『源氏物語』第19帖「薄雲」現代語訳全文を読む|わかりやすい口語訳

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」尾形月耕『源氏五十四帖』

 このページでは、『源氏物語』第19帖「薄雲」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。

 原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第19帖「薄雲」原文全文をご覧ください。

目次

明石の姫君を紫の上のもとへ

 冬が深まるにつれて、大堰川のほとりの暮らしはいよいよ心細くなった。明石の君は何をしていても心ここにあらずという日々を送っていた。源氏は相変わらず、「やはり、いつまでもそんな所には置いておけません。もっと近い所へ移る決心をしてください」と勧めていたが、明石の君には踏み切れない理由があまりにも多い。源氏のそば近くへ出ていったあげく、嫌でも自分の立場を最後まで思い知らされることになるのではないか。そんなことを、どう言葉にして説明すればよいのかと悩み続けていた。

 そこで源氏は、今度は幼い姫君について本気で話を切り出した。「それなら、せめてこの子だけでも二条院へ移してはどうでしょう。このまま人目から隠すように育てておくのはよくありません。私にはこの子の将来について考えていることがありますから、粗末な扱いをしてよい子ではないのです。紫の上にも話してあります。子どものない暮らしを寂しく思っていて、いつも会いたがっていますから、しばらくそちらに慣れさせて、袴着の祝いも世間に隠すような形ではなく、きちんとしてやりたいと思っています」

 いつかはそう言われるだろうと覚悟していたことだった。それだけに、明石の君の胸はつぶれそうになった。たとえこれから姫君が改めて高貴な家の子として扱われるようになったとしても、実の母が自分であることを世間が知れば、かえって隠しきれない弱みになるのではないか。そう思えばどうしても手放しがたい。その気持ちはもっともだったが、源氏は繰り返し安心させた。

「紫の上のもとへ預けるのが心配だなどとは、決して思わないでください。あの人自身、長年子どもがいないのを寂しく思っていますし、前斎宮のようにもう大人になった方でさえ、あれほど熱心に世話をしているのです。それなのに、こんなに幼くて、誰にも嫌われようのない可愛らしい子を、いい加減に扱うような人ではありません」

 そして紫の上がどれほど理想的な人柄であるかを、源氏は細かく話して聞かせた。明石の君も、かつては源氏がどこまで浮気を重ねる人なのかと噂に聞いていたのに、今ではすっかり落ち着いている。それだけでも紫の上が並々ならぬ宿世を持ち、大勢の女性の中でも特別な人なのだと察せられた。自分のような者が、その人と肩を並べようなどと思えるはずもない。

 それでも自分が表立って出ていけば、紫の上をはじめ周囲の人々が不快に感じることもあるかもしれない。自分の身はもうどうなっても同じだが、先の長い姫君は、結局いつか紫の上の力に頼らなければならないだろう。それなら、まだ何もわからない今のうちに預けてしまったほうがよいのかもしれない――。そこまで考えても、いざ手を離すとなれば不安でならない。姫君がいなくなれば、この寂しい山里で何を慰めに朝夕を過ごせばよいのだろう。源氏がたまに訪れてくれる理由までなくなってしまうのではないか。考えは行きつ戻りつし、明石の君には、自分の身の不幸が限りなく思われた。

 母の尼君は、もっと先のことまで考えられる人だった。「迷っても仕方ありませんよ。あの姫君に会えなくなるのは、私だって胸が痛みます。でも最後には、あの子のためになることを考えなければ。源氏の君も軽い気持ちでおっしゃっているのではありません。すべてお任せして、姫君をお渡しなさい」

「人というものは、母方の身分によって、同じ帝の皇子でさえ扱われ方に差が出るものです。源氏の大臣だって、この世に二人とないほどのお方なのに臣下としてお仕えになっているのは、亡き母君が大納言の家より一段低い家柄で、『更衣腹』と言われたところがあったからでしょう。まして普通の人なら、なおさら比べようもありません。親王や大臣の子であっても、母方の身分が一段劣れば、人も低く見るし、父親だって同じようには扱えないものなのです」

「この先、源氏の君にもっと高貴な女性との間のお子がお生まれになれば、この姫君はたちまち押されてしまうでしょう。それぞれの身分なりに、幼いうちから親に一段高く大切に育ててもらうことこそ、将来人から軽んじられないための第一歩なのです。袴着のお祝いにどれほど心を尽くしても、こんな山奥でひっそりやったのでは何の晴れがましさがあるでしょう。源氏の君にお任せして、どんなふうに育ててくださるのか見守りなさい」

 占いのできる人々に尋ねても、皆、「二条院へ移ったほうが、姫君の運は開けます」と言う。明石の君も次第に抗う気持ちを失っていった。源氏も気持ちは同じだったが、母親の心を思うと無理強いはできない。「袴着のことは、どうなさるおつもりですか」と控えめに尋ねたところ、明石の君は、「何もかも、取るに足りない私の身に結びつけてしまえば、やはりこの子の将来がかわいそうに思われます。けれど華やかな人々の中へ入っていけば、それはそれで、どれほど笑いものになることでしょう」と返した。

 その返事を読むと、源氏はいっそう明石の君を哀れに思った。吉日を選ばせ、姫君を迎えるための準備を人目につかないよう進めた。明石の君も、娘を手放す悲しみに耐えながら、これが姫君のためなのだと自分に言い聞かせた。

雪の日、母と子の別れ

 明石の君にとって、姫君だけでなく乳母まで一緒に去ってしまうのもつらかった。朝夕の物思いや退屈を何でも語り合い、慰め合ってきた相手である。それまで失えば、この山里ではいよいよ頼るものがなくなってしまう。「それまで別れなければならないのですね」と、明石の君も泣いた。

 乳母も涙をこぼした。「これもそうなる宿世なのでしょうか。思いもしないきっかけで姫君のお世話をするようになり、長い年月、そのお人柄に触れてきました。離れればきっと忘れがたく、恋しく思うことでしょう。でも、まったくお会いできなくなることはないと信じています。いつかまた、と頼みにはしておりますが、ほんのしばらくでも離れ離れになり、思いもしなかった華やかな世界へ交じって暮らすことになるのが、何とも落ち着かないのでございます」

 そうして泣きながら日を送るうち、もう十二月になった。雪や霰の日が多くなり、心細さはいっそう募る。明石の君は、「私はどうして、こんなにも次から次へ物思いをしなければならない身に生まれたのだろう」と嘆き、いつも以上に姫君を撫で、髪や衣を整えながら、飽きることなく見つめていた。

 雪が空を暗くするほど降り積もった朝、明石の君は過ぎてきた日々も、これから先のことも、何一つ残さず胸に思い浮かべていた。普段ならあまり端近には出ない人なのに、その日は水際に張った氷などを眺めながら、柔らかな白い衣を何枚も重ねて座っていた。姿も髪も背後から見た様子も、これ以上ないほど高貴な女性と言われる人でも、きっとこうであろうと思われる美しさだった。

 涙を払いながら、「こんな雪の日など、離れてしまったら、今以上にあなたたちのことが気にかかるでしょうね」と呟いた。

雪深み深山の道は晴れずともなほ文かよへ跡絶えずして

雪が深く、山道が閉ざされてしまっても、どうか便りだけは絶やさず、心の通う道まで消してしまわないでください。

 乳母も泣きながら慰めた。

雪間なき吉野の山を訪ねても心のかよふ跡絶えめやは

たとえ雪の切れ間もない吉野の山のように遠く隔てられても、心の通い合う道まで絶えることなどありましょうか。

 その雪が少し解けたころ、源氏が大堰へやって来た。いつもならその訪れを待ち焦がれている明石の君だったが、今日こそ姫君を連れていくのだと思うと胸が潰れ、人のせいにもできない苦しさだった。自分が嫌だと言えば、源氏が無理に奪っていくことなどないだろう。いっそ断ってしまおうか――そんな思いも湧いたが、それではあまりに軽率だと、必死に思い返した。

 源氏は、自分の前に座っている姫君を改めて見つめた。本当に、この子は軽く扱うことのできない運命を持って生まれてきたのだ、としみじみ思う。この春から伸び始めた髪は尼削ぎほどの長さになり、さらさらと美しく揺れている。顔立ちも目元も、香り立つような愛らしさで、今さら言うまでもない。

 こんな子をこれから他人に預けることになる母親の心の闇を思えば、源氏にも明石の君が気の毒でならず、何度も何度も安心させる言葉をかけた。明石の君は、「どうか、この子を私のような取るに足りない身分には似つかわしくないほど立派に育ててくださいますように」と申し上げながらも、とうとう堪えきれず泣き出した。その気配が、何とも哀れだった。

 姫君だけは何も知らず、車に乗るのを楽しみにしている。いよいよ車が寄せられると、明石の君は自ら娘を抱いて外へ出た。姫君はまだ片言の愛らしい声で母の袖をつかみ、「母君も乗って」と引っ張る。その仕草があまりにも切なく、明石の君は歌った。

末遠き二葉の松に引き別れいつか木高き影を見るべき

まだ二葉の小さな松のようなこの子と、今ここで引き離されてしまう。いつになれば、大きく育って高い木陰を作る姿を見ることができるのでしょう。

 最後まで言いきれず激しく泣く明石の君を見て、源氏も、やはりこれはあまりにつらい、と胸を痛めた。

生ひそめし根も深ければ武隈の松に小松の千代をならべむ

この子が生まれ育った根は深く結ばれているのですから、母であるあなたと、この小松が千年栄える姿を、いつかきっと並べて見られるようにしましょう。

「どうか、ゆっくり待っていてください」

 そう慰められても、明石の君は到底堪えきれなかった。乳母の少将という品のある女性が、姫君の御佩刀や天児などを持って同じ車に乗った。身分のしっかりした若い女房や童女も供につけた。源氏は道中、後に残してきた明石の君のことばかりが気にかかり、自分は罪なことをしているのではないかと思わずにはいられなかった。

二条院の姫君

 二条院へ着いたころには、すっかり暗くなっていた。車を寄せた瞬間から、大堰とはまるで違う華やかな気配が満ちている。田舎暮らしに慣れていた女房たちは、こんな中へ自分たちが交じって大丈夫なのだろうかと気後れしたが、紫の上は西側の一画を姫君のために特別にしつらえ、小さな調度類まで愛らしく揃えていた。乳母の局も西の渡殿の北側に用意されている。

 姫君は道中で眠ってしまっていた。抱き下ろされても泣きはせず、果物などを出してもらっているうち、だんだんあたりを見回し、母の姿がないことに気づいた。寂しそうに口元をゆがめて泣きそうになると、紫の上は乳母を呼び、あれこれと気を紛らわせてやった。

 源氏は、大堰の山里では明石の君がどれほど寂しい思いをしているだろう、と気の毒に思った。それでも、自分の理想どおりに姫君を大切に育て、毎日その姿を見ていられるのは、すべてがようやく本来あるべきところへ収まったようにも感じられた。ただ一つ、これほど申し分のない姫君の母親が、世間から見て何の傷もない高貴な女性ではなかったことだけが、惜しく思われるのだった。

 初めのうちこそ姫君は母や慣れた人を探して泣くこともあったが、もともと素直で人懐こい性格だったので、やがて紫の上にもすっかり馴染んだ。紫の上は、こんなにも可愛らしいものを手に入れた、と嬉しくてならず、何をするにも自分で抱き、世話をし、一緒に遊んだ。乳母も自然と紫の上のそば近くに仕えるようになり、さらに身分の高い家の乳の出る女性まで乳母として加えられた。

 袴着の祝いも、ことさらに世間を驚かせるほど大げさにはしなかったが、それでも普通とはまるで違った。姫君のために整えられた部屋は、まるで雛遊びの世界のように美しい。客人も普段から出入りする顔ぶれと大差なかったので、外からは特別な祝いとも見えにくかったが、襷を結んだ姫君の小さな胸元だけは、いっそう可愛らしく映えていた。

 大堰では、明石の君が娘を恋しく思う気持ちは尽きず、それに自分の身分の低さへの嘆きまで重なった。尼君も涙もろい人だったが、姫君がこれほど大切に扱われていると聞くことだけは嬉しかった。むしろ姫君へ直接何かを贈るよりも、紫の上のもとで仕える人々へ、乳母をはじめとして見たこともないほど美しい色合いの衣を選び、心を尽くして贈った。

 源氏も、あまり長く大堰へ行かなければ、明石の君に「やはりそうだったのだ」と思わせるだろうと気の毒に思い、年の暮れまでに人目を忍んで訪れた。ますます寂しくなった山里で、朝夕の慰めだった姫君まで失った明石の君が何を思っているかと思えば、手紙も絶え間なく送った。紫の上も今では特に明石の君を恨むことはなく、姫君の可愛らしさに免じて、源氏のことも許しているようだった。

華やかな新年と、山里への思い

 年が改まった。うららかな空の下、何一つ不足のない源氏の栄華はいよいよ輝いていた。新しく美しく整えた装束で参賀に集まる人々のうち、年配の者は七日ごろまで祝いの挨拶に連れ立って訪れ、若い人々は理由もなく浮き立って見える。誰もが心の中にはそれぞれ思うことを抱えているのだろうが、表向きは皆、得意そうに華やいでいる季節だった。

 東の院の花散里の暮らしも、実に趣深く、理想的に整っていた。仕える女房や童女まで、いつも気を緩めず上品に振る舞っている。源氏も近くへ移した甲斐があり、少し暇ができれば気軽に立ち寄ることはあったが、わざわざ夜を泊まっていくというほどの関係には見せなかった。

 それでも花散里は、もともと穏やかで子どものように素直な性格だった。「自分にはこれだけの宿世があったのだ」と、今の境遇をありがたく受け止め、驚くほど安心しきって暮らしている。源氏もその人柄を軽く扱うことはなく、折々の心配りにも紫の上の側と大きな差をつけなかった。仕える人々も多く、家司たちも怠りなく働き、かえって何の乱れもない、見ていて安心できる暮らしだった。

 その一方で、源氏は大堰の明石の君の寂しさも絶えず思っていた。公私ともに慌ただしい時期が少し落ち着いたところで、また訪ねることにする。この日はいつも以上に身なりを整え、桜色の直衣に何ともいえない美しい衣を重ね、香を焚きしめていた。出かける挨拶をする源氏の姿は、隅々まで照らす夕日の中でいっそう清らかに輝き、紫の上も平静ではいられない思いで見送った。

 幼い姫君は、源氏の指貫の裾に取りすがって後を追い、そのまま外までついて行きそうになる。源氏は足を止め、可愛くてならないという顔をして、姫君をなだめながら、「明日には帰ってくるよ」と口ずさんで出ていった。

 すると渡殿の戸口で待っていた紫の上が、中将の君を介して歌を送った。

舟とむる遠方人のなくはこそ明日帰り来む夫と待ち見め

あなたの舟を引き止める遠くの人がいないのなら、「明日は帰ってくる夫」と信じて待ちもしましょうけれど。

 ずいぶん親しい調子で言ってきたので、源氏は艶やかに微笑んで返した。

行きて見て明日もさね来むなかなかに遠方人とは心置くとも

向こうへ行って様子を見たら、明日には本当に帰ってきますよ。たとえ向こうの人が、かえって私をよそよそしい人だと思ったとしても。

 姫君はそんな歌の意味など何一つわからず、ただ無邪気に歩き回っている。紫の上には、それがたまらなく可愛かった。以前なら「遠方人」である明石の君への嫉妬ももっと強かっただろうが、今では姫君の可愛さのおかげで、ずいぶん許せるようになっていた。

 明石の君は今ごろ、どれほど娘を恋しがっているだろう。もし自分が実の母なら、この子と離れれば、とても耐えられないだろう――。紫の上はそう思いながら姫君をじっと見つめ、懐へ抱き入れ、美しい乳房を口に含ませる真似までして戯れている。その姿は見る人の心を惹きつけた。そばの女房たちは、「どうせなら本当に、この方のお子であったなら」「まあ、そんなことを」と囁き合った。

明石の君とのひととき

 大堰では、明石の君がひどく落ち着いた、心ある人らしい暮らしぶりを作り上げていた。家そのものも普通の都の邸とは違う、珍しい趣がある。本人も見るたびに、名高い高貴な女性たちと比べても、それほど見劣りするところがなく、容貌も物腰も理想的なほど大人びて美しくなっていた。

 もし普通の家柄の女性として世間に紛れていたなら、同じほどの女性がほかにいないというわけでもないだろう。源氏が気にしているのは、むしろあまりにも世間離れした明石入道という父親の評判だった。本人の人柄や身分そのものだけなら、それほど恥じる必要もないのだが――と、源氏は思った。

 会う時間がいつもわずかで、まだ足りないところで別れなければならないからだろうか。帰る時になると源氏も心が落ち着かず、立ち去るのが苦しくて、「まるで夢の中を渡る浮橋のようだ」と、何度も嘆いた。

 そこに箏があったので引き寄せ、昔、明石の浦で夜更けに聞いた音色を思い出す。どうしても琵琶を弾いてほしいと明石の君へせがみ、少しだけ合わせてもらうと、どうしてこの人は何をさせてもこれほど自分に合うのだろう、と源氏は感心した。幼い姫君のことなども、細やかに語り合った。

 大堰はあくまで山里だったが、源氏がこうして泊まることもあるので、果物や強飯程度のものを口にする時はあった。近くの御堂や桂の院へ行くことを表向きの理由にしながら訪れているので、完全に人目を忘れて気ままに振る舞うことはない。それでも、かといって明石の君を他の並の女性と同じように、冷たく通り一遍に扱うわけでもない。そこにこそ、源氏がこの女性を特別に思っていることが表れていた。

 明石の君も源氏の気持ちをよく理解していた。身のほどを越えた要求をして困らせることもなければ、必要以上に卑下して源氏の思いに逆らうようなこともしない。すべてにおいて程よく、感じのよい振る舞いだった。いくら身分の高い家の女性であっても、源氏がここまで気を許すことはめったにないと聞いている。もしすぐ近くで日常的に交じって暮らせば、お互い見慣れすぎて、かえって軽く扱われることもあるだろう。たまにわざわざここまで訪ねてくれるからこそ、自分にも張り合いがあるのだ――明石の君にはそんな思いもあったらしい。

 明石入道も、以前はあれほど娘を都へ上らせたがっていたものの、今度は娘がどのような扱いを受けているのか気がかりでならず、絶えず人を往復させて詳しい様子を聞いていた。聞くたび胸の潰れるようなこともあれば、誇らしく嬉しく思うことも多かった。

太政大臣の死

 そんなころ、太政大臣――かつての左大臣が亡くなった。長く国の重鎮だった人だけに、朝廷でも深く悲しんだ。以前、源氏の失脚に伴って一時引退した時でさえ天下の大騒ぎになったほどなのだから、本当に亡くなった今、悲しまない人は少なかった。

 源氏にとっても、惜しくてならない死だった。これまでは政治のさまざまなことをこの太政大臣へ任せられたから、自分にも多少の余裕があったのである。それがいなくなった今、心細いうえに仕事も急に増え、源氏は深く嘆いた。冷泉帝は年齢のわりにずっと大人び、政治について心配しなければならないような君主ではない。しかし帝を支える中心人物がほかにいない。この役目をいったい誰へ譲れば、自分が静かな暮らしへ退くという願いを叶えられるのだろう――。そう思えば、太政大臣を失ったことはいよいよ痛かった。

 葬儀やその後の法要にも、源氏は実の子や孫以上と思われるほど細やかに心を尽くし、すべてを取り仕切った。

藤壺中宮の病

 その年は、世の中全体が何となく落ち着かなかった。朝廷には不吉な兆しが相次ぎ、空にも平年とは違う月や太陽や星の光、異様な雲の様子が現れたと、人々が騒いでいた。さまざまな専門家から提出された占いや勘文にも、普通ではない内容がいくつも含まれている。源氏だけには、その理由について胸に思い当たることがあった。

 出家した藤壺の中宮は、年の初めからずっと病み続け、三月にはたいそう重くなった。冷泉帝も見舞いの行幸をした。亡き桐壺院と死別したころの帝はまだ幼く、その悲しみを十分理解できる年齢ではなかった。それだけに今、母まで失うかもしれないと思うと、深く嘆いている。その様子を見る藤壺も悲しかった。

「今年はきっと逃れられない年だろうとは思っておりました。でも、特別にひどい病気とも感じられませんでしたので、まるで自分から命の終わりを知っているように大げさなことをするのも、人が嫌に思うだろうと遠慮してしまって、功徳を積むためのことも、普段以上に特別なことはしませんでした。宮中へ参り、ゆっくり昔のお話でもしたいと思っておりましたのに、心身ともに落ち着いた日が少なく、残念なまま時が過ぎてしまいました」

 藤壺は弱々しい声でそう言った。三十七歳だった。まだ本当に若く、美しさの盛りにいるように見える。その人が今、命を終えようとしているのを、帝は惜しく悲しく見つめていた。

「今年は特に慎まなければならない御年だというのに、この何か月もお元気でないことだけでも心配していました。それなのに、特別な祈りも普段以上にはなさっていなかったなんて」

 帝はたいそう心を痛め、今になってさまざまな祈祷をさせた。これまで周囲もいつもの持病だろうと油断していたが、源氏も今度ばかりは深刻に受け止めていた。帝には宮中へ戻らなければならない時間があり、いつまでも母のそばにいられない。その別れも悲しいものだった。

 藤壺は苦しそうで、もう十分に言葉を交わすこともできない。それでも心の中には、何かを思い続けているのだと帝にも感じられた。帝が自分の出生について、夢にも知らないままでいることだけが、藤壺には最後まで心残りだったのだろう。しかし今さらそれを知らせることもできず、それだけは胸に結ぼれたまま死んでゆくことになる――そんな思いでいるようだった。

 源氏も、朝廷のことを考えるだけでも、これほど大切な人々が続けて亡くなることを嘆かずにはいられなかった。それ以上に、人には決して言えない悲しみが限りなく胸にあった。長い年月、断ち切ったつもりでいた藤壺への思いも、今度こそ二度と声を聞けなくなると思えば、どうしようもなくこみ上げてくる。源氏は御几帳の近くまで寄り、藤壺の様子をそばの女房たちへ尋ねた。

「ここ何か月もお苦しい中で、仏道のお勤めを一時も休まず続けていらしたため、お身体がますます弱ってしまわれました。この数日は、柑子のようなものにさえ口をつけてくださらなくなって、もう頼みになるところもなくなっております」

 女房たちは泣きながら話した。

 藤壺はかすかな声で源氏に言った。「亡き院のご遺言に従って、あなたが長い年月、帝の後見をしてくださっていることには、私も何度となくありがたく思ってまいりました。いつか機会があれば、私が特別にあなたを頼りに思っている気持ちも、きちんとお話ししようと思いながら、ずっと先延ばしにしてしまいました。それが今になって、本当に悲しく、残念に思われます」

 その声がかすかに聞こえてくると、源氏はまともに返事もできず、激しく泣いた。人前でなぜこんなに取り乱すのだ、と自分を抑えようとしても、昔から知る藤壺のすべてが思い出される。世間一般から見ても、これほど惜しまれるべき素晴らしい人が、いくら願っても留めることのできない場所へ行ってしまう。どうにもならない悲しみだった。

「私のような至らない者でも、昔からあなた様をお支え申し上げなければならないことだけは、できるかぎり深く心にかけてまいりました。それなのに太政大臣まで亡くなり、ただでさえ世の中が頼りなく思われておりますところへ、あなた様までこのようなお具合では、何もかも心が乱れ、この世に生きている甲斐までなくなってしまうように思われます」

 源氏がそう申し上げているうちに、藤壺は、灯火が静かに消えていくように息を引き取った。

薄雲

 藤壺は高貴な身分であっただけでなく、その心ばえまで世に類のないほど情け深い人だった。有力な家に生まれれば、その力に任せて人へ負担をかけることもあるものだが、藤壺にはそうした乱れが少しもなかった。人々が仕えるにしても、世の苦しみになるようなことは止めさせた。

 功徳を積むことについても、人から勧められるまま大げさで珍しい事業を次々と行うようなことはなかった。ただ自分がもともと持っていた財産、与えられる年官や年爵、封戸からの収入の中から必要なだけを用い、本当に心のこもった供養ばかりを残した。そのため、身分もよくわからないような山伏に至るまで、藤壺の死を惜しんだ。

 葬送の日には都中が悲しみに響くようだった。悲しまない人はなく、殿上人たちも皆、喪の黒一色に沈み、何を見ても華やかさのない春の暮れとなった。

 源氏は二条院の前の桜を見ても、昔の花の宴などを思い出した。

「せめて今年だけは……」

 そう独り言を漏らしたが、人に聞かれれば不審に思われる。源氏は念誦堂へ籠もり、一日中泣いて過ごした。夕日が明るく差し、山際の梢がはっきり浮かび上がる。その上に薄くたなびく雲が、まるで鈍色に染まっているように見えた。今はどんな景色にも心を向ける余裕などないのに、その薄雲だけはたまらなく胸に染みた。

入り日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがへる

夕日の差す峰に薄くたなびいている雲は、悲しみに濡れた私の袖の色を借りて、鈍色に染まっているのでしょうか。

 誰にも聞かれない場所で詠んだところで、その思いを伝える相手はもういなかった。

冷泉帝、出生の秘密を知る

 四十九日などの法要も終わり、周囲が少し静かになると、冷泉帝はいよいよ心細く感じていた。藤壺の母后の代から、代々祈祷の師として仕えてきた老僧がいた。藤壺も特別に信頼していた人で、朝廷でも重く扱われ、多くの大願を立てた高名な聖である。すでに七十歳ほどで、今は最期の修行をするため山へ籠もっていたが、藤壺の病のため再び出てきたので、帝は宮中へ召し、しばらく常にそばへ仕えさせていた。

 源氏も、「このところは、もうしばらく以前のように宮中へお仕えください」と勧めた。僧都は、「もう夜通しおそばに控えるような勤めは身体に堪えますが、帝のお言葉の恐れ多さと、昔からのご縁もございますので」と承知していた。

 ある静かな明け方、帝のそばにはほとんど人がいなかった。退出した者もいて、あたりがひっそりしている時だった。老僧は昔風に咳払いをしながら世の中のことを奏上していたが、その途中で、ふと話を切った。

「あまりにも申し上げにくいことで、むしろ私自身が罪を得るのではないかと、長くためらってまいりました。しかし帝が何もご存じないままでは、私の罪のほうが重いように思われ、仏天の御目も恐ろしく感じます。このことを胸に隠したまま命を終えて、いったい何の意味がございましょう。仏様からも、心の汚れた者と思われるのではないかと……」

 そこまで言って、僧都はどうしても続きを口にできなかった。

 帝は、いったい何のことだろうと思った。老僧ほどの人でも、この世に恨みを残すことがあるのだろうか。僧侶というのも、聖と呼ばれていても、時には妙な嫉妬や執着を持つことがあるというが――そんなことまで思い、「私は幼いころから、あなたに何も隠しているつもりはありませんでした。それなのに、あなたのほうでは、このように私へ秘密にしていたことがあるのですね。それを残念に思います」と言った。

 老僧はあわてた。「恐れ多いことでございます。私は、仏の御教えである真言の深い道でさえ、秘密にしたままにはせず、お許しの範囲で広くお伝えしてまいりました。まして帝に対して、心に隠し事などあるはずがございません。ただ、これは過去にも未来にも関わる大事で、亡き院、亡き中宮、そして今この国の政治を担っておられる内大臣にとりましても、漏れればかえってよくないことになるのではないかと恐れていたのです」

「この老法師一人の身にどんな災いが起きようと、今さら悔いることなどございません。仏天からの告げがあるため、あえて申し上げます。帝がまだ中宮のお腹にいらしたころから、亡き中宮には深く思い悩んでおられることがあり、そのため私が御祈祷を承ったことがございました。その詳しい事情までは、私にもわかりません」

「その後、思いがけない成り行きで内大臣が罪を受けて都を離れられた時、中宮はますます恐れを深くなさり、重ねていくつもの祈祷を私へお命じになりました。内大臣もそのことをお知りになり、さらに特別のご依頼を加えられて、帝が御位にお就きになるまで、私は祈祷を続けてまいりました。その時に承ったことというのは――」

 そして老僧は、帝の本当の父が源氏であることを、詳しく語った。

 冷泉帝は、あまりにも思いもよらない、聞いたこともない事実に愕然とした。恐ろしくもあり、悲しくもあり、いくつもの思いが一度に押し寄せ、心は大きく乱れた。

 長いこと返事もないので、僧都は、余計なことを申し上げてしまい、帝を不快にさせたのではないかと不安になった。静かに頭を下げて退出しようとすると、帝は呼び止めた。

「もし何も知らずにこのまま過ごしていたら、私は後の世まで責めを受けることになったかもしれません。それほどのことが、今まで秘密にされていたというのは、かえって不安です。この事実を知り、誰かほかへ漏らしている者はいないのですか」

「決してございません。私と王命婦のほかに、この事情を知っている者はおりません。そのためにこそ、私は恐ろしく思っているのです。天変が繰り返し警告を示し、世の中が落ち着かないのも、このことが原因なのでございましょう。帝が幼く、何もおわかりにならないころならともかく、今は御年も重なり、物事を判断なさる時になりました。それゆえ天が罪を示しているのでございます。すべてのことは親の代から始まるものと申します。帝ご自身が何の罪かもご存じないことこそ恐ろしく、私は一度は心から消してしまったこの秘密を、とうとう申し上げてしまいました」

 老僧は泣きながらそこまで申し上げた。やがて夜が明けきり、退出していった。

「この方が、私の父なのか」

 冷泉帝は、夢の中の出来事のような秘密を知らされ、さまざまに思い乱れた。亡き桐壺院に対しても恐れ多い。実の父である源氏が、何も知らない自分に臣下として仕え続けていることも、あまりにももったいなく、悲しい。あれこれ悩み続け、日が高くなっても御座所から出てこない。

 帝の様子がおかしいと聞いた源氏は驚き、すぐ参内した。帝は源氏の姿を見ると、それだけでいよいよ感情を抑えられなくなり、涙をこぼした。源氏は、藤壺を亡くした悲しみがまだ一日として乾かない時なのだから、きっとそのためだろうと思っていた。

 その日には、さらに式部卿宮が亡くなったという知らせまで入った。帝はいよいよ世の中の騒がしさを嘆いた。こういう時だったので、源氏も邸へ帰ることができず、宮中に付き添ったまま過ごした。

 静かな話の中で、帝は言った。「この世も、もう終わりへ向かっているのでしょうか。何となく心細く、いつもとは違う気持ちがします。天下までこのように落ち着かず、何もかもが慌ただしい。これまでは亡き母宮がどう思われるかと考えて、世間のさまざまなことも慎んでまいりました。でも今は、もっと身軽な立場になって静かに暮らしたいという思いが強くなりました」

 源氏はすぐに否定した。「それは決してお考えになるべきことではありません。世の中が穏やかでないからといって、必ずしも政治が正しいか間違っているかだけが原因ではないのです。古い時代にも、立派な帝の御代に思いがけない乱れが起こった例は唐にもありますし、日本にもございます。まして今、寿命を迎えるべき年齢の方々が相次いで亡くなったことまで、帝がお嘆きになる必要はございません」

 ほかにも源氏は多くのことを申し上げた。そのすべてを書き写そうとするのは、かえって気が引けるほどである。

 喪のため普段より濃い黒の装束に身をやつした源氏の顔は、帝が鏡を見る時に見慣れている自分自身の顔と、不思議なほどよく似ていた。以前から何となく似ているとは思っていたものの、秘密を聞いた後では、帝は今までとは違う目で、源氏の姿を細かく見つめずにはいられない。見るほどに胸がいっぱいになり、どうにかしてこのことを少しでも源氏へほのめかしたいと思った。

 しかし源氏にとっては、知られれば耐えがたいほど気まずいことに違いない。まだ若い帝には、それを口にする勇気がなかった。そこで普段以上に親しみ深い態度で、ただ世間のさまざまなことを話した。

 帝が妙にかしこまり、いつもと違う態度を取るので、勘の鋭い源氏も何か変だとは感じた。けれど、まさか出生の秘密をここまで確実に知られてしまったとは、夢にも思わなかった。

帝、源氏への譲位を考える

 冷泉帝は王命婦を呼び、もっと詳しく事情を聞きたいとも思った。しかし今さら、自分が藤壺の隠し続けた秘密を知ってしまったと王命婦に悟られるのも嫌だった。それなら源氏にそれとなく尋ね、昔にもこういう例があったのかと聞いてみようと思うものの、適当な機会がない。

 そこで帝は以前にもまして学問に励み、さまざまな書物を調べた。唐の歴史には、表向きにも秘密のうちにも、皇統をめぐる複雑な事例が数多くあった。しかし日本の書物には、自分とまったく同じような例を見つけることができない。そもそも、これほど秘密にされたことなら、あったとしても後世にどう伝わるというのだろう。

 一度臣籍に下って源氏となった者が、納言や大臣にまで進んだ後、改めて親王となった例、さらには皇位に就いた例もいくつかあった。源氏ほど優れた人物なのだから、それを理由として帝位そのものを譲ってしまうことはできないだろうか――冷泉帝は、そこまで考えるようになった。

 秋の人事で、源氏を太政大臣にすることが内々に相談された折、帝はついに、自分が考えていることをそれとなく源氏へ漏らした。しかし源氏は、あまりにも恐れ多く、身もすくむように感じ、絶対にあってはならないことだと強く辞退した。

「亡き院は多くの皇子の中でも特に私を可愛がってくださいました。それでも私へ帝位を譲ろうとはお考えにならず、臣下として生きる道をお定めになりました。どうして私が今さらそのお考えを変え、身のほどを越えた地位へ上ることができましょう。ただ亡き院のお定めどおり朝廷へお仕えし、もう少し年を重ねましたら、静かな仏道の生活へ籠もりたいと、それだけを願っております」

 いつもと変わらない言葉でそう申し上げる源氏を、帝は何とも残念に思った。

 太政大臣への昇進についても決定はしていたが、源氏にはしばらく待ちたい考えがあった。そのため今回は位階を一段上げられ、宮中への牛車での出入りを許されるにとどまった。それでも帝は満足できず、源氏を親王へ戻したいと繰り返し考えていた。

 しかし今、源氏が朝廷を離れてしまえば、世の中を支える者がいなくなる。権中納言は大納言となり、右大将を兼ねるようになっていた。もう一段この人が成長すれば、政治の多くを任せられるだろう。その時になってから、自分は静かな暮らしへ移ろう――源氏はそう考えていた。

 それにしても、亡き藤壺のことを思えば、この秘密が帝へ伝わってしまったことは気の毒でならない。帝がこれほど思い悩んでいる姿を見るのも恐れ多かった。一体誰が漏らしたのだろう、と源氏は不思議に思った。

 王命婦は今、御匣殿の跡を継ぐような地位に移り、宮中に局を与えられていた。源氏は会った折、それとなく尋ねた。「あのことを、何かのついでに、ほんの少しでも帝へ申し上げたことがありますか」

 命婦はきっぱり否定した。「決してございません。中宮は、帝がお知りになることを何より恐ろしいことと考えておられました。それに帝ご自身が罪を負うことになりはしないかと、最後までお心を痛めていらしたほどです」

 それを聞けば聞くほど、源氏は藤壺の思慮深く、奥行きのある人柄が恋しくてならなかった。

斎宮女御と秋の夕暮れ

 前斎宮の女御は、源氏が願っていたとおりの強力な後見を得て、宮中でも非常に重く扱われていた。振る舞いも気配も源氏の理想どおりで、欠点のない女性に見える。冷泉帝も大切な人として、たいそう丁重に扱っていた。

 その年の秋、女御は二条院へ里下がりした。源氏は寝殿をいっそう輝くようにしつらえ、今では本当に父親そのもののように世話をしていた。静かな秋雨が降る日だった。庭の草木は色とりどりに乱れ、露がびっしり置いている。その景色を眺めると昔のことが次々と思い出され、源氏は袖を濡らしながら女御の部屋へ向かった。

 濃い鈍色の直衣姿で、世の中が騒がしいことを理由にそのまま精進を続けているため、数珠をそっと衣の中へ隠している。その姿は慎ましく整っていながら、相変わらず尽きることのない艶やかさを漂わせていた。源氏は御簾の内へ入り、几帳一枚だけを隔てて女御へ直接話しかけた。

「庭の草花は、もう残らず蕾を解いてしまったようですね。こんなにも寂しい年なのに、自分だけ時節を知っているような顔で花を咲かせているのを見ると、それもまたしみじみします」

 柱にもたれて座る源氏の夕映えの姿は、本当に見事だった。源氏は昔のこと、六条御息所のこと、野宮まで訪ねていって夜明け近くまで立ち去りかねたあの日のことなどを話した。女御も深く心を動かされている。母のことだからだろう、少し泣いている気配までした。

 その涙声も、わずかに身じろぎする様子も、驚くほど柔らかく艶やからしい。こんな近くにいながら顔を見ることができないのが惜しい、と源氏の胸が騒ぐ。まったく困ったことである。

「これまでの私は、特別に悩むこともなく生きられたはずの人生なのに、自分自身の浮ついた心のせいで、恋の物思いが絶えることはありませんでした。あってはならないようなことにまで心を動かし、そのため苦しい思いをさせた女性も何人もいます。その中でも、最後まで心のもつれが解けないまま終わってしまったことが二つあるのです。一つは、亡くなったあなたのお母上のことです」

「あの方は最後まで私を恨んだまま、思い詰めて亡くなってしまわれた。それが長い人生の中でも消えない心残りでした。今こうしてあなたのお世話をし、私の気持ちをわかっていただける立場になれたことだけを慰めにしています。それでも、あの方が胸に抱えたまま煙となってしまった思いは、やはり今も晴れません」

 そう言いながら、もう一つの心残りについては、源氏は途中で口を閉ざした。

「私自身が世の中から消えたように沈んでいたころ、あちらこちらについて願っていたことは、今では少しずつ叶いました。東の院にいる女性のことも、はっきりしないまま放っておくのが気がかりでしたが、今では落ち着いて暮らせるようになった。性格が欲深くないことなども私も周囲もよくわかり、かえってすっきりした気持ちです」

「こうして再び朝廷の後見役を務めるようになったことなどは、それほど深く嬉しいとも感じないのに、こういう恋めいた気持ちだけは、どうしても鎮めきれないものです。私があなたをただならぬほど思いながら、それでもずっと堪えて後見役に徹してきたことくらいは、おわかりなのでしょうか。せめて『ありがたい』と一言でもおっしゃってくださらなければ、あまりに張り合いがありません」

 女御は困って、何も答えなかった。

「やはりそうですか。なんてつれない人でしょう」

 源氏はそう言うと、別の話へ紛らわせた。

「今はもう、どうにか静かな場所へ籠もり、生きている間に心残りをなくして、来世のための勤めも思うようにしたいと思っています。でも、この世の思い出として残るようなことが何一つないのは、それはそれで寂しいものですね。まだ幼い子もおりますが、成長を待つにはあまりに先が長い。恐れ多いお願いですが、これからもあなたのお心の門を広くしておいて、私がいなくなった後にも、その子を人の数に入れてやってください」

 女御はようやく、一言ほどほのめかすように答えた。そのおっとりした声がたいそう親しみ深く、源氏は聞き入って、しめやかな夕暮れまでそこを離れなかった。

春と秋、どちらを好むか

 源氏はさらに話した。「大きな望みはさておいて、せめて一年をめぐる春の花、秋の紅葉、空の色の移り変わりだけでも、心ゆくまで楽しめる暮らしがしたいものです。昔から春の花盛りと秋の野の美しさとでは、それぞれ好みが分かれて、人はどちらが優れていると争ってきましたが、結局これこそという決着はないようですね」

「唐では、春の花の錦に勝るものはないと言うらしい。一方、日本の歌では秋の物悲しさをことさらに尊んでいる。私自身は、その季節ごとに目移りしてしまって、花の色と鳥や虫の声のどちらがよいのかさえ決められません。たとえ狭い垣根の中でも、季節の心が十分わかるほど春の花木を植え、秋の草を移して、野でむなしく鳴いている虫まで住まわせ、それを皆に見せるような暮らしをしてみたい。あなたは、春と秋のどちらがお好きなのでしょう」

 女御には答えにくい問いだったが、まったく返事をしないのも冷たすぎると思い、ようやく言った。

「私に春と秋のどちらがよいかなど、どうしてわかりましょう。ただ、いつの季節とも決められない中では、昔、不思議なものだと聞いたあの秋の夕暮れだけは、はかなく露のように亡くなった母を思い出すよすがとして、心に残っております」

 何でもないことのようにそっと言って、言葉を消してしまう。その様子があまりにも愛らしかったので、源氏はまた気持ちを抑えられなかった。

君もさはあはれを交はせ人知れずわが身にしむる秋の夕風

あなたもそれなら、私と秋の「あはれ」を分かち合ってください。人には知られず、私の身に深く染み入るこの秋の夕風を。

「私にも、堪えきれなくなる折というものがあるのですよ」

 そう言ってみたものの、女御から返事があるはずもない。何をおっしゃっているのかわかりません、という顔をしている。この機会に源氏は、これまで抑えてきた恨み言までいくつか口にしたようである。

 もう少し勢いに任せれば、源氏は何か間違いを犯してしまったかもしれない。けれど女御が心から嫌そうにしているのも当然だったし、自分でも、何という若々しく不埒な心だ、と我に返った。女御が物静かで奥深く、しかも艶やかな人であるほど、かえって源氏自身も自分の振る舞いが嫌になった。

 女御が静かに奥へ引っ込もうとする気配を見せると、源氏は、「まあ、ずいぶん嫌われてしまいましたね。本当に心の深い人なら、こんなふうにはなさらないものだと思いますが。もういい。これからは、私のことなど思い出してくださらなくて結構です。こちらもつらいですから」と言って、部屋を出ていった。

 そのあとに残った源氏の湿り気を帯びた香りまで、女御には疎ましく感じられた。女房たちが格子を下ろしに来ると、「この御茵に残っている香りは、何とも言いようがありませんね。どうしてあのお方は、よいところばかりを一つに集めて、柳の枝に花まで咲かせたようなお姿なのでしょう。恐ろしいくらいです」と囁き合った。

 源氏は紫の上のいる対へ戻っても、すぐ中には入らず、しばらく外近くに横になって物思いをしていた。遠くに灯籠をかけ、近くには女房を何人か置いて、何となく話などをさせている。こうして一つのことに強く心を塞がれてしまう昔からの癖が、自分にはまだ残っていたのだな、と源氏は自分自身に呆れた。

 前斎宮に恋心を持つなど、あまりに似つかわしくない。昔の藤壺への思いは、はるかに恐ろしく罪深いものだったかもしれないが、あのころはまだ若く、恋の先を思いやる心も足りなかった。その過ちだからこそ、仏や神も許してくださったのだろう――。そう考えてみると、今回のほうが年齢も立場もわきまえながらのことだけに、かえって安心できない、根深い執着なのだと思い知らされた。

 女御のほうも、つい「秋が心に残る」などと答えてしまったことを、後になって悔しく恥ずかしく思い、一人で気分まで悪くなるほどだった。源氏はそれを知ってか知らずか、むしろ何でもない顔をして、それまで以上に親らしく世話をして歩いた。

 そして紫の上には、「女御が秋に心を寄せていらしたのも風情がありますし、あなたが春の曙をお好きなのももっともですね。四季それぞれの草木や花に寄せて、心ゆく遊びをしてみたいものです」と話した。

「公私ともに仕事の多い私には似つかわしくない願いですが、何とかいつか思うようにしてみたい。ただ、あなたが退屈な思いをするのではないか、それだけが気がかりなのですよ」

大堰の篝火

 大堰の明石の君はどうしているだろう、と源氏は絶えず思いやっていた。しかし立場がますます重くなった今、そこまで出かけるのは以前にも増して難しい。明石の君がこの世をつらく、どうにもならないものと思っている様子を見ると、どうしてそこまで思い詰めるのだろうとも感じる。

 明石の君は、気軽に都へ出て源氏のそばでありふれた暮らしをするつもりはなかった。それは身のほどを越えた考えだと源氏も思う反面、彼女の気持ちが気の毒でもある。そこでいつものように、不断の念仏のためという名目を立てて大堰へ出かけた。

 住み慣れるほど、大堰はもの寂しく、胸に迫る山里だった。特別に深い関係のない人でさえ、ここにいれば情趣を感じずにはいられないだろう。まして明石の君は、源氏にとってつらい巡り合わせの相手でありながら、その縁そのものは決して浅くない。会えばかえって慰めきれないほどの悲しみを見せるので、源氏もどう言葉をかければよいのかわからなくなる。

 深く茂った木々の間から篝火の光がちらちら差し、それが遣水の上を飛ぶ蛍と見紛うように揺れているのも美しかった。

 源氏は、「私も昔、あんな海辺の暮らしをしていなかったなら、こういう寂しい住まいも珍しく感じたのでしょうけれどね」と言った。

 明石の君は答えた。

漁りせし影忘られぬ篝火は身の浮舟や慕ひ来にけむ

明石で漁り火を見ていたころの面影が忘れられません。この篝火は、浮舟のように頼りない私の身を慕って、ここまでついてきたのでしょうか。

「昔の火影と見間違えてしまいます」と言うと、源氏は返した。

浅からぬしたの思ひを知らねばやなほ篝火の影は騒げる

私が心の底に抱いている、浅くない思いをあなたがわかってくださらないからでしょうか。今夜も篝火の影は、こんなにも落ち着かず揺れているのですね。

「いったい誰を、そんなに恨めしい人だと思っているのです」

 源氏はそう言って、また明石の君を恨むように言葉を返した。

 このころは世の中全体がどこか静まり、源氏自身も仏道のことへ心を向けることが多かった。そのためいつもより幾日か長く大堰に滞在し、明石の君の寂しさも、少しは紛れたのだろうという。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次