『平家物語』第11巻(巻十一)の現代語訳を、4ページに分けて掲載しています。このページ(2)には、壇ノ浦の戦いを描いた「鶏合壇浦合戦」から「能登殿最期」までの章段を収めました。原文とあわせて読みたい方は、『平家物語』第11巻 原文(2)をご覧ください。
- (1)屋島の戦い:逆櫓/勝浦付大坂越/嗣信最期/那須与一/弓流/志度合戦
- (2)壇ノ浦の戦い:鶏合壇浦合戦/遠矢/先帝身投/能登殿最期
- (3)平家一門の帰京:内侍所都入/剣/一門大路渡/鏡/文之沙汰
- (4)平家一門の最期:副将被斬/腰越/大臣殿被斬/重衡被斬
- 鶏合壇浦合戦:熊野別当湛増が源氏方につき、壇ノ浦の決戦が始まる。
- 遠矢:源平の武者たちが、遠矢の腕を競い合う。
- 先帝身投:二位尼、幼い安徳天皇を抱いて海に沈む。
- 能登殿最期:能登守教経が奮戦の末に入水し、知盛も海に沈む。
鶏合 壇浦合戦
そうしているうちに、九郎大夫判官義経は周防の地に押し渡って、兄の参河守(源範頼)と合流した。平家は長門の国引島に着いた。源氏は阿波の国勝浦に着いて、屋島の戦いに勝った。平家が引島に着くと伝わると、源氏は同じ長門の国の追津に着いたというのも、不思議な縁である。
熊野別当湛増は、平家から厚い恩を受けた身であったが、たちまちその恩を忘れて、
「平家へ参るべきか、源氏へ参るべきか」
と言って、田辺の新熊野で御神楽を奉納し、権現に祈願申し上げた。
「ただ白旗につけ」
とお告げがあったが、それでもなお疑って、白い鶏7羽と赤い鶏7羽を、権現の御前で闘わせた。赤い鶏は1羽も勝たず、みな負けて逃げてしまった。それでようやく、源氏へ参ろうと心を決めたのであった。
一族の者たちを呼び集め、総勢2000余人が200余艘の船に乗り連れて、若王子のご神体を船にお乗せし、旗の上部には金剛童子をお描きして、壇の浦へ寄せて来るのを見て、源氏も平家もともに拝んだ。しかし源氏の方についたので、平家は興ざめに思われた。また伊予の国の住人河野四郎通信も、150艘の兵船に乗り連れて漕ぎ来て、源氏と合流した。判官はどちらの点からも頼もしく、力がつく思いがなさった。源氏の船は3000艘、平家の船は1000余艘で、唐船も少し交じっていた。源氏の軍勢は増えていき、平家の軍勢は減っていく。
元暦2年3月24日の卯の刻(午前6時ごろ)に、豊前の国門司、赤間の関で、源平の矢合と決めた。
その日、判官と梶原(梶原景時)とが、あわや同士討ちをしそうになることがあった。梶原が判官に申し上げたことには、
「今日の先陣は、この景時にお任せください」
判官が、
「義経がいなければの話だな」とおっしゃると、
「殿は大将軍でいらっしゃいますのに」と申し上げたので、判官は、
「思いもよらないことだ。鎌倉殿こそが大将軍だ。義経は指揮を任されている身だから、おのおの方と同じことだ」
とおっしゃったので、梶原は先陣を望んでもかなわず、
「生まれつき、この殿は侍の主君にはなれないお方だ」とつぶやいた。
判官はこれを聞いて、
「日本一の愚か者め」
と言って、太刀の柄に手をおかけになった。梶原も、
「鎌倉殿のほかに主君を持たない者だぞ」
と言って、これも太刀の柄に手をかけた。そうするうちに、梶原の嫡男の源太景季、次男の平次景高、同じく三郎景家が、父のもとに寄り集まった。判官の様子を見て、奥州の佐藤四郎兵衛忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一騎当千の兵たちが、梶原を取り囲んで、われこそ討ち取ろうと進み出た。けれども、判官には三浦介(三浦義澄)が取りすがり申し上げ、梶原には土肥次郎(土肥実平)がつかみかかって、2人は手をすり合わせて申したことには、
「これほどの大事を目の前に控えながら同士討ちをなさっては、平家が勢いづいてしまいましょう。とりわけ、鎌倉殿がこのことを伝え聞きなさったら、穏やかではすみますまい」
と申したので、判官は気持ちを静められた。梶原も進み出ることはできなかった。このときから梶原は判官を憎みはじめ、ついには讒言して滅ぼしたのだと、後には伝えられた。
さて、源平両陣の間は、海の上を30余町(約3キロメートル)隔てていた。門司、赤間、壇の浦は、潮が逆巻いて流れ落ちる所なので、源氏の船は潮に逆らうことになって、思わず押し流される。平家の船は潮に乗って進み出てきた。沖は潮の流れが速いので、梶原は岸に沿って進み、敵の船とすれ違うところに熊手を打ちかけて、親子主従14、5人が乗り移り、刀を抜いて、船尾から船首までさんざんになぎ払って回り、多くの敵を討ち取って、その日の手柄の筆頭に記された。
いよいよ源平両方が陣を向かい合わせて、鬨の声を上げる。その声は、上は梵天まで聞こえ、下は海の竜神も驚くだろうと思われた。
新中納言知盛卿が船の屋形に進み出て、大声を上げておっしゃったことには、
「戦は今日が最後だ。者ども、少しも退く心を持ってはならぬ。天竺、震旦にも、わが日本の国にも、並ぶ者のない名将や勇士といえども、運命が尽きてしまえばどうにもならない。けれども名こそ惜しいものだ。東国の者どもに弱みを見せるな。いつのために命を惜しもうというのか。ただこれだけが思うことだ」
とおっしゃると、飛騨三郎左衛門景経が御前に控えていたが、
「これを承れ、侍ども」と命令した。
上総悪七兵衛(藤原景清)が進み出て申したことには、
「坂東武者は、馬の上でこそ大きな口をききましょうが、船戦などいつ訓練したことがございましょう。たとえれば魚が木に登ったようなものでございましょう。1人ずつつかまえて海に漬けてやりましょう」と申した。
越中次郎兵衛(平盛次)が申したことには、
「同じことなら、大将軍の源九郎に組みなさい。九郎は色が白く背が低いが、前歯がとりわけ出ていて目立つそうだ。ただし、直垂と鎧をいつも着替えるそうだから、すぐには見分けにくいということだ」と申した。
上総悪七兵衛が申したことには、
「たとえ心は勇ましくとも、その小僧に何ほどのことができよう。片脇に挟んで海へ放り込んでやるものを」と申した。
新中納言はこのように命令なさって、大臣殿(平宗盛)の御前に参上し、
「今日は侍どもの様子が頼もしく見えます。ただし阿波民部重能は、心変わりしたように思われます。首をはねたいものです」
と申されたので、大臣殿は、
「はっきりした証拠もないのに、どうして首を切れようか。あれほど忠勤に励んできた者なのに。重能、参れ」
と言ってお呼びになると、重能は木蘭地の直垂に洗革の鎧を着て、御前にかしこまって控えた。
「どうした重能、心変わりしたのか。今日は様子が悪く見えるぞ。四国の者どもに、しっかり戦えと命令せよ。おじけづいたのか」とおっしゃると、
「どうしておじけづいたりいたしましょう」
と言って、御前を退出した。新中納言は、
「ああ、あいつの首を打ち落としてやりたい」
とお思いになって、太刀の柄も砕けよとばかりに握りしめ、大臣殿の方をしきりにご覧になったが、お許しがないので、どうすることもおできにならなかった。
平家は1000余艘を3手に分けた。山賀の兵藤次秀遠が500余艘で先陣として漕ぎ向かう。松浦党が300余艘で第二陣に続く。平家の公達は200余艘で第三陣にお続きになる。兵藤次秀遠は九州一の弓の名手であったが、自分ほどではないものの、並の腕の精兵500人を選りすぐって、船ごとの船尾と船首に立たせ、肩を一面に並べて、500本の矢を一度に放った。源氏は3000余艘の船なので、軍勢の数はさぞ多かったであろうが、あちこちからばらばらに射たので、どこに精兵がいるとも見えない。大将軍の九郎大夫判官は、真っ先に進んで戦う。楯も鎧も持ちこたえられず、さんざんに射すくめられた。平家は味方が勝ったと思って、しきりに攻め太鼓を打って、喜びの鬨の声を上げた。
遠矢
源氏の方でも、和田小太郎義盛は船には乗らず、馬に乗って渚に控え、兜は脱いで人に持たせ、鐙の先を踏ん張って、十分に引き絞って射たので、3町(約330メートル)以内の者は外さず、強く射た。その中でもとりわけ遠くへ射たと思われる矢を、
「その矢をお返しいただこう」と手招きした。
新中納言(平知盛)がこれを取り寄せてご覧になると、白い篦に、根元の白い鶴の羽と鸛の羽を割り合わせて作った矢で、長さは13束2伏あり、沓巻から1束ほどおいた所に、「和田小太郎平義盛」と漆で書きつけてあった。平家の方に精兵は多いといっても、やはり遠矢を射る者は少なかったのだろうか、しばらくたってから、伊予の国の住人仁井紀四郎親清が呼び出され、この矢をいただいて射返した。これも沖から渚へ3町余りをさっと射渡して、和田小太郎の後ろ1段(約11メートル)余りに控えていた、三浦の石田左近太郎の左腕に、深々と突き立った。
三浦の人々はこれを見て、
「和田小太郎が、自分より遠矢を射る者はいないと思っていて恥をかいたのはおかしいことよ。あれを見よ」と笑った。
和田小太郎はこれを聞いて、
「けしからぬことだ」
と言って、小舟に乗って漕ぎ出させ、平家の軍勢の中を、次々と矢をつがえてはさんざんに射たので、多くの者が射殺され、傷を負った。
また、判官(源義経)の乗っておられる船に、沖から白い篦の大矢を1本射立てて、和田と同じように、
「こちらへお返しいただこう」と手招きした。
判官がこの矢を抜かせてご覧になると、白い篦に山鳥の尾羽で作った矢で、長さは14束3伏あり、「伊予の国の住人、仁井紀四郎親清」と書きつけてあった。判官は後藤兵衛実基を呼び寄せて、
「この矢を射返せそうな者は、味方に誰かいるか」とおっしゃると、
「甲斐源氏の阿佐里与一殿こそ、精兵でいらっしゃいます」
「それならば呼べ」
と言ってお呼びになると、阿佐里与一が出てきた。判官がおっしゃったことには、
「沖からこの矢を射てきて、射返せと手招きしております。あなた、射てくださいませんか」
「いただいて見てみましょう」
と言って、指先でしごいてみて、
「これは篦が少し弱うございます。矢の長さも少し短うございます。同じことなら、この義成の道具でいたしましょう」
と言って、塗籠籐の弓で9尺(約2.7メートル)ほどあるものに、黒漆を塗った篦に黒い羽をはいだ矢で、自分の大きな手で握って15束ある矢をつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。矢は4町(約440メートル)余りをさっと射渡して、大船の船首に立っていた仁井紀四郎親清の体の真ん中を、ひょうずばと射て、船底へまっさかさまに射倒した。生死はわからない。阿佐里与一は、もともと腕の確かな精兵である。2町(約220メートル)先を走る鹿を、外さず射たということであった。
その後、源平は互いに命を惜しまず、わめき叫んで攻め戦う。どちらが劣っているとも見えない。けれども平家の方には、十善の帝王が三種の神器を身につけていらっしゃるので、源氏はどうなるだろうかと危ぶんでいたところ、しばらくは白雲かと思われて空に漂っていたが、雲ではなかった。持ち主もいない白旗が一流れ舞い下りてきて、源氏の船の船首に、旗竿につける緒が触れるほどに見えた。
判官は、
「これは八幡大菩薩がお現れになったのだ」
と喜んで、手を洗い口をすすいで、これを拝み申し上げた。兵たちもみな同じようにした。
また源氏の方から、江豚という魚が1000、2000匹も泳いで、平家の方へ向かってきた。大臣殿(平宗盛)はこれをご覧になって、小博士晴信を呼び寄せて、
「イルカはいつも多くいるが、まだこのようなことはなかった。どういうことか占って申せ」とおっしゃったので、
「このイルカが引き返しましたら、源氏が滅びましょう。このまま泳ぎ通りましたら、味方のお戦は危のうございます」
と申し終わらないうちに、イルカは平家の船の下を、まっすぐに泳ぎ通っていった。
「世の中はもはやこれまで」と申した。
阿波民部重能は、この3年の間、平家に十分に忠義を尽くし、たびたびの合戦で命を惜しまず防ぎ戦ってきたが、息子の田内左衛門を生け捕りにされて、とてもかなうまいと思ったのだろうか、たちまち心変わりして、源氏に味方してしまった。平家の方では計略として、身分の高い人を兵船に乗せ、身分の低い者たちを唐船に乗せて、源氏が唐船に大将がいると思って攻めかかってきたら、取り囲んで討とうと準備しておられたが、阿波民部が寝返った以上、源氏は唐船には目もくれず、大将軍が身分を隠して乗っておられる兵船を攻めた。新中納言は、
「くやしい。重能めを切り捨てておくべきだったのに」
と、何度も後悔なさったが、どうにもならない。
そうしているうちに、四国や鎮西の兵たちは、みな平家に背いて源氏についた。今まで従っていた者たちも、主君に向かって弓を引き、主人に対して太刀を抜く。向こうの岸に着こうとすれば、波が高くてかなわない。こちらの波打ち際に寄ろうとすれば、敵が矢先をそろえて待ち構えている。源平の国争いも、今日が最後と見えた。
先帝身投
源氏の兵たちが、もはや平家の船に乗り移ってきたので、水夫や舵取りたちは射殺され、切り殺されて、船の向きを立て直すこともできず、船底に倒れ伏してしまった。
新中納言知盛卿は小舟に乗って、御所の御船に参上し、
「世の中はもはやこれまでと見えます。見苦しいものは、すべて海へお捨てください」
と言って、船尾から船首まで走り回り、掃いたり拭いたり、ごみを拾ったりして、自ら掃除なさった。
女房たちが、
「中納言殿、戦はどうなのですか」と口々にお尋ねになると、
「珍しい東国の男たちを、ご覧になることでしょう」
と言って、からからとお笑いになったので、
「この期に及んで、なんという冗談を」
と言って、口々にわめき叫びなさった。
二位殿(平時子)はこのありさまをご覧になって、日ごろから覚悟しておられたことなので、濃いねずみ色の喪服の二衣を頭からかぶり、練袴の股立を高く挟んで、神璽を脇に挟み、宝剣を腰に差し、主上(安徳天皇)をお抱き申し上げて、
「わが身は女であっても、敵の手にはかかるまい。主上のお供に参るのです。お心を寄せ申し上げる人々は、急いで後に続きなさい」
と言って、船端へ歩み出られた。
主上は今年8歳におなりであったが、お年のわりにはずっと大人びていらっしゃって、お顔立ちは美しく、あたりも照り輝くばかりである。御髪は黒くゆらゆらとして、お背中より下まで垂れていらっしゃった。主上は驚きあきれたご様子で、
「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」
とおっしゃったので、二位殿は幼い君に向かい申し上げ、涙をこらえて申されたことには、
「君はまだご存じないのですか。前世で十善の戒めを守られたお力によって、今、天子としてお生まれになりましたが、悪い縁に引かれて、ご運はもう尽きてしまわれました。まず東に向かわれて、伊勢大神宮にお別れを申し上げなさり、その後、西方浄土からのお迎えにあずかろうとお思いになって、西に向かわれてお念仏をお唱えなさいませ。この国は粟散辺地といって、つらいことの多い所でございますから、極楽浄土というすばらしい所へお連れ申し上げるのでございます」
と泣く泣く申し上げなさったので、主上は山鳩色の御衣に角髪を結われたお姿で、御涙におぼれ、小さくかわいらしい御手を合わせて、まず東を伏し拝み、伊勢大神宮にお別れを申し上げなさり、その後、西に向かわれてお念仏をお唱えになったので、二位殿はすぐにお抱き申し上げ、
「波の下にも都がございますよ」
とお慰め申し上げて、深い海の底へとお入りになった。
悲しいことよ、無常の春の風が、たちまち花のようなお姿を散らし、情けないことよ、生死の世の荒い波が、天子のお体を沈め申し上げる。御殿を長生殿と名づけて長く住む所と定め、門を不老門と名づけて老いることのない門と書いたけれども、まだ10歳にもならないうちに、海の底の藻くずとおなりになった。十善の帝位にあったご果報のほどは、言葉で言い尽くせるものではない。雲の上の竜が降りて、海の底の魚とおなりになった。大梵天王の高い楼閣の上や、帝釈天の喜見城の宮殿の中のような所に住み、昔は大臣や公卿の位にあって一族を従えていたのに、今は船の中、波の下で、お命を一度に失いなさったことこそ悲しいことである。
能登殿最期
女院(建礼門院)はこのありさまをご覧になって、温石と御硯を左右の御懐に入れて、海へお入りになったが、渡辺党の源五馬允昵が、どなたとは存じ上げないまま、御髪を熊手に引っかけて、お引き上げ申し上げた。
女房たちが、
「ああ、なんということを。あれは女院でいらっしゃいますよ」
と口々に申されたので、判官(源義経)に申し上げて、急いで御所の御船へお移し申し上げた。
大納言佐殿(平重衡の妻)は、神鏡である内侍所の入った唐櫃を持って海へ入ろうとなさったが、袴の裾を船端に矢で射つけられ、足がもつれて倒れなさったのを、兵たちがお引き止め申し上げた。さて武士たちが、内侍所の唐櫃の錠をねじ切って、今にもふたを開けようとすると、たちまち目がくらみ、鼻血が流れた。平大納言(平時忠)が生け捕りにされてそこにおられたが、
「あれは内侍所でいらっしゃるぞ。凡人の見申し上げてよいものではない」
とおっしゃったので、兵たちはみな退いた。その後、判官は平大納言と相談して、もとのように縛っておさめ申し上げた。
そうしているうちに、門脇の平中納言教盛卿と修理大夫経盛の兄弟は、鎧の上に碇を背負い、手を取り合って、海へお入りになった。小松の新三位中将資盛、同じく少将有盛、いとこの左馬頭行盛も、手を取り合って、同じ所に沈みなさった。
人々はこのようになさったけれども、大臣殿(平宗盛)父子は海に入ろうとするご様子もなく、船端に出て、あたりを見回し、途方に暮れたさまでいらっしゃったのを、侍たちがあまりの情けなさに、そばを通るふりをして、大臣殿を海へ突き落とし申し上げた。右衛門督(平清宗)はこれを見て、すぐに飛び込みなさった。ほかの人々は、重い鎧の上に重い物を背負ったり抱いたりして入ったからこそ沈んだのだが、この親子はそうもなさらなかったうえに、たいへんな泳ぎの名人でいらっしゃったので、沈みきることもおできにならない。
大臣殿は、
「右衛門督が沈むならわたしも沈もう、助かりなさるならわたしも助かろう」とお思いになる。
右衛門督も、
「父上が沈みなさるならわたしも沈もう、助かりなさるならわたしも助かろう」
と思って、互いに目を見交わし、泳ぎ回っておられるうちに、伊勢三郎義盛が小舟をさっと漕ぎ寄せて、まず右衛門督を熊手に引っかけてお引き上げ申し上げた。大臣殿はこれを見て、ますます沈みきることもおできにならないので、同じように捕らえ申し上げてしまった。
大臣殿の乳母子である飛騨三郎左衛門景経が、小舟に乗って義盛の船に乗り移り、
「わが君をお捕らえ申すのは何者だ」
と言って、太刀を抜いて走りかかる。義盛があわやと見えたところを、義盛の召し使う少年が、主人を討たせまいと間に割って入り、景経に打ってかかった。景経の打つ太刀に、少年は兜の真っ正面を打ち割られ、二の太刀で首を打ち落とされた。義盛がなお危うく見えたところを、隣の船から堀弥太郎親経が十分に引き絞ってひょうと射た。景経が兜の内側を射られてひるむところを、堀弥太郎が義盛の船に乗り移って、三郎左衛門と組み合って倒れる。堀の家来も主人に続いて乗り移り、景経の鎧の草摺を引き上げて、2刀刺した。飛騨三郎左衛門景経は、名の知れた怪力の剛の者であったが、運が尽きたのだろうか、深手は負う、敵は大勢いるで、そこでついに討たれてしまった。大臣殿は生きたまま引き上げられ、目の前で乳母子が討たれるのをご覧になって、どのようなお気持ちであっただろうか。
およそ能登守教経の矢先に立ち向かう者はなかった。矢のあるかぎり射尽くして、今日を最後と思われたのだろうか、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧を着て、いかめしい作りの大太刀を抜き、白柄の大長刀の鞘をはずして、左右の手に持ってなぎ払って回られると、正面から立ち向かう者はいない。多くの者が討たれてしまった。
新中納言(平知盛)は使者を立てて、
「能登殿、むやみに罪をお作りなさるな。そんなことをしても、よい敵だというわけでもあるまい」とおっしゃったので、
「それでは大将軍に組めということだな」
と心得て、太刀や長刀の柄を短く持って、源氏の船に乗り移り、わめき叫んで攻め戦う。けれども判官の顔をご存じないので、武具の立派な武者を、
「判官か」
と目をつけては、駆け回りなさる。判官も前もって心得ていて、矢面に立つようにはしていたが、あれこれと行き違って、能登殿とは組まれない。それでもどうしたことか、能登殿は判官の船に行き当たって、
「それっ」
と目をつけて飛びかかると、判官はかなわないと思われたのだろうか、長刀を脇に挟んで、味方の船で2丈(約6メートル)ほど離れていた船に、ひらりと飛び移りなさった。能登殿は早業では劣っておられたのだろうか、すぐに続いて飛ぶことはなさらない。今はもうこれまでと思われたので、太刀や長刀を海へ投げ入れ、兜も脱いで捨てられた。鎧の草摺をかなぐり捨て、胴だけを着て、髪を振り乱し、両手を大きく広げて立たれた。あたりを払うほどの威勢に見えた。恐ろしいなどという言葉では言い尽くせない。
能登殿は大声を上げて、
「われこそはと思う者どもは、寄って来て教経に組みついて生け捕りにせよ。鎌倉へ下って頼朝に会い、ひと言言ってやろうと思うのだ。寄れや、寄れ」
とおっしゃったが、寄って来る者は1人もいなかった。
ここに土佐の国の住人で、安芸の郷を治めていた安芸大領実康の子に、安芸太郎実光といって、30人力の怪力を持った剛の者がいた。自分に少しも劣らない家来が1人いて、弟の次郎も、人並み以上にすぐれた強者である。安芸太郎は能登殿を見申し上げて言ったことには、
「どんなに勇ましくていらっしゃっても、われら3人が組みついたならば、たとえ背丈が10丈(約30メートル)の鬼であろうとも、どうして従わせられないことがあろうか」
と言って、主従3人で小舟に乗り、能登殿の船に押し並べて、えいと言って乗り移り、兜の錣を傾け、太刀を抜いて一斉に打ちかかった。能登殿は少しもお騒ぎにならず、真っ先に進んできた安芸太郎の家来を、裾を合わせるほど近づけて、海へどうと蹴り入れなさった。続いて寄ってくる安芸太郎を左の脇に取って挟み、弟の次郎を右の脇にかい挟み、ひと締め締めて、
「さあ来い、おまえたち。それでは死出の山の供をせよ」
と言って、生年26歳で、海へさっとお入りになった。




