このページでは、鴨長明『方丈記』全文の現代語訳を掲載しています。『方丈記』を初めて読む方にも内容が伝わりやすいよう、できるだけわかりやすい言葉で訳しました。全文を14章に分けて、各章に簡単な解説も付けています。
まずは簡単な内容を知りたい方は、『方丈記』あらすじページをご覧ください。
方丈記(1)ゆく河の流れ

原文
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
玉敷きの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、貴き、賤しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて、今年つくれり。あるいは大家ほろびて、小家となる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死に、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また、知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。
その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。
現代語訳
流れゆく川の水は途絶えることがなく、しかも、もとの水ではない。よどみに浮かぶ水の泡は、消えたり、生まれたり、ずっと同じ場所にとどまっていることはない。世の中にある人も住まいも、同じように入れ替わっている。
宝石を敷きつめたように美しい平安京の中に、多くの家々が屋根の高さを競うように建ち並んでいる。身分が高い人の家も、低い人の家も、何世代を経ても変わらないはずなのに、「本当にそうなのか」と尋ね回ると、昔から残っている家はほとんどない。ある家は去年焼けて、今年新しく建てた家である。大きな家が落ちぶれて、小さくなった家もある。
その家に住む人も、これと同じ。場所も変わらず、人も多いけれども、昔会ったことがある人は、20~30人の中に、わずかに1人か2人である。朝に死んでゆく人もいれば、夕方に生まれてくる人もいる。この世の定めは、まさに水の泡に似ている。
わからない。この世に生まれ、死んでゆく人は、どこから来て、どこへ去るのだろうか。また、わからない。はかない現世の仮住まいに過ぎない家を、いったい誰のために苦労して建て、何を見せて目を喜ばせようというのだろうか。
その家の持ち主と住まいが、無常を争うように入れ替わるさまは、言ってみれば朝顔の露と同じである。ある時は露が先に落ちて、花が残る。残るといっても、朝日が差す頃には枯れてしまう。ある時は花が先にしぼみ、露がなお消えないことがある。消えないといっても、夕方を待つことはない。
解説
鴨長明が生きた時代は、貴族の世から武士の世へと変わる激動の時代でした。源平合戦という名の内戦で平安京は荒れ果て、人も建物も次々に入れ替わっていきます。さらには大火や飢饉などの災害も重なり、一言で悲惨な時代でした。そのような世の移り変わり、不変のものはないという無常観を川の流れに例えたのが、『方丈記』の有名な冒頭文です。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

方丈記(2)安元の大火

原文
予、ものの心を知れりしより、四十余りの春秋をおくれる間に、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ。
去、安元三年四月廿八日かとよ。風はげしく吹きて、静かならざりし夜、戌の時ばかり、都の東南より火出で来て、西北に至る。はてには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。
火元は樋口富の小路とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく、末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じてあまねく紅なる中に、風にたへず吹き切られたる焔、飛ぶがごとくして一、二町を越えつつ移りゆく。
その中の人、現し心あらむや。あるいは煙にむせびて倒れ伏し、あるいは焔にまぐれてたちまちに死ぬ。あるいは身ひとつ、からうじて逃るるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝、さながら灰燼となりにき。その費え、いくそばくぞ。
そのたび、公卿の家、十六焼けたり。まして、その他、数へ知るに及ばず。すべて、都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬる者、数十人、馬牛のたぐひ、辺際を知らず。人のいとなみ、みな愚かなる中に、さしも危ふき京中の家をつくるとて、財を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。
現代語訳
私は、世の道理をわきまえるようになってから、40年余りの年月を過ごしてきた。その間に、その道理とはかけ離れた、世にも不思議な事件を見ることが、次第に多くなっていった。
去る、安元3年4月28日のことであったか。風が激しく吹いて静まることのなかった夜、午後8時ごろに都の東南の方から火が出て、西北の方まで燃え広がっていった。しまいには、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などにまで火が燃え移り、一夜にして灰になってしまった。
火元は、樋口富の小路だったとか。舞人を泊めていた仮小屋から火が出たという。吹き荒れる風に乗って、あちらこちらへ燃え移ってゆくうちに、扇を広げたかのように延焼していった。火から遠く離れた家は煙にむせ、火に近い家の辺りは、ひたすら炎が地に吹きつけている。空には灰が吹き上げられ、炎の光に反射して、空一面が紅に染まる。風の勢いに負けて吹きちぎられた炎は、飛ぶように1~2町を越えて燃え移ってゆく。
その炎の中にいた人たちは、どうして正気でいられるだろうか。ある人は煙にむせて倒れ込み、ある人は炎に目がくらんでたちまちに死ぬ。ある人は身一つで命からがら逃れるも、家財を持ち出すことまでは間に合わない。ありとあらゆる宝が、すべて灰と化してしまった。その被害額は、いったいどれほどだろうか。
その火事で、公卿の家は16軒焼失した。その他の家屋は、数えることもできない。全体としては、都の3分の1が燃えたという。男女の死者は数十人。馬や牛のたぐいは際限もない。人の行いは、みな愚かなことばかりである。その中でも特に、あれほど危うい都の中に家を建てようと、財産をつぎ込み、心を悩ませることは、まことにつまらないことでございます。
解説
『方丈記』は日本最古の災害文学ともいわれています。安元の大火に始まり、治承の辻風、福原遷都、養和の飢饉、元暦の大地震と、5つの災厄の様子が克明に描かれているからです。『方丈記』以前にそのような書物はなかったとされていますが、災害は「権力者による政治の失策に対する神仏の怒り」と受け止める考え方もあり、災害を正面から書くことは憚られていたのかもしれません。

方丈記(3)治承の辻風

原文
また、治承四年卯月の頃、中御門京極のほどより、大きなる辻風起こりて、六条わたりまで吹ける事侍りき。
三、四町を吹きまくる間にこもれる家ども、大きなるも、小さきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながら平に倒れたるもあり。桁、柱ばかり残れるもあり。門を吹きはなちて、四、五町がほかに置き、また、垣を吹きはらひて、隣と一つになせり。
いはむや、家のうちの資財、数を尽くして空にあり、檜皮、葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず、おびたたしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。
家の損亡せるのみにあらず。これを取りつくろふ間に、身を損なひ、片輪づける人、数も知らず。この風、未の方に移りゆきて、多くの人の歎きなせり。
辻風は常に吹くものなれど、かかる事やある。ただ事にあらず。さるべきものの諭か、などぞ疑ひ侍りし。
現代語訳
また、治承4年4月頃、中御門京極のあたりから巨大な辻風(竜巻)が発生し、六条のあたりまで吹き進んだことがありました。
3~4町にわたって吹きまくり、竜巻の圏内にあった家々は、大きな家も小さな家も一軒たりとも無事な家はなかった。ぺしゃんこにつぶれた家もあれば、桁と柱だけが残った家もある。門を吹き抜いて、4~5町も離れた所へ飛ばし、また垣根を吹き払って、隣の家と一つの敷地に変えてしまった。
さらに言えば、家の中の財産はことごとく空に巻き上げられ、檜皮や葺板のたぐいは、まるで冬の木の葉が風に乱れ舞うようである。塵を煙のように吹き上げるので、まったく目も見えない。凄まじい音が鳴り響き、物言う声さえ聞こえない。かの地獄の業風であっても、これほどではないだろうと思われるほどであった。
家が損壊しただけではない。壊れた家を修繕している間に怪我をして、身体が不自由になってしまった人は数知れない。この風は南南西の方角に移っていき、多くの人々を絶望させた。つむじ風は普段から吹くものではあるが、これほどのことが起こるとは、ただ事ではない。しかるべき神仏の警告であろうか、などと疑ったのでありました。
解説
「さるべきものの諭か(しかるべき神仏の警告であろうか)」と疑ったという長明ですが、実際に政治の世界で大きな不安が広がっていました。治承3年には平清盛が後白河法皇を幽閉し、平氏一門が政治の実権を握ります。さらに治承4年4月には、清盛の孫である安徳天皇が、幼くして即位しました。
その一方で、平氏に不満を持つ勢力も動き始めます。辻風の直前には以仁王が全国の源氏に平氏追討を呼びかけ、のちの源頼朝や木曾義仲の挙兵へとつながっていきました。長明が見た激しい辻風は、ただの自然災害ではなく、世の中全体が大きく乱れていく前触れのようにも感じられたのかもしれません。

方丈記(4)福原遷都

原文
また、治承四年水無月の頃、にはかに都遷り侍りき。いと思ひのほかなりし事なり。
大方、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、安からず、憂へあへる、実にことわりにもすぎたり。
されど、とかく言ふかひなくて、帝よりはじめ奉りて、大臣、公卿、みなことごとく移ろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰か一人、ふるさとに残り居らむ。官、位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも疾く移ろはむとはげみ、時を失ひ、世に余されて、期する所なき者は、憂へながらとまり居り。
軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河に浮かび、地は目の前に畠となる。人の心、みな改まりて、ただ馬、鞍をのみ重くす。牛、車を用する人なし。西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず。
その時、おのづから事のたよりありて、津の国の今の京に至れり。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて、条里を割るに足らず。北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。波の音、常にかまびすしく、潮風、ことにはげし。内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様変はりて、優なる方も侍り。日々にこほち、川も狭に運びくだす家、いづくにつくれるにかあるらむ。なほ空しき地は多く、つくれる屋は少なし。
古京はすでに荒れて、新都はいまだならず。ありとしある人は、みな浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所に居る者は、地を失ひて憂ふ。今移れる人は、土木のわづらひある事を歎く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠、布衣なるべきは多く直垂を着たり。都の手振り、たちまちに改まりて、ただひなびたる武士に異ならず。
世の乱るる瑞相とか聞けるもしるく、日を経つつ、世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず。民の憂へ、つひに空しからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰り給ひにき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか。ことごとく、もとの様にしもつくらず。
伝へ聞く、いにしへの賢き御世には、あはれみをもつて国を治め給ふ。すなわち、殿に茅葺きても、軒をだにととのへず。煙の乏しきを見給ふ時は、限りある貢物をさへ許されき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
現代語訳
また、治承4年6月頃、急に都が遷されました。まったく思いもよらない出来事でした。
平安京の始まりについて聞き知っていることといえば、嵯峨天皇の御代に都と定められてから、すでに400年余りが経っている。特別な理由もなく、そう簡単に都を変えられるはずもない。この遷都を世の人々が不安に思い、心配し合うのは、まったく当然のことであった。
しかし、あれこれ言っても仕方がなく、天皇をはじめとして、大臣も公卿もみな残らず新都へお移りになっていった。朝廷に勤めるお役人は、誰が一人で旧都に残っていようか。官職、位階の昇進に執着し、主君の恩顧を頼みにしているような人は、一日でも早く新都へ移ろうと必死である。時勢に乗れず、社会から見放されて、頼る所のない者は、悲嘆にくれながら旧都にとどまっている。
軒を争うように建ち並んでいた人々の住まいは、日が経つにつれて荒れてゆく。家は解体されて、新都の建材として船で淀川を下り、宅地はあっという間にさら地となる。人の心はすっかり変わってしまった。ただ馬や鞍ばかりを重んじ、牛や車を必要とする人はいない。西南海の領地を望み、東北の荘園は望まない。
たまたま用事ができたついでに、摂津の国の新しい都へ行く機会があった。その場所を見たところ、土地の面積が狭く、区画を割り当てるには足りない。北は山に沿って高く、南は海に近く、下り坂になっている。波の音は常に騒がしく、潮風はことのほか激しい。皇居は山の中にある。かの木の丸殿も、このような感じだったのかと思うと、ある意味では風変わりで優れた趣があるとも思えました。来る日も来る日も解体され、川幅いっぱいに運ばれていった家々は、いったいどこに建てられたのだろうか。今もまだ空いている土地が多く、建っている家は少ない。
旧都はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとあらゆる人々が、みな浮き雲のような漠然とした不安を抱えている。もともとこの土地に住んでいた者は、土地を奪い取られて嘆く。新しく移り住む人は、土木工事の苦労にため息をついている。道のほとりを見れば、牛車に乗るべき人が馬に乗り、衣冠や布衣を着るべき人の多くが、直垂を着ている。都の品位はあっという間に変わってしまい、ただもう田舎くさい武士と変わらない。
世の乱れる前兆だと聞いていた通り、日が経つにつれて世の中は浮き足立ち、人の心も落ち着かない。民の訴えはついにむなしいものではなくなり、同じ年の冬、再びこの平安京へお帰りになった。けれども、軒並み解体してしまった家々は、いったいどうなってしまったのだろうか。すべての家がもと通りに、必ずしも建て直されたわけではない。
伝え聞くところによると、いにしえの賢き帝の御代では、民をいつくしむ心をもって国を治められていたという。すなわち、宮殿に茅の屋根をふいても、軒先まで立派に整えることはしない。かまどの煙が乏しいのをご覧になった時は、義務である租税さえも免除された。これは民を恵み、世を救いなさる御心からである。今の世のありさま、昔の世と比べればわかるはずである。
解説
この章では、平清盛によって都が福原へ移されたときの様子が描かれています。長明は実際に福原を訪れ、新しい都の様子を見ていますが、そこにあった御所を「木の丸殿」のようだと評しています。
木の丸殿とは、斉明天皇が崩御した際、中大兄皇子が木皮のついた丸木で急いで造らせたと伝わる仮の建物です。長明は福原の新しい御所をその名でたとえることで、急ごしらえで落ち着かない都のありさまを、やや皮肉を込めて表現しているのでしょう。華やかな遷都の裏にある不安定さが、ここによく表れています。
長明は「たまたま用事があって訪れた」と書いていますが、本当は新しい都の様子が気になって仕方なかったのかもしれません。そう考えると、福原の御所を「木の丸殿」のようだと評する一文には、長明らしい観察眼と、かなり鋭い皮肉が感じられます。

方丈記(5)養和の飢饉

原文
また、養和の頃とか、久しくなりて覚えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。
あるいは春、夏日照り、あるいは秋、大風、洪水などよからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。これによりて国々の民、あるいは地を捨てて境を出で、あるいは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにその験なし。
京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舍をこそ頼めるに、絶えて上る物なければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。たまたま交ふる者は、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に満てり。
前の年、かくのごとく、からうじて暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまに跡形なし。世人、みな飢死ぬれば、日を経つつ極まりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。果てには、笠うち着、足引き包み、よろしき姿したる者、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたる者どもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬ事多かり。いはむや、河原などには、馬、車の行き交ふ道だになし。
あやしき賤、山賤も力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、みづからが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木、あひ交はりけるを尋ぬれば、すべき方なきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世にしも生まれあひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
いとあはれなる事も侍りき。去りがたき妻、夫持ちたる者は、その思ひまさりて深き者、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふ間に、まれまれ得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子ある者は定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なお乳を吸ひつつ臥せるなどもありけり。
仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ、数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四、五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬる者多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。
崇徳院の御位の時、長承の頃とか、かかる例ありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたり、めづらかなりし事なり。
現代語訳
また、養和の頃であったか、昔のことではっきり思い出せない。二年もの間、世の中が飢え渇き、あさましいことがありました。
ある時は春も夏も日照り、ある時は秋に大風や洪水など、良からぬことがうち続き、五穀はことごとく実らなかった。夏に植え付けの営みはあっても、秋に刈り取り、冬に倉へ収める活況はなかった。この飢饉の影響で、諸国の民は、ある者は土地を捨てて国境を越え、ある者は家を忘れて山に住む。さまざまな祈祷が始まり、並々ならぬ修法なども行われたが、まったくその効果はない。
平安京は昔から、何事につけても、供給源は田舎をこそ頼りにしている。その供給が途絶えて、都に上がってくる物がなければ、そうそう平静を装ってはいられないだろう。耐えきれなくなって、家財を片っぱしから捨てるように売り払おうとするけれども、まったく目をとめる人はいない。たまたま物々交換に応じる者がいても、金目のものを軽く扱い、食糧を重宝する。乞食が道端にあふれ、嘆き悲しむ声が耳を満たす。
前の年はこのようなありさまで、やっとのことで暮れた。明くる年は立ち直るだろうと思っていたのに、立ち直るどころか疫病までうち重なり、ますます悪化するばかりで回復の跡形もない。世の人々がみな飢えに苦しみ、日が経つごとに困窮していくさまは、少水の魚の例えの通りである。
果てには、笠をかぶり、足に脛巾を巻いた、それなりに整った身なりの者が、ひたすら家を一軒一軒まわって、物乞いをして歩いている。このように困窮し、呆然としてしまった者どもは、歩くかと見れば、すぐに倒れ伏してしまう。築地のそばや道のほとりには、餓え死にした者が数えきれないほどいた。死体を処理する術もわからず、悪臭が世界に満ち満ちていた。腐乱して変わり果てていく死体のありさまは、目も当てられないものばかりであった。さらに言えば、賀茂川の河原などには死体があふれ、馬や車が通る道さえなかった。
身分の低い者も、山里の木こりも力尽き、薪さえ乏しくなってくると、頼るあてのない人は自分の家を解体して、市場に出して売る。一人が持ち出した物の価値は、たった一日の命にさえ及ばないという。不審なことに、薪の中に赤い丹がつき、金箔などが所々に見える木が混じっていた。その出所を調べてみると、救いようのない者が古寺に侵入して仏像を盗み、堂内の仏具を奪い取って、割り砕いたものであった。汚れや罪悪にまみれた世に、あろうことか生まれ合わせてしまったことで、こんなにも胸糞悪い行いを見てしまったのです。
非常にあわれなこともありました。離れがたい妻や夫を持つ者は、その愛する想いが深い者ほど、必ず相手より先に死んでゆく。自分の身は二の次にして、相手をいとおしく思うあまり、ごくまれに得た食べ物までも相手に譲ってしまうからである。親子の間柄であれば決まって、親が先立っていった。母親の命が尽きてしまったこともわからないまま、なお乳を吸いながら臥せっている幼子などもいた。
仁和寺に、隆暁法印という人がいた。このように飢饉が続き、数え切れないほどの人々が死んでいくことを悲しみ、死者の首を見れば額に阿字を書いて、仏縁を結ばせる施しをなさったという。死者の数を調べようと、4月、5月の両月を数えたところ、平安京のうち、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の道端にあった頭は、全部で4万2300余りにもなったそうだ。言うまでもなく、この前後に死んだ者も多い。賀茂川の河原、白河、西の京、その他の郊外も加えれば、際限もないだろう。さらに言うまでもなく、全国の被害はどれほどか⋯⋯。
崇徳院の御時、長承の頃にも、このような前例があったと聞く。だが、その世のありさまはわからない。目の当たりにすることは、めったにないことである。
解説
養和の飢饉は、養和元年に本格化した大飢饉ですが、その兆しは前年の治承4年、福原遷都のころからすでに現れていました。日照りによる不作が続く中で、平清盛は福原への遷都を進めます。しかし新しい都づくりは難航し、「古京はすでに荒れて、新都はいまだならず」という不安定な状態が続きました。
その後、元号は治承から養和へ、さらに寿永へと改められますが、飢饉が収まることはありませんでした。むしろ疫病まで重なり、人々の暮らしはますます悲惨なものになっていきます。長明はこの章で、政治の力でも、改元による祈りでも止められない災厄の連続を描き、人の世のはかなさを強く見つめています。

方丈記(6)元暦の大地震

原文
また、同じ頃かとよ、おびたたしく大地震振る事侍りき。
そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて、水湧き出で、巌割れて、谷に転び入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道ゆく馬は足のたちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舍塔廟、ひとつとしてまたからず。あるいは崩れ、あるいは倒れぬ。塵灰立ち上りて、さかりなる煙のごとし。
地の動き、家の破るる音、雷に異ならず。家のうちに居れば、たちまちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れの中に恐るべかりけるは、ただ地震なりけりとこそ覚え侍りしか。
かくおびたたしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごり、しばしは絶えず。世の常、驚くほどの地震、二、三十度ふらぬ日はなし。十日、二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、あるいは四、五度、二、三度、もしは一日まぜ、二、三日に一度など、大方そのなごり、三月ばかりや侍りけむ。
四大種の中に、水、火、風は常に害をなせど、大地に至りては、ことなる変をなさず。昔、斉衡のころとか、大地震振りて、東大寺の仏の御頭落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほ、このたびにはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。
現代語訳
また、同じ頃であったか、おびただしく大地が揺れ動くことがありました。
その光景は、尋常ではなかった。山は崩れて河を埋め、海は傾いて陸地を浸した。大地が裂けて、水が湧き出し、大きな岩が割れて、谷に転がり落ちていった。渚を漕ぐ船は波に漂い、道ゆく馬は足元がおぼつかない。都の辺りはどこもかしこも、あらゆる家々も神社仏閣も、一つとして無事ではない。あるいは崩れ、あるいは倒れた。塵灰が巻き上がって、勢いよく吹き出す煙のようである。
大地が揺れ動き、家が破れる音は、雷に異ならない。家の中にいれば、たちまちに押しつぶされてしまうだろう。外へ走り出れば、地面が割れ裂ける。羽がなければ、空をも飛ぶことはできない。竜であったならば、雲にでも乗ろう。恐れの中の恐れ、もっとも恐ろしいものは地震であると、しっかりと記憶したのでした。
このようにおびただしく揺れることは、しばらくして止んだ。けれども、その余震はしばらく絶えなかった。普段なら驚くほどの地震が、1日に20~30回、揺れない日はなかった。10日、20日と過ぎてやっと、間隔が遠くなっていった。ある日は、1日に4~5回、2~3回。やがて1日おき、2~3日に1回と、その余震は3か月ぐらい続いたでしょうか。
四大種の中で、水、火、風は日常的に害をなすけれど、大地にいたっては、特別な異変を起こさない。昔、斉衡の頃と聞いたか、大地震で東大寺の大仏の御頭が落ちるなど、不吉なこともあったといいます。それでもなお、この度の地震には及ばないという。大地震を経験して、人々はみな世のむなしさを語り、少しは心の濁りも薄らいだかのように見えた。けれども、年月を経た今は、言葉に出して話題にする人さえいない。

方丈記(7)生きづらい世

原文
すべて、世の中のありにくく、わが身と栖とのはかなくあだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどに従ひつつ、心を悩ます事は、あげて計ふべからず。
もし、おのれが身、数ならずして、権門のかたはらに居る者は、深く喜ぶ事あれども、大きに楽しむにあたはず。歎き切なる時も、声をあげて泣く事なし。進退安からず、立居につけて恐れをののくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。
もし、貧しくして、富める家の隣に居る者は、朝夕すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ出で入る。妻子、僮僕のうらやめるさまを見るにも、福家の人のないがしろなる気色を聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。
もし、狭き地に居れば、近く炎上ある時、その災を逃るる事なし。もし、辺地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなはだし。
また、勢ひあるものは貪欲深く、独身なるものは人に軽めらる。財あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。
世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
現代語訳
すべて、世の中が生きづらく、我が身と住まいがはかなく頼りないさまは、これまでに述べた災厄と同じようである。まして、住む場所や身分によって心を悩ませることは、いちいち数え切れそうにない。
もし、取るに足らない身分で、権力者の隣に住む者は、深く喜ぶことがあっても、その喜びを心から楽しむことはできない。切に嘆かわしい時も、声を上げて泣くことはできない。何をするにも心が落ち着かず、日頃のちょっとした行動でも隣人に恐れおののくさまは、例えるなら雀が鷹の巣に近づくようなものだ。
もし、貧しい身分で、裕福な家の隣に住む者は、朝夕みすぼらしい姿を恥ずかしく思い、隣人に媚びへつらいながら家を出入りする。自分の妻子や召使いが、隣人をうらやましがる様子を見たり、裕福な家の人が、自分たちをないがしろにする態度を感じとったり。心はいつも揺れ動き、いかなる時も安まらない。
もし、都の狭苦しい土地に住めば、近くで火災が起きた時、その災いを逃れることはできない。もし、都の郊外に住めば、都への行き来は面倒が多く、盗賊におそわれる危険もはなはだしい。
また、権力や財力がある者は貪欲で、身よりのない者は人に軽く見られる。財産があれば失う恐れが多く、貧しければ恨みが痛切だ。人を頼りにすれば、自分の身はその人の所有物となる。人を世話すれば、心は恩愛に左右される。
世に従えば、身、苦し。従わねば、狂せるに似たり。どこに住み、どう生きれば、しばしの間だけでもこの身を宿し、たまゆらも心を休ませられるのだろうか。
解説
この章では、これまで述べてきた災害だけでなく、人が社会の中で生きることそのものの苦しさが語られています。長明は、身分の低い者が権力者の隣に住む不安、貧しい者が裕福な家の隣で感じる恥ずかしさ、都に住む危険、郊外に住む不便さなどを、具体的に挙げていきます。
どこに住んでも、どんな身分であっても、人は不安やしがらみから逃れられません。世の中に従えば苦しく、従わなければ変わり者のように見られる。長明はここで、災害だけでなく、人間関係や社会そのものもまた、心を安らかにしてくれないものだと見つめています。
火事や飢饉のような災害だけでなく、隣人との比較、身分差、貧富の差、人間関係のしがらみもまた、人の心を苦しめます。そう考えると、この章で長明が語っているのは、遠い昔の都の話だけではありません。現代の私たちが感じる「どこにいても生きづらい」という感覚にも、どこか通じているように思えます。

方丈記(8)我が身のありさま

原文
我が身、父方の祖母の家を伝へて、久しくかの所に住む。その後、縁欠けて、身衰へ、忍ぶかたがたしげかりしかど、つひに跡とむる事を得ず。
三十余りにして、さらにわが心と、一つの庵を結ぶ。これを、ありし住まひに並ぶるに、十分が一なり。居屋ばかりをかまへて、はかばかしく屋をつくるに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門を建つるたづきなし。竹を柱として、車を宿せり。雪降り、風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所、河原近ければ、水難も深く、白波の恐れもさわがし。
すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折々のたがひめ、おのづから短き運を悟りぬ。
すなはち、五十の春を迎へて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか執をとどめん。むなしく大原山の雲に臥して、また五かへりの春秋をなん経にける。
現代語訳
私は、父方の祖母の家を受け継いで、長らくその場所に住んでいた。その後、縁は欠け、身は落ちぶれ、思い残す人も多かったが、ついにその家にとどまることはできなかった。
三十路余りにして、新たに自分の心と一つの庵を結んだ。この庵を以前の住まいと比べると、10分の1の大きさである。暮らしていくだけの居屋を構え、立派な家屋をつくるには及ばない。わずかに築地を築いたとは言っても、門を立てる手立てがない。竹を柱にして、車を宿す場所とした。雪が降ったり、風が吹いたりする度に、危なくないわけではない。その土地は河原に近く、水難も深ければ、盗賊の恐れも多い。
すべて、生きづらい世をじっと耐え忍び、心を悩ませること、30年あまりである。その間、事あるごとにつまづき、自然とつたない運命を悟った。
そういうわけで、五十路の春を迎えて、家を出て、世を捨てた。もともと妻子がいなければ、捨てがたい身寄りもない。身に官禄もないのだから、何につけて執着をとどめようか。むなしく大原山の雲に隠れ住んで、また5年の春秋をただ過ごした。
解説
この章では、鴨長明自身の人生と住まいの変化が語られています。長明は、かつて祖母から受け継いだ家に住んでいましたが、縁が失われ、身も落ちぶれていく中で、その家にとどまることができなくなりました。
三十歳を過ぎてからは、以前の住まいの十分の一ほどの小さな庵に移ります。しかし、その住まいも風雪や水害、盗賊の不安を抱えた頼りないものでした。長明は、長い年月の中で思い通りにならない運命を悟り、五十歳の春、ついに出家して世を捨てます。ここでは、住まいが小さくなっていく過程が、そのまま長明の人生の挫折と、世への執着を手放していく歩みとして描かれています。
受け継いだ家を失い、小さな庵に移り、やがて世を捨てる。長明の住まいはだんだん小さくなっていきますが、それは単に貧しくなったというだけではありません。人との縁、身分、財産、世間への期待を少しずつ手放していく過程でもありました。この章は、のちの「方丈の庵」へと向かう長明の心の準備を描いた場面だといえます。

方丈記(9)方丈の庵

原文
ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに、末葉の宿りを結べる事あり。いはば、旅人の一夜の宿をつくり、老いたる蚕のまゆをいとなむがごとし。
これを中頃の住みかに並ぶれば、また百分が一に及ばず。とかく言ふほどに、齢は歳々に高く、住みかは折々に狭し。
その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めてつくらず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとに掛金をかけたり。もし、心にかなはぬ事あらば、やすく他へ移さむが為なり。その改めつくる事、いくばくのわづらひかある。積むところ、わづかに二両。車の力を報ふほかには、さらに他の用途いらず。
今、日野山の奧にあとを隠して後、東に三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚をつくり、北に寄せて障子をへだてて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、前に法花経を置けり。
東の際に蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚をかまへて、黒き皮籠三合を置けり。すなはち、和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。かたわらに琴、琵琶、おのおの一張を立つ。いはゆる折琴、継琵琶、これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。
その所のさまを言はば、南に懸樋あり。岩を立てて、水をためたり。林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。名を音羽山といふ。まさきのかづら、あと埋めり。谷しげけれど、西晴れたり。観念のたより、なきにしもあらず。
春は、藤波を見る。紫雲のごとくして、西方ににほふ。夏は、郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、ひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむほど聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積もり、消ゆるさま、罪障にたとへつべし。
現代語訳
さて、六十路の露消え時に及んで、さらに末葉の宿りを結ぶことがあった。いわば、旅人が一夜を過ごすだけの宿をつくり、年老いた蚕がまゆを編むようなものだ。
この家を、生涯の中頃の住まいと比べると、また100分の1にも及ばない。そうこうするうちに、齢は年々高くなり、住まいは折々に狭くなる。
その家のありさまは、世の普通の家とは違う。広さはわずかに方丈、高さは7尺もない。場所を定めていないがゆえに、土地に根を下ろしてつくるわけではない。土台を組み、簡単な屋根を付けて、継ぎ目ごとに掛け金をかけた。もし、その土地で気に入らないことがあったら、簡単に他の土地へ引っ越せるようにするためである。家を改めてつくり直すには、いくらかの面倒はある。とはいえ、積む資財はわずかに車2台分。車代のほかに、さらに費用がかかることもない。
今、日野山の奥に隠れ住んだ後、東側に3尺余りの庇を差して、柴を折って火を焚く場所とする。南側には竹のすのこを敷き、その西側に閼伽棚をつくる。北側に寄せて障子で隔て、阿弥陀の絵像を安置する。そのそばに普賢菩薩の絵像をかけ、前に法華経を置く。
東側の端に蕨のほどろを敷き、夜の寝床とする。西南に竹の吊り棚を取り付けて、黒い皮の籠を三つ置く。その中には、和歌、音楽、往生要集などを書き写したものを入れている。そのそばに琴、琵琶、それぞれ一張ずつ立てかける。いわゆる折り琴、継ぎ琵琶とはこれのことだ。仮の庵のありようは、このようである。
その場所の様子をいえば、南側に水を引く桶がある。岩を置いて、水を溜めている。林が庵の近くにあり、薪を拾い集めるのに不足はない。名を音羽山という。まさきのかづらが道を覆い隠し、谷は草木が生い茂っているけれど、西の方は見晴らしが良い。観念のよりどころが、ないわけではない。
春は、藤波を見る。紫雲のごとく、西方に美しく映える。夏は、ホトトギスを聞く。語り合う度に、死出の山路を約束する。秋は、ひぐらしの声が耳を満たす。うつせみの世を、悲しんでいるように聞こえる。冬は、雪をしみじみと眺める。積もり、消えてゆくさまは、人間の罪障にたとえられる。
解説
この章では、長明が晩年に住んだ「方丈の庵」の様子が詳しく描かれています。六十歳を過ぎた長明は、さらに小さな住まいをつくります。その広さはわずか一丈四方で、必要があれば車二台で運べるほど簡素なものでした。
しかし、その小さな庵の中には、阿弥陀仏や普賢菩薩の絵像、法華経、和歌や音楽の書物、琴や琵琶が置かれています。つまり、長明にとってこの庵は、ただ貧しい住まいではなく、信仰と学問、音楽を楽しむための場所でもありました。
また、庵のまわりには水や薪があり、春は藤、夏はホトトギス、秋はひぐらし、冬は雪を味わうことができます。世を離れて小さく暮らしながらも、自然とともに心を休める生活が、ここには描かれています。

方丈記(10)気ままな暮らし

原文
もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづから怠る。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独り居れば、口業を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ何につけてか破らん。
もし、跡の白波に、この身を寄する朝には、岡の屋に行き交ふ船をながめて、満沙弥が風情をぬすみ、もし、桂の風、葉を鳴らす夕には、潯陽の江を思ひやりて、源都督の行ひをならふ。もし、余興あれば、しばしば松の響に秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれ拙けれども、人の耳を喜ばしめむとにはあらず。独り調べ、独り詠じて、みづから情を養ふばかりなり。
また、ふもとに一つの柴の庵あり。すなはち、この山守が居る所なり。かしこに小童あり。時々来たりて、あひ訪ふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、これは六十。その齢、ことのほかなれど、心を慰むる事、これ同じ。あるいは茅花を抜き、岩梨を取り、零余子を盛り、芹を摘む。あるいはすそわの田居に至りて、落穂を拾ひて穂組を作る。
もし、うららかなれば、峰によぢのぼりて、はるかに故郷の空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし。歩み、わづらひなく、心、遠く至る時は、これより峰つづき、炭山を越え、笠取を過ぎて、あるいは石間に詣で、あるいは石山を拝む。もしはまた、粟津の原を分けつつ、蝉歌の翁が跡を訪ひ、田上河をわたりて、猿丸大夫が墓を訪ぬ。帰るさには、折につけつつ、桜を狩り、紅葉を求め、蕨を折り、木の実を拾ひて、かつは仏に奉り、かつは家づととす。
もし、夜、静かなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。草むらの蛍は、遠く槙の篝火にまがひ、暁の雨は、おのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峰の鹿の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。あるいはまた、埋火をかきおこして、老の寝覚めの友とす。恐ろしき山ならねば、梟の声をあはれむにつけても、山中の景気、折につけて尽くる事なし。いはむや、深く思ひ、深く知らむ人の為には、これにしも限るべからず。
現代語訳
もし、念仏するのが面倒で、読経にも気が進まない時は、自ら休み、自ら怠る。邪魔する人もいなければ、恥ずかしいと思う相手もいない。わざわざ無言の修行をしなくても、一人でいれば自然と口業を修められる。必ず禁戒を守ろうとしなくても、心を惑わすような環境がなければ、何によって破られようか。
もし、航跡の白波にこの身を寄せる朝には、岡の屋に行き交う船を眺めて、満沙弥の風情をひそかに真似る。もし、桂の木が風に吹かれ、葉を鳴らす夕方には、潯陽の江に思いをはせて、源都督になったつもりで琵琶を奏でる。もし、興が尽きなければ、しばしば松の響きに秋風楽の曲を合わせ、水の音に流泉の曲を奏でる。芸はこれつたないけれども、人の耳を喜ばせようというわけではない。一人で弾き、一人で歌い、自ら心を養うばかりである。
また、ふもとに一軒の柴の庵がある。すなわち、この山守がいる所である。そこに子供がいて、時々やって来ては、互いに顔を見せ合う。もし、暇な時は、この子を友としてぶらぶら歩く。かれは10歳、これは60。その齢はかけ離れているけれど、心を慰めることは同じである。ある日は茅花を抜き、岩梨を取り、零余子を盛り、芹を摘む。ある日は山裾の田んぼに行き、落穂を拾って穂組をつくる。
もし、うららかな天気であれば、峰によじ登り、はるか遠くの故郷の空を眺め、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見渡す。景勝地は誰の持ち物でもないから、心を慰めるのに邪魔するものはない。歩くのが軽く、心が遠くまで至る時は、ここから峰つづきに炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間寺に詣でたり、あるいは石山寺を拝んだりする。もしくはまた、粟津の原を分け入って、蝉歌の翁の旧跡を訪れたり、田上川を渡って、猿丸太夫の墓を参ったりする。帰り道では、季節によって桜を狩り、紅葉を求め、蕨を折り、木の実を拾う。一部は仏にお供えし、一部は自分へのお土産とする。
もし、夜、静かな時は、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖を濡らす。草むらの蛍は、遠く槙島の篝火と見紛うほどである。暁の雨は、自然と木の葉を吹き散らす嵐に似ている。山鳥がホロと鳴く声を聞けば、父か母かと聞き間違う。峰の鹿がなついて近寄ってくるにつけても、世に遠ざかる身の程を知る。
ある時はまた、灰の中に埋めておいた火をかきおこして、目覚めがちな老いの夜の友とする。恐ろしい深山ではなく、梟の声をしみじみ聞くにつけても、山中の景色は折々に尽きることはない。ましてや、自然の情緒を深く感じ、深く理解する人にとっては、これだけに限らないだろう。
解説
この章では、方丈の庵での長明の暮らしが、具体的に描かれています。念仏や読経に気が進まない時は無理をせず休み、琴や琵琶を弾き、歌を口ずさみ、山守の子供と野山を歩く。誰かに見せるためではなく、自分の心を養うために、静かな時間を過ごしています。
また、春の桜、秋の紅葉、山の木の実、夜の月、猿や鹿の声など、自然の景色も長明の心を慰めています。都での暮らしには、人間関係や身分、財産への不安がつきまとっていました。しかし、この山中の暮らしでは、少ないものの中に自由があり、孤独の中にも楽しみがあります。
長明にとって方丈の庵は、世の中から逃げ込んだだけの場所ではありません。自分の心を乱すものから離れ、信仰・音楽・自然・小さな交流を大切にしながら生きるための場所だったのです。

方丈記(11)自分を生きる

原文
大方、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに、五年を経たり。仮の庵もやや故郷となりて、軒に朽葉深く、土居に苔むせり。
おのづから、事のたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やむごとなき人の隠れ給へるもあまた聞こゆ。まして、その数ならぬたぐひ、尽くしてこれを知るべからず。たびたび炎上にほろびたる家、また、いくそばくぞ。ただ、仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。ほど狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。
かむなは小さき貝を好む。これ、事知れるによりてなり。みさごは荒磯に居る。すなはち、人を恐るるが故なり。われ、また、かくのごとし。事を知り、世を知れれば、願はず、走らず、ただ、静かなるを望みとし、憂へなきを楽しみとす。
すべて、世の人の栖をつくるならひ、必ずしも事の為にせず。あるいは妻子、眷属の為につくり、あるいは親昵、朋友の為につくる。あるいは主君、師匠、および財宝、牛馬の為にさへこれをつくる。
われ、今、身のために結べり。人の為につくらず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、頼むべき奴もなし。たとひ、広くつくれりとも、誰を宿し、誰をか据ゑん。
現代語訳
そもそも、この場所に住み始めた時はほんの少しの間と思っていたが、もうすでに五年も経ってしまった。仮の庵もしだいに故郷となり、軒には落ち葉が深く積もり、土台には苔が生えてきた。
ふと、何かのついでに都のことを聞けば、この山に籠もり住んだ後に、高貴な人が亡くなったという話も多く耳にする。まして、その数にも入らない人々のことは、すべてを知り尽くせないだろう。たびたびの火災で滅んだ家は、また、どれほどであろうか。ただ、仮の庵だけが、平穏で恐れもない。狭いと言っても、夜寝る場所もあれば、昼居る場所もある。我が身一つを宿すのに、不足はない。
やどかりは、小さな貝を好む。これは、事足りることを知っているからである。みさごは、荒磯に居る。それは、人を恐れているからである。私も、また、このようである。身の程を知り、世のむなしさを知った。欲しがらず、あくせくせず、ただ静かであることを望みとする。憂いのないことを、楽しみとする。
すべて、世の人が住まいをつくるのは、必ずしも自分のためではない。ある人は妻子や一族のためにつくり、ある人は親しい人や友人のためにつくる。ある人は主君、師匠、さらには財宝や牛馬のためにまで、これをつくる。
私は、今、我が身のために庵を結んだ。人のためにつくったのではない。理由は何かと問われれば、今の世の道理、我が身のありさま、連れ添う人もなく、頼りにする者もいない。たとえ、広くつくったとしても、誰を宿し、誰を据えようというのか。
解説
この章では、長明が方丈の庵での暮らしにしだいに安らぎを見いだしていく様子が描かれています。はじめは一時的な住まいのつもりだった庵も、五年が過ぎるうちに、落ち葉が積もり、苔が生え、自分の故郷のような場所になっていきました。
都では今も人が亡くなり、火災によって家が失われています。それに比べれば、狭くても自分一人が寝起きできる庵は、長明にとって十分な住まいでした。やどかりが小さな貝を選び、みさごが人を避けて荒磯に住むように、長明もまた、身の程を知り、欲を離れ、静けさの中に楽しみを見いだしています。
ここでは、広い家や立派な暮らしを求めるのではなく、自分に必要なものだけで満ち足りるという「知足」の考え方が表れています。孤独であることを嘆くのではなく、誰にも縛られず、自分のためだけに小さな庵を結ぶ。その生き方に、長明の晩年の心境がよく表れています。

方丈記(12)他力より自力

原文
それ、人の友とある者は、富めるを尊み、ねんごろなるを先とす。必ずしも、情あると、素直なるとをば愛せず。ただ、糸竹花月を友とせんにはしかじ。
人の奴たる者は、賞罰はなはだしく、恩顧あつきを先とす。さらに、育みあはれむと、安く静かなるとをば願はず。ただ、わが身を奴婢とするにはしかず。
いかが奴婢とするならば、もし、なすべき事あれば、すなはち、おのが身を使ふ。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をかへりみるより安し。もし、歩くべき事あれば、みづから歩む。苦しといへども、馬、鞍、牛、車と、心を悩ますにはしかず。
今、一身を分かちて、二つの用をなす。手の奴、足の乗り物、よくわが心にかなへり。身、心の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず、もの憂しとても、心を動かす事なし。
いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、養性なるべし。なんぞ、いたづらに休み居らん。人を悩ます、罪業なり。いかが、他の力を借るべき。
現代語訳
そもそも、人の友というものは、富のある人を敬い、親しくなろうとすることを第一とする。必ずしも、情のある人や、誠実な人を愛するわけではない。ただ、音楽や自然を友とする方がましだ。
人に仕える者は、褒美が多く、恩恵が厚いことを第一とする。決して、面倒見がよく、物腰柔らかな主人を求めるわけではない。ただ、我が身を下僕とする方がましだ。
いかにして下僕とするかと言うと、もし、何かやるべきことがあれば、まず己の身を使う。疲れないわけではないが、人を使って、世話をするよりは安心である。もし、歩くべきことがあれば、自分の足で歩く。苦しいと言っても、馬や鞍、牛や車のことで、いちいち悩むよりはましだ。
今、我が身一つを分けて、二つの用をなす。手を下僕、足を乗り物とすれば、自分の思い通りになる。我が身は心の苦しみがわかるから、苦しい時は休めて、元気な時は使う。使うとしても、使い過ぎることはない。気が重いとしても、心が思い乱れることはない。
さらに言うと、常に歩き、常に働くことは、養生になるだろう。どうして、無駄に休んでいられようか。人を悩ますことは、罪業である。どうして、他の力を借りられようか。
解説
この章では、長明が人間関係から距離を置き、自分の身ひとつで生きることの気楽さを語っています。世の中の人づき合いは、必ずしも情や誠実さによって結ばれるわけではなく、富や利益によって左右されることが多い。だからこそ長明は、人を友とするよりも、音楽や自然を友とする方がよいと考えます。
また、人を使えば、その人への気づかいや面倒が生まれます。それならば、自分の手を下僕とし、自分の足を乗り物として、自分でできることは自分でする方が心安らかだというのです。ここには、他人に頼らず、他人を煩わせず、身軽に生きようとする長明の考え方が表れています。
方丈の庵での暮らしは、不便で貧しい生活に見えるかもしれません。しかし長明にとっては、人間関係や財産に振り回されず、自分の心と体の範囲で満ち足りる、自由な生き方だったのです。

方丈記(13)世は心次第

原文
衣食のたぐひ、また同じ。藤の衣、麻の衾、得るに従ひて肌を隠し、野辺のおはぎ、峰の木の実、わづかに命を継ぐばかりなり。人に交はらざれば、姿を恥づる悔いもなし。糧乏しければ、おろそかなる報を甘くす。
すべて、かやうの楽しみ、富める人に対して言ふにはあらず。ただ、わが身一つにとりて、昔、今とをなぞらふるばかりなり。それ、三界はただ心一つなり。心もし安からずは、象馬七珍も由なく、宮殿楼閣も望みなし。
今、さびしき住まひ、一間の庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて、身の乞丐となれる事を恥づといへども、帰りてここに居る時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ。
もし、人、この言へる事を疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は、水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は、林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味も、また同じ。住まずして、誰か悟らむ。
現代語訳
衣食のたぐいもまた、同じである。藤の衣服、麻の寝具は、得られたもので肌を隠せればいい。野辺のヨメナ、峰の木の実は、かろうじて命をつなげれば十分である。人と交流することがなければ、自分の姿が恥ずかしいと悔やむこともない。食糧が乏しければ、粗末な物も美味しく感じられる。
すべて、このような楽しみは、富める人に対して言うのではない。ただ、我が身一つについて、昔と今とを比べているだけである。そう、三界はただ、心の持ちようである。もし、心が安らかでなければ、象や馬のような珍しい宝も無益に感じ、宮殿や楼閣を望むこともない。
今、この寂しい住まい、一間の庵、自らこれを愛する。まれに都へ出れば、我が身が乞食となっていることを、恥ずかしく思うことはある。けれども、帰宅してここに居る時は、人々が俗世にまみれていることを憐れむ。
もし、誰か、この発言を疑うならば、魚と鳥のありさまを見よ。魚は、水に飽きることはない。魚でなければ、その気持ちはわからない。鳥は、林を願う。鳥でなければ、その気持ちはわからない。閑居の味わいも、また同じ。住まずして、誰が理解できようか。
解説
この章では、長明が衣食についても、必要最小限で足りると考えていることが語られています。粗末な衣服でも肌を隠せればよく、野草や木の実でも命をつなげれば十分である。人と交わらなければ、みすぼらしい姿を恥じることもなく、食べ物が乏しければ、粗末なものでもおいしく感じられるというのです。
長明は、こうした暮らしを富める人にすすめているわけではありません。ただ、自分自身の昔と今を比べ、心が安らかであれば、立派な財宝や大きな屋敷がなくても満ち足りていられると語っています。ここには、すべては心の持ちようであるという仏教的な考え方が表れています。
魚が水を好み、鳥が林を求めるように、長明にとっては静かな山中の庵こそが、自分に合った居場所でした。閑居の味わいは、実際にそこに住んだ者でなければわからない。そう言い切るところに、世を離れた暮らしへの長明の深い納得が感じられます。

方丈記(14)答え

原文
そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに、三途の闇に向かはんとす。何のわざをか託たむとする。
仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、閑寂に着するも、さばかりなるべし。いかが、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。
静かなる暁、このことわりを思ひ続けて、みづから心に問ひて言はく、世を遁れて、山林に交はるは、心を修めて道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。栖はすなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、たもつところは、わづかに周梨槃特が行にだに及ばず。
もし、これ、貧賤の報のみづから悩ますか、はたまた妄心の至りて狂せるか。その時、心、さらに答ふる事なし。ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。
時に、建暦の二年、弥生の晦日頃、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これを記す。
現代語訳
さて、一生涯の月影は傾き、余命は山の端に近い。たちまちに、三途の闇へと向かわんとする。いまさら何を嘆こうというのか。
仏の教えの本意は、何につけても執着心をなくすことである。今、草庵を愛することも、閑寂に執着することも、そのぐらいにするべきであろう。どうして、つまらぬ楽しみを述べて、惜しむべき時を過ごそうか。
静かな明け方、この本意を考え続けて、自ら心に問う。世を遠ざけて、山に入ったのは、仏道の修行をするためではなかったのか。それなのに、お前は、姿こそ僧であっても、心は煩悩にまみれている。住まいはつまり、浄名居士の跡を汚しているとはいえ、実際のところは、わずかに周梨槃特が修行にすら及ばない。
もしや、これは、貧賤の報いが自らを悩ませているのか、はたまた、妄心極まり狂ってしまったのか。その時、心は、何も答えることはない。ただ、舌だけを動かして、なんとなく念仏を二、三遍唱えて終わった。
時に、建暦の二年、三月の末頃、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これを記す。
解説
この章では、長明が自分自身の生き方を静かに問い直しています。世を捨て、山中の庵で静かに暮らしてきた長明ですが、その庵を愛することや、閑かな暮らしを楽しむことさえ、仏教でいう執着ではないかと考えます。
長明は、形の上では僧であっても、心の中にはまだ煩悩が残っていると自らを責めています。世俗を離れたつもりでも、草庵への愛着や、閑居の楽しみから完全に自由になれない。そのことに気づいた長明は、心に問いかけますが、答えは出ません。ただ念仏を二、三遍唱えるだけで、この作品を閉じます。
ここには、悟りきった人物としてではなく、迷いを抱えたまま老いと死に向き合う一人の人間としての長明の姿が表れています。『方丈記』は、無常を語り、隠遁の豊かさを描いた作品ですが、最後にはその隠遁さえも問い直すところに、深い余韻があります。

鴨長明『方丈記』の参考書籍

- 浅見和彦『方丈記』(2011年 ちくま学芸文庫)
- 浅見和彦『方丈記』(笠間書院)
- 安良岡康作『方丈記 全訳注』(1980年 講談社)
- 簗瀬一雄訳注『方丈記』(1967年 角川文庫)
- 小内一明校注『(影印校注)大福光寺本 方丈記』(1976年 新典社)
- 市古貞次校注『新訂方丈記』(1989年 岩波文庫)
- 佐藤春夫『現代語訳 方丈記』(2015年 岩波書店)
- 中野孝次『すらすら読める方丈記』(2003年 講談社)
- 濱田浩一郎『【超口語訳】方丈記』(2012年 東京書籍)
- 城島明彦『超約版 方丈記』(2022年 ウェッジ)
- 小林一彦「NHK「100分 de 名著」ブックス 鴨長明 方丈記」(2013年 NHK出版)
- 木村耕一『こころに響く方丈記 鴨長明さんの弾き語り』(2018年 1万年堂出版)
- 水木しげる『マンガ古典文学 方丈記』(2013年 小学館)
- 五味文彦『鴨長明伝』(2013年 山川出版社)
- 堀田善衛『方丈記私記』(1988年 筑摩書房)
- 梓澤要『方丈の狐月』(2021年 新潮社)
- 『京都学問所紀要』創刊号「鴨長明 方丈記 完成八〇〇年」(2014年 賀茂御祖神社(下鴨神社)京都学問所)
- 『京都学問所紀要』第二号「鴨長明の世界」(2021年 賀茂御祖神社(下鴨神社)京都学問所)
実際に読んだ『方丈記』の関連本を以下のページでご紹介しております。
『方丈記』を初めて読む方にも、何度か読んだことがある方にもオススメの書籍をご紹介しておりますので、ぜひご覧ください♪


