『源氏物語』第6帖「末摘花」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第6帖「末摘花」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第6帖「末摘花」現代語訳全文をご覧ください。

目次

思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に

 思おもへどもなほ飽あかざりし夕顔ゆふがほの露つゆにおくれし心地ここちを、年月としつき経へれどおぼし忘わすれず、ここもかしこも、うちとけぬ限かぎりの、けしきばみ心深こころふかき方かたの御おほんいどましさに、け近ちかくうちとけたりしあはれに似にる物ものなう恋こひしく思おもほえたまふ。

 いかで、ことことしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人ひとのつつましき事ことなからむ、見みつけてしかな、と懲こりずまにおぼしわたれば、すこしゆゑづきて聞きこゆるわたりは御耳おほんみみとどめたまはぬ隈くまなきに、さてもや、とおぼし寄よるばかりのけはひあるあたりにこそ、一行ひとくだりをもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもて離はなれたるはをさをさあるまじきぞ、いと目馴めなれたるや。つれなう心強こころづよきは、たとしへなう情なさけおくるるまめやかさなど、あまり物もののほど知しらぬやうに、さてしも過すぐし果はてず、名残なごりなくくづほれて、なほなほしき方かたに定さだまりなどするもあれば、のたまひさしつるも多おほかりける。

 かの空蝉うつせみを、ものの折々をりをりにはねたうおぼし出いづ。荻をぎの葉はも、さりぬべき風かぜのたよりある時ときは、おどろかしたまふ折をりもあるべし。火影ほかげの乱みだれたりしさまは、またさやうにても見みまほしくおぼす。大方おほかた、名残なごりなきもの忘わすれをぞえしたまはざりける。

左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎに

 左衛門さゑもんの乳母めのととて大弐だいにのさしつぎにおぼいたるがむすめ、大輔たいふの命婦みゃうぶとて内裏うちにさぶらふ、わかむどほりの兵部大輔ひゃうぶのたいふなるむすめなりけり。いといたう色好いろごのめる若人わかうどにてありけるを、君きみも召めし使つかひなどしたまふ。母ははは筑前守ちくぜんのかみの妻めにて下くだりにければ、父ちち君きみのもとを里さとにて行ゆき通かよふ。

 故こ常陸ひたちの親王みこの、末すゑにまうけていみじうかなしうかしづきたまひし御おほんむすめ、心細こころぼそくて残のこりゐたるを、もののついでに語かたりきこえければ、あはれのことや、とて御心みこころとどめて問とひ聞ききたまふ。

「心こころばへ、かたちなど、深ふかき方かたはえ知しりはべらず。かいひそめ、人ひと疎うとうもてなしたまへば、さべき宵よひなど、物越ものごしにてぞ語かたらひはべる。琴きんをぞなつかしき語かたらひ人ひとと思おもへる」

 と聞きこゆれば、

「三さんつの友ともにて、いま一種ひとくさやうたてあらむ」

 とて、

「我われに聞きかせよ。父ちち親王みこのさやうの方かたにいとよしづきてものしたまうければ、おしなべての手てにはあらじ、となむ思おもふ」

 とのたまへば、

「さやうに聞きこし召めすばかりにはあらずやはべらむ」

 と言いへど、御心みこころとまるばかり聞きこえなすを、

「いたうけしきばましや。このごろの朧月夜おぼろづくよに忍しのびてものせむ。まかでよ」

 とのたまへば、わづらはし、と思おもへど、内裏うちわたりものどやかなる春はるのつれづれにまかでぬ。

 父ちちの大輔たいふの君きみはほかにぞ住すみける。ここには時々ときどきぞ通かよひける。命婦みゃうぶは、継母ままははのあたりは住すみもつかず、姫君ひめぎみの御おほんあたりをむつびて、ここには来くるなりけり。

のたまひしもしるく、十六夜の月

 のたまひしもしるく、十六夜いさよひの月つきをかしきほどにおはしたり。

「いとかたはらいたきわざかな。ものの音ね澄すむべき夜よのさまにもはべらざめるに」

 と聞きこゆれど、

「なほあなたに渡わたりて、ただ一声ひとこゑももよほしきこえよ。むなしくて帰かへらむがねたかるべきを」

 とのたまへば、うちとけたる住すみ処かに据すゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思おもへど、寝殿しんでんに参まゐりたれば、まだ格子かうしもさながら、梅むめの香かをかしきを見み出いだしてものしたまふ。よき折をりかな、と思おもひて、

「御琴おほんことの音ね、いかにまさりはべらむ、と思おもひたまへらるる夜よのけしきに誘さそはれはべりてなむ。心こころあわたたしき出いで入いりに、えうけたまはらぬこそ口惜くちををしけれ」

 と言いへば、

「聞きき知しる人ひとこそあなれ。百敷ももしきに行ゆきかふ人ひとの聞きくばかりやは」

 とて召めし寄よするも、あいなう、いかが聞ききたまはむと胸むねつぶる。

 ほのかにかき鳴ならしたまふ、をかしう聞きこゆ。なにばかり深ふかき手てならねど、ものの音ねがらの筋すぢことなるものなれば、聞ききにくくもおぼされず。いといたう荒あれわたりてさびしき所ところに、さばかりの人ひとの、古ふるめかしうところせくかしづき据すゑたりけむ名残なごりなく、いかに思おもほし残のこす事ことなからむ、かやうの所ところにこそは、昔物語むかしものがたりにもあはれなる事ことどもありけれ、など思おもひ続つづけても、物ものや言いひ寄よらましとおぼせど、うちつけにやおぼさむと心恥こころはづかしくて、やすらひたまふ。

 命婦みゃうぶ、かどある者ものにて、いたう耳みみならさせたてまつらじと思おもひければ、

「曇くもりがちにはべるめり。客人まらうとの来こむとはべりつる、いとひ顔がほにもこそ。いま心こころのどかにを。御格子みかうし参まゐりなむ」

 とて、いたうもそそのかさで帰かへりたれば、

「なかなかなるほどにてもやみぬるかな。もの聞きき分わくほどにもあらで、ねたう」

 とのたまふけしき、をかしとおぼしたり。

「同おなじくは、け近ちかきほどの立たち聞ききせさせよ」

 とのたまへど、心こころにくくてと思おもへば、

「いでや、いとかすかなるありさまに思おもひ消きえて、心苦こころぐるしげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」

 と言いへば、げにさもある事こと、にはかに我われも人ひともうちとけて語かたらふべき人ひとの際きはは際きはとこそあれ、などあはれにおぼさるる人ひとの御おほんほどなれば、

「なほさやうのけしきをほのめかせ」

 と語かたらひたまふ。また契ちぎりたまへる方かたやあらむ、いと忍しのびて帰かへりたまふ。

「上うへの、まめにおはしますともてなやみきこえさせたまふこそ、をかしう思おもうたまへらるる折々をりをりはべれ。かやうの御おほんやつれ姿すがたを、いかでかは御覧ごらんじつけむ」

 と聞きこゆれば、立たち返かへり、うち笑ゑひて、

「異人ことびとの言いはむやうに、咎とがなあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言いはば、女をんなのありさま苦くるしからむ」

 とのたまへば、あまり色いろめいたりとおぼして、折々をりをりかうのたまふを恥はづかし、と思おもひてものも言いはず。

 寝殿しんでんの方かたに、人ひとのけはひ聞きくやうもやとおぼして、やをら立たち退のきたまふ。透垣すいがいのただすこし折をりれ残のこりたる隠かくれの方かたに立たち寄よりたまふに、もとより立たてるをとこありけり。誰たれれならむ、心こころかけたる好すき者ものありけり、とおぼして、陰かげにつきて立たち隠かくれたまへば、頭中将とうのちうじゃうなりけり。

 この夕ゆふつ方かた、内裏うちよりもろともにまかでたまひける、やがて大殿おほいどのにも寄よらず、二条院にでうのゐんにもあらで引ひき別わかれたまひけるを、いづちならむとただならで、我われも行ゆく方かたあれど、あとにつきてうかがひけり。あやしき馬むまに、狩衣姿かりぎぬすがたのないがしろにて来きければ、え知しりたまはぬに、さすがに、かう異方ことかたに入いりたまひぬれば、心こころも得えず思おもひけるほどに、ものの音ねに聞ききついて立たてるに、帰かへりや出いでたまふ、と下した待まつなりけり。

 君きみは、誰たれともえ見み分わきたまはで、我われと知しられじと抜ぬき足たに歩ありみたまふに、ふと寄よりて、

「ふり捨すてさせたまへるつらさに、御送おほんおくり仕つかうまつりつるは。

もろともに大内山おほうちやまは出いでつれど入いる方かた見みせぬいさよひの月つき」

 と恨うらむるもねたけれど、この君きみと見みたまふ、すこしをかしうなりぬ。

「人ひとの思おもひよらぬ事ことよ」

 と憎にくむ憎にくむ、

「里さとわかぬかげをば見みれどゆく月つきのいるさの山やまを誰たれれか尋たづぬる

かう慕したひありかば」

「いかにせさせたまはむ」

 と聞きこえたまふ。

「まことは、かやうの御歩おほんありきには、随身ずいじんからこそはかばかしきこともあるべけれ。おくらさせたまはでこそあらめ。やつれたる御歩おほんありきは、軽々かろがろしき事ことも出いで来こなん」

 と、おし返かへしいさめたてまつる。かうのみ見みつけらるるをねたしとおぼせど、かの撫子なでしこはえ尋たづね知しらぬを、重おもき功くうに御心みこころのうちに思おもし出いづ。

おのおの契れる方にも

 おのおの契ちぎれる方かたにもあまえて、え行ゆき別わかれたまはず、一ひとつ車くるまに乗のりて、月つきのをかしきほどに雲隠くもがくれたる道みちのほど、笛ふえ吹ふき合あはせて大殿おほいどのにおはしぬ。前駆さきなども追おはせたまはず、忍しのび入いりて、人ひと見みぬ廊らうに御直衣おほんなほしども召めして着替きがへたまふ。つれなう、いま来くるやうにて、御笛おほんふえども吹ふきすさびておはすれば、大臣おとど、例れいの聞きき過すぐしたまはで、高麗笛こまぶえ取とり出いでたまへり。いと上手じゃうずにおはすれば、いとおもしろう吹ふきたまふ。御琴おほんこと召めして、内うちにも、この方かたに心得こころえたる人々ひとびとに弾ひかせたまふ。

 中務なかつかさの君きみ、わざと琵琶びはは弾ひけど、頭かしらの君きみ心こころかけたるをもて離はなれて、ただこのたまさかなる御おほんけしきのなつかしきをばえ背そむききこえぬに、おのづから隠かくれなくて、大宮おほみやなどもよろしからずおぼしなりたれば、もの思おもはしくはしたなき心地ここちして、すさまじげに寄より臥ふしたり。絶たえて見みたてまつらぬ所ところにかけ離はなれなむも、さすがに心細こころぼそく思おもひ乱みだれたり。

 君きみたちは、ありつる琴きんの音ねをおぼし出いでて、あはれげなりつる住すまひのさまなども、様さま変かへてをかしう思おもひつづけ、あらまし事ことに、いとをかしうらうたき人ひとの、さて年月としつきを重かさねゐたらむ時とき、見みそめていみじう心苦こころぐるしくは、人ひとにももて騒さわがるばかりや、わが心こころもさま悪あしからむ、などさへ中将ちうじゃうは思おもひけり。この君きみのかうけしきばみありきたまふを、まさにさては過すぐしたまひてむや、となまねたう危あやふがりけり。

 そののち、こなたかなたより文ふみなどやりたまふべし。いづれも返かへり事こと見みえず、おぼつかなく心こころやましきに、あまりうたてもあるかな、さやうなる住すまひする人ひとは、もの思おもひ知しりたるけしき、はかなき木草きくさ、空そらのけしきにつけてもとりなしなどして、心こころばせ推おし測はからるる折々をりをりあらむこそあはれなるべけれ、重おもしとても、いとかうあまり埋うづもれたらむは心こころづきなく悪あびたり、と中将ちうじゃうはまいて心こころいられしけり。例れいの隔へだてきこえたまはぬ心こころにて、

「しかしかの返かへり事ことは見みたまふや。こころみにかすめたりしこそ、はしたなくてやみにしか」

 と憂うふれば、さればよ、言いひ寄よりにけるをや、とほほ笑ゑまれて、

「いさ、見みむとしも思おもはねばにや、見みるとしもなし」

 と答いらへたまふを、人ひとわきしけると思おもふにいとねたし。

 君きみは、深ふかうしも思おもはぬ事ことのかう情なさけなきを、すさまじく思おもひなりたまひにしかど、かうこの中将ちうじゃうの言いひありきけるを、言い多おほく言いひなれたらむ方かたにぞなびかむかし。したり顔がほにて、もとの事ことを思おもひ放はなちたらむけしきこそ憂うはしかるべけれ、とおぼして、命婦みゃうぶをまめやかに語かたらひたまふ。

「おぼつかなくもて離はなれたる御おほんけしきなむいと心憂こころうき。好すき好すきしき方かたに疑うたがひ寄よせたまふにこそあらめ。さりとも短みじかき心こころばへつかはぬものを。人ひとの心こころののどやかなる事ことなくて、思おもはずにのみあるになむ、おのづからわが過すちにもなりぬべき。心こころのどかにて、親おやはらからのもてあつかひ恨うらむるもなう心こころやすからむ人ひとは、なかなかなむらうたかるべきを」

 とのたまへば、

「いでや、さやうにをかしき方かたの御笠宿おほんかさやどりにはえしもやと、つきなげにこそ見みえはべれ。ひとへにものづつみし、引ひき入いりたる方かたはしもありがたうものしたまふ人ひとになむ」

 と、見みるありさま語かたりきこゆ。

「らうらうじう、かどめきたる心こころはなきなめり。いと子こめかしうおほどかならむこそ、らうたくはあるべけれ」

 とおぼし忘わすれずのたまふ。

 わらは病やまひにわづらひたまひ、人ひと知しれぬもの思おもひの紛まぎれも、御心みこころの暇いとまなきやうにて春はる夏なつ過すぎぬ。

秋のころほひ、静かにおぼしつづけて

 秋あきのころほひ、静しづかにおぼしつづけて、かの砧きぬたの音おとも耳みみにつきて聞ききにくかりしさへ、恋こひしうおぼし出いでらるるままに、常陸ひたちの宮みやにはしばしば聞きこえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、世よづかず心こころやましう、負まけてはやまじの御心みこころさへ添そひて、命婦みゃうぶを責せめたまふ。

「いかなるやうぞ。いとかかる事ことこそまだ知しらね」

 と、いとものしと思おもひてのたまへば、いとほしと思おもひて、

「もて離はなれて、似にげなき御事おほんことともおもむけはべらず。ただ大方おほかたの御おほんものづつみのわりなきに、手てをえさし出いでたまはぬとなむ見みたまふる」

 と聞きこゆれば、

「それこそは世よづかぬ事ことなれ。物思ものおもひ知しるまじきほど、独ひとり身みをえ心こころにまかせぬほどこそことわりなれ、何事なにごとも思おもひしづまりたまへらむと思おもふこそ。そこはかとなく、つれづれに心細こころぼそうのみおぼゆるを、同おなじ心こころに答いらへたまはむは、願ねがひかなふ心地ここちなむすべき。何なにやかやと世よづける筋すぢならで、その荒あれたる簀子すのこにたたずままほしきなり。いとうたて心得こころえぬ心地ここちするを、かの御許おほんゆるしなくともたばかれかし。心こころいられし、うたてあるもてなしにはよもあらじ」

 など語かたらひたまふ。

 なほ世よにある人ひとのありさまを、大方おほかたなるやうにて聞きき集つどめ、耳みみとどめたまふ癖くせのつきたまへるを、さうざうしき宵居よひゐなど、はかなきついでに、さる人ひとこそ、とばかり聞きこえ出いでたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、なまわづらはしく、女君をんなぎみの御おほんありさまも、世よづかはしくよしめきなどもあらぬを、なかなかなる導みちびきに、いとほしき事ことや見みえむなむど思おもひけれど、君きみのかうまめやかにのたまふに、聞きき入いれざらむもひがひがしかるべし、父ちち親王みこおはしける折をりにだに、古ふるりにたるあたりとて、おとなひきこゆる人ひともなかりけるを、ましていまは浅茅あさぢ分わくる人ひとも跡絶あとたえたるに、かく世よにめづらしき御おほんけはひの漏もりにほひくるをば、なま女をんなばらなども笑ゑみまけて、

「なほ聞きこえたまへ」

 と、そそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふ心こころにて、ひたぶるに見みも入いれたまはぬなりけり。

 命婦みゃうぶは、さらばさりぬべからん折をりに、物越ものごしに聞きこえたまはむほど、御心みこころにつかずはさてもやみねかし。またさるべきにて、仮かりにもおはし通かよはむを咎とがめたまふべき人ひとなし、などあだめきたるはやり心こころはうち思おもひて、父ちち君きみにもかかる事ことなども言いはざりけり。

 八月はちぐゎつ廿余日にじふよにち、宵よひ過すぐるまで待またるる月つきの心こころもとなきに、星ほしの光ひかりばかりさやけく、松まつの梢こずゑ吹ふく風かぜの音おと心細こころぼそくて、いにしへの事こと語かたり出いでてうち泣なきなどしたまふ。いとよき折をりかなと思おもひて、御消息おほんせうそこや聞きこえつらむ、例れいのいと忍しのびておはしたり。

 月つきやうやう出いでて、荒あれたる籬まがきのほどうとましくうち眺ながめたまふに、琴きんそそのかされて、ほのかにかき鳴ならしたまふほど、けしうはあらず。すこしけ近ちかういまめきたるけをつけばや、とぞ乱みだれたる心こころには、心こころもとなく思おもひゐたる。人目ひとめしなき所ところなれば、心こころやすく入いりたまふ。命婦みゃうぶを呼よばせたまふ。いましもおどろき顔がほに、

「いとかたはらいたきわざかな。しかしかこそおはしましたなれ。常つねにかう恨うらみきこえたまふを、心こころにかなはぬ由よしをのみいなびきこえはべれば、みづからことわりも聞きこえ知しらせむとのたまひわたるなり。いかが聞きこえ返かへさむ。なみなみのたはやすき御おほんふるまひならねば心苦こころぐるしきを、物越ものごしにて聞きこえたまはむ事こと聞きこしめせ」

 と言いへば、いと恥はづかしと思おもひて、

「人ひとにもの聞きこえむやうも知しらぬを」

 とて奥おくざまへゐざり入いりたまふさま、いとうひうひしげなり。うち笑ゑひて、

「いと若々わかわかしうおはしますこそ心苦こころぐるしけれ。限かぎりなき人ひとも、親おやなどおはしてあつかひ後見うしろみきこえたまふほどこそ、若わかびたまふもことわりなれ、かばかり心細こころぼそき御おほんありさまに、なほ世よを尽つきせず思おもしはばかるはつきなうこそ」

 と教をしへきこゆ。

 さすがに人ひとの言いふことは強つようもいなびぬ御心みこころにて、

「答いらへきこえで、ただ聞きけとあらば、格子かうしなど鎖さしてはありなむ」

 とのたまふ。

「簀子すのこなどは便びんなうはべりなむ。おし立たちてあはあはしき御心みこころなどは、よも」

 などいとよく言いひなして、二間ふたまの際きはなる障子さうじ、手てづからいと強つよく鎖さして、御褥おほんしとねうち置おき引ひきつくろふ。

 いとつつましげにおぼしたれど、かやうの人ひとにもの言いふらむ心こころばへなども、夢ゆめに知しりたまはざりければ、命婦みゃうぶのかう言いふを、あるやうこそはと思おもひてものしたまふ。乳母めのとだつ老おい人ひとなどは、曹司ざうしに入いり臥ふして、夕ゆふまどひしたるほどなり。若わかき人ひと、二に、三人みたりあるは、世よにめでられたまふ御おほんありさまをゆかしきものに思おもひきこえて、心こころげさうしあへり。よろしき御衣おほんぞたてまつり替かへ、つくろひきこゆれば、正身さうじみは、何なにの心こころげさうもなくておはす。

 をとこはいと尽つきせぬ御おほんさまを、うち忍しのび用意よういしたまへる御おほんけはひ、いみじうなまめきて、見知みしらむ人ひとにこそ見みせめ、はえあるまじきわたりを、あないとほし、と命婦みゃうぶは思おもへど、ただおほどかにものしたまふをぞ、うしろやすう、さし過すぎたる事ことは見みえたてまつりたまはじ、と思おもひける。わが常つねに責せめられたてまつる罪つみさりごとに、心苦こころぐるしき人ひとの御おほんもの思おもひや出いで来こむ、などやすからず思おもひゐたり。

 君きみは人ひとの御おほんほどをおぼせば、されくつがへる今いま様さまのよしばみよりは、こよなう奥おくゆかしう、とおぼさるるに、いたうそそのかされて、ゐざり寄よりたまへるけはひ忍しのびやかに、衣被えひの香かいとなつかしう薫かをり出いでて、おほどかなるを、さればよ、とおぼす。年としごろ思おもひわたるさまなどいとよくのたまひつづくれど、まして近ちかき御答おほんいらへは絶たえてなし。わりなのわざやとうち嘆なげきたまふ。

「いくそたび君きみがしじまにまけぬらんものな言いひそと言いはぬ頼たのみに

のたまひも捨すててよかし。玉たまだすき苦くるし」

 とのたまふ。女君をんなぎみの御乳母子おほんめのとご、侍従じじうとてはやりかなる若人わかうど、いと心こころもとなうかたはらいたしと思おもひて、さし寄よりて聞きこゆ。

「鐘かねつきてとぢめむことはさすがにて答いらへまうきぞかつはあやなき」

 いと若わかびたる声こゑのことに重おもりかならぬを、人伝ひとづてにはあらぬやうに聞きこえなせば、ほどよりはあまえてと聞ききたまへど、

「めづらしきが、なかなか口くちふたがるわざかな。

言いはぬをも言いふにまさると知しりながらおしこめたるは苦くるしかりけり」

 何なにやかやとはかなき事ことなれど、をかしきさまにも、まめやかにものたまへど、何なにのかひなし。いとかかるも、さまかはり思おもふ方かたことにものしたまふ人ひとにや、とねたくて、やをら押おし開あけて入いりたまひにけり。

 命婦みゃうぶ、あなうたて、たゆめたまへる、といとほしければ、知しらず顔がほにてわが方かたへ往ゆにけり。この若人わかうどどもはた世よにたぐひなき御おほんありさまの音おと聞ききに、罪つみゆるしきこえておどろおどろしうも嘆なげかれず、ただ思おもひもよらずにはかにて、さる御心みこころもなきをぞ思おもひける。

 正身さうじみはただ我われにもあらず、恥はづかしくつつましきよりほかの事ことまたなければ、いまはかかるぞあはれなるかし、まだ世馴よなれぬ人ひと、うちかしづかれたると見みゆるしたまふものから、心得こころえず、なまいとほし、おぼゆる御おほんさまなり。

 何事なにごとにつけてかは御心みこころのとまらむ、うちうめかれて、夜深よぶかう出いでたまひぬ。命婦みゃうぶは、いかならむと目覚めさめて聞きき臥ふせりけれど、知しり顔がほならじとて、御送おほんおくりにとも声こゑづくらず。君きみも、やをら忍しのびて出いでたまひにけり。

二条院におはして、うち臥したまひても

 二条院にでうのゐんにおはしてうち臥ふしたまひても、なほ思おもふにかなひがたき世よにこそ、とおぼしつづけて、軽かろらかならぬ人ひとの御おほんほどを心苦こころぐるしとぞおぼしける。思おもひ乱みだれておはするに、頭中将とうのちうじゃうおはして、

「こよなき御朝寝おほんあさねかな。ゆゑあらむかしとこそ思おもひたまへらるれ」

 と言いへば、起おき上あがりたまひて、

「心こころやすき独ひとり寝ねの床とこにてゆるびにけりや。内裏うちよりか」

 とのたまへば、

「しか、まかではべるままなり。朱雀院すざくゐんの行幸ぎゃうがう、今日けふなむ、楽人がくにん、舞人まひびと定さだめらるべきよし、昨夜よべうけたまはりしを、大臣おとどにも伝つたへ申まうさむとてなむまかではべる。やがて帰かへり参まゐりぬべうはべる」

 と、いそがしげなれば、

「さらば、もろともに」

 とて、御粥おほんかゆ、強飯こはいひ召めして、客人まらうとにも参まゐりたまひて、引ひき続つづけたれど、一ひとつにたてまつりて、

「なほ、いとねぶたげなり」

 と、咎とがめ出いでつつ、

「隠かくいたまふこと多おほかり」

 とぞ恨うらみきこえたまふ。

 事ことども多おほく定さだめらるる日ひにて、内裏うちにさぶらひ暮くらしたまひつ。

 かしこには文ふみをだにといとほしくおぼし出いでて、夕ゆふつ方かたぞありける。雨あめ降ふり出いでて所ところせくもあるに、笠かさ宿やどりせむとはたおぼされずやありけむ。かしこには待まつほど過すぎて、命婦みゃうぶも、いといとほしき御おほんさまかな、と心憂こころうく思おもひけり。正身さうじみは、御心みこころのうちに恥はづかしう思おもひたまひて、今朝けさの御文おほんふみの暮くれぬれど、なかなか咎とがとも思おもひ分わきたまはざりけり。

「夕ゆふ霧きりの晴はるるけしきもまだ見みぬにいぶせさ添そふる宵よひの雨あめかな

雲くも間ま待まち出いでむほど、いかに心こころもとなう」

 とあり。おはしますまじき御おほんけしきを、人々ひとびと胸むねつぶれて思おもへど、

「なほ聞きこえさせたまへ」

 と、そそのかしあへれど、いとど思おもひ乱みだれたまへるほどにて、え型かたのやうにも続つづけたまはねば、夜よ更ふけぬとて、侍従じじうぞ例れいの教をしへきこゆる。

「晴はれぬ夜よの月つき待まつ里さとを思おもひやれ同おなじ心こころに眺ながめせずとも」

 口々くちぐちに責せめられて、紫むらさきの紙かみの年とし経へにければ、灰はいおくれ古ふるめいたるに、手てはさすがに文字もじ強つよう、中なかさだの筋すぢにて、上下かみしも等ひとしく書かいたまへり。見みるかひなううち置おきたまふ。

 いかに思おもふらむと思おもひやるも安やすからず。かかることを悔くややしなどは言いふにやあらむ。さりとていかがはせむ。我われはさりとも心長こころながく見果みはててむ、とおぼしなす御心みこころを知しらねば、かしこにはいみじうぞ嘆なげいたまひける。

 大臣おとど夜よに入いりてまかでたまふに、引ひかれたてまつりて大殿おほいどのにおはしましぬ。行幸ぎゃうがうのことを興きょうありと思おもほして、君きみたち集つどりてのたまひ、おのおの舞まども習ならひたまふを、そのころの事ことにて過すぎゆく。ものの音ねども常つねよりも耳みみかしかましくて、方々かたがたいどみつつ、例れいの御遊おほんあそびならず、大篳篥おほひちりき、尺八さくはちの笛ふえなどの大おほ声こゑを吹ふき上あげつつ、太鼓たいこをさへ高欄かうらんのもとにまろばし寄よせて、手てづから打うち鳴ならし、遊あそびおはさうず。御暇おほんいとまなきやうにて、せちにおぼす所ところばかりにこそ盗ぬすまはれたまへれ、かのわたりにはいとおぼつかなくて、秋あき暮くれ果はてぬ。なほ頼たのみ来こしかひなくて過すぎゆく。

行幸近くなりて、試楽などののしるころ

 行幸ぎゃうがう近ちかくなりて、試楽しがくなどののしるころぞ、命婦みゃうぶは参まゐれる。

「いかにぞ」

 など問とひたまひて、いとほしとはおぼしたり。ありさま聞きこえて、

「いとかうもて離はなれたる御心みこころばへは、見みたまふる人ひとさへ心苦こころぐるしく」

 など、泣なきぬばかり思おもへり。心こころにくくもてなしてやみなむと思おもへりし事ことをくたいてける、心こころもなくこの人ひとの思おもふらむをさへおぼす。正身さうじみの、ものは言いはでおぼしうづもれたまふらむさま、思おもひやりたまふもいとほしければ、

「暇いとまなきほどぞや。わりなし」

 と、うち嘆なげいたまひて、

「もの思おもひ知しらぬやうなる心こころざまを、懲こらさむと思おもふぞかし」

 とほほ笑ゑみたまへる、若わかううつくしげなれば、我われもうち笑ゑまるる心地ここちして、わりなの、人ひとに恨うらみられたまふ御齢おほんよはひや、思おもひやり少すくなう、御心みこころのままならむもことわりと思おもふ。この御おほんいそぎのほど過すぐしてぞ、時々ときどきおはしける。

 かの紫むらさきのゆかり尋たづねとりたまひて、そのうつくしみに心こころ入いりたまひて、六条ろくでうわたりにだに離はなれまさりたまふめれば、まして荒あれたる宿やどは、あはれにおぼしおこたらずながら、もの憂うきぞわりなかりけると、所ところせき御おほんもの恥はを見みあらはさむの御心みこころもことになうて過すぎゆくを、またうちかへし、見みまさりするやうもありかし、手てさぐりのたどたどしきに、あやしう心得こころえぬ事こともあるにや、見みてしかな、と思おもほせど、けざやかにとりなさむもまばゆし、うちとけたる宵居よひゐのほど、やをら入いりたまひて、格子かうしのはさまより見みたまひけり。

 されど、みづからは見みえたまふべくもあらず。几帳きちゃうなど、いたく損そこなはれたるものから、年とし経へにける立たちど変かはらず、おしやりなど乱みだれねば、心こころもとなくて、御達ごたち四し、五人ごにんゐたり。御台みだい、秘色ひそくやうの唐土もろこしのものなれど、人ひと悪あろきに、何なにのくさはひもなくあはれげなる、まかでて人々ひとびと食くふ。隅すみの間まばかりにぞ、いと寒さむげなる女をんなばら、白しろき衣きぬの言いひ知しらず煤すすけたるに、きたなげなる褶しびら引ひき結むすひつけたる腰こしつき、かたくなしげなり。さすがに櫛くしおし垂たれて挿さしたる額ひたひつき、内教坊ないけうばう、内侍所ないしどころのほどに、かかるものどもあるはや、とをかし。かけても、人ひとのあたりに近ちかうふるまふものとも知しりたまはざりけり。

「あはれ、さも寒さむき年としかな。命いのち長ながければ、かかる世よにもあふものなりけり」

 とてうち泣なくもあり。

「故こ宮みやおはしましし世よを、などてからしと思おもひけむ。かく頼たのみなくても過すぐるものなりけり」

 とて飛とび立たちぬべくふるふもあり。

 さまざまに人ひと悪あろき事ことどもを、愁うれへあへるを聞ききたまふも、かたはらいたければ立たち退のきて、ただ今いまおはするやうにてうち叩たたきたまふ。

「そそや」

 など言いひて、火ひとり直なほし、格子かうし放はなちて入いれたてまつる。

 侍従じじうは斎院さいゐんに参まゐり通かよふ若人わかうどにて、この頃ころはなかりけり。いよいよあやしうひなびたる限かぎりにて、見みならはぬ心地ここちぞする。

 いとど愁うれふなりつる雪ゆき、かきたれいみじう降ふりけり。空そらのけしきはげしう、風かぜ吹ふき荒あれて、大殿油おほとなぶら消きえにけるを、ともしつくる人ひともなし。かのものに襲おそはれし折をりおぼし出いでられて、荒あれたるさまは劣おとらざめるを、ほどの狭せばう、人ひと気けのすこしあるなどに慰なぐさめたれど、すごう、うたていざとき心地ここちする夜よのさまなり。をかしうもあはれにも、様さま変かへて心こころとまりぬべきありさまを、いと埋うづれすくよかにて、何なにのはえなきをぞ口惜くちををしうおぼす。

からうして明けぬるけしきなれば

 からうして明あけぬるけしきなれば、格子かうし手てづから上あげたまひて、前まへの前栽せんざいの雪ゆきを見みたまふ。踏ふみあけたる跡あともなく、はるばると荒あれわたりて、いみじう寂さびしげなるに、ふり出いでてゆかむ事こともあはれにて、

「をかしきほどの空そらも見みたまへ。尽つきせぬ御心みこころの隔へだてこそわりなけれ」

 と、恨うらみきこえたまふ。まだほの暗くらけれど、雪ゆきの光ひかりにいとどきよらに若わかう見みえたまふを、老おい人ひとども笑ゑみさかえて見みたてまつる。

「はや、出いでさせたまへ。あぢきなし。心こころうつくしきこそ」

 など教をしへきこゆれば、さすがに人ひとの聞きこゆる事ことをえいなびたまはぬ御心みこころにて、とかう引ひきつくろひてゐざり出いでたまへり。見みぬやうにて外ほかの方かたを眺ながめたまへれど、後目しりめはただならず、いかにぞ、うちとけまさりのいささかもあらばうれしからむ、とおぼすも、あながちなる御心みこころなりや。

 まづ、居丈ゐだけの高たかく、を背そむ長ながに見みえたまふに、さればよ、と胸むねつぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見みゆるものは鼻はななりけり。ふと目めぞとまる。普賢菩薩ふげんぼさつの乗の物ものとおぼゆ。あさましう高たかうのびらかに、先さきの方かたすこし垂たりて色いろづきたる事こと、ことのほかにうたてあり。色いろは雪ゆき恥はづかしく白しろうてさをに、額ひたひつきこよなうはれたるになほ下くだがちなる面おもてやうは、大方おほかたおどろおどろしう長ながきなるべし。痩やせたまへる事こと、いとほしげにさらぼひて、肩かたのほどなどは痛いたげなるまで衣きぬの上うへまで見みゆ。何なにに残のこりなう見みあらはしつらむ、と思おもふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがにうち見みやられたまふ。

 頭かしらつき、髪かみのかかりはしも、うつくしげにめでたしと思おもひきこゆる人々ひとびとにも、をさをさ劣おとるまじう、袿うちきの裾すそにたまりて引ひかれたるほど、一尺いっしゃくばかり余あまりたらむと見みゆ。着きたまへるものどもをさへ言いひたつるも、もの言いひさがなきやうなれど、昔物語むかしものがたりにも人ひとの御装束おほんさうぞくをこそまづ言いひためれ。聴ゆるし色いろのわりなう上白うはじろみたる一襲ひとかさね、なごりなう黒くろき袿うちき重かさねて、表着うはぎには黒貂ふるきの皮衣かはぎぬ、いときよらに香かばしきを着きたまへり。古体こたいのゆゑづきたる御装束おほんさうぞくなれど、なほ若わかやかなる女をんなの御おほんよそひには似にげなうおどろおどろしき事こと、いともてはやされたり。されど、げにこの皮かはなうてはた寒さむからましと見みゆる御顔おほんかほざまなるを、心苦こころぐるしと見みたまふ。

 何事なにごとも言いはれたまはず、我われさへ口くち閉とぢたる心地ここちしたまへど、例れいのしじまも心こころみむと、とかう聞きこえたまふに、いたう恥はらひて、口くちおほひしたまへるさへひなび古ふるめかしう、ことことしく儀式官ぎしきくゎんの練れんり出いでたる肘ひぢもちおぼえて、さすがにうち笑ゑみたまへるけしき、はしたなうすずろびたり。いとほしくあはれにて、いとど急いそぎ出いでたまふ。

「頼たのもしき人ひとなき御おほんありさまを見みそめたる人ひとには、疎うとからず思おもひむつびたまはむこそ本意ほいある心地ここちすべけれ。ゆるしなき御おほんけしきなれば、つらう」

 などことつけて、

「朝あさ日ひさす軒のきの垂氷たるひは解とけながらなどかつららの結むすぼほるらむ」

 とのたまへど、ただ、

「むむ」

 とうち笑ゑひて、いと口くち重おもげなるもいとほしければ出いでたまひぬ。

 御車みくるま寄よせたる中門ちうもんの、いといたうゆがみよろぼひて、夜よ目めにこそしるきながらもよろづ隠かくろへたる事こと多おほかりけれ、いとあはれにさびしく荒あれまどへるに、松まつの雪ゆきのみ暖あたたかげに降ふりつめる、山里やまざとの心地ここちしてものあはれなるを、かの人々ひとびとの言いひし葎むぐらの門かどは、かうやうなる所ところなりけむかし。げに心苦こころぐるしくらうたげならん人ひとをここに据すゑて、うしろめたう恋こひしと思おもはばや。あるまじきもの思おもひは、それに紛まぎれなむかし、と思おもふやうなる住すみかに合あはぬ御おほんありさまは、取とるべきかたなし、と思おもひながら、我われならぬ人ひとはまして見み忍しのびてむや。わがかうて見馴みなれけるは、故こ親王みこのうしろめたしとたぐへ置おきたまひけむ魂たましひのしるべなめ、とぞおぼさるる。

 橘たちばなの木きの埋うづもれたる、御随身みずいじん召めして払はらはせたまふ。うらやみ顔がほに、松まつの木きのおのれ起おき返かへりて、さとこぼるる雪ゆきも、名なに立たつ末すゑの、と見みゆるなどを、いと深ふかからずとも、なだらかなるほどにあひしらはむ人ひともがな、と見みたまふ。

 御車みくるま出いづべき門かどはまだ開あけざりければ、鍵かぎの預あづかり尋たづね出いでたれば、翁おきなのいといみじきぞ出いで来きたる。むすめにや、孫まごにや、はしたなる大おほきさの女をんなの、衣きぬは雪ゆきにあひて煤すすけまどひ、寒さむしと思おもへるけしき深ふかうて、あやしきものに火ひをただほのかに入いれて袖そでぐくみに持もたり。翁おきな、門かどをえ開あけやらねば、寄よりて引ひき助たすくる、いとかたくななり。御供おほんともの人ひと、寄よりてぞ開あけつる。

「降ふりにける頭かしらの雪ゆきを見みる人ひとも劣おとらず濡ぬらす朝あさの袖そでかな

幼をさなき者ものは形かた蔽おほれず」

 とうち誦ずじたまひても、鼻はなの色いろに出いでて、いと寒さむしと見みえつる御面おほんおもて影かげ、ふと思おもひ出いでられてほほ笑ゑまれたまふ。頭中将とうのちうじゃうにこれを見みせたらむ時とき、いかなる事ことをよそへ言いはむ、常つねにうかがひ来くれば、今いま見みつけられなむ、と術すべなうおぼす。

 世よの常つねなるほどの、異ことなる事ことなさならば、思おもひ捨すててもやみぬべきを、さだかに見みたまひてのちは、なかなかあはれにいみじくて、まめやかなるさまに、常つねに訪おとづれたまふ。黒貂ふるきの皮かはならぬ、絹きぬ、綾あや、綿わたなど、老おい人ひとどもの着きるべきもののたぐひ、かの翁おきなのためまで、上下かみしもおぼしやりてたてまつりたまふ。かやうのまめやか事ことも恥はづかしげならぬを、心こころやすく、さる方かたの後見うしろみにて育はぐくまと思おもほしとりて、さまことにさならぬうちとけわざもしたまひけり。

 かの空蝉うつせみのうちとけたりし宵よひの側目そばめには、いと悪あろかりしかたちざまなれど、もてなしに隠かくされて、口惜くちををしうはあらざりきかし。劣おとるべきほどの人ひとなりやは、げに品しなにもよらぬわざなりけり。心こころばせのなだらかに、ねたげなりしを、負まけてやみにしかな、と、ものの折をりごとにはおぼし出いづ。

年も暮れぬ。内裏の宿直所に

 年としも暮くれぬ。内裏うちの宿直所とのゐどころにおはしますに、大輔たいふの命婦みゃうぶ参まゐれり。御梳櫛みけづりぐしなどには、懸想けさうだつ筋すぢなく心こころやすきものの、さすがにのたまひたはぶれなどして、使つかひならしたまへれば、召めしなき時ときも聞きこゆべき事ことある折をりは参まゐう上のぼりけり。

「あやしき事ことのはべるを、聞きこえさせざらむもひがひがしう、思おもひたまへわづらひて」

 と、ほほ笑ゑみて聞きこえやらぬを、

「何なにざまの事ことぞ。我われにはつつむ事ことあらじとなむ思おもふ」

 とのたまへば、

「いかがは。みづからの愁うれへは、かしこくともまづこそは。これはいと聞きこえさせにくくなむ」

 と、いたう言い籠こめたれば、

「例れいの、艶えんなる」

 と憎にくみたまふ。

「かの宮みやよりはべる御文おほんふみ」

 とて取とり出いでたり。

「まして、これは取とり隠かくすべきことかは」

 とて取とりたまふも、胸むねつぶる。

 陸奥紙みちのくにがみの厚肥あつごえたるに、匂にほひばかりは深ふかうしめたまへり。いとよう書かきおほせたり。歌うたも、

「唐衣からころも君きみが心こころのつらければ袂たもとはかくぞそほちつつのみ」

 心得こころえずうちかたぶきたまへるに、包つつみに、衣筥ころもばこの重おもりかに古体こたいなる置おきておし出いでたり。

「これを、いかでかはかたはらいたく思おもひたまへざらむ。されど、ついたちの御おほんよそひとてわざとはべるめるを、はしたなうはえ返かへしはべらず。ひとり引ひき籠こめはべらむも、人ひとの御心みこころ違たがひはべるべければ、御覧ごらんぜさせてこそは」

 と聞きこゆれば、

「引ひき籠こめられなむは、からかりなまし。袖そでまきほさむ人ひともなき身みに、いとうれしき心こころざしにこそは」

 とのたまひて、ことにもの言いはれたまはず。さてもあさましの口くちつきや、これこそは手てづからの御おほんことの限かぎりなめれ、侍従じじうこそとり直なほすべかめれ、また筆ふでのしりとる博士はかせぞなかべき、と言いふかひなくおぼす。心こころを尽つくして詠よみ出いでたまひつらむほどをおぼすに、

「いともかしこき方かたとは、これをも言いふべかりけり」

 と、ほほ笑ゑみて見みたまふを、命婦みゃうぶ、面おもて赤あかみて見みたてまつる。

 今様色いまやういろの、えゆるすまじく艶えんなう古ふるめきたる直衣なほしの、裏うら表あらひとしうこまやかなる、いとなほなほしう、つまづまぞ見みえたる、あさましおぼすに、この文ふみをひろげながら、端はしに手習てならひすさびたまふを側目そばめに見みれば、

「なつかしき色いろともなしに何なににこの末摘花すゑつむはなを袖そでに触ふれけむ

色いろ濃こき花はなと見みしかども」

 など書かきけがしたまふ。花はなの咎とがめを、なほあるやうあらむと思おもひ合あはする折々をりをりの月影つきかげなどを、いとほしきものからをかしう思おもひなりぬ。

「紅くれなゐのひと花衣はなごろもうすくともひたすら朽くたす名なをし立たてずは

心苦こころぐるしの世よや」

 と、いといたう馴なれてひとりごつを、よきにはあらねど、かうやうのかい撫なでにだにあらましかば、と返かへす返かへす口惜くちををし。人ひとのほどの心苦こころぐるしきに、名なの朽くちなむはさすがなり。人々ひとびと参まゐれば、

「取とり隠かくさむや。かかるわざは人ひとのするものにやあらむ」

 とうちうめきたまふ。何なにに御覧ごらんぜさせつらむ、我われさへ心こころなきやうにと、いと恥はづかしくてやをら下おりぬ。

 またの日ひ、上うへにさぶらへば、台盤所だいばんどころにさしのぞきたまひて、

「くはや、昨日きのふの返かへり事こと、あやしく心こころばみ過すぐさるる」

 とて投なげたまへり。女房にょうばうたち、何事なにごとならむとゆかしがる。

「ただ梅むめの花はなの色いろのごと、三さん笠かさの山やまのをとめをば捨すてて」

 と、歌うたひすさびて出いでたまひぬるを、命婦みゃうぶはいとをかしと思おもふ。心こころ知しらぬ人々ひとびとは、

「なぞ、御おほんひとり笑ゑみは」

 と咎とがめあへり。

「あらず。寒さむき霜しも朝あさに、掻練かいねり好すめる花はなの色いろあひや見みえつらむ。御おほんつづしり歌うたのいとほしき」

 と言いへば、

「あながちなる御事おほんことかな。このなかには、にほへる鼻はなもなかめり。左ひだり近ちかの命婦みゃうぶ、肥後ひごの采女うねべやまじらひつらむ」

 など、心こころも得えず言いひしろふ。御返おほんかへりたてまつりたれば、宮みやには女房にょうばうつどひて見みめでけり。

「逢あはぬ夜よをへだつるなかの衣手ころもでに重かさねていとど見みもし見みよとや」

 白しろき紙かみに捨すて書かいたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。

 晦日つごもりの日ひ、夕ゆふつ方かた、かの御衣箱おほんころもばこに御料ごれうとて人ひとのたてまつれる御衣おほんぞ一領ひとくだり、葡萄染えびぞめの織物おりものの御衣おほんぞ、また山吹やまぶきか何なにぞいろいろ見みえて、命婦みゃうぶぞたてまつりたる。ありし色いろあひを悪あろしとや見みたまひけんと思おもひ知しらるれど、

「かれはた、紅くれなゐの重々おもおもしかりしをや。さりとも消きえじ」

 と、ねび人ひとどもは定さだむる。

「御おほん歌うたも、これよりのは、ことわり聞きこえてしたたかにこそあれ。御返おほんかへりは、ただをかしき方かたにこそ」

 など口々くちぐちに言いふ。姫君ひめぎみも、おぼろけならでし出いでたまひつるわざなれば、ものに書かきつけて置おきたまへりけり。

朔日のほど過ぎて、今年、男踏歌

 朔日ついたちのほど過すぎて、今年ことし、男踏歌をとこたふかあるべければ、例れいの所々ところどころ遊あそびののしりたまふに、もの騒さわがしけれどさびしき所ところのあはれにおぼしやらるれば、七日なぬかの日ひの節ふし会あ果はてて、夜よに入いりて御前おまへよりまかでたまひけるを、御宿直所おほんとのゐどころにやがてとまりたまひぬるやうにて、夜よ更ふかしておはしたり。例れいのありさまよりは、けはひうちそよめき世よづいたり。君きみも、すこしたをやぎたまへるけしきもてつけたまへり。いかにぞ、改あらためてひき変かへたらむ時とき、とぞおぼしつづけらるる。

 日ひさし出いづるほどに、やすらひなして出いでたまふ。東ひむがしの妻戸つまどおし開あけたれば、向むかひたる廊らうの上うへもなくあばれたれば、日ひの脚あしほどなくさし入いりて、雪ゆきすこし降ふりたる光ひかりにいとけざやかに見入みいれらる。御直衣おほんなほしなどたてまつるを見み出いだして、すこしさし出いでてかたはら臥ふしたまへる頭かしらつき、こぼれ出いでたるほどいとめでたし。生おひなほりを見み出いでたらむ時とき、とおぼされて、格子かうし引ひき上あげたまへり。

 いとほしかりしもの懲こりに、上あげも果はてたまはで、脇息けふそくをおし寄よせて、うちかけて、御鬢おほんびんぐきのしどけなきをつくろひたまふ。わりなう古ふるめきたる鏡かがみ台うてなの、唐櫛笥からくしげ、掻上かかげの箱はこなど取とり出いでたり。さすがに男をとこの御おほん具ぐさへほのぼのあるを、されてをかしと見みたまふ。女をんなの御装束おほんさうぞく、今日けふは世よづきたりと見みゆるは、ありし箱はこの心こころ葉はをさながらなりけり。さもおぼしよらず、興きょうある紋もんつきてしるき表着うはぎばかりぞ、あやしとおぼしける。

「今年ことしだに声こゑすこし聞きかせたまへかし。侍さぶらひたるるものはさし置おかれて、御おほんけしきの改あらたまらむなむゆかしき」

 とのたまへば、

「さへづる春はるは」

 と、からうしてわななかし出いでたり。

「さりや。年とし経へぬるしるしよ」

 と、うち笑ゑひたまひて、

「夢ゆめかとぞ見みる」

 とうち誦ずじて出いでたまふを、見送みおくりて添そひ臥ふしたまへり。口くちおほひの側目そばめより、なほかの末摘花すゑつむはな、いとにほひやかにさし出いでたり。見苦みぐるしのわざやとおぼさる。

二条院におはしたれば、紫の君

 二条院にでうのゐんにおはしたれば、紫むらさきの君きみ、いともうつくしき片生かたおひにて、紅くれなゐはかうなつかしきもありけりと見みゆるに、無紋むもんの桜さくらの細長ほそながなよらかに着きなして、何心なにごころもなくてものしたまふさま、いみじうらうたし。古体こたいの祖母おば君きみの御おほんなごりにて、歯は黒くろめもまだしかりけるを、引ひきつくろはせたまへれば、眉まゆのけざやかになりたるも、うつくしうきよらなり。心こころから、などかかう憂うき世よを見みあつかふらむ。かく心苦こころぐるしきものをも見みてゐたらで、とおぼしつつ、例れいの、もろともに雛遊ひひなあそびしたまふ。

 絵ゑなど描かきて、色いろどりたまふ。よろづにをかしうすさび散ちらしたまひけり。我われも描かき添そへたまふ。髪かみいと長ながき女をんなを描かきたまひて、鼻はなに紅くれなゐをつけて見みたまふに、画ゑに描かきても見みま憂うきさましたり。わが御影みかげの鏡かがみ台うてなにうつれるがいときよらなるを見みたまひて、手てづからこの赤あか鼻はなを描かきつけ、にほはして見みたまふに、かくよき顔かほだに、さてまじれらむは見苦みぐるしかるべかりけり。姫君ひめぎみ見みて、いみじく笑ゑひたまふ。

「まろがかくかたはになりなむ時とき、いかならむ」

 とのたまへば、

「うたてこそあらめ」

 とて、さもや染そみつかむとあやふく思おもひたまへり。そらのごひをして、

「さらにこそ白しろまね。用もちなきすさびわざなりや。内裏うちにいかにのたまはむとすらむ」

 と、いとまめやかにのたまふを、いといとほしとおぼして、寄よりてのごひたまへば、

「平中へいちうがやうに色いろどり添そへたまふな。赤あかからむはあへなむ」

 と、戯たはぶれたまふさま、いとをかしき妹背いもせと見みえたまへり。

 日ひのいとうららかなるに、いつしかと霞かすみみわたれる梢こずゑどもの心こころもとなき中なかにも、梅むめはけしきばみ、ほほ笑ゑみわたれる、とりわきて見みゆ。階隠はしがくしのもとの紅梅こうばい、いととく咲さく花はなにて、色いろづきにけり。

「紅くれなゐの花はなぞあやなくうとまるる梅むめの立たち枝えだはなつかしけれど

いでや」

 と、あいなくうちうめかれたまふ。

 かかる人々ひとびとの末々すゑずゑ、いかなりけむ。

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