕りたちを連れて関東へ下ると伝わったので、大臣殿(平宗盛)は判官のもとへ使者を立てて、
「明日、関東へ下られると承りました。親子の情愛の道は、思い切れないものでございます。生け捕りの中に、8歳の童と名簿に記されておりました者は、まだこの世におりますでしょうか。もう一度会いたいものです」
とおっしゃって使いを遣わされたので、判官の返事には、
「誰でも親子の情愛は思い切れないものでございますから、まことにそのようにお思いになることでございましょう」
と言って、河越小太郎重房のもとにお預かりしていた若君を、大臣殿のもとへお連れ申し上げるようにとおっしゃったので、人に車を借りてお乗せ申し上げ、お付きの女房2人も同じ車に乗り添って、大臣殿のもとへ参られた。若君は遠くから父君を見申し上げなさって、たいそううれしそうにしておられた。大臣殿が、
「さあ、こちらへ」とおっしゃると、若君はすぐに父君のお膝の上に参られた。
大臣殿は若君の髪をかき撫で、涙をはらはらと流して、警護の武士たちにおっしゃったことには、
「この子は、皆、聞いてくだされ、母のない子なのだ。この子の母は、この子を産むとき、お産は無事に済ませたが、そのまま床について病み、『この後、どのような女性との間にお子をもうけられても、お心を移さずにこの子を育てて、わたしの形見とご覧ください。手放して乳母などのもとへやらないでください』と言ったのがふびんで、『あの右衛門督(平清宗)には朝敵を平らげるときに大将軍をさせ、この子には副将軍をさせよう』と言って、名を副将とつけたところ、母はたいそううれしそうに思って、いよいよ最期というときまでもこの名を呼んだりしてかわいがっていたが、産後7日目に亡くなってしまったのだ。この子を見るたびに、そのことが忘れがたく思われるのだ」
と言って、涙もこらえきれずにいらっしゃったので、警護の武士たちもみな袖をしぼった。右衛門督もお泣きになるので、乳母も袖をしぼった。
しばらくたってから、大臣殿が、
「では副将、早く帰れ。会えてうれしかった」
とおっしゃったが、若君はお帰りにならない。右衛門督はこれを見て、涙をこらえておっしゃったことには、
「これ、副将御前、今夜は早く早くお帰り。ただいまお客人が来るのだよ。朝になったら急いで来なさい」
とおっしゃったけれども、若君は父君の白い浄衣の袖にしっかりと取りすがって、
「いやだ、帰らない」
と言ってお泣きになった。こうしてずいぶん時がたったので、日もしだいに暮れてしまった。いつまでもそうしているわけにもいかないので、乳母の女房が若君を抱き取って車にお乗せ申し上げ、2人の女房たちも袖を顔に押し当てて、泣く泣くいとまを申し上げながら、いっしょに乗って出ていった。大臣殿は後ろ姿をはるかに見送られて、日ごろの恋しさなど物の数ではないと悲しまれた。
「この子は、母の遺言がふびんなので」
と言って、乳母のもとへもやらず、朝夕おそばで育てなさった。3歳で初冠をして、義宗と名のらせた。しだいに成長なさるにつれて、顔立ちは美しく、気立てもやさしくいらっしゃったので、大臣殿もいとおしくかわいいことにお思いになって、西海の旅の空の下、波の上、船の中の住まいでも、片時もおそばから離されなかった。それなのに、戦に敗れた後は、今日初めて互いに顔を合わせなさったのであった。
河越小太郎が判官の御前に参上して言ったことには、
「さて、若君のことは、どのようにお取り計らいになりますか」と申し上げると、
「鎌倉までお連れ申し上げるには及ばない。お前がここでどうにでもうまく取り計らえ」とおっしゃった。
河越小太郎は宿所に帰って、2人の女房たちに申したことには、
「大臣殿は鎌倉へお下りになりますが、若君は京にお残りになることになっております。この重房も下ってまいりますので、緒方三郎惟義の手にお渡し申し上げることになっております。早くお乗りくださいませ」
と言って、車を寄せたので、若君は何の疑いもなくお乗りになった。
「また昨日のように、父上のところへ行くの」
と言ってお喜びになったのは、はかないことであった。車は六条大路を東へ進んでいく。この女房たちは、
「まあ、様子がおかしいこと」
と、肝をつぶして思っていたところに、少し離れて、兵50、60騎ほどが河原へ出てきた。すぐに車を止めて、毛皮の敷物を敷き、
「お降りなさいませ」
と申し上げたので、若君は車からお降りになった。たいそう不審にお思いになって、
「わたしをどこへ連れて行こうとするの」
とお尋ねになるが、2人の女房たちは何ともお返事ができない。重房の家来が太刀を体の脇に隠し持って、左の方から若君の後ろに回り、今にもお斬り申し上げようとしたのを、若君は見つけなさって、どれほど逃れられるというのだろうか、急いで乳母の懐の中へ逃げ込みなさった。乳母はさすがに、無理やり若君を引き出し申し上げることもできないので、若君を抱きかかえ申し上げ、人の聞くのもかまわずに、天を仰ぎ地に伏して泣き叫んだ。その心の内が思いやられてあわれである。
こうしてずいぶん時がたったので、河越小太郎重房は涙をこらえて、
「今はどのようにお思いになりましても、どうにもなりますまい。さあ、早く」
と申し上げたので、そのとき家来が乳母の懐の中から若君を引き出し申し上げ、腰の刀で押し伏せて、とうとう首をかき切ってしまった。勇猛な武士たちも、さすがに岩や木ではないので、みな涙を流した。首は、
「判官のお目にかけよう」
と言って取っていく。乳母の女房ははだしで追いついて、
「何の差し支えがございましょう。お首だけでもいただいて、後世の菩提を弔い申し上げたいのです」
と申し上げると、判官もたいそうあわれに思い、涙をはらはらと流して、
「まことにそのように思われるのももっともだ。そうあって当然だ。さあ、早く持っていけ」
と言ってお与えになった。乳母はこれを受け取って懐に入れ、泣く泣く京の方へ帰っていくように見えた。
その後5、6日たって、桂川に女房2人が身を投げるということがあった。1人の、幼い子の首を懐に入れて沈んでいたのは、この若君の乳母の女房であった。もう1人の、なきがらを抱いていたのは、付き添いの女房である。乳母が死を思い切るのは、せめてもしかたのないことだが、付き添いの女房までもが身を投げたのは、めったにないことである。
腰越
そうしているうちに、大臣殿(平宗盛)父子は、九郎大夫判官(源義経)に連れられて、7日の明け方に関東へお下りになった。粟田口を過ぎなさると、内裏のある大内山も雲のかなたに隔たってしまった。逢坂の関にさしかかったので、関の清水をご覧になって、大臣殿は泣く泣くこのようにお詠みになった。
都をば今日を限りの関水にまたあふ坂の影やうつさむ
都を今日限りで離れていくこの関の清水に、再び逢坂を越えて帰ってきて、わが姿を映すことがあるだろうか。
道中もあまりに心細そうにしておられたので、判官は情けのある人で、いろいろとお慰め申し上げる。大臣殿は判官に向かって、
「どうか、今度の親子の命をお助けください」とおっしゃると、
「遠い国や、はるかな島へお移し申し上げることになるでしょう。お命を奪い申し上げるまではよもやございますまい。たとえそうなったとしても、この義経の勲功の恩賞と引き換えにして、お命だけはお助け申し上げましょう。ご安心なさいませ」
と頼もしげに申し上げなさったので、
「たとえ蝦夷の千島であっても、取るに足りない命さえあれば」
とおっしゃったのは情けないことであった。日数を経て、同じ月の24日、鎌倉へ下り着きなさった。
梶原(梶原景時)は判官より1日先に着いて、鎌倉殿(源頼朝)に申し上げたことには、
「日本国は、今はもう残るところなくあなたさまに従い申し上げております。ただし、ご弟君の九郎大夫判官殿こそ、最後の敵とお見えになります。そのわけは、判官殿が『一の谷を上の山から義経が攻め落とさなかったら、東西の木戸口は破れなかったはずだ。生け捕りも討ち取った首も、この義経にこそ見せるべきなのに、何の役にも立たない蒲殿(源範頼)のほうへお目にかけるという法があるか。本三位中将(平重衡)殿をこちらへ渡さないのなら、こちらから出向いて受け取るぞ』と言って、今にも戦が起こりそうになったのを、この景時が土肥と心を合わせて、三位中将殿を土肥次郎(土肥実平)に預けてから、ようやくお静まりになったのでございます」
と語り申し上げたので、鎌倉殿はうなずいて、
「今日、九郎が鎌倉へ入るそうだから、おのおの用心されよ」
とおっしゃったので、大名、小名が駆け集まって、ほどなく数千騎になった。
鎌倉殿は金洗沢に関所を設けて、大臣殿父子をお受け取り申し上げ、判官は腰越へ追い返された。鎌倉殿は随兵を七重八重に配置して、自分はその中にいらっしゃりながら、
「九郎は抜け目のない男だから、この畳の下からでも這い出してくる者だ。けれども頼朝はそうはさせぬぞ」
とおっしゃった。
判官が思われたことには、
「去年の正月に木曽義仲を討ってからというもの、一の谷、壇の浦に至るまで、命を捨てて平家を攻め落とし、内侍所と璽の御箱を無事にお返し申し上げ、大将軍父子を生け捕りにして、ここまで連れて下ってきたのだから、たとえどのような思いがけない事情があろうとも、一度ぐらいはどうして対面がないことがあろうか。おそらくは九州の惣追捕使にも任じられ、山陰、山陽、南海道のどこかを預けられて、一方の守りともされるだろうと思っていたのに、わずかに伊予の国だけを治めるようにとおっしゃって、そのうえ鎌倉へさえ入れてもらえないのは不本意なことだ。いったいこれはどういうことか。日本国を鎮めたのは、義仲と義経の働きではないか。たとえるなら、同じ父の子で、先に生まれた者を兄とし、後に生まれた者を弟とするだけのことだ。誰であれ天下を治める力があれば、治めないことがあろうか。そのうえ、今度は対面さえ果たさずに追い返されるのは、残念でならない。おわびのしようもない」
とつぶやかれたが、どうしようもない。まったく不忠の心のないことを、たびたび起請文によって申し上げなさったが、景時の讒言のために鎌倉殿がお聞き入れにならないので、判官は泣く泣く1通の書状を書いて、広元(大江広元)のもとへ送った。その書状にはこう書かれていた。
源義経、恐れながら申し上げます趣旨は、わたしは鎌倉殿のご代官の1人に選ばれ、天皇の命令を受けたお使いとして朝敵を滅ぼし、かつての屈辱をすすぎました。恩賞が与えられるはずのところに、思いもよらず、恐ろしい讒言によって、莫大な勲功が無視されてしまいました。義経は罪を犯していないのにとがめを受け、功績があって過ちがないにもかかわらず、ご勘気をこうむって、むなしく血の涙に沈んでおります。讒言した者の言葉の真偽を確かめられることもなく、鎌倉の中へ入れていただけないので、本心を申し述べることもできず、むなしく数日を過ごしております。このようなときに当たって、長く兄上のお顔を拝見することもできず、骨肉を分けた兄弟の縁もすでに絶え、わたしの運命はまったくむなしいものになったかのようです。それとも、前世の悪い行いの報いが現れたのでしょうか。悲しいことです。このことは、亡き父上の霊が再びこの世に生まれてくださらないかぎり、誰がわたしの悲しみを申し開いてくれるでしょうか。どなたが哀れみをかけてくださるでしょうか。
今さらの申し状で、愚痴めいてはおりますが、義経は父母からこの身を授かって間もなく、亡き父上がお亡くなりになったので、みなしごとなり、母の懐に抱かれて大和の国宇陀の郡に逃れて以来、一日片時も安らかな思いをしたことはありません。かいのない命は長らえてきたものの、京都に住み続けることが難しかったので、身をあちこちに隠し、片田舎や遠国を住みかとして、土地の民や百姓たちに召し使われてまいりました。けれども、兄上とのご縁がたちまち熟して、平家一族を追討するために上洛いたしました際に、まず木曽義仲を討ち滅ぼし、その後、平家を倒すために、ある時は険しくそびえる岩山で駿馬に鞭打ち、敵のために命を落とすことも顧みず、ある時は果てしなく広い大海で風や波の難をしのぎ、海の底に沈むことも恐れず、屍を鯨の餌にしてもかまわないと覚悟しました。それだけでなく、鎧兜を枕とし、弓矢を取ることを務めとしてきた本意は、ひとえに亡き父上の魂の憤りをお鎮め申し上げ、長年の宿願を遂げたいと願うことのほかはありません。そのうえ、義経が五位の尉に任じられたことは、源氏にとって重い職であり、これ以上の名誉がありましょうか。とはいえ、今は憂いが深く、嘆きは切実です。
仏や神のお助けによるほかは、どうしてこの訴えを聞き届けていただけましょうか。そこで、諸寺諸社の牛王宝印の裏に、謀反の心を抱いていないことを、日本国中の大小の神々や冥界の神々をお招きして誓い申し上げ、何通もの起請文を書いて差し上げましたが、それでもなおお許しがありません。そもそもわが国は神の国です。神は道に外れた願いはお受けにならないはずです。頼みとするところはほかにありません。ひとえにあなたさまの広く大きなお慈悲におすがりいたします。よい機会をうかがって鎌倉殿のお耳に入れ、手立てをめぐらせて、わたしに過ちのないことをお認めいただき、お許しにあずかることができましたら、善行を積んだ報いが一門に及び、栄華を長く子孫に伝えることができるでしょう。そうして長年の憂いの眉を開き、一生の安らぎを得たいと思います。とても書き尽くすことはできませんので、すべて省略いたします。義経、恐れつつ謹んで申し上げます。
元暦2年6月5日 源義経進上 因幡守殿へ、と書かれていた。
大臣殿被斬
そうしているうちに、鎌倉殿(源頼朝)は大臣殿(平宗盛)と対面なさった。ご自分のおられる所から庭を1つ隔てた向かいの建物に大臣殿をお座らせ申し上げ、簾の中からご覧になって、比企藤四郎義員を使者として申されたことには、
「平家の方々に特別な恨みを抱き申し上げることは、決してございません。そのわけは、池殿の尼御前(池禅尼)がどのように申してくださったとしても、亡き入道殿(平清盛)のお許しがなければ、頼朝がどうして助かったでしょうか。流罪に減じていただいたのは、ひとえに入道殿のご恩です。ですから20余年の間、そのまま過ごしてまいりましたが、平家が朝敵となられて、追討せよとの院宣をいただいたので、この国に生まれた身として、天皇のご命令に背くわけにもいかず、やむをえませんでした。こうしてお目にかかれたのは、本望でございます」
と申されたので、義員がこのことを申し上げようと大臣殿の御前に参上すると、大臣殿は座り直してかしこまりなさったのは情けないことであった。国々の大名、小名が居並ぶ中に、京の者たちも大勢いて、みな爪はじきをして申したことには、
「座り直してかしこまりなさったら、お命が助かるとでもいうのか。西国でどうとでも最期を遂げられるはずの方が、生きたまま捕らえられて、ここまで下ってこられたのも当然だ」
と申した。中には涙を流す人もいた。その中である人が申したことには、
「『猛虎が深い山にいるときは、あらゆる獣が震えおびえる。しかし檻や落とし穴の中にいるようになると、尾を振って食べ物を求める』というように、猛々しい虎も深い山にいるときは、あらゆる獣が恐れるけれども、檻の中に閉じ込められてしまうと、尾を振って人に寄っていくように、どんなに勇猛な大将軍であっても、このようになってしまった後は心が変わるものだから、大臣殿もこのようでいらっしゃるのだろう」
と申した人もいたということである。
そうしているうちに、九郎大夫判官(源義経)はいろいろと弁明申し上げなさったが、景時の讒言のために、鎌倉殿からはまったくはっきりしたお返事もない。
「急いで都へ上れ」
とおっしゃったので、同じ年の6月9日、判官は大臣殿父子をお連れ申し上げて、都へ引き返していかれた。大臣殿は、少しでも命の日数が延びるのをうれしいことと思われた。道中も、
「ここで斬られるのか、ここで斬られるのか」
とお思いになったが、国々や宿場を次々と通り過ぎていった。尾張の国に内海という所がある。ここは亡き左馬頭義朝が討たれた所なので、ここでこそきっと斬られるだろうと思われたが、そこも過ぎたので、大臣殿は少し望みを持つ気持ちになって、
「それでは、命が助かるのだろうか」
とおっしゃったのははかないことであった。右衛門督(平清宗)は、
「どうして命が助かるものか。このように暑いころなので、首が傷まないように見計らって、京の近くになってから斬るのだろう」
と思われたが、大臣殿がたいそう心細そうにしておられるのがお気の毒で、そうは申し上げられない。ただひたすら念仏ばかりを唱えておられた。
日数がたって、都も近づき、近江の国篠原の宿にお着きになった。判官は情け深い人なので、3日前の道中から使いを先に立てて、大臣殿を極楽へ導く僧として、大原の本性房湛豪という聖をお招きになっていた。昨日までは親子同じ所にいらっしゃったのを、今朝から引き離して、別の所にお座らせ申し上げたので、
「さては、今日が最期なのだろうか」
と、いっそう心細く思われた。大臣殿は涙をはらはらと流して、
「いったい右衛門督はどこにいるのでしょうか。たとえ首は落ちようとも、体は同じ筵に横たわろうと思っていたのに、生きながら別れてしまったことが悲しい。17年の間、一日片時も離れたことはなかった。西国で海の底に沈まずに、つらい評判を世に流すのも、あの子のためなのだ」
と言ってお泣きになったので、聖もあわれに思ったけれども、自分までもが気弱になってはならないと思って、涙をぬぐい、何でもないふうを装って申し上げたことには、
「今はあれこれとお思いになってはいけません。最期のお姿をご覧になるにつけても、互いのお心の中は悲しいことでしょう。お生まれになってからこのかた、楽しみ栄えて、昔にも例が少ないほどでございました。帝の外戚として、大臣の位にまでお上りになりました。この世でのご栄華は、何ひとつ残すところがございません。今またこのようなつらい目におあいになるのも、前世からの宿業です。世をも人をもお恨みになってはいけません。大梵天王の宮殿で深い禅定に入る楽しみでさえ、思えばはかないものです。まして稲妻や朝露のようにはかない人間界の命は言うまでもありません。忉利天の億千年もの寿命も、ただ夢のようなものです。39年をお過ごしになったのも、ほんのわずかな時間にすぎません。誰が不老不死の薬をなめたでしょうか。誰が東王父や西王母のような長い命を保ったでしょうか。秦の始皇帝は贅沢の限りを尽くしましたが、ついには驪山の墓に埋もれ、漢の武帝は命を惜しまれましたが、むなしく杜陵の苔の下に朽ち果てました。生ある者は必ず滅びます。お釈迦さまでさえ、栴檀の薪で荼毘に付される煙を逃れることはおできになりませんでした。楽しみが尽きれば悲しみが来ます。天人でさえ、五衰の日にあうと承っております。ですから仏は、『わが心はもともと空であり、罪も福も実体はない。心を観ずれば心はなく、すべての存在はとどまることがない』とお説きになって、善も悪も空であると悟ることが、まさしく仏のお心にかなうことなのでございます。阿弥陀如来は5劫もの長い間考え抜いて、起こしがたい誓願を起こしてくださったのに、どうしてわたしたちは、億万劫もの間、生死の迷いの世界を巡り、宝の山に入りながら手を空しくして帰るようなことをするのでしょうか。それこそ恨みの中の恨み、愚かさの中でも最も残念なことではございませんか。決して余計なことをお考えになってはいけません」
と言って、戒を授け申し上げ、念仏をお勧め申し上げる。大臣殿は、ありがたい導きの僧だとお思いになって、たちまち迷いの心を改めて、西に向かって手を合わせ、声高く念仏を唱えておられたところに、橘右馬允公長が太刀を体の脇に隠し持って、左の方から後ろに回り、今にもお斬り申し上げようとしたので、大臣殿は念仏をやめて、
「右衛門督も、もう斬られたのか」
とおっしゃったのはあわれであった。公長が後ろへ回ったかと見えたとたん、首は前に落ちた。導きの聖も涙にむせびなさった。勇猛な武士でも、どうしてあわれと思わずにいられようか。まして、この公長は平家代々の家人で、新中納言(平知盛)のもとに朝夕仕えていた侍である。いくら世の権力にへつらうのが世の習いだとはいえ、ひどく情けのない者だと、人々はみな恥ずかしく思った。
その後、右衛門督にも、聖が先ほどと同じように戒を授け申し上げ、念仏をお勧め申し上げる。右衛門督が、
「父上の最期はどのようでいらっしゃいましたか」
とお尋ねになったのはいたわしいことであった。
「ご立派でいらっしゃいました。ご安心なさいませ」
と申し上げなさると、右衛門督は涙を流して喜んで、
「今はもう思い残すことはない。さあ、早く」
とおっしゃった。今度は堀弥太郎が斬った。首は判官が持たせて都へ入る。なきがらは公長の計らいで、親子同じ穴に埋めた。あれほど罪深いまでに離れがたく思っておられたので、このようにしたのであった。
同じ月の23日、大臣殿父子の首が都へ入る。検非違使たちが三条河原に出向いてこれを受け取り、大路を引き回して、獄門の左の樗の木に懸けた。三位以上の人の首が大路を引き回されて獄門に懸けられることは、外国にはその例もあるのだろうが、わが国ではまだその先例を聞いたことがない。だから平治の乱の藤原信頼は悪人であったので、首ははねられたけれども、獄門には懸けられなかった。平家になって初めて懸けられたのである。西国から上ってきたときは生きて六条大路を東へ引き回され、東国から帰ってきたときは死んで三条大路を西へ引き回されなさる。生きての恥、死んでの恥、どちらも劣らないものであった。
重衡被斬
本三位中将重衡卿は、狩野介宗茂に預けられて、去年から伊豆の国にいらっしゃったが、南都の大衆がしきりに引き渡しを求めたので、
「それならば引き渡せ」
と言って、源三位入道頼政の孫、伊豆蔵人大夫頼兼に命じて、とうとう奈良へ送られた。都へは入れずに、大津から山科通りに醍醐路を経て行くと、日野は近かった。
この重衡卿の北の方と申すのは、鳥飼中納言惟実の娘で、五条大納言邦綱の養女となり、先帝(安徳天皇)の乳母であった大納言佐殿と申し上げた方である。三位中将が一の谷で生け捕りにされなさった後も、先帝にお付き申し上げていらっしゃったが、先帝が壇の浦で海にお入りになったので、荒々しい武士に捕らえられて故郷の都に帰り、姉の大夫三位と同じ所に住んで、日野という所にいらっしゃった。中将の露のようにはかない命が、草葉の先にかかったまま、まだ消えずにいるとお聞きになっていたので、夢ではなく、もう一度会いもし、会われもすることがあるだろうかと思われたが、それもかなわないので、泣くよりほかになぐさめもなく、日々を明かし暮らしておられた。
三位中将が警護の武士におっしゃったことには、
「このところ、何かにつけて情け深く親切にしてくださったのは、ありがたくうれしいことです。同じことなら、最後にもう一度お情けをいただきたいことがあります。わたしには子が1人もいないので、この世に思い残すことはありません。長年連れ添った妻が、日野という所にいると聞いています。もう一度会って、後世のことなども言い残しておきたいと思うのです」
と言って、わずかの間の暇を願われた。武士たちもさすがに岩や木ではないので、おのおの涙を流しながら、
「何の差し支えがございましょう」と言ってお許し申し上げた。
中将はたいそう喜んで、
「大納言佐殿のお局は、こちらにいらっしゃいますか。本三位中将殿が、ただいま奈良へお通りになるのですが、立ったままでもお目にかかりたいとおっしゃっています」
と、人を中へ入れて言わせたので、北の方は聞き終わりもしないうちに、
「どこに、どこにいらっしゃるの」
と言って走り出てご覧になると、藍摺の直垂に折烏帽子をかぶった男で、やせて日焼けした者が、縁に寄りかかっている、それがその人であった。北の方は御簾のきわ近くに寄って、
「ああ、夢なのでしょうか、現実なのでしょうか。こちらへお入りください」
とおっしゃったそのお声を聞きなさると、いつのまにか、まず先に立つのは涙であった。大納言佐殿は目もくらみ、気も遠くなって、しばらくは何もおっしゃらない。三位中将は御簾を頭にかぶるようにして身を入れ、泣く泣くおっしゃったことには、
「去年の春、一の谷で死ぬはずだった身が、よほど罪の報いが重いのでしょうか、生きたまま捕らえられて大路を引き回され、京でも鎌倉でも恥をさらしたことさえ悔しいのに、ついには奈良の大衆の手に渡されて、斬られることになって参るところです。何とかしてもう一度あなたのお姿を見たいと思っていましたが、今はもう露ほども思い残すことはありません。出家して形見に髪でも差し上げたいと思いますが、許されないのでどうしようもありません」
と言って、額の髪を少しかき分けて、口の届くところを食い切って、
「これを形見にご覧ください」
と言って差し上げなさると、北の方は、日ごろから気がかりに思っておられた以上に、いっそう悲しみの色を深めなさった。
「本当に、お別れ申し上げてからは、越前三位(平通盛)の奥方(小宰相)のように、水の底にも沈むはずでしたが、あなたがこの世にいらっしゃらないとはっきり聞いたわけでもなかったので、もしや不思議なめぐり合わせで、もう一度変わらないお姿を見もし見られもするかと思えばこそ、つらいながらも今まで生き長らえてきましたのに、今日が最後でいらっしゃるのだろうと思うと悲しいことです。今まで生き長らえてきたのは、もしやと思う望みもあったからですのに」
と言って、昔のことや今のことを語り合われるにつけても、ただ尽きないものは涙であった。
「あまりにもお召し物がしおれておりますので、お着替えくださいませ」
と言って、袷の小袖に浄衣を添えて出されたので、三位中将はこれに着替えて、もとお召しになっていた物を、
「形見にご覧ください」と言って置いていかれた。
北の方が、
「それもそうでございますが、はかない筆の跡こそ、末長い形見になるものでございます」
と言って、硯を出されたので、中将は泣く泣く1首の歌をお書きになった。
せきかねて涙のかかる唐衣のちのかたみにぬぎぞかへぬる
せきとめかねた涙のかかったこの衣を、後の形見として脱ぎ替えていくことよ。
北の方は、聞き終わりもしないうちに、
ぬぎかふる衣も今はなにかせん今日を限りの形見と思へば
脱ぎ替えていかれる衣も、今は何になりましょう。今日が最後の形見だと思うと。
「縁があれば、来世では必ずまたお会いしましょう。同じ蓮の上に生まれるようにとお祈りください。日も高くなりました。奈良へもまだ遠うございます。武士たちを待たせるのも心ないことです」
と言ってお出になると、北の方は袖にすがって、
「どうか、どうか、もう少しだけ」
と言って引き止めなさると、中将は、
「わたしの心の内は、ただ察してください。けれども、結局は逃れられる身でもないのです。また来世でお会いしましょう」
と言ってお出になったが、本当にこの世で会うのはこれが最後だと思われたので、もう一度引き返したくお思いになったが、心弱くてはならないと思い切ってお出になった。北の方が御簾のきわ近くに倒れ伏して転げ回り、泣き叫びなさるお声が、門の外まではるかに聞こえたので、中将は馬を急がせることもなさらず、涙にくれて行く先も見えないので、かえって会わなければよかったと、今は悔しく思われた。大納言佐殿は、すぐに走って追いかけてもいきたいとお思いになったが、それもさすがにできないので、衣を頭からかぶって臥してしまわれた。
そうしているうちに、南都の大衆は三位中将を受け取って評議した。
「そもそもこの重衡卿は、大罪を犯した悪人であるうえ、3000の罪と5つの刑罰のどれにも当てはまらないほどの重罪で、悪い行いには悪い報いがあるという道理からしても、罰を受けることは定まっている。仏法の敵であり逆臣であるから、東大寺と興福寺の大垣の周りを引き回して鋸で斬るべきか、それとも体を土に埋めて首を斬るべきか」
と評議した。老僧たちが申されたことには、
「それも僧侶のやり方として穏当ではない。ただ警護の武士に渡して、木津のあたりで斬らせればよい」
と言って、武士の手へ返した。武士はこれを受け取って、木津川のほとりで斬ろうとすると、数千人の大衆や見物人が、どれほどいるとも数えきれない。
三位中将が長年召し使っていた侍に、木工右馬允知時という者がいた。八条女院にお仕えしていたが、主君の最期を見届け申し上げようと、馬に鞭打って駆けつけた。今まさにお斬り申し上げようとするところに駆けつけて、何千何万と取り囲んでいる人の中をかき分けて、三位中将のいらっしゃるおそば近くに参った。
「知時でございます。ただいま最期のお姿を拝見いたそうと、ここまで参りました」
と泣く泣く申し上げたので、中将は、
「まことに、その志のほどは感心である。どうだ知時、仏を拝み申し上げてから斬られたいと思うのだが、どうしたらよいだろうか。あまりに罪深く思われるので」
とおっしゃると、知時は、
「たやすいことでございます」
と言って、警護の武士に相談し、そのあたりにいらっしゃった仏像を1体お迎え申し上げて出てきた。幸いにも阿弥陀仏でいらっしゃった。河原の砂の上にお立て申し上げ、すぐに知時は狩衣の袖のくくりひもを解いて、仏の御手にかけ、中将にその端をお持たせ申し上げた。中将はこれを手に持ちながら、仏に向かい申し上げて申されたことには、
「伝え聞くところによると、提婆達多は3つの大罪を犯し、8万もの経典を焼き滅ぼしたけれども、ついには天王如来になるという予言を受けました。犯した罪はまことに深いとはいえ、仏の教えに出会った縁が朽ちることなく、かえって悟りを得る因となったのです。今、重衡が大罪を犯したのは、まったく自分の考えから起こしたことではありません。ただ世の習いに従うという道理を守ったまでです。命を保つ者で、誰が天皇の命令をないがしろにするでしょうか。この世に生を受けた者で、誰が父の命令に背くでしょうか。どちらにしても、断ることはできませんでした。その正しさは仏さまがご覧になっているとおりです。そもそも罪の報いはたちまち現れ、わたしの運命も今を限りとしています。いくら後悔しても、悲しんでも余りあります。ただし、仏法の世界は慈悲を心とし、人を救う縁はさまざまです。『天台の教えによれば、仏に逆らう縁もそのまま仏に従う縁となる』という言葉を肝に銘じております。『一度阿弥陀仏を念ずれば、限りない罪もたちまち消える』と申します。どうか、仏に逆らった縁を仏に従う縁とし、ただ今の最後の念仏によって、極楽浄土に生まれることができますように」
と言って、声高く十度念仏を唱えながら、首を差し伸べて斬らせなさった。日ごろの悪行はそのとおりであったが、ただいまのありさまを見申し上げると、数千人の大衆も警護の武士も、みな涙を流した。その首は、般若寺の大鳥居の前に釘付けにして懸けられた。治承の合戦のとき、重衡卿がここに陣を構えて、寺々の伽藍を焼き滅ぼしなさったからである。
北の方の大納言佐殿は、首ははねられたとしても、なきがらは引き取って供養しようと、輿を迎えに遣わした。思ったとおり、なきがらは捨て置かれていたので、それを引き取って輿に入れ、日野へかついで帰った。これを待ち受けてご覧になった北の方の心の内は、察するにあわれである。昨日までは堂々としていらっしゃったが、暑いころなので、いつのまにか見る影もない姿になってしまわれた。いつまでもそうしてはいられないので、近くの法界寺という所で、ふさわしい僧たちを大勢頼んで供養をした。首は、東大寺の大仏殿を再建していた聖、俊乗房(重源)に、北の方があれこれお頼みになったので、聖が大衆に願い出て日野へ送った。首もなきがらも火葬にし、骨は高野山へ送り、墓は日野に作られた。北の方も尼になって、重衡卿の後世の菩提を弔われたのはあわれなことである。




