
このページでは、『源氏物語』第51帖「浮舟」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第51帖「浮舟」原文全文をご覧ください。
匂宮、あの夕暮れの浮舟を忘れられない
匂宮は、あの夕暮れにほんのわずか見ただけの女――浮舟のことを、いつまでたっても忘れられなかった。たいそうな身分の女には見えなかったが、真面目そうで、しかも何ともかわいらしいところがあった。それだけに、浮気な性分の宮には、あのまま何もできずに終わってしまったことが、ひどく残念でならない。
そのため時には中君にまで、「あんな些細なことのために、どうしてそこまで私のこういうことを嫌うのです。思いもしなかったほど冷たい人ですね」と恨み言を言う。中君はそのたびに苦しくなり、いっそ本当のことを話してしまおうかと思うこともあった。
けれど、薫が正式な妻としてではないにせよ、決して軽い気持ちではなく、わざわざ人目を避けて隠している女である。そんな人のことを自分がうっかり口にすれば、匂宮が黙って聞き流すはずもない。宮は、ちょっと目をつけた女房にさえ、どんな辺鄙な家まででも追いかけていくような性分である。まして浮舟のことは、あれから長い月日がたっても忘れずにいる。きっとまた、見苦しいほど強引なことをするだろう。
どちらにとってもかわいそうなことになると思うものの、宮を止められるような相手でもない。他人から知らされれば、それはそれでどうしようもないが、せめて自分のせいで浮舟の身を損なうことだけはしたくない。そう考え直して、中君は結局、何も言えなかった。ほかにうまく言い逃れる方法もなく、ひたすら心の中へ押し込めて宮を恨む、世間の普通の妻のようになっていた。
薫は浮舟を宇治に置いたまま、次の住まいを考える
一方の薫は、比べるものもないほどのんびり構えていた。浮舟がどれほど自分を待ち遠しく思っているだろうと気の毒には思う。それでも今の薫ほどの身分になると、何の口実もなく、ひそかに宇治へ通いつめるわけにもいかなかった。それは神仏の禁忌よりも厄介なくらいである。
――今は、きちんとした形にしてやろうとしているのだ。もともと山里に置いて、心の慰めになる人として大切にしようと思ったのだから、少し長く滞在できる用事を作って、ゆっくり会いに行けばいい。そのうえでしばらく人に知られない住まいに置き、少しずつ落ち着いた関係にしていこう。そうすれば、自分にとっても世間から非難されない形になる。
いきなり「あれは誰だ、いつからなのだ」などと噂になっては騒がしいし、最初の考えにも反する。中君が聞いた時にも、もともとの宇治との縁をきっぱり捨て、昔を忘れたように新しい女へ移ったと思われるのは本意ではない。
そんなふうに考えて自分を抑えているのも、薫のいつもの、あまりに悠長な性格のせいなのだろう。浮舟を移すための別の住まいを考え、人知れず造らせ始めていた。
以前より忙しい身にはなっていたが、中君に対する心遣いは相変わらずだった。それを見ている人々は不思議に思うほどである。しかし中君自身は、世間のことを少しずつ知り、人の心も見てきた今では、「これこそ本当に、昔を忘れない人の長い心なのだ。亡くなった姉への思いだけでなく、その名残である私にまで、こんなに変わらない情を向けてくれる」と、しみじみ感じることも多かった。
薫は年齢とともに、人柄も世間の評判もますます重々しく立派になってゆく。それだけに、匂宮の気まぐれで頼りないところが目につく時、中君は、「何という思いもしなかった宿世なのだろう。姉上が願っていたような形にもならず、私はどうしてこんなに物思いの多い縁に結ばれてしまったのだろう」と思うことが増えていた。
それでも薫と中君が直接顔を合わせることは、今では難しい。年月が昔の出来事を遠ざけ、事情を深く知らない人から見れば、ただの男なら昔の縁を頼って親しく行き来していても不自然ではないのに、薫ほどの身分になるとかえって世間への遠慮が多い。しかも匂宮が今も二人の仲を何かと疑っている。そうしたことを薫も気にして、自然と以前より疎遠になっていった。それでも気持ちそのものは途切れず、変わらなかった。
匂宮も、浮気な性分には中君が嫌になるようなところがあるとはいえ、若君が愛らしく成長するにつれ、この子以上の子がほかに生まれるだろうかと思うほど大切にし、中君にも以前よりいっそう親しく優しく接するようになった。そのため中君も、昔ほど激しく物思いに沈まずに暮らしていた。
宇治から届いた正月の贈り物
正月一日を少し過ぎたころ、匂宮が二条院へ来て、ひとつ年を取った若君を抱いたり遊ばせたりしていた昼のことだった。小さな童女が、大きな緑の薄様の包み文に、小さな鬚籠を若松につけたものと、きちんと巻いた立文とを添え、無邪気に走り込んできた。
中君へ差し出すと、宮がすぐに、「それは、どこから来たの」と尋ねた。童女は慌てながら、「宇治から、大輔さまへということで持て余しておりましたのを、いつものように御前で御覧いただこうと思って、私が持ってまいりました。この籠は金属で作って色をつけたものです。松も本物そっくりによくできた枝ですよ」と、笑いながら次々としゃべる。
宮も笑い、「では、私も一緒に見て楽しもう」と手を伸ばした。中君はひどく困り、「手紙は大輔へやっておきなさい」と言う。顔が少し赤くなったのを見て、宮は、――大将が何でもないような顔をして送ってきた手紙なのではないか。「宇治から」というのもいかにもありそうだ――と思い、この手紙を取った。
もし本当に薫の手紙なら、さすがにその場で開けるのも気まずい。宮が「開けてみようか。見たら恨むつもりですか」と言うと、中君は、「みっともないこと。女同士で書き交わした気楽な手紙まで、どうして御覧になるのです」と静かに答えた。その様子に慌てたところがないので、宮はかえって、「では見よう。女の手紙というものは、どんな書き方をするのかな」と開いた。
若々しい筆跡で、「お目にかかれず気がかりなまま、年まで暮れてしまいました。山里の憂鬱さは、新年になっても峰の霞が絶え間なく立ちこめているようで」と書かれ、端には「こちらも若宮さまへ。粗末な物ではございますが」と添えてあった。
特別に洗練された文章ではない。それでも宮は、思いがけないものを見るように、今度は立文にも目を留めた。こちらも確かに女の筆で、「年も改まり、何かとおめでたいことの多いことでございましょう。御私生活にも、さぞ喜ばしいことがおありでしょう。こちらでは、たいそう立派に整えられたお住まいなのに、御本人にはまだふさわしい場所と思えず、こうしてばかり物思いをしていらっしゃいます。時には都へお渡りになって、お心を慰められればと思うのですが、何かをひどく恐れ、遠慮なさって、それもつらいことと思っていらっしゃるようです。若宮さまへと卯槌を差し上げます。大きな御前がおいでにならない時にでも御覧いただければ、とのことでございます」と、細々書いてある。
新年早々から物忌みの言葉さえ避けきれず、何となく嘆きの多い、垢抜けない文章である。宮は何度も読み返し、ますます不思議に思った。
「もう隠さずに言いなさい。誰からのものです」
中君は仕方なく、「昔、あの宇治の山里にいた方の娘で、事情があって、このごろあちらに住んでいると聞いております」と答えた。普通の女房からの手紙には見えないこともあり、宮は、以前自分を避けるように隠された女のことと結びつけて考え始めた。
卯槌は、退屈な山里で心を込めて作ったものらしく、かわいらしくできている。もう一つ、山橘を作って枝に貫き添え、歌がついていた。
まだ古りぬ物にはあれど君がため深き心に待つと知らなむ
まだ年を経た古いものではありませんけれど、あなたのために、いつまでも変わらない深い心でお待ちしているのだと知ってください。
取り立てて技巧のある歌ではない。けれど宮は、――あの時から忘れられない女が詠んだものではないか――と思い始め、目を離せなくなった。
「返事をしてあげなさい。あまりに情がない。別に隠さなければならない手紙でもないでしょう。どうしてそんな嫌そうな顔をするのです。もう私は帰りますよ」
宮が立ってしまうと、中君は少将の君などへ、「かわいそうなことをしてしまった。幼い童女が持ってきてしまったのを、どうして誰も先に見つけなかったの」と小声で言った。女房たちは、「気づいていたら、どうして御前へ持って来させたりしたでしょう。この子は本当に出過ぎたことばかりするのです。先のことを考えれば、人はおっとりしているほうがかわいらしいのに」と童女を責める。中君は「ああ、静かに。子どもをそんなに怒らせないで」と止めた。
匂宮、宇治に女が隠されていると知る
自分の部屋へ戻った匂宮は、考え込んだ。
――これは妙だ。右大将が宇治へ通うことは何年も続いていると聞いていたし、時にはひそかに泊まるとも聞いた。亡くなった人の思い出があまりに深いので、そんな辺鄙な場所にまで泊まるのだと思っていたが、本当は女を隠しているのではないか。
思い当たることが出てきた。宮は、書物のことで使っている大内記に、薫の家と親しい縁があることを思い出して呼び寄せた。表向きには韻塞ぎに使う詩文集を選ばせる話などをしたあと、何気なく、「右大将は今も宇治へ通っているのか。寺はたいそう立派に造ったそうだね。私も見てみたいものだ」と尋ねた。
内記は、「寺はたいそう立派で、不断の三昧堂なども尊く整えられているそうです。大将殿がお通いになる回数は、去年の秋ごろから以前より増えたと聞いております。下の者たちがひそかに話していたところでは、女を一人、人知れず住まわせていらっしゃるとか。かなりお気に入りの方なのでしょう。あたりにある大将殿の領地の者たちが皆、仰せに従って仕え、交替で宿直までしているそうです。京からも極秘に必要な物を尋ねさせているとか。どんな幸せな人なのだろう、とはいっても、あんな山里で一人、さぞ心細いだろう、と師走ごろ皆が噂していたと聞きました」と答えた。
宮は内心、――なんと嬉しい話を聞いたことか――と思った。「本当にその女のこととは言っていないのか。もともと宇治に住んでいる尼を大将が世話しているとは聞いていたが」とさらに聞く。
「尼は廊のほうに住んでいるそうです。この女は、新しく造った建物に、見苦しくない女房を大勢つけられ、なかなか立派な様子で暮らしているそうです」
「おもしろいことだ。いったいどんな考えで、どんな女を置いたのだろう。やはり大将は、一見したところとは違って、普通の男とは違う隠れたところを持っているのだな。右大臣などは、大将があまりに仏道へ傾き、山寺にまで泊まり歩くのを軽々しいと非難しているそうだが、なるほど、仏道ばかりで夜まで山を歩いていたわけではなかったのか。昔からあの宇治には心を残していると聞いていたが、こういうことだったとは。人より真面目だと得意になっている男ほど、人の思いもつかない隠れた仕掛けを持っているものだ」
宮は楽しそうにそう言った。内記は、薫に親しく仕える家司の婿だったので、秘密めいた事情まで耳に入っていたのだろう。
宮の心には、ただ一つの考えが取りついた。――どうにかして、あの女が以前見た女と同じ人なのか確かめたい。薫ほどの男があれほど大切にして置いているのなら、平凡な女ではあるまい。それに中君とも何か深い縁があるのだろう。二人が心を合わせて私に隠していたというのも、実に腹立たしい。
匂宮、浮舟を見るため宇治へ忍ぶ
それからというもの、匂宮はそのことばかり考えていた。賭弓や内宴が終わって少し暇ができると、人々が官職の任命を気にしている時期であるにもかかわらず、そんなことには興味がない。どうやって人知れず宇治へ行くか、それだけを考える。
例の大内記にはちょうど望んでいる官職があり、何とか宮の気に入られようとしていた。宮はいつもより親しげに使い、「どんな難しいことでも、私が頼んだら何とかしてくれるか」と持ちかける。内記が恐縮していると、「困った話なのだが、宇治に住んでいる女が、以前ほんの少し見たまま行方がわからなくなった人で、大将に見つけ出されて連れて行かれたらしいと聞いてね。本当かどうか確かめる方法はない。物陰から覗いて、同じ人かどうかだけ見極めたいのだ。誰にも知られないようにするには、どうすればよい」と打ち明けた。
内記は、――なんと面倒なことを――と思ったが、「道は荒れた山越えですが、距離そのものはひどく遠くございません。夕方にお出になれば、亥か子の刻には着けましょう。そして明け方にお帰りになればよろしいかと。知る者は御供に上がる私たちだけですし、その者たちにしても、深い事情まではわかりますまい」と答えた。
「そうだね。昔、一度二度通った道でもある。私の身でこんな軽々しいことをしたと非難されるのだけが厄介なのだ」
宮自身、何度考えてもしてはならないことだと思った。それでも、ここまで口に出してしまうと、もう思いとどまれなかった。
昔から宇治への道を知っている者を二、三人、大内記、それに乳母子で蔵人から五位になった若者など、特に親しい者だけを選んだ。薫が今日明日は宇治へ行かないことも内記から十分に確かめて、宮は出発した。
山道を進みながらは、昔、薫と心を合わせるようにして宇治へ通ったころまで思い出される。――あれほど何でも一緒にしてきた人なのに、その人に対して後ろめたいことをしようとしている。妙なことになったものだ。
京の中でさえ完全に人知れず歩くことなどできない身分なのに、粗末に身をやつし、馬で山道を行く。恐ろしく、気も咎める。それでも好奇心の強い宮は、山が深くなるほど、「早く見たい。どんな人なのだろう。何も見られず帰ることになったら、これほどつまらないことはない」と胸を高鳴らせた。
法性寺のあたりまでは車で行き、そこから馬に乗った。急いだので、宵を少し過ぎたころ宇治へ着いた。内記が屋敷の事情を知る者に尋ね、宿直人のいる方角を避け、葦垣をめぐらした西側を少し壊して、ひそかに中へ入った。
格子の隙から見た浮舟
匂宮自身も、薫が新しく造ったこの住まいを見るのは初めてだった。勝手がわからない。それでも人が多くいる気配はなく、寝殿の南側にかすかな灯が見え、衣擦れのような音がする。案内役が、「まだ皆、起きているでしょう。ここからお進みください」と導いた。
宮は静かに上がり、格子に隙間を見つけて近づいた。伊予簾がさらさら鳴る音にさえ気を遣う。建物は新しく清潔だが、山里の家らしく造りは少し粗く、隙間も多い。まさか誰かが忍んで見に来るとは思わないので、穴を塞ぎもせず、几帳の帷子まで押しやってあった。
明るく灯をつけ、三、四人の女房が縫い物をしている。かわいらしい童女が糸を縒っていた。その顔を見て、宮はまず、二条院であの夕暮れに見た童女だと気づいた。それでも自分の見間違いではないかと思っていると、あの時「右近」と呼ばれていた若い女房までいる。
そして浮舟は、腕を枕にして灯を眺めていた。髪がこぼれかかった額、目元の様子は実に気品があり、なまめかしい。二条院の中君にも驚くほどよく似ている。
右近が物を畳みながら、「こちらへ移られたら、すぐには宇治へお帰りになれないでしょうけれど、大将殿は司召しが終わって、来月一日ごろには必ずいらっしゃると、昨日の使いも申していました。お手紙には、どんなふうにお返事なさったのです」と言う。浮舟は答えず、ひどく物思いに沈んでいた。
別の女房たちも、「ちょうど大将殿がおいでになる時に、逃げ隠れするようにこちらを出るのも見苦しいでしょう。きちんと、お移りになるとお知らせしたほうがよいのでは」「もう少しここで大将殿をお待ちして、それから京へ迎えていただき、落ち着いてから母君にもお目にかかればよいでしょう。昔から、我慢強くゆったりしている人こそ最後に幸せになると言います」などと話している。
その言葉の端々から事情を知るうち、匂宮は、――やはりこの女だ――と確信した。そして浮舟の顔をつくづく見る。中君ほど人を気後れさせる気高さではないが、こちらはただ愛らしく、繊細でかわいいところが何とも魅力的だった。
これほど長い間、見たいと心に決めていた人を、ようやくその人だと確かめたのである。ここで見ただけで帰れる宮ではない。まして細かなところまで残らず見てしまうと、――どうすれば、この人を自分のものにできるだろう――と、すっかり心を奪われた。
匂宮、薫になりすまして浮舟のもとへ入る
やがて女房たちは眠くなったと言い、縫い物を片づけて横になった。浮舟も少し奥へ入って休む。右近も近くに横になり、すぐ眠ってしまった。
宮はもうほかに手段がない。そっと格子を叩いた。右近が「誰です」と尋ねる。宮は薫らしい咳払いをした。気品のある咳の音を聞いて、右近は、――大将殿がおいでになったのだ――と思い、起きて出てきた。
「まず、ここを開けなさい」
「まあ。不思議でございます。こんな時間に。もうずいぶん夜も更けましたでしょうに」
「仲信が、女君はどこかへ移るらしいと言ったので、驚いてそのまま出てきたのだ。実に大変だった。いいから開けなさい」
宮は、もともと少し似ている薫の声を実に巧みに真似た。ひそやかな声だったので、右近には疑いようがない。すぐ戸を開けた。
「道でとんでもなく恐ろしいことがあって、こんな妙な姿になってしまった。灯を暗くしなさい」
「あらまあ、大変」
右近は慌てて灯を遠ざける。
「私が来たことを誰にも見せるな。人を騒がせるなよ」
宮は薫の気配まで真似るようにして中へ入った。細身で柔らかな装束をまとい、香りも薫に劣らない。近くまで来ると衣を脱ぎ、まるで以前からそこへ通い慣れているように横になる。
浮舟は、すぐに、――この人は違う――と思った。驚きのあまり声も出せない。ただでさえ二条院であれほど強引だった宮である。最初から宮だとわかっていれば抵抗のしようもあったかもしれないが、夢の中にいるようで、どうにもできない。
宮が、あの時どれほどつらかったか、その後どれほど長く浮舟を思い続けてきたかを語るうち、ようやく浮舟にも、この人こそ匂宮なのだとわかった。
ますます恥ずかしくなった。中君のことを思うと、もう強く拒み続ける力もない。ただ限りなく泣いた。宮も、一度こうして結ばれてしまえば、今度は簡単には会えなくなるだろうと思うと、泣かずにはいられなかった。
帰れなくなった匂宮
夜は容赦なく明けてゆく。供の者がやって来て、外から合図をした。右近がそれを聞いて入ってくる。
けれど宮には、もう帰る気などなかった。離れがたく、これほど愛しいのに、次にいつ来られるかわからない。――京でどれほど探し騒がれても、今日くらいはここにいよう。何事も、生きている間のことではないか。――今ここを離れれば、本当に死ぬほどつらく思われる。
宮は右近を呼び、「無分別だと思われるだろうが、今日はどうしても帰れない。男たちはこの近くの、よく隠れられる場所で待たせなさい。時方は京へ行って、『山寺へ人知れず出かけた』とでも、もっともらしく答えておけ」と命じた。
右近は呆れた。昨夜、何も知らず宮を入れてしまった自分の過ちを思えば気が遠くなりそうだが、もう騒いでも取り返しがつかない。――あの二条院の出来事の時から、宮がこれほど深く思っていたのも、結局は逃れられない御宿世だったのだ。誰かが仕組んだことでもない。――そう自分を慰めた。
それでも、「今日は母君からお迎えが来るはずなのです。いったいどうなさるおつもりでしょう。逃れられない御宿世だとは申しましても、時があまりに悪うございます。今日はひとまずお帰りになり、お心が本物なら、またゆっくりと」と勧める。
宮は、「私はこの数か月、思い続けた末に、もう正気を失ってしまったのだ。人が非難するか何を言うかなど、わからないほど一途になっている。少しでも自分の身を気にする人間なら、こんな山道を忍んで来ると思うか。迎えには今日は物忌だとでも言っておきなさい。誰のためにも、人には知られないようにすることを考えてくれ。ほかのことはもうどうでもよい」と言った。
浮舟がこの世にないほど愛しく思われ、宮は世間の非難などすべて忘れてしまいそうだった。
母君からの迎えを「物忌」で断る
右近は外へ出て、宮の供の者に、「宮さまはこうおっしゃっていますけれど、やはりあまりに見苦しいことだと申し上げてください。宮さまご自身がどれほど思い詰めていらしても、御供のあなた方までどうしてこんな無分別な旅へお連れしたのです。事情を知らない山人などに見つかり、無礼なことを言われたらどうするのです」と訴えた。
内記も、なるほど厄介なことになったと思う。それでも宮は引かない。右近は、どうやって人に知られず一日を過ごさせるのか途方に暮れた。
人々が起きてくると、「殿は途中で大変なことに遭われたらしく、たいそう人目を避けていらっしゃいます。今夜になったら御衣などをこっそり持って来るようにと仰せでした」などと説明した。女房たちは、「まあ恐ろしい。木幡山は本当に危ない所でしょう。いつもの先払いもさせず、身をやつして来られたなんて」と本気で心配する。右近は「静かに。下人に少しでも聞かれたら大変です」と抑えながら、初瀬の観音にまで、「どうか今日一日、何事もなくお過ごしください」と大願を立てたい気持ちになった。
その日は母君が浮舟を石山へ参詣させるつもりで、迎えをよこすことになっていた。皆も精進潔斎していたので、「それでは今日はお渡りになれませんね。残念なことです」と言っている。
日が高くなると格子を上げたが、右近だけが近くで宮に仕え、母屋の簾はすべて下ろしたまま、「物忌」と書いた札をつけた。母君まで、自分も浮舟と一緒にいることにして、「昨夜、気になる夢を見たので」と言い訳することになった。
母君からの迎えは車二台、馬に乗った荒々しい男が七、八人、それに下男たちまで大勢で、いつもの田舎じみた大声を上げながらやって来た。女房たちは気まずがり、「向こうへ隠れて」と宮を急いで奥へ入れる。
右近は、薫ほどの人物が京にいるかいないかなど、いつか話が通じればすぐわかってしまうと思い、むやみに「大将がおいでになっている」とは言えなかった。そこで、「昨夜から穢れに触れられたことをひどく残念に思っておられたところ、今朝また気になる夢を御覧になりましたので、今日一日お慎みになることになりました。せっかくのお迎えなのに、本当に何かに妨げられているようで残念でございます」と返事を書いた。
迎えの者たちには食事までさせて帰した。弁の尼にも、「今日は物忌のため、こちらへはお渡りになりません」と伝えさせた。
匂宮と浮舟、春の日を二人で過ごす
いつもなら、霞んだ山際を眺めながら、一日が暮れないことを嘆く浮舟だった。けれど今日は、暮れるのがつらいと思っている宮につられるように、春の一日はあっけなく過ぎていった。
何にも邪魔されず、ゆったりした春の日に向かい合ってみれば、匂宮は見ても見ても見飽きない。どこを取っても愛嬌があり、親しみやすく、美しかった。世間一般の目で見れば、浮舟が中君や女二宮のような最高位の女性たちと美しさを競えるわけではない。それでも宮には、今は世に比べるものもないほど魅力的に見える。
浮舟のほうも、薫を初めて見た時には、「これほど美しい人がほかにいるだろうか」と思った。それでも匂宮の細やかな華やかさ、匂うような清らかさは、薫よりさらに格別なのだと感じる。
宮は硯を引き寄せ、手習いをしたり、絵を描いたりした。若い浮舟なら思わず心を移してしまいそうなほど、何をしても絵になる。
「私が思うように会えない時は、これを見ていてください」
そう言って、美しい男女が寄り添って横になっている絵を描き、「いつも、こうしていられたらね」と言う。その声にまで涙が混じった。
長き世を頼めてもなほ悲しきはただ明日知らぬ命なりけり
いつまでも一緒にいようと約束しても、それでも悲しいのは、明日の命さえどうなるかわからないことなのです。
「こんなに思い詰めてしまうのも、不吉なほどです。自分の心のままに動くこともできない身で、いろいろ策をめぐらしている間に、本当に死にそうな気さえします。あなたがあれほど冷たかったのに、私はどうしてわざわざ探し出したのでしょうね」
宮がそう言うと、浮舟は宮の涙で濡れた筆を取り、書いた。
心をば嘆かざらまし命のみ定めなき世と思はましかば
変わるのがただ命だけで、この世では人の心は変わらないのだと思えたなら、私は心のことなど嘆かずにいられたでしょう。
宮は、――私の心変わりをこそ、この人は恨むつもりなのだ――と思うと、それさえ愛しくてならない。
「いったい誰の心変わりを見慣れて、そんなことを言うのです」
笑いながら、薫がどうやって浮舟をここへ連れて来たのか、何度も知りたがった。浮舟は苦しくなり、「言えないことを、そんなふうにお尋ねになるのはつらいです」と少し恨む。その様子にも、まだ幼さがあった。
暁の別れ
夜になり、京へ使いに出していた大夫が帰ってきた。中宮からも使いが来て、右大臣もひどく心配し、「身分ある者が誰にも知らせず出歩くのは軽率で、無礼なことにもなりかねない。内裏のお耳にでも入れば、あなた自身のためにも大変なことだ」と強く言っていたという。大夫は世間には、「東山へ聖を訪ねに行った」と説明してきたらしい。
宮はそれを聞いて、――身分の高い身というものは、なんと窮屈なのだ。しばらくでいいから、気軽な殿上人くらいになってみたいものだ――と思う。そして薫のことまで気になった。昔から驚くほど親しい仲なのに、こんな形で心を隔て、隠し事をしていたと知られたら、恥ずかしく、何とも言いようがない。
それでも今日はもうここへ居続けるわけにいかない。帰ろうとすればするほど、浮舟を袖の中へ隠して連れて帰りたいような気持ちになる。
夜がすっかり明ける前にと、供の人々が咳払いをして急かした。宮は浮舟を妻戸まで伴っていったものの、どうしてもそこから出て行けない。
世に知らず惑ふべきかな先に立つ涙も道をかきくらしつつ
これから私は、世に例もないほど途方に暮れるのでしょう。先に流れ出す涙さえ、帰る道を暗く閉ざしてしまいます。
浮舟も、言葉にできないほど悲しくなった。
涙をもほどなき袖にせきかねていかに別れをとどむべき身ぞ
この小さな袖では涙さえせき止められない私に、どうしてあなたとの別れまで引き止めることができるでしょう。
風は荒く吹き、霜の深い暁だった。それぞれの衣まで冷えてしまったような心地がする。宮は馬へ乗りながら、今にも引き返しそうになる。けれど供の者たちは、これ以上は冗談では済まないと思い、ひたすら急がせた。宮は自分でもどうしようもないまま、宇治を出た。
険しい山道を越えてから、それぞれ馬へ乗る。水際の氷を踏み鳴らす馬の足音まで心細く、悲しい。昔も宮は、この同じ道を、薫とともに何度か越えたことがある。――なんとも不思議な、この宇治という里との縁だ。――そう思わずにはいられなかった。
二条院へ戻った匂宮
二条院へ戻ると、中君があれほど浮舟を隠していたことまで恨めしく思われ、宮は一度、自分の部屋へ入って休もうとした。しかし眠れない。あまりに寂しく、物思いが募るので、結局また中君のいる対へ渡っていった。
中君は何も知らない顔で、変わらず清らかに美しい。宮は、――宇治であれほど珍しく、かわいいと思った人より、やはりこの人のほうがさらに稀な美しさを持っている――と思う。それなのに二人の顔がよく似ていることを思い出すと、胸が塞がる。
宮はひどく物思いに沈んだ様子で御帳の中へ入り、中君まで伴って横になった。
「どうにも具合が悪い。これからどうなるのか、心細くてならない。私はどれほどあなたを大事に思い、あとに残したところで、あなたの境遇などすぐ変わってしまうのでしょうね。人の願いというものは、いつか必ず叶うものだとも言いますから」
中君は、――またおかしなことを、今度は本気らしくまで言うのね――と思い、「こんな聞き苦しいことが人へ漏れたら、いったい何を聞いてこんなことをおっしゃるのかと、皆が不思議に思うでしょう。私はもともと心細い身なのですから、関係のないことまで苦しく思われます」と背を向けた。
宮も真剣になり、「本当に私があなたをつらいと思うことがあったら、どうなさいます。私はあなたに対して情の薄い夫ではないでしょう。人からは、珍しいほどだと非難されるほど大切にしている。それなのにあなたは、ほかの人よりずっと私を軽く扱っているようだ。誰でも、そうなるべき宿世があるのだから仕方ないと考えるものなのに、あなたがこんなに心を隔てることが、私はつらい」と言った。
中君は、かつて自分自身も不思議な宿世に導かれるように宮と結ばれたことを思い出し、涙ぐんだ。同時に、――この人は何を聞いたのだろう――と驚く。宮はまだ、浮舟を見つけたことは中君へ知らせないつもりだった。
薫と匂宮、宮中で顔を合わせる
内裏から大宮の手紙が届き、宮は驚いた。大宮からは、「昨日から姿が見えず気がかりでした。具合が悪いそうですが、よろしければ参内なさい。ずいぶん久しくなりました」といった内容だった。
これ以上騒がれるのも困るが、実際に宮は気分までいつもと違っていた。その日は参内せず、上達部が大勢訪ねてきても、御簾の内側で一日を過ごした。
夕方、右大将――薫が見舞いに来た。宮は、「こちらへ」と呼び、普段どおり気楽な形で対面した。
薫は、「お具合が悪そうだと聞きましたので。大宮もたいそう御心配でいらっしゃいます。どのような御病気ですか」と尋ねる。
薫の顔を見るだけで、匂宮の心はいっそう騒いだ。言葉少なにしながら、心では、――聖人ぶった人だと思っていたのに、とんでもなく抜け目のない山伏ではないか。あんなに愛しい人を宇治へ置いたまま、よく平気で長い間待たせられるものだ――と思っている。
普段なら、薫が何かのついでに「私は真面目な男だから」などと言えば、宮は面白がって散々からかう。今こそ秘密を見破ったことを言えば、どんなに驚くだろう。しかしそんな戯れも口に出せないほど宮が苦しそうなので、薫は真面目に、「たいそうな病気でなくても、長く続く御不調はよくありません。風邪など、よくお治しください」と労わり、帰っていった。
宮は薫を見送りながら、――何ともこちらが気後れする人だ。私のありさまと比べて、浮舟はどう思っただろう――と考える。何を見ても、何をしても、浮舟のことを一瞬たりとも忘れられなかった。
薫の手紙、匂宮の手紙
宇治では、浮舟の石山詣でも取りやめになり、退屈な日が続いていた。匂宮からは、胸を打つような言葉をあれこれ書き連ねた手紙が届く。それさえ人目を憚り、宮が「時方」と呼んでいた大夫の従者で、事情を知らない者を使って届けていた。
右近は仲間には、「昔から知っている人が、殿の供で浮舟さまを見つけ、久しぶりに再会して親しくしているのだ」と説明していた。何もかも右近が嘘を作って取り繕っているのである。
一か月ほどたった。匂宮がこれほど思ってくれていることは、浮舟にもよくわかる。それでも宮が実際に宇治へ来るのは難しい。浮舟は、「こんなふうにばかり物思いをするなら、私はもう生き続けられない身なのだろう」と、ますます心細くなった。
そのころ、少し暇のできた薫が、いつものように人知れず宇治へ来た。寺で仏を拝み、誦経をさせている僧に物を与え、夕方になって浮舟のところへ入る。こちらへ来ること自体は忍んでいるが、匂宮のようにひどく身をやつしてはいない。烏帽子に直衣の姿で歩いて入ってくる薫は、実に端正で清らかで、自然とこちらが姿勢を正さずにはいられない。
浮舟は、――どんな顔でこの方に会えばいいのだろう――と思うだけで、空まで恥ずかしく、恐ろしく感じられた。そこへ、あれほど強引だった匂宮の姿まで思い出される。宮は「あれから具合が悪い」と聞いているし、あちらこちらで祈祷までしているという。もし自分のことが薫へ伝わったらどうなるだろう。それを思うだけでも苦しかった。
薫は薫で、久しく来られなかったことを詫びる。しかし言葉数は多くない。「恋しい、愛しい」と露骨に迫りもしない。ただ、いつも会えないことがどれほどつらいかを、品よく、静かに口にする。それだけで、激しい言葉をいくつも重ねるより、相手が深く心を動かされるような人だった。華やかさとはまた別に、長い将来まで頼りにできそうな心の深さは、匂宮よりはるかに勝っていた。
浮舟は思う。――もし匂宮のことを少しでも聞かれたなら、この方の怒りは並大抵ではないだろう。あの宮に心を動かされるなんて、してはならない軽いことなのだ。この方に嫌われ、忘れられてしまう。――その心細さは、深く胸に染みついていた。
薫は、浮舟が以前よりひどく思い乱れているのを見て、「数か月の間に、ずいぶん物事を考えるようになり、大人びたものだ。こんな寂しい所に暮らしていれば、考え尽くさないこともないのだろう」と気の毒に思い、いつもより心をこめて優しく語り合った。
そして、「造らせている家も、だいぶよく整ってきました。先日見てきましたが、ここより水の流れも近く、花もよく見られるでしょう。三条の宮にも近い。朝夕、こんなに遠く隔たって心配することもなくなるでしょうから、この春のうちに、都合がつけばそこへ移してあげようと思っています」と言った。
浮舟は胸を突かれた。匂宮もつい昨日、「ゆっくり会える場所を用意してある」と言ったばかりである。薫はそんなことを何も知らず、自分との先々を考えている。その情の深さがありがたく思われる一方、匂宮へ心を移してよいわけではないと思うと、あの宮の姿まで目の前に浮かぶ。――私はなんて嫌な、つらい身なのだろう。――そう思って泣いた。
薫は、「以前はもっとおっとりしていたのに。誰かから何を聞かされたのですか。少しでもいい加減な気持ちなら、こんな道をわざわざ何度も通って来る身分ではないのですよ」と、浮舟の変化を不思議がった。
二人は朔日ごろの夕月夜、少し端近くに横になり、外を眺めた。薫は昔の悲しみを思い出し、浮舟は今から自分の身に加わった苦しみを思う。二人とも、それぞれ別の物思いを抱えていた。
霞の向こうの山、寒々しい洲崎に立つ鵲、遥かに見渡せる宇治橋、柴を積んだ舟が行き交う川。ほかでは見慣れないものばかりが集まった宇治の景色を見るたび、薫には昔が今のことのように蘇った。
しかも目の前の浮舟は、恋しくてならない大君にどこか似ている。以前より物の心もわかり、都の女らしいところも身についてきて、薫にはいっそう美しく見えた。
宇治橋の長き契りは朽ちせじを危ぶむ方に心騒ぐな
宇治橋のように長く続く私たちの約束は、決して朽ちません。どうか先を疑って、そんなに心を騒がせないでください。
薫がそう言うと、浮舟は返した。
絶え間のみ世には危ふき宇治橋を朽ちせぬものとなほ頼めとや
別れている時ばかりが続くこの世で、危うい宇治橋を、それでも朽ちないものだと信じていろとおっしゃるのですか。
薫は以前にもまして浮舟を置いて帰りがたく思った。しばらくでもここにいたい。それでも人の噂がうるさい。「今さら慌てることはない。いずれ安心できる形にしてから」と自分へ言い聞かせ、暁に帰っていった。帰りながらも、――本当にずいぶん大人びた――と、以前よりいっそう浮舟が気になった。
宮中で薫を見た匂宮、嫉妬を募らせる
二月十日ごろ、内裏で漢詩を作る催しがあり、匂宮も薫も参上していた。季節にふさわしい曲が演奏され、宮の声はたいそう美しく、「梅が枝」などを歌う。何をさせても人より格段に優れているのに、つまらない恋にこれほど思い焦がれるところだけが、宮の罪深いところだった。
突然雪が激しく降り、風も強くなったので、遊びは早めに終わった。人々は宮の宿直所へ集まり、食事などをして休んでいる。
薫が人に話すため少し端近くへ出た。雪は次第に積もり、星明かりもおぼろになっている。それなのに薫自身は「闇など何の意味もない」と思わせるほど、姿も香りも際立っていた。
薫がふと、「衣片敷き、今宵もや……」と古歌を口ずさんだ。その何でもないひとことにさえ、妙にしみじみした情が添う。いかにも奥深い人柄だった。
寝たような顔をしていた匂宮は、それを聞いて胸を騒がせた。
――やはり、あの女を軽く思っているわけではないのだ。「片敷きの袖」を一人で寂しくしているのは自分ばかりだと思っていたのに、薫も同じ気持ちなのか。それも何だか切ない。しかし腹立たしくもある。これほど長く関わってきた本来の男がいるのに、私のほうへそれ以上の思いを向けてもらうなど、どうしてできるだろう。
翌朝、雪は高く積もっていた。薫が漢詩を奉るため御前へ出た姿は、今がまさに男盛りで、清らかに美しかった。匂宮と年齢はほとんど同じだが、二、三歳ほど上なだけ、少し大人びた落ち着きと気配があり、まるで理想の高貴な男を形にしたようである。「帝の婿として何一つ不足がない」と世間が言うのも当然だった。
人々は宮の作った詩を「優れている」と褒め騒いだが、本人には何も耳に入らない。――浮舟は、いったいどんな気持ちで薫とこういうことをしているのだろう。――宮はぼんやり、そればかり考えていた。
雪の夜、再び宇治へ
浮舟の気持ちが薫へ深まっているのではないかと思うと、宮はますます落ち着いていられなかった。ひどく人目を欺き、そのまま宇治へ向かった。
京では消え残った雪がちらほら見える程度だったのに、山深く入るにつれて雪はますます深くなる。いつも以上に危険な細道を分け入るので、供の者たちも泣きたいほど恐ろしく、面倒なことに巻き込まれたと思っていた。
宇治では、まさかこんな雪の中を来るはずはないと油断していた。夜も更けてから右近へ知らせが入る。浮舟も、――こんな雪の中を――と驚きながら、胸を打たれた。
右近は、この先浮舟の身がどうなってしまうのだろうと心配だったが、今夜ばかりは遠慮して断ることもできない。同じように親しくしている若い女房を一人味方にし、「本当に大変なことです。一緒に隠してください」と頼み、二人で宮を中へ入れた。
雪道で濡れた宮の香りが屋敷中へ満ちそうなほどなので、それさえ薫の香りだということにして誤魔化した。
浮舟を舟に乗せ、対岸の隠れ家へ
この夜だけ会ってすぐ帰るのも、かえってつらい。それに宇治の屋敷では人目が気になる。宮は時方に策を立てさせ、川の向こうにある人の家へ浮舟を連れて行く準備をさせていた。先に人を行かせておいたところ、夜が更けるころ戻ってきて、「すべて整っております」と報告した。
右近は、――いったい何をするおつもりなの――と気が気ではない。寝起きの体まで震え上がった。
宮は浮舟に相談する間も与えず、そのまま抱き上げて外へ出た。右近は屋敷に残り、侍従を浮舟につけた。
朝夕、窓から見ていた小さな舟に実際に乗る。ほんの川向こうへ渡るだけなのに、遥か遠くの岸へ漕ぎ出してしまったように心細い。浮舟がぴったり宮に寄り、抱かれているのも、宮にはたまらなくかわいらしかった。
有明の月は澄み渡り、水面にも曇りなく映っている。
供の者が、「あれが橘の小島でございます」と言い、舟を少し止めた。見ると、大きな岩のような形をした小島に、古びた常緑の木が深く茂っている。
宮は浮舟へ、「あれをご覧なさい。小さな島だけれど、千年たっても変わらないような深い緑でしょう」と言った。
年経とも変はらむものか橘の小島の崎に契る心は
どれほど長い年月が過ぎても変わるものですか。橘の小島の崎で、こうしてあなたへ誓う私の心は。
浮舟も、こんな夜の川を渡ることが珍しく、不思議な旅のように感じながら返した。
橘の小島の色は変はらじをこの浮舟ぞ行方知られぬ
橘の小島の緑は変わらないでしょう。でも、この水に漂う浮舟のような私は、これからどこへ流れていくのか、自分にもわかりません。
その時の景色と浮舟の姿が重なり、宮には何もかもがただ美しく、愛しく感じられた。
向こう岸へ着いた。人に抱かせて降ろすのはかわいそうだと、宮は自分で浮舟を抱き、周りに助けられながら家へ入った。見る者は、――いったいどんな女性を、宮はここまで大事にしているのだろう――と驚いた。
そこは、時方の叔父で因幡守をしている者の荘園に、簡単に造られた家だった。まだひどく粗末で、網代屏風など宮には見慣れない調度が置かれ、風も容赦なく吹き込む。垣の下では雪が斑に消えながら、今も空は曇り、雪が降っていた。
「この浮舟ぞ行方知られぬ」
やがて日が差し、軒のつららがきらきら光り合うころ、明るい光の中で見る二人の姿はさらに美しかった。
宮も険しい道を忍んで来たので、身軽な衣装である。浮舟も途中で上着を脱がされていたため、細く華奢な姿がそのまま見える。浮舟は、――これほど眩しいほど美しい人と真正面から向かい合っているなんて――と恥ずかしく思うが、隠れようもない。
柔らかな白い衣ばかりを五枚ほど重ね、袖口から裾まで、色とりどりの華やかな衣を重ねるよりかえってなまめかしく見える。宮は中君など身近な女性であっても、ここまで気を許した姿を見ることは少ない。こんな浮舟の姿さえ新鮮で、かわいくてならなかった。
侍従も見苦しくない若い女房である。浮舟は、――この子にまで、こんな自分の姿をすべて見られてしまう――と思うだけでつらい。宮は侍従へ、「あなたはいったい誰なの。私の名は人に漏らさないでね」と口止めした。侍従には、そんな宮までこの上なく素晴らしく思われた。
家を守る男は時方を主人だと思い、得意顔で世話を焼いていた。宮たちのいる遣戸一枚を隔てた場所で、声を低くして畏まって話しかける。それさえ宮には妙におかしく、返事もできないほどだった。
時方は宿の者へ、「たいそう恐ろしい方角の物忌に当たったので、京の中からさえ離れて慎んでいるのだ。ほかの人を近づけるな」と説明した。
人目も完全に途絶え、宮は安心して一日中浮舟と語り合った。そして薫がここにいたのなら、こうして浮舟と向かい合っていたのだろうと想像し、激しく嫉妬する。女二宮を薫がどれほど大切な妻としているかなども話した。しかし二条院で中君から聞いた、浮舟の身の上につながる肝心の話は口にしなかった。
外を見ると雪が降り積もり、浮舟が普段住んでいる宇治の屋敷は、霞の切れ間から梢だけが見える。山は鏡を懸けたように夕日に輝いている。宮は昨夜、どれほど険しい道を分けて来たかを、ことさらしみじみと語った。
峰の雪みぎはの氷踏み分けて君にぞ惑ふ道は惑はず
峰の雪も、水際の氷も踏み分けて、私はあなたに夢中になってここまで来ました。道には迷わなかったけれど、あなたへの恋には迷いきっています。
宮が戯れ書きをするのを見て、浮舟もひそかに書いた。
降り乱れみぎはに凍る雪よりも中空にてぞ我は消ぬべき
乱れ降り、水際で凍る雪よりも、私はどこにも落ち着くことのできない宙ぶらりんな身のまま、消えてしまいそうです。
書いてすぐ消したが、宮は「中空」という言葉を目に留めた。浮舟は、――嫌なことを書いてしまった――と恥ずかしくなり、紙を破った。
ただ姿を見るだけでも魅力的な宮が、浮舟の心へもっと深く入り込もうと尽くす言葉も表情も、言いようのないほどだった。
二日間の隠れ暮らし
物忌は二日間ということにしてあったので、宮は心ゆくまで浮舟と過ごした。二人は互いに、ますます相手を愛しく思うようになる。
右近はいつものようにあれこれ言い繕い、新しい衣まで届けた。その日は浮舟も乱れた髪を少し整え、濃い色の衣に紅梅の織物などを美しく合わせて着替えた。侍従まで粗末な褶を着ていたので、宮は自分の用意した裳を与え、浮舟に着せてもらうなどした。
宮は浮舟を見て、――この人を女二宮のところへ出したなら、きっとたいそう大切にしてもらえるだろう。高貴な女性なら世に多くても、こんなかわいらしい姿の人はなかなかいない――と思う。
その日は少し度を越すほど戯れ合いながら暮らした。宮は、浮舟を人知れず京の別の場所へ連れて行き、自分だけのものとして隠そうという計画を、何度も何度も口にする。
そして、「その時までに、もしあの人に会ったら……」と薫への嫉妬を交えて、さまざまな誓いまでさせようとする。浮舟にはあまりに無理なことで、まともに返事もできず、涙を落とす。
宮は、――やはり今この目の前にいても、浮舟の心は完全には私へ移っていないのだ――と、胸を痛めた。
恨んだり泣いたり、何もかも言い尽くすように夜を明かし、夜も深くなってから浮舟をもとの宇治の屋敷へ連れ帰った。帰りも宮が抱いてやる。
「あなたがあれほど大切に思っている人だって、こんなふうにはしてくれないでしょう。わかっていますか」
そう言われると、浮舟も、――確かに――と思い、小さくうなずいた。その様子がまた愛らしかった。
右近が妻戸を開けて浮舟を入れる。そのまま別れて出なければならないことが、宮にはたまらなく名残惜しかった。
雨に隔てられる二人の男
こうした秘密の旅から戻ると、匂宮は二条院へ帰った。体まで悪くし、食事もまったく取らず、何日もたつうち青ざめて痩せ、顔つきまで変わったので、内裏でもほかの人々も大層心配した。その騒ぎもあり、浮舟へ長い手紙さえなかなか書けなかった。
宇治でも、ちょうど浮舟の乳母が娘の出産の世話へ行っていたところ、帰ってきたため、以前のように気楽には行動できなくなった。
母君は、薫が浮舟を近いうちに都へ移してくれるという話だけを楽しみにしていた。秘密めいた扱いながらも、都の近くへ住まわせるつもりだと知り、たいそう安心し、嬉しく思って、必要な人手を少しずつ集め、見苦しくない童女なども選んで宇治へ送ってきた。
浮舟自身も、――それこそ最初からあるべき形として待ち続けてきたことだ――と思う。しかし匂宮のことを思い出せば、恨んだ顔も、言われた言葉の一つ一つも、いつも目の前に浮かぶ。ほんの少しまどろめば夢にまで現れ、嫌になるほど心から離れなかった。
雨が何日も降りやまないころになると、宮も山道を越えることを完全に諦めざるを得ず、恋しさに耐えられない。高い身分に生まれたことそのものが、今は窮屈に思われた。
眺めやるそなたの雲も見えぬまで空さへ暮るるころのわびしさ
あなたのいる方角を眺めても、その空の雲さえ見えないほど、雨に空まで暗く閉ざされているこのごろの寂しさです。
筆に任せて乱れ書いた宮の文字にも、不思議なほど見どころがあり、美しい。
浮舟の若い心なら、この思いの激しさにますます傾きそうなものだった。しかし最初から自分を受け入れ、長い先まで考えてくれた薫の落ち着きと人柄の深さは、浮舟が初めて男というものを知った相手だからだろうか、やはり特別だった。
――この宮とのことを薫が知り、私を嫌い、疎んでしまったら、私はどうして生きていけばよいのだろう。
母も、薫のもとへ移す日をどれほど待ち焦がれていることか。もし自分が別の方へ行けば、思いもしないことをした、情けない娘だと思って困り果てるだろう。
一方の匂宮は、生来たいそう浮気な人だと聞いている。今はこれほど思い詰めてくれていても、この先、京へ隠して置かれ、長く妻の一人として扱われることになれば、中君はどう思うだろう。この世に秘密などない。二条院でたった一度、夕暮れに姿を見ただけで、宮はとうとう宇治まで自分を探し出した。それなら自分の身にこれから何が起こっても、中君が知らずに済むはずなどあるだろうか。
考えれば考えるほど、浮舟は、――自分の心そのものに傷ができてしまった。そのために薫から嫌われることだけは、やはり耐えられない――と思い乱れた。
二人から届く恋文
ちょうどそんな時、薫から使いが来た。いろいろな手紙を見比べることさえ、浮舟には嫌でならない。薫の長い手紙を読みながら横になっていると、侍従と右近は顔を見合わせ、「やはり宮さまへお心が移ってしまったのね」と、口では言わないようにしながら、そう言っている。
侍従は、「それも無理はないわ。大将殿のお顔ほど素晴らしい方はいないと思っていたけれど、宮さまも本当にすごかったもの。あの気を許された時の愛嬌。私なら、あれほど思ってくださっているのを見ながら、こんなふうにはいられない。中宮のところへでも仕えて、いつもお姿を拝見したいくらい」と言う。
右近は、「なんて心配なことを言うの。大将殿より優れた人が、どこにいるというの。顔立ちはともかく、御心や御様子は格別でしょう。それにしても宮さまとのことは、本当に見苦しいことになった。浮舟さまはどうおなりになるのだろう」と嘆く。
自分一人で思い悩んでいたころと違い、今では女房たちまで秘密を共有し、嘘をつく仲間になっていた。
後から届いた匂宮の手紙には、「思いながら、こんなに日が過ぎてしまいました。時にはあなたのほうからも、私を驚かせる便りをくださるのが、私の望むことなのです。私の思いが浅いわけではないでしょう」と書いてある。
水まさる遠方の里人いかならむ晴れぬ長雨にかき暮らすころ
雨で水かさの増す遥かな里で、あなたはどうしているのでしょう。晴れることのない長雨の中、私はあなたを思いながら日々を暮らしています。
白い色紙に書いた立文である。宮の筆は細やかに整った字というわけではないが、書きぶりそのものに品があった。
宮の手紙はたくさんある。それを小さく結び、一つ一つ違う形にしているところまで趣がある。
女房が、「まず、こちらのお返事を、人に見られないうちに」と促すと、浮舟は「今日は、とても書けません」と恥じらった。そして手習いにだけ、
里の名をわが身に知れば山城の宇治のわたりぞいとど住み憂き
自分が本当に「憂し」という名の身なのだと思い知らされた今、山城の宇治というこの里は、ますます住みづらく思われます。
と書いた。
宮が描いてくれた男女の絵を時々取り出しては、浮舟は泣いた。――このまま長く生きていてよいはずがない。――そう何度考え直しても、宮と完全に縁を切り、一生閉じ籠もってしまうことを思うと、それもまたあまりに悲しかった。
かき暮らし晴れせぬ峰の雨雲に浮きて世をふる身をもなさばや
晴れることのない峰の雨雲のように、このまま行方も定まらず、宙に浮いたまま世を過ごす身になってしまいたい。
そんな返事が宮へ届くと、宮は声を上げるほど泣いた。――それでも、この人も私を恋しいと思っているのだろう――と想像すれば、物思いに沈んで一人座っている浮舟の姿ばかりが目に浮かぶ。
一方、真面目な薫は相変わらず悠長に浮舟を思いやり、「ああ、今ごろどんなに物思いをしているだろう」と恋しがっていた。
つれづれと身を知る雨の小止まねば袖さへいとどみかさまさりて
降りやまない雨の中、つくづく自分の心細い身を思い知らされています。雨だけでなく、涙で袖までますます水かさを増すようです。
浮舟は薫の手紙も、置く間もなく何度も読み返した。
薫、女二宮に浮舟を近くへ移すことを話す
ある時、薫は正妻の女二宮と話をしていて、ふと切り出した。
「無礼なことだと思われるかもしれないと遠慮していたのですが、実は昔から縁のある女が一人おります。それを今、ひどく辺鄙な所へ置いたままにしていて、たいそう物思いをしているというので気の毒で。もっと近くへ呼び寄せようかと思っています。
私は昔から、普通の人とは少し違った考えで生きてきて、この世では普通の男女の暮らしをせずに過ごそうと思っておりました。でも、あなたさまと結ばれた今、何もかも捨てきることはできない。それで、誰にも存在を知らせずにいたその人まで、このまま放っておけば罪になるような気がするのです」
女二宮は、「私は、そんなことを気にするような者ではございません」と穏やかに答えた。
薫は、「内裏などへ、悪くお伝えする人がいたら困ります。世間の噂というものは、つまらなく、ひどいものですから。ただ、それほど人の数に入るような女でもありません」と説明した。
薫は造らせている家へ浮舟を移すつもりでいた。しかし、「その女のための家だったのか」などと華々しく噂する者が出ても困る。そのため障子を張らせるような細かな仕事まで、人知れず信用できる者だけに頼んだ。
ところがその話も回り回って匂宮の耳に入った。「絵師などまで、薫の随身や親しい家人の中から選んで、わざわざ上等な仕事をさせているそうです」と聞くと、宮はますます焦った。
そこで自分の乳母で、遠国へ赴任する受領の妻が京を離れるため空く家があるのを思い出し、「ひどく人目を忍ばせたい女を、しばらく隠しておきたい」と頼んだ。乳母は、いったいどんな女だろうとは思ったものの、宮がこれほど大事そうに頼むので、「それでは」と承知した。
宮はその家を浮舟のために用意し、少し安心した。乳母たちが今月の末に地方へ下るというので、その日に浮舟を移してしまおうと計画した。
「こう考えている。絶対に人へ漏らさないで」
宮は何度も浮舟へ知らせた。しかし自分が宇治へ出向くこと自体が難しく、浮舟の側でも乳母がひどくしっかりした人なので、そう簡単にはいかないと返事が来る。
四月十日、薫のもとへ移る日が決まる
薫は浮舟を移す日を四月十日と決めていた。
浮舟には、「誘う水があればそのまま流れていこう」とすら思えず、ただ、――私はいったい、どういう身になっていくのだろう――と、どこにも足のつかない気持ちばかりがした。
一度母君のところへ戻り、どうするかゆっくり考える時間が欲しいとも思う。しかし左近少将の妻が出産間近になり、祈祷や読経で家中が騒がしい。母君も石山へ出るどころではなく、自分から宇治へやって来た。
乳母まで出てきて、「殿からは女房たちの装束のことまで、本当に細かく御心配いただいております。私も何とかきれいに整えたいと思うのですが、乳母一人の力では、ろくなこともできませんでしょう」と、嬉しそうにあれこれ準備の話をする。
その様子を見るだけで浮舟は苦しくなった。
――もし、とんでもないことが起きて人の笑いものになったら、母も乳母もどう思うだろう。そして、あの宮は、たとえ八重に重なる山の奥へ隠れたとしても、きっと私を探し出し、自分も私も駄目になってしまうようなことをするに違いない。「どうか人知れず身を隠すことを考えてほしい」と、今日も言ってきた。私はどうすればいいのだろう。
浮舟は本当に気分まで悪くなり、横になった。母君は、「どうしてこんなに、いつもと違って青ざめ、痩せてしまったの」と驚く。女房が、「このところずっと具合がお悪く、ほとんど何も召し上がりません」と言うので、「何か物の怪でもついたのかしら」と心配し、祈祷のことまで考え始めた。
「わが身を失ひてばや」
夜になり、月がたいそう明るかった。浮舟は匂宮と過ごした有明の空を思い出す。涙がどうしても止まらない。――こんな涙を流すなんて、私は本当にいけない心になったのだ。――自分で自分を責めた。
母君は昔話を始め、弁の尼まで呼び出した。そして亡き大君がどれほど心深い人で、将来のことまであれこれ考えていたのに、目の前で消えるように亡くなってしまったことなどを語る。
「もしあの方がお生きだったなら、中君さまのように都とお便りを交わし、あれほど心細かった宇治の姫君たちも、今ごろどれほど幸せでいらしたことでしょう」
そんな話を聞きながら母君は、――私の娘だって同じ八の宮の娘ではないか。もし思うような宿世さえ最後まで備わっていれば、あの方々に劣るはずはない――と思っている。
母君は弁へ、「これまで私は、この子のことでいつも思い乱れてばかりいました。それも少し気持ちが緩み、今度こそ都へ移していただけそうです。そうなれば、わざわざ宇治まで来ることも少なくなるでしょう。こうしてお会いできる時に、昔のことをもっとゆっくり聞かせていただきたいものです」と話した。
弁は、「私は自分を縁起の悪い身だと思い込んでいたので、親しくお目にかかってお話しすることも遠慮してきました。浮舟さまが都へ移ってしまわれれば、私も本当に心細くなるでしょう。でも、こんな山里へお一人で置かれているのを見るたび、いつも心配でしたので、今度のことは喜ばしいことでございます。世にないほど重々しい大将殿が、わざわざ探し出して大切になさっているのですから、軽いお心のはずなどございません」と言った。
母君も、「この先はわかりませんけれど、今は本当に離れがたいというようにおっしゃってくださいます。それにつけても、あなたがお導きくださったことをありがたく思います。中君さままで恐れ多くも娘を憐れんでくださったのですが、宮さまとのことでは気兼ねもあり、中途半端な身分の娘は、かえって居場所のないものなのだと嘆いておりました」と話す。
弁は笑い、「あちらの宮さまは、あまりに色好みでいらっしゃるそうですから、少し心のある若い女なら、かえってお仕えしにくいでしょうね。全体としてはたいそう素晴らしい方ですが、そういうことが中君さまのお気に障るのも無理はないと、大輔の娘が申していました」と言った。
それを聞いた浮舟は、――やはりそうなのだ。まして自分など――と横になったまま聞いていた。
母君は、「まあ恐ろしい。帝の御娘を妻にしているほどの方とはいえ、遠いところで良いことをなさろうと悪いことをなさろうと、私には関係ないと思っていました。でも、もしこの娘にまで良くないことをなさったなら、たとえどれほど惜しいお方でも、私は二度とお目にかけたくありません」とまで言う。
浮舟は、その会話を聞くほどに胸がつぶれた。
――やはり、自分を消してしまいたい。生きていれば、最後にはきっと聞くに堪えないことになる。
折しも、宇治川の水音が恐ろしいほど響きながら流れている。母君は何も知らず、「もっと穏やかな流れの所もあるでしょうに。こんな世にも珍しい荒々しい場所で、長い月日をお過ごしになるなんて、大将殿もきっとかわいそうだとお思いになるでしょう」と得意そうに話している。
周りの者たちは、昔からこの川の流れが速く恐ろしいことを語り、「少し前にも渡守の孫の子が棹を突き損ねて落ち、亡くなりました。人が命を落とすことの多い川です」と言い合う。
浮舟はそれを聞いて、――もし私が行方もわからなくなってしまえば、皆もしばらくは、あっけない、悲しいと泣いてくれるだろう。でも、生き続けて人の笑いものになり、つらいことに苦しみ続けるなら、その物思いはいつ終わるのだろう。――と思った。
死んでしまうことを考えると、不思議なほど何も障害がないように思われ、すべてがすっきり見える。それでも、また思い返せば悲しい。自分を何より大事にして、あれこれ世話を焼き続ける母の姿を、寝たふりをしながらじっと思い返し、浮舟の心は千々に乱れた。
死を思い始める浮舟
浮舟が具合悪そうに痩せているので、母君は乳母にも、「何か御祈祷をさせなさい。祭や祓もしたほうがよいでしょう」と言いつけた。まさか浮舟本人が、御手洗川どころか宇治川へ身を投げたいとまで思っているとは知らず、皆で騒いでいる。
母君は帰り際にも、「人が少ないようね。信用できる人のいる所をよく探しておきなさい。新参の女房はしばらく入れないほうがいいでしょう。身分ある御夫婦というものは、御本人同士はおっとりなさっていても、気に入らない女がそばへ入れば、周りが面倒を起こすこともあります。人目を避け、よく気をつけて」と、考えられることを全部言い残した。
そして、「あちらで出産を控えている娘のことも心配だから」と帰ろうとする。浮舟は、今は何もかも心細く、――これが母と会う最後になるかもしれない――と思った。
「具合が悪い時でもあり、母上にお目にかかれなくなるのがとても心細いのです。少しでも、またこちらへ来ていただきたい」
とすがった。
母君も泣きながら、「私もそうしたいけれど、あちらも今は大変な時なのです。もし越前の国府へ移ることになっても、何とか人知れずこちらへは来ますよ。こんな受領の妻にすぎない身分が、あなたのような方の親であることこそ、かえって申し訳なくて」と言った。
薫と匂宮の使者が鉢合わせする
その日も薫から手紙が届いた。浮舟が具合が悪いと書いていたので、「その後はいかがですか」と見舞い、「本当なら自分で行きたいのですが、どうしても外せないことが多くて。このごろは一日一日が、かえって暮らしにくく感じられます」などと書いてある。
匂宮からも、昨日の返事がなかったので、「いったい、どうなさったのです。あなたの心がどちらへ漂っているのか、不安でなりません。私はますます正気を失って、一人眺めています」と長い手紙が来た。
以前、雨の日に偶然出会った薫と宮の使者たちが、この日もまた宇治で出会った。薫の随身は、宮の使いの男を以前から知っていたので、「お前は何のために、ここへ何度も来るのだ」と尋ねる。
男は、「個人的に訪ねたい人がいるので来ている」と答える。
「個人的な相手にしては、妙に艶っぽい手紙を渡しているじゃないか。何を隠している」
追及され、男はつい、「本当は、ある守の君のお手紙を女房へ差し上げているのだ」と嘘をついた。
話が食い違うので薫の随身は怪しく思った。そこで機転の利く男が、供の童に、「あの男をさりげなく尾行しろ。左衛門大夫の家へ入るのか見てこい」と命じた。
童が後をつけると、男は兵部卿宮のところへ入り、式部少輔へ浮舟からの返事を渡した。下働きの使者は、そこまで調べられるとは思っていなかった。秘密は、とうとう薫の側の者へ露見してしまったのである。
薫、匂宮と浮舟の関係を知る
随身はその夜、薫へすべて報告した。
「今朝、宇治で、出雲権守時方朝臣のところにいる男が、紫の薄様に書いた手紙を桜の枝につけ、西の妻戸で女房へ渡しておりました。不審に思って問いただしましたところ、話を何度も変え、嘘らしいことばかり申しましたので、童に後をつけさせました。すると兵部卿宮へ参り、式部少輔道定朝臣へ、その返事を渡しておりました」
薫は耳を疑った。
「その返事は、どうやって宇治から出したのだ」
「そこまでは見ておりません。別の所から出したようでございます。下の者の話では、赤い色紙で、たいそう美しい物だったとか」
薫が考え合わせると、何一つ食い違うところがない。
帰る道々、薫はつくづく思った。
――やはり恐ろしいほど抜け目のない宮だ。いつ、どんなきっかけで浮舟の存在を知ったのだろう。どうやって言い寄ったのだろう。田舎じみた宇治に置けば、こういう男女の揉め事など起こるまいと思っていた自分こそ幼かった。
それにしても、知らない男ならまだしも、昔から何一つ隔てず、奇妙なほど互いに案内役をして一緒に歩いてきた私に対して、こんな裏側から入り込むようなことをするとは。
薫はひどく不愉快だった。
――中君のことを長年これほど大切に思いながら、決して越えてはならないところを越えずにきた。それこそ、自分の心の重さが並ではなかったということではないか。もっとも中君とのことなら、今さら誰から非難されるような縁でもない。昔から深い縁があるのだから。それでも心に隠し事を持つこと自体が、自分には苦しいから遠慮してきたのだ。
それなのに宮は、今あれほど体調を崩し、人の多い騒ぎの中で、どうやって遥かな宇治へ手紙を送り続けているのだろう。あるいは、もう自分で宇治へ行ったのか。
宮が以前、浮舟の居場所を探させていることがあるとも聞いた。そのことで悩み、病気にまでなっているのだろう。そう思えば、昔、中君とのことで匂宮が苦しんだ時の様子まで思い出される。あれも本当にかわいそうだった。
そして浮舟が最近ひどく物思いに沈んでいた様子も、今となっては少しずつ意味がわかる。あれこれ思い合わせるほど、薫はつらくなった。
――人の心ほど、頼りにならないものはない。あれほどかわいらしく、おっとり見えながら、この人にも色めいた心はあったのだ。宮とは、そういうところでよく似合う二人なのかもしれない。
一瞬、そう考えて身を引いてしまおうという気にもなった。
しかし、――もともと正式な妻として何より大切にしようと決めた女でもない。宮とのことがあったとしても、そのままこちらの女として置いておけばいい。今さら完全に会わなくなれば、それはそれで恋しくなるだろう。――とも思う。
自分でも見苦しいほど、心は一つに決まらなかった。
「波越ゆるころとも知らず」
――もし私が嫌になって浮舟を捨ててしまえば、宮は必ずあの人を迎え取るだろう。宮は相手のその後のことまで深く考える人ではない。ああいう関係になった女を女二宮のあたりへ二、三人も仕えさせたとさえ聞く。この人までそんなふうになってゆくのを見聞きするのは、さすがにかわいそうだ。
薫は、やはり浮舟を完全には捨てられず、まずその心を確かめようと思って手紙を送った。
波越ゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひけるかな
あなたの心に波が越えていたとも知らず、私は末の松のように変わらぬあなたが、ただ私を待っていてくれるものとばかり思っていました。
その下に、
「人に笑われるようなことを、なさらないでください」
とある。
浮舟はその意味を見て、ひどく不思議に思いながら、胸が塞がった。事情を知っているような顔で返事をするのも恥ずかしい。もし薫の疑いが別のことなら、それもおかしい。
そこで手紙をほぼ元の形のまま返し、ただ、
「宛先をお間違えになったように見えましたので。私はひどく具合が悪く、何事も……」
とだけ添えた。
薫はそれを見て、「それでも随分、平気な顔をして返したものだ。まったく私には思いもつかなかった心だ」と苦笑した。ただ、浮舟を完全に憎いと思い切ることまではできなかったらしい。
浮舟、「私はどちらを選べばよいのか」
薫がはっきりとは言わないながらも、何かを知ったらしいとわかり、浮舟はますます苦しんだ。
――最後には、私は本当にけしからぬ、ひどい女になってしまうのだろう。
そこへ右近が来て、「殿のお手紙を、なぜそのままお返しになったのです。あれは縁起の悪いこととして忌むものだそうですよ」と言う。
浮舟は、「違う人へ送る手紙のように見えたから、宛先をお間違えになったのかと思って」と答えた。
実は右近は途中で手紙を開けて見ていた。しかし自分が読んだとは言わず、「まあ、お気の毒に。苦しいことでございますね。殿は、何か御様子をお知りになったのでしょう」と言った。
浮舟の顔は一気に赤くなった。右近が手紙を見たとは思っていないので、誰かが宮とのことを話したのだと思う。
事情を知る侍従と右近は、浮舟を慰めるつもりで話し始めた。
右近は自分の姉の話をした。常陸にいたころ、姉へ二人の男が言い寄った。身分はそれぞれ違っても、二人とも同じほど深く姉を思い、夢中になった。しかし姉は今の夫となったほうへ少し気持ちを多く向けた。それに嫉妬したもう一人が、ついにはその男を殺してしまった。
殺した男もその国には住めなくなり、常陸守から追放された。国にとっても惜しい武者を一人失い、殺したほうも優れた郎等だったのに、罪を犯した者として家からも追われた。乳母は今でもそのことを思って泣いているという。
「不吉な話をするようでございますが、身分の高い方でも低い者でも、こういう男女のことに心を乱すのは、本当に危ないのです。命を失わなくても、身分ある方には死ぬよりつらい恥になることさえございます。
どちらか一方へ、お心をお決めになりなさい。宮さまのお気持ちがますます深くなり、本当にあなたを大事にするとおっしゃるなら、そちらへお心を向けてもよいではありませんか。そんなに何もかも嘆いて、痩せ衰えることこそ何の役にも立ちません。
母君がこれほど今度のお引っ越しを喜び、準備に夢中になっていらっしゃるのを見ると、それより前から宮さまとのことがあるのが本当に苦しく、お気の毒です」
するともう一人は、「そんな、恐ろしいことばかりおっしゃらないで。何もかも御宿世なのですよ。ただ御自分の心の中で、少しでも傾く方を、これが自分の縁なのだと思ってお決めになればよいのです。私は、宮さまがあれほど尋常でないほど思ってくださっているのを見たら、もう一方へお心を寄せられなくても仕方ないと思います。しばらく隠れていても、宮さまのお思いがもっと深まったなら、そちらへ行けばよいと私は思います」と、宮をひたすら褒めた。
浮舟には、それさえ苦しかった。
――皆、私が宮へ心を寄せていると思って、こんなことを言うのだ。なんて恥ずかしい。自分では、どちらを選びたいとも思っていない。ただ夢のようなことに呆然とし、苦しくてならないだけなのに。
それでも、長年頼りにしてきた薫を「もう終わり」と切り離すことができないからこそ、こんなに思い乱れているのだ。このままでは本当に何か悪いことが起こる。
浮舟は、
「私は、どうにかして死んでしまいたい。なんてこの世になじめない、つらい身なのでしょう。こんなことで苦しむ例が、身分の低い人たちの中にだって、そうたくさんあるものですか」
と言い、うつ伏した。
薫、宇治の警護を固める
薫からは、あの返事について何も言ってこないまま、何日か過ぎた。
ある日、内舎人と呼ばれる男が宇治へ来た。確かに右近が言っていたような、荒々しく大柄な老人で、しわがれた声にも妙な迫力がある。
「女房へ申し上げたいことがございます」
そう言わせたので、右近が会った。
男は、「殿に召され、今朝参上し、たった今戻ってきたところです。さまざまな雑事を仰せつかったついでに、『女君がここにいらっしゃる間、夜中や明け方にもお前たちがいると思っていたので、わざわざ別に宿直人を置かなかった。ところがこのごろ、女房のもとへ、どこの誰とも知れない男が通うようだと聞いた。それはとんでもないことだ。宿直にいる者なら事情を知っているだろう。知らずにどうして勤めていられる』と厳しく問われました。
私はこの数か月、病気で宿直を休むことが多かったので、事情を存じませんと申し上げましたが、これから十分に注意しろ、何か不都合が起これば重く罰する、と仰せられました。いったい何のお話なのかと、私も恐ろしく思っております」
右近には、その声が梟の鳴く声より恐ろしく聞こえた。ろくに答えられず、「やはり。私が申し上げたとおり、殿は何かお察しになっているようです。それで御手紙までなくなったのですね」と嘆いた。
乳母は話を半分だけ聞き、「それはありがたい御命令です。この辺は盗人も多いのに、宿直の者も以前のようにしっかりしていません。皆、『自分の身代わりだ』と言って、ろくでもない下男ばかりを寄こすので、夜回りさえ満足にできなかったのです」と喜んでいる。
浮舟だけは、――本当に、もうすぐ自分の身に何かひどいことが起こるのだ――と思った。
そこへ宮からは、「どうして、どうしてなのです」と、苔まで乱れるほどの激しい恋心を訴える手紙が来る。それさえ浮舟には、もう苦しくてならない。
――どちらへ転んでも、どちらかのために、とんでもないことが起きる。私一人がいなくなってしまうことだけが、一番穏やかなのではないか。
昔から、二人の求婚者のどちらとも決められず、思い悩んだだけでも、身を投げた女の話はある。生きていれば、必ずもっとつらいことを見る自分なのだ。死んでしまうことの何が惜しい。
母も、しばらくは泣き狂うだろう。でも子どもはほかにも大勢いる。その世話をしているうち、自分のこともいつか忘れる。
それより、生きながら身を損ない、人の笑いものになり、行き場もなくさまようほうが、もっと大きな苦しみになるだろう。
浮舟はそう考えるようになった。
手紙を焼く浮舟
見た目には幼く、おっとりして、柔らかな人だった。しかし世間の事情をあまり知らないまま、ひとたび思い詰めれば、その考えを曲げにくい人でもあった。だからこそ、普通なら怖くて思いつかないようなことまで、本気で考え始めたのだろう。
浮舟は、これまでの反故や手習いを少しずつ破り始めた。目立つように一度に処分するのではなく、灯台の火へ焼き入れたり、水へ投げさせたりして、少しずつ消していく。
事情を知らない女房たちは、「近く別の所へ移るので、退屈な日々に何となく書きためた手習いなどを整理していらっしゃるのだろう」と思った。
侍従だけは、見つけると、「どうしてこんなことをなさるのです。せっかく深く思い合っていらっしゃる方々と書き交わしたお手紙なのですから、人にはお見せにならなくても、箱の底に取っておいて、時々御覧になるのが、身のほどに応じた風情というものです。あれほど美しい紙を使い、恐れ多いほど心を尽くしたお言葉を書いてくださったのに、何もかも破ってしまうなんて、情のないことです」と止めた。
浮舟は、「何もかも煩わしいの。私はもう長く生きる身でもないようだから。これが残って、あとで人の御迷惑になるのもかわいそうでしょう。『こんなものを賢しらに取っておいたのか』と人に知られるほうが、私は恥ずかしい」と答えた。
ただ、死のうと思い詰めるほどには、やはり簡単に決心できないところもある。親より先に死ぬ者は罪が深いと、かすかに聞き覚えた教えまで思い出された。
二十八日の夜を前に
二十日も過ぎた。匂宮が浮舟を隠すつもりで借りた家の主は、二十八日に地方へ下ることになっている。
宮は、「その夜、必ず迎えに行く。下人たちにも絶対に気づかれないようにしておいて。こちらから秘密が漏れることは夢にもない。疑わないで」と知らせてきた。
浮舟は思う。――宮が、あんな尋常ではない姿でまた来たとしても、今度は一言もお話しできないまま、よくわからない顔でお帰しすることになるのだろうか。そもそも、ほんのわずかな間でも、どうやって今の厳しい警護の中へ宮を入れられるだろう。何もできず、宮は恨みながら帰ってしまうだろう。
そう想像するだけで、宮の姿はいつものように目の前から離れず、耐えきれないほど悲しくなった。浮舟は宮の手紙を顔へ押し当て、最初は泣くのを我慢していたものの、とうとう激しく泣いた。
右近は、「姫さま、そんな御様子をしていては、最後にはきっと誰かに見つかります。このごろ、何か変だと思っている人もいるようです。こんなに一人で思い詰めないで、もうお任せする形で宮さまへお返事なさいませ。私がいれば、たとえ大それた策を使ってでも、この小さな御身お一人くらい、空からでもお連れさせてみせます」と言う。
浮舟はしばらく泣きやみ、「どうして皆、そんなことばかり言うの。私が本当にそうしたいと思っているのならともかく、自分では絶対にしてはならないことだと考えているのに。宮さまが何度も、まるで私が頼り切っているかのようにおっしゃるから、いったい何をなさるつもりなのだろうと思うほど、この身が嫌になるのです」と言い、とうとう返事も書かなかった。
匂宮、最後に宇治へ忍んで来る
返事がほとんど来なくなり、浮舟にも自分を受け入れる様子がない。匂宮は、――薫がきちんと話をつけ、浮舟も少し安心できる形へ心を決めたのだろう。それならもっともだ――と思う。それでも悔しく、腹立たしい。
――それでも、あの人は私を愛しいと思ってくれていたはずだ。会わない間に、周りの者からいろいろ言われ、薫のほうへ戻ろうとしているのだろう。
考えているうち、行く先もないほど恋しさが空いっぱいに満ちたようになり、宮はまた思い立って宇治へ向かった。
ところが葦垣の方へ近づくと、以前とはまるで違い、「そこにいるのは誰だ」と鋭く問う声がする。宮の者はいったん退き、事情を知る男だけを入れたが、その男まで問い詰められた。
「京から急ぎの手紙を持ってきたのだ」と説明する。右近は使いの男の名を呼んで会ったが、以前以上に厄介なことになったと思う。
「今夜は絶対に無理です。本当に恐れ多いことではございますが」
そう宮へ伝えさせた。
宮には、なぜこれほど自分から離れようとするのか納得できない。「まず時方が入り、侍従に会って、何とか方法を考えろ」と命じる。
時方は機転の利く男なので、あれこれ言い繕い、ようやく侍従へ会った。
侍従は、「どうなってしまったのでしょう。殿が何かおっしゃったらしく、宿直の者たちがこのところ妙に気を張っております。本当にどうしようもないのです。姫さまも、宮さまとのことを恐れ多いと思い、ひどく思い悩んでいらっしゃいます。今夜、少しでも人に気づかれたら、かえって大変なことになります。宮さまが本当にお迎えになろうとなさる夜なら、こちらでも前もって、人知れず方法を考えておくことになりましょう」と事情を話した。
時方は、「宮がこんな山道までわざわざおいでになっているのに、何もできずお帰しするのはあまりに申し訳ない。それならあなたも一緒に来て、直接事情を詳しく申し上げてください」と侍従を誘った。
夜露の中、侍従だけと会う匂宮
宮は馬に乗り、少し離れた所で待っていた。里の荒々しい犬が何匹も吠え立てる。それだけでも恐ろしく、供の少ない異様な忍び歩きなので、もし正体もわからない者が飛び出してきたらどうなるかと、付き添う者たちは気が気ではない。
やがて侍従を連れて宮のところへ来た。侍従は髪を脇からかき越した、かわいらしい若い女房だった。馬へ乗せようとしても嫌がるので、男は衣の裾を取り、付き添って歩く。自分の沓まで侍従へ履かせ、自分は供の者の粗末な履物を履いた。
宮のもとへ着き、事情を話す。
こんな場所では、まともに語り合うことさえできない。山人の垣根の、茂った葎の陰に、馬の障泥を敷いて宮を座らせた。
宮自身も、――何という自分の姿だ。こんな恋の道に身を損ない、私はもうまともではいられないのだろう――と思い、限りなく泣いた。
侍従のような心の柔らかい者は、そんな宮を見ると、なおさらかわいそうでならない。たとえ恐ろしい敵であっても、こんな姿を見れば見捨てられないと思うほどだった。
宮は少し気を静めてから尋ねた。
「たった一言さえ、直接話せないのですか。どうして今になって、こんなに変わったのだ。やはり周りの者が何か言い聞かせたのだろう」
侍従は詳しい事情を話し、「宮さまがお決めになる日には、前もって絶対に人へ漏れないよう、こちらでも方法を考えます。これほど恐れ多い御様子を拝見しましたので、私も身を捨ててでも何とかいたします」と言った。
宮自身も人目を恐れているので、これ以上無理に恨み続けることもできなかった。
夜はどんどん更けてゆく。犬の声は絶えず、人々が追い払う声、弓の弦を鳴らす音、怪しい男たちが「火の用心」と叫ぶ声まで聞こえる。宮もさすがに帰らざるを得なくなった。
いづくにか身をば捨てむと白雲のかからぬ山も泣く泣くぞ行く
この身をいったいどこへ捨てればよいのでしょう。白雲のかからない山などないように、どこへ行っても逃れられず、私は泣きながら帰っていきます。
「では、もう帰ります」
夜露に濡れた宮の姿も、香りも、この上なくなまめかしく、哀れだった。侍従も泣きながら屋敷へ戻った。
死を決める浮舟
右近は、宮へきっぱり断ったつもりでいた。浮舟はそれを聞くほどに、ますます思い乱れ、横になったままになっていた。
侍従が戻り、今見てきた宮の様子を語った。浮舟は答えない。しかし涙で枕が次第に濡れてゆく。――侍従は、この私をどう見ているのだろう。――それさえ恥ずかしい。
翌朝、泣き腫らした目を人に見られることまで思えば、浮舟はいつまでも顔を伏せていた。弱々しく帯を締め、経を読む。
ただ一つ、
――親より先に死ぬ罪だけは、どうかお許しください。
そう祈っていた。
匂宮が描いたあの絵を取り出して見る。絵を描いた時の手つきも、目の前に向き合った顔の華やかさも、まるで今そこにいるように思い出された。
昨夜、宮へ一言も直接話すことができなかった。それが今は前よりもっと悲しい。
そして、長い先を見据え、「ゆっくり一緒に暮らそう」と何度も言ってくれた薫のことを思えば、それもまた気の毒でならない。
自分が死んだあと、人がどんな悪い話を作るだろう。それを想像するだけでも恥ずかしい。しかし、――心の浅い、けしからぬ女として人の笑いものになり、その噂を薫に聞かれるくらいなら――と考える。
嘆きわび身をば捨つとも亡き影に憂き名流さむことをこそ思へ
嘆き疲れて、この身を捨てることになっても、死んだあとにまで悪い噂を流されることだけが、私はつらく思われます。
母が恋しかった。普段はそれほど思い出さない弟や妹の、あまりかわいくもない顔まで恋しい。中君のことを思っても、もう一度だけ会いたい人が世の中にたくさんいる。
けれど周囲の人たちは、引っ越しのための染め物や何やらの準備に夢中で、浮舟の耳には何も入らない。
夜になれば、誰にも見つからず外へ出て、どこから川へ行けばよいか、そればかり考える。
眠れない日が続き、体の具合までますます悪くなった。夜が明けるたび川の方を見やり、――もう時間は、羊の歩みよりも早く過ぎていく――と感じていた。
宮への最後の返事
匂宮からは、また心を尽くした手紙が届いた。
浮舟は、今さら誰かに見られたらと思うと、最後の返事さえ、思うままには書けなかった。
からをだに憂き世の中にとどめずはいづこをはかと君も恨みむ
せめて亡骸さえ、このつらい世の中に残さず消えてしまったなら、あなたもどこを目当てに、私を恨めばよいのでしょう。
それだけを書き、手紙を出した。
薫にも、自分の命が終わろうとしている気配だけでも知らせたい気持ちはあった。しかしあちらこちらに別々の書き置きを残せば、薫と匂宮は昔から親しい仲なのだから、いつか必ず互いに見せ合い、事情を知ることになる。それこそ浮舟には耐えられない。
――いったい私はどうなったのだろうと、誰にもわからないまま終わろう。
そう思い直した。
母君の夢
そこへ京から、母君の手紙が届いた。
「昨夜の夢に、あなたがとても騒がしい様子で現れたので、あちらこちらで誦経をさせております。その夢のあと眠れなかったせいでしょうか、たった今、昼寝をしましたら、今度は人が忌み嫌うようなことが夢に見えましたので、驚いたままお便りしています。十分にお慎みなさい。
人里離れたお住まいですし、時々お立ち寄りになる方との御縁も、私は何となく恐ろしく感じています。あなたが具合を悪そうになさっている折に、こんな夢まで見るので、何もかも心配でなりません。
すぐにそちらへ行きたいのですが、少将の妻のほうがまだ出産を済ませず、物の怪でもついたように苦しんでいて、一時も離れられないと言われております。そちらの近くの寺でも、御誦経をおさせなさい」
祈祷のための品物まで、手紙に添えて送ってきた。
母は、娘の命がもう限りだと本人が思っていることなど何も知らず、こうしていつもどおり心配を続けている。それが浮舟にはたまらなく悲しかった。
鐘の音を聞きながら
寺へ誦経を頼む人を出している間に、浮舟は母へ返事を書いた。本当は言いたいことがいくらでもある。けれど、死ぬつもりだと悟られることは怖く、ただ一首だけを書いた。
後にまたあひ見むことを思はなむこの世の夢に心惑はで
この世の夢のような出来事に心を惑わせず、どうか後の世で、また私と会えるのだと思っていてください。
寺で始まった誦経の鐘の音が、風に乗って聞こえてくる。
浮舟は横になったまま、その響きをいつまでも聞いていた。
鐘の音の絶ゆる響きに音を添へてわが世尽きぬと君に伝へよ
鐘の音が消えてゆくその響きに、私の泣く声も添えて、私の命も尽きたのだと母上へ伝えておくれ。
寺から巻数を持って帰った者が来ると、浮舟はこの歌を書きつけ、「今夜はもう帰らなくてよい」と言ったので、使いはそれを木の枝へ結びつけて置いた。
乳母は、「どうにも胸騒ぎがいたします。母君も、夢が騒がしいとおっしゃっていました。宿直の者たち、しっかりお仕えしなさい」と言いつけさせる。
浮舟は、それさえ苦しく聞きながら横になっていた。
「何も召し上がらないなんて、本当におかしい。せめて御湯漬を」
乳母は何かと世話を焼く。
浮舟は、――何でもわかったように世話を焼いてくれるけれど、この人もずいぶん醜く老いてしまった。私がいなくなったら、いったいどこで、どうして生きていくのだろう――と想像し、それさえ哀れでならなかった。
この世に生き続けることはできそうにない。そのことを少しだけでも乳母へほのめかそうかと思う。けれど、そう思っただけで先に涙があふれ、言葉にはできなかった。
右近は浮舟の近くへ横になりながら、ため息をついた。
「こうして物思いばかりなさるからですよ。物思いをする人の魂は体から抜け出すと言いますから、夢まで騒がしくなるのでしょう。もう、どちらへ行くのでもいいではありませんか。お心を決めて、どうか安心してお暮らしください」
浮舟は何も答えず、着古して柔らかくなった衣を顔へ押し当てたまま、静かに横たわっていた。
