
このページでは、『源氏物語』第13帖「明石」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第13帖「明石」原文全文をご覧ください。
嵐のやまない須磨
雨も風もいっこうにやまず、雷も鳴りしずまないまま、何日も過ぎていった。ただでさえ心細いことばかりなのに、これまでのことを振り返っても、これから先を思っても悲しいことしかない。さすがの源氏も、もう気丈に構えてはいられなかった。いったいどうすればいいのだろう。だからといって都へ帰ったところで、まだ朝廷から許されてもいない身では、かえって人の物笑いになるだけだろう。いっそ須磨よりさらに深い山へ入り、誰にも行方を知られないように消えてしまおうかとも思う。けれど、波風に恐れをなして逃げ出したのだなどと世間に言い伝えられたら、後の世まで軽々しい評判を残すことになってしまう。あれこれと思い乱れるばかりだった。
夢の中にも、毎晩のように同じような何者かが現れて、源氏につきまとった。雲の切れ間一つないまま日が明け、また暮れていく。その日数が重なるにつれ、都のことはいよいよ気がかりになってくる。このまま世間から見捨てられ、自分はここで朽ち果ててしまうのではないか。そう思えば心細くてならないが、外へ頭を出すことさえできないほど空は荒れ、人を都へ遣ろうにも旅立てる者はいなかった。
そんな中、二条院から一人の使いが、無理を押してやって来た。全身ずぶ濡れになり、みすぼらしい姿で、途中ですれ違っても人なのか何なのか見分けがつかず、普段ならまず追い払わせてしまいそうな下人である。それなのに今は、その男さえ懐かしく、たまらなくありがたいものに思われた。そんな自分に気づくと、ここまで気弱になり、打ちひしがれていたのかと、源氏自身が情けなくなるほどだった。紫の上からの手紙には、絶え間なく荒れ続ける空を見ていると、こちらまで空が閉ざされたような気がして、どこを眺めても心のやり場がない、と悲しいことばかりが書き連ねてあった。
浦風やいかに吹くらむ思ひやる袖うち濡らし波間なきころ
須磨の浦では、今ごろどんな風が吹いているのでしょう。あなたのことを思っているだけで、こちらの袖も涙に濡れ、波の絶え間もないような毎日です。
手紙を開いた途端、源氏の目の前はいっそう暗くなり、このまま涙の水かさまで増してしまいそうだった。使いの男は、「都でもこの雨風はただごとではなく、何かの前触れではないかというので、仁王会なども行われるそうです。宮中へ参る上達部たちも、道がすっかりふさがってしまい、政まで止まっていると聞きました」と、要領の悪い、田舎者らしい話し方で伝えた。それでも都のことなら何でも知りたくて、源氏は男を御前へ呼び出し、詳しく尋ねた。
「都でも雨は毎日降り続き、ときどき激しい風が吹くので、こんなことは珍しいと皆が驚いております。でも、こちらのように地の底まで突き抜けそうな雹が降ったり、雷が何日も静まらなかったりするようなことはございませんでした」
男が恐ろしそうな顔で話すのを聞けば、源氏の心細さはかえって募るばかりだった。
海も山も崩れそうな嵐
このまま世界そのものが終わってしまうのではないか――そう思われた翌日の明け方から、またすさまじい風が吹き出した。潮は異様な高さまで満ち、波の音は荒れ狂い、岩も山も何もかも残らず砕けてしまいそうだった。雷は絶えず鳴り、稲妻が走るたび、今にも頭の上へ落ちてくるように思われる。そこにいた者は、一人として平静ではいられなかった。
「自分はいったいどんな罪を犯したというので、こんな目に遭わなければならないのだろう。父母にも会えず、愛しい妻や子どもの顔も見ないまま、こんなところで死ぬのだろうか」
供の者たちは口々に嘆いた。源氏は努めて心を静め、いったいどれほどの過ちを犯したからといって、この渚で命を終えなければならないのか、と気を強く持とうとしたものの、あまりの騒ぎに、さすがに何もしないではいられない。さまざまな幣帛を捧げさせ、「住吉の神は、この近くの国々を鎮め、守ってくださる神である。本当にこの世へ姿を現して人を救ってくださる神であるなら、どうかお助けください」と、多くの大願を立てた。
供の者たちも、自分自身の命などもうどうでもよかった。ただ、世に二人とないこの方が、前例もないような災難に遭い、このまま海に沈んでしまわれることだけが悲しくてならない。まだ正気を保っている者は皆、わが身を代わりにしてでも源氏一人を救いたいと奮い立ち、声をそろえて仏や神に祈った。
「この方は帝の深い宮中でお育ちになり、あらゆる楽しみに恵まれてこられました。それでも、その深い慈しみは国中に及び、沈んでいた多くの人を救い上げてこられた方です。それなのに今、何の報いによって、こんな理不尽な波風に溺れなければならないのでしょう。天地の神よ、道理をお示しください。罪もないのに罪に問われ、官位を奪われ、家を離れ、都を去り、朝も夕も心の休まる時なく嘆いていらっしゃる。そのうえこんな悲しい目にまで遭い、命を失おうとしているのは、前世からの報いなのですか、それともこの世で犯した罪なのですか。神仏が本当にすべてを明らかにご覧になっているのなら、どうかこの苦しみをお鎮めください」
住吉の社の方角へ向かってさまざまな願を立て、海中の龍王をはじめ、あらゆる神々へも祈りを捧げた。ところが雷はいよいよ激しく鳴り響き、ついに源氏のいる建物へ続く廊へ落ちた。炎が燃え上がり、廊はたちまち焼けてしまった。皆、魂も消えたようになって逃げ惑い、源氏を後ろにある大炊殿らしい建物へ移した。上も下も関係なく人々がひしめき合い、泣き叫ぶ声は雷にも劣らない。空は墨をすったように真っ黒なまま、とうとう日まで暮れてしまった。
亡き桐壺院、夢に現れる
ようやく風が少しおさまり、雨脚も弱くなって、星の光が見えるようになった。けれど源氏を避難させた場所は、とても貴人がお休みになるような所ではない。寝殿へ戻そうとしてみても、焼け残った場所もひどい有様で、人々が大勢踏み荒らして走り回ったうえ、御簾まで風に吹き飛ばされている。もう夜が明けてから考えるしかないと皆が途方に暮れている中、源氏は念誦を続けながら、さまざまなことを思い巡らせていた。
やがて月が出た。潮がすぐ近くまで押し寄せていた跡がはっきり見え、嵐の名残をとどめる波はまだ荒々しく寄せては返している。源氏は柴の戸を押し開け、その海を眺めた。このあたりには、物の道理を知り、過去や未来のことを考えながら、何事かをきちんと相談できるような人もいない。粗末な海人たちが、「高貴な方がいらっしゃるところだ」と聞いて集まってきて、源氏には意味もよくわからない土地の言葉で口々にしゃべっている。普段なら追い払わせるような者たちだったが、今はそんなことをする気にもなれなかった。
「あの風がもう少し長く続いていたら、潮がここまで上がってきて、一つも残らなかったでしょう。神様のお助けは、本当にありがたいものです」
海人たちがそう話しているのを聞くと、源氏は言いようもないほど心細くなった。
海にます神の助けにかからずは潮の八百会にさすらへなまし
海にいらっしゃる神のお助けがなかったなら、私は無数の潮の流れが入り乱れる海の中を、行くあてもなく漂っていたことでしょう。
一日中荒れ狂った雷に、さすがの源氏もすっかり疲れ果てていた。横になるような場所でもないので、ただ物に寄りかかったまま、いつしかほんの少しまどろんだ。その時、亡き桐壺院が、生前とまったく変わらないお姿で目の前に立たれた。
「どうしてお前は、こんなひどいところにいるのだ」
院はそうおっしゃって源氏の手を取り、立たせようとなさった。
「住吉の神がお導きくださるままに、早く舟を出し、この浦を離れなさい」
源氏はうれしくてたまらず、「父上の尊いお姿とお別れしてからというもの、悲しいことばかりが次々と起こりました。もういっそ、この渚で命を捨ててしまおうかと思っております」と訴えた。
院は、「決してそんなことをしてはならない。これはほんのわずかな因果の報いにすぎない。私も帝の位にあった時、わざと道を誤ったことはなかったが、それでも知らず知らず犯した罪があった。その償いを終えるのに暇がなく、これまでこの世を振り返ることもできなかったのだ。それでも、お前があまりに深い苦しみに沈んでいるのを見ると耐えられず、海へ入り、渚まで上がってきたのでひどく疲れてしまった。だが、この機会に宮中へ申し上げておかなければならないこともあるので、急いで都へ上るのだ」とおっしゃると、そのまま立ち去ってしまわれた。
もっとお姿を見ていたい、もっと話をしたい。源氏はたまらなく悲しくなり、「私もお供して参ります」と泣きながら顔を上げた。けれどそこにはもう誰もいない。ただ月だけがきらきらと輝いていた。夢から覚めたという気さえせず、院の気配が今もあたりに残っているようで、空には雲がしみじみとたなびいている。院がお亡くなりになってから、長い間、夢の中でさえお姿を拝することがなかった。その懐かしいお姿を、ほんのわずかとはいえ、これほどはっきり見ることができた。自分が悲しみの底まで落ち、命まで失いかけていたからこそ、父上が助けに駆けてきてくださったのだ――そう思えば、あの恐ろしい嵐さえ、起こってよかったように思われるほどだった。
胸がいっぱいになり、現実の悲しみさえしばらく忘れてしまった。ただ、夢の中でもう少し院のお答えを聞けなかったことだけが心残りで、もう一度お姿を見られないかと、わざわざ眠ろうとした。けれど今度はまったく眠れないまま、暁になった。
明石から迎えの舟が来る
その明け方、渚へ小さな舟が一艘着き、二、三人の男が源氏の仮住まいを目指してやって来た。何者かと尋ねさせると、「明石の浦から、前の国守で今は出家している入道が舟を整えて参らせました。源少納言の良清様がいらっしゃるなら、お目にかかって事情を申し上げたい」と言う。
良清は驚いた。「あの入道とはこの国へ来るたび親しく付き合っておりましたが、個人的に少し気まずいことがありまして、長いことろくに便りも交わしていません。こんな大嵐の直後に、いったい何の用なのでしょう」と訝しがった。けれど源氏には、先ほどの夢と思い合わせるところがあった。「早く会って話を聞きなさい」と命じたので、良清は舟まで行って男たちと会った。あれほど激しい波風の中、いったいいつ舟を出せたのか、それだけでも不思議だった。
使者は言った。「今月一日の夜、主人の夢に普通ではないものが現れ、告げることがございました。とても信じられない話とは思ったのですが、『十三日にははっきりとしたしるしを見せる。その日に備えて舟を用意し、雨風がやんだなら、必ず須磨の浦へ寄せよ』と、あらかじめ示されたのです。それで試しに舟を整えて待っておりましたところ、この恐ろしい雨風と雷でございます。昔から、朝廷でも夢のお告げを信じたため国を救った例が多くございます。たとえお取り上げいただけなくとも、示された日をそのまま過ごしてはならない、せめてこの事情だけでもお知らせしようと舟を出しました。すると不思議な細い風が吹き、まっすぐこの浦へ着いたのです。本当に神のお導きに違いありません。こちらでも、何かお心当たりがおありだったのではないでしょうか。たいへん恐れ多いことではございますが、どうかこのことを大将様へお伝えください」
良清からひそかにその話を聞いた源氏は、考え込んだ。夢でも現実でも、不思議な出来事ばかりが続いている。それをこれまでのこと、これからのことと照らし合わせてみれば、どう考えても何かのお告げとしか思えない。とはいえ、世間の人が後になって聞けば、勝手なことをしたと非難するかもしれない。それも気にかかる。だが、本当にこれは神のお助けなのに、それへ背けば、今度こそさらにひどく、人の物笑いになるような目に遭うかもしれない。現実の人間関係でさえ、何かと人の心を憚って生きるのが世の常である。些細なことでも、自分より年長の人、身分の高い人、時勢の後ろ盾がより強い人には従い、その意向を考えるものだ。昔の賢人も、身を退けば咎められないと言い残している。ここまで命を失いかねない、世にまたとない苦しみを味わい尽くしたのだ。今さら後世の評判を守ろうとして意地を張っても、何の意味があるだろう。何より夢の中で父帝がはっきり教えてくださった。もう何を疑う必要がある――そう思い定めた。
「知らない土地へ来て、これまで経験したこともない苦しみをすべて味わいましたが、都の方からわざわざ訪ねてくれる人など一人もありません。ただ行くあてもなく空をめぐる月や日の光だけを、故郷から来てくれた友と思って眺めていたところへ、このようにうれしい釣舟がやって来てくれたのです。明石の浦には、人目につかず静かに身を隠していられる場所があるでしょうか」
使者たちは限りなく喜び、恐縮して頭を下げた。何はともあれ、夜が完全に明ける前に舟へお乗せしようということになり、いつものように特に親しい者だけ四、五人を伴って源氏は須磨を離れた。するとまた、あの不思議な風が吹き出し、舟は飛ぶように明石へ着いた。ほんの這ってでも行けそうな近い距離を移るだけなのに、まるで意志を持って源氏を運んでいるかのような風だった。
明石入道の館
明石の浜は、聞いていたとおり須磨とはまるで趣が違っていた。ただ人が多く暮らしていることだけは、静かなところを望んでいた源氏の気持ちには少し合わない。明石入道は広い土地を持ち、海辺にも山陰にも、その場所ごとにさまざまな建物を造っていた。季節に応じて風情を楽しむための渚の苫屋があり、山水のほとりには、仏道修行をして来世へ心を澄ませるための立派な堂を建て、三昧の行をしている。また現世の暮らしのためには、秋に実った稲を刈り入れ、残された人生を支えるだけの米を蓄えた倉までいくつもある。あちらこちらに、その土地に応じた見どころを考えて造っていた。先日の高潮を恐れ、娘たちはこのごろ岡の上にある別邸へ移しているというので、源氏は海辺の館を気兼ねなく使うことができた。
舟から車へ移るころには、日も次第に高くなっていた。入道は源氏の姿をほんのわずかに見ただけで、老いまで忘れ、寿命が延びたような気持ちになって満面の笑みを浮かべ、真っ先に住吉の神を拝んだ。まるで月と日の光そのものを自分の手にいただいたような思いなのだから、夢中で世話をするのも無理はない。
土地そのものの美しさは言うまでもない。建物の造り方、木立、庭石、前栽、そして何とも言いようのない入江の水――絵に描こうとしても、よほど腕のある絵師でなければ描ききれないだろう。ここ数か月暮らした須磨の住まいに比べれば、はるかに明るく、親しみやすい。室内のしつらえも言葉にできないほど見事で、入道がこれまで暮らしてきた様子を見れば、都の高貴な人々の邸とほとんど変わらない。それどころか、華やかで洗練された美しさでは、かえってこちらがまさっているほどに見えた。
明石で届いた都への手紙
少し心が落ち着くと、源氏は都の人々へ手紙を書いた。あの嵐の中を須磨まで訪ねてきた使いの男は、源氏が明石へ移ると聞いて、「今度こそ恐ろしい道へ出ていかれるのだ」と泣き沈み、須磨に残っていたので、源氏はその男を呼び、多すぎるほどの品々を与えて都へ帰した。親しい祈祷の僧や、知らせるべき人々には、今回の出来事を詳しく伝えさせた。藤壺の宮にだけは、死の淵から不思議にも生き返ったような一部始終を自ら書き送った。
けれど二条院の紫の上へ返事を書こうとすると、筆が進まなかった。少し書いては手を止め、涙を拭い、また書く。その様子はほかの誰への手紙ともまるで違っていた。
「何度考えても、これ以上はないというほど恐ろしい目をすべて味わい尽くしましたので、もうこの世には何の望みもない、すべてを捨てようという思いばかりが強くなっています。それでも、以前あなたが『鏡を見ても慰められたなら』と言った、そのあなたの面影だけは一瞬たりとも私から離れません。このまま離れ離れでいるのだろうかと思えば、ほかのさまざまな悲しみなど忘れてしまうほどで――」
遥かにも思ひやるかな知らざりし浦よりをちに浦伝ひして
こんなにも遥か遠くから、あなたのことを思っています。これまで知らなかった須磨の浦を離れ、さらにその向こうへと、浦から浦へ移ってきてしまいました。
「何もかも夢の中のような気持ちで、まだ完全に目が覚めていないようです。こんな状態で書いておりますから、どれほどおかしなことを書いているかわかりません」
そんなふうに、取りとめもなく乱れ書きした手紙であるからこそ、横から見ても思わず目を奪われるほど美しかった。周囲の者たちは、紫の上への思いはやはり格別なのだと感じ入った。それぞれの供人も、自分の故郷へ心細い便りを託したようだった。
あれほど荒れ続けた空は、今では跡形もなく澄み渡り、漁をする海人たちも誇らしげに働いている。須磨はあまりに寂しく、人家も海人の岩屋もまれだった。源氏は人の多い場所を好まないほうだったが、明石にはまた別の、しみじみと心をひかれるものが多く、何につけても少しずつ慰められていった。
明石入道が語る、十八年の願い
主人の明石入道は、仏道の勤めだけを見ていれば、すっかり俗世を離れた立派な修行者である。ところが、ただ一人の娘のことになると、どうにも心を離すことができないらしく、聞いているこちらが気恥ずかしくなるほど、折に触れて娘への心配を口にした。源氏も以前から、その娘はなかなか風情のある女性だと聞いている。こんな思いがけない成り行きで自分が明石までやって来たのも、何か浅くない縁があるからなのだろうか、と思わないでもなかった。それでも、自分がこんなふうに世から沈められている間くらいは、仏道のほかに心を向けまいと思っていた。都にいる人々から、口で言っていたことと違うではないかと思われるのも恥ずかしい。そのため、娘へ気持ちを示すようなことはしなかった。ただ、何かにつけてその心映えや暮らしぶりが並の女性ではなさそうだと思われ、まったく興味が湧かないわけでもなかった。
入道自身は源氏を恐れ多く思い、いつも直接そばへ出ることはせず、少し離れた下の建物に控えていた。本当は朝から晩まで源氏のお姿を眺めていたいほどで、この上なく尊い方と思っている。長年の願いをどうにか叶えたいと、ますます熱心に仏や神へ祈り続けていた。
入道は六十歳ほどになっていたが、顔立ちはきれいで、身なりも好ましい。長年の修行で痩せてはいるものの、もともとの家柄が高かったせいだろうか、どこか品がある。少し偏屈で、時にはぼんやりしたことも言うけれど、昔のことをよく知り、俗悪なところがなく、風流な一面も持っていた。源氏が昔話をさせて聞いていると、退屈を紛らわせるにはちょうどよかった。これまで源氏は公私ともに忙しく、世の古い話をこんなにゆっくり聞く暇などなかったので、入道が次々に昔の出来事を語り出すと、こんな土地やこんな人物を見ることがなかったら、それはそれで味気なかったかもしれない、と思えるほど面白い話もあった。
そうして次第に源氏と親しくなってはきたものの、源氏にはあまりに気高く、近づきがたいところがある。娘を差し上げるのだとあれほど大きなことを言っていた入道も、いざ本人を前にすると気後れしてしまい、自分の胸にあることを思うまま口に出せない。それを母君と二人で、もどかしい、残念だと嘆いていた。娘本人のほうは、この田舎では、普通程度に感じのよい男性さえほとんど見ることがない。それなのに、世の中には本当にこんな方がいらしたのか、と源氏をわずかに見たことで、かえって自分の身のほどを思い知らされ、はるか遠い人としか考えられなくなっていた。両親が自分のことであれこれ思い悩んでいると聞けば、あまりにも不釣り合いな話だと思いながらも、何も知らなかった時よりは心が揺れるのだった。
淡路島を照らす月と琴の音
四月になった。衣替えのための装束や御帳の帷子まで、入道の家では趣向を凝らして用意し、何から何まで源氏のために世話を焼いた。源氏は、そこまでしてもらうのは気の毒だし、大げさなことだとも思ったが、入道の人柄にはどこまでも誇り高く上品なところがあるので、好意を受けることにした。都からも絶えることなく見舞いの便りが届いていた。
穏やかな夕月夜、海の上はどこまでも曇りなく見渡せた。その静かな水面を眺めていると、住み慣れた二条院の池の水まで重なって思い出される。誰がということもなく、都のすべてがたまらなく恋しく、心の行き場さえなくなる。今、目の前にはっきりと見えるのは淡路島だった。
「ああ、遥かだな……」
源氏はそんなふうに口ずさみ、歌を詠んだ。
あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月
はるかに「あれが」と眺める淡路島。そのもの寂しい風情までも余すところなく照らし出して、今夜の月はどこまでも澄んでいます。
源氏は長いこと手を触れていなかった琴を袋から取り出し、ほんの少しかき鳴らした。その姿を見ている者たちは、それだけでも胸が騒ぎ、悲しくてならない。やがて「広陵」という曲を、思う存分、澄みきった音で弾いた。岡の上の家にまでその音は届き、松風や波の響きと溶け合った。風情を解する若い女房たちなら、身にしみて聞いたことだろう。音楽などほとんどわからない、このあたりの年老いた者たちまで落ち着かなくなり、浜風に誘われるように外を歩き回っていた。
入道の箏、娘の音
入道もとうとう我慢できず、途中だった勤行を切り上げて急いでやって来た。「この音を聞いておりますと、もう捨てたはずの昔の世まで、もう一度取り戻して思い出してしまいそうです。それどころか、来世に願っております極楽のありさままで、目の前に思い描かれるような夜でございます」と、泣きながら源氏を褒めた。
源氏自身の胸にも、昔の管弦の遊び、その時々に一緒だった人々の琴や笛、その声、折々に世間から褒めそやされた華やかな日々が次々によみがえっていた。帝をはじめ、誰もが源氏を大切にし、仰ぎ見てくれた。その人々の今と、自分の今とを思い比べれば、何もかも夢のようである。そんな思いのまま鳴らす琴の音は、聞く者の胸を冷たくするほどもの寂しく響いた。
入道は涙を抑えられず、岡の邸へ使いをやり、琵琶と箏を取り寄せた。自分も琵琶法師のようになって、珍しい曲を一つ、二つ、なかなか見事に弾いてみせた。箏が届くと源氏も少し弾いたが、どの音を聞いても、周囲の者にはただただ見事としか言いようがない。普段ならそれほど感動しない楽器の音でさえ、時と場所が違えば胸への響きはまるで違う。果てしなく開けた海を前にして、春秋の花や紅葉の盛りとは違い、ただ何となく青々と茂る木陰が艶やかに見える。そこへ水鶏の戸を叩くような声まで聞こえてくると、いったい誰の門を訪ねているのだろうと、しみじみした思いになる。
よく響く楽器を、どれも柔らかく美しい音で弾き鳴らしているうち、源氏の心も動いた。「箏というものは、女性が親しげに、少しくつろいだ様子で弾く音にこそ、特別な趣があるものですね」と何げなく言うと、入道は思わずうれしそうに笑った。
「あなた様がお弾きになるものより親しみ深い音など、どこにございましょう。ただ私の家には、延喜の帝がお弾きになった手から伝わって、もう四代になる奏法がございます。私はこんなつまらない身となり、この世のことはすっかり捨て忘れたつもりですが、どうにも心の晴れない時だけは自分でかき鳴らしておりました。すると不思議なことに、それをまねる者がおりまして、いつの間にか先帝から伝わる奏法に近いものになっているようなのです。もっとも、山伏のひが耳で松風ばかり聞いてきた私の思い込みかもしれませんが。何とかこれも、人知れずあなた様に聞いていただきたいものです」
そこまで言いながら、入道は震え、涙をこぼしそうになっている。源氏は、「そんなに琴のことがおわかりになる方が近くにいるのなら、私などが琴を琴らしくお聞かせすることもできませんね。悔しいものです」と言って、楽器を押しやった。
「不思議なことに、昔から箏は女性が得意とする楽器でございました。嵯峨帝から伝わる奏法を、女五の宮が当代きっての名手としてお持ちでしたが、その流れを特に受け継いだ者は今ではほとんどおりません。今の世で名人と言われる人々も、ただ気晴らしに軽くかき鳴らすほどのものばかりです。それをここでは、奥深くまで弾き込んでいる者がおります。これは実に面白いことでございまして。どうにかして、お聞かせしたいものです」
そう語る入道自身にも興味をひかれ、源氏が箏を渡して弾かせると、なるほど抜きん出て上手だった。今の世では耳にしないような奏法を交え、指使いには唐風の趣があり、余韻の深い音が澄みきっている。「伊勢の海」ではないけれど、「清い渚で貝を拾おう」といった古歌を声のよい者に歌わせ、源氏自身も時折拍子を取り、声を添えた。その声を聞くたび、入道は演奏の手を止めて聞き惚れた。珍しい菓子なども用意され、人々には酒を勧め、自然とこの世の憂さをしばらく忘れられるような夜になった。
明石入道が託す娘の宿世
夜が深くなるにつれ浜風は涼しくなり、沈みかけた月はいっそう澄んで、あたりは静まり返った。入道はとうとう、これまでのことを残らず源氏に語り始めた。明石へ移り住んだころの思い、来世のために勤行を続けていること、そして尋ねられてもいないのに、娘の身の上まで話し出した。少し滑稽にも聞こえるところはあるものの、それでも源氏がしみじみ聞かずにはいられない話もあった。
「たいへん申し上げにくいことでございますが、あなた様がこのような思いもよらない土地へ、たとえ一時とはいえ移ってこられましたのは、もしや長年この老法師が祈り続けてきた神仏が哀れんでくださり、その願いを叶えるため、ほんのしばらくあなた様のお心を悩ませていらっしゃるのではないか、とまで思っております。と申しますのも、私が住吉の神をお頼み申し上げるようになって、今年でもう十八年になります。娘がまだほんの幼いころから胸に一つの願いを抱き、毎年、春と秋には必ず住吉の御社へ参ってまいりました。昼夜六度の勤行でも、自分自身が極楽の蓮の上に生まれたいという願いはさておき、ただこの娘に高い宿世を叶えてくださいと、それだけを祈り続けてきたのです」
「私には前世からの運が足りなかったのでしょう、こうして田舎者にまで落ちてしまいました。けれど私の父は大臣の位にまで昇った人でした。私がこうして田舎の民となり、その子も孫も代を重ねるごとに落ちていくのなら、最後はいったい何になってしまうのでしょう。そう思うと悲しくてならず、この娘だけは生まれた時から、何か特別な運命を持つ子だと頼みにしてきたのです。どうにかして都の高貴な方へ差し上げたい、その一心が強かったため、身分相応に持ち込まれた縁談をいくつも断り、多くの人から嫉妬を受け、私自身がつらい目に遭うこともございました。それでも少しも苦しいとは思いませんでした。私が生きている間は、どれほど粗末な衣の中であろうとこの娘を守り抜きます。もし私が志を果たせないまま死んだなら、その時は海の波の中へ身を投げて消えてしまいなさい、とまで娘には言い聞かせております」
そのほかにも、とても全部を書き写せないほどのことを、入道は泣きながら延々と語った。源氏も、自分自身についてさまざまなことを思い続けていた折だけに、時々涙ぐみながら聞いていた。
「私は身に覚えのない罪に問われ、思いもしなかった土地へ流れ着きました。いったい何の罪によってこんなことになったのだろうと、ずっとわからずにいましたが、今夜のお話と合わせて考えれば、本当に浅くない前世からの縁があるのかもしれませんね。それほどはっきりした思いをお持ちだったのなら、どうして今まで話してくださらなかったのです。都を離れて以来、この無常の世の中がすっかり嫌になり、仏道の勤め以外のことは考えずに過ごしているうち、心まで弱ってしまいました。こちらにそんな方がいらっしゃるという噂は少し聞いていましたが、私のような落ちぶれた男など、縁起でもないと嫌っていらっしゃるだろうと思い、すっかり気落ちしていたのです。けれど、それならこれも神が導いてくださった縁なのでしょうか。せめて心細い一人寝の慰めにでも――」
そんな言葉を聞いて、入道はこの上なく喜んだ。
一人寝は君も知りぬやつれづれと思ひ明かしの浦さびしさを
一人で眠る寂しさを、あなた様も今はおわかりになったでしょうか。長い夜を物思いのうちに明かしてきた、この明石の浦の寂しさを。
「まして私は、何年もの間、あの娘のことだけを思い続けてまいりました。その胸の晴れない思いを、どうかお察しください」と言う声は震えていたが、さすがに品のない話し方ではなかった。
「とはいえ、この浦での暮らしには、あなた方のほうがよく慣れていらっしゃるでしょうから」
源氏もそう応じて歌を返した。
旅衣うら悲しさに明かしかね草の枕は夢も結ばず
旅の身の心細さに、私は夜を明かすことさえできずにいます。草を枕に横になっても、夢一つ結ぶことができません。
物思いに少し乱れた源氏の姿は、なんとも親しみ深く、言葉では表せないほど魅力に満ちていた。入道が話したことはほかにも数えきれないが、全部書けばうるさいばかりだろう。どうせ間違って書き写せば、この入道の少し滑稽で頑固な性格ばかりが目立ってしまいそうなので、このくらいにしておく。
まだ見ぬ明石の君との手紙
入道は、ひとまず願いが叶い始めたような気持ちになり、胸がすっとしていた。翌日の昼ごろ、源氏は岡の上に住む娘へ手紙を送った。気位が高く、こちらが気後れするような女性らしい。けれど、かえってこういう人里離れたところにこそ、思いがけないものが隠れているのかもしれないと心して、高麗の胡桃色の紙へ、この上なく美しく書いた。
をちこちも知らぬ雲居に眺めわびかすめし宿の梢をぞ訪ふ
このあたりの遠くも近くもわからない空の下で、ただ眺め暮らしてきましたが、以前からほのめかされていたあなたのお住まいの梢を、今日はこうして訪ねてみるのです。
「思うところがありまして――」と、それくらいが書いてあったのだろう。
入道も人知れずこの手紙を待っていて、ちょうど岡の邸へ来ていたらしい。使者には、目を背けたくなるほど盛大に酒を飲ませて歓待した。けれど返事はいっこうに出てこない。入道が奥へ入って何度も娘をせき立てても、娘はどうしても聞こうとしなかった。あまりにも気後れするほど立派な源氏の手紙を前にして、自分がどんな字を書いて差し出せばよいのか、それだけでも恥ずかしくてならない。相手の身分と自分の身を比べれば、あまりにも隔たりが大きい。「気分が悪い」と言って横になってしまった。
とうとう説得しきれず、入道自身が返事を書いた。「あまりに恐れ多いお手紙でございますので、田舎者の袂では包みきれず、あふれてしまったのでございましょう。とても私どもの目の届くようなありがたさではございません。ただ――」
眺むらむ同じ雲居を眺むるは思ひも同じ思ひなるらむ
あなた様がお眺めになっているのと同じ空を、こちらでも眺めております。それなら胸に抱く思いも、きっと同じものなのでございましょう。
「――と私は拝察しております。いやはや、年甲斐もなく風流が過ぎましたかな」とある。古びた陸奥紙を使っているものの、書きぶりにはそれなりの風情があった。源氏は、本当にこの入道は風流好きなのだな、と少し呆れながら眺めた。使者には並々でない贈り物まで与えられた。
翌日、源氏はまた、「父上から代筆のお返事をいただくという作法は、私は存じませんでした」と冗談めかして書いた。
いぶせくも心にものを悩むかなやよやいかにと問ふ人もなみ
胸の内ばかりが塞がって、こんなにも物思いに苦しんでいます。「どうしたのです」と尋ねてくれる人さえいないままに。
「どうにも言葉にしにくいことです」と添え、今度はたいそう柔らかな薄様の紙へ、若い女性なら心を動かさずにはいられないほど愛らしく書いた。明石の君も、その手紙がこの上なく美しいことはわかる。けれど、自分とはあまりに比べものにならない人であり、身のほどを思えば何の甲斐もない。むしろ自分という者がこの世にいると源氏に知られてしまったことさえ悲しくなり、涙ぐんで、相変わらず返事を書こうとしなかった。それでも周囲からあまりに強く勧められ、とうとう深く染めた紫の紙へ、墨の濃淡を美しくつけて書いた。
思ふらむ心のほどややよいかにまだ見ぬ人の聞きか悩まむ
まだ一度もお会いしていない私の噂だけを聞いて、いったいどれほどのお気持ちで、そんなに心を悩ませていらっしゃるというのでしょう。
その筆跡も書きぶりも、高貴な女性にそれほど引けを取らず、いかにも上流の女性らしい気品があった。源氏は都の女性たちを思い出しながら、これは面白い、と見入った。ただ、続けざまに手紙を送るのは人目が気になる。二、三日ずつ間を置き、退屈な夕暮れや、しみじみと心に染みる曙など、折々の風情に紛らわせながら、相手も同じ心で感じ取ってくれそうな頃合いを考えて手紙を交わした。
こうしてみると、明石の君は決して源氏に不釣り合いな女性ではない。深い心と誇りを持っている様子を、どうしても一度は実際に見てみたいと思う。一方で、良清が以前から自分のもののようにこの女性のことを話していたのも、源氏には少し面白くなかった。長年思いを寄せていた男の目の前で、その望みを奪ってしまうのも気の毒である。もし女性のほうから進んで近づいてくるなら、その時は寂しさを紛らわせる相手として受け入れてもよい――そんなふうにも考えた。ところが明石の君のほうは、高貴な女性以上に誇り高く、わざと憎らしいほど距離を置く。そうして二人は、互いの心を測り合うようなまま日を過ごした。
都とは関まで隔てて暮らしているため、紫の上のことはいよいよ気がかりになった。いったいどうすればいいのだろう。これでは冗談にもならない。やはり人目を忍んでこちらへ迎えてしまおうか、と心の弱くなる時もある。けれど、いくら何でもこのまま何年もここで暮らすことはないだろう。今さら世間からみっともないと思われるようなことはすまい、と自分を落ち着かせた。
都に続く凶兆と、朱雀帝の迷い
その年、朝廷では不吉な前兆が続き、騒がしいことが多かった。三月十三日、雷と稲妻が激しく、雨風の荒れた夜のこと。帝の夢に亡き桐壺院が現れ、御前の階段の下に立って、たいそう険しい顔で帝を睨みつけられた。院は多くのことをおっしゃった。おそらく源氏のことだったのだろう。
帝は恐ろしくもあり、亡き院に申し訳なくも思われて、弘徽殿大后へその夢を話した。ところが大后は、「雨が降り、空が荒れた夜には、気持ちのせいでそのような夢を見ることもあるものです。軽々しく驚いてはいけません」と取り合わなかった。
けれど夢の中で院と目を合わせたためなのか、帝はその後、目を患い、耐えがたいほど苦しむようになった。宮中でも大后のところでも、ありとあらゆる物忌みや祈祷が行われた。さらに太政大臣が亡くなった。年齢からすれば不思議な死ではなかったものの、次から次へと騒がしいことが続くうえ、大宮までどこが悪いとはっきりしない病にかかり、日がたつにつれて弱っていく。帝の心配は尽きなかった。
「やはり源氏の君に本当の罪がないのに、あのように不遇な目に遭わせているのなら、必ずその報いがあるのではないかと思う。もう以前の位を返してよいのではないだろうか」
帝は何度もそう口にした。しかし大后は、「世間から非難され、朝廷の処置が軽々しいと思われるでしょう。罪を恐れて自ら都を離れた者を、三年さえ過ぎないうちに許したとなれば、後世の人々は何と言うでしょう」と強く諫める。その言葉を帝が憚っているうちにも月日は流れ、帝をはじめ人々の病は、さまざまに重くなっていった。
十三夜、明石の君のもとへ
明石では秋になった。浜風はほかの季節とはまるで違うもの悲しさを帯び、一人寝も本当にわびしく感じられる。源氏は時折、入道へ「何とかうまく都合をつけて、娘さんをこちらへ来させてください」と言った。自分から岡の邸まで出向くことなど、もってのほかだと思っていたのである。
ところが明石の君本人は、こちらへ出向くことなどまったく考えられなかった。ごく身分の低い田舎の女性なら、一時都から下ってきた男の甘い言葉に誘われ、軽々しく関係を持つこともあるらしい。けれど、自分など源氏から人の数にも入れてもらえない身なのに、自分から近づいて、かえって深い物思いを増やしてどうするのだろう。両親は長い年月、身のほどを超えた夢を抱き、その将来を頼みにしてこんな田舎に引きこもってきたけれど、結局は中途半端な思いばかりを味わうことになるのではないか――そう考えていた。
源氏がこの浦にいる間、こうして手紙だけでも交わせる。そのことだけでも並々ならぬ縁ではない。これまで噂に聞くばかりで、あのような方のお姿をほんのわずかでも見られる日が来ようとは思っていなかった。世に二つとないという琴の音も風に乗って聞くことができ、朝夕どのようにお過ごしなのかも遠い噂ではなく知ることができる。さらに、自分のように海人の中で朽ちていく者を、源氏がわざわざこの世にいる人間として思い出し、手紙までくださる。それだけでも身に余ることだ――そう思えば、いよいよ恥ずかしく、近くへ出ていこうなどとは露ほども思わなかった。
両親のほうでも、長年の祈りがいよいよ叶うのではないかと思いながら、いきなり娘を源氏へ見せ、まったく相手にされなかったらどれほど嘆くことになるだろう、と考えると恐ろしくなる。いくら世に並ぶもののない方だからといって、そんなひどい目に遭うのではたまらない。目にも見えない神仏ばかりを頼みにして、人の心も娘の宿世もわからないまま、こんな大それた願いを抱いてきたのだ――と、今になって何度も思い返し、心を乱していた。
源氏は相変わらず、「このごろの波の音に合わせて、あの方の楽器の音も聞いてみたいものですね。それさえ聞かずに明石を去っては、ここまで来た甲斐がない」と口にしていた。
とうとう入道は、人目を忍んでよい日を選び、母君があれこれ心配するのにも耳を貸さず、弟子たちにさえ知らせないまま、一人で立ったり座ったりしながら支度を整えた。邸を輝くほど美しく飾り立て、十三夜の月が華やかに昇ったころ、「こんなすばらしい夜をむなしくお過ごしになるのでしょうか」と、それとなく源氏へ知らせた。
源氏は、ずいぶん風流めかしたことをするものだと思いながらも、直衣を美しく整え、夜が更けてから出かけることにした。車もこの上なく立派なものが用意されていたが、この土地ではかえって大げさすぎるとして、馬で向かった。供には惟光など、ごくわずかな者だけを連れていく。岡の邸までは思ったより奥深く、少し距離があった。道すがら四方の浦々を見渡し、こんな入江の月を、心の通じ合う人と一緒に見られたならどれほどよいだろうと思った途端、真っ先に紫の上のことが胸に浮かんだ。このまま馬を引き返し、都へ向かって走ってしまいたいほど恋しかった。
秋の夜のつきげの駒よ我が恋ふる雲居を翔れ時の間も見む
秋の夜、月の光に白く見えるこの馬よ。私が恋しく思う都の空まで飛んでいっておくれ。ほんのひとときでも、あの人のいるところを見たいのだ。
源氏はそんな独り言を漏らしながら、なお岡の邸へ向かった。
着いてみると、木々が深く茂り、海辺の館以上に手をかけて造られた、たいそう見どころのある住まいだった。海辺の館が広々として華やかなのに対し、こちらは静かで心細い山里の趣があり、ここに暮らしていれば世を離れるうえで思い残すことなどなさそうに感じられる。近くには三昧堂があり、鐘の音が松風と響き合ってもの悲しい。岩に根を張る松にまで、何か心があるように見える。庭ではあらゆる虫が鳴き尽くしていた。源氏はあちらこちらのたたずまいを眺めた。
娘の住む一角だけは格別に美しく磨き上げられ、月の光を受け入れる真木の戸が、ほんのわずかに開いていた。源氏はしばらくそこに佇み、あれこれと話しかけた。けれど明石の君は、いくら何でもここまで姿をお見せするまいと固く思っているので、つれない態度を崩さない。源氏は、これほどまできっぱりした心を持つとは、ずいぶん一人前の女性らしいことだ、とかえって気持ちを乱された。さほど高くない身分の女性でさえ、これほど言い寄れば最後まで強情でいることは少なかった。それなのに自分がこんな落ちぶれた姿をしているからと、侮っているのだろうかと思えば悔しい。とはいえ無理に押し入るのも、この場の風情には似つかわしくない。こんな心比べに負けてしまうのも格好が悪い。恨んだり訴えたりする源氏の姿は、物の情趣を知る者なら誰かに見せたいほどだった。
近くの几帳の紐のあたりに、さっきまで箏を弾いていた気配が残っている。楽器をくつろいでかき鳴らしていたらしい様子まで想像され、源氏にはそれが面白かった。「以前から聞いてみたいと思っていた、この琴の音まで私には聞かせていただけないのですか」と、さまざまに言葉を尽くした。
むつごとを語りあはせむ人もがな憂き世の夢もなかば覚むやと
胸の内を親しく語り合える人がいたならと思います。そうすれば、このつらい世を夢のように見ている心も、少しは覚めるのではないでしょうか。
明石の君も、奥から答えた。
明けぬ夜にやがて惑へる心にはいづれを夢とわきて語らむ
いつまでも明けない夜の中を迷っているような私の心には、何が夢で何が現実なのかさえわかりません。いったい何を選んでお話しすればよいのでしょう。
ほんのかすかに伝わってくるその気配は、伊勢の六条御息所によく似ていた。明石の君は、まさか今夜こんなことになるとは思わず、何の用心もなくくつろいでいたので、急な源氏の訪れにどうしてよいかわからなくなった。近くの部屋へ入り、どうやったものか、固く戸を閉ざしてしまった。源氏も無理やり押し入るようなことはしない。それでも、いつまでもそうしているわけにもいかなかったのだろう。明石の君は身分こそ都の高貴な女性とは違うものの、たいそう品があり、すらりとして、こちらが気後れするほどの気配を持っていた。こうして思いがけないほど強い縁で結ばれたことを思うと、源氏にも深い感慨があった。実際に近くで接したことで、思いはいっそう深くなったのだろう。普段なら長すぎると思う秋の夜が、今夜にかぎってはあっという間に明けていくように感じられる。人に知られてはならないと思えば落ち着かず、それでも細やかに言葉を交わし、源氏は夜の明けきらないうちに邸を出た。
紫の上への告白
翌日の手紙は、明石の君へもひどく人目を忍んで送った。こんなことになったのを後ろめたく思う、源氏自身の心の鬼がそうさせるのだろうか。明石の家でも、この一件をどうしても外へ漏らすまいと隠し、使者を大げさに扱うこともしなかった。明石の君は、そんなふうに人目を忍ばなければならない自分の立場を、胸の痛む思いで受け止めていた。
それから源氏は、時々ひそかに岡の邸へ通うようになった。住まいどうしは少し離れており、その途中で口さがない海人の子などに見られないとも限らない。それを恐れてなかなか頻繁には通えないので、明石の君は、やはり自分が思ったとおりだったのだと嘆いた。入道まで、いったいこの先どうなるのだろうと、極楽往生の願いさえ忘れ、ただ源氏の訪れを待つばかりになった。今さらこれほど心を乱している姿も、少し気の毒なほどだった。
それ以上に源氏が心を痛めたのは、二条院の紫の上のことだった。ほんの風の便りにでも今回のことが漏れ、「戯れだったとしても、私との間には隠し事をするほどの隔てがあったのですね」と嫌われ、心を離されることになったら、たまらなくつらく、恥ずかしい。そこまで気にするのも、紫の上への思いがそれだけ深いからだった。
これまで紫の上が源氏の女性関係について心を留め、恨んだことが何度かあった。どうしてあんなくだらない戯れ事のために、この人にまでそんなふうに思わせてしまったのだろう。今までのことさえ取り返したいほどだった。目の前に明石の君の姿を見ても、紫の上への恋しさは少しも慰められない。そのため、いつも以上に心を込めた手紙を書き、とうとう今回のことまで隠さず知らせた。
「実は、自分でも思いがけない、ほんのつかの間のことから、あなたに嫌われてしまいそうなことがまた起きてしまいました。そう思うだけでも胸が痛みます。さらに妙に頼りない夢まで見てしまいました。こんなことまで自分から話していることで、あなたに何も隠そうとしていない私の気持ちは、どうか察してください。以前お約束したことも、決して忘れてはいません」
しほしほとまづぞ泣かるるかりそめのみるめは海人のすさびなれども
何につけても、まず涙がこぼれてしまいます。こちらでほんのかりそめに人と逢ったことなど、海人が海松を弄ぶほどのたわむれにすぎないのですが。
紫の上からの返事は、何の含みもないような愛らしい筆で書かれていた。それでも最後には、さらりと見過ごせない一首が添えてあった。
「我慢しきれずにお話しになった、その夢のお話を読んでおりますと、私にも思い当たることがいくつもございます」
うらなくも思ひけるかな契りしを松より波は越えじものぞと
私は何の疑いもなく信じていたのですね。二人であれほど誓ったのだから、待っている私のところを越えて、ほかの人へ波が寄せることなどないのだと。
穏やかな言い方なのに、ただの冗談ではない恨みがほのかに感じられる。源氏はそれをたまらなくいとおしく思い、手から離しがたいほど何度も読み返した。その余韻が長く胸に残り、しばらくは明石の君のもとへ忍んで通うことさえしなかった。
明石の君は、まさに自分が恐れていたとおりになったと思い、今こそ本当に海へ身を投げてしまいたいような気持ちになった。これから先そう長くは生きないだろう父だけを頼りにして、自分がいつか世間並みに認められる身になるとは、もともと思っていなかった。それでも、何となく静かに過ごしていたこれまでの年月には、これほど胸を苦しめることなどなかった。生きているというのは、こんなにも物思いの多いことだったのか。想像していた以上につらい。それでも源氏の前では穏やかに振る舞い、嫌われるような態度は見せなかった。
源氏も月日がたつにつれて、明石の君をしみじみといとおしく思うようになった。けれど都にいる、何より大切な紫の上を長い年月待たせ、その人が並々ならず源氏のことを思い続けているだろうと考えると胸が痛む。そのため一人で寝る夜が多くなった。源氏はさまざまな絵を描き集め、その絵に思っていることを書き添え、あとから返事まで聞けるような物語仕立てにしていた。見る者の胸に染みずにはいない出来だった。
不思議なことに、二条院の紫の上も、もの悲しく、どうにも慰めようのない時には、同じように絵を描き集め、そのまま自分の暮らしぶりを日記のように書きつけていた。遠く離れた二人が同じことをしているとは、これからどのような運命へつながっていくのだろう。
帰京の宣旨
年が改まった。宮中では帝のご病気のため薬を召し上がる儀式などがあり、世間は大騒ぎになっていた。今の帝には、右大臣の娘である承香殿女御がお産みになった皇子が一人いたが、まだ二歳になったばかりである。皇位はいずれ春宮へ譲られることになるだろう。その春宮を支え、朝廷の後見として政を行う人を考えれば、源氏がこのまま地方に沈んでいることは、あまりにも惜しく、あってはならないことだった。ついに帝は弘徽殿大后の反対を押し切り、源氏を赦免することを決めた。
前年から大后自身も物の怪に悩まされ、さまざまな不吉な前兆が相次いでいた。厳重な祈祷の効き目なのか、いったんは少しよくなっていた帝の目の病まで、このころにはまた重くなっている。帝も心細く思われたのだろう。七月二十日過ぎ、改めて、源氏に都へ戻るよう宣旨が下った。
いつかは帰れる日も来るだろうと思っていたとはいえ、世の中というものはどう転ぶかわからない。この先どうなってしまうのだろうと嘆き続けてきただけに、突然の知らせはもちろんうれしかった。けれど喜びと同時に、今度はこの明石の浦を離れなければならないことが悲しくなる。入道も、いつかこうなるのが当然だと頭ではわかっていた。それでも知らせを聞いた途端、胸が塞がるようだった。だが源氏が思いどおりに再び世に栄えるようになってこそ、自分の長年の願いも本当に叶うのだ、と懸命に思い直した。
明石の君との別れ
帰京が決まってからは、源氏はほとんど毎夜、明石の君と過ごすようになった。明石の君は六月ごろから、懐妊を思わせるような気がかりな様子を見せ、体調もすぐれなかった。そんな折に別れなければならないことになったからだろうか、源氏には以前にもましてこの人がいとおしく思われ、自分もこんなふうに女のことで深く思い悩む身だったのか、と心が乱れた。明石の君がどれほど沈み込んだかは、今さら言うまでもない。源氏が思いがけず都から離れた時には、それでもいつか巡り巡って戻れるだろうと自分を慰めることができた。けれど今度の源氏の旅立ちは、喜ばしい帰京である。それだけに、自分のところへ再び戻ってくる日など本当にあるのだろうかと思えば、たまらなく悲しかった。
供の人々は、それぞれの身分なりに帰京を喜んでいる。都からも迎えの人々が次々とやって来て、誰もが晴れやかな顔をしている。その中で主人の入道だけは涙に暮れたまま、とうとう出発の月になった。空の様子まで別れにふさわしくしみじみとしているので、源氏は、どうして自分は昔も今も、自分から余計なことに心を寄せて身を苦しめるのだろう、とさまざまに思い乱れた。それを事情を知る供人たちは、「ああ、またいつものお癖だ」と、少し呆れて見ている。この数か月、人にはほとんど気配も見せず、時々こっそり通っているだけだったのに、いざ別れとなるとこれほど悲しむ。それではかえって相手の女性を苦しめるだけではないか、と陰で囁き合った。良清が最初にこの女性のことを源氏へ話した時のことまで、皆で小声で噂しているので、良清自身は面白くない気持ちだったらしい。
初めてはっきり見る顔
出発を明後日に控えたころ、源氏はいつものように、それほど夜を更かさず明石の君のもとを訪ねた。これまでまだ顔立ちをはっきり見たことがなかったが、今夜改めて見ると、いかにも品があり、気高い美しさを持っている。こんなにまで立派な女性だったのか、と驚くと同時に、このまま置いていかなければならないことが惜しく、たまらなく残念になった。いつかふさわしい形を整えて都へ迎えよう、と心を決め、そのことを話して明石の君を慰めた。
源氏の姿の美しさについては、改めて言うまでもない。長い間の勤行と苦労でかなり頬が痩せたことさえ、かえって言いようもなく美しく見える。その人が、心から気の毒そうに涙を浮かべながら、深い言葉で将来を誓ってくれる。これだけでも自分の幸せと思ってここに留まることができるのではないか、とさえ傍目には見えた。けれど、相手があまりにすばらしい人であればあるほど、明石の君には自分の身のほどが思われ、悲しみは尽きなかった。
波の音は、秋風が吹くといっそう深く響く。塩を焼く煙がかすかにたなびき、この土地のもの悲しい風情が何もかも一つに集まったような夜だった。
このたびは立ち別るとも藻塩焼く煙は同じ方になびかむ
今度はこうして別れていくことになっても、藻塩を焼く煙が同じ方へなびくように、私たちの心もこれからずっと同じ方へ向かっているでしょう。
源氏がそう詠むと、明石の君は答えた。
かきつめて海人のたく藻の思ひにも今はかひなき恨みだにせじ
海人が藻をかき集めて焚くように、胸には物思いがいくら積もっても、もう甲斐のない恨み言だけは申しません。
明石の君はしみじみと泣いた。言葉は少ないけれど、答えるべきところでは深い心のこもった返事をする。源氏は、これまで何度も聞きたいと言っていた楽器の音を、とうとう一度もまともに聞かせてもらえなかったことをひどく恨んだ。
「それならせめて、形見として思い出せるような琴の一曲くらいは聞かせてください」
源氏はそう言って、都から持ってきていた琴を取り寄せ、特別な調べをほんの少しかき鳴らした。深い夜に澄んで響くその音は、何にもたとえようがない。入道もたまらず箏を取り寄せ、部屋の中へ差し入れた。明石の君自身も、ただでさえ涙を止めようがないところへ琴の音に誘われたのだろう、忍びやかに弾き始めた。その音は実に上品だった。
藤壺の宮の琴の音を、今の世に並ぶもののない演奏だと源氏は思っていた。確かに藤壺の音には、聞いた者が思わず「まあ、なんとすばらしい」と満足し、その美しいお姿まで目に浮かぶような華やかさがあった。けれど明石の君の音は、どこまでも研ぎ澄まされ、奥深く、こちらが悔しくなるほど心をひかれる響きである。音楽に厳しい源氏の耳にさえ、初めて聞く奏法が懐かしく心に染み、もっと聞きたいと思ったところでふっと弾きやめてしまう。これほどの腕だったのなら、なぜこの数か月、無理にでも聞かせてもらわなかったのだろうと後悔するほどだった。
源氏は、できるかぎりの言葉を尽くして、これから先のことを誓った。
「この琴は、また二人で音を合わせる日までの形見にしておきましょう」
明石の君は、その言葉を聞いて詠んだ。
なほざりに頼め置くめる一ことを尽きせぬ音にやかけて偲ばむ
何げない気休めのように残していかれる、そのたった一言のお約束を、私はこの琴の尽きない音に託して、いつまでもお慕いすればよいのでしょうか。
何げない口ずさみのような歌ではあるが、その恨みが胸に響き、源氏も返した。
逢ふまでのかたみに契る中の緒の調べはことに変はらざらなむ
もう一度逢える日までの形見として、二人の仲を結ぶ琴の緒に誓いましょう。その調べも、私の心も、決して変わらないように。
この琴の音が変わらないうちに、必ずまた会おう――源氏はそう約束したのだろう。それでも、もう別れが目前に迫っている。そのどうにもならない悲しさに明石の君が声を詰まらせているのも、まったく無理のないことだった。
明石を去る秋の朝
いよいよ明石を立つ日の明け方、源氏はまだ夜の深いうちに明石の君のもとを出た。都から迎えに来た人々も大勢いて騒がしく、源氏自身も心ここにあらずという状態だった。それでも人のいない隙を見つけ、明石の君へ歌を送った。
うち捨てて立つも悲しき浦波の名残いかにと思ひやるかな
あなたをここに残して旅立つことが、こんなにも悲しい。波が去ったあとの浦のように、私がいなくなったあと、あなたがどれほど寂しく思うだろうと気にかかります。
明石の君から返事が来た。
年経つる苫屋も荒れて憂き波の返る方にや身をたぐへまし
長年暮らしてきたこの苫屋も、これからはいっそう荒れてゆくでしょう。いっそ私の身も、つらい波であるあなたが帰ってゆく方へ、一緒についていけたならと思います。
胸のままに詠んだその歌を読むと、源氏はこらえていたのに、涙がぽろぽろとこぼれた。事情を知らない人々は、このような田舎の住まいであっても、一年近く暮らして慣れた場所なのだから、いざ今日かぎりで別れると思えば悲しいのも当然だろう、くらいに見ていた。けれど良清などは、源氏があの女性を並々ならず思っているのだろうと気づき、面白くない気持ちになったらしい。ほかの供人たちも、都へ戻れるうれしさの中で、今日かぎりこの渚と別れるとなれば、それぞれ何かしら感傷があるらしく、口々に涙ぐみながら別れを惜しんでいた。とはいえ、そこまで一つ一つ書くほどのことでもないだろう。
入道は、最後のもてなしをこの上なく盛大に整えた。源氏の供人たちには、身分の低い者に至るまで、新しい旅装束が用意されている。いつの間にここまで準備したのかと驚くほどだった。源氏への支度は言うまでもなく、衣櫃がいくつも並べられている。本当に都への土産にできる品々も趣深く揃えられ、思いつくかぎりの心遣いが尽くされていた。その日、源氏が着る狩衣には歌が添えられていた。
寄る波に立ちかさねたる旅衣しほどけしとや人の厭はむ
寄せる波のように幾重にも用意したこの旅衣を、潮に濡れたものとして、あなた様はお嫌いになるでしょうか。
騒がしい中でも源氏はそれを見つけ、すぐに返した。
かたみにぞ換ふべかりける逢ふことの日数隔てむ中の衣を
再び逢うまでの日々に隔てられる私たちなのだから、この衣は互いの形見として取り替えるべきものなのでしょう。
入道の心のこもった贈り物への返礼として、源氏は自分が身につけて馴染んだ衣を贈った。これほど源氏を思っている人にとっては、何より深く源氏を偲ばせる形見になるだろう。言葉にできないほど美しい衣には、源氏自身の香りまで移っている。それを受け取って心まで染まらない人などいるはずがない。
入道は、「私はもうこの世から離れた身ではございますが、今日のお見送りにまでお供できないことだけが――」と声を上げて泣いた。あまりの嘆きぶりに気の毒にはなるけれど、若い者なら思わず笑ってしまいそうでもある。
世をうみにここらしほじむ身となりてなほこの岸をえこそ離れね
この世を厭って海辺に暮らし、長い年月、潮に染まった身となった私ですが、それでも今なお、この岸を離れてあなた様を見送らずにはいられません。
「親の心という闇には、ますます迷ってしまいそうでございますので、せめて国境のあたりまででもお見送りを」と入道は申し上げ、「風流が過ぎるようではございますが、もし思い出してくださる折がございましたら――」と、源氏から何か言葉をもらいたそうにしている。
源氏も深く心を動かされ、涙でところどころ赤くなった目元は、言葉にできないほど美しかった。
「ここには、どうしても心から捨て去ることのできない縁もできましたから、きっとそう遠くないうちに、私の気持ちが変わらないことをおわかりいただけるでしょう。ただ、この明石の住まいそのものまで、今となっては捨てがたく思われます。どうしたものでしょうね」
都出でし春の嘆きに劣らめや年経る浦を別れぬる秋
都を離れたあの春の悲しみに、今日の悲しみがどうして劣るでしょう。長く暮らしたこの浦を、今、秋になって別れていくのですから。
源氏が涙を拭うのを見ると、入道はいよいよ我を忘れて泣き、立つことさえままならず、ひどくよろめいた。
残された明石の君
明石の君の心は、とても言葉では表せなかった。自分から人前へ出て嘆くような姿だけは見せまいと、懸命に沈黙している。けれど身分の低さゆえのつらさを根にして、どうにもならないこととはわかりながら、源氏に置いていかれた恨みの持っていき場がない。ただ涙に沈むしかなかった。
母君も慰める言葉がなくなり、「どうしてこんなにも心を苦しめることを、わざわざ始めてしまったのでしょう。すべてはあの偏屈な人の言うことに従った私の間違いでした」と入道を責めた。
「うるさい。あの君は娘を見捨ててしまうようなお気持ちではないらしい。それならきっと、何かお考えがあるのだ。少し気持ちを落ち着けて、せめて薬湯でも召し上がらせなさい。そんな不吉なことばかり言うものではない」
入道はそう言って部屋の隅に座り込んだ。乳母と母君は、「いつか、何とかこの娘が思いどおりに幸せになる姿を見たいと、何年もそれだけを頼みに暮らしてきました。今こそ願いが叶ったと思ったばかりなのに、最初に見るのがこんなにつらいことだなんて」と嘆き合う。そんな姿を見るのも入道にはつらかったのだろう。すっかり呆けたようになり、昼は一日中眠ってばかり、夜になると妙に元気よく起き出した。数珠をどこへやったかもわからなくなり、両手をすり合わせながら空を仰いでいる。弟子たちから呆れられ、月夜に外へ出て行道をしていたかと思えば、遣水へ転げ落ちた。風情ある岩の角で腰まで強く打ち、とうとう寝込んでしまった。その騒ぎのおかげで、かえって少しは別れの悲しみから気が紛れたのだった。
都へ帰る
源氏は難波へ渡って御祓をし、住吉の神へも、無事に帰京できたならさまざまに立てた願を必ず果たします、と使者を立てて申し上げた。急な帰京で大勢の人が集まり、何かと騒がしかったため、今回は自分自身で住吉へ参詣することはできない。特別に寄り道をして遊ぶようなこともせず、そのまま急いで都へ入った。
二条院へ着くと、都に残っていた人々も、須磨・明石から供をしてきた人々も、まるで夢の中にいるような思いで再会した。喜びのあまり泣き、縁起でもないほど大騒ぎになる。紫の上も、もう生きていても仕方がないと思い詰めていた命が、今はどれほどありがたく思われたことだろう。以前より少し大人び、実に美しく整っている。物思いが深かったせいで、あれほど豊かだった御髪が少し痩せていることさえ、かえって言いようもなく美しかった。
これからはこうしていつでもこの人を見ることができる――そう思えば、源氏の心もようやく落ち着いた。ところがその途端、今度は明石で別れてきた人が、あれほど悲しんでいた姿まで思い出され、胸が痛む。やはり源氏の心は、こういうことになると生涯休まる時がないらしい。
源氏は明石の君のことも紫の上へ話した。話しているうちにも、思い出している気持ちが並々でないことが自然と表情に出る。紫の上にも、それがただの出来事ではなかったとわかったのだろう。「私のことなど、わざわざ思い出さなくてもよかったのでしょうに」といったことを、露骨ではなくほのめかす。それが源氏にはかえって可愛らしく、いとおしく思われた。目の前に見ているだけでも飽きることのない人を、いったいどうしてこれほど長い年月離れていられたのだろう。今さら驚くほどで、あのような目に遭わせた世の中まで改めて恨めしく感じられた。
ほどなく源氏は以前の位を取り戻し、定員外の権大納言に任じられた。源氏に従ったため官職を失っていた人々にも、それぞれふさわしいかぎり元の官が返された。世間から許されていくその様子は、冬の間枯れていた木々が春を迎え、一斉に芽吹いたように晴れやかだった。
朱雀帝との再会
帝から召しがあり、源氏は宮中へ参った。御前に控える姿を見れば、以前よりいっそう大人びている。こんな方が、どうしてあれほどむさ苦しく寂しい土地で長い年月を過ごすことができたのだろう、と誰もが信じられない思いだった。桐壺院の御代から仕え、今では年老いた女房たちは悲しさのあまり、改めて泣き騒ぎながら源氏を褒めたたえた。
帝のほうも、源氏を前にするとどこか気恥ずかしく思われたのだろう。装束などを特に美しく整え、御前へ出ていらした。ここ何日も体調がすぐれず、かなりお痩せになっていたが、昨日、今日になってようやく少し具合がよくなったところだった。二人は静かに昔からのことを語り合い、そのまま夜になった。
十五夜の月は美しく、あたりは静まり返っている。そんな月を前にすれば、昔の出来事が次から次へと尽きることなく思い出され、帝も涙を流された。ご病気のため、心までひどく弱っていらしたのだろう。
「管弦の遊びもせず、昔よく聞いた楽器の音も聞かないまま、ずいぶん長い時がたってしまったものだな」
帝がそうおっしゃると、源氏は歌を返した。
わたつ海にしなえうらぶれ蛭の児の脚立たざりし年は経にけり
私は海辺で力なく打ち沈み、まるで足も立たない蛭の子のように過ごしているうち、長い年月を送ってしまいました。
帝はその歌を聞いて、ひどく胸を打たれ、同時に源氏の前で恥ずかしいような気持ちにもなられた。
宮柱めぐりあひける時しあれば別れし春の恨み残すな
こうして再び宮中の柱のもとでめぐり会える時が来たのだから、あの春に別れなければならなかった恨みを、もう残さないでおくれ。
歌を詠まれる帝のお姿にも、優雅で艶やかなものがあった。
源氏はまず、亡き桐壺院のために法華八講を行う準備を急がせた。春宮のお姿を見ると、以前とは比べものにならないほど成長していらっしゃる。久しぶりに源氏に会えたことを心から喜んでいるのを見ると、源氏にも限りなくいとおしく思われた。学問の才も格段に進み、将来この国を治めることになっても何の心配もないだろうと思われるほど賢く成長している。藤壺の宮も、これでようやく少しは心を静められただろう。久しぶりに源氏と対面すれば、そこにも言葉では語り尽くせない思いがあったに違いない。
都に戻っても残る明石への思い
そうそう、明石へも、返っていく波に託すように手紙を送った。人には見えないよう、ひどく心を込めて書いたらしい。
「夜ごと寄せる波を聞きながら、どのように過ごしているのでしょう」
嘆きつつ明石の浦に朝霧の立つやと人を思ひやるかな
明石の浦で嘆きながら、今朝も朝霧の立つ海を眺めているのだろうかと、遠く都からあなたのことを思っています。
また、以前須磨の前を舟で通った太宰帥の娘、五節の君も、源氏が都へ戻ったことで、人知れず抱えていた物思いから少し目が覚めたような気持ちになったのだろう。まくなぎを源氏のために作らせ、それに歌を添えて届けた。
須磨の浦に心を寄せし舟人のやがて朽たせる袖を見せばや
須磨の浦に心を寄せたあの舟人の袖は、あなたを思って濡れたまま、とうとう乾くことなく朽ちてしまいました。その袖をお見せしたいものです。
源氏は筆跡を見て、以前よりずいぶん上手になったものだと感心し、返事を送った。
帰りてはかことやせまし寄せたりし名残に袖の干がたかりしを
都へ帰ってきた今さら、何を恨み言として申し上げればよいのでしょう。あなたの舟が須磨へ寄せたあの時の名残で、私の袖もなかなか乾かなかったのですから。
あの時、もっとゆっくり話してみたかったと思った名残もあるので、こうして便りが来れば、源氏もまた五節の君を思い出した。それでも今の源氏は、以前のような軽々しい振る舞いはすっかり慎んでいるようだった。花散里のところなどへも、ただ手紙を送る程度で、なかなか訪れない。そのため、待つ人の側からすれば、かえって心もとなく、恨めしく思われるのであった。
