『源氏物語』第38帖「鈴虫」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第38帖「鈴虫」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第38帖「鈴虫」現代語訳全文をご覧ください。

目次

夏ごろ、蓮の花の盛りに

 夏なつごろ、蓮はちすの花はなの盛さかりに、入道にふだうの姫宮ひめみやの御持仏おほんぢぶつどもあらはしたまへる、供養くやうぜさせたまふ。

 このたびは、大殿おとどの君きみの御心みこころざしにて、御念誦堂おほんねんずだうの具ぐども、こまかに調ととのへさせたまへるを、やがてしつらはせたまふ。幡はたのさまなどなつかしう、心こころことなる唐からの錦にしきを選えらび縫ぬはせたまへり。紫むらさきの上うへぞ、急いそぎせさせたまひける。

 花机はなづくゑの覆おほひなどのをかしき目染めぞめもなつかしう、きよらなる匂にほひ、染そめつけられたる心こころばへ、目馴めなれぬさまなり。夜よるの御帳みちゃうの帷かたびらを、四面よおもてながら上あげて、後うしろの方かたに法華ほけの曼陀羅まんだらかけたてまつりて、銀しろがねの花瓶はながめに、高たかくことことしき花はなの色いろを調ととのへてたてまつり、名香みゃうがうに、唐からの百歩ひゃくぶの薫衣香くのえかうを焚たきたまへり。

 阿弥陀仏あみだぶつ、脇士けふじの菩薩ぼさち、おのおの白檀びゃくだんして作つくりたてまつりたる、こまかにうつくしげなり。閼伽あかの具ぐは、例れいの、きはやかに小ちひさくて、青あをき、白しろき、紫むらさきの蓮はちすを調ととのへて、荷葉かえふの方はうを合あはせたる名香みゃうがう、蜜みちを隠かくしほほろげて、焚たき匂にほはしたる、一ひとつ薫かをりに匂にほひ合あひて、いとなつかし。

 経きゃうは、六道ろくだうの衆生すざうのために六部ろくぶ書かかせたまひて、みづからの御持経おほんぢきゃうは、院ゐんぞ御手おほんてづから書かかせたまひける。これをだに、この世よの結縁けちえんにて、かたみに導みちびき交かはしたまふべき心こころを、願文ぐわんもんに作つくらせたまへり。

 さては、阿弥陀経あみだきゃう、唐からの紙かみはもろくて、朝夕あさゆふの御手おほんて慣ならしにもいかがとて、紙屋かみやの人ひとを召めして、ことに仰おほせ言ごと賜たまひて、心こころことにきよらに漉すかせたまへるに、この春はるのころほひより、御心みこころとどめて急いそぎ書かかせたまへるかひありて、端はしを見みたまふ人ひとびと、目めもかかやき惑まどひたまふ。

 罫けかけたる金かねの筋すぢよりも、墨すみつきの上うへにかかやくさまなども、いとなむめづらかなりける。軸ぢく、表紙へうし、筥はこのさまなど、いへばさらなりかし。これはことに沈ぢんの花足けそくの机つくゑに据すゑて、仏ほとけの御おほん同おなじ帳台ちゃうだいの上うへに飾かざらせたまへり。

堂飾り果てて

 堂飾だうかざり果はてて、講師かうじ参まう上のぼり、行道ぎゃうだうの人ひとびと参まゐり集つどひたまへば、院ゐんもあなたに出いでたまふとて、宮みやのおはします西にしの廂ひさしにのぞきたまへれば、狭せばき心地ここちする仮かりの御おほんしつらひに、所狭ところせく暑あつげなるまで、ことことしく装束さうぞきたる女房にょうばう、五ご、六十人ろくじふにんばかり集つどひたり。

 北きたの廂ひさしの簀子すのこまで、童女わらはべなどはさまよふ。火取ひとりどもあまたして、煙けぶたきまで扇あふぎ散ちらせば、さし寄よりたまひて、

「空そらに焚たくは、いづくの煙けぶりぞと思おもひ分わかれぬこそよけれ。富士ふじの嶺みねよりもけに、くゆり満みち出いでたるは、本意ほいなきわざなり。講説かうぜちの折をりは、おほかたの鳴なりを静しづめて、のどかにものの心こころも聞きき分わくべきことなれば、憚はばかりなき衣きぬの音おとなひ、人ひとのけはひ、静しづめてなむよかるべき」

 など、例れいの、もの深ふかからぬ若人わかうどどもの用意ようい教をしへたまふ。宮みやは、人気ひとげに圧おされたまひて、いと小ちひさくをかしげにて、ひれ臥ふしたまへり。

「若君わかぎみ、らうがはしからむ。抱いだき隠かくしたてまつれ」

 などのたまふ。

 北きたの御障子みさうじも取とり放はなちて、御簾みすかけたり。そなたに人ひとびとは入いれたまふ。静しづめて、宮みやにも、ものの心こころ知しりたまふべき下形したかたを聞きこえ知しらせたまふ、いとあはれに見みゆ。御座おましを譲ゆづりたまへる仏ほとけの御おほんしつらひ、見みやりたまふも、さまざまに、

「かかる方かたの御おほんいとなみをも、もろともに急いそがむものとは思おもひ寄よらざりしことなり。よし、後のちの世よにだに、かの花はなの中なかの宿やどりに、隔へだてなく、とを思おもほせ」

 とて、うち泣なきたまひぬ。

「蓮葉はちすばを同おなじ台うてなと契ちぎりおきて露つゆの分わかるる今日けふぞ悲かなしき」

 と、御硯おほんすずりにさし濡ぬらして、香染かうぞめなる御扇おほんあふぎに書かきつけたまへり。宮みや、

「隔へだてなく蓮はちすの宿やどを契ちぎりても君きみが心こころや住すまじとすらむ」

 と書かきたまへれば、

「いふかひなくも思おもほし朽くたすかな」

 と、うち笑わらひながら、なほあはれとものを思おもほしたる御みけしきなり。

例の、親王たちなども

 例れいの、親王みこたちなども、いとあまた参まゐりたまへり。御方々おほんかたがたより、我われも我われもと営いとなみ出いでたまへる捧物ほうもちのありさま、心こころことに、所狭ところせきまで見みゆ。七僧しちそうの法服ほふぶくなど、すべておほかたのことどもは、皆みな紫むらさきの上うへせさせたまへり。綾あやのよそひにて、袈裟けさの縫目ぬひめまで、見知みしる人ひとは、世よになべてならずとめでけりとや。むつかしうこまかなることどもかな。

 講師かうじのいと尊たふとく、ことの心こころを申まうして、この世よにすぐれたまへる盛さかりを厭いとひ離はなれたまひて、長ながき世々よよに絶たゆまじき御契おほんちぎりを、法華経ほけきゃうに結むすびたまふ、尊たふとく深ふかきさまを表あらはして、ただ今いまの世よの、才ざえもすぐれ、豊ゆたけきさきらを、いとど心こころして言いひ続つづけたる、いと尊たふとければ、皆人みなひと、しほたれたまふ。

 これは、ただ忍しのびて、御念誦堂おほんねんずだうの初はじめと思おぼしたることなれど、内裏うちにも、山やまの帝みかども聞きこし召めして、皆みな御使おほんつかひどもあり。御誦経みずきゃうの布施ふせなど、いと所狭ところせきまで、にはかになむこと広ひろごりける。

 院ゐんにまうけさせたまへりけることどもも、削そぐと思おぼししかど、世よの常つねならざりけるを、まいて、今いまめかしきことどもの加くははりたれば、夕ゆふべの寺てらに置おき所どころなげなるまで、所狭ところせき勢いきほひになりてなむ、僧そうどもは帰かへりける。

今しも、心苦しき御心添ひて

 今いましも、心苦こころぐるしき御心みこころ添そひて、はかりもなくかしづききこえたまふ。院ゐんの帝みかどは、この御処分ごそうぶんの宮みやに住すみ離はなれたまひなむも、つひのことにて、目めやすかりぬべく聞きこえたまへど、

「よそよそにては、おぼつかなかるべし。明あけ暮くれ見みたてまつり、聞きこえ承うけたまはらむこと怠おこたらむに、本意ほい違たがひぬべし。げに、あり果はてぬ世よいくばくあるまじけれど、なほ生いける限かぎりの心こころざしをだに失うしなひ果はてじ」

 と聞きこえたまひつつ、この宮みやをもいとこまかにきよらに造つくらせたまひ、御封みふの物ものども、国々くにぐにの御荘みさう、御牧みまきなどよりたてまつる物ものども、はかばかしきさまのは、皆みなかの三条さんでうの宮みやの御倉みくらに納をさめさせたまふ。またも、建たて添そへさせたまひて、さまざまの御宝物おほんたからものども、院ゐんの御処分ごそうぶんに数かずもなく賜たまはりたまへるなど、あなたざまの物ものは、皆みなかの宮みやに運はこび渡わたし、こまかにいかめしうし置おかせたまふ。

 明あけ暮くれの御おほんかしづき、そこらの女房にょうばうのことども、上下かみしもの育はぐくみは、おしなべてわが御扱おほんあつかひにてなど、急いそぎ仕つかうまつらせたまひける。

秋ごろ、西の渡殿の前

 秋あきごろ、西にしの渡殿わたどのの前まへ、中なかの塀へいの東ひむがしの際きはを、おしなべて野のに作つくらせたまへり。閼伽あかの棚たななどして、その方かたにしなさせたまへる御おほんしつらひなど、いとなまめきたり。

 御弟子みでしに従したがひきこえたる尼あまども、御乳母おほんめのと、古人ふるびとどもは、さるものにて、若わかき盛さかりのも、心こころ定さだまり、さる方かたにて世よを尽つくしつべき限かぎりは選えりてなむ、なさせたまひける。

 さるきほひには、我われも我われもときしろひけれど、大殿おとどの君きみ聞きこしめして、

「あるまじきことなり。心こころならぬ人ひとすこしも混まじりぬれば、かたへの人ひと苦くるしう、あはあはしき聞きこえ出いで来くるわざなり」

 と諌いさめたまひて、十余人じふよにんばかりのほどぞ、容貌かたち異ことにてはさぶらふ。

 この野のに虫むしども放はなたせたまひて、風かぜすこし涼すずしくなりゆく夕暮ゆふぐれに、渡わたりたまひつつ、虫むしの音ねを聞ききたまふやうにて、なほ思おもひ離はなれぬさまを聞きこえ悩なやましたまへば、

「例れいの御心みこころはあるまじきことにこそはあなれ」

 と、ひとへにむつかしきことに思おもひきこえたまへり。

 人目ひとめにこそ変かはることなくもてなしたまひしか、内うちには憂うきを知しりたまふけしきしるく、こよなう変かはりにし御心みこころを、いかで見みえたてまつらじの御心みこころにて、多おほうは思おもひなりたまひにし御世みよの背そむきなれば、今いまはもて離はなれて心こころやすきに、

「なほ、かやうに」

 など聞きこえたまふぞ苦くるしうて、「人ひと離はなれたらむ御住おほんすまひにもがな」と思おぼしなれど、およすけてえさも強しひ申まうしたまはず。

十五夜の夕暮に

 十五夜じふごやの夕暮ゆふぐれに、仏ほとけの御前おまへに宮みやおはして、端近はしぢかう眺ながめたまひつつ念誦ねんずしたまふ。若わかき尼君あまぎみたち二に、三人さんにん、花はなたてまつるとて鳴ならす閼伽坏あかつきの音おと、水みづのけはひなど聞きこゆる、さま変かはりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに、例れいの渡わたりたまひて、

「虫むしの音ねいとしげう乱みだるる夕ゆふべかな」

 とて、われも忍しのびてうち誦ずんじたまふ阿弥陀あみだの大呪だいじゅ、いと尊たふとくほのぼの聞きこゆ。げに、声々こゑごゑ聞きこえたる中なかに、鈴虫すずむしのふり出いでたるほど、はなやかにをかし。

「秋あきの虫むしの声こゑ、いづれとなき中なかに、松虫まつむしなむすぐれたるとて、中宮ちうぐうの、はるけき野辺のべを分わけて、いとわざと尋たづね取とりつつ放はなたせたまへる、しるく鳴なき伝つたふるこそ少すくなかなれ。名なには違たがひて、命いのちのほどはかなき虫むしにぞあるべき。

心こころにまかせて、人ひと聞きかぬ奥山おくやま、はるけき野のの松原まつばらに、声こゑ惜をしまぬも、いと隔へだて心ごころある虫むしになむありける。鈴虫すずむしは、心こころやすく、今いまめいたるこそらうたけれ」

 などのたまへば、宮みや、

「おほかたの秋あきをば憂うしと知しりにしをふり捨すてがたき鈴虫すずむしの声こゑ」

 と忍しのびやかにのたまふ。いとなまめいて、あてにおほどかなり。

「いかにとかや。いで、思おもひの外ほかなる御おほんことにこそ」とて、

「心こころもて草くさの宿やどりを厭いとへどもなほ鈴虫すずむしの声こゑぞふりせぬ」

 など聞きこえたまひて、琴きんの御琴おほんこと召めして、珍めづらしく弾ひきたまふ。宮みやの御数珠おほんずず引ひき怠おこたりたまひて、御琴おほんことになほ心入こころいれたまへり。

 月つきさし出いでて、いとはなやかなるほどもあはれなるに、空そらをうち眺ながめて、世よの中なかさまざまにつけて、はかなく移うつり変かはるありさまも思おぼし続つづけられて、例れいよりもあはれなる音ねに掻かき鳴ならしたまふ。

今宵は、例の御遊びにや

 今宵こよひは、例れいの御遊おほんあそびにやあらむと推おし量はかりて、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや渡わたりたまへり。大将だいしゃうの君きみ、殿上人てんじゃうびとのさるべきなど具ぐして参まゐりたまへれば、こなたにおはしますと、御琴おほんことの音ねを尋たづねて、やがて参まゐりたまふ。

「いとつれづれにて、わざと遊あそびとはなくとも、久ひさしく絶たえにたるめづらしき物ものの音ねなど、聞きかまほしかりつる独ひとり琴ごとを、いとよう尋たづねたまひける」

 とて、宮みやも、こなたに御座おましよそひて入いれたてまつりたまふ。内裏うちの御前おまへに、今宵こよひは月つきの宴えんあるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに、この院ゐんに人ひとびと参まゐりたまふと聞きき伝つたへて、これかれ上達部かむだちめなども参まゐりたまへり。虫むしの音ねの定さだめをしたまふ。

 御琴おほんことどもの声々こゑごゑ掻かき合あはせて、おもしろきほどに、

「月つき見みる宵よひの、いつとてもものあはれならぬ折をりはなきなかに、今宵こよひの新あらたなる月つきの色いろには、げになほ、わが世よの外ほかまでこそ、よろづ思おもひ流ながさるれ。故権大納言こだいなごん、何なにの折々をりをりにも、亡なきにつけていとど偲しのばるること多おほく、公おほやけ、私わたくし、ものの折節をりふしのにほひ失うせたる心地ここちこそすれ。花鳥はなとりの色いろにも音ねにも、思おもひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」

 などのたまひ出いでて、みづからも掻かき合あはせたまふ御琴おほんことの音ねにも、袖そで濡ぬらしたまひつ。御簾みすの内うちにも、耳みみとどめてや聞ききたまふらむと、片かたつ方かたの御心みこころには思おぼしながら、かかる御遊おほんあそびのほどには、まづ恋こひしう、内裏うちなどにも思おぼし出いでける。

「今宵こよひは鈴虫すずむしの宴えんにて明あかしてむ」

 と思おぼしのたまふ。

御土器二わたりばかり参るほどに

 御土器おほんかはらけ二ふたわたりばかり参まゐるほどに、冷泉院れいぜいゐんより御消息おほんせうそこあり。御前ごぜんの御遊おほんあそびにはかにとまりぬるを口惜くちをしがりて、左大弁さだいべん、式部大輔しきぶのたいふ、また人ひとびと率ひきゐて、さるべき限かぎり参まゐりたれば、大将だいしゃうなどは六条ろくでうの院ゐんにさぶらひたまふ、と聞きこし召めしてなりけり。

「雲くもの上うへをかけ離はなれたるすみかにももの忘わすれせぬ秋あきの夜よの月つき

同おなじくは」

 と聞きこえたまへれば、

「何なにばかり所狭ところせき身みのほどにもあらずながら、今いまはのどやかにおはしますに、参まゐり馴なるることもをさをさなきを、本意ほいなきことに思おぼしあまりて、おどろかさせたまへる、かたじけなし」

 とて、にはかなるやうなれど、参まゐりたまはむとす。

「月影つきかげは同おなじ雲居くもゐに見みえながらわが宿やどからの秋あきぞ変かはれる」

 異ことなることなかめれど、ただ昔今むかしいまの御おほんありさまの思おぼし続つづけられけるままなめり。御使おほんつかひに盃さかづき賜たまひて、禄ろくいと二になし。

人びとの御車、次第のままに

 人ひとびとの御車おほんくるま、次第しだいのままに引ひき直なほし、御前ごぜんの人ひとびと立たち混こみて、静しづかなりつる御遊おほんあそび紛まぎれて、出いでたまひぬ。院ゐんの御車おほんくるまに、親王みこたてまつり、大将だいしゃう、左衛門督さゑもんのかみ、藤宰相とうさいしゃうなど、おはしける限かぎり皆みな参まゐりたまふ。

 直衣なほしにて、軽かろらかなる御おほんよそひどもなれば、下襲したがさねばかりたてまつり加くはへて、月つきややさし上あがり、更ふけぬる空そらおもしろきに、若わかき人ひとびと、笛ふえなどわざとなく吹ふかせたまひなどして、忍しのびたる御参おほんまゐりのさまなり。

 うるはしかるべき折節をりふしは、所狭ところせくよだけき儀式ぎしきを尽つくして、かたみに御覧ごらんぜられたまひ、また、いにしへのただ人びとざまに思おぼし返かへりて、今宵こよひは軽々かるがるしきやうに、ふとかく参まゐりたまへれば、いたう驚おどろき、待まち喜よろこびきこえたまふ。

 ねびととのひたまへる御容貌おほんかたち、いよいよ異ことものならず。いみじき御盛おほんさかりの世よを、御心みこころと思おぼし捨すてて、静しづかなる御おほんありさまに、あはれ少すくなからず。

 その夜よの歌うたども、唐からのも大和やまとのも、心こころばへ深ふかうおもしろくのみなむ。例れいの、言こと足たらぬ片端かたはしは、まねぶもかたはらいたくてなむ。明あけ方がたに文ふみなど講かうじて、とく人ひとびとまかでたまふ。

六条院は、中宮の御方に

 六条院ろくでうのゐんは、中宮ちうぐうの御方おほんかたに渡わたりたまひて、御物語おほんものがたりなど聞きこえたまふ。

「今いまはかう静しづかなる御住おほんすまひに、しばしばも参まゐりぬべく、何なにとはなけれど、過すぐる齢よはひに添そへて、忘わすれぬ昔むかしの御物語おほんものがたりなど、承うけたまはり聞きこえまほしう思おもひたまふるに、何なににもつかぬ身みのありさまにて、さすがにうひうひしく、所狭ところせくもはべりてなむ。

我われより後のちの人ひとびとに、方々かたがたにつけて後おくれゆく心地ここちしはべるも、いと常つねなき世よの心細こころぼそさの、のどめがたうおぼえはべれば、世離よはなれたる住すまひにもやと、やうやう思おもひ立たちぬるを、残のこりの人ひとびとのものはかなからむ、漂ただよはしたまふな、と先々さきざきも聞きこえつけし心違こころたがへず、思おぼしとどめてものせさせたまへ」

 など、まめやかなるさまに聞きこえさせたまふ。

 例れいの、いと若わかうおほどかなる御おほんけはひにて、

「九重ここのへの隔へだて深ふかうはべりし年としごろよりも、おぼつかなさのまさるやうに思おもひたまへらるるありさまを、いと思おもひの外ほかに、むつかしうて、皆人みなひとの背そむきゆく世よを、厭いとはしう思おもひなることもはべりながら、その心こころの内うちを聞きこえさせうけたまはらねば、何事なにごともまづ頼たのもしき蔭かげには聞きこえさせならひて、いぶせくはべる」

 と聞きこえたまふ。

「げに、公おほやけざまにては、限かぎりある折節をりふしの御里居おほんさとゐも、いとよう待まちつけきこえさせしを、今いまは何事なにごとにつけてかは、御心みこころにまかせさせたまふ御移おほんうつろひもはべらむ。定さだめなき世よと言いひながらも、さして厭いとはしきことなき人ひとの、さはやかに背そむき離はなるるもありがたう、心こころやすかるべきほどにつけてだに、おのづから思おもひかかづらふほだしのみはべるを、などか、その人ひとまねにきほふ御道心おほんだうしんは、かへりてひがひがしう推おし量はかりきこえさする人ひともこそはべれ。かけてもいとあるまじき御おほんことになむ」

 と聞きこえたまふを、「深ふかうも汲くみはかりたまはぬなめりかし」と、つらう思おもひきこえたまふ。

御息所の、御身の苦しう

 御息所みやすんどころの、御身おほんみの苦くるしうなりたまふらむありさま、いかなる煙けぶりの中なかに惑まどひたまふらむ、亡なき影かげにても、人ひとに疎うとまれたてまつりたまふ御名おほんなのりなどの出いで来きけること、かの院ゐんにはいみじう隠かくしたまひけるを、おのづから人ひとの口くちさがなくて、伝つたへ聞きこし召めしける後のち、いと悲かなしういみじくて、なべての世よの厭いとはしく思おぼしなりて、仮かりにても、かののたまひけむありさまの詳くはしう聞きかまほしきを、まほにはえうち出いで聞きこえたまはで、ただ、

「亡なき人ひとの御おほんありさまの、罪つみ軽かろからぬさまに、ほの聞きくことのはべりしを、さるしるしあらはならでも、推おし量はかり伝つたへつべきことにはべりけれど、後おくれしほどのあはればかりを忘わすれぬことにて、もののあなた思おもうたまへやらざりけるがものはかなさを、いかでよう言いひ聞きかせむ人ひとの勧すすめをも聞ききはべりて、みづからだに、かの炎ほのほをも冷さましはべりにしがなと、やうやう積つもるになむ、思おもひ知しらるることもありける」

 など、かすめつつぞのたまふ。

「げに、さも思おぼしぬべきこと」と、あはれに見みたてまつりたまうて、

「その炎ほのほなむ、誰たれも逃のがるまじきことと知しりながら、朝あしたの露つゆのかかれるほどは、思おもひ捨すてはべらぬになむ。目蓮もくれんが仏ほとけに近ちかき聖ひじりの身みにて、たちまちに救すくひけむ例ためしにも、え継つがせたまはざらむものから、玉たまの簪かんざし捨すてさせたまはむも、この世よには恨うらみ残のこるやうなるわざなり。

やうやうさる御心みこころざしをしめたまひて、かの御煙おほんけぶり晴はるべきことをせさせたまへ。しか思おもひたまふることはべりながら、もの騒さわがしきやうに、静しづかなる本意ほいもなきやうなるありさまに明あけ暮くらしはべりつつ、みづからの勤つとめに添そへて、今いま静しづかにと思おもひたまふるも、げにこそ、心幼こころをさなきことなれ」

 など、世よの中なかなべてはかなく、厭いとひ捨すてまほしきことを聞きこえ交かはしたまへど、なほ、やつしにくき御身おほんみのありさまどもなり。

昨夜はうち忍びて

 昨夜よべはうち忍しのびてかやすかりし御歩おほんありき、今朝けさは表あらはれたまひて、上達部かむだちめども、参まゐりたまへる限かぎりは皆みな御送おほんおくり仕つかうまつりたまふ。

 春宮とうぐうの女御にょうごの御おほんありさま、並ならびなく、いつきたてたまへるかひがひしさも、大将だいしゃうのまたいと人ひとに異ことなる御おほんさまをも、いづれとなくめやすしと思おぼすに、なほ、この冷泉院れいぜいゐんを思おもひきこえたまふ御心みこころざしは、すぐれて深ふかくあはれにぞおぼえたまふ。院ゐんも常つねにいぶかしう思おもひきこえたまひしに、御対面おほんたいめんのまれにいぶせうのみ思おぼされけるに、急いそがされたまひて、かく心安こころやすきさまにと思おぼしなりけるになむ。

 中宮ちうぐうぞ、なかなかまかでたまふこともいと難かたうなりて、ただ人びとの仲なかのやうに並ならびおはしますに、今いまめかしう、なかなか昔むかしよりもはなやかに、御遊おほんあそびをもしたまふ。何なにごとも御心みこころやれるありさまながら、ただかの御息所みやすんどころの御事おほんことを思おぼしやりつつ、行おこなひの御心みこころ進すすみにたるを、人ひとの許ゆるしきこえたまふまじきことなれば、功徳くどくのことを立たてて思おぼしいとなみ、いとど心深こころぶかう、世よの中なかを思おぼし取とれるさまになりまさりたまふ。

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