『源氏物語』第52帖「蜻蛉」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第52帖「蜻蛉」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第52帖「蜻蛉」現代語訳全文をご覧ください。

目次

かしこには、人びと、おはせぬを

 かしこには、人ひとびと、おはせぬを求もとめ騒さわげど、かひなし。物語ものがたりの姫君ひめぎみの、人ひとに盗ぬすまれたらむ明日あしたのやうなれば、詳くはしくも言いひ続つづけず。京きゃうより、ありし使つかの帰かへらずなりにしかば、おぼつかなしとて、また人ひとおこせたり。

「まだ、鶏とりの鳴なくになむ、出いだし立たてさせたまへる」

 と使つかの言いふに、いかに聞きこえむと、乳母めのとよりはじめて、あわて惑まどふこと限かぎりなし。思おもひやる方かたなくて、ただ騷さわぎ合あへるを、かの心こころ知しれるどちなむ、いみじくものを思おもひたまへりしさまを思おもひ出いづるに、「身みを投なげたまへるか」とは思おもひ寄よりける。

 泣なく泣なくこの文ふみを開あけたれば、

「いとおぼつかなさに、まどろまれはべらぬけにや、今宵こよひは夢ゆめにだにうちとけても見みえず。物ものに襲おそはれつつ、心地ここちも例れいならずうたてはべるを。なほいと恐おそろしく、ものへ渡わたらせたまはむことは近ちかくなれど、そのほど、ここに迎むかへたてまつりてむ。今日けふは雨あめ降ふりはべりぬべければ」

 などあり。昨夜よべの御返おほんかへりをも開あけて見みて、右近うこんいみじう泣なく。

「さればよ。心細こころぼそきことは聞きこえたまひけり。我われに、などかいささかのたまふことのなかりけむ。幼をさなかりしほどより、つゆ心こころ置おかれたてまつることなく、塵ちりばかり隔へだてなくてならひたるに、今いまは限かぎりの道みちにしも、我われを後おくらかし、けしきをだに見みせたまはざりけるがつらきこと」

 と思おもふに、足摺あしずりといふことをして泣なくさま、若わかき子こどものやうなり。いみじく思おぼしたる御みけしきは、見みたてまつりわたれど、かけても、かくなべてならずおどろおどろしきこと、思おぼし寄よらむものとは見みえざりつる人ひとの御心みこころざまを、「なほ、いかにしつることにか」とおぼつかなくいみじ。

 乳母めのとは、なかなかものもおぼえで、ただ、「いかさまにせむ。いかさまにせむ」とぞ言いはれける。

宮にも、いと例ならぬけしき

 宮みやにも、いと例れいならぬけしきありし御返おほんかへり、「いかに思おもふならむ。我われを、さすがにあひ思おもひたるさまながら、あだなる心こころなりとのみ、深ふかく疑うたがひたれば、他ほかへ行いき隠かくれむとにやあらむ」と思おぼし騷さわぎ、御使おほんつかひあり。

 ある限かぎり泣なき惑まどふほどに来きて、御文おほんふみもえたてまつらず。

「いかなるぞ」

 と下衆げす女をんなに問とへば、

「上うへの、今宵こよひ、にはかに亡うせたまひにければ、ものもおぼえたまはず。頼たのもしき人ひともおはしまさぬ折をりなれば、さぶらひたまふ人ひとびとは、ただものに当あたりてなむ惑まどひたまふ」

 と言いふ。心こころも深ふかく知しらぬ男をのこにて、詳くはしう問とはで参まゐりぬ。

「かくなむ」と申まうさせたるに、夢ゆめとおぼえて、

「いとあやし。いたくわづらふとも聞きかず。日ひごろ、悩なやましとのみありしかど、昨日きのふの返かへり事ごとはさりげもなくて、常つねよりもをかしげなりしものを」

 と、思おぼしやる方かたなければ、

「時方ときかた、行いきてけしき見み、たしかなること問とひ聞きけ」

 とのたまへば、

「かの大将だいしゃう殿との、いかなることか、聞ききたまふことはべりけむ、宿直とのゐする者ものおろかなり、など戒いましめ仰おほせらるるとて、下人しもびとのまかり出いづるをも、見みとがめ問とひはべるなれば、ことづくることなくて、時方ときかたまかりたらむを、ものの聞きこえはべらば、思おぼし合あはすることなどやはべらむ。さて、にはかに人ひとの亡うせたまへらむ所ところは、論ろんなう騒さわがしう、人ひとしげくはべらむを」と聞きこゆ。

「さりとては、いとおぼつかなくてやあらむ。なほ、とかくさるべきさまに構かまへて、例れいの、心こころ知しれる侍従じじうなどに会あひて、いかなることをかく言いふぞ、と案内あないせよ。下衆げすはひがことも言いふなり」

 とのたまへば、いとほしき御みけしきもかたじけなくて、夕ゆふつ方かた行ゆく。

かやすき人は、疾く行き着きぬ

 かやすき人ひとは、疾とく行いき着つきぬ。雨あめ少すくし降ふり止やみたれど、わりなき道みちにやつれて、下衆げすのさまにて来きたれば、人ひと多おほく立たち騷さわぎて、

「今宵こよひ、やがてをさめたてまつるなり」

 など言いふを聞きく心地ここちも、あさましくおぼゆ。右近うこんに消息せうそこしたれども、え会あはず、

「ただ今いま、ものおぼえず。起おき上あがらむ心地ここちもせでなむ。さるは、今宵こよひばかりこそ、かくも立たち寄よりたまはめ、え聞きこえぬこと」

 と言いはせたり。

「さりとて、かくおぼつかなくては、いかが帰かへり参まゐりはべらむ。今いま一所ひとところだに」

 と切せちに言いひたれば、侍従じじうぞ会あひたりける。

「いとあさまし。思おぼしもあへぬさまにて亡うせたまひにたれば、いみじと言いふにも飽あかず、夢ゆめのやうにて、誰たれも誰たれも惑まどひはべるよしを申まうさせたまへ。すこしも心地ここちのどめはべりてなむ、日ひごろも、もの思おぼしたりつるさま、一夜ひとよ、いと心苦こころぐるしと思おもひきこえさせたまへりしありさまなども、聞きこえさせはべるべき。この穢けがらひなど、人ひとの忌いみはべるほど過すぐして、今いま一度ひとたび立たち寄よりたまへ」

 と言いひて、泣なくこといといみじ。

内にも泣く声々のみして

 内うちにも泣なく声々こゑごゑのみして、乳母めのとなるべし、

「あが君きみや、いづ方かたにかおはしましぬる。帰かへりたまへ。むなしき骸からをだに見みたてまつらぬが、かひなく悲かなしくもあるかな。明あけ暮くれ見みたてまつりても飽あかずおぼえたまひ、いつしかかひある御おほんさまを見みたてまつらむと、朝夕あしたゆふべに頼たのみきこえつるにこそ、命いのちも延のびはべりつれ。うち捨すてたまひて、かく行方ゆくへも知しらせたまはぬこと。

鬼神おにがみも、あが君きみをばえ領りゃうじたてまつらじ。人ひとのいみじく惜をしむ人ひとをば、帝釈たいしゃくも返かへしたまふなり。あが君きみを取とりたてまつりたらむ、人ひとにまれ鬼おににまれ、返かへしたてまつれ。亡なき御おほん骸からをも見みたてまつらむ」

 と言いひ続つづくるが、心得こころえぬことども混まじるを、あやしと思おもひて、

「なほ、のたまへ。もし、人ひとの隠かくしきこえたまへるか。たしかに聞きこし召めさむと、御身おほんみの代かはりに出いだし立たてさせたまへる御使おほんつかひなり。今いまは、とてもかくてもかひなきことなれど、後のちにも聞きこし召めし合あはすることのはべらむに、違たがふこと混まじらば、参まゐりたらむ御使おほんつかひの罪つみなるべし。

また、さりともと頼たのませたまひて、君きみたちに対面たいめんせよと仰おほせられつる御心みこころばへも、かたじけなしとは思おぼされずや。女をんなの道みちに惑まどひたまふことは、人ひとの朝廷おほやけにも、古ふるき例れいどもありけれど、またかかること、この世よにはあらじ、となむ見みたてまつる」

 と言いふに、「げに、いとあはれなる御使おほんつかひにこそあれ。隠かくすとすとも、かくて例れいならぬことのさま、おのづから聞きこえなむ」と思おもひて、

「などか、いささかにても、人ひとや隠かくいたてまつりたまふらむ、と思おもひ寄よるべきことあらむには、かくしもある限かぎり惑まどひはべらむ。日ひごろ、いといみじくものを思おぼし入いるめりしかば、かの殿とのの、わづらはしげに、ほのめかし聞きこえたまふことなどもありき。

御母おほんははにものしたまふ人ひとも、かくののしる乳母めのとなども、初はじめより知しりそめたりし方かたに渡わたりたまはむ、となむいそぎ立たちて、この御おほんことをば、人ひと知しれぬさまにのみ、かたじけなくあはれと思おもひきこえさせたまへりしに、御心みこころ乱みだれけるなるべし。あさましう、心こころと身みを亡なくなしたまへるやうなれば、かく心こころの惑まどひに、ひがひがしく言いひ続つづけらるるなめり」

 と、さすがに、まほならずほのめかす。心得こころえがたくおぼえて、

「さらば、のどかに参まゐらむ。立たちながらはべるも、いとことそぎたるやうなり。今いま、御おほんみづからもおはしましなむ」

 と言いへば、

「あな、かたじけな。今いまさら、人ひとの知しりきこえさせむも、亡なき御おほんためは、なかなかめでたき御宿世おほんすくせ見みゆべきことなれど、忍しのびたまひしことなれば、また漏もらさせたまはで、止とませたまはむなむ、御心みこころざしにはべるべき」

 ここには、かく世よづかず亡うせたまへるよしを、人ひとに聞きかせじと、よろづに紛まぎらはすを、「自然じねんにことどものけしきもこそ見みゆれ」と思おもへば、かくそそのかしやりつ。

雨のいみじかりつる紛れに

 雨あめのいみじかりつる紛まぎれに、母君ははぎみも渡わたりたまへり。さらに言いはむ方かたもなく、

「目めの前まへに亡なくなしたらむ悲かなしさは、いみじうとも、世よの常つねにて、たぐひあることなり。これは、いかにしつることぞ」

 と惑まどふ。かかることどもの紛まぎれありて、いみじうもの思おもひたまふらむとも知しらねば、身みを投なげたまへらむとも思おもひも寄よらず、

「鬼おにや食くひつらむ。狐きつねめくものや取とりもて去いぬらむ。いと昔物語むかしものがたりのあやしきもののことのたとひにか、さやうなることも言いふなりし」

 と思おもひ出いづ。

「さては、かの恐おそろしと思おもひきこゆるあたりに、心こころなど悪あしき御乳母おほんめのとやうの者ものや、かう迎むかへたまふべしと聞ききて、めざましがりて、たばかりたる人ひともやあらむ」

 と、下衆げすなどを疑うたがひ、

「今いま参まゐりの、心こころ知しらぬやある」

 と問とへば、

「いと世離よばなれたりとて、ありならはぬ人ひとは、ここにてはかなきこともえせず、今いまとく参まゐらむ、と言いひてなむ、皆みな、そのいそぐべきものどもなど取とり具ぐしつつ、帰かへり出いではべりにし」

 とて、もとよりある人ひとだに、片かたへはなくて、いと人少ひとずくななる折をりになむありける。

侍従などこそ、日ごろの御けしき

 侍従じじうなどこそ、日ひごろの御おほんけしき思おもひ出いで、「身みを失うひてばや」など、泣なき入いりたまひし折々をりをりのありさま、書かき置おきたまへる文ふみをも見みるに、「亡なき影かげに」と書かきすさびたまへるものの、硯すずりの下したにありけるを見みつけて、川かはの方かたを見みやりつつ、響ひびきののしる水みづの音おとを聞きくにも、疎うとましく悲かなしと思おもひつつ、

「さて、亡うせたまひけむ人ひとを、とかく言いひ騷さわぎて、いづくにもいづくにも、いかなる方かたになりたまひにけむ、と思おぼし疑うたがはむも、いとほしきこと」

 と言いひ合あはせて、

「忍しのびたる事こととても、御心みこころより起おこりてありしことならず。親おやにて、亡なき後のちに聞ききたまへりとも、いとやさしきほどならぬを、ありのままに聞きこえて、かくいみじくおぼつかなきことどもをさへ、かたがた思おもひ惑まどひたまふさまは、すこし明あらめさせたてまつらむ。亡なくなりたまへる人ひととても、骸からを置おきてもて扱あつかふこそ、世よの常つねなれ、世よづかぬけしきにて日ひごろも経へば、さらに隠かくれあらじ。なほ、聞きこえて、今いまは世よの聞きこえをだにつくろはむ」

 と語かたらひて、忍しのびてありしさまを聞きこゆるに、言いふ人ひとも消きえ入いり、え言いひやらず、聞きく心地ここちも惑まどひつつ、「さは、このいと荒あらましと思おもふ川かはに、流ながれ亡うせたまひにけり」と思おもふに、いとど我われも落おち入いりぬべき心地ここちして、

「おはしましにけむ方かたを尋たづねて、骸からをだにはかばかしくをさめむ」

 とのたまへど、

「さらに何なにのかひはべらじ。行方ゆくへも知しらぬ大おほ海うみの原はらにこそおはしましにけめ。さるものから、人ひとの言いひ伝つたへむことは、いと聞ききにくし」

 と聞きこゆれば、とざまかくざまに思おもふに、胸むねのせきのぼる心地ここちして、いかにもいかにもすべき方かたもおぼえたまはぬを、この人ひとびと二人ふたりして、車くるま寄よせさせて、御座おましども、気近けぢかう使つかひたまひし御調度みてうどども、皆みなながら脱ぬぎ置おきたまへる御おほん衾ふすまなどやうのものを取とり入いれて、乳母子めのとごの大徳だいとく、それが叔父をぢの阿闍梨あざり、その弟子でしの睦むつましきなど、もとより知しりたる老法師おいほふしなど、御忌おほんいみに籠こもるべき限かぎりして、人ひとの亡なくなりたるけはひにまねびて、出いだし立たつるを、乳母めのと、母君ははぎみは、いといみじくゆゆしと臥ふしまろぶ。

大夫、内舎人など

 大夫たいふ、内舎人うどねりなど、脅おどしきこえし者ものどもも参まゐりて、

「御葬送おほんさうそうの事ことは、殿とのに事ことのよしも申まうさせたまひて、日ひ定さだめられ、いかめしうこそ仕つかうまつらめ」

 など言いひけれど、

「ことさら、今宵こよひ過すぐすまじ。いと忍しのびてと思おもふやうあればなむ」

 とて、この車くるまを、向むかひの山やまの前まへなる原はらにやりて、人ひとも近ちかうも寄よせず、この案内あない知しりたる法師ほふしの限かぎりして焼やかす。いとはかなくて、煙けぶりは果はてぬ。田舎人ゐなかびとどもは、なかなか、かかることをことことしくしなし、言忌こといみなど深ふかくするものなりければ、

「いとあやしう。例れいの作法さほふなど、あることども知しらず、下衆げす下衆げすしく、あへなくてせられぬることかな」

 と誹そしりければ、

「片かたへおはする人ひとは、ことさらにかくなむ、京きゃうの人ひとはしたまふ」

 などぞ、さまざまになむやすからず言いひける。

「かかる人ひとどもの言いひ思おもふことだに慎つつしましきを、まして、ものの聞きこえ隠かくれなき世よの中なかに、大将だいしゃう殿とのわたりに、骸からもなく亡うせたまひにけり、と聞きかせたまはば、かならず思おもほし疑うたがふこともあらむを、宮みやはた、同おなじ御仲おほんなからひにて、さる人ひとのおはしおはせず、しばしこそ忍しのぶとも思おぼさめ、つひには隠かくれあらじ。

また、定さだめて宮みやをしも疑うたがひきこえたまはじ。いかなる人ひとか率ゐて隠かくしけむなどぞ、思おぼし寄よせむかし。生いきたまひての御宿世おほんすくせは、いと気高けだかくおはせし人ひとの、げに亡なき影かげに、いみじきことをや疑うたがはれたまはむ」

 と思おもへば、ここの内うちなる下人しもびとどもにも、今朝けさのあわたたしかりつる惑まどひに、「けしきも見聞みききつるには口くちかため、案内あない知しらぬには聞きかせじ」などぞたばかりける。

「ながらへては、誰たれにも、静しづやかに、ありしさまをも聞きこえてむ。ただ今いまは、悲かなしさ覚さめぬべきこと、ふと人伝ひとづてに聞きこし召めさむは、なほいといとほしかるべきことなるべし」

 と、この人ひと二人ふたりぞ、深ふかく心こころの鬼おに添そひたれば、もて隠かくしける。

大将殿は、入道の宮の悩みたまひ

 大将だいしゃう殿とのは、入道にふだうの宮みやの悩なやみたまひければ、石山いしやまに籠こもりたまひて、騷さわぎたまふころなりけり。さて、いとどかしこをおぼつかなう思おぼしけれど、はかばかしう、「さなむ」と言いふ人ひとはなかりければ、かかるいみじきことにも、まづ御使おほんつかひのなきを、人目ひとめも心憂こころうしと思おもふに、御荘みさうの人ひとなむ参まゐりて、「しかしか」と申まうさせければ、あさましき心地ここちしたまひて、御使おほんつかひ、そのまたの日ひ、まだつとめて参まゐりたり。

「いみじきことは、聞きくままにみづからもすべきに、かく悩なやみたまふ御おほんことにより、慎つつしみて、かかる所ところに日ひを限かぎりて籠こもりたればなむ。昨夜よべのことは、などか、ここに消息せうそこして、日ひを延のべてもさることはするものを、いと軽かろらかなるさまにて、急いそぎせられにける。とてもかくても、同おなじ言いふかひなさなれど、とぢめのことをしも、山賤やまがつの誹そしりをさへ負おふなむ、ここのためもからき」

 など、かの睦むつましき大蔵大輔おほくらのたいふしてのたまへり。御使おほんつかひの来きたるにつけても、いとどいみじきに、聞きこえむ方かたなきことどもなれば、ただ涙なみだにおぼほれたるばかりをかことにて、はかばかしうもいらへやらずなりぬ。

殿は、なほ、いとあへなくいみじ

 殿とのは、なほ、いとあへなくいみじと聞ききたまふにも、

「心憂こころうかりける所ところかな。鬼おになどや住すむらむ。などて、今いままでさる所ところに据すゑたりつらむ。思おもはずなる筋すぢの紛まぎれあるやうなりしも、かく放はなち置おきたるに、心こころやすくて、人ひとも言いひ犯をかしたまふなりけむかし」

 と思おもふにも、わがたゆく世よづかぬ心こころのみ悔くやしく、御胸おほんむね痛いたくおぼえたまふ。悩なやませたまふあたりに、かかること思おぼし乱みだるるもうたてあれば、京きゃうにおはしぬ。

 宮みやの御方おほんかたにも渡わたりたまはず、

「ことことしきほどにもはべらねど、ゆゆしきことを近ちかう聞ききつれば、心こころの乱みだれはべるほども忌いま忌いましうて」

 など聞きこえたまひて、尽つきせずはかなくいみじき世よを嘆なげきたまふ。ありしさま容貌かたち、いと愛敬あいぎゃうづき、をかしかりしけはひなどの、いみじく恋こひしく悲かなしければ、

「うつつの世よには、などかくしも思おもひ晴はれず、のどかにて過すぐしけむ。ただ今いまは、さらに思おもひ静しづめむ方かたなきままに、悔くやしきことの数かず知しらず。かかることの筋すぢにつけて、いみじうものすべき宿世すくせなりけり。さま異ことに心こころざしたりし身みの、思おもひの外ほかに、かく例れいの人ひとにてながらふるを、仏ほとけなどの憎にくしと見みたまふにや。人ひとの心こころを起おこさせむとて、仏ほとけのしたまふ方便はうべんは、慈悲じひをも隠かくして、かやうにこそはあなれ」

 と思おもひ続つづけたまひつつ、行おこなひをのみしたまふ。

かの宮はた、まして

 かの宮みやはた、まして、二に、三日さんにちはものもおぼえたまはず、うつし心こころもなきさまにて、「いかなる御おほんもののけならむ」など騒さわぐに、やうやう涙なみだ尽つくしたまひて、思おぼし静しづまるにしもぞ、ありしさまは恋こひしういみじく思おもひ出いでられたまひける。人ひとには、ただ御病おほんやまひの重おもきさまをのみ見みせて、「かくすぞろなるいやめのけしき知しらせじ」と、かしこくもて隠かくすと思おぼしけれど、おのづからいとしるかりければ、

「いかなることにかく思おぼし惑まどひ、御おほん命いのちも危あやふきまで沈しづみたまふらむ」

 と、言いふ人ひともありければ、かの殿とのにも、いとよくこの御おほんけしきを聞ききたまふに、「さればよ。なほ、よその文通ふみかよはしのみにはあらぬなりけり。見みたまひては、かならずさ思おぼしぬべかりし人ひとぞかし。ながらへましかば、ただなるよりぞ、わがためにをこなることも出いで来きなまし」と思おぼすになむ、焦こがるる胸むねもすこし冷さむる心地ここちしたまひける。

宮の御訪らひに

 宮みやの御訪おほんとぶらひに、日々ひびに参まゐりたまはぬ人ひとなく、世よの騷さわぎとなれるころ、「ことことしき際きはならぬ思おもひに籠こもりゐて、参まゐらざらむもひがみたるべし」と思おぼして参まゐりたまふ。

 そのころ、式部卿宮しきぶきゃうのみやと聞きこゆるも亡うせたまひにければ、御おほん叔父をぢの服ぶくにて薄鈍うすにびなるも、心こころのうちにあはれに思おもひよそへられて、つきづきしく見みゆ。すこし面痩おもやせて、いとどなまめかしきことまさりたまへり。人ひとびとまかり出いでて、しめやかなる夕暮ゆふぐれなり。

 宮みや、臥ふし沈しづみてはなき御心地みここちなれば、疎うとき人ひとにこそ会あひたまはね、御簾みすの内うちにも例れい入いりたまふ人ひとには、対面たいめんしたまはずもあらず。見みえたまはむもあいなくつつまし。見みたまふにつけても、いとど涙なみだのまづせきがたさを思おぼせど、思おもひ静しづめて、

「おどろおどろしき心地ここちにもはべらぬを、皆人みなひと、慎つつしむべき病やまひのさまなり、とのみものすれば、内裏うちにも宮みやにも思おぼし騒さわぐがいと苦くるしく、げに、世よの中なかの常つねなきをも、心細こころぼそく思おもひはべる」

 とのたまひて、おし拭のごひ紛まぎらはしたまふと思おぼす涙なみだの、やがてとどこほらずふり落おつれば、いとはしたなけれど、「かならずしもいかでか心得こころえむ。ただめめしく心弱こころよわきとや見みゆらむ」と思おぼすも、「さりや。ただこのことをのみ思おぼすなりけり。いつよりなりけむ。我われをいかにをかしと、もの笑わらひしたまふ心地ここちに、月つきごろ思おぼしわたりつらむ」

 と思おもふに、この君きみは、悲かなしさは忘わすれたまへるを、

「こよなくも、おろかなるかな。ものの切せちにおぼゆる時ときは、いとかからぬことにつけてだに、空そら飛とぶ鳥とりの鳴なき渡わたるにも、もよほされてこそ悲かなしけれ。わがかくすぞろに心弱こころよわきにつけても、もし心得こころえたらむに、さ言いふばかり、もののあはれも知しらぬ人ひとにもあらず。世よの中なかの常つねなきこと惜をしみて思おもへる人ひとしもつれなき」

 と、うらやましくも心こころにくくも思おぼさるるものから、真木柱まきばしらはあはれなり。これに向むかひたらむさまも思おぼしやるに、「形見かたみぞかし」とも、うちまもりたまふ。

やうやう世の物語聞こえたまふに

 やうやう世よの物語ものがたり聞きこえたまふに、「いと籠こめてしもはあらじ」と思おぼして、

「昔むかしより、心こころに籠こめてしばしも聞きこえさせぬこと残のこしはべる限かぎりは、いといぶせくのみ思おもひたまへられしを、今いまは、なかなか上臈じゃうらふになりにてはべり。まして、御暇おほんいとまなき御おほんありさまにて、心こころのどかにおはします折をりもはべらねば、宿直とのゐなどに、そのこととなくてはえさぶらはず、そこはかとなくて過すぐしはべるをなむ。

昔むかし、御覧ごらんぜし山里やまざとに、はかなくて亡うせはべりにし人ひとの、同おなじゆかりなる人ひと、おぼえぬ所ところにはべりと聞ききつけはべりて、時々ときどきさて見みつべくや、と思おもひたまへしに、あいなく人ひとの誹そしりもはべりぬべかりし折をりなりしかば、このあやしき所ところに置おきてはべりしを、をさをさまかりて見みることもなく、また、かれも、なにがし一人ひとりをあひ頼たのむ心こころもことになくてやありけむ、とは見みたまひつれど、やむごとなくものものしき筋すぢに思おもひたまへばこそあらめ、見みるにはた、ことなる咎とがもはべらずなどして、心こころやすくらうたしと思おもひたまへつる人ひとの、いとはかなくて亡なくなりはべりにける。なべて世よのありさまを思おもひたまへ続つづけはべるに、悲かなしくなむ。聞きこし召めすやうもはべらむかし」

 とて、今いまぞ泣なきたまふ。

 これも、「いとかうは見みえたてまつらじ。をこなり」と思おもひつれど、こぼれそめてはいと止とめがたし。けしきのいささか乱みだり顔がほなるを、「あやしく、いとほし」と思おぼせど、つれなくて、

「いとあはれなることにこそ。昨日きのふほのかに聞ききはべりき。いかにとも聞きこゆべく思おもひはべりながら、わざと人ひとに聞きかせたまはぬこと、と聞ききはべりしかばなむ」

 と、つれなくのたまへど、いと堪たへがたければ、言少ことずくなにておはします。

「さる方かたにても御覧ごらんぜさせばや、と思おもひたまへりし人ひとになむ。おのづからさもやはべりけむ、宮みやにも参まゐり通かよふべきゆゑはべりしかば」

 など、すこしづつけしきばみて、

「御心地みここち例れいならぬほどは、すぞろなる世よのこと聞きこし召めし入いれ、御耳おほんみみおどろくも、あいなきことになむ。よく慎つつしませおはしませ」

 など、聞きこえ置おきて、出いでたまひぬ。

いみじくも思したりつるかな

「いみじくも思おぼしたりつるかな。いとはかなかりけれど、さすがに高たかき人ひとの宿世すくせなりけり。当時たうじの帝みかど、后きさきの、さばかりかしづきたてまつりたまふ親王みこ、顔かほ容貌かたちよりはじめて、ただ今いまの世よにはたぐひおはせざめり。見みたまふ人ひととても、なのめならず、さまざまにつけて、限かぎりなき人ひとをおきて、これに御心みこころを尽つくし、世よの人ひと立たち騷さわぎて、修法すほふ、読経どきゃう、祭まつり、祓はらと、道々みちみちに騒さわぐは、この人ひとを思おぼすゆかりの、御心地みここちのあやまりにこそはありけれ。

我われも、かばかりの身みにて、時ときの帝みかどの御女おほんむすめを持もちたてまつりながら、この人ひとのらうたくおぼゆる方かたは、劣おとりやはしつる。まして、今いまはとおぼゆるには、心こころをのどめむ方かたなくもあるかな。さるは、をこなり、かからじ」

 と思おもひ忍しのぶれど、さまざまに思おもひ乱みだれて、

「人ひと木石ぼくせきに非あらざれば皆みな情なさけあり」

 と、うち誦ずじて臥ふしたまへり。

 後のちのしたためなども、いとはかなくしてけるを、「宮みやにもいかが聞ききたまふらむ」と、いとほしくあへなく、「母ははのなほなほしくて、兄弟はらからあるはなど、さやうの人ひとは言いふことあんなるを思おもひて、こと削そぐなりけむかし」など、心こころづきなく思おぼす。

 おぼつかなさも限かぎりなきを、ありけむさまもみづから聞きかまほしと思おぼせど、「長籠ながごもりしたまはむも便びんなし。行いきと行いきて立たち帰かへらむも心苦こころぐるし」など、思おぼしわづらふ。

月たちて、今日ぞ渡らまし

 月つきたちて、「今日けふぞ渡わたらまし」と思おぼし出いでたまふ日ひの夕暮ゆふぐれ、いとものあはれなり。御前おまへ近ちかき橘たちばなの香かのなつかしきに、ほととぎすの二ふた声こゑばかり鳴なきて渡わたる。「宿やどに通かよはば」と独ひとりごちたまふも飽あかねば、北きたの宮みやに、ここに渡わたりたまふ日ひなりければ、橘たちばなを折をらせて聞きこえたまふ。

「忍しのび音ねや君きみも泣なくらむかひもなき死出しでの田長たをさに心こころ通かよはば」

 宮みやは、女君をんなぎみの御おほんさまのいとよく似にたるを、あはれと思おぼして、二所ふたところ眺ながめたまふ折をりなりけり。「けしきある文ふみかな」と見みたまひて、

「橘たちばなの薫かをるあたりはほととぎす心こころしてこそ鳴なくべかりけれ

わづらはし」

 と書かきたまふ。

 女君をんなぎみ、このことのけしきは、皆みな見知みしりたまひてけり。「あはれにあさましきはかなさの、さまざまにつけて心深こころふかきなかに、我われ一人ひとりもの思おもひ知しらねば、今いままでながらふるにや。それもいつまで」と心細こころぼそく思おぼす。宮みやも、隠かくれなきものから、隔へだてたまふもいと心苦こころぐるしければ、ありしさまなど、すこしはとり直なほしつつ語かたりきこえたまふ。

「隠かくしたまひしがつらかりし」

 など、泣なきみ笑わらひみ聞きこえたまふにも、異人ことびとよりは睦むつましくあはれなり。ことことしくうるはしくて、例れいならぬ御おほんことのさまも、おどろき惑まどひたまふ所ところにては、御訪おほんとぶらひの人ひとしげく、父ちち大臣おとど、兄せうとの君きみたち隙ひまなきも、いとうるさきに、ここはいと心こころやすくて、なつかしくぞ思おぼされける。

いと夢のやうにのみ

 いと夢ゆめのやうにのみ、なほ、「いかで、いとにはかなりけることにかは」とのみいぶせければ、例れいの人ひとびと召めして、右近うこんを迎むかへに遣つかはす。母君ははぎみも、さらにこの水みづの音おとけはひを聞きくに、我われもまろび入いりぬべく、悲かなしく心憂こころうきことのどまるべくもあらねば、いとわびしうて帰かへりたまひにけり。

 念仏ねんぶつの僧そうどもを頼たのもしき者ものにて、いとかすかなるに入いり来きたれば、ことことしく、にはかに立たちめぐりし宿直人とのゐびとどもも、見みとがめず。「あやにくに、限かぎりのたびしも入いれたてまつらずなりにしよ」と、思おもひ出いづるもいとほし。

「さるまじきことを思おもほし焦こがるること」と、見苦みぐるしく見みたてまつれど、ここに来きては、おはしましし夜よな夜よなのありさま、抱いだかれたてまつりたまひて、舟ふねに乗のりたまひしけはひの、あてにうつくしかりしことなどを思おもひ出いづるに、心強こころづよき人ひとなくあはれなり。右近うこん会あひて、いみじう泣なくもことわりなり。

「かくのたまはせて、御使おほんつかひになむ参まゐりつる」

 と言いへば、

「今いまさらに、人ひともあやしと言いひ思おもはむも慎つつしましく、参まゐりても、はかばかしく聞きこし召めし明あらむばかり、もの聞きこえさすべき心地ここちもしはべらず。この御忌おほんいみ果はてて、あからさまにもなむ、と人ひとに言いひなさむも、すこし似につかはしかりぬべきほどになしてこそ、心こころより外ほかの命いのちはべらば、いささか思おもひ静しづまらむ折をりになむ、仰おほせ言ごとなくとも参まゐりて、げにいと夢ゆめのやうなりしことどもも、語かたりきこえまほしき」

 と言いひて、今日けふは動うごくべくもあらず。

大夫も泣きて

 大夫たいふも泣なきて、

「さらに、この御仲おほんなかのこと、こまかに知しりきこえさせはべらず。物ものの心こころ知しりはべらずながら、たぐひなき御心みこころざしを見みたてまつりはべりしかば、君きみたちをも、何なにかは急いそぎてしも聞きこえ承うけたまはらむ。つひには仕つかうまつるべきあたりにこそ、と思おもひたまへしを、言いふかひなく悲かなしき御おほんことの後のちは、私わたくしの御心みこころざしも、なかなか深ふかさまさりてなむ」

 と語かたらふ。

「わざと御車みくるまなど思おぼしめぐらして、たてまつれたまへるを、空むなしくては、いといとほしうなむ。今いま一所ひとところにても参まゐりたまへ」

 と言いへば、侍従じじうの君きみ呼よび出いでて、

「さは、参まゐりたまへ」

 と言いへば、

「まして何事なにごとをかは聞きこえさせむ。さても、なほ、この御忌おほんいみのほどにはいかでか。忌いませたまはぬか」

 と言いへば、

「悩なやませたまふ御おほん響ひびきに、さまざまの御おほん慎つつしみどもはべめれど、忌いみあへさせたまふまじき御みけしきになむ。また、かく深ふかき御契おほんちぎりにては、籠こもらせたまひてもこそおはしまさめ。残のこりの日ひいくばくならず。なほ一所ひとところ参まゐりたまへ」

 と責せむれば、侍従じじうぞ、ありし御おほんさまもいと恋こひしう思おもひきこゆるに、「いかならむ世よにかは見みたてまつらむ、かかる折をりに」と思おもひなして参まゐりける。

黒き衣ども着て

 黒くろき衣きぬども着きて、引ひきつくろひたる容貌かたちもいときよげなり。裳もは、ただ今いま我われより上うへなる人ひとなきにうちたゆみて、色いろも変かへざりければ、薄色うすいろなるを持もたせて参まゐる。

「おはせましかば、この道みちにぞ忍しのびて出いでたまはまし。人ひと知しれず心寄こころよせきこえしものを」など思おもふにもあはれなり。道みちすがら泣なく泣なくなむ来きける。

 宮みやは、この人ひと参まゐれり、と聞きこし召めすもあはれなり。女君をんなぎみには、あまりうたてあれば、聞きこえたまはず。寝殿しんでんにおはしまして、渡殿わたどのに降おろしたまへり。ありけむさまなど詳くはしう問とはせたまふに、日ひごろ思おぼし嘆なげきしさま、その夜よ泣なきたまひしさま、

「あやしきまで言少ことずくなに、おぼおぼとのみものしたまひて、いみじと思おぼすことをも、人ひとにうち出いでたまふことは難かたく、ものづつみをのみしたまひしけにや、のたまひ置おくこともはべらず。夢ゆめにも、かく心強こころづよきさまに思おぼしかくらむとは、思おもひたまへずなむはべりし」

 など、詳くはしう聞きこゆれば、ましていといみじう、「さるべきにても、ともかくもあらましよりも、いかばかりものを思おもひ立たちて、さる水みづに溺おぼれけむ」と思おぼしやるに、「これを見みつけて堰せきとめたらましかば」と、湧わきかへる心地ここちしたまへど、かひなし。

「御文おほんふみを焼やき失うひたまひしなどに、などて目めを立たてはべらざりけむ」

 など、夜一夜よひとよ語かたらひたまふに、聞きこえ明あかす。かの巻数くゎんじゅに書かきつけたまへりし、母君ははぎみの返かへり事ごとなどを聞きこゆ。

何ばかりのものとも御覧ぜざりし人

 何なにばかりのものとも御覧ごらんぜざりし人ひとも、睦むつましくあはれに思おぼさるれば、

「わがもとにあれかし。あなたももて離はなるべくやは」

 とのたまへば、

「さて、さぶらはむにつけても、もののみ悲かなしからむを思おもひたまへれば、今いまこの御果おほんはてなど過すぐして」

 と聞きこゆ。「またも参まゐれ」など、この人ひとをさへ、飽あかず思おぼす。

 暁あかつき帰かへるに、かの御料ごれうにとてまうけさせたまひける櫛くしの筥はこ一具ひとよろひ、衣筥ころもばこ一具ひとよろひ、贈おく物ものにせさせたまふ。さまざまにせさせたまふことは多おほかりけれど、おどろおどろしかりぬべければ、ただこの人ひとに仰おほせたるほどなりけり。

「なに心ごころもなく参まゐりて、かかることどものあるを、人ひとはいかが見みむ。すずろにむつかしきわざかな」

 と思おもひわぶれど、いかがは聞きこえ返かへさむ。

 右近うこんと二人ふたり、忍しのびて見みつつ、つれづれなるままに、こまかに今いまめかしうし集あつめたることどもを見みても、いみじう泣なく。装束さうぞくもいとうるはしうし集あつめたるものどもなれば、

「かかる御服おほんぶくに、これをばいかでか隠かくさむ」

 など、もてわづらひける。

大将殿も、なほ、いとおぼつかなきに

 大将だいしゃう殿とのも、なほ、いとおぼつかなきに、思おぼし余あまりておはしたり。道みちのほどより、昔むかしの事ことどもかき集あつめつつ、

「いかなる契ちぎりにて、この父ちち親王みこの御おほんもとに来きそめけむ。かかる思おもひかけぬ果はてまで思おもひあつかひ、このゆかりにつけては、ものをのみ思おもふよ。いと尊たふとくおはせしあたりに、仏ほとけをしるべにて、後のちの世よをのみ契ちぎりしに、心こころきたなき末すゑの違たがひめに、思おもひ知しらするなめり」

 とぞおぼゆる。右近うこん召めし出いでて、

「ありけむさまもはかばかしう聞きかず、なほ、尽つきせずあさましう、はかなければ、忌いの残のこりもすくなくなりぬ。過すぐして、と思おもひつれど、静しづめあへずものしつるなり。いかなる心地ここちにてか、はかなくなりたまひにし」

 と問とひたまふに、「尼君あまぎみなども、けしきは見みてければ、つひに聞ききあはせたまはむを、なかなか隠かくしても、こと違たがひて聞きこえむに、そこなはれぬべし。あやしきことの筋すぢにこそ、虚言そらごとも思おもひめぐらしつつならひしか。かくまめやかなる御おほんけしきにさし向むかひきこえては、かねて、と言いはむ、かく言いはむと、まうけし言葉ことばをも忘わすれ、わづらはしう」おぼえければ、ありしさまのことどもを聞きこえつ。

あさましう、思しかけぬ筋なるに

 あさましう、思おぼしかけぬ筋すぢなるに、物ものもとばかりのたまはず。

「さらにあらじとおぼゆるかな。なべての人ひとの思おもひ言いふことをも、こよなく言少ことずくなに、おほどかなりし人ひとは、いかでかさるおどろおどろしきことは思おもひ立たつべきぞ。いかなるさまに、この人ひとびと、もてなして言いふにか」

 と御心みこころも乱みだれまさりたまへど、「宮みやも思おぼし嘆なげきたるけしき、いとしるし、事ことのありさまも、しかつれなしづくりたらむけはひは、おのづから見みえぬべきを、かくおはしましたるにつけても、悲かなしくいみじきことを、上下かみしもの人ひと集つどひて泣なき騒さわぐを」と、聞ききたまへば、

「御供おほんともに具ぐして失うせたる人ひとやある。なほ、ありけむさまをたしかに言いへ。我われをおろかに思おもひて背そむきたまふことは、よもあらじとなむ思おもふ。いかやうなる、たちまちに、言いひ知しらぬことありてか、さるわざはしたまはむ。我われなむえ信しんずまじき」

 とのたまへば、「いとどしく、さればよ」とわづらはしくて、

「おのづから聞きこし召めしけむ。もとより思おぼすさまならで生おひ出いでたまへりし人ひとの、世離よばなれたる御住おほんすまひの後のちは、いつとなくものをのみ思おぼすめりしかど、たまさかにもかく渡わたりおはしますを、待まちきこえさせたまふに、もとよりの御身おほんみの嘆なげきをさへ慰なぐさめたまひつつ、心こころのどかなるさまにて、時々ときどきも見みたてまつらせたまふべきやうには、いつしかとのみ、言ことに出いでてはのたまはねど、思おぼしわたるめりしを、その御おほん本意ほいかなふべきさまに承うけたまはることどもはべりしに、かくてさぶらふ人ひとどもも、うれしきことに思おもひたまへいそぎ、かの筑波山つくばやまも、からうして心こころゆきたるけしきにて、渡わたらせたまはむことをいとなみ思おもひたまへしに、心得こころえぬ御消息おほんせうそこはべりけるに、この宿直とのゐ仕つかうまつる者ものどもも、女房にょうばうたちらうがはしかなり、など、戒いましめ仰おほせらるることなど申まうして、ものの心得こころえず荒々あらあらしきは田舎人ゐなかびとどもの、あやしきさまにとりなしきこゆることどもはべりしを、その後のち、久ひさしう御消息おほんせうそこなどもはべらざりしに、心憂こころうき身みなりとのみ、いはけなかりしほどより思おもひ知しるを、人数ひとかずにいかで見みなさむとのみ、よろづに思おもひ扱あつかひたまふ母君ははぎみの、なかなかなることの、人ひと笑わらはれになりては、いかに思おもひ嘆なげかむ、などおもむけてなむ、常つねに嘆なげきたまひし。

その筋すぢよりほかに、何事なにごとをかと、思おもひたまへ寄よるに、堪たへはべらずなむ。鬼おになどの隠かくしきこゆとも、いささか残のこる所ところもはべるなるものを」

 とて、泣なくさまもいみじければ、「いかなることにか」と紛まぎれつる御心みこころも失うせて、せきあへたまはず。

我は心に身をもまかせず

「我われは心こころに身みをもまかせず、顕証けせうなるさまにもてなされたるありさまなれば、おぼつかなしと思おもふ折をりも、今いま近ちかくて、人ひとの心こころ置おくまじく、目めやすきさまにもてなして、行ゆく末すゑ長ながくを、と思おもひのどめつつ過すぐしつるを、おろかに見みなしたまひつらむこそ、なかなか分わくる方かたありける、とおぼゆれ。

今いまは、かくだに言いはじと思おもへど、また人ひとの聞きかばこそあらめ。宮みやの御おほんことよ。いつよりありそめけむ。さやうなるにつけてや、いとかたはに、人ひとの心こころを惑まどはしたまふ宮みやなれば、常つねにあひ見みたてまつらぬ嘆なげきに、身みをも失うひたまへる、となむ思おもふ。なほ、言いへ。我われには、さらにな隠かくしそ」

 とのたまへば、「たしかにこそは聞ききたまひてけれ」と、いといとほしくて、

「いと心憂こころうきことを聞きこし召めしけるにこそははべるなれ。右近うこんもさぶらはぬ折をりははべらぬものを」

 と眺ながめやすらひて、

「おのづから聞きこし召めしけむ。この宮みやの上うへの御方おほんかたに、忍しのびて渡わたらせたまへりしを、あさましく思おもひかけぬほどに、入いりおはしたりしかど、いみじきことを聞きこえさせはべりて、出いでさせたまひにき。それに懼おぢたまひて、かのあやしくはべりし所ところには渡わたらせたまへりしなり。

その後のち、音おとにも聞きこえじ、と思おぼしてやみにしを、いかでか聞きかせたまひけむ。ただ、この如月きさらぎばかりより、訪おとづれきこえたまふべし。御文おほんふみは、いとたびたびはべりしかど、御覧ごらんじ入いるることもはべらざりき。いとかたじけなく、うたてあるやうになどぞ、右近うこんなど聞きこえさせしかば、一度ひとたび二度ふたたびや聞きこえさせたまひけむ。それより他ほかのことは見みたまへず」

 と聞きこえさす。

「かうぞ言いはむかし。しひて問とはむもいとほしく」て、つくづくとうち眺ながめつつ、

「宮みやをめづらしくあはれと思おもひきこえても、わが方かたをさすがにおろかに思おもはざりけるほどに、いと明あらむるところなく、はかなげなりし心こころにて、この水みづの近ちかきをたよりにて、思おもひ寄よるなりけむかし。わがここにさし放はなち据すゑざらましかば、いみじく憂うき世よに経ふとも、いかでか、かならず深ふかき谷たにをも求もとめ出いでまし」

 と、「いみじう憂うき水みづの契ちぎりかな」と、この川かはの疎うとましう思おぼさるること、いと深ふかし。年としごろ、あはれと思おもひそめたりし方かたにて、荒あらき山路やまぢを行ゆき帰かへりしも、今いまは、また心憂こころうくて、この里さとの名なをだにえ聞きくまじき心地ここちしたまふ。

宮の上の、のたまひ始めし

「宮みやの上うへの、のたまひ始はじめし、人形ひとがたとつけそめたりしさへゆゆしう、ただ、わが過あやまちに失うひつる人ひとなり」と思おもひもてゆくには、「母ははのなほ軽かろびたるほどにて、後のちの後見うしろみもいとあやしく、ことそぎてしなしけるなめり」と心こころゆかず思おもひつるを、詳くはしう聞ききたまふになむ、

「いかに思おもふらむ。さばかりの人ひとの子こにては、いとめでたかりし人ひとを、忍しのびたることはかならずしもえ知しらで、わがゆかりにいかなることのありけるならむ、とぞ思おもふなるらむかし」

 など、よろづにいとほしく思おぼす。穢けがらひといふことはあるまじけれど、御供おほんともの人目ひとめもあれば、昇のぼりたまはで、御車みくるまの榻しぢを召めして、妻戸つまどの前まへにぞゐたまひけるも、見苦みぐるしければ、いと茂しげき木この下したに、苔こけを御座おましにて、とばかり居ゐたまへり。「今いまはここを来きて見みむことも心憂こころうかるべし」とのみ、見みめぐらしたまひて、

「我われもまた憂うき古ふる里さとを荒あれはてば誰たれ宿やどり木きの蔭かげをしのばむ」

 阿闍梨あざり、今いまは律師りしなりけり。召めして、この法事ほふじのことおきてさせたまふ。念仏ねんぶつ僧そうの数かず添そへなどせさせたまふ。「罪つみいと深ふかかなるわざ」と思おぼせば、軽かろむべきことをぞすべき、七日なぬか七日なぬかに経きゃう仏ほとけ供養くやうずべきよしなど、こまかにのたまひて、いと暗くらうなりぬるに帰かへりたまふも、「あらましかば、今宵こよひ帰かへらましやは」とのみなむ。

 尼君あまぎみに消息せうそこせさせたまへれど、

「いともいともゆゆしき身みをのみ思おもひたまへ沈しづみて、いとどものも思おもひたまへられず、ほれはべりてなむ、うつぶし臥ふしてはべる」

 と聞きこえて、出いで来こねば、しひても立たち寄よりたまはず。

 道みちすがら、とく迎むかへ取とりたまはずなりにけること悔くやしう、水みづの音おとの聞きこゆる限かぎりは、心こころのみ騷さわぎたまひて、「骸からをだに尋たづねず、あさましくてもやみぬるかな。いかなるさまにて、いづれの底そこのうつせに混まじりけむ」など、やる方かたなく思おぼす。

かの母君は

 かの母君ははぎみは、京きゃうに子産こうむべき娘むすめのことにより、慎つつしみ騒さわげば、例れいの家いへにもえ行いかず、すずろなる旅たび居ゐのみして、思おもひ慰なぐさむ折をりもなきに、「また、これもいかならむ」と思おもへど、平たひらかに産うみてけり。ゆゆしければ、え寄よらず、残のこりの人ひとびとの上うへもおぼえず、ほれ惑まどひて過すぐすに、大将だいしゃう殿とのより御使おほんつかひ忍しのびてあり。ものおぼえぬ心地ここちにも、いとうれしくあはれなり。

「あさましきことは、まづ聞きこえむと思おもひたまへしを、心こころものどまらず、目めもくらき心地ここちして、まいていかなる闇やみにか惑まどはれたまふらむと、そのほどを過すぐしつるに、はかなくて日ひごろも経へにけることをなむ。世よの常つねなさも、いとど思おもひのどめむ方かたなくのみはべるを、思おもひの外ほかにもながらへば、過すぎにし名残なごりとは、かならずさるべきことにも尋たづねたまへ」

 など、こまかに書かきたまひて、御使おほんつかひには、かの大蔵大輔おほくらのたいふをぞ賜たまへりける。

「心こころのどかによろづを思おもひつつ、年としごろにさへなりにけるほど、かならずしも心こころざしあるやうには見みたまはざりけむ。されど、今いまより後のち、何なにごとにつけても、かならず忘わすれきこえじ。また、さやうにを人ひと知しれず思おもひ置おきたまへ。幼をさなき人ひとどももあなるを、朝廷おほやけに仕つかうまつらむにも、かならず後見うしろみ思おもふべくなむ」

 など、言葉ことばにものたまへり。

いたくしも忌むまじき穢らひなれば

 いたくしも忌いむまじき穢けがらひなれば、「深ふかうしも触ふれはべらず」など言いひなして、せめて呼よび据すゑたり。御返おほんかへり、泣なく泣なく書かく。

「いみじきことに死しなれはべらぬ命いのちを、心憂こころうく思おもうたまへ嘆なげきはべるに、かかる仰おほせ言ごと見みはべるべかりけるにや、となむ。

年としごろは、心細こころぼそきありさまを見みたまへながら、それは数かずならぬ身みのおこたりに思おもひたまへなしつつ、かたじけなき御おほん一言ひとことを、行ゆく末すゑ長ながく頼たのみきこえはべりしに、いふかひなく見みたまへ果はてては、里さとの契ちぎりもいと心憂こころうく悲かなしくなむ。

さまざまにうれしき仰おほせ言ごとに、命いのち延のびはべりて、今いましばしながらへはべらば、なほ、頼たのみきこえはべるべきにこそ、と思おもひたまふるにつけても、目めの前まへの涙なみだにくれて、え聞きこえさせやらずなむ」

 など書かきたり。御使おほんつかひに、なべての禄ろくなどは見苦みぐるしきほどなり。飽あかぬ心地ここちもすべければ、かの君きみにたてまつらむと心こころざして持もたりける、よき班犀はんさいの帯おび、太刀たちのをかしきなど、袋ふくろに入いれて、車くるまに乗のるほど、

「これは昔むかしの人ひとの御心みこころざしなり」

 とて、贈おくらせてけり。

 殿とのに御覧ごらんぜさすれば、

「いとすぞろなるわざかな」

 とのたまふ。言葉ことばには、

「みづから会あひはべりたうびて、いみじく泣なく泣なくよろづのことのたまひて、幼をさなき者ものどものことまで仰おほせられたるが、いともかしこきに、また数かずならぬほどは、なかなかいと恥はづかしう、人ひとに何なにゆゑなどは知しらせはべらで、あやしきさまどもをも皆みな参まゐらせはべりて、さぶらはせむ、となむものしはべりつる」

 と聞きこゆ。

「げに、ことなることなきゆかり睦むつびにぞあるべけれど、帝みかどにも、さばかりの人ひとの娘むすめたてまつらずやはある。それに、さるべきにて、時ときめかし思おぼさむは、人ひとの誹そしるべきことかは。ただ人うど、はた、あやしき女をんな、世よに古ふりにたるなどを持もちゐるたぐひ多おほかり。

かの守かみの娘むすめなりけりと、人ひとの言いひなさむにも、わがもてなしの、それに穢けがるべくありそめたらばこそあらめ、一人ひとりの子こをいたづらになして思おもふらむ親おやの心こころに、なほこのゆかりこそおもだたしかりけれ、と思おもひ知しるばかり、用意よういはかならず見みすべきこと」と思おぼす。

かしこには、常陸守、立ちながら来て

 かしこには、常陸守ひたちのかみ、立たちながら来きて、「折をしも、かくてゐたまへることなむ」と腹立はらだつ。年としごろ、いづくになむおはするなど、ありのままにも知しらせざりければ、「はかなきさまにておはすらむ」と思おもひ言いひけるを、「京きゃうになど迎むかへたまひて後のち、面目めんぼくありて、など知しらせむ」と思おもひけるほどに、かかれば、今いまは隠かくさむもあいなくて、ありしさま泣なく泣なく語かたる。

 大将だいしゃう殿とのの御文おほんふみもとり出いでて見みすれば、よき人ひとかしこくして、鄙ひなび、ものめでする人ひとにて、おどろき臆おくして、うち返かへしうち返かへし、

「いとめでたき御幸おほんさいはひを捨すてて亡うせたまひにける人ひとかな。おのれも殿人とのびとにて、参まゐり仕つかうまつれども、近ちかく召めし使つかふこともなく、いと気高けだかく思おもはする殿とのなり。若わかき者ものどものこと仰おほせられたるは、頼たのもしきことになむ」

 など、喜よろこぶを見みるにも、「まして、おはせましかば」と思おもふに、臥ふしまろびて泣なかる。

 守かみも今いまなむうち泣なきける。さるは、おはせし世よには、なかなか、かかるたぐひの人ひとしも、尋たづねたまふべきにしもあらずかし。「わが過あやまちにて失うひつるもいとほし。慰なぐさめむ」と思おぼすよりなむ、「人ひとの誹そしり、ねむごろに尋たづねじ」と思おぼしける。

四十九日のわざなどせさせたまふにも

 四十九日しじふくにちのわざなどせさせたまふにも、「いかなりけむことにかは」と思おぼせば、とてもかくても罪つみ得うまじきことなれば、いと忍しのびて、かの律師りしの寺てらにてせさせたまひける。六十僧ろくじふそうの布施ふせなど、大おほきにおきてられたり。母君ははぎみも来きゐて、事ことども添そへたり。

 宮みやよりは、右近うこんがもとに、白銀しろかねの壺つぼに黄金こがね入いれて賜たまへり。人ひと見みとがむばかり大おほきなるわざは、えしたまはず、右近うこんが心こころざしにてしたりければ、心こころ知しらぬ人ひとは、「いかで、かくなむ」など言いひける。殿とのの人ひとども、睦むつましき限かぎりあまた賜たまへり。

「あやしく。音おともせざりつる人ひとの果はてを、かく扱あつかはせたまふ。誰たれならむ」

 と、今いまおどろく人ひとのみ多おほかるに、常陸守ひたちのかみ来きて、主人あるじがり居をるなむ、あやしと人ひとびと見みける。少将せうしゃうの子産こうませて、いかめしきことせさせむとまどひ、家いへの内うちになきものはすくなく、唐土もろこし新羅しらぎの飾かざりをもしつべきに、限かぎりあれば、いとあやしかりけり。この御おほん法事ほふじの、忍しのびたるやうに思おぼしたれど、けはひこよなきを見みるに、「生いきたらましかば、わが身みを並ならぶべくもあらぬ人ひとの御宿世おほんすくせなりけり」と思おもふ。

 宮みやの上うへも誦経ずきゃうしたまひ、七しち僧そうの前まへのことせさせたまひけり。今いまなむ、「かかる人ひと持もたまへりけり」と、帝みかどまでも聞きこし召めして、おろかにもあらざりける人ひとを、宮みやにかしこまりきこえて、隠かくし置おきたまひたりける、いとほしと思おぼしける。

 二人ふたりの人ひとの御心みこころのうち、古ふりず悲かなしく、あやにくなりし御思おほんおもひの盛さかりにかき絶たえては、いといみじければ、あだなる御心みこころは、慰なぐさむやなど、こころみたまふこともやうやうありけり。

 かの殿とのは、かくとりもちて、何なにやかやと思おぼして、残のこりの人ひとを育はぐくませたまひても、なほ、いふかひなきことを、忘わすれがたく思おぼす。

后の宮の、御軽服のほどは

 后きさきの宮みやの、御軽服おほんきゃうぶくのほどは、なほかくておはしますに、二にの宮みやなむ式部卿しきぶきゃうになりたまひにける。重々おもおもしうて、常つねにしも参まゐりたまはず。この宮みやは、さうざうしくものあはれなるままに、一品いっぽんの宮みやの御方おほんかたを慰なぐさめ所ところにしたまふ。よき人ひとの容貌かたちをも、えまほに見みたまはぬ、残のこり多おほかり。

 大将だいしゃう殿とのの、からうして、いと忍しのびて語かたらはせたまふ小宰相こさいしゃうの君きみといふ人ひとの、容貌かたちなどもきよげなり、心こころばせある方かたの人ひとと思おぼされたり。同おなじ琴ことを掻かきならす、爪音つまおと、撥音ばちおとも、人ひとにはまさり、文ふみを書かき、ものうち言いひたるも、よしあるふしをなむ添そへたりける。

 この宮みやも、年としごろ、いといたきものにしたまひて、例れいの、言いひ破やぶりたまへど、「などか、さしもめづらしげなくはあらむ」と、心強こころづよくねたきさまなるを、まめ人びとは、「すこし人ひとよりことなり」と思おぼすになむありける。かくもの思おぼしたるも見知みしりければ、忍しのびあまりて聞きこえたり。

「あはれ知しる心こころは人ひとにおくれねど数かずならぬ身みに消きえつつぞ経ふる

代かへたらば」

 と、ゆゑある紙かみに書かきたり。ものあはれなる夕暮ゆふぐれ、しめやかなるほどを、いとよく推おし量はかりて言いひたるも、憎にくからず。

「常つねなしとここら世よを見みる憂うき身みだに人ひとの知しるまで嘆なげきやはする

このよろこび、あはれなりし折をからも、いとどなむ」

 など言いひに立たち寄よりたまへり。いと恥はづかしげにものものしげにて、なべてかやうになどもならしたまはぬ、人柄ひとがらもやむごとなきに、いとものはかなき住すまひなりかし。局つぼねなどいひて、狭せばくほどなき遣戸やりど口くちに寄よりゐたまへる、かたはらいたくおぼゆれど、さすがにあまり卑下ひげしてもあらで、いとよきほどにものなども聞きこゆ。

「見みし人ひとよりも、これは心こころにくきけ添そひてもあるかな。などて、かく出いで立たちけむ。さるものにて、我われも置おいたらましものを」

 と思おぼす。人ひと知しれぬ筋すぢは、かけても見みせたまはず。

蓮の花の盛りに

 蓮はちすの花はなの盛さかりに、御八講みはかうせらる。六条ろくでうの院ゐんの御おほんため、紫むらさきの上うへなど、皆みな思おぼし分わけつつ、御おほん経きゃう仏ほとけなど供養くやうぜさせたまひて、いかめしく、尊たふとくなむありける。五巻ごくゎんの日ひなどは、いみじき見物みものなりければ、こなたかなた、女房にょうばうにつきて参まゐりて、物もの見みる人ひと多おほかりけり。

 五日いつかといふ朝座あさざに果はてて、御堂みだうの飾かざり取とりさけ、御おほんしつらひ改あらたむるに、北きたの廂ひさしも、障子さうじども放はなちたりしかば、皆みな入いり立たちてつくろふほど、西にしの渡殿わたどのに姫宮ひめみやおはしましけり。もの聞きき極こうじて、女房にょうばうもおのおの局つぼねにありつつ、御前おまへはいと人少ひとずくななる夕暮ゆふぐれに、大将だいしゃう殿との、直衣なほし着替きがへて、今日けふまかづる僧そうの中なかに、かならずのたまふべきことあるにより、釣殿つりどのの方かたにおはしたるに、皆みなまかでぬれば、池いけの方かたに涼すずみたまひて、人少ひとずくななるに、かくいふ宰相さいしゃうの君きみなど、かりそめに几帳きちゃうなどばかり立たてて、うちやすむ上局うへつぼねにしたり。

「ここにやあらむ、人ひとの衣きぬの音おとす」と思おぼして、馬道めだうの方かたの障子さうじの細ほそく開あきたるより、やをら見みたまへば、例れいさやうの人ひとのゐたるけはひには似にず、晴はれ晴はれしくしつらひたれば、なかなか、几帳きちゃうどもの立たて違たがへたるあはひより見通みとほされて、あらはなり。

 氷ひをものの蓋ふたに置おきて割わるとて、もて騒さわぐ人ひとびと、大人おとな三人みたりばかり、童わらはと居ゐたり。唐衣からぎぬも汗衫かざみも着きず、皆みなうちとけたれば、御前おまへとは見みたまはぬに、白しろき薄物うすものの御衣おほんぞ着替きがへたまへる人ひとの、手てに氷ひを持もちながら、かく争あらそふを、すこし笑ゑみたまへる御顔おほんかほ、言いはむ方かたなくうつくしげなり。

 いと暑あつさの堪たへがたき日ひなれば、こちたき御髪みぐしの、苦くるしう思おぼさるるにやあらむ、すこしこなたに靡なびかして引ひかれたるほど、たとへむものなし。「ここらよき人ひとを見み集あつむれど、似にるべくもあらざりけり」とおぼゆ。御前おまへなる人ひとは、まことに土つちなどの心地ここちぞするを、思おもひ静しづめて見みれば、黄きなる生絹すずしの単衣ひとへ、薄色うすいろなる裳も着きたる人ひとの、扇あふぎうち使つかひたるなど、「用意よういあらむはや」と、ふと見みえて、

「なかなか、もの扱あつかひに、いと苦くるしげなり。ただ、さながら見みたまへかし」

 とて、笑わらひたるまみ、愛敬あいぎゃうづきたり。声こゑ聞きくにぞ、この心こころざしの人ひととは知しりぬる。

心強く割りて

 心強こころづよく割わりて、手てごとに持もたり。頭かしらにうち置おき、胸むねにさし当あてなど、さま悪あしうする人ひともあるべし。異人ことびとは、紙かみにつつみて、御前おまへにもかくて参まゐらせたれど、いとうつくしき御手みてをさしやりたまひて、拭のごはせたまふ。

「いな、持もたらじ。雫しづくむつかし」

 とのたまふ御声おほんこゑ、いとほのかに聞きくも、限かぎりもなくうれし。「まだいと小ちひさくおはしまししほどに、我われも、ものの心こころも知しらで見みたてまつりし時とき、めでたの稚児ちごの御おほんさまや、と見みたてまつりし。その後のち、たえてこの御おほんけはひをだに聞きかざりつるものを、いかなる神かみ仏ほとけの、かかる折をり見みせたまへるならむ。例れいの、やすからずもの思おもはせむとするにやあらむ」と、かつは静心しづごころなくて、まもり立たちたるほどに、こなたの対たいの北面きたおもてに住すみける下臈げらふ女房にょうばうの、この障子さうじは、とみのことにて、開あけながら下おりにけるを思おもひ出いでて、「人ひともこそ見みつけて騒さわがるれ」と思おもひければ、惑まどひ入いる。

 この直衣なほし姿すがたを見みつくるに、「誰たれならむ」と心こころ騷さわぎて、おのがさま見みえむことも知しらず、簀子すのこよりただ来きに来くれば、ふと立たち去さりて、「誰たれとも見みえじ。好すき好ずきしきやうなり」と思おもひて隠かくれたまひぬ。

 この御許おもとは、

「いみじきわざかな。御几帳みきちゃうをさへあらはに引ひきなしてけるよ。右みぎの大殿おほとのの君きみたちならむ。疎うとき人ひと、はた、ここまで来くべきにもあらず。ものの聞きこえあらば、誰たれか障子さうじは開あけたりしと、かならず出いで来きなむ。単衣ひとへも袴はかまも、生絹すずしなめりと見みえつる人ひとの御姿おほんすがたなれば、え人ひとも聞ききつけたまはぬならむかし」

 と思おもひ極こうじてをり。

 かの人ひとは、「やうやう聖ひじりになりし心こころを、ひとふし違たがへそめて、さまざまなるもの思おもふ人ひとともなるかな。そのかみ世よを背そむきなましかば、今いまは深ふかき山やまに住すみ果はてて、かく心こころ乱みだれましやは」など思おぼし続つづくるも、やすからず。「などて、年としごろ、見みたてまつらばやと思おもひつらむ。なかなか苦くるしう、かひなかるべきわざにこそ」と思おもふ。

つとめて、起きたまへる女宮

 つとめて、起おきたまへる女宮をんなみやの御容貌おほんかたち、「いとをかしげなめるは、これよりかならずまさるべきことかは」と見みえながら、「さらに似にたまはずこそありけれ。あさましきまであてに、えも言いはざりし御おほんさまかな。かたへは思おもひなしか、折をりからか」と思おぼして、

「いと暑あつしや。これより薄うすき御衣おほんぞたてまつれ。女をんなは、例れいならぬ物もの着きたるこそ、時々ときどきにつけてをかしけれ」とて、「あなたに参まゐりて、大弐だいにに、薄物うすものの単衣ひとへの御衣おほんぞ、縫ぬひて参まゐれと言いへ」

 とのたまふ。御前おまへなる人ひとは、「この御容貌おほんかたちのいみじき盛さかりにおはしますを、もてはやしきこえたまふ」とをかしう思おもへり。

 例れいの、念誦ねんずしたまふわが御方おほんかたにおはしましなどして、昼ひるつ方かた渡わたりたまへれば、のたまひつる御衣おほんぞ、御几帳みきちゃうにうち掛かけたり。

「なぞ、こはたてまつらぬ。人ひと多おほく見みる時ときなむ、透すきたる物もの着きるは、ばうぞくにおぼゆる。ただ今いまはあへはべりなむ」

 とて、手てづから着きせたてまつりたまふ。御袴おほんはかまも昨日きのふの同おなじ紅くれなゐなり。御髪みぐしの多おほさ、裾すそなどは劣おとりたまはねど、なほさまざまなるにや、似にるべくもあらず。氷ひ召めして、人ひとびとに割わらせたまふ。取とりて一ひとつたてまつりなどしたまふ、心こころのうちもをかし。

「絵ゑに描かきて、恋こひしき人ひと見みる人ひとは、なくやはありける。ましてこれは、慰なぐさめむに似にげなからぬ御おほんほどぞかしと思おもへど、昨日きのふかやうにて、我われ混まじりゐ、心こころにまかせて見みたてまつらましかば」とおぼゆるに、心こころにもあらずうち嘆なげかれぬ。

「一品いっぽんの宮みやに、御文おほんふみはたてまつりたまふや」

 と聞きこえたまへば、

「内裏うちにありし時とき、主上うへの、さのたまひしかば聞きこえしかど、久ひさしうさもあらず」

 とのたまふ。

「ただ人うどにならせたまひにたりとて、かれよりも聞きこえさせたまはぬにこそは、心憂こころうかなれ。今いま、大宮おほみやの御前おまへにて、恨うらみきこえさせたまふ、と啓けいせむ」

 とのたまふ。

「いかが恨うらみきこえむ。うたて」

 とのたまへば、

「下衆げすになりにたりとて、思おぼし落おとすなめり、と見みれば、おどろかしきこえぬ、とこそは聞きこえめ」

 とのたまふ。

その日は暮らして、またの朝に

 その日ひは暮くらして、またの朝あしたに大宮おほみやに参まゐりたまふ。例れいの、宮みやもおはしけり。丁子ちゃうじに深ふかく染そめたる薄物うすものの単衣ひとへを、こまやかなる直衣なほしに着きたまへる、いとこのましげなる女をんなの御身おほんみなりのめでたかりしにも劣おとらず、白しろくきよらにて、なほありしよりは面痩おもやせたまへる、いと見みるかひあり。

 おぼえたまへりと見みるにも、まづ恋こひしきを、いとあるまじきこと、と静しづむるぞ、ただなりしよりは苦くるしき。絵ゑをいと多おほく持もたせて参まゐりたまへりける、女房にょうばうして、あなたに参まゐらせたまひて、渡わたらせたまひぬ。

 大将だいしゃうも近ちかく参まゐり寄よりたまひて、御八講みはかうの尊たふとくはべりしこと、いにしへの御おほんこと、すこし聞きこえつつ、残のこりたる絵ゑ見みたまふついでに、

「この里さとにものしたまふ皇女みこの、雲くもの上うへ離はなれて、思おもひ屈くしたまへるこそ、いとほしう見みたまふれ。姫宮ひめみやの御方おほんかたより、御消息おほんせうそこもはべらぬを、かく品しな定さだまりたまへるに、思おぼし捨すてさせたまへるやうに思おもひて、心こころゆかぬけしきのみはべるを、かやうのもの、時々ときどきものせさせたまはなむ。なにがしがおろして持もてまからむ。はた、見みるかひもはべらじかし」

 とのたまへば、

「あやしく。などてか捨すてきこえたまはむ。内裏うちにては、近ちかかりしにつきて、時々ときどきも聞きこえたまふめりしを、所々ところどころになりたまひし折をりに、とだえたまへるにこそあらめ。今いま、そそのかしきこえむ。それよりもなどかは」

 と聞きこえたまふ。

「かれよりは、いかでかは。もとより数かずまへさせたまはざらむをも、かく親したしくてさぶらふべきゆかりに寄よせて、思おぼし召めし数かずまへさせたまはむをこそ、うれしくははべるべけれ。まして、さも聞きこえ馴なれたまひにけむを、今いま捨すてさせたまはむは、からきことにはべり」

 と啓けいせさせたまふを、「好すきばみたるけしきあるか」とは思おぼしかけざりけり。

 立たち出いでて、「一夜ひとよの心こころざしの人ひとに会あはむ。ありし渡殿わたどのも慰なぐさめに見みむかし」と思おぼして、御前おまへを歩あゆみ渡わたりて、西にしざまにおはするを、御簾みすの内うちの人ひとは心こころことに用意よういす。げに、いと様さまよく限かぎりなきもてなしにて、渡殿わたどのの方かたは、左ひだりの大殿おほとのの君きみたちなど居ゐて、物もの言いふけはひすれば、妻戸つまどの前まへに居ゐたまひて、

「おほかたには参まゐりながら、この御方おほんかたの見参げんざんに入いることの、難かたくはべれば、いとおぼえなく、翁おきなび果はてにたる心地ここちしはべるを、今いまよりは、と思おもひ起おこしはべりてなむ。ありつかず、若わかき人ひとどもぞ思おもふらむかし」

 と、甥をひの君きみたちの方かたを見みやりたまふ。

「今いまよりならはせたまふこそ、げに若わかくならせたまふならめ」

 など、はかなきことを言いふ人ひとびとのけはひも、あやしうみやびかに、をかしき御方おほんかたのありさまにぞある。そのこととなけれど、世よの中なかの物語ものがたりなどしつつ、しめやかに、例れいよりは居ゐたまへり。

姫宮は、あなたに渡らせたまひにけり

 姫宮ひめみやは、あなたに渡わたらせたまひにけり。大宮おほみや、

「大将だいしゃうのそなたに参まゐりつるは」

 と問とひたまふ。御供おほんともに参まゐりたる大納言だいなごんの君きみ、

「小宰相こさいしゃうの君きみに、もののたまはむとにこそは、はべめりつれ」

 と聞きこゆるに、

「例れい、まめ人びとの、さすがに人ひとに心こころとどめて物語ものがたりするこそ、心地ここちおくれたらむ人ひとは苦くるしけれ。心こころのほども見みゆらむかし。小宰相こさいしゃうなどは、いとうしろやすし」

 とのたまひて、御姉弟おほんはらからなれど、この君きみをば、なほ恥はづかしく、「人ひとも用意よういなくて見みえざらむかし」と思おぼいたり。

「人ひとよりは心寄こころよせたまひて、局つぼねなどに立たち寄よりたまふべし。物語ものがたりこまやかにしたまひて、夜よ更ふけて出いでたまふ折々をりをりもはべれど、例れいの目馴めなれたる筋すぢにははべらぬにや。宮みやをこそ、いと情なさけなくおはしますと思おもひて、御おほんいらへをだに聞きこえずはべるめれ。かたじけなきこと」

 と言いひて笑わらへば、宮みやも笑わらはせたまひて、

「いと見苦みぐるしき御おほんさまを、思おもひ知しるこそをかしけれ。いかで、かかる御癖おほんくせやめたてまつらむ。恥はづかしや、この人ひとびとも」

 とのたまふ。

いとあやしきことをこそ

「いとあやしきことをこそ聞ききはべりしか。この大将だいしゃうの亡なくなしたまひてし人ひとは、宮みやの御おほん二条にでうの北きたの方かたの御おほんおとうとなりけり。異腹ことばらなるべし。常陸ひたちの前さきの守かみなにがしが妻めは、叔母をばとも母ははとも言いひはべるなるは、いかなるにか。その女君をんなぎみに、宮みやこそ、いと忍しのびておはしましけれ。

大将だいしゃう殿とのや聞ききつけたまひたりけむ。にはかに迎むかへたまはむとて、守かみり目め添そへなど、ことことしくしたまひけるほどに、宮みやも、いと忍しのびておはしましながら、え入いらせたまはず、あやしきさまに、御馬おほんむまながら立たたせたまひつつぞ、帰かへらせたまひける。

女をんなも、宮みやを思おもひきこえさせけるにや、にはかに消きえ失うせにけるを、身み投なげたるなめりとてこそ、乳母めのとなどやうの人ひとどもは、泣なき惑まどひはべりけれ」

 と聞きこゆ。宮みやも、「いとあさまし」と思おぼして、

「誰たれか、さることは言いふとよ。いとほしく心憂こころうきことかな。さばかりめづらかならむことは、おのづから聞きこえありぬべきを。大将だいしゃうもさやうには言いはで、世よの中なかのはかなくいみじきこと、かく宇治うぢの宮みやの族ぞうの、命いのち短みじかかりけることをこそ、いみじう悲かなしと思おもひてのたまひしか」

 とのたまふ。

「いさや、下衆げすは、たしかならぬことをも言いひはべるものを、と思おもひはべれど、かしこにはべりける下童しもわらはの、ただこのころ、宰相さいしゃうが里さとに出いでまうできて、たしかなるやうにこそ言いひはべりけれ。かくあやしうて亡うせたまへること、人ひとに聞きかせじ。おどろおどろしく、おぞきやうなりとて、いみじく隠かくしけることどもとて。さて、詳くはしくは聞きかせたてまつらぬにやありけむ」

 と聞きこゆれば、

「さらに、かかること、またまねぶな、と言いはせよ。かかる筋すぢに、御身おほんみをももてそこなひ、人ひとに軽かるく心こころづきなきものに思おもはれぬべきなめり」

 といみじう思おぼいたり。

その後、姫宮の御方より

 その後のち、姫宮ひめみやの御方おほんかたより、二にの宮みやに御消息おほんせうそこありけり。御手おほんてなどの、いみじううつくしげなるを見みるにも、いとうれしく、「かくてこそ、とく見みるべかりけれ」と思おぼす。

 あまたをかしき絵ゑども多おほく、大宮おほみやもたてまつらせたまへり。大将だいしゃう殿との、うちまさりてをかしきども集あつめて、参まゐらせたまふ。芹川せりかはの大将だいしゃうの遠君とほぎみの、女一をんないちの宮みや思おもひかけたる秋あきの夕暮ゆふぐれに、思おもひわびて出いでて行いきたる画かた、をかしう描かきたるを、いとよく思おもひ寄よせらるかし。「かばかり思おぼし靡なびく人ひとのあらましかば」と思おもふ身みぞ口惜くちをしき。

「荻をぎの葉はに露つゆ吹ふき結むすぶ秋あき風かぜも夕ゆふべぞわきて身みにはしみける」

 と書かきても添そへまほしく思おぼせど、

「さやうなるつゆばかりのけしきにても漏もりたらば、いとわづらはしげなる世よなれば、はかなきことも、えほのめかし出いづまじ。かくよろづに何なにやかやと、ものを思おもひの果はては、昔むかしの人ひとのものしたまはましかば、いかにもいかにも他ほかざまに心こころ分わけましや。

時ときの帝みかどの御女おほんむすめを賜たまふとも、得えたてまつらざらまし。また、さ思おもふ人ひとありと聞きこし召めしながらは、かかることもなからましを、なほ心憂こころうく、わが心こころ乱みだりたまひける橋姫はしひめかな」

 と思おもひあまりては、また宮みやの上うへにとりかかりて、恋こひしうもつらくも、わりなきことぞ、をこがましきまで悔くやしき。これに思おもひわびて、さしつぎには、あさましくて亡うせにし人ひとの、いと心幼こころをさなく、とどこほるところなかりける軽々かるがるしさをば思おもひながら、さすがにいみじとものを、思おもひ入いりけむほど、わがけしき例れいならずと、心こころの鬼おにに嘆なげき沈しづみてゐたりけむありさまを、聞ききたまひしも思おもひ出いでられつつ、

「重おもりかなる方かたならで、ただ心こころやすくらうたき語かたらひ人びとにてあらせむ、と思おもひしには、いとらうたかりし人ひとを。思おもひもていけば、宮みやをも思おもひきこえじ。女をんなをも憂うしと思おもはじ。ただわがありさまの世よづかぬおこたりぞ」

 など、眺ながめ入いりたまふ時々ときどき多おほかり。

心のどかに

 心こころのどかに、さまよくおはする人ひとだに、かかる筋すぢには、身みも苦くるしきことおのづから混まじるを、宮みやは、まして慰なぐさめかねつつ、かの形見かたみに、飽あかぬ悲かなしさをものたまひ出いづべき人ひとさへなきを、対たいの御方おほんかたばかりこそは、「あはれ」などのたまへど、深ふかくも見馴みなれたまはざりける、うちつけの睦むつびなれば、いと深ふかくしも、いかでかはあらむ。また、思おぼすままに、「恋こひしや、いみじや」などのたまはむには、かたはらいたければ、かしこにありし侍従じじうをぞ、例れいの、迎むかへさせたまひける。

 皆人みなひとどもは行いき散ちりて、乳母めのととこの人ひと二人ふたりなむ、取とり分わきて思おぼしたりしも忘わすれがたくて、侍従じじうはよそ人びとなれど、なほ語かたらひてあり経ふるに、世よづかぬ川かはの音おとも、うれしき瀬せもやある、と頼たのみしほどこそ慰なぐさめけれ、心憂こころうくいみじくもの恐おそろしくのみおぼえて、京きゃうになむ、あやしき所ところに、このころ来きてゐたりける、尋たづねたまひて、

「かくてさぶらへ」

 とのたまへば、「御心みこころはさるものにて、人ひとびとの言いはむことも、さる筋すぢのこと混まじりぬるあたりは、聞ききにくきこともあらむ」と思おもへば、うけひききこえず。「后きさいの宮みやに参まゐらむ」となむおもむけたれば、

「いとよかなり。さて人ひと知しれず思おぼし使つかはむ」

 とのたまはせけり。心細こころぼそくよるべなきも慰なぐさむやとて、知しるたより求もとめ参まゐりぬ。「きたなげなくてよろしき下臈げらふなり」と許ゆるして、人ひともそしらず。大将だいしゃう殿とのも常つねに参まゐりたまふを、見みるたびごとに、もののみあはれなり。「いとやむごとなきものの姫君ひめぎみのみ、参まゐり集つどひたる宮みや」と人ひとも言いふを、やうやう目めとどめて見みれど、「見みたてまつりし人ひとに似にたるはなかりけり」と思おもひありく。

この春亡せたまひぬる式部卿宮

 この春はる亡うせたまひぬる式部卿宮しきぶきゃうのみやの御女おほんむすめを、継母ままははの北きたの方かた、ことにあひ思おもはで、兄せうとの馬頭むまのかみにて人柄ひとがらもことなることなき、心懸こころかけたるを、いとほしうなども思おもひたらで、さるべきさまになむ契ちぎる、と聞きこし召めすたよりありて、

「いとほしう。父ちち宮みやのいみじくかしづきたまひける女君をんなぎみを、いたづらなるやうにもてなさむこと」

 などのたまはせければ、いと心細こころぼそくのみ思おもひ嘆なげきたまふありさまにて、

「なつかしう、かく尋たづねのたまはするを」

 など、御兄おほんせうとの侍従じじうも言いひて、このころ迎むかへ取とらせたまひてけり。姫宮ひめみやの御おほん具ぐにて、いとこよなからぬ御おほんほどの人ひとなれば、やむごとなく心こころことにてさぶらひたまふ。限かぎりあれば、宮みやの君きみなどうち言いひて、裳もばかりひきかけたまふぞ、いとあはれなりける。

 兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや、「この君きみばかりや、恋こひしき人ひとに思おもひよそへつべきさましたらむ。父ちち親王みこは兄弟はらからぞかし」など、例れいの御心みこころは、人ひとを恋こひたまふにつけても、人ひとゆかしき御癖おほんくせやまで、いつしかと御心みこころかけたまひてけり。

 大将だいしゃう、「もどかしきまでもあるわざかな。昨日きのふ今日けふといふばかり、春宮とうぐうにやなど思おぼし、我われにもけしきばませたまひきかし。かくはかなき世よの衰おとろへを見みるには、水みづの底そこに身みを沈しづめても、もどかしからぬわざにこそ」など思おもひつつ、人ひとよりは心寄こころよせきこえたまへり。

 この院ゐんにおはしますをば、内裏うちよりも広ひろくおもしろく住すみよきものにして、常つねにしもさぶらはぬどもも、皆みなうちとけ住すみつつ、はるばると多おほかる対たいども、廊らう、渡殿わたどのに満みちたり。

 左大臣さだいじん殿との、昔むかしの御おほんけはひにも劣おとらず、すべて限かぎりもなく営いとなみ仕つかうまつりたまふ。いかめしうなりたる御おほん族ぞうなれば、なかなかいにしへよりも、今いまめかしきことはまさりてさへなむありける。

 この宮みや、例れいの御心みこころならば、月つきごろのほどに、いかなる好すきごとどもをし出いでたまはまし、こよなく静しづまりたまひて、人目ひとめに「すこし生おひ直なほりたまふかな」と見みゆるを、このころぞまた、宮みやの君きみに、本性ほんじゃう現あらはれて、かかづらひありきたまひける。

涼しくなりぬとて

 涼すずしくなりぬとて、宮みや、内裏うちに参まゐらせたまひなむとすれば、

「秋あきの盛さかり、紅葉もみぢのころを見みざらむこそ」

 など、若わかき人ひとびとは口惜くちをしがりて、皆みな参まゐり集つどひたるころなり。水みづに馴なれ月つきをめでて、御遊おほんあそび絶たえず、常つねよりも今いまめかしければ、この宮みやぞ、かかる筋すぢはいとこよなくもてはやしたまふ。朝夕あさゆふ目馴めなれても、なほ今いま見みむ初花はつはなのさましたまへるに、大将だいしゃうの君きみは、いとさしも入いり立たちなどしたまはぬほどにて、恥はづかしう心こころゆるびなきものに、皆みな思おもひたり。

 例れいの、二所ふたところ参まゐりたまひて、御前おまへにおはするほどに、かの侍従じじうは、ものより覗のぞきたてまつるに、

「いづ方かたにもいづ方かたにもよりて、めでたき御宿世おほんすくせ見みえたるさまにて、世よにぞおはせましかし。あさましくはかなく、心憂こころうかりける御心みこころかな」

 など、人ひとには、そのわたりのこと、かけて知しり顔がほにも言いはぬことなれば、心こころ一ひとつに飽あかず胸むねいたく思おもふ。宮みやは、内裏うちの御物語おほんものがたりなど、こまやかに聞きこえさせたまへば、いま一所ひとところは立たち出いでたまふ。「見みつけられたてまつらじ。しばし、御果おほんはてをも過すぐさず心浅こころあさし、と見みえたてまつらじ」と思おもへば、隠かくれぬ。

東の渡殿に

 東ひむがしの渡殿わたどのに、開あきあひたる戸口とぐちに、人ひとびとあまたゐて、物語ものがたりなどする所ところにおはして、

「なにがしをぞ、女房にょうばうは睦むつましと思おぼすべき。女をんなだにかく心こころやすくはよもあらじかし。さすがにさるべからむこと、教をしへきこえぬべくもあり。やうやう見知みしりたまふべかめれば、いとなむうれしき」

 とのたまへば、いといらへにくくのみ思おもふ中なかに、弁べんの御許おもととて、馴なれたる大人おとな、

「そも睦むつましく思おもひきこゆべきゆゑなき人ひとの、恥はぢきこえはべらぬにや。ものはさこそはなかなかはべるめれ。かならずそのゆゑ尋たづねて、うちとけ御覧ごらんぜらるるにしもはべらねど、かばかり面無おもなくつくりそめてける身みに負おはさざらむも、かたはらいたくてなむ」

 と聞きこゆれば、

「恥はづべきゆゑあらじ、と思おもひ定さだめたまひてけるこそ、口惜くちをしけれ」

 など、のたまひつつ見みれば、唐衣からぎぬは脱ぬぎすべし押おしやり、うちとけて手習てならしけるなるべし、硯すずりの蓋ふたに据すゑて、心こころもとなき花はなの末すゑ手折たをりて、弄もてあそびけり、と見みゆ。かたへは几帳きちゃうのあるにすべり隠かくれ、あるはうち背そむき、押おし開あけたる戸との方かたに、紛まぎらはしつつゐたる、頭かしらつきどもも、をかしと見みわたしたまひて、硯すずりひき寄よせて、

「女郎花をみなへし乱みだるる野辺のべに混まじるとも露つゆのあだ名なを我われにかけめや

心こころやすくは思おぼさで」

 と、ただこの障子さうじにうしろしたる人ひとに見みせたまへば、うちみじろきなどもせず、のどやかに、いととく、

「花はなといへば名なこそあだなれ女郎花をみなへしなべての露つゆに乱みだれやはする」

 と書かきたる手て、ただかたそばなれど、よしづきて、おほかためやすければ、誰たれならむ、と見みたまふ。今いま参まゐう上のぼりける道みちに、塞ふたげられてとどこほりゐたるなるべし、と見みゆ。弁べんの御許おもとは、

「いとけざやかなる翁言おきなごと、憎にくくはべり」とて、

「旅寝たびねしてなほこころみよ女郎花をみなへし盛さかりの色いろに移うつり移うつらず

さて後のち、定さだめきこえさせむ」

 と言いへば、

「宿やど貸かさば一夜ひとよは寝ねなむおほかたの花はなに移うつらぬ心こころなりとも」

 とあれば、

「何なにか、恥はづかしめさせたまふ。おほかたの野辺のべのさかしらをこそ聞きこえさすれ」

 と言いふ。はかなきことをただすこしのたまふも、人ひとは残のこり聞きかまほしくのみ思おもひきこえたり。

「心こころなし。道みち開あけはべりなむよ。分わきても、かの御おほんもの恥はぢのゆゑ、かならずありぬべき折をりにぞあめる」

 とて、立たち出いでたまへば、「おしなべてかく残のこりなからむ、と思おもひやりたまふこそ心憂こころうけれ」と思おもへる人ひともあり。

東の高欄に押しかかりて

 東ひむがしの高欄かうらんに押おしかかりて、夕ゆふ影かげになるままに、花はなの紐ひも解とく御前おまへの草くさむらを見みわたしたまふ。もののみあはれなるに、「中なかに就ついて腸はらわた断たゆるは秋あきの天てん」といふことを、いと忍しのびやかに誦ずじつつゐたまへり。ありつる衣きぬの音おとなひ、しるきけはひして、母屋もやの御障子みさうじより通とほりて、あなたに入いるなり。宮みやの歩あゆみおはして、

「これよりあなたに参まゐりつるは誰たそ」

 と問とひたまへば、

「かの御方おほんかたの中将ちうじゃうの君きみ」

 と聞きこゆなり。

「なほ、あやしのわざや。誰たれにかと、かりそめにもうち思おもふ人ひとに、やがてかくゆかしげなく聞きこゆる名なざしよ」と、いとほしく、この宮みやには、皆みな目馴めなれてのみおぼえたてまつるべかめるも口惜くちをし。

「おりたちてあながちなる御おほんもてなしに、女をんなはさもこそ負まけたてまつらめ。わが、さも口惜くちをしう、この御おほんゆかりには、ねたく心憂こころうくのみあるかな。いかで、このわたりにも、めづらしからむ人ひとの、例れいの心こころ入いれて騷さわぎたまはむを語かたらひ取とりて、わが思おもひしやうに、やすからずとだにも思おもはせたてまつらむ。まことに心こころばせあらむ人ひとは、わが方かたにぞ寄よるべきや。されど難かたいものかな。人ひとの心こころは」

 と思おもふにつけて、対たいの御方おほんかたの、かの御おほんありさまをば、ふさはしからぬものに思おもひきこえて、いと便びんなき睦むつびになりゆくが、おほかたのおぼえをば、苦くるしと思おもひながら、なほさし放はなちがたきものに思おぼし知しりたるぞ、ありがたくあはれなりける。

「さやうなる心こころばせある人ひと、ここらの中なかにあらむや。入いりたちて深ふかく見みねば知しらぬぞかし。寝覚ねざめがちにつれづれなるを、すこしは好すきもならはばや」

 など思おもふに、今いまはなほつきなし。

例の、西の渡殿を

 例れいの、西にしの渡殿わたどのを、ありしにならひて、わざとおはしたるもあやし。姫宮ひめみや、夜よるはあなたに渡わたらせたまひければ、人ひとびと月つき見みるとて、この渡殿わたどのにうちとけて物語ものがたりするほどなりけり。箏さうの琴こといとなつかしう弾ひきすさむ爪音つまおと、をかしう聞きこゆ。思おもひかけぬに寄よりおはして、

「など、かくねたまし顔がほにかき鳴ならしたまふ」

 とのたまふに、皆みなおどろかるべけれど、すこし上あげたる簾すだれうち下おろしなどもせず、起おき上あがりて、

「似にるべき兄このかみやは、はべるべき」

 といらふる声こゑ、中将ちうじゃうの御許おもととか言いひつるなりけり。

「まろこそ、御母方おほんははかたの叔父をぢなれ」

 と、はかなきことをのたまひて、

「例れいの、あなたにおはしますべかめりな。何なにわざをか、この御里住おほんさとずみのほどにせさせたまふ」

 など、あぢきなく問とひたまふ。

「いづくにても、何事なにごとをかは。ただ、かやうにてこそは過すぐさせたまふめれ」

 と言いふに、「をかしの御身おほんみのほどや、と思おもふに、すずろなる嘆なげきの、うち忘わすれてしつるも、あやしと思おもひ寄よる人ひともこそ」と紛まぎらはしに、さし出いでたる和琴わごんを、たださながら掻かき鳴ならしたまふ。律りちの調しらべは、あやしく折をりにあふと聞きく声こゑなれば、聞ききにくくもあらねど、弾ひき果はてたまはぬを、なかなかなりと、心こころ入いれたる人ひとは、消きえかへり思おもふ。

「わが母宮ははみやも劣おとりたまふべき人ひとかは。后腹きさいばらと聞きこゆばかりの隔へだてこそあれ、帝々みかどみかどの思おぼしかしづきたるさま、異事ことことならざりけるを。なほ、この御おほんあたりは、いとことなりけるこそあやしけれ。明石あかしの浦うらは心こころにくかりける所ところかな」など思おもひ続つづくることどもに、「わが宿世すくせは、いとやむごとなしかし。まして、並ならべて持もちたてまつらば」と思おもふぞ、いと難かたきや。

宮の君は、この西の対にぞ

 宮みやの君きみは、この西にしの対たいにぞ御方おほんかたしたりける。若わかき人ひとびとのけはひあまたして、月つきめであへり。

「いで、あはれ、これもまた同おなじ人ひとぞかし」

 と思おもひ出いできこえて、「親王みこの、昔むかし心寄こころよせたまひしものを」と言いひなして、そなたへおはしぬ。童わらはの、をかしき宿直とのゐ姿すがたにて、二に、三人さんにん出いでて歩あゆきなどしけり。見みつけて入いるさまども、かかやかし。これぞ世よの常つねと思おもふ。

 南面みなみおもての隅すみの間まに寄よりて、うち声こわづくりたまへば、すこしおとなびたる人ひと出いで来きたり。

「人ひと知しれぬ心寄こころよせなど聞きこえさせはべれば、なかなか、皆人みなひと聞きこえさせふるしつらむことを、うひうひしきさまにて、まねぶやうになりはべり。まめやかになむ、言ことより外ほかを求もとめられはべる」

 とのたまへば、君きみにも言いひ伝つたへず、さかしだちて、

「いと思おもほしかけざりし御おほんありさまにつけても、故宮こみやの思おもひきこえさせたまへりしことなど、思おもひたまへ出いでられてなむ。かくのみ、折々をりをり聞きこえさせたまふなり。御後言おほんしりうごとをも、よろこびきこえたまふめる」

 と言いふ。

なみなみの人めきて

「なみなみの人ひとめきて、心地ここちなのさまや」ともの憂うければ、

「もとより思おぼし捨すつまじき筋すぢよりも、今いまはまして、さるべきことにつけても、思おもほし尋たづねむなむうれしかるべき。疎々うとうとしう人伝ひとづてなどにてもてなさせたまはば、えこそ」

 とのたまふに、「げに」と、思おもひ騷さわぎて、君きみをひきゆるがすめれば、

「松まつも昔むかしのとのみ、眺ながめらるるにも、もとよりなどのたまふ筋すぢは、まめやかに頼たのもしうこそは」

 と、人伝ひとづてともなく言いひなしたまへる声こゑ、いと若わかやかに愛敬あいぎゃうづき、やさしきところ添そひたり。「ただなべてのかかる住処すみかの人ひとと思おもはば、いとをかしかるべきを、ただ今いまは、いかでかばかりも、人ひとに声こゑ聞きかすべきものとならひたまひけむ」と、なまうしろめたし。「容貌かたちもいとなまめかしからむかし」と、見みまほしきけはひのしたるを、「この人ひとぞ、また例れいの、かの御心みこころ乱みだるべきつまなめると、をかしうも、ありがたの世よや」と思おもひゐたまへり。

「これこそは、限かぎりなき人ひとのかしづき生おほしたてたまへる姫君ひめぎみ。また、かばかりぞ多おほくはあるべき。あやしかりけることは、さる聖ひじりの御おほんあたりに、山やまのふところより出いで来きたる人ひとびとの、かたほなるはなかりけるこそ。この、はかなしや、軽々かるがるしや、など思おもひなす人ひとも、かやうのうち見みるけしきは、いみじうこそをかしかりしか」

 と、何事なにごとにつけても、ただかの一ひとつゆかりをぞ思おもひ出いでたまひける。あやしう、つらかりける契ちぎりどもを、つくづくと思おもひ続つづけ眺ながめたまふ夕暮ゆふぐれ、蜻蛉かげろふのものはかなげに飛とびちがふを、

「ありと見みて手てにはとられず見みればまた行方ゆくへも知しらず消きえし蜻蛉かげろふ

あるか、なきかの」

 と、例れいの、独ひとりごちたまふ、とかや。

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