
このページでは、『源氏物語』第10帖「賢木」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第10帖「賢木」原文全文をご覧ください。
野宮に六条御息所を訪ねる
斎宮の伊勢下向を前に
斎宮が伊勢へ下る日がいよいよ近づくにつれ、六条御息所はなんとも心細い思いでいらした。かつては、身分が高く、何かと気にかかる相手だと源氏が思っていた葵の上も亡くなったのだから、今度こそ御息所が大切にされるだろうと世間でも噂し、御息所の邸でもひそかに期待していた。ところが、葵の上が亡くなったあとになって、源氏の訪れはかえってすっかり途絶えてしまった。そのあまりの扱いに、あの方は本当に私のことを嫌になってしまったのだ、と御息所も思い知らされた。もう何もかも捨ててしまおう。そう心を決め、娘と一緒に伊勢へ下る支度に専念していらした。
斎宮の母親まで付き添って伊勢へ下るというのは、特に例のあることではない。それでも、とても一人で送り出せそうにない娘の様子を理由にして、このつらい世から遠く離れてしまいたいと御息所は思っていた。源氏のほうでは、さすがにこれきり遠く離れてしまわれるとなると惜しくてならず、いかにも情のこもった手紙だけは何度も送ってくる。けれど御息所は、今さら顔を合わせることなどあってはならないと思い定めていた。源氏のほうはもう自分を嫌な女だと思っているのかもしれない。それなのに会えば、自分のほうだけがいっそう心を乱されてしまう。それでは何にもならないと、懸命に心を強くしていたのだろう。
御息所がもとの六条の邸へほんのしばらく戻ることもあったが、ひどく人目を忍んでいたので、源氏はそれさえ知らなかった。野宮は源氏が気軽に出入りできる場所ではなく、そうして気がかりなまま幾月も過ぎていった。そのうえ桐壺院まで、重いご病気というほどではないものの、ときどき普段にないご不調がおありになる。源氏はますます気の休まる暇もなかった。それでも、このまま御息所にすっかり薄情な男だと思われてしまうのも気の毒だし、世間から見ても情けないことではないかと思い直し、とうとう野宮へ訪ねていった。
秋の野宮での再会
九月七日ごろのことである。伊勢への出発はもう今日か明日かというほどに迫り、御息所の側でも慌ただしい。ただ立ったままでもお目にかかりたい、と源氏からたびたび知らせがあったので、御息所も迷っていた。今さら会うなど、とためらいながらも、あまり頑なに拒み続けるのもどうだろう、せめて何かを隔てて話すくらいなら――と、人知れず源氏を待っていた。
源氏がはるかな野を分け入っていくと、その景色はひどく胸にしみた。秋の花はどれも盛りを過ぎ、浅茅の原も枯れかけている。虫の声に冷たい松風が吹き合わせ、何の音とも聞き分けられないほど遠くから楽の音が途切れ途切れに聞こえてくる。その風情が何ともいえず美しかった。親しい前駆が十人あまり、随身も大げさな装いを避け、源氏はずいぶん忍んで来たつもりだったが、こんなときにこそ念入りに整えた姿の美しさは隠しようもない。風流を解する供の者たちも、この場所の情趣まで加わった光景に感じ入っていた。源氏自身も、どうしてこれまで、もっとこの野宮へ足を運ばなかったのだろうと、過ぎてしまった日々が悔やまれた。
頼りなげな小柴垣を外囲いにして、ところどころに建つ板葺きの建物もひどく仮そめである。皮を剥がない黒木の鳥居がいくつも立ち並ぶさまは、さすがに神々しく、近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。神官たちがあちこちで咳払いをしたり、仲間どうしで話したりしている気配さえ、都の邸とはまるで違う。火焼屋にかすかな明かりが見えるばかりで、人の気配も少なく、ひっそりとしている。こんな場所で、あれほど物思いの深い御息所が長い月日を過ごしてきたのかと思うと、源氏はたまらなく気の毒になった。
北の対の目立たない場所に身を隠して取り次ぎを頼むと、それまで聞こえていた楽の音はすべて止み、奥からは上品な女房たちの気配がいくつも感じられた。人を介した挨拶ばかりで、御息所自身が出てくる様子がないので、源氏はじれったくなった。
「こうして女性のところまで出歩くのも、もう私には似合わない年になってしまったのですよ。それくらいおわかりなら、いつまでもこの注連縄の外に置いたままになさらないでください。胸につかえていることだけでも、すっかりお話ししてしまいたいのです」
源氏が本気で訴えるので、女房たちも「本当にお気の毒です。いつまでもあそこで立ってお待ちになるなんて」と御息所を促した。御息所は、ここの者たちの目にもどう映るだろう、源氏からも今さら若い娘のように出ていくと思われるのではないか、とためらった。気は進まない。それでも、あまりに情けなく突き放しきる強さもなく、しばらくため息をつきながら迷った末、そっと膝を進めて姿を現した。その気配だけでも、やはり奥ゆかしく美しい。
「こちらには、せめて簀子まで上がるくらいは許していただけますか」
そう言って源氏は簀子へ上がった。明るく差し出した夕月の光の中で、身を動かす姿も、そのあたりに漂う香りも、比べるものがないほど美しい。ここ数か月の積もる思いを、いかにもそれらしく恨みがましく並べるのも今さら気恥ずかしく、源氏は途中で折ってきた榊の枝を御簾の内へ差し入れた。
「この榊の変わらない色を頼りにして、とうとう神垣まで越えてきたのですよ。それなのに、ずいぶん冷たいではありませんか」
神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ
この神垣には、あなたを導く目印の杉などありませんのに、いったい何と取り違えて、その榊を折っていらしたのでしょう。
御息所がそう返すと、源氏もすぐに詠んだ。
少女子があたりと思へば榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ
ここは神に仕える乙女のいらっしゃるあたりだと思えばこそ、懐かしい榊の香りに心ひかれて、足を止めて折ったのです。
神域だけに周囲は何かと窮屈だったが、二人は御簾一枚を隔てただけで、源氏は長押に寄りかかって座っていた。
以前は、会おうと思えばいつでも会える人であり、御息所のほうから源氏を慕っているようにさえ思われていた。そのころの源氏は、自分にはまだいくらでも時間があるという気持ちで、さほど切実には思っていなかった。その後、胸のどこかに引っかかるものができてからは、御息所への思いも少しずつ冷め、こうして二人の間も遠くなってしまった。ところが久しぶりに向かい合うと、昔のことが次々によみがえってくる。これまでのことも、これから先のことも思えば、胸のうちは際限なく乱れ、源氏はとうとう堪えきれず泣いてしまった。
御息所も、自分までそんなふうには見せまいとこらえているようだったが、隠しきれない気配がある。それがかえって源氏には痛々しく、どうか伊勢へ行くことを思いとどまってほしいと、いっそう心を込めて語り続けた。いつの間にか月も沈んだらしい。もの悲しい秋の空を眺めながら源氏が恨み言を重ねると、御息所の胸に積もり積もっていたつらさも、消えてしまいそうになる。ようやくもうこの人を思うまいと心を離しかけていたのに、やはりこうなるのだ、とかえって心が揺れ、御息所もひどく乱れてしまった。
庭には殿上の若者たちが連れ立って、帰るに帰れず所在なげにしているらしい。その庭のたたずまいまで、なるほどここは何にもまして風情のある場所だと思わせる。二人は心残りのないほど言葉を交わした。その一つ一つを、ここでそのまま語り尽くすことなど、とてもできそうにない。
夜明けの別れ
やがて明けてゆく空は、まるでこの別れのためにわざわざ作り上げたのかと思うほど美しく、もの悲しかった。
暁の別れはいつも露けきをこは世に知らぬ秋の空かな
夜明けの別れはいつだって涙に濡れるものですが、今朝のこの秋空ほど悲しい別れは、これまで知りませんでした。
源氏はなかなか立ち去れず、御息所の手を取ったまま別れをためらっていた。その姿には、思わず心を寄せずにはいられない優しさがある。冷たい風が強く吹き、鳴き尽くしたような松虫の声まで、今の別れを知っているかのように聞こえた。何の物思いもない人でさえ聞き流せそうにない秋の声なのだから、まして二人の胸は激しく乱れている。言葉にしようとしても、かえって言葉にならない。
おほかたの秋の別れも悲しきに鳴く音な添へそ野辺の松虫
ただでさえ秋の別れは悲しいのです。野辺の松虫よ、これ以上その鳴き声まで悲しみに添えないでおくれ。
悔やまれることはいくらでもあったが、もうどうしようもない。すっかり明るくなった空の下にいつまでもいるわけにもいかず、源氏はようやく野宮を出た。帰り道は露にしっとりと濡れている。御息所も最後まで気丈ではいられず、別れたあとの寂しさに沈みながら、ぼんやりと外を眺めていた。
月明かりの中でほんの少しだけ見えた源氏の顔立ちや、去ったあとまで残っている香りに、若い女房たちはすっかり心を奪われていた。
「いったいどれほど遠い道なら、あんな方を置いて別れていく気になれるのでしょう」
などと、関係もないのに皆で涙ぐんでいる。
斎宮、伊勢へ下る
その後に届く源氏の手紙は、いつにもまして心のこもったものだった。御息所の心が傾いてしまいそうなほどである。それでも、今さら決心を翻して迷うようなことではないから、どうにもならない。男というものは、さほど思ってもいない相手にさえ、情というもののためならいくらでももっともらしい言葉を並べられるらしい。まして源氏にとって、御息所は決して世の中の女性の一人として軽く扱ってきた相手ではない。その人がとうとう自分から離れていこうとしているのだから、惜しくもあり、気の毒でもあり、心を悩ませたのだろう。
源氏は旅の装束をはじめ、付き従う女房たちの分まで、さまざまな道具を見事な品々で整えて贈った。けれど御息所には、何も心に響かなかった。これまで軽々しく情けない噂ばかり立てられ、こんな身になってしまったのだと、まるで今初めて思い知ったように、出発が近づくほど朝も夜も嘆いていた。斎宮のほうはまだ若く、それまで本当に伊勢へ行くのかどうかはっきりしなかった旅が、いよいよ現実のものとなっていくのが、ただうれしいらしい。母親が娘について伊勢まで下るという前例のないことを、世間では非難する者もいれば、気の毒がる者もいたことだろう。何をしても人から取り沙汰されずにすむ身分というのは気楽なものだ。かえって俗世から抜きん出た人の周囲ほど、何かにつけて窮屈なのである。
桂川の御祓
十六日、斎宮は桂川で御祓をなさった。いつもの儀式以上に盛大で、長奉送使をはじめ、ほかの上達部も、身分が高く評判のよい人々が選ばれている。桐壺院の特別なお心遣いがあったからだろう。いよいよ出発というころ、源氏からまた例によって、尽きることのない思いを書き連ねた手紙が届いた。
「口にするのも恐れ多い神前で――」
などと木綿に結びつけ、「雷神でさえ人の仲を取り持つというのですから」といった言葉に続けて、歌があった。
八洲もる国つ御神も心あらば飽かぬ別れの仲をことわれ
この国を守る神々にも人の心がおありなら、まだ思いの尽きないまま別れなければならない私たちの仲を、どうか正しく裁いてください。
「考えても考えても、まだ思い残すことばかりです」
慌ただしい最中だったが、返事は届けられた。斎宮からの返事は女別当が書き取ったものだった。
国つ神空にことわる仲ならばなほざりごとをまづや糾さむ
国つ神が天上から人の仲を裁いてくださるのなら、まずはあなたの口先だけの言葉から、お調べになるのではありませんか。
源氏は斎宮の様子が見たくて、宮中へも出向きたい気持ちになったが、取り残された男がわざわざ見送りに出ていくのも格好が悪い気がして、結局出かけず、一人もの思いにふけっていた。斎宮からの返歌が年齢のわりにずいぶん大人びているのを、微笑みながら眺めている。まだお若いのに、なかなか風情のわかる方になられそうだ、と妙に心をひかれてしまう。
こういう、普通なら面倒で近づきにくい相手にかぎって、かえって心を動かされてしまうのが源氏の困った癖である。幼かったころなら、いくらでも近くで見ることができたのに、その時にはよく見ておかなかったことまで惜しく思われる。世の中はどう変わるかわからないのだから、いつかまた顔を合わせることもあるだろう、などと考えていた。
都を離れる母と娘
斎宮の母娘にはもともと品格と風情があったので、この日は見物の車も数多く出た。申の刻に宮中へ参内する。御息所は輿に乗りながら、亡き父大臣が自分をこの上ない后の位にまで進ませたいと願い、大切に育ててくれたころを思い出していた。あれから何もかも変わってしまった。人生の終わりに近づいた今、こうして再び宮中を見ることになったと思うと、次から次へと感慨がこみ上げてくる。十六歳で亡き東宮のもとへ入り、二十歳で死別し、三十歳になった今日、再び九重の宮中を目にするのである。
そのかみを今日はかけじと忍ぶれど心のうちにものぞ悲しき
昔のことは今日は思い出すまいと堪えているのに、それでも心の奥では、どうしても悲しさがこみ上げてきます。
斎宮は十四歳になっていた。とても愛らしい少女を、母の御息所がこの上なく美しく正装させているので、恐ろしいほど神聖な美しさに見える。帝も思わず心を動かされ、別れの櫛をお挿しになるときには、しみじみと悲しくなって涙を流された。
斎宮が宮中を出るのを待つ車が八省院にずらりと並び、その車から見える女房たちの袖口も、色合いも、普段とは違った趣があった。殿上人の中にも、個人的に別れを惜しむ者が多かった。暗くなってから一行は宮中を出て、二条から洞院大路へ折れる。ちょうど二条院の前を通るので、源氏はたまらなくなり、榊の枝に歌をつけて送った。
振り捨てて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖は濡れじや
今日は私を振り捨てて旅立ってしまわれるとしても、鈴鹿川の幾重もの瀬を越えていくうちに、別れの涙であなたの袖も濡れずにはいられないでしょう。
その夜は暗く、旅立ちの騒ぎの最中でもあったので、返事は翌日、もう関の向こうへ出てから届いた。
鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず伊勢まで誰か思ひおこせむ
鈴鹿川の幾つもの瀬で、袖が濡れようと濡れまいと、伊勢まで行ってしまった私のことを、いったい誰が思い続けてくれるというのでしょう。
言葉少なに書かれた手紙だったが、その筆跡はじつに優雅で、なまめかしい。もう少しだけでも、別れを惜しむ気持ちを見せてくださったなら、と源氏は思った。深い霧の降りた、ただならぬ風情の朝である。源氏は外を眺めながら、独りごとのように詠んだ。
行く方を眺めもやらむこの秋は逢坂山を霧な隔てそ
せめてあの人たちの行く方を遠くまで眺めていたい。この秋だけは、逢坂山よ、どうか霧でその姿を隔てないでおくれ。
その日は西の対にも行かず、誰のせいでもない自分自身の寂しさを抱えて、一日中ぼんやりと過ごした。都に残った源氏でさえこれほどなのだから、旅の空にいる御息所には、どれほど心を痛めることが多かっただろう。
桐壺院の崩御
帝と春宮への遺言
十月になると、桐壺院のご病気はたいへん重くなった。世の中で院を惜しまない人は一人もいない。帝も深く嘆き、院の御所へ行幸なさった。院は弱りきったお体で、まず春宮のことを何度も何度も帝に頼み、その次には源氏のことをお話しになった。
「私が生きていたころと変わらず、大小にかかわらず、何事でも源氏を頼りにして相談なさい。まだ若いが、年齢のわりには政を任せてもさほど不安のない人物だと私は見ている。あれには、必ずこの国を支えることになる相がある。だからこそ、かえって面倒を避けるために親王とはせず、臣下の身分のまま朝廷を支えさせようと思ったのだ。その私の考えを、どうかお違えにならないように」
ほかにも胸を打つ遺言が数多くあったのだろうが、女の語り手がすべてをそのまま伝えるようなことでもないので、これだけを記すのさえ少し差し出がましい。帝はひどく悲しみ、決して院のご遺志には背かないと、繰り返しお約束になった。成長なさった帝のお顔がますます美しくなられたのを、院はうれしく、頼もしくご覧になった。けれど行幸には決められた時間がある。急いで宮中へ戻らなければならないことが、かえってさまざまな悲しみを深くした。
院は春宮にも同じ日に会いたいと思っていらしたが、あまり騒がしくなるので日を改め、春宮がお見舞いにいらした。年齢のわりに大人びていながら、たいそう愛らしいお姿である。院を恋しく思っていた日々が積もっていたので、ただ無邪気にうれしそうに院を見つめる様子が、たまらなく哀れだった。藤壺の中宮は涙に沈んでいる。その姿も目に入り、院のお心はいくつもの思いに引き裂かれていく。
院は春宮にさまざまなことを言い聞かせたものの、まだ幼い。これから先のことが心配で、悲しくてならない。源氏にも、朝廷に仕えるうえで心がけること、何よりこの春宮の後見をすることを、繰り返し言い残された。夜が更けてから春宮は帰っていった。人々が残らずお供して大騒ぎする様子は、帝の行幸にも見劣りしない。それでも院には、あまりにも短い対面だった。
院の死と藤壺の悲しみ
弘徽殿の大后も院へ参ろうとしたが、藤壺の中宮がずっと付き添っていることが気に入らず、ためらっていた。そうしているうちに、院はひどく苦しまれる様子もないまま、静かに亡くなってしまわれた。
足が地につかないほど取り乱す人が大勢いた。院は皇位を退いたとはいっても、政治を鎮め、世の中を支えておられたことは、在位中とほとんど変わらなかった。今の帝はまだ若く、その祖父である右大臣は気が強く、容赦のない人である。この先、すべてが右大臣の思うままになる世の中はどうなってしまうのだろうと、上達部も殿上人も皆、不安に思い嘆いた。
藤壺の中宮と源氏の悲しみは、言うまでもなく誰より深かった。その後の法要でも、数多い親王たち以上に心を尽くして院に孝養を捧げる二人を、当然とはいいながら世間の人々も胸を打たれながら見ていた。藤色の喪服に身を包む源氏は、限りなく美しく、それだけに痛々しい。去年、今年と続けて大切な人の死を経験し、世の中そのものがひどく味気ないものに思われた。こういう折には、いっそ出家してしまおうという思いもまず浮かぶ。それでも源氏をこの世につなぎとめるものは、あまりにも多かった。
四十九日までは、女御や御息所たちも皆、院の御所に集まっていたが、それを過ぎるとそれぞれの邸へ戻っていった。十二月二十日、世の中全体が一年を閉じようとする空の色さえ物悲しい。そのうえ藤壺の胸には、晴れる時などなかった。弘徽殿の大后が自分をどう思っているかもよく知っている。これから大后が思うままに振る舞う世の中で、居心地の悪い思いをしながら生きることもつらい。それ以上に、長い年月そばにいた院の面影を、ほんの一時も忘れることができない。もう院の御所に留まることもできず、皆が別々の場所へ去っていく。その別れの悲しさは限りなかった。
中宮は三条宮へ移ることになった。迎えには兵部卿宮がいらした。雪がちらつき、風は激しく、院の御所からは少しずつ人の姿が消え、ひっそりとしていく。そこへ源氏も来て、兵部卿宮と昔の思い出を語り合った。庭先の五葉松が雪の重みでしおれ、下葉が枯れているのを見て、兵部卿宮が詠んだ。
蔭ひろみ頼みし松や枯れにけむ下葉散りゆく年の暮かな
大きな木陰を頼りにしてきた松まで枯れてしまったのでしょうか。その下葉が散ってゆく、悲しい年の暮れです。
何ということのない歌なのに、この折にはたまらなく胸に迫り、源氏の袖はひどく濡れた。池には隙間もないほど氷が張っている。
さえわたる池の鏡のさやけきに見なれし影を見ぬぞ悲しき
澄みきって鏡のようなこの凍った池はこんなにはっきり見えるのに、そこにいつも見慣れていたあの方のお姿がもう映らないことが悲しいのです。
思うままにこんな歌まで口にする源氏は、少し若々しすぎるようでもある。王命婦も詠んだ。
年暮れて岩井の水もこほりとぢ見し人影のあせもゆくかな
年も暮れ、岩間の井戸の水まで凍り閉ざされました。そこに見慣れていたあの方の面影まで、次第に薄れていくようで悲しく思われます。
この折に詠まれた歌はほかにもたくさんあったが、何もかも書き続けていてはきりがない。中宮が三条宮へ移る儀式そのものは以前と変わらなかったのに、皆の心のせいか、ひどく寂しく見えた。久しぶりに戻った昔の宮も、中宮にはかえって旅先のように感じられたことだろう。それほど長く、ここでの里住みから離れていたのだから。
院なきあとの宮廷
勢いを増す弘徽殿方
年が改まっても、世の中には華やいだ空気がなく、静まり返っていた。源氏はとりわけ気が塞ぎ、邸に引きこもっている。除目のころになっても、院がお元気だったころはもちろん、その後も長年変わらぬ賑わいを見せていた源氏の門前から、馬や車が目に見えて減っていた。宿直に来る者の荷物もほとんど見えず、親しい家司だけが、特に急ぐ用事もない様子で出入りしている。それを見るにつけても、これから自分の周囲はずっとこうなっていくのだろうかと先が思いやられ、源氏はやりきれない気持ちになった。
二月には御匣殿が尚侍となった。前の尚侍が院の喪にそのまま尼となったため、その後任である。身分も高く、人柄もよかったので、宮中へ参る多くの女性の中でも抜きん出て帝の寵愛を受けた。弘徽殿の大后は里邸にいることが多く、参内した際には梅壺を局としていたため、弘徽殿には尚侍の君が住んでいる。それまで目立たなかった登花殿も急に華やかになり、大勢の女房が集まって、何もかも今風に賑わっていた。それでも尚侍の胸からは、かつて思いがけず起こった源氏とのことが消えず、ひそかに手紙を交わす関係は続いていたらしい。
噂になったらどうなるだろうと源氏も思わないわけではない。けれど、こういう危険なことになるとかえって思いが募るのが、いつもの癖でもあった。桐壺院がいらしたころにはまだ遠慮もあったが、今は弘徽殿の大后の気性が激しく、これまで胸に積もらせてきた恨みの数々を、いつか晴らしてやろうと考えているらしい。何かにつけて源氏に不快なことばかり起こる。こうなることは予想していたとはいえ、これまで経験したことのない世の冷たさに、源氏はどう振る舞えばよいのかさえわからないほどだった。
左大臣も世の中が面白くなく、宮中にはほとんど参らなくなった。亡き葵の上を、弘徽殿方ではなく源氏に嫁がせた左大臣の判断を、大后は今も快く思っていない。もともと左大臣と右大臣の仲はよそよそしかった。それでも桐壺院の御代には左大臣が思うままに政を行っていたのに、時代が変わった途端、右大臣が得意顔で権勢を振るう。それを左大臣が面白くなく思うのも無理はなかった。
源氏はそれでも以前と変わらず左大臣邸へ通い、亡き葵の上に仕えていた人々のことまで以前以上に細やかに気を配った。若君をこの上なく大切にしているので、左大臣家の人々も、なんと情の深い方だろうとますます源氏を大切にした。以前はあまりにも世間の注目を集め、忙しすぎるほどあちこちへ通っていた源氏だったが、このころには足が遠のく場所も多くなった。気軽な忍び歩きもつまらなく思えてほとんどしない。そのため生活はかえって落ち着き、今になって理想的ともいえる暮らしぶりになっていた。
西の対の姫君――紫の上――の幸せを、世間の人々も褒めた。少納言などは、人知れず、亡き尼君の祈りが届いたのだと思っている。父の兵部卿宮とも、今では望んでいたように行き来するようになった。その一方、正妻の腹に生まれた自慢の娘たちは思うようにいかないことも多く、継母の北の方には紫の上が面白くないことだろう。まるで物語がわざわざ作ったような境遇である。
賀茂の斎院が服喪のため退いたので、朝顔の姫君が代わって斎院となった。天皇家の孫にあたる女性が賀茂の斎院になる例はそれほど多くないが、ほかに適当な内親王がおられなかったのだろう。源氏は長年たっても朝顔への思いを捨ててはいなかったので、とうとう神に仕える身になってしまったことを残念に思った。それでも斎院付きの中将へ便りを送り、朝顔本人への手紙も絶やさなかったようである。自分の境遇が昔と変わったことなどにはそれほど心を向けず、こうした恋の悩みばかりを、気を紛らわせる仕事が少なくなったぶん、あちらこちらと思い続けているのだった。
尚侍の君との密会
帝は桐壺院の遺言を忘れず、源氏のことを深く思ってくださっていた。けれどまだお若いうえ、性格もあまりに柔らかく、強く押し切るところがおありにならない。母の弘徽殿大后と祖父の右大臣がそれぞれ決めたことに逆らうことができず、政治は必ずしも帝ご自身の心のままには動かなかった。
源氏にとって何かと窮屈なことばかり増えていったが、尚侍の君とは人知れず心が通じ合っているので、それだけは完全に寂しいわけではない。五壇の御修法が始まり、宮中が慎みの空気に包まれた隙をうかがい、源氏はまた夢のような逢瀬を重ねた。昔のことが思い出される細殿の局へ、中納言の君が人目を紛らわせながら源氏を案内した。人の出入りが多い時期なので、いつもより人に近い場所で忍び合うのは、考えるだけでも恐ろしい。
毎朝毎晩見ている人でさえ見飽きることのない源氏なのだから、めったにしか会えない尚侍の君との対面が、心のこもらないものになるはずもない。尚侍の君も、まさに女盛りの美しさだった。重々しい貫禄という点ではどうかわからないが、優雅で若々しく、いつまでも見ていたくなるような魅力がある。
まだそれほど時もたたないうちに、もう夜が明け始めたのかと思われた。そのすぐ近くで、男の声がした。
「宿直の者、参っております」
このあたりに身を潜めている近衛の者なのだろう。きっと気の利かない仲間が、わざとこちらへ行って時刻を知らせてこいとでも教えたのだ、と源氏には聞こえた。可笑しくもあり、困りもする。男はあちこち歩いて時刻を告げ、やがて「寅一つ」と声を上げた。
尚侍の君が詠んだ。
心からかたがた袖を濡らすかな明くと教ふる声につけても
自分から招いたこととはいえ、あれこれと涙で袖を濡らしてしまいます。夜が明けると知らせるあの声を聞くだけでも。
どこか頼りなげに口にする姿が、とても魅力的だった。源氏も返す。
嘆きつつわが世はかくて過ぐせとや胸のあくべき時ぞともなく
私はこうして嘆いてばかりの人生を過ごせというのでしょうか。胸の思いが晴れる時など、いつになっても来ないままに。
落ち着かないまま源氏は退出した。まだ夜の深い暁月夜で、あたりには言いようもなく霧が立ちこめている。源氏は目立たない装いをし、振る舞いまで忍びやかにしていたが、それがかえって比べるもののない美しさだった。ちょうど承香殿の女御の兄である藤少将が藤壺のほうから出てきて、月影の少し暗い立蔀のあたりに立っていた。源氏はそれに気づかず通り過ぎてしまったらしい。あとで何かと噂の種にされたことだろう。
こうしたことがあるたび、源氏は朝顔の姫君のように自分からきっぱり離れ、少しもなびかない女性の心を、なるほど立派なものだと感心もする。それでも、自分の恋心の向かう相手として思えば、やはりつれなく恨めしいと感じることも多かった。
藤壺との危うい再会
拒み続ける藤壺
藤壺の中宮は、今となっては宮中へ参ることそのものを気詰まりで窮屈に思うようになり、春宮になかなか会えないことを心細く感じていた。頼りにできる人もほかにはおらず、何事につけても源氏だけを頼りにしていたのだが、その源氏の困った恋心がまだ消えていない。少しでもその気配を悟られたらと思うだけで、胸がつぶれるほど恐ろしかった。
以前のことを桐壺院にまったく知られないまま終えられただけでも、思い出すと身がすくむ。今さらまた同じような噂が立てば、自分自身はどうなってもよいとして、春宮のために必ずよくないことが起こるだろう。それが何より恐ろしい。藤壺は祈祷までさせ、どうにかして源氏にこの思いを断ち切らせようと、考えられるだけの方法で逃れ続けていた。
それなのに、いったいどんな機会を見つけたのか、源氏はある時、思いもよらないほど奥深くまで忍び込んでしまった。よほど周到に計画したのだろう、事情を知る者は誰もなく、まるで夢の中の出来事のようだった。
源氏は言葉では言い尽くせないほど思いを訴え続けたが、藤壺は以前にもましてはっきりと拒み続けた。ついにはひどく胸を痛め、苦しみ始めてしまう。近くに控えていた命婦や弁たちは驚いて介抱した。源氏は、つらい、あまりに冷たい、と藤壺を恨む思いでいっぱいになり、過去も未来も真っ暗になったような気がして正気を失ってしまったのか、とうとう夜が明けてもそこから出られなくなった。
藤壺の急な不調に驚いた女房たちが次々に近くへ集まってきたため、源氏はどうすることもできず、塗籠の中へ押し込まれた。源氏の衣を隠して預かっている女房たちも、生きた心地がしない。藤壺はただでさえ心を痛めていたところへ、気まで上がってしまい、なお苦しそうである。兵部卿宮や大夫まで駆けつけ、「僧を呼びなさい」などと騒いでいる声を、源氏は塗籠の中でいたたまれない思いで聞いていた。ようやく夕方近くになって、藤壺の容体は少し落ち着いた。
まさか源氏が塗籠に隠れているとは誰も思っていない。女房たちも、これ以上藤壺を動揺させまいと、源氏がいることを知らせなかったのだろう。藤壺は昼の御座へ出てきた。少しよくなられたようだというので、兵部卿宮も退出し、御前には人が少なくなった。もともと藤壺はすぐそばに人を置くことを好まないので、女房たちは屏風や物陰に控えている。
命婦たちは小声で、「どうやって大将をお出ししましょう。今夜までいらしたら、また宮のお加減が悪くなってしまいます」と相談している。源氏は塗籠の戸が少しだけ開いているのを見つけ、そっと押し開け、屏風の間を伝って藤壺の近くへ入っていった。久しぶりにまともに姿を見られたことがうれしく、その顔を見るだけで涙が落ちた。
「まだひどく苦しいのです。もう私の命も終わりなのかもしれません」
そう言って外を眺める藤壺の横顔は、言葉では表せないほど優美だった。少しでも何か召し上がっていただこうと果物が用意され、箱の蓋などにも美しく盛られていたが、藤壺は見向きもしない。この世のことを深く思い悩みながら、静かにもの思いに沈んでいる姿が、たまらなく可憐に見える。
髪の生え際や頭の形、御髪のかかり具合、その限りない艶やかさは、西の対の紫の上と見分けがつかないほどよく似ていた。長い間、藤壺の姿を間近に見ることがなく、その面影を少し忘れかけていた源氏は、こんなにも似ていたのかと改めて驚いた。気高く、見る者を気後れさせるところまで二人はよく似ている。それでも、幼いころからこれ以上ないほど思い詰めてきた源氏の心のせいだろうか。藤壺には紫の上とはまた違う、年を重ねて深まった比べようのない美しさがあるように思われた。
源氏はまた心を抑えられなくなり、そっと御帳の中まで入り、藤壺の衣の裾を引いた。はっきり人の気配がして、源氏の香りがさっと漂ったので、藤壺は驚き、恐ろしさにそのまま伏してしまった。せめてこちらを向いてくださればいいのに、と源氏は恨めしくなり、引き寄せようとする。藤壺が衣だけを脱ぎ残して膝で逃れようとしたとき、思いがけず御髪まで源氏の手に絡んでしまった。藤壺は、これほど逃れようとしても逃れられない自分の運命を思い知らされたようで、たまらない思いになった。
いつもなら世間に対して落ち着ききっている源氏も、今はすべての自制を失い、正気とは思えないほどだった。泣きながら、これまでの恨みを限りなく訴え続ける。藤壺は本当に不快に思い、返事さえしようとしない。
「今は本当に具合が悪いのです。こういう時でなければ、またお話もいたしましょう」
そう言っても、源氏の言葉は尽きない。その中には、さすがに藤壺の胸にも痛く響くものがあったのかもしれない。初めて起こったことではない。それでも改めてこうして向き合うと、どうしようもなく悔しく思われる。藤壺は優しい言葉も交えながら、じつに巧みに源氏を遠ざけ、また夜が明けようとしていた。
あまりにきっぱり拒み続けるのも気の毒に思われるほど、源氏の気配には人を圧するものがある。
「せめてこれくらいの距離で、ときどき胸に積もるつらさをお話しできるのなら、それだけで私は救われます。もうそれ以上の身のほど知らずな望みなど持ちません」
などと、ひとまず安心させるようなことを源氏は言ったのだろう。普通の男女でさえ、こんなふうに会うことの難しい仲には格別の情が添うものだ。まして二人の間にあるものは、ほかに例のないほど深かった。
とうとう夜がすっかり明けてしまい、二人は胸のうちにあるものを語った。藤壺は半ば死んだ人のように憔悴している。その様子があまりに痛々しい。
「こんなことが世間に知られ、生きている人間として人の耳に入るくらいなら、いっそこのまま死んでしまいたいと思います。でも自ら命を捨てれば、それはそれで来世まで背負う罪になってしまうでしょう」
そこまで思い詰めて言う藤壺の様子は、源氏が恐ろしくなるほどだった。
逢ふことのかたきを今日に限らずは今幾世をか嘆きつつ経む
あなたにお会いすることがこれほど難しいのが今日だけではないのなら、私はあと幾つの世を、こうして嘆きながら過ごさなければならないのでしょう。
「こんな私の思いが、あなたが世を捨てるときの妨げにまでなってしまうのでしょうか」
源氏がそう言うと、藤壺もさすがにため息をついた。
長き世の恨みを人に残してもかつは心をあだと知らなむ
たとえこの先長い世にわたる恨みをあなたの胸に残すことになっても、その一方で、ご自分の心こそ頼りないものだと知ってください。
かすかな声で詠む藤壺の姿には言葉もないほど心を引かれたが、この場にいる人々がどう思うか、自分自身の立場がどうなるかを考えれば、これ以上留まってはいられない。源氏は自分が自分でないような思いで、ようやく退出した。
出家を思う藤壺
これほどのことをして、いったいどんな顔でまた藤壺の前へ出られるというのだろう。少しは自分のしたことを思い知るべきだ、と源氏は考え、手紙さえ送らなくなった。宮中にも春宮のもとにも参らず、邸にこもったまま、あれほど強く拒み続ける人の心というものがあるのかと、恨めしくも恋しくも悲しく思い続ける。魂まで抜けてしまったのか、体まで具合が悪くなった。
こんなに心細く、世に生きているかぎりつらさばかりが増すのなら、と出家を思うこともある。けれど、紫の上があまりにも可憐な様子で、心から自分を頼りにしている。その人を振り捨ててしまうことは、どうしてもできなかった。
藤壺もあの夜のあと、いつものようには過ごせなかった。源氏がわざとらしいほど邸にこもり、何の便りも寄こさないのを、命婦たちは気の毒に思っている。藤壺自身も、春宮のためを思えば、源氏が自分に恨みを抱くようになるのは困る。世の中をすっかり嫌になり、そのまま本当に出家を決心してしまうこともあるかもしれない。それを思えば、やはり苦しかった。
けれど、こんなことが続けば、ただでさえ厳しくなった世の中で、さらに悪い噂まで外へ漏れてしまう。弘徽殿の大后が、自分にはふさわしくないとまで言っている中宮の位も、いっそ捨ててしまおうと藤壺は次第に思うようになった。桐壺院が生前、春宮と自分のことをどれほど深く案じていたかを思い出すにつけても、何もかもが昔のままではなく、世は変わっていくのだと思い知らされる。
漢の戚夫人が受けたような恐ろしい目にまで遭うことはないとしても、このままではいつか必ず人の笑いものになるようなことが起こるだろう。そう思うと、この世が疎ましくてたまらない。藤壺は出家しようと心を決めかけたが、春宮のお姿を見ないまま自分の姿を変えてしまうことだけは、どうしても悲しく思われた。そこで人目を忍んで宮中へ参った。
源氏は普段なら、藤壺のためなら思いつくかぎり何でも世話をするのに、このときは体調が悪いことを理由に、送り迎えにも姿を見せなかった。それでも表向きの気遣いは以前と変わらない。ただ源氏の本心を知る人々は、すっかり気落ちしてしまった様子を気の毒に思っていた。
春宮はますます愛らしく、少し大人びていらした。久しぶりに藤壺が来たのを心から喜び、甘えるようにそばを離れない。その姿を愛しく見つめれば、出家の決意も揺らいでしまう。けれど宮中の様子を見れば、世の中はなんと頼りなく、移り変わることばかりなのだろうと思わずにはいられない。弘徽殿大后の心もひどく厄介で、こうして出入りするだけでも居心地が悪い。何につけても苦しく、春宮の将来まで危うく恐ろしく思われ、藤壺の心は千々に乱れた。
「もし私を長いことご覧にならないうちに、姿が今とは違って、ひどく変わってしまっていたら、どう思われますか」
藤壺が尋ねると、春宮は母の顔をじっと見つめた。
「式部のようになるのですか。どうして母上がそんなふうになるのです」
笑いながらそう答える。あまりに幼く、愛しくてならない。
「あの人は年を取っているから、ああいう姿なのですよ。私はそうではなくて、髪をもっと短く切り、黒い衣などを着て、夜居の僧のような姿になろうと思っているのです。そうなれば、あなたにお会いすることも、今よりずっと少なくなってしまいますよ」
そう言って藤壺が泣くと、春宮も急に真顔になった。
「長くいらっしゃらないだけでも、私は恋しいのに」
そう言った途端に涙が落ちたので、春宮は恥ずかしそうに顔を背ける。その御髪はゆらゆらと美しく、目元は柔らかく、成長するにつれて顔立ちは、まるであの方の面影をそのまま写し取ったようになってきていた。少し虫歯になった歯のせいで口元が黒み、笑ったときにこぼれる愛らしさまで、女の子だったならいつまでも眺めていたくなるほど美しい。
それにしても、ここまでよく似てしまわれるとは――。藤壺には、その一点だけが完璧な玉にできた傷のように思われた。その似姿を誰かに見とがめられることを考えると、世の中そのものが空恐ろしくなってしまうのだった。
雲林院の日々
紫の上への手紙
源氏は藤壺をひどく恋しく思っていたが、あれほどまでに自分を拒んだ心を、ときには少し思い知らせたいという気持ちもあって、じっと我慢して日を過ごしていた。それでも人目にもわかるほど寂しく、退屈になったので、秋の野を見るついでに雲林院へ参詣した。
亡き母・桐壺更衣の兄にあたる律師が籠もっている坊に泊まり、仏の教えを読み、勤行をしてみようと思ったのである。二、三日そこに滞在していると、胸にしみることばかりだった。紅葉はしだいに山一面へ色を広げ、秋の野はしっとりと美しい。眺めているうちに、都の家のことさえ忘れてしまいそうになる。
学識のある僧たちを呼び集め、論議をさせて聞いた。こんな山寺にいるせいもあって、世の中の無常を一晩中考え続ける。けれど夜明け近くの月影を見れば、どういうわけか、やはりあのつれない人のことが思い出される。僧たちが閼伽を供えるため、からからと器を鳴らしながら、菊の花や濃淡さまざまな紅葉を折って散らしている。ささやかな営みなのに、それさえ心に響いた。
「こういう暮らしなら、この世でも退屈することはないし、来世のことまで頼もしい。それなのに私は、どうしてこんなつまらない身のことで苦しんでいるのだろう」
源氏はそんなことを考え続けた。律師がじつに尊い声で「念仏する衆生を、仏は摂め取って捨てない」と唱えながら勤行するのを聞くと、心からうらやましくなる。自分もいっそ、と心が動いたその瞬間、何より先に紫の上のことが胸に浮かぶのだから、まったく困った心である。
いつもより長く離れていると、紫の上のことばかりが気になり、手紙だけは頻繁に送った。
「本当に都を離れてしまえるものか試してみようと思って来た道なのですが、退屈は紛れないどころか、かえって心細さが増してしまいました。途中まで聞いていた仏の教えがあって、もう少しここに留まっています。あなたはどうしているでしょう」
そんなことを陸奥紙にさらりと書いている、その筆跡まで見事だった。
浅茅生の露のやどりに君をおきて四方の嵐ぞ静心なき
浅茅に宿る露のように頼りない都の住まいにあなたを一人残してきたので、四方から吹きつける嵐が気になって、私は少しも心が休まりません。
細やかな心のこもった手紙に、紫の上も泣いた。返事は白い色紙に、歌だけが書いてある。
風吹けばまづぞ乱るる色変はる浅茅が露にかかるささがに
風が吹けば真っ先に乱れてしまうのは、色まで変わりやすい浅茅の露にかかった蜘蛛の糸。そんな頼りないものに、どうして心を預けられるでしょう。
「字はますます上手になっていくな」
源氏は一人そうつぶやき、愛しそうに微笑んだ。いつも互いに手紙を書き合っているので、紫の上の字は源氏の手にとてもよく似てきていた。ただそれより少し柔らかく、女性らしい優美さが加わっている。何につけても、まずまず立派に育てることができたものだと、源氏は満足していた。
斎院・朝顔への便り
雲林院から斎院のいるあたりも、風が吹き交わすほど近い。源氏は朝顔の姫君にも便りを送った。まず斎院付きの中将の君へ、
「こんな旅の空に来て、もの思いに心までさまよっているのですが、あなたがたには、私の気持ちなどわかっていただけないのでしょうね」
などと恨み言を書き、朝顔本人には、
かけまくはかしこけれどもそのかみの秋思ほゆる木綿襷かな
神に仕えるあなたへこんなことを申し上げるのは恐れ多いのですが、木綿襷を見ると、昔のあの秋のことが思い出されてなりません。
「昔を今に取り戻したいと思っても、どうにもならないことなのでしょう。まるで昔が返ってくるもののように思ってしまいます」
ずいぶん親しげに、唐の浅緑の紙を使い、榊に木綿をつけるなど神事らしい趣向まで凝らして送った。中将からの返事には、
「何にも心を紛らわせることがなく、昔のことばかり思い出しておりますので、あなたのことを思いやることも多いのですが、何を申し上げても甲斐のないことばかりで」
などと、少し心を込めた言葉がいろいろ書かれていた。朝顔からの返事は、木綿の端にただ一首。
そのかみやいかがはありし木綿襷心にかけてしのぶらむゆゑ
その昔が、いったいどうだったというのでしょう。木綿襷を心にかけてまで思い出してくださる理由など、私にはわかりません。
「つい最近のことですのに」
とある。筆跡は細やかな美しさではないが、よく練れていて、草書などもじつに見事になっていた。朝顔も以前よりずっと美しく成長したことだろう――そう思うと、源氏の心もまた穏やかではない。まったく危ないことである。
そういえば、野宮でのあの秋の夜も、たまらなく心に残るものだった。どうも源氏には、神に仕える女性となると、かえって妙に心をひかれてしまう癖があるらしい。見ていて困ったものである。本当にそれほど思うのなら、自由に近づけた長い年月の間にどうにかすればよかったのに、そのころはのんびり構え、近づけなくなった今になって惜しがるのだから、なんとも不思議な心である。
桐壺院も、朝顔が源氏に対して並の好意ではないことをご存じだったので、ごくたまに返事をするくらいなら、あまり厳しく止めようとはなさらなかったのだろう。それにしても、少し余計な話ではある。
源氏は雲林院で「六十巻」と呼ばれる仏書を読み、わからないところを僧に尋ねたりして過ごしていた。山寺の僧たちは、こんなにも輝くような貴人が仏道修行をなさっている、仏さまにとっても名誉なことだと、身分の低い僧まで皆で喜んでいる。静かな環境で世の中のことを思い続けていると、都へ帰ることさえ億劫になりそうだった。けれど、たった一人の人――紫の上――を思うと、それがこの世につなぎとめる絆になる。長くは滞在できず、寺には盛大な読経をさせ、上から下までの僧たち、近くの山里の人々にまで贈り物をし、できるかぎりの供養を尽くして山を下りた。
見送ろうと、あちらこちらに年老いた僧や山人まで集まり、涙を流しながら源氏の車を見送った。黒い車の中で藤色の喪服に身を包んでいるので、姿ははっきり見えない。それでもわずかに見えるその様子を、人々はこの世にまたとないほど美しいものと思っているようだった。
帝と藤壺
紫の上は、源氏が山にいた数日の間にも、少し大人びたように感じられた。以前よりずっと落ち着き、これから世の中がどうなるのだろうと考えているような様子が、源氏にはいじらしく、胸にしみる。自分の定まらない心が、あの歌にあったように「色変わる」と見抜かれているのだろうか。そう思うと紫の上がいっそう愛しくなり、いつも以上に心を尽くして語らった。
山から土産に持ち帰った紅葉を庭の紅葉と比べると、やはり山の露でひときわ深く染まった色は見過ごしがたい。藤壺から長く便りのないことも、人にみっともないと思われそうなほど気になっていたので、その紅葉を表向きの贈り物として宮へ届けた。命婦のもとには、
「宮中へお入りになったとうかがいました。珍しいことだと思っておりましたが、その後の宮のお様子がわからず気がかりでした。私は心の落ち着かないまま、それでも修行くらいはしてみようと思って山へ入ったのですが、思いがけず何日も過ごしてしまいました。紅葉は一人で見ておりますと、錦さえ暗く思われます。よい折に宮にもご覧に入れてください」
と書いてあった。見事な枝なので藤壺も目を留めたが、いつものように、その中にほんの少し意味ありげなものが忍ばせてあった。女房たちが見ている前で、藤壺の顔色が変わる。
「まだこんなお心が絶えないことが、本当に嫌でなりません。せっかく思いやり深く立派な方なのに、突然こんなことをときどき混ぜてくるのを、周りの人だっておかしいと思うでしょう」
不快そうにそう言い、紅葉は瓶に挿させたまま、廂の柱のそばへ押しやってしまった。
朱雀帝との語らい
春宮のことなど、表向きの用件について源氏が申し上げれば、藤壺も源氏を頼っていることを隠さず、きっぱりとした返事だけは寄こした。源氏は、そのあまりの分別深さを、よくもこれほど最後まで崩さずにいられるものだと恨めしく思う。それでも、自分が何事につけても後見をする立場になっている以上、周囲に不自然だと見とがめられてはならない。藤壺が宮中から退出する日、源氏も参内した。
まず帝の御前へ伺うと、ちょうどゆったりお過ごしのところだったので、昔のこと、今のことをいろいろと語り合った。帝のお顔立ちは桐壺院によく似ていらして、そこへもう少し柔らかな艶が加わり、親しみやすく穏やかな雰囲気がある。帝も源氏も、互いをしみじみと眺めていた。
尚侍の君と源氏との関係がまだ切れていないことは、帝の耳にも入っていた。ときにはそれとなく源氏の様子をご覧になることもあったが、
「今に始まったことならともかく、もともとそういう仲だったのだ。心を通わせるとしても、まるで不釣り合いな二人というわけでもあるまい」
と考え、特に咎めようとはなさらなかった。
帝はさまざまなことを源氏に尋ねた。漢籍についてご自分ではよくわからないところを問い、また風流な歌の話なども交わす。そのうち斎宮が伊勢へ下った日のことになり、斎宮がとても美しかったと帝が話し始めたので、源氏もすっかり打ち解け、野宮で過ごしたあの夜明けのことまで全部話してしまった。
二十日の月がようやく昇り、ちょうどよい美しさになった。
「こんな夜は、音楽でもしたくなるものだな」
帝がそうおっしゃった。
「中宮が今夜、宮中から退出なさるそうなので、お見舞いに伺おうと思っております。亡き院からもいろいろと言い残されておりますし、ほかに十分な後見をする人もないようですから。何より春宮とのご縁を思いますと、放ってはおけません」
源氏が申し上げると、帝も、
「院は春宮のことを、私自身の皇子と思って接するように、とまで言い残された。それで私も特別に気にかけているのだが、だからといって、目立って何をしてやれるというわけでもない。年齢のわりには、書なども驚くほど上手だそうだ。何をしても頼りない私にとって、あの宮のご成長は面目を施してくださるようなものだ」
とおっしゃる。源氏も「どんなことをなさっても飲み込みが早く、大人びていらっしゃいます。ただ、まだ何といっても幼くて」と春宮の様子を申し上げ、御前を退出した。
その途中、大宮の兄である藤大納言の子、頭弁が妹の麗景殿の女御のもとへ向かうところに出会った。今の世に勢いのある華やかな若者で、何の憂いもないのだろう。源氏の前駆が静かに道を空けるよう促すと、頭弁はしばらく立ち止まり、ゆったりした声で、
「白い虹が太陽を貫いた。太子は恐れた」
と古い言葉を口ずさんだ。源氏は聞いていて顔が赤くなるほど気まずかったが、これを咎めるわけにもいかない。弘徽殿大后の気持ちが恐ろしく、今後何か起こりそうだとは常々耳にしていた。そのうえ、こんな身近な人々まで意味ありげなことを言い始めている。源氏もさすがに厄介な世の中だと思ったが、表面には何も出さず、平然としていた。
霧に隔てられた月
藤壺のもとには、
「帝の御前におりまして、こんな時刻まで遅くなってしまいました」
と知らせた。月が明るく照っている。同じ宮中にいながら、昔はこんな夜になると院が管弦の遊びを催し、すべてが華やかだったことを思い出す。場所は同じ御垣の内なのに、変わってしまったものの何と多いことか。源氏は命婦に頼んで歌を伝えた。
九重に霧や隔つる雲の上の月をはるかに思ひやるかな
同じ九重の宮中にいるというのに、霧が私たちを隔てているのでしょうか。雲の上の月であるあなたを、私はこんなにも遠く思いやっています。
距離は近いので、御簾の向こうの藤壺の気配もほんのかすかに伝わってくる。その懐かしさを感じただけで、源氏はこれまでのつらさも忘れ、まず涙を落とした。藤壺からも返事がある。
月影は見し世の秋に変はらぬを隔つる霧のつらくもあるかな
月の光は、昔あの方がいらした秋と何も変わらないのに、私たちの間を隔てる霧だけが、なんともつらく思われます。
「昔にも『霞も人の……』とかいう歌がございましたね」
などと藤壺は伝えた。藤壺は春宮と別れるのが名残惜しく、さまざまなことを言い聞かせているが、まだ幼い春宮にはその深い意味まではわからない。それがどうにも心配だった。普段なら早くお休みになる春宮も、今日は母が出るまでは起きていようと思っているらしい。恨めしそうな顔はなさるものの、さすがに母を追って行くことはできない。その姿を藤壺は、たまらなく悲しい思いで見つめていた。
藤壺の出家
先ほど頭弁が口ずさんだ不吉な言葉を思い返すと、源氏は自分自身の心にも後ろめたいものがあるだけに、世の中がいっそう恐ろしく思われた。それからは尚侍の君にも便りをせず、長い間が過ぎた。初時雨のころになり、木々にも冬の気配が見え始めたある日、どういう思いだったのか、尚侍の君のほうから手紙が届いた。
木枯の吹くにつけつつ待ちし間におぼつかなさのころも経にけり
木枯らしが吹くたびにあなたを待っているうちに、どうなさったのかわからないまま、ずいぶん長い時が過ぎてしまいました。
季節まで物悲しく、無理をして人目を忍びながら書いたらしい尚侍の気持ちも憎からず、源氏は使者を引き留めた。唐紙をしまってある御厨子を開かせ、並ではない紙を何枚も選び、筆まで念入りに選んでいる。その様子があまりに風流なので、そばの女房たちは、いったいどなたへのお返事なのかしら、とひそひそ推測している。
「こちらから申し上げても何にもならないことを思い知らされ、すっかり気落ちしておりました。自分の身さえ嫌になるこのごろですから――」
あひ見ずてしのぶるころの涙をもなべての空の時雨とや見る
お会いできず、恋しさをこらえて流している私の涙まで、あなたはただ世間一般に降る時雨くらいに思っていらっしゃるのでしょうか。
「もし心が通じ合っているのなら、こんな長雨の空を眺めていても、少しはつらさを忘れられるのでしょうに」
などと、返事はまたずいぶん情の深いものになってしまった。源氏を思って便りを寄こす女性はほかにも多かったようだが、彼は冷たく突き放すことなく、それぞれに返事だけはしていた。ただし、心の底まで深く染まる相手は、それほど多くなかったのだろう。
院の一周忌
藤壺は院の一周忌に続いて、御八講の準備にも細やかに心を配っていた。十一月の初めごろ、院の国忌の日に、雪がひどく降った。源氏から藤壺へ歌が届いた。
別れにし今日は来れども見し人に行き逢ふほどをいつと頼まむ
あの方と別れたその日がまた巡ってきました。それでも、もう一度あの方に行き逢える日は、いったいいつのことだと頼みにすればよいのでしょう。
どこにいる人も今日は悲しい思いに沈んでいる。藤壺から返事があった。
ながらふるほどは憂けれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心地して
生き長らえていること自体はつらいのですが、一年を巡ってまた今日を迎えると、あの方のいらした昔の世にもう一度出会えたような気がいたします。
特別に技巧を凝らした筆跡というわけでもないのに、品があり気高く見えるのは、こちらの思い入れのせいだろうか。今風の華やかな書き方ではないが、ほかの人とはやはり違う。この日だけは源氏への複雑な思いも胸から消し、雪の雫にも涙にも濡れながら、藤壺はひたすら勤行を続けた。
御八講の結願
十二月十日過ぎ、藤壺の御八講が行われた。じつに尊い法会だった。毎日供養なさる経から、玉の軸、羅の表紙、帙の飾りに至るまで、この世にまたとないほど立派に整えられている。もともと藤壺は何をなさっても世の常を超えて美しい方なのだから、こうなるのも当然だった。仏前の飾りや花机の覆いまで見事で、まるで極楽浄土を目の前にしたようである。
第一日は先帝のため、次の日は亡き母后のため、その次は桐壺院のためと、日ごとに供養が続いた。五巻の日には、今の世の遠慮から普段は近づきにくくなっていた上達部たちも、それを押して大勢参列した。その日の講師は特に選び抜かれていたので、「薪こる」という法華経の言葉を説き起こすところから、同じ言葉を聞いているはずなのに、格別に尊く感じられる。親王たちもそれぞれ捧げ物を手にして仏前を巡ったが、その中でも源氏の姿と心配りには、やはり並ぶ者がいない。いつ見ても同じようなことを言っているようだが、見るたびに新しく美しく見えるのだから仕方がない。
そして最終日。結願にあたって、藤壺は自分自身のことを仏に申し上げ、この世を捨てて出家する決意を明らかになさった。そこにいた人々は皆、驚いた。兵部卿宮も源氏も胸を突かれ、まさかと思う。兵部卿宮は途中で席を立ち、奥へ入ってしまった。
藤壺は強い決意を口にし、法会が終わるころ山の座主を呼んで、戒を受けたいとおっしゃった。伯父にあたる横川の僧都が近くへ参り、御髪を下ろす。その瞬間、宮中が揺れるかと思うほど激しい泣き声に満ちた。
何の特別な事情もない年老いた人でさえ、いよいよこの世を捨てるとなれば、見る者の胸を打つものである。まして藤壺は、これまで少しもそんな気配を見せていなかった。兵部卿宮も声を上げて泣き、参列した人々も、法会全体の尊さと悲しさに胸を打たれ、皆、袖を濡らして帰っていった。
桐壺院の皇子たちも、昔の藤壺の華やかな姿を思い出すと、いっそう悲しく、それぞれ見舞いを申し上げた。源氏だけはその場に残ったものの、何をどう言葉にしてよいのかわからず、途方に暮れていた。けれど、なぜ源氏だけがこれほど、と人から怪しまれてもいけないので、兵部卿宮たちが帰ったあとになって、ようやく藤壺の御前へ近づいた。
だんだん人も静まり、女房たちはあちらこちらで鼻をすすりながら、何人かずつ固まって座っている。月は曇りなく明るく、雪の光と照らし合う庭を見れば、院のいらした昔が思われて堪えがたい。それでも源氏はよく心を静めて、
「いったいどういうお考えで、こんなにも突然お決めになったのですか」
と尋ねた。
「今日初めて思い立ったことではありません。ただ、前もって知らせれば大騒ぎになって、私自身の決心まで乱れてしまいそうでしたから」
いつものように命婦を通して、藤壺はそう答えた。御簾の中では、大勢集まった女房たちの衣ずれの音が、静かな中にかすかに聞こえる。皆が身じろぎしながら悲しみに堪えている様子まで伝わってくる。それを聞けば、源氏が胸を締めつけられるのも無理はなかった。
風が激しく吹き、雪を巻き上げている。御簾の中からは深くしみ込んだ黒方の香が漂い、名香の煙もほのかに立っている。そこへ源氏自身の香りまで混じり合い、まるで極楽浄土を思わせるような夜だった。
春宮からも使者が来た。以前、春宮が「長くいらっしゃらないだけでも恋しい」とおっしゃった姿を思い出すと、藤壺もさすがに強く保っていた心が崩れ、返事を最後まで言うことができない。そこで源氏が代わって言葉を添えて使者を帰した。
誰もが心を鎮められず、胸にあることを十分に口へ出せない。源氏はようやく、
月のすむ雲居をかけて慕ふともこの世の闇になほや惑はむ
澄んだ月のある雲の上を目指して、あなたのあとを追おうとしても、私はまだこの世の闇の中で迷い続けなければならないのでしょうか。
「そう思わずにはいられないことが、どうにもつらくてなりません。あなたが先にこの世を捨てると決めてしまわれたことが、恨めしくて仕方ありません」
とだけ伝えた。近くには女房たちが大勢いるので、入り乱れる胸のうちをそのまま語ることもできない。藤壺からも返事がある。
おほふかたの憂きにつけては厭へどもいつかこの世を背き果つべき
世の中のつらさを思えば、この世を厭わしく思うことはあっても、いつになれば本当にすべてを捨て去ることができるのでしょう。
「こうして出家しても、まだ心は濁りながら……」
と続けられていた。その言葉の一部は、使者をつとめる女房が気を利かせて補ったものかもしれない。悲しみはいくら語っても尽きず、源氏は胸が苦しくなって、ようやく三条宮を退出した。
尼となった藤壺
邸へ戻っても、源氏は自分の部屋に一人横になったまま、まったく眠れなかった。世の中そのものが嫌になってくる。けれど何より心にかかるのは、春宮のことだった。せめて母宮だけでも朝廷の側にいて春宮を支えてほしいと考えていたのに、藤壺は世のつらさに耐えきれず出家してしまった。これではもう元の中宮の位に戻ってお暮らしになることもできない。自分まで春宮を見捨ててしまったら、あの幼い宮はどうなるのだろう。源氏はそんなことを夜通し考え続けた。
これから藤壺に必要なのは、出家後の暮らしにふさわしい仏具などだろう。年内に整えようと、源氏は急がせた。命婦の君も藤壺とともに仏門へ入ったので、そのことにも心を込めて贈り物をした。このあたりを細かく書き続ければ大げさになるので、省いておくことにする。こういう折にこそ風情ある歌もいろいろ詠まれたはずなのだが、それを残さないのは少し寂しい。
源氏が三条宮へ参ることも、藤壺が出家してからは以前ほど人目をはばかる必要がなくなり、ときには自分の声で直接話すことさえあった。けれど、長い間胸に染みついてしまったあの思いが、すっかり消えたわけではない。もっとも今となっては、以前にもましてあってはならないことである。
新年の三条宮
年が改まると宮中は華やぎ、内宴や踏歌の声も聞こえてきた。藤壺はそれを耳にしても、何につけても昔が思われるばかりである。静かに勤行を続け、来世のことだけを考えていると、そこには頼もしさがあり、これまで煩わしく思ってきた俗世のことから離れられた気もした。
もとの念誦堂とは別に、西の対の南側、少し離れた場所に新しく御堂を建てさせ、藤壺はそこで特別な勤行をなさっていた。そこへ源氏が訪ねてきた。
新年になったというのに、宮の中は何も改まったようには見えず、ひっそりとして人影も少ない。親しい宮司たちだけがうなだれている。そう見えるのは源氏の心のせいかもしれないが、皆すっかり気落ちしているようだった。白馬節会の馬だけは例年どおり引かれ、女房たちもそれを見たらしい。
かつてはここへ所狭しと集まっていた上達部たちが、今では道を避けるように通り過ぎ、向かいの大殿へ集まっていく。こうなるのも当然とはいえ、藤壺の周囲の人々には悲しかった。その中で、千人にも代えがたいほどの源氏だけが、変わらず深く訪ねてきてくれる。その姿を見ると、思わず涙がこぼれる。
訪れた源氏も、ひどくもの悲しそうに周囲を見回し、しばらく何も言わなかった。すっかり様子の変わった住まいでは、御簾の端も御几帳も青鈍色で、隙間から見える女房たちの薄鈍や梔子色の袖口が、かえってしっとりと美しく、奥の様子まで想像させる。池の薄氷が解け、岸の柳だけが季節を忘れず芽吹こうとしている。それらを眺めながら、源氏は古歌の一節をひそかに口ずさみ、それから歌を贈った。
ながめかる海人のすみかと見るからにまづしほたるる松が浦島
もの思いに沈む海人の住まいのように見えるこの松が浦島を目にしただけで、私の袖はまず涙の潮に濡れてしまいます。
今の藤壺の御座所は以前ほど奥深くなく、住まいの多くを仏に譲ったような造りなので、声も以前より近く感じられる。
ありし世のなごりだになき浦島に立ち寄る波のめづらしきかな
昔の華やかなころの面影さえ何も残らないこの浦島へ、それでもこうして立ち寄ってくださる波が、今では珍しく思われます。
藤壺がそう詠む声がかすかに聞こえると、源氏は堪えようとしても涙をぽろぽろ落としてしまった。世を離れて心を澄ませている尼君たちに見られるのもきまりが悪く、言葉少なにして帰っていった。
「まあ、本当に比べる人もないほど立派になられたこと。何の心配もなく世に栄え、時の人として輝いていらしたころには、あまりにも何でも思いのままになる方なので、いったい何によって世の中の悲しみをお知りになるのだろうと思っていましたのに。今はすっかり心も落ち着いて、ちょっとしたことにも深く感じ入られるようになった。そのお姿が、かえって痛々しいこと」
年老いた女房たちは泣きながら、そんなふうに源氏を褒めた。藤壺にも、思い出されることは数えきれないほどあった。
失われていく後ろ盾
官職を任命するころになっても、三条宮に仕える人々は本来もらえるはずの官職を得られなかった。普通の順番から考えても、藤壺の推挙という形から考えても当然あるはずの昇進さえ見送られ、嘆く人が大勢いた。藤壺は出家したからといって、すぐ正式に中宮の位を退き、封戸まで停止されるわけではない。それなのに、それを口実にするように周囲の扱いは次々と変わっていった。
藤壺自身は、もともとこの世を捨てたつもりでいる。それでも、自分に仕える人々まで頼るところを失い、悲しんでいる姿を見ると、心が動かないわけではない。けれど、自分自身のことなどないものと思い、ただ春宮の御代が無事に訪れてほしい――その一心で勤行を怠らなかった。人知れず、春宮の将来について恐ろしく思うこともある。どうかその罪や災いがあるのなら自分の身へ軽く移し、春宮をお許しくださいと仏に祈ることで、藤壺はあらゆる苦しみを慰めていた。源氏もその姿を見て、そうなさるのも無理はないと思った。
源氏の邸に仕える人々にも同じようにつらいことばかり起こったので、源氏も世の中の居心地が悪くなり、家にこもっていた。
左大臣も、公私ともに昔とはまるで変わった世の中を嫌になり、辞職願を出した。帝は、亡き院が左大臣をかけがえのない重臣、長い世を支える柱として頼み、遺言まで残していたことを思い、手放したくないと考えて、何度願い出てもなかなかお認めにならない。それでも左大臣は強く辞意を申し続け、ついには家へ引きこもった。
今では右大臣の一族だけが、何度も何度も昇進を重ね、栄華を極めている。世の重しとなるべき左大臣が朝廷から離れてしまったので、帝も心細く思い、世間の心ある人々も皆嘆いた。
左大臣の息子たちは、以前は誰も彼も人柄がよく、世間から重く用いられ、気持ちよさそうに暮らしていたのに、今ではすっかり静かになった。三位中将なども、世の中を思って沈んでいる様子が以前とはまるで違う。右大臣の四の君のところへも相変わらず途切れがちに通っているため、先方からは腹立たしい夫として扱われ、気の置けない婿たちの仲間にも入れてもらえない。思い知れということなのか、今回の除目にも漏れたが、本人はそれほど気にしていなかった。
源氏がこうして静かに暮らしている今、世の中が頼りないものだとわかったのだから、それも当然だ、と中将は思っている。いつも源氏のもとへ通い、学問も音楽も一緒に楽しんだ。昔は気が狂ったのかというほど互いに競い合ったことを思い出し、今でもちょっとしたことにつけて、やはり張り合っている。
春秋の読経はもちろん、臨時にもさまざまな尊い仏事を行い、その一方では暇そうな博士たちを呼び集め、漢詩を作らせたり、韻塞ぎのような遊びをしたりする。そうして気を紛らわせ、宮仕えにはほとんど出ず、自分の思うままに静かに遊んで暮らしていた。けれど世間には、その源氏をめぐって、しだいに面倒な噂を口にする人も出始めていたようである。
静かな日々の遊び
夏の雨が静かに降り続き、何をするでもなく退屈なころ、三位中将がふさわしい詩文集をたくさん持たせて源氏のもとへやって来た。源氏も文殿を開かせ、まだ開けたこともない御厨子から、由緒ある珍しい古い詩文集をいくらか選び出した。その道に通じた人々も、わざわざ大げさに招いたわけではないのに大勢集まってきた。殿上人も大学寮の人々も多く、左右に分かれて勝負することになった。
賭け物も比べようがないほど立派で、皆、本気で競い合った。韻塞ぎが進むにつれ、難しい韻字が次々に出てきて、名のある博士たちさえところどころで迷う。そんなとき源氏がさりげなく答えを口にする。そのたび、源氏の学識が並外れたものだとわかる。
「どうしてこれほど何もかも身につけていらっしゃるのだろう。やはり生まれつき特別な方で、何事でも人より優れていらっしゃるのだ」
人々は感心した。結局、その日は右方が負けた。
二日ほどして、中将が負けた側の宴を開いた。大げさなものではなく、優美な檜破籠やさまざまな賭け物を用意し、この日もいつもの人々を大勢招いて漢詩を作らせた。階の下には薔薇がほんの少し咲き始めている。春や秋の花盛りとは違う、雨の季節らしいしっとりした美しさの中で、一同は打ち解けて遊んだ。
中将の息子で、今年初めて殿上を許された八、九歳ほどの子がいた。たいそう美しい声を持ち、笙まで吹くので、皆が可愛がってもてはやす。四の君腹の次男だった。世間からも将来を期待され、大切に育てられている。利発なところがあり、顔立ちも愛らしい。遊びが少しくだけてきたころ、その子が「高砂」を歌い出した。その姿がなんとも可愛らしく、源氏は自分の衣を脱いで褒美に与えた。
いつもより少し酔い、くつろいだ源氏の顔は、比べるもののないほど美しい。薄物の直衣に単衣を重ねているだけなので、透けて見える肌の美しさまで際立っている。年老いた博士たちは遠くからその姿を見て、涙を落としていた。
「逢はましものを、小百合葉の――」と歌が終わるころ、中将が源氏へ杯を差し出した。
それもがと今朝開けたる初花に劣らぬ君が匂ひをぞ見る
この花がほしいと思わせるように今朝咲いた初花にも劣らない、あなたの美しい輝きを今日は拝見しています。
源氏は微笑んで杯を受け取った。
時ならで今朝咲く花は夏の雨にしをれにけらし匂ふほどなく
季節外れに今朝咲いた花など、夏の雨に打たれてもうしおれてしまったのでしょう。美しく咲き誇る間もなく。
「もうすっかり衰えてしまったのですよ」
などと言い、皆で酔いに任せて騒いでいると、その言葉を取り上げてはまた無理に杯を勧め合う。ほかにも歌や言葉はたくさんあったが、こういう宴席の整いすぎないやり取りまで一つ一つ書きつけるのは趣がない、と紀貫之も戒めたとかいうので、ここでやめておこう。この日の漢詩も和歌も、結局は源氏を褒める内容ばかりだった。
源氏自身もかなり気をよくし、
「文王の子、武王の弟――」
などと口ずさんでいる。それさえ、なるほど源氏にはふさわしく聞こえる。「成王の何」とまで言い出すつもりなのだろうか。それだけは、まだ少し心もとないところだろう。兵部卿宮もよく源氏のもとへいらした。もともと音楽などの遊びを好む宮なので、このころの集まりはずいぶん華やかなものになった。
尚侍との密会が露見する
雷雨の朝
そのころ、尚侍の君は宮中から里邸へ下がっていた。長いこと瘧病に苦しんでいたので、人目を気にせずまじないなどを受けるためだった。修法なども始め、ようやく病が治まると、誰もが喜んだ。
源氏は、こんな珍しい機会はないと、また尚侍とひそかに連絡を取り、無理を重ねながら夜ごと会うようになった。もともと女盛りで華やかな美しさの人が、少し病んで痩せた姿には、かえって繊細な魅力があった。
折悪しく弘徽殿大后も同じ邸にいらしたので、気配はひどく恐ろしい。それでも危険になればなるほど心が燃えるのが源氏の困った癖で、忍びに忍んで何度も通った。様子に気づいている女房もいたようだが、あまりに厄介なことなので、大后には知らせなかった。
父の右大臣は、そんなことが起きているとは夢にも思っていない。
ある明け方、雨が突然ひどく降り出し、雷まで激しく鳴り始めた。邸の若君たちや宮司たちが騒ぎ出し、あちらこちらで人の往来が増える。女房たちも雷を怖がって尚侍の近くへ集まってきたので、源氏はどうにも逃げる場所がなく、とうとう夜が完全に明けてしまった。御帳の周囲にも女房たちがぎっしり並んでいる。源氏は胸がつぶれる思いだった。事情を知っている二人ほどの女房も、どうしたものかと途方に暮れている。
やがて雷がやみ、雨も少し小降りになったころ、右大臣がやって来た。まず弘徽殿大后のところへ行っていたため、その到着を尚侍の側では激しい雨音に紛れて知らなかった。右大臣はそのまま気軽に尚侍の部屋へ入り、御簾をさっと持ち上げながら声をかけた。
「どうだ。昨夜はひどい天気だったから、気になってはいたのだが、すぐには来られなくてな。中将や宮の亮などは控えているか」
早口で、いかにも落ち着きのないその話しぶりを聞きながら、源氏はこんなときだというのに、亡き左大臣の立ち居振る舞いとふと比べてしまい、その違いがおかしくて思わず微笑んだ。どうせなら、そのまま奥まで入ってお話しになればよいのに。
尚侍の君はいたたまれず、そっと膝を進めて出てきた。顔がひどく赤くなっているのを、右大臣はまだ病気のせいで具合が悪いのだと思った。
「どうしてそんなに顔色がいつもと違うのだ。物の怪などが厄介なのなら、修法をもっと続けさせるべきだったな」
そう言ったとき、薄二藍色の男物らしい帯が、尚侍の衣にからみついて引き出されているのを見つけた。何だこれは、と不思議に思う。さらに御几帳のそばには、何かを書き散らした畳紙まで落ちていた。いったいこれはどういう物だ、と右大臣ははっとした。
「あれは誰の物だ。どうも普通ではない様子だな。こちらへよこしなさい。誰のものか私が見てみよう」
そう言われて初めて尚侍も振り返り、それらに気づいた。もうごまかしようがない。何と答えればよいのかもわからず、茫然としている。いくら娘とはいえ、これほどの身分の女性なら、父親にも知られたくないことはある。それくらいは右大臣も遠慮すべきところだった。
ところが右大臣は気が急で、何かをいったん思えば立ち止まることのできない性格である。考えるより先に畳紙を拾い上げ、そのまま几帳の向こうをのぞき込んだ。
そこには、ひどくくつろいだ姿で、まるで人目を慎む様子もなく尚侍に添い寝している男がいる。源氏だった。
今になって源氏はそっと顔を隠し、どうにか取り繕おうとした。右大臣は驚き、腹立たしく、これほど不愉快なことはなかったが、まさか真正面から「お前は何をしている」と暴き立てることもできない。目の前が暗くなるような気持ちで、拾った畳紙だけを手にし、寝殿へ戻っていった。
尚侍の君は、生きた心地がせず、このまま死んでしまいたいほどだった。源氏も、気の毒なことになった、これまで何の役にも立たない危ない振る舞いを重ねた結果、とうとう人から非難されることになった、とさすがに思う。それでも今は、青ざめる尚侍の心をどうにか慰めることに心を尽くした。
右大臣と弘徽殿大后
右大臣はもともと、思ったことを胸の内に収めておけない人だった。そこへ年を取ってからのひがみっぽさまで加わっている。こんな大事件を黙っていられるはずがない。さっそく弘徽殿大后のところへ行き、すべてを訴えた。
「実は、こういうことがございました。この畳紙は右大将――源氏の筆跡です。昔、あの二人がまだ正式に許された仲でもないころから関係が始まっていたことは知っておりました。それでも大将ほどの人柄なら、多少のことは許し、いずれこの娘を差し上げてもよいと思っていた時期もあったのです。ところがそのころには、こちらには少しも心を向けず、いかにも迷惑そうな扱いをされた。それが腹立たしくはありましたが、これも運命なのだろうと思い、この娘が世間から多少傷のある女と思われたとしても、帝ならお見捨てにはなるまいと頼みにして、こうして念願どおり宮仕えさせました。
それでも昔のことがありますから、遠慮があって、堂々と女御と呼ばれるような立場にさえしていただけない。それだけでも私は残念に思っていたのです。それなのに、そのうえこんなことまで起きていたとは。本当に情けなくなりました。男にはありがちなこととはいえ、右大将の心も、あまりにけしからん。
斎院に対してまで相変わらず思いを寄せ、ひそかに手紙を通わせているらしいという話も耳にしていました。そんなことは世間のためだけでなく、わが家にとってもよいはずがない。けれど、まさかそこまで思慮のないことをなさるまいと思っていました。右大将は今の世きっての教養ある方で、天下の人まで心を寄せるほどですから、私はその分別を疑っていなかったのです」
右大臣がそう訴えると、もともと源氏への恨みの深い弘徽殿大后は、いっそう激しい怒りをあらわにした。
「今の方を帝と申し上げてはいても、昔から世間の人は皆、あの方を源氏より下に見るようなところがありました。致仕の左大臣にしても、あれほど大切に育てたたった一人の娘を、兄である東宮――今の帝――には差し上げず、まだ幼い弟の源氏の元服の添い臥しにわざわざ選んだでしょう。
こちらも、この尚侍を宮仕えさせようと考えていたのに、あのころの有様は何とも馬鹿らしいものでした。それでも誰一人、不思議だとは思わなかった。皆、源氏のほうばかりを特別扱いしていたのですから。
もともとの望みどおりにはならなかったものの、この娘が今こうして帝のおそばにいる以上、せめてどんな形でも人に劣らない扱いを受けさせたい、あれほど得意そうだった人たちに見せてやりたいとまで私は思っていました。それなのに、本人はひそかに自分の心の向くまま、源氏になびいていたということなのでしょう。
斎院のことだって、きっと同じようなものなのでしょう。何につけても、源氏が朝廷の側から見て安心できない振る舞いをするのは、春宮が即位なさる将来に、とりわけ深く心を寄せている人なのだから、当然なのかもしれませんね」
大后が遠慮なく言い続けるのを聞くうち、右大臣もさすがに、これはまずいことを言ってしまった、どうしてこんな話まで持ち出したのだろう、と娘が気の毒になってきた。
「まあ、とにかく、しばらくこのことは外へ漏らさないでおきましょう。帝にも申し上げないでください。あのような罪を犯しても、結局はお見捨てにはなるまいと頼りにして、甘えているのでしょう。内々にきつくお止めになって、それでも聞かないというのでしたら、その時はすべての責任を私が負いましょう」
そう言って右大臣は慌てて言い直したが、弘徽殿大后の機嫌は少しも直らなかった。自分がこうして同じ邸にいて、人目の絶える暇もないというのに、何の遠慮もなく源氏が入り込んでくる。それはつまり、自分がわざと軽く扱われ、馬鹿にされているということではないか――そう思えば、ますます腹立たしい。
そして大后は、この機会こそ、これまで胸に積もらせてきたことを形にするのにちょうどよい、と考え始めたらしい。
