『源氏物語』第50帖「東屋」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第50帖「東屋」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第50帖「東屋」現代語訳全文をご覧ください。

目次

筑波山を分け見まほしき御心は

 筑波山つくばやまを分わけ見みまほしき御心みこころはありながら、端山はやまの繁しげりまであながちに思おもひ入いらむも、いと人聞ひとぎき軽々かるがるしう、かたはらいたかるべきほどなれば、思おぼし憚はばかりて、御おほん消息せうそこをだにえ伝つたへさせたまはず。

 かの尼君あまぎみのもとよりぞ、母はは北きたの方かたにのたまひしさまなど、たびたびほのめかしおこせけれど、まめやかに御心みこころとまるべきこととも思おもはねば、ただ、さまでも尋たづね知しりたまふらむこと、とばかりをかしう思おもひて、人ひとの御おほんほどのただ今いま世よにありがたげなるをも、数かずならましかば、などぞよろづに思おもひける。

 守かみの子こどもは、母はは亡なくなりにけるなど、あまた、この腹はらにも、姫君ひめぎみとつけてかしづくあり、まだ幼をさなきなど、すぎすぎに五ご、六人ろくにんありければ、さまざまにこの扱あつかひをしつつ、異人ことびとと思おもひ隔へだてたる心こころのありければ、常つねにいとつらきものに守かみをも恨うらみつつ、「いかでひきすぐれて、おもだたしきほどにしなしても見みえにしがな」と、明あけ暮くれ、この母君ははぎみは思おもひ扱あつかひける。

 さま容貌かたちの、なのめに、とりまぜてもありぬべくは、いとかうしも何なにかは苦くるしきまでももてなやまじ、同おなじごと思おもはせてもありぬべき世よを、ものにも混まじらず、あはれにかたじけなく生おひ出いでたまへば、あたらしく心苦こころぐるしき者ものに思おもへり。

 娘むすめ多おほかりと聞ききて、なま君達きむだちめく人ひとびとも、おとなひ言いふ、いとあまたありけり。初はじめの腹はらの二ふたり、三人みたりは、皆みなさまざまに配くばりて、大人おとなびさせたり。今いまはわが姫君ひめぎみを、「思おもふやうにて見みたてまつらばや」と、明あけ暮くれ護まもりて、なでかしづくこと限かぎりなし。

守も卑しき人にはあらざりけり

 守かみも卑いやしき人ひとにはあらざりけり。上達部かむだちめの筋すぢにて、仲なからひもものきたなき人ひとならず、徳とくいかめしうなどあれば、ほどほどにつけては思おもひ上あがりて、家いへの内うちもきらきらしく、ものきよげに住すみなし、事好ことごのみしたるほどよりは、あやしう荒あらかに田舎ゐなかびたる心こころぞつきたりける。

 若わかうより、さる東方あづまかたの、遥はるかなる世界せかいに埋うづもれて年とし経へければにや、声こゑなどほとほとうちゆがみぬべく、ものうち言いふ、すこしたみたるやうにて、豪家がうけのあたり恐おそろしくわづらはしきものに憚はばかり懼おぢ、すべていとまたく隙間すきまなき心こころもあり。

 をかしきさまに琴笛ことふえの道みちは遠とほう、弓ゆみをなむいとよく引ひける。なほなほしきあたりともいはず、勢いきほひに引ひかされて、よき若人わかうどども、装束さうぞくありさまはえならず調ととのへつつ、腰こし折をれたる歌うた合あせ、物語ものがたり、庚申かうしんをし、まばゆく見苦みぐるしく、遊あそびがちに好このめるを、この懸想けさうの君達きむだち、

「らうらうじくこそあるべけれ。容貌かたちなむいみじかなる」

 など、をかしき方かたに言いひなして、心こころを尽つくし合あへる中なかに、左近少将さこんのせうしゃうとて、年とし二十二にじふに、三さんばかりのほどにて、心こころばせしめやかに、才ざえありといふ方かたは、人ひとに許ゆるされたれど、きらきらしう今いまめいてなどはえあらぬにや、通かよひし所ところなども絶たえて、いとねむごろに言いひわたりけり。

 この母君ははぎみ、あまたかかること言いふ人ひとびとの中なかに、

「この君きみは、人柄ひとがらもめやすかなり。心こころ定さだまりてももの思おもひ知しりぬべかなるを、人ひともあてなりや。これよりまさりて、ことことしき際きはの人ひとはた、かかるあたりを、さいへど、尋たづね寄よらじ」

 と思おもひて、この御おほん方かたに取とりつぎて、さるべき折々をりをりは、をかしきさまに返かへり事ことなどせさせたてまつる。心こころ一ひとつに思おもひまうく。

「守かみこそおろかに思おもひなすとも、我われは命いのちを譲ゆづりてかしづきて、さま容貌かたちのめでたきを見みつきなば、さりとも、おろかになどは、よも思おもふ人ひとあらじ」

 と思おもひ立たち、八月はちがちばかりと契ちぎりて、調度てうどをまうけ、はかなき遊あそびものをせさせても、さまことにやうをかしう、蒔絵まきゑ、螺鈿らでんのこまやかなる心こころばへまさりて見みゆるものをば、この御おほん方かたにと取とり隠かくして、劣おとりのを、

「これなむよき」

 とて見みすれば、守かみはよくしも見知みしらず、そこはかとない物ものどもの、人ひとの調度てうどといふ限かぎりは、ただとり集あつめて並ならべ据すゑつつ、目めをはつかにさし出いづるばかりにて、琴こと、琵琶びはの師しとて、内教坊ないけうばうのわたりより迎むかへ取とりつつ習ならはす。

 手て一ひとつ弾ひき取とれば、師しを立たち居ゐ拝はいみてよろこび、禄ろくを取とらすること、埋うづむばかりにてもて騒さわぐ。はやりかなる曲物ごくものなど教をしへて、師しと、をかしき夕暮ゆふぐれなどに、弾ひき合あはせて遊あそぶ時ときは、涙なみだもつつまず、をこがましきまで、さすがにものめでしたり。かかることどもを、母君ははぎみは、すこしもののゆゑ知しりて、いと見苦みぐるしと思おもへば、ことにあへしらはぬを、

「吾子あこをば、思おもひ落おとしたまへり」

 と、常つねに恨うらみけり。

かくて、この少将

 かくて、この少将せうしゃう、契ちぎりしほどを待まちつけで、「同おなじくは疾とく」とせめければ、わが心こころ一ひとつに、かう思おもひ急いそぐも、いとつつましう、人ひとの心こころの知しりがたさを思おもひて、初はじめより伝つたへそめける人ひとの来きたるに、近ちかう呼よび寄よせて語かたらふ。

「よろづ多おほく思おもひ憚はばかることの多おほかるを、月つきごろかうのたまひてほど経へぬるを、並々なみなみの人ひとにもものしたまはねば、かたじけなう心苦こころぐるしうて。かう思おもひ立たちにたるを、親おやなどものしたまはぬ人ひとなれば、心こころ一ひとつなるやうにて、かたはらいたう、うちあはぬさまに見みえたてまつることもやと、かねてなむ思おもふ。

若わかき人ひとびとあまたはべれど、思おもふ人ひと具ぐしたるは、おのづからと思おもひ譲ゆづられて、この君きみの御おほんことをのみなむ、はかなき世よの中なかを見みるにも、うしろめたくいみじきを、もの思おもひ知しりぬべき御心みこころざまと聞ききて、かうよろづのつつましさを忘わすれぬべかめるをしも、もし思おもはずなる御心みこころばへも見みえば、人ひと笑わらへに悲かなしうなむ」

 と言いひけるを、少将せうしゃうの君きみに参まうでて、

「しかしかなむ」

 と申まうしけるに、けしき悪あしくなりぬ。

「初はじめより、さらに、守かみの御おほん娘むすめにあらずといふことをなむ聞きかざりつる。同おなじことなれど、人聞ひとぎきもけ劣おとりたる心地ここちして、出いで入いりせむにもよからずなむあるべき。ようも案内あないせで、浮うかびたることを伝つたへける」

 とのたまふに、いとほしくなりて、

「詳くはしくも知しりたまへず。女をんなどもの知しるたよりにて、仰おほせ言いを伝つたへ始はじめはべりしに、中なかにかしづく娘むすめとのみ聞ききはべれば、守かみのにこそは、とこそ思おもひたまへつれ。異人ことびとの子こ持もたまへらむとも、問とひ聞ききはべらざりつるなり。

容貌かたち、心こころもすぐれてものしたまふこと、母はは上うへのかなしうしたまひて、おもだたしう気高けだかきことをせむと、あがめかしづかると聞ききはべりしかば、いかでかの辺へんのこと伝つたへつべからむ人ひともがな、とのたまはせしかば、さるたより知しりたまへりと、取とり申まうししなり。さらに、浮うかびたる罪つみ、はべるまじきことなり」

 と、腹はら悪あしく言葉ことば多おほかる者ものにて、申まうすに、君きみ、いとあてやかならぬさまにて、

「かやうのあたりに行ゆき通かよはむ、人ひとのをさをさ許ゆるさぬことなれど、今様いまやうのことにて、咎とがあるまじう、もてあがめて後見うしろみだつに、罪つみ隠かくしてなむあるたぐひもあめるを、同おなじこととうちうちには思おもふとも、よそのおぼえなむ、へつらひて人ひと言いひなすべき。

源少納言げんせうなごん、讃岐守さぬきのかみなどの、うけばりたるけしきにて出いで入いらむに、守かみにもをさをさ受うけられぬさまにて交まじらはむなむ、いと人ひとげなかるべき」

 とのたまふ。

この人、追従あるうたてある人

 この人ひと、追従ついせうあるうたてある人ひとの心こころにて、これをいと口惜くちをしう、こなたかなたに思おもひければ、

「まことに守かみの娘むすめと思おもさば、まだ若わかうなどおはすとも、しか伝つたへはべらむかし。中なかにあたるなむ、姫君ひめぎみとて、守かみ、いとかなしうしたまふなる」

 と聞きこゆ。

「いさや。初はじめよりしか言いひ寄よれることをおきて、また言いはむこそうたてあれ。されど、わが本意ほいは、かの守かみの主ぬしの、人柄ひとがらもものものしく、大人おとなしき人ひとなれば、後見うしろみにもせまほしう、見みるところありて思おもひ始はじめしことなり。もはら顔かほ、容貌かたちのすぐれたらむ女をんなの願ねがひもなし。品しなあてに艶えんならむ女をんなを願ねがはば、やすく得えつべし。

されど、寂さびしうことうち合あはぬ、みやび好このめる人ひとの果はて果はては、ものきよくもなく、人ひとにも人ひとともおぼえたらぬを見みれば、すこし人ひとにそしらるとも、なだらかにて世よの中なかを過すぐさむことを願ねがふなり。守かみに、かくなむと語かたらひて、さもと許ゆるすけしきあらば、何なにかは、さも」

 とのたまふ。

この人は、妹のこの西の御方に

 この人ひとは、妹いものこの西にしの御おほん方かたにあるたよりに、かかる御おほん文ふみなども取とり伝つたへはじめけれど、守かみには詳くはしくも見みえ知しられぬ者ものなりけり。ただ行ゆきに、守かみの居ゐたりける前まへに行ゆきて、

「とり申まうすべきことありて」

 など言いはす。守かみ、

「このわたりに時々ときどき出いで入いりはすと聞きけど、前まへには呼よび出いでぬ人ひとの、何なにごと言いひにかあらむ」

 と、なま荒々あらあらしきけしきなれど、

「左近少将さこんのせうしゃう殿とのの御おほん消息せうそこにてなむさぶらふ」

 と言いはせたれば、会あひたり。語かたらひがたげなる顔かほして、近ちかうゐ寄よりて、

「月つきごろ、内うちの御おほん方かたに消息せうそこ聞きこえさせたまふを、御おほん許ゆるしありて、この月つきのほどにと契ちぎりきこえさせたまふことはべるを、日ひをはからひて、いつしかと思おぼすほどに、ある人ひとの申まうしけるやう、

まことに北きたの方かたの御おほんはからひにものしたまへど、守かみの殿とのの御おほん娘むすめにはおはせず。君達きむだちのおはし通かよはむに、世よの聞きこえなむへつらひたるやうならむ。受領ずりゃうの御おほん婿むこになりたまふかやうの君達きむだちは、ただ私わたくしの君きみのごとく思おもひかしづきたてまつり、手てに捧ささげたるごと、思おもひ扱あつかひ後見うしろみたてまつるにかかりてなむ、さる振ふる舞まひしたまふ人ひとびとものしたまふめるを、さすがにその御おほん願ねがひはあながちなるやうにて、をさをさ受うけられたまはで、け劣おとりておはし通かよはむこと、便びんなかりぬべきよし

をなむ、切せちにそしり申まうす人ひとびとあまたはべるなれば、ただ今いま思おぼしわづらひてなむ。

初はじめよりただきらぎらしう、人ひとの後見うしろみと頼たのみきこえむに、堪たへたまへる御おほんおぼえを選えび申まうして、聞きこえ始はじめ申まうししなり。さらに、異人ことびとものしたまふらむといふこと知しらざりければ、もとの心こころざしのままに、まだ幼をさなきものあまたおはすなるを、許ゆるいたまはば、いとどうれしくなむ。御おほんけしき見みて参まうで来こ

と仰おほせられつれば」

 と言いふに、守かみ、

「さらに、かかる御おほん消息せうそこはべるよし、詳くはしく承うけたまはらず。まことに同おなじことに思おもうたまふべき人ひとなれど、よからぬ童わらはべあまたはべりて、はかばかしからぬ身みに、さまざま思おもひたまへ扱あつかふほどに、母ははなる者ものも、これを異人ことびとと思おもひ分わけたることと、くねり言いふことはべりて、ともかくも口入くちいれさせぬ人ひとのことにはべれば、ほのかに、しかなむ仰おほせらるることはべりとは聞ききはべりしかど、なにがしを取とり所ところに思おぼしける御心みこころは、知しりはべらざりけり。

さるは、いとうれしく思おもひたまへらるる御おほんことにこそはべるなれ。いとらうたしと思おもふ女をんなの童わらはは、あまたの中なかに、これをなむ命いのちにも代かへむと思おもひはべる。のたまふ人ひとびとあれど、今いまの世よの人ひとの御心みこころ、定さだめなく聞きこえはべるに、なかなか胸むねいたき目めをや見みむの憚はばかりに、思おもひ定さだむることもなくてなむ。

いかでうしろやすくも見みたまへおかむと、明あけ暮くれかなしく思おもうたまふるを、少将せうしゃう殿とのにおきたてまつりては、故こ大将だいしゃう殿とのにも、若わかくより参まゐり仕つかうまつりき。家いへの子こにて見みたてまつりしに、いと警策きゃうざくに、仕つかうまつらまほしと、心こころつきて思おもひきこえしかど、遥はるかなる所ところに、うち続つづきて過すぐしはべる年としごろのほどに、うひうひしくおぼえはべりてなむ、参まゐりも仕つかまつらぬを、かかる御心みこころざしのはべりけるを。

返かへす返かへす、仰おほせの事ことたてまつらむはやすきことなれど、月つきごろの御心みこころ違たがへたるやうに、この人ひと、思おもひたまへむことをなむ、思おもうたまへ憚はばかりはべる」

 と、いとこまやかに言いふ。

よろしげなめりとうれしく思ふ

 よろしげなめりと、うれしく思おもふ。

「何なにかと思おぼし憚はばかるべきことにもはべらず。かの御心みこころざしは、ただ一所ひとところの御おほん許ゆるしはべらむを願ねがひ思おぼして、いはけなく年とし足たらぬほどにおはすとも、真実しんじちのやむごとなく思おもひおきてたまへらむをこそ、本意ほい叶かなふにはせめ。もはらさやうのほとりばみたらむ振ふる舞まひすべきにもあらずと、なむのたまひつる。

人柄ひとがらはいとやむごとなく、おぼえ心こころにくくおはする君きみなりけり。若わかき君達きむだちとて、好すき好ずきしくあてびてもおはしまさず、世よのありさまもいとよく知しりたまへり。領りゃうじたまふ所々ところどころもいと多おほくはべり。まだころの御おほん徳とくなきやうなれど、おのづからやむごとなき人ひとの御おほんけはひのありげなるやう、直人なほびとの限かぎりなき富とみといふめる勢いきほひには、まさりたまへり。来年らいねん、四位しゐになりたまひなむ。こたみの頭とうは疑うたがひなく、帝みかどの御おほん口くちづからごてたまへるなり。

よろづのこと足たらひてめやすき朝臣あそんの、妻めをなむ定さだめざなる。はやさるべき人ひと選えりて、後見うしろみをまうけよ。上達部かむだちめには、我われしあれば、今日けふ明日あすといふばかりになし上あげてむとこそ仰おほせらるなれ。何事なにごとも、ただこの君きみぞ、帝みかどにも親したしく仕つかうまつりたまふなる。

御心みこころはた、いみじう警策きゃうざくに、重々おもおもしくなむおはしますめる。あたら人ひとの御おほん婿むこを。かう聞ききたまふほどに、思おもほし立たちなむこそよからめ。かの殿とのには、我われも我われも婿むこにとりたてまつらむと、所々ところどころにはべるなれば、ここにしぶしぶなる御おほんけはひあらば、他ほかざまにも思おぼしなりなむ。これ、ただうしろやすきことをとり申まうすなり」

 と、いと多おほく、よげに言いひ続つづくるに、いとあさましく鄙ひなびたる守かみにて、うち笑わらみつつ聞ききゐたり。

このころの御徳など

「このころの御おほん徳とくなどの心こころもとなからむことは、なのたまひそ。なにがし命いのちはべらむほどは、頂いただきに捧ささげたてまつりてむ。心こころもとなく、何なにを飽あかぬとか思おぼすべき。たとひあへずして仕つかうまつりさしつとも、残のこりの宝物たからもの、領りゃうじはべる所々ところどころ、一ひとつにてもまた取とり争あらそふべき人ひとなし。

子こども多おほくはべれど、これはさま異ことに思おもひそめたる者ものにはべり。ただ真心まごころに思おぼし顧かへりみさせたまはば、大臣おとどの位くらゐを求もとめむと思おぼし願ねがひて、世よになき宝物たからものをも尽つくさむとしたまはむに、なきものはべるまじ。

当時たうじの帝みかど、しか恵めぐみ申まうしたまふなれば、御おほん後見うしろみは心こころもとなかるまじ。これ、かの御おほんためにも、なにがしが女をんなの童わらはのためにも、幸さいはひとあるべきことにやとも知しらず」

 と、よろしげに言いふ時ときに、いとうれしくなりて、妹いもにもかかることありとも語かたらず、あなたにも寄よりつかで、守かみの言いひつることを、「いともいともよげにめでたし」と思おもひて聞きこゆれば、君きみ、「すこし鄙ひなびてぞある」とは聞ききたまへど、憎にくからず、うち笑わらみて聞ききゐたまへり。大臣おとどにならむ贖労ぞくらうを取とらむなどぞ、あまりおどろおどろしきことと、耳みみとどまりける。

「さて、かの北きたの方かたには、かくとものしつや。心こころざしことに思おもひ始はじめたまへらむに、ひき違たがへたらむ、ひがひがしくねぢけたるやうにとりなす人ひともあらむ。いさや」

 と思おぼしたゆたひたるを、

「何なにか。北きたの方かたも、かの姫君ひめぎみをば、いとやむごとなきものに思おもひかしづきたてまつりたまふなりけり。ただ中なかのこのかみにて、年としも大人おとなびたまふを、心苦こころぐるしきことに思おもひて、そなたにとおもむけて申まうされけるなりけり」

 と聞きこゆ。「月つきごろは、またなく世よの常つねならずかしづくと言いひつるものの、うちつけにかく言いふもいかならむと思おもへども、なほ、一ひとわたりはつらしと思おもはれ、人ひとにはすこし誹そしらるとも、長ながらへて頼たのもしき事ことをこそ」と、いとまたくかしこき君きみにて、思おもひ取とりてければ、日ひをだにとり替かへで、契ちぎりし暮くれにぞ、おはし始はじめける。

北の方は、人知れずいそぎ立ちて

 北きたの方かたは、人ひと知しれずいそぎ立たちて、人ひとびとの装束さうぞくせさせ、しつらひなどよしよししうしたまふ。御おほん方かたをも、頭かしら洗あらはせ、取とりつくろひて見みるに、少将せうしゃうなどいふほどの人ひとに見みせむも、惜をしくあたらしきさまを、

「あはれや。親おやに知しられたてまつりて生おひ立たちたまはましかば、おはせずなりにたれども、大将だいしゃう殿とのののたまふらむさまに、おほけなくとも、などかは思おもひ立たたざらまし。されど、うちうちにこそかく思おもへ、他ほかの音聞おとぎきは、守かみの子ことも思おもひ分わかず、また、実みを尋たづね知しらむ人ひとも、なかなか落おとしめ思おもひぬべきこそ悲かなしけれ」

 など、思おもひ続つづく。

「いかがはせむ。盛さかり過すぎたまはむもあいなし。卑いやしからず、めやすきほどの人ひとの、かくねむごろにのたまふめるを」

 など、心こころ一ひとつに思おもひ定さだむるも、媒なかだちのかく言いよくいみじきに、女をんなはましてすかされたるにやあらむ。明日あす明後日あさてと思おもへば、心こころあわたたしくいそがしきに、こなたにも心こころのどかに居ゐられたらず、そそめきありくに、守かみ外ほかより入いり来きて、ながながと、とどこほるところもなく言いひ続つづけて、

「我われを思おもひ隔へだてて、吾子あこの御おほん懸想人けさうびとを奪ばはむとしたまひける、おほけなく心幼こころをさなきこと。めでたからむ御おほん娘むすめをば、要えうぜさせたまふ君達きむだちあらじ。卑いやしく異ことやうならむなにがしらが女子をんなごをぞ、いやしうも尋たづねのたまふめれ。かしこく思おもひ企くはだてられけれど、もはら本意ほいなしとて、他ほかざまへ思おもひなりたまふべかなれば、同おなじくはと思おもひてなむ、さらば御心みこころ、と許ゆるし申まうしつる」

 など、あやしく奥おくなく、人ひとの思おもはむところも知しらぬ人ひとにて、言いひ散ちらしゐたり。

 北きたの方かた、あきれて物ものも言いはれで、とばかり思おもふに、心憂こころうさをかき連つね、涙なみだも落おちぬばかり思おもひ続つづけられて、やをら立たちぬ。

こなたに渡りて見るに

 こなたに渡わたりて見みるに、いとらうたげにをかしげにて居ゐたまへるに、「さりとも、人ひとには劣おとりたまはじ」とは思おもひ慰なぐさむ。乳母めのとと二人ふたり、

「心憂こころうきものは人ひとの心こころなりけり。おのれは、同おなじごと思おもひ扱あつかふとも、この君きみのゆかりと思おもはむ人ひとのためには、命いのちをも譲ゆづりつべくこそ思おもへ、親おやなしと聞ききあなづりて、まだ幼をさなくなりあはぬ人ひとを、さし越こえて、かくは言いひなるべしや。

かく心憂こころうく、近ちかきあたりに見みじ聞きかじと思おもひぬれど、守かみのかくおもだたしきことに思おもひて、受うけ取とり騒さわぐめれば、あひあひにたる世よの人ひとのありさまを、すべてかかることに口入くちいれじと思おもふ。いかでここならぬ所ところに、しばしありにしがな」

 とうち嘆なげきつつ言いふ。乳母めのともいと腹立はらだたしく、「わが君きみをかく落おとしむること」と思おもふに、

「何なにか、これも御幸みゆきひにて違たがふこととも知しらず。かく心こころ口惜くちをしくいましける君きみなれば、あたら御おほんさまをも見知みしらざらまし。わが君きみをば、心こころばせあり、もの思おもひ知しりたらむ人ひとにこそ、見みせたてまつらまほしけれ。

大将だいしゃう殿とのの御おほんさま容貌かたちの、ほのかに見みたてまつりしに、さも命いのち延のぶる心地ここちのしはべりしかな。あはれにはた聞きこえたまふなり。御おほん宿世すくせにまかせて、思おぼし寄よりねかし」

 と言いへば、

「あな、恐おそろしや。人ひとの言いふを聞きけば、年としごろ、おぼろけならむ人ひとをば見みじとのたまひて、右みぎの大殿おほいどの、按察使大納言あぜちのだいなごん、式部卿宮しきぶきゃうのみやなどの、いとねむごろにほのめかしたまひけれど、聞きき過すぐして、帝みかどの御おほんかしづき女をんなを得えたまへる君きみは、いかばかりの人ひとかまめやかには思おもさむ。

かの母宮ははみやなどの御おほん方かたにあらせて、時々ときどきも見みむとは思おぼしもしなむ、それはた、げにめでたき御おほんあたりなれども、いと胸痛むねいたかるべきことなり。宮みやの上うへの、かく幸さいはひ人ひとと申まうすなれど、もの思おもはしげに思おぼしたるを見みれば、いかにもいかにも、二心ふたごころなからむ人ひとのみこそ、めやすく頼たのもしきことにはあらめ。わが身みにても知しりにき。

故宮こみやの御おほんありさまは、いと情なさけ情なさけしく、めでたくをかしくおはせしかど、人数ひとかずにも思おもさざりしかば、いかばかりかは心憂こころうくつらかりし。このいと言いふかひなく、情なさけなく、さま悪あしき人ひとなれど、ひたおもむきに二心ふたごころなきを見みれば、心こころやすくて年としごろをも過すぐしつるなり。

をりふしの心こころばへの、かやうに愛敬あいぎゃうなく用意よういなきことこそ憎にくけれ、嘆なげかしく恨うらめしきこともなく、かたみにうちいさかひても、心こころにあはぬことをばあきらめつ。上達部かむだちめ、親王みこたちにて、みやびかに心恥こころはづかしき人ひとの御おほんあたりといふとも、わが数かずならでは甲斐かひあらじ。

よろづのこと、わが身みからなりけりと思おもへば、よろづに悲かなしうこそ見みたてまつれ。いかにして、人ひと笑わらへならずしたてたてまつらむ」

 と語かたらふ。

守は急ぎたちて

 守かみは急いそぎたちて、

「女房にょうばうなど、こなたにめやすきあまたあなるを、このほどは、あらせたまへ。やがて、帳とばりなども新あたらしく仕つか立たてられためる方かたを、事ことにはかになりにためれば、取とり渡わたし、とかく改あらたむまじ」

 とて、西にしの方かたに来きて、立たち居ゐ、とかくしつらひ騒さわぐ。めやすきさまにさはらかに、あたりあたりあるべき限かぎりしたる所ところを、さかしらに屏風びゃうぶども持もて来きて、いぶせきまで立たて集あつめて、厨子づし二階にかいなど、あやしきまでし加くはへて、心こころをやりて急いそげば、北きたの方かた見苦みぐるしく見みれど、口入くちいれじと言いひてしかば、ただに見聞みきく。御おほん方かたは、北面きたおもてに居ゐたり。

「人ひとの御心みこころは、見知みしり果はてぬ。ただ同おなじ子こなれば、さりとも、いとかくは思おもひ放はなちたまはじとこそ思おもひつれ。さはれ、世よに母ははなき子こは、なくやはある」

 とて、娘むすめを、昼ひるより乳母めのとと二人ふたり、撫なでつくろひ立たてたれば、憎にくげにもあらず、十五じふご、六ろくのほどにて、いと小ちひさやかにふくらかなる人ひとの、髪かみうつくしげにて小袿こうちきのほどなり、裾すそいとふさやかなり。これをいとめでたしと思おもひて、撫なでつくろふ。

「何なにか、人ひとの異ことざまに思おもひ構かまへられける人ひとをしも、と思おもへど、人柄ひとがらのあたらしく、警策きゃうざくにものしたまふ君きみなれば、我われも我われもと、婿むこに取とらまほしくする人ひとの多おほかなるに、取とられなむも口惜くちをしくてなむ」

 と、かの仲人なかうどにはかられて言いふもいとをこなり。男君をとこぎみも、「このほどのいかめしく思おもふやうなること」と、よろづの罪つみあるまじう思おもひて、その夜よも替かへず来きそめぬ。

母君、御方の乳母

 母君ははぎみ、御おほん方かたの乳母めのと、いとあさましく思おもふ。ひがひがしきやうなれば、とかく見み扱あつかふも心こころづきなければ、宮みやの北きたの方かたの御おほんもとに、御おほん文ふみたてまつる。

「そのこととはべらでは、なれなれしくやとかしこまりて、え思おもひたまふるままにも聞きこえさせぬを、つつしむべきことはべりて、しばし所ところ変かはへさせむと思おもうたまふるに、いと忍しのびてさぶらひぬべき隠かくれの方かたさぶらはば、いともいともうれしくなむ。数かずならぬ身み一ひとつの蔭かげに隠かくれもあへず、あはれなることのみ多おほくはべる世よなれば、頼たのもしき方かたにはまづなむ」

 と、うち泣なきつつ書かきたる文ふみを、あはれとは見みたまひけれど、「故宮こみやの、さばかり許ゆるしたまはでやみにし人ひとを、我われ一人ひとり残のこりて、知しり語かたらはむもいとつつましく、また見苦みぐるしきさまにて世よにあぶれむも、知しらず顔がほにて聞きかむこそ心苦こころぐるしかるべけれ。ことなることなくてかたみに散ちりぼはむも、亡なき人ひとの御おほんために見苦みぐるしかるべきわざ」を思おぼしわづらふ。

 大輔たいふがもとにも、いと心苦こころぐるしげに言いひやりたりければ、

「さるやうこそははべらめ。人ひと憎にくくはしたなくも、なのたまはせそ。かかる劣おとりの者ものの、人ひとの御おほん中なかに交まじりたまふも、世よの常つねのことなり」

 など聞きこえて、

「さらば、かの西にしの方かたに、隠かくろへたる所ところし出いでて、いとむつかしげなめれど、さても過すぐいたまひつべくは、しばしのほど」

 と言いひつかはしつ。いとうれしと思おもほして、人ひと知しれず出いで立たつ。御おほん方かたも、かの御おほんあたりをば、睦むつびきこえまほしと思おもふ心こころなれば、なかなか、かかることどもの出いで来きたるを、うれしと思おもふ。

守、少将の扱ひを

 守かみ、少将せうしゃうの扱あつかひを、いかばかりめでたきことをせむと思おもふに、そのきらきらしかるべきことも知しらぬ心こころには、ただ、あららかなる東絹あづまぎぬどもを、押おしまろがして投なげ出いでつ。食くひ物ものも、所狭ところせきまでなむ運はこび出いでてののしりける。

 下衆げすなどは、それをいとかしこき情なさけに思おもひければ、君きみも、「いとあらまほしく、心こころかしこく取とり寄よりにけり」と思おもひけり。北きたの方かた、「このほどを見捨みすてて知しらざらむもひがみたらむ」と思おもひ念ねんじて、ただするままにまかせて見みゐたり。

 客人まらうとの御おほん出居いでゐ、侍さぶらひひとしつらひ騒さわげば、家いへは広ひろけれど、源少納言げんせうなごん、東ひむがしの対たいには住すむ、男子をのこごなどの多おほかるに、所ところもなし。この御おほん方かたに客人まらうと住すみつきぬれば、廊らうなどほとりばみたらむに住すませたてまつらむも、飽あかずいとほしくおぼえて、とかく思おもひめぐらすほど、宮みやにとは思おもふなりけり。

「この御おほん方かたざまに、数かずまへたまふ人ひとのなきを、あなづるなめり」と思おもへば、ことに許ゆるいたまはざりしあたりを、あながちに参まゐらず。乳母めのと、若わかき人ひとびと、二ふたり、三人みたりばかりして、西にしの廂ひさしの北きたに寄よりて、人ひとげ遠とほき方かたに局つぼねしたり。

 年としごろ、かくはかなかりつれど、疎うとく思おぼすまじき人ひとなれば、参まゐる時ときは恥はぢたまはず、いとあらまほしく、けはひことにて、若君わかぎみの御おほん扱あつかひをしておはする御おほんありさま、うらやましくおぼゆるもあはれなり。

「我われも、故こ北きたの方かたには、離はなれたてまつるべき人ひとかは。仕つかうまつるといひしばかりに、数かずまへられたてまつらず、口惜くちをしくて、かく人ひとにはあなづらるる」

 と思おもふには、かくしひて睦むつびきこゆるもあぢきなし。ここには、御おほん物忌ものいみと言いひてければ、人ひとも通かよはず。二ふつか、三日みかばかり母君ははぎみもゐたり。こたみは、心こころのどかにこの御おほんありさまを見みる。

宮渡りたまふ

 宮みや渡わたりたまふ。ゆかしくてもののはさまより見みれば、いときよらに、桜さくらを折をりたるさましたまひて、わが頼たのもし人ひとに思おもひて、恨うらめしけれど、心こころには違たがはじと思おもふ常陸守ひたちのかみより、さま容貌かたちも人ひとのほども、こよなく見みゆる五位ごゐ四位しゐども、あひひざまづきさぶらひて、このことかのことと、あたりあたりのことども、家司けいしどもなど申まうす。

 また若わかやかなる五位ごゐども、顔かほも知しらぬどもも多おほかり。わが継子ままこの式部丞しきぶのじゃうにて蔵人くらうどなる、内裏うちの御おほん使つかひにて参まゐれり。御おほんあたりにもえ近ちかく参まゐらず。こよなき人ひとの御おほんけはひを、

「あはれ、こは何人なにびとぞ。かかる御おほんあたりにおはするめでたさよ。よそに思おもふ時ときは、めでたき人ひとびとと聞きこゆとも、つらき目め見みせたまはばと、もの憂うく推おし量はかりきこえさせつらむあさましさよ。この御おほんありさま容貌かたちを見みれば、七夕たなばたばかりにても、かやうに見みたてまつり通かよはむは、いといみじかるべきわざかな」

 と思おもふに、若君わかぎみ抱いだきてうつくしみおはす。女君をんなぎみ、短みじかき几帳きちゃうを隔へだてておはするを、押おしやりて、ものなど聞きこえたまふ御おほん容貌かたちども、いときよらに似に合あひたり。故宮こみやの寂さびしくおはせし御おほんありさまを思おもひ比くらぶるに、「宮みやたちと聞きこゆれど、いとこよなきわざにこそありけれ」とおぼゆ。

 几帳きちゃうの内うちに入いりたまひぬれば、若君わかぎみは、若わかき人ひと、乳母めのとなどもてあそびきこゆ。人ひとびと参まゐり集つどまれど、悩なやましとて、大殿籠おほとのごもり暮くらしつ。御台みだいこなたに参まゐる。よろづのこと気高けだかく、心こころことに見みゆれば、わがいみじきことを尽つくすと見み思おもへど、「なほなほしき人ひとのあたりは、口惜くちをしかりけり」と思おもひなりぬれば、「わが娘むすめも、かやうにてさし並ならべたらむには、かたはならじかし。勢いきほひを頼たのみて、父ちちぬしの、后きさいにもなしてむと思おもひたる人ひとびと、同おなじわが子こながら、けはひこよなきを思おもふも、なほ今いまよりのちも、心こころは高たかくつかふべかりけり」と、夜よ一夜ひとよあらまし語かたり思おもひ続つづけらる。

宮、日たけて起きたまひて

 宮みや、日ひたけて起おきたまひて、

「后きさいの宮みや、例れいの、悩なやましくしたまへば、参まゐるべし」

 とて、御おほん装束さうぞくなどしたまひておはす。ゆかしうおぼえて覗のぞけば、うるはしくひきつくろひたまへる、はた、似にるものなく気高けだかく愛敬あいぎゃうづききよらにて、若君わかぎみをえ見捨みすてたまはで遊あそびおはす。御おほん粥かゆ、強飯こはいひなど参まゐりてぞ、こなたより出いでたまふ。

 今朝けさより参まゐりて、さぶらひの方かたにやすらひける人ひとびと、今いまぞ参まゐりてものなど聞きこゆる中なかに、きよげだちて、なでふことなき人ひとのすさまじき顔かほしたる、直衣なほし着きて太刀たち佩はきたるあり。御前おまへにて何なにとも見みえぬを、

「かれぞ、この常陸守ひたちのかみの婿むこの少将せうしゃうな。初はじめは御おほん方かたにと定さだめけるを、守かみの娘むすめを得えてこそいたはられめ、など言いひて、かしけたる女をんなの童わらはを持もたるななり」

「いさ、この御おほんあたりの人ひとはかけても言いはず。かの君きみの方かたより、よく聞きくたよりのあるぞ」

 など、おのがどち言いふ。聞きくらむとも知しらで、人ひとのかく言いふにつけても、胸むねつぶれて、少将せうしゃうをめやすきほどと思おもひける心こころも口惜くちをしく、「げに、ことなることなかるべかりけり」と思おもひて、いとどしくあなづらはしく思おもひなりぬ。

 若君わかぎみのはひ出いでて、御簾みすのつまよりのぞきたまへるを、うち見みたまひて、立たち返かへり寄よりおはしたり。

「御心地みここちよろしく見みえたまはば、やがてまかでなむ。なほ苦くるしくしたまはば、今宵こよひは宿直とのゐにぞ。今いまは、一夜ひとよを隔へだつるもおぼつかなきこそ苦くるしけれ」

 とて、しばし慰なぐさめ遊あそばして、出いでたまひぬるさまの、返かへす返かへす見みるとも見みるとも、飽あくまじく、匂にほひやかにをかしければ、出いでたまひぬる名残なごり、さうざうしくぞ眺ながめらるる。

女君の御前に出で来て

 女君をんなぎみの御前おまへに出いで来きて、いみじくめでたてまつれば、田舎ゐなかびたる、と思おぼして笑わらひたまふ。

「故上こうへの亡なせたまひしほどは、言いふかひなく幼をさなき御おほんほどにて、いかにならせたまはむと、見みたてまつる人ひとも、故宮こみやも思おぼし嘆なげきしを、こよなき御おほん宿世すくせのほどなりければ、さる山やまふところのなかにも、生おひ出いでさせたまひしにこそありけれ。口惜くちをしく、故姫君こひめぎみのおはしまさずなりにたるこそ、飽あかぬことなれ」

 など、うち泣なきつつ聞きこゆ。君きみもうち泣なきたまひて、

「世よの中なかの恨うらめしく心細こころぼそき折々をりをりも、またかくながらふれば、すこしも思おもひ慰なぐさめつべき折をもあるを、いにしへ頼たのみきこえける蔭かげどもに後おくれたてまつりけるは、なかなかに世よの常つねに思おもひなされて、見みたてまつり知しらずなりにければ、あるを、なほこの御おほんことは、尽つきせずいみじくこそ。大将だいしゃうの、よろづのことに心こころの移うつらぬよしを愁うれへつつ、浅あさからぬ御心みこころのさまを見みるにつけても、いとこそ口惜くちをしけれ」

 とのたまへば、

「大将だいしゃう殿とのは、さばかり世よにためしなきまで、帝みかどのかしづき思おぼしたなるに、心こころおごりしたまふらむかし。おはしまさましかば、なほこのこと、せかれしもしたまはざらましや」

 など聞きこゆ。

「いさや、やうのものと、人ひと笑わらはれなる心地ここちせましも、なかなかにやあらまし。見果みはてぬにつけて、心こころにくくもある世よにこそ、と思おもへど、かの君きみは、いかなるにかあらむ、あやしきまでもの忘わすれせず、故宮こみやの御おほん後のちの世よをさへ、思おもひやり深ふかく後見うしろみありきたまふめる」

 など、心こころうつくしう語かたりたまふ。

「かの過すぎにし御代みよはりに尋たづねて見みむと、この数かずならぬ人ひとをさへなむ、かの弁べんの尼君あまぎみにはのたまひける。さもやと、思おもうたまへ寄よるべきことにははべらねど、一本ひともとゆゑにこそはと、かたじけなけれど、あはれになむ思おもうたまへらるる御心みこころ深ふかさなる」

 など言いふついでに、この君きみをもてわづらふこと、泣なく泣なく語かたる。

こまかにはあらねど

 こまかにはあらねど、人ひとも聞ききけりと思おもふに、少将せうしゃうの思おもひあなづりけるさまなどほのめかして、

「命いのちはべらむ限かぎりは、何なにか、朝夕あさゆふの慰なぐさめぐさにて見過みすぐしつべし。うち捨すてはべりなむのちは、思おもはずなるさまに散ちりぼひはべらむが悲かなしさに、尼あまになして、深ふかき山やまにやし据すゑて、さる方かたに世よの中なかを思おもひ絶たえてはべらましなどなむ、思おもうたまへわびては、思おもひ寄よりはべる」

 など言いふ。

「げに、心苦こころぐるしき御おほんありさまにこそはあなれど、何なにか、人ひとにあなづらるる御おほんありさまは、かやうになりぬる人ひとのさがにこそ。さりとても、堪たへぬわざなりければ、むげにその方かたに思おもひおきてたまへりし身みだに、かく心こころより外ほかにながらふれば、まいていとあるまじき御おほんことなり。やついたまはむも、いとほしげなる御おほんさまにこそ」

 など、いと大人おとなびてのたまへば、母君ははぎみ、いとうれしと思おもひたり。ねびにたるさまなれど、よしなからぬさましてきよげなり。いたく肥こえ過すぎにたるなむ、常陸ひたち殿とのとは見みえける。

「故宮こみやの、つらう情なさけなく思おぼし放はなちたりしに、いとど人ひとげなく、人ひとにもあなづられたまふと見みたまふれど、かう聞きこえさせ御覧ごらんぜらるるにつけてなむ、いにしへの憂うさも慰なぐさみはべる」

 など、年としごろの物語ものがたり、浮島うきしまのあはれなりしことも聞きこえ出いづ。

「わが身み一ひとつのとのみ、言いひ合あはする人ひともなき筑波山つくばやまのありさまも、かくあきらめきこえさせて、いつも、いとかくてさぶらはまほしく思おもひたまへなりはべりぬれど、かしこにはよからぬあやしの者ものども、いかにたち騷さわぎ求もとめはべらむ。さすがに心こころあわたたしく思おもひたまへらるる。かかるほどのありさまに身みをやつすは、口惜くちをしきものになむはべりけると、身みにも思おもひ知しらるるを、この君きみは、ただ任まかせきこえさせて、知しりはべらじ」

 など、かこちきこえかくれば、「げに、見苦みぐるしからでもあらなむ」と見みたまふ。

容貌も心ざまも

 容貌かたちも心こころざまも、え憎にくむまじうらうたげなり。もの恥はぢもおどろおどろしからず、さまよう児ちごめいたるものから、かどなからず、近ちかくさぶらふ人ひとびとにも、いとよく隠かくれてゐたまへり。ものなど言いひたるも、昔むかしの人ひとの御おほんさまに、あやしきまでおぼえたてまつりてぞあるや。かの人形ひとがた求もとめたまふ人ひとに見みせたてまつらばやと、うち思おもひ出いでたまふ折をしも、

「大将だいしゃう殿との参まゐりたまふ」

 と、人聞ひとぎこゆれば、例れいの、御几帳みきちゃうひきつくろひて、心こころづかひす。この客人まらうとの母君ははぎみ、

「いで、見みたてまつらむ。ほのかに見みたてまつりける人ひとの、いみじきものに聞きこゆめれど、宮みやの御おほんありさまには、え並ならびたまはじ」

 と言いへば、御前おまへにさぶらふ人ひとびと、

「いさや、えこそ聞きこえ定さだめね」

 と聞きこえあへり。

「いかばかりならむ人ひとか、宮みやをば消けちたてまつらむ」

 など言いふほどに、「今いまぞ、車くるまより降おりたまふなる」と聞きくほど、かしかましきまで追おひののしりて、とみにも見みえたまはず。待またれたまふほどに、歩あゆみ入いりたまふさまを見みれば、げに、あなめでた、をかしげとも見みえずながらぞ、なまめかしうあてにきよげなるや。

 すずろに見みえ苦くるしう恥はづかしくて、額髪ひたひがみなどもひきつくろはれて、心恥こころはづかしげに用意ようい多おほく、際きはもなきさまぞしたまへる。内裏うちより参まゐりたまへるなるべし、御前ごぜんどものけはひあまたして、

「昨夜よべ、后きさいの宮みやの悩なやみたまふよし承うけたまはりて参まゐりたりしかば、宮みやたちのさぶらひたまはざりしかば、いとほしく見みたてまつりて、宮みやの御代みよはりに今いままでさぶらひはべりつる。今朝けさもいと懈怠けたいして参まゐらせたまへるを、あいなう、御おほんあやまちに推おし量はかりきこえさせてなむ」

 と聞きこえたまへば、

「げに、おろかならず、思おもひやり深ふかき御おほん用意よういになむ」

 とばかりいらへきこえたまふ。宮みやは内裏うちにとまりたまひぬるを見みおきて、ただならずおはしたるなめり。

例の、物語いとなつかしげに

 例れいの、物語ものがたりいとなつかしげに聞きこえたまふ。事ことに触ふれて、ただいにしへの忘わすれがたく、世よの中なかのもの憂うくなりまさるよしを、あらはには言いひなさで、かすめ愁うれへたまふ。

「さしも、いかでか、世よを経へて心こころに離はなれずのみはあらむ。なほ、浅あさからず言いひ初はじめてしことの筋すぢなれば、名残なごりなからじとにや」など、見みなしたまへど、人ひとの御おほんけしきはしるきものなれば、見みもてゆくままに、あはれなる御心みこころざまを、岩いは木きならねば、思おもほし知しる。

 怨うらみきこえたまふことも多おほかれば、いとわりなくうち嘆なげきて、かかる御心みこころをやむる禊みそぎをせさせたてまつらまほしく思おもほすにやあらむ、かの人形ひとがたのたまひ出いでて、

「いと忍しのびてこのわたりになむ」

 と、ほのめかしきこえたまふを、かれもなべての心地ここちはせず、ゆかしくなりにたれど、うちつけにふと移うつらむ心地ここちはたせず。

「いでや、その本尊ほんぞん、願ねがひ満みてたまふべくはこそ尊たふとからめ、時々ときどき、心こころやましくは、なかなか山水やまみづも濁にごりぬべく」

 とのたまへば、果はて果はては、

「うたての御おほん聖心ひじりごころや」

 と、ほのかに笑わらひたまふも、をかしう聞きこゆ。

「いで、さらば、伝つたへ果はてさせたまへかし。この御おほん逃のがれ言葉ことばこそ、思おもひ出いづればゆゆしく」

 とのたまひても、また涙なみだぐみぬ。

「見みし人ひとの形代かたしろならば身みに添そへて恋こひしき瀬々せぜのなでものにせむ」

 と、例れいの、戯たはぶれに言いひなして、紛まぎらはしたまふ。

「みそぎ河かは瀬々せぜに出いださむなでものを身みに添そふ影かげと誰たれか頼たのまむ

引ひく手てあまたに、とかや。いとほしくぞはべるや」

 とのたまへば、

「つひに寄よる瀬せは、さらなりや。いとうれたきやうなる水みづの泡あわにも争あらそひはべるかな。かき流ながさるるなでものは、いで、まことぞかし。いかで慰なぐさむべきことぞ」

 など言いひつつ、暗くらうなるもうるさければ、かりそめにものしたる人ひとも、あやしくと思おもふらむもつつましきを、

「今宵こよひは、なほ、とく帰かへりたまひね」

 と、こしらへやりたまふ。

さらば、その客人に

「さらば、その客人まらうとに、かかる心こころの願ねがひ年とし経へぬるを、うちつけになど、浅あさう思おもひなすまじう、のたまはせ知しらせたまひて、はしたなげなるまじうはこそ。いとうひうひしうならひにてはべる身みは、何なにごともをこがましきまでなむ」

 と、語かたらひきこえおきて出いでたまひぬるに、この母君ははぎみ、

「いとめでたく、思おもふやうなるさまかな」

 とめでて、乳母めのとゆくりかに思おもひよりて、たびたび言いひしことを、あるまじきことに言いひしかど、この御おほんありさまを見みるには、「天あめの川かはを渡わたりても、かかる彦星ひこぼしの光ひかりをこそ待まちつけさせめ。わが娘むすめは、なのめならむ人ひとに見みせむは惜をしげなるさまを、夷えびすめきたる人ひとをのみ見みならひて、少将せうしゃうをかしこきものに思おもひける」を、悔くやしきまで思おもひなりにけり。

 寄よりゐたまへりつる真木柱まきばしらも茵しとねも、名残なごり匂にほへる移うつり香か、言いへばいとことさらめきたるまでありがたし。時々ときどき見みたてまつる人ひとだに、たびごとにめできこゆ。

「経きゃうなどを読よみて、功徳くどくのすぐれたることあめるにも、香かの香かうばしきをやむごとなきことに、仏ほとけのたまひおきけるも、ことわりなりや。薬王品やくわうぼんなどに、取とり分わきてのたまへる、牛頭栴檀ごづせんだんとかや、おどろおどろしきものの名ななれど、まづかの殿とのの近ちかく振ふる舞まひたまへば、仏ほとけはまことしたまひけり、とこそおぼゆれ。幼をさなくおはしけるより、行おこなひもいみじくしたまひければよ」

 など言いふもあり。また、

「前まへの世よこそゆかしき御おほんありさまなれ」

 など、口々くちぐちめづることどもを、すずろに笑わらみて聞ききゐたり。

君は、忍びてのたまひつることを

 君きみは、忍しのびてのたまひつることを、ほのめかしのたまふ。

「思おもひ初はじめつること、執念しふねきまで軽々かるがるしからずものしたまふめるを、げに、ただ今いまのありさまなどを思おもへば、わづらはしき心地ここちすべけれど、かの世よを背そむきても、など思おもひ寄よりたまふらむも、同おなじことに思おもひなして、試こころみたまへかし」

 とのたまへば、

「つらき目め見みせず、人ひとにあなづられじの心こころにてこそ、鳥とりの音聞おとぎこえざらむ住すまひまで思おもひたまへおきつれ。げに、人ひとの御おほんありさまけはひを見みたてまつり思おもひたまふるは、下仕しもづかへのほどなどにても、かかる人ひとの御おほんあたりに、馴なれきこえむは、かひありぬべし。まいて若わかき人ひとは、心こころつけたてまつりぬべくはべるめれど、数かずならぬ身みに、もの思おもふ種たねをやいとど蒔まかせて見みはべらむ。

高たかきも短みじかきも、女をんなといふものは、かかる筋すぢにてこそ、この世よ、後のちの世よまで、苦くるしき身みになりはべるなれ、と思おもひたまへはべればなむ、いとほしく思おもひたまへはべる。それもただ御心みこころになむ。ともかくも、思おぼし捨すてず、ものせさせたまへ」

 と聞きこゆれば、いとわづらはしくなりて、

「いさや。来きし方かたの心深こころぶかさにうちとけて、行ゆく先さきのありさまは知しりがたきを」

 とうち嘆なげきて、ことに物ものものたまはずなりぬ。

 明あけぬれば、車くるまなど率ゐて来きて、守かみの消息せうそこなど、いと腹立はらだたしげに脅おどかしたれば、

「かたじけなく、よろづに頼たのみきこえさせてなむ。なほ、しばし隠かくさせたまひて、巌いはほの中なかにとも、いかにとも、思おもひたまへめぐらしはべるほど、数かずにはべらずとも、思おもほし放はなたず、何なにごとをも教をしへさせたまへ」

 など聞きこえおきて、この御おほん方かたも、いと心細こころぼそく、ならはぬ心地ここちに、立たち離はなれむを思おもへど、今いまめかしくをかしく見みゆるあたりに、しばしも見馴みなれたてまつらむと思おもへば、さすがにうれしくもおぼえけり。

車引き出づるほどの

 車くるま引ひき出いづるほどの、すこし明あかうなりぬるに、宮みや、内裏うちよりまかでたまふ。若君わかぎみおぼつかなくおぼえたまひければ、忍しのびたるさまにて、車くるまなども例れいならでおはしますにさしあひて、おしとどめて立たてたれば、廊らうに御車みくるま寄よせて降おりたまふ。

「なぞの車くるまぞ。暗くらきほどに急いそぎ出いづるは」

 と目めとどめさせたまふ。「かやうにてぞ、忍しのびたる所ところには出いづるかし」と、御心みこころならひに思おぼし寄よるも、むくつけし。

「常陸ひたち殿とののまかでさせたまふ」

 と申まうす。若わかやかなる御前ごぜんども、

「殿とのこそ、あざやかなれ」

 と、笑わらひあへるを聞きくも、「げに、こよなの身みのほどや」と悲かなしく思おもふ。ただ、この御おほん方かたのことを思おもふゆゑにぞ、おのれも人ひとびとしくならまほしくおぼえける。まして、正身さうじみをなほなほしくやつして見みむことは、いみじくあたらしう思おもひなりぬ。宮みや、入いりたまひて、

「常陸ひたち殿とのといふ人ひとや、ここに通かよはしたまふ。心こころある朝あさぼらけに、急いそぎ出いでつる車副くるまぞひなどこそ、ことさらめきて見みえつれ」

 など、なほ思おぼし疑うたがひてのたまふ。「聞ききにくくかたはらいたし」と思おぼして、

「大輔たいふなどが若わかくてのころ、友達ともだちにてありける人ひとは。ことに今いまめかしうも見みえざめるを、ゆゑゆゑしげにものたまひなすかな。人ひとの聞ききとがめつべきことをのみ、常つねにとりないたまふこそ、なき名なは立たてで」

 と、うち背そむきたまふも、らうたげにをかし。

 明あくるも知しらず大殿籠おほとのごもりたるに、人ひとびとあまた参まゐりたまへば、寝殿しんでんに渡わたりたまひぬ。后きさいの宮みやは、ことことしき御おほん悩なやみにもあらで、おこたりたまひにければ、心地ここちよげにて、右みぎの大殿おほいどのの君達きむだちなど、碁ご打うち韻塞ゐんふたぎなどしつつ遊あそびたまふ。

夕つ方、宮こなたに渡らせたまへれば

 夕ゆふつ方かた、宮みやこなたに渡わたらせたまへれば、女君をんなぎみは、御おほんゆするのほどなりけり。人ひとびともおのおのうち休やすみなどして、御前おまへには人ひともなし。小ちひさき童わらはのあるして、

「折を悪あしき御おほんゆするのほどこそ、見苦みぐるしかめれ。さうざうしくてや、眺ながめむ」

 と、聞きこえたまへば、

「げに、おはしまさぬ隙々ひまひまにこそ、例れいは済すませ。あやしう日ひごろももの憂うがらせたまひて、今日けふ過すぎば、この月つきは日ひもなし。九く、十月じふがちは、いかでかはとて、仕つかまつらせつるを」

 と、大輔たいふいとほしがる。

 若君わかぎみも寝ねたまへりければ、そなたにこれかれあるほどに、宮みやはたたずみ歩あゆきたまひて、西にしの方かたに例れいならぬ童わらはの見みえつるを、「今いま参まゐりたるか」など思おぼして、さし覗のぞきたまふ。中なかのほどなる障子さうじの、細ほそ目めに開あきたるより見みたまへば、障子さうじのあなたに、一尺いっしゃくばかりひきさけて、屏風びゃうぶ立たてたり。そのつまに、几帳きちゃう、簾すだれに添そへて立たてたり。

 帷かたびら一重ひとへをうちかけて、紫苑色しをんいろのはなやかなるに、女郎花をみなへしの織物おりものと見みゆる重かさなりて、袖口そでぐちさし出いでたり。屏風びゃうぶの一枚いちまいたたまれたるより、「心こころにもあらで見みゆるなめり。今いま参まゐりの口惜くちをしからぬなめり」と思おぼして、この廂ひさしに通かよふ障子さうじを、いとみそかに押おし開あけたまひて、やをら歩あゆみ寄よりたまふも、人ひと知しらず。

 こなたの廊らうの中なかの壺つぼ前栽せんざいの、いとをかしう色々いろいろに咲さき乱みだれたるに、遣水やりみづのわたり、石いし高たかきほど、いとをかしければ、端近はしぢかく添そひ臥ふして眺ながむるなりけり。開あきたる障子さうじを、今いますこし押おし開あけて、屏風びゃうぶのつまより覗のぞきたまふに、宮みやとは思おもひもかけず、「例れいこなたに来き馴なれたる人ひとにやあらむ」と思おもひて、起おき上あがりたる様体やうだい、いとをかしう見みゆるに、例れいの御心みこころは過すぐしたまはで、衣きぬの裾すそを捉とらへたまひて、こなたの障子さうじは引ひき立たてたまひて、屏風びゃうぶのはさまに居ゐたまひぬ。

 あやしと思おもひて、扇あふぎをさし隠かくして見み返かへりたるさま、いとをかし。扇あふぎを持もたせながら捉とらへたまひて、

「誰たれぞ。名なのりこそ、ゆかしけれ」

 とのたまふに、むくつけくなりぬ。さるもののつらに、顔かほを他ほかざまにもて隠かくして、いといたう忍しのびたまへれば、「このただならずほのめかしたまふらむ大将だいしゃうにや、香かうばしきけはひなども」思おもひわたさるるに、いと恥はづかしくせむ方かたなし。

乳母、人げの例ならぬを

 乳母めのと、人ひとげの例れいならぬを、あやしと思おもひて、あなたなる屏風びゃうぶを押おし開あけて来きたり。

「これは、いかなることにかはべらむ。あやしきわざにもはべる」

 など聞きこゆれど、憚はばかりたまふべきことにもあらず。かくうちつけなる御おほんしわざなれど、言ことの葉は多おほかる本性ほんじゃうなれば、何なにやかやとのたまふに、暮くれ果はてぬれど、

「誰たれと聞きかざらむほどは許ゆるさじ」

 とて、なれなれしく臥ふしたまふに、「宮みやなりけり」と思おもひ果はつるに、乳母めのと、言いはむ方かたなくあきれてゐたり。

 大殿油おほとなぶらは灯籠とうろにて、「今いま渡わたらせたまひなむ」と人ひとびと言いふなり。御前おまへならぬ方かたの御格子みかうしどもぞ下おろすなる。こなたは離はなれたる方かたにしなして、高たかき棚厨子たなづし一具ひとよろひ立たて、屏風びゃうぶの袋ふくろに入いれこめたる、所々ところどころに寄よせかけ、何なにかの荒あらかなるさまにし放はなちたり。かく人ひとのものしたまへばとて、通かよふ道みちの障子さうじ一ひと間まばかりぞ開あけたるを、右近うこんとて、大輔たいふが娘むすめのさぶらふ来きて、格子かうし下おろしてここに寄より来くなり。

「あな、暗くらや。まだ大殿油おほとなぶらも参まゐらざりけり。御格子みかうしを、苦くるしきに、急いそぎ参まゐりて、闇やみに惑まどふよ」

 とて、引ひき上あぐるに、宮みやも、「なま苦くるし」と聞ききたまふ。乳母めのとはた、いと苦くるしと思おもひて、ものづつみせずはやりかにおぞき人ひとにて、

「もの聞きこえはべらむ。ここに、いとあやしきことのはべるに、見みたまへ極こうじてなむ、え動うごきはべらでなむ」

「何なにごとぞ」

 とて、探さぐり寄よるに、袿姿うちきすがたなる男をとこの、いと香かうばしくて添そひ臥ふしたまへるを、「例れいのけしからぬ御おほんさま」と思おもひ寄よりにけり。「女をんなの心こころ合あはせたまふまじきこと」と推おし量はからるれば、

「げに、いと見苦みぐるしきことにもはべるかな。右近うこんは、いかにか聞きこえさせむ。今いま参まゐりて、御前おまへにこそは忍しのびて聞きこえさせめ」

 とて立たつを、あさましくかたはに、誰たれも誰たれも思おもへど、宮みやは懼おぢたまはず。

「あさましきまであてにをかしき人ひとかな。なほ、何人なにびとならむ。右近うこんが言いひつるけしきも、いとおしなべての今いま参まゐりにはあらざめり」

 心得こころえがたく思おもされて、と言いひかく言いひ、怨うらみたまふ。心こころづきなげにけしきばみてももてなさねど、ただいみじう死しぬばかり思おもへるがいとほしければ、情なさけありてこしらへたまふ。

 右近うこん、上うへに、

「しかしかこそおはしませ。いとほしく、いかに思おもふらむ」

 と聞きこゆれば、

「例れいの、心憂こころうき御おほんさまかな。かの母ははも、いかにあはあはしく、けしからぬさまに思おもひたまはむとすらむ。うしろやすくと、返かへす返かへす言いひおきつるものを」

 と、いとほしく思おもせど、「いかが聞きこえむ。さぶらふ人ひとびとも、すこし若わかやかによろしきは、見捨みすてたまふなく、あやしき人ひとの御おほん癖くせなれば、いかがは思おもひ寄よりたまひけむ」とあさましきに、ものも言いはれたまはず。

上達部あまた参りたまふ日にて

「上達部かむだちめあまた参まゐりたまふ日ひにて、遊あそび戯たはぶれては、例れいも、かかる時ときは遅おそくも渡わたりたまへば、皆みなうちとけてやすみたまふぞかし。さても、いかにすべきことぞ。かの乳母めのとこそ、おぞましかりけれ。つと添そひゐて護まもりたてまつり、引ひきもかなぐりたてまつりつべくこそ思おもひたりつれ」

 と、少将せうしゃうと二人ふたりしていとほしがるほどに、内裏うちより人ひと参まゐりて、大宮おほみやこの夕暮ゆふぐれより御おほん胸むね悩なやませたまふを、ただ今いまいみじく重おもく悩なやませたまふよし申まうさす。右近うこん、

「心こころなき折をの御おほん悩なやみかな。聞きこえさせむ」

 とて立たつ。少将せうしゃう、

「いでや、今いまは、かひなくもあべいことを、をこがましく、あまりな脅おどかしきこえたまひそ」

 と言いへば、

「いな、まだしかるべし」

 と、忍しのびてささめき交かはすを、上うへは、「いと聞ききにくき人ひとの御おほん本性ほんじゃうにこそあめれ。すこし心こころあらむ人ひとは、わがあたりをさへ疎うとみぬべかめり」と思おぼす。

 参まゐりて、御おほん使つかひの申まうすよりも、今いますこしあわたたしげに申まうしなせば、動うごきたまふべきさまにもあらぬ御おほんけしきに、

「誰たれか参まゐりたる。例れいの、おどろおどろしく脅おどかす」

 とのたまはすれば、

「宮みやの侍さぶらひに、平重経たひらのしげつねとなむ名なのりはべりつる」

 と聞きこゆ。出いでたまはむことのいとわりなく口惜くちをしきに、人目ひとめも思おもされぬに、右近うこん立たち出いでて、この御おほん使つかひを西面にしおもてにてと言いへば、申まうし次つぎつる人ひとも寄より来きて、

「中務宮なかつかさのみや、参まゐらせたまひぬ。大夫たいふは、ただ今いまなむ、参まゐりつる道みちに、御車みくるま引ひき出いづる、見みはべりつ」

 と申まうせば、「げに、にはかに時々ときどき悩なやみたまふ折々をりをりもあるを」と思おぼすに、人ひとの思おぼすらむこともはしたなくなりて、いみじう怨うらみ契ちぎりおきて出いでたまひぬ。

恐ろしき夢の覚めたる心地して

 恐おそろしき夢ゆめの覚さめたる心地ここちして、汗あせにおし浸ひたして臥ふしたまへり。乳母めのと、うち扇あふぎなどして、

「かかる御おほん住すまひは、よろづにつけて、つつましう便びんなかりけり。かくおはしましそめて、さらに、よきことはべらじ。あな、恐おそろしや。限かぎりなき人ひとと聞きこゆとも、やすからぬ御おほんありさまは、いとあぢきなかるべし。

よそのさし離はなれたらむ人ひとにこそ、善よしとも悪あしともおぼえられたまはめ、人聞ひとぎきもかたはらいたきこと、と思おもひたまへて、降魔がうまの相あひを出いだして、つと見みたてまつりつれば、いとむくつけく、下衆げす下衆げすしき女をんなと思おぼして、手てをいといたくつませたまひつるこそ、直人なほびとの懸想けさうだちて、いとをかしくもおぼえはべりつれ。

かの殿とのには、今日けふもいみじくいさかひたまひけり。「ただ一所ひとところの御おほん上うへを見み扱あつかひたまふとて、わが子こどもをば思おぼし捨すてたり、客人まらうとのおはするほどの御おほん旅たび居ゐ見苦みぐるし」と、荒々あらあらしきまでぞ聞きこえたまひける。下人しもびとさへ聞ききいとほしがりけり。

すべてこの少将せうしゃうの君きみぞ、いと愛敬あいぎゃうなくおぼえたまふ。この御おほんことはべらざらましかば、うちうちやすからずむつかしきことは、折々をりをりはべりとも、なだらかに、年としごろのままにておはしますべきものを」

 など、うち嘆なげきつつ言いふ。

 君きみは、ただ今いまはともかくも思おもひめぐらされず、ただいみじくはしたなく、見知みしらぬ目めを見みつるに添そへても、「いかに思おぼすらむ」と思おもふに、わびしければ、うつぶし臥ふして泣なきたまふ。いと苦くるしと見み扱あつかひて、

「何なにか、かく思おぼす。母ははおはせぬ人ひとこそ、たづきなう悲かなしかるべけれ。よそのおぼえは、父ちちなき人ひとはいと口惜くちをしけれど、さがなき継母ままははに憎にくまれむよりは、これはいとやすし。ともかくもしたてまつりたまひてむ。な思おぼし屈くぜそ。

さりとも、初瀬はつせの観音くゎんおんおはしませば、あはれと思おもひきこえたまふらむ。ならはぬ御おほん身みに、たびたびしきりて詣まうでたまふことは、人ひとのかくあなづりざまにのみ思おもひきこえたるを、かくもありけり、と思おもふばかりの御幸みゆきひおはしませ、とこそ念ねんじはべれ。あが君きみは、人ひと笑わらはれにては、やみたまひなむや」

 と、世よをやすげに言いひゐたり。

宮は、急ぎて出でたまふなり

 宮みやは、急いそぎて出いでたまふなり。内裏うち近ちかき方かたにやあらむ、こなたの御門みかどより出いでたまへば、もののたまふ御おほん声こゑも聞きこゆ。いとあてに限かぎりもなく聞きこえて、心こころばへある古言ふることなどうち誦ずんじたまひて過すぎたまふほど、すずろにわづらはしくおぼゆ。移うつし馬むまども牽ひき出いだして、宿直とのゐにさぶらふ人ひと、十人じふにんばかりして参まゐりたまふ。

 上うへ、いとほしく、うたて思おもふらむとて、知しらず顔がほにて、

「大宮おほみや悩なやみたまふとて参まゐりたまひぬれば、今宵こよひは出いでたまはじ。の名残なごりにや、心地ここちも悩なやましくて起おきゐはべるを、渡わたりたまへ。つれづれにも思おもさるらむ」

 と聞きこえたまへり。

「乱みだり心地ここちのいと苦くるしうはべるを、ためらひて」

 と、乳母めのとして聞きこえたまふ。

「いかなる御心地みここちぞ」

 と、返かへり訪とぶらひきこえたまへば、

「何なに心地ここちともおぼえはべらず、ただいと苦くるしくはべり」

 と聞きこえたまへば、少将せうしゃう、右近うこん目めまじろきをして、

「かたはらぞいたくおはすらむ」

 と言いふも、ただなるよりはいとほし。

「いと口惜くちをしう心苦こころぐるしきわざかな。大将だいしゃうの心こころとどめたるさまにのたまふめりしを、いかにあはあはしく思おもひ落おとさむ。かく乱みだりがはしくおはする人ひとは、聞ききにくく、実みならぬことをもくねり言いひ、またまことにすこし思おもはずならむことをも、さすがに見み許ゆるしつべうこそおはすめれ。

この君きみは、言いはで憂うしと思おもはむこと、いと恥はづかしげに心深こころぶかきを、あいなく思おもふこと添そひぬる人ひとの上うへなめり。年としごろ見みず知しらざりつる人ひとの上うへなれど、心こころばへ容貌かたちを見みれば、え思おもひ離はなるまじう、らうたく心苦こころぐるしきに、世よの中なかはありがたくむつかしげなるものかな。

わが身みのありさまは、飽あかぬこと多おほかる心地ここちすれど、かくものはかなき目めも見みつべかりける身みの、さは、はふれずなりにけるにこそ、げに、めやすきなりけれ。今いまはただ、この憎にくき心添こころそひたまへる人ひとの、なだらかにて思おもひ離はなれなば、さらに何なにごとも思おもひ入いれずなりなむ」

 と思おもほす。いと多おほかる御髪みぐしなれば、とみにもえ乾かはしやらず、起おきゐたまへるも苦くるし。白しろき御衣おほんぞ一襲ひとかさねばかりにておはする、細ほそやかにてをかしげなり。

この君は、まことに心地も悪しく

 この君きみは、まことに心地ここちも悪あしくなりにたれど、乳母めのと、

「いとかたはらいたし。事ことしもあり顔がほに思おぼすらむを。ただおほどかにて見みえたてまつりたまへ。右近うこんの君きみなどには、事ことのありさま、初はじめより語かたりはべらむ」

 と、せめてそそのかしたてて、こなたの障子さうじのもとにて、

「右近うこんの君きみにもの聞きこえさせむ」

 と言いへば、立たちて出いでたれば、

「いとあやしくはべりつることの名残なごりに、身みも熱あつうなりたまひて、まめやかに苦くるしげに見みえさせたまふを、いとほしく見みはべる。御前おまへにて慰なぐさめきこえさせたまへ、とてなむ。過すちもおはせぬ身みを、いとつつましげに思おもほしわびためるも、いささかにても世よを知しりたまへる人ひとこそあれ、いかでかはと、ことわりに、いとほしく見みたてまつる」

 とて、引ひき起おこして参まゐらせたてまつる。

 我われにもあらず、人ひとの思おもふらむことも恥はづかしけれど、いとやはらかにおほどき過すぎたまへる君きみにて、押おし出いでられて居ゐたまへり。額髪ひたひがみなどの、いたう濡ぬれたる、もて隠かくして、灯ひの方かたに背そむきたまへるさま、上うへをたぐひなく見みたてまつるに、け劣おとるとも見みえず、あてにをかし。

「これに思おぼしつきなば、めざましげなることはありなむかし。いとかからぬをだに、めづらしき人ひと、をかしうしたまふ御心みこころを」

 と、二人ふたりばかりぞ、御前おまへにてえ恥はぢたまはねば、見みゐたりける。物語ものがたりいとなつかしくしたまひて、

「例れいならずつつましき所ところなど、な思おもひなしたまひそ。故姫君こひめぎみのおはせずなりにしのち、忘わするる世よなくいみじく、身みも恨うらめしく、たぐひなき心地ここちして過すぐすに、いとよく思おもひよそへられたまふ御おほんさまを見みれば、慰なぐさむ心地ここちしてあはれになむ。思おもふ人ひともなき身みに、昔むかしの御心みこころざしのやうに思おもほさば、いとうれしくなむ」

 など語かたらひたまへど、いとものつつましくて、また鄙ひなびたる心こころに、いらへきこえむこともなくて、

「年としごろ、いと遥はるかにのみ思おもひきこえさせしに、かう見みたてまつりはべるは、何なにごとも慰なぐさむ心地ここちしはべりてなむ」

 とばかり、いと若わかびたる声こゑにて言いふ。

絵など取り出でさせて

 絵ゑなど取とり出いでさせて、右近うこんに詞ことば読よませて見みたまふに、向むかひてもの恥はぢもえしあへたまはず、心こころに入いれて見みたまへる灯影ほかげ、さらにここと見みゆる所ところなく、こまかにをかしげなり。額ひたひつき、まみの薫かをりたる心地ここちして、いとおほどかなるあてさは、ただそれとのみ思おもひ出いでらるれば、絵ゑはことに目めもとどめたまはで、

「いとあはれなる人ひとの容貌かたちかな。いかでかうしもありけるにかあらむ。故宮こみやにいとよく似にたてまつりたるなめりかし。故姫君こひめぎみは、宮みやの御おほん方かたざまに、我われは母はは上うへに似にたてまつりたるとこそは、古人ふるびとども言いふなりしか。げに、似にたる人ひとはいみじきものなりけり」

 と思おぼし比くらぶるに、涙なみだぐみて見みたまふ。

「かれは、限かぎりなくあてに気高けだかきものから、なつかしうなよよかに、かたはなるまで、なよなよとたわみたるさまのしたまへりしにこそ。

これは、またもてなしのうひうひしげに、よろづのことをつつましうのみ思おもひたるけにや、見所みどころ多おほかるなまめかしさぞ劣おとりたる。ゆゑゆゑしきけはひだにもてつけたらば、大将だいしゃうの見みたまはむにも、さらにかたはなるまじ」

 など、このかみ心こころに思おもひ扱あつかはれたまふ。

 物語ものがたりなどしたまひて、暁方あかつきがたになりてぞ寝ねたまふ。かたはらに臥ふせたまひて、故宮こみやの御おほんことども、年としごろおはせし御おほんありさまなど、まほならねど語かたりたまふ。いとゆかしう、見みたてまつらずなりにけるを、「いと口惜くちをしう悲かなし」と思おもひたり。昨夜よべの心こころ知しりの人ひとびとは、

「いかなりつらむな。いとらうたげなる御おほんさまを。いみじう思おぼすとも、甲斐かひあるべきことかは。いとほし」

 と言いへば、右近うこんぞ、

「さも、あらじ。かの御おほん乳母めのとの、ひき据すゑてすずろに語かたり愁うれへしけしき、もて離はなれてぞ言いひし。宮みやも、逢あひても逢あはぬやうなる心こころばへにこそ、うちうそぶき口くちずさびたまひしか」

「いさや。ことさらにもやあらむ。そは、知しらずかし」

「昨夜よべの火影ほかげのいとおほどかなりしも、事ことあり顔がほには見みえたまはざりしを」

 など、うちささめきていとほしがる。

乳母、車請ひて常陸殿へ往ぬ

 乳母めのと、車くるま請こひて、常陸ひたち殿とのへ往ゆぬ。北きたの方かたにかうかうと言いへば、胸むねつぶれ騷さわぎて、「人ひともけしからぬさまに言いひ思おもふらむ。正身さうじみもいかが思おぼすべき。かかる筋すぢのもの憎にくみは、貴人あてびともなきものなり」と、おのが心こころならひに、あわたたしく思おもひなりて、夕ゆふつ方かた参まゐりぬ。

 宮みやおはしまさねば心こころやすくて、

「あやしく心幼こころをさなげなる人ひとを参まゐらせおきて、うしろやすくは頼たのみきこえさせながら、鼬いたちのはべらむやうなる心地ここちのしはべれば、よからぬものどもに、憎にくみ恨うらみられはべる」

 と聞きこゆ。

「いとさ言いふばかりの幼をさなさにはあらざめるを。うしろめたげにけしきばみたる御おほんまかげこそ、わづらはしけれ」

 とて笑わらひたまへるが、心恥こころはづかしげなる御おほんまみを見みるも、心こころの鬼おにに恥はづかしくぞおぼゆる。「いかに思おぼすらむ」と思おもへば、えもうち出いで聞きこえず。

「かくてさぶらひたまはば、年としごろの願ねがひの満みつ心地ここちして、人ひとの漏もり聞ききはべらむもめやすく、おもだたしきことになむ思おもひたまふるを、さすがにつつましきことになむはべりける。深ふかき山やまの本意ほいは、みさをになむはべるべきを」

 とて、うち泣なくもいといとほしくて、

「ここには、何事なにごとかうしろめたくおぼえたまふべき。とてもかくても、疎々うとうとしく思おもひ放はなちきこえばこそあらめ、けしからずだちてよからぬ人ひとの、時々ときどきものしたまふめれど、その心こころを皆人みなひと見知みしりためれば、心こころづかひして、便びんなうはもてなしきこえじと思おもふを、いかに推おし量はかりたまふにか」

 とのたまふ。

「さらに、御心みこころをば隔へだてありても思おもひきこえさせはべらず。かたはらいたう許ゆるしなかりし筋すぢは、何なににかかけても聞きこえさせはべらむ。その方かたならで、思おもほし放はなつまじき綱つなもはべるをなむ、とらへ所ところに頼たのみきこえさする」

 など、おろかならず聞きこえて、

「明日あす明後日あさて、かたき物忌ものいみにはべるを、おほぞうならぬ所ところにて過すぐして、またも参まゐらせはべらむ」

 と聞きこえて、いざなふ。「いとほしく本意ほいなきわざかな」と思おもせど、えとどめたまはず。あさましうかたはなることに驚おどろき騷さわぎたれば、をさをさものも聞きこえで出いでぬ。

かやうの方違へ所と思ひて

 かやうの方かた違たがへ所ところと思おもひて、小ちひさき家いへまうけたりけり。三条さんでうわたりに、さればみたるが、まだ造つくりさしたる所ところなれば、はかばかしきしつらひもせでなむありける。

「あはれ、この御おほん身み一ひとつを、よろづにもて悩なやみきこゆるかな。心こころにかなはぬ世よには、あり経ふまじきものにこそありけれ。みづからばかりは、ただひたぶるに品々しなじなしからず人ひとげなう、たださる方かたにはひ籠こもりて過すぐしつべし。このゆかりは、心憂こころうしと思おもひきこえしあたりを、睦むつびきこゆるに、便びんなきことも出いで来きなば、いと人ひと笑わらへなるべし。あぢきなし。ことやうなりとも、ここを人ひとにも知しらせず、忍しのびておはせよ。おのづからともかくも仕つかうまつりてむ」

 と言いひおきて、みづからは帰かへりなむとす。君きみは、うち泣なきて、「世よにあらむこと所狭ところせげなる身み」と、思おもひ屈くしたまへるさま、いとあはれなり。親おやはた、ましてあたらしく惜をしければ、つつがなくて思おもふごと見みなさむと思おもひ、さるかたはらいたきことにつけて、人ひとにもあはあはしく思おもはれむが、やすからぬなりけり。

 心地ここちなくなどはあらぬ人ひとの、なま腹立はらだちやすく、思おもひのままにぞすこしありける。かの家いへにも隠かくろへては据すゑたりぬべけれど、しか隠かくろへたらむをいとほしと思おもひて、かく扱あつかふに、年としごろかたはら去さらず、明あけ暮くれ見みならひて、かたみに心細こころぼそくわりなしと思おもへり。

「ここは、またかくあばれて、危あやふげなる所ところなめり。さる心こころしたまへ。曹司ざうし曹司ざうしにある物ものども、召めし出いでて使つかひたまへ。宿直人とのゐびとのことなど言いひおきてはべるも、いとうしろめたけれど、かしこに腹立はらだち恨うらみらるるが、いと苦くるしければ」

 と、うち泣なきて帰かへる。

少将の扱ひを、守は

 少将せうしゃうの扱あつかひを、守かみは、またなきものに思おもひ急いそぎて、「もろ心こころに、さま悪あしく、営いとなまず」と怨うらずるなりけり。「いと心憂こころうく、この人ひとにより、かかる紛まぎれどももあるぞかし」と、またなく思おもふ方かたのことのかかれば、つらく心憂こころうくて、をさをさ見入みいれず。

 かの宮みやの御前おまへにて、いと人ひとげなく見みえしに、多おほく思おもひ落おとしてければ、「私わたくしものに思おもひかしづかましを」など、思おもひしことはやみにたり。「ここにては、いかが見みゆらむ。まだうちとけたるさま見みぬに」と思おもひて、のどかにゐたまへる昼ひるつ方かた、こなたに渡わたりて、ものより覗のぞく。

 白しろき綾あやのなつかしげなるに、今様いまやう色いろの擣目うちめなどもきよらなるを着きて、端はしの方かたに前栽せんざい見みるとて居ゐたるは、「いづこかは劣おとる。いときよげなめるは」と見みゆ。娘むすめ、まだ片かたなりに、何心なにごころもなきさまにて添そひ臥ふしたり。宮みやの上うへの並ならびておはせし御おほんさまどもの思おもひ出いづれば、「口惜くちをしのさまどもや」と見みゆ。

 前まへなる御達ごたちにものなど言いひ戯たはぶれて、うちとけたるは、いと見みしやうに、匂にほひなく人ひと悪わろげにて見みえぬを、「かの宮みやなりしは、異こと少将せうしゃうなりけり」と思おもふ折をしも、言いふことよ。

「兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやの萩はぎの、なほことにおもしろくもあるかな。いかで、さる種たねありけむ。同おなじ枝えださしなどのいと艶えんなるこそ。一日ひとひ参まゐりて、出いでたまふほどなりしかば、え折をらずなりにき。ことだに惜をしきと、宮みやのうち誦ずんじたまへりしを、若わかき人ひとたちに見みせたらましかば」

 とて、我われも歌うた詠よみゐたり。

「いでや。心こころばせのほどを思おもへば、人ひとともおぼえず、出いで消きえはいとこよなかりけるに。何なにごと言いひたるぞ」

 とつぶやかるれど、いと心地ここちなげなるさまは、さすがにしたらねば、いかが言いふとて、試こころみに、

「しめ結ゆひし小萩こはぎが上うへも迷まよはぬにいかなる露つゆに映うつる下葉したばぞ」

 とあるに、惜をしくおぼえて、

「宮城野みやぎのの小萩こはぎがもとと知しらませば露つゆも心こころを分わかずぞあらまし

いかでみづから聞きこえさせあきらめむ」

 と言いひたり。

故宮の御こと聞きたるなめり

「故宮こみやの御おほんこと聞ききたるなめり」と思おもふに、「いとどいかで人ひとと等ひとしく」とのみ思おもひ扱あつかはる。あいなう、大将だいしゃう殿とのの御おほんさま容貌かたちぞ、恋こひしう面影おもかげに見みゆる。同おなじうめでたしと見みたてまつりしかど、宮みやは思おもひ離はなれたまひて、心こころもとまらず。あなづりて押おし入いりたまへりけるを、思おもふもねたし。

「この君きみは、さすがに尋たづね思おぼす心こころばへのありながら、うちつけにも言いひかけたまはず、つれなし顔がほなるしもこそいたけれ、よろづにつけて思おもひ出いでらるれば、若わかき人ひとは、まして、かくや思おもひはてきこえたまふらむ。わがものにせむと、かく憎にくき人ひとを思おもひけむこそ、見苦みぐるしきことなべかりけれ」

 など、ただ心こころにかかりて、眺ながめのみせられて、とてやかくてやと、よろづによからむあらまし事ことを思おもひ続つづくるに、いと難かたし。

「やむごとなき御おほん身みのほど、御おほんもてなし、見みたてまつりたまへらむ人ひとは、今いますこしなのめならず、いかばかりにてかは心こころをとどめたまはむ。世よの人ひとのありさまを見聞みきくに、劣おとりまさり、いやしうあてなる、品しなに従したがひて、容貌かたちも心こころもあるべきものなりけり。

わが子こどもを見みるに、この君きみに似にるべきやはある。少将せうしゃうを、この家いへのうちにまたなき者ものに思おもへども、宮みやに見比みくらべたてまつりしは、いとも口惜くちをしかりしに推おし量はからる。当帝たうだいの御おほんかしづき女をんなを得えたてまつりたまへらむ人ひとの御おほん目め移うつしには、いともいとも恥はづかしく、つつましかるべきものかな」

 と思おもふに、すずろに心地ここちもあくがれにけり。

旅の宿りは、つれづれにて

 旅たびの宿やどりは、つれづれにて、庭にはの草くさもいぶせき心地ここちするに、いやしき東声あづまごゑしたる者ものどもばかりのみ出いで入いり、慰なぐさめに見みるべき前栽せんざいの花はなもなし。うちあばれて、晴はれ晴はれしからで明あかし暮くらすに、宮みやの上うへの御おほんありさま思おもひ出いづるに、若わかい心地ここちに恋こひしかりけり。あやにくだちたまへりし人ひとの御おほんけはひも、さすがに思おもひ出いでられて、

「何事なにごとにかありけむ。いと多おほくあはれげにのたまひしかな」

 名残なごりをかしかりし御おほん移うつり香かも、まだ残のこりたる心地ここちして、恐おそろしかりしも思おもひ出いでらる。

「母君ははぎみ、たつやと、いとあはれなる文ふみを書かきておこせたまふ。おろかならず心苦こころぐるしう思おもひ扱あつかひたまふめるに、かひなうもて扱あつかはれたてまつること」とうち泣なかれて、

「いかにつれづれに見みならはぬ心地ここちしたまふらむ。しばし忍しのび過すぐしたまへ」

 とある返かへり事ことに、

「つれづれは何なにか。心こころやすくてなむ。

ひたぶるにうれしからまし世よの中なかにあらぬ所ところと思おもはましかば」

 と、幼をさなげに言いひたるを見みるままに、ほろほろとうち泣なきて、「かう惑まどはしはふるるやうにもてなすこと」と、いみじければ、

「憂うき世よにはあらぬ所ところを求もとめても君きみが盛さかりを見みるよしもがな」

 と、なほなほしきことどもを言いひ交かはしてなむ、心こころのべける。

かの大将殿は、例の

 かの大将だいしゃう殿とのは、例れいの、秋あき深ふかくなりゆくころ、ならひにしことなれば、寝覚ねざめ寝覚ねざめにもの忘わすれせず、あはれにのみおぼえたまひければ、「宇治うぢの御堂みだう造つくり果はてつ」と聞ききたまふに、みづからおはしましたり。

 久ひさしう見みたまはざりつるに、山やまの紅葉もみぢもめづらしうおぼゆ。こぼちし寝殿しんでん、こたみはいと晴はれ晴はれしう造つくりなしたり。昔むかしいとことそぎて、聖ひじりだちたまへりし住すまひを思おもひ出いづるに、この宮みやも恋こひしうおぼえたまひて、さま変かはへてけるも、口惜くちをしきまで、常つねよりも眺ながめたまふ。

 もとありし御おほんしつらひは、いと尊たふとげにて、今いま片かたつ方かたを女をんなしくこまやかになど、一方ひとかたならざりしを、網代屏風あじろびゃうぶ何なにかのあらあらしきなどは、かの御堂みだうの僧坊そうばうの具ぐに、ことさらになさせたまへり。山里やまざとめきたる具ぐどもを、ことさらにせさせたまひて、いたうもことそがず、いときよげにゆゑゆゑしくしつらはれたり。

 遣水やりみづのほとりなる岩いはに居ゐたまひて、

「絶たえ果はてぬ清水しみづになどか亡なき人ひとの面影おもかげをだにとどめざりけむ」

 涙なみだを拭のごひて、弁べんの尼君あまぎみの方かたに立たち寄よりたまへれば、いと悲かなしと見みたてまつるに、ただひそみにひそむ。長押なげしにかりそめに居ゐたまひて、簾すだれのつま引ひき上あげて、物語ものがたりしたまふ。几帳きちゃうに隠かくろへて居ゐたり。ことのついでに、

「かの人ひとは、さいつころ宮みやにと聞ききしを、さすがにうひうひしくおぼえてこそ、訪おとづれ寄よらね。なほ、これより伝つたへ果はてたまへ」

 とのたまへば、

「一日ひとひ、かの母君ははぎみの文ふみはべりき。忌い違たがふとて、ここかしこになむあくがれたまふめる。このころも、あやしき小ちひ家いへに隠かくろへものしたまふめるも心苦こころぐるしく、すこし近ちかきほどならましかば、そこにも渡わたして心こころやすかるべきを、荒あらましき山道やまみちに、たはやすくもえ思おもひ立たたでなむ、とはべりし」

 と聞きこゆ。

「人ひとびとのかく恐おそろしくすめる道みちに、まろこそ古ふるりがたく分わけ来くれ。何なにばかりの契ちぎりにかと思おもふは、あはれになむ」

 とて、例れいの、涙なみだぐみたまへり。

「さらば、その心こころやすからむ所ところに、消息せうそこしたまへ。みづからやは、かしこに出いでたまはぬ」

 とのたまへば、

「仰おほせ言いを伝つたへはべらむことはやすし。今いまさらに京きゃうを見みはべらむことはもの憂うくて、宮みやにだにえ参まゐらぬを」

 と聞きこゆ。

などてか、ともかくも

「などてか。ともかくも、人ひとの聞きき伝つたへばこそあらめ、愛宕あたごの聖ひじりだに、時ときに従したがひては出いでずやはありける。深ふかき契ちぎりを破やぶりて、人ひとの願ねがひを満みてたまはむこそ尊たふとからめ」

 とのたまへば、

「人ひと渡わたすこともはべらぬに、聞ききにくきこともこそ、出いでまうで来くれ」

 と、苦くるしげに思おもひたれど、

「なほ、よき折をなるを」

 と、例れいならずしひて、

「明後日あさてばかり、車くるまたてまつらむ。その旅たびの所ところ尋たづねおきたまへ。ゆめをこがましうひがわざすまじきを」

 と、ほほ笑わらみてのたまへば、わづらはしく、「いかに思おぼすことならむ」と思おもへど、「奥おくなくあはあはしからぬ御心みこころざまなれば、おのづからわがためにも、人聞ひとぎきなどは包つつみたまふらむ」と思おもひて、

「さらば、承うけたまはりぬ。近ちかきほどにこそ。御おほん文ふみなどを見みせさせたまへかし。ふりはへさかしらめきて、心こころしらひのやうに思おもはれはべらむも、今いまさらに伊賀専女いがたうめにや、と慎つつしましくてなむ」

 と聞きこゆ。

「文ふみは、やすかるべきを、人ひとのもの言いひ、いとうたてあるものなれば、右大将うだいしゃうは、常陸守ひたちのかみの娘むすめをなむよばふなるなども、とりなしてむをや。その守かみの主ぬし、いと荒々あらあらしげなめり」

 とのたまへば、うち笑わらひて、いとほしと思おもふ。

 暗くらうなれば出いでたまふ。下した草くさのをかしき花はなども、紅葉もみぢなど折をらせたまひて、宮みやに御覧ごらんぜさせたまふ。甲斐かひなからずおはしぬべけれど、かしこまり置おきたるさまにて、いたうも馴なれきこえたまはずぞあめる。内裏うちより、ただの親おやめきて、入道にふだうの宮みやにも聞きこえたまへば、いとやむごとなき方かたは、限かぎりなく思おもひきこえたまへり。こなたかなたと、かしづききこえたまふ宮仕みやづかひに添そへて、むつかしき私わたくしの心こころの添そひたるも、苦くるしかりけり。

のたまひしまだつとめて

 のたまひしまだつとめて、睦むつましく思おぼす下臈げらふ侍さぶらひ一人ひとり、顔かほ知しらぬ牛飼うしかひつくり出いでて遣つかはす。

「荘さうの者ものどもの田舎ゐなかびたる召めし出いでつつ、つけよ」

 とのたまふ。かならず出いづべくのたまへりければ、いとつつましく苦くるしけれど、うち化粧けさうじつくろひて乗のりぬ。野山のやまのけしきを見みるにつけても、いにしへよりの古事ふることども思おもひ出いでられて、眺ながめ暮くらしてなむ来き着つきける。いとつれづれに人目ひとめも見みえぬ所ところなれば、引ひき入いれて、

「かくなむ、参まゐり来きつる」

 と、しるべの男をとこして言いはせたれば、初瀬はつせの供ともにありし若人わかうど、出いで来きて降おろす。あやしき所ところを眺ながめ暮くらし明あかすに、昔語むかしがたりもしつべき人ひとの来きたれば、うれしくて呼よび入いれたまひて、親おやと聞きこえける人ひとの御おほんあたりの人ひとと思おもふに、睦むつましきなるべし。

「あはれに、人ひと知しれず見みたてまつりしのちよりは、思おもひ出いできこえぬ折をなけれど、世よの中なかかばかり思おもひたまへ捨すてたる身みにて、かの宮みやにだに参まゐりはべらぬを、この大将だいしゃう殿とのの、あやしきまでのたまはせしかば、思おもうたまへおこしてなむ」

 と聞きこゆ。君きみも乳母めのとも、めでたしと見みおききこえてし人ひとの御おほんさまなれば、忘わすれぬさまにのたまふらむも、あはれなれど、にはかにかく思おぼしたばかるらむと、思おもひも寄よらず。

宵うち過ぐるほどに

 宵よひうち過すぐるほどに、「宇治うぢより人ひと参まゐれり」とて、門かど忍しのびやかにうちたたく。「さにやあらむ」と思おもへど、弁べんの開あけさせたれば、車くるまをぞ引ひき入いるなる。「あやし」と思おもふに、

「尼君あまぎみに、対面たいめん賜たまはらむ」

 とて、この近ちかき御庄みさうの預あづりの名なのりをせさせたまへれば、戸口とぐちにゐざり出いでたり。雨あめすこしうちそそくに、風かぜはいと冷ひややかに吹ふき入いりて、言いひ知しらず薫かをり来くれば、「かうなりけり」と、誰たれも誰たれも心こころときめきしぬべき御おほんけはひをかしければ、用意よういもなくあやしきに、まだ思おもひあへぬほどなれば、心こころ騷さわぎて、

「いかなることにかあらむ」

 と言いひあへり。

「心こころやすき所ところにて、月つきごろの思おもひあまることも聞きこえさせむとてなむ」

 と言いはせたまへり。

「いかに聞きこゆべきことにか」と、君きみは苦くるしげに思おもひてゐたまへれば、乳母めのと見苦みぐるしがりて、

「しかおはしましたらむを、立たちながらや、帰かへしたてまつりたまはむ。かの殿とのにこそ、かくなむ、と忍しのびて聞きこえめ。近ちかきほどなれば」

 と言いふ。

「うひうひしく。などてか、さはあらむ。若わかき御おほんどちもの聞きこえたまはむは、ふとしもしみつくべくもあらぬを。あやしきまで心こころのどかに、もの深ふかうおはする君きみなれば、よも人ひとの許ゆるしなくて、うちとけたまはじ」

 など言いふほど、雨あめやや降ふり来くれば、空そらはいと暗くらし。宿直人とのゐびとのあやしき声こゑしたる、夜行やぎゃううちして、

「家いへの辰巳たつみの隅すみの崩くづれ、いと危あやふし。この、人ひとの御車みくるま入いるべくは、引ひき入いれて御門みかど鎖さしてよ。かかる人ひとの御おほん供とも人ひとこそ、心こころはうたてあれ」

 など言いひあへるも、むくむくしく聞ききならはぬ心地ここちしたまふ。

「佐野さののわたりに家いへもあらなくに」

 など口くちずさびて、里さとびたる簀子すのこの端はしつ方かたに居ゐたまへり。

「さしとむる葎むぐらやしげき東屋あづまやのあまりほど降ふる雨あめそそきかな」

 と、うち払はらひたまへる、追風おひかぜ、いとかたはなるまで、東あづまの里人さとびとも驚おどろきぬべし。

 とざまかうざまに聞きこえ逃のがれむ方かたなければ、南みなみの廂ひさしに御座おましひきつくろひて、入いれたてまつる。心こころやすくしも対面たいめんしたまはぬを、これかれ押おし出いでたり。遣戸やりどといふもの鎖さして、いささか開あけたれば、

「飛騨ひだの工たくみも恨うらめしき隔へだてかな。かかるものの外ほかには、まだ居ゐならはず」

 と愁うれへたまひて、いかがしたまひけむ、入いりたまひぬ。かの人形ひとがたの願ねがひものたまはで、ただ、

「おぼえなき、もののはさまより見みしより、すずろに恋こひしきこと。さるべきにやあらむ、あやしきまでぞ思おもひきこゆる」

 とぞ語かたらひたまふべき。人ひとのさま、いとらうたげにおほどきたれば、見劣みおとりもせず、いとあはれと思おぼしけり。

ほどもなう明けぬ心地するに

 ほどもなう明あけぬ心地ここちするに、鶏とりなどは鳴なかで、大路おほぢ近ちかき所ところに、おぼとれたる声こゑして、いかにとか聞ききも知しらぬ名なのりをして、うち群むれて行ゆくなどぞ聞きこゆる。かやうの朝あさぼらけに見みれば、ものいただきたる者ものの、「鬼おにのやうなるぞかし」と聞ききたまふも、かかる蓬よのまろ寝ねにならひたまはぬ心地ここちも、をかしくもありけり。

 宿直人とのゐびとも門かど開あけて出いづる音おとする。おのおの入いりて臥ふしなどするを聞ききたまひて、人ひと召めして、車くるま妻戸つまどに寄よせさせたまふ。かき抱いだきて乗のせたまひつ。誰たれも誰たれも、あやしう、あへなきことを思おもひ騒さわぎて、

「九月くがちにもありけるを。心憂こころうのわざや。いかにしつることぞ」

 と嘆なげけば、尼君あまぎみも、いといとほしく、思おもひの外ほかなることどもなれど、

「おのづから思おぼすやうあらむ。うしろめたうな思おもひたまひそ。長なが月つきは、明日あすこそ節分せちぶんと聞ききしか」

 と言いひ慰なぐさむ。今日けふは、十三日じふさんにちなりけり。尼君あまぎみ、

「こたみは、え参まゐらじ。宮みやの上うへ、聞きこし召めさむこともあるに、忍しのびて行ゆき帰かへりはべらむも、いとうたてなむ」

 と聞きこゆれど、まだきこのことを聞きかせたてまつらむも、心恥こころはづかしくおぼえたまひて、

「それは、のちにも罪つみさり申まうしたまひてむ。かしこもしるべなくては、たづきなき所ところを」

 と責せめてのたまふ。

「人ひと一人ひとりや、はべるべき」

 とのたまへば、この君きみに添そひたる侍従じじうと乗のりぬ。乳母めのと、尼君あまぎみの供ともなりし童わらはなどもおくれて、いとあやしき心地ここちしてゐたり。

近きほどにやと思へば

「近ちかきほどにや」と思おもへば、宇治うぢへおはするなりけり。牛うしなどひき替かふべき心こころまうけしたまへりけり。河原かはら過すぎ、法性寺ほっしゃうじのわたりおはしますに、夜よは明あけ果はてぬ。

 若わかき人ひとは、いとほのかに見みたてまつりて、めできこえて、すずろに恋こひたてまつるに、世よの中なかのつつましさもおぼえず。君きみぞいとあさましきに、ものもおぼえでうつぶし臥ふしたるを、

「石いし高たかきわたりは、苦くるしきものを」

 とて、抱いだきたまへり。羅うすものの細長ほそながを、車くるまの中なかに引ひき隔へだてたれば、はなやかにさし出いでたる朝あさ日影ひかげに、尼君あまぎみはいとはしたなくおぼゆるにつけて、「故姫君こひめぎみの御おほん供ともにこそ、かやうにても見みたてまつりつべかりしか。あり経へれば、思おもひかけぬことをも見みるかな」と、悲かなしうおぼえて、包つつむとすれど、うちひそみつつ泣なくを、侍従じじうはいと憎にくく、「ものの初はじめに形異かたちことにて乗のり添そひたるをだに思おもふに、なぞ、かくいやめなる」と、憎にくくをこにも思おもふ。老おいたる者ものは、すずろに涙なみだもろにあるものぞと、おろそかにうち思おもふなりけり。

 君きみも、見みる人ひとは憎にくからねど、空そらのけしきにつけても、来きし方かたの恋こひしさまさりて、山やま深ふかく入いるままにも、霧きり立たちわたる心地ここちしたまふ。うち眺ながめて寄よりゐたまへる袖そでの、重かさなりながら長ながやかに出いでたりけるが、川霧かはぎりに濡ぬれて、御衣おほんぞの紅くれなゐなるに、御おほん直衣なほしの花はなのおどろおどろしう移うつりたるを、落おとしがけの高たかき所ところに見みつけて、引ひき入いれたまふ。

「形見かたみぞと見みるにつけては朝露あさつゆのところせきまで濡ぬるる袖そでかな」

 と、心こころにもあらず一人ひとりごちたまふを聞ききて、いとどしぼるばかり、尼君あまぎみの袖そでも泣なき濡ぬらすを、若わかき人ひと、「あやしう見苦みぐるしき世よかな」。心こころゆく道みちに、いとむつかしきこと、添そひたる心地ここちす。忍しのびがたげなる鼻はなすすりを聞ききたまひて、我われも忍しのびやかにうちかみて、「いかが思おもふらむ」といとほしければ、

「あまたの年としごろ、この道みちを行ゆき交かふたび重かさなるを思おもふに、そこはかとなくものあはれなるかな。すこし起おき上あがりて、この山やまの色いろも見みたまへ。いと埋うづもれたりや」

 と、しひてかき起おこしたまへば、をかしきほどに、さし隠かくして、つつましげに見出みいだしたるまみなどは、いとよく思おもひ出いでらるれど、おいらかにあまりおほどき過すぎたるぞ、心こころもとなかめる。「いといたう児ちごめいたるものから、用意よういの浅あさからずものしたまひしはや」と、なほ行ゆく方かたなき悲かなしさは、むなしき空そらにも満みちぬべかめり。

おはし着きて

 おはし着つきて、

「あはれ、亡なき魂たましひや宿やどりて見みたまふらむ。誰たれによりて、かくすずろに惑まどひありくものにもあらなくに」

 と思おもひ続つづけたまひて、降おりてはすこし心こころしらひて、立たち去さりたまへり。女をんなは、母君ははぎみの思おもひたまはむことなど、いと嘆なげかしけれど、艶えんなるさまに、心深こころぶかくあはれに語かたらひたまふに、思おもひ慰なぐさめて降おりぬ。

 尼君あまぎみは、ことさらに降おりで、廊らうにぞ寄よするを、「わざと思おもふべき住すまひにもあらぬを、用意よういこそあまりなれ」と見みたまふ。御荘みさうより、例れいの、人ひとびと騒さわがしきまで参まゐり集つどまる。女をんなの御台みだいは、尼君あまぎみの方かたより参まゐる。道みちは茂しげかりつれど、このありさまは、いと晴はれ晴はれし。

 川かはのけしきも山やまの色いろも、もてはやしたる造つくりざまを見出みいだして、日ひごろのいぶせさ、慰なぐさみぬる心地ここちすれど、「いかにもてないたまはむとするにか」と、浮うきてあやしうおぼゆ。

 殿とのは、京きゃうに御おほん文ふみ書かきたまふ。

「なりあはぬ仏ほとけの御おほん飾かざりなど見みたまへおきて、今日けふ吉よろしき日ひなりければ、急いそぎものしはべりて、乱みだり心地ここちの悩なやましきに、物忌ものいみなりけるを思おもひたまへ出いでてなむ、今日けふ明日あすここにて慎つつしみはべるべき」

 など、母宮ははみやにも姫宮ひめみやにも聞きこえたまふ。

うちとけたる御ありさま

 うちとけたる御おほんありさま、今いますこしをかしくて入いりおはしたるも恥はづかしけれど、もて隠かくすべくもあらで居ゐたまへり。女をんなの装束さうぞくなど、色々いろいろにきよくと思おもひてし重かさねたれど、すこし田舎ゐなかびたることもうち混まじりてぞ、昔むかしのいと萎なえばみたりし御おほん姿すがたの、あてになまめかしかりしのみ思おもひ出いでられて、

「髪かみの裾すそのをかしげさなどは、こまごまとあてなり。宮みやの御髪みぐしのいみじくめでたきにも劣おとるまじかりけり」

 と見みたまふ。かつは、

「この人ひとをいかにもてなしてあらせむとすらむ。ただ今いま、ものものしげにて、かの宮みやに迎むかへ据すゑむも、音聞おとぎき便びんなかるべし。さりとて、これかれある列つらにて、おほぞうに交まじらはせむは本意ほいなからむ。しばし、ここに隠かくしてあらむ」

 と思おもふも、見みずはさうざうしかるべく、あはれにおぼえたまへば、おろかならず語かたらひ暮くらしたまふ。故宮こみやの御おほんことものたまひ出いでて、昔むかし物語ものがたりをかしうこまやかに言いひ戯たはぶれたまへど、ただいとつつましげにて、ひたみちに恥はぢたるを、さうざうしう思おぼす。

「あやまりても、かう心こころもとなきはいとよし。教をしへつつも見みてむ。田舎ゐなかびたるされ心こころもてつけて、品々しなじなしからず、はやりかならましかば、形代かたしろ不用ふようならまし」

 と思おもひ直なほしたまふ。

ここにありける琴、箏の琴

 ここにありける琴きん、箏さうの琴こと召めし出いでて、「かかることはた、ましてえせじかし」と、口惜くちをしければ、一人ひとり調しらべて、

「宮みや亡なせたまひてのち、ここにてかかるものに、いと久ひさしう手触てふれざりつかし」

 と、めづらしく我われながらおぼえて、いとなつかしくまさぐりつつ眺ながめたまふに、月つきさし出いでぬ。

「宮みやの御琴おほんきんの音ねの、おどろおどろしくはあらで、いとをかしくあはれに弾ひきたまひしはや」

 と思おぼし出いでて、

「昔むかし、誰たれも誰たれもおはせし世よに、ここに生おひ出いでたまへらましかば、今いますこしあはれはまさりなまし。親王みこの御おほんありさまは、よその人ひとだに、あはれに恋こひしくこそ、思おもひ出いでられたまへ。などて、さる所ところには、年としごろ経へたまひしぞ」

 とのたまへば、いと恥はづかしくて、白しろき扇あふぎをまさぐりつつ、添そひ臥ふしたるかたはらめ、いと隈くまなう白しろうて、なまめいたる額髪ひたひがみの隙ひまなど、いとよく思おもひ出いでられてあはれなり。まいて、「かやうのこともつきなからず教をしへなさばや」と思おぼして、

「これは、すこしほのめかいたまひたりや。あはれ、吾わが妻めといふ琴ことは、さりとも手てならしたまひけむ」

 など問とひたまふ。

「その大和やまと言葉ことばだに、つきなくならひにければ、まして、これは」

 と言いふ。いとかたはに心こころ後おくれたりとは見みえず。ここに置おきて、え思おもふままにも来こざらむことを思おぼすが、今いまより苦くるしきは、なのめには思おもさぬなるべし。琴ことは押おしやりて、

「楚王そわうの台うてなの上うへの夜よの琴きんの声こゑ」

 と誦ずんじたまへるも、かの弓ゆみをのみ引ひくあたりにならひて、「いとめでたく、思おもふやうなり」と、侍従じじうも聞ききゐたりけり。さるは、扇あふぎの色いろも心こころおきつべき閨ねやのいにしへをば知しらねば、ひとへにめできこゆるぞ、後おくれたるなめるかし。「ことこそあれ、あやしくも、言いひつるかな」と思おぼす。

 尼君あまぎみの方かたより、くだもの参まゐれり。箱はこの蓋ふたに、紅葉もみぢ、蔦つたなど折をり敷しきて、ゆゑゆゑなからず取とりまぜて、敷しきたる紙かみに、ふつつかに書かきたるもの、隈くまなき月つきにふと見みゆれば、目めとどめたまふほどに、くだもの急いそぎにぞ見みえける。

「宿やどり木きは色いろ変かはりぬる秋あきなれど昔むかしおぼえて澄すめる月つきかな」

 と古ふるめかしく書かきたるを、恥はづかしくもあはれにも思おもされて、

「里さとの名なも昔むかしながらに見みし人ひとの面変おもがはりせる閨ねやの月影つきかげ」

 わざと返かへり事こととはなくてのたまふ、侍従じじうなむ伝つたへけるとぞ。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次