このページでは、鴨長明『発心集』第1巻(第1話~第12話)の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容を保ちながら、わかりやすく読みやすい口語訳にしました。人名・地名・仏教語などの読みにくい漢字には、現代仮名遣いのふりがなを付けています。
原文とあわせて読みたい方は、『発心集』第1巻(第1話~第12話)原文全文をご覧ください。
序
仏がお教えになった言葉がある。
「自分の心の主人にはなっても、自分の心を主人としてはならない」と。
まことにその通りである。
人が一生を過ごす間に、心に思うこと、身に行うことのうち、悪業でないものはない。たとえ姿を質素にし、衣を墨染めにして、世俗の汚れに染まらない人でさえ、野の鹿はつなぎとめにくく、家の犬はいつもなついている。まして、因果の道理を知らず、名誉や利益を求める迷いに沈んでいる者は、なおさらである。むなしく五欲のきずなに引かれ、ついには地獄の底へ入ろうとしている。心ある人なら、誰がこのことを恐れずにいられようか。
だから私は、何かにつけて、自分の心が頼りなく愚かなことを顧み、あの仏の教えの通りに、自分の心を思うままにさせず、このたびこそ生死の迷いを離れて、早く浄土に生まれたいと思う。それはたとえば、牧人が荒れた馬を従わせて、遠い土地までたどり着こうとするようなものである。ただ、人の心には強いものも弱いものもあり、浅いものも深いものもある。自分の心を振り返ってみれば、善に背ききるわけでもなく、悪を離れきるわけでもない。風の前の草がたやすくなびくようであり、また、波の上に映る月が静まりにくいのにも似ている。いったいどうすれば、このような愚かな心を導くことができるのだろうか。
仏は、衆生の心がさまざまであることをご覧になって、因縁や譬えを用いて、なだめ導くようにお教えになる。もし私たちが仏に直接お会いできたなら、いったいどのような教えによってお勧めくださるのだろう。私は他人の心を知る智慧も得ていないので、ただ自分の身の程で道理を知るだけであり、愚かな者を導くための方便にも欠けている。どれほど立派なことを説いたとしても、得られる利益は少ないことであろう。
そこで、自分の浅い心を顧みて、ことさらに深遠な仏法を求めることはせず、たまたま見たり聞いたりしたことを書き集め、ひそかに座右に置いておくことにした。すなわち、賢い人を見ては、たとえ及ぶことが難しくても、その境地を願い求める縁とし、愚かな人を見ては、自分自身を改めるきっかけにしようと思ったのである。
いま、これを書き記すにあたって、天竺や震旦について伝え聞いた話は、あまりに遠い国のことなので書かない。仏や菩薩の因縁については、私の力に及ばないので省いた。ただ、わが国の人々についての身近な話を第一にして、聞き伝えた言葉だけを書き記す。
したがって、きっと誤りは多く、真実は少ないことであろう。また、もう一度尋ねようにもその手立てがない話については、土地の名や人の名を記さない。言ってみれば、雲をつかみ、風を結ぶようなものである。いったい誰がこれを信用するだろうか。そうではあるが、もともと人に信じてもらおうというのでもないので、必ずしも確かな証拠を尋ね求めることはしない。道端で聞いたあてにならない話の中からでも、自分に一念の発心が起こることを願うだけのものなのである。
第1話 玄敏僧都という人
昔、玄敏僧都という人がいた。山階寺のたいへん尊い智者であったが、世を厭う心が深く、寺の人々との付き合いをまったく好まなかった。三輪川のほとりに、ほんの小さな草庵を結び、そこで思いをめぐらしながら暮らしていた。
桓武天皇の御代、帝がこのことをお聞きになり、無理に召し出されたので、逃れるすべもなく、しかたなく参上した。しかし、それでもやはり本意ではないと思っていたのであろうか。奈良の帝の御代に大僧都に任じられたのを辞退申し上げる際、次の歌を詠んだ。
三輪川の清らかな流れで洗い清めた衣の袖を、もう二度と汚すまい。
こう詠んで、帝に差し上げた。
そうこうするうちに、玄敏僧都は、弟子にも身の回りに仕える者にも知られないまま、どこへともなく姿を消してしまった。心当たりのある所を尋ね求めたが、まったく見つからない。どうしようもないまま日が過ぎたが、僧都の身近にいた人々だけでなく、世間の人々すべてが嘆き悲しんだ。
それから何年もたって、僧都の弟子であった人が、用事があって越の国の方へ向かった。その途中、ある所に大きな川があった。渡し舟を待って乗り込んだところ、その渡し守は、頭の髪がおつつかみという程度に伸びた法師で、汚れた麻の衣を着ていた。「妙な姿だな」と見ているうちに、それでもどこか見覚えがあるように思われた。「誰に似ているのだろう」と考えているうちに、姿を消して何年にもなる自分の師、玄敏僧都に違いないと思い至った。「見間違いだろうか」と見直しても、少しも違うところがない。たいそう悲しく、こぼれる涙を押さえながら、何も気づいていないように振る舞った。僧都の方も弟子だと気づいている様子でありながら、わざと目を合わせなかった。弟子は走り寄って、「どうして、このような所にいらっしゃるのですか」とでも言いたかったが、人がたいそう多かったので、かえって怪しまれてしまうだろうと思った。そこで、都へ戻る途中に、夜など僧都がいる所を尋ねて行き、ゆっくりお話ししようと思って、そのまま通り過ぎた。
そして帰り道にその渡し場へ来てみると、先とは別の渡し守がいた。弟子は目の前が暗くなり、胸がふさがる思いで、詳しく尋ねてみた。
「そういう法師がおりました。長年、この渡し守をしておりましたが、そのような身分の低い者らしくもなく、いつも心を澄ませて念仏ばかり唱え、一人一人から船賃を取るようなこともせず、その日に食べる物などのほかには、物を欲しがる心もありませんでしたので、この里の者たちもたいそう気の毒に思い、大切にしておりました。ところが、どういうことがあったのでしょうか、このあいだ、かき消すように姿を消してしまい、行方もわかりません」
そう聞いて、弟子は悔しく、どうにもならない思いがした。その法師がいなくなった月日を数えてみると、ちょうど自分が僧都と出会った時であった。自分の暮らしぶりを知られてしまったと思って、また立ち去ったのであろう。
「この話は物語にも書いてあります」と、人がかすかに語っていたことだけを書き記したのである。
また、古今和歌集の歌に、
山の田を守っている僧都の身こそ哀れである。秋が終わってしまえば、訪ねてくる人もいない。
というものがある。これも、あの玄敏の歌だと申す。雲や風のようにあてもなくさすらっていたので、田などを守る時もあったのであろう。
近ごろ、三井寺に道顕僧都と申し上げる人がいた。この物語を読んで、涙を流しながら、
「渡し守こそ、本当に罪を作らずにこの世を渡っていく道なのだ」
と言って、湖の方に舟を一艘用意されたという。
その計画は思い描いただけで終わり、舟はむなしく石山の河岸で朽ちてしまったけれども、そのように生きたいと願う志は、やはり尊いものであった。
第2話 伊賀国郡司に仕える法師
伊賀国のある郡司のもとへ、見るからに身なりの粗末な法師が、「人をお使いになりますか」と言って、ふらりと入ってきた。主人はこれを見て、
「おまえのような僧を置いて、何をさせるというのだ。まったく使い道がない」
と言った。すると法師は、
「私ほどの者なら、僧だからといって普通の男と変わりません。どのような仕事でも、この身にできる程度のことならいたしましょう」と言うので、主人も「それならよい」と言って、家に置くことにした。法師は喜んで、たいそう真心をこめて働いたので、主人は特に大切にしている馬を預けて飼わせた。
こうして三年ほどたったころ、この主人は、国守の耳に少し具合の悪いことが入ったため、国の内から追放されることになった。父や祖父の代からこの土地に住みついてきた者なので、所領も多く、召し使う者も大勢いた。他国へ流れ出て行かなければならないのは、何につけてもたいへんな嘆きであったが、逃れるすべもなく、泣く泣く出発しようとしていた。そのとき、この法師がある者に会って、
「このお屋敷には、いったいどのようなご不幸が起こったのですか」
と尋ねると、
「私どものような者が聞いたところで、どうなるものでもありません」
と、ひどくそっけなく答えたので、法師は、
「どうして身分が低いからといっていけないことがありましょう。この殿を頼りにして、私ももう何年にもなります。隠し立てなさることではありません」
と言って熱心に尋ねたので、その者は事の起こりをありのままに話した。
法師は言った。
「私が申し上げることなど、お取り上げになるほどのものではありませんが、何も今すぐ急いでここを去ることはないでしょう。物事には思いがけないこともあるものです。まず都へ上って、何度でも事情を申し入れてみて、それでもどうにもならなければ、その時にこそ、どちらへでもお移りになればよいでしょう。私は、国司のおそばにいる人を、ほんの少し知っております。その人を訪ねて、お話ししてみたいものです」
と法師は言った。
思いもよらないことを言うので、人々は「たいしたことを言うものだ」と不思議に思い、主人にそのことを伝えた。主人は法師を近くへ呼び寄せ、自分で詳しく話を聞いた。法師を全面的に頼りにしたわけではなかったが、ほかに考えつく手立てもなかったので、この法師を連れて都へ上った。
そのころ、この伊賀国は、ある大納言が賜って治めていた。都に着くと、その大納言のお邸の近くまで行き、法師が言った。
「人を訪ねようと思うのですが、私はこのような怪しい身なりをしております。僧衣と袈裟を借りていただけないでしょうか」
そこで、すぐに借りて着せた。法師は主人の男を連れて行き、その男を門の所に待たせ、自分だけ中へ入って、
「申し上げたいことがございます」
と言った。すると、そこに大勢集まっていた者たちがこの法師を見るや、次々に座を下り、ひざまずいて敬った。伊賀の男は門の所からその様子を見て、驚かずにいられようか。あまりのことに、呆然として法師を見つめていた。
法師が来たと聞くと、大納言も急いで出てきて会い、そのもてなしぶり、騒ぎようは並大抵ではなかった。
「それにしても、いったいどうなさったのだろうかと、思いあぐねながら年月を過ごしておりましたが、ご無事でいらしたとは」
などと、繰り返し嘆き訴えるようにおっしゃった。法師はそれには多くを答えず、
「そのようなことは、またゆっくり申し上げましょう。今日は、特にお願いしたいことがあって参りました。伊賀国で長年頼りにして暮らしておりました者が、思いがけずお咎めを受け、国の内から追放されることになって嘆いております。気の毒に思いますので、もしそれほど重い罪でないのなら、この法師に免じてお許しいただけないでしょうか」
と申し上げた。
「あれこれ申し上げるまでもありません。そのようにあなたが頼りにしておられた者なら、こちらも特別に事情を汲むべき男なのでしょう」
と言って、大納言は、以前よりもかえってよい扱いを受けられるような内容の庁宣をお与えになったので、法師は喜んで受け取った。
伊賀の男が呆れ惑ったのも無理はない。いろいろと思うことはあったが、あまりにも意外な出来事なので、かえって何も口に出せなかった。宿へ帰ってから、ゆっくり事情を尋ねようと思っているうちに、法師は僧衣と袈裟の上に、先ほどの庁宣を置き、ちょっと外へ出るような様子で立ち上がると、そのままどこへともなく姿を消してしまったという。
これも、あの玄敏僧都のなさったことであろう。まことに得がたい心の持ち主であったに違いない。
第3話 平等供奉という人
少し昔、比叡山に平等供奉という、たいへん尊い人がいた。天台・真言の祖師である。
ある時、便所にいたところ、突然、露のようにはかない無常の世を悟る心が起こって、「どうして私は、このようにはかない世で、名誉や利益にばかり縛られ、厭うべきこの身を惜しみながら、むなしく日々を明かし暮らしているのだろう」と思った。これまでの生き方も悔しく、長年住んだ所さえ疎ましく感じられたので、もうそこへ戻ろうという気持ちにはなれなかった。白衣のまま、足駄を履いていたその姿で、僧衣さえ着ずにどこへともなく出て行き、西坂を下って、都の方へ向かった。
どこへ行き着こうという考えもなかったので、足の向くまま淀の方へさまよい歩き、下り舟があったので乗ろうとした。その顔つきなども普通ではなく、怪しい者だとして船の者はなかなか乗せようとしなかったが、強く頼んだので、とうとう乗せた。
「それにしても、どのような事情があって、どこへ向かわれる方なのですか」
と尋ねると、
「何かこれと決めていることは、まったくありません。目指して行き着こうという所もありません。ただ、あなた方がどちらへ行かれるのであっても、その方へ私も参ろうと思います」
と言うので、
「まったくわけのわからない話だ」
と皆で首をかしげた。それでも無情に追い払うほどではなかったので、この舟の行くままに、自然と伊予国までたどり着いた。
それからは、その国の中をあてもなくさまよい歩き、乞食をして日を送っていたので、国の者たちは「門乞食」とあだ名をつけた。一方、比叡山の坊では、
「ちょっと外へ出られたきり、ずいぶん長く戻られないのは不思議だ」
と言っていたが、まさかこのようなことになっているとは、どうして思いつこう。
「きっと何か理由があるのだろう」
などと言っているうちに日も暮れ、夜も明けた。人々は驚いて尋ね求めたが、まったく見つからない。どうしようもなく、完全に亡くなった人として扱い、泣く泣く死後の供養を営んだ。
そのころ、伊予国の国守であった人は、供奉の弟子で浄真阿闍梨という人と長年親しくし、祈祷などをさせていたので、
「任国へ下るので、遠い旅の間もそなたがいれば心強いだろう」
と言って、一緒に伊予国へ連れて下った。
門乞食となった供奉は、そのことを知らないまま国守の館の中へ入ってきた。物を乞っていると、子どもたちが数えきれないほど後ろについて、笑い騒いだ。そこに大勢集まっていた国の者たちも、
「何とも異様な者だ。出て行け」
と、ひどく責め立てた。それを浄真阿闍梨が気の毒に思い、何か食べ物でも与えようとして、近くへ呼び寄せた。乞食が恐る恐る縁側のそばまで来たので見ると、人間とは思えないほど痩せ衰え、ぼろぼろになった継ぎはぎの衣をわずかに着ているだけで、まことに異様な姿であった。それでもどこかで見たように思われるので、よくよく思い出してみると、自分の師であった。あまりの懐かしさと悲しさに、阿闍梨は簾の内から転がるように飛び出し、師を縁の上へ引き上げた。国守をはじめ、そこにいたすべての人が驚き怪しみ、泣きながらさまざまに話しかけたが、供奉はほとんど言葉を返さず、強いて暇を願い出て、その場を去ってしまった。
阿闍梨は何とも言いようのない思いで、麻の衣のような物を用意し、師がいる所を尋ねたが、どうしても見つけることができなかった。ついには国の者たちに命じて、山林の隅々まで残らず踏み分けて探させたが、やはり会うことはできないまま、そのまま行方をくらまし、とうとうその後どうなったのかもわからなくなった。
それからずいぶん時がたった後、
「人も通わない深山の奥の、清水が湧いている所に、死人がいる」
と山人が話した。阿闍梨はもしやと思ってそこを尋ねてみると、この法師が西に向かい、合掌したまま座って亡くなっていた。たいそう哀れで尊く思われ、阿闍梨は泣きながら、葬送などさまざまなことをした。
今も昔も、まことに発心した人は、このように故郷を離れ、見ず知らずの土地で、きっぱりと名誉や利益を捨てて世を去るのである。
「菩薩が無生忍を得たとしても、以前から自分を知っている人の前では、神通力を現すことは難しい」
と言われている。まして、いま発したばかりの志はどれほど尊くても、まだ不退の位には至っていないので、何かにつけて乱れやすい。故郷に住み、知人たちに交じって暮らしていて、どうして一度も迷いの心を起こさずにいられようか。
第4話 千観内供という人
千観内供という人は、智証大師の流れをくむ、並ぶ者のない智者であった。もともと仏道を求める心は深かったが、どのように身を処し、どのように修行すればよいのか決めかねたまま、自然と月日を送っていた。ある時、公の法会の勤めを終えて帰る途中、四条河原で空也上人に出会ったので、車から降りて対面し、
「それにしても、私はどうすれば後の世に救われることができるのでしょうか」
と申し上げた。空也上人はこれを聞いて、
「何と、あべこべなことをおっしゃるのです。そのようなことは、あなたのような方にこそ私が尋ね申し上げるべきでしょう。このような取るに足りない身は、ただどうしようもなく迷い歩いているだけです。何一つ悟り得たことなどありません」
と言って立ち去ろうとしたので、内供はその袖をつかみ、なおも熱心に尋ねた。すると上人は、
「何にせよ、身を捨てることです」
とだけ言い、袖を振り放して、足早に立ち去ってしまった。
その時、内供は河原で装束を脱いで着替え、それを車の中へ入れて、
「供の者たちは、早く坊へ帰りなさい。私はここから別の所へ行く」
と言って、皆を帰してしまい、ただ一人で蓑尾という所に籠もった。
しかし、そこもなお心にかなわなかったのであろうか。住む所を思い悩んでいるうちに、東の方に金色の雲が立っているのが見えたので、その場所を尋ね、そこに粗末ながら庵を結んで、身を隠した。それが、今の金龍寺である。そこで長年修行し、ついに往生を遂げたことが、伝記に詳しく記されている。
この内供は、ある人の夢に千手観音の化身として現れたという。「千観」という名は、その菩薩の御名を略したものなのである。
第5話 多武峰の僧賀上人
僧賀上人は、経平宰相の子で、慈恵僧正の弟子である。この人は、まだ若いころから高徳の僧たちにも勝るほど優れていたので、「将来はきっと並々ならぬ人になるだろう」と、世間の人々がこぞってほめていた。しかし心の内では深く世を厭い、名誉や利益に縛られることなく、極楽に生まれることだけを人知れず願っていた。ただ、思うほどには道心が起こらないことを嘆き、根本中堂へ千夜参詣し、毎夜千回の礼拝をして、道心が起こるよう祈り申し上げた。初めのころは、礼拝のたびに少しも声を立てることはなかったが、六百夜、七百夜ほどになると、
「付いてください、付いてください」
と小声で言いながら礼拝するようになった。それを聞いた人々は、「この僧は何を祈って、天狗よ、付いてくださいなどと言っているのだろう」と、半ば怪しみ、半ば笑っていた。千夜も終わりに近づいたころ、
「道心よ、付いてください」
とはっきり聞こえたので、人々は「ああ、なんと切実なことだ」と言った。
こうして千夜の参詣を終えた後、しかるべき因縁があったのであろう、世を厭う心はいよいよ深くなった。「どうにかして、この身を世間から捨て去りたい」と、その機会を待っていたところ、ある時、内論義という行事があった。決まりに従って論義が終わると、饗応の食べ物を庭へ投げ捨て、大勢の乞食が四方から集まって奪い合って食べる習わしであった。ところがこの宰相禅師は、突然、大衆の中から走り出し、その食べ物を拾って食べた。見ていた人々が、「この禅師は気が狂ったのか」と大騒ぎするのを聞くと、
「私は気など狂っていない。そう言っている大衆の方々こそ、気が狂っているように見える」
と言って、少しも動じなかった。人々が「あきれたことだ」と言い合っているうちに、この出来事をきっかけとして世間から退き、籠居してしまった。
後には大和国の多武峰という所に住み、思う存分勤め修行をして年月を送った。その後、尊い僧であるとの評判が立ち、時の后の宮から戒師として召されたので、しかたなく参上したが、南殿の高欄のそばへ寄り、さまざまに見苦しいことを言い散らして、そのまま何もせず退出してしまった。
また、仏の供養をしようという人のもとへ向かう途中、どのような説法をすべきかなどと道すがら考えているうちに、「こんなことを考えるのは名誉や利益を求めているからだ。魔が入り込む隙を得てしまった」と思い、到着するやいなや、取るに足りないことを咎め立てて施主と争い、供養も行わずに帰ってしまった。このような振る舞いは、人に嫌われることで、二度とこのような役目を頼まれないようにするためであったのだろう。
また、師の慈恵僧正が昇進の喜びを申し上げるため参内された時、僧賀上人も行列の先駆の一人として加わった。そのとき、乾鮭を太刀の代わりに腰に差し、骨と皮ばかりに痩せた見苦しい雌牛に乗って、
「車のそばのお供をいたしましょう」
と言いながら、おもしろおかしく行列のまわりを動き回ったので、見物の人で怪しみ驚かない者はいなかった。そして、
「名声というものは何と苦しいものだろう。乞食の身こそ気楽である」と歌って、行列から離れてしまった。僧正もただの人ではなかったので、僧賀上人が「私こそ車のそばのお供をいたしましょう」と言う声が、僧正の耳には、「悲しいことだ。わが師は悪道へ入ろうとしている」と聞こえた。そこで車の中から、
「これも衆生を救うためなのだ」
とお答えになったという。
この聖人が命を終えようとした時、まず碁盤を取り寄せて一人で碁を打ち、次に障泥を求め、それをかぶって胡蝶という舞の真似をした。弟子たちが不思議に思って尋ねると、
「幼いころ、この二つを人に止められて、やりたいと思いながらそのままやめてしまったのだが、それが心にかかっているので、もし生死を離れられない執着となるようなことがあってはならないと思ってな」
と言ったという。やがて浄土から迎えに来る聖衆の姿を見て、喜んで歌を詠んだ。
八十歳を越えるまで老いの波を重ねてきて、ついに海月の骨に出会うような、あり得ないほどありがたいものに出会えたことだ。
こう詠んで、亡くなった。
この人の振る舞いは、今の世なら物狂いとも言ってしまいそうであるが、ただ世間とのかかわりを離れたい一心からのことであったので、これについても、得がたい例として語り伝えられている。人と交わって暮らせば、身分の高い人には従い、低い人を憐れむことになる。そのたびに自分の身は他人のためのものとなり、心は人への情愛に使われる。これは、この世での苦しみであるだけではない。迷いの世界を離れるための大きな妨げなのである。世間とのかかわりそのものを離れるほかに、どうして乱れやすい心を鎮めることができようか。
第6話 高野山の南筑紫上人
少し昔、高野山に南筑紫と呼ばれる尊い聖人がいた。もとは筑紫の者で、所領などを数多く持っていた。筑紫では、家の前にある田を多く所有することをたいそう立派なことと考える習わしがあり、この男は家の前に五十町ほどの田を持っていた。
八月ごろであっただろうか。朝、外へ出て見ると、稲の穂が一面にゆらゆらと出そろい、露が美しく置きわたり、はるか遠くまで見渡された。男は、「この国には名の知られた人も多い。しかし、家の前に五十町もの田を持つ人は、そうそういるまい。身分の低い私には不相応なほどの身の上だ」と、しみじみ思っていた。その時、しかるべき宿善が促したのであろうか、ふとまたこう思った。「そもそも、これは何なのだ。この世では、昨日まで生きていた人が今日はもういない。朝に栄えていた家も、夕方には衰えてしまう。一度目を閉じて死んだ後には、惜しんで蓄えた物に何の役が立つだろう。むなしい執着に縛られ、いつまでも三途の苦しみに沈むことこそ、何とも悲しいことだ」。するとたちまち、無常を悟る心が強く起こった。さらに、「いったん家へ帰ってしまえば、妻子もおり、眷属も多い。きっと引き止められてしまうだろう。このままここを離れ、誰も知らない土地へ行って、仏道修行をしよう」と思い、ちょっと外へ出ただけの姿のまま、都を目指して歩き出した。
その時、やはりただならぬ様子が表れていたのだろうか。通りかかった人が不審に思い、家へ知らせたので、家中が驚き騒いだのも当然である。その中に、男が特にかわいがっていた十二、三歳ほどの娘がいた。娘は泣きながら追いついて、
「私を捨てて、どこへいらっしゃるのですか」
と言って袖をつかんだ。男は、
「いや、おまえに妨げられるわけにはいかない」
と言い、刀を抜いて、娘の髪を押さえて切ってしまった。娘は恐れおののき、袖から手を放して家へ帰った。
こうして、そのまま高野山へ上り、頭を剃り、望んだ通り修行に励んだ。あの娘は恐れてその場では帰ったが、それでも後を尋ね、尼となって高野山の麓に住み、死ぬまで洗濯や裁縫をして父を養った。
この聖人は、後には徳の高い人として知られるようになり、身分の高い者も低い者も、帰依しない人はいなかった。堂を建て、供養を行おうとした時、導師を誰にするか思い悩んでいると、夢の中で、
「この堂は、その日、その時に、浄名居士がおいでになって供養してくださる」
と人が告げたので、すぐに枕元の障子へそのことを書きつけた。たいそう不思議ではあったが、「きっと何か理由があるのだろう」と思い、そのまま日を送った。
いよいよその当日になり、堂を飾り整え、今か今かと待っていると、朝から雨まで降り、外から訪ねてくる人もまったくなかった。だんだん予定の時刻になったころ、ひどくみすぼらしい法師が蓑と笠を着て現れ、堂を拝んで歩いていた。聖人はすぐにこの法師をつかまえて、
「お待ちしておりました。早くこの堂の供養をしてください」
と言った。法師は驚いて、
「私はまったく、そのようなことのできる者ではありません」
と言った。
「このような取るに足りない者が、自分の用事でたまたま参っただけです」
と言って強く辞退したが、聖人は、以前に見た夢のお告げのことなどを話し、書きつけておいた月日が確かに今日と一致していることまで見せたので、法師も逃れることができず、
「それでは、形ばかりでも申し上げましょう」
と言って、蓑と笠を脱ぎ捨て、たちまち礼盤に上がり、並々ならず見事な説法をした。
この導師は、天台の明賢阿闍梨であった。高野山を拝もうとして、人に知られぬよう姿をやつして参詣していたのである。このことから、高野ではこの阿闍梨を浄名居士の化身だと言うようになったのであろう。
さて、この聖人は特に尊い人として評判になり、白河院も帰依なさった。高野山は、この聖人の時代からとりわけ繁栄するようになった。聖人がついには臨終正念のうちに往生を遂げたことが、伝記に詳しく記されている。普通なら惜しまずにはいられない財産を目にしたことから、かえって世を厭う心を起こしたというのは、まことに得がたい心である。
ある賢い人が言っている。
「この世と後の世との二世にわたって苦しみを受けるもとは、財産をむさぼる心にある。他人も財にふけり、自分もまた深く執着するために、互いに争い、ねたみ、貪欲はいよいよ増し、怒りもますます盛んになる。ついには人の命を奪い、他人の財産をかすめ取る。家が滅び、国が傾くことまで、すべてここから起こる。このため、『欲が深ければ災いも重い』とも説かれ、また、『欲を因縁として三悪道に堕ちる』とも説かれている。だから、『弥勒の世には、財物を見たなら深く恐れ、厭わなければならない。これは釈迦の遺された教えを受けた弟子たちが、この財物のために戒を破り、罪を作って地獄へ堕ちた、その原因となったものなのだ』として、『毒蛇を捨てるように、道端へ捨てよ』と言われている」
第7話 教壊上人と尊勝阿闍梨陽範
小田原という寺に、教壊上人という人がいた。後には高野山に住んだ人である。新しい水瓶で、形なども自分の好みにかなったものを手に入れ、ひどく執着していたが、ある時それを縁側に置いたまま、奥の院へ参詣した。そこで念誦などをし、一心に信仰を凝らしている時、ふとその水瓶を思い出し、
「あんなふうに置きっぱなしにしてきた。誰かが取ってしまわないだろうか」
と気になり、心を一つに集中できなくなった。つまらないことだと思い、帰るやいなや水瓶を雨垂れの落ちる石畳の上に置き、打ち砕いて捨ててしまった。(私にいう。水瓶は金瓶ともいう。)
また、横川に尊勝阿闍梨陽範という人がいた。見事な紅梅を植え、この上ないものとして大切にし、花盛りになるとひたすらその美しさを楽しんだ。人が枝を折ることさえひどく惜しみ、責め立てるほどであった。ところが、どう思ったのであろうか。弟子たちが外へ出て人のいない時、物の道理もわからないような小法師が一人いたので呼びつけて、
「斧はあるか。持って来なさい」
と言い、その梅の木を地面すれすれから切り倒し、その上に砂をまいて、跡形もないようにして座っていた。弟子たちが帰ってきて、驚き怪しんで理由を尋ねると、ただ、
「つまらないものだからだ」
とだけ答えた。
これらは皆、執着を残すことを恐れたのである。教壊も陽範も、ともに往生を遂げた人であろう。まことに仮の住まいであるこの世に心を奪われ、長い迷いの闇にさまようことを、誰が愚かだと思わずにいられよう。しかし、生まれ変わりを繰り返す間、煩悩のしもべとなってきた習いの悲しさに、そうと知りながら、私も人もなかなか思い切って捨てることができないのである。
第8話 佐国と幸仙
ある人が、円宗寺の八講という法会に参詣した。始まる時刻を待つ時間がかなり長かったので、その近くの家を借りて、しばらく立ち寄った。そこでその家を見ると、それほど広くもない庭いっぱいに庭木が植えられ、その上には簡単な屋根が設けられ、少し水をかけてあった。さまざまな色の花が数えきれないほど咲き、まるで錦を一面に覆いかけたように見えた。とりわけ、いろいろな蝶が数えきれないほど飛び交っていた。
たいそう珍しい様子に思われたので、その人はわざわざ家の主人を呼び出して、理由を尋ねた。主人は言った。
「これは、何となくしていることではありません。ある思いがあって植えております。私は佐国と申しまして、世間にも知られた博士の子でございます。その父が生きておりました時、たいそう花を愛し、季節ごとに花を楽しんでおりました。また、その思いを詩にも作りました。
六十余りの国々で花を見ても、まだ見飽きることがない。来世でもきっと、花を愛する人であるだろう。
などと作り残しておりましたので、その花への愛着が、生死を離れられない執着になったのではないかと、気にかかっておりました。そんな折、ある人が夢の中で、父が蝶になっているのを見たと話しましたので、たいそう罪深いことに思われました。それならば、父はひょっとすると、これらの蝶の中に迷っているのではないかと思い、できる限り花を植えているのです。それでも、ただ花だけではなお足りないだろうと思いますので、甘葛や蜜などを毎朝そそいでおります」
と語った。
また、六波羅寺の住僧で幸仙という者は、長年仏道を求める心の深い人であったが、橘の木を愛し、そのわずかな執着のために蛇となり、その木の下に住んでいた。詳しいことは伝記にある。
このように、そのありさまが人に知られる例はまれである。けれども、ひとつひとつの妄執によって、一つ一つ悪い身を受けることは、まったく疑いない。まことに、どれほど恐れても恐れ足りないことである。
第9話 神楽岡清水谷の仏種房
神楽岡の清水谷という所に、仏種房と呼ばれる尊い聖人がいた。私は直接会ったことはなかったが、それほど遠くない時代の人だったので、ついには往生人として人々が尊んでいたことを伝え聞いている。
この聖人が、以前、水飲という所に住んでいたころ、薪を拾いに谷へ下りている間に、盗人が入った。盗人は、わずかばかりの持ち物を全部盗み取り、遠くまで逃げたつもりで振り返ると、まだ元の場所にいた。たいそう不思議に思い、それでもなお先へ進んでいるつもりでいたが、二時ほどの間、水飲の湯屋のまわりを回り続けるばかりで、まったくそこから離れることができなかった。
そこへ聖人が来て、不審に思って尋ねた。盗人は答えた。
「私は盗人です。遠くへ逃げ去ったと思うのですが、どうしてもここから離れることができません。これはただごとではありません。こうなっては、盗んだ物をお返しいたします。どうかお許しください。もう帰らせてください」
聖人は言った。
「どうして、罪を重ねてまで盗んだ物を、私が取り返そうとするものか。欲しいと思ったからこそ取ったのだろう。決して返す必要はない。それがなくても、私は困らない」
そう言って、盗人にそのまま持たせて帰した。この聖人は、何事につけても慈悲の深い人であった。
年月がたって、清水谷に住んでいた時、この聖人を頼りにしている檀越がいた。深く帰依し、折々に贈り物をし、何かにつけて真心を尽くしていた。ある時、聖人がわざわざその家へ来て言った。
「思いがけないことだとお思いになるでしょうが、私は長年あなたを頼りにしております。このところ、夢のように粗末な庵室を造ろうとして大工を使っておりましたが、その大工が魚をおいしそうに食べているのがうらやましくなり、魚が食べたくなりました。このお屋敷にはたくさんあるだろうと思って、わざわざ参ったのです」
主人の女は、愚かな女心から、まったく思いがけないことだとあきれたが、それでも体裁よく魚を用意して出した。聖人は十分に食べ、残った物は土器を蓋にして覆い、紙に包んで、
「これは、庵へ帰って食べよう」
と言い、懐に入れて帰っていった。
その後、この女は釈然としない気持ちを抱きながらも、やはり聖人のことが気がかりで、
「先日、お持ち帰りになった物が、夢のようにわずかなものに思われましたので、重ねて差し上げます」
と言って、さまざまに料理を整えて贈った。しかし、その時には聖人は受け取らなかった。
「お心遣いはありがたく存じます。しかし、先日の残りを食べて十分に飽き、今はもう欲しくありませんので、これはお返しいたします」
と言ったという。これも、この世に執着を残すまいと思ったためであろうか。
この仏種房は、ある時、風邪のような病にかかって患った。形ばかりの粗末な家は荒れ、壊れていたが、直すこともしない。看病する人もいないので、一人で病み伏していた。その日は八月十五夜で、月がたいそう明るい夜であった。宵から声を上げて念仏を唱えていたので、近くの家々では、たいそう尊く聞いていた。人々が集まって見に行くと、板の合わせ目さえきちんとしていない荒れた家に、月の光が思うまま差し込んでいるばかりで、ほかに明かりはなかった。夜中を少し過ぎたころ、
「ああ、うれしい。これこそ、長年願っていたことだ」
と言う声が、壁の外まで聞こえた。その後は、念仏の声もしなくなった。
夜が明けて見てみると、西に向かって端座し、合掌したまま、眠っているように亡くなっていた。この家は少しも人里から離れておらず、身分の低い者たちの粗末な家と軒を連ねていたのである。
第10話 天王寺の聖と乞食聖
近ごろ、天王寺に一人の聖がいた。言葉の終わりごとに「瑠璃」という二文字を付けて話したので、そのままその言葉を名にして、瑠璃と呼ばれていた。その姿は、継ぎはぎの布や紙衣など、言いようもないほどひどく破れ、はためいているものを何枚も何枚も着込んで着ぶくれし、汚れた布袋に乞い集めた食べ物を何もかも一緒に入れ、歩きながらそれを食べていた。大勢の子どもたちが笑って馬鹿にしても、まったく咎めることも腹を立てることもない。あまりひどくからかわれる時には、袋から何かを取り出して子どもにやるのだが、子どもは汚がって受け取らない。捨ててしまうと、聖はまた拾って袋へ戻した。いつもさまざまな意味のないことを口にして、ひたすら物狂いのように振る舞っていた。決まって住みついていると見える所もなく、垣根のそばや木の下、築地に沿った所などで夜を明かした。
そのころ、大塚という所に、たいへん尊い智者がいた。ある時、瑠璃が、
「雨が降って、ほかに立ち寄る所もありませんので、この縁側の端に置いてください」
と言った。いつもの瑠璃らしくないことで、不思議に思いながらも、そこにいさせることにした。
夜が更けると、聖が言った。
「このように、たまたまこちらへ立ち寄ることができました。長年、よくわからず気にかかっていたことどもを、どうか解き明かしていただきたいのです」
智者は、まったく思いがけないことに感じながらも、普通の人に対するように応対した。すると瑠璃は、しだいに天台宗の法門について、言葉では言い表せないほど深い道理を次々に尋ね始めた。主人の智者は、あまりのことに驚き、珍しく思い、一晩中眠らず、さまざまに問い答えを続けた。夜が明けると、瑠璃は、
「もうお暇申し上げましょう」
と言い、さらに、
「心に疑わしく思っていたことどもを、幸いにも今夜こちらに置いていただいたおかげで、すっかり解くことができました」
と言って、立ち去った。
智者はこのことを、たいそう珍しく尊いことだと思ったまま、そのあたりの人々に話した。それまで瑠璃をそしり、卑しんでいた人々も考えを改め、中には仏菩薩の化身ではないかと疑って尊ぶ者もいた。しかし、瑠璃の振る舞いは以前と少しも変わらず、「そんなことがあったそうだが」と人に尋ねられると、笑って、でたらめな話にしてしまった。
このように自分のことが人に知られてしまったのを煩わしく思ったのであろうか、ついには行方も知らせず姿を消してしまった。何年かたって人が語ったところでは、和泉国で乞食をして歩いていたが、最後には、人も寄りつかない場所にある大木の下で、低い枝に仏像をお掛け申し上げ、自分は西に向かって合掌し、座ったまま目を閉じて亡くなっていたという。その時にはこの聖を知る人もおらず、後になって見つけられたのである。
また近ごろ、世間に仏みょうと呼ばれる乞食がいた。この者も、あの聖と同じように物狂いのような姿で、食べ物は魚や鳥の肉も嫌わず、着物は筵や薦まで何枚も重ね着して、人間らしい姿とも思えなかった。会う人ごとに必ず、
「尼人、法師、男人、女人等、清浄」
と言って拝むことをしたので、その言葉を取って名にしたのである。見る人は皆、つまらない、不吉な者だとばかり思っていたが、実は何かわけのある人物だったのだろうか。阿証房という聖と親しくしていて、思いもよらないような経典や論書を借り、人にも知らせず懐へ入れて持ち帰り、何日かたって返すことをいつもしていた。ついには切提の上で、西に向かい、合掌して端座したまま亡くなった。
これらは、すぐれた後世を願う者の一つのあり方である。「大いなる隠者は朝廷や市中にいる」と言われるのは、まさにこのことである。その意味は、賢い人が世を捨てる時には、自分の身は市の中にあっても、その徳をよく隠して人に知られないようにするということである。山林に入り、行方をくらますのは、人の中にいては自分の徳を隠しきれない人の振る舞いなのであろう。
第11話 高野の上人と夜伽
高野山のあたりに、長年修行を続けている聖がいた。もとは伊勢国の人で、いつの間にかこの地に住みついたのである。修行の徳があるだけでなく、人々の帰依も集めていて、それほど貧しいわけでもなく、弟子も大勢いた。
年をしだいに取ってから、特に頼りにしている弟子を呼び、こう言った。
「聞いてもらいたいと思っていることが、もう何日もあるのだが、おまえが心の中でどう思うか気になって、ためらっていたのだ。くれぐれも、くれぐれも、私の頼みを違えないでくれ」
と聖は言った。
「何事であっても、おっしゃることにどうして背きましょう。また、私に隠しておかれることでもありません。どうぞすぐにお聞かせください」
と言うと、
「このように人を頼りにして暮らしている身で、こんなことを考えるべきではないのだが、年を取ってゆくにつれ、身のまわりも寂しくなり、何かにつけて頼るものがないように思われるので、ふさわしい女を頼んで、夜の話し相手にしたいと思っているのだ。ただし、あまり若い女では具合が悪いだろう。物事の思いやりがわかるような人を、ひそかに探して、私の夜伽にさせてほしい。そして、世間向きのことはおまえに譲ろう。おまえは、これまでの私と同じようにこの坊の主人となり、人から頼まれる祈祷などを取り仕切って、私を奥の部屋に住まわせ、二人分の食べ物だけを、形ばかりでも届けてくれ。そのような暮らしになった後は、おまえの心の内を思っても恥ずかしいことだから、顔を合わせることもできまい。まして、ほかの人には、私がこの世に生きていることさえ決して知らせてはならない。死んでしまった者のように扱い、わずかに命をつなげるだけの世話をしてくれ。この頼みを違えずにいてくれることこそ、長年願ってきたことなのだ」
と、繰り返し頼み込んだ。
弟子は、まったく思いがけないことに驚きながらも、
「このように私を信頼して、何も隠さずお話しくださるのは、私の望むところでございます。急いで探しましょう」
と言い、近く遠く尋ね歩いた。そして、夫に先立たれた四十歳ほどの女がいることを聞き出し、よくよく話をつけて、都合のよいように整え、聖のもとへ住まわせた。それからは誰もそこへ通さず、弟子自身も行くことなく月日を過ごした。
どうしているか気になり、また話をしたくもあったが、あれほど固く約束したことであるから、気がかりなまま過ごしているうちに、六年がたった。その後、この女が泣きながら、
「今朝早く、もうお亡くなりになりました」
と言ってやって来た。弟子が驚いて行って見ると、聖は持仏堂の中で、仏の御手に五色の糸をかけ、その糸を手に取り、脇息にもたれかかっていた。念仏をしていた手の様子も少しも変わらず、数珠が手にかかった様子も、まるで生きている人が眠っているようで、少しもいつもと違っていなかった。壇の上には修行の道具がきちんと置かれ、鈴の中には紙が押し込まれていた。
弟子はたいそう悲しみ、これまでの暮らしの様子を細かく尋ねた。女はこう語った。
「長年このように暮らしてまいりましたが、普通の夫婦のようなことは一度もありませんでした。夜は畳を並べて休み、あの方も私も目を覚ましている時には、生死の世界がいかに厭わしいか、浄土をどのように願うべきかなどということだけを、こまごまと教えてくださいました。つまらない世間話はなさいませんでした。昼は阿弥陀の行法を一日三度、一度も欠かさず行い、その合間にはご自分でも念仏を唱え、私にも勧めてくださいました。初めの二月、三月ほどは、まだ私に気を許さず、
『このような普通ではない暮らしを、つらいと思うだろうか。もしそうなら、自分の心のままにするとよい。たとえこの先、私と縁遠くなるとしても、このように一度縁を結んだことにも、そうなるべき因縁があったのであろう。ただし、この暮らしのことは決して人に話してはならない。もしまた、互いを善知識と思い、後の世のための修行を静かに続けようと思うのなら、それこそ私の願うところだ』
とおっしゃいましたので、
『決して私のことをお気遣いにならないでください。長年連れ添った夫を亡くしましたので、どうしてその後世を弔わずにいられましょう。私自身も、もうこのつらい世に生まれ変わって来るまいと願い、世を厭う心は持っておりましたが、それでも一日一日をどう暮らしていけばよいのか、その手立てもない身でしたので、本意ではない形でこちらへ参りました。そのため、私を世間並みの女だとお思いになるのでしょうか。決してそうではありません。あなたをたいへん尊い善知識として、人知れず喜びながら暮らしてきたのです』
と申し上げましたところ、
『重ね重ね、うれしいことだ』
とおっしゃいました。今回お亡くなりになることも前からご存じで、『命が終わる時にも、人には知らせるな』と言われておりましたので、お亡くなりになったこともすぐには申し上げませんでした」
と語ったのである。
第12話 美作守顕能を訪れた僧
美作守顕能のもとに、上品な様子の僧が入ってきて、経をたいそう尊く読んでいた。主人がそれを聞いて、
「どのようなことをしておられる方ですか」
と尋ねた。僧は近くへ寄って言った。
「私は乞食の身でございます。ただし、家々を回って物を乞い歩くことはしておりません。西山にある寺に住んでおりますが、少しお願いしたいことがあって参りました」
その様子が、まったく見下してよいような者には見えなかったので、主人は詳しく事情を尋ねた。
「申し上げるのもたいそう異様なことでございますが、ある所の若い女房と親しくなり、身の回りの洗い物などをさせておりましたところ、思いがけず身ごもらせてしまい、今月が出産の月に当たっております。すべて私の過ちでございますから、出産のため籠もっている間だけでも、あの女が命をつなげる程度の物を与えたいと思っております。しかし、どうしても私の力では及びませんので、もしお情けをいただけることがあるだろうかと思い、参ったのでございます」
そのようなことが本当にあったのだろうとは思われなかったが、それほどまでに心配しているのだろうと気の毒に思い、主人は、
「それなら、たやすいことです」
と言って、必要な分を見積もり、人一人に持たせて僧に付き添わせようとした。すると僧は、
「何につけても、たいそう人目が気になります。特に、その女がどこにいるかは人に知られたくありません。自分で持って参ります」
と言って、荷を背負い、出て行った。
主人は、それでもなお不思議に思い、そのようなことに使っても惜しくない者を一人、こっそり後につけた。その者が姿を隠しながら追って行くと、僧は北山の奥へはるばる分け入り、人も通わない深い谷へ入った。そして、一間ほどしかない粗末な柴の庵の中へ入り、持ってきた物を並べて、
「ああ、苦しかった。三宝のお助けによって、安居の食べ物も用意できた」
と独り言を言い、足を洗って落ち着いた。後をつけてきた使いは、
「何とも珍しいことだ」
と聞いていた。日が暮れ、その夜のうちには帰れそうになかったので、木陰にそっと隠れていた。夜が更けると、僧が法華経を一晩中お読み申し上げる声がたいそう尊く、使いは涙を止めることができなかった。
夜が明けるやいなや急いで帰り、主人に今見てきたありさまを申し上げると、主人は驚きながら、
「やはりそうだったか。ただの者ではないと思っていた」
と言って、改めて使いを送り、言葉を伝えさせた。
「思いもよらず、安居のための食料だったとうかがいました。それならば、一日分ほどの物では少ないでしょう。これを差し上げます。まだ必要な物がありましたら、必ずおっしゃってください」
そう言わせたところ、僧は経を読み続けたまま、何の返事もしなかった。使いはしばらく待ったが、とうとう待ちきれず、持ってきた物を庵の前に並べて帰った。
何日かたってから、「それにしても、あの僧はどうしたのだろう」と思って訪ねてみたが、その庵にはもう誰もいなかった。最初にもらった物はほかへ持って行ったらしいが、後から贈った物はそのまま置いてあり、鳥や獣が食い散らしたように、あちこちへこぼれ散っていた。
まことに道心のある人は、このように自分の徳を隠そうとして、わざと自分の欠点を表し、人から尊ばれることを恐れるのである。たとえ世を捨てた人であっても、たいそう俗世に背を向けていると人から言われたい、尊い修行をしているという評判を聞きたいと思うなら、それは世俗の名声を求める心よりも、さらに甚だしい。
このため、ある経には、
「出家した者が名声を求めるのは、たとえば血を血で洗うようなものである」
と説かれている。もとの血なら、洗えば落ちることもあるかもしれない。それはわからない。しかし、新たにつけた血は、かえってひどく汚してしまう。愚かなことではないだろうか。

