『源氏物語』第49帖「宿木」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第49帖「宿木」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第49帖「宿木」現代語訳全文をご覧ください。

目次

そのころ、藤壺と聞こゆるは

 そのころ、藤壺ふぢつぼと聞きこゆるは、故左大臣こさだいじん殿とのの女御にょうごになむおはしける。まだ春宮とうぐうと聞きこえさせし時とき、人ひとより先さきに参まゐりたまひにしかば、睦むつましくあはれなる方かたの御おほん思おもひは、ことにものしたまふめれど、そのしるしと見みゆるふしもなくて年とし経へたまふに、中宮ちうぐうには、宮みやたちさへあまた、ここら大人おとなびたまふめるに、さやうのこともすくなくて、ただ女宮をんなみや一所ひとところをぞ持もちたてまつりたまへりける。

 わがいと口惜くちをしく、人ひとにおされたてまつりぬる宿世すくせ、嘆なげかしくおぼゆる代かはりに、「この宮みやをだに、いかで行ゆく末すゑの心こころも慰なぐさむばかりにて見みたてまつらむ」と、かしづききこえたまふことおろかならず。御おほん容貌かたちもいとをかしくおはすれば、帝みかどもらうたきものに思おもひきこえさせたまへり。

 女一をんないちの宮みやを、世よにたぐひなきものにかしづききこえさせたまふに、おほかたの世よのおぼえこそ及およぶべうもあらね、うちうちの御おほんありさまは、をさをさ劣おとらず。父ちち大臣おとどの御おほん勢いきほひ、厳いかめしかりし名残なごり、いたく衰おとろへねば、ことに心こころもとなきことなどなくて、さぶらふ人ひとびとのなり姿すがたよりはじめ、たゆみなく、時々ときどきにつけつつ、調ととのへ好このみ、今いまめかしくゆゑゆゑしきさまにもてなしたまへり。

十四になりたまふ年

 十四じふしになりたまふ年とし、御おほん裳着もぎせたてまつりたまはむとて、春はるよりうち始はじめて、異事ことことなく思おぼし急いそぎて、何事なにごともなべてならぬさまにと思おぼしまうく。

 いにしへより伝つたはりたりける宝物たからものども、この折をりにこそはと、探さがし出いでつつ、いみじく営いとなみたまふに、女御にょうご、夏なつごろ、もののけにわづらひたまひて、いとはかなく亡うせたまひぬ。言いふかひなく口惜くちをしきことを、内裏うちにも思おぼし嘆なげく。

 心こころばへ情なさけ情なさけしく、なつかしきところおはしつる御おほん方かたなれば、殿上人てんじゃうびとどもも、「こよなくさうざうしかるべきわざかな」と、惜をしみきこゆ。おほかたさるまじき際きはの女官にょうかんなどまで、しのびきこえぬはなし。

 宮みやは、まして若わかき御心地みここちに、心細こころぼそく悲かなしく思おぼし入いりたるを、聞きこし召めして、心苦こころぐるしくあはれに思おぼし召めさるれば、御おほん四十九日しじふくにち過すぐるままに、忍しのびて参まゐらせたてまつらせたまへり。日々ひびに、渡わたらせたまひつつ見みたてまつらせたまふ。

 黒くろき御衣おほんぞにやつれておはするさま、いとどらうたげにあてなるけしきまさりたまへり。心こころざまもいとよく大人おとなびたまひて、母はは女御にょうごよりも今いますこしづしやかに、重おもりかなるところはまさりたまへるを、うしろやすくは見みたてまつらせたまへど、まことには、御おほん母方ははかたとても、後見うしろみと頼たのませたまふべき、叔父をぢなどやうのはかばかしき人ひともなし。わづかに大蔵卿おほくらきゃう、修理大夫すりのかみなどいふは、女御にょうごにも異腹ことばらなりける。

 ことに世よのおぼえ重おもりかにもあらず、やむごとなからぬ人ひとびとを頼たのもし人びとにておはせむに、「女をんなは心苦こころぐるしきこと多おほかりぬべきこそいとほしけれ」など、御心みこころ一ひとつなるやうに思おぼし扱あつかふも、やすからざりけり。

御前の菊移ろひ果てて盛りなるころ

 御前おまへの菊きく移うつろひ果はてて盛さかりなるころ、空そらのけしきのあはれにうちしぐるるにも、まづこの御おほん方かたに渡わたらせたまひて、昔むかしのことなど聞きこえさせたまふに、御おほんいらへなども、おほどかなるものから、いはけなからずうち聞きこえさせたまふを、うつくしく思おもひきこえさせたまふ。

 かやうなる御おほんさまを見み知しりぬべからむ人ひとの、もてはやしきこえむも、などかはあらむ、朱雀院すざくゐんの姫宮ひめみやを、六条ろくでうの院ゐんに譲ゆづりきこえたまひし折をりの定さだめどもなど、思おぼし召めし出いづるに、

「しばしは、いでや、飽あかずもあるかな。さらでもおはしなまし、と聞きこゆることどもありしかど、源中納言げんちうなごんの、人ひとよりことなるありさまにて、かくよろづを後うしろ見みたてまつるにこそ、そのかみの御おほんおぼえ衰おとろへず、やむごとなきさまにてはながらへたまふめれ。さらずは、御心みこころより外ほかなる事ことどもも出いで来きて、おのづから人ひとに軽かるめられたまふこともやあらまし」

 など思おぼし続つづけて、「ともかくも、御覧ごらんずる世よにや思おもひ定さだめまし」と思おぼし寄よるには、やがて、そのついでのままに、この中納言ちうなごんより他ほかに、よろしかるべき人ひと、またなかりけり。

「宮みやたちの御おほんかたはらにさし並ならべたらむに、何事なにごともめざましくはあらじを。もとより思おもふ人ひと持もたりて、聞ききにくきことうちまずまじくはた、あめるを、つひにはさやうのことなくてしもえあらじ。さらぬ先さきに、さもやほのめかしてまし」

 など、折々をりをり思おぼし召めしけり。

御碁など打たせたまふ

 御おほん碁ごなど打うたせたまふ。暮くれゆくままに、時雨しぐれをかしきほどに、花はなの色いろも夕映ゆふばえしたるを御覧ごらんじて、人ひと召めして、

「ただ今いま、殿上てんじゃうには誰たれ誰たれか」

 と問とはせたまふに、

「中務親王なかつかさのみこ、上野親王かんづけのみこ、中納言源朝臣ちうなごんみなもとのあそんさぶらふ」

 と奏そうす。

「中納言朝臣ちうなごんのあそんこなたへ」

 と仰おほせ言ごとありて参まゐりたまへり。げに、かく取とり分わきて召めし出いづるもかひありて、遠とほくより薫かをれる匂にほひよりはじめ、人ひとに異ことなるさましたまへり。

「今日けふの時雨しぐれ、常つねよりことにのどかなるを、遊あそびなどすさまじき方かたにて、いとつれづれなるを、いたづらに日ひを送おくる戯たはぶれにて、これなむよかるべき」

 とて、碁盤ごばん召めし出いでて、御おほん碁ごの敵かたきに召めし寄よす。いつもかやうに、気近けぢかくならしまつはしたまふにならひにたれば、「さにこそは」と思おもふに、

「好よき賭物のりものはありぬべけれど、軽々かるがるしくはえ渡わたすまじきを、何なにをかは」

 などのたまはする御みけしき、いかが見みゆらむ、いとど心こころづかひしてさぶらひたまふ。

 さて、打うたせたまふに、三番さんばんに数かず一ひとつ負まけさせたまひぬ。

「ねたきわざかな」とて、「まづ、今日けふは、この花はな一枝ひとえだ許ゆるす」

 とのたまはすれば、御おほんいらへ聞きこえさせで、下おりておもしろき枝えだを折をりて参まゐりたまへり。

「世よの常つねの垣根かきねに匂にほふ花はなならば心こころのままに折をりて見みましを」

 と奏そうしたまへる、用意よういあさからず見みゆ。

「霜しもにあへず枯かれにし園そのの菊きくなれど残のこりの色いろはあせずもあるかな」

 とのたまはす。

 かやうに、折々をりをりほのめかさせたまふ御みけしきを、人伝ひとづてならず承うけたまはりながら、例れいの心こころの癖くせなれば、急いそがしくしもおぼえず。

「いでや、本意ほいにもあらず。さまざまにいとほしき人ひとびとの御おほんことどもをも、よく聞きき過すぐしつつ年とし経へぬるを、今いまさらに聖ひじりのものの、世よに帰かへり出いでむ心地ここちすべきこと」

 と思おもふも、かつはあやしや。

「ことさらに心こころを尽つくす人ひとだにこそあなれ」とは思おもひながら、「后腹きさきばらにおはせばしも」とおぼゆる心こころの内うちぞ、あまりおほけなかりける。

かかることを、右の大殿ほの聞きたまひて

 かかることを、右みぎの大殿おほいどのほの聞ききたまひて、

「六ろくの君きみは、さりともこの君きみにこそは。しぶしぶなりとも、まめやかに恨うらみ寄よらば、つひには、えいなび果はてじ」

 と思おぼしつるを、「思おもひの外ほかのこと出いで来きぬべかなり」と、ねたく思おぼされければ、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやはた、わざとにはあらねど、折々をりをりにつけつつ、をかしきさまに聞きこえたまふことなど絶たえざりければ、

「さはれ、なほざりの好すきにはありとも、さるべきにて、御心みこころとまるやうもなどかなからむ。水みづ漏もるまじく思おもひ定さだめむとても、なほなほしき際きはに下くだらむはた、いと人ひと悪わろく、飽あかぬ心地ここちすべし」

 など思おぼしなりにたり。

「女子をんなごうしろめたげなる世よの末すゑにて、帝みかどだに婿むこ求もとめたまふ世よに、まして、ただ人うどの盛さかり過すぎむもあいなし」

 など、誹そしらはしげにのたまひて、中宮ちうぐうをもまめやかに恨うらみ申まうしたまふこと、たび重かさなれば、聞きこし召めしわづらひて、

「いとほしく、かくおほなおほな思おもひ心こころざして年とし経へたまひぬるを、あやにくに逃のがれきこえたまはむも、情なさけなきやうならむ。親王みこたちは、御おほん後見うしろみからこそ、ともかくもあれ。

主上うへの、御代みよも末すゑになり行ゆくとのみ思おぼしのたまふめるを、ただ人うどこそ、ひと事ことに定さだまりぬれば、また心こころを分わけむことも難かたげなめれ。それだに、かの大臣おとどのまめだちながら、こなたかなた羨うらやみなくもてなしてものしたまはずやはある。まして、これは、思おもひおきてきこゆることも叶かなはば、あまたもさぶらはむになどかあらむ」

 など、例れいならず言続ことつづけて、あるべかしく聞きこえさせたまふを、

「わが御心みこころにも、もとよりもて離はなれて、はた、思おぼさぬことなれば、あながちには、などてかはあるまじきさまにも聞きこえさせたまはむ。ただ、いとことうるはしげなるあたりにとり籠こめられて、心こころやすくならひたまへるありさまの所狭ところせからむことを、なま苦くるしく思おぼすにもの憂うきなれど、げに、この大臣おとどに、あまり怨ゑんぜられ果はてむもあいなからむ」

 など、やうやう思おぼし弱よわりにたるべし。あだなる御心みこころなれば、かの按察使大納言あぜちのだいなごんの、紅梅こうばいの御おほん方かたをも、なほ思おぼし絶たえず、花はな紅葉もみぢにつけてもののたまひわたりつつ、いづれをもゆかしくは思おぼしけり。されど、その年としは変かはりぬ。

女二の宮も、御服果てぬれば

 女二をんなにの宮みやも、御おほん服ぶく果はてぬれば、「いとど何事なにごとにか憚はばかりたまはむ。さも聞きこえ出いでば」と思おぼし召めしたる御みけしきなど、告つげきこゆる人ひとびともあるを、「あまり知しらず顔がほならむも、ひがひがしうなめげなり」と思おぼし起おこして、ほのめかしまゐらせたまふ折々をりをりもあるに、「はしたなきやうは、などてかはあらむ。そのほどに思おぼし定さだめたなり」と伝つてにも聞きく、みづから御みけしきをも見みれど、心こころの内うちには、なほ飽あかず過すぎたまひにし人ひとの悲かなしさのみ、忘わするべき世よなくおぼゆれば、「うたて、かく契ちぎり深ふかくものしたまひける人ひとの、などてかは、さすがに疎うとくては過すぎにけむ」と心得こころえがたく思おもひ出いでらる。

「口惜くちをしき品しななりとも、かの御おほんありさまにすこしもおぼえたらむ人ひとは、心こころもとまりなむかし。昔むかしありけむ香かうの煙けぶりにつけてだに、今いま一度ひとたび見みたてまつるものにもがな」とのみおぼえて、やむごとなき方かたざまに、いつしかなど急いそぐ心こころもなし。

 右みぎの大殿おほいどのには急いそぎたちて、「八月はちがちばかりに」と聞きこえたまひけり。二条院にでうのゐんの対たいの御おほん方かたには、聞ききたまふに、

「さればよ。いかでかは、数かずならぬありさまなめれば、かならず人ひと笑わらへに憂うきこと出いで来こむものぞ、とは思おもふ思おもふ過すごしつる世よぞかし。あだなる御心みこころと聞ききわたりしを、頼たのもしげなく思おもひながら、目めに近ちかくては、ことにつらげなること見みえず、あはれに深ふかき契ちぎりをのみしたまへるを、にはかに変かはりたまはむほど、いかがはやすき心地ここちはすべからむ。ただ人うどの仲なからひなどのやうに、いとしも名残なごりなくなどはあらずとも、いかにやすげなきこと多おほからむ。なほ、いと憂うき身みなめれば、つひには、山やま住ずみに帰かへるべきなめり」

 と思おぼすにも、「やがて跡絶あとたえなましよりは、山賤やまがつの待まち思おもはむも人ひと笑わらへなりかし。返かへす返がへすも、宮みやののたまひおきしことに違たがひて、草くさのもとを離かれにける心軽こころかるさ」を、恥はづかしくもつらくも思おもひ知しりたまふ。

「故姫君こひめぎみの、いとしどけなげに、ものはかなきさまにのみ、何事なにごとも思おぼしのたまひしかど、心こころの底そこのづしやかなるところは、こよなくもおはしけるかな。中納言ちうなごんの君きみの、今いまに忘わするべき世よなく嘆なげきわたりたまふめれど、もし世よにおはせましかば、またかやうに思おぼすことはありもやせまし。

それを、いと深ふかく、いかでさはあらじ、と思おもひ入いりたまひて、とざまかうざまに、もて離はなれむことを思おぼして、容貌かたちをも変かへてむとしたまひしぞかし。かならずさるさまにてぞおはせまし。

今いま思おもふに、いかに重おもりかなる御心みこころおきてならまし。亡なき御おほん影かげどもも、我われをばいかにこよなきあはつけさと見みたまふらむ」

 と恥はづかしく悲かなしく思おぼせど、「何なにかは、かひなきものから、かかるけしきをも見みえたてまつらむ」と忍しのび返かへして、聞ききも入いれぬさまにて過すぐしたまふ。

宮は、常よりもあはれになつかしく

 宮みやは、常つねよりもあはれになつかしく、起おき臥ふし語かたらひ契ちぎりつつ、この世よならず、長ながきことをのみぞ頼たのみきこえたまふ。

 さるは、この五月さつきばかりより、例れいならぬさまに悩なやましくしたまふこともありけり。こちたく苦くるしがりなどはしたまはねど、常つねよりももの参まゐることいとどなく、臥ふしてのみおはするを、まださやうなる人ひとのありさま、よくも見み知しりたまはねば、「ただ暑あつきころなれば、かくおはするなめり」とぞ思おぼしたる。

 さすがにあやしと思おぼしとがむることもありて、「もし、いかなるぞ。さる人ひとこそ、かやうには悩なやむなれ」など、のたまふ折をりもあれど、いと恥はづかしくしたまひて、さりげなくのみもてなしたまへるを、さし過すぎ聞きこえ出いづる人ひともなければ、たしかにもえ知しりたまはず。

 八月はちがちになりぬれば、その日ひなど、他ほかよりぞ伝つたへ聞ききたまふ。宮みやは、隔へだてむとにはあらねど、言いひ出いでむほど心苦こころくるしくいとほしく思おぼされて、さものたまはぬを、女君をんなぎみは、それさへ心憂こころうくおぼえたまふ。忍しのびたることにもあらず、世よの中なかなべて知しりたることを、そのほどなどだにのたまはぬことと、いかが恨うらめしからざらむ。

 かく渡わたりたまひにし後のちは、ことなることなければ、内裏うちに参まゐりたまひても、夜よる泊とまることはことにしたまはず、ここかしこの御おほん夜離よがれなどもなかりつるを、にはかにいかに思おもひたまはむと、心苦こころぐるしき紛まぎらはしに、このころは、時々ときどき御おほん宿直とのゐとて参まゐりなどしたまひつつ、かねてよりならはしきこえたまふをも、ただつらき方かたにのみぞ思おもひおかれたまふべき。

中納言殿も、いといとほしきわざかな

 中納言ちうなごん殿とのも、「いといとほしきわざかな」と聞ききたまふ。「花心はなごころにおはする宮みやなれば、あはれとは思おぼすとも、今いまめかしき方かたにかならず御心みこころ移うつろひなむかし。女方をんながたも、いとしたたかなるわたりにて、ゆるびなく聞きこえまつはしたまはば、月つきごろも、さもならひたまはで、待まつ夜よ多おほく過すごしたまはむこそ、あはれなるべけれ」

 など思おもひ寄よるにつけても、

「あいなしや、わが心こころよ。何なにしに譲ゆづりきこえけむ。昔むかしの人ひとに心こころをしめてし後のち、おほかたの世よをも思おもひ離はなれて澄すみ果はてたりし方かたの心こころも濁にごりそめにしかば、ただかの御おほんことをのみ、とざまかうざまには思おもひながら、さすがに人ひとの心こころ許ゆるされであらむことは、初はじめより思おもひし本意ほいなかるべし」

 と憚はばかりつつ、「ただいかにして、すこしもあはれと思おもはれて、うちとけたまへらむけしきをも見みむ」と、行ゆく先さきのあらましごとのみ思おもひ続つづけしに、人ひとは同おなじ心こころにもあらずもてなして、さすがに、一方ひとかたにもえさし放はなつまじく思おもひたまへる慰なぐさめに、同おなじ身みぞと言いひなして、本意ほいならぬ方かたにおもむけたまひしが、ねたく恨うらめしかりしかば、「まづ、その心こころおきてを違たがへむとて、急いそぎせしわざぞかし」など、あながちに女々めめしくものぐるほしく率ゐて歩ありき、たばかりきこえしほど思おもひ出いづるも、「いとけしからざりける心こころかな」と、返かへす返がへすぞ悔くやしき。

「宮みやも、さりとも、そのほどのありさま思おもひ出いでたまはば、わが聞きかむところをもすこしは憚はばかりたまはじや」と思おもふに、「いでや、今いまは、その折をりのことなど、かけてものたまひ出いでざめりかし。なほ、あだなる方かたに進すすみ、移うつりやすなる人ひとは、女をんなのためのみにもあらず、頼たのもしげなく軽々かるがるしき事こともありぬべきなめりかし」

 など、憎にくく思おもひきこえたまふ。わがまことにあまり一方ひとかたにしみたる心こころならひに、人ひとはいとこよなくもどかしく見みゆるなるべし。

かの人をむなしく見なしきこえたまうてし後

「かの人ひとをむなしく見みなしきこえたまうてし後のち、思おもふには、帝みかどの御おほん女むすめを賜たまはむと思おもほしおきつるも、うれしくもあらず、この君きみを見みましかばとおぼゆる心こころの、月日つきひに添そへてまさるも、ただ、かの御おほんゆかりと思おもふに、思おもひ離はなれがたきぞかし。

はらからといふ中なかにも、限かぎりなく思おもひ交かはしたまへりしものを、今いまはとなりたまひにし果はてにも、とまらむ人ひとを同おなじごとと思おもへとて、よろづは思おもはずなることもなし。ただかの思おもひおきてしさまを違たがへたまへるのみなむ、口惜くちをしう恨うらめしきふしにて、この世よには残のこるべきとのたまひしものを、天翔あまかけりても、かやうなるにつけては、いとどつらしとや見みたまふらむ」

 など、つくづくと人ひとやりならぬ独ひとり寝ねしたまふ夜よな夜よなは、はかなき風かぜの音おとにも目めのみ覚さめつつ、来きし方かた行ゆく先さき、人ひとの上うへさへ、あぢきなき世よを思おもひめぐらしたまふ。

 なげのすさびにものをも言いひ触ふれ、気近けぢかく使つかひならしたまふ人ひとびとの中なかには、おのづから憎にくからず思おぼさるるもありぬべけれど、まことには心こころとまるもなきこそ、さはやかなれ。

 さるは、かの君きみたちのほどに劣おとるまじき際きはの人ひとびとも、時世ときよにしたがひつつ衰おとろへて、心細こころぼそげなる住すまひするなどを、尋たづね取とりつつあらせなど、いと多おほかれど、「今いまはと世よを逃のがれ背そむき離はなれむ時とき、この人ひとこそと、取とり立たてて、心こころとまるほだしになるばかりなることはなくて過すぐしてむ」と思おもふ心深こころぶかかりしを、「いと、さも悪わろく、わが心こころながら、ねぢけてもあるかな」

 など、常つねよりも、やがてまどろまず明あかしたまへる朝あしたに、霧きりの籬まがきより、花はなの色々いろいろおもしろく見みえわたれる中なかに、朝顔あさがほのはかなげにて混まじりたるを、なほことに目めとまる心地ここちしたまふ。「明あくる間ま咲さきて」とか、常つねなき世よにもなずらふるが、心苦こころぐるしきなめりかし。

 格子かうしも上あげながら、いとかりそめにうち臥ふしつつのみ明あかしたまへば、この花はなの開ひらくるほどをも、ただ一人ひとりのみ見みたまひける。

人召して、北の院に参らむに

 人ひと召めして、

「北きたの院ゐんに参まゐらむに、ことことしからぬ車くるまさし出いでさせよ」

 とのたまへば、

「宮みやは、昨日きのふより内裏うちになむおはしますなる。昨夜よべ、御車みくるま率ゐて帰かへりはべりにき」

 と申まうす。

「さはれ、かの対たいの御おほん方かたの悩なやみたまふなる、訪とぶらひきこえむ。今日けふは内裏うちに参まゐるべき日ひなれば、日ひたけぬさきに」

 とのたまひて、御おほん装束さうぞくしたまふ。出いでたまふままに、降おりて花はなの中なかに混まじりたまへるさま、ことさらに艶えんだち色いろめきてももてなしたまはねど、あやしく、ただうち見みるになまめかしく恥はづかしげにて、いみじくけしきだつ色好いろごのみどもになずらふべくもあらず、おのづからをかしくぞ見みえたまひける。朝顔あさがほ引ひき寄よせたまへる、露つゆいたくこぼる。

「今朝けさの間まの色いろにや賞めでむ置おく露つゆの消きえぬにかかる花はなと見みる見みる

はかな」

 と独ひとりごちて、折をりて持もたまへり。女郎花をみなへしをば、見過みすぎてぞ出いでたまひぬる。

 明あけ離はなるるままに、霧きり立たち乱みだる空そらをかしきに、

「女をんなどちは、しどけなく朝寝あさいしたまへらむかし。格子かうし妻戸つまどうちたたき声こわづくらむこそ、うひうひしかるべけれ。朝あさまだきまだき来きにけり」

 と思おもひながら、人ひと召めして、中門ちうもんの開あきたるより見みせたまへば、

「御格子みかうしども参まゐりてはべるべし。女房にょうばうの御おほんけはひもしはべりつ」

 と申まうせば、下おりて、霧きりの紛まぎれにさまよく歩あゆみ入いりたまへるを、「宮みやの忍しのびたる所ところより帰かへりたまへるにや」と見みるに、露つゆにうちしめりたまへる香かをり、例れいの、いとさまことに匂にほひ来くれば、

「なほ、めざましくはおはすかし。心こころをあまりをさめたまへるぞ憎にくき」

 など、あいなく、若わかき人ひとびとは、聞きこえあへり。

 おどろき顔がほにはあらず、よきほどにうちそよめきて、御おほん茵しとねさし出いでなどするさまも、いとめやすし。

「これにさぶらへと許ゆるさせたまふほどは、人ひとびとしき心地ここちすれど、なほかかる御簾みすの前まへにさし放はなたせたまへるうれはしさになむ、しばしばもえさぶらはぬ」

 とのたまへば、

「さらば、いかがはべるべからむ」

 など聞きこゆ。

「北面きたおもてなどやうの隠かくれぞかし。かかる古人ふるびとなどのさぶらはむにことわりなる休やすみ所どころは。それも、また、ただ御心みこころなれば、愁うれへきこゆべきにもあらず」

 とて、長押なげしに寄よりかかりておはすれば、例れいの、人ひとびと、

「なほ、あしこもとに」

 など、そそのかしきこゆ。

もとよりも、けはひはやりかに

 もとよりも、けはひはやりかに男々ををしくなどはものしたまはぬ人柄ひとがらなるを、いよいよしめやかにもてなしをさめたまへれば、今いまは、みづから聞きこえたまふことも、やうやううたてつつましかりし方かた、すこしづつ薄うすらぎて、面馴おもなれたまひにたり。

 悩なやましく思おぼさるらむさまも、「いかなれば」など問とひきこえたまへど、はかばかしくもいらへきこえたまはず、常つねよりもしめりたまへるけしきの心苦こころぐるしきも、あはれにおぼえたまひて、こまやかに、世よの中なかのあるべきやうなどを、はらからやうの者もののあらましやうに、教をしへ慰なぐさめきこえたまふ。

 声こゑなども、わざと似にたまへりともおぼえざりしかど、あやしきまでただそれとのみおぼゆるに、人目ひとめ見苦みぐるしかるまじくは、簾すだれもひき上あげてさし向むかひきこえまほしく、うち悩なやみたまへらむ容貌かたちゆかしくおぼえたまふも、「なほ、世よの中なかにもの思おもはぬ人ひとは、えあるまじきわざにやあらむ」とぞ思おもひ知しられたまふ。

「人ひとびとしくきらきらしき方かたにははべらずとも、心こころに思おもふことあり、嘆なげかしく身みをもて悩なやむさまになどはなくて過すぐしつべきこの世よと、みづから思おもひたまへし、心こころから、悲かなしきことも、をこがましく悔くやしきもの思おもひをも、かたがたにやすからず思おもひはべるこそ、いとあいなけれ。官位つかさくらゐなどいひて、大事だいじにすめる、ことわりの愁うれへにつけて嘆なげき思おもふ人ひとよりも、これや、今いますこし罪つみの深ふかさはまさるらむ」

 など言いひつつ、折をりたまへる花はなを、扇あふぎにうち置おきて見みゐたまへるに、やうやう赤あかみもて行ゆくも、なかなか色いろのあはひをかしく見みゆれば、やをらさし入いれて、

「よそへてぞ見みるべかりける白露しらつゆの契ちぎりかおきし朝顔あさがほの花はな」

 ことさらびてしももてなさぬに、「露つゆ落おとさで持もたまへりけるよ」と、をかしく見みゆるに、置おきながら枯かるるけしきなれば、

「消きえぬまに枯かれぬる花はなのはかなさにおくるる露つゆはなほぞまされる

何なににかかれる」

 と、いと忍しのびて言ことも続つづかず、つつましげに言いひ消けちたまへるほど、「なほ、いとよく似にたまへるものかな」と思おもふにも、まづぞ悲かなしき。

秋の空は、今すこし眺めのみまさりはべり

「秋あきの空そらは、今いますこし眺ながめのみまさりはべり。つれづれの紛まぎらはしにもと思おもひて、先さいつころ、宇治うぢにものしてはべりき。庭にはも籬まがきもまことにいとど荒あれ果はててはべりしに、堪たへがたきこと多おほくなむ。

故院こゐんの亡うせたまひて後のち、二に、三年さんねんばかりの末すゑに、世よを背そむきたまひし嵯峨さがの院ゐんにも、六条ろくでうの院ゐんにも、さしのぞく人ひとの、心こころをさめむ方かたなくなむはべりける。木草きくさの色いろにつけても、涙なみだにくれてのみなむ帰かへりはべりける。かの御おほんあたりの人ひとは、上下かみしも心浅こころあさき人ひとなくこそはべりけれ。

方々かたがた集つどひものせられける人ひとびとも、皆みな所々ところどころあかれ散ちりつつ、おのおの思おもひ離はなるる住すまひをしたまふめりしに、はかなきほどの女房にょうばうなどはた、まして心こころをさめむ方かたなくおぼえけるままに、ものおぼえぬ心こころにまかせつつ、山林やまはやしに入いり混まじり、すずろなる田舎人ゐなかびとになりなど、あはれに惑まどひ散ちるこそ多おほくはべりけれ。

さて、なかなか皆みな荒あらし果はて、忘わすれ草ぐさ生おほして後のちなむ、この右みぎの大臣おとども渡わたり住すみ、宮みやたちなども方々かたがたものしたまへば、昔むかしに返かへりたるやうにはべめる。さる世よに、たぐひなき悲かなしさと見みたまへしことも、年月としつき経ふれば、思おもひ覚さます折をりの出いで来くるにこそは、と見みはべるに、げに、限かぎりあるわざなりけり、となむ見みえはべる。

かくは聞きこえさせながらも、かのいにしへの悲かなしさは、まだいはけなくもはべりけるほどにて、いとさしもしまぬにやはべりけむ。なほ、この近ちかき夢ゆめこそ、覚さますべき方かたなく思おもひたまへらるるは、同おなじこと、世よの常つねなき悲かなしびなれど、罪深つみふかき方かたはまさりてはべるにやと、それさへなむ心憂こころうくはべる」

 とて、泣なきたまへるほど、いと心深こころぶかげなり。

 昔むかしの人ひとを、いとしも思おもひきこえざらむ人ひとだに、この人ひとの思おもひたまへるけしきを見みむには、すずろにただにもあるまじきを、まして、我われもものを心細こころぼそく思おもひ乱みだれたまふにつけては、いとど常つねよりも、面影おもかげに恋こひしく悲かなしく思おもひきこえたまふ心こころなれば、今いますこしもよほされて、ものもえ聞きこえたまはず、ためらひかねたまへるけはひを、かたみにいとあはれと思おもひ交かはしたまふ。

世の憂きよりはなど、人は言ひしをも

「世よの憂うきよりはなど、人ひとは言いひしをも、さやうに思おもひ比くらぶる心こころもことになくて、年としごろは過すぐしはべりしを、今いまなむ、なほいかで静しづかなるさまにても過すぐさまほしく思おもうたまふるを、さすがに心こころにもかなはざめれば、弁べんの尼あまこそうらやましくはべれ。

この二十日はつかあまりのほどは、かの近ちかき寺てらの鐘かねの声こゑも聞ききわたさまほしくおぼえはべるを、忍しのびて渡わたさせたまひてむや、と聞きこえさせばやとなむ思おもひはべりつる」

 とのたまへば、

「荒あらさじと思おぼすとも、いかでかは。心こころやすき男をのこだに、往ゆき来きのほど荒あらましき山道やまみちにはべれば、思おもひつつなむ月日つきひも隔へだたりはべる。故宮こみやの御おほん忌日きにちは、かの阿闍梨あざりに、さるべきことども皆みな言いひおきはべりにき。かしこは、なほ尊たふとき方かたに思おぼし譲ゆづりてよ。時々ときどき見みたまふるにつけては、心惑こころまどひの絶たえせぬもあいなきに、罪つみ失うしなふさまになしてばや、となむ思おもひたまふるを、またいかが思おぼしおきつらむ。

ともかくも定さだめさせたまはむに従したがひてこそは、とてなむ。あるべからむやうにのたまはせよかし。何事なにごとも疎うとからず承うけたまはらむのみこそ、本意ほいのかなふにてははべらめ」

 など、まめだちたることどもを聞きこえたまふ。経きゃう仏ほとけなど、この上うへも供養くやうじたまふべきなめり。かやうなるついでにことづけて、やをら籠こもりゐなばや、などおもむけたまへるけしきなれば、

「いとあるまじきことなり。なほ、何事なにごとも心こころのどかに思おぼしなせ」

 と教をしへきこえたまふ。

日さし上がりて、人びと参り集まり

 日ひさし上あがりて、人ひとびと参まゐり集あつまりなどすれば、あまり長居ながゐもことあり顔がほならむによりて、出いでたまひなむとて、

「いづこにても、御簾みすの外とにはならひはべらねば、はしたなき心地ここちしはべりてなむ。今いままた、かやうにもさぶらはむ」

 とて立たちたまひぬ。「宮みやの、などかなき折をりには来きつらむ」と思おもひたまひぬべき御心みこころなるもわづらはしくて、侍さぶらひの別当べったうなる、右京大夫うきゃうのかみ召めして、

「昨夜よべまかでさせたまひぬと承うけたまはりて参まゐりつるを、まだしかりければ口惜くちをしきを。内裏うちにや参まゐるべき」

 とのたまへば、

「今日けふは、まかでさせたまひなむ」

 と申まうせば、

「さらば、夕ゆふつ方かたも」

 とて、出いでたまひぬ。

 なほ、この御おほんけはひありさまを聞ききたまふたびごとに、などて昔むかしの人ひとの御心みこころおきてをもて違たがへて、思おもひ隈くまなかりけむと、悔くゆる心こころのみまさりて、心こころにかかりたるもむつかしく、「なぞや、人ひとやりならぬ心こころならむ」と思おもひ返かへしたまふ。そのままにまだ精進さうじんにて、いとどただ行おこなひをのみしたまひつつ、明あかし暮くらしたまふ。

 母宮ははみやの、なほいとも若わかくおほどきて、しどけなき御心みこころにも、かかる御みけしきを、いとあやふくゆゆしと思おぼして、

「幾世いくよしもあらじを、見みたてまつらむほどは、なほかひあるさまにて見みえたまへ。世よの中なかを思おもひ捨すてたまはむをも、かかる容貌かたちにては、さまたげきこゆべきにもあらぬを、この世よの言いふかひなき心地ここちすべき心惑こころまどひに、いとど罪つみや得えむとおぼゆる」

 とのたまふが、かたじけなくいとほしくて、よろづを思おもひ消けちつつ、御前おまへにてはもの思おもひなきさまを作つくりたまふ。

右の大殿には、六条院の東の御殿

 右みぎの大殿おほいどのには、六条院ろくでうのゐんの東ひむがしの御殿おとど磨みがきしつらひて、限かぎりなくよろづを整ととのへて待まちきこえたまふに、十六日いさよひの月つきやうやうさし上あがるまで心こころもとなければ、いとしも御心みこころに入いらぬことにて、いかならむと、やすからず思おもほして、案内あないしたまへば、

「この夕ゆふつ方かた、内裏うちより出いでたまひて、二条院にでうのゐんになむおはしますなる」

 と、人ひと申まうす。思おぼす人ひと持もたまへればと、心こころやましけれど、今宵こよひ過すぎむも人ひと笑わらへなるべければ、御子みこの頭中将とうのちうじゃうして聞きこえたまへり。

「大空おほぞらの月つきだに宿やどるわが宿やどに待まつ宵過よひすぎて見みえぬ君きみかな」

 宮みやは、「なかなか今いまなむとも見みえじ、心苦こころぐるし」と思おぼして、内裏うちにおはしけるを、御おほん文ふみ聞きこえたまへりけり。御おほん返かへりやいかがありけむ、なほいとあはれに思おぼされければ、忍しのびて渡わたりたまへりけるなりけり。らうたげなるありさまを、見捨みすてて出いづべき心地ここちもせず、いとほしければ、よろづに契ちぎり慰なぐさめて、もろともに月つきを眺ながめておはするほどなりけり。

 女君をんなぎみは、日ひごろもよろづに思おもふこと多おほかれど、いかでけしきに出いださじと念ねんじ返かへしつつ、つれなく覚さましたまふことなれば、ことに聞ききもとどめぬさまに、おほどかにもてなしておはするけしき、いとあはれなり。

 中将ちうじゃうの参まゐりたまへるを聞ききたまひて、さすがにかれもいとほしければ、出いでたまはむとて、

「今いま、いと疾とく参まゐり来こむ。一人ひとり月つきな見みたまひそ。心こころそらなればいと苦くるしき」

 と聞きこえおきたまひて、なほかたはらいたければ、隠かくれの方かたより寝殿しんでんへ渡わたりたまふ、御おほんうしろでを見送みおくるに、ともかくも思おもはねど、ただ枕まくらの浮うきぬべき心地ここちすれば、「心憂こころうきものは人ひとの心こころなりけり」と、我われながら思おもひ知しらる。

幼きほどより心細くあはれなる身どもにて

「幼をさなきほどより心細こころぼそくあはれなる身みどもにて、世よの中なかを思おもひとどめたるさまにもおはせざりし人ひと一所ひとところを頼たのみきこえさせて、さる山里やまざとに年とし経へしかど、いつとなくつれづれにすごくありながら、いとかく心こころにしみて世よを憂うきものとも思おもはざりしに、うち続つづきあさましき御おほんことどもを思おもひしほどは、世よにまたとまりて片時かたとき経ふべくもおぼえず、恋こひしく悲かなしきことのたぐひあらじと思おもひしを、命いのち長ながくて今いままでもながらふれば、人ひとの思おもひたりしほどよりは、人ひとにもなるやうなるありさまを、長ながかるべきこととは思おもはねど、見みる限かぎりは憎にくげなき御心みこころばへもてなしなるに、やうやう思おもふこと薄うすらぎてありつるを、この折をりふしの身みの憂うさはた、言いはむ方かたなく、限かぎりとおぼゆるわざなりけり。

ひたすら世よになくなりたまひにし人ひとびとよりは、さりともこれは、時々ときどきもなどかは、とも思おもふべきを、今宵こよひかく見捨みすてて出いでたまふつらさ、来きし方かた行ゆく先さき、皆みなかき乱みだり心細こころぼそくいみじきが、わが心こころながら思おもひやる方かたなく、心憂こころうくもあるかな。おのづからながらへば」

 など慰なぐさめむことを思おもふに、さらに姨捨山をばすてやまの月つき澄すみ昇のぼりて、夜よ更ふくるままによろづ思おもひ乱みだれたまふ。松風まつかぜの吹ふき来くる音おとも、荒あらましかりし山やまおろしに思おもひ比くらぶれば、いとのどかになつかしく、めやすき御おほん住すまひなれど、今宵こよひはさもおぼえず、椎しひの葉はの音おとには劣おとりて思おもほゆ。

「山里やまざとの松まつの蔭かげにもかくばかり身みにしむ秋あきの風かぜはなかりき」

 来きし方かた忘わすれにけるにやあらむ。

 老おい人びとどもなど、

「今いまは、入いらせたまひね。月つき見みるは忌いみはべるものを。あさましく、はかなき御おほんくだものをだに御覧ごらんじ入いれねば、いかにならせたまはむ」と。「あな、見苦みぐるしや。ゆゆしう思おもひ出いでらるることもはべるを、いとこそわりなく」

 とうち嘆なげきて、

「いで、この御おほんことよ。さりとも、かうておろかには、よもなり果はてさせたまはじ。さいへど、もとの心こころざし深ふかく思おもひそめつる仲なかは、名残なごりなからぬものぞ」

 など言いひあへるも、さまざまに聞ききにくく、「今いまは、いかにもいかにもかけて言いはざらなむ、ただにこそ見みめ」と思おぼさるるは、人ひとには言いはせじ、我われ一人ひとり怨うらみきこえむとにやあらむ。「いでや、中納言ちうなごん殿とのの、さばかりあはれなる御心みこころ深ふかさを」など、そのかみの人ひとびとは言いひあはせて、「人ひとの御おほん宿世すくせのあやしかりけることよ」と言いひあへり。

宮は、いと心苦しく思しながら

 宮みやは、いと心苦こころぐるしく思おぼしながら、今いまめかしき御心みこころは、いかでめでたきさまに待まち思おもはれむと、心懸想こころげさうして、えならず薫たきしめたまへる御おほんけはひ、言いはむ方かたなし。待まちつけきこえたまへる所ところのありさまも、いとをかしかりけり。人ひとのほど、ささやかにあえかになどはあらで、よきほどになりあひたる心地ここちしたまへるを、

「いかならむ。ものものしくあざやぎて、心こころばへもたをやかなる方かたはなく、ものほこりかになどやあらむ。さらばこそ、うたてあるべけれ」

 などは思おぼせど、さやなる御おほんけはひにはあらぬにや、御心みこころざしおろかなるべくも思おぼされざりけり。秋あきの夜よなれど、更ふけにしかばにや、ほどなく明あけぬ。

 帰かへりたまひても、対たいへはふともえ渡わたりたまはず、しばし大殿籠おほとのごもりて、起おきてぞ御おほん文ふみ書かきたまふ。

「御みけしきけしうはあらぬなめり」

 と、御前おまへなる人ひとびとつきじろふ。

「対たいの御おほん方かたこそ心苦こころぐるしけれ。天下てんげにあまねき御心みこころなりとも、おのづからけおさるることもありなむかし」

 など、ただにしもあらず、皆みな馴なれ仕つかうまつりたる人ひとびとなれば、やすからずうち言いふどももありて、すべて、なほねたげなるわざにぞありける。「御おほん返かへりも、こなたにてこそは」と思おぼせど、「夜よのほどおぼつかなさも、常つねの隔へだてよりはいかが」と、心苦こころくるしければ、急いそぎ渡わたりたまふ。

 寝ねくたれの御おほん容貌かたち、いとめでたく見所みどころありて、入いりたまへるに、臥ふしたるもうたてあれば、すこし起おき上あがりておはするに、うち赤あかみたまへる顔かほの匂にほひなど、今朝けさしもことにをかしげさまさりて見みえたまふに、あいなく涙なみだぐまれて、しばしうちまもりきこえたまふを、恥はづかしく思おぼしてうつ臥ぶしたまへる、髪かみのかかり、髪かんざしなど、なほいとありがたげなり。

 宮みやも、なまはしたなきに、こまやかなることなどは、ふともえ言いひ出いでたまはぬ面隠おもがくしにや、

「などかくのみ悩なやましげなる御みけしきならむ。暑あつきほどのこととか、のたまひしかば、いつしかと涼すずしきほど待まち出いでたるも、なほはればれしからぬは、見苦みぐるしきわざかな。さまざまにせさすることも、あやしく験しるしなき心地ここちこそすれ。さはありとも、修法すほふはまた延のべてこそはよからめ。験しるしあらむ僧そうもがな。なにがし僧都そうづをぞ、夜居よゐにさぶらはすべかりける」

 など、やうなるまめごとをのたまへば、かかる方かたにも言ことよきは、心こころづきなくおぼえたまへど、むげにいらへきこえざらむも例れいならねば、

「昔むかしも、人ひとに似にぬありさまにて、かやうなる折をりはありしかど、おのづからいとよくおこたるものを」

 とのたまへば、

「いとよくこそ、さはやかなれ」

 とうち笑わらひて、「なつかしく愛敬あいぎゃうづきたる方かたは、これに並ならぶ人ひとはあらじかし」とは思おもひながら、なほまた、とくゆかしき方かたの心焦こころいられも立たち添そひたまへるは、御心みこころざしおろかにもあらぬなめりかし。

されど、見たまふほどは変はるけぢめもなく

 されど、見みたまふほどは変かはるけぢめもなきにや、後のちの世よまで誓ちかひ頼たのめたまふことどもの尽つきせぬを聞きくにつけても、げに、この世よは短みじかめる命いのち待まつ間まも、つらき御心みこころに見みえぬべければ、「後のちの契ちぎりや違たがはぬこともあらむ」と思おもふにこそ、なほこりずまに、またも頼たのまれぬべけれとて、いみじく念ねんずべかめれど、え忍しのびあへぬにや、今日けふは泣なきたまひぬ。

 日ひごろも、「いかでかう思おもひけりと見みえたてまつらじ」と、よろづに紛まぎらはしつるを、さまざまに思おもひ集あつむることし多おほかれば、さのみもえもて隠かくされぬにや、こぼれそめては、えとみにもためらはぬを、いと恥はづかしくわびしと思おもひて、いたく背そむきたまへば、しひてひき向むけたまひつつ、

「聞きこゆるままに、あはれなる御おほんありさまと見みつるを、なほ隔へだてたる御心みこころこそありけれな。さらずは、夜よのほどに思おぼし変かはりにたるか」

 とて、わが御おほん袖そでして涙なみだを拭のぐひたまへば、

「夜よの間まの心変こころがはりこそ、のたまふにつけて、推おし量はかられはべりぬれ」

 とて、すこしほほ笑ゑみぬ。

「げに、あが君きみや、幼をさなの御おほんもの言いひやな。されどまことには、心こころに隈くまのなければ、いと心こころやすし。いみじくことわりして聞きこゆとも、いとしるかるべきわざぞ。むげに世よのことわりを知しりたまはぬこそ、らうたきものからわりなけれ。よし、わが身みになしても思おもひめぐらしたまへ。身みを心こころともせぬありさまなり。もし、思おもふやうなる世よもあらば、人ひとにまさりける心こころざしのほど、知しらせたてまつるべきひとふしなむある。たはやすく言出こといづべきことにもあらねば、命いのちのみこそ」

 などのたまふほどに、かしこにたてまつれたまへる御おほん使つかひ、いたく酔ゑひ過すぎにければ、すこし憚はばかるべきことども忘わすれて、けざやかにこの南面みなみおもてに参まゐれり。

海人の刈るめづらしき玉藻に

 海人あまの刈かるめづらしき玉藻たまもにかづき埋うづもれたるを、「さなめり」と、人ひとびと見みる。いつのほどに急いそぎ書かきたまへらむと見みるも、やすからずはありけむかし。宮みやも、あながちに隠かくすべきにはあらねど、さしぐみはなほいとほしきを、すこしの用意よういはあれかしと、かたはらいたけれど、今いまはかひなければ、女房にょうばうして御おほん文ふみとり入いれさせたまふ。

「同おなじくは、隔へだてなきさまにもてなし果はててむ」と思おもほして、ひき開あけたまへるに、「継母ままははの宮みやの御おほん手てなめり」と見みゆれば、今いますこし心こころやすくて、うち置おきたまへり。宣旨せんじ書がきにても、うしろめたのわざや。

「さかしらは、かたはらいたさに、そそのかしはべれど、いと悩なやましげにてなむ。

女郎花をみなへししをれぞまさる朝露あさつゆのいかに置おきける名残なごりなるらむ」

 あてやかにをかしく書かきたまへり。

「かことがましげなるもわづらはしや。まことは、心こころやすくてしばしはあらむと思おもふ世よを、思おもひの外ほかにもあるかな」

 などはのたまへど、

「また二ふたつとなくて、さるべきものに思おもひならひたるただ人うどの仲なかこそ、かやうなることの恨うらめしさなども、見みる人ひと苦くるしくはあれ、思おもへばこれはいと難かたし。つひにかかるべき御おほんことなり。宮みやたちと聞きこゆるなかにも、筋すぢことに世人よひと思おもひきこえたれば、幾人いくたりも幾人いくたりも得えたまはむことも、もどきあるまじければ、人ひとも、この御おほん方かたいとほしなども思おもひたらぬなるべし。かばかりものものしくかしづき据すゑたまひて、心苦こころぐるしき方かた、おろかならず思おぼしたるをぞ、幸さいはひおはしける」

 と聞きこゆめる。みづからの心こころにも、あまりにならはしたまうて、にはかにはしたなかるべきが嘆なげかしきなめり。

「かかる道みちを、いかなれば浅あさからず人ひとの思おもふらむと、昔物語むかしものがたりなどを見みるにも、人ひとの上うへにても、あやしく聞きき思おもひしは、げにおろかなるまじきわざなりけり」

 と、わが身みになりてぞ、何なにごとも思おもひ知しられたまひける。

宮は、常よりもあはれに

 宮みやは、常つねよりもあはれに、うちとけたるさまにもてなしたまひて、

「むげにもの参まゐらざなるこそ、いと悪あしけれ」

 とて、よしある御おほんくだもの召めし寄よせ、また、さるべき人ひと召めして、ことさらに調てうぜさせなどしつつ、そそのかしきこえたまへど、いとはるかにのみ思おぼしたれば、「見苦みぐるしきわざかな」と嘆なげききこえたまふに、暮くれぬれば、夕ゆふつ方かた、寝殿しんでんへ渡わたりたまひぬ。

 風かぜ涼すずしく、おほかたの空そらをかしきころなるに、今いまめかしきにすすみたまへる御心みこころなれば、いとどしく艶えんなるに、もの思おもはしき人ひとの御心みこころのうちは、よろづに忍しのびがたきことのみぞ多おほかりける。ひぐらしの鳴なく声こゑに、山やまの蔭かげのみ恋こひしくて、

「おほかたに聞きかましものをひぐらしの声こゑ恨うらめしき秋あきの暮くれかな」

 今宵こよひはまだ更ふけぬに出いでたまふなり。御おほん前駆さきの声こゑの遠とほくなるままに、海人あまも釣つりすばかりになるも、「我われながら憎にくき心こころかな」と、思おもふ思おもふ聞きき臥ふしたまへり。はじめよりもの思おもはせたまひしありさまなどを思おもひ出いづるも、疎うとましきまでおぼゆ。

「この悩なやましきことも、いかならむとすらむ。いみじく命いのち短みじかき族ぞうなれば、かやうならむついでにもやと、はかなくなりなむとすらむ」

 と思おもふには、「惜をしからねど、悲かなしくもあり、またいと罪深つみふかくもあなるものを」など、まどろまれぬままに思おもひ明あかしたまふ。

その日は、后の宮悩ましげにおはします

 その日ひは、后きさいの宮みや悩なやましげにおはしますとて、誰たれも誰たれも、参まゐりたまへれど、御おほん風邪かぜにおはしましければ、ことなることもおはしまさずとて、大臣おとどは昼ひるまかでたまひにけり。中納言ちうなごんの君きみ誘さそひきこえたまひて、一ひとつ御車みくるまにてぞ出いでたまひにける。

「今宵こよひの儀式ぎしき、いかならむ。きよらを尽つくさむ」と思おぼすべかめれど、限かぎりあらむかし。この君きみも、心恥こころはづかしけれど、親したしき方かたのおぼえは、わが方かたざまにまたさるべき人ひともおはせず、ものの栄はえにせむに、心こころことにおはする人ひとなればなめりかし。例れいならずいそがしく参までたまひて、人ひとの上うへに見みなしたるを口惜くちをしとも思おもひたらず、何なにやかやともろ心ごころに扱あつかひたまへるを、大臣おとどは、人ひと知しれずなまねたしと思おぼしけり。

 宵よひすこし過すぐるほどにおはしましたり。寝殿しんでんの南みなみの廂ひさし、東ひむがしに寄よりて御座おまし参まゐれり。御台みだい八やつ、例れいの御おほん皿さらなど、うるはしげにきよらにて、また、小ちひさき台だい二ふたつに、花足けそくの御おほん皿さらなども、今いまめかしくせさせたまひて、餅もちひ参まゐらせたまへり。めづらしからぬこと書かきおくこそ憎にくけれ。

 大臣おとど渡わたりたまひて、「夜よいたう更ふけぬ」と、女房にょうばうしてそそのかし申まうしたまへど、いとあざれて、とみにも出いでたまはず。北きたの方かたの御おほんはらからの左衛門督さゑもんのかみ、藤宰相とうさいしゃうなどばかりものしたまふ。

 からうして出いでたまへる御おほんさま、いと見みるかひある心地ここちす。主人あるじの頭中将とうのちうじゃう、盃さかづきささげて御台みだい参まゐる。次々つぎつぎの御おほん土器かはらけ、二度ふたたび、三度みたび参まゐりたまふ。中納言ちうなごんのいたく勧すすめたまへるに、宮みやすこしほほ笑ゑみたまへり。

「わづらはしきわたりを」

 と、ふさはしからず思おもひて言いひしを、思おぼし出いづるなめり。されど、見み知しらぬやうにて、いとまめなり。

 東ひむがしの対たいに出いでたまひて、御おほん供ともの人ひとびともてはやしたまふ。おぼえある殿上人てんじゃうびとどもいと多おほかり。

 四位しゐ六人ろくにんは、女をんなの装束さうぞくに細長ほそなが添そへて、五位ごゐ十人じふにんは、三重襲みへがさねの唐衣からぎぬ、裳もの腰こしも皆みなけぢめあるべし。六位ろくゐ四人よにんは、綾あやの細長ほそなが、袴はかまなど。かつは、限かぎりあることを飽あかず思おぼしければ、ものの色いろ、しざまなどをぞ、きよらを尽つくしたまへりける。

 召次めしつぎ、舎人とねりなどの中なかには、乱みだりがはしきまでいかめしくなむありける。げに、かくにぎははしくはなやかなることは、見みるかひあれば、物語ものがたりなどに、まづ言いひたてたるにやあらむ。されど、詳くはしくはえぞ数かぞへ立たてざりけるとや。

中納言殿の御前の中に

 中納言ちうなごん殿とのの御前ごぜんの中なかに、なまおぼえあざやかならぬや、暗くらき紛まぎれに立たちまじりたりけむ、帰かへりてうち嘆なげきて、

「わが殿とのの、などかおいらかに、この殿とのの御おほん婿むこにうちならせたまふまじき。あぢきなき御おほん独ひとり住ずみなりや」

 と、中門ちうもんのもとにてつぶやきけるを聞ききつけたまひて、をかしとなむ思おぼしける。夜よの更ふけてねぶたきに、かのもてかしづかれつる人ひとびとは、心地ここちよげに酔ゑひ乱みだれて寄より臥ふしぬらむかしと、うらやましきなめりかし。

 君きみは、入いりて臥ふしたまひて、

「はしたなげなるわざかな。ことことしげなるさましたる親おやの出いでゐて、離はなれぬなからひなれど、これかれ、火ひ明あかくかかげて、勧すすめきこゆる盃さかづきなどを、いとめやすくもてなしたまふめりつるかな」

 と、宮みやの御おほんありさまを、めやすく思おもひ出いでたてまつりたまふ。

「げに、我われにても、よしと思おもふ女子をんなご持もたらましかば、この宮みやをおきたてまつりて、内裏うちにだにえ参まゐらせざらまし」と思おもふに、「誰たれも誰たれも、宮みやにたてまつらむと心こころざしたまへる女むすめは、なほ源中納言げんちうなごんにこそと、とりどりに言いひならふなるこそ、わがおぼえの口惜くちをしくはあらぬなめりな。さるは、いとあまり世よづかず、古ふるめきたるものを」など、心こころおごりせらる。

「内裏うちの御みけしきあること、まことに思おぼしたたむに、かくのみもの憂うくおぼえば、いかがすべからむ。おもだたしきことにはありとも、いかがはあらむ。いかにぞ、故君こきみにいとよく似にたまへらむ時ときに、うれしからむかし」と思おもひ寄よらるるは、さすがにもて離はなるまじき心こころなめりかし。

例の、寝覚がちなるつれづれなれば

 例れいの、寝覚ねざめがちなるつれづれなれば、按察使あぜちの君きみとて、人ひとよりはすこし思おもひましたまへるが局つぼねにおはして、その夜よは明あかしたまひつ。明あけ過すぎたらむを、人ひとの咎とがむべきにもあらぬに、苦くるしげに急いそぎ起おきたまふを、ただならず思おもふべかめり。

「うち渡わたし世よに許ゆるしなき関川せきかはをみなれそめけむ名なこそ惜をしけれ」

 いとほしければ、

「深ふかからず上うへは見みゆれど関川せきかはの下したの通かよひは絶たゆるものかは」

 深ふかしと、のたまはむにてだに頼たのもしげなきを、この上うへの浅あささは、いとど心こころやましくおぼゆらむかし。妻戸つまど押おし開あけて、

「まことは、この空そら見みたまへ。いかでかこれを知しらず顔がほにては明あかさむとよ。艶えんなる人ひとまねにてはあらで、いとど明あかしがたくなり行ゆく、夜よな夜よなの寝覚ねざめには、この世よかの世よまでなむ思おもひやられて、あはれなる」

 など、言いひ紛まぎらはしてぞ出いでたまふ。ことにをかしきことの数かずを尽つくさねど、さまのなまめかしき見みなしにやあらむ、情なさけなくなどは人ひとに思おもはれたまはず。かりそめの戯たはぶれ言ごとをも言いひそめたまへる人ひとの、気近けぢかくて見みたてまつらばや、とのみ思おもひきこゆるにや、あながちに、世よを背そむきたまへる宮みやの御おほん方かたに、縁えんを尋たづねつつ参まゐり集あつまりてさぶらふも、あはれなること、ほどほどにつけつつ多おほかるべし。

 宮みやは、女君をんなぎみの御おほんありさま、昼ひる見みきこえたまふに、いとど御心みこころざしまさりけり。おほきさよきほどなる人ひとの、様体やうだいいときよげにて、髪かみのさがりば、頭かしらつきなどぞ、ものよりことに、あなめでた、と見みえたまひける。色いろあひあまりなるまで匂にほひて、ものものしく気高けだかき顔かほの、まみいと恥はづかしげにらうらうじく、すべて何なにごとも足たらひて、容貌かたちよき人ひとと言いはむに、飽あかぬところなし。

 二十にじふに一ひとつ二ふたつぞ余あまりたまへりける。いはけなきほどならねば、片かたなりに飽あかぬところなく、あざやかに、盛さかりの花はなと見みえたまへり。限かぎりなくもてかしづきたまへるに、かたほならず。げに、親おやにては、心こころも惑まどはしたまひつべかりけり。

 ただ、やはらかに愛敬あいぎゃうづきらうたきことぞ、かの対たいの御おほん方かたはまづ思おもほし出いでられける。もののたまふいらへなども、恥はぢらひたれど、また、あまりおぼつかなくはあらず、すべていと見所みどころ多おほく、かどかどしげなり。

 よき若人わかうどども三十さんじふ人にんばかり、童わらは六人ろくにん、かたほなるなく、装束さうぞくなども、例れいのうるはしきことは、目馴めなれて思おぼさるべかめれば、引ひき違たがへ、心得こころえぬまでぞ好このみそしたまへる。三条さんでう殿との腹ばらの大君おほいきみを、春宮とうぐうに参まゐらせたまへるよりも、この御おほんことをば、ことに思おもひおきてきこえたまへるも、宮みやの御おほんおぼえありさまからなめり。

かくて後、二条院に

 かくて後のち、二条院にでうのゐんに、え心こころやすく渡わたりたまはず。軽かるらかなる御おほん身みならねば、思おぼすままに、昼ひるのほどなどもえ出いでたまはねば、やがて同おなじ南みなみの町まちに、年としごろありしやうにおはしまして、暮くるれば、また、え引ひき避よきても渡わたりたまはずなどして、待まち遠どほなる折々をりをりあるを、

「かからむとすることとは思おもひしかど、さしあたりては、いとかくやは名残なごりなかるべき。げに、心こころあらむ人ひとは、数かずならぬ身みを知しらで、交まじらふべき世よにもあらざりけり」

 と、返かへす返がへすも山路やまぢ分わけ出いでけむほど、うつつともおぼえず悔くやしく悲かなしければ、

「なほ、いかで忍しのびて渡わたりなむ。むげに背そむくさまにはあらずとも、しばし心こころをも慰なぐさめばや。憎にくげにもてなしなどせばこそ、うたてもあらめ」

 など、心こころ一ひとつに思おもひあまりて、恥はづかしけれど、中納言ちうなごん殿とのに文ふみたてまつれたまふ。

「一日ひとひの御おほんことをば、阿闍梨あざりの伝つたへたりしに、詳くはしく聞ききはべりにき。かかる御心みこころの名残なごりなからましかば、いかにいとほしくと思おもひたまへらるるにも、おろかならずのみなむ。さりぬべくは、みづからも」

 と聞きこえたまへり。

 陸奥紙みちのくにがみに、ひきつくろはずまめだち書かきたまへるしも、いとをかしげなり。宮みやの御おほん忌日きにちに、例れいのことどもいと尊たふとくせさせたまへりけるを、喜よろこびたまへるさまの、おどろおどろしくはあらねど、げに、思おもひ知しりたまへるなめりかし。例れいは、これよりたてまつる御おほん返かへりをだに、つつましげに思おもほして、はかばかしくも続つづけたまはぬを、「みづから」とさへのたまへるが、めづらしくうれしきに、心こころときめきもしぬべし。

 宮みやの今いまめかしく好このみたちたまへるほどにて、思おぼしおこたりけるも、げに心苦こころぐるしく推おし量はからるれば、いとあはれにて、をかしやかなることもなき御おほん文ふみを、うちも置おかず、ひき返かへしひき返かへし見みゐたまへり。御おほん返かへりは、

「承うけたまはりぬ。一日ひとひは、聖ひじりだちたるさまにて、ことさらに忍しのびはべしも、さ思おもひたまふるやうはべるころほひにてなむ。名残なごりとのたまはせたるこそ、すこし浅あさくなりにたるやうにと、恨うらめしく思おもうたまへらるれ。よろづはさぶらひてなむ。あなかしこ」

 と、すくよかに、白しろき色紙しきしのこはごはしきにてあり。

さて、またの日の夕つ方ぞ

 さて、またの日ひの夕ゆふつ方かたぞ渡わたりたまへる。人ひと知しれず思おもふ心こころし添そひたれば、あいなく心こころづかひいたくせられて、なよよかなる御衣おほんぞどもを、いとど匂にほはし添そへたまへるは、あまりおどろおどろしきまであるに、丁子染ちゃうじぞめの扇あふぎの、もてならしたまへる移うつり香がなどさへ、喩たとへむ方かたなくめでたし。

 女君をんなぎみも、あやしかりし夜よのことなど、思おもひ出いでたまふ折々をりをりなきにしもあらねば、まめやかにあはれなる御心みこころばへの、人ひとに似にずものしたまふを見みるにつけても、「さてあらましを」とばかりは思おもひやしたまふらむ。

 いはけなきほどにしおはせねば、恨うらめしき人ひとの御おほんありさまを思おもひ比くらぶるには、何事なにごともいとどこよなく思おもひ知しられたまふにや、常つねに隔へだて多おほかるもいとほしく、「もの思おもひ知しらぬさまに思おもひたまふらむ」など思おもひたまひて、今日けふは、御簾みすの内うちに入いれたてまつりたまひて、母屋もやの簾すだれに几帳きちゃう添そへて、我われはすこしひき入いりて対面たいめんしたまへり。

「わざと召めしとはべらざりしかど、例れいならず許ゆるさせたまへりし喜よろこびに、すなはちも参まゐらまほしくはべりしを、宮みや渡わたらせたまふと承うけたまはりしかば、折悪をりあしくやはとて、今日けふになしはべりにける。さるは、年としごろの心こころのしるしもやうやうあらはれはべるにや、隔へだてすこし薄うすらぎはべりにける御簾みすの内うちよ。めづらしくはべるわざかな」

 とのたまふに、なほいと恥はづかしく、言いひ出いでむ言葉ことばもなき心地ここちすれど、

「一日ひとひ、うれしく聞ききはべりし心こころの内うちを、例れいの、ただ結むすぼほれながら過すぐしはべりなば、思おもひ知しる片端かたはしをだに、いかでかはと、口惜くちをしさに」

 と、いとつつましげにのたまふが、いたくしぞきて、絶たえ絶だえほのかに聞きこゆれば、心こころもとなくて、

「いと遠とほくもはべるかな。まめやかに聞きこえさせ、承うけたまはらまほしき世よの御おほん物語ものがたりもはべるものを」

 とのたまへば、げに、と思おぼして、すこしみじろき寄よりたまふけはひを聞ききたまふにも、ふと胸むねうちつぶるれど、さりげなくいとど静しづめたるさまして、宮みやの御心みこころばへ、思おもはずに浅あさうおはしけりとおぼしく、かつは言いひも疎うとめ、また慰なぐさめも、かたがたにしづしづと聞きこえたまひつつおはす。

女君は、人の御恨めしさなどは

 女君をんなぎみは、人ひとの御おほん恨うらめしさなどは、うち出いで語かたらひきこえたまふべきことにもあらねば、ただ、世よやは憂うきなどやうに思おもはせて、言少ことずくなに紛まぎらはしつつ、山里やまざとにあからさまに渡わたしたまへとおぼしく、いとねむごろに思おもひてのたまふ。

「それはしも、心こころ一ひとつにまかせては、え仕つかうまつるまじきことにはべり。なほ、宮みやにただ心こころうつくしく聞きこえさせたまひて、かの御みけしきに従したがひてなむよくはべるべき。さらずは、すこしも違たがひ目めありて、心軽こころかろくもなど思おぼしものせむに、いと悪あしくはべりなむ。さだにあるまじくは、道みちのほども御おほん送おくり迎むかへも、おりたちて仕つかうまつらむに、何なにの憚はばかりかははべらむ。うしろやすく人ひとに似にぬ心こころのほどは、宮みやも皆みな知しらせたまへり」

 などは言いひながら、折々をりをりは、過すぎにし方かたの悔くやしさを忘わするる折をりなく、ものにもがなやと、取とり返かへさまほしきと、ほのめかしつつ、やうやう暗くらくなりゆくまでおはするに、いとうるさくおぼえて、

「さらば、心地ここちも悩なやましくのみはべるを、また、よろしく思おもひたまへられむほどに、何事なにごとも」

 とて、入いりたまひぬるけしきなるが、いと口惜くちをしければ、

「さても、いつばかり思おぼし立たつべきにか。いとしげくはべし道みちの草くさも、すこしうち払はらはせはべらむかし」

 と、心こころとりに聞きこえたまへば、しばし入いりさして、

「この月つきは過すぎぬめれば、朔日ついたちのほどにも、とこそは思おもひはべれ。ただ、いと忍しのびてこそよからめ。何なにか、世よの許ゆるしなどことことしく」

 とのたまふ声こゑの、「いみじくらうたげなるかな」と、常つねよりも昔むかし思おもひ出いでらるるに、えつつみあへで、寄よりゐたまへる柱はしらもとの簾すだれの下したより、やをらおよびて、御おほん袖そでをとらへつ。

女、さりや、あな心憂と思ふに

 女をんな、「さりや、あな心憂こころう」と思おもふに、何事なにごとかは言いはれむ、ものも言いはで、いとど引ひき入いりたまへば、それにつきていと馴なれ顔がほに、半なからは内うちに入いりて添そひ臥ふしたまへり。

「あらずや。忍しのびてはよかるべく思おぼすこともありけるがうれしきは、ひが耳みみか、聞きこえさせむとぞ。疎々うとうとしく思おぼすべきにもあらぬを、心憂こころうのけしきや」

 と怨うらみたまへば、いらへすべき心地ここちもせず、思おもはずに憎にくく思おもひなりぬるを、せめて思おもひしづめて、

「思おもひの外ほかなりける御心みこころのほどかな。人ひとの思おもふらむことよ。あさまし」

 とあはめて、泣なきぬべきけしきなる、すこしはことわりなれば、いとほしけれど、

「これは咎とがあるばかりのことかは。かばかりの対面たいめんは、いにしへをも思おぼし出いでよかし。過すぎにし人ひとの御おほん許ゆるしもありしものを。いとこよなく思おぼしけるこそ、なかなかうたてあれ。好すき好ずきしくめざましき心こころはあらじと、心こころやすく思おもほせ」

 とて、いとのどやかにはもてなしたまへれど、月つきごろ悔くやしと思おもひわたる心こころのうちの、苦くるしきまでなりゆくさまを、つくづくと言いひ続つづけたまひて、許ゆるすべきけしきにもあらぬに、せむかたなく、いみじとも世よの常つねなり。なかなか、むげに心こころ知しらざらむ人ひとよりも、恥はづかしく心こころづきなくて、泣なきたまひぬるを、

「こは、なぞ。あな、若々わかわかし」

 とは言いひながら、言いひ知しらずらうたげに、心苦こころぐるしきものから、用意ようい深ふかく恥はづかしげなるけはひなどの、見みしほどよりも、こよなくねびまさりたまひにけるなどを見みるに、「心こころからよそ人びとにしなして、かくやすからずものを思おもふこと」と悔くやしきにも、またげに音ねは泣なかれけり。

近くさぶらふ女房二人ばかりあれど

 近ちかくさぶらふ女房にょうばう二人ふたりばかりあれど、すずろなる男をとこのうち入いり来きたるならばこそは、こはいかなることぞとも、参まゐり寄よらめ、疎うとからず聞きこえ交かはしたまふ御おほん仲なからひなめれば、さるやうこそはあらめと思おもふに、かたはらいたければ、知しらず顔がほにてやをらしぞきぬるに、いとほしきや。

 男君をとこぎみは、いにしへを悔くゆる心こころの忍しのびがたさなども、いと静しづめがたかりぬべかめれど、昔むかしだにありがたかりし心こころの用意よういなれば、なほいと思おもひのままにももてなしきこえたまはざりけり。かやうの筋すぢは、こまかにもえなむまねび続つづけざりける。かひなきものから、人目ひとめのあいなきを思おもへば、よろづに思おもひ返かへして出いでたまひぬ。

 まだ宵よひと思おもひつれど、暁あかつき近ちかうなりにけるを、見みとがむる人ひともやあらむと、わづらはしきも、女をんなの御おほんためのいとほしきぞかし。

「悩なやましげに聞ききわたる御心地みここちは、ことわりなりけり。いと恥はづかしと思おぼしたりつる腰こしのしるしに、多おほくは心苦こころぐるしくおぼえてやみぬるかな。例れいのをこがましの心こころや」と思おもへど、「情なさけなからむことは、なほいと本意ほいなかるべし。また、たちまちのわが心こころの乱みだれにまかせて、あながちなる心こころをつかひて後のち、心こころやすくしもはあらざらむものから、わりなく忍しのびありかむほども心尽こころづくしに、女をんなのかたがた思おぼし乱みだれむことよ」

 など、さかしく思おもふにせかれず、今いまの間まも恋こひしきぞわりなかりける。さらに見みではえあるまじくおぼえたまふも、返かへす返がへすあやにくなる心こころなりや。

昔よりはすこし細やぎて

 昔むかしよりはすこし細ほそやぎて、あてにらうたかりつるけはひなどは、立たち離はなれたりともおぼえず、身みに添そひたる心地ここちして、さらに異事ことごともおぼえずなりにたり。

「宇治うぢにいと渡わたらまほしげに思おぼいためるを、さもや、渡わたしきこえてまし」など思おもへど、「まさに宮みやは許ゆるしたまひてむや。さりとて、忍しのびてはた、いと便びんなからむ。いかさまにしてかは、人目ひとめ見苦みぐるしからで、思おもふ心こころのゆくべき」と、心こころもあくがれて眺ながめ臥ふしたまへり。

 まだいと深ふかき朝あしたに御おほん文ふみあり。例れいの、うはべはけざやかなる立文たてぶみにて、

「いたづらに分わけつる道みちの露つゆしげみ昔むかしおぼゆる秋あきの空そらかな

御みけしきの心憂こころうさは、ことわり知しらぬつらさのみなむ。聞きこえさせむ方かたなく」

 とあり。御おほん返かへしなからむも、人ひとの、例れいならずと見みとがむべきを、いと苦くるしければ、

「承うけたまはりぬ。いと悩なやましくて、え聞きこえさせず」

 とばかり書かきつけたまへるを、「あまり言少ことずくななるかな」とさうざうしくて、をかしかりつる御おほんけはひのみ恋こひしく思おもひ出いでらる。

 すこし世よの中なかをも知しりたまへるけにや、さばかりあさましくわりなしとは思おもひたまへりつるものから、ひたぶるにいぶせくなどはあらで、いとらうらうじく恥はづかしげなるけしきも添そひて、さすがになつかしく言いひこしらへなどして、出いだしたまへるほどの心こころばへなどを思おもひ出いづるも、ねたく悲かなしく、さまざまに心こころにかかりて、わびしくおぼゆ。何事なにごとも、いにしへにはいと多おほくまさりて思おもひ出いでらる。

「何なにかは。この宮離みやかれ果はてたまひなば、我われを頼たのもし人びとにしたまふべきにこそはあめれ。さても、あらはれて心こころやすきさまにえあらじを、忍しのびつつまた思おもひます人ひとなき、心こころのとまりにてこそはあらめ」

 など、ただこの事ことのみ、つとおぼゆるぞ、けしからぬ心こころなるや。さばかり心深こころぶかげにさかしがりたまへど、男をとこといふものの心憂こころうかりけることよ。亡なき人ひとの御おほん悲かなしさは、言いふかひなきことにて、いとかく苦くるしきまではなかりけり。これは、よろづにぞ思おもひめぐらされたまひける。

「今日けふは、宮みや渡わたらせたまひぬ」

 など、人ひとの言いふを聞きくにも、後見うしろみの心こころは失うせて、胸むねうちつぶれて、いとうらやましくおぼゆ。

宮は、日ごろになりにけるは

 宮みやは、日ひごろになりにけるは、わが心こころさへ恨うらめしく思おぼされて、にはかに渡わたりたまへるなりけり。

「何なにかは、心隔こころへだてたるさまにも見みえたてまつらじ。山里やまざとにと思おもひ立たつにも、頼たのもし人びとに思おもふ人ひとも、疎うとましき心こころ添そひたまへりけり」

 と見みたまふに、世よの中なかいと所狭ところせく思おもひなられて、「なほいと憂うき身みなりけり」と、「ただ消きえせぬほどは、あるにまかせて、おいらかならむ」と思おもひ果はてて、いとらうたげに、うつくしきさまにもてなしてゐたまへれば、いとどあはれにうれしく思おぼされて、日ひごろのおこたりなど、限かぎりなくのたまふ。

 御おほん腹はらもすこしふくらかになりにたるに、かの恥はぢたまふしるしの帯おびの引ひき結ゆはれたるほどなど、いとあはれに、まだかかる人ひとを近ちかくても見みたまはざりければ、めづらしくさへ思おぼしたり。うちとけぬ所ところにならひたまひて、よろづのこと、心こころやすくなつかしく思おぼさるるままに、おろかならぬ事ことどもを、尽つきせず契ちぎりのたまふを聞きくにつけても、かくのみ言ことよきわざにやあらむと、あながちなりつる人ひとの御みけしきも思おもひ出いでられて、年としごろあはれなる心こころばへなどは思おもひわたりつれど、かかる方かたざまにては、あれをもあるまじきことと思おもふにぞ、この御おほん行ゆく先さきの頼たのめは、いでや、と思おもひながらも、すこし耳みみとまりける。

「さても、あさましくたゆめたゆめて、入いり来きたりしほどよ。昔むかしの人ひとに疎うとくて過すぎにしことなど語かたりたまひし心こころばへは、げにありがたかりけりと、なほうちとくべくはた、あらざりけりかし」

 など、いよいよ心こころづかひせらるるにも、久ひさしくとだえたまはむことは、いともの恐おそろしかるべくおぼえたまへば、言ことに出いでては言いはねど、過すぎぬる方かたよりは、すこしまつはしざまにもてなしたまへるを、宮みやはいとど限かぎりなくあはれと思おもほしたるに、かの人ひとの御おほん移うつり香がの、いと深ふかくしみたまへるが、世よの常つねの香かうの香かに入いれ薫たきしめたるにも似にず、しるき匂にほひなるを、その道みちの人ひとにしおはすれば、あやしととがめ出いでたまひて、いかなりしことぞと、けしきとりたまふに、ことのほかにもて離はなれぬことにしあれば、言いはむ方かたなくわりなくて、いと苦くるしと思おぼしたるを、

「さればよ。かならずさることはありなむ。よも、ただには思おもはじ、と思おもひわたることぞかし」

 と御心みこころ騷さわぎけり。さるは、単衣ひとへの御衣おほんぞなども、脱ぬぎ替かへたまひてけれど、あやしく心こころより外ほかにぞ身みにしみにける。

「かばかりにては、残のこりありてしもあらじ」

 と、よろづに聞ききにくくのたまひ続つづくるに、心憂こころうくて、身みぞ置おき所どころなき。

「思おもひきこゆるさまことなるものを、我われこそ先さきになど、かやうにうち背そむく際きははことにこそあれ。また御心みこころおきたまふばかりのほどやは経へぬる。思おもひの外ほかに憂うかりける御心みこころかな」

 と、すべてまねぶべくもあらず、いとほしげに聞きこえたまへど、ともかくもいらへたまはぬさへ、いとねたくて、

「また人ひとに馴なれける袖そでの移うつり香がをわが身みにしめて恨うらみつるかな」

 女をんなは、あさましくのたまひ続つづくるに、言いふべき方かたもなきを、いかがは、とて、

「みなれぬる中なかの衣ころもと頼たのめしをかばかりにてやかけ離はなれなむ」

 とて、うち泣なきたまへるけしきの、限かぎりなくあはれなるを見みるにも、「かかればぞかし」と、いと心こころやましくて、我われもほろほろとこぼしたまふぞ、色いろめかしき御心みこころなるや。まことにいみじき過あやまちありとも、ひたぶるにはえぞ疎うとみ果はつまじく、らうたげに心苦こころぐるしきさまのしたまへれば、えも怨うらみ果はてたまはず、のたまひさしつつ、かつはこしらへきこえたまふ。

またの日も、心のどかに

 またの日ひも、心こころのどかに大殿籠おほとのごもり起おきて、御おほん手水てうづ、御おほん粥かゆなどもこなたに参まゐらす。御おほんしつらひなども、さばかりかかやくばかり、高麗こま、唐土もろこしの錦にしき綾あやを裁たち重かさねたる目め移うつしには、世よの常つねにうち馴なれたる心地ここちして、人ひとびとの姿すがたも、萎なえばみたるうち混まじりなどして、いと静しづかに見みまはさる。

 君きみは、なよよかなる薄色うすいろどもに、撫子なでしこの細長ほそなが重かさねて、うち乱みだれたまへる御おほんさまの、何事なにごともいとうるはしく、ことことしきまで盛さかりなる人ひとの御おほん匂にほひ、何なにくれに思おもひ比くらぶれど、気劣けおとりてもおぼえず、なつかしくをかしきも、心こころざしのおろかならぬに恥はぢなきなめりかし。まろにうつくしく肥こえたりし人ひとの、すこし細ほそやぎたるに、色いろはいよいよ白しろくなりて、あてにをかしげなり。

 かかる御おほん移うつり香がなどのいちじるからぬ折をりだに、愛敬あいぎゃうづきらうたきところなどの、なほ人ひとには多おほくまさりて思おぼさるるままには、

「これをはらからなどにはあらぬ人ひとの、気近けぢかく言いひかよひて、事ことに触ふれつつ、おのづから声こゑけはひをも聞きき見馴みなれむは、いかでかただにも思おもはむ。かならずしか思おぼしぬべきことなるを」

 と、わがいと隈くまなき御心みこころならひに思おぼし知しらるれば、常つねに心こころをかけて、「しるきさまなる文ふみなどやある」と、近ちかき御厨子みづし、小唐櫃からびつなどやうのものをも、さりげなくて探さがしたまへど、さるものもなし。ただ、いとすくよかに言少ことすくなにて、なほなほしきなどぞ、わざともなけれど、ものにとりまぜなどしてもあるを、「あやし。なほ、いとかうのみはあらじかし」と疑うたがはるるに、いとど今日けふはやすからず思おぼさるる、ことわりなりかし。

「かの人ひとのけしきも、心こころあらむ女をんなの、あはれと思おもひぬべきを、などてかは、ことの他ほかにはさし放はなたむ。いとよきあはひなれば、かたみにぞ思おもひ交かはすらむかし」

 と思おもひやるぞ、わびしく腹はら立だたしくねたかりける。なほ、いとやすからざりければ、その日ひもえ出いでたまはず。六条院ろくでうのゐんには、御おほん文ふみをぞ二度ふたたび三度みたびたてまつりたまふを、

「いつのほどに積つもる御おほん言ことの葉はならむ」

 とつぶやく老おい人びとどもあり。

中納言の君は、かく宮の籠もりおはするを

 中納言ちうなごんの君きみは、かく宮みやの籠こもりおはするを聞きくにしも、心こころやましくおぼゆれど、

「わりなしや。これはわが心こころのをこがましく悪あしきぞかし。うしろやすくと思おもひそめてしあたりのことを、かくは思おもふべしや」

 と、しひてぞ思おもひ返かへして、「さはいへど、え思おぼし捨すてざめりかし」と、うれしくもあり、「人ひとびとのけはひなどの、なつかしきほどに萎なえばみためりしを」と思おもひやりたまひて、母宮ははみやの御おほん方かたに参まゐりたまひて、

「よろしきまうけのものどもやさぶらふ。使つかふべきこと」

 など申まうしたまへば、

「例れいの、立たたむ月つきの法事ほふじの料れうに、白しろきものどもやあらむ。染そめたるなどは、今いまはわざともしおかぬを、急いそぎてこそせさせめ」

 とのたまへば、

「何なにか。ことことしき用ようにもはべらず。さぶらはむにしたがひて」

 とて、御匣殿みくしげどのなどに問とはせたまひて、女をんなの装束さうぞくどもあまた領くだりに、細長ほそながどもも、ただあるにしたがひて、ただなる絹きぬ綾あやなどとり具ぐしたまふ。みづからの御料ごれうと思おぼしきには、わが御料ごれうにありける紅くれなゐの擣目うちめなべてならぬに、白しろき綾あやどもなど、あまた重かさねたまへるに、袴はかまの具ぐはなかりけるに、いかにしたりけるにか、腰こしの一ひとつあるを、引ひき結むすび加くはへて、

「結むすびける契ちぎりことなる下紐したひもをただ一筋ひとすぢに恨うらみやはする」

 大輔たいふの君きみとて、大人おとなしき人ひとの、睦むつましげなるにつかはす。

「とりあへぬさまの見苦みぐるしきを、つきづきしくもて隠かくして」

 などのたまひて、御料ごれうのは、しのびやかなれど、筥はこにて包つつみも異ことなり。御覧ごらんぜさせねど、さきざきも、かやうなる御心みこころしらひは、常つねのことにて目馴めなれにたれば、けしきばみ返かへしなど、ひこしろふべきにもあらねば、いかがとも思おもひわづらはで、人ひとびとにとり散ちらしなどしたれば、おのおのさし縫ぬひなどす。

 若わかき人ひとびとの、御前おまへ近ちかく仕つかうまつるなどをぞ、取とり分わきては繕つくろひたつべき。下仕しもづかへどもの、いたく萎なえばみたりつる姿すがたどもなどに、白しろき袷あはせなどにて、掲焉けちえんならぬぞなかなかめやすかりける。

誰かは、何事をも後見かしづききこゆる

 誰たれかは、何事なにごとをも後見うしろみかしづききこゆる人ひとのあらむ。宮みやは、おろかならぬ御心みこころざしのほどにて、「よろづをいかで」と思おぼしおきてたれど、こまかなるうちうちのことまでは、いかがは思おぼし寄よらむ。限かぎりもなく人ひとにのみかしづかれてならはせたまへれば、世よの中なかうちあはずさびしきこと、いかなるものとも知しりたまはぬ、ことわりなり。

 艶えんにそぞろ寒さむく、花はなの露つゆをもてあそびて世よは過すぐすべきものと思おぼしたるほどよりは、思おぼす人ひとのためなれば、おのづから折節をりふしにつけつつ、まめやかなることまでも扱あつかひ知しらせたまふこそ、ありがたくめづらかなることなめれば、「いでや」など、誹そしらはしげに聞きこゆる御おほん乳母めのとなどもありけり。

 童わらはべなどの、なりあざやかならぬ、折々をりをりうち混まじりなどしたるをも、女君をんなぎみは、いと恥はづかしく、「なかなかなる住すまひにもあるかな」など、人ひと知しれずは思おぼすことなきにしもあらぬに、ましてこのころは、世よに響ひびきたる御おほんありさまのはなやかさに、かつは、「宮みやのうちの人ひとの見み思おもはむことも、人ひとげなきこと」と、思おぼし乱みだるることも添そひて嘆なげかしきを、中納言ちうなごんの君きみは、いとよく推おし量はかりきこえたまへば、疎うとからむあたりには、見苦みぐるしくくだくだしかりぬべき心こころしらひのさまも、あなづるとはなけれど、「何なにかは、ことことしくしたて顔がほならむも、なかなかおぼえなく見みとがむる人ひとやあらむ」と、思おぼすなりけり。

 今いまぞまた、例れいのめやすきさまなるものどもなどせさせたまひて、御おほん小袿こうちき織おらせ、綾あやの料れう賜たまはせなどしたまひける。この君きみしもぞ、宮みやに劣もおとりきこえたまはず、さま異ことにかしづきたてられて、かたはなるまで心こころおごりもし、世よを思おもひ澄すまして、あてなる心こころばへはこよなけれど、故親王こみこの御山みやま住ずみを見みそめたまひしよりぞ、「さびしき所ところのあはれさはさま異ことなりけり」と、心苦こころぐるしく思おぼされて、なべての世よをも思おもひめぐらし、深ふかき情なさけをもならひたまひにける。いとほしの人ひとならはしや、とぞ。

かくて、なほ、いかでうしろやすく

「かくて、なほ、いかでうしろやすく大人おとなしき人ひとにてやみなむ」と思おもふにも、したがはず、心こころにかかりて苦くるしければ、御おほん文ふみなどを、ありしよりはこまやかにて、ともすれば、忍しのびあまりたるけしき見みせつつ聞きこえたまふを、女君をんなぎみ、いとわびしきこと添そひたる身みと思おぼし嘆なげかる。

「ひとへに知しらぬ人ひとなれば、あなものぐるほしと、はしたなめさし放はなたむにもやすかるべきを、昔むかしよりさま異ことなる頼たのもし人びとにならひ来きて、今いまさらに仲なか悪あしくならむも、なかなか人目ひとめ悪あしかるべし。さすがに、あさはかにもあらぬ御心みこころばへありさまの、あはれを知しらぬにはあらず。さりとて、心こころ交かはし顔がほにあひしらはむもいとつつましく、いかがはすべからむ」

 と、よろづに思おもひ乱みだれたまふ。

 さぶらふ人ひとびとも、すこしものの言いふかひありぬべく若わかやかなるは、皆みなあたらし、見馴みなれたるとては、かの山里やまざとの古ふる女をんなばらなり。思おもふ心こころをも、同おなじ心こころになつかしく言いひあはすべき人ひとのなきままには、故姫君こひめぎみを思おもひ出いできこえたまはぬ折をりなし。

「おはせましかば、この人ひともかかる心こころを添そへたまはましや」

 と、いと悲かなしく、宮みやのつらくなりたまはむ嘆なげきよりも、このこといと苦くるしくおぼゆ。

男君も、しひて思ひわびて

 男君をとこぎみも、しひて思おもひわびて、例れいの、しめやかなる夕ゆふつ方かたおはしたり。やがて端はしに御おほん茵しとねさし出いでさせたまひて、「いと悩なやましきほどにてなむ、え聞きこえさせぬ」と、人ひとして聞きこえ出いだしたまへるを聞きくに、いみじくつらくて、涙なみだ落おちぬべきを、人目ひとめにつつめば、しひて紛まぎらはして、

「悩なやませたまふ折をりは、知しらぬ僧そうなども近ちかく参まゐり寄よるを。医師くすしなどの列つらにても、御簾みすの内うちにはさぶらふまじくやは。かく人伝ひとづてなる御おほん消息せうそこなむ、かひなき心地ここちする」

 とのたまひて、いとものしげなる御みけしきなるを、一夜ひとよもののけしき見みし人ひとびと、

「げに、いと見苦みぐるしくはべるめり」

 とて、母屋もやの御簾みすうち下おろして、夜居よゐの僧そうの座ざに入いれたてまつるを、女君をんなぎみ、まことに心地ここちもいと苦くるしけれど、人ひとのかく言いふに、掲焉けちえんにならむも、またいかが、とつつましければ、もの憂うながらすこしゐざり出いでて、対面たいめんしたまへり。

 いとほのかに、時々ときどきもののたまふ御おほんけはひの、昔人むかしびとの悩なやみそめたまへりしころ、まづ思おもひ出いでらるるも、ゆゆしく悲かなしくて、かきくらす心地ここちしたまへば、とみにものも言いはれず、ためらひてぞ聞きこえたまふ。

 こよなく奥おくまりたまへるもいとつらくて、簾すの下したより几帳きちゃうをすこしおし入いれて、例れいの、なれなれしげに近ちかづき寄よりたまふが、いと苦くるしければ、わりなしと思おぼして、少将せうしゃうといひし人ひとを近ちかく呼よび寄よせて、

「胸むねなむ痛いたき。しばしおさへて」

 とのたまふを聞ききて、

「胸むねはおさへたるは、いと苦くるしくはべるものを」

 とうち嘆なげきて、ゐ直なほりたまふほども、げにぞ下したやすからぬ。

「いかなれば、かくしも常つねに悩なやましくは思おぼさるらむ。人ひとに問とひはべりしかば、しばしこそ心地ここちは悪あしかなれ、さてまた、よろしき折をりあり、などこそ教をしへはべしか。あまり若々わかわかしくもてなさせたまふなめり」

 とのたまふに、いと恥はづかしくて、

「胸むねは、いつともなくかくこそははべれ。昔むかしの人ひともさこそはものしたまひしか。長ながかるまじき人ひとのするわざとか、人ひとも言いひはべるめる」

 とぞのたまふ。「げに、誰たれも千年ちとせの松まつならぬ世よを」と思おもふには、いと心苦こころぐるしくあはれなれば、この召めし寄よせたる人ひとの聞きかむもつつまれず、かたはらいたき筋すぢのことをこそ選えりとどむれ、昔むかしより思おもひきこえしさまなどを、かの御おほん耳みみ一ひとつには心得こころえさせながら、人ひとはかたはにも聞きくまじきさまに、さまよくめやすくぞ言いひなしたまふを、「げに、ありがたき御心みこころばへにも」と聞ききゐたりけり。

何事につけても、故君の御事をぞ

 何事なにごとにつけても、故君こぎみの御おほん事ことをぞ尽つきせず思おもひたまへる。

「いはけなかりしほどより、世よの中なかを思おもひ離はなれてやみぬべき心こころづかひをのみならひはべしに、さるべきにやはべりけむ、疎うときものからおろかならず思おもひそめきこえはべりしひとふしに、かの本意ほいの聖心ひじりごころは、さすがに違たがひやしにけむ。

慰なぐさめばかりに、ここにもかしこにも行ゆきかかづらひて、人ひとのありさまを見みむにつけて、紛まぎるることもやあらむなど、思おもひ寄よる折々をりをりはべれど、さらに他ほかざまにはなびくべくもはべらざりけり。

よろづに思おもひたまへわびては、心こころの引ひく方かたの強つよからぬわざなりければ、好すきがましきやうに思おぼさるらむと、恥はづかしけれど、あるまじき心こころの、かけてもあるべくはこそめざましからめ、ただかばかりのほどにて、時々ときどき思おもふことをも聞きこえさせ承うけたまはりなどして、隔へだてなくのたまひかよはむを、誰たれかはとがめ出いづべき。世よの人ひとに似にぬ心こころのほどは、皆人みなひとにもどかるまじくはべるを、なほうしろやすく思おぼしたれ」

 など、怨うらみ泣なきみ聞きこえたまふ。

「うしろめたく思おもひきこえば、かくあやしと人ひとも見み思おもひぬべきまでは聞きこえはべるべくや。年としごろ、こなたかなたにつけつつ、見み知しることどものはべりしかばこそ、さま異ことなる頼たのもし人びとにて、今いまはこれよりなどおどろかしきこゆれ」

 とのたまへば、

「さやうなる折をりもおぼえはべらぬものを、いとかしこきことに思おぼしおきてのたまはするや。この御おほん山里やまざと出いで立たち急いそぎに、からうして召めし使つかはせたまふべき。それもげに、御覧ごらんじ知しる方かたありてこそはと、おろかにやは思おもひはべる」

 などのたまひて、なほいともの恨うらめしげなれど、聞きく人ひとあれば、思おもふままにもいかでかは続つづけたまはむ。

外の方を眺め出だしたれば

 外との方かたを眺ながめ出いだしたれば、やうやう暗くらくなりにたるに、虫むしの声こゑばかり紛まぎれなくて、山やまの方かた小暗をぐらく、何なにのあやめも見みえぬに、いとしめやかなるさまして寄よりゐたまへるも、わづらはしとのみ内うちには思おぼさる。

「限かぎりだにある」

 など、忍しのびやかにうち誦ずじて、

「思おもうたまへわびにてはべり。音無おとなしの里さと求もとめまほしきを、かの山里やまざとのわたりに、わざと寺てらなどはなくとも、昔むかしおぼゆる人形ひとがたをも作つくり、絵ゑにも描かきとりて、行おこなひはべらむとなむ、思おもうたまへなりにたる」

 とのたまへば、

「あはれなる御おほん願ねがひに、またうたて御手洗川みたらしがは近ちかき心地ここちする人形ひとがたこそ、思おもひやりいとほしくはべれ。黄金こがね求もとむる絵師ゑしもこそなど、うしろめたくぞはべるや」

 とのたまへば、

「そよ。その工たくみも絵師ゑしも、いかでか心こころには叶かなふべきわざならむ。近ちかき世よに花はな降ふらせたる工たくみもはべりけるを、さやうならむ変化へんげの人ひともがな」

 と、とざまかうざまに忘わすれむ方かたなきよしを、嘆なげきたまふけしきの、心深こころぶかげなるもいとほしくて、今いますこし近ちかくすべり寄よりて、

「人形ひとがたのついでに、いとあやしく思おもひ寄よるまじきことをこそ、思おもひ出いではべれ」

 とのたまふけはひの、すこしなつかしきも、いとうれしくあはれにて、

「何なにごとにか」

 と言いふままに、几帳きちゃうの下したより手てを捉とらふれば、いとうるさく思おもひならるれど、「いかさまにして、かかる心こころをやめて、なだらかにあらむ」と思おもへば、この近ちかき人ひとの思おもはむことのあいなくて、さりげなくもてなしたまへり。

年ごろは、世にやあらむとも知らざりつる人

「年としごろは、世よにやあらむとも知しらざりつる人ひとの、この夏なつごろ、遠とほき所ところよりものして尋たづね出いでたりしを、疎うとくは思おもふまじけれど、またうちつけに、さしも何なにかは睦むつび思おもはむ、と思おもひはべりしを、さいつころ来きたりしこそ、あやしきまで、昔人むかしびとの御おほんけはひにかよひたりしかば、あはれにおぼえなりにしか。

形かた見みなど、かう思おぼしのたまふめるは、なかなか何事なにごとも、あさましくもて離はなれたりとなむ、見みる人ひとびとも言いひはべりしを、いとさしもあるまじき人ひとの、いかでかは、さはありけむ」

 とのたまふを、夢語ゆめがたりか、とまで聞きく。

「さるべきゆゑあればこそは、さやうにも睦むつびきこえらるらめ。などか今いままで、かくもかすめさせたまはざらむ」

 とのたまへば、

「いさや、そのゆゑも、いかなりけむこととも思おもひ分わかれはべらず。ものはかなきありさまどもにて、世よに落おちとまりさすらへむとすらむこと、とのみ、うしろめたげに思おぼしたりしことどもを、ただ一人ひとりかき集あつめて思おもひ知しられはべるに、またあいなきことをさへうち添そへて、人ひとも聞きき伝つたへむこそ、いといとほしかるべけれ」

 とのたまふけしき見みるに、「宮みやの忍しのびてものなどのたまひけむ人ひとの、忍草しのぶぐさ摘つみおきたりけるなるべし」と見み知しりぬ。

 似にたりとのたまふゆかりに耳みみとまりて、

「かばかりにては。同おなじくは言いひ果はてさせたまうてよ」

 と、いぶかしがりたまへど、さすがにかたはらいたくて、えこまかにも聞きこえたまはず。

「尋たづねむと思おぼす心こころあらば、そのわたりとは聞きこえつべけれど、詳くはしくしもえ知しらずや。また、あまり言いはば、心劣こころおとりもしぬべきことになむ」

 とのたまへば、

「世よを、海中うみなかにも、魂たまのありか尋たづねには、心こころの限かぎり進すすみぬべきを、いとさまで思おもふべきにはあらざなれど、いとかく慰なぐさめむ方かたなきよりはと、思おもひ寄よりはべる人形ひとがたの願ねがひばかりには、などかは、山里やまざとの本尊ほんぞんにも思おもひはべらざらむ。なほ、確たしかにのたまはせよ」

 と、うちつけに責せめきこえたまふ。

「いさや、いにしへの御おほんゆるしもなかりしことを、かくまで漏もらしきこゆるも、いと口軽くちかるけれど、変化へんげの工たくみ求もとめたまふいとほしさにこそ、かくも」とて、「いと遠とほき所ところに年としごろ経へにけるを、母ははなる人ひとのうれはしきことに思おもひて、あながちに尋たづね寄よりしを、はしたなくもえいらへではべりしに、ものしたりしなり。ほのかなりしかばにや、何事なにごとも思おもひしほどよりは見苦みぐるしからずなむ見みえし。これをいかさまにもてなさむ、と嘆なげくめりしに、仏ほとけにならむは、いとこよなきことにこそはあらめ、さまではいかでかは」

 など聞きこえたまふ。

さりげなくて、かくうるさき心を

「さりげなくて、かくうるさき心こころをいかで言いひ放はなつわざもがな、と思おもひたまへる」と見みるはつらけれど、さすがにあはれなり。「あるまじきこととは深ふかく思おもひたまへるものから、顕証けせうにはしたなきさまには、えもてなしたまはぬも、見み知しりたまへるにこそは」と思おもふ心こころときめきに、夜よもいたく更ふけゆくを、内うちには人目ひとめいとかたはらいたくおぼえたまひて、うちたゆめて入いりたまひぬれば、男君をとこぎみ、ことわりとは返かへす返がへす思おもへど、なほいと恨うらめしく口惜くちをしきに、思おもひ静しづめむ方かたもなき心地ここちして、涙なみだのこぼるるも人ひと悪わろければ、よろづに思おもひ乱みだるれど、ひたぶるにあさはかならむもてなしはた、なほいとうたて、わがためもあいなかるべければ、念ねんじ返かへして、常つねよりも嘆なげきがちにて出いでたまひぬ。

「かくのみ思おもひては、いかがすべからむ。苦くるしくもあるべきかな。いかにしてかは、おほかたの世よにはもどきあるまじきさまにて、さすがに思おもふ心こころの叶かなふわざをすべからむ」

 など、おりたちて練れんじたる心こころならねばにや、わがため人ひとのためも、心こころやすかるまじきことを、わりなく思おぼし明あかすに、「似にたりとのたまひつる人ひとも、いかでかは真まことかとは見みるべき。さばかりの際きはなれば、思おもひ寄よらむに、難かたくはあらずとも、人ひとの本意ほいにもあらずは、うるさくこそあるべけれ」など、なほそなたざまには心こころも立たたず。

宇治の宮を久しく見たまはぬ時は

 宇治うぢの宮みやを久ひさしく見みたまはぬ時ときは、いとど昔むかし遠とほくなる心地ここちして、すずろに心細こころぼそければ、九月くがち二十余日にじふよにちばかりにおはしたり。

 いとどしく風かぜのみ吹ふき払はらひて、心こころすごく荒あらましげなる水みづの音おとのみ宿守やどもりにて、人影ひとかげもことに見みえず。見みるには、まづかきくらし、悲かなしきことぞ限かぎりなき。弁べんの尼あま召めし出いでたれば、障子口さうじぐちに、青鈍あをにびの几帳きちゃうさし出いでて参まゐれり。

「いとかしこけれど、ましていと恐おそろしげにはべれば、つつましくてなむ」

 と、まほには出いで来こず。

「いかに眺ながめたまふらむと思おもひやるに、同おなじ心こころなる人ひともなき物語ものがたりも聞きこえむとてなむ。はかなくも積つもる年月としつきかな」

 とて、涙なみだを一目ひとめ浮うけておはするに、老おい人びとはいとどさらにせきあへず。

「人ひとの上うへにて、あいなくものを思おぼすめりしころの空そらぞかし、と思おもひたまへ出いづるに、いつとはべらぬなるにも、秋あきの風かぜは身みにしみてつらくおぼえはべりて、げにかの嘆なげかせたまふめりしもしるき世よの中なかの御おほんありさまを、ほのかに承うけたまはるも、さまざまになむ」

 と聞きこゆれば、

「とあることもかかることも、ながらふれば、直なほるやうもあるを、あぢきなく思おぼししみけむこそ、わが過あやまちのやうに、なほ悲かなしけれ。このころの御おほんありさまは、何なにか、それこそ世よの常つねなれ。されど、うしろめたげには見みえきこえざめり。言いひても言いひても、むなしき空そらに昇のぼりぬる煙けぶりのみこそ、誰たれも逃のがれぬことながら、後おくれ先さきだつほどは、なほいと言いふかひなかりけり」

 とても、また泣なきたまひぬ。

阿闍梨召して、例の

 阿闍梨あざり召めして、例れいの、かの忌日きにちの経きゃう仏ほとけなどのことのたまふ。

「さて、ここに時々ときどきものするにつけても、かひなきことのやすからずおぼゆるが、いと益やくなきを、この寝殿しんでんこぼちて、かの山寺やまでらのかたはらに堂だう建たてむ、となむ思おもふを、同おなじくは疾とく始はじめてむ」

 とのたまひて、堂だういくつ、廊らうども、僧房そうばうなど、あるべきことども、書かき出いでのたまはせさせたまふを、

「いと尊たふときこと」

 と聞きこえ知しらす。

「昔むかしの人ひとの、ゆゑある御おほん住すまひに占しめ造つくりたまひけむ所ところを、ひきこぼたむ、情なさけなきやうなれど、その御心みこころざしも功徳くどくの方かたには進すすみぬべく思おぼしけむを、とまりたまはむ人ひとびと思おぼしやりて、えさはおきてたまはざりけるにや。

今いまは、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやの北きたの方かたこそは、知しりたまふべければ、かの宮みやの御料ごれうとも言いひつべくなりにたり。されば、ここながら寺てらになさむことは、便びんなかるべし。心こころにまかせてさもえせじ。所ところのさまもあまり川かはづら近ちかく、顕証けせうにもあれば、なほ寝殿しんでんを失うしなひて、異ことざまにも造つくり変かへむの心こころにてなむ」

 とのたまへば、

「とざまかうざまに、いともかしこく尊たふとき御心みこころなり。昔むかし、別わかれを悲かなしびて、屍かばねを包つつみてあまたの年首としくびに掛かけてはべりける人ひとも、仏ほとけの御おほん方便はうべんにてなむ、かの屍かばねの袋ふくろを捨すてて、つひに聖ひじりの道みちにも入いりはべりにける。この寝殿しんでんを御覧ごらんずるにつけて、御心みこころ動うごきおはしますらむ、一ひとつにはたいだいしきことなり。また、後のちの世よの勧すすめともなるべきことにはべりけり。急いそぎ仕つかうまつるべし。暦こよみの博士はかせはからひ申まうしてはべらむ日ひを承うけたまはりて、もののゆゑ知しりたらむ工たくみ、二ふたり、三人みたりを賜たまはりて、こまかなることどもは、仏ほとけの御おほん教をしへのままに仕つかうまつらせはべらむ」

 と申まうす。とかくのたまひ定さだめて、御荘みさうの人ひとども召めして、このほどのことども、阿闍梨あざりの言いはむままにすべきよしなど仰おほせたまふ。はかなく暮くれぬれば、その夜よはとどまりたまひぬ。

このたびばかりこそ見めと思して

「このたびばかりこそ見みめ」と思おぼして、立たちめぐりつつ見みたまへば、仏ほとけも皆みなかの寺てらに移うつしてければ、尼君あまぎみの行おこなひの具ぐのみあり。いとはかなげに住すまひたるを、あはれに、「いかにして過すぐすらむ」と見みたまふ。

「この寝殿しんでんは、変かへて造つくるべきやうあり。造つくり出いでむほどは、かの廊らうにものしたまへ。京きゃうの宮みやにとり渡わたさるべきものなどあらば、荘さうの人ひと召めして、あるべからむやうにものしたまへ」

 など、まめやかなることどもを語かたらひたまふ。他ほかにては、かばかりにさだ過すぎなむ人ひとを、何なにかと見み入いれたまふべきにもあらねど、夜よるも近ちかく臥ふせて、昔物語むかしものがたりなどせさせたまふ。故権大納言こごんだいなごんの君きみの御おほんありさまも、聞きく人ひとなきに心こころやすくて、いとこまやかに聞きこゆ。

「今いまはとなりたまひしほどに、めづらしくおはしますらむ御おほんありさまを、いぶかしきものに思おもひきこえさせたまふめりし御みけしきなどの思おもひたまへ出いでらるるに、かく思おもひかけはべらぬ世よの末すゑに、かくて見みたてまつりはべるなむ、かの御世みよに睦むつましく仕つかうまつりおきし験しるしのおのづからはべりけると、うれしくも悲かなしくも思おもひたまへられはべる。心憂こころうき命いのちのほどにて、さまざまのことを見みたまへ過すぐし、思おもひたまへ知しりはべるなむ、いと恥はづかしく心憂こころうくはべる。

宮みやよりも、時々ときどきは参まゐりて見みたてまつれ、おぼつかなく絶たえ籠こもり果はてぬるは、こよなく思おもひ隔へだてけるなめりなど、のたまはする折々をりをりはべれど、ゆゆしき身みにてなむ、阿弥陀仏あみだぶつより他ほかには、見みたてまつらまほしき人ひともなくなりてはべる」

 など聞きこゆ。故姫君こひめぎみの御おほんことども、はた尽つきせず、年としごろの御おほんありさまなど語かたりて、何なにの折をり何なにとのたまひし、花はな紅葉もみぢの色いろを見みても、はかなく詠よみたまひける歌語うたがたりなどを、つきなからず、うちわななきたれど、こめかしく言少ことずくななるものから、をかしかりける人ひとの御心みこころばへかなとのみ、いとど聞きき添そへたまふ。

「宮みやの御おほん方かたは、今いますこし今いまめかしきものから、心こころ許ゆるさざらむ人ひとのためには、はしたなくもてなしたまひつべくこそものしたまふめるを、我われにはいと心深こころぶかく情なさけ情なさけしとは見みえて、いかで過すごしてむ、とこそ思おもひたまへれ」

 など、心こころのうちに思おもひ比くらべたまふ。

さて、もののついでに

 さて、もののついでに、かの形代かたしろのことを言いひ出いでたまへり。

「京きゃうに、このころ、はべらむとはえ知しりはべらず。人伝ひとづてに承うけたまはりしことの筋すぢななり。故宮こみやの、まだかかる山里やまざと住ずみもしたまはず、故北こきたの方かたの亡うせたまへりけるほど近ちかかりけるころ、中将ちうじゃうの君きみとてさぶらひける上臈じゃうらふの、心こころばせなどもけしうはあらざりけるを、いと忍しのびて、はかなきほどにもののたまはせける、知しる人ひともはべらざりけるに、女子をんなごをなむ産うみてはべりけるを、さもやあらむ、と思おぼすことのありけるからに、あいなくわづらはしくものしきやうに思おぼしなりて、またとも御覧ごらんじ入いるることもなかりけり。

あいなくそのことに思おぼし懲こりて、やがておほかた聖ひじりにならせたまひにけるを、はしたなく思おもひて、えさぶらはずなりにけるが、陸奥国みちのくにの守かみの妻めになりたりけるを、一年ひととせ上のぼりて、その君きみ平たひらかにものしたまふよし、このわたりにもほのめかし申まうしたりけるを、聞きこしめしつけて、さらにかかる消息せうそこあるべきことにもあらずと、のたまはせ放はなちければ、かひなくてなむ嘆なげきはべりける。

さてまた、常陸ひたちになりて下くだりはべりにけるが、この年としごろ、音おとにも聞きこえたまはざりつるが、この春はる上のぼりて、かの宮みやには尋たづね参まゐりたりけるとなむ、ほのかに聞ききはべりし。

かの君きみの年としは、二十はたちばかりになりたまひぬらむかし。いとうつくしく生おひ出いでたまふがかなしきなどこそ、中なかごろは、文ふみにさへ書かき続つづけてはべめりしか」

 と聞きこゆ。

 詳くはしく聞ききあきらめたまひて、「さらば、まことにてもあらむかし。見みばや」と思おもふ心こころ出いで来きぬ。

「昔むかしの御おほんけはひに、かけても触ふれたらむ人ひとは、知しらぬ国くにまでも尋たづね知しらまほしき心こころあるを、数かずまへたまはざりけれど、近ちかき人ひとにこそはあなれ。わざとはなくとも、このわたりにおとなふ折をりあらむついでに、かくなむ言いひし、と伝つたへたまへ」

 などばかりのたまひおく。

「母君ははぎみは、故北こきたの方かたの御おほん姪めひなり。弁べんも離はなれぬ仲なからひにはべるべきを、そのかみは他々ほかほかにはべりて、詳くはしくも見みたまへ馴なれざりき。

さいつころ、京きゃうより、大輔たいふがもとより申まうしたりしは、かの君きみなむ、いかでかの御墓みはかにだに参まゐらむと、のたまふなる、さる心こころせよ、などはべりしかど、まだここに、さしはへてはおとなはずはべめり。今いま、さらば、さやのついでに、かかる仰おほせなど伝つたへはべらむ」

 と聞きこゆ。

明けぬれば帰りたまはむとて

 明あけぬれば帰かへりたまはむとて、昨夜よべ、後おくれて持もて参まゐれる絹綿きぬわたなどやうのもの、阿闍梨あざりに贈おくらせたまふ。尼君あまぎみにも賜たまふ。法師ほふしばら、尼君あまぎみの下衆げすどもの料れうにとて、布ぬのなどいふものをさへ、召めして賜たぶ。心細こころぼそき住すまひなれど、かかる御おほん訪とぶらひたゆまざりければ、身みのほどにはめやすく、しめやかにてなむ行おこなひける。

 木枯こがらしの堪たへがたきまで吹ふきとほしたるに、残のこる梢こずゑもなく散ちり敷しきたる紅葉もみぢを、踏ふみ分わけける跡あとも見みえぬを見み渡わたして、とみにもえ出いでたまはず。いとけしきある深山木みやまぎに宿やどりたる蔦つたの色いろぞまだ残のこりたる。こだになどすこし引ひき取とらせたまひて、宮みやへと思おぼしくて、持もたせたまふ。

「宿やどり木ぎと思おもひ出いでずは木このもとの旅寝たびねもいかにさびしからまし」

 と独ひとりごちたまふを聞ききて、尼君あまぎみ、

「荒あれ果はつる朽木くちきのもとを宿やどりきと思おもひおきけるほどの悲かなしさ」

 あくまで古ふるめきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞ、いささかの慰なぐさめには思おぼしける。

 宮みやに紅葉もみぢたてまつれたまへれば、男宮をとこみやおはしましけるほどなりけり。

「南みなみの宮みやより」

 とて、何心なにごころもなく持もて参まゐりたるを、女君をんなぎみ、「例れいのむつかしきこともこそ」と苦くるしく思おぼせど、取とり隠かくさむやは。宮みや、

「をかしき蔦つたかな」

 と、ただならずのたまひて、召めし寄よせて見みたまふ。御おほん文ふみには、

「日ひごろ、何事なにごとかおはしますらむ。山里やまざとにものしはべりて、いとど峰みねの朝霧あさぎりに惑まどひはべりつる御おほん物語ものがたりも、みづからなむ。かしこの寝殿しんでん、堂だうになすべきこと、阿闍梨あざりに言いひつけはべりにき。御おほん許ゆるしはべりてこそは、他ほかに移うつすこともものしはべらめ。弁べんの尼あまに、さるべき仰おほせ言ごとはつかはせ」

 などぞある。

「よくも、つれなく書かきたまへる文ふみかな。まろありとぞ聞ききつらむ」

 とのたまふも、すこしは、げにさやありつらむ。女君をんなぎみは、ことなきをうれしと思おもひたまふに、あながちにかくのたまふを、わりなしと思おぼして、うち怨ゑんじてゐたまへる御おほんさま、よろづの罪つみ許ゆるしつべくをかし。

「返かへり事ごと書かきたまへ。見みじや」

 とて、他ほかざまに向むきたまへり。あまえて書かかざらむもあやしければ、

「山里やまざとの御おほんありきのうらやましくもはべるかな。かしこは、げにさやにてこそよく、と思おもひたまへしを、ことさらにまた巌いはほの中なか求もとめむよりは、荒あらし果はつまじく思おもひはべるを、いかにもさるべきさまになさせたまはば、おろかならずなむ」

 と聞きこえたまふ。「かく憎にくきけしきもなき御おほん睦むつびなめり」と見みたまひながら、わが御心みこころならひに、ただならじと思おぼすが、やすからぬなるべし。

枯れ枯れなる前栽の中に

 枯かれ枯がれなる前栽せんざいの中なかに、尾花をばなの、ものよりことにて手てをさし出いで招まねくがをかしく見みゆるに、まだ穂ほに出いでさしたるも、露つゆを貫つらぬきとむる玉たまの緒を、はかなげにうちなびきたるなど、例れいのことなれど、夕風ゆふかぜなほあはれなるころなりかし。

「穂ほに出いでぬもの思おもふらし篠薄しのすすき招まねく袂たもとの露つゆしげくして」

 なつかしきほどの御衣おほんぞどもに、直衣なほしばかり着きたまひて、琵琶びはを弾ひきゐたまへり。黄鐘調わうしきでうの掻かき合あはせを、いとあはれに弾ひきなしたまへば、女君をんなぎみも心こころに入いりたまへることにて、もの怨ゑんじもえし果はてたまはず、小ちひさき御几帳みきちゃうのつまより、脇息けふそくに寄よりかかりて、ほのかにさし出いでたまへる、いと見みまほしくらうたげなり。

「秋あき果はつる野辺のべのけしきも篠薄しのすすきほのめく風かぜにつけてこそ知しれ

わが身み一ひとつの」

 とて涙なみだぐまるるが、さすがに恥はづかしければ、扇あふぎを紛まぎらはしておはする御心みこころの内うちも、らうたく推おし量はからるれど、「かかるにこそ、人ひともえ思おもひ放はなたざらめ」と、疑うたがはしきがただならで、恨うらめしきなめり。

 菊きくの、まだよく移うつろひ果はてで、わざとつくろひたてさせたまへるは、なかなか遅おそきに、いかなる一本ひともとにかあらむ、いと見所みどころありて移うつろひたるを、取とり分わきて折をらせたまひて、

「花はなの中なかに偏ひとへに」

 と誦ずじたまひて、

「なにがしの皇子みこの、花はなめでたる夕ゆふべぞかし。いにしへ、天人てんにんの翔かけりて、琵琶びはの手て教をしへけるは。何事なにごとも浅あさくなりにたる世よは、もの憂うしや」

 とて、御琴おほんことさし置おきたまふを、口惜くちをしと思おぼして、

「心こころこそ浅あさくもあらめ、昔むかしを伝つたへたらむことさへは、などてかさしも」

 とて、おぼつかなき手てなどをゆかしげに思おぼしたれば、

「さらば、独ひとり琴ごとはさうざうしきに、さしいらへしたまへかし」

 とて、人ひと召めして、箏さうの御琴おほんこととり寄よせさせて、弾ひかせたてまつりたまへど、

「昔むかしこそ、まねぶ人ひともものしたまひしか、はかばかしく弾ひきもとめずなりにしものを」

 と、つつましげにて手ても触ふれたまはねば、

「かばかりのことも、隔へだてたまへるこそ心憂こころうけれ。このころ、見みるわたり、まだいと心こころ解とくべきほどにもあらねど、かたなりなる初事うひごとをも隠かくさずこそあれ。すべて女をんなは、やはらかに心こころうつくしきなむよきこととこそ、その中納言ちうなごんも定さだむめりしか。かの君きみに、はた、かくもつつみたまはじ。こよなき御おほん仲なかなめれば」

 など、まめやかに怨うらみられてぞ、うち嘆なげきてすこし調しらべたまふ。ゆるびたりければ、盤渉調ばんしきでうに合あはせたまふ。掻かき合あはせなど、爪音つまおとけをかしげに聞きこゆ。「伊勢いせの海うみ」謡うたひたまふ御おほん声こゑのあてにをかしきを、女房にょうばうも、物もののうしろに近ちかづき参まゐりて、笑ゑみ広ひろごりてゐたり。

「二心ふたごころおはしますはつらけれど、それもことわりなれば、なほわが御前おまへをば、幸さいはひ人びととこそは申まうさめ。かかる御おほんありさまに交まじらひたまふべくもあらざりし所ところの御おほん住すまひを、また帰かへりなまほしげに思おぼして、のたまはするこそ、いと心憂こころうけれ」

 など、ただ言いひに言いへば、若わかき人ひとびとは、

「あなかまや」

 など制せいす。

御琴ども教へたてまつりなどして

 御琴おほんことども教をしへたてまつりなどして、三みか、四日よか籠こもりおはして、御おほん物忌ものいみなどことつけたまふを、かの殿とのには恨うらめしく思おぼして、大臣おとど、内裏うちより出いでたまひけるままに、ここに参まゐりたまへれば、宮みや、

「ことことしげなるさまして、何なにしにいましつるぞとよ」

 と、むつかりたまへど、あなたに渡わたりたまひて、対面たいめんしたまふ。

「ことなることなきほどは、この院ゐんを見みで久ひさしくなりはべるも、あはれにこそ」

 など、昔むかしの御おほん物語ものがたりどもすこし聞きこえたまひて、やがて引ひき連つれきこえたまひて出いでたまひぬ。御子みこどもの殿とのばら、さらぬ上達部かむだちめ、殿上人てんじゃうびとなども、いと多おほくひき続つづきたまへる勢いきほひ、こちたきを見みるに、並ならぶべくもあらぬぞ、屈くしいたかりける。人ひとびと覗のぞきて見みたてまつりて、

「さも、きよらにおはしける大臣おとどかな。さばかり、いづれとなく、若わかく盛さかりにてきよげにおはさうずる御子みこどもの、似にたまふべきもなかりけり。あな、めでたや」

 と言いふもあり。また、

「さばかりやむごとなげなる御おほんさまにて、わざと迎むかへに参まゐりたまへるこそ憎にくけれ。やすげなの世よの中なかや」

 など、うち嘆なげくもあるべし。御おほんみづからも、来きし方かたを思おもひ出いづるよりはじめ、かのはなやかなる御おほん仲なからひに立たちまじるべくもあらず、かすかなる身みのおぼえをと、いよいよ心細こころぼそければ、「なほ心こころやすく籠こもりゐなむのみこそ目めやすからめ」など、いとどおぼえたまふ。はかなくて年としも暮くれぬ。

正月晦日方より

 正月しゃうがち晦日方つごもりがたより、例れいならぬさまに悩なやみたまふを、宮みや、まだ御覧ごらんじ知しらぬことにて、いかならむと、思おぼし嘆なげきて、御修法みすほふなど、所々ところどころにてあまたせさせたまふに、またまた始はじめ添そへさせたまふ。いといたくわづらひたまへば、后きさいの宮みやよりも御おほん訪とぶらひあり。

 かくて三年みとせになりぬれど、一所ひとところの御心みこころざしこそおろかならね、おほかたの世よには、ものものしくももてなしきこえたまはざりつるを、この折をりぞ、いづこにもいづこにも聞きこしめしおどろきて、御おほん訪とぶらひども聞きこえたまひける。

 中納言ちうなごんの君きみは、宮みやの思おぼし騒さわぐに劣おとらず、いかにおはせむと嘆なげきて、心苦こころぐるしくうしろめたく思おぼさるれど、限かぎりある御おほん訪とぶらひばかりこそあれ、あまりもえ参まうでたまはで、忍しのびてぞ御おほん祈いのりなどもせさせたまひける。

 さるは、女二をんなにの宮みやの御おほん裳着もぎ、ただこのころになりて、世よの中なか響ひびきいとなみののしる。よろづのこと、帝みかどの御心みこころ一ひとつなるやうに思おぼし急いそげば、御おほん後見うしろみなきしもぞ、なかなかめでたげに見みえける。

 女御にょうごのしおきたまへることをばさるものにて、作物所つくもどころ、さるべき受領ずりゃうどもなど、とりどりに仕つかうまつることども、いと限かぎりなしや。

 やがてそのほどに、参まゐりそめたまふべきやうにありければ、男方をとこがたも心こころづかひしたまふころなれど、例れいのことなれば、そなたざまには心こころも入いらで、この御おほん事ことのみいとほしく嘆なげかる。

 如月きさらぎの朔日ついたちごろに、直物なほしものとかいふことに、権大納言ごんだいなごんになりたまひて、右大将うだいしゃうかけたまひつ。右みぎの大殿おほいどの、左ひだりにておはしけるが、辞じしたまへる所ところなりけり。

 喜よろこびに所々ところどころありきたまひて、この宮みやにも参まゐりたまへり。いと苦くるしくしたまへば、こなたにおはしますほどなりければ、やがて参まゐりたまへり。僧そうなどさぶらひて便びんなき方かたに、とおどろきたまひて、あざやかなる御おほん直衣なほし、御おほん下襲したがさねなどたてまつり、ひきつくろひたまひて、下おりて答たふの拝はいしたまふ御おほんさまどもとりどりにいとめでたく、

「やがて、官つかさの禄ろく賜たまふ饗あるじの所ところに」

 と、請さうじたてまつりたまふを、悩なやみたまふ人ひとによりてぞ、思おぼしたゆたひたまふめる。右大臣うだいじん殿とののしたまひけるままにとて、六条ろくでうの院ゐんにてなむありける。

 垣下ゑんがの親王みこたち上達部かむだちめ、大饗だいきゃうに劣おとらず、あまり騒さわがしきまでなむ集つどひたまひける。この宮みやも渡わたりたまひて、静心しづごころなければ、まだ事こと果はてぬに急いそぎ帰かへりたまひぬるを、大殿おほいどのの御おほん方かたには、

「いと飽あかずめざまし」

 とのたまふ。劣おとるべくもあらぬ御おほんほどなるを、ただ今いまのおぼえのはなやかさに思おぼしおごりて、おしたちもてなしたまへるなめりかし。

からうして、その暁

 からうして、その暁あかつき、男をとこにて生むまれたまへるを、宮みやもいとかひありてうれしく思おぼしたり。大将だいしゃう殿とのも、喜よろこびに添そへて、うれしく思おぼす。昨夜よべおはしましたりしかしこまりに、やがて、この御おほん喜よろこびもうち添そへて、立たちながら参まゐりたまへり。かく籠こもりおはしませば、参まゐりたまはぬ人ひとなし。

 御おほん産養うぶやしなひ、三日みかは、例れいのただ宮みやの御おほん私事わたくしごとにて、五日いつかの夜よ、大将だいしゃう殿とのより屯食とんじき五十具ごじふぐ、碁手ごての銭ぜに、椀飯わうばんなどは、世よの常つねのやうにて、子こ持もちの御前おまへの衝重ついがさね三十さんじふ、稚児ちごの御衣おほんぞ五重襲いつへがさねにて、御おほん襁褓むつきなどぞ、ことことしからず、忍しのびやかにしなしたまへれど、こまかに見みれば、わざと目馴めなれぬ心こころばへなど見みえける。

 宮みやの御前おまへにも浅香せんかうの折敷をしき、高坏たかつきどもにて、粉熟ふずく参まゐらせたまへり。女房にょうばうの御前おまへには、衝重ついがさねをばさるものにて、桧破籠ひわりご三十さんじふ、さまざまし尽つくしたることどもあり。人目ひとめにことことしくは、ことさらにしなしたまはず。

 七日しちにちの夜よは、后きさいの宮みやの御おほん産養うぶやしなひなれば、参まゐりたまふ人ひとびといと多おほかり。宮みやの大夫だいぶをはじめて、殿上人てんじゃうびと、上達部かむだちめ、数かず知しらず参まゐりたまへり。内裏うちにも聞きこし召めして、

「宮みやのはじめて大人おとなびたまふなるには、いかでか」

 とのたまはせて、御佩刀みはかしたてまつらせたまへり。

 九日ここぬかも、大殿おほいどのより仕つかうまつらせたまへり。よろしからず思おぼすあたりなれど、宮みやの思おぼさむところあれば、御子みこの公達きんだちなど参まゐりたまひて、すべていと思おもふことなげにめでたければ、御おほんみづからも、月つきごろもの思おもはしく心地ここちの悩なやましきにつけても、心細こころぼそく思おぼしたりつるに、かくおもだたしく今いまめかしきことどもの多おほかれば、すこし慰なやみもやしたまふらむ。

 大将だいしゃう殿とのは、「かくさへ大人おとなび果はてたまふめれば、いとどわが方かたざまは気遠けどほくやならむ。また、宮みやの御心みこころざしもいとおろかならじ」と思おもふは口惜くちをしけれど、また、初はじめよりの心こころおきてを思おもふには、いとうれしくもあり。

かくて、その月の二十日あまりにぞ

 かくて、その月つきの二十日はつかあまりにぞ、藤壺ふぢつぼの宮みやの御おほん裳着もぎの事ことありて、またの日ひなむ、大将だいしゃう参まゐりたまひける。夜よのことは忍しのびたるさまなり。天あめの下した響ひびきていつくしう見みえつる御おほんかしづきに、ただ人うどの具ぐしたてまつりたまふぞ、なほ飽あかず心苦こころぐるしく見みゆる。

「さる御おほん許ゆるしはありながらも、ただ今いま、かく急いそがせたまふまじきことぞかし」

 と、そしらはしげに思おもひのたまふ人ひともありけれど、思おぼし立たちぬること、すがすがしくおはします御心みこころにて、来きし方かたためしなきまで、同おなじくはもてなさむと、思おぼしおきつるなめり。帝みかどの御おほん婿むこになる人ひとは、昔むかしも今いまも多おほかれど、かく盛さかりの御世みよに、ただ人うどのやうに、婿取むこどり急いそがせたまへるたぐひは、すくなくやありけむ。右みぎの大臣おとども、

「めづらしかりける人ひとの御おほんおぼえ、宿世すくせなり。故院こゐんだに、朱雀院すざくゐんの御おほん末すゑにならせたまひて、今いまはとやつしたまひし際きはにこそ、かの母宮ははみやを得えたてまつりたまひしか。我われはまして、人ひとも許ゆるさぬものを拾ひろひたりしや」

 とのたまひ出いづれば、宮みやは、げにと思おぼすに、恥はづかしくて御おほんいらへもえしたまはず。

 三日みかの夜よは、大蔵卿おほくらきゃうよりはじめて、かの御おほん方かたの心こころ寄よせになさせたまへる人ひとびと、家司けいしに仰おほせ言ごと賜たまひて、忍しのびやかなれど、かの御前ごぜん、随身ずいじん、車副くるまぞひ、舎人とねりまで禄ろく賜たまはす。そのほどの事ことどもは、私事わたくしごとのやうにぞありける。

 かくて後のちは、忍しのび忍しのびに参まゐりたまふ。心こころの内うちには、なほ忘わすれがたきいにしへざまのみおぼえて、昼ひるは里さとに起おき臥ふし眺ながめ暮くらして、暮くるれば心こころより外ほかに急いそぎ参まゐりたまふをも、ならはぬ心地ここちに、いともの憂うく苦くるしくて、「まかでさせたてまつらむ」とぞ思おぼしおきてける。

 母宮ははみやは、いとうれしきことに思おぼしたり。おはします寝殿しんでん譲ゆづりきこゆべくのたまへど、

「いとかたじけなからむ」

 とて、御おほん念誦堂ねんずだうのあはひに、廊らうを続つづけて造つくらせたまふ。西面にしおもてに移うつろひたまふべきなめり。東ひむがしの対たいどもなども、焼やけて後のち、うるはしく新あたらしくあらまほしきを、いよいよ磨みがき添そへつつ、こまかにしつらはせたまふ。

 かかる御心みこころづかひを、内裏うちにも聞きかせたまひて、ほどなくうちとけ移うつろひたまはむを、いかがと思おぼしたり。帝みかどと聞きこゆれど、心こころの闇やみは同おなじごとなむおはしましける。

 母宮ははみやの御おほんもとに、御おほん使つかひありける御おほん文ふみにも、ただこのことをなむ聞きこえさせたまひける。故こ朱雀院すざくゐんの、取とり分わきて、この尼宮あまみやの御おほん事ことをば聞きこえ置おかせたまひしかば、かく世よを背そむきたまへれど、衰おとろへず、何事なにごとも元もとのままにて、奏そうせさせたまふことなどは、かならず聞きこしめし入いれ、御おほん用意ようい深ふかかりけり。

 かく、やむごとなき御心みこころどもに、かたみに限かぎりもなくもてかしづき騒さわがれたまふおもだたしさも、いかなるにかあらむ、心こころの内うちにはことにうれしくもおぼえず、なほ、ともすればうち眺ながめつつ、宇治うぢの寺てら造つくることを急いそがせたまふ。

宮の若君の五十日になりたまふ

 宮みやの若君わかぎみの五十日いかになりたまふ日ひ数かぞへ取とりて、その餅もちひの急いそぎを心こころに入いれて、籠物こもの、桧破籠ひわりごなどまで見み入いれたまひつつ、世よの常つねのなべてにはあらずと思おぼし心こころざして、沈ぢん、紫檀したん、銀しろかね、黄金こがねなど、道々みちみちの細工さいくどもいと多おほく召めしさぶらはせたまへば、我われ劣おとらじと、さまざまのことどもをし出いづめり。

 みづからも、例れいの、宮みやのおはしまさぬ隙ひまにおはしたり。心こころのなしにやあらむ、今いますこし重々おもおもしくやむごとなげなるけしきさへ添そひにけりと見みゆ。「今いまは、さりとも、むつかしかりしすずろごとなどは紛まぎれたまひにたらむ」と思おもふに、心こころやすくて、対面たいめんしたまへり。されど、ありしながらのけしきに、まづ涙なみだぐみて、

「心こころにもあらぬまじらひ、いと思おもひの外ほかなるものにこそと、世よを思おもひたまへ乱みだるることなむ、まさりにたる」

 と、あいだちなくぞ愁うれへたまふ。

「いとあさましき御おほんことかな。人ひともこそおのづからほのかにも漏もり聞ききはべれ」

 などはのたまへど、かばかりめでたげなることどもにも慰なぐさまず、「忘わすれがたく思おもひたまふらむ心深こころぶかさよ」とあはれに思おもひきこえたまふに、おろかにもあらず思おもひ知しられたまふ。「おはせましかば」と、口惜くちをしく思おもひ出いできこえたまへど、「それも、わがありさまのやうに、うらやみなく身みを恨うらむべかりけるかし。何事なにごとも数かずならでは、世よの人ひとめかしきこともあるまじかりけり」とおぼゆるにぞ、いとど、かの、うちとけ果はてでやみなむと思おもひたまへりし心こころおきては、なほ、いと重々おもおもしく思おもひ出いでられたまふ。

若君を切にゆかしがりきこえたまへば

 若君わかぎみを切せちにゆかしがりきこえたまへば、恥はづかしけれど、「何なにかは隔へだて顔がほにもあらむ、わりなきこと一ひとつにつけて恨うらみらるるよりほかには、いかでこの人ひとの御心みこころに違たがはじ」と思おもへば、みづからはともかくもいらへきこえたまはで、乳母めのとしてさし出いでさせたまへり。

 さらなることなれば、憎にくげならむやは。ゆゆしきまで白しろくうつくしくて、たかやかに物語ものがたりし、うち笑わらひなどしたまふ顔かほを見みるに、わがものにて見みまほしくうらやましきも、世よの思おもひ離はなれがたくなりぬるにやあらむ。されど、「言いふかひなくなりたまひにし人ひとの、世よの常つねのありさまにて、かやうならむ人ひとをもとどめ置おきたまへらましかば」とのみおぼえて、このころおもだたしげなる御おほんあたりに、いつしかなどは思おもひ寄よられぬこそ、あまりすべなき君きみの御心みこころなめれ。かく女々めめしくねぢけて、まねびなすこそいとほしけれ。

 しか悪わろびかたほならむ人ひとを、帝みかどの取とり分わき切せちに近ちかづけて、睦むつびたまふべきにもあらじものを、「まことしき方かたざまの御心みこころおきてなどこそは、めやすくものしたまひけめ」とぞ推おし量はかるべき。

 げに、いとかく幼をさなきほどを見みせたまへるもあはれなれば、例れいよりは物語ものがたりなどこまやかに聞きこえたまふほどに、暮くれぬれば、心こころやすく夜よるをだに更ふかすまじきを、苦くるしうおぼゆれば、嘆なげく嘆なげく出いでたまひぬ。

「をかしの人ひとの御おほん匂にほひや。折をりつれば、とかや言いふやうに、鴬うぐひすも尋たづね来きぬべかめり」

 など、わづらはしがる若わかき人ひともあり。

夏にならば、三条の宮塞がる方に

「夏なつにならば、三条さんでうの宮みや塞ふたがる方かたになりぬべし」と定さだめて、四月うづき朔日ついたちごろ、節分せちぶんとかいふこと、まだしき先さきに渡わたしたてまつりたまふ。

 明日あすとての日ひ、藤壺ふぢつぼに主上うへ渡わたらせたまひて、藤ふぢの花はなの宴えんせさせたまふ。南みなみの廂ひさしの御簾みす上あげて、椅子いし立たてたり。公おほやけわざにて、主人あるじの宮みやの仕つかうまつりたまふにはあらず。上達部かむだちめ、殿上人てんじゃうびとの饗きゃうなど、内蔵寮くらづかさより仕つかうまつれり。

 右みぎの大臣おとど、按察使大納言あぜちのだいなごん、藤中納言とうちうなごん、左兵衛督さひゃうゑのかみ。親王みこたちは、三さんの宮みや、常陸宮ひたちのみやなどさぶらひたまふ。南みなみの庭にはの藤ふぢの花はなのもとに、殿上人てんじゃうびとの座ざはしたり。後涼殿こうらうでんの東ひむがしに、楽所がくその人ひとびと召めして、暮くれ行ゆくほどに、双調そうでうに吹ふきて、上うへの御おほん遊あそびに、宮みやの御おほん方かたより、御琴おほんことども笛ふえなど出いださせたまへば、大臣おとどをはじめたてまつりて、御前おまへに取とりつつ参まゐりたまふ。

 故六条ころくでうの院ゐんの御おほん手てづから書かきたまひて、入道にふだうの宮みやにたてまつらせたまひし琴きんの譜ふ二巻ふたまき、五葉ごえふの枝えだに付つけたるを、大臣おとど取とりたまひて奏そうしたまふ。

 次々つぎつぎに、箏さうの御琴おほんこと、琵琶びは、和琴わごんなど、朱雀院すざくゐんの物ものどもなりけり。笛ふえは、かの夢ゆめに伝つたへしいにしへの形見かたみのを、「またなき物ものの音ねなり」と賞めでさせたまひければ、「この折をりのきよらより、またはいつかは映はえ映ばえしきついでのあらむ」と思おぼして、取とう出いでたまへるなめり。

 大臣おとど和琴わごん、三さんの宮みや琵琶びはなど、とりどりに賜たまふ。大将だいしゃうの御おほん笛ふえは、今日けふぞ、世よになき音ねの限かぎりは吹ふき立たてたまひける。殿上人てんじゃうびとの中なかにも、唱歌しゃうがにつきなからぬどもは、召めし出いでて、おもしろく遊あそぶ。

 宮みやの御おほん方かたより、粉熟ふずく参まゐらせたまへり。沈ぢんの折敷をしき四よつ、紫檀したんの高坏たかつき、藤ふぢの村濃むらごの打敷うちしきに、折枝をりえだ縫ぬひたり。銀しろかねの様器やうき、瑠璃るりの御おほん盃さかづき、瓶子へいしは紺瑠璃こんるりなり。兵衛督ひゃうゑのかみ、御おほんまかなひ仕つかうまつりたまふ。

 御おほん盃さかづき参まゐりたまふに、大臣おとど、しきりては便びんなかるべし、宮みやたちの御おほん中なかにはた、さるべきもおはせねば、大将だいしゃうに譲ゆづりきこえたまふを、憚はばかり申まうしたまへど、御みけしきもいかがありけむ、御おほん盃さかづきささげて、「をし」とのたまへる声こわづかひもてなしさへ、例れいの公事おほやけごとなれど、人ひとに似にず見みゆるも、今日けふはいとど見みなしさへ添そふにやあらむ。さし返かへし賜たまはりて、下おりて舞踏ぶたふしたまへるほど、いとたぐひなし。

 上臈じゃうらふの親王みこたち、大臣だいじんなどの賜たまはりたまふだにめでたきことなるを、これはまして御おほん婿むこにてもてはやされたてまつりたまへる、御おほんおぼえ、おろかならずめづらしきに、限かぎりあれば、下くだりたる座ざに帰かへり着つきたまへるほど、心苦こころぐるしきまでぞ見みえける。

按察使大納言は、我こそかかる目も見むと

 按察使大納言あぜちのだいなごんは、「我われこそかかる目めも見みむと思おもひしか、ねたのわざや」と思おもひたまへり。この宮みやの御おほん母はは女御にょうごをぞ、昔むかし、心こころかけきこえたまへりけるを、参まゐりたまひて後のちも、なほ思おもひ離はなれぬさまに聞きこえ通かよひたまひて、果はては宮みやを得えたてまつらむの心こころつきたりければ、御おほん後見うしろみ望のぞむけしきも漏もらし申まうしけれど、聞きこし召めしだに伝つたへずなりにければ、いと心こころやましと思おもひて、

「人柄ひとがらは、げに契ちぎりことなめれど、なぞ、時ときの帝みかどのことことしきまで婿むこかしづきたまふべき。またあらじかし。九重ここのへのうちに、おはします殿との近ちかきほどにて、ただ人うどのうちとけ訪とぶらひて、果はては宴えんや何なにやともて騒さわがるることは」

 など、いみじく誹そしりつぶやき申まうしたまひけれど、さすがゆかしければ、参まゐりて、心こころの内うちにぞ腹はら立だちゐたまへりける。

 紙燭しそくさして歌うたどもたてまつる。文台ぶんだいのもとに寄よりつつ置おくほどのけしきは、おのおのしたり顔がほなりけれど、例れいの、「いかにあやしげに古ふるめきたりけむ」と思おもひやれば、あながちに皆みなもたづね書かかず。上かみの町まちも、上臈じゃうらふとて、御おほん口くちつきどもは、異ことなること見みえざめれど、しるしばかりとて、一ひとつ、二ふたつぞ問とひ聞ききたりし。これは、大将だいしゃうの君きみの、下おりて御おほんかざし折をりて参まゐりたまへりけるとか。

「すべらきのかざしに折をると藤ふぢの花はな及およばぬ枝えだに袖そでかけてけり」

 うけばりたるぞ、憎にくきや。

「よろづ世よをかけて匂にほはむ花はななれば今日けふをも飽あかぬ色いろとこそ見みれ」

「君きみがため折をれるかざしは紫むらさきの雲くもに劣おとらぬ花はなのけしきか」

「世よの常つねの色いろとも見みえず雲居くもゐまでたち昇のぼりたる藤波ふぢなみの花はな」

「これやこの腹はら立だつ大納言だいなごんのなりけむ」と見みゆれ。かたへは、ひがことにもやありけむ。かやうに、ことなるをかしきふしもなくのみぞあなりし。

 夜よ更ふくるままに、御おほん遊あそびいとおもしろし。大将だいしゃうの君きみ、「安名尊あなたふと」謡うたひたまへる声こゑぞ、限かぎりなくめでたかりける。按察使あぜちも、昔むかしすぐれたまへりし御おほん声こゑの名残なごりなれば、今いまもいとものものしくて、うち合あはせたまへり。右みぎの大殿おほいどのの御おほん七郎しちろう、童わらはにて笙さうの笛ふえ吹ふく。いとうつくしかりければ、御衣おほんぞ賜たまはす。大臣おとど下おりて舞踏ぶたふしたまふ。

 暁あかつき近ちかうなりてぞ帰かへらせたまひける。禄ろくども、上達部かむだちめ、親王みこたちには、主上うへより賜たまはす。殿上人てんじゃうびと、楽所がくその人ひとびとには、宮みやの御おほん方かたより品々しなじなに賜たまひけり。

 その夜よふさりなむ、宮みやまかでさせたてまつりたまひける。儀式ぎしきいと心こころことなり。主上うへの女房にょうばうさながら御おほん送おくり仕つかうまつらせたまひける。庇ひさしの御車みくるまにて、庇ひさしなき糸毛いとげ三みつ、黄金こがねづくり六むつ、ただの檳榔毛びらうげ二十にじふ、網代あじろ二ふたつ、童わらは、下仕しもづかへ八人はちにんづつさぶらふに、また御おほん迎むかへの出車いだしぐるまどもに、本所ほんじょの人ひとびと乗のせてなむありける。御おほん送おくりの上達部かむだちめ、殿上人てんじゃうびと、六位ろくゐなど、言いふ限かぎりなききよらを尽つくさせたまへり。

 かくて、心こころやすくうちとけて見みたてまつりたまふに、いとをかしげにおはす。ささやかにしめやかにて、ここはと見みゆるところなくおはすれば、「宿世すくせのほど口惜くちをしからざりけり」と、心こころおごりせらるるものから、過すぎにし方かたの忘わすらればこそはあらめ、なほ紛まぎるる折をりなく、もののみ恋こひしくおぼゆれば、

「この世よにては慰なぐさめかねつべきわざなめり。仏ほとけになりてこそは、あやしくつらかりける契ちぎりのほどを、何なにの報むくいと諦あきらめて思おもひ離はなれめ」

 と思おもひつつ、寺てらの急いそぎにのみ心こころを入いれたまへり。

賀茂の祭など、騒がしきほど過ぐして

 賀茂かもの祭まつりなど、騒さわがしきほど過すぐして、二十日はつかあまりのほどに、例れいの、宇治うぢへおはしたり。

 造つくらせたまふ御堂みだう見みたまひて、すべきことどもおきてのたまひ、さて、例れいの、朽木くちきのもとを見みたまへ過すぎむが、なほあはれなれば、そなたざまにおはするに、女車をんなぐるまのことことしきさまにはあらぬ一ひとつ、荒あらましき東男あづまをとこの、腰こしに物もの負おへる、あまた具ぐして、下人しもびとも数かず多おほく頼たのもしげなるけしきにて、橋はしより今いま渡わたり来くる見みゆ。

「田舎ゐなかびたる者ものかな」と見みたまひつつ、殿とのはまづ入いりたまひて、御前ごぜんどもは、まだ立たち騷さわぎたるほどに、「この車くるまもこの宮みやをさして来くるなりけり」と見みゆ。御随身みずいじんどもも、かやかやと言いふを制せいしたまひて、

「何人なにびとぞ」

 と問とはせたまへば、声こゑうちゆがみたる者もの、

「常陸ひたちの前司ぜんじ殿とのの姫君ひめぎみの、初瀬はつせの御寺みてらに詣まうでて戻もどりたまへるなり。初はじめもここになむ宿やどりたまへし」

 と申まうすに、

「おいや、聞ききし人ひとななり」

 と思おぼし出いでて、人ひとびとを異方ばことかたに隠かくしたまひて、

「はや、御車みくるま入いれよ。ここに、また

人ひと宿やどりたまへど、北面きたおもてになむ」

 と言いはせたまふ。

 御おほん供ともの人ひとも、皆みな狩衣姿かりぎぬすがたにて、ことことしからぬ姿すがたどもなれど、なほけはひやしるからむ、わづらはしげに思おもひて、馬むまども引ひきさけなどしつつ、かしこまりつつぞをる。車くるまは入いれて、廊らうの西にしのつまにぞ寄よする。この寝殿しんでんはまだあらはにて、簾すだれもかけず。下おろし籠こめたる中なかの二間ふたまに立たて隔へだてたる障子さうじの穴あなより覗のぞきたまふ。

 御衣おほんぞの鳴なれば、脱ぬぎおきて、直衣なほし指貫さしぬきの限かぎりを着きてぞおはする。とみにも降おりで、尼君あまぎみに消息せうそこして、かくやむごとなげなる人ひとのおはするを、「誰たれぞ」など案内あないするなるべし。君きみは、車くるまをそれと聞ききたまひつるより、

「ゆめ、その人ひとにまろありとのたまふな」

 と、まづ口くちかためさせたまひてければ、皆みなさ心得こころえて、

「早はやう降おりさせたまへ。客人まらうとはものしたまへど、異方ことかたになむ」

 と言いひ出いだしたり。

若き人のある、まづ降りて

 若わかき人ひとのある、まづ降おりて、簾すだれうち上あぐめり。御前ごぜんのさまよりは、このおもと馴なれてめやすし。また、大人おとなびたる人ひといま一人ひとり降おりて、「早はやう」と言いふに、

「あやしくあらはなる心地ここちこそすれ」

 と言いふ声こゑ、ほのかなれどあてやかに聞きこゆ。

「例れいの御おほん事こと。こなたは、さきざきも下おろし籠こめてのみこそははべれ。さては、またいづこのあらはなるべきぞ」

 と、心こころをやりて言いふ。つつましげに降おるるを見みれば、まづ、頭かしらつき、様体やうだい、細ほそやかにあてなるほどは、いとよくもの思おもひ出いでられぬべし。扇子あふぎをつとさし隠かくしたれば、顔かほは見みえぬほど心こころもとなくて、胸むねうちつぶれつつ見みたまふ。

 車くるまは高たかく、降おるる所ところは下くだりたるを、この人ひとびとはやすらかに降おりなしつれど、いと苦くるしげにややみて、ひさしく降おりて、ゐざり入いる。濃こき袿うちきに、撫子なでしことおぼしき細長ほそなが、若苗色わかなへいろの小袿こうちき着きたり。

 四尺ししゃくの屏風びゃうぶを、この障子さうじに添そへて立たてたるが、上かみより見みゆる穴あななれば、残のこるところなし。こなたをばうしろめたげに思おもひて、あなたざまに向むきてぞ、添そひ臥ふしぬる。

「さも、苦くるしげに思おぼしたりつるかな。泉川いづみがはの舟ふな渡わたりも、まことに、今日けふはいと恐おそろしくこそありつれ。この如月きさらぎには、水みづのすくなかりしかばよかりしなりけり」

「いでや、歩ありくは、東路あづまぢ思おもへば、いづこか恐おそろしからむ」

 など、二人ふたりして苦くるしとも思おもひたらず言いひゐたるに、主しゅうは音おともせでひれ臥ふしたり。腕かひなをさし出いでたるが、まろらかにをかしげなるほども、常陸ひたち殿とのなどいふべくは見みえず、まことにあてなり。

 やうやう腰こし痛いたきまで立たちすくみたまへど、人ひとのけはひせじとて、なほ動うごかで見みたまふに、若わかき人ひと、

「あな、香かうばしや。いみじき香かうの香かこそすれ。尼君あまぎみの焚たきたまふにやあらむ」

 老おい人びと、

「まことにあなめでたの物ものの香かや。京人きゃうびとは、なほいとこそ雅みやびかに今いまめかしけれ。天下てんかにいみじきことと思おぼしたりしかど、東あづまにてかかる薫物たきものの香かは、え合あはせ出いでたまはざりきかし。この尼君あまぎみは、住すまひかくかすかにおはすれど、装束さうぞくのあらまほしく、鈍色にびいろ青色あをいろといへど、いときよらにぞあるや」

 など、ほめゐたり。あなたの簀子すのこより童わらは来きて、

「御おほん湯ゆなど参まゐらせたまへ」

 とて、折敷をしきどもも取とり続つづきてさし入いる。果物くだもの取とり寄よせなどして、

「ものけたまはる。これ」

 など起おこせど、起おきねば、二人ふたりして、栗くりやなどやうのものにや、ほろほろと食くふも、聞きき知しらぬ心地ここちには、かたはらいたくてしぞきたまへど、またゆかしくなりつつ、なほ立たち寄より立たち寄より見みたまふ。

 これよりまさる際きはの人ひとびとを、后きさいの宮みやをはじめて、ここかしこに、容貌かたちよきも心こころあてなるも、ここら飽あくまで見み集あつめたまへど、おぼろけならでは、目めも心こころもとまらず、あまり人ひとにもどかるるまでものしたまふ心地ここちに、ただ今いまは、何なにばかりすぐれて見みゆることもなき人ひとなれど、かく立たち去さりがたく、あながちにゆかしきも、いとあやしき心こころなり。

尼君は、この殿の御方にも

 尼君あまぎみは、この殿とのの御おほん方かたにも、御おほん消息せうそこ聞きこえ出いだしたりけれど、

「御心地みここち悩なやましとて、今いまのほどうちやすませたまへるなり」

 と、御おほん供ともの人ひとびと心こころしらひて言いひたりければ、「この君きみを尋たづねまほしげにのたまひしかば、かかるついでにもの言いひ触ふれむと思おもほすによりて、日暮ひぐらしたまふにや」と思おもひて、かく覗のぞきたまふらむとは知しらず。

 例れいの、御荘みさうの預あづかりどもの参まゐれる、破籠わりごや何なにやと、こなたにも入いれたるを、東人あづまびとどもにも食くはせなど、事ことども行おこなひおきて、うち化粧けさうじて、客人まらうとの方かたに来きたり。ほめつる装束さうぞく、げにいとかはらかにて、みめもなほよしよししくきよげにぞある。

「昨日きのふおはし着つきなむと待まちきこえさせしを、などか、今日けふも日ひたけては」

 と言いふめれば、この老おい人びと、

「いとあやしく苦くるしげにのみせさせたまへば、昨日きのふはこの泉川いづみがはのわたりにて、今朝けさしも無期むごに御心地みここちためらひてなむ」

 といらひて、起おこせば、今いまぞ起おきゐたる。尼君あまぎみを恥はぢらひて、そばみたるかたはらめ、これよりはいとよく見みゆ。まことにいとよしあるまみのほど、髪かんざしのわたり、かれをも、詳くはしくつくづくとしも見みたまはざりし御おほん顔かほなれど、これを見みるにつけて、ただそれと思おもひ出いでらるるに、例れいの、涙なみだ落おちぬ。

 尼君あまぎみのいらへうちする声こゑ、けはひ、宮みやの御おほん方かたにもいとよく似にたりと聞きこゆ。

「あはれなりける人ひとかな。かかりけるものを、今いままで尋たづねも知しらで過すぐしけることよ。これより口惜くちをしからむ際きはの品しなならむゆかりなどにてだに、かばかりかよひきこえたらむ人ひとを得えては、おろかに思おもふまじき心地ここちするに、まして、これは、知しられたてまつらざりけれど、まことに故宮こみやの御子みこにこそはありけれ」

 と見みなしたまひては、限かぎりなくあはれにうれしくおぼえたまふ。「ただ今いまも、はひ寄よりて、世よの中なかにおはしけるものを」と言いひ慰なぐさめまほし。蓬莱ほうらいまで尋たづねて、釵かんざしの限かぎりを伝つたへて見みたまひけむ帝みかどは、なほ、いぶせかりけむ。「これは異人ことびとなれど、慰なぐさめ所どころありぬべきさまなり」とおぼゆるは、この人ひとに契ちぎりのおはしけるにやあらむ。

 尼君あまぎみは、物語ものがたりすこしして、とく入いりぬ。人ひとのとがめつる薫かをりを、「近ちかく覗のぞきたまふなめり」と心得こころえてければ、うちとけごとも語かたらはずなりぬるなるべし。

日暮れもていけば、君もやをら出でて

 日暮ひぐれもていけば、君きみもやをら出いでて、御衣おほんぞなど着きたまひてぞ、例れい召めし出いづる障子さうじの口くちに、尼君あまぎみ呼よびて、ありさまなど問とひたまふ。

「折をりしもうれしく参まで逢あひたるを。いかにぞ、かの聞きこえしことは」

 とのたまへば、

「しか、仰おほせ言ごとはべりし後のちは、さるべきついではべらば、と待まちはべりしに、去年こぞは過すぎて、この二月にがちになむ、初瀬はつせ詣まうでのたよりに対面たいめんしてはべりし。

かの母君ははぎみに、思おぼし召めしたるさまは、ほのめかしはべりしかば、いとかたはらいたく、かたじけなき御おほんよそへにこそははべるなれ、などなむはべりしかど、そのころほひは、のどやかにもおはしまさずと承うけたまはりし、折をり便びんなく思おもひたまへつつみて、かくなむ、とも聞きこえさせはべらざりしを、またこの月つきにも詣まうでて、今日けふ帰かへりたまふなめり。

行ゆき帰かへりの中宿なかやどりには、かく睦むつびらるるも、ただ過すぎにし御おほんけはひを尋たづねきこゆるゆゑになむはべめる。かの母君ははぎみも、障さはることありて、このたびは、独ひとりものしたまふめれば、かくおはしますとも、何なにかは、ものしはべらむとて」

 と聞きこゆ。

「田舎ゐなかびたる人ひとどもに、忍しのびやつれたるありきも見みえじとて、口固くちがためつれど、いかがあらむ。下衆げすどもは隠かくれあらじかし。さて、いかがすべき。独ひとりものすらむこそ、なかなか心こころやすかなれ。かく契ちぎり深ふかくてなむ、参まゐり来きあひたる、と伝つたへたまへかし」

 とのたまへば、

「うちつけに、いつのほどなる御おほん契ちぎりにかは」

 と、うち笑わらひて、

「さらば、しか伝つたへはべらむ」

 とて、入いるに、

「貌鳥かほどりの声こゑも聞ききしにかよふやと茂しげみを分わけて今日けふぞ尋たづぬる」

 ただ口くちずさみのやうにのたまふを、入いりて語かたりけり。

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