このページでは、『源氏物語』第6帖「末摘花」の現代語訳全文を、わかりやすい口語訳で掲載しています。原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第6帖「末摘花」原文全文をご覧ください。
夕顔の面影と常陸宮の姫君
源氏は、どれほど思ってもなお思い足りなかった夕顔に、露のようにはかなく先立たれたときの悲しみを、年月が過ぎても忘れられずにいました。今、あちらこちらで心を通わせている女性たちは、どの人も簡単には打ち解けず、それぞれに思わせぶりで奥深く構えています。それだけに、すぐそばで気を許し、素直になついてくれた夕顔の情け深さが、ほかに比べるものもないほど恋しく思い出されるのでした。
そこで源氏は懲りもせず、「大げさに世間の評判になるような身分でなくてもよい。とてもかわいらしく、こちらが気兼ねせずにいられるような女性を、どこかで見つけたいものだ」と思い続けていました。少しでも由緒がありそうだと噂に聞く女性については、ほとんど聞き逃すところがありません。その中でも、「もしかしたら」と思わせる雰囲気の人には、ほんの一行ほどの手紙でも、それとなく思いをほのめかしていたようです。
源氏ほどの人から言い寄られて、それでも少しも心を動かさず、きっぱり遠ざかったままでいられる女性など、そう多くはなかったのでしょう。とはいえ、いつまでも冷たく気丈に構える人には、情趣というものをまるで解さないほど生真面目で、物事のほどを知らないように見えるところもあります。反対に、初めは慎み深く振る舞っていたのに、最後までそれを貫けず、すっかり気持ちを崩して、ありふれた関係になってしまう人もいました。そんなわけで、源氏の方から途中で言い寄るのをやめてしまった相手も少なくなかったのです。
空蝉のことも、何かにつけては悔しく思い出しました。軒端荻にも、ちょうどよい風の便りがあるときには、ふと思い出したように消息を送ることがあったのでしょう。灯火の中で衣を乱していた、あの夜の姿も、もう一度あのような形で見てみたいと思います。源氏はもともと、一度心に残った人を、跡形もなく忘れてしまうことのできない人なのでした。
大輔命婦が語る姫君
源氏には、左衛門の乳母という、大弐の乳母に次いで重く見ている乳母がいました。その娘が、宮中に仕える大輔命婦です。父親は皇族の血筋を引く兵部大輔で、命婦自身はかなり恋愛好きな若い女房でした。源氏も気軽に使いを頼むなどして、親しくしています。母親は筑前守の妻となって任国へ下っていたので、命婦は父のもとを自分の実家として行き来していました。
あるとき命婦が、亡くなった常陸親王が晩年にもうけ、たいそうかわいがって育てていた姫君が、父を失ったあと心細く暮らしているという話をしました。源氏は「それはお気の毒なことだ」と心を留め、姫君について詳しく尋ねます。
「お人柄やお顔立ちなど、詳しいところまでは存じません。たいそう深く引きこもり、人を遠ざけるようにお暮らしですので、しかるべき夜などに、物を隔ててお話しするくらいでございます。琴だけを親しい話し相手と思っていらっしゃるようです」
命婦がそう申し上げると、源氏は、「琴・詩・酒を三つの友というが、そのうち酒だけは姫君には似つかわしくなさそうだね」と軽口を言いました。
「私にも、その琴を聞かせておくれ。父の親王は音楽の方面にもたいそう風流で、造詣の深い方だったそうだから、姫君の弾き方も並一通りではないだろうと思う」
「そこまでご期待になるほどのものではないかもしれません」
そう答えながらも、命婦は源氏の興味を引くように話します。
「ずいぶん思わせぶりに言うね。このごろの朧月夜に、こっそり出かけてみよう。おまえも宮中から退出しておいてくれ」
命婦は面倒なことになったと思いましたが、春の宮中ものどかで暇なころだったので、言われたとおり退出しました。命婦の父である大輔は別のところに住んでいて、常陸宮の邸へは時々通ってくるだけです。命婦は継母のいる父の家には住みつかず、姫君と親しくしていたので、この邸へよく来ていたのでした。
十六夜の琴
源氏が言っていたとおり、十六夜の月が美しいころに、源氏は人目を忍んで常陸宮邸を訪れました。
「まあ、なんとも困ったことでございます。今夜は、楽器の音が美しく澄んで聞こえるような夜でもなさそうですのに」
「それでも姫君のところへ行って、ほんの一声でも琴を弾くよう勧めておくれ。何も聞けないまま帰るのでは悔しいから」
命婦は、自分が普段使っている気楽な部屋に源氏を案内しました。こんなところに源氏を待たせるのは心配でもあり、恐れ多くもありましたが、そのまま寝殿へ向かいます。姫君はまだ格子も下ろさず、香りのよい梅を外に眺めていました。命婦は「ちょうどよい機会だ」と思い、琴を弾くように誘いました。
「今夜の景色を見ていますと、姫君の琴の音も、いつにもまして美しく聞こえるのではないかと思われまして。私はいつも慌ただしく出入りしておりますから、ゆっくりお聞きできないのが残念でございます」
「琴を聞き分ける方がおいでだそうですね。けれど、宮中を行き来なさるような方に、お聞かせできるほどの腕前でしょうか」
そう言いながらも、姫君は琴を近くへ取り寄せました。命婦は、「源氏の君はこれをどうお聞きになるだろう」と、他人事ながら胸がどきりとします。姫君が琴をほんの少しかき鳴らすと、その音はなかなか趣深く聞こえました。格別に高度な演奏というほどではありませんが、琴そのものの音色に普通とは違った響きがあり、源氏にも聞き苦しくは思われません。
邸はひどく荒れ果て、寂しいありさまでした。これほど高貴な姫君を、亡き常陸宮は昔、古風なまでに厳重に、大切に守って暮らさせていたのでしょう。それが今では、その面影さえありません。父宮はどれほどこの姫君の将来を案じながら亡くなったことだろう――そんなことを思うと、源氏の胸にも哀れが迫りました。「こういう場所でこそ、昔物語には心を打つ恋が生まれたものだ」と思い、姫君へ声をかけてみたい気持ちにもなります。しかし、いきなりそんなことをすればどう思われるだろうと気恥ずかしく、ためらっていました。
命婦は気の利く女房ですから、源氏に姫君のことを簡単に知り尽くさせず、もう少し奥ゆかしく思わせておこうと考えました。
「どうやら空も曇りがちのようです。それに私のところへ客人が来ることになっておりましたので、留守にしていては、その人を避けているようにも思われかねません。続きはまた、ゆっくりした折にいたしましょう。もう格子も下ろしてしまいます」
命婦は姫君にそれ以上琴を勧めず、源氏のところへ戻りました。
「かえって気になるところで終わってしまったね。琴のよしあしを聞き分けられるほどにも聞けず、悔しいな。どうせなら、もっと近いところで立ち聞きさせておくれ」
そんな源氏の様子を命婦はおもしろく思いましたが、もっと知りたいと思わせたままにしておく方が、かえって奥ゆかしいとも考えています。
「でも姫君は、たいそうひっそりとした暮らしの中で、ご自分など取るに足りない者のように思っていらっしゃる、本当にお気の毒な方です。あまり思いがけないことをして、ご心配をかけることになっては」
そう聞けば、源氏も確かにもっともだと思います。姫君ほどの身分の人に、急に互いに打ち解けて話せというのも無理なことでした。
「それならせめて、私が少し心を寄せているらしいことだけでも、それとなく伝えておいてくれ」
そう命婦に頼み、ほかにも約束していた女性があったのでしょうか、源氏はたいそう人目を忍んで帰ろうとしました。すると命婦が、そんな源氏をからかいます。
「帝が、あなたさまをとてもまじめな方だとお思いになっていらっしゃるのが、時々おかしく思われます。こんなふうにお姿をやつして歩いていらっしゃるところを、どうしたらご覧になることができるでしょうね」
源氏は立ち戻り、笑いました。
「まるで他人が言うように、私の欠点を暴くのはやめておくれ。これくらいを浮気な振る舞いと言われたら、女の人だってずいぶん窮屈だろう」
命婦は、自分の方があまり色めいたことを言ってしまったような気がして、こんなふうに時々源氏からからかわれるのが恥ずかしくなり、黙ってしまいました。
あとをつけてきた頭中将
源氏は、寝殿の方から姫君の気配でも聞こえないかと思い、そっとその場を離れました。透垣がほんの少し壊れ残って物陰になっているところへ寄ってみると、そこには前から一人の男が立っています。「誰だろう。姫君に目をつけている物好きな男が、ほかにもいるのか」と思い、源氏は陰へ身を隠しました。ところが、その男は頭中将でした。
その日の夕方、二人は宮中から一緒に退出していました。ところが源氏は、そのまま左大臣邸にも二条院にも寄らず、途中で頭中将と別れてしまったのです。頭中将は「いったいどこへ行くのだろう」と気になりました。自分にも出かける先はあったのですが、それを後回しにして源氏のあとをつけてきたのでした。粗末な馬に乗り、気を抜いた狩衣姿に身をやつしていたため、源氏も彼とは気づきませんでした。頭中将の方も、源氏がこんな意外な場所へ入ってしまったので、いったい何の用だろうと不思議に思っていましたが、やがて琴の音まで聞こえてきたため、帰りに出てくるのを待っていたのです。
源氏は相手が誰なのか見分けられないまま、自分だと知られまいと忍び足で通り過ぎようとしました。すると男が、ふいに近寄ってきました。
「私を振り捨てて行かれたのがつらかったので、こうしてお送り申し上げに来たのですよ。
もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月
――一緒に宮中を出たというのに、十六夜の月であるあなたは、どこへ入っていくのか、私には見せてくださいませんでしたね」
こんなふうに恨み言を言われるのは腹立たしいものの、相手が頭中将だと分かると、源氏も少しおもしろくなりました。
「まったく、人の思いもよらないことをする人だ。
里わかぬかげをば見れどゆく月のいるさの山を誰れか尋ぬる
――月の光がどの里にも分け隔てなく差すところなら見るでしょう。でも、その月がどの山へ沈むのかまで、いったい誰が追いかけて探すものですか。こんなふうに私のあとを慕って歩いて、どうするつもりなのです」
「さて、どうして差し上げましょうか」
頭中将も笑って答えましたが、すぐに少しまじめな口調になりました。
「本当は、こういうお忍び歩きのときこそ、私のような者が随身代わりになれば、何かとお役に立てるのですよ。今度からは置いて行かないでください。こんなふうに身をやつして歩いていると、思いがけず軽率な騒ぎが起こるかもしれません」
源氏は、こうしていつも頭中将に忍び歩きを見つけられるのが悔しく思われました。それでも心の中では、以前頭中将が話していた「撫子」――夕顔の娘を、本人はいまだに探し出せていないことを思い出します。その娘の行方を自分は知っている。そのことを、源氏は自分の側の大きな強みとして数えていたのでした。
姫君をめぐる頭中将との競争
源氏にも頭中将にも、それぞれその夜に会う約束をしていた女性がいたのでしょう。けれど、ここまで一緒になってしまうと、今さら別々に出かける気にもなれません。二人は一台の車に乗り、月が美しく、ときおり雲に隠れる道を、笛を吹き合わせながら左大臣邸へ向かいました。先払いもさせずに忍んで邸へ入り、人のいない廊で直衣に着替えると、まるで今ちょうど普通に帰ってきたところのような顔をして、二人で笛を吹きながら歩きます。
左大臣は、いつものようにその音を聞き逃さず、自ら高麗笛を取り出しました。たいそう上手な人なので、実におもしろく吹きます。琴も用意させ、御簾の内にいる音楽の心得のある人々にも弾かせました。
中務の君という女房は、とりわけ琵琶が上手でした。頭中将が彼女に心をかけているのに、中務の君はそれを受けつけず、その一方で、源氏がたまに見せる親しみ深い愛情には背ききれずにいました。そのことは自然と隠しきれなくなり、大宮などにも快く思われなくなっていたので、中務の君は物思いがちで居心地の悪い思いをしながら、つまらなそうに横になっています。それでも、源氏をまったく見ることのできない場所へ離れてしまうのも心細く、思い乱れているのでした。
源氏と頭中将は、さきほど聞いた琴の音と、もの寂しかった常陸宮邸の様子を思い返していました。頭中将などは、まだ見てもいない姫君のことを想像します。もし本当に、愛らしい美しい女性があのようなところで長い年月をひっそり暮らしていて、今になってそれを見つけたなら、さぞ気の毒に思うことだろう。そのときには、世間から騒がれるほど、自分まで見苦しく夢中になってしまうものだろうか――。そんなことまで考えました。そして、源氏があの姫君に意味ありげな様子を見せているのを思うと、「まさか、このまま何もせずに済ませるはずはないだろう」と、少し悔しく、気がかりにもなりました。
その後、源氏と頭中将は、それぞれ常陸宮の姫君へ手紙を送ったようです。ところが、どちらにも返事はありません。いつまでも様子が分からず、気持ちばかり焦らされるので、頭中将は源氏以上にいらいらしていました。
「あまりにもひどいではないか。ああいう寂しいところに住んでいる女性なら、物思いを知っているらしい心を、ちょっとした木や草、空の景色などに寄せて表し、そこから人柄を想像させるような折があってこそ、しみじみと感じられるものだろう。慎み深いといっても、ここまで何もせず埋もれているのは、気が利かず野暮というものだ」
頭中将はそんなふうに腹を立て、いつものように互いに隠し事をしないつもりで、源氏に尋ねました。
「あの方から返事はありましたか。私も試しに少し気持ちをほのめかしてみたのですが、きまりの悪いことに、何の返事もないまま終わってしまいました」
源氏は、「やはり頭中将も言い寄っていたのだな」と思い、ほほ笑みました。
「さあ。特に見たいと思っているわけでもないせいでしょうか、返事を見たという覚えもありませんね」
すました顔でそう答えるので、頭中将は、「自分だけが相手にされず、源氏には返事をしているのではないか」と思い、ますます悔しくなりました。
源氏自身は、もともと姫君をそれほど深く思っていたわけではありません。あまりにつれないので、すでに興ざめしかけてもいました。ところが頭中将まで言い寄っていると知ると、妙な競争心が頭をもたげます。「口数も多く、恋のやり取りにも慣れた頭中将の方へ、姫君がなびいてしまうかもしれない。そしてあの男が得意そうな顔をして、まるで自分の方が初めから興味を失っていたように振る舞ったら、それこそ腹立たしい」。そう思うと、このまま引き下がる気にはなれませんでした。
そこで源氏は、今度は命婦へ本気で頼み込みました。
「何をお考えなのか分からないまま、あれほど遠く離れていらっしゃるご様子が、本当に情けない。私をただの色好みだと疑っていらっしゃるのだろうが、それほどすぐ心の変わる男でもないのだよ。相手が物事をゆっくり受け止めてくれず、何もかも思いどおりにならないことばかりだから、自然とこちらまで過ちを犯すことになる。むしろ、気持ちが穏やかで、親や兄弟からあれこれ世話を焼かれたり恨まれたりすることもなく、安心して付き合えるような人の方が、かえって愛しく思えるものなのに」
「でも、あなたさまがお求めになるような、風流な笠宿りのお相手としては、どうでしょう。少し似つかわしくないように見えます。ただ、ひたすら人目を恥じ、奥へ引きこもっていらっしゃるところだけは、本当に珍しいほどの方でございます」
「何でも器用に、気の利いた振る舞いをするような人ではないらしいね。むしろ、子どものようにおっとりした人なら、それこそ愛らしいではないか」
源氏はそう言って、姫君のことを忘れずにいました。しかし、そのうち自身が瘧病を患い、さらに人には知られない物思いにも心を乱され、気持ちの休まる暇もないまま、春から夏へと季節は過ぎていきました。
秋の夜、姫君との逢瀬
秋になり、少し静かに物思いをするころになると、源氏は夕顔と過ごした夜に聞いた砧の音まで思い出しました。あのときは耳について聞き苦しいと感じた音さえ、今となっては恋しい。その思いのまま、常陸宮の姫君へもたびたび手紙を送りましたが、相変わらず返事はなく、何を考えているのか分かりません。あまりにも世慣れない態度が腹立たしく、「このまま負けて終わるものか」という気持ちまで加わって、源氏は命婦を責めました。
「いったい、どういうことなのだ。私はこれまで、こんな扱いを受けたことがない」
「姫君があなたさまを嫌って、似つかわしくないお話だと拒んでおられるわけではございません。ただ、何事にもあまりに慎み深くていらっしゃるので、ご自分から手を出してお返事を書くことさえできないのだと見ております」
「それこそ世間というものを知らなさすぎるのだ。まだ恋というものを知る年でもないとか、自分の身を自分の心どおりにはできない事情があるとかなら、それももっともだ。けれど姫君は、もう物事を落ち着いてお考えになる年齢なのだろうと思っているのに。私はこれといった理由もないまま、ただ退屈で心細く感じることが多いのだ。そんなとき、同じような心で答えてくださる人がいたなら、願いがかなったような気持ちになるだろう。
何も、あれこれと世間並みの男女の話ばかりをしたいわけではない。ただ、あの荒れた簀子に立ってでも、お話ししてみたいのだよ。それなのに、ここまでまったく取りつく島がないのは、どうにも理解できない。姫君のお許しがなくても、何とかうまく手はずを整えておくれ。私が少し気をせいているからといって、まさか相手が嫌がるようなひどい振る舞いはしないよ」
そもそも命婦は、源氏が世間の女性の噂を広く聞き集め、何気ない話にも耳を留める癖があるので、退屈な夜のちょっとした話題として、「こんな方がいらっしゃいます」と姫君のことを口にしただけでした。それなのに源氏がこうして何度も本気で言い続けるようになると、少し困ってしまいます。姫君には世慣れた華やかさも、風流らしく気の利いたところもありません。自分が余計な仲立ちをしたせいで、かえってお気の毒なことになるのではないか――そんな不安もありました。
それでも、源氏がこれほど真面目に頼むのに、まったく聞き入れないのもひねくれたことに思われます。父宮が生きていたころでさえ、「古びた邸だ」と言って訪ねてくる人もありませんでした。まして今では、浅茅を踏み分けて訪ねる人さえ絶えています。そこへ、この世にも珍しいほど美しい源氏の君の気配が漏れ、香り立つように伝わってくるのですから、若い女房たちなどは思わず顔をほころばせ、「やはり、お返事なさってくださいませ」と姫君をけしかけます。けれど姫君は、驚くほど人目を恥じる性格で、ひたすら源氏の手紙を見ることさえ避けていました。
命婦は、「それなら、ちょうどよい機会に、物を隔てたままで一度お話ししていただこう。それで源氏の君がお気に召さなければ、そのまま終わってもよい。もしご縁があって、仮に源氏の君がお通いになることになったとしても、それを咎める人はいない」と、少し浮ついた気持ちで考えました。そして父親にも、この話は知らせませんでした。
物越しの対面
八月二十日過ぎのことです。夜になってもなかなか月が出ず、待ち遠しく思われるころでした。星の光だけが澄み、松の梢を吹く風の音が心細く響いています。姫君は昔の父宮のことを語り出し、涙を流していました。命婦は「ちょうどよい機会だ」と思い、源氏へ知らせたのでしょう。源氏はいつものように、たいそう人目を忍んでやって来ました。
やがて月が昇り始めます。源氏が荒れた垣根を気味悪そうに眺めていると、姫君は命婦に勧められ、かすかに琴をかき鳴らしました。その音は、決して悪くありません。源氏は、「もう少し親しみやすく、今風なところがこの人にあれば」と、じれったく思っていました。人目のほとんどない邸なので、安心して中へ入り、命婦を呼ばせます。
命婦は、まるで今初めて源氏の来訪を知ったような顔をして、姫君へ伝えました。
「まあ、困ったことでございます。源氏の君がいらしているそうです。いつも姫君からお返事がないと、私に恨み言をおっしゃいますので、『姫君のお心どおりにならないことですから』とお断り申し上げております。すると、『それなら自分で事情を申し上げて、分かっていただこう』と、ずっとおっしゃっていたのです。いったい何とお断りしたらよいのでしょう。普通の方の軽々しいお振る舞いならともかく、源氏の君がわざわざいらしているのに、そのままお帰しするのもお気の毒でございます。物を隔てたままで結構ですから、源氏の君がお話しになることを、どうかお聞きくださいませ」
「私は、人とどのようにお話ししたらよいのかも分からないのに」
姫君はひどく恥ずかしそうに、奥の方へいざっていきました。その姿があまりにも世慣れないので、命婦は思わず笑いました。
「あまりに子どものようでいらっしゃるのが、かえって私は心配なのでございます。どれほど高貴な方でも、親御さまがいらして、何もかもお世話し、後見してくださる間なら、幼くいらっしゃるのももっともです。でも姫君は、これほど心細いお暮らしなのです。それなのに、いつまでも世間のことを何から何まで恐れて引っ込んでいらっしゃるのは、似つかわしくございません」
姫君はもともと、人から強く言われると最後まできっぱり断り通すことのできない性格でした。
「お返事をしないで、ただ聞いているだけでよいというのなら、格子などを閉めたままでいましょう」
「簀子にお通しするのでは、さすがに具合が悪うございましょう。それに、源氏の君が無理に押し入るような軽率なお心であるはずもございません」
命婦はそううまく言いくるめ、二つの部屋の境にある障子を自分の手でしっかり閉じると、姫君のために敷物を置き、身の回りを整えました。姫君はひどく恥ずかしそうにしています。こうして男性と話すときに、女性がどのように振る舞うものなのかなど夢にも知りません。ただ、命婦がそう言うのだから、きっとそういうものなのだろうと思って従っているだけでした。
乳母代わりの年老いた女房たちは、自分たちの部屋へ入り、早くも寝ています。若い女房が二、三人だけ残っていて、世間中で美しいと評判の源氏の君を見てみたいと思い、互いに身なりを整えていました。姫君にも少し見栄えのよい衣へ着替えていただきましたが、当の姫君には、男性を意識して美しく見せようという気持ちなどまるでありません。
一方の源氏は、ただでさえ限りなく美しい人です。その源氏が人目を忍び、十分に心を配って身なりを整えている気配は、たいそう優美でした。命婦は、「このお姿は、それが分かる女性にこそ見せて差し上げたいものなのに。ここでは張り合いがなさすぎて、源氏の君がお気の毒だ」と思います。それでも、姫君がおっとりした性格なのだけは安心でした。少なくとも源氏の前で、軽率な振る舞いをして恥をさらすことはないでしょう。
同時に命婦には、自分がいつも源氏から責められていることから逃れるように、気の毒な姫君をこんな場へ導いてしまい、かえって新しい物思いを背負わせることになるのではないかという不安もありました。
源氏は姫君の身分を思えば、気取ったところの多い今風の女性より、こうして奥深く慎んでいる方がはるかに好ましく感じられました。女房たちに強く促され、姫君が障子の近くへいざって寄ってくる気配はひっそりとしていて、衣に焚きしめた香もやさしく漂い、いかにもおっとりとしています。「やはり、思ったとおりの人なのだ」と源氏は思い、長いあいだ思い続けてきたことを、実に巧みに、言葉を尽くして語りました。
ところが、こんなに近くまで来ても、姫君自身からは何の返事もありません。源氏は困り果て、ため息をつきました。
いくそたび君がしじまにまけぬらんものな言ひそと言はぬ頼みに
――あなたが黙り込むたびに、私はいったい何度負けてきたことでしょう。それでも、「何も言うな」とまではおっしゃらない。そのことだけを頼みにしているのです。
「せめて、もう嫌だと一言おっしゃって、私をお見捨てください。はっきり言ってくださらないのが、かえって苦しいのです」
姫君の乳母子である侍従という、気の早い若い女房が、じれったくて見ていられない気持ちになり、そばへ近寄って代わりに歌を返しました。
鐘つきてとぢめむことはさすがにて答へまうきぞかつはあやなき
――鐘をついて勤行を終えるように、「これでおしまいです」ときっぱりお断りするのも、さすがにできません。けれど、お返事申し上げるのも難しいのですから、自分でもどうしたものか分かりません。
声はひどく若々しく、重々しさのないものでしたが、侍従は人づての返事ではなく、あたかも姫君本人が答えたように取りなしました。源氏は、「姫君ほどの身分の方にしては、ずいぶん気安い返しだ」と思いながらも、歌を返します。
言はぬをも言ふにまさると知りながらおしこめたるは苦しかりけり
――言葉にしない思いの方が、口に出す言葉以上に深いこともあるとは知っています。それでも、その心を閉じ込めたまま何も聞かせてくださらないのは、やはり苦しいものです。
源氏は、何ということもない軽い話から風流な話、真面目な話まで、あれこれ語りかけました。しかし何を言っても、姫君本人からは何の反応もありません。「ここまで普通と違うということは、ものの考え方がよほど自分とは違う方なのだろうか」。しだいに腹立たしくなり、とうとう源氏は、そっと障子を押し開けて中へ入ってしまいました。
命婦は、「まあ、なんということ。あれほど安心させておいて」と姫君を気の毒に思いましたが、自分は何も知らないという顔をして、自分の部屋へ引き上げてしまいます。若い女房たちも、世に並ぶ者がないほど美しいと聞く源氏が相手なので、無理に入ってきたことを大げさに責める気にはなれません。ただ、姫君にはそんな心構えが少しもなかったところへ、あまりに突然こんなことになったのを気の毒に思いました。
姫君自身は、もう自分が自分ではないような心地です。ただ恥ずかしく、身の置きどころがない。そのほかのことなど、何も考えられません。そんな様子を見ると、確かにまだ男女のことにも慣れず、大切に守られて育った人なのだとは源氏も分かりました。それでも、あまりに何も分からない様子は理解しにくく、気の毒にも思われます。いったいこの人の何に、心を強く引きつけられればよいのだろう――。源氏は思わずため息をつき、夜も深いうちに邸を出ました。
命婦は、「いったい、どうなったのだろう」と目を覚ましたまま横になっていました。しかし事情を知っている顔はすまいと思い、見送りを促す声さえかけません。源氏も静かに、人目を忍んで出ていきました。
返事の遅い恋と雪の夜
二条院へ帰り、横になってからも、源氏の胸には釈然としない思いが残りました。「やはり、この世というものは思うようにならない」。姫君は故親王の娘で、決して軽々しく扱ってよい身分の人ではありません。そのことを考えると、このまま簡単に捨ててしまうのも気の毒でした。
そこへ頭中将がやって来ました。
「ずいぶんな朝寝ですね。きっと何か理由がおありなのでしょう」
「気楽な一人寝の床だったので、つい気が緩んでしまったよ。宮中から来たのか」
「ええ、たった今退出してきたところです。朱雀院への行幸について、今日、楽人と舞人を決めると昨夜うかがいましたので、それを左大臣にもお伝えしようと思って退出したのです。すぐまた宮中へ戻らなければなりません」
「それなら、一緒に行こう」
源氏は粥や強飯を食べ、頭中将にも食事を勧めました。車は二台続いていましたが、二人は一台に相乗りして宮中へ向かいます。頭中将は道々、「それにしても、まだずいぶん眠そうですね」と何度もとがめ、「あなたは私に隠していることが多すぎます」とまで恨み言を言いました。
その日は決めることが多く、源氏は一日中、宮中で過ごしました。
遅れて届いた後朝の文
常陸宮邸の姫君には、せめて後朝の手紙だけでも送らなければ気の毒だと、源氏は思い出しました。しかし、ようやく文を出したのは夕方になってからです。雨まで降り出し、窮屈な空模様でしたが、だからといって、以前命婦が口にした「笠宿り」をしに、姫君の邸へ立ち寄ろうという気にはならなかったのでしょう。
あちらでは、手紙を待つはずの時刻をとうに過ぎていました。命婦も、「なんともお気の毒な姫君だ」と情けなく思います。けれど当の姫君本人は、ただ昨夜のことを恥ずかしく思い続けているばかりで、朝に届くべき手紙が夕方まで来ないことを、恋の作法に外れた失礼として咎めるところまで、かえって考え分けてもいませんでした。
夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬにいぶせさ添ふる宵の雨かな
――夕霧が晴れるように、あなたのお心が開ける気配もまだ見えないのに、今夜は雨まで降り出して、ますます気持ちが晴れません。
「雲の切れ間を待ち出すように、あなたのお返事を待っている間が、どれほどじれったいことでしょう」
文面から、今夜は源氏が来そうにないと分かり、女房たちは胸をつぶすような思いでした。「それでも、やはりお返事をなさってくださいませ」と皆で姫君をせき立てますが、姫君はますます思い乱れ、普通の返事らしい形にさえ書き続けることができません。夜が更けてしまうので、侍従がいつものように歌の言葉を教えました。
晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ同じ心に眺めせずとも
――晴れない夜に月を待っているこの里のことも、どうか思いやってください。あなたと同じ心で物思いをしているわけではないとしても。
女房たちから口々に責められて、姫君はようやく返事を書きました。紫色の紙は長い年月を経て灰の気が表に残り、古びて見えます。筆跡そのものはさすがにしっかりしていましたが、ひと昔前の古風な書きぶりで、文字が上から下まできっちりそろっていました。源氏はそれを見ると、張り合いもなく、そのまま置いてしまいます。
それでも、「今夜、自分が行かないことを、あの人はどう思っているだろう」と想像すると落ち着きません。「こういうことを後悔というのだろうか。とはいえ、今さらどうしようもない。私はそれでも、気長にこの人を最後まで見届けよう」。源氏はそう思い直しました。しかし、その源氏の心など知るはずもない姫君は、あちらでひどく嘆いていたのでした。
夜になって左大臣が宮中から退出すると、源氏も誘われるまま左大臣邸へ行きました。朱雀院への行幸を皆が楽しみにしており、公達が集まって、それぞれ舞を練習することが、このころの日課になっていました。楽器の音も普段よりずっと騒々しく、互いに腕を競っています。いつもの優雅な管弦の遊びとは違い、大篳篥や尺八などを大きな音で吹き鳴らし、太鼓まで高欄のそばへ転がしてきて、自分たちの手で打ち鳴らすようなにぎやかさでした。
源氏にはほとんど暇がありません。どうしても会いたいと思う相手のところへだけは、何とか時間を盗んで出かけましたが、常陸宮邸にはなかなか足が向かず、そのまま秋もすっかり暮れてしまいました。姫君の方では、待ち続けてきた甲斐もないまま、寂しい日々が過ぎていきます。
行幸が近づき、試楽などで大騒ぎしているころ、命婦が源氏のところへ参りました。
「あの方は、どうしている」
源氏はそう尋ね、さすがに姫君を気の毒には思っている様子です。命婦は姫君のありさまを話しました。
「あれほどまで人を遠ざけていらっしゃるお心を見ておりますと、そばにいる私までつらくなりまして」
命婦は今にも泣きそうです。もともと命婦は、姫君を奥ゆかしい人として源氏の心に残したまま、この話を終わらせるつもりだったのでしょう。それを自分が壊してしまったことも、命婦から思いやりのない男だと思われているだろうことも、源氏には気にかかります。それ以上に、姫君本人が何も言わず、一人で思い沈んでいるだろう姿を想像すると、やはり気の毒でした。
「今は本当に暇がない時期なのだ。困ったものだね。人の情けなどまるで分からないような、あの心を少し懲らしめてやろうと思っているのだよ」
そう言ってほほ笑む源氏が、まだ若く、あまりにも美しいので、命婦もつられて笑いたくなるような気がしました。「本当に困った方。女性から恨まれるようなお年ごろなのだ。まだ相手への思いやりも十分ではなく、自分の心のままに振る舞ってしまうのも無理はないのだろう」。命婦には、そんなふうにも思われました。
行幸の準備が一段落してから、源氏は時々、常陸宮邸へ通うようになりました。
荒れた邸をのぞく
けれど、そのころには源氏は、藤壺につながる「紫のゆかり」――紫の君を探し出して自分のもとへ迎え、そのかわいらしさにすっかり心を注いでいました。そのため六条あたりの女性のところへさえ、以前より足が遠のいています。まして、この荒れた常陸宮邸は、姫君を気の毒に思う気持ちこそ薄れないものの、出かけるのがどうにも億劫でした。
姫君がひどく人目を恥じるのを、わざわざ暴くように顔を見ようという気持ちも特になく、そのまま時が過ぎていました。しかし、また思い返してみると、「実際に見てみれば、かえってよく思えることもあるものだ。暗いところで手探りだったため、何か妙に分からないことがあったのかもしれない。一度、顔を見てみたい」と思うことがあります。だからといって、正面から顔を見せるよう求めるのも気恥ずかしい。そこで、あるくつろいだ夜、源氏はそっと中へ入り、格子の隙間からのぞいてみました。
しかし肝心の姫君自身は見えません。几帳などはかなり傷んでいるのですが、長年置かれてきた場所から少しも動かさず、乱雑に押しやったりもしないので、奥までは見通せないのです。そのかわり、女房たちが四、五人ほど座っているのが見えました。食事の台には、秘色らしい中国の青磁の器まで使われています。しかし器は見栄えが悪く、これといった副菜もなく、ひどく侘しい食事でした。女房たちは姫君のそばから下がり、それを食べています。
隅の部屋には、とても寒そうな女房たちがいました。白い衣は何とも言えないほど煤け、腰には汚らしい褶を結びつけ、その姿はひどく古風で不格好です。それでも額には櫛をずり落ちそうに挿していて、源氏は、「内教坊や内侍所あたりには、こんな女房たちもいるものなのか」と珍しく眺めました。普段の源氏は、こんな人々が高貴な人のすぐそばで立ち働くものだとは、思ってもみなかったのです。
「ああ、本当になんて寒い年なのでしょう。長生きをしていれば、こんな世の中にも出会うものなのですね」
「亡くなった宮さまがいらしたころを、どうしてつらいなどと思ったのでしょう。こうして頼りになる方がいなくなっても、人間は何とか暮らしていくものなのですね」
泣く者もいれば、寒さに飛び上がりそうなほど震えながら昔を嘆く者もいます。そんな体裁のよくない愚痴を聞いているのが、源氏にはきまり悪く思われました。そこでいったんその場を離れ、今ちょうど来たばかりのような顔をして戸を叩きます。
「ほら、どなたかいらしたようですよ」
女房たちは慌てて灯火を整え直し、格子を開けて源氏を中へ通しました。侍従は斎院へ出仕する若い女房で、このごろは邸にいません。そのため今夜は、ますます見慣れないほど田舎びた、古風な女房ばかりでした。
女房たちが先ほどから嘆いていた雪は、いよいよ空を覆うように激しく降ってきました。風も荒々しく吹きすさび、大殿油まで消えてしまったのに、火をともす人さえいません。源氏は、夕顔が物の怪に襲われた、あの荒れた院での夜を思い出しました。荒れ果てた様子では、こちらもあの院に劣らないようです。ただ、こちらは建物が少し狭く、人の気配もわずかながらあるので、それだけは心強く感じられました。それでも、ぞっとするような、不気味で落ち着かない夜でした。
こんな雪の夜なら、本来はいつもと違った景色によって、おもしろくもしみじみとも感じられ、女性への思いまで深くなりそうなものです。けれど姫君は、あまりにも引っ込み思案で生真面目なばかりで、その場を引き立てるようなところが何一つありません。源氏は、それを残念に思いました。
雪の朝に知る姫君の素顔
ようやく夜が明ける気配になったので、源氏は自分の手で格子を上げ、庭の雪を眺めました。誰かが踏み分けた跡もなく、見渡す限り荒れ果てた庭に雪が積もり、たいそう寂しげです。このまま外へ出て帰っていくことまで、なんとなく惜しく思われました。
「せっかく美しい朝の空です。あなたもご覧なさい。いつまでたっても心の隔てをなくしてくださらないのが、どうにもつらいですよ」
まだほの暗いものの、雪の光に照らされた源氏は、いっそう清らかで若々しく見えました。年老いた女房たちは、にこにこと嬉しそうに源氏を見つめています。
「さあ、早くお出になってくださいませ。いつまでもそんなふうでは仕方がありません。素直なお心でいらっしゃる方がよろしゅうございます」
女房たちがそう教えると、姫君は人から言われることを強く拒みきれない性格なので、あれこれ身なりを整え、少しずつこちらへ出てきました。源氏は見ていないふりをして、わざと外の方を眺めています。しかし横目では、ただならぬ熱心さで姫君を見ていました。「どうだろう。少しでも、近くで見ればかえってよく思えるところがあれば嬉しいのだが」。そんなことまで期待しているのですから、源氏もずいぶん執念深いものです。
雪明かりに見えた顔
まず目についたのは、座っている姫君の背丈がひどく高く、胴長に見えることでした。「やはり、そうだったのか」と、源氏は胸をつかれます。続いて、「これは何ということだ」と目を奪われたのは、鼻でした。普賢菩薩の乗る象を思わせるほど驚くほど高く長く伸び、その先が少し垂れて、赤く色づいているのがことのほか異様に見えます。
肌そのものは雪も恥じるほど白いのですが、青ざめたように血の気がありません。額はひどく広く、そこから下へ長く伸びていく顔立ちなので、全体としてかなり長い顔なのでしょう。体は気の毒なほど痩せ、骨ばっていて、肩のあたりなどは痛々しいほどで、それが衣の上からでも分かりました。「どうして私は、ここまで残らず見てしまったのだろう」と思いながらも、あまりに珍しい姿なので、源氏はやはり目を向けずにはいられませんでした。
ただし、頭の形と髪の垂れかかる様子だけは、世間で美しいと評判の女性たちにも、ほとんど劣らないほど見事でした。髪は袿の裾にたまって引きずるほど長く、さらに一尺ほど余っているように見えます。
姫君の着ているものまで細かく言い立てるのは意地悪なようですが、昔物語でも、まず女性の装束から語るものです。姫君は、ひどく白っぽく色のあせた薄紅の聴色の一襲に、すっかり黒い袿を何枚も重ね、その上には黒貂の毛皮を着ていました。毛皮そのものはたいそう立派で、よい香りがします。どれも古風ながら由緒のある装束ではありますが、若い女性の身なりとしては、あまりにも大げさで似つかわしくなく、その異様さがかえって目立ちました。それでも姫君の寒々しい顔つきを見れば、この毛皮がなければ本当に寒かっただろうと思われ、源氏には気の毒にも感じられます。
あまりのことに、源氏自身まで口を閉ざしたような気分になりました。それでも、いつもの姫君の沈黙を何とか破ってみようと、あれこれ話しかけます。姫君はひどく恥ずかしがって、袖で口元を隠しました。その仕草まで田舎びて古めかしく、儀式に出る官人がものものしく肘を張って進み出るように見えます。しかも、それでも少し笑ってみせる様子はどこか取ってつけたようで、落ち着きません。源氏はますます気の毒で、いたたまれなくなり、前回にもまして早く帰りたくなりました。
「頼りになる方もいらっしゃらないあなたを、一度こうして知るようになった私には、もう少し親しい者として心を許してくだされば、本望に思うのですが。いつまでもお許しくださらないご様子なのが、つらいことです」
朝日さす軒の垂氷は解けながらなどかつららの結ぼほるらむ
――朝日が差せば軒のつららさえ解けていくというのに、どうしてあなたの心は、氷のように固く結ばれたままなのでしょう。
けれど姫君は、ただ、
「むむ」
と、口の中で笑うような声を出しただけでした。あまりにも口が重いのも気の毒になり、源氏はとうとうそのまま邸を出ました。
見捨てられない姫君
車を寄せてある中門は、ひどくゆがみ、倒れかかっています。夜の暗いうちは、荒れていることが分かっていても細かなところは隠れていましたが、朝になってみると、邸全体が本当に寂しく荒れ果てているのがよく分かりました。ただ松の木に積もった雪だけが、不思議に暖かそうに見えます。まるで山里のようで、なんとももの悲しい景色でした。
源氏は、雨夜の品定めで人々が話していた「葎に閉ざされた門」とは、きっとこのようなところなのだろうと思いました。もし本当に気の毒で愛らしい女性がここに住んでいて、その人のことが心配でならず、恋しくてならないと思えたなら、どれほど情趣があることだろう。そうなれば、あってはならないあの恋の物思いも、その人への思いに紛れて少しは薄れるかもしれない――。そう思わせる住まいなのに、そこに暮らす姫君のありさまは、どうにもこの景色に似合いません。
それでも源氏は、「私でさえ、こうして知り合って通うようになったからこそ、何とか見ていられるのだ。ほかの男なら、ましてこの人との関係に耐えられるだろうか。私がこうしてこの人を見慣れるまでになったのは、亡き父宮が『娘のことが心配だ』と思い残していかれた魂が、私をここへ導いたからなのかもしれない」と思いました。
雪に埋もれた橘の木があったので、源氏は随身を呼び、雪を払わせました。すると、その様子を羨むように、松の木が自分で起き返り、積もっていた雪をさっとこぼします。「名に立つ末の」という古歌の言葉まで思い出される風情です。源氏は、「それほど深い風流が分からなくてもよい。ただ、こんな場面に自然に言葉を返してくれるくらいの人であってほしかった」と、また残念に思いました。
車を出す門は、まだ開いていませんでした。鍵を預かっている者を探し出すと、驚くほど年老いた翁が出てきます。その娘でしょうか、孫でしょうか、子どもとも大人ともつかない年ごろの女もついてきました。衣は雪に濡れてひどく煤け、寒くてたまらないという様子で、粗末な器にほんの少しだけ火を入れ、それを袖の中に抱えています。翁一人では門を十分に開けられず、女もそばへ寄って手伝いますが、その様子もひどく不器用です。結局、源氏の供の者が寄ってきて門を開けました。
降りにける頭の雪を見る人も劣らず濡らす朝の袖かな
――雪が降り積もったような白髪の老人を見る私の袖も、その雪に劣らないほど、今朝は涙で濡れることです。
源氏はさらに、「幼い者には身を覆うものさえない」という古い詩の言葉を口ずさみました。すると、その言葉から、寒さが鼻の色にまで現れていた先ほどの姫君の顔がふと思い出され、思わずほほ笑んでしまいます。「これを頭中将に見せたら、いったい何にたとえて何を言うだろう。あの男はいつも私のあとをうかがっているから、今度こそ見つけられてしまいそうだ」。それも源氏には困ったことでした。
姫君がごく普通の身分の人で、ただこれといった美点がないというだけなら、源氏はそのまま見捨てて終わることもできたでしょう。ところが、はっきり姿を見てしまったあとは、かえって気の毒に思う気持ちが強くなりました。それからは恋人らしく通うというより、真面目に暮らしを気にかけるような形で、絶えず消息を送ります。黒貂の毛皮ではなく、絹や綾、綿など、年老いた女房たちが着るものまで考え、あの門番の翁にまで、上の者から下の者までそれぞれにふさわしい品を贈りました。
こうした実用的な世話なら、姫君も恥ずかしがったり嫌がったりする様子がありません。そこで源氏は安心して、「こういう面での後見人となって、この人を守っていこう」と決めました。そして普通なら恋人にまではしないような、暮らしの細かなところにまで立ち入った世話をするようになったのでした。
そんな折々に、源氏は空蝉を思い出しました。あの夜、くつろいだ空蝉を横から見たとき、顔立ちそのものは決して美しいとは言えませんでした。それでも身のこなしや振る舞いによって欠点が隠され、がっかりさせられるような女性ではなかったのです。身分だけを比べれば、末摘花が空蝉に劣るはずはありません。それなのに、これほど違って見える。女の魅力というものは、本当に身分だけでは決まらないのだと、源氏にも思い知らされました。
そして、穏やかでありながら、こちらを悔しがらせるほど芯の強かった空蝉の心を思い出します。「結局、私はあの人に負けたまま終わってしまったのだな」。何かの折ごとに、そんな思いが胸へ戻ってくるのでした。
年の暮れの贈り物と「末摘花」
そのまま年も暮れました。
ある日、源氏が宮中の宿直所にいると、大輔命婦が参りました。命婦は身近な御梳櫛の役目などにも出入りする女房で、源氏との間に恋愛めいたところはなく気楽な間柄でしたが、それでも源氏は時々冗談を言い、日ごろから用事を頼み慣れています。そのため、呼ばれていないときでも、申し上げたいことがあれば自分から参上するのでした。
「少し妙なことがございまして。申し上げないのもよくないと思い、どうしたものかと困っておりました」
命婦は少し笑いながら、なかなか話を始めません。
「何の話なのだ。私にまで隠すことはないだろう」
「もちろんでございます。自分自身の悩みでしたら、どれほど恐れ多くても、まずあなたさまに申し上げます。でも、これは本当に申し上げにくいことでして」
「またいつものように、思わせぶりなことを言って」
「あの宮さまからのお手紙でございます」
命婦が取り出すと、源氏は、
「それなら、なおさら隠しておくものではないだろう」
と言って受け取りました。その瞬間、命婦の胸はどきりとしました。
手紙は、厚くふっくらした陸奥紙に書かれ、香だけは深く焚きしめられています。文字も紙いっぱいに、しっかり書かれていました。
唐衣君が心のつらければ袂はかくぞそほちつつのみ
――あなたのお心が冷たいので、私の袂は、このようにいつも涙に濡れてばかりおります。
源氏は意味をつかみかねて、首をかしげました。すると命婦は、包みの中から、重々しく、いかにも古風な衣装箱を押し出しました。
「これを、どうして私が恥ずかしく思わずにいられましょう。でも、お正月にお召しになるお衣装として、わざわざご用意なさったようなのです。それをそのまま突き返すわけにもまいりません。一人で隠してしまえば姫君のお心に背くことになりますので、とにかくあなたさまにご覧いただこうと思いまして」
「おまえが一人で隠してしまったら、それこそつらかっただろうね。袖を重ねて乾かしてくれる人もない私には、本当にありがたいお心遣いではないか」
源氏は冗談めかしてそう言いましたが、それ以上は何とも言えません。「それにしても、なんという歌の言葉遣いだろう。これはどうやら、本当に姫君がご自分の力だけで書かれたものらしい。侍従が手直しをして差し上げるべきだったのに。いや、筆の後ろから添削してくれる先生まで必要だったのかもしれない」。源氏はもう、何とも言いようのない気持ちになりました。
それでも、姫君がこの歌を詠み出すまでに、どれほど一生懸命心を尽くしたのだろうと思うと、
「なるほど、こういう意味でも『たいした方だ』と言うべきなのだな」
と、ほほ笑みながら眺めます。命婦は恥ずかしくなり、顔を赤らめて源氏を見ていました。
箱に入っていたのは今様色の直衣でした。「今様」とはいうものの、見るに堪えないほど艶がなく古めかしく、表も裏も同じように濃い色で、全体にひどく野暮ったく見えます。源氏はあきれながら、姫君の手紙を広げたまま、その端へ手習いのように歌を書きつけました。
なつかしき色ともなしに何にこの末摘花を袖に触れけむ
――心引かれる色でもないのに、私はどうして、この末摘花――紅花のように赤い鼻をした人に、袖を触れるような縁を持ってしまったのだろう。
「もっと色の濃い、美しい花だと思っていたのだけれど」
源氏はそんな言葉まで書き添えました。命婦は、源氏がそこまで「花」のことを咎めるからには、何か理由があるのだろうと思い、月明かりなどの中で折々に見た姫君の姿を思い合わせました。気の毒ではありますが、どこかおかしくもなってきます。
紅のひと花衣うすくともひたすら朽たす名をし立てずは
――紅の花染めの衣が、たとえ薄い色であったとしても、その人の名まで完全に朽ちさせてしまうような評判だけは、お立てになりませんように。
「本当にお気の毒なことです」
命婦がすっかり慣れた調子で独り言のように歌うのを聞き、源氏は、特に上手な歌だとは思いませんでした。それでも、「姫君も、せめてこの程度に普通の受け答えをしてくれる人だったなら」と、返す返す残念に思います。姫君は高い身分の、いかにも気の毒な境遇の女性です。だからこそ、こんなことで悪い評判を立て、その名を傷つけてしまうことだけは、源氏もさすがにできません。
人々が参上してくる気配がしました。
「これは隠しておくべきだろうか。こんなことは、普通、人がするものなのだろうか」
源氏がうめくのを聞くと、命婦は、「どうしてこんなものを源氏の君にお見せしてしまったのだろう。私まで思いやりのない女のようではないか」と、ひどく恥ずかしくなり、そっと退出しました。
翌日、命婦が宮中に仕えていると、源氏が台盤所をのぞきました。
「ほら、昨日の返事だよ。妙に心を込めすぎて、遅くなってしまった」
そう言って手紙を投げ入れます。周囲の女房たちは、何のことだろうと知りたがりました。源氏は古歌の文句をもじりながら、
「ただ梅の花の色のごと、三笠の山の乙女をば捨てて」
などと口ずさみ、そのまま出ていきました。事情を知っている命婦には、おかしくてなりません。
「どうして、お一人で笑っているのです」
「何でもありません。寒い霜の朝に、掻練を好む花の色でもお見えになったのでしょうか。源氏の君の独り言の歌が、なんともお気の毒で」
「ずいぶん無理なこじつけですこと。この中には、そんなに赤く目立つ鼻の人などいないようですけれど。左近の命婦か、肥後の采女でも交じっていたのかしら」
皆は事情も分からないまま言い合いました。
源氏からの返事を常陸宮邸へ届けると、女房たちは集まって眺め、感心しました。
逢はぬ夜をへだつるなかの衣手に重ねていとど見もし見よとや
――会えない夜が重なり、私たちの仲を隔てているというのに、その間へさらに衣まで重ねて贈ってこられるとは、この衣を見て、ますますあなたのことを思えというのでしょうか。
白い紙へさらりと書き流してあるのが、かえって美しく見えました。
大晦日の夕方になると、今度は命婦が、源氏のために人から贈られた衣を一領と、葡萄染の織物の衣、それに山吹色らしいものなど、さまざまな衣を常陸宮邸へ届けました。女房たちにも、「以前姫君がお贈りした衣の色合いを、源氏の君はよくないと思われたので、今度はこちらから衣をくださったのだろう」と分かりました。
「でも、あのお衣は紅がずいぶん重々しい色でしたもの。そうはいっても、あの紅だけは、そう簡単には消えないでしょうね」
「お歌だって、姫君のお歌の方が、道理がはっきりしていて、しっかりしておりますわ。源氏の君のお返事は、ただ風流で美しいというだけで」
年を取った女房たちは、口々にそんなことを言いました。姫君にしてみれば、あれほど自分から思い切って歌を詠んだことはめったにありません。そのため、自分の歌を何かに書きつけ、大切に取っておいたのでした。
新年の再訪と紫の君
正月も何日か過ぎました。この年は男踏歌が行われることになっていて、例によってあちらこちらで管弦の遊びが盛んです。源氏の周りも騒がしい毎日でしたが、それでも、あの寂しい邸のことを思うと気の毒でなりません。七日の節会が終わり、夜になって御前から退出した源氏は、そのまま宿直所に泊まったように見せかけ、夜が更けてから常陸宮邸を訪れました。
以前のありさまに比べると、邸の中にも少し衣擦れの音がし、いくらか世間並みの華やかさが加わっています。姫君自身も、以前より少し柔らかな、世馴れた様子を身につけたようでした。源氏は、「この人がいろいろ改まり、すっかり変わったなら、どのくらいよくなるものだろう」と、また考え続けます。
日が差し出すころになっても、源氏はすぐには帰らず、少しためらうようにしていました。東の妻戸を押し開けると、向かいの廊は屋根さえなく荒れているので、日の光がすぐ近くまで差し込み、少し降った雪の反射もあって、寝殿の奥まではっきり見通すことができます。女房たちが源氏の直衣などを用意しているのを、姫君が少し身を乗り出し、横になったまま見ていました。その頭の形や、こぼれ出た髪の様子だけは、やはり本当に美しいものでした。
「これから先、この人が生まれ変わったように美しくなっていくところを見られたなら」
源氏はまたそんな期待を抱き、格子を引き上げました。ただし、前に姫君の姿をあまりにはっきり見てしまったことに懲りているので、今度は全部までは上げません。脇息を引き寄せて寄りかかり、自分の乱れた鬢の毛などを整えました。
姫君のそばには、ひどく古めかしい鏡台や唐櫛笥、髪を上げるための箱などが取り出されています。その中には、男物の道具らしいものまで、かすかに混じっていました。源氏は、そういうところだけはどこかしゃれていておもしろいと眺めます。今日の姫君の装束が以前よりずっと世間並みに見えるのは、大晦日に源氏が衣箱へ入れて贈った品を、そのまま着ていたからでした。ところが源氏自身は、そのことに少しも気づきません。ただ、ひときわ目立つ模様のついた表着だけを見て、「変わった衣だな」と思っていました。
「今年こそは、少しくらいお声を聞かせてください。そばに仕えている女房たちのことはさておいて、あなたご自身のお気持ちがどう変わったのか、それを知りたいのです」
「さへづる春は……」
姫君は、ようやくのことで、震える声を絞り出しました。
「ほら。年を重ねてきた甲斐があったというものですね」
源氏は笑い、「夢かと思うほどです」と古歌の言葉を口ずさみながら、邸を出ました。姫君はその姿を見送り、そのまま横になります。口元を隠した袖の横からは、やはりあの「末摘花」――赤い鼻が、ひときわ鮮やかに突き出していました。源氏には、やはり見苦しく思われたのでした。
二条院の紫の君
二条院へ帰ると、紫の君がいました。まだ大人になりきっていない、伸び盛りの少女です。その姿を見ると源氏には、「同じ紅という色でも、こんなに親しみ深く、美しいものもあるのだ」と思われました。紫の君は、模様のない桜色の細長を柔らかく着こなし、何のわだかまりもなく過ごしています。その姿は、本当に愛らしいものでした。
古風だった祖母君に育てられた名残で、まだ歯黒めもしていませんでしたが、源氏が今風に身なりを整えさせていたので、くっきりした眉もかわいらしく、清らかに見えます。源氏は、「自分から好きこのんで、どうしてこんなつらい世話まで背負い込んでいるのだろう。あんな気の毒な人のことまで見ていないで、こんなにかわいらしい子だけを見ていればよいのに」と思いました。
そう思いながら、いつものように紫の君と一緒に雛遊びをしました。源氏は絵を描き、それに色を塗って、さまざまに美しく遊び描きをしていきます。紫の君も、その横へ自分で描き添えました。源氏は髪のとても長い女を描き、その鼻へ紅をつけてみました。絵に描いてさえ、見るのが嫌になるような姿です。
ふと鏡台を見ると、そこには源氏自身の顔が映っています。それはたいそう清らかで美しいものでした。そこで源氏は、自分の鼻にも手ずから紅を塗り、赤くして鏡を見てみました。これほど整った顔でさえ、そこに赤い鼻が加わると、やはり見苦しくなりそうです。紫の君はそれを見て、大笑いしました。
「私が本当にこんな不格好な顔になってしまったら、どうしますか」
「そんなの、いや」
紫の君はそう答え、本当に紅が染みついて取れなくなるのではないかと心配そうにしています。源氏はわざと拭くふりをしながら、とても真面目な顔で言いました。
「ほら、ちっとも白くならない。つまらないいたずらをしてしまった。宮中で帝がご覧になったら、何とおっしゃるだろう」
紫の君は源氏が本当にかわいそうになり、そばへ寄って、鼻についた紅を拭いてあげました。
「平中のように、上から別の色まで塗り重ねないでくださいよ。赤いままなら、まだ何とかなるでしょう」
そんなふうに戯れ合う二人の姿は、たいそう仲むつまじく見えました。
外はたいそううららかな日でした。いつの間にか霞が一面に広がり、まだ芽吹かない木々の梢が待ち遠しく思われる中でも、梅だけは花を開きそうな気配を見せ、あたり一面でほほ笑んでいるように見えます。階段の覆いのそばにある紅梅は、特に早く咲く木なので、もう赤く色づいていました。
源氏はそれを見て、またあの鼻を思い出したのでしょう。
紅の花ぞあやなくうとまるる梅の立ち枝はなつかしけれど
――梅の枝そのものにはこんなに心引かれるのに、どういうわけか、その紅い花だけは嫌に思われてしまうことです。
「まったく、どうしたものだろう」
源氏は、関係もない梅にまでそんな思いを重ねてしまう自分に、思わずため息をつきました。
さて、こうした人々のその後は、いったいどうなったのでしょうか。

