『平家物語』第11巻(巻十一)の現代語訳を、4ページに分けて掲載しています。このページ(3)には、平家一門の帰京を描いた「内侍所都入」から「文之沙汰」までの章段を収めました。原文とあわせて読みたい方は、『平家物語』第11巻 原文(3)をご覧ください。
- (1)屋島の戦い:逆櫓/勝浦付大坂越/嗣信最期/那須与一/弓流/志度合戦
- (2)壇ノ浦の戦い:鶏合壇浦合戦/遠矢/先帝身投/能登殿最期
- (3)平家一門の帰京:内侍所都入/剣/一門大路渡/鏡/文之沙汰
- (4)平家一門の最期:副将被斬/腰越/大臣殿被斬/重衡被斬
- 内侍所都入:神鏡と神璽が都に戻り、捕らわれた一門も帰京する。
- 剣:海に沈んだ宝剣は見つからず、その由来が語られる。
- 一門大路渡:宗盛ら捕らわれの一門、都大路を引き回される。
- 鏡:都に戻った神鏡(内侍所)の由来が語られる。
- 文之沙汰:平時忠、娘を義経に嫁がせ、押収された手紙を取り戻す。
内侍所都入
新中納言(平知盛)は、
「見届けるべきことはすべて見届けた。今はもう自害しよう」
と言って、乳母子の伊賀平内左衛門家長を呼び寄せて、
「どうだ、日ごろの約束にたがうことはないな」とおっしゃると、
「申すまでもございません」と申し上げる。
家長は中納言に鎧を2領お着せ申し上げ、自分も鎧を2領着て、手を取り合って海へ入ってしまった。これを見て、侍たち20余人も、遅れ申し上げまいと、手に手を取り合って、同じ所に沈んだ。その中で、越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は、どうやって逃れたのだろうか、そこからもまた落ち延びていった。
海上には赤旗や赤い幟が投げ捨てられ、かなぐり捨てられていたので、まるで竜田川の紅葉の葉を嵐が吹き散らしたかのようである。波打ち際に寄せる白波も、薄紅色に染まってしまった。乗り手もいない空っぽの船は、潮に引かれ、風に流されて、どこを目指すともなく揺られていくのが悲しい。
生け捕りにされたのは、前内大臣宗盛公、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵頭信基、讃岐中将時実、兵部少輔雅明、大臣殿の8歳になられる若君。僧では二位僧都専親、法勝寺の執行能円、中納言律師仲快、経誦坊の阿闍梨融円。侍では源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、橘内左衛門季康、藤内左衛門信康、阿波民部重能父子で、以上38人である。菊池次郎高直と原田大夫種直は、合戦の前から家来たちを連れて降参してきた。女房たちでは、女院(建礼門院)、北の政所、廊御方、大納言佐殿、帥佐殿、治部卿局をはじめ、43人ということであった。
元暦2年の春の暮れは、なんという年月であろうか。天子は海の底に沈み、百官は波の上に浮かぶ。国母や女官たちは東国や西国の荒々しい武士たちの手に従い、大臣や公卿は数万の軍勢に捕らえられて、故郷の都へお帰りになったが、ある者は朱買臣が錦を着ずに故郷へ帰ることを嘆いたように、ある者は王昭君が胡国へ嫁いでいった恨みもこのようであったかと、悲しまれた。
同じ年の4月3日、九郎大夫判官義経は、源八広綱を使いとして、院の御所へ奏上なさった。去る3月24日、豊前の国田の浦、門司の関、長門の国壇の浦、赤間の関で平家を攻め落とし、三種の神器を無事にお返し申し上げる旨を申し上げたので、院の御所では身分の上下を問わず大騒ぎとなった。法皇は広綱を中庭にお召しになり、合戦のありさまを詳しくお尋ねになって、感心のあまり、広綱を左兵衛尉に任じられた。
「内侍所が確かにお帰りになるのか、見てまいれ」
と言って、5日、北面の武士として仕えていた藤判官信盛を西国へお遣わしになった。信盛は自分の宿所へも帰らず、すぐに院の御馬をいただいて鞭を振り上げ、西を目指して駆け下っていった。
同じ月の14日、九郎大夫判官義経は、平家の男女の生け捕りたちを連れて都へ上ってきたが、播磨の国明石の浦に着いた。名高い浦なので、夜が更けていくにつれて月が澄みのぼり、秋の空にも劣らない。女房たちは寄り集まって、
「先年ここを通ったときには、こんなことになろうとは思わなかった」
などと言って、声を忍ばせて泣き合われた。
帥佐殿はしみじみと月を眺めなさり、まことに思い残すこともないほど物思いに沈んでおられたので、涙で床も浮くほどになって、このようにお詠みになった。
ながむればぬるる袂にやどりけり月よ雲井の物語せよ
眺めていると、涙にぬれる袂に月が宿ったことよ。月よ、宮中で過ごした昔の話をしておくれ。
治部卿局は、
雲のうへに見しにかはらぬ月影のすみにつけても物ぞかなしき
宮中で見たのと変わらない月の光が、澄んでいるのにつけても、ここに住む身はもの悲しいことだ。
大納言佐局は、
わが身こそ明石の浦に旅寝せめ同じ浪にもやどる月かな
わが身こそ明石の浦に旅寝をしているが、わたしと同じように波の上にも月が宿っていることよ。
「さぞかしもの悲しく、昔が恋しくもおありだったのだろう」
と、判官は勇猛な武士ではあるが、情けのある男なので、身にしみてあわれに思われた。
同じ月の25日、内侍所と璽の御箱が鳥羽にお着きになると伝わったので、内裏からお迎えに参上なさった人々は、勘解由小路中納言経房卿、高倉宰相中将泰通、権右中弁兼忠、左衛門権佐親雅、榎並中将公時、但馬少将教能、武士では伊豆蔵人大夫頼兼、石河判官代能兼、左衛門尉有綱ということであった。その夜の子の刻(午前0時ごろ)に、内侍所と璽の御箱は太政官の庁にお入りになった。宝剣は失われてしまった。神璽は海の上に浮かんでいたのを、片岡太郎経春が拾い上げ申し上げたということであった。
剣
わが国には、神代から伝わる霊剣が3振りある。十握剣、天の早切剣、草薙剣がこれである。十握剣は大和の国磯上の布留社に納められている。天の早切剣は尾張の国熱田の宮にあるとかいう。草薙剣は内裏にある。今の宝剣がこれである。
この剣の由来を申せば、昔、素盞烏尊が出雲の国曽我の里に宮をお造りになったとき、その所に八色の雲がいつも立っていたので、尊はこれをご覧になって、このようにお詠みになった。
八雲たつ出雲やへがきつまごめにやへ垣つくるそのやへ垣を
幾重にも雲の立つ出雲の、幾重にもめぐらした垣よ。妻をこもらせるために幾重にも垣を作る、その幾重もの垣よ。
これを和歌の始めとする。この国を出雲と名づけたのも、このためだと承っている。
昔、尊が出雲の国簸の川上にお下りになったとき、その土地の神に足名椎、手名椎という夫婦の神がいらっしゃった。その子に美しい娘がいた。名を稲田姫という。親子3人で泣いていた。尊が、
「どうしたのか」とお尋ねになると、答えて申したことには、
「わたしには娘が8人おりました。みな大蛇に呑まれてしまいました。いま1人残っているこの娘も、また呑まれようとしています」
その大蛇は、尾も頭も8つずつある。それぞれ8つの峰、8つの谷に這い広がっている。霊木や珍しい草が背に生えている。何千年を経たのかもわからない。目は太陽や月の光のようである。毎年人を呑む。親を呑まれた者は子が悲しみ、子を呑まれた者は親が悲しみ、村の南でも北でも泣き叫ぶ声が絶えないと申した。
尊はあわれにお思いになって、この娘を神聖な爪櫛に変えて、ご自分の髪にお差し隠しになり、8つの舟に酒を満たし、美女の姿を作って高い岡に立てた。その姿が酒に映った。大蛇は人だと思って、その影を飽きるほど飲んで酔い伏したところを、尊は腰に帯びておられた十握の剣を抜いて、大蛇をずたずたにお切りになった。その中で1つの尾に至って切れない。尊は不思議にお思いになって、縦に裂いてご覧になると、1振りの霊剣があった。これを取って天照大神に献上なさった。
「これは昔、高天原でわたしが落とした剣だ」とおっしゃった。
大蛇の尾の中にあったときは、むら雲がいつも覆っていたので、天の村雲剣と申した。大神はこれを得て、天上の宮の宝となさった。その後、豊葦原中津国、すなわちこの日本の国の主として天孫をお下しになったとき、この剣も御鏡に添えてお授けになった。第9代の開化天皇の御代までは同じ御殿にいらっしゃったが、第10代の崇神天皇の御代になって、その霊威を恐れて、天照大神を大和の国笠縫の里の磯垣の広い所にお移し申し上げなさったとき、この剣も天照大神の社殿に納め申し上げなさった。そのとき剣を造り替えて、天皇のお守りとなさった。その霊威はもとの剣に劣らない。
天の村雲剣は、崇神天皇から景行天皇まで3代の間、天照大神の社殿に崇め置かれていたが、景行天皇の御代40年6月に、東国の蝦夷が反乱を起こしたので、皇子の日本武尊が、お心も勇ましく、お力も人にすぐれていらっしゃったので、選ばれて東国へお下りになったとき、天照大神に参詣してお別れを申し上げなさると、妹の斎の尊を通じて、「謹んで怠ることのないように」と言って、霊剣を尊にお授けになった。さて駿河の国にお下りになると、その土地の賊たちが、
「この国には鹿がたくさんおります。狩りをしてお楽しみください」
と言ってだまして連れ出し申し上げ、野に火を放って、今にも焼き殺し申し上げようとしたところ、尊が腰に帯びておられた霊剣を抜いて草をなぎ払われると、刃の向かう1里(約4キロメートル)の内の草はみななぎ払われた。尊がまた火を放たれると、風はたちまち賊の方へ吹き覆い、悪人どもはことごとく焼け死んだ。このときから、天の村雲剣を草薙剣とも名づけられたのである。
尊はさらに奥地へ攻め入って、3年の間、各地の賊を討ち平らげ、国々の悪党を攻め従えて都へお上りになったが、途中でご病気になり、御年30歳という年の7月に、尾張の国熱田のあたりでとうとうお亡くなりになった。その魂は白い鳥となって天に上っていったのは不思議なことである。生け捕りの蝦夷たちは、皇子の武彦尊を通じて天皇に献上なさった。草薙剣は熱田の社に納められた。
天智天皇の御代7年に、新羅の僧道行がこの剣を盗んで、自分の国の宝にしようと思い、ひそかに舟に隠して行くうちに、波風が激しく荒れて、たちまち海の底に沈みそうになった。そこで霊剣のたたりだと悟って罪をわび、目的を遂げずに、もとのように返し納め申し上げた。その後、天武天皇の朱鳥元年に、これを召し寄せて内裏に置かれた。今の宝剣がこれである。
この剣の霊威はたいへんあらたかでいらっしゃる。陽成院が狂気の病にかかられて、霊剣をお抜きになったところ、夜の御殿がぴかぴかと光って、稲妻と変わらなかった。陽成院が恐ろしさのあまり投げ捨てなさると、剣は自然にはたと鳴って鞘に収まってしまった。昔はこのようにすばらしかったのである。たとえ二位殿が腰に差して海に沈みなさったとしても、たやすく失われるはずはないと、すぐれた海人たちを呼んで潜って探させたうえ、霊験あらたかな寺社に尊い僧をこもらせ、さまざまな神宝をささげて祈願なさったけれども、とうとう見つからなかった。
そのとき、故実に通じた人々が話し合われたことには、
「昔、天照大神が代々の天皇をお守りしようとお誓いになった、その誓いはまだ改まっておらず、石清水八幡の御流れもまだ尽きていないので、天皇の御位はまだ地に落ちていらっしゃらない。末の世であるといっても、帝の運が尽き果てるほどのことはあるまい」
と申されたところ、その中で、ある博士が考えて申したことには、
「昔、出雲の国簸の川上で、素盞烏尊に切り殺され申し上げた大蛇が、霊剣を惜しむ思いが深くて、8つの頭、8つの尾にちなみ、人皇80代の後に、8歳の帝となって霊剣を取り返し、海の底にお沈みになったのでしょう」と申した。
深い海の底で、神竜の宝となってしまったのだから、二度と人間の世に返らないのも当然だと思われた。
一門大路渡
そうしているうちに、二の宮(守貞親王)がお帰りになるというので、法皇からお迎えのお車を差し向けられた。心ならずも平家に連れ去られて、西海の波の上をさまよいなさり、3年を過ごされたので、母君も乳母の持明院の宰相も、たいそう心を痛めておられたが、何事もなく都へお帰りになったので、みな寄り集まって、うれし泣きをされた。
同じ月の26日、平家の生け捕りたちが京へ入る。みな小八葉の車であった。前後の簾を上げ、左右の物見窓を開けている。大臣殿(平宗盛)は白い浄衣を着ておられた。右衛門督(平清宗)は白い直垂姿で、父の車の後ろの席に乗っておられた。平大納言時忠卿の車も、同じように続いていく。子息の讃岐中将時実も同じ車で引き回されるはずだったが、目下病気だということで引き回されなかった。内蔵頭信基は傷を負っていたので、人目につかない道から入った。
大臣殿は、あれほど華やかで美しくいらっしゃった方なのに、見る影もなくやせ衰えておられた。けれども、あたりを見回して、それほど思い沈んでいる様子もおありでない。右衛門督はうつむいて目も上げなさらず、深く思い込んでいる様子である。土肥次郎実平が、木蘭地の直垂に小具足だけをつけて、随兵30余騎で車の前後を取り囲んで警護申し上げる。
見物する人は都の中の者に限らず、遠国や近国、山々や寺々からも、老いも若きも集まってきた。鳥羽の南の門から作道、四塚まで、びっしりと続いて、何千万という数もわからない。人は振り返ることもできず、車は車輪を回すこともできない。治承、養和の飢饉や、東国、西国の戦で、人は死に絶えてしまったといっても、まだ残りは多かったのだと見えた。
平家が都を出てから中1年、ほんの近いころのことなので、栄えていたころのことも忘れていない。あれほど恐れおののいていた人々の今日のありさまは、夢とも現実とも見分けがつかない。もののあわれもわからない身分の低い男女に至るまで、涙を流し、袖をしぼらない者はなかった。まして親しく仕えていた人々は、どれほどの思いをしたことであろう。長年恩を受け、父や祖父の代から仕えていた者たちが、さすがにわが身を捨てがたくて、多くは源氏についたけれども、昔のよしみをたちまち忘れられるはずもないので、さぞ悲しく思ったことであろう。だから袖を顔に押し当てて、目を上げられない者も多かった。
大臣殿の牛飼いは、木曽(源義仲)が院の御所へ参上したとき、車を操りそこねて斬られた次郎丸の弟、三郎丸である。西国では成人の姿の仮男になっていたが、もう一度大臣殿のお車を引いてお仕えしたいという思いが深かったので、鳥羽で判官(源義経)に申し上げたことには、
「舎人や牛飼いなどと申す者は、取るに足りない最下層の身分でございますので、情けなど持つべきものではございませんが、長年お召し使いいただいたご恩は浅くございません。お許しいただけますならば、大臣殿の最後のお車をお引き申し上げたいのでございます」
としきりに申し上げたので、判官は、
「かまわないだろう。早く行け」と言ってお許しになった。
三郎丸はたいそう喜んで、きちんと身なりを整え、懐から遣縄を取り出して付け替え、涙にくれて行く先も見えないけれども、袖を顔に押し当てて、牛の行くのにまかせながら、泣く泣く車を引いていった。
法皇は六条東洞院にお車を止めてご覧になる。公卿や殿上人の車も、同じように並べて止めてあった。あれほどおそば近くお召し使いになった人々なので、法皇もさすがにお心が弱くなって、あわれにお思いになった。お供の人々は、ただ夢のようだとばかり思われた。
「日ごろは何とかして、あの人々に目をかけられ、言葉の端にでもかけていただきたいと思っていたのに、こんなことになろうとは誰が思っただろう」
と言って、身分の上下を問わず涙を流した。
先年、宗盛公が内大臣になって、お礼の参内をなさったときは、公卿は花山院の大納言をはじめとして12人がお供して車を連ねなさった。殿上人は蔵人頭親宗をはじめ、16人が先払いをした。公卿も殿上人も、今日を晴れの日と着飾っていたものである。中納言が4人、三位中将も3人までいらっしゃった。ほかならぬこの平大納言も、そのときは左衛門督でいらっしゃった。法皇の御前にお召しを受けて、引き出物をいただき、もてなされなさったありさまは、すばらしい儀式であった。今日は公卿も殿上人も1人も従わず、同じく壇の浦で生け捕りにされた侍たち20余人が、白い直垂を着て、馬の上に縛りつけられて引き回された。
六条大路を東へ鴨川の河原まで引き回され、引き返して、大臣殿父子は、九郎判官の宿所である六条堀河に置かれた。お食事を差し上げたけれども、胸がふさがって、お箸をつけることさえなさらない。互いに言葉は交わされないが、目を見合わせて、絶え間なく涙を流された。夜になっても装束もゆるめなさらず、袖を片方敷いて横になっておられたが、大臣殿が御子の右衛門督に御袖をかけておやりになるのを、お見張り申し上げていた源八兵衛、江田源三、熊井太郎がこれを見て、
「ああ、身分の高い者も低い者も、親子の情愛ほど悲しいものはない。御袖をかけてさしあげたところで、どれほどのことがあろうか。せめてもの親心の深さよ」
と言って、勇ましい武士たちもみな涙を流した。
鏡
同じ月の28日、鎌倉の前兵衛佐頼朝朝臣が従二位に叙せられた。越階といって2階級上がるのでさえめったにない朝廷の恩であるのに、これはなんと3階級である。三位になるはずであったが、平家が叙せられた位なので、それを嫌ってのことである。
その夜の子の刻(午前0時ごろ)に、神鏡である内侍所は太政官の庁から温明殿へお入りになった。天皇がお出ましになって、3晩の間、臨時の御神楽が行われた。右近将監小家能方が特別の勅命を受けて、家に伝わる「弓立宮人」という神楽の秘曲を奏して、ほうびをいただいたのはすばらしいことであった。この曲は、能方の祖父の八条判官資忠という楽人のほかには知っている者がいなかった。資忠はあまりに秘密にして、子の親方には教えず、堀河天皇がご在位の時にお伝え申し上げて亡くなったのを、天皇が親方にお教えになったのである。芸の道を絶やすまいとお思いになるお心には、感涙を抑えきれない。
そもそも内侍所と申すのは、昔、天照大神が天の岩戸にお籠もりになろうとしたとき、何とかして自分の姿を写し残して、子孫にお見せ申し上げようと、御鏡を鋳造なさった。これでもまだお心にかなわないと、また鋳造し直しなさった。先の御鏡は、紀伊の国の日前・国懸の社に祀られているものがこれである。後の御鏡は、御子の天忍穂耳尊にお授けになって、
「同じ御殿に住みなさい」とおっしゃった。
さて、天照大神が天の岩戸にお籠もりになって、世の中が真っ暗になったとき、八百万の神々が集まりに集まって、岩戸の前で御神楽を奏されたので、天照大神は感に堪えきれず、岩戸を細めに開けてご覧になると、互いの顔が白く見えたことから、「おもしろし」という言葉が始まったと承っている。そのとき、児屋、手力雄という怪力の神が近寄って、えいと言って岩戸を開けなさってから、二度と閉められなくなったという。
さて内侍所は、第9代の開化天皇の御代までは天皇と同じ御殿にいらっしゃったが、第10代の崇神天皇の御代になって、その霊威を恐れて、別の御殿へお移し申し上げなさった。近ごろは温明殿にいらっしゃる。平安京への遷都の後160年を経て、村上天皇の御代、天徳4年9月23日の子の刻に、内裏で初めて火事があった。火は左衛門の陣から出たので、内侍所のいらっしゃる温明殿もすぐ近くである。まさに真夜中のことなので、内侍も女官も居合わせず、賢所の神鏡をお出し申し上げることもできない。小野宮殿(藤原実頼)が急いで参内なさって、「内侍所はもう焼けておしまいになった。世の中ももはやこれまでだ」と言って、涙を流されているうちに、内侍所は自ら炎の中から飛び出され、南殿の桜の梢にかかっておいでになって、光り輝くさまは、朝日が山の端から出るのと変わらなかった。そのとき小野宮殿は、世はまだ滅びていなかったのだとお思いになると、喜びの涙を抑えきれない。右の膝をつき、左の袖を広げて、泣く泣く申し上げなさったことには、
「昔、天照大神が代々の天皇をお守りしようとお誓いになった、そのお誓いがまだ改まっていないのならば、神鏡よ、この実頼の袖にお宿りください」
と申し上げなさったお言葉が終わらないうちに、神鏡は袖に飛び移られた。そこで袖に包んで、太政官の朝所へお移し申し上げなさった。近ごろは温明殿にいらっしゃる。今の世では、神鏡をお受け取り申し上げようと思い立つ人もいるだろうか。神鏡もまたお宿りになることはないだろう。昔の世こそ、やはりすばらしかったのである。
文之沙汰
平大納言時忠卿父子も、九郎判官(源義経)の宿所の近くにいらっしゃった。世の中がこのようになってしまった以上は、もうどうなってもかまわないと思われるはずなのに、大納言はなお命が惜しく思われたのだろうか、子息の讃岐中将(平時実)を呼んで、
「人に見せてはならない手紙を1箱、判官に取られてしまったのだ。これを鎌倉の源二位(源頼朝)に見られたら、多くの人が身を滅ぼし、わたしも命を助けられまい。どうしたものか」とおっしゃると、中将が申されたことには、
「判官はもともと情けのある者だそうでございますうえ、女房などが訴えて嘆くことには、どんな大事でも突き放さないと聞いております。何の差し支えがございましょう。姫君たちが大勢いらっしゃいますから、お1人を判官に嫁がせなさって、親しくなられてから、手紙のことをおっしゃってはいかがでしょうか」
大納言は涙をはらはらと流して、
「わたしが栄えていたころは、娘たちを女御や后にと思っていたのだ。並みの身分の者に嫁がせようとは、まったく思ってもみなかったのに」
と言って泣かれたので、中将は、
「今はそのようなことは決してお考えになってはなりません。今の奥方のお生みになった姫君で、18歳になられる方を」
と申されたが、大納言はそれをやはり悲しいことにお思いになって、先の奥方のお生みになった姫君で、23歳になられる方を、判官に嫁がせなさった。この姫君も年こそ少し大人びておられたが、顔立ちが美しく、気立てもしとやかでいらっしゃったので、判官はめったにないことと大切に思い申し上げ、もとの妻で河越太郎重頼の娘もいたけれども、この姫君のためには別に部屋をきちんと整えて、手厚くもてなした。
さて、この女房が例の手紙のことを言い出されたところ、判官はそれどころか封も解かずに、急いで時忠卿のもとへ送り届けられた。大納言はたいそう喜んで、すぐに焼き捨てられた。どのような手紙であったのだろうか、気がかりなことだと人々は噂した。
平家が滅びて、いつのまにか国々は静まり、人の行き来にも差し障りがない。都も穏やかになったので、
「九郎判官ほどの人はいない。鎌倉の源二位は何をしたというのか。世の中はすっかり判官の思いのままであってほしいものだ」
などと言うのを、源二位が漏れ聞いて、
「これはどうしたことか。頼朝がよく計画を立てて兵を差し向けたからこそ、平家はたやすく滅びたのだ。九郎1人で、どうして世を鎮めることができようか。人がこのように言うのにおごって、いつのまにか世を自分の思うままにしているのだろう。ほかに人はいくらでもいるのに、平大納言の婿になって、大納言を大事に扱っているというのも納得できない。また世間をはばかることもなく、大納言が婿を取るなどとは、とんでもないことだ。こちらへ下ってきても、きっと身のほどをわきまえない振る舞いをするだろう」とおっしゃった。




