
このページでは、『源氏物語』第49帖「宿木」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第49帖「宿木」原文全文をご覧ください。
藤壺の女御と、女二の宮
そのころ藤壺と呼ばれていた方は、亡くなった左大臣の娘で、帝の女御だった。帝がまだ東宮でいらしたころ、ほかの誰よりも早く入内した人なので、長年連れ添った親しみもあり、帝のお気持ちは格別に深かったらしい。けれど、それが目に見えるほどの寵愛となって現れることもないまま年月が過ぎた。一方、中宮には皇子や皇女が大勢いて、すでに立派に成人した方も多いのに、藤壺にはそうした恵みが少なく、女宮が一人いるだけだった。
藤壺自身、自分は宿世に恵まれず、人に押されてしまったようだと寂しく思っていた。それだけに、「せめてこの姫宮だけでも、将来を見届けることで心の慰めにしたい」と、並々ならず大切に育てた。姫宮は容貌もたいそう可憐だったので、帝も愛しい娘として目をかけておられた。
女一の宮が世に並ぶものもないほど大切に育てられているため、公の評判では到底そちらに及ばない。けれど、身近な暮らしぶりだけを見れば、こちらの姫宮もほとんど劣るところはなかった。亡き外祖父の左大臣が残した家の勢いもまだ大きく衰えてはいない。仕える女房たちの衣装から日々の調度まで、季節ごとに手を抜かず整えられ、華やかで風雅な暮らしをしていた。
姫宮が十四歳になった年、藤壺は裳着の式をさせようと、春からそればかりを考えて準備に明け暮れた。何事もありきたりでは済ませまいと、昔から家に伝わってきた宝物まで、この日のためにと探し出していた。
ところが、その夏ごろ、藤壺は物の怪に悩まされ、あっけなく亡くなってしまった。あまりにも残念なことで、帝も深く嘆かれた。人柄も情が深く、親しみやすい方だったので、殿上人たちまで「これからは本当に寂しくなる」と惜しみ、普段なら藤壺と縁のなさそうな下級の女官たちまで悲しまない者はいなかった。
まして姫宮はまだ若く、母を失った心細さと悲しみに沈んでいた。その様子を聞いた帝は、あまりに痛ましく思われ、四十九日が過ぎると間もなく、人目を忍ぶ形で姫宮を宮中へ迎えた。それからは毎日のように姫宮のもとへ渡って、その様子をご覧になった。
黒い喪服に身を包んだ姫宮は、かえっていっそう可憐で、気品も際立って見えた。性格も年齢のわりに落ち着いており、母の藤壺以上に慎ましく重みのあるところさえあったので、帝もその点では安心された。けれど母方には、姫宮の将来を本当に任せられるような叔父などもいない。大蔵卿や修理大夫といった人はいたが、藤壺とは異母兄弟で、世間で特別に重きを置かれるほどの人たちでもなかった。
そんな人々だけを後見にして残しておくのは、女性の身には心配なことが多すぎる。帝は、まるで自分一人で姫宮の将来すべてを考えなければならないような気持ちになり、心を砕いておられた。
帝が薫を婿にと思い始める
御前の菊がすっかり色を変え、それがかえって美しく見えるころだった。空も時雨れてしみじみとした日、帝はまず姫宮のもとへ渡り、亡き藤壺の昔の話などをなさった。姫宮の返事はおっとりしているが、決して子どもっぽくはない。帝はその様子をとても愛しく思われた。
――この姫宮の価値をきちんとわかる男が夫になり、大切にしてくれたら、どれほどよいだろう。
そう考えているうち、帝はかつて朱雀院が女三の宮を六条院へ託した時のことを思い出した。当時は、あの縁組を惜しむ声もあった。けれど今、女三の宮が昔と変わらず高貴な身分を保っていられるのも、薫という並外れた息子が生まれ、何もかも心を尽くして母を支えているからこそだ。そうでなければ、本人の望まないことが起こり、世間から軽く扱われるようなことさえあったかもしれない。
「どちらにせよ、自分の目の届くうちに、この子の将来を決めてしまったほうがよいのではないか」
そう思うと、薫以外にこれほどふさわしい相手は見当たらなかった。
「親王たちと並んでも見劣りしない。もともと深い関係の女性がいるわけでもなく、聞き苦しい噂を立てるような人でもない。とはいえ、いつまでも一人でいられるわけでもないだろう。それなら、ほかの縁ができる前に、こちらの気持ちを少しほのめかしておこうか」
帝は折々、そんなことを考えるようになった。
ある日の夕方、帝は姫宮と碁を打っていた。時雨は静かに降り、菊の花は夕映えに美しく見える。帝は人を呼んで、
「今、殿上には誰がいる」
と尋ねられた。
「中務親王、上野親王、それに中納言源朝臣がおります」
と奏上すると、
「中納言朝臣をこちらへ」
と薫を呼び出された。
こうして特別に呼び寄せるだけの甲斐は、たしかにある男だった。遠くからでもわかるあの香りからして、もうほかの人とはまるで違っている。
「今日の時雨はいつになく静かで、管弦をする気分でもない。退屈に一日を終わらせるくらいなら、これがよいだろう」
帝は碁盤を持ってこさせ、薫を対局相手にした。薫は以前からこうして気軽にそばへ召されることに慣れているので、いつものことだと思っていたが、帝は、
「立派な賭物ならあるのだが、軽々しく渡せるものではない。さて、何にしようか」
などとおっしゃる。その様子に何か含みがあるようにも見え、薫はいつも以上に気を張った。
三番打って、帝が一つ負けた。
「これは悔しい。では今日は、まずこの菊を一枝、そなたに許そう」
薫は返事もせず庭へ下り、美しい枝を一つ折って御前へ戻った。そして申し上げた。
世の常の垣根に匂ふ花ならば心のままに折りて見ましを
これが普通の垣根に咲いている花でしたら、思うままに手折って眺めることもできるでしょうに。
何とも含みの深い返しだった。
帝も歌で返された。
霜にあへず枯れにし園の菊なれど残りの色はあせずもあるかな
霜に耐えられず主を失った園の菊ではあるけれど、あとに残ったこの花の美しい色は、少しも褪せてはいないよ。
こうして帝から直接、折々に気持ちをほのめかされながらも、薫はいつもの性分で、すぐにその縁をつかもうとはしなかった。
「今さら、そんなことを。本意ではない。これまでだって、自分が何とかしなければならない気の毒な人たちのことを、ずいぶん聞き流してきた。それなのに今になって、聖のようなつもりでいた自分が、また俗世へ戻っていくようなことをするのか」
そう考える自分が、薫自身にも少し妙だった。
それでも、「世間には、わざわざ心を尽くして女を求める男さえいるのだ」と思う一方、「帝と中宮の間に生まれたほどの姫宮なら……」と心が動くところもあった。その考えは、自分でも身のほど知らずと思うほどだった。
六の君の縁談と、女二の宮のこと
こうした話を右大臣が聞きつけた。大臣はこれまで六の君について、いずれは薫との縁もあり得ると思っていたらしい。多少渋々でも、本気で勧め続ければ、最後まで断りきることはあるまい、と考えていた。ところが帝の姫宮という思いがけない縁談が持ち上がりそうだと知り、面白くなかった。
一方、兵部卿宮――匂宮からは、特別に熱心というほどでなくても、折々につけて六の君へ趣のある消息が絶えなかった。
「それならそれでよい。今はただの浮気心だとしても、縁があれば、本当に心を止めることもあるだろう。何もかも完璧に決めようとした末に、ありふれた身分の男へ娘を下すのも面白くない」
右大臣はそう考えるようになった。
「娘を持つには心配の多い世の中だ。帝でさえ婿を探していらっしゃるのに、まして臣下の娘が、盛りを過ぎるまで独身でいるのもつまらない」
大臣はそんなことまで口にしながら、中宮へも何度も真剣に訴えた。
中宮も、あまりにたびたび言われるので困り、ついには匂宮へ、いつもとは違ってかなりはっきりと言い聞かせた。
「大臣が、あれほど長い間、あなたを娘婿にと願っておられるのに、わざと逃げ続けるのも情がないでしょう。親王というものは、後見する家によってその後のことも変わってきます。帝もご自分の御代がいつまでも続くわけではないと、しきりにお考えです。
普通の男なら、一人の妻と正式に決まれば、ほかへ心を分けるのは難しいでしょう。それでもあの右大臣などは、あれほど真面目な人なのに、こちらにもあちらにも不満のないように暮らしているではありませんか。ましてあなたは親王なのですから、こちらの思うような形にできるのなら、妻が何人かいても不思議ではないでしょう」
匂宮自身も、六の君をまったく嫌だと思っていたわけではない。正妻らしい格式のある家に取り込まれ、これまで自由気ままに暮らしてきた身が窮屈になることだけが気が重かった。それでも、あの大臣をあまりに恨ませ続けるのもよくないと思い、少しずつ気持ちが弱くなっていった。
とはいえ、移り気な性分は変わらない。按察使大納言家の紅梅の姫君のこともまだ忘れたわけではなく、花や紅葉につけては消息を送り、あちらもこちらも気になっていた。そうして、その年は暮れていった。
女二の宮も母の喪が明けた。
帝が「これでもう遠慮することもない。薫のほうから申し出るなら」と思っておられる気配を薫へ伝える人もいた。薫も、あまり知らぬ顔をしているのはかえって失礼だと思い、時にはそれらしい態度を見せることもあった。
帝のご意向は確かなものらしいと、人づてにも聞き、直接にも感じていた。
それでも薫の心には、亡くなった大君への悲しみばかりが残り、忘れられる日はない。
「どうして自分は、あれほど深い縁を感じていた人と、結局よそよそしいまま終わってしまったのだろう」
それが今でも理解できない。
「たとえ身分の低い女であっても、あの人にほんの少しでも似ている人なら、きっと心が止まるだろう。昔話の香の煙にでもすがるように、もう一度だけあの人を見られたなら」
そう思うばかりで、帝の姫宮との華やかな縁を、早く実現させたいという気持ちは起こらなかった。
一方、右大臣の家では六の君の縁談をどんどん進め、「八月ごろに」と決まったらしい。
中君が知った、匂宮の新しい婚姻
二条院の対に住む中君も、その噂を聞いた。
――やはり、こうなるのだ。
自分など数にも入らない身なのだから、いつか必ず人に笑われるようなつらいことが起こる、とずっと思いながら暮らしてきた。匂宮が浮気な人だという噂も昔から聞いており、頼り切れないとは思っていた。それでも身近に暮らしている間は、特につらい扱いを受けることもなく、深い愛ばかりを誓ってくれた。
それが突然変わったら、自分はどうして平気でいられるだろう。
普通の夫婦のように、まったく縁が切れてしまうことまではないとしても、これから不安なことがどれほど増えるだろう。
「やっぱり私は不幸な身なのだ。最後にはまた山里へ帰ることになるのだろう」
そう考えると、それも父の八の宮が言い残したことに背いて山を出た、自分の心の軽さの報いのように感じられ、恥ずかしくもつらかった。
亡き大君のことも思い出す。
姉は、一見するとどこか頼りなげで、物事を深く考えず話すようなところもあった。それなのに、心の底の落ち着きと強さは、自分とはまるで違っていたのだ。
薫が今でも忘れられないほど嘆き続けているらしいが、もし姉が生きていたなら、姉にも今の自分のような苦しみが起きただろうか。
姉は、それを決して経験するまいと深く決心し、どんな形でも男から離れようとし、最後には髪まで下ろそうとした。きっと生きていれば、その決意を貫いたに違いない。
「今になって思えば、本当に重々しい心の人だった。亡くなった父上も姉上も、私をなんて軽薄な人間だと見ているだろう」
中君は恥ずかしく悲しく思ったが、今さらどうにもならない。それならせめて、自分がこんなに動揺している姿だけは宮へ見せまい、と堪え、何も聞いていないような顔で過ごした。
匂宮は、そんな中君へ、いつも以上に優しく親しみ深く接した。起きても寝ても言葉を交わし、この世だけではなく、来世まで変わらないというような長い約束ばかりをした。
実は中君は五月ごろから、いつもと違って体がだるく、食事もいっそう進まず、横になっていることが多くなっていた。けれど匂宮は、こういう女性の体の変化をまだよく知らないので、暑い季節だから具合が悪いのだろう、くらいに思っていた。
時にはさすがに不思議に思い、
「もしかして、あれではないのか。そういう人は、こんなふうに具合が悪くなると聞くけれど」
と尋ねることもあったが、中君はひどく恥ずかしがって何でもないように振る舞う。女房たちも差し出がましく口を出さないので、匂宮には確かなことはわからなかった。
八月になると、六の君との婚礼の日取りまで、中君はほかの人から伝え聞いた。匂宮は中君へ隠すつもりだったわけではない。ただ自分から言い出すのが気の毒でつらかったため、何も言わずにいたのだ。
だが中君にしてみれば、それがなおさら恨めしい。世間中が知っている話なのに、せめて日取りすら自分には言ってくれないのだから。
匂宮はこれまで、中君を二条院へ迎えてから、特別な事情がなければ、内裏へ参っても泊まらず、ほかの女性のもとへ夜離れすることもなかった。急に泊まりが増えれば中君がどれほど驚くかと気遣い、このころはわざと「宿直だから」と内裏へ泊まる夜を作り、少しずつ留守に慣れさせようとした。
けれど中君には、それさえただ冷たさが増したようにしか感じられなかった。
薫の悔いと、朝顔
薫もこの話を聞き、「なんとも気の毒なことだ」と思った。
「匂宮は移り気な人だ。中君を愛しく思っているのは本当でも、華やかな新しい妻ができれば、きっと心はそちらへ動く。しかも相手の家は、隙なく宮を囲い込んで離さないだろう。今までこんなことに慣れていなかった中君が、待つ夜ばかりを重ねることになるのはかわいそうだ」
そう考えるほど、薫は自分自身へ腹が立った。
「馬鹿なことをした。どうして私は、中君を宮へ譲ったのだろう」
大君を好きになってから、薫の、もともと俗世から離れようとしていた心は濁り始めた。ただ大君だけを思い続けながら、それでも本人から心を許してもらえないままでは、自分が最初から望んでいた関係とは違う――そう思っていた。
だからこそ、大君から少しでも愛しいと思ってもらい、心を許した様子を見たいと、先々のことばかり夢見ていたのだ。
ところが大君は同じ心でいてはくれなかった。だからといって薫を完全に突き放すこともできず、「中君も自分と同じだと思って」と、薫の本意ではない方向へ押しやった。
それが悔しく、腹立たしかったため、「ならば大君の思いどおりにはしない」とばかりに、匂宮をせき立て、中君との仲を取り持ってしまった。
今になって、自分が女々しいほど意地になり、宮を連れ回してまで策略を巡らしたことを思い出すと、
「なんてひどい心だったのだろう」
と、何度悔やんでも足りなかった。
――宮だって、あの時のことを思い出せば、私がどう思うか、少しくらい気にしてくれてよさそうなものなのに。
そう思う一方、
「いや、今ではあのころのことなど一言も言わない。やはり恋の方面に進みすぎ、移り気な人というのは、女のために頼りないだけではなく、何事にも軽々しいところがあるものなのか」
と、匂宮を憎らしくさえ思った。もっとも、一人の人にあまりにも深く執着する薫だからこそ、ほかの男の心がひどく軽く見えるのだろう。
大君を亡くしてからというもの、帝が自分の娘を与えようとお考えだという話も、薫には少しもうれしくなかった。
それよりも、
「中君を見たい」
という思いが、月日とともに強くなっていた。ただ、大君の縁につながる人だからこそ、離れがたいのだ。
姉妹の中でも、あの二人は限りなく深く思い合っていた。大君は死の間際まで、残る中君を自分と同じように思ってほしいと頼んだ。それについては薫も逆らうつもりはない。
ただ一つ、大君が自分の思いを退け続けたことだけが、今も口惜しく、恨めしかった。
「この世に残るのは自分のほうだ、と言ったのは大君だったのに。今、空から私を見ているなら、こんなことにつけても、ますます私が憎いと思っているだろうか」
そんなことを考えながら、一人寝の夜には、ちょっとした風の音にも目が覚める。過ぎたこと、これからのこと、人の身の上まで思いめぐらし、この世の頼りなさを考え続けた。
身近に仕える女房の中には、気軽な冗談を言いかけ、薫自身も悪くないと思う相手くらいはいた。けれど、本当に心の止まる女は一人もいない。それだけはさっぱりしていた。
大君たちに劣らないほどの身分でありながら、時勢が変わって落ちぶれ、心細く暮らしている女性を探し出して世話するようなことも多かった。それでも、「いよいよ世を捨てる時、この人だけは離れがたいという女を残さずに済ませたい」と長く思ってきた。
それなのに、今の自分はまるで違っている。
そんなことを考え、一睡もしないまま迎えた朝だった。
霧の立つ垣根の向こうに、色とりどりの花が見える。その中に、はかなげな朝顔が混じっていた。朝だけ咲いて消える花だからこそ、無常の世に重ねて見ると、薫にはひときわ心を引かれた。
格子を上げたまま横になって夜を明かしたので、花が開いてゆくところまで一人で眺めていた。
やがて人を呼び、
「北の院へ行く。大げさでない車を出してくれ」
と命じた。
「兵部卿宮さまは昨日から内裏にいらっしゃいます。昨夜、御車だけはこちらへ戻ってきました」
と聞くと、薫は、
「それならなおさら、対の方が具合を悪くしているそうだから、お見舞いに行こう。今日は内裏へ参る日だから、日が高くならないうちに」
と言って身支度をした。
庭へ下りて花の中に立つ薫は、わざと艶めいた格好をしているわけでもないのに、ただ見ただけで不思議なほどなまめかしく、こちらが恥ずかしくなるほど品がある。露の重い朝顔を引き寄せると、雫がぱらぱらとこぼれた。
今朝の間の色にや賞でむ置く露の消えぬにかかる花と見る見る
朝のほんの短い間だけの美しさだからこそ、この花を愛でるのでしょうか。露が消えないうちから、見ている間にもはかなくなってゆく花なのに。
「なんと、はかない」
薫は独り言を言い、その朝顔を折って持った。女郎花には目もくれず、そのまま出かけた。
中君を訪ねる薫
夜が明け切ってゆくにつれ、霧が乱れる空も美しい。
「女房たちはまだだらしなく朝寝しているだろうな。格子や妻戸を叩いて大声を出させるのも、いかにも不慣れな訪問みたいで嫌だ。ずいぶん早く来てしまった」
そう思いながら、人を中門から先に入れて様子を見させると、
「格子はもう上げてあるようです。女房たちの気配もいたしました」
という。
薫は車を下り、霧に紛れて静かに歩いて入った。
若い女房たちは最初、「宮さまがどこか忍び歩きから戻っていらしたのかしら」と思った。ところが露に濡れた衣から、いつもの格別な香りが流れてくる。
「やっぱり中納言さまだわ。本当に人を驚かせる方ね。あんなに何もかも自制しているのが、かえって憎らしいくらい」
と、若い女房たちは勝手なことを言い合った。
それでも慌てた様子は見せず、ほどよく衣擦れの音を立てながら茵を差し出すなど、応対は手慣れていた。
薫は中君へ言った。
「こうしてここへ伺ってよいと許していただいている間は、私も一人前の人間になった気がします。それなのに、相変わらず御簾の外へ離して置かれているのが悲しくて、なかなか足繁くも参れないのです」
中君は、
「では、どうすればよいのでしょう」
と返した。
「北面の片隅にでも、年寄りのような私が休める隠れ場所を作ってくださればいい。それもあなたのお心次第ですから、私が文句を言えることではありませんが」
薫が長押に寄りかかっていると、女房たちは、
「もっと、あちらのお近くへ」
と勧めた。
薫はもともと、押しの強い男らしさを前へ出す人ではない。大君を亡くしてからはさらに静かに自分を抑えている。そのため中君も、以前なら本人へ直接話すのがひどく気恥ずかしかったのに、今では少しずつ顔馴染みになり、自分から言葉を返せるようになっていた。
薫は中君の具合を、「どうしてそんなにお悪いのです」と尋ねた。中君ははっきり答えない。いつも以上に沈んでいる様子が痛々しく、薫は兄弟のような立場になったつもりで、世の中のこと、これからどう生きるべきかなどを細かく語り、慰めた。
中君の声は、意識して聞けば大君と特別似ているわけでもないはずなのに、薫には不思議なほど姉その人の声に聞こえる。
人目さえなければ御簾を上げ、向かい合って話したい。具合が悪いという中君がどんな顔をしているのか見てみたい――そんな気持ちまで湧いてくる。
「やはり、この世で何も思い悩まずに生きられる人などいないのだろう」
薫はしみじみ思った。
「私は、世間で目立つほど華やかな人間ではなくても、心に引っかかることもなく、身を悩ませるような嘆きとも無縁に、このまま生きていけると思っていました。それなのに、自分の心のせいで悲しいことも、馬鹿げた後悔も、あれこれ抱えて落ち着かずにいる。官位や出世を大事にして悩んでいる人より、こうした煩悩のほうが、むしろ罪が深いのかもしれませんね」
そんな話をしながら、薫は持ってきた朝顔を扇の上に置いて眺めていた。時間がたつにつれ、花が少し赤みを帯びていく。それがかえって美しく見えたので、そっと御簾の内へ差し入れた。
よそへてぞ見るべかりける白露の契りかおきし朝顔の花
この朝顔を、あの人になぞらえて見るべきだったのですね。白露のようにはかない縁が宿っていた花として。
わざとらしく差し出したわけでもなく、露をこぼさずここまで持ってきたのが何とも風情深く見えた。しかし花は、置かれたまま次第にしおれていく。
中君はそれを見て、かすかな声で返した。
消えぬまに枯れぬる花のはかなさにおくるる露はなほぞまされる
露が消えるより先に枯れてしまった花のはかなさを思えば、あとに残された露の悲しみは、いっそう深いのです。
「何にこんなに心をかけているのでしょうね」
言葉も続けられず、恥ずかしそうに声を消してゆく。その様子まで大君によく似ていて、薫にはまず悲しさがこみ上げた。
薫は言った。
「秋の空というものは、ますます物思いを深くしますね。退屈を紛らわせるつもりで先ごろ宇治へ行ってきましたが、庭も垣根も本当にひどく荒れ果てていて、耐えがたいことばかりでした。
六条院が亡くなられて二、三年後、出家された嵯峨院や六条院の跡を訪ねても、見る人は心を鎮めようがなかった。木や草の色を見るだけでも涙に暮れ、帰ってくるほどでした。あの院に仕えた人たちは、上から下まで、誰も心の浅い人はいなかったのでしょう。
集まっていた方々はそれぞれ別々の所へ移り、だんだん昔の暮らしから離れていきました。身分の低い女房たちなどは、もっとどうしてよいかわからず、思うまま山林へ入り、知らない田舎で暮らすようになった者さえ多かった。
やがて何もかも荒れ果て、忘れ草が生えるほどになってから、この右大臣が住み、宮たちもそれぞれお住まいになって、六条院は昔へ戻ったように見える。あのころ世に二つとない悲しみだと思われたことも、年月がたてば、少しずつ心を覚ます時が来るものなのだ、と見ておりますと、やはり人の悲しみにも限りはあるのだと思います。
こんなことを申しながらも、昔の悲しみは私がまだ幼いころのことで、それほど深く身にしみていなかったのでしょう。今度の、つい最近まで夢のように目の前にいた人のことだけは、どうしても目を覚ます方法がありません。同じ無常の悲しみなのに、私のほうが罪深い思いをしているからでしょうか。それさえつらいのです」
そう言って薫が涙を流す姿は、本当に心の深い人に見えた。
中君だって、もし姉をそれほど愛していなかったとしても、この薫の嘆きを見れば平気ではいられなかっただろう。まして今、中君自身も心細い物思いに沈んでいる。大君の面影がいつも以上に恋しく、悲しく迫ってきて、何も言えないほどになった。
二人は互いに、相手の悲しみを深く感じていた。
中君が宇治へ帰りたいと言う
中君は言った。
「昔、『世の中がつらいなら山里へ』などと人が言うのを聞いても、そんなふうに比べる心もなく、ずっと過ごしてきました。でも今は、どうにかして静かな暮らしをしたいと思うようになりました。それも思いどおりにはなりませんから、弁の尼が羨ましくてなりません。
今月二十日過ぎごろ、あの宇治の近くのお寺の鐘を、しばらくずっと聞いて暮らしたいと思っているのです。ひそかに渡らせていただけないでしょうか、とお願いしようと思っていました」
薫は真面目な顔になった。
「荒らすまいと思っても、どうしてあの場所を昔のままに保てるでしょう。男の私でさえ、あの荒い山道は行き来が難しく、行きたいと思いながら何か月も間が空くほどです。亡き宮の御忌日のことは、あの阿闍梨へ必要なことをすべて言いつけてきました。
宇治はもう、仏道のための場所としてお譲りになってはいかがです。私も時々あそこを見るたびに心が乱れ続けるのはよくないので、むしろ罪を消す場所に変えたいと思っています。
ただ、そのこともあなたがどうお考えになるか。何にせよ、あなたが決められることに従います。どうしたいか、遠慮なくおっしゃってください。何事も他人事でなく承ることだけが、私の願いなのです」
薫は、経や仏像までさらに供養しようと考えているようだった。
中君が、この機会にそのまま宇治へ籠もってしまいたいような気持ちを見せたので、
「それはとんでもない。何事も、もっとゆっくり落ち着いてお考えください」
と、薫は諭した。
日が高くなり、人が集まり始めた。あまり長居すれば何か特別なことがあるように見えるので、薫は帰ることにした。
「私はどこへ伺っても御簾の外に座らされることなど、あまり慣れていないので、どうも落ち着きません。またこうして参ります」
匂宮が留守だから来たのだ、と思われるのも面倒なので、薫は侍所の別当である右京大夫を呼び、わざと聞いた。
「昨夜、宮がお帰りになったと聞いたので参ったのに、まだ内裏だったとは残念だ。今日はこちらへお帰りになるのか」
「今日はお退出になるはずです」
「それなら夕方にも、また来よう」
そう言って薫は出ていった。
それでも中君の声や気配に触れるたび、薫の後悔は深くなる。
――どうして私は、大君の思いを読み違え、あの人の願いとは反対のことをしてしまったのだろう。
その思いが心に引っかかること自体が、また煩わしい。
「結局、人のせいではなく、自分の心が自分を苦しめているのだ」
薫はそう思い直し、そのまま精進を続け、いよいよ仏道の勤めばかりに明け暮れた。
母の女三の宮は、今も若々しく、おっとりとした人だったが、息子のこんな様子だけはひどく危うく、不吉に感じていた。
「私だって、もう何世代も生きるわけではありません。せめて私が生きてあなたを見ていられる間は、この世にいる甲斐のある姿でいてください。世を捨てたいというあなたを、この私が長く引き止められるものでもありません。でも今こんなふうに思いつめられると、私まで、どうしようもない悲しみのために罪を重ねてしまいそうです」
母にそう言われると、薫も申し訳なく、かわいそうに思う。母の前では、何も悩みなどない顔を作って過ごした。
六の君の婚礼
右大臣は六条院の東の御殿を磨き立て、ありとあらゆるものを整えて匂宮を待っていた。
ところが十六夜の月がようやく上がるころになっても宮が来ない。もともと乗り気でないことは知っていたので、大臣は落ち着かず、人をやって様子を聞かせた。
「夕方に内裏をお出になって、今は二条院にいらっしゃるそうです」
それを聞けば、愛しい人がいるからなのだろうと面白くない。けれど今夜まで来なければ、世間の笑いものになる。
大臣は息子の頭中将を使者にして、歌を送った。
大空の月だに宿るわが宿に待つ宵過ぎて見えぬ君かな
空の月でさえこの家には宿っているというのに、待つ宵も過ぎた今になっても、あなたのお姿だけが見えません。
匂宮は本当は、今ここから出ていけば、中君にかえってひどいことをしたようになるのがつらかった。
内裏にいたところへ中君から手紙が届き、その返事をどうしたのか、宮はますます中君が愛しくなり、こっそり二条院へ来ていたのである。
中君の可憐な姿を見ると、そのまま見捨てて出ていく気になれない。宮は何度も約束を重ね、慰め、一緒に月を眺めていた。
中君は、このところ思うことが山ほどある。それでもどうにか顔へ出すまいと堪え、何も知らないように落ち着いた態度でいる。その様子がひどく痛々しかった。
頭中将が迎えに来たと聞くと、宮もさすがに相手方が気の毒になり、出ることにした。
「すぐ帰ってくるから。一人で月を見ていてはいけないよ。心をここへ置いたまま出ていくのは、本当に苦しい」
そう言い置いて、人目を避ける道から寝殿へ渡っていく。
その後ろ姿を見送った瞬間、中君は自分でもどう思っているのかわからないまま、枕が涙に浮きそうな気がした。
――つらいものは、人の心なのだ。
自分自身で思い知らされた。
中君は一人、これまでの身の上を思い返した。
幼いころから心細く、頼る人の少ない姉妹だった。俗世に執着しているわけでもなかった父宮ただ一人を頼みとして、あの山里で何年も過ごした。いつも退屈で寂しい暮らしではあったけれど、そのころは、世の中そのものをこれほど身にしみてつらいとは思わなかった。
父と姉を続けて失った時は、もうこの世に一刻も生き残れないと思い、これ以上の悲しみはないと考えた。
それでも命が長く、ここまで生きてきた。世間の人が思っていたよりは、自分も普通の女として暮らすようになった。いつまで続くとも思わないけれど、目の前では宮も優しく、自分を嫌うような扱いをしない。そのうち少しずつ悲しみも薄れてきていた。
そこへ今度のことだ。
「もう、これが本当に最後の苦しみのように思える」
亡くなってしまった父や姉とは違って、匂宮なら、これからも時々は会えるはずだ。そう思えば慰めにもなりそうなのに、今夜こうして自分を置いて出ていったつらさが、過去も未来もすべてかき乱す。
姨捨山を照らすような月が澄んで昇り、夜は更けてゆく。
二条院の松風は、宇治で聞いていた荒々しい山おろしに比べれば、ずっと穏やかで心地よい。住まいも申し分ない。それなのに今夜だけは、そんなふうには思えない。宇治の椎の葉が鳴る音のほうが、まだ恋しく感じられた。
山里の松の蔭にもかくばかり身にしむ秋の風はなかりき
あの山里の松の木陰でさえ、これほどまで身にしみる秋風を感じたことはなかったのに。
以前の苦労を忘れてしまったのだろうか。
年老いた女房たちは、
「もう奥へお入りください。月を見るのはよくないと申します。こんなに何も召し上がらずにいては、お身体がどうなってしまうでしょう」
と心配した。
中君は、
「まあ、いやね。こんな時に縁起でもないことまで思い出してしまうのに、本当につらいわ」
と嘆いた。
女房たちは、
「でも宮さまのことですよ。まさかこのまま、お心がすっかり薄くなってしまうことはありますまい。なんといっても、最初から深く思い合われたお仲ですもの。何も残らなくなることはございません」
などと言い合う。
それさえ中君には耳障りだった。
――もう、誰にも宮のことなど言ってほしくない。ただ何もない顔で見ていたい。
そう思うのは、人には言わせず、自分一人だけで宮を恨んでいたいからなのだろうか。
昔から仕える女房たちは、
「それにしても、中納言さまの、あれほど深いお気持ちを……」
などと昔のことまで持ち出し、
「人の宿世というものは、本当に不思議なものです」
と言い合った。
一方、匂宮は中君を気の毒に思いながらも、華やかなことを好む心も抑えられず、今夜は新しい妻から立派な男だと思われたいと、念入りに身を整えていた。えも言われぬほど香を焚きしめた姿は、見事というほかなかった。
迎える六の君の側の様子も美しく整っていた。
匂宮は、
「どんな人なのだろう。やけに堂々として目立ちたがりで、柔らかさのない、誇り高い女だったら嫌だな」
などと思っていたが、実際の気配はそうでもないようだ。自然と心も引かれた。
秋の夜なのに、夜更けに来たせいもあって、あっという間に明るくなった。
六の君のもとから戻っても、宮はすぐには中君の対へ渡れなかった。少し休んでから手紙を書いた。
「新しい方のご様子も、どうやら悪くはなかったらしいわね」
と中君の女房たちは囁き合う。
「対の御方がお気の毒。宮さまのお心が天下に広いとしても、さすがに今度は向こうに圧されることだってあるでしょう」
長く仕えて気心の知れた女房たちなので、平気ではいられず、あれこれ言う者もいた。
匂宮は本当なら新妻からの返事を待つべきところだったが、中君が昨夜からどんな思いでいるかを考えると放っておけず、急いで二条院へ渡った。
寝起きの中君は、かえって見どころのある美しさだった。宮が入ってくると、寝たままでいるのも失礼だと思い、少し起き上がった。その顔は涙や物思いのためか、今朝ひときわ赤みを帯び、美しく見える。
宮は思わず涙ぐみ、しばらくじっと見つめた。
中君は恥ずかしくなり、うつ伏す。髪のかかり方まで、ほかに例がないほど美しかった。
匂宮も少し気まずく、深い愛の言葉をいきなり言うことができない。照れ隠しのように、
「どうしていつまでもそんなに具合が悪そうなの。暑さのせいだと言っていたから、早く涼しくなればと思っていたのに、まだすっきりしないなんて困ったものだ。いろいろ祈らせても効かない気がする。修法ももっと続けたほうがいい。霊験のある僧がいればよいのに。あの僧都を夜居に置くべきだったな」
と、実用的な話ばかりした。
中君には、こういう時まで口のうまい宮が少し嫌だったが、全く返事をしないのもいつもと違う。
「昔も、人とは違う暮らしをしていたころ、こういうふうに具合の悪いことはございました。でも自然にすぐよくなったものです」
と答えた。
宮は笑って、
「それは何より、すっきりした答えだ」
と言う。
――親しみやすく、愛嬌のある点では、この人に並ぶ女はいない。
そう思いながらも、昨夜会った新しい妻を、早くもう一度見たいという気持ちも添っている。それでも中君への愛情が浅いわけではなかった。
宮は後の世まで変わらないと、また尽きることなく誓った。
中君は、
――たしかにこの世の命は短い。生きているほんのわずかな間でさえ、この方の心はつらいものになりそうだ。それなら、来世の約束のほうが、もしかすると違わずに済むのだろうか。
と思う。
これまで、「こんなに悲しんでいる」と宮に見せまいと必死に隠してきた。けれど今は、いろいろな思いが重なりすぎた。涙がこぼれ始めると、もう止められなかった。
恥ずかしくて宮から顔を背けると、宮は無理にこちらを向かせ、自分の袖で涙を拭った。
「話を聞いている間は、なんて愛しい人だと思っていたのに、まだ私に隠している心があったんだね。それとも、一晩のうちに気持ちが変わってしまったのかな」
中君は少しだけ笑った。
「一晩で心が変わるということがあるのだと、今のお言葉でよくわかりました」
宮は、
「まあ、なんて子どもみたいな言い方をするんだ。でも本当は、裏表のない心だから安心できる。私がどれほど言葉を尽くして説明したって、変な心があればすぐわかってしまうものだよ。
世間のことをまるで知らないのが、かわいいけれど困るところだ。私の身になって考えてごらん。自分の体なのに、自分の心のままにならない立場なんだ。もし思いどおりになる時が来れば、あなたへの気持ちが誰より深かったと、きっとわかってもらえることがある。簡単には言えないから、あとは命だけを頼みにしていてほしい」
そんな話をしているところへ、向こうへ送っていた使者が酔いすぎたまま戻り、遠慮も忘れて南面へ堂々と入ってきた。
海人の刈る美しい玉藻に埋もれるような、華やかな贈物を持っている。皆はすぐ、向こうからの返事だと気づいた。
匂宮も、別に隠すほどではないと思う一方、今この場へ持ってこられるのは中君が気の毒だし、使者にももう少し気を利かせてほしかったと思った。けれど今さら仕方がないので、女房に手紙を取らせた。
いっそ中君に何も隠さない関係にしてしまおうと思い、手紙を開けてみると、六の君本人ではなく、その家の継母筋の宮の筆らしい。それなら少し気が楽になり、脇へ置いた。
そこには、
「差し出がましいことながら、気になるあまりお勧めしておりますが、ずいぶんお疲れのご様子でございます」
とあり、そのあとに歌が添えられていた。
女郎花しをれぞまさる朝露のいかに置きける名残なるらむ
女郎花はいっそうしおれております。今朝の露が、いったいどんなふうに置いていった、その名残なのでしょう。
気品のある、美しい筆だった。
宮は、
「こんな恨みがましいことまで書かれるのも面倒だな。本当は、しばらくは何の気兼ねもなくここで暮らしたいと思っていたのに、思いどおりにはならないものだ」
などと言った。
女房たちは、
「一人だけを正式な妻として大切にする普通の男なら、こんなことになれば妻が恨むのも当然でしょう。でも宮さまの場合は難しいことでございます。親王の中でも格別に世間から重く見られている方ですから、何人もの妻をお持ちになったとしても、誰も非難はできますまい。
ですから世間の人も、こちらの御方がお気の毒だとは、それほど思わないのでしょう。それでも宮さまが、これだけきちんとこの御方をお住まわせになり、深く心をかけておられる。それこそ幸せなことです」
と中君へ言う。
中君自身、宮があまりにいつもそばにいる暮らしに慣れてしまったため、急に置き去りにされるようになるのがつらいのだった。
昔物語で、恋にこれほど深く心を奪われる人の話を読み、他人のこととして聞いていたころは、なぜそんなに思いつめるのだろうと不思議だった。今、自分自身がその立場になって初めて、決して軽いものではなかったのだと、何もかも思い知らされた。
匂宮はこの日はいつも以上に優しく、打ち解けて中君を扱った。
「本当に何も召し上がらないのはよくない」
と、美しい果物を取り寄せ、わざわざ料理まで作らせて食べるよう勧めた。けれど中君の心は遠く宇治にあるばかりで、ほとんど口をつけない。
宮が「困ったことだ」と嘆いているうちに日が暮れ、夕方には六条院の寝殿へ渡っていった。
風は涼しく、空は美しい秋だった。華やかなことを好む宮には、いっそう艶やかな夜だろう。
だが物思いに沈む中君の心には、耐えがたいことばかりが増える。
蜩の声を聞くと、宇治の山陰ばかりが恋しくなった。
おほかたに聞かましものをひぐらしの声恨めしき秋の暮かな
ただ何でもない身で聞く蜩の声だったならよかったのに。今の私には、その声まで恨めしく聞こえる秋の夕暮れです。
今夜はまだそれほど更けないうちに宮が出ていった。前駆の声が遠ざかるにつれ、中君の涙も止めようがなくなる。
「こんな自分の心も嫌になる」
と思いながら横になった。
最初から宮に物思いをさせられてきたことまで次々と思い出され、宮そのものを疎ましく感じるほどだった。
「それに、この体の具合はいったいどうなるのだろう。私は家族みんな命が短い。こんなことをきっかけにして、自分まで死んでしまうのではないか」
命そのものが惜しいわけではない。それでも悲しく、死ぬとなれば罪も深いことらしい。
中君は眠れないまま夜を明かした。
六条院での華やかな儀式
その日は中宮が少し具合を悪くしておられるというので、皆が参内していた。けれどただの風邪で、大したことではないとわかると、右大臣は昼に退出した。薫も誘われ、一つ車で六条院へ向かった。
今夜の儀式をどれほど立派にしようと右大臣が考えても、もちろん格式上の限度はある。それでも薫は、親しい身内という意味では、これほど場を引き立てる人はほかにいない。右大臣は、薫が自分の娘婿ではなく、ほかの人の婚礼をこうして手伝っていることを残念がる様子も見せず、何事も相談しながら一緒に取り仕切った。大臣は内心、それが少し妬ましかった。
匂宮は宵を少し過ぎたころに到着した。
寝殿の南廂、その東寄りに座が設けられていた。御台は八つ。皿なども正式に美しく整え、小さな台二つには花足の皿まで新しい趣向で載せ、餅が供された。
右大臣が現れ、「もうずいぶん夜が更けました」と女房を通して宮を促したが、宮はわざと洒落たふうに構え、なかなか出てこない。北の方の兄弟である左衛門督や藤宰相なども来ていた。
ようやく姿を現した宮は、さすがに見ごたえがあった。主人役の頭中将が盃を捧げ、料理を勧める。次々に盃が二度、三度と重ねられ、薫がかなり勧めると、匂宮は少し笑った。
以前、薫が六の君の家を「面倒な家ですよ」と言ったことを思い出したのだろう。それでも薫は何も知らない顔で、ひたすら真面目に振る舞っていた。
宮が東の対へ移る時には、供の人々まで念入りに飾り立てられた。評判の殿上人も大勢いる。
四位六人には女装束に細長を添え、五位十人には三重襲の唐衣を着せ、裳の腰にもそれぞれ違いをつけた。六位四人には綾の細長や袴。決まった範囲の中では飽き足らず、色合わせや仕立て方にまで美を尽くしてある。
召次や舎人に至るまで、少しやりすぎと思えるほど物々しい。
たしかに、これほど賑やかで華やかなものは見ていて面白い。物語でも、こういう場面がまず大げさに語られるのは、そのためなのだろう。ただ、すべてを細かく数え上げることまではできない。
薫の供の一人で、あまり目立つ身分でもない男が、暗がりに紛れてこの盛儀を見ていた。帰り際、中門のあたりで、
「うちの殿も、どうして素直にこの大臣家の婿にならないのだろう。あんなつまらない一人暮らしばかりなさって」
とつぶやいた。
薫がそれを聞きつけ、面白く思った。
夜も更け、眠くなってくると、今ごろあちらでは華やかにもてなされた人々が、気持ちよく酔って横になっているだろうと、薫にも少し羨ましく思えたらしい。
自分の部屋へ戻って横になった薫は、さっきの匂宮の姿を思い返した。
「大げさなほど立派な親が出てきて、火を明るく掲げ、大勢の人の前で盃を勧められているのに、宮は実に自然に、見苦しいところなく振る舞っていた」
さすがだと思う。
そして、
「もし自分に本当に大切な娘がいたなら、この宮を差し置いて、帝にだって差し上げないかもしれない」
とまで思った。
そう考える一方、世間では娘を匂宮へ差し上げたいと思う親たちまで、「やはり源中納言に」と言っているらしいことを思い出し、
「自分も世間でそれほど悪い評判ではないらしい。こんなに世間離れして、古臭い人間なのに」
と、少し誇らしい気持ちにもなった。
帝からの縁談を本当に受けることになれば、自分はどうするのだろう。名誉な話ではあるが、今これほどすべてが億劫に思える心で、果たしてやっていけるのか。
それでも、もし姫宮が大君にとてもよく似ていたなら、その時にはうれしいだろう――そんなことを考える自分は、やはり俗世から完全に離れ切ることはできないのだった。
薫はその夜、按察使の君という、ほかの女房よりは少し気に入っている女性の局へ行き、そこで夜を明かした。
朝が遅くなっても誰に咎められる関係でもないのに、薫が苦しそうなほど急いで起きようとするので、女はただの関係ではないと思ったのだろう。
うち渡し世に許しなき関川をみなれそめけむ名こそ惜しけれ
誰にも公には許されない関川を越えて、あなたと親しくなってしまった――その名が残ることこそ、私は惜しいのです。
薫も気の毒に思い、返した。
深からず上は見ゆれど関川の下の通ひは絶ゆるものかは
表面から見れば深い仲には見えなくても、関川の底を通う流れのように、心のつながりまで絶えることはありませんよ。
「深い」とはっきり言われたところで、十分頼もしい相手でもないのに、こんな「上から見れば浅い」という返事では、女はますます面白くなかっただろう。
薫は妻戸を開け、
「本当は、この空を見てください。こんな空を知らない顔で寝ていられるものですか。風流人の真似をしているのではありません。毎晩目が覚めると、この世だけでなく来世のことまで考えられて、しみじみしてしまうのです」
などと話をそらして出ていった。
薫は特別に面白い色事を尽くす人ではない。それでも、その姿そのものがなまめかしいせいだろう、女から冷たい人だとはあまり思われない。ほんの冗談でも言葉をかけられた女は、もっと近くで薫を見たいと願うようになり、出家した女三の宮の周囲へ縁を頼って集まる者までいる。そこには身分なりのさまざまな物語があったのだろう。
一方、匂宮は六の君を昼の明るいところで見るにつけ、ますます心を引かれた。
背丈はちょうどよく、姿は美しく整い、とりわけ髪の流れ方や頭の形が目を奪うほど見事だった。肌は輝くほど明るく、顔立ちは堂々として気高い。その目元には、こちらが気後れするほどの知性と品がある。美人という言葉で思い浮かべるものを、何一つ欠いていなかった。
二十歳を一つ二つ過ぎたほどで、もう子どもっぽさの残る年ではない。未完成なところがなく、まさに盛りの花のようだった。これほど大切に育てられてきたのだから、欠けたところがないのも当然である。親なら夢中になってしまうのも無理はなかった。
ただ、柔らかな愛嬌、親しみやすいかわいらしさとなると、匂宮の心にはまず中君が浮かんだ。
六の君は返事の仕方も恥じらいを見せながら、何を考えているのかわからないほど曖昧でもない。全体に見どころが多く、才気のある人だった。
若い女房は三十人ほど、童女は六人。誰一人として見苦しい者はいない。衣装も、ただ正式で美しいだけでは宮の目には見慣れていると思ったのか、わざと普通とは違う趣向を凝らし、驚くほど洒落たものにしてあった。
右大臣は、三条殿腹の大君を東宮へ入内させた時より、この六の君の婚礼のほうにいっそう心を入れているように見えた。それだけ匂宮の世間での重みが大きいのである。
待つ夜が増える中君
こうなってから、匂宮は二条院へ気軽には通えなくなった。
皇子という身分では、思うまま昼間に抜け出すこともできない。六条院の同じ南の町で、以前から住んでいるように見せかけながら、夜になればまた六の君のもとへ行かないわけにもいかない。
中君が待ち遠しく思う夜が、だんだん増えていった。
「こうなることはわかっていた。でも、実際始まってみれば、こんなにも一気に何もかも変わってしまうものなの。やっぱり少しでも分別のある女なら、自分の身のほどを知らずに、あんな華やかな人の世界へ交じってはいけなかったのだ」
山道を分けて宇治を出た日のことまで、夢だったように思え、悔しく、悲しかった。
「やはり、どうにかしてひそかに宇治へ戻りたい。宮を完全に捨てるというのではなくても、しばらく心を休めたい。こちらが嫌な態度を取っているというのならともかく、そうではないのだから」
そう一人で思い詰め、恥ずかしかったけれど薫へ手紙を書いた。
「先日の御忌日のことは、阿闍梨から詳しく聞きました。もしあなたのお心があれで終わってしまっていたなら、どんなに悲しいことだっただろうと思うにつけても、ありがたく思わずにはいられません。できることなら、私自身も……」
陸奥紙に、飾り立てず真面目に書かれた手紙だった。それがかえって美しい。
八の宮の忌日に薫がいつものように尊い供養をしたことへの礼だった。大げさな書き方ではないが、薫の心をきちんとわかっていることが感じられる。
普段の中君は、薫からの手紙へ返事をするだけでも気恥ずかしく、まともに長く書くことはない。その人が「私自身も」とまで書いている。
薫は珍しくうれしく、胸が高鳴るほどだった。
匂宮が新しい妻に夢中になり、中君への心が少し薄くなっているのも想像でき、ますますかわいそうになった。薫は何の風流な飾りもないこの手紙を置くことができず、何度も読み返した。
返事には、
「承りました。先日は聖のような格好で、わざわざ人目を忍んでおりましたのも、このところ自分にも考えることがあるためです。『お心の名残』などとおっしゃるのは、以前より少し浅くなったように聞こえて、恨めしく思われます。何事も、おそばに伺ってから。恐れながら」
と、白く硬い色紙へ、薫らしく簡潔に書いた。
薫が中君へ近づく夜
翌日の夕方、薫は二条院へ行った。
自分でも人には言えない特別な思いが加わっているので、必要以上に身支度へ気を遣ってしまう。柔らかな衣にはさらに香を濃く焚きしめ、使い慣らした丁子染めの扇に移った香りまで、たとえようもなく見事だった。
中君のほうも、以前、薫と不思議なことになりかけた夜を、まったく思い出さないわけではない。薫が真面目で情の深いことではほかの人に及ぶ者がないと知るにつけ、ほんの一瞬、
――もしあの人と結ばれていたら。
と思うことくらいはあったのかもしれない。
もう何も知らない少女ではない。今、匂宮の恨めしい振る舞いと薫とを比べれば、いろいろなことが以前よりはっきりわかる。
いつまでも薫を遠くへ隔てておくのも気の毒だし、「何も感じない女だと思われているかもしれない」と考えて、その日は御簾の内へ薫を入れた。母屋の簾には几帳を添え、自分は少し奥へ下がったところで対面した。
薫はうれしそうに言った。
「わざわざお召しになったわけではありませんが、先日の手紙で、いつになくお許しをいただいたように感じましたので、本当ならすぐにも参りたかったのです。ただ宮がおいでだと聞き、間が悪いと思って今日にしました。
長年思ってきたことにも、ようやく少しは甲斐があったのでしょうか。御簾一枚分だけ、隔てが薄くなりました。珍しいことです」
中君はやはり恥ずかしく、何と言えばよいかわからなかったが、
「先日、とてもうれしく思ったことを、いつものように心に結んだまま何も言わず過ぎてしまったら、あなたのお気持ちを少しでもわかっているということさえ伝えられない。それが残念でしたので」
と、ひどく慎ましく答えた。
声は遠く、途切れ途切れにしか聞こえない。
「ずいぶん遠いですね。本当にお話ししたいことも、伺いたい世の中のこともたくさんあるのですが」
薫が言うと、中君もそれはもっともだと思い、少し近寄った。
その衣擦れの気配を聞くだけで、薫の胸は思わず高鳴る。それでも何でもない顔をして、いっそう静かに振る舞った。
匂宮が思ったより浅い心の人だったことについて、ある時は遠回しに非難し、ある時は中君を慰め、落ち着いて話を続けた。
中君は匂宮への恨みを、薫へあからさまに話すつもりはない。ただ、世の中そのものがつらいというように見せ、少ない言葉で紛らわせた。
そして、宇治へ少しの間帰りたいのだと、真剣に頼んだ。
薫は答えた。
「そればかりは、私一人の判断でお手伝いするわけにはいきません。まず宮へ素直なお気持ちをお見せになって、宮のお考えに従うのが一番です。
そうしなければ、何か少しでも食い違いが生じた時、あなたが軽い気持ちで出ていったなどと宮がお思いになることにもなりかねません。それは本当によくない。
宮さえお許しになるなら、道中の送り迎えまで私自身が引き受けます。何の遠慮がありましょう。私の心が普通とは違って、あなた方を本当に案じていることは、宮もよくご存じです」
そうは言いながら、薫は折々、昔のことを悔やんでいる気持ちを忘れられず、「大君とのことを取り返せるものなら」と思っていることを、それとなくほのめかした。
だんだん暗くなってきた。
中君は薫の長居が煩わしくなり、
「それでは、どうも具合が悪いので、また少しよくなった時に何事も……」
と言って奥へ入ろうとした。
薫は口惜しい。
「それで、宇治へお出かけになるのはいつごろです。道の草もずいぶん茂っているでしょうから、少し払わせておきましょう」
と、何気ないふうに尋ねた。
中君は立ち止まり、
「今月はもう終わりそうですから、来月の朔日ごろにと思っています。ただ、本当に人目を忍んで行きたいのです。世間へ正式に許しを求めるような大げさなことまで、何も……」
と言った。
その声があまりにも愛らしく、薫にはいつも以上に大君が思い出された。
もう堪えきれず、寄りかかっていた柱のあたりから、簾の下へそっと手を伸ばし、中君の袖をつかんだ。
中君は、
――やっぱり。なんて嫌なことを。
と思った。
何も言うことができず、さらに奥へ引こうとする。薫はその動きについていくように、馴れた顔で半分ほど内側へ入り込み、中君のそばへ横になった。
「違うのです。あなたが『忍んでならよい』とおっしゃったので、そんなうれしいことまで聞こえたのは私の聞き違いだったのか、と確かめたかっただけです。私をそこまで他人のように思う仲でもないでしょう。それなのに、その嫌そうなお顔は何です」
薫は恨みを言った。
中君は予想もしていなかった薫の振る舞いを、ひどく不快に思った。けれど必死に気持ちを静め、
「思いもしなかったお心ですね。人が見たら何と思うでしょう。あきれるばかりです」
と責め、今にも泣き出しそうになる。
その言い分にも道理はある。
薫も気の毒に思いながら、
「これほどのことで、そんなに咎められることでしょうか。昔のことも思い出してください。亡くなったあの方も、私があなたを大切にすることは許しておられたではありませんか。
こんなにも私を遠ざけておられたとは、かえってつらいことです。あなたを驚かせるような好色な心を持つつもりはありません。その点は安心してください」
と、表面では静かに振る舞った。
しかし何か月も悔やみ続けてきた思いが、今は抑えきれないほど苦しくなっている。その気持ちを薫は延々と語った。
中君は、薫が簡単には引く気がないと知ると、どうすることもできなかった。まったく事情を知らない男よりも、長く頼りにしてきたこの人だからこそ、かえって恥ずかしく、嫌に感じられ、涙を流した。
薫は、
「どうして泣くのです。まるで子どものようですね」
などと言う。
それでも中君の、言葉にならないほど愛らしく、痛々しく、それでいて深い慎みを失わない気配を見ると、以前よりずっと大人になり、美しさを増したと思われた。
――自分の手でこの人を他人の妻にしておきながら、なぜ今こんな苦しみを味わっているのだろう。
そう悔やむと、薫自身まで本当に涙が出た。
近くに女房が二人ほどいたが、見知らぬ男が押し入ってきたのならともかく、二人は昔から隔てなく言葉を交わす関係だと思っている。何か事情があるのだろうと考え、居合わせるのが気まずく、そっと離れてしまった。
薫のほうも、昔を悔やむ心は抑えがたかった。けれど、あのころでさえ珍しいほど自制のきく人だった。今回も結局、自分の思いのままに中君を扱うところまでは進まなかった。
こういうことを細かく語り続けるのも、むなしいことである。
人目のことも思えば、このままではいられない。薫はいろいろ思い返し、結局そこを出た。
まだ宵のうちだと思っていたのに、もう暁が近かった。誰かに見咎められれば中君がかわいそうだ。それも薫には気がかりだった。
「具合が悪いと聞いていたのは、なるほどもっともだった。あんなに腰をかばって恥ずかしがっていたのも、そのせいなのだろう。結局、気の毒になってほとんど何もできなかった。いつもの、自分の愚かな心というものだ」
そう思う一方、情のない男になるのも本意ではない。
今の一時の心の乱れに任せ、強引なことをしたあとで、結局堂々と一緒に暮らせるわけでもなく、ひそかに通い続けることになれば、中君にも匂宮にも苦しみが増えるだけだ。
そこまで理屈ではわかっている。
それなのに、別れた直後から中君が恋しく、もう会わずにはいられない気がする。
どうにも皮肉な心だった。
以前より少し痩せた中君の、気品があり愛らしい気配が、離れてもそのまま身にまとわりついているように思われ、薫にはほかのことが考えられなくなった。
「宇治へ行きたがっているのだから、本当に行かせてしまおうか」
とも思う。
しかし匂宮が許すはずがあるだろうか。かといって、宮に隠して連れ出すのはとてもまずい。
どうすれば人目に見苦しくなく、自分の思いも少しは叶うのか。
薫は心が宙に浮いたように、横になったまま考え続けた。
まだ深い朝のうちに、中君から手紙が来た。
外見はいつものようにきちんと折った立文で、
いたづらに分けつる道の露しげみ昔おぼゆる秋の空かな
むなしく分け入ってしまった道の露があまりに深くて、昔のあの秋のことまで思い出される空です。
そのあとに、
「昨夜のお振る舞いがつらいのも、道理をわきまえない者の苦しみなのでしょう。何と申し上げればよいかわかりません」
とあった。
返事をしなければ、周囲が「いつもと違う」と気づくだろう。それも苦しいので、中君は、
「承りました。ひどく具合が悪く、今はお返事もできません」
とだけ書いた。
薫は「いくら何でも言葉が少なすぎる」と寂しく思い、昨夜の中君の美しい気配ばかりを恋しく思い出した。
中君は少し世間を知るようになったからだろう。昨夜の薫の行動を、あれほど驚き、理不尽だと思いながらも、ただ嫌いになったわけではなかった。
気品があり、こちらが恥ずかしくなるような慎みを保ちながら、それでも薫をなだめ、穏やかに帰そうとした。その心遣いを思い出すと、薫は悔しくも悲しくもなり、さまざまに心にかかった。
何もかも、大君のころ以上に強く感じられる。
「何、宮がこの人を完全に捨てるようなことになれば、いずれ私を頼りにするほかないだろう。公然と一緒になれることはなくても、ひそかに思い合う相手がほかにいないなら、最後に心の止まる場所は自分になるのではないか」
そんなことばかり考える。
まったく、あれほど心の深い賢者のような顔をしている薫も、男というものの心の情けなさから逃れられない。
大君を失った悲しみは、もうどうにもならないことだから、これほど身を焼く苦しみではなかった。だが生きている中君のこととなると、考える道がいくつもあるだけに、かえって心は尽きなかった。
「今日は宮がお渡りになりました」
と聞いただけでも、後見としての冷静な心は吹き飛び、胸がつぶれるようで、宮が羨ましくなる。
匂宮が薫の香りに気づく
匂宮は何日も二条院へ来なかったことを、自分自身でも恨めしく思い、急に中君のもとへやって来た。
中君は、
「もう何も心を隔てているようには見せまい。宇治へ帰ろうとしても、頼りにしていた人にまで、あんな嫌な心が混じっていたと知ってしまった。この世は本当に窮屈だ。もう消えてしまうまでは、なるようになれと思って、おとなしくしていよう」
と決め、愛らしく穏やかな様子で宮を迎えた。
宮はうれしくてたまらず、何日も来なかったことを限りなく詫びた。
中君のお腹も少しふくらんでいる。妊娠を示す帯を結んでいる様子が、宮には何とも愛しく、珍しかった。こういう女性を身近に見ること自体が初めてだからである。
宮は格式ばった場所で育ち、普段は何事にも気を遣う身である。それだけに中君のそばでは、すべてが気楽で親しみ深く感じられる。
宮は尽きることなく愛を誓った。
中君は、
――こんなに言葉の上手なことばかり言う人なのだろうか。
と、先日の薫の強引さまで思い出した。
薫は長年、自分たちを本当に深い情で世話してくれていた。それでも男女のことに関しては、自分にはあるまじきことだと思っていたのに、あんなふうになった。
そう思えば、匂宮の将来の約束も、どこまで頼めるものか――と思いながら、それでも以前よりは少し耳を傾ける気持ちになった。
そして、
「あれほど油断させておいて入ってきた薫のことを思えば、大君に対しては長くよそよそしく、手を出さずに過ごしていたあの人の心は、やはり珍しいものだったのだ。だからといって、こちらも完全に気を許してよい相手ではなかったのだけれど」
と、ますます警戒するようになった。
それでも匂宮が長く途絶えることは、今では本当に恐ろしい。口には出さないが、以前より少し宮を引き止めるような態度になった。
宮は限りなく愛しく思った。
その時、宮は妙な香りに気づいた。
中君の衣に、薫の香りが深く染み込んでいる。普通の薫物を焚きしめた香りとはまったく違う、誰にでもわかる独特の香りだった。
香のことには人一倍敏感な匂宮である。
――おかしい。
すぐに気づき、何があったのか、中君の様子を探る。
中君自身、まったく何もなかったと言い切れるほどではない。そのため、言葉もなく困り果て、本当に苦しそうにした。
「やっぱり。きっと何かあると思っていた。まさか、あの人があなたを何とも思わないはずがないと、ずっと考えていたんだ」
宮の心が激しく騒いだ。
中君は単衣なども着替えていたのに、不思議なことに薫の香りは体にまで染みついたように残っていた。
「これほど香りが残っているのなら、その先まで何もなかったとは思えない」
宮は聞きづらいことまで次々言う。
中君は身の置き場もないほどつらかった。
「私はあなたを特別に思っているのに。『自分のほうが先に思っていた』などというように、ほかの男へ心を向けられるような関係ではないはずだ。ほんの少しでも、私の心を疑わなければならないほどの月日がたっただろうか。思いもしなかったつらい心だね」
宮は言い続けた。
中君が何も答えないことさえ、宮には腹立たしい。
また人に馴れける袖の移り香をわが身にしめて恨みつるかな
ほかの人に親しく触れた袖の移り香を、この私の身にまで染みつかせながら、私はあなたを恨んでいるのですね。
中君は、あまりにもひどいことばかり言われ、何を答えればよいかわからなかった。けれど黙ったままではどうにもならない。
みなれぬる中の衣と頼めしをかばかりにてやかけ離れなむ
長く馴れ親しんだ仲の衣のように、あなたを頼りにしてきたのに、これほどのことで私から離れてしまわれるのでしょうか。
そう言って泣く中君の様子は、言葉にできないほどかわいそうで愛しかった。
匂宮は、
――だからこそ、こんな人をほかの男が放っておくはずがない。
と思い、まだ悔しくてならなかったが、自分までぽろぽろ涙を落とした。
まったく色めいた心の宮である。
仮に中君に本当に大きな過ちがあったとしても、こんなに愛らしく、痛々しい姿を見せられては、完全に嫌いきることなどできない。
宮は恨み言を途中で止め、逆に中君を慰め始めた。
翌日も宮はゆっくり起き、手水も粥も中君のほうへ運ばせた。
六条院の新妻の御殿は、高麗や唐の錦や綾が目も眩むほど重ねられた世界だった。それに比べれば中君の部屋は、ごく普通の、住み慣れた場所に見える。女房たちの中には少しくたびれた衣の者も混じり、全体に静かな暮らしぶりである。
中君は柔らかな薄色の衣に撫子の細長を重ね、少し乱れた姿でいた。
それでも、何もかも磨き上げた盛りの六の君と比べても、少しも見劣りしない。むしろ親しみやすく愛らしい。宮の思いが深いからこそ、そう見えることもあるのだろう。
以前はふっくらとかわいらしかった中君が少し痩せ、肌はいよいよ白く、上品で美しく見える。
薫の香りのようなはっきりした証拠がない時でさえ、中君は愛嬌もかわいらしさも人よりずっと勝っている。
宮は自分のことを振り返った。
「こんな人と、兄弟でもない男が身近に言葉を交わし、何かにつけ声や気配に親しんでいたら、どうして何とも思わずにいられるだろう。必ず心が動くに決まっている」
自分が隅々まで男女の心を知る人だけに、そう思わずにはいられなかった。
宮は、近くの厨子や小唐櫃まで何気ない顔で探し、「薫のものとわかるような手紙がないか」と調べた。
しかし、そんなものは見つからない。あるのは真面目で言葉の少ない、何でもない手紙が、ほかの物に混じっているくらいだった。
「おかしい。まさか、これだけではあるまい」
宮はますます落ち着かなかった。
「薫だって、心のある女なら放っておけないほどの人だ。中君だけを特別に突き放す理由があるものか。二人は年齢も身分もよく釣り合っている。互いに心を寄せているのではないか」
そう想像すると、腹立たしく、悔しく、たまらなかった。
結局、その日も宮は二条院から出ることができず、六条院へは二度、三度と手紙だけを送った。
年寄りの女房たちは、
「いつの間に、そんなにたくさんのお言葉が積もったのでしょうね」
と呟いた。
薫の後見と、止められない思い
薫は匂宮が二条院へ籠もり続けていると聞き、やはり面白くなかった。
けれどすぐ自分を叱った。
「どうしようもない。こんなことを思う自分の心のほうが愚かで悪いのだ。もともと安心できるよう後見しようと思った相手なのに、自分がこんな思いを抱いてどうする」
無理にそう思い返した。
それでも、
「宮も、結局この人を捨てることはできないらしい」
とうれしく思う気持ちもあった。
中君の女房たちの衣装が、少しくたびれたものも混じっていたことまで思い出す。
薫は母の女三の宮のもとへ行き、
「適当な贈物になるようなものはございませんか」
と尋ねた。
母宮は、
「来月の法事に使う白い布ならあるでしょう。染めた物はこのごろ特に用意していませんから、必要なら急いで作らせましょう」
と答えた。
「いえ、そんな大げさな用途ではありません。ある物だけで十分です」
薫は御匣殿などに尋ね、女房用の装束を何領も、細長や普通の絹・綾などと一緒に取り揃えた。
中君本人へと思われるものには、自分用に持っていた紅の打目の見事な生地へ、白い綾を何枚も重ねた。袴がなかったので、どこから見つけたのか腰紐を一本添え、歌を書いた。
結びける契りことなる下紐をただ一筋に恨みやはする
一度結んだ縁にはいろいろな思いが絡んでいるのです。ただ一筋のことだけを、私は恨んでいるのではありません。
大輔の君という年長で親しい女房へ送り、
「急なことで取り揃えも悪いでしょうから、うまく見えないように整えてください」
と伝えた。
中君の分は目立たないようにしてあるが、箱や包みはほかとは違う。中君自身へ見せたわけではないが、これまでにも薫がこうした心配りをすることは珍しくなかったので、女房たちも大げさに返そうとはせず、皆へ分け、必要なものを縫い始めた。
特に中君の近くに仕える若い女房たちは、きちんとした格好に整える必要がある。ひどく着古した下仕えの女たちには、白い袷などを着せた。むしろ目立ちすぎず、見苦しくない。
考えてみれば、中君の家には、こうした細かなことまで世話してくれる親がいない。
匂宮は深く愛しており、何でもしてやりたいと思ってはいる。けれど日常の細部まで、どうして考えが及ぶだろう。生まれてからずっと人に大切にされる側だった宮には、暮らしが思いどおりに整わず寂しいということが、どんなものかさえわからない。それも無理はない。
花の露を眺め、風流な物思いだけで一生を過ごしそうだった匂宮が、中君のためなら季節ごとの実務にまで多少気を配るようになったこと自体、珍しいことではあった。
それでも乳母の中には、
「まあ、それくらいは」
と不満そうに言う者もいた。
童女たちの中に、時々、衣装の整わない者が混じることも、中君自身はひどく恥ずかしく思っていた。
「むしろ、こんな中途半端に華やかな場所へ来たからこそ、身の貧しさが目立つのでは」
と人知れず思うこともある。
まして今は、匂宮が世間の注目を集める華やかな婚姻をしたばかりである。「宮の周りの人がこちらを見たら、何とみすぼらしい所だと思うだろう」と思い悩むことまで増えた。
薫はその心をよく推し量っていた。
他人なら、これほど細かく世話を焼けば、かえってお節介で見苦しいと思われるだろう。だからこそ薫は、いかにも自分が支度したという形を見せず、自然に必要なものを補っていた。
今度も、見苦しくない衣装を改めて作らせ、小袿を織らせ、綾の材料を贈るなどした。
薫自身も匂宮に劣らず、特別に大切に育てられ、時には過剰なほど誇り高く、世を冷めた目で見る人だった。
しかし八の宮の山里暮らしを知ってから、寂しい暮らしには寂しい暮らし独特の悲しさがあると身にしみて知った。それ以来、世の中全体へ心を巡らし、人の痛みを深く思いやることを覚えたのである。
それも、気の毒な人々に触れたことで薫が身につけたものだった。
薫は、
「このまま安心できる、落ち着いた後見人として一生終われれば」
と思う。
だが心は言うことを聞かない。中君のことがいつまでも心にかかり、苦しい。
以前よりもこまやかな手紙を送り、時には抑えきれない思いがにじむような書き方までしてしまう。
中君は、
――なんて苦しいことまで、自分の身には増えてしまったのだろう。
と嘆いた。
まったく知らない男なら、「なんておかしな人」と冷たく突き放すこともできただろう。
しかし薫は、昔から普通とは違う頼れる人として付き合ってきた。今さら急に仲を悪くするのも、人から見れば不自然である。
薫が浅薄な人ではないことも、情を知らない人でないことも中君にはわかっている。
だからといって、自分も心を通わせているような顔で応じるのは、あまりにも気恥ずかしい。
どうすればよいのかわからなかった。
周囲にいる女房たちも、多少もののわかる若い者は皆、新しく二条院へ来た人ばかり。長年見慣れた相手といえば、宇治からついてきた年老いた女たちである。
胸の内を同じ心で話せる人がいない。それだけに、中君は何かあるたび大君を思い出した。
「姉上が生きていたら、薫もこんな心まで私へ向けただろうか」
そう思うと悲しくてならない。
匂宮が今後冷たくなるかもしれないという心配より、むしろ薫のこの気持ちのほうが、中君には苦しかった。
薫に語られる、大君に似た人
薫もどうしても思いを抑えられず、ある静かな夕方、また中君のもとを訪れた。
中君は端近くに茵だけを出させ、
「ひどく具合が悪くて、お話しできません」
と人を通して伝えた。
薫にはそれが本当につらく、涙が落ちそうになったが、人前なので必死に紛らわせた。
「具合が悪い時なら、知らない僧だって近くまで入るでしょう。医師の一人にでもなったつもりで、私は御簾の中へ入ってはいけないのですか。こんな人づての消息では、来た甲斐がありません」
薫が明らかに不機嫌そうなので、先日のことを知る女房たちも、
「たしかに、これではあまりにお気の毒です」
と考え、母屋の御簾を下ろしたまま、夜居の僧が座るあたりまで薫を入れた。
中君は本当に体が苦しかった。それでも、周囲がそこまで言うのに露骨に薫を拒むのもどうかと思い、億劫ながら少し出て対面した。
時々かすかに聞こえる中君の声は、大君が病み始めたころを真っ先に思い出させる。
不吉なほど悲しくなり、薫は胸が真っ暗になるような気がして、すぐには言葉が出なかった。
中君がずいぶん奥へ引いているのもつらい。
薫は簾の下から几帳を少し押し入れ、いつものように親しげに近づいた。
それが中君にはひどく苦しい。
仕方なく、少将と呼ばれる女房を近くに呼び、
「胸が痛いの。しばらく押さえていて」
と言った。
薫はそれを聞いて、
「胸は押さえられるとかえって苦しいものですよ」
と嘆き、自分も座り直した。
心の中は本当に穏やかではなかった。
「どうしていつもそんなに具合が悪いのでしょう。人に尋ねたら、妊娠中でもしばらく具合の悪い時はあって、そのあと楽になる時もある、と教えてくれました。あなたはあまりにも若い娘のように気になさっているのではありませんか」
中君はひどく恥ずかしくなり、
「胸の苦しいのは、今に始まったことではございません。昔の姉も、そうでした。長生きしない人にあることだなどと、人が言うのを聞いたこともあります」
と答えた。
――たしかに、誰も千年生きる松ではない。
そう思うと、薫にはたまらなく中君が心配で愛しくなった。
そばに女房がいることも構わず、さすがに聞かれてはまずいところだけは避けながら、昔からどんなふうに大君を思ってきたのかを話した。中君一人には真意がわかり、そばの者にはただ深い後見の話と聞こえるよう、実にうまく言葉を選んだ。
女房も、
――本当に珍しいほど思いやりの深い方だ。
と聞いていた。
薫は何につけても、亡き大君のことばかりを思っている。
「私は幼いころから、いつか世を捨てて終わろうとばかり思ってきました。それが宿縁だったのでしょうか。大君とは、初めはそれほど近い間柄でもなかったのに、気づけば深く思うようになり、その一点で、あれほど強かった出家への心が変わってしまいました。
気を紛らわせるため、こちらにもあちらにも出かけ、いろいろな人を見れば、少しは忘れられるかもしれないと思うこともありました。それでも、ほかの人へ心が傾くことはなかったのです。
こうして思いわびてしまうのも、私はもともと心を強く押し通せる男ではないからでしょう。
色めいた人だと思われるのは恥ずかしいのですが、あなたへ間違った気持ちを抱き、驚かせるようなことをしたいわけではありません。ただこのくらいの距離で、時々思うことを聞いていただき、あなたのお話も聞き、隔てなく言葉を交わせれば、それを誰が咎められるでしょう。
世間普通の男とは違う私の心は、皆にもわかっているはずです。どうか、安心して私を頼ってください」
薫は恨みを言いながら涙まで見せた。
中君は答えた。
「あなたを心配な方と思っていたなら、どうして人から不思議に思われるほどまで、これほど何でも申し上げてきたでしょう。長年、姉のことや私のことを通じて、いろいろ見てまいりましたからこそ、普通とは違う頼れる方と思って、今でもこちらからお願い事をしているのです」
薫は、
「そんな機会など、私は覚えていませんよ。それなのに、ずいぶん大きな恩のように思っていらっしゃる。この前、宇治へお出かけになる準備の時だって、やっと私をお呼びになったくらいではありませんか。それだって、少しは私を頼りになると思ってくださったのだろうと、軽くは考えていませんが」
と、まだ恨めしそうだった。
ただ、そばで聞いている人もいるので、思うままには言えない。
外を見ると、いつの間にか暗くなり、虫の声だけがはっきり聞こえる。山の方は暗く、何も見分けられない。
そんな中、薫がいかにもしめやかな姿で寄り座っている。それを中君は、ただただ煩わしいと思っていた。
薫は何か古い歌の、
「限りだにある……」
という一節を小さく口ずさみ、言った。
「私はもう思いわびてしまいました。音無の里のような、誰にも煩わされない場所へ行きたくなっています。あの宇治のあたりに、わざわざ寺を建てなくても、大君を思い出せる人形を作るか、絵に描き、その前で勤行して暮らしたいとさえ思うようになりました」
中君は、
「まあ、なんとも悲しいご願いですね。でも御手洗川が近すぎるような人形では、少し気の毒です。黄金ばかり求める絵師だったらどうします。心配になりますね」
と、少し冗談めかして返した。
「そう、それなのです。どんな名工も絵師も、私の心にかなうものを作れるとは思えない。昔、花を降らせたほどの名工がいたそうですが、そんな変化の人でもいてくれたら」
薫があれこれ、どうしても大君を忘れられないと嘆く。その様子は本当に心が深く見え、中君も気の毒になった。
少しだけ近くへ滑るように寄り、
「人形のお話で思い出しました。ひどく不思議な、普通なら考えもしないようなことがあるのです」
と言った。
その気配が少し親しみ深くなったので、薫はうれしく、胸を打たれた。
「何のことです」
そう言いながら、薫は几帳の下から中君の手を取った。
中君は本当に面倒だと思ったが、どうすれば薫のこんな心をやめさせ、以前の穏やかな関係へ戻れるかと考える。近くの女房に妙に思われるのも嫌なので、何でもないふうにしていた。
中君は話し始めた。
「長い間、生きているのかどうかさえ知らなかった人がいるのです。この夏ごろ、遠い国から上京して、こちらを訪ねてきました。
別に他人として扱うべき人ではないけれど、だからといって急に深く親しむこともないだろう、と思っていました。ところがこの前来た時、その人が不思議なほど昔の姉の気配に似ていて、急に心にしみて懐かしく思うようになったのです。
あなたは『大君の形見になる人がほしい』とおっしゃるけれど、その人はむしろ何もかも姉とは違う、と見た人たちは言っています。それなのに、それほど近い身分でもない人が、どうしてそんなふうに見えたのでしょうね」
薫は夢の話でも聞いているような気持ちになった。
「何か理由があるからこそ、あなたもそんなに懐かしく感じるのでしょう。どうして今まで、そんな話を少しもしてくださらなかったのです」
中君は、
「さあ、その理由が何なのか、私にもはっきりわからないのです。私たちは皆、頼りない身の上で、世の中に取り残され、さまようことになるだろうと、父上もずっと心配しておられたでしょう。私一人がそのことをすべて背負って思い知っているのに、さらに関係のない話まで人へ漏らして、噂になれば、その人にも気の毒ですから」
と答えた。
その様子を見て、薫は、
――八の宮がひそかに関係した女性との間に、子でも残していたのだろう。
と察した。
「大君に似ている」と聞いたことだけが、強く耳に残る。
「そこまで言うなら、最後まで話してください」
と、薫はしきりに知りたがった。
しかし中君も、やはり人の秘密なので詳しくは言えない。
「もし本当に尋ねるおつもりなら、どのあたりにいる人かくらいは申し上げられます。でも私自身、詳しく知っているわけではありません。それに、あまり期待を持って会えば、かえってがっかりなさるかもしれませんよ」
薫は、
「たとえ海の中にでも、大君の魂のありかを尋ねられるなら、力の限り行ってみたいほどなのです。もちろん、その人を大君そのものと思うわけではありません。それでも、これほど何にも慰められない身です。せめて人形の代わりに、宇治の山里で拝む本尊と思うくらいにはなるかもしれない。どうか、はっきり教えてください」
と、すぐに迫った。
中君は、
「本当は、父上から口にしてよいと許されたことでもありません。ここまで漏らすのも軽率ですけれど、あなたが『大君に似せたものを作りたい』などとおっしゃるのがあまりにお気の毒なので……。
その人は長年、たいそう遠い国にいたのです。母親が心配して、無理にでもこちらへ連れてきたようです。訪ねてきたので、こちらも冷たく追い返すことはできませんでした。
ほんのわずかに見ただけだからかもしれませんが、思っていたほど見苦しい人ではありませんでした。母親は、この娘をこれからどうすればよいのかと悩んでいるようです。だからといって、いきなり尼にするほどのことでもないでしょう」
そこまで話した。
薫は、中君が何でもない顔をしながら、
――この面倒な男の心を、どうにか別の方向へ向けてしまいたい。
と思っているのだろうと感じた。
それはつらい。
それでも中君が薫の思いをまったく理解していないわけではなく、公然と恥をかかせるほど冷たい扱いもできない。そのことには、わずかな希望を感じ、心がときめく。
夜はかなり更けていた。
中君は人目がひどく気になり、少し油断させるようにして、薫から離れ、奥へ入ってしまった。
薫はそれも当然だと何度も思う。それでもやはり恨めしく、口惜しい。涙まで出てくるのは格好が悪いので必死に堪えた。
ただ、ここで浅はかに振る舞い切ってしまうのは、やはり自分自身にとっても嫌だった。
薫は思いを抑え、いつも以上に嘆きながら帰った。
「こんなことばかり考えて、この先どうするのだろう。本当に苦しい。世間から非難されない形を保ちながら、それでも自分の思いが少しは叶う方法などあるのだろうか」
恋に練達した男ではないからこそ、本人にも相手にも心安らかではないことばかりを、一晩中思い続けた。
それでも、大君に似ていると聞いた女については、まだ本当に似ているかどうかもわからない。身分から考えれば、会おうと思えば難しくはないかもしれないが、本人の望まないことなら面倒になる。
薫の心は、まだそちらへ本気で動いてはいなかった。
宇治を寺に変えようとする薫
宇治の旧邸を長く見ないでいると、昔がますます遠くなっていくようで、むやみに心細くなる。
九月二十日過ぎごろ、薫は宇治へ出かけた。
風はいっそう激しく吹き払い、荒々しい水の音だけが、この家を守っているようだった。人影さえほとんど見えない。
その景色を見ただけで、まず目の前が暗くなるほど悲しい。
弁の尼を呼ぶと、障子口に青鈍の几帳を出して出てきた。
「恐れ多いことですが、今日はいつにも増して恐ろしいほど荒れておりますので、こんな姿で出るのも気が引けまして」
と、正面には出てこない。
薫は、
「どんな気持ちでここを眺めて暮らしているだろうと思うと、同じ心で昔の話をできる人もいないので、あなたに話を聞こうと思って来たのです。それにしても、頼りなく月日だけが積もっていきますね」
と言いながら、目にはすぐ涙が浮かんだ。
年老いた尼は、いよいよ堪えられない。
「昔、姫君たちのことを見ながら、何でもないのに胸を痛めていたころの秋空だったな、と今も思い出します。いつということもございませんが、やはり秋風は身にしみてつらいものです。
中君さまの今のお暮らしのことなども、かすかに伺いますと、亡き大君さまがお嘆きになったことがよくわかる世の中だと、さまざまに思われまして」
薫は答えた。
「どんなことも、命さえあれば変わり、また落ち着いてくることもあります。それなのに大君が、何もかもつまらないと思いつめてしまったことが、自分の過ちのように今も悲しい。
中君の今のことなどは、それこそ世間にはよくあることでしょう。宮の心も、本当に心配なほど薄くなったとは聞きません。
何を言っても、もう空へ昇ってしまった煙だけは取り戻せない。誰も死を逃れられないとはいっても、先に逝くか、あとに残されるか、その時の別れだけは本当にどうしようもない」
そしてまた泣いた。
薫は阿闍梨を呼び、いつものように大君の忌日の経や仏事のことを相談した。
「それと、ここへ時々来るたび、どうにもならない昔のことばかり思い出し、心を乱すのも何の益もありません。この寝殿を壊して、山寺のそばへ堂を建てようと思っています。同じことなら、早く始めたい」
薫は堂の数や廊、僧房など、必要なものを書き出させた。
阿闍梨は、
「たいへん尊いことでございます」
と喜んだ。
薫は続けた。
「亡き宮が理由あってお選びになり、住まいを造られた場所を壊すのは、情のないようでもあります。でも宮ご自身は功徳を積む道へ進みたいと願っておられた。ただ、残される姫君たちを心配して、そこまで処分を決めることができなかったのでしょう。
今では兵部卿宮の北の方である中君が、ここの所有者ということになる。ならば、この家そのものを寺にしてしまうのも具合が悪い。私一人の判断ではできません。
それに川辺に近すぎ、目立つ場所でもあります。だから寝殿は取り壊し、別の形に造り替えたいと思っているのです」
阿闍梨は、
「どちらにしても、実に尊いお考えです。昔、死別を悲しむあまり、亡くなった人の屍を袋に入れ、何年も首から下げていた人さえおりました。その人も仏の方便によって、その袋を捨て、最後には聖の道に入ったと申します。
この寝殿をご覧になるたび心が乱されるなら、それも一つには大きな障りでしょう。一方で、それを仏道へ変えるなら、後の世の勧めにもなります。急いでいたしましょう。
暦博士に吉日を選ばせ、建築の心得のある工を二、三人お授けください。細かなことは仏の教えに従って私が取り仕切ります」
と申し出た。
薫はさまざまなことを決め、荘園の人々も呼び、阿闍梨の言うとおりに働くよう命じた。
いつしか日が暮れたので、その夜は宇治に泊まった。
「この家を見るのも、今回が最後になるかもしれない」
そう思い、薫はあちらこちらを歩いて眺めた。
仏像などはすでに山寺へ移してあり、残っているのは弁の尼の勤行の道具くらいだった。尼が本当に頼りないほど質素に暮らしているのを見ると、
――どうやって日々を過ごしているのだろう。
と胸を打たれる。
「この寝殿は造り替えることになりました。工事の間は、あの廊のほうに住んでください。都の宮へ運ぶべき物があれば、荘の者を呼び、適切に処分させてください」
薫は細かなことまで話した。
ほかの場所なら、これほど年を取った尼へ、薫がここまで気を配ることはないだろう。それでもこの人は、亡き八の宮や大君の昔を知る人である。
その夜も近くに呼び、昔話をさせた。
亡くなった権大納言――大君のことを、誰にも遠慮せず、尼は細かく語った。
「大君さまが亡くなられるころ、まだ見たことのない方がいらっしゃるらしいと、たいそう知りたそうになさっていた様子を思い出します。こうして思いもかけないほど長生きをして、今あなたさまのお姿まで拝見できるとは、八の宮さまに長くお仕えした甲斐が、自然とあったのだと、うれしくも悲しくも思います。
嫌になるほど長生きをして、いろいろなことを見過ぎ、思い知りすぎた自分が、恥ずかしくもつらくもございます。
中君さまからも『時々はこちらへ来て。まったく姿を見せず籠もってしまうのは、ひどく心を隔てているようだ』とおっしゃることがございます。でも、こんな縁起でもない身になってしまい、今では阿弥陀仏のほかに会いたい人もなくなりました」
大君のこととなると話は尽きない。
年月の間の暮らしぶり、どんな時にどんなことを言ったか、花や紅葉を見てふと詠んだ歌まで、尼は声を震わせながら語った。
大君は古風で言葉数の少ない人だったけれど、その心にはなんと趣があったのだろう、と薫はますます思いを深くする。
中君については、
「もう少し現代的なところはあるけれど、心を許していない相手へは、ずいぶん素っ気なく振る舞える人らしい。それでも自分へは、たいそう心深く、情のある人だと思われる。どうにかあの人のことも見守っていこう」
と、薫は心の中で大君と比べていた。
八の宮の、もう一人の娘
話のついでに、薫は中君から聞いた、大君に似た「形代」のような女性について切り出した。
弁の尼は答えた。
「今、京にいるかどうかまでは存じません。私も人づてに聞いた話でございます。
八の宮さまがまだこの山里にお住みになる前、亡き北の方を失われて間もないころ、中将の君と呼ばれる上臈の女房が仕えていました。人柄も悪くない人だったそうです。
宮さまは本当に人知れず、その女へほんの一時お心を向けられました。誰も知らなかったことですが、その女は女の子を産んだのです。
宮さまも、もしや自分の子では、とお思いになるところがあったのでしょう。けれど、そう考えること自体を面倒で不快なことのように思われるようになり、その後はその母子をご覧になることもありませんでした。
そのことに懲りられたのか、宮さまはそのまま本格的に聖の道へお入りになりました。
女のほうも居づらくなり、宮家に仕えることができなくなって、やがて陸奥守の妻になりました。
一度、上京した時、『娘は無事に育っております』とこちらへ知らせてきたことがありました。宮さまはその話をお聞きになると、
『今後、このような消息を寄こす必要はない』
とはっきりおっしゃったため、母親は甲斐もなく嘆いたそうです。
その後、その家は常陸へ移り、何年も何の便りもありませんでした。
ところがこの春、上京して、こちらの宮――中君さまのところへ訪ねて来た、とかすかに聞きました。
娘君は、もう二十歳くらいになっておられるでしょう。ずいぶんかわいらしく育っているのが愛しい、と、母親がしばらくの間は手紙に書き続けていたこともございました」
薫は詳しく聞き、
――それなら本当に、八の宮の娘なのだろう。会ってみたい。
という気持ちが起こった。
「亡き大君の気配にほんの少しでも触れている人なら、知らない国にまで行ってでも探したいと思っているのです。八の宮は娘としてお認めにならなかったかもしれないけれど、血の近い人には違いない。
わざわざ探し出してくださらなくても、このあたりを訪ねてくる機会があれば、『こういう話があった』と伝えてください」
と頼んだ。
弁の尼は、
「母君は亡き北の方の姪にあたります。ですから私とも縁の遠い人ではありませんが、そのころ私は別の所におりましたので、詳しく見知ってはいません。
この前、京から大輔のもとへ届いた便りでは、『娘君が、せめて八の宮の御墓にだけでもお参りしたいと言っているから、そのつもりでいてほしい』とのことでした。
ただ、まだこちらへ直接訪ねては来ておりません。今度そんな機会があれば、あなたさまのお言葉を伝えておきましょう」
と答えた。
夜が明け、薫は帰ることにした。
昨夜遅れて届いた絹や綿などを阿闍梨へ贈り、弁の尼にも与えた。僧たちや尼の下仕えの者にまで、布などを分けてやった。
心細い住まいではあるが、薫からこうした援助が絶えないので、尼は身分相応には不自由なく、静かに仏道の勤めを続けられていた。
木枯らしが耐えがたいほど吹き抜け、紅葉はほとんど残らず散り敷いている。誰かが踏み分けた跡さえわからない。
薫はそれを見渡すと、すぐには帰れなかった。
深山木に絡みついた蔦の色だけが、まだ美しく残っている。少し枝を取らせ、中君へ贈ろうと持たせた。
薫は独り言のように詠んだ。
宿り木と思ひ出でずは木のもとの旅寝もいかにさびしからまし
あの人の思い出が宿る木だと思えなかったなら、この木の下でするような旅寝は、どれほど寂しいものだったでしょう。
それを聞いた弁の尼が返した。
荒れ果つる朽木のもとを宿り木と思ひおきけるほどの悲しさ
荒れ果て、朽ちてゆくこの木のもとを、あなたが心の宿り木と思っておられた――そのことが、また悲しいのでございます。
いかにも古風な歌ではあるが、情趣がないわけではない。薫にはほんの少し心の慰めになった。
宇治から届いた蔦と、匂宮の疑い
薫が宇治の紅葉を中君へ送った時、匂宮もちょうど二条院にいた。
使いは何も考えず、
「南の宮からでございます」
と言って持ってきた。
中君は、
――また、宮が面倒に思うようなことが書いてあるのでは。
と困ったが、隠すわけにもいかない。
匂宮は、
「きれいな蔦だね」
と、ただではない調子で言い、近くへ取り寄せて見た。
薫の手紙には、
「このところ、どうお過ごしでしょう。宇治へ行っておりましたので、ますます峰の朝霧に迷うような昔話がいろいろございました。それはいずれ私自身から。
あちらの寝殿を堂へ造り替える件は、阿闍梨へ申しつけてきました。もちろん、あなたのお許しがあってこそ、物を移すこともできます。弁の尼へ必要なご指示をお出しください」
などとある。
匂宮は、
「ずいぶん平気な顔をして書くものだね。私がここにいると聞いていたのだろう」
と言う。
実際、薫も少しは知っていたのかもしれない。
中君は、手紙に何も怪しいところがないことをほっとしたのに、宮がわざわざ疑うので困り、少し恨めしそうにしていた。その姿が、何もかも許したくなるほどかわいらしい。
宮は、
「返事を書きなさい。私は見ないから」
と、そっぽを向いた。
そう言われて、わざと書かないのも不自然なので、中君は、
「山里へのお出かけは羨ましく思われます。あちらは確かに、そのまま静かな場所であるのがよいと思っていましたが、わざわざ別の岩屋を探すより、荒れ果てないよう、ふさわしい形にしていただければありがたく存じます」
と返した。
匂宮にも、二人の間に表立って憎むような気配のない、親しい関係なのはわかる。
それでも自分が恋に慣れすぎているせいで、
――これだけで済んでいるはずはない。
と思ってしまい、心が落ち着かない。
枯れかけた前栽の中では、尾花だけが手を伸ばして招くように揺れている。まだ穂の出かけた薄には、露が玉の緒のように連なり、夕風に頼りなくなびいていた。
いつもの秋景色ではあるが、その夕方はひときわ心にしみた。
匂宮は詠んだ。
穂に出でぬもの思ふらし篠薄招く袂の露しげくして
まだ言葉には出さなくても、あなたは何か深く物思いをしているのでしょう。招く薄の袂に、こんなに露がこぼれているのだから。
宮は親しみのある柔らかな衣に直衣だけを着て、琵琶を弾いていた。黄鐘調の掻き合わせをしみじみと弾く。
中君も音楽には心を寄せる人なので、いつまでも拗ね切ってはいられない。小さな几帳の端から脇息へ寄りかかり、少しだけ姿を見せた。
ひどくかわいらしく、いつまでも眺めていたくなる。
中君も歌った。
秋果つる野辺のけしきも篠薄ほのめく風につけてこそ知れ
秋も終わる野辺の寂しさは、篠薄がほんの少し揺れる風に触れてこそ、身にしみてわかるものなのです。
「私一人のことではありませんけれど……」
と言いながら涙ぐんだ。
泣くのはやはり恥ずかしく、扇で顔を隠す。その心の中も愛らしく想像できる。
匂宮は、
――こんなふうだからこそ、薫もこの人を諦められないのではないか。
と疑う。疑うだけで普通ではなく、やはり恨めしい。
庭の菊は、わざと遅く咲かせたものがまだ完全には色を変えていない。その中に一本、ちょうど美しく移ろった花があった。
宮はそれを折らせ、漢詩の、
「花の中に偏に……」
という句を口ずさんだ。
「昔、ある皇子が花を賞美した夕べの話があったね。天人が空を飛んできて、琵琶の秘曲を教えたというあれだ。何事も浅くなってしまった今の世はつまらない」
そう言って琵琶を置いた。
中君はそれが残念で、
「人の心が浅くなったとしても、昔から伝わる技まで、どうしてなくしてしまわなければならないのでしょう」
と、宮がまだ十分聞かせてくれない演奏をもっと聞きたそうにした。
「それなら、一人で弾くのも寂しい。あなたも合わせてください」
宮は人を呼び、箏を取り寄せて中君に弾かせようとした。
中君は、
「昔は教えてくださる方もおりましたけれど、それからきちんと弾くこともなくなりましたので」
と恥ずかしがり、なかなか手を触れない。
宮は本気で恨んだ。
「こんなことまで私に隠すのがつらいよ。今、私が通っているもう一方の家では、まだ心を許すほどの仲でもないのに、初めてのことまで何も隠さないで見せてくれる。
女は柔らかく、素直なのが一番だと、あの中納言だって言っていたじゃないか。あの人に対しては、あなたもこんなに隠したりしないんだろう。ずいぶん深い仲なんだから」
そこまで真面目に言われ、中君はため息をつき、少しだけ琴を調べた。
弦が緩んでいたので盤渉調へ合わせる。掻き合わせる爪音も美しい。
宮が「伊勢の海」を歌う声も上品で美しく、女房たちは物陰から近くへ寄り、皆笑顔で聞いていた。
年老いた女房の一人が、
「宮さまに二つのお心があるのはつらいことですけれど、それもお立場を思えば仕方がございません。それでも、こちらの御前ほど幸せな方はないと申し上げたいものです。
本来なら、これほど華やかな世に交じることもない山里暮らしでいらしたのに、またそこへ帰りたいなどとおっしゃるほうが、本当に悲しゅうございます」
と、止めどなく言う。
若い女房たちは、
「静かになさいませ」
と止めた。
匂宮は三、四日ほど二条院に籠もり、中君へ琴を教えたりして過ごした。物忌などを口実に六条院へ行かないので、右大臣は面白くない。
ついには大臣自身が、内裏から退出したその足で二条院へ迎えに来た。
宮は、
「そんな大げさな姿で、いったい何をしに来たのです」
と不機嫌になったが、結局そちらへ渡って対面した。
大臣は、
「特に用事がない時には、この院へもずいぶん長く伺っておりませんでした。それも寂しく思いまして」
などと昔話を少しし、そのまま宮を連れて出ていった。
大臣の息子たちや上達部、殿上人が大勢連なっている。その威勢の大きさを見ると、中君の側は比べようもない。
女房たちは覗いて、
「なんて美しい大臣さまでしょう。あれほど息子たちが皆若く立派なのに、似ている方さえいない。本当にすばらしい」
と言う者もいる。
また、
「あれほど立派な身分の方が、わざわざ宮さまを迎えに来られるなんて。こちらは本当に不安な身の上ですこと」
と嘆く者もいた。
中君自身も、これまでの身の上を思えば、あんな華やかな家の中へ自分が肩を並べて交われるわけがない、と思う。
自分の立場の弱さがますます心細く、
「やっぱり私は、安心して山里へ籠もってしまうのが一番なのだろう」
と、さらに思うようになった。
そうして、頼りなく年も暮れていった。
中君の出産と、薫の昇進
正月も終わりに近づいたころから、中君はいつもと違うほど苦しみ始めた。
匂宮は、まだ出産というものを実際に見た経験がないので、どうなるのだろうと心配し、あちらこちらで御修法を数多く始めさせ、さらに祈祷を加えた。
あまりに重く苦しむので、中宮からも見舞いがあった。
中君が二条院へ移ってから三年ほどになる。
匂宮一人の愛情はずっと深かったが、世間から正式な妻として大々的に扱われてきたわけではなかった。それがこの時になって、あちらこちらの高貴な人々まで事情を知り、驚いて見舞いを寄こすようになった。
薫も、匂宮が心配するのに劣らず、中君がどうなるかと気がかりだった。
本当ならすぐそばへ行きたいほど心配なのに、立場があるので正式な見舞い以上にはできない。人知れず祈祷などをさせた。
ちょうどそのころ、女二の宮の裳着が間近に迫り、世間中がその準備で騒いでいた。
何事も帝ご自身が一人で心を配っているような熱の入れ方だった。母方に強い後見がないことが、かえって帝の愛情を目立たせ、見事な行事になっていく。
亡き藤壺が準備していた物はもちろん、作物所や、担当する受領たちがそれぞれ仕える品々まで、限りないほど豪華だった。
そのまま裳着のあと、薫と結婚させる予定でもあったので、男側にも準備が必要なころである。
しかし薫は相変わらずそちらへ心が向かず、中君のことばかりが心配だった。
二月一日ごろ、官職の改任があり、薫は権大納言になり、右大将も兼ねることになった。前の右大将だった右大臣が左大将へ移るため空いた職だった。
昇進の挨拶であちらこちらを回り、中君のいる二条院にもやって来た。
中君はひどく苦しんでおり、匂宮もこちらにいたので、薫はそのまま宮へ挨拶した。
僧などが大勢いて、落ち着かない場所だったため、薫は鮮やかな直衣と下襲を整え直し、庭へ下り、昇進の答拝をした。
二人の姿はそれぞれ見事だった。
匂宮は、
「このまま、新しい官職の禄を祝う宴へ」
と薫を誘った。
薫は中君の病状が気にかかり、すぐには答えられない。
宴は前の右大臣の例どおり、六条院で行われることになっていた。
垣下の親王や上達部が集まり、大饗にも劣らないほど、むしろ騒がしいくらいの盛儀だった。
匂宮も出席したが、中君のことが心配で落ち着かず、まだ宴が終わらないうちに急いで帰ってしまった。
右大臣は、
「まったく物足りない、失礼なことだ」
と不満を言った。
宮も大臣より身分が低いわけではない。それでも今の右大臣は勢いが華やかなため、つい自信を持ちすぎ、宮に対しても押しの強い扱いをするのだった。
ようやくその明け方、中君は男の子を産んだ。
匂宮は心から「待った甲斐があった」と喜んだ。
薫も自分の昇進の喜びに加え、深くうれしく思った。
昨夜、匂宮が自分の祝いへ来てくれた礼もあり、そのまま赤子の誕生祝いも兼ね、薫は立ったままのような忙しさで二条院へ駆けつけた。
匂宮がこちらに籠もっているので、見舞いに来ない人はいない。
三日目の産養は、いつものように匂宮個人の祝いとして行われた。
五日目の夜は薫から、屯食五十具、碁手の銭、椀飯など、表向きは普通の形式で贈られた。さらに子を抱く人の前へ置く衝重三十、赤子の衣は五重襲、襁褓なども添えた。
大げさにならないよう、わざと静かな形にしてはいる。それでも細かく見れば、普通にはない心遣いが尽くされている。
匂宮の前にも、浅香の折敷や高坏に粉熟を載せて出した。
女房たちには衝重だけでなく、桧破籠三十をはじめ、趣向を尽くした贈物があった。ただし人目に大げさに映ることだけは、わざと避けてある。
七日目の夜は中宮からの産養なので、参る人もたいへん多かった。宮の大夫をはじめ、殿上人、上達部が数え切れないほど集まった。
帝も、
「宮が初めて父親になられたのだから、何もしないわけにはいくまい」
と、御佩刀を贈られた。
九日目の祝いは右大臣からだった。
大臣は中君を決して好ましく思っているわけではない。それでも匂宮がどう思うかを考え、息子の公達たちまで参らせ、何も悩みなどないような華やかな祝いにした。
中君自身も、この何か月か物思いが多く、体も悪く、心細く過ごしてきた。それが今こうして、名誉ある華やかなことが次々続くので、少しは気持ちが慰められただろうか。
薫は、
「こうして子まで生まれ、すっかり夫婦として形が整ったのだから、いよいよ自分からは遠い人になるのだろう。宮の愛情もますます深まるに違いない」
と少し口惜しく思う。
それでも、最初に自分が中君と匂宮を結びつけた時の思いを考えれば、うれしくもあった。
薫と女二の宮の婚姻
その月の二十日過ぎ、藤壺の女二の宮の裳着が行われた。
そして翌日、薫が姫宮のもとへ参った。夜のことは、表向きにはひそやかな形で行われた。
裳着の時には天下に響くほど大切にされ、威厳ある姫宮だった。その人に臣下である薫が夫として付き添うのは、やはり少し物足りないように見える、と感じる人もいた。
「帝のご許可はあるにしても、今すぐこんなに急いで婚姻までお進めになる必要があるのだろうか」
と非難めいて言う者もいた。
けれど帝は、一度決めたことはすっきり実行する性格だった。同じことなら過去に例がないほど大切に扱ってやろう、と決めておられたのだろう。
帝の娘を妻にする男は昔も今も多い。それでも帝の御代の盛んなうちに、臣下の家の娘を婿取りするような勢いで、これほど急いで結婚させられた例は少なかったかもしれない。
右大臣は言った。
「本当に珍しいほどのご寵愛、宿世だ。あの六条院でさえ、朱雀院がすでに御代を退き、ご自身も世を捨てるような時になってから、ようやく女三の宮を妻にされたのだ。まして私は、人から認められもしない女を拾ったようなものだった」
匂宮も、それを聞けばなるほどと思う。自分と中君のことまで思い出され、恥ずかしくて返事もできなかった。
三日目の夜には、大蔵卿をはじめ女二の宮側に心を寄せる人々へ、家司を通して禄が配られた。大げさではないが、御前の者、随身、車副、舎人にまで与えられ、そのあたりのことは私的な婚礼らしく執り行われた。
その後、薫は人目を忍びながら姫宮のもとへ通った。
それでも心の中に浮かぶのは、相変わらず昔の大君のことばかりだった。
昼間は自邸で起きても寝ても物思いに沈み、夕方になると自分の心とは別に急いで姫宮のところへ参る。
そんな暮らしに慣れていない薫には、本当に億劫で苦しかった。
「いずれ姫宮には、自分の三条宮へお移りいただこう」
と考えた。
母の女三の宮は、この縁をたいそう喜んだ。
自分が住む寝殿まで姫宮に譲ろうとしたが、薫は、
「それはあまりに恐れ多いことです」
と辞退し、母宮の念誦堂との間に廊を続けて建てさせた。女三の宮には西面へ移ってもらうつもりらしい。
東の対なども、火事のあと新しく立派に造り直されていたが、さらに磨きを加え、細かくしつらわせた。
帝も、こうした準備を聞き、女二の宮があまりに早く宮中を離れ、薫の家へ移ることを寂しく思っておられた。
帝といっても、娘を思う親心の闇は普通の親と変わらないのである。
薫の母宮へ送る手紙にも、そのことばかりを書かれた。
亡き朱雀院は特に女三の宮の将来を帝へ頼んでおかれたので、母宮が出家していても、その扱いは昔と変わらず、何か奏上することがあれば帝は必ず聞き入れるなど、深く心を配っておられた。
こうして高貴な人々から互いに限りなく大切にされ、名誉ある立場に置かれている薫だった。
それなのに、なぜか本人の心には、特別うれしいとも感じられない。
ともすれば一人で物思いに沈み、宇治の寺を造ることばかり急がせていた。
中君の若君と、薫の忘れられない人
匂宮と中君の若君が五十日を迎える日を、薫はきちんと数えていた。
その祝いの餅の準備を自分のことのように考え、籠物や桧破籠まで細かく目を通した。
普通の五十日祝いでは済ませまいと思い、沈、紫檀、銀、黄金などを扱うさまざまな職人を大勢呼び集めた。職人たちも互いに負けまいと、それぞれ趣向を凝らした品を作った。
薫自身も、匂宮が留守の時を選んで二条院へやって来た。
中君は、気のせいか以前より少し重々しく、身分の高い女性らしい気配まで加わったように見えた。
薫は、
――もう子まで生まれたのだから、以前のような厄介な思いなども紛れているだろう。
と思い、気楽に対面した。
ところが中君は、以前と変わらない気配で、薫を見るとまず涙ぐんだ。
「自分の望んだことではない結婚というものは、本当に思いもよらない暮らしになるのだと、世の中について思い悩むことが、かえって増えてしまいました」
と、愛想もなく訴える。
薫は、
「なんてことをおっしゃるのです。そんなことが人に少しでも漏れ聞こえたらどうします」
とたしなめた。
けれどこれほどめでたいことが続いても、中君の心が慰められず、大君を忘れられないらしい。
その心の深さを、薫はしみじみ愛しく思った。
そして自分も、
――大君が生きていたなら。
と、どうしても考えてしまう。
けれど大君が生きていたとしても、今の自分のような、華やかな縁に囲まれながら心だけは満たされず、自分の身を恨む暮らしになったかもしれない。
人は身分が高ければそれだけで幸せになれるわけではない。
そう思うほど、大君が最後まで自分と完全に打ち解けずに終わろうとした心は、やはり重々しいものとして思い出された。
薫が若君をどうしても見たいと言うので、中君は恥ずかしかった。
それでも、
――この人に何もかも隠す必要があるだろうか。一つのことでは恨まれているけれど、それ以外で薫の心に背くことはしたくない。
と思い、自分では何とも返事をせず、乳母に若君を抱いて見せさせた。
もちろん、かわいくないはずがない。
怖いほど白く愛らしく、少し高い声で何か喋るような音を出し、笑う顔まで美しい。
薫は、
――自分にもこんな子がいて、毎日見られたら。
と羨ましく思った。
それは少しずつ、薫の心が俗世へ戻り始めたということなのだろうか。
それでも思うのは、
――亡くなったあの人が普通の妻として自分と暮らし、こんな子を残してくれていたなら。
ということばかりだった。
今、自分が帝の娘と結婚し、世間から名誉なことと思われている。その妻との子を早く欲しい、という気持ちへは、なぜか少しもつながらない。
それほどどうにもならない薫の心だった。
けれど薫は決して、どこか欠けた男ではない。帝が特別に近く置き、親しくなさるほどなのだから、真面目な面での心構えは申し分ない人だった、と考えるほかない。
若君の幼い姿を見ていると、やはりしみじみ愛しい。
薫はいつも以上に細かな話を中君とした。
やがて日が暮れた。
本当なら気楽に夜を更かしてもよさそうなのに、今は立場上そうもいかない。それが苦しく、薫はため息をつきながら出ていった。
若い女房の中には、
「まあ、すばらしい方の香り。梅を折ったなら、その香りを尋ねて鶯までやって来そうですね」
などと、うるさいほど褒める者もいた。
女二の宮、三条宮へ
夏になると三条宮が方塞がりになるため、薫は四月一日ごろ、節分に入る前に女二の宮を三条宮へ移した。
その前日、帝は藤壺へ渡り、藤の花の宴を催された。
南廂の御簾を上げ、帝の椅子が据えられた。これは宮家の私的な宴ではなく朝廷の行事なので、上達部や殿上人への饗応も内蔵寮から出された。
右大臣、按察使大納言、藤中納言、左兵衛督。親王では三の宮、常陸宮などが列席した。
南庭の藤の花の下には殿上人の席が置かれ、後涼殿の東には楽所の人々が集まった。
夕暮れになると双調で奏楽が始まり、帝の御遊となった。女二の宮の方から琴や笛が出されると、右大臣をはじめ皆が御前へ取り次いだ。
亡き六条院が自筆で書き、女三の宮へ贈った琴の譜二巻も、五葉の松の枝に付けて出された。右大臣がそれを取り、帝へ奏上する。
続いて箏、琵琶、和琴など。いずれも朱雀院ゆかりの楽器だった。
笛は、昔、夢によって伝えられたという形見の名笛で、帝も「世に二つとない音だ」と賞賛されていた。
これほど晴れやかな宴以上に、いつこの笛を出す機会があるだろう――そう考えて持ち出されたらしい。
右大臣には和琴、三の宮には琵琶など、それぞれ楽器が渡された。
薫――今は右大将――の笛は、この日こそ世にない音のすべてを吹き尽くしたと言えるほどだった。
殿上人の中でも唱歌に堪能な者を召し出し、たいそう面白く音楽が続いた。
姫宮の方からは粉熟が出された。沈の折敷四つ、紫檀の高坏、藤の村濃の打敷には折枝の刺繍。銀の器、瑠璃の盃、紺瑠璃の瓶子。兵衛督が給仕を務めた。
帝へ盃を差し上げる役を、右大臣は自分が重ねて行うのは具合が悪く、親王たちの中にもふさわしい者がいないため、薫へ譲った。
薫は遠慮したが、帝のご意向もあったのだろう。盃を捧げ、帝が「をし」とおっしゃる。その声を受ける薫の態度まで、普通の公事でありながら、ほかの人とは違って見える。
今日は帝の婿として皆が見ているため、なおさらそう見えるのだろう。
返された盃を受け、庭へ下りて舞踏する薫の姿は、まったく並ぶものがない。
高位の親王や大臣でさえ、帝から盃を賜るのは名誉なことである。まして薫は今、帝の婿として特別に引き立てられている。
それほどの寵愛を受けながら、席次には決まりがあるため、また下の座へ戻っていく姿が、かえって気の毒に見えるほどだった。
藤の宴と、薫の栄華
按察使大納言は、
――本当なら、自分こそこんな目に遭いたかったのに。悔しいことだ。
と思っていた。
実は大納言は、女二の宮の母である藤壺の女御を、昔から思っていた。
女御が入内したあとも忘れられず、ひそかに消息を送り続け、最後にはその娘の女二の宮と結ばれたいとまで考えるようになった。
姫宮の後見役になりたいという気持ちまでそれとなく申し出たのに、その話は帝へ伝えられもしないまま終わった。それだけに薫の幸運が面白くない。
「人柄が特別なのは認める。それにしても、今の帝がここまで大げさに婿を大切になさることがあるか。もう二度とこんな例はないだろう。宮中近くに住ませ、臣下でありながら気軽に御所へ出入りさせ、果ては宴まで大騒ぎで開くとは」
などと散々陰口を言いながら、それでも宴を見たいので来て、腹を立てたまま座っていた。
紙燭が灯され、皆が歌を帝へ差し上げた。
文台のところへ進み、自信ありげに歌を置いていくが、いつものことながら、後から見ればどれほど古臭く妙な歌だったかわからない。すべてを書き留める必要もあるまい。
上席の人たちの歌も、特別に優れているようには見えなかったが、形だけでもと一つ二つ伝わっている。
これは薫が庭へ下り、帝の御挿頭にする藤の枝を折って参った時の歌だという。
すべらきのかざしに折ると藤の花及ばぬ枝に袖かけてけり
帝のお挿頭にするため藤の花を折ろうとして、私などの手の届かない高い枝にまで、袖をかけてしまいました。
いかにも自信のある詠みぶりで、少し憎らしいほどである。
よろづ世をかけて匂はむ花なれば今日をも飽かぬ色とこそ見れ
万代にわたって美しく咲き続ける花なのですから、今日一日眺めただけでは、とても見飽きることのない色です。
君がため折れるかざしは紫の雲に劣らぬ花のけしきか
帝のために折ったその挿頭の藤は、紫の雲にも劣らない、めでたい花の姿ですね。
世の常の色とも見えず雲居までたち昇りたる藤波の花
普通の藤の色とは思えません。花の波は、雲の上の宮中にまで立ち昇っているようです。
「これは、あの腹を立てていた按察使大納言の歌だったのでは」とも思われるが、伝え違いかもしれない。
ともかく、特に後世へ残したいほど面白い歌が続いたわけではなかったらしい。
夜が更けるにつれ、管弦はいっそう面白くなった。
薫が「安名尊」を歌った声は、この上なく見事だった。
按察使大納言も、若いころ名高かった美声の名残を今も残し、重々しい声で合わせた。
右大臣の七男がまだ童姿で笙を吹いた。たいそうかわいらしかったので、帝から衣を賜った。右大臣も庭へ下りて舞踏した。
帝がお帰りになったのは暁近くである。
上達部や親王への禄は帝から、殿上人や楽所の者たちへは女二の宮の方から、身分に応じて与えられた。
その夜のうちに、女二の宮は宮中から退出し、薫のもとへ移った。
その儀式も格別だった。帝付きの女房たちまで、全員そのまま姫宮を送った。
姫宮は庇の御車。庇のない糸毛車三両、黄金造りの車六両、普通の檳榔毛車二十両、網代車二両。
童女と下仕えは八人ずつ。そのほか迎えの出車には、もとの邸の女房たちを乗せた。
送る上達部、殿上人、六位の者まで、言いようもないほど華麗を尽くした行列だった。
こうして薫は女二の宮を、自分の家で落ち着いて見るようになった。
姫宮はたいそう美しい人だった。小柄すぎず大柄すぎず、静かで穏やかで、「ここが特に目立つ」と言うような派手さはない。
薫も、
――自分の宿世も、それほど悪いものではなかったのだ。
と誇らしく思える。
それでも、過ぎた人を忘れられるものならよかった。
大君を恋しく思わない時はない。
「この世にいる限り、この思いは慰められないのだろう。仏にでもなって初めて、どうしてあんなにつらい縁を結んだのか、それがどんな報いだったのか悟り、思い切ることができるのだろう」
薫はそう考え、宇治の寺の造営ばかりに心を入れた。
宇治で見かけた一台の女車
賀茂の祭などの慌ただしい時期が終わり、五月二十日過ぎごろ、薫はまた宇治へ出かけた。
造らせている御堂を見て、今後するべきことを細かく指図した。
そしていつものように、あの朽木のもと――大君の思い出が宿る旧邸のそばを、何も見ずに通り過ぎることはできず、そちらへ向かった。
すると橋の向こうから、女車が一台やって来るのが見えた。
大げさに飾った車ではない。
荒々しい東国風の男たちが、腰に荷物を背負い、大勢付き従っている。下人も数が多く、旅慣れした頼もしげな一行だった。
「ずいぶん田舎びた者たちだな」
と思いながら、薫は先に邸へ入った。
薫の供の人々がまだ落ち着かず立ち騒いでいるうちに、その女車も、どうやらこの邸を目指して入ってくる。
薫の随身たちが、
「何だ、何だ」
と騒ぐのを薫は止め、
「誰なのか聞け」
と命じた。
すると、少し訛った声の男が答えた。
「常陸前司殿の姫君が、初瀬の御寺へお参りになった帰りでございます。行きにもこちらへ泊めていただきました」
薫は、
――ああ。聞いていた、あの人ではないか。
と思い出した。
すぐ自分の供の者を別の方へ隠し、
「早く御車を中へ入れなさい。こちらにも客人がいるが、北面のほうにいるから」
と言わせた。
薫の供も皆狩衣姿で、それほど大げさな装束ではない。それでも、ただ者ではない気配は隠せないだろう。
彼らは女車の一行を煩わせないよう、馬を別へ引くなどして、慎んで控えた。
車は廊の西の端へ寄せられた。
寝殿はまだ工事前で、御簾も掛かっていない。中ほどの二間だけ障子で仕切られていた。
薫は、その障子に開いている穴から、向こうを覗いた。
衣擦れの音で自分の存在がわかってはいけないと、上着を脱ぎ、直衣と指貫だけになっている。
姫君はすぐには車を降りず、まず弁の尼へ人をやり、これほど身分の高そうな客がいるのは誰なのか、と尋ねているらしい。
薫はその車が例の人だと聞いた瞬間から、
「絶対に、私がここにいると言ってはいけない」
と皆へ口止めしてあった。
供の者も心得て、
「早くお降りください。客人はいらっしゃいますが、別の方におられます」
と声をかけた。
大君を思わせる人
若い女房がまず車を降り、簾を上げた。東国の男たちより、この女房は都馴れしており、見た目も悪くない。
さらに年長の女房が一人降り、
「さあ、早く」
と姫君を促した。
すると、ほのかな声がした。
「あまりにむき出しの所へ出るようで、落ち着かないわ」
小さい声なのに、上品に聞こえる。
「またいつものことでございます。この間も、こちらは戸を閉め切ってお泊まりになりましたでしょう。ここよりどこが、もっと人目につかないというのです」
女房は気楽に答えた。
姫君が恥ずかしそうに車から降りる。
薫が見ると、まず髪の生え際、姿の細さ、上品な体つき――それだけで、昔の人を思い出さずにはいられない。
姫君は扇で顔をぴったり隠している。
顔が見えないことがもどかしく、薫は胸をどきどきさせながら見た。
車は高く、降りる所は低い。
女房たちは簡単に降りたが、姫君はひどく苦しそうに時間をかけ、ようやく降りると、膝でいざるように中へ入った。
濃い色の袿に、撫子色らしい細長、若苗色の小袿を着ていた。
障子へ添えて立ててある四尺の屏風より、薫が覗く穴のほうが高い。そのため、向こうの様子はほとんど隠れず見える。
姫君はこちら側が気になるらしく、向こうを向いて横になった。
女房たちは旅の話をしている。
「本当にお苦しそうでしたね。泉川の舟渡りも、今日は本当に怖かった。二月に参った時は、水が少なかったからよかったのです」
「まあ、東国への長い道を思えば、どこが怖いものですか」
二人は平気な顔で話している。
姫君だけは何も言わず、ぐったり横になったままだった。
袖から出した腕が、丸みがあってかわいらしい。これを見れば、とても「常陸育ちの田舎娘」と片づけられるような人ではない。本当に品がある。
薫は腰が痛くなるほど立ち続けた。
けれど自分の気配を悟らせまいと、動かず見続ける。
若い女房が、
「まあ、なんていい香り。ものすごく上等な薫物の香りがする。尼君が焚いていらっしゃるのかしら」
と言った。
年寄りの女房も、
「本当に、すばらしい香り。やはり京の人というものは、何をしても雅で今風なのね。東国でも、殿さまは天下にないほど立派なことをなさるおつもりだったけれど、こんな薫物の香りまでは作れなかった。
この尼君も、こんな寂しい所に住んではいるけれど、衣装は本当に立派。鈍色だ青色だといっても、なんてきれいなのでしょう」
と褒めている。
向こうの簀子から童が来て、
「お湯などを差し上げてください」
と声をかけ、折敷なども次々持ち込まれた。
女房たちは果物を取り寄せ、
「何か召し上がってください。ほら」
と姫君を起こそうとする。
姫君が起きないので、二人は栗か何かを、ぽろぽろと食べ始めた。
薫には、そういう遠慮のない様子が耳慣れず、少し見苦しく感じられ、いったん離れた。
ところがまた気になり、何度も戻って覗いた。
薫はこれまで、中宮をはじめ、これ以上の身分の女性を大勢見てきた。容貌の美しい人も、気品のある人も、飽きるほど見ている。
並の女性では目にも心にも止まらず、その冷淡さを周囲から非難されるほどの人である。
今見ている姫君が、すぐに誰より美しいとわかるほど特別なわけではない。
それなのに、なぜかその場を離れがたく、どうしてももっと見たいと思う。
薫自身にも、それが不思議だった。
弁の尼は薫のほうへも挨拶をしようと人をやった。
しかし薫の供の者は事情を察し、
「殿は少しご気分が悪く、今はお休みになっております」
と答えた。
尼は以前から、薫がこの姫君を尋ねたいと言っていたことを知っている。
「こういう機会に少し話をしてみたいと思われて、一日こちらで過ごすのだろう」
とは考えたが、まさか障子の穴から覗いているとは知らなかった。
荘園の預かりたちが持ってきた破籠などは、東国から来た一行にも分けられた。
尼はあれこれ指図を終え、化粧を整えて客人の姫君のところへ来た。
さきほど女房が褒めていたとおり、尼の衣は確かに清潔で美しく、年老いてはいても顔立ちに品があった。
「昨日にはお着きになるものとお待ちしていましたのに、どうして今日もこんなに日が高くなってから」
尼が言うと、年寄りの女房が、
「どうにもお加減が悪そうでいらしたので。昨日は泉川のあたりで泊まり、今朝も長いこと休んでから、ようやくこちらへ参りました」
と答え、姫君を起こした。
姫君はようやく起き上がった。
尼を恥じらって横を向く。その横顔が、今度は薫にもかなりよく見えた。
目元に何ともいえない品がある。髪の生え際、そのあたりの様子――。
大君の顔を、薫自身それほど長く、細部まで眺めたことはなかった。
それなのに、この人を見ると、ただ大君のことばかりが思い出される。
いつものように、涙が落ちた。
弁の尼が答える声や気配も、八の宮の家の人らしく、中君のあたりによく似て聞こえる。
薫は胸がいっぱいになった。
――なんて痛ましい人なのだろう。これほどの人だったのに、私は今まで存在さえ知らず、探してもいなかった。
大君より少し劣る身分の縁者だったとしても、これほど面影の通う人を見つけたなら、軽く扱う気にはなれなかっただろう。
まして、この人は八の宮が認めなかったとはいえ、本当に宮の娘なのだ。
そう思うと、限りなく愛しく、うれしかった。
今すぐにでも這い寄り、
「この世にまだ、あなたのような人が生きていたのですね」
と話しかけ、慰めたいほどだった。
楊貴妃を求めて蓬莱まで魂の行方を探し、釵だけを持ち帰った玄宗皇帝でさえ、なお心は晴れなかっただろう。
この姫君は大君その人ではない。
けれど、薫にとって心を慰める何かにはなりそうに思われた。
それは、この女性との間にも何か宿縁があったからなのだろうか。
弁の尼は少し話をすると、早々に奥へ入った。
さきほど女房たちが「いい香りがする」と言っていたので、薫が近くに隠れて見ているのだと察したらしい。だから余計な内輪話をしなかったのだろう。
薫、「貌鳥」の歌を託す
日が暮れてくると、薫もそっと隠れ場所から出た。
衣を着直し、いつも弁の尼を呼び出す障子口へ彼女を呼び、姫君について尋ねた。
「ちょうどよい時に、思いがけず会えました。それで、以前頼んでおいた話はどうなりました」
尼は答えた。
「はい。以前お言葉をいただいてから、何かよい機会があればと思っておりました。けれど去年はそのまま過ぎました。
今年の二月、あの方が初瀬詣でにいらした時、ようやくお会いできました。
母君へも、あなたさまがお考えになっていることを、それとなく申し上げました。
すると、『あまりに恐れ多いことです。身分も違い、そのように思っていただける者ではございません』などと申しておりました。
そのころあなたさまも、心静かに暮らしておられないと伺っていたので、時期が悪いと思い、それ以上詳しくは申しませんでした。
今月また初瀬へ参り、今日ちょうど帰ってきたところです。
行き帰りの中宿りに、こうして私のところへ寄るのも、ただ亡き八の宮さまの面影を尋ねる気持ちからのようです。
今回は母君に差し支えがあって、姫君お一人で来られたようです。あなたさまがここにいらっしゃることを、今さらどうということもないだろうと思いまして」
薫は言った。
「東国の人々に、私がこんなふうに忍びやつして来ているところを見られまいと、口止めはしましたが、どうでしょうね。下人たちの口には戸を立てられないでしょう。
それで、どうするのがよいでしょう。今、姫君が一人で来ているというのは、かえって話しやすい。
『こんなにも深い縁があって、偶然ここでお会いしたのです』と、あなたから伝えてください」
尼は少し笑った。
「まあ、突然。いつの間に、そんな深いご縁ができたのでございましょう」
「では、そのようにお伝えいたします」
そう言って中へ入ろうとした時、薫はまるで独り言のように歌を口ずさんだ。
貌鳥の声も聞きしにかよふやと茂みを分けて今日ぞ尋ぬる
昔聞いた貌鳥の声に、この人の声もどこか通っているだろうか――そう思って、深い茂みを分けるように、今日あなたを尋ねてきたのです。
弁の尼は、その歌も姫君のもとへ入って伝えた。
