『源氏物語』第52帖「蜻蛉」現代語訳全文を読む|わかりやすい口語訳

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」尾形月耕『源氏五十四帖』

 このページでは、『源氏物語』第52帖「蜻蛉」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。

 原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第52帖「蜻蛉」原文全文をご覧ください。

目次

浮舟が消えた朝

 宇治の邸では、浮舟がどこにもいないことに気づいた人々が、あたりを探し回って大騒ぎになった。しかし、いくら探しても見つからない。まるで物語の姫君が何者かにさらわれ、その翌朝になったような騒ぎだったので、ここで一つ一つ詳しく語るまでもないほどである。

 京から来ていた昨日の使いがまだ戻らないので、母君は心配し、さらに別の使いをよこした。「まだ鶏が鳴くころに、こちらから出発させました」とその使いが言う。では、母君に何と申し上げればよいのか。乳母をはじめ、皆は限りなく取り乱した。

 ただ騒ぐばかりで、どこを探せばよいのかさえわからない。けれど浮舟の苦しみを知っていた右近や侍従たちだけは、ここ数日のあまりに思い詰めた様子を思い出し、――もしや川へ身を投げたのでは――と考えた。

 泣きながら母君からの手紙を開くと、「あまりに気がかりで眠れなかったせいでしょうか、今夜は夢にさえ、あなたが穏やかな姿で現れませんでした。何かに襲われるような夢ばかり見て、私までいつもと違う嫌な気分です。やはり恐ろしくてなりません。お移りになる日は近づいていますけれど、それまでの間、一度こちらへお迎えしましょう。今日は雨も降りそうですから」などと書いてあった。

 昨夜、浮舟が母君へ書いた最後の返事も開いて見ると、右近は声を上げて泣いた。

 「やっぱり。心細いことを、ちゃんと母君にはお書きになっていたのね。どうして私には一言もおっしゃらなかったの。幼いころから、ほんの少しも心を隔てられたことなどなく、何でも隠さずお仕えしてきたのに。最後の道へ行かれる時だけ、私を置き去りにして、気配さえ見せてくださらなかったなんて、あんまりです」

 足をばたばたと踏み鳴らして泣く姿は、幼い子どものようだった。浮舟がひどく思い悩んでいることは皆わかっていた。しかし、あのおっとりした人が、まさかこれほど思い切った恐ろしいことをするとは誰にも見えなかった。それだけに、「本当に、いったい何が起こったのだろう」と、ただ恐ろしく、悲しかった。

 乳母はかえって何も考えられなくなり、「どうしたらいいの、どうしたらいいの」と、そればかり繰り返していた。

匂宮にも「浮舟が亡くなった」と知らされる

 匂宮も、浮舟から届いた最後の返事がいつもとはひどく違っていたので、気になっていた。

 ――いったい何を考えているのだろう。私を愛してはくれているようなのに、それでも私の心を浮気なものだと深く疑っている。どこかへ逃げて、身を隠そうとしているのではないか。

 心配になり、すぐ使いを宇治へ出した。

 使いが着いた時、邸では皆が泣き惑っている最中だったので、宮の手紙を取り次ぐことさえできない。使いが下女に「何があったのだ」と尋ねると、「姫君が今夜、急に亡くなってしまわれました。皆、何も考えられません。頼りになる方もいらっしゃらない時ですので、女房たちは物にぶつかりながら取り乱しております」と答えた。

 使いの男は深い事情までは知らない。詳しく問いただすこともせず、宮のもとへ帰った。

 その報告を受けた匂宮には、まるで夢のようだった。

 「おかしい。重い病気だとは聞いていない。ここしばらく具合が悪いとは言っていたけれど、昨日の返事など、そんな気配もなく、むしろいつもよりかわいらしく書いてあったのに」

 どう考えても納得できない。

 「時方。おまえが行って様子を見て、本当のところを詳しく聞いてこい」

 宮が命じると、時方は困った顔をした。「大将殿が何かお聞きになったらしく、このごろは宿直をしている者たちへ厳しく注意なさり、下人が外へ出るだけでも見咎めて問いただしているそうです。何の口実もなく私が行けば、後で噂になった時、大将殿が何かお気づきになるかもしれません。それに人が急死した家ですから、今は大変な騒ぎで、人も大勢集まっていることでしょう」

 それでも宮は、「だからといって、何もわからないままでいられるか。何とかうまく入り、事情を知っている侍従などに会って、本当はどうなのか聞いてこい。下人などは間違ったことも言うものだ」と命じた。

時方、宇治へ確かめに行く

 身軽な時方は、その日の夕方には宇治へ着いた。雨は少しやんでいたが、ひどい山道を越えるため、身なりを崩して下男のような姿になっていた。

 邸では大勢が立ち騒ぎ、「今夜のうちに、そのまま葬送を済ませるそうだ」などと言っている。それを聞く時方も、あまりのことに呆然とした。

 右近に取り次ぎを頼んだが、右近は、「今は何も考えられず、起き上がることさえできません。とはいえ、今夜くらいしか、そちらの方々もこちらへ寄ることはできないでしょうけれど、とてもお話しできる状態ではございません」と断った。

 時方が、「それでも、このまま何もわからずに帰ることはできません。せめてどなたかお一人だけでも」と強く頼んだので、侍従が出てきた。

 侍従は泣きながら、「本当に信じられないことです。誰も思いもしなかったような形で亡くなられてしまい、悲しいなどという言葉では足りません。皆、夢の中にいるように取り乱しております、と宮さまへお伝えください。私も少し気持ちが落ち着いたら、ここ何日も姫さまがどれほど思い悩んでいらしたか、昨夜どんなに苦しそうでいらしたかなども、お話しいたします。この穢れを人が忌む期間を過ぎたころ、もう一度お立ち寄りください」と言った。

乳母の嘆きと、秘密の葬送

 家の中からは、ただ泣き声ばかりが聞こえてくる。乳母らしい声が、「姫さま、どこへ行ってしまわれたのです。帰ってきてください。亡骸だけでも拝見できないなんて、何という悲しいことでしょう。朝夕お姿を見ても見飽きることなどなく、早くお幸せになられた御様子を見たいと、それだけを頼みに生きてきたのに。私を置き去りにして、行方まで知らせてくださらないなんて。

 鬼神だって姫さまを自分のものにはできないでしょう。人が心から惜しむ者は、帝釈天だって返してくださるといいます。姫さまを連れて行ったのが人であろうと鬼であろうと、返してください。せめて亡骸だけでも見せてください」と叫んでいる。

 時方は、「亡骸さえない」というような妙な言葉が混じるのを不思議に思った。「もっとはっきりおっしゃってください。もしかすると、誰かが姫君を隠しているのですか。宮さまが確かな事情を知ろうと、ご自分の代わりに私をお遣わしになったのです。今となっては、何であっても取り返しはつかないでしょう。しかし後で別の話と食い違えば、使いに来た私の罪になります」と迫った。

 侍従も、これほど異常な亡くなり方なら、いずれ隠しきれなくなるだろうと思い、すべてをはっきりとは言わないながら、浮舟が長くひどい物思いをしていたこと、薫から何か厳しいことをほのめかされたこと、母君たちは薫のもとへ移す準備をしていたこと、そして浮舟自身が心を乱し、どうやら自分から身を消したらしいことを、少しずつ語った。

 そのころ、激しい雨に紛れるように母君も宇治へ来ていた。目の前で娘が死ぬのなら、どれほど悲しくても世間には同じ例がある。けれど、これは何なのか。姿そのものが消えている。

 娘が匂宮とのことでこれほど思い悩んでいたとは知らない母君には、自分から川へ身を投げたとは思いも寄らない。「鬼にでも食われたのか。狐のようなものにさらわれたのか。昔物語には、そんな不思議な話もあった」とまで考えた。

 やがて侍従たちは、浮舟が「死んでしまいたい」と泣いていた日々を思い返し、硯の下から「亡き影に」と書きつけた手習いまで見つけた。川の方へ目を向ければ、轟々と水音が響いている。

 ――やはり、この川へ流されてしまったのだ。

 母君は、「せめて流された場所を探して、亡骸だけでもきちんと葬ってやりたい」と言う。しかし女房たちは、「もう何の甲斐もございません。どこへ流されたとも知れず、大海まで行ってしまわれたかもしれません。それより、このことが人の噂になるほうが恐ろしいのです」と止めた。

 そこで、亡骸のないまま葬送をしたことが露見しないよう、浮舟が日ごろ使っていた調度や、脱いで残した夜具などを車へ載せ、乳母子の僧、その叔父の阿闍梨や弟子など、昔から事情を知る僧だけを集め、あたかも亡骸を運び出すようにして葬列を作った。

 乳母と母君は、地に伏して転げ回るほど泣いた。

 薫から宇治の警護を命じられていた大夫や内舎人たちもやって来て、「葬送のことは大将殿へ申し上げ、日を定めて、立派に執り行うべきです」と言った。しかし女房たちは、「今夜を越すつもりはございません。人知れず済ませたい事情がありますので」と押し切った。

 車を向かいの山の前の原へやり、人を近づけず、事情を知る僧だけで焼いた。亡骸もないのだから、煙はあっけなく消えてしまった。

薫、浮舟の死を知る

 薫はそのころ、入道の宮が病気だったため石山寺へ籠もり、祈りに明け暮れていた。宇治のことは気になっていたが、誰からもはっきりした知らせはない。そんな重大な出来事にもかかわらず、自分のもとへ真っ先に使いが来なかったことにも、不快なものを感じていた。

 やがて荘園の者が来て浮舟の死を知らせた。薫は、あまりのことに言葉を失った。翌朝すぐに使いを出し、「こんな大変なことなら、聞いたその場で私自身が行くべきでした。しかしこちらの御病気のため、日数を決めて寺に籠もり、慎んでいたのです。昨夜の葬送も、なぜこちらへ知らせなかったのです。日を延ばすことだってできたはずなのに、あまりに軽々しく急いで済ませてしまった。どうしたところで亡くなったことは変わらないけれど、最後の葬送まで土地の者に非難されるような形では、こちらにとってもつらい」と言わせた。

 けれど宇治の人々には、本当の事情を説明できない。ひたすら泣くばかりで、まともな返事もできなかった。

 薫は、浮舟があまりにあっけなく死んだと聞き、胸が痛んだ。

 ――なんという嫌な場所だったのだろう。鬼でも住んでいるのか。どうして今まで、あんな所へ一人で置いていたのだ。何か思いがけない男女の揉め事が起きているらしいとは感じていた。それも、私が離れた場所へ置いて安心していたからこそ、誰かが近づくことができたのではないか。

 何事にも悠長で、世間離れした自分の性格が悔しくてたまらない。浮舟の姿、愛嬌のある顔、かわいらしかった気配が、たまらなく恋しく悲しかった。

 ――生きている時には、どうしてあんなに落ち着いて構え、もっと心を晴らしてやれなかったのだろう。今となっては、悔やんでも悔やみきれない。私は女との縁では、ひどく苦しまなければならない宿世なのだろうか。もともと世間とは違う生き方をしたいと思っていたのに、思いがけず普通の男のように生きている。その私を、仏が快く思っていないのかもしれない。

 人に道心を起こさせるためなら、仏の方便というものは慈悲を隠し、こんな残酷な形で示されることさえあるのだろう。

 薫はそんなことを考えながら、ひたすら仏道の行いに心を向けた。

匂宮は病に伏す

 匂宮のほうは、薫以上だった。二、三日は何もわからず、正気を失ったようになった。周囲は「いったいどんな物の怪がついたのか」と大騒ぎする。

 やがて泣く涙も尽き、少し気持ちが静まってくると、かえって浮舟と過ごした日々が、たまらなく恋しく思い出された。

 人には、ただ病気が重いように見せ、「こんな恋のために取り乱していることだけは知られまい」と宮は懸命に隠しているつもりだった。それでも、あまりに様子がはっきりしているので、「いったい何があって、命まで危ういほどお嘆きなのだろう」と噂する人さえいた。

 その様子は薫の耳にも入った。

 ――やはりそうだったか。手紙をやり取りしていただけの仲ではなかったのだ。宮が実際に浮舟を見たなら、必ず夢中になるだろうと思える人だった。もし浮舟が生きていたら、ただ死なれた以上に、自分にとって愚かで見苦しい争いが起こっていたかもしれない。

 そう思うと、焼けるようだった薫の胸も、ほんの少しだけ冷える気がした。

薫と匂宮、互いに悲しみを隠して対面する

 匂宮の見舞いには、毎日、人が途切れることなく訪れ、都中の騒ぎになっていた。薫も、「正式な妻でもない女への悲しみに籠もりきって、宮のお見舞いにさえ行かないのでは、かえってひねくれて見える」と思い、宮を訪ねた。

 そのころ式部卿宮も亡くなっていたので、薫は叔父の喪に服し、薄鈍色の衣を着ていた。その色も、心の中の悲しみによく似合う。少し頬が痩せ、以前よりさらに艶やかに見えた。

 匂宮もずっと寝込んでいるわけではなく、親しい者とは御簾越しに対面していた。しかし薫に顔を見せるのは、何となく気まずい。薫を見ただけで涙がこぼれそうになるのを必死に抑え、「大病というほどではないのですが、皆がひどく慎まなければならない病だと言うので、内裏も中宮も騒がれるのがかえって苦しくて。世の中が本当に無常だということまで、心細く感じております」と言った。

 拭って隠したつもりの涙が、そのまま次々と落ちてしまう。

 宮は、――薫はこれをどう見るだろう。ただ女々しく、心の弱い男だと思うだけかもしれない――と考える。それと同時に、――やはり私は浮舟のことだけを思っている。薫はいつから私たちのことを知っていたのだろう。私をずいぶん滑稽な男だと思いながら、この何か月も見ていたのだろう――とも思った。

 一方、薫は宮ほど露骨には泣かない。宮はそれを見て、――なんと薄情なのだろう。本当に切実な悲しみなら、関係のない空を飛ぶ鳥の声を聞いただけでも涙が催されるものだ。それなのに、この人は世の無常を誰より深く知っているはずなのに、こんなに平然としている――と、うらやましくも、底知れなくも思った。

薫、浮舟のことを匂宮へほのめかす

 しばらく世間話をしたあと、薫は、すべてを胸に隠したままにするのも不自然だと思い、静かに話し始めた。

 「昔から、心の中に何か隠したまま、あなたに申し上げずにいることがあると、どうにもすっきりしないものでした。しかし今では私も重い身分になり、あなたもお忙しく、昔のように宿直などで何となく一緒に夜を過ごすこともなくなりました。

 昔、あなたも御覧になった宇治の山里に、若くして亡くなった方がおりました。その方と同じ縁につながる女性が、思いがけない所にいると知りまして、時々会ってみようかと思ったのです。けれど世間の非難を受けそうなころでしたので、あの宇治へひそかに住まわせておりました。

 私もそう頻繁に会いに行ったわけではありませんし、向こうも私一人だけを特別に頼っていたわけでもなかったようです。それでも身筋は大切に思っておりましたし、会えば特に嫌なところもなく、気楽でかわいらしい人だと思っていた。その人が、実にあっけなく亡くなってしまいました。

 この世全体のことまで考え合わせると、何とも悲しくて。宮も、何かお聞きになっているかもしれませんね」

 薫はそう言いながら、とうとう涙をこぼした。

 匂宮も、「昨日、ほんの少し聞きました。本当にお気の毒なことです。何かお悔やみを申し上げたいと思っておりましたが、わざと人へお知らせになっていないことだと聞きましたので」と、何事もないように答えた。しかし胸の中では耐えがたく、口数が少なくなった。

 薫はさらに、「いつか、そういう縁の人として宮にも御覧に入れられればと思っていた人なのです。自然と、こちらへ参上する縁もあったでしょうから」と、少しだけ意味ありげに言った。

 そして、「御具合の悪い時に、こんなつまらない世間の話を聞いてお耳を騒がせるのもよくありません。よくお慎みください」とだけ言い残し、帰っていった。

 薫は帰りながら思った。

 ――宮は本当にひどく思っていたのだな。浮舟の一生は短く、あっけなかったけれど、考えてみれば高い宿世を持った人だった。今の帝と中宮があれほど大切になさる親王が、容貌から何から、この世に並ぶ者のない宮なのだ。その宮が、身分の高い女たちを差し置き、浮舟一人のために心を尽くしている。

 そして自分も、帝の御娘を妻にしながら、浮舟をかわいらしく思う心では決して宮に劣っていなかった。

 ――人は木や石ではないのだから、誰にだって情というものはある。

 そう古い言葉を口ずさみ、薫もまた横になった。

浮舟が移るはずだった日

 月が改まり、本来なら浮舟が新しい住まいへ移るはずだった日になった。その夕暮れ、薫は何とも言えない寂しさに包まれた。

 庭近くの橘が懐かしい香りを漂わせ、ほととぎすが二声ほど鳴いて飛び過ぎてゆく。

 薫は古歌の「宿に通はば……」と独り口ずさんだが、それだけでは思いを収められない。橘の枝を折らせ、北の宮へ歌を送った。

忍び音や君も泣くらむかひもなき死出の田長に心通はば

あなたも人知れず泣いていらっしゃるのでしょうか。もう呼んでも返事のない、死出の旅へ去ったあの人を、ともに思う心が通じているのなら。

 返事には、

橘の薫るあたりはほととぎす心してこそ鳴くべかりけれ

橘の薫るあなたのあたりでは、ほととぎすも、誰を思って鳴くのか、よく心して声を上げたほうがよいのでしょうね。

 とあった。少し面倒そうな気配までこもっている。

 中君も、浮舟をめぐる事情は今ではほとんど知っていた。こんなにもあっけなく消えてしまった一人の女性をめぐって、皆がそれぞれ深く悲しんでいる。その中で、自分だけがまだ生き続けているのは、自分が物のあわれを知らないからなのだろうか。それにしても、いつまで生きていられるのだろう、と心細く思った。

 匂宮も、もう隠し通す必要のないことなのに、中君へ何も話さないままなのはかわいそうに思い、あの夜のことなどを少し形を変えながら語った。

 「あなたがあの人のことを隠していたのが、つらかった」

 泣いたり、時には笑ったりしながら話す宮は、ほかの誰に対するよりも中君には親しく、心を許していた。

侍従、匂宮のもとを訪れる

 それでも匂宮には、浮舟の死があまりに突然で、どうしてそんなことになったのか納得できなかった。いつもの供の者を呼び、右近を迎えに宇治へやった。

 母君は、宇治川の音を聞くだけで自分まで水へ転げ落ちそうなほど悲しくなるので、すでに京へ帰っていた。宇治の家には念仏の僧たちくらいしかおらず、ひっそりしていた。

 使いが宮からの召しだと伝えても、右近は、「今さら参上しても、人に不思議に思われるのが心配です。それに今の私には、何かをきちんとお話しできる気持ちもございません。御忌が終わったあとなら、ほんの少し外へ出ても不自然でなくなるでしょう。もしそれまで命がございましたら、少し心が静まった時、仰せがなくても参上して、本当に夢のようだった出来事をお話ししたく存じます」と言い、動こうとしなかった。

 宮の使いの大夫も泣きながら、「私は宮さまと姫君とのことを詳しく存じませんでした。それでも宮さまの並々ならぬお気持ちは見ておりましたので、いずれ自分もこの御縁にお仕えすることになるのだろうと思っておりました。こうして姫君が亡くなられてしまうと、かえって私自身の悲しみまで深くなりました」と語った。

 宮がわざわざ車まで用意して迎えに寄こしている。何もないまま返すのも申し訳ないというので、結局、侍従が代わりに参上することになった。

 侍従は黒い喪服を着た。道中、――浮舟さまが生きていらしたら、この道を人知れず通って、宮さまのところへおいでになったのだろう。私も誰にも知られないまま、お二人を応援していたのに――と思い、泣きながら都へ向かった。

 匂宮も侍従が来たと聞いただけで胸を打たれた。中君にはあまりにつらい話なので知らせず、自分は寝殿へ移り、侍従を渡殿へ下がらせて、浮舟が最後のころどんな様子だったのか、詳しく尋ねた。

 侍従は、浮舟が日ごろどれほど悩み、あの最後の夜どれほど泣いていたかを語った。「もともと驚くほど口数の少ない方で、どれほど苦しいことでも人へ打ち明けることができず、何でも胸へしまってしまわれました。そのせいでしょうか、何一つ言い残してもくださいませんでした。まさか夢にも、あれほど思い切ったことをなさるとは考えておりませんでした」と話す。

 宮は、ますます悲しくなった。

 ――たとえ結局、私と結ばれない運命だったとしても、あんな川へ身を沈めるほど、いったいどれほど思い詰めたのだろう。もしその時、自分が見つけて止めることができていたら。

 そう思うと、胸の中が煮え返るようだった。

 「手紙を焼いていらした時、どうしてもっと気をつけて見ていなかったのです」

 そんなことまで言いながら、宮は一晩中、侍従から浮舟の話を聞いた。浮舟が巻数に書きつけた母への歌なども、侍従は伝えた。

 宮は、それまで侍従など特別な人とも思っていなかったのに、浮舟に近かったというだけで、今はひどく親しく、愛しく思われた。

 「私のところに来て仕えてはどうです。あちらとも、もう完全に離れてしまうわけではないでしょう」

 侍従は、「こちらへ仕えましても、ただ悲しいことばかり思い出すでしょうから。今はせめて御四十九日などが過ぎましてから」と答えた。宮は「また必ず来なさい」と言い、侍従と別れることさえ名残惜しく思った。

 明け方、侍従が帰る時、宮は浮舟のために用意させていた櫛の箱一揃いと、衣箱一揃いを形見の贈り物として持たせた。浮舟のために準備していた物はほかにも多くあったが、あまり大げさになっては人目につくので、ひとまずこれだけにしたのだった。

薫、宇治で真相を聞く

 薫も、浮舟がどんなふうに亡くなったのか、どうしても納得できないままだった。とうとう我慢できず、自分で宇治へ行った。

 山道を行きながら、昔の出来事が次々と思い出される。

 ――いったいどんな宿縁があって、自分は八の宮のもとへ通うようになったのだろう。この一族との縁では、最後まで思いもよらないことばかりに心を悩ませ、いつも物思いをしている。あれほど尊い宮のもとへは、仏を仲立ちとして後世のことだけを語り合うつもりだった。それなのに最後には自分の心も濁り、その報いをこうして思い知らされているのか。

 宇治へ着くと、薫は右近を呼び出した。

 「亡くなった時の様子を、私はまだはっきり聞いていない。あまりに突然で、あまりにあっけなく、どうしても納得できない。忌の残りももう少なくなったので、それが過ぎてから来ようと思っていたけれど、待ちきれずに来てしまった。いったいどんな気持ちで亡くなったのです」

 右近は迷った。弁の尼なども何となく事情に気づいている。中途半端に隠して、後で話が食い違えば、かえって浮舟のためにならない。それに、これまで匂宮のことを隠すためなら、どんな嘘をつくかあらかじめ考えてきた右近だったが、こうして真剣に悲しむ薫と向かい合うと、用意していた言葉まで忘れてしまった。

 ついに、ありのままのことを少しずつ話し始めた。

 薫には、思ってもみなかった筋の話だった。しばらく何も言わない。

 「そんなことが本当にあるとは、どうしても思えない。世間の人が何を言っても、ほとんど口を挟まず、おっとりしていたあの人が、どうしてそんな激しいことを思い立てたのだ。この人たちは、何か別の事情を隠して、こんなふうに言っているのではないか」

 そう疑いたくなった。

 けれど匂宮があれほどはっきり嘆いている。宇治の上下の者たちも本気で泣き騒いでいる。これだけのことを皆で偽っているようには見えなかった。

 「一緒にいなくなった女房などはいないのか。もっと確かなことを言いなさい。浮舟が私を軽く思い、私へ背を向けて逃げたとは、どうしても思えない。何か急に、言葉にもできないほどの出来事が起こったのでなければ、こんなことをするはずがない。私は信じられない」

 右近はますます困りながら、浮舟がもともと自分の境遇を嘆いていたこと、薫が時々訪れることだけを頼みにしていたこと、母君も薫のもとへ移る準備を喜んでいたこと、その直前に薫の警護が急に厳しくなり、浮舟が「人の笑いものになったら母はどう思うだろう」と絶えず嘆いていたことなどを話した。

 それを聞いているうち、薫もとうとう涙を抑えられなくなった。

「宮とのことは、いつからだった」

 薫は言った。

 「私は自分の心のままに自由に動ける身でもなく、世間の目につく立場だ。それでも浮舟を遠くに置いているのが気になり、今度こそ近くへ移し、人に気兼ねしない形できちんと暮らさせ、長く大切にしようと思っていた。そのため、急ぐ必要はないと考えていたのだ。

 それを、私の気持ちが浅いと受け取ってしまったのだろうか。それがかえって、あの人をどちらにも決められない心にしたのだとすれば……。

 もうこんなことまで言うまいと思ったけれど、誰が聞いているわけでもない。宮とのことだ。いつから始まった。宮は恋となると、人の心をひどく乱す方だ。なかなか会えないつらさで、浮舟は身を失ったのではないかとも思う。もう隠さず話しなさい。私には何も隠すな」

 右近は、薫がやはり確かに知っていたのだと思い、気の毒になった。

 「宮さまのことを、何かお聞きになっていたのでございますね。ですが右近も、姫さまのお側を離れたことなどほとんどございません。

 初めは、二条院の中君さまのもとへ姫さまが人知れずお渡りになった時です。まったく思いもよらないところへ宮さまが入っていらしたのですが、こちらから強く申し上げ、宮さまはその時はお帰りになりました。それを怖がって、姫さまはこちらの宇治へ移られたのでございます。

 それからはもう何も起こるまいと思っておりましたのに、どうして居場所をお聞きになったのでしょう。この二月ごろから宮さまのお便りが始まったようでございます。御手紙は何度もございましたが、姫さまが取り合わないことも多く、あまりに恐れ多く困ったことですと、私たちも申し上げておりました。一度か二度、お返事をなさったことはあったでしょう。それ以上のことは、私は存じません」

 右近は、これ以上無理に聞かせるのはあまりにかわいそうだと思い、実際より軽く話した。

 薫は長いこと黙って、宇治川を眺めた。

 ――宮を珍しく愛しいと思いながらも、私を完全にどうでもよいと思っていたわけではなかった。その間で、あのおっとりした、決断のつかない心が追い詰められ、この近くに川があることを頼りにして、とうとう死を考えたのだろう。

 もし自分がこんな宇治へ一人で置かなかったなら、どれほどつらい世を生きていても、わざわざ深い谷や川を探してまで死のうとはしなかったのではないか。

 薫には、この川そのものが憎らしいほどだった。長年、大君への思いから荒れた山道を何度も往復してきた土地なのに、今では「宇治」という名を聞くことさえ嫌になりそうだった。

我もまた憂き古里を荒れはてば誰宿り木の蔭をしのばむ

私までこのつらい故里から離れ、ここが荒れ果ててしまったなら、いったい誰が、宿り木の陰に残された昔の人々を偲ぶのでしょう。

 薫は律師となっていた阿闍梨を呼び、浮舟の法事を詳しく申しつけた。念仏僧を増やし、七日ごとに経や仏を供養するよう細かく手配した。

 もう暗くなってから宇治を出る時も、――浮舟が生きていたなら、今夜こうして帰っただろうか――と、そればかり考えた。

薫、浮舟の母と弟妹を気遣う

 浮舟の母君は、もう一人の娘の出産が近かったため、その家にも自由に行けず、よその家に仮住まいするような状態で、心の休まる時がなかった。

 娘は無事に子を産んだ。しかし浮舟の喪の穢れがあるため近づくこともできない。母君は、ほかの子どもたちのことまで考えられず、ただ呆然と日を過ごしていた。

 そこへ薫から、人知れず使いが来た。何も感じられなくなっていた母君にも、それだけはありがたく、胸に染みた。

 薫の手紙には、「あまりに驚くべきことなので、真っ先にお悔やみを申し上げようと思いました。しかし私自身も心が静まらず、目の前が暗くなる思いで、まして母君はどれほどの闇に迷っていらっしゃるだろうと思うと、そのまま日を過ごしてしまいました。世の無常を、いっそうどう受け止めてよいかわかりません。もし私が思いがけずこの先も生き長らえるなら、亡くなった人の名残として、何事でも必ず私を頼ってください」と、細やかに書いてあった。

 使いにも、「これまでは長い時間をかけ、ゆっくりした気持ちでいたので、私の心がそれほど深いとは見えなかったかもしれない。けれど今から先は、どんなことがあっても母君を忘れることはない。幼い子どもたちもいるそうだから、将来朝廷へ仕えるようなことがあれば、必ず私が後見をしよう」と言わせた。

 母君は泣きながら返事を書いた。

 「これほどの悲しみに遭っても死ねない自分の命を、情けなく嘆いておりましたが、このようなありがたいお言葉を拝見するために、生き残っていたのでしょうか。

 長い間、娘の心細いありさまを見ながら、それは身分の低い私のせいなのだと諦めてきました。それでも、あなたさまから頂くありがたい一言だけを、将来までの頼みとしておりました。とうとう娘をこのような形で見送ってしまい、宇治との縁まで、あまりにつらく悲しく思われます。

 それでも、こうしてさまざまにありがたい仰せをいただき、少し命が延びた気がいたしました。もうしばらく生きておりましたら、やはりあなたさまを頼りにさせていただきたいと思います。ただ今は涙で目の前が暗く、最後まで書き続けることもできません」

常陸守も初めて浮舟の身の上を知る

 常陸守もやって来た。それまで母君は、浮舟がどこでどんなふうに暮らしているのか、本当のことを夫へ詳しく話していなかった。いずれ薫に都へ迎えられ、人にも誇れるような身の上になってから知らせようと思っていたのである。

 しかし今となっては隠しても仕方がない。母君は泣きながら、すべてを話した。薫からの手紙も見せた。

 常陸守は田舎びたところもあり、身分の高い人をひたすら崇める性格なので、薫の手紙を何度も読み返して驚いた。

 「なんと素晴らしい幸せを捨てて亡くなってしまった娘だ。私も殿上に出入りし、あの殿へお仕えしてはいるけれど、近くへ召されるようなことはない。それほど気高く思われる方なのだ。下の子どもたちのことまで後見すると仰せくださったのなら、何と頼もしいことだろう」

 その喜ぶ姿を見るだけでも母君は、――浮舟が生きていたなら――と、また床を転げるように泣いた。

浮舟の四十九日

 四十九日の法要も、薫は浮舟がなぜ亡くなったのか確かなことがわからない以上、どちらにせよ死者へ罪を負わせるようなことはしたくないと思い、ひそかに例の律師の寺で営ませた。

 六十人の僧への布施なども、たいそう立派に用意した。母君も来て、さらに供養の品々を加えた。

 匂宮も右近のもとへ、銀の壺に黄金を入れて送った。宮自身が人目につくほど大がかりな法要をするわけにはいかないので、表向きは右近の志として供養した。薫の家の親しい者たちにも、さまざまな物が与えられた。

 事情を知らない人々は、「生きている時にはまったく噂も聞かなかった人の四十九日を、どうしてこんなに立派に扱うのだろう。いったい誰なのだ」と、今になって驚いた。

 帝の耳にまで、薫がこういう女性を人知れず大切にしていたという話が入った。帝も、浮舟が身分の高い宮の血を引き、決して取るに足らない女ではなかったのに、薫が女二宮に遠慮して隠していたのだろうと気の毒に思った。

 薫と匂宮の胸の中では、浮舟への悲しみはいつまでも古びなかった。思いが最も激しい時に突然すべてが断ち切られたのだから、無理もない。

薫と小宰相の君

 その後も匂宮は心の慰めを求めながら、一品宮の御方へ出入りすることが多くなった。

 そこには、小宰相の君という女房がいた。薫が苦労して、ようやく人知れず言葉を交わすようになった女性である。顔立ちも清らかで、気立てもよく、琴を弾く爪音や撥音にも人より優れたところがあり、手紙を書いても、ちょっとした言葉にも品があった。

 匂宮も昔からこの女房に興味を持ち、いつものように冗談半分に言い寄っていた。しかし小宰相は、別に珍しいことでもないというように冷静で、宮へ簡単にはなびかない。その少し気の強いところを、真面目な薫は「普通の女とは少し違う」と思っていた。

 小宰相は、薫が浮舟を失って物思いに沈んでいることも知っていたので、黙っていられなくなり、ひそかに歌を送った。

あはれ知る心は人におくれねど数ならぬ身に消えつつぞ経る

人の悲しみを思いやる心なら、私も誰にも劣りません。それでも取るに足らない身の私は、ひっそり消えてゆくように日々を過ごしております。

 薫も返した。

常なしとここら世を見し憂き身だに人の知るまで嘆きやはする

これほどまで世の無常を見てきたつらい私でさえ、人に知られるほど声高に嘆いたりはしないのです。

 物あわれな夕暮れだった。小宰相がその時刻までよく見計らって歌を送ってきたのも、薫には嫌ではなかった。

 薫は彼女の局へ立ち寄り、しばらく話をした。小宰相はひどく気後れするような様子もなく、かといって馴れ馴れしくもない。実にちょうどよい具合に受け答えする。

 ――浮舟よりも、この人にはどこか奥ゆかしいところがある。どうして女房として人に仕える身になったのだろう。事情はどうあれ、自分の女として置いておくこともできたかもしれないのに。

 薫はそう思ったが、そんな私的な気持ちは少しも表へ出さなかった。

御八講の日、薫が目にした一品宮

 蓮の花が盛りのころ、盛大な御八講が営まれた。六条院や紫の上など、亡き人々のため、それぞれ経や仏を供養するもので、たいそう荘厳で尊い法会だった。

 五巻の日などは特に見もので、あちらこちらから女房の縁を頼って、法会を見る人々が大勢集まった。

 五日目の朝の座が終わり、御堂の飾りを片づけ、室内のしつらえを改めていた夕方のことだった。障子なども取り外され、普段より見通しがよくなっている。女房たちは法会を聞き疲れ、それぞれの局へ引き下がり、御前には人が少なかった。

 薫は僧へ伝える用事があって釣殿のほうまで出ていたが、皆が帰ったあと、池のそばで涼んでいた。その時、人の衣擦れの音に気づいた。

 少し開いている障子の隙から、何気なく覗いた。

 そこには、氷を器の蓋の上へ置いて割りながら、楽しそうに騒いでいる女房たちがいた。大人の女房が三人ほど、童女もいる。唐衣も汗衫も着ず、皆ひどくくつろいでいるので、まさかそこに高貴な姫宮がいるとは薫も思わなかった。

 ところがその中に、白い薄物の衣へ着替えた一人が、手に氷を持ち、皆と争うようにして、少し微笑んだ。

 その顔の美しさは、言葉では言い表せなかった。

 暑さに耐えにくい日なので、豊かな髪が重いのだろう。少し片側へ流し、引き寄せている。その姿も何にもたとえようがない。

 ――これまで素晴らしい女をずいぶん見てきたつもりだったが、この方に似る人など一人もいなかった。

 周りの女房まで、この人のそばでは土のように見える。

 薫がなお見ていると、黄の生絹の単衣に薄色の裳を着た女房が、扇を使いながら、「そんなふうに氷を扱われると、かえっておつらそうですよ。そのまま御覧になればよいのに」と笑った。その目つきには愛嬌がある。

 その声を聞いて、薫は小宰相の君だとわかった。

 女房たちは割った氷をそれぞれ持ち、頭へ乗せたり胸へ当てたりしている者もいる。一品宮の前へも紙に包んだ氷が差し出されたが、宮は美しい手を差し出しながら、雫を拭わせて、「いや、持ちません。雫が嫌です」と言った。

 そのほのかな声を聞けただけでも、薫には限りなく嬉しかった。

 ――まだ本当に幼くていらしたころ、自分も物心がつかないほど若く、この方を見て、「なんと美しい稚児姿だろう」と思ったことがあった。それ以来、御気配さえ聞く機会もなかった。どんな神仏が、今日こんな姿を見せてくださったのだろう。それともまた、自分に新しい物思いをさせるためなのだろうか。

 薫はしばらくその場から動けなかった。しかし、開いた障子のままにした女房が戻って来そうになり、人に見つかれば騒ぎになると気づいて、急いで身を隠した。

女二宮と一品宮を比べる薫

 翌朝、起きた女二宮の顔を見る。

 もちろん、たいそう美しい。それでも薫には、――昨日の方が必ずこの人より美しいというほどなのだろうか――と思いながら、やはり二人はまったく似ていないように感じられた。

 昨日の一品宮は、驚くほど気品が高く、言葉にもできない美しさだった。自分の思い込みなのか、たまたま見た時がよかっただけなのか、と薫自身にもわからない。

 「今日はひどく暑い。もっと薄い御衣をお召しなさい。女性は、いつもとは違う衣を着た時など、季節ごとに趣があるものです」

 そう言って、昨日見たものに似た薄物の単衣を縫わせ、女二宮へ自分の手で着せた。紅の袴、豊かな髪、その裾の美しさなどは一品宮に劣らない。それでもやはり、どこか違って見える。

 薫は氷まで持って来させ、女房たちに割らせ、自分で一つ取って宮へ差し出した。心の中では昨日の光景を思い出している。

 ――恋しい人を絵に描いて眺め、心を慰めるという人だっている。この人なら、昨日の一品宮と身分も近い。似た姿を見て慰められないこともないはずだ。

 そう思う一方、――昨日のように自分もその中へ入り、好きなだけ一品宮を見ていられたなら――と思わずにはいられず、ふとため息が出た。

姫宮たちの間をつなごうとする薫

 薫は女二宮へ、「一品宮には、お手紙を差し上げていますか」と尋ねた。

 「内裏にいたころは、主上がおっしゃったこともあってお便りしましたけれど、もう長く書いていません」

 「それはいけません。臣下へ降嫁されたからといって、向こうからもお便りがなくなったのなら、寂しいでしょう。今度、大宮の御前で、一品宮が恨んでおられましたよ、と申し上げてしまいましょう」

 「どうして恨んでいるなどと言えるのです。嫌です」

 「『臣下の妻になったからといって、軽く見ていらっしゃるようですね。それでこちらからも便りを差し上げないのです』と申し上げます」

 そんなことを言って、その日は暮らした。

 翌朝、薫は大宮のもとへ参上した。匂宮も来ていた。少し頬の痩せた宮は、以前よりいっそう清らかで、見栄えがする。

 浮舟にどこか似たところを見るだけで、薫はすぐ恋しくなる。こんなことを思ってはならないと心を鎮めるぶん、かえって普通だったころより苦しかった。

 薫はたくさんの絵を持参しており、それを一品宮の御方へ贈らせた。そして大宮へも、「こちらにいらっしゃる皇女が、雲の上の御生活を離れて寂しく思っていらっしゃるのが気の毒です。一品宮の御方からも御便りがないので、見捨てられたように思っていらっしゃるようです。こういう絵などを時々お贈りくださればよいのですが」と話した。

 大宮は、「どうして見捨てたりなさるものですか。内裏では近くにいらしたので、時々お便りもしていたようです。それぞれ別の御所へ移られた時に途絶えただけでしょう。私からも勧めておきましょう」と答えた。

 薫が一品宮へ特別な関心を持ち始めているなどとは、誰も思いもしなかった。

浮舟をめぐる噂

 やがて、ある女房が妙な噂を口にした。

 「この大将殿が亡くした女というのは、宮さまの二条院の北の方――中君さまの妹君だったそうですね。異腹の妹なのでしょう。常陸の前の守の妻が叔母とも母とも言われる方だとか。その女君のところへ、宮さまもたいそう人知れず通っていらしたそうですよ。

 大将殿がお気づきになったのでしょうか。急に迎えようとして、宇治の警護まで大げさに厳しくしたころ、宮さまがまた忍んでいらしたのに、中へ入れず、ひどく人目を避けた姿で、馬に乗ったまま外に立ち、結局お帰りになったそうです。

 女のほうも宮さまをお慕いしていたのでしょうか、その直後に突然消えてしまい、乳母たちは『身を投げたらしい』と泣き騒いでいたとか」

 匂宮は驚き、「誰がそんなことを言うのです。ひどく気の毒で嫌な噂だ。そんな珍しい話なら、もっと世間に広まっているはずでしょう。大将だってそんなことは言わず、ただ宇治の宮の一族は命の短い人が多いと、ひどく悲しんで話していただけですよ」と否定した。

 しかし女房は、「下の者の噂など確かでないこともありますけれど、宇治にいた下童がこのごろ里へ出てきて、かなり詳しく話していたそうです。あまり異様な亡くなり方なので、人には知らせまいと皆でひどく隠したのだとか」と言う。

 宮は、「そんな話は二度と口にするなと言っておきなさい。こういう噂で自分の身まで損ない、人から軽薄で嫌な男と思われてはたまらない」と、ひどく不愉快そうにした。

一品宮への思いを隠す薫

 その後、一品宮の御方から女二宮へ手紙が届いた。美しく愛らしい筆跡を見るだけでも女二宮は嬉しく、「こうしてもっと早くお便りすればよかった」と思った。

 大宮も美しい絵を多く贈ったが、薫はさらに選りすぐりの絵を集めて差し上げた。

 その中に、芹川の大将の遠君が女一宮を恋い、秋の夕暮れに思い悩んで出て行く場面を描いた絵があった。薫には今の自分の心が重なり、ひどく心を引かれた。

 ――自分にも、これほどこちらへ心を傾けてくださる方がいたなら。

 そんなことまで思う。

荻の葉に露吹き結ぶ秋風も夕べぞわきて身にはしみける

荻の葉に露を結ばせる秋風も、とりわけ夕暮れになると、私の身にはひとしお深く染みてくることです。

 絵へこの歌を書き添えたいとまで思った。しかし、ほんの少しでも恋めいた気配が漏れれば、すぐ面倒な噂になる世の中である。薫は何もほのめかせなかった。

 考えれば考えるほど、――もし昔の大君が生きていてくれたなら、自分はこれほど心をあちらこちらへ分けただろうか。たとえ帝の御娘を賜ると言われても、妻にはしなかったかもしれない。大君を思っていると帝も御存じなら、そもそもこんな縁談もなかっただろう。

 やはり私の心を最初に乱した橋姫――中君との縁が、つらいことの始まりだったのだ。

 そう考えると今度は中君が恋しくも、恨めしくもなる。

 次には、あっけなく消えた浮舟を思い出す。頼りなく、思慮が浅いところがあったと思う一方、それでもあれほど思い詰め、薫の様子がいつもと違うと感じただけで、自分を責めながら沈んでいたという姿を聞けば、やはりたまらなく愛しかった。

 ――正式な妻のように重く扱うつもりではなくても、気楽でかわいい話し相手として置いておきたかった。それには、本当にかわいい人だった。

 思い返した末、薫は、――宮だけを恨むまい。浮舟だけを恨むまい。すべては、自分の世間離れした悠長さが招いたことだ――と考えることが多かった。

侍従は中宮のもとへ

 匂宮は、薫のように心を静めることができない。浮舟を思い出して悲しいと言葉にできる相手さえいなかった。

 中君には「あの人はかわいそうだった」と話すことはできても、中君自身が浮舟と長く深く付き合ったわけではないので、宮と同じほど悲しめるはずもない。宮が心のままに「恋しい、つらい」と訴えるのも、中君の前では気まずかった。

 そこでまた、宇治にいた侍従を呼び寄せようとした。

 宇治にいた女房たちは皆ばらばらになり、浮舟を特に深く思っていた乳母と侍従だけは、今も忘れられずにいた。侍従も宇治川の音を聞くのが恐ろしくなり、京の目立たない所へ移っていた。

 宮から「こちらへ来て仕えなさい」と言われたが、宮の気持ちはありがたくても、周囲から何を言われるかわからない。男女の秘密が絡んだ家へ仕えるのは、聞き苦しいことも起こりそうだと思い、すぐには承知しなかった。

 そのかわり中宮のもとへ仕えたいと考え、伝手を探して参上した。身なりも清潔で、下臈としてはなかなかよい女だと認められ、誰も怪しまなかった。

 そこへ薫もたびたび参上する。侍従は薫を見るたび、浮舟を思い出して悲しくなった。高貴な姫君ばかりが集まっている宮中を見回しても、浮舟に似た人は一人もいないと思うのだった。

宮の君

 その春亡くなった式部卿宮には、一人の姫君がいた。継母の北の方とは折り合いがよくなく、兄の馬頭も特別に頼りになる人柄ではない。その身の上を気の毒に思った中宮が、「父宮があれほど大切に育てていた姫君を、このまま頼りない境遇にしておくのはかわいそうです」と声をかけた。

 姫君自身も心細く暮らしていたので、兄の侍従なども勧め、このころ中宮のもとへ引き取られた。

 一品宮に仕える形ではあるが、身分はそれほど離れていないので、格別に大切に扱われ、「宮の君」と呼ばれた。

 匂宮はその噂を聞くと、――この人なら、亡くなった浮舟を思い重ねられるようなところがあるだろうか。父親同士は兄弟なのだから――と考えた。

 人を恋しがっている時にまで新しい女へ興味を向ける、いつもの癖はやはり治らない。早くも宮の君へ心を向け始めた。

 薫はそれを聞いて、――呆れるほどの人だ。つい昨日今日まで、浮舟のためなら死にそうなほど苦しんでいたではないか。しかし、こうして人があっけなく死ぬ世の中を見れば、たとえ水の底へ身を沈めた女がいても、誰を責められよう――と思い、宮の君にはほかの人以上に心を寄せ、親切にした。

秋、再び華やぐ六条院

 涼しくなり、中宮が内裏へ戻ろうというころになると、若い女房たちは「秋の盛り、紅葉の美しいころをこちらで見られないのは残念です」と惜しんだ。

 人々が集まり、池の水にも慣れ、月を眺め、管弦の遊びも絶えず、いつも以上に華やかだった。

 匂宮は、こういう華やかな遊びになると誰よりも場を盛り上げる。毎朝毎夕見慣れていても、なお今初めて咲いた花のように美しい。

 一方の薫は、女性たちの中へむやみに入り込むような人ではないので、皆からはどこか気の抜けない、恥ずかしい相手と思われていた。

 ある日、匂宮と薫がそろって御前へ参上しているのを、侍従は物陰から見た。

 ――浮舟さまも、どちらの方にお仕えすることになったとしても、これほど素晴らしい御縁に恵まれ、世に誇らしく生きていらしたはずなのに。それを、なんてあっけなく、悲しい御心だったのだろう。

 侍従は誰にも宇治の事情を知っている顔を見せられないので、一人で胸を痛めた。

女郎花をめぐる戯れ

 薫は東の渡殿へ行った。開け放した戸口の近くに女房たちが大勢集まり、物語をしている。

 薫は冗談めかして、「女房の皆さんは、私くらい親しい相手と思ってくださってもよいのですよ。女性同士だって、こんなに気楽には話せないでしょう。それでも私は、何か大切なことがあれば教えて差し上げることくらいできます。皆さんもだんだん私という人間がおわかりでしょうから、それが嬉しいのです」と言った。

 答えに困る人が多い中、弁の御許という馴れた年長の女房が、「それほど親しく思わなければならない理由もないお方に、かえって気兼ねしないということもございます。必ずしも理由を尋ねたうえで、心を許していただくわけでもございませんけれど、これほど厚かましい年寄りになった身ですから、黙っているのもおかしくて」と受けた。

 薫も笑い、硯を引き寄せた。

女郎花乱るる野辺に混じるとも露のあだ名を我にかけめや

女郎花の咲き乱れる野に私が混じったとしても、浮気な露という悪い名まで、私に負わせたりはしないでしょうね。

 障子を背にして座っていた一人の女房へ見せると、その女は身じろぎもせず、すぐに返した。

花といへば名こそあだなれ女郎花なべての露に乱れやはする

花と呼ばれる以上、浮気な名を立てられるのは仕方ありません。でも女郎花は、どんな露にでも心を乱すわけではありません。

 ほんの一部しか見えない筆跡だったが、品があり、なかなか美しい。薫は、――誰だろう――と興味を持った。

 弁の御許も、「まあ、ずいぶんきっぱりした老人じみた返事ですね。憎らしいこと」と笑い、さらに歌った。

旅寝してなほこころみよ女郎花盛りの色に移り移らず

それなら一夜、ここに旅寝をして試してみてください。盛りの女郎花の色に、心が移るか移らないか。そのあとで決めましょう。

 薫も返した。

宿貸さば一夜は寝なむおほかたの花に移らぬ心なりとも

宿を貸してくださるなら、一夜くらいは泊まりましょう。どんな花にも簡単には心を移さない私であっても。

 ほんのわずかな冗談を口にしただけなのに、女房たちはもっと話を聞きたそうにしていた。

秋の夕暮れ、なお浮舟を思う薫

 やがて薫は東の高欄へ寄りかかり、夕暮れが深くなるにつれ、花の紐がほどけるように咲き乱れる庭の草むらを眺めた。

 何を見ても物悲しい。

 「なかんずく腸の断たるるは秋の天」――とりわけ腸が断ち切られるほど悲しいのは秋の空だ、という古い詩句を、低い声で口ずさんだ。

 その後も薫は、姫宮の女房たちのいる西の渡殿へ、以前見た光景を思い出すように、わざわざ足を運ぶことがあった。

 夜、女房たちが月を眺めながらくつろぎ、箏の琴を優しく弾いているところへ、思いがけず薫が現れた。

 「どうして、そんなに人を焦らすように、いい音を鳴らしているのです」

 女房たちは驚いたが、慌てて簾を下ろすほどでもなく、少し身を起こしただけだった。

 薫は冗談を交わし、そこに出してあった和琴をそのまま少しかき鳴らした。律の調べが秋の気配に不思議によく合う。最後まで弾かずにやめたので、もっと聞きたかった女房たちはかえって残念に思った。

 薫は、帝の御娘たちの美しさ、明石の一族の女性たちの気品などを思い合わせた。

 ――それにしても、あの一品宮の御あたりだけは、どうしてこれほど格別なのだろう。明石の浦という所は、よほど奥深い縁を生んだ場所だったのだろう。

 そんなことまで考えた。

宮の君にも心を動かされる薫

 宮の君は西の対に部屋を与えられていた。若い女房たちが大勢集まり、月を見て楽しんでいる。

 薫は、――ああ、この人もまた、あの宇治の人々と同じ血筋なのだ――と思い出し、「亡き父宮も昔から私を親しく思ってくださった」ということにして、宮の君のほうへ歩いていった。

 声をかけると、少し年長の女房が出てきた。薫は、「亡き宮との御縁から、人知れずあなたのことを気にかけております。それなのに、皆がもう聞き飽きるほど口にしている昔の御縁を、今さら初めてのことのように申し上げるのも妙です。むしろ言葉だけではない何かをして差し上げたいと思っております」と言った。

 女房は、「思いもしなかったような身の上になられましたので、亡き宮があなたさまのことを親しくお思いだったことなども、姫君は懐かしく思い出していらっしゃいます。こうして折々お声をかけてくださることも、亡き宮のお言葉のようにありがたく思っておられるようです」と答えた。

 あまりに他人行儀なので、薫は少し物足りない。

 「もともと見捨てることのできない御縁ですが、今はなおさらです。何かにつけ私を頼ってくださるなら嬉しい。いつまでも人づてに、よそよそしく扱われるのでしたら、とても……」

 女房が中へ伝えると、若く愛嬌のある声が聞こえた。

 「松を見ても昔のことばかり思い出されます。もともとの御縁をそうおっしゃってくださるなら、本当に頼もしく存じます」

 その声だけでも、たいそう若々しく、優しい。

 薫は、――普通にこういう御所へ仕える女と思えば、実に魅力的だろう。それなのに今の身分になって、どうしてこれほど簡単に男へ声を聞かせることを覚えたのだろう――と少し心配になりながらも、顔もきっと美しいのだろう、見てみたいと思った。

 そしてまた、――この人も、いずれ匂宮の心を乱すきっかけになるのだろうか。本当に不思議な世の中だ――と思った。

 何を見ても結局、薫の心は宇治の一族へ戻っていく。

蜻蛉

 ――宮の君は、限りなく大切に育てられた正真正銘の姫君だ。こんな人は世にそう多くいるものではない。

 それにしても不思議なのは、あの仏道一筋だった八の宮のもとに、山の奥から現れた娘たちが、一人として見苦しい人ではなかったことだ。

 自分が「頼りない」「軽々しい」と思っていた浮舟でさえ、ふと垣間見た時の姿には、言いようのない魅力があった。

 何につけても薫は、結局ただ一つ、宇治との縁ばかりを思い出す。

 奇妙で、つらかったさまざまな縁を、つくづく考えながら眺めていた夕暮れのことだった。

 蜻蛉が、頼りなげに空を飛び交っている。

ありと見て手にはとられず見ればまた行方も知らず消えし蜻蛉

そこにいると見えても、手に取ることはできない。そしてもう一度見れば、どこへ行ったのかもわからず消えている蜻蛉――あの人も、まるでその蜻蛉のようだった。

 「本当に、いるのか、いないのかさえ……」

 薫はいつものように、誰へ言うともなく独りつぶやいたという。

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