『源氏物語』第51帖「浮舟」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第51帖「浮舟」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第51帖「浮舟」現代語訳全文をご覧ください。

目次

宮、なほ、かのほのかなりし夕べを

 宮みや、なほ、かのほのかなりし夕ゆふべを思おぼし忘わするる世よなし。「ことことしきほどにはあるまじげなりしを、人柄ひとがらのまめやかにをかしうもありしかな」と、いとあだなる御心みこころは、「口惜くちをしくてやみにしこと」と、ねたう思おぼさるるままに、女君をんなぎみをも、

「かう、はかなきことゆゑ、あながちに、かかる筋すぢのもの憎にくみしたまひけり。思おもはずに心憂こころうし」

 と、恥はづかしめ怨うらみきこえたまふ折々をりをりは、いと苦くるしうて、「ありのままにや聞きこえてまし」と思おぼせど、

「やむごとなきさまにはもてなしたまはざなれど、浅あさはかならぬ方かたに、心こころとどめて人ひとの隠かくし置おきたまへる人ひとを、物もの言いひさがなく聞きこえ出いでたらむにも、さて聞きき過すぐしたまふべき御心みこころざまにもあらざめり。

さぶらふ人ひとの中なかにも、はかなうものをものたまひ触ふれむと思おぼし立たちぬる限かぎりは、あるまじき里さとまで尋たづねさせたまふ御おほんさまよからぬ御本性おほんほんじゃうなるに、さばかり月日つきひを経へて、思おぼししむめるあたりは、ましてかならず見苦みぐるしきこと取とり出いでたまひてむ。他ほかより伝つたへ聞ききたまはむはいかがはせむ。

いづ方かたざまにもいとほしくこそはありとも、防ふせぐべき人ひとの御心みこころありさまならねば、よその人ひとよりは聞ききにくくなどばかりぞおぼゆべき。とてもかくても、わがおこたりにてはもてそこなはじ」

 と思おもひ返かへしたまひつつ、いとほしながらえ聞きこえ出いでたまはず、異ことざまにつきづきしくは、え言いひなしたまはねば、おしこめてもの怨うらじしたる、世よの常つねの人ひとになりてぞおはしける。

かの人は、たとしへなくのどかに

 かの人ひとは、たとしへなくのどかに思おぼしおきてて、「待まち遠とほなりと思おもふらむ」と、心苦こころぐるしうのみ思おもひやりたまひながら、所狭ところせき身みのほどを、さるべきついでなくて、かやしく通かよひたまふべき道みちならねば、神かみのいさむるよりもわりなし。されど、

「今いまいとよくもてなさむ、とす。山里やまざとの慰なぐさめと思おもひおきてし心こころあるを、すこし日数ひかずも経へぬべきことども作つくり出いでて、のどやかに行ゆきても見みむ。さて、しばしは人ひとの知しるまじき住すみ所ところして、やうやうさる方かたに、かの心こころをものどめおき、わがためにも、人ひとのもどきあるまじく、なのめにてこそよからめ。

にはかに、何人なにびとぞ、いつより、など聞ききとがめられむも、もの騒さわがしく、初はじめの心こころに違たがふべし。また、宮みやの御方おほんかたの聞きき思おぼさむことも、もとの所ところを際々きはぎはしう率ゐて離はなれ、昔むかしを忘わすれ顔がほならむ、いと本意ほいなし」

 など思おぼし静しづむるも、例れいの、のどけさ過すぎたる心こころからなるべし。渡わたすべきところ思おぼしまうけて、忍しのびてぞ造つくらせたまひける。

すこしいとまなきやうにも

 すこしいとまなきやうにもなりたまひにたれど、宮みやの御方おほんかたには、なほたゆみなく心寄こころよせ仕つかうまつりたまふこと同おなじやうなり。見みたてまつる人ひともあやしきまで思おもへれど、世よの中なかをやうやう思おぼし知しり、人ひとのありさまを見み聞ききたまふままに、「これこそはまことに昔むかしを忘わすれぬ心長こころながさの、名残なごりさへ浅あさからぬためしなめれ」と、あはれも少すくなからず。

 ねびまさりたまふままに、人柄ひとがらもおぼえも、さま殊ことにものしたまへば、宮みやの御心みこころのあまり頼たのもしげなき時々ときどきは、

「思おもはずなりける宿世すくせかな。故姫君こひめぎみの思おぼしおきてしままにもあらで、かくもの思おもはしかるべき方かたにしもかかりそめけむよ」

 と思おぼす折々をりをり多おほくなむ。されど、対面たいめんしたまふことは難かたし。

 年月としつきもあまり昔むかしを隔へだてゆき、うちうちの御心みこころを深ふかう知しらぬ人ひとは、なほなほしきただ人ひとこそ、さばかりのゆかり尋たづねたる睦むつびをも忘わすれぬに、つきづきしけれ、なかなか、かう限かぎりあるほどに、例れいに違たがひたるありさまも、つつましければ、宮みやの絶たえず思おぼし疑うたがひたるも、いよいよ苦くるしう思おぼし憚はばかりたまひつつ、おのづから疎うときさまになりゆくを、さりとても絶たえず、同おなじ心こころの変かはりたまはぬなりけり。

 宮みやも、あだなる御本性おほんほんじゃうこそ、見みまうきふしも混まじれ、若君わかぎみのいとうつくしうおよすけたまふままに、「他ほかにはかかる人ひとも出いで来こまじきにや」と、やむごとなきものに思おぼして、うちとけなつかしき方かたには、人ひとにまさりてもてなしたまへば、ありしよりはすこしもの思おもひ静しづまりて過すぐしたまふ。

睦月の朔日過ぎたるころ渡りたまひて

 睦月むつきの朔日ついたち過すぎたるころ渡わたりたまひて、若君わかぎみの年としまさりたまへるを、もて遊あそびうつくしみたまふ昼ひるつ方かた、小ちひさき童わらは、緑みどりの薄様うすやうなる包つつみ文ふみの大おほきやかなるに、小ちひさき鬚籠ひげこを小ちひ松まつにつけたる、また、すくすくしき立文たてぶみとり添そへて、奥おくなく走はしり参まゐる。女君をんなぎみにたてまつれば、宮みや、

「それは、いづくよりぞ」

 とのたまふ。

「宇治うぢより大輔たいふのおとどにとて、もてわづらひはべりつるを、例れいの、御前おまへにてぞ御覧ごらんぜむとて、取とりはべりぬる」

 と言いふも、いとあわたたしきけしきにて、

「この籠こは、金かねを作つくりて色いろどりたる籠こなりけり。松まつもいとよう似にて作つくりたる枝えだぞとよ」

 と、笑わらみて言いひ続つづくれば、宮みやも笑わらひたまひて、

「いで、我われももてはやしてむ」

 と召めすを、女君をんなぎみ、いとかたはらいたく思おぼして、

「文ふみは、大輔たいふがりやれ」

 とのたまふ。御顔おほんかほの赤あかみたれば、宮みや、「大将だいしゃうのさりげなくしなしたる文ふみにや、宇治うぢの名なのりもつきづきし」と思おぼし寄よりて、この文ふみを取とりたまひつ。

 さすがに、「それならむ時ときに」と思おぼすに、いとまばゆければ、

「開あけて見みむよ。怨うらじやしたまはむとする」

 とのたまへば、

「見苦みぐるしう。何なにかは、その女をんなどちのなかに書かき通かよはしたらむうちとけ文ふみをば、御覧ごらんぜむ」

 とのたまふが、騒さわがぬけしきなれば、

「さは、見みむよ。女をんなの文ふみ書かきは、いかがある」

 とて開あけたまへれば、いと若わかやかなる手てにて、

「おぼつかなくて、年としも暮くれはべりにける。山里やまざとのいぶせさこそ、峰みねの霞かすみも絶たえ間まなくて」

 とて、端はしに、

「これも若宮わかみやの御前おまへに。あやしうはべるめれど」

 と書かきたり。

ことにらうらうじきふしも見えねど

 ことにらうらうじきふしも見みえねど、おぼえなき、御目おほんめ立たてて、この立文たてぶみを見みたまへば、げに女をんなの手てにて、

「年とし改あらたまりて、何なにごとかさぶらふ。御おほん私わたくしにも、いかにたのしき御おほんよろこび多おほくはべらむ。

ここには、いとめでたき御おほん住すまひの心深こころふかさを、なほ、ふさはしからず見みたてまつる。かくてのみ、つくづくと眺ながめさせたまふよりは、時々ときどきは渡わたり参まゐらせたまひて、御心みこころも慰なぐさめさせたまへ、と思おもひはべるに、つつましく恐おそろしきものに思おぼしとりてなむ、もの憂うきことに嘆なげかせたまふめる。

若宮わかみやの御前おまへにとて、卯槌うづちまゐらせたまふ。大おほき御前おまへの御覧ごらんぜざらむほどに、御覧ごらんぜさせたまへ、とてなむ」

 と、こまごまと言忌こといみもえしあへず、もの嘆なげかしげなるさまのかたくなしげなるも、うち返かへしうち返かへし、あやしと御覧ごらんじて、

「今いまは、のたまへかし。誰たれがぞ」

 とのたまへば、

「昔むかし、かの山里やまざとにありける人ひとの娘むすめの、さるやうありて、このころかしこにあるとなむ聞ききはべりし」

 と聞きこえたまへば、おしなべて仕つかうまつるとは見みえぬ文ふみ書かきを心得こころえたまふに、かのわづらはしきことあるに思おぼし合あはせつ。

 卯槌うづちをかしう、つれづれなりける人ひとのしわざと見みえたり。またぶりに、山橘やまたちばな作つくりて、貫つらぬき添そへたる枝えだに、

「まだ古ふるりぬ物ものにはあれど君きみがため深ふかき心こころに待まつと知しらなむ」

 と、ことなることなきを、「かの思おもひわたる人ひとのにや」と思おぼし寄よりぬるに、御目おほんめとまりて、

「返かへり事ことしたまへ。情なさけなし。隠かくいたまふべき文ふみにもあらざめるを。など、御おほんけしきの悪あしき。まかりなむよ」

 とて、立たちたまひぬ。女君をんなぎみ、少将せうしゃうなどして、

「いとほしくもありつるかな。幼をさなき人ひとの取とりつらむを、人ひとはいかで見みざりつるぞ」

 など、忍しのびてのたまふ。

「見みたまへましかば、いかでかは、参まゐらせまし。すべて、この子こは心地ここちなうさし過すぐしてはべり。生おひ先さき見みえて、人ひとは、おほどかなるこそをかしけれ」

 など憎にくめば、

「あなかま。幼をさなき人ひと、な腹立はらだてそ」

 とのたまふ。去年こぞの冬ふゆ、人ひとの参まゐらせたる童わらはの、顔かほはいとうつくしかりければ、宮みやもいとらうたくしたまふなりけり。

わが御方におはしまして

 わが御方おほんかたにおはしまして、

「あやしうもあるかな。宇治うぢに大将だいしゃうの通かよひたまふことは、年としごろ絶たえずと聞きくなかにも、忍しのびて夜よ泊とまりたまふ時ときもあり、と人ひとの言いひしを、いとあまりなる人ひとの形見かたみとて、さるまじき所ところに旅寝たびねしたまふらむこと、と思おもひつるは、かやうの人ひと隠かくし置おきたまへるなるべし」

 と思おぼし得えることもありて、御おほん書かのことにつけて使つかひたまふ大内記だいないきなる人ひとの、かの殿とのに親したしきたよりあるを思おぼし出いでて、御前おまへに召めす。参まゐれり。

「韻塞ゐんふたぎすべきに、集しふども選えり出いでて、こなたなる厨子づしに積つむべきこと」

 などのたまはせて、

「右大将うだいしゃうの宇治うぢへいますること、なほ絶たえ果はてずや。寺てらをこそ、いとかしこく造つくりたなれ。いかでか見みるべき」

 とのたまへば、

「寺てらいとかしこく、いかめしく造つくられて、不断ふだんの三昧堂さんまいだうなど、いと尊たふとくおきてられたり、となむ聞ききたまふる。通かよひたまふことは、去年こぞの秋あきごろよりは、ありしよりも、しばしばものしたまふなり。

下したの人ひとびとの忍しのびて申まうししは、女をんなをなむ隠かくし据すゑさせたまへる、けしうはあらず思おぼす人ひとなるべし。あのわたりに領りゃうじたまふ所々ところどころの人ひと、皆みな仰おほせにて参まゐり仕つかうまつる。宿直とのゐにさし当あてなどしつつ、京きゃうよりもいと忍しのびて、さるべきことなど問とはせたまふ。いかなる幸さいはひ人ひとの、さすがに心細こころぼそくてゐたまへるならむとなむ、ただこの師し走はしのころほひ申まうす、と聞ききたまへし」

 と聞きこゆ。

いとうれしくも聞きつるかなと思ほして

「いとうれしくも聞ききつるかな」と思おもほして、

「たしかにその人ひととは、言いはずや。かしこにもとよりある尼あまぞ、訪とぶらひたまふと聞ききし」

「尼あまは、廊らうになむ住すみはべるなる。この人ひとは、今いま建たてられたるになむ、きたなげなき女房にょうばうなどもあまたして、口惜くちをしからぬけはひにてゐてはべる」

 と聞きこゆ。

「をかしきことかな。何心なにごころありて、いかなる人ひとをかは、さて据すゑたまひつらむ。なほ、いとけしきありて、なべての人ひとに似にぬ御心みこころなりや。

右みぎの大臣おとどなど、この人ひとのあまりに道心だうしんに進すすみて、山寺やまでらに、夜よさへともすれば泊とまりたまふなる、軽々かるがるしともどきたまふと聞ききしを、げに、などかさしも仏ほとけの道みちには忍しのびありくらむ。なほ、かの故里ふるさとに心こころをとどめたると聞ききし、かかることこそはありけれ。

いづら、人ひとよりはまめなるとさかしがる人ひとしも、ことに人ひとの思おもひいたるまじき隈くまある構かまへよ」

 とのたまひて、いとをかしと思おもいたり。この人ひとは、かの殿とのにいと睦むつましく仕つかうまつる家司けいしの婿むこになむありければ、隠かくしたまふことも聞きくなるべし。

 御心みこころの内うちには、「いかにして、この人ひとを、見みし人ひとかとも見み定さだめむ。かの君きみの、さばかりにて据すゑたるは、なべてのよろし人ひとにはあらじ。このわたりには、いかで疎うとからぬにかはあらむ。心こころを交かはして隠かくしたまへりけるも、いとねたう」おぼゆ。

ただそのことを、このころは思ししみたり

 ただそのことを、このころは思おぼししみたり。賭弓のりゆみ、内宴ないえんなど過すぐして、心こころのどかなるに、司召つかさめしなど言いひて、人ひとの心尽こころづくすめる方かたは、何なにとも思おぼさねば、宇治うぢへ忍しのびておはしまさむことをのみ思おぼしめぐらす。この内記ないきは、望のぞむことありて、夜昼よるひる、いかで御心みこころに入いらむと思おもふころ、例れいよりはなつかしう召めし使つかひて、

「いと難かたきことなりとも、わが言いはむことは、たばかりてむや」

 などのたまふ。かしこまりてさぶらふ。

「いと便びんなきことなれど、かの宇治うぢに住すむらむ人ひとは、はやうほのかに見みし人ひとの、行方ゆくへも知しらずなりにしが、大将だいしゃうに尋たづね取とられにける、と聞ききあはすることこそあれ。たしかには知しるべきやうもなきを、ただ、ものより覗のぞきなどして、それかあらぬかと見み定さだめむ、となむ思おもふ。いささか人ひとに知しるまじき構かまへは、いかがすべき」

 とのたまへば、「あな、わづらはし」と思おもへど、

「おはしまさむことは、いと荒あらき山やま越こえになむはべれど、ことにほど遠とほくはさぶらはずなむ。夕ゆふつ方かた出いでさせおはしまして、亥子ゐねの時ときにはおはしまし着つきなむ。さて、暁あかつきにこそは帰かへらせたまはめ。人ひとの知しりはべらむことは、ただ御供おほんともにさぶらひはべらむこそは。それも、深ふかき心こころはいかでか知しりはべらむ」

 と申まうす。

「さかし。昔むかしも、一度ひとたび二度ふたたび、通かよひし道みちなり。軽々かるがるしきもどき負おひぬべきが、ものの聞きこえのつつましきなり」

 とて、返かへす返かへすあるまじきことに、わが御心みこころにも思おぼせど、かうまでうち出いでたまへれば、え思おもひとどめたまはず。

御供に、昔もかしこの案内知れりし者

 御供おほんともに、昔むかしもかしこの案内あない知しれりし者もの、二ふたり、三人みたり、この内記ないき、さては御乳母子おほんめのとごの蔵人くらうどよりかうぶり得えたる若わかき人ひと、睦むつましき限かぎりを選えりたまひて、「大将だいしゃう、今日けふ明日あすよにおはせじ」など、内記ないきによく案内あない聞ききたまひて、出いで立たちたまふにつけても、いにしへを思おぼし出いづ。

「あやしきまで心こころを合あはせつつ率ゐてありきし人ひとのために、うしろめたきわざにもあるかな」と、思おぼし出いづることもさまざまなるに、京きゃうのうちだに、むげに人ひと知しらぬ御おほんありきは、さはいへど、えしたまはぬ御身おほんみにしも、あやしきさまのやつれ姿すがたして、御馬おほんむまにておはする心地ここちも、もの恐おそろしくややましけれど、もののゆかしき方かたは進すすみたる御心みこころなれば、山やま深ふかうなるままに、「いつしか、いかならむ、見みあはすることもなくて帰かへらむこそ、さうざうしくあやしかるべけれ」と思おぼすに、心こころも騷さわぎたまふ。

 法性寺ほっしゃうじのほどまでは御車みくるまにて、それよりぞ御馬おほんむまにはたてまつりける。急いそぎて、宵よひ過すぐるほどにおはしましぬ。内記ないき、案内あないよく知しれるかの殿とのの人ひとに問とひ聞ききたりければ、宿直人とのゐびとある方かたには寄よらで、葦垣あしがきし籠こめたる西にし表おもてを、やをらすこしこぼちて入いりぬ。

 我われもさすがにまだ見みぬ御おほん住すまひなれば、たどたどしけれど、人ひとしげうなどしあらねば、寝殿しんでんの南みなみ表おもてにぞ、火ひほの暗くらう見みえて、そよそよとする音おとする。参まゐりて、

「まだ、人ひとは起おきてはべるべし。ただ、これよりおはしまさむ」

 と、しるべして入いれたてまつる。

やをら昇りて、格子の隙あるを

 やをら昇のぼりて、格子かうしの隙ひまあるを見みつけて寄よりたまふに、伊予簾いよすはさらさらと鳴なるもつつまし。新あたらしうきよげに造つくりたれど、さすがに粗々あらあらしくて隙ひまありけるを、誰たれかは来きて見みむとも、うちとけて、穴あなも塞ふたがず、几帳きちゃうの帷子かたびらうちかけておしやりたり。

 火ひ明あかう灯ひして、もの縫ぬふ人ひと、三さん、四人よたり居ゐたり。童わらはのをかしげなる、糸いとをぞ縒よる。これが顔かほ、まづかの火影ほかげに見みたまひしそれなり。うちつけ目めかと、なほ疑うたがはしきに、右近うこんと名なのりし若わかき人ひともあり。君きみは、腕かひなを枕まくらにて、火ひを眺ながめたるまみ、髪かみのこぼれかかりたる額ひたひつき、いとあてやかになまめきて、対たいの御方おほんかたにいとようおぼえたり。

 この右近うこん、物もの折をるとて、

「かくて渡わたらせたまひなば、とみにしもえ帰かへり渡わたらせたまはじを、殿とのは、この司召つかさめしのほど過すぎて、朔日ついたちころにはかならずおはしましなむと、昨日きのふの御使おほんつかひも申まうしけり。御文おほんふみには、いかが聞きこえさせたまへりけむ」

 と言いへど、いらへもせず、いともの思おもひたるけしきなり。

「折をりしも、はひ隠かくれさせたまへるやうならむが、見苦みぐるしさ」

 と言いへば、向むひたる人ひと、

「それは、かくなむ渡わたりぬると、御消息おほんせうそこ聞きこえさせたまへらむこそよからめ。軽々かるがるしう、いかでかは、音おとなくては、はひ隠かくれさせたまはむ。御おほん物詣ものまうでの後のちは、やがて渡わたりおはしましねかし。かくて心細こころぼそきやうなれど、心こころにまかせてやすらかなる御おほん住すまひにならひて、なかなか旅たび心地ここちすべしや」

 など言いふ。またあるは、

「なほ、しばし、かくて待まちきこえさせたまはむぞ、のどやかにさまよかるべき。京きゃうへなど迎むかへたてまつらせたまへらむ後のち、おだしくて親おやにも見みえたてまつらせたまへかし。このおとどの、いと急いそにものしたまひて、にはかにかう聞きこえなしたまふなめりかし。昔むかしも今いまも、もの念ねんじしてのどかなる人ひとこそ、幸さいはひは見果みはてたまふなれ」

 など言いふなり。右近うこん、

「などて、この乳母めのとをとどめたてまつらずなりにけむ。老おいぬる人ひとは、むつかしき心こころのあるにこそ」

 と憎にくむは、乳母めのとやうの人ひとをそしるなめり。「げに、憎にくき者ものありかし」と思おぼし出いづるも、夢ゆめの心地ここちぞする。かたはらいたきまで、うちとけたることどもを言いひて、

「宮みやの上うへこそ、いとめでたき御おほん幸さいはひなれ。右みぎの大殿おほいどのの、さばかりめでたき御勢おほんいきほひにて、いかめしうののしりたまふなれど、若君わかぎみ生むまれたまひて後のちは、こよなくぞおはしますなる。かかるさかしら人ひとどものおはせで、御心みこころのどかに、かしこうもてなしておはしますにこそはあめれ」

 と言いふ。

「殿とのだに、まめやかに思おもひきこえたまふこと変かはらずは、劣おとりきこえたまふべきことかは」

 と言いふを、君きみ、すこし起おき上あがりて、

「いと聞ききにくきこと。よその人ひとにこそ、劣おとらじともいかにとも思おもはめ、かの御おほんことなかけても言いひそ。漏もり聞きこゆるやうもあらば、かたはらいたからむ」

 など言いふ。

何ばかりの親族にかはあらむ

「何なにばかりの親おや族ぞうにかはあらむ。いとよくも似にかよひたるけはひかな」と思おもひ比くらぶるに、「心恥こころはづかしげにてあてなるところは、かれはいとこよなし。これはただらうたげにこまかなるところぞいとをかしき」。よろしう、なりあはぬところを見みつけたらむにてだに、さばかりゆかしと思おぼししめたる人ひとを、それと見みて、さてやみたまふべき御心みこころならねば、まして隈くまもなく見みたまふに、「いかでかこれをわがものにはなすべき」と、心こころも空そらになりたまひて、なほまもりたまへば、右近うこん、

「いとねぶたし。昨夜よべもすずろに起おき明あかしてき。明あ朝あさのほどにも、これは縫ぬひてむ。急いそがせたまふとも、御車みくるまは日ひたけてぞあらむ」

 と言いひて、しさしたるものどもとり具ぐして、几帳きちゃうにうち掛かけなどしつつ、うたた寝ねのさまに寄より臥ふしぬ。君きみもすこし奥おくに入いりて臥ふす。右近うこんは北きた表おもてに行ゆきて、しばしありてぞ来きたる。君きみのあと近ちかく臥ふしぬ。

 ねぶたしと思おもひければ、いととう寝ね入いりぬるけしきを見みたまひて、またせむやうもなければ、忍しのびやかにこの格子かうしをたたきたまふ。右近うこん聞ききつけて、

「誰たれそ」

 と言いふ。声こゑづくりたまへば、あてなるしはぶきと聞きき知しりて、「殿とののおはしたるにや」と思おもひて、起おきて出いでたり。

「まづ、これ開あけよ」

 とのたまへば、

「あやしう。おぼえなきほどにもはべるかな。夜よはいたう更ふけはべりぬらむものを」

 と言いふ。

「ものへ渡わたりたまふべかなりと、仲信なかのぶが言いひつれば、驚おどろかれつるままに出いで立たちて。いとこそわりなかりつれ。まづ開あけよ」

 とのたまふ声こゑ、いとようまねび似にせたまひて、忍しのびたれば、思おもひも寄よらず、かい放はなつ。

「道みちにて、いとわりなく恐おそろしきことのありつれば、あやしき姿すがたになりてなむ。火ひ暗くらうなせ」

 とのたまへば、

「あな、いみじ」

 とあわてまどひて、火ひは取とりやりつ。

「我われ、人ひとに見みすなよ。来きたりとて、人ひと驚おどろかすな」

 と、いとらうらうじき御心みこころにて、もとよりもほのかに似にたる御声おほんこゑを、ただかの御おほんけはひにまねびて入いりたまふ。「ゆゆしきことのさまとのたまひつる、いかなる御姿おほんすがたならむ」といとほしくて、我われも隠かくろへて見みたてまつる。

 いと細ほそやかになよなよと装束さうぞくきて、香かの香かうばしきことも劣おとらず。近ちかう寄よりて、御衣おほんぞども脱ぬぎ、馴なれ顔がほにうち臥ふしたまへれば、

「例れいの御座おましにこそ」

 など言いへど、ものものたまはず。御おほん衾ふすま参まゐりて、寝ねつる人ひとびと起おこして、すこし退しぞきて皆みな寝ねぬ。御供おほんともの人ひとなど、例れいの、ここには知しらぬならひにて、

「あはれなる、夜よのおはしましざまかな」

「かかる御おほんありさまを、御覧ごらんじ知しらぬよ」

 など、さかしらがる人ひともあれど、

「あなかま、たまへ。夜よ声こゑは、ささめくしもぞ、かしかましき」

 など言いひつつ寝ねぬ。

 女君をんなぎみは、「あらぬ人ひとなりけり」と思おもふに、あさましういみじけれど、声こゑをだにせさせたまはず。いとつつましかりし所ところにてだに、わりなかりし御心みこころなれば、ひたぶるにあさまし。初はじめよりあらぬ人ひとと知しりたらば、いかがいふかひもあるべきを、夢ゆめの心地ここちするに、やうやう、その折をりのつらかりし、年月としつきごろ思おもひわたるさまのたまふに、この宮みやと知しりぬ。

 いよいよ恥はづかしく、かの上うへの御おほんことなど思おもふに、またたけきことなければ、限かぎりなう泣なく。宮みやも、なかなかにて、たはやすく逢あひ見みざらむことなどを思おぼすに、泣なきたまふ。

夜は、ただ明けに明く

 夜よは、ただ明あけに明あく。御供おほんともの人ひと来きて声こゑづくる。右近うこん聞ききて参まゐれり。出いでたまはむ心地ここちもなく、飽あかずあはれなるに、またおはしまさむことも難かたければ、「京きゃうには求もとめ騒さわがるとも、今日けふばかりはかくてあらむ。何事なにごとも生いける限かぎりのためこそあれ」。ただ今いま出いでおはしまさむは、まことに死しぬべく思おぼさるれば、この右近うこんを召めし寄よせて、

「いと心地ここちなしと思おもはれぬべけれど、今日けふはえ出いづまじうなむある。男をとこどもは、このわたり近ちかからむ所ところに、よく隠かくろへてさぶらへ。時方ときかたは、京きゃうへものして、山寺やまでらに忍しのびてなむとつきづきしからむさまに、いらへなどせよ」

 とのたまふに、いとあさましくあきれて、心こころもなかりける夜よの過すちを思おもふに、心地ここちも惑まどひぬべきを、思おもひ静しづめて、

「今いまは、よろづにおぼほれ騒さわぐとも、かひあらじものから、なめげなり。あやしかりし折をりに、いと深ふかう思おぼし入いれたりしも、かう逃のがれざりける御宿世おほんすくせにこそありけれ。人ひとのしたるわざかは」

 と思おもひ慰なぐさめて、

「今日けふ、御迎おほんむかへにとはべりしを、いかにせさせたまはむとする御おほんことにか。かう逃のがれきこえさせたまふまじかりける御宿世おほんすくせは、いと聞きこえさせはべらむ方かたなし。折をりこそいとわりなくはべれ。なほ、今日けふは出いでおはしまして、御心みこころざしはべらば、のどかにも」

 と聞きこゆ。「およすけても言いふかな」と思おぼして、

「我われは、月つきごろ思おもひつるに、ほれ果はてにければ、人ひとのもどかむも言いはむも知しられず、ひたぶるに思おもひなりにたり。すこしも身みのことを思おもひ憚はばかからむ人ひとの、かかるありきは思おもひ立たちなむや。御返おほんかへりには、今日けふは物忌ものいみなど言いへかし。人ひとに知しらるまじきことを、誰たれがためにも思おもへかし。異事ことごとはかひなし」

 とのたまひて、この人ひとの、世よに知しらずあはれに思おぼさるるままに、よろづのそしりも忘わすれたまひぬべし。

右近出でて、このおとなふ人に

 右近うこん出いでて、このおとなふ人ひとに、

「かくなむのたまはするを、なほ、いとかたはならむ、とを申まうさせたまへ。あさましうめづらかなる御おほんありさまは、さ思おぼしめすとも、かかる御供おほんとも人ひとどもの御心みこころにこそあらめ。いかで、かう心幼こころをさなうは率ゐてたてまつりたまふこそ。なめげなることを聞きこえさする山賤やまがつなどもはべらましかば、いかならまし」

 と言いふ。内記ないきは、「げに、いとわづらはしくもあるかな」と思おもひ立たてり。

「時方ときかたと仰おほせらるるは、誰たれにか。さなむ」

 と伝つたふ。笑わらひて、

「勘かんがへたまふことどもの恐おそろしければ、さらずとも逃のがげてまかでぬべし。まめやかには、おろかならぬ御おほんけしきを見みたてまつれば、誰たれも誰たれも、身みを捨すててなむ。よしよし、宿直人とのゐびとも、皆みな起おきぬなり」

 とて急いそぎ出いでぬ。

 右近うこん、「人ひとに知しらすまじうは、いかがはたばかるべき」とわりなうおぼゆ。人ひとびと起おきぬるに、

「殿とのは、さるやうありて、いみじう忍しのびさせたまふけしき見みたてまつれば、道みちにていみじきことのありけるなめり。御衣おほんぞどもなど、夜よさり忍しのびて持もて参まゐるべくなむ、仰おほせられつる」

 など言いふ。御達ごたち、

「あな、むくつけや。木幡山こはたやまは、いと恐おそろしかなる山やまぞかし。例れいの、御前駆おほんさきも追おはせたまはず、やつれておはしましけむに、あな、いみじや」

 と言いへば、

「あなかま、あなかま。下衆げすなどの、ちりばかりも聞ききたらむに、いといみじからむ」

 と言いひゐたる、心地ここち恐おそろし。あやにくに、殿とのの御使おほんつかひのあらむ時とき、いかに言いはむと、

「初瀬はつせの観音くゎんおん、今日けふ事ことなくて暮くらしたまへ」

 と、大だい願ぐわんをぞ立たてける。

 石山いしやまに今日けふ詣まうでさせむとて、母君ははぎみの迎むかふるなりけり。この人ひとびともみな精進さうじんし、きよまはりてあるに、

「さらば、今日けふは、え渡わたらせたまふまじきなめり。いと口惜くちをしきこと」

 と言いふ。

日高くなれば、格子など上げて

 日ひ高たかくなれば、格子かうしなど上あげて、右近うこんぞ近ちかくて仕つかうまつりける。母屋もやの簾すだれは皆みな下おろしわたして、「物忌ものいみ」など書かかせて付つけたり。母君ははぎみもやみづからおはするとて、「夢ゆめ見み騒さわがしかりつ」と言いひなすなりけり。御手水みてうづなど参まゐりたるさまは、例れいのやうなれど、まかなひめざましう思おぼされて、

「そこに洗あらはせたまはば」

 とのたまふ。女をんな、いとさまよう心こころにくき人ひとを見みならひたるに、時ときの間まも見みざらむに死しぬべしと思おぼし焦いがるる人ひとを、「心こころざし深ふかしとは、かかるを言いふにやあらむ」と思おもひ知しらるるにも、「あやしかりける身みかな。誰たれも、ものの聞きこえあらば、いかに思おぼさむ」と、まづかの上うへの御心みこころを思おもひ出いできこゆれど、

「知しらぬを、返かへす返かへすいと心憂こころうし。なほ、あらむままにのたまへ。いみじき下衆げすといふとも、いよいよなむあはれなるべき」

 と、わりなう問とひたまへど、その御おほんいらへは絶たえてせず。異事ことごとは、いとをかしくけぢかきさまにいらへきこえなどして、なびきたるを、いと限かぎりなうらうたしとのみ見みたまふ。

 日ひ高たかくなるほどに、迎むかへの人ひと来きたり。車くるま二ふたつ、馬むまなる人ひとびとの、例れいの、荒あららかなる七しち、八人はちにん。男をとこども多おほく、例れいの、品々しなじなしからぬけはひ、さへづりつつ入いり来きたれば、人ひとびとかたはらいたがりつつ、

「あなたに隠かくれよ」

 と言いはせなどす。右近うこん、「いかにせむ。殿とのなむおはする、と言いひたらむに、京きゃうにさばかりの人ひとのおはし、おはせず、おのづから聞ききかよひて、隠かくれなきこともこそあれ」と思おもひて、この人ひとびとにも、ことに言いひ合あはせず、返かへり事こと書かく。

「昨夜よべより穢けがれさせたまひて、いと口惜くちをしきことを思おぼし嘆なげくめりしに、今宵こよひ、夢ゆめ見み騒さわがしく見みえさせたまひつれば、今日けふばかり慎つつしませたまへとてなむ、物忌ものいみにてはべる。返かへす返かへす、口惜くちをしく、ものの妨さまたげのやうに見みたてまつりはべる」

 と書かきて、人ひとびとに物ものなど食くはせてやりつ。尼君あまぎみにも、

「今日けふは物忌ものいみにて、渡わたりたまはぬ」

 と言いはせたり。

例は暮らしがたくのみ

 例れいは暮くらしがたくのみ、霞かすみめる山やま際きはを眺ながめわびたまふに、暮くれ行ゆくはわびしくのみ思おぼし焦いらるる人ひとに惹ひかれたてまつりて、いとはかなう暮くれぬ。紛まぎるることなくのどけき春はるの日ひに、見みれども見みれども飽あかず、そのことぞとおぼゆる隈くまなく、愛敬あいぎゃうづきなつかしくをかしげなり。

 さるは、かの対たいの御方おほんかたには似に劣おとりなり。大殿おとどの君きみの盛さかりに匂にほひたまへるあたりにては、こよなかるべきほどの人ひとを、たぐひなう思おぼさるるほどなれば、「また知しらずをかし」とのみ見みたまふ。

 女をんなはまた、大将だいしゃう殿とのを、いときよげに、またかかる人ひとあらむやと見みしかど、「こまやかに匂にほひきよらなることは、こよなくおはしけり」と見みる。

 硯すずりひき寄よせて、手習てならひなどしたまふ。いとをかしげに書かきすさび、絵ゑなどを見所みどころ多おほく描かきたまへれば、若わかき心地ここちには、思おもひも移うつりぬべし。

「心こころより外ほかに、え見みざらむほどは、これを見みたまへよ」

 とて、いとをかしげなる男をとこ女をんな、もろともに添そひ臥ふしたる画ゑを描かきたまひて、

「常つねにかくてあらばや」

 などのたまふも、涙なみだ落おちぬ。

「長ながき世よを頼たのめてもなほ悲かなしきはただ明日あす知しらぬ命いのちなりけり

いとかう思おもふこそ、ゆゆしけれ。心こころに身みをもさらにえまかせず、よろづにたばからむほど、まことに死しぬべくなむおぼゆる。つらかりし御おほんありさまを、なかなか何なにに尋たづね出いでけむ」

 などのたまふ。女をんな、濡ぬらしたまへる筆ふでを取とりて、

「心こころをば嘆なげかざらまし命いのちのみ定さだめなき世よと思おもはましかば」

 とあるを、「変かはらむをば恨うらめしう思おもふべかりけり」と見みたまふにも、いとらうたし。

「いかなる人ひとの心変こころがはりを見みならひて」

 など、ほほ笑わらみて、大将だいしゃうのここに渡わたし初はじめたまひけむほどを、返かへす返かへすゆかしがりたまひて、問とひたまふを、苦くるしがりて、

「え言いはぬことを、かうのたまふこそ」

 と、うち怨うらじたるさまも、若わかびたり。おのづからそれは聞きき出いでてむ、と思おぼすものから、言いはせまほしきぞわりなきや。

夜さり、京へ遣はしつる大夫参りて

 夜よさり、京きゃうへ遣つかはしつる大夫たいふ参まゐりて、右近うこんに会あひたり。

「后きさいの宮みやよりも御使おほんつかひ参まゐりて、右みぎの大殿おほいどのもむつかりきこえさせたまひて、人ひとに知しられさせたまはぬ御おほんありきは、いと軽々かるがるしく、なめげなることもあるを、すべて、内裏うちなどに聞きこし召めさむことも、身みのためなむいとからきといみじく申まうさせたまひけり。東ひむがし山やまに聖ひじり御覧ごらんじにとなむ、人ひとにはものしはべりつる」

 など語かたりて、

「女をんなこそ罪つみ深ふかうおはするものはあれ。すずろなる眷属けんぞくの人ひとをさへ惑まどはしたまひて、虚言そらごとをさへせさせたまふよ」

 と言いへば、

「聖ひじりの名なをさへつけきこえさせたまひてければ、いとよし。私わたくしの罪つみも、それにて滅ほろぼしたまふらむ。まことに、いとあやしき御心みこころの、げに、いかでならはせたまひけむ。かねてかうおはしますべしと承うけたまはらましにも、いとかたじけなければ、たばかりきこえさせてましものを。奥おくなき御おほんありきにこそは」

 と、扱あつかひきこゆ。

 参まゐりて、「さなむ」とまねびきこゆれば、「げに、いかならむ」と、思おぼしやるに、

「所狭ところせき身みこそわびしけれ。軽かろらかなるほどの殿上人てんじゃうびとなどにて、しばしあらばや。いかがすべき。かうつつむべき人目ひとめも、え憚はばかりあふまじくなむ。

大将だいしゃうもいかに思おもはむとすらむ。さるべきほどとは言いひながら、あやしきまで、昔むかしより睦むつましき仲なかに、かかる心こころの隔へだての知しられたらむ時とき、恥はづかしう、またいかにぞや。

世よのたとひに言いふこともあれば、待まち遠とほなるわがおこたりをも知しらず、怨うらみられたまはむをさへなむ思おもふ。夢ゆめにも人ひとに知しられたまふまじきさまにて、ここならぬ所ところに率ゐて離はなれたてまつらむ」

 とぞのたまふ。今日けふさへかくて籠こもりゐたまふべきならねば、出いでたまひなむとするにも、袖そでの中なかにぞ留とどめたまひつらむかし。

 明あけ果はてぬ前まへにと、人ひとびとしはぶき驚おどろかしきこゆ。妻戸つまどにもろともに率ゐておはして、え出いでやりたまはず。

「世よに知しらず惑まどふべきかな先さきに立たつ涙なみだも道みちをかきくらしつつ」

 女をんなも、限かぎりなくあはれと思おもひけり。

「涙なみだをもほどなき袖そでにせきかねていかに別わかれをとどむべき身みぞ」

 風かぜの音おともいと荒あらましく、霜しも深ふかき暁あかつきに、おのが衣々きぬぎぬも冷ひややかになりたる心地ここちして、御馬おほんむまに乗のりたまふほど、引ひき返かへすやうにあさましけれど、御供おほんともの人ひとびと、「いと戯たはぶれにくし」と思おもひて、ただ急いそがしに急いそがし出いづれば、我われにもあらで出いでたまひぬ。

 この五位ごゐ二人ふたりなむ、御馬おほんむまの口くちにはさぶらひける。さかしき山やま越こえ出いでてぞ、おのおの馬むまには乗のる。みぎはの氷こほりを踏ふみならす馬むまの足音あしおとさへ、心細こころぼそくもの悲かなし。昔むかしもこの道みちにのみこそは、かかる山やま踏ふみはしたまひしかば、「あやしかりける里さとの契ちぎりかな」と思おぼす。

二条の院におはしまし着きて

 二条にでうの院ゐんにおはしまし着つきて、女君をんなぎみのいと心憂こころうかりし御おほんもの隠かくしもつらければ、心こころやすき方かたに大殿籠おほとのごもりぬるに、寝ねられたまはず、いと寂さびしきに、もの思おもひまされば、心弱こころよわく対たいに渡わたりたまひぬ。

 何心なにごころもなく、いときよげにておはす。「めづらしくをかしと見みたまひし人ひとよりも、またこれはなほありがたきさまはしたまへりかし」と見みたまふものから、いとよく似にたるを思おもひ出いでたまふも、胸むね塞ふたがれば、いたくもの思おぼしたるさまにて、御帳みちゃうに入いりて大殿籠おほとのごもる。女君をんなぎみも率ゐて入いりきこえたまひて、

「心地ここちこそいと悪あしけれ。いかならむとするにかと、心細こころぼそくなむある。まろは、いみじくあはれと見み置おいたてまつるとも、御おほんありさまはいととく変かはりなむかし。人ひとの本意ほいは、かならずかなふなれば」

 とのたまふ。「けしからぬことをも、まめやかにさへのたまふかな」と思おもひて、

「かう聞ききにくきことの漏もりて聞きこえたらば、いかやうに聞きこえなしたるにかと、人ひとも思おもひ寄よりたまはむこそ、あさましけれ。心憂こころうき身みには、すずろなることもいと苦くるしく」

 とて、背そむきたまへり。宮みやも、まめだちたまひて、

「まことにつらしと思おもひきこゆることもあらむは、いかが思おぼさるべき。まろは、御おほんためにおろかなる人ひとかは。人ひとも、ありがたしなど、とがむるまでこそあれ。人ひとにはこよなう思おもひ落おとしたまふべかめり。誰たれもさべきにこそはと、ことわらるるを、隔へだてたまふ御心みこころの深ふかきなむ、いと心憂こころうき」

 とのたまふにも、「宿世すくせのおろかならで、尋たづね寄よりたるぞかし」と思おぼし出いづるに、涙なみだぐまれぬ。まめやかなるを、「いとほしう、いかやうなることを聞ききたまへるならむ」と驚おどろかるるに、いらへきこえたまはむ言こともなし。

「ものはかなきさまにて見みそめたまひしに、何なにごとをも軽かろらかに推おし量はかりたまふにこそはあらめ。すずろなる人ひとをしるべにて、その心寄こころよせを思おもひ知しり始はじめなどしたる過すちばかりに、おぼえ劣おとる身みにこそ」と思おぼし続つづくるも、よろづ悲かなしくて、いとどらうたげなる御おほんけはひなり。

「かの人ひと見みつけたることは、しばし知しらせたてまつらじ」と思おぼせば、「異ことざまに思おもはせて怨うらみたまふを、ただこの大将だいしゃうの御おほんことをまめまめしくのたまふ」と思おぼすに、「人ひとや虚言そらごとをたしかなるやうに聞きこえたらむ」など思おぼす。ありやなしやを聞きかぬ間まは、見みえたてまつらむも恥はづかし。

内裏より大宮の御文あるに

 内裏うちより大宮おほみやの御文おほんふみあるに、驚おどろきたまひて、なほ心こころ解とけぬ御おほんけしきにて、あなたに渡わたりたまひぬ。

「昨日きのふのおぼつかなさを。悩なやましく思おぼされたなる、よろしくは参まゐりたまへ。久ひさしうもなりにけるを」

 などやうに聞きこえたまへれば、騒さわがれたてまつらむも苦くるしけれど、まことに御心地みここちも違たがひたるやうにて、その日ひは参まゐりたまはず。上達部かむだちめなど、あまた参まゐりたまへど、御簾みすの内うちにて暮くらしたまふ。

 夕ゆふつ方かた、右大将うだいしゃう参まゐりたまへり。

「こなたにを」

 とて、うちとけながら対面たいめんしたまへり。

「悩なやましげにおはします、とはべりつれば、宮みやにもいとおぼつかなく思おぼし召めしてなむ。いかやうなる御悩おほんなやみにか」

 と聞きこえたまふ。見みるからに、御心みこころ騷さわぎのいとどまされば、言少ことずくなにて、「聖ひじりだつと言いひながら、こよなかりける山伏やまぶし心こころかな。さばかりあはれなる人ひとを、さて置おきて、心こころのどかに月日つきひを待まちわびさすらむよ」と思おぼす。

 例れいは、さしもあらぬことのついでにだに、我われはまめ人ひとともてなし名なのりたまふを、ねたがりたまひて、よろづにのたまひ破やぶるを、かかること見み表あらはいたるを、いかにのたまはまし。されど、さやうの戯たはぶれ事こともかけたまはず、いと苦くるしげに見みえたまへば、

「不便ふびんなるわざかな。おどろおどろしからぬ御心地みここちの、さすがに日数ひかず経ふるは、いと悪あしきわざにはべり。御風邪おほんかぜよくつくろはせたまへ」

 など、まめやかに聞きこえおきて出いでたまひぬ。「恥はづかしげなる人ひとなりかし。わがありさまを、いかに思おもひ比くらべけむ」など、さまざまなることにつけつつも、ただこの人ひとを、時ときの間ま忘わすれず思おぼし出いづ。

 かしこには、石山いしやまも停とどまりて、いとつれづれなり。御文おほんふみには、いといみじきことを書かき集あつめたまひて遣つかはす。それだに心こころやすからず、「時方ときかた」と召めしし大夫たいふの従したが者ものの、心こころも知しらぬしてなむやりける。

「右近うこんが古ふるく知しれりける人ひとの、殿とのの御供おほんともにて尋たづね出いでたる、さらがへりてねむごろがる」

 と、友達ともだちには言いひ聞きかせたり。よろづ右近うこんぞ、虚言そらごとしならひける。

月もたちぬ。かう思し知らるれど

 月つきもたちぬ。かう思おぼし知しらるれど、おはしますことはいとわりなし。「かうのみものを思おもはば、さらにえながらふまじき身みなめり」と、心細こころぼそさを添そへて嘆なげきたまふ。

 大将だいしゃう殿との、すこしのどかになりぬるころ、例れいの、忍しのびておはしたり。寺てらに仏ほとけなど拝はいみたまふ。御誦経みずきゃうせさせたまふ僧そうに、物もの賜たまひなどして、夕ゆふつ方かた、ここには忍しのびたれど、これはわりなくもやつしたまはず。烏帽子えぼうし直衣なほしの姿すがた、いとあらまほしくきよげにて、歩あゆみ入いりたまふより、恥はづかしげに、用意よういことなり。

 女をんな、いかで見みえたてまつらむとすらむと、空そらさへ恥はづかしく恐おそろしきに、あながちなりし人ひとの御おほんありさま、うち思おもひ出いでらるるに、また、この人ひとに見みえたてまつらむを思おもひやるなむ、いみじう心憂こころうき。

「われは年としごろ見みる人ひとをも、皆みな思おもひ変かはりぬべき心地ここちなむするとのたまひしを、げに、そののち御心地みここち苦くるしとて、いづくにもいづくにも、例れいの御おほんありさまならで、御修法みすほふなど騒さわぐなるを聞きくに、また、いかに聞ききて思おぼさむ」と思おもふもいと苦くるし。

 この人ひとはた、いとけはひことに、心深こころふかく、なまめかしきさまして、久ひさしかりつるほどのおこたりなどのたまふも、言こと多おほからず、恋こひし愛かなしとおり立たたねど、常つねにあひ見みぬ恋こひの苦くるしさを、さまよきほどにうちのたまへる、いみじく言いふにはまさりて、いとあはれと人ひとの思おもひぬべきさまをしめたまへる人柄ひとがらなり。艶えんなる方かたはさるものにて、行ゆく末すゑ長ながく人ひとの頼たのみぬべき心こころばへなど、こよなくまさりたまへり。

「思おもはずなるさまの心こころばへなど、漏もり聞きかせたらむ時ときも、なのめならずいみじくこそあべけれ。あやしううつし心こころもなう思おぼし焦いらるる人ひとを、あはれと思おもふも、それはいとあるまじく軽かろきことぞかし。この人ひとに憂うしと思おもはれて、忘わすれたまひなむ」心細こころぼそさは、いと深ふかうしみにければ、思おもひ乱みだれたるけしきを、「月つきごろに、こよなうものの心こころ知しり、ねびまさりにけり。つれづれなる住すみ処かのほどに、思おもひ残のこすことはあらじかし」と見みたまふも、心苦こころぐるしければ、常つねよりも心こころとどめて語かたらひたまふ。

造らする所、やうやうよろしう

「造つくらする所ところ、やうやうよろしうしなしてけり。一日ひとひなむ、見みしかば、ここよりは気近けぢかき水みづに、花はなも見みたまひつべし。三条さんでうの宮みやも近ちかきほどなり。明あけ暮くれおぼつかなき隔へだても、おのづからあるまじきを、この春はるのほどに、さりぬべくは渡わたしてむ」

 と思おもひてのたまふも、「かの人ひとの、のどかなるべき所ところ思おもひまうけたりと、昨日きのふものたまへりしを、かかることも知しらで、さ思おぼすらむよ」と、あはれながらも、「そなたになびくべきにはあらずかし」と思おもふからに、ありし御おほんさまの、面影おもかげにおぼゆれば、「我われながらも、うたて心憂こころうの身みや」と、思おもひ続つづけて泣なきぬ。

「御心みこころばへの、かからでおいらかなりしこそ、のどかにうれしかりしか。人ひとのいかに聞きこえ知しらせたることかある。すこしもおろかならむ心こころざしにては、かうまで参まゐり来くべき身みのほど、道みちのありさまにもあらぬを」

 など、朔日ついたちごろの夕ゆふ月つき夜よに、すこし端近はしぢかく臥ふして眺ながめ出いだしたまへり。男をとこは、過すぎにし方かたのあはれをも思おぼし出いで、女をんなは、今いまより添そひたる身みの憂うさを嘆なげき加くはへて、かたみにもの思おもはし。

山の方は霞隔てて

 山やまの方かたは霞かすみ隔へだてて、寒さむき洲崎すさきに立たてる鵲かささぎの姿すがたも、所ところからはいとをかしう見みゆるに、宇治橋うぢばしのはるばると見みわたさるるに、柴しば積つみ舟ふねの所々ところどころに行ゆきちがひたるなど、他ほかにて目馴めなれぬことどものみとり集あつめたる所ところなれば、見みたまふたびごとに、なほそのかみのことのただ今いまの心地ここちして、いとかからぬ人ひとを見み交かはしたらむだに、めづらしき仲なかのあはれ多おほかるべきほどなり。

 まいて、恋こひしき人ひとによそへられたるもこよなからず、やうやうものの心こころ知しり、都みやこ馴なれゆくありさまのをかしきも、こよなく見みまさりしたる心地ここちしたまふに、女をんなは、かき集あつめたる心こころのうちに、催もよほさるる涙なみだ、ともすれば出いでたつを、慰なぐさめかねたまひつつ、

「宇治橋うぢばしの長ながき契ちぎりは朽くちせじを危あやぶむ方かたに心こころ騒さわぐな

今いま見みたまひてむ」

 とのたまふ。

「絶たえ間まのみ世よには危あやふき宇治橋うぢばしを朽くちせぬものとなほ頼たのめとや」

 さきざきよりもいと見捨みすてがたく、しばしも立たちとまらまほしく思おぼさるれど、人ひとのもの言いひのやすからぬに、「今いまさらなり。心こころやすきさまにてこそ」など思おぼしなして、暁あかつきに帰かへりたまひぬ。「いとようもおとなびたりつるかな」と、心苦こころぐるしく思おぼし出いづること、ありしにまさりけり。

如月の十日のほどに

 如月きさらぎの十日とをかのほどに、内裏うちに文ふみ作つくらせたまふとて、この宮みやも大将だいしゃうも参まゐりあひたまへり。折をりに合あひたる物ものの調しらべどもに、宮みやの御声おほんこゑはいとめでたくて、「梅むめが枝えだ」など謡うたひたまふ。何なにごとも人ひとよりはこよなうまさりたまへる御おほんさまにて、すずろなること思おぼし焦いらるるのみなむ、罪つみ深ふかかりける。

 雪ゆきにはかに降ふり乱みだれ、風かぜなど烈はげしければ、御遊おほんあそびとくやみぬ。この宮みやの御おほん宿直とのゐ所ところに、人ひとびと参まゐりたまふ。もの参まゐりなどして、うち休やすみたまへり。

 大将だいしゃう、人ひとにもののたまはむとて、すこし端近はしぢかく出いでたまへるに、雪ゆきのやうやう積つもるが、星ほしの光ひかりにおぼおぼしきを、「闇やみはあやなし」とおぼゆる匂にほひありさまにて、

「衣ころも片かた敷しき今宵こよひもや」

 と、うち誦ずんじたまへるも、はかなきことを口くちずさびにのたまへるも、あやしくあはれなるけしき添そへる人ひとざまにて、いともの深ふかげなり。

 言いしもこそあれ、宮みやは寝ねたるやうにて、御心みこころ騒さわぐ。

「おろかには思おもはぬなめりかし。片かた敷しく袖そでを、我われのみ思おもひやる心地ここちしつるを、同おなじ心こころなるもあはれなり。侘わびしくもあるかな。かばかりなる本もとつ人ひとをおきて、我われが方かたにまさる思おもひは、いかでつくべきぞ」

 とねたう思おぼさる。

 明あ朝あさ、雪ゆきのいと高たかう積つもりたるに、文ふみたてまつりたまはむとて、御前おまへに参まゐりたまへる御容貌おほんかたち、このころいみじく盛さかりにきよげなり。かの君きみも同おなじほどにて、今いま二ふたつ、三さんつまさるけぢめにや、すこしねびまさるけしき用意よういなどぞ、ことさらにも作つくりたらむ、あてなる男をとこの本もとにしつべくものしたまふ。「帝みかどの御婿おほんむこにて飽あかぬことなし」とぞ、世人よひともことわりける。才ざえなども、おほやけおほやけしき方かたも、後おくれずぞおはすべき。

 文ふみ講かうじ果はてて、皆人みなひとまかでたまふ。宮みやの御文おほんふみを、「すぐれたり」と誦ずんじののしれど、何なにとも聞きき入いれたまはず、「いかなる心地ここちにて、かかることをもし出いづらむ」と、そらにのみ思おもほしほれたり。

かの人の御けしきにも

 かの人ひとの御おほんけしきにも、いとど驚おどろかれたまひければ、あさましうたばかりておはしましたり。京きゃうには、友とも待まつばかり消きえ残のこりたる雪ゆき、山やま深ふかく入いるままに、やや降ふり埋うづみたり。

 常つねよりもわりなきまれの細ほそ道みちを分わけたまふほど、御供おほんともの人ひとも、泣なきぬばかり恐おそろしう、わづらはしきことをさへ思おもふ。しるべの内記ないきは、式部少輔しきぶのせうなむ掛かけたりける。いづ方かたもいづ方かたも、ことことしかるべき官つかさながら、いとつきづきしく、引ひき上あげなどしたる姿すがたもをかしかりけり。

 かしこには、おはせむとありつれど、「かかる雪ゆきには」とうちとけたるに、夜よ更ふけて右近うこんに消息せうそこしたり。「あさましう、あはれ」と、君きみも思おもへり。右近うこんは、「いかになり果はてたまふべき御おほんありさまにか」と、かつは苦くるしけれど、今宵こよひはつつましさも忘わすれぬべし。言いひ返かへさむ方かたもなければ、同おなじやうに睦むつましくおぼいたる若わかき人ひとの、心こころざまも奥おくなからぬを語かたらひて、

「いみじくわりなきこと。同おなじ心こころに、もて隠かくしたまへ」

 と言いひてけり。もろともに入いれたてまつる。道みちのほどに濡ぬれたまへる香かの、所狭ところせう匂にほふも、もてわづらひぬべけれど、かの人ひとの御おほんけはひに似にせてなむ、もて紛まぎらはしける。

夜のほどにて立ち帰りたまはむも

 夜よのほどにて立たち帰かへりたまはむも、なかなかなべければ、ここの人目ひとめもいとつつましさに、時方ときかたにたばからせたまひて、「川かはより遠方をちなる人ひとの家いへに率ゐておはせむ」と構かまへたりければ、先さき立たてて遣つかはしたりける、夜よ更ふくるほどに参まゐれり。

「いとよく用意よういしてさぶらふ」

 と申まうさす。「こは、いかにしたまふことにか」と、右近うこんもいと心こころあわたたしければ、寝ねおびれて起おきたる心地ここちも、わななかれて、あやし。童わらはべの雪ゆき遊あそびしたるけはひのやうにぞ、震ふるひ上あがりにける。

「いかでか」

 なども言いひあへさせたまはず、かき抱いだきて出いでたまひぬ。右近うこんはこの後見うしろみにとまりて、侍従じじうをぞたてまつる。

 いとはかなげなるものと、明あけ暮くれ見出みいだす小ちひさき舟ふねに乗のりたまひて、さし渡わたりたまふほど、遥はるかならむ岸きしにしも漕こぎ離はなれたらむやうに心細こころぼそくおぼえて、つとつきて抱いだかれたるも、いとらうたしと思おぼす。

 有明ありあけの月つき澄すみ昇のぼりて、水みづの面おもても曇くもりなきに、

「これなむ、橘たちばなの小ちひ島しま」

 と申まうして、御おほん舟ふねしばしさしとどめたるを見みたまへば、大おほきやかなる岩いはのさまして、されたる常磐ときは木きの蔭かげ茂しげれり。

「かれ見みたまへ。いとはかなけれど、千年ちとせも経ふべき緑みどりの深ふかさを」

 とのたまひて、

「年とし経ふとも変かはらむものか橘たちばなの小ちひ島しまの崎さきに契ちぎる心こころは」

 女をんなも、めづらしからむ道みちのやうにおぼえて、

「橘たちばなの小ちひ島しまの色いろは変かはらじをこの浮う舟ふねぞ行方ゆくへ知しられぬ」

 折をりから、人ひとのさまに、をかしくのみ何事なにごとも思おぼしなす。

 かの岸きしにさし着つきて降おりたまふに、人ひとに抱いだかせたまはむは、いと心苦こころぐるしければ、抱いだきたまひて、助たすけられつつ入いりたまふを、いと見苦みぐるしく、「何人なにびとを、かくもて騷さわぎたまふらむ」と見みたてまつる。時方ときかたが叔父をぢの因幡守いなばのかみなるが領りゃうずる荘さうに、はかなう造つくりたる家いへなりけり。

 まだいと粗々あらあらしきに、網代屏風あじろびゃうぶなど、御覧ごらんじも知しらぬしつらひにて、風かぜもことに障さはらず、垣かきのもとに雪ゆきむら消きえつつ、今いまもかき曇くもりて降ふる。

日さし出でて、軒の垂氷の光りあひたるに

 日ひさし出いでて、軒のきの垂氷たるひの光ひかりあひたるに、人ひとの御容貌おほんかたちもまさる心地ここちす。宮みやも、所狭ところせき道みちのほどに、軽かろらかなるべきほどの御衣おほんぞどもなり。女をんなも、脱ぬぎすべさせたまひてしかば、細ほそやかなる姿すがたつき、いとをかしげなり。ひきつくろふこともなくうちとけたるさまを、「いと恥はづかしく、まばゆきまできよらなる人ひとにさしむかひたるよ」と思おもへど、紛まぎれむ方かたもなし。

 なつかしきほどなる白しろき限かぎりを五ごつばかり、袖口そでぐち、裾すそのほどまでなまめかしく、色々いろいろにあまた重かさねたらむよりも、をかしう着きなしたり。常つねに見みたまふ人ひととても、かくまでうちとけたる姿すがたなどは見みならひたまはぬを、かかるさへぞ、なほめづらかにをかしう思おぼされける。

 侍従じじうも、いとめやすき若人わかうどなりけり。「これさへ、かかるを残のこりなう見みるよ」と、女君をんなぎみは、いみじと思おもふ。宮みやも、

「これはまた誰たれそ。わが名な漏もらすなよ」

 と口くちがためたまふを、「いとめでたし」と思おもひきこえたり。ここの宿守やどもりにて住すみける者もの、時方ときかたを主ぬしと思おもひてかしづきありけば、このおはします遣戸やりどを隔へだてて、所得顔ところえがほに居ゐたり。声こゑひきしじめ、かしこまりて物語ものがたりしをるを、いらへもえせず、をかしと思おもひけり。

「いと恐おそろしく占うらなひたる物忌ものいみにより、京きゃうの内うちをさへ去さりて慎つつしむなり。他ほかの人ひと、寄よすな」

 と言いひたり。

人目も絶えて、心やすく語らひ暮らしたまふ

 人目ひとめも絶たえて、心こころやすく語かたらひ暮くらしたまふ。「かの人ひとのものしたまへりけむに、かくて見みえてむかし」と、思おぼしやりて、いみじく怨うらみたまふ。二ふたの宮みやをいとやむごとなくて、持もちたてまつりたまへるありさまなども語かたりたまふ。かの耳みみとどめたまひし一ひと言いは、のたまひ出いでぬぞ憎にくきや。

 時方ときかた、御手水みてうづ、御おほんくだものなど、取とり次つぎて参まゐるを御覧ごらんじて、

「いみじくかしづかるめる客人まらうとの主ぬし、さてな見みえそや」

 と戒いましめたまふ。侍従じじう、色いろめかしき若人わかうどの心地ここちに、いとをかしと思おもひて、この大夫たいふとぞ物語ものがたりして暮くらしける。

 雪ゆきの降ふり積つもれるに、かのわが住すむ方かたを見みやりたまへれば、霞かすみの絶たえ絶たえに梢こずゑばかり見みゆ。山やまは鏡かがみを懸かけたるやうに、きらきらと夕日ゆふひに輝かがやきたるに、昨夜よべ、分わけ来きし道みちのわりなさなど、あはれ多おほう添そへて語かたりたまふ。

「峰みねの雪ゆきみぎはの氷こほり踏ふみ分わけて君きみにぞ惑まどふ道みちは惑まどはず

木幡こはたの里さとに馬むまはあれど」

 など、あやしき硯すずり召めし出いでて、手習てならひたまふ。

「降ふり乱みだれみぎはに凍こほる雪ゆきよりも中空なかぞらにてぞ我われは消きぬべき」

 と書かき消きちたり。この「中空なかぞら」をとがめたまふ。「げに、憎にくくも書かきてけるかな」と、恥はづかしくて引ひき破やぶりつ。さらでだに見みるかひある御おほんありさまを、いよいよあはれにいみじと、人ひとの心こころにしめられむと、尽つくしたまふ言ことの葉は、けしき、言いはむ方かたなし。

御物忌、二日とたばかりたまへれば

 御物忌おほんものいみ、二ふた日ひとたばかりたまへれば、心こころのどかなるままに、かたみにあはれとのみ、深ふかく思おぼしまさる。右近うこんは、よろづに例れいの、言いひ紛まぎらはして、御衣おほんぞなどたてまつりたり。今日けふは、乱みだれたる髪かみすこし削そらせて、濃こき衣きぬに紅梅こうばいの織物おりものなど、あはひをかしく着替きがへてゐたまへり。侍従じじうも、あやしき褶しびら着きたりしを、あざやぎたれば、その裳もを取とりたまひて、君きみに着きせたまひて、御手水みてうづ参まゐらせたまふ。

「姫宮ひめみやにこれをたてまつりたらば、いみじきものにしたまひてむかし。いとやむごとなき際きはの人ひと多おほかれど、かばかりのさましたるは難かたくや」

 と見みたまふ。かたはなるまで遊あそび戯たはぶれつつ暮くらしたまふ。忍しのびて率ゐて隠かくしてむことを、返かへす返かへすのたまふ。「そのほど、かの人ひとに見みえたらば」と、いみじきことどもを誓ちかはせたまへば、「いとわりなきこと」と思おもひて、いらへもやらず、涙なみださへ落おつるけしき、「さらに目めの前まへにだに思おもひ移うつらぬなめり」と胸痛むねいたう思おぼさる。怨うらみても泣なきても、よろづのたまひ明あかして、夜よ深ふかく率ゐて帰かへりたまふ。例れいの、抱いだきたまふ。

「いみじく思おぼすめる人ひとは、かうは、よもあらじよ。見知みしりたまひたりや」

 とのたまへば、げに、と思おもひて、うなづきて居ゐたる、いとらうたげなり。右近うこん、妻戸つまど放はなちて入いれたてまつる。やがて、これより別わかれて出いでたまふも、飽あかずいみじと思おぼさる。

かやうの帰さは、なほ二条にぞおはします

 かやうの帰かへさは、なほ二条にでうにぞおはします。いと悩なやましうしたまひて、物ものなど絶たえてきこしめさず、日ひを経へて青あをみ痩やせたまひ、御おほんけしきも変かはるを、内裏うちにもいづくにも、思おもほし嘆なげくに、いとどもの騒さわがしくて、御文おほんふみだにこまかには書かきたまはず。

 かしこにも、かのさかしき乳母めのと、娘むすめの子こ産うむ所ところに出いでたりける、帰かへり来きにければ、心こころやすくもえ見みず。かくあやしき住すまひを、ただかの殿とののもてなしたまはむさまをゆかしく待まつことにて、母君ははぎみも思おもひ慰なぐさめたるに、忍しのびたるさまながらも、近ちかく渡わたしてむことを思おぼしなりにければ、いとめやすくうれしかるべきことに思おもひて、やうやう人ひと求もとめ、童わらはのめやすきなど迎むかへておこせたまふ。

 わが心こころにも、「それこそは、あるべきことに、初はじめより待まちわたれ」とは思おもひながら、あながちなる人ひとの御おほんことを思おもひ出いづるに、怨うらみたまひしさま、のたまひしことども、面影おもかげにつと添そひて、いささかまどろめば、夢ゆめに見みえたまひつつ、いとうたてあるまでおぼゆ。

雨降り止まで、日ごろ多くなるころ

 雨あめ降ふり止やまで、日ひごろ多おほくなるころ、いとど山路やまぢ思おぼし絶たえて、わりなく思おぼされければ、「親おやのかふこは所狭ところせきものにこそ」と思おぼすもかたじけなし。尽つきせぬことども書かきたまひて、

「眺ながめやるそなたの雲くもも見みえぬまで空そらさへ暮くるるころのわびしさ」

 筆ふでにまかせて書かき乱みだりたまへるしも、見所みどころあり、をかしげなり。ことにいと重おもくなどはあらぬ若わかき心地ここちに、

「いとかかる心こころを思おもひもまさりぬべけれど、初はじめより契ちぎりたまひしさまも、さすがに、かれは、なほいともの深ふかう、人柄ひとがらのめでたきなども、世よの中なかを知しりにし初はじめなればにや、かかる憂うきこと聞ききつけて、思おもひ疎うとみたまひなむ世よには、いかでかあらむ。

いつしかと思おもひ惑まどふ親おやにも、思おもはずに、心こころづきなしとこそは、もてわづらはれめ。かく心焦こころいられしたまふ人ひと、はた、いとあだなる御心みこころ本性ほんじゃうとのみ聞ききしかば、かかるほどこそあらめ、またかうながらも、京きゃうにも隠かくし据すゑたまひ、ながらへても思おぼし数かずまへむにつけては、かの上うへの思おぼさむこと。よろづ隠かくれなき世よなりければ、あやしかりし夕暮ゆふぐれのしるべばかりにだに、かう尋たづね出いでたまふめり。

まして、わがありさまのともかくもあらむを、聞ききたまはぬやうはありなむや」

 と思おもひたどるに、「わが心こころも、きずありて、かの人ひとに疎うとまれたてまつらむ、なほいみじかるべし」と思おもひ乱みだるる折をりしも、かの殿とのより御使おほんつかひあり。

これかれと見るもいとうたてあれば

 これかれと見みるもいとうたてあれば、なほ言こと多おほかりつるを見みつつ、臥ふしたまへれば、侍従じじう、右近うこん、見合みあはせて、

「なほ、移うつりにけり」

 など、言いはぬやうにて言いふ。

「ことわりぞかし。殿とのの御容貌おほんかたちを、たぐひおはしまさじと見みしかど、この御おほんありさまはいみじかりけり。うち乱みだれたまへる愛敬あいぎゃうよ。まろならば、かばかりの御おほん思おもひを見みる見みる、えかくてあらじ。后きさいの宮みやにも参まゐりて、常つねに見みたてまつりてむ」

 と言いふ。右近うこん、

「うしろめたの御心みこころのほどや。殿とのの御おほんありさまにまさりたまふ人ひとは、誰たれかあらむ。容貌かたちなどは知しらず、御心みこころばへけはひなどよ。なほ、この御おほんことは、いと見苦みぐるしきわざかな。いかがならせたまはむとすらむ」

 と、二人ふたりして語かたらふ。心こころ一ひとつに思おもひしよりは、虚言そらごともたより出いで来きにけり。

 後のちの御文おほんふみには、

「思おもひながら日ひごろになること。時々ときどきは、それよりも驚おどろかいたまはむこそ、思おもふさまならめ。おろかなるにやは」

 など、端はし書かきに、

「水みづまさる遠方をちの里人さとびといかならむ晴はれぬ長なが雨あめにかき暮くらすころ

常つねよりも、思おもひやりきこゆることまさりてなむ」

 と、白しろき色紙しきしにて立文たてぶみなり。御手おほんてもこまかにをかしげならねど、書かきざまゆゑゆゑしく見みゆ。宮みやは、いと多おほかるを、小ちひさく結むすびなしたまへる、さまざまをかし。

「まづ、かれを、人ひと見みぬほどに」

 と聞きこゆ。

「今日けふは、え聞きこゆまじ」

 と恥はぢらひて、手習てならひに、

「里さとの名なをわが身みに知しれば山城やましろの宇治うぢのわたりぞいとど住すみ憂うき」

 宮みやの描かきたまへりし絵ゑを、時々ときどき見みて泣なかれけり。「ながらへてあるまじきことぞ」と、とざまかうざまに思おもひなせど、他ほかに絶たえ籠こもりてやみなむは、いとあはれにおぼゆべし。

「かき暮くらし晴はれせぬ峰みねの雨あめ雲くもに浮うきて世よをふる身みをもなさばや

混まじりなば」

 と聞きこえたるを、宮みやは、よよと泣なかれたまふ。「さりとも、恋こひしと思おもふらむかし」と思おぼしやるにも、もの思おもひてゐたらむさまのみ面影おもかげに見みえたまふ。

 まめ人ひとは、のどかに見みたまひつつ、「あはれ、いかに眺ながむらむ」と思おもひやりて、いと恋こひし。

「つれづれと身みを知しる雨あめの小を止やまねば袖そでさへいとどみかさまさりて」

 とあるを、うちも置おかず見みたまふ。

女宮に物語など聞こえたまひて

 女宮をんなみやに物語ものがたりなど聞きこえたまひてのついでに、

「なめしともや思おぼさむと、つつましながら、さすがに年とし経へぬる人ひとのはべるを、あやしき所ところに捨すて置おきて、いみじくもの思おもふなるが心苦こころぐるしさに、近ちかう呼よび寄よせて、と思おもひはべる。昔むかしより異ことやうなる心こころばへはべりし身みにて、世よの中なかを、すべて例れいの人ひとならで過すぐしてむと思おもひはべりしを、かく見みたてまつるにつけて、ひたぶるにも捨すてがたければ、ありと人ひとにも知しらせざりし人ひとの上うへさへ、心苦こころぐるしう、罪つみ得えぬべき心地ここちしてなむ」

 と、聞きこえたまへば、

「いかなることに心こころ置おくものとも知しらぬを」

 と、いらへたまふ。

「内裏うちになど、悪あしざまに聞きこし召めさする人ひとやはべらむ。世よの人ひとのもの言いひぞ、いとあぢきなくけしからずはべるや。されど、それは、さばかりの数かずにだにはべるまじ」

 など聞きこえたまふ。

「造つくりたる所ところに渡わたしてむ」と思おぼし立たつに、「かかる料れうなりけり」など、はなやかに言いひなす人ひとやあらむなど、苦くるしければ、いと忍しのびて、障子さうじ張はらすべきことなど、人ひとしもこそあれ、この内記ないきが知しる人ひとの親おや、大蔵大輔おほくらのたいふなるものに、睦むつましく心こころやすきままに、のたまひつけたりければ、聞ききつぎて、宮みやには隠かくれなく聞きこえけり。

「絵師ゑしどもなども、御随身みずいじんどもの中なかにある、睦むつましき殿との人ひとなどを選えりて、さすがにわざとなむせさせたまふ」

 と申まうすに、いとど思おぼし騷さわぎて、わが御乳母おほんめのとの、遠とほき受領ずりゃうの妻めにて下くだる家いへ、下したつ方かたにあるを、

「いと忍しのびたる人ひと、しばし隠かくいたらむ」

 と、語かたらひたまひければ、「いかなる人ひとにかは」と思おもへど、大事だいじと思おぼしたるに、かたじけなければ、「さらば」と聞きこえけり。これをまうけたまひて、すこし御心みこころのどめたまふ。この月つきの晦日方つごもりがたに、下くだるべければ、「やがてその日ひ渡わたさむ」と思おぼし構かまふ。

「かくなむ思おもふ。ゆめゆめ」

 と言いひやりたまひつつ、おはしまさむことは、いとわりなくあるうちにも、ここにも、乳母めのとのいとさかしければ、難かたかるべきよしを聞きこゆ。

大将殿は、卯月の十日となむ

 大将だいしゃう殿とのは、卯月うづきの十日とをかとなむ定さだめたまへりける。「誘さそふ水みづあらば」とは思おもはず、いとあやしく、「いかにしなすべき身みにかあらむ」と浮うきたる心地ここちのみすれば、「母ははの御おほんもとにしばし渡わたりて、思おもひめぐらすほどあらむ」と思おぼせど、少将せうしゃうの妻め、子こ産うむべきほど近ちかくなりぬとて、修法すほふ、読よ経きゃうなど、隙ひまなく騒さわげば、石山いしやまにもえ出いで立たつまじ、母ははぞこち渡わたりたまへる。乳母めのと出いで来きて、

「殿とのより、人ひとびとの装束さうぞくなども、こまかに思おぼしやりてなむ。いかできよげに何なにごとも、と思おもうたまふれど、乳母めのとが心こころ一ひとつには、あやしくのみぞし出いではべらむかし」

 など言いひ騒さわぐが、心地ここちよげなるを見みたまふにも、君きみは、

「けしからぬことどもの出いで来きて、人ひと笑わらへならば、誰たれも誰たれもいかに思おもはむ。あやにくにのたまふ人ひと、はた、八重やへ立たつ山やまに籠こもるとも、かならず尋たづねて、我われも人ひともいたづらになりぬべし。なほ、心こころやすく隠かくれなむことを思おもへと、今日けふものたまへるを、いかにせむ」

 と、心地ここち悪あしくて臥ふしたまへり。

「などか、かく例れいならず、いたく青あをみ痩やせたまへる」

 と驚おどろきたまふ。

「日ひごろあやしくのみなむ。はかなきものも聞きこしめさず、悩なやましげにせさせたまふ」

 と言いへば、「あやしきことかな。もののけなどにやあらむ」と、

「いかなる御心地みここちぞと思おもへど、石山いしやま停とどまりたまひにきかし」

 と言いふも、かたはらいたければ、伏目ふしめなり。

暮れて月いと明かし

 暮くれて月つきいと明あかし。有明ありあけの空そらを思おもひ出いづる、「涙なみだのいと止とめがたきは、いとけしからぬ心こころかな」と思おもふ。母君ははぎみ、昔むかし物語ものがたりなどして、あなたの尼君あまぎみ呼よび出いでて、故姫君こひめぎみの御おほんありさま、心深こころふかくおはして、さるべきことも思おぼし入いれたりしほどに、目めに見みす見みす消きえ入いりたまひにしことなど語かたる。

「おはしまさましかば、宮みやの上うへなどのやうに、聞きこえ通かよひたまひて、心細こころぼそかりし御おほんありさまどもの、いとこよなき御おほん幸さいはひにぞはべらましかし」

 と言いふにも、「わが娘むすめは異人ことびとかは。思おもふやうなる宿世すくせのおはし果はてば、劣おとらじを」など思おもひ続つづけて、

「世よとともに、この君きみにつけては、ものをのみ思おもひ乱みだれしけしきの、すこしうちゆるびて、かくて渡わたりたまひぬべかめれば、ここに参まゐり来くること、かならずしもことさらには、え思おもひ立たちはべらじ。かかる対面たいめんの折々をりをりに、昔むかしのことも、心こころのどかに聞きこえ承うけたまはらまほしけれ」

 など語かたらふ。

「ゆゆしき身みとのみ思おもうたまへしみにしかば、こまやかに見みえたてまつり聞きこえさせむも、何なにかは、つつましくて過すぐしはべりつるを、うち捨すてて、渡わたらせたまひなば、いと心細こころぼそくなむはべるべけれど、かかる御おほん住すまひは、心こころもとなくのみ見みたてまつるを、うれしくもはべるべかなるかな。世よに知しらず重々おもおもしくおはしますべかめる殿とのの御おほんありさまにて、かく尋たづねきこえさせたまひしも、おぼろけならじと聞きこえおきはべりにし、浮うきたることにやは、はべりける」

 など言いふ。

「後のちは知しらねど、ただ今いまは、かく思おぼし離はなれぬさまにのたまふにつけても、ただ御おほんしるべをなむ思おもひ出いできこゆる。宮みやの上うへの、かたじけなくあはれに思おぼしたりしも、つつましきことなどの、おのづからはべりしかば、中空なかぞらに所狭ところせき御身おほんみなり、と思おもひ嘆なげきはべりて」

 と言いふ。尼君あまぎみうち笑わらひて、

「この宮みやの、いと騒さわがしきまで色いろにおはしますなれば、心こころばせあらむ若わかき人ひと、さぶらひにくげになむ。おほかたは、いとめでたき御おほんありさまなれど、さる筋すぢのことにて、上うへのなめしと思おぼさむなむわりなきと、大輔たいふが娘むすめの語かたりはべりし」

 と言いふにも、「さりや、まして」と、君きみは聞きき臥ふしたまへり。

あな、むくつけや

「あな、むくつけや。帝みかどの御女おほんむすめを持もちたてまつりたまへる人ひとなれど、よそよそにて、悪あしくも善よくもあらむは、いかがはせむと、おほけなく思おもひなしはべる。よからぬことをひき出いでたまへらましかば、すべて身みには悲かなしくいみじと思おもひきこゆとも、また見みたてまつらざらまし」

 など、言いひ交かはすことどもに、いとど心肝しんかんもつぶれぬ。「なほ、わが身みを失うひてばや。つひに聞ききにくきことは出いで来きなむ」と思おもひ続つづくるに、この水みづの音おとの恐おそろしげに響ひびきて行ゆくを、

「かからぬ流ながれもありかし。世よに似にず荒あらましき所ところに、年月としつきを過すぐしたまふを、あはれと思おぼしぬべきわざになむ」

 など、母君ははぎみしたり顔がほに言いひゐたり。昔むかしよりこの川かはの早はやく恐おそろしきことを言いひて、

「先さきつころ渡わた守かみが孫まごの童わらは、棹さをさし外ほかして落おち入いりはべりにける。すべていたづらになる人ひと多おほかる水みづにはべり」

 と、人ひとびとも言いひあへり。君きみは、

「さても、わが身み行方ゆくへも知しらずなりなば、誰たれも誰たれも、あへなくいみじと、しばしこそ思おもうたまはめ。ながらへて人ひと笑わらへに憂うきこともあらむは、いつかそのもの思おもひの絶たえむとする」

 と、思おもひかくるには、障さはりどころもあるまじく、さはやかによろづ思おもひなさるれど、うち返かへしいと悲かなし。親おやのよろづに思おもひ言いふありさまを、寝ねたるやうにてつくづくと思おもひ乱みだる。

悩ましげにて痩せたまへるを

 悩なやましげにて痩やせたまへるを、乳母めのとにも言いひて、

「さるべき御祈おほんいのりなどせさせたまへ。祭まつり祓はらなどもすべきやう」

 など言いふ。御手洗川みたらしがはに禊みそぎせまほしげなるを、かくも知しらでよろづに言いひ騒さわぐ。

「人少ひとずくななめり。よくさるべからむあたりを訪おとづねて。今いま参まゐりはとどめたまへ。やむごとなき御仲おほんなからひは、正身さうじみこそ、何事なにごともおいらかに思おぼさめ、好このからぬ仲なかとなりぬるあたりは、わづらはしきこともありぬべし。隠かくし密ひそめて、さる心こころしたまへ」

 など、思おもひいたらぬことなく言いひおきて、

「かしこにわづらひはべる人ひとも、おぼつかなし」

 とて帰かへるを、いともの思おもはしく、よろづ心細こころぼそければ、「またあひ見みでもこそ、ともかくもなれ」と思おもへば、

「心地ここちの悪あしくはべるにも、見みたてまつらぬが、いとおぼつかなくおぼえはべるを、しばしも参まゐり来こまほしくこそ」

 と慕したふ。

「さなむ思おもひはべれど、かしこもいともの騒さわがしくはべり。この人ひとびとも、はかなきことなどえしやるまじく、狭せばくなどはべればなむ。武生たけふの国府こふに移うつろひたまふとも、忍しのびては参まゐり来きなむを。なほなほしき身みのほどは、かかる御おほんためこそ、いとほしくはべれ」

 など、うち泣なきつつのたまふ。

殿の御文は今日もあり

 殿とのの御文おほんふみは今日けふもあり。悩なやましと聞きこえたりしを、「いかが」と、訪とぶらひたまへり。

「みづからと思おもひはべるを、わりなき障さはり多おほくてなむ。このほどの暮くらしがたさこそ、なかなか苦くるしく」

 などあり。宮みやは、昨日きのふの御返おほんかへりもなかりしを、

「いかに思おぼしただよふぞ。風かぜのなびかむ方かたもうしろめたくなむ。いとどほれまさりて眺ながめはべる」

 など、これは多おほく書かきたまへり。

 雨あめ降ふりし日ひ、来き合あひたりし御使おほんつかひどもぞ、今日けふも来きたりける。殿とのの御随身みずいじん、かの少すく輔すけが家いへにて時々ときどき見みる男をとこなれば、

「真まこと人ひとは、何なにしに、ここにはたびたびは参まゐるぞ」

 と問とふ。

「私わたくしに訪とぶらふべき人ひとのもとに参まうで来くるなり」

 と言いふ。

「私わたくしの人ひとにや、艶えんなる文ふみはさし取とらする、けしきある真まこと人ひとかな。もの隠かくしはなぞ」

 と言いふ。

「まことは、この守かみの君きみの、御文おほんふみ、女房にょうばうにたてまつりたまふ」

 と言いへば、言いひ違たがひつつあやしと思おもへど、ここにて定さだめ言いはむも異ことやうなべければ、おのおの参まゐりぬ。

かどかどしき者にて、供にある童を

 かどかどしき者ものにて、供ともにある童わらはを、

「この男をとこに、さりげなくて目めつけよ。左衛門大夫さゑもんのたいふの家いへにや入いる」

 と見みせければ、

「宮みやに参まゐりて、式部少輔しきぶのせうになむ、御文おほんふみは取とらせはべりつる」

 と言いふ。さまで尋たづねむものとも、劣おとりの下衆げすは思おもはず、ことの心こころをも深ふかう知しらざりければ、舎人とねりの人ひとに見み現あらはされにけむぞ、口惜くちをしきや。

 殿とのに参まゐりて、今いま出いでたまはむとするほどに、御文おほんふみたてまつらす。直衣なほしにて、六条ろくでうの院ゐん、后きさいの宮みやの出いでさせたまへるころなれば、参まゐりたまふなりければ、ことことしく、御前おまへなどあまたもなし。御文おほんふみ参まゐらする人ひとに、

「あやしきことのはべりつる。見みたまへ定さだめむとて、今いままでさぶらひつる」

 と言いふを、ほの聞ききたまひて、歩あゆみ出いでたまふままに、

「何なにごとぞ」

 と問とひたまふ。この人ひとの聞きかむもつつましと思おもひて、かしこまりてをり。殿とのもしか見知みしりたまひて、出いでたまひぬ。

 宮みや、例れいならず悩なやましげにおはすとて、宮みやたちも皆みな参まゐりたまへり。上達部かむだちめなど多おほく参まゐり集つどひて、騒さわがしけれど、ことなることもおはしまさず。

 かの内記ないきは、政官じゃうぐわんなれば、遅おそれてぞ参まゐれる。この御文おほんふみもたてまつるを、宮みや、台盤所だいばんどころにおはしまして、戸口とぐちに召めし寄よせて取とりたまふを、大将だいしゃう、御前おまへの方かたより立たち出いでたまふ、側そば目めに見み通かよしたまひて、「せちにも思おぼすべかめる文ふみのけしきかな」と、をかしさに立たちとまりたまへり。

「引ひき開あけて見みたまふ、紅くれなゐの薄様うすやうに、こまやかに書かきたるべし」と見みゆ。文ふみに心こころ入いれて、とみにも向むきたまはぬに、大臣おとども立たちて外ほかざまにおはすれば、この君きみは、障子さうじより出いでたまふとて、「大臣おとど出いでたまふ」と、うちしはぶきて、驚おどろかいたてまつりたまふ。

 ひき隠かくしたまへるにぞ、大臣おとどさし覗のぞきたまへる。驚おどろきて御紐おほんひもさしたまふ。殿とのつい居ゐたまひて、

「まかではべりぬべし。御おほん邪気じゃけの久ひさしくおこらせたまはざりつるを、恐おそろしきわざなりや。山やまの座主ざす、ただ今いま請こじに遣つかはさむ」

 と、急いそがしげにて立たちたまひぬ。

夜更けて、皆出でたまひぬ

 夜よ更ふけて、皆みな出いでたまひぬ。大臣おとどは、宮みやを先さきに立たてたてまつりたまひて、あまたの御子みこどもの上達部かむだちめ、君きみたちをひき続つづけて、あなたに渡わたりたまひぬ。この殿とのは遅おそれて出いでたまふ。

 随身ずいじんけしきばみつる、あやしと思おぼしければ、御前おまへなど下おりて火ひ灯ひすほどに、随身ずいじん召めし寄よす。

「申まうしつるは、何なにごとぞ」

 と問とひたまふ。

「今朝けさ、かの宇治うぢに、出雲権守いづものごんのかみ時方ときかた朝臣あそんのもとにはべる男をとこの、紫むらさきの薄様うすやうにて、桜さくらにつけたる文ふみを、西にしの妻戸つまどに寄よりて、女房にょうばうに取とらせはべりつる。見みたまへつけて、しかしか問とひはべりつれば、言いひ違たがへつつ、虚言そらごとのやうに申まうしはべりつるを、いかに申まうすぞ、とて、童わらはべして見みせはべりつれば、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやに参まゐりはべりて、式部少輔しきぶのせう道みち定さだ朝臣あそんになむ、その返かへり事ことは取とらせはべりける」

 と申まうす。君きみ、あやしと思おぼして、

「その返かへり事ことは、いかやうにしてか、出いだしつる」

「それは見みたまへず。異方ことかたより出いだしはべりにける。下人しもびとの申まうしはべりつるは、赤あかき色紙しきしの、いときよらなる、となむ申まうしはべりつる」

 と聞きこゆ。思おぼし合あはするに、違たがふことなし。さまで見みせつらむを、かどかどしと思おぼせど、人ひとびと近ちかければ、詳くはしくものたまはず。

道すがら、なほ、いと恐ろしく

 道みちすがら、「なほ、いと恐おそろしく、隈くまなくおはする宮みやなりや。いかなりけむついでに、さる人ひとありと聞ききたまひけむ。いかで言いひ寄よりたまひけむ。田舎ゐなかびたるあたりにて、かうやうの筋すぢの紛まぎれは、えしもあらじ、と思おもひけるこそ幼をさなけれ。さても、知しらぬあたりにこそ、さる好すきごとをものたまはめ、昔むかしより隔へだてなくて、あやしきまでしるべして、率ゐてありきたてまつりし身みにしも、うしろめたく思おぼし寄よるべしや」

 と思おもふに、いと心こころづきなし。

「対たいの御方おほんかたの御おほんことを、いみじく思おもひつつ、年としごろ過すぐすは、わが心こころの重おもさ、こよなかりけり。さるは、それは、今いま初はじめてさま悪あしかるべきほどにもあらず。もとよりのたよりにもよれるを、ただ心こころのうちの隈くまあらむが、わがためも苦くるしかるべきによりこそ、思おもひ憚はばかるもをこなるわざなりけれ。

このころかく悩なやましくしたまひて、例れいよりも人ひとしげき紛まぎれに、いかではるばると書かきやりたまふらむ。おはしやそめにけむ。いと遥はるかなる懸想けさうの道みちなりや。あやしくて、おはし所ところ尋たづねられたまふ日ひもあり、と聞きこえきかし。さやうのことに思おぼし乱みだれて、そこはかとなく悩なやみたまふなるべし。昔むかしを思おぼし出いづるにも、えおはせざりしほどの嘆なげき、いといとほしげなりきかし」

 と、つくづくと思おもふに、女をんなのいたくもの思おもひたるさまなりしも、片端かたはし心得こころえそめたまひては、よろづ思おぼし合あはするに、いと憂うし。

「ありがたきものは、人ひとの心こころにもあるかな。らうたげにおほどかなりとは見みえながら、色いろめきたる方かたは添そひたる人ひとぞかし。この宮みやの御おほん具ぐにては、いとよきあはひなり」

 と思おもひも譲ゆづりつべく、退しぞく心地ここちしたまへど、

「やむごとなく思おもひそめ始はじめし人ひとならばこそあらめ、なほさるものにて置おきたらむ。今いまはとて見みざらむ、はた、恋こひしかるべし」

 と人悪ひとわろく、いろいろ心こころの内うちに思おぼす。

我、すさまじく思ひなりて

「我われ、すさまじく思おもひなりて、捨すて置おきたらば、かならず、かの宮みや、呼よび取とりたまひてむ。人ひとのため、後のちのいとほしさをも、ことにたどりたまふまじ。さやうに思おぼす人ひとこそ、一品いっぽん宮みやの御方おほんかたに人ひと、二ふたり、三人みたり参まゐらせたまひたなれ。さて、出いで立たちたらむを見聞みきかむ、いとほしく」

 など、なほ捨すてがたく、けしき見みまほしくて、御文おほんふみ遣つかはす。例れいの随身ずいじん召めして、御手おほんてづから人ひと間まに召めし寄よせたり。

「道みち定さだ朝臣あそんは、なほ仲信なかのぶが家いへにや通かよふ」

「さなむはべる」と申まうす。

「宇治うぢへは、常つねにやこのありけむ男をとこは遣つかるらむ。かすかにて居ゐたる人ひとなれば、道みち定さだも思おもひかくらむかし」

 と、うちうめきたまひて、

「人ひとに見みえでをまかれ。をこなり」

 とのたまふ。かしこまりて、少すく輔すけが常つねにこの殿とのの御おほんこと案内あないし、かしこのこと問とひしも思おもひあはすれど、もの馴なれてえ申まうし出いでず。君きみも、「下衆げすに詳くはしくは知しらせじ」と思おぼせば、問とはせたまはず。

 かしこには、御使おほんつかひの例れいよりしげきにつけても、もの思おもふことさまざまなり。ただかくぞのたまへる。

「波なみ越こゆるころとも知しらず末すゑの松まつ待まつらむとのみ思おもひけるかな

人ひとに笑わらはせたまふな」

 とあるを、いとあやしと思おもふに、胸むねふたがりぬ。御返おほんかへり事ことを心得こころえ顔がほに聞きこえむもいとつつまし、ひがことにてあらむもあやしければ、御文おほんふみはもとのやうにして、

「所ところ違たがへのやうに見みえはべればなむ。あやしく悩なやましくて、何事なにごとも」

 と書かき添そへてたてまつれつ。見みたまひて、

「さすがに、いたくもしたるかな。かけて見みおよばぬ心こころばへよ」

 とほほ笑わらまれたまふも、憎にくしとは、え思おぼし果はてぬなめり。

まほならねど、ほのめかしたまへるけしきを

 まほならねど、ほのめかしたまへるけしきを、かしこにはいとど思おもひ添そふ。「つひにわが身みは、けしからずあやしくなりぬべきなめり」と、いとど思おもふところに、右近うこん来きて、

「殿とのの御文おほんふみは、などて返かへしたてまつらせたまひつるぞ。ゆゆしく、忌いみはべるなるものを」

「ひがことのあるやうに見みえつれば、所ところ違たがへかとて」

 とのたまふ。あやしと見みければ、道みちにて開あけて見みけるなりけり。よからずの右近うこんがさまやな。見みつとは言いはで、

「あな、いとほし。苦くるしき御おほんことどもにこそはべれ。殿とのはもののけしき御覧ごらんじたるべし」

 と言いふに、面おもてさと赤あかみて、ものものたまはず。文ふみ見みつらむと思おもはねば、「異ことざまにて、かの御おほんけしき見みる人ひとの語かたりたるにこそは」と思おもふに、

「誰たれか、さ言いふぞ」

 などもえ問とひたまはず。この人ひとびとの見み思おもふらむことも、いみじく恥はづかし。わが心こころもてありそめしことならねども、「心憂こころうき宿世すくせかな」と思おもひ入いりて寝ねたるに、侍従じじうと二人ふたりして、

「右近うこんが姉あねの、常陸ひたちにて、人ひと二人ふたり見みはべりしを、ほどほどにつけては、ただかくぞかし。これもかれも劣おとらぬ心こころざしにて、思おもひ惑まどひてはべりしほどに、女をんなは、今いまの方かたにいますこし心寄こころよせまさりてぞはべりける。それに妬ねたみて、つひに今いまのをば殺ころしてしぞかし。

さて我われも住すみはべらずなりにき。国くににも、いみじきあたら兵つはもの一人ひとり失うひつ。また、この過すちたるも、よき郎等らうどうなれど、かかる過すちしたる者ものを、いかでかは使つかはむ、とて、国くにの内うちをも追おひ払はらはれ、すべて女をんなのたいだいしきぞとて、館たちの内うちにも置おいたまへらざりしかば、東ひむがしの人ひとになりて、乳母めのとも、今いまに恋こひ泣なきはべるは、罪つみ深ふかくこそ見みたまふれ。

ゆゆしきついでのやうにはべれど、上うへも下したも、かかる筋すぢのことは、思おぼし乱みだるるは、いと悪あしきわざなり。御おほん命いのちまだにはあらずとも、人ひとの御おほんほどほどにつけてはべることなり。死しぬるにまさる恥はなることも、よき人ひとの御身おほんみには、なかなかはべるなり。一方ひとかたに思おぼし定さだめてよ。

宮みやも御心みこころざしまさりて、まめやかにだに聞きこえさせたまはば、そなたざまにもなびかせたまひて、ものないたく嘆なげかせたまひそ。痩やせ衰おとろへさせたまふもいと益やくなし。さばかり上うへの思おもひいたづききこえさせたまふものを、乳母めのとがこの御おほんいそぎに心こころを入いれて、惑まどひゐてはべるにつけても、それよりこなたに、と聞きこえさせたまふ御おほんことこそ、いと苦くるしく、いとほしけれ」

 と言いふに、いま一人ひとり、

「うたて、恐おそろしきまでな聞きこえさせたまひそ。何なにごとも御宿世おほんすくせにこそあらめ。ただ御心みこころのうちに、すこし思おぼしなびかむ方かたを、さるべきに思おぼしならせたまへ。いでや、いとかたじけなく、いみじき御おほんけしきなりしかば、人ひとのかく思おぼしいそぐめりし方かたにも御心みこころも寄よらず。しばしは隠かくろへても、御おほん思おもひのまさらせたまはむに寄よらせたまひね、とぞ思おもひえはべる」

 と、宮みやをいみじくめできこゆる心こころなれば、ひたみちに言いふ。

いさや。右近は、とてもかくても

「いさや。右近うこんは、とてもかくても、事ことなく過すぐさせたまへと、初瀬はつせ、石山いしやまなどに願ぐわんをなむ立たてはべる。この大将だいしゃう殿とのの御荘みさうの人ひとびとといふ者ものは、いみじき無な道みちの者ものどもにて、一ひと類るいこの里さとに満みちてはべるなり。おほかた、この山城やましろ、大和やまとに、殿とのの領りゃうじたまふ所々ところどころの人ひとなむ、皆みなこの内舎人うどねりといふ者もののゆかりかけつつはべるなる。

それが婿むこの右近うこん大夫たいふといふ者ものを元もととして、よろづのことをおきて仰おほせられたるななり。よき人ひとの御仲おほんなかどちは、情なさけなきことし出いでよ、と思おぼさずとも、ものの心得こころえぬ田た舎人とねりどもの、宿直人とのゐびとにて替かり替かりさぶらへば、おのが番ばんに当ありて、いささかなることもあらせじなど、過すちもしはべりなむ。

ありし夜よの御おほんありきは、いとこそむくつけく思おもうたまへられしか。宮みやは、わりなくつつませたまふとて、御供おほんともの人ひとも率ゐておはしまさず、やつれてのみおはしますを、さる者ものの見みつけたてまつりたらむは、いといみじくなむ」

 と、言いひ続つづくるを、君きみ、「なほ、我われを、宮みやに心寄こころよせたてまつりたると思おもひて、この人ひとびとの言いふ。いと恥はづかしく、心地ここちにはいづれとも思おもはず。ただ夢ゆめのやうにあきれて、いみじく焦いられたまふをば、などかくしも、とばかり思おもへど、頼たのみきこえて年としごろになりぬる人ひとを、今いまはともて離はなれむと思おもはぬによりこそ、かくいみじとものも思おもひ乱みだるれ。げに、よからぬことも出いで来きたらむ時とき」と、つくづくと思おもひゐたり。

「まろは、いかで死しなばや。世よづかず心憂こころうかりける身みかな。かく、憂うきことあるためしは、下衆げすなどの中なかにだに多おほくやはあなる」

 とて、うつぶし臥ふしたまへば、

「かくな思おぼし召めしそ。やすらかに思おぼしなせ、とてこそ聞きこえさせはべれ。思おぼしぬべきことをも、さらぬ顔かほにのみ、のどかに見みえさせたまへるを、この御事おほんことののち、いみじく心焦こころいられをせさせたまへば、いとあやしくなむ見みたてまつる」

 と、心こころ知しりたる限かぎりは、皆みなかく思おもひ乱みだれ騒さわぐに、乳母めのと、おのが心こころをやりて、物もの染そめいとなみゐたり。今いま参まゐり童わらはなどのめやすきを呼よび取とりつつ、

「かかる人ひと御覧ごらんぜよ。あやしくてのみ臥ふさせたまへるは、もののけなどの、妨さまたげきこえさせむとするにこそ」と嘆なげく。

殿よりは、かのありし返り事をだに

 殿とのよりは、かのありし返かへり事ことをだにのたまはで、日ひごろ経へぬ。この脅おどしし内舎人うどねりといふ者ものぞ来きたる。げに、いと荒々あらあらしく、ふつつかなるさましたる翁おきなの、声こゑかれ、さすがにけしきある、

「女房にょうばうに、ものとり申まうさむ」

 と言いはせたれば、右近うこんしも会あひたり。

「殿とのに召めしはべりしかば、今朝けさ参まゐりはべりて、ただ今いまなむ、まかり帰かへりはんべりつる。雑事ざふじども仰おほせられつるついでに、かくておはしますほどに、夜中よなか、暁あかつきのことも、なにがしらかくてさぶらふ、と思おもほして、宿直人とのゐびとわざとさしたてまつらせたまふこともなきを、このころ聞きこしめせば、

女房にょうばうの御おほんもとに、知しらぬ所ところの人ひと通かよふやうになむ聞きこし召めすことある。たいだいしきことなり。宿直とのゐにさぶらふ者ものどもは、その案内あない聞ききたらむ。知しらでは、いかがさぶらふべき

と問とはせたまひつるに、承うけたまはらぬことなれば、

なにがしは身みの病やまひ重おもくはべりて、宿直とのゐ仕つかうまつることは、月つきごろおこたりてはべれば、案内あないもえ知しりはんべらず。さるべき男をとこどもは、解け怠たいなく催もよほしさぶらはせはべるを、さのごとき非常ひじゃうのことのさぶらはむをば、いかでか承うけたまはらぬやうははべらむ

となむ申まうさせはべりつる。用意よういしてさぶらへ。便びんなきこともあらば、重おもく勘当かんだうせしめたまふべきよしなむ、仰おほせ言ことはべりつれば、いかなる仰おほせ言ことにかと、恐おそれ申まうしはんべる」

 と言いふを聞きくに、梟ふくろふの鳴なかむよりも、いともの恐おそろし。いらへもやらで、

「さりや。聞きこえさせしに違たがはぬことどもを聞きこしめせ。もののけしき御覧ごらんじたるなめり。御消息おほんせうそこもはべらぬよ」

 と嘆なげく。乳母めのとは、ほのうち聞ききて、

「いとうれしく仰おほせられたり。盗ぬす人ひと多おほかんなるわたりに、宿直人とのゐびとも初はじめのやうにもあらず。皆みな、身みの代かはりぞと言いひつつ、あやしき下衆げすをのみ参まゐらすれば、夜行やぎゃうをだにえせぬに」と喜よろこぶ。

君は、げに、ただ今いと悪しく

 君きみは、「げに、ただ今いまいと悪あしくなりぬべき身みなめり」と思おぼすに、宮みやよりは、

「いかに、いかに」

 と、苔こけの乱みだるるわりなさをのたまふ、いとわづらはしくてなむ。

「とてもかくても、一方ひとかた一方ひとかたにつけて、いとうたてあることは出いで来きなむ。わが身み一ひとつの亡なくなりなむのみこそめやすからめ。昔むかしは、懸想けさうする人ひとのありさまの、いづれとなきに思おもひわづらひてだにこそ、身みを投なぐるためしもありけれ。ながらへば、かならず憂うきこと見みえぬべき身みの、亡なくならむは、なにか惜をしかるべき。親おやもしばしこそ嘆なげき惑まどひたまはめ、あまたの子こども扱あつかひに、おのづから忘わす草くさ摘つみてむ。ありながらもてそこなひ、人ひと笑わらへなるさまにてさすらへむは、まさるもの思おもひなるべし」

 など思おもひなる。児ちごめきおほどかに、たをたをと見みゆれど、気高けだかう世よのありさまをも知しる方かたすくなくて、思おぼし立たてたる人ひとにしあれば、すこしおずかるべきことを、思おもひ寄よるなりけむかし。

 むつかしき反故ほぐなど破やぶりて、おどろおどろしく一度ひとたびにもしたためず、灯ひ台うてなの火ひに焼やき、水みづに投なげ入いれさせなど、やうやう失うふ。心こころ知しらぬ御達ごたちは、「ものへ渡わたりたまふべければ、つれづれなる月日つきひを経へて、はかなくし集あつめたまへる手習てならひなどを、破やぶりたまふなめり」と思おもふ。侍従じじうなどぞ、見みつくる時ときは、

「など、かくはせさせたまふ。あはれなる御仲おほんなかに、心こころとどめて書かき交かはしたまへる文ふみは、人ひとにこそ見みせさせたまはざらめ、ものの底そこに置おかせたまひて御覧ごらんずるなむ、ほどほどにつけては、いとあはれにはべる。さばかりめでたき御おほん紙かみ使つかひ、かたじけなき御おほん言ことの葉はを尽つくさせたまへるを、かくのみ破やぶらせたまふ、情なさけなきこと」

 と言いふ。

「何なにか。むつかしく。長ながかるまじき身みにこそあめれ。落おちとどまりて、人ひとの御おほんためもいとほしからむ。さかしらにこれを取とりおきけるよなど、漏もり聞ききたまはむこそ、恥はづかしけれ」

 などのたまふ。心細こころぼそきことを思おもひもてゆくには、またえ思おもひ立たつまじきわざなりけり。親おやをおきて亡なくなる人ひとは、いと罪つみ深ふかかなるものをなど、さすがに、ほの聞ききたることをも思おもふ。

二十日あまりにもなりぬ

 二十日はつかあまりにもなりぬ。かの家いへ主ぬし、二ふた十八じふはち日ひに下くだるべし。宮みやは、

「その夜よかならず迎むかへむ。下人しもびとなどに、よくけしき見みゆまじき心こころづかひしたまへ。こなたざまよりは、ゆめにも聞きこえあるまじ。疑うたがひたまふな」

 などのたまふ。「さて、あるまじきさまにておはしたらむに、今いま一度ひとたびものをもえ聞きこえず、おぼつかなくて返かへしたてまつらむことよ。また、時ときの間まにても、いかでかここには寄よせたてまつらむとする。かひなく怨うらみて帰かへりたまはむ」さまなどを思おもひやるに、例れいの、面影おもかげ離はなれず、堪たへず悲かなしくて、この御文おほんふみを顔かほにおし当あてて、しばしはつつめども、いといみじく泣なきたまふ。

 右近うこん、

「あが君きみ、かかる御おほんけしき、つひに人ひと見みたてまつりつべし。やうやう、あやしなど思おもふ人ひとはべるべかめり。かうかかづらひ思おもほさで、さるべきさまに聞きこえさせたまひてよ。右近うこんはべらば、おほけなきこともたばかり出いだしはべらば、かばかり小ちひさき御身おほんみ一ひとつは、空そらより率ゐてたてまつらせたまひなむ」

 と言いふ。とばかりためらひて、

「かくのみ言いふこそ、いと心憂こころうけれ。さもありぬべきこと、と思おもひかけばこそあらめ、あるまじきこと、と皆みな思おもひとるに、わりなく、かくのみ頼たのみたるやうにのたまへば、いかなることをし出いでたまはむとするにかなど、思おもふにつけて、身みのいと心憂こころうきなり」

 とて、返かへり事ことも聞きこえたまはずなりぬ。

宮、かくのみ、なほ受け引くけしきも

 宮みや、「かくのみ、なほ受うけ引ひくけしきもなくて、返かへり事ことさへ絶たえ絶たえになるは、かの人ひとの、あるべきさまに言いひしたためて、すこし心こころやすかるべき方かたに思おもひ定さだまりぬるなめり。ことわり」と思おぼすものから、いと口惜くちをしくねたく、

「さりとも、我われをばあはれと思おもひたりしものを。あひ見みぬとだえに、人ひとびとの言いひ知しらする方かたに寄よるならむかし」

 など眺ながめたまふに、行ゆく方かたしらず、むなしき空そらに満みちぬる心地ここちしたまへば、例れいの、いみじく思おぼし立たちておはしましぬ。

 葦垣あしがきの方かたを見みるに、例れいならず、

「あれは、誰たれそ」

 と言いふ声々こゑごゑ、いざとげなり。立たち退しぞきて、心こころ知しりの男をとこを入いれたれば、それをさへ問とふ。前々さきざきのけはひにも似にず。わづらはしくて、

「京きゃうよりとみの御文おほんふみあるなり」

 と言いふ。右近うこんは徒者ずしゃの名なを呼よびて会あひたり。いとわづらはしく、いとどおぼゆ。

「さらに、今宵こよひは不用ふようなり。いみじくかたじけなきこと」

 と言いはせたり。宮みや、「など、かくもて離はなるらむ」と思おぼすに、わりなくて、

「まづ、時方ときかた入いりて、侍従じじうに会あひて、さるべきさまにたばかれ」

 とて遣つかはす。かどかどしき人ひとにて、とかく言いひ構かまへて、訪おとづねて会あひたり。

「いかなるにかあらむ。かの殿とのののたまはすることありとて、宿直とのゐにある者ものどもの、さかしがりだちたるころにて、いとわりなきなり。御前おまへにも、ものをのみいみじく思おぼしためるは、かかる御おほんことのかたじけなきを、思おぼし乱みだるるにこそ、と心苦こころぐるしくなむ見みたてまつる。さらに、今宵こよひは。人ひとけしき見みはべりなば、なかなかにいと悪あしかりなむ。やがて、さも御心みこころづかひせさせたまひつべからむ夜よ、ここにも人ひと知しれず思おもひ構かまへてなむ、聞きこえさすべかめる」

 乳母めのとのいざときことなども語かたる。大夫たいふ、

「おはします道みちのおぼろけならず、あながちなる御おほんけしきに、あへなく聞きこえさせむなむ、たいだいしき。さらば、いざ、たまへ。ともに詳くはしく聞きこえさせたまへ」といざなふ。

「いとわりなからむ」

 と言いひしろふほどに、夜よもいたく更ふけゆく。

宮は、御馬にてすこし遠く立ちたまへるに

 宮みやは、御馬おほんむまにてすこし遠とほく立たちたまへるに、里さとびたる声こゑしたる犬いぬどもの出いで来きてののしるも、いと恐おそろしく、人少ひとずくなに、いとあやしき御おほんありきなれば、「すずろならむものの走はしり出いで来きたらむも、いかさまに」と、さぶらふ限かぎり心こころをぞ惑まどはしける。

「なほ、とくとく参まゐりなむ」

 と言いひ騒さわがして、この侍従じじうを率ゐて参まゐる。髪脇かみわきより掻かい越こして、様体やうだいいとをかしき人ひとなり。馬むまに乗のせむとすれど、さらに聞きかねば、衣きぬの裾すそをとりて、立たち添そひて行ゆく。わが沓くつを履はかせて、みづからは、供ともなる人ひとのあやしき物ものを履はきたり。

 参まゐりて、「かくなむ」と聞きこゆれば、語かたらひたまふべきやうだになければ、山賤やまがつの垣根かきねのおどろ葎むぐらの蔭かげに、障泥あふりといふものを敷しきて降おろしたてまつる。わが御心地みここちにも、「あやしきありさまかな。かかる道みちにそこなはれて、はかばかしくは、えあるまじき身みなめり」と、思おぼし続つづくるに、泣なきたまふこと限かぎりなし。

 心弱こころよわき人ひとは、ましていといみじく悲かなしと見みたてまつる。いみじき仇あたを鬼おににつくりたりとも、おろかに見捨みすつまじき人ひとの御おほんありさまなり。ためらひたまひて、

「ただ一ひと言こともえ聞きこえさすまじきか。いかなれば、今いまさらにかかるぞ。なほ、人ひとびとの言いひなしたるやうあるべし」

 とのたまふ。ありさま詳くはしく聞きこえて、

「やがて、さ思おぼし召めさむ日ひを、かねては散ちるまじきさまに、たばからせたまへ。かくかたじけなきことどもを見みたてまつりはべれば、身みを捨すてても思おもうたまへたばかりはべらむ」

 と聞きこゆ。我われも人目ひとめをいみじく思おぼせば、一方ひとかたに怨うらみたまはむやうもなし。

 夜よはいたく更ふけゆくに、このもの咎とがめする犬いぬの声こゑ絶たえず、人ひとびと追おひさけなどするに、弓ゆみ引ひき鳴ならし、あやしき男をとこどもの声こゑどもして、

「火ひ危あやふし」

 など言いふも、いと心こころあわたたしければ、帰かへりたまふほど、言いへばさらなり。

「いづくにか身みをば捨すてむと白しろ雲くものかからぬ山やまも泣なく泣なくぞ行ゆく

さらば、はや」

 とて、この人ひとを帰かへしたまふ。御おほんけしきなまめかしくあはれに、夜よ深ふかき露つゆにしめりたる御おほん香かの香かうばしさなど、たとへむ方かたなし。泣なく泣なくぞ帰かへり来きたる。

右近は、言ひ切りつるよし言ひゐたるに

 右近うこんは、言いひ切せちりつるよし言いひゐたるに、君きみは、いよいよ思おもひ乱みだるること多おほくて臥ふしたまへるに、入いり来きて、ありつるさま語かたるに、いらへもせねど、枕まくらのやうやう浮うきぬるを、かつはいかに見みるらむ、とつつまし。明あ朝あさも、あやしからむまみを思おもへば、無期むごに臥ふしたり。ものはかなげに帯おびなどして経きゃう読よむ。「親おやに先さきだちなむ罪つみ失うひたまへ」とのみ思おもふ。

 ありし絵ゑを取とり出いでて見みて、描かきたまひし手てつき、顔かほの匂にほひなどの、向むかひきこえたらむやうにおぼゆれば、昨夜よべ、一ひと言ことをだに聞きこえずなりにしは、なほ今いまひとへまさりて、いみじと思おもふ。「かの、心こころのどかなるさまにて見みむ、と行ゆく末すゑ遠とほかるべきことをのたまひわたる人ひとも、いかが思おぼさむ」といとほし。

 憂うきさまに言いひなす人ひともあらむこそ、思おもひやり恥はづかしけれど、「心浅こころあさく、けしからず人ひと笑わらへならむを、聞きかれたてまつらむよりは」など思おもひ続つづけて、

「嘆なげきわび身みをば捨すつとも亡なき影かげに憂うき名な流ながさむことをこそ思おもへ」

 親おやもいと恋こひしく、例れいは、ことに思おもひ出いでぬ弟おとうと妹いもの醜みにくやかなるも、恋こひし。宮みやの上うへを思おもひ出いできこゆるにも、すべて今いま一度ひとたびゆかしき人ひと多おほかり。人ひとは皆みな、おのおの物もの染そめいそぎ、何なにやかやと言いへど、耳みみにも入いらず、夜よとなれば、人ひとに見みつけられず、出いでて行ゆくべき方かたを思おもひまうけつつ、寝ねられぬままに、心地ここちも悪あしく、皆みな違たがひにたり。明あけたてば、川かはの方かたを見みやりつつ、羊ひつじの歩あゆみよりもほどなき心地ここちす。

宮は、いみじきことどもをのたまへり

 宮みやは、いみじきことどもをのたまへり。今いまさらに、人ひとや見みむと思おもへば、この御返おほんかへり事ことをだに、思おもふままにも書かかず。

「からをだに憂うき世よの中なかにとどめずはいづこをはかと君きみも恨うらみむ」

 とのみ書かきて出いだしつ。「かの殿とのにも、今いまはのけしき見みせたてまつらまほしけれど、所々ところどころに書かきおきて、離はなれぬ御仲おほんなかなれば、つひに聞ききあはせたまはむこと、いと憂うかるべし。すべて、いかになりけむと、誰たれにもおぼつかなくてやみなむ」と思おもひ返かへす。

 京きゃうより、母ははの御文おほんふみ持もて来きたり。

「寝ねぬる夜よの夢ゆめに、いと騒さわがしくて見みえたまひつれば、誦経ずきゃう所々ところどころせさせなどしはべるを、やがて、その夢ゆめの後のち、寝ねられざりつるけにや、ただ今いま、昼ひる寝ねしてはべる夢ゆめに、人ひとの忌いむといふことなむ、見みえたまひつれば、驚おどろきながらたてまつる。よく慎つつしませたまへ。

人ひと離はなれたる御おほん住すまひにて、時々ときどき立たち寄よらせたまふ人ひとの御おほんゆかりもいと恐おそろしく、悩なやましげにものせさせたまふ折をりしも、夢ゆめのかかるを、よろづになむ思おもうたまふる。

参まゐり来こまほしきを、少将せうしゃうの方かたの、なほ、いと心こころもとなげに、もののけだちて悩なやみはべれば、片時かたときも立たち去さること、といみじく言いはれはべりてなむ。その近ちかき寺てらにも御誦経みずきゃうせさせたまへ」

 とて、その料れうの物もの、文ふみなど書かき添そへて、持もて来きたり。限かぎりと思おもふ命いのちのほどを知しらで、かく言いひ続つづけたまへるも、いと悲かなしと思おもふ。

寺へ人遣りたるほど、返り事書く

 寺てらへ人ひと遣つかりたるほど、返かへり事こと書かく。言いはまほしきこと多おほかれど、つつましくて、ただ、

「後のちにまたあひ見みむことを思おもはなむこの世よの夢ゆめに心惑こころまどはで」

 誦経ずきゃうの鐘かねの風かぜにつけて聞きこえ来くるを、つくづくと聞きき臥ふしたまふ。

「鐘かねの音ねの絶たゆる響ひびきに音おとを添そへてわが世よ尽つきぬと君きみに伝つたへよ」

 巻数くゎんじゅ持もて来きたるに書かきつけて、

「今宵こよひは、え帰かへるまじ」

 と言いへば、物ものの枝えだに結ゆひつけて置おきつ。乳母めのと、

「あやしく、心こころばしりのするかな。夢ゆめも騒さわがし、とのたまはせたりつ。宿直人とのゐびと、よくさぶらへ」

 と言いはするを、苦くるしと聞きき臥ふしたまへり。

「物もの聞きこし召めさぬ、いとあやし。御湯漬おほんゆづけ」

 などよろづに言いふを、「さかしがるめれど、いと醜みにくく老おいなりて、我われなくは、いづくにかあらむ」と思おもひやりたまふも、いとあはれなり。「世よの中なかにえあり果はつまじきさまを、ほのめかして言いはむ」など思おぼすに、まづ驚おどろかされて先さきだつ涙なみだを、つつみたまひて、ものも言いはれず。右近うこん、ほど近ちかく臥ふすとて、

「かくのみものを思おもほせば、もの思おもふ人ひとの魂たましひは、あくがるなるものなれば、夢ゆめも騒さわがしきならむかし。いづ方かたと思おぼし定さだまりて、いかにもいかにも、おはしまさなむ」

 とうち嘆なげく。萎なえたる衣きぬを顔かほにおしあてて、臥ふしたまへり、となむ。

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