『源氏物語』第34帖「若菜上」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第34帖「若菜上」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第34帖「若菜上」現代語訳全文をご覧ください。

目次

朱雀院の帝、ありし御幸ののち

 朱雀院すざくゐんの帝みかど、ありし御幸みゆきののち、そのころほひより、例れいならず悩なやみわたらせたまふ。もとよりあつしくおはしますうちに、このたびはもの心細こころぼそく思おぼし召めされて、

「年としごろ行おこなひの本意ほい深ふかきを、后きさいの宮みやおはしましつるほどは、よろづ憚はばかりきこえさせたまひて、今いままで思おぼしとどこほりつるを、なほその方かたにもよほすにやあらむ、世よに久ひさしかるまじき心地ここちなむする」

 などのたまはせて、さるべき御心みこころまうけどもせさせたまふ。

 御子みこたちは、春宮とうぐうをおきたてまつりて、女をんな宮みやたちなむ四よ所ところおはしましける。その中なかに、藤ふぢ壺つぼと聞きこえしは、先帝せんだいの源氏げんじにぞおはしましける。

 まだ坊ばうと聞きこえさせし時とき参まゐりたまひて、高たかき位くらゐにも定さだまりたまべかりし人ひとの、取とり立たてたる御後見おほんうしろみもおはせず、母はは方かたもその筋すぢとなく、ものはかなき更衣かうい腹ばらにてものしたまひければ、御交おほんまじらひのほども心細こころぼそげにて、大后おほきさきの、尚侍ないしのかみを参まゐらせたてまつりたまひて、かたはらに並ならぶ人ひとなくもてなしきこえたまひなどせしほどに、気圧けおされて、帝みかども御心みこころのうちに、いとほしきものには思おもひきこえさせたまひながら、下おりさせたまひにしかば、かひなく口惜くちをしくて、世よの中なかを恨うらみたるやうにて亡うせたまひにし。

 その御腹おほんはらの女をんな三さんの宮みやを、あまたの御中おほんなかに、すぐれてかなしきものに思おもひかしづききこえたまふ。

 そのほど、御年おほんとし、十じふ三さん、四しばかりおはす。

「今いまはと背そむき捨すて、山籠やまごもりしなむ後のちの世よにたちとまりて、誰たれを頼たのむ蔭かげにてものしたまはむとすらむ」

 と、ただこの御おほんことをうしろめたく思おぼし嘆なげく。

 西にし山やまなる御寺みてら造つくり果はてて、移うつろはせたまはむほどの御おほんいそぎをせさせたまふに添そへて、またこの宮みやの御裳着おほんもぎのことを思おぼしいそがせたまふ。

 院ゐんのうちにやむごとなく思おぼす御宝物おほんたからもの、御調度みてうどどもをばさらにもいはず、はかなき御遊おほんあそびものまで、すこしゆゑある限かぎりをば、ただこの御方おほんかたに取とりわたしたてまつらせたまひて、その次々つぎつぎをなむ、異こと御子みこたちには、御処分ごしょぶんどもありける。

春宮は、かかる御悩みに添へて

 春宮とうぐうは、「かかる御悩おほんなやみに添そへて、世よを背そむかせたまふべき御心みこころづかひになむ」と聞きかせたまひて、渡わたらせたまへり。母はは女御にょうご、添そひきこえさせたまひて参まゐりたまへり。すぐれたる御おほんおぼえにしもあらざりしかど、宮みやのかくておはします御宿世おほんすくせの、限かぎりなくめでたければ、年としごろの御物語おほんものがたり、こまやかに聞きこえさせたまひけり。

 宮みやにも、よろづのこと、世よをたもちたまはむ御心みこころづかひなど、聞きこえ知しらせたまふ。御年おほんとしのほどよりはいとよく大人おとなびさせたまひて、御後見おほんうしろみどもも、こなたかなた、軽々かろがろしからぬ仲なからひにものしたまへば、いとうしろやすく思おもひきこえさせたまふ。

「この世よに恨うらみ残のこることもはべらず。女をんな宮みやたちのあまた残のこりとどまる行ゆく先さきを思おもひやるなむ、さらぬ別わかれにもほだしなりぬべかりける。さきざき、人ひとの上うへに見聞みききしにも、女をんなは心こころよりほかに、あはあはしく、人ひとにおとしめらるる宿世すくせあるなむ、いと口惜くちをしく悲かなしき。

いづれをも、思おもふやうならむ御世みよには、さまざまにつけて、御心みこころとどめて思おぼし尋たづねよ。その中なかに、後見うしろみなどあるは、さる方かたにも思おもひ譲ゆづりはべり。

三さんの宮みやなむ、いはけなき齢よはひにて、ただ一人ひとりを頼たのもしきものとならひて、うち捨すててむ後のちの世よに、ただよひさすらへむこと、いといとうしろめたく悲かなしくはべる」

 と、御目おほんめおし拭のごひつつ、聞きこえ知しらせさせたまふ。

 女御にょうごにも、うつくしきさまに聞きこえつけさせたまふ。されど、女御にょうごの、人ひとよりはまさりて時ときめきたまひしに、皆みな挑いどみ交かはしたまひしほど、御仲おほんなからひども、えうるはしからざりしかば、その名残なごりにて、「げに、今いまはわざと憎にくしなどはなくとも、まことに心こころとどめて思おもひ後見うしろみむとまでは思おぼさずもや」とぞ推おし量はからるるかし。

 朝夕あさゆふに、この御おほんことを思おぼし嘆なげく。年とし暮くれゆくままに、御悩おほんなやみまことに重おもくなりまさらせたまひて、御簾みすの外とにも出いでさせたまはず。御おほんもののけにて、時々ときどき悩なやませたまふこともありつれど、いとかくうちはへをやみなきさまにはおはしまさざりつるを、「このたびは、なほ、限かぎりなり」と思おぼし召めしたり。

 御位おほんくらゐを去さらせたまひつれど、なほその世よに頼たのみそめたてまつりたまへる人ひとびとは、今いまもなつかしくめでたき御おほんありさまを、心こころやりどころに参まゐり仕つかうまつりたまふ限かぎりは、心こころを尽つくして惜をしみきこえたまふ。

六条院よりも、御訪らひしばしばあり

 六条院ろくでうのゐんよりも、御訪おほんとぶらひしばしばあり。みづからも参まゐりたまふべきよし、聞きこし召めして、院ゐんはいといたく喜よろこびきこえさせたまふ。

 中納言ちうなごんの君きみ参まゐりたまへるを、御簾みすの内うちに召めし入いれて、御物語おほんものがたりこまやかなり。

「故院こゐんの上うへの、今いまはのきざみに、あまたの御遺言ごゆいごんありし中なかに、この院ゐんの御おほんこと、今いまの内裏うちの御おほんことなむ、取とり分わきてのたまひ置おきしを、公おほやけとなりて、こと限かぎりありければ、うちうちの御心みこころ寄よせは、変かはらずながら、はかなきことのあやまりに、心こころおかれたてまつることもありけむと思おもふを、年としごろことに触ふれて、その恨うらみ残のこしたまへるけしきをなむ漏もらしたまはぬ。

賢さかしき人ひとといへど、身みの上うへになりぬれば、こと違たがひて、心こころ動うごき、かならずその報むくい見みえ、ゆがめることなむ、いにしへだに多おほかりける。

いかならむ折をりにか、その御心みこころばへほころぶべからむと、世よの人ひともおもむけ疑うたがひけるを、つひに忍しのび過すぐしたまひて、春宮とうぐうなどにも心こころを寄よせきこえたまふ。今いまはた、またなく親したしかるべき仲なかとなり、睦むつび交かはしたまへるも、限かぎりなく心こころには思おもひながら、本性ほんじゃうの愚おろかなるに添そへて、子この道みちの闇やみにたち交まじり、かたくななるさまにやとて、なかなかよそのことに聞きこえ放はなちたるさまにてはべる。

内裏うちの御おほんことは、かの御遺言ごゆいごん違たがへず仕つかうまつりおきてしかば、かく末すゑの世よの明あきらけき君きみとして、来きしかたの御面おほんおもてをも起おこしたまふ。本意ほいのごと、いとうれしくなむ。

この秋あきの行幸ぎゃうがうの後のち、いにしへのこととり添そへて、ゆかしくおぼつかなくなむおぼえたまふ。対面たいめんに聞きこゆべきことどもはべり。かならずみづから訪とぶらひものしたまふべきよし、もよほし申まうしたまへ」

 など、うちしほたれつつのたまはす。

中納言の君、過ぎはべりにけむ方は

 中納言ちうなごんの君きみ、

「過すぎはべりにけむ方かたは、ともかくも思おもうたまへ分わきがたくはべり。年としまかり入いりはべりて、朝廷おほやけにも仕つかうまつりはべるあひだ、世よの中なかのことを見みたまへまかりありくほどには、大小だいせうのことにつけても、うちうちのさるべき物語ものがたりなどのついでにも、いにしへのうれはしきことありてなむなど、うちかすめ申まうさるる折をりははべらずなむ。

かく朝廷おほやけの御後見おほんうしろみを仕つかうまつりさして、静しづかなる思おもひをかなへむと、ひとへに籠こもりゐし後のちは、何なにごとをも、知しらぬやうにて、故院こゐんの御遺言ごゆいごんのごともえ仕つかうまつらず、御位みくらゐにおはしましし世よには、齢よはひのほども、身みのうつはものも及およばず、かしこき上かみの人ひとびと多おほくて、その心こころざしを遂とげて御覧ごらんぜらるることもなかりき。今いま、かく政事まつりごとを去さりて、静しづかにおはしますころほひ、心こころのうちをも隔へだてなく、参まゐりうけたまはらまほしきを、さすがに何なにとなく所狭ところせき身みのよそほひにて、おのづから月日つきひを過すぐすこと

となむ、折々をりをり嘆なげき申まうしたまふ」

 など、奏そうしたまふ。

 二十はたちにもまだわづかなるほどなれど、いとよくととのひ過すぐして、容貌かたちも盛さかりに匂にほひて、いみじくきよらなるを、御目おほんめにとどめてうちまもらせたまひつつ、このもてわづらはせたまふ姫宮ひめみやの御後見おほんうしろみに、これをやなど、人ひと知しれず思おぼし寄よりけり。

「太政大臣おほきおとどのわたりに、今いまは住すみつかれにたりとな。年としごろ心得こころえぬさまに聞ききしが、いとほしかりしを、耳みみやすきものから、さすがにねたく思おもふことこそあれ」

 とのたまはする御おほんけしきを、「いかにのたまはするにか」と、あやしく思おもひめぐらすに、「この姫宮ひめみやをかく思おぼし扱あつかひて、さるべき人ひとあらば、預あづけて、心こころやすく世よをも思おもひ離はなればや、となむ思おぼしのたまはする」と、おのづから漏もり聞ききたまふ便たよりありければ、「さやうの筋すぢにや」とは思おもひぬれど、ふと心得こころえ顔がほにも、何なにかはいらへきこえさせむ。ただ、

「はかばかしくもはべらぬ身みには、寄よるべもさぶらひがたくのみなむ」

 とばかり奏そうして止やみぬ。

女房などは、覗きて見きこえて

 女房にょうばうなどは、覗のぞきて見みきこえて、

「いとありがたくも見みえたまふ容貌かたち、用意よういかな」

「あな、めでた」

 など、集あつまりて聞きこゆるを、老おいしらへるは、

「いで、さりとも、かの院ゐんのかばかりにおはせし御おほんありさまには、えなずらひきこえたまはざめり。いと目めもあやにこそきよらにものしたまひしか」

 など、言いひしろふを聞きこしめして、

「まことに、かれはいとさま異ことなりし人ひとぞかし。今いまはまた、その世よにもねびまさりて、光ひかるとはこれを言いふべきにやと見みゆる匂にほひなむ、いとど加くははりにたる。うるはしだちて、はかばかしき方かたに見みれば、いつくしくあざやかに、目めも及およばぬ心地ここちするを、また、うちとけて、戯たはぶれごとをも言いひ乱みだれ遊あそべば、その方かたにつけては、似にるものなく愛敬あいぎゃうづき、なつかしくうつくしきことの、並ならびなきこそ、世よにありがたけれ。何なにごとにも前さきの世よ推おし量はかられて、めづらかなる人ひとのありさまなり。

宮みやの内うちに生おひ出いでて、帝王ていわうの限かぎりなくかなしきものにしたまひ、さばかり撫なでかしづき、身みに変かへて思おぼしたりしかど、心こころのままにも驕おごらず、卑下ひげして、二十はたちがうちには、納言なふごんにもならずなりにきかし。一ひとつ余あまりてや、宰相さいしゃうにて大将だいしゃうかけたまへりけむ。

それに、これはいとこよなく進すすみにためるは、次々つぎつぎの子この世よのおぼえのまさるなめりかし。まことに賢かしこき方かたの才ざえ、心こころもちゐなどは、これもをさをさ劣おとるまじく、あやまりても、およすけまさりたるおぼえ、いと異ことなめり」

 など、めでさせたまふ。

姫宮のいとうつくしげにて

 姫宮ひめみやのいとうつくしげにて、若わかく何心なにごころなき御おほんありさまなるを見みたてまつりたまふにも、

「見みはやしたてまつり、かつはまた、片生かたおひならむことをば、見み隠かくし教をしへきこえつべからむ人ひとの、うしろやすからむに預あづけきこえばや」

 など聞きこえたまふ。

 大人おとなしき御乳母おほんめのとども召めし出いでて、御裳着おほんもぎのほどのことなどのたまはするついでに、

「六条ろくでうの大殿おとどの、式部卿親王しきぶきゃうのみこの女むすめ生おほし立たてけむやうに、この宮みやを預あづかりて育はぐくまむ人ひともがな。ただ人うどの中なかにはありがたし。内裏うちには中宮ちうぐうさぶらひたまふ。次々つぎつぎの女御にょうごたちとても、いとやむごとなき限かぎりものせらるるに、はかばかしき後見うしろみなくて、さやうの交まじらひ、いとなかなかならむ。

この権中納言ごんのちうなごんの朝臣あそんの独ひとりありつるほどに、うちかすめてこそ試こころみるべかりけれ。若わかけれど、いと警策きゃうざくに、生おひ先さき頼たのもしげなる人ひとにこそあめるを」

 とのたまはす。

「中納言ちうなごんは、もとよりいとまめ人びとにて、年としごろも、かのわたりに心こころをかけて、ほかざまに思おもひ移うつろふべくもはべらざりけるに、その思おもひ叶かなひては、いとど揺ゆるぐ方かたはべらじ。

かの院ゐんこそ、なかなか、なほいかなるにつけても、人ひとをゆかしく思おぼしたる心こころは、絶たえずものせさせたまふなれ。その中なかにも、やむごとなき御願おほんねがひ深ふかくて、前斎院さきのさいゐんなどをも、今いまに忘わすれがたくこそ、聞きこえたまふなれ」

 と申まうす。

「いで、その旧ふりせぬあだけこそは、いとうしろめたけれ」

 とはのたまはすれど、

「げに、あまたの中なかにかかづらひて、めざましかるべき思おもひはありとも、なほやがて親おやざまに定さだめたるにて、さもや譲ゆづりおききこえまし」

 なども、思おぼし召めすべし。

「まことに、少すこしも世よづきてあらせむと思おもはむ女子をんなご持もたらば、同おなじくは、かの人ひとのあたりにこそ、触ふればはせまほしけれ。いくばくならぬこの世よのあひだは、さばかり心こころゆくありさまにてこそ、過すぐさまほしけれ。

われ女をんなならば、同おなじはらからなりとも、かならず睦むつび寄よりなまし。若わかかりし時ときなど、さなむおぼえし。まして、女をんなの欺あざむかれむは、いと、ことわりぞや」

 とのたまはせて、御心みこころのうちに、尚侍かんの君きみの御おほんことも、思おぼし出いでらるべし。

この御後見どもの中に

 この御後見おほんうしろみどもの中なかに、重々おもおもしき御乳母おほんめのとの兄せうと、左中弁さちうべんなる、かの院ゐんの親したしき人ひとにて、年としごろ仕つかうまつるありけり。この宮みやにも心寄こころよせことにてさぶらへば、参まゐりたるにあひて、物語ものがたりするついでに、

「主上うへなむ、しかしか御みけしきありて聞きこえたまひしを、かの院ゐんに、折をりあらば漏もらしきこえさせたまへ。皇女みこたちは、独ひとりおはしますこそは例れいのことなれど、さまざまにつけて心寄こころよせたてまつり、何なにごとにつけても、御後見おほんうしろみしたまふ人ひとあるは頼たのもしげなり。

主上うへをおきたてまつりて、また真心まごころに思おもひきこえたまふべき人ひともなければ、おのらは、仕つかうまつるとても、何なにばかりの宮仕みやづかへにかあらむ。わが心こころ一ひとつにしもあらで、おのづから思おもひの他ほかのこともおはしまし、軽々かるがるしき聞きこえもあらむ時ときには、いかさまにかは、わづらはしからむ。御覧ごらんずる世よに、ともかくも、この御おほんこと定さだまりたらば、仕つかうまつりよくなむあるべき。

かしこき筋すぢと聞きこゆれど、女をんなは、いと宿世すくせ定さだめがたくおはしますものなれば、よろづに嘆なげかしく、かくあまたの御中おほんなかに、取とり分わききこえさせたまふにつけても、人ひとの嫉そねみあべかめるを、いかで塵ちりも据すゑたてまつらじ」

 と語かたらふに、弁べん、

「いかなるべき御おほんことにかあらむ。院ゐんは、あやしきまで御心長みこころながく、仮かりにても見みそめたまへる人ひとは、御心みこころとまりたるをも、またさしも深ふかからざりけるをも、かたがたにつけて尋たづね取とりたまひつつ、あまた集つどへきこえたまへれど、やむごとなく思おぼしたるは、限かぎりありて、一方ひとかたなめれば、それにことよりて、かひなげなる住すまひしたまふ方々かたがたこそは多おほかめるを、御宿世おほんすくせありて、もし、さやうにおはしますやうもあらば、いみじき人ひとと聞きこゆとも、立たち並ならびておしたちたまふことは、えあらじとこそは推おし量はからるれど、なほ、いかがと憚はばからるることありてなむおぼゆる。

さるは、この世よの栄さかえ、末すゑの世よに過すぎて、身みに心こころもとなきことはなきを、女をんなの筋すぢにてなむ、人ひとのもどきをも負おひ、わが心こころにも飽あかぬこともあるとなむ、常つねにうちうちのすさびごとにも思おぼしのたまはすなる。

げに、おのれらが見みたてまつるにも、さなむおはします。かたがたにつけて、御蔭みかげに隠かくしたまへる人ひと、皆みなその人ひとならず立たち下くだれる際きはにはものしたまはねど、限かぎりあるただ人うどどもにて、院ゐんの御おほんありさまに並ならぶべきおぼえ具ぐしたるやはおはすめる。

それに、同おなじくは、げにさもおはしまさば、いかにたぐひたる御おほんあはひならむ」

 と語かたらふを、

乳母、またことのついでに

 乳母めのと、またことのついでに、

「しかしかなむ、なにがしの朝臣あそんにほのめかしはべしかば、かの院ゐんには、かならずうけひき申まうさせたまひてむ。年としごろの御おほん本意ほいかなひて思おぼしぬべきことなるを、こなたの御許おほんゆるしまことにありぬべくは、伝つたへきこえむとなむ申まうしはべりしを、いかなるべきことにかははべらむ。

ほどほどにつけて、人ひとの際々きはぎは思おぼしわきまへつつ、ありがたき御心みこころざまにものしたまふなれど、ただ人うどだに、またかかづらひ思おもふ人ひと立たち並ならびたることは、人ひとの飽あかぬことにしはべめるを、めざましきこともやはべらむ。御後見おほんうしろみ望のぞみたまふ人ひとびとは、あまたものしたまふめり。

よく思おぼし定さだめてこそよくはべらめ。限かぎりなき人ひとと聞きこゆれど、今いまの世よのやうとては、皆みなほがらかに、あるべかしくて、世よの中なかを御心みこころと過すぐしたまひつべきもおはしますべかめるを、姫宮ひめみやは、あさましくおぼつかなく、心こころもとなくのみ見みえさせたまふに、さぶらふ人ひとびとは、仕つかうまつる限かぎりこそはべらめ。

おほかたの御心みこころおきてに従したがひきこえて、賢さかしき下人しもびともなびきさぶらふこそ、頼たよりあることにはべらめ。取とり立たてたる御後見おほんうしろみものしたまはざらむは、なほ心細こころぼそきわざになむはべるべき」

 と聞きこゆ。

しか思ひたどるによりなむ

「しか思おもひたどるによりなむ。皇女みこたちの世よづきたるありさまは、うたてあはあはしきやうにもあり、また高たかき際きはといへども、女をんなは男をとこに見みゆるにつけてこそ、悔くやしげなることも、めざましき思おもひも、おのづからうちまじるわざなめれと、かつは心苦こころぐるしく思おもひ乱みだるるを、また、さるべき人ひとに立たちおくれて、頼たのむ蔭かげどもに別わかれぬる後のち、心こころを立たてて世よの中なかに過すぐさむことも、昔むかしは、人ひとの心こころたひらかにて、世よに許ゆるさるまじきほどのことをば、思おもひ及およばぬものとならひたりけむ、今いまの世よには、好すき好ずきしく乱みだりがはしきことも、類るいに触ふれて聞きこゆめりかし。

昨日きのふまで高たかき親おやの家いへにあがめられかしづかれし人ひとの女むすめの、今日けふは直々なほなほしく下くだれる際きはの好すき者ものどもに名なを立たち欺あざむかれて、亡なき親おやの面おもてを伏ふせ、影かげを恥はづかしむるたぐひ多おほく聞きこゆる。言いひもてゆけば皆みな同おなじことなり。

ほどほどにつけて、宿世すくせなどいふなることは、知しりがたきわざなれば、よろづにうしろめたくなむ。すべて、悪あしくも善よくも、さるべき人ひとの心こころに許ゆるしおきたるままにて世よの中なかを過すぐすは、宿世すくせ宿世すくせにて、後のちの世よに衰おとろへある時ときも、みづからの過あやまちにはならず。

あり経へて、こよなき幸さいはひあり、めやすきことになる折をりは、かくても悪あしからざりけりと見みゆれど、なほ、たちまちふとうち聞ききつけたるほどは、親おやに知しられず、さるべき人ひとも許ゆるさぬに、心こころづからの忍しのびわざし出いでたるなむ、女をんなの身みにはますことなき疵きずとおぼゆるわざなる。

直々なほなほしきただ人うどの仲なからひにてだに、あはつけく心こころづきなきことなり。みづからの心こころより離はなれてあるべきにもあらぬを、思おもふ心こころよりほかに人ひとにも見みえず、宿世すくせのほど定さだめられむなむ、いと軽々かろがろしく、身みのもてなし、ありさま推おし量はからるることなるを。

あやしくものはかなき心こころざまにやと見みゆめる御おほんさまなるを、これかれの心こころにまかせ、もてなしきこゆな、さやうなることの世よに漏もり出いでむこと、いと憂うきことなり」

 など、見捨みすてたてまつりたまはむ後のちの世よを、うしろめたげに思おもひきこえさせたまへれば、いよいよわづらはしく思おもひあへり。

今すこしものをも思ひ知りたまふほどまで見

「今いますこしものをも思おもひ知しりたまふほどまで見過みすぐさむとこそは、年としごろ念ねんじつるを、深ふかき本意ほいも遂とげずなりぬべき心地ここちのするに思おもひもよほされてなむ。

かの六条ろくでうの大殿おとどは、げに、さりともものの心得こころえて、うしろやすき方かたはこよなかりなむを、方々かたがたにあまたものせらるべき人ひとびとを知しるべきにもあらずかし。とてもかくても、人ひとの心こころからなり。のどかにおちゐて、おほかたの世よのためしとも、うしろやすき方かたは並ならびなくものせらるる人ひとなり。さらで良よろしかるべき人ひと、誰たればかりかはあらむ。

兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや、人柄ひとがらはめやすしかし。同おなじき筋すぢにて、異人ことびととわきまへおとしむべきにはあらねど、あまりいたくなよびよしめくほどに、重おもき方かたおくれて、すこし軽かろびたるおぼえや進すすみにたらむ。なほ、さる人ひとはいと頼たのもしげなくなむある。

また、大納言だいなごんの朝臣あそんの家司いへづかさ望のぞむなる、さる方かたに、ものまめやかなるべきことにはあなれど、さすがにいかにぞや。さやうにおしなべたる際きはは、なほめざましくなむあるべき。

昔むかしも、かうやうなる選えらびには、何事なにごとも人ひとに異ことなるおぼえあるに、ことよりてこそありけれ。ただひとへに、またなく持もちゐむ方かたばかりを、かしこきことに思おもひ定さだめむは、いと飽あかず口惜くちをしかるべきわざになむ。

右衛門督ゑもんのかみの下したにわぶなるよし、尚侍ないしのかみのものせられし、その人ひとばかりなむ、位くらゐなど今いますこしものめかしきほどになりなば、などかは、とも思おもひ寄よりぬべきを、まだ年としいと若わかくて、むげに軽かろびたるほどなり。

高たかき心こころざし深ふかくて、やもめにて過すぐしつつ、いたくしづまり思おもひ上あがれるけしき、人ひとには抜ぬけて、才ざえなどもこともなく、つひには世よのかためとなるべき人ひとなれば、行ゆく末すゑも頼たのもしけれど、なほまたこのためにと思おもひ果はてむには、限かぎりぞあるや」

 と、よろづに思おぼしわづらひたり。

 かうやうにも思おぼし寄よらぬ姉あね宮みやたちをば、かけても聞きこえ悩なやましたまふ人ひともなし。あやしく、うちうちにのたまはする御おほんささめき言ごとどもの、おのづからひろごりて、心こころを尽つくす人ひとびと多おほかりけり。

太政大臣も、この衛門督の

 太政大臣おほきおとども、

「この衛門督ゑもんのかみの、今いままでひとりのみありて、皇女みこたちならずは得えじと思おもへるを、かかる御おほん定さだめども出いで来きたなる折をりに、さやうにもおもむけたてまつりて、召めし寄よせられたらむ時とき、いかばかりわがためにも面目めんぼくありてうれしからむ」

 と、思おぼしのたまひて、尚侍ないしのかんの君きみには、かの姉あね北きたの方かたして、伝つたへ申まうしたまふなりけり。よろづ限かぎりなき言ことの葉はを尽つくして奏そうせさせ、御みけしき賜たまはらせたまふ。

 兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやは、左大将さだいしゃうの北きたの方かたを聞きこえ外はづしたまひて、聞ききたまふらむところもあり、かたほならむことはと、選えり過すぐしたまふに、いかがは御心みこころの動うごかざらむ。限かぎりなく思おぼし焦いられたり。

 藤大納言とうだいなごんは、年としごろ院ゐんの別当べたうにて、親したしく仕つかうまつりてさぶらひ馴なれにたるを、御み山籠やまごもりしたまひなむ後のち、寄より所どころなく心細こころぼそかるべきに、この宮みやの御後見おほんうしろみにことよせて、顧かへりみさせたまふべく、御みけしき切せちに賜たまはりたまふなるべし。

権中納言も、かかることどもを聞きたまふに

 権中納言ごんのちうなごんも、かかることどもを聞ききたまふに、

「人伝ひとづてにもあらず、さばかりおもむけさせたまへりし御みけしきを見みたてまつりてしかば、おのづから便たよりにつけて、漏もらし、聞きこし召めさることもあらば、よももて離はなれてはあらじかし」

 と、心こころときめきもしつべけれど、

「女君をんなぎみの今いまはとうちとけて頼たのみたまへるを、年としごろ、つらきにもことつけつべかりしほどだに、他ほかざまの心こころもなくて過すぐしてしを、あやにくに、今いまさらに立たち返かへり、にはかに物ものをや思おもはせきこえむ。なのめならずやむごとなき方かたにかかづらひなば、何なにごとも思おもふままならで、左右ひだりみぎに安やすからずは、わが身みも苦くるしくこそはあらめ」

 など、もとより好すき好ずきしからぬ心こころなれば、思おもひしづめつつうち出いでねど、さすがに他ほかざまに定さだまり果はてたまはむも、いかにぞやおぼえて、耳みみはとまりけり。

春宮にも、かかることども聞こし召して

 春宮とうぐうにも、かかることども聞きこし召めして、

「さし当あたりたるただ今いまのことよりも、後のちの世よの例ためしともなるべきことなるを、よく思おぼし召めしめぐらすべきことなり。人柄ひとがらよろしとても、ただ人うどは限かぎりあるを、なほ、しか思おぼし立たつことならば、かの六条院ろくでうのゐんにこそ、親おやざまに譲ゆづりきこえさせたまはめ」

 となむ、わざとの御消息おほんせうそことはあらねど、御みけしきありけるを、待まち聞きかせたまひても、

「げに、さることなり。いとよく思おぼしのたまはせたり」

 と、いよいよ御心みこころ立たたせたまひて、まづ、かの弁べんしてぞ、かつがつ案内あない伝つたへきこえさせたまひける。

この宮の御こと

 この宮みやの御おほんこと、かく思おぼしわづらふさまは、さきざきも皆みな聞ききおきたまへれば、

「心苦こころぐるしきことにもあなるかな。さはありとも、院ゐんの御世みよ残のこりすくなしとて、ここにはまた、いくばく立たちおくれたてまつるべしとてか、その御後見おほんうしろみの事ことをば受うけとりきこえむ。げに、次第しだいを過あやまたぬにて、今いましばしのほども残のこりとまる限かぎりあらば、おほかたにつけては、いづれの皇女みこたちをも、よそに聞きき放はなちたてまつるべきにもあらねど、またかく取とり分わきて聞ききおきたてまつりてむをば、ことにこそは後見うしろみきこえめと思おもふを、それだにいと不定ふぢゃうなる世よの定さだめなさなりや」

 とのたまひて、

「まして、ひとつに頼たのまれたてまつるべき筋すぢに、むつび馴なれきこえむことは、いとなかなかに、うち続つづき世よを去さらむきざみ心苦こころぐるしく、みづからのためにも浅あさからぬほだしになむあるべき。

中納言ちうなごんなどは、年とし若わかく軽々かろがろしきやうなれど、行ゆく先さき遠とほくて、人柄ひとがらも、つひに朝廷おほやけの御後見おほんうしろみともなりぬべき生おひ先さきなめれば、さも思おぼし寄よらむに、などかこよなからむ。

されど、いといたくまめだちて、思おもふ人ひと定さだまりにてぞあめれば、それに憚はばからせたまふにやあらむ」

 などのたまひて、みづからは思おぼし離はなれたるさまなるを、弁べんは、おぼろけの御おほん定さだめにもあらぬを、かくのたまへば、いとほしく、口惜くちをしくも思おもひて、うちうちに思おぼし立たちにたるさまなど、詳くはしく聞きこゆれば、さすがに、うち笑ゑみつつ、

「いとかなしくしたてまつりたまふ皇女みこなめれば、あながちにかく来きし方かた行ゆく先さきのたどりも深ふかきなめりかしな。ただ、内裏うちにこそたてまつりたまはめ。やむごとなきまづの人ひとびとおはすといふことは、よしなきことなり。それにさはるべきことにもあらず。かならずさりとて、末すゑの人ひと疎おろかなるやうもなし。

故院こゐんの御時おほんときに、大后おほきさきの、坊ばうの初はじめの女御にょうごにて、いきまきたまひしかど、むげの末すゑに参まゐりたまへりし入道宮にふだうのみやに、しばしは圧おされたまひにきかし。

この皇女みこの御おほん母はは女御にょうごこそは、かの宮みやの御おほんはらからにものしたまひけめ。容貌かたちも、さしつぎには、いとよしと言いはれたまひし人ひとなりしかば、いづ方かたにつけても、この姫宮ひめみやおしなべての際きはにはよもおはせじを」

 など、いぶかしくは思おもひきこえたまふべし。

年も暮れぬ。朱雀院には

 年としも暮くれぬ。朱雀院すざくゐんには、御心地みここちなほおこたるさまにもおはしまさねば、よろづあわたたしく思おぼし立たちて、御裳着おほんもぎのことは、思おぼしいそぐさま、来きし方かた行ゆく先さきありがたげなるまで、いつくしくののしる。

 御おほんしつらひは、柏殿かへどのの西にし面おもてに、御帳みちゃう、御几帳みきちゃうよりはじめて、ここの綾あや錦にしき混まぜさせたまはず、唐土もろこしの后きさきの飾かざりを思おぼしやりて、うるはしくことことしく、かかやくばかり調ととのへさせたまへり。

 御腰結おほんこしゆひには、太政大臣おほきおとどをかねてより聞きこえさせたまへりければ、ことことしくおはする人ひとにて、参まゐりにくく思おぼしけれど、院ゐんの御言おほんことを昔むかしより背そむき申まうしたまはねば、参まゐりたまふ。

 今いま二所ふたところの大臣おとどたち、その残のこり上達部かむだちめなどは、わりなき障さはりあるも、あながちにためらひ助たすけつつ参まゐりたまふ。親王みこたち八人はちにん、殿上人てんじゃうびとはたさらにもいはず、内裏うち、春宮とうぐうの残のこらず参まゐり集つどひて、いかめしき御おほんいそぎの響ひびきなり。

 院ゐんの御おほんこと、このたびこそとぢめなれと、帝みかど、春宮とうぐうをはじめたてまつりて、心苦こころぐるしく聞きこし召めしつつ、蔵人所くらうどどころ、納殿をさめどのの唐から物ものども、多おほくたてまつらせたまへり。

 六条院ろくでうのゐんよりも、御おほんとぶらひいとこちたし。贈おくり物ものども、人ひとびとの禄ろく、尊者そんじゃの大臣おとどの御おほん引出物ひきいでものなど、かの院ゐんよりぞたてまつらせたまひける。

中宮よりも、御装束

 中宮ちうぐうよりも、御装束おほんさうぞく、櫛くしの筥はこ、心こころことに調てうぜさせたまひて、かの昔むかしの御髪上みぐしあげの具ぐ、ゆゑあるさまに改あらため加くはへて、さすがに元もとの心こころばへも失うしなはず、それと見みせて、その日ひの夕ゆふつ方かた、たてまつれさせたまふ。宮みやの権ごんの亮すけ、院ゐんの殿上てんじゃうにもさぶらふを御使おほんつかひにて、姫宮ひめみやの御方おほんかたに参まゐらすべくのたまはせつれど、かかる言ことぞ、中なかにありける。

「さしながら昔むかしを今いまに伝つたふれば玉たまの小櫛をぐしぞ神かみさびにける」

 院ゐん、御覧ごらんじつけて、あはれに思おぼし出いでらるることもありけり。あえ物ものけしうはあらじと譲ゆづりきこえたまへるほど、げに、おもだたしき簪かんざしなれば、御返おほんかへりも、昔むかしのあはれをばさしおきて、

「さしつぎに見みるものにもが万世よろづよを黄楊つげの小櫛をぐしの神かみさぶるまで」

 とぞ祝いはひきこえたまへる。

御心地いと苦しきを念じつつ

 御心地みここちいと苦くるしきを念ねんじつつ、思おぼし起おこして、この御おほんいそぎ果はてぬれば、三日みか過すぐして、つひに御髪みぐし下おろしたまふ。よろしきほどの人ひとの上うへにてだに、今いまはとてさま変かはるは悲かなしげなるわざなれば、まして、いとあはれげに御方々おほんかたがたも思おぼし惑まどふ。

 尚侍ないしのかんの君きみは、つとさぶらひたまひて、いみじく思おぼし入いりたるを、こしらへかねたまひて、

「子こを思おもふ道みちは限かぎりありけり。かく思おもひしみたまへる別わかれの堪たへがたくもあるかな」

 とて、御心みこころ乱みだれぬべけれど、あながちに御脇息おほんけふそくにかかりたまひて、山やまの座主ざすよりはじめて、御忌おほんいむことの阿闍梨あざり三人みたりさぶらひて、法服ほふぶくなどたてまつるほど、この世よを別わかれたまふ御おほん作法さほふ、いみじく悲かなし。

 今日けふは、世よを思おもひ澄すましたる僧そうたちなどだに、涙なみだもえとどめねば、まして女をんな宮みやたち、女御にょうご、更衣かうい、ここらの男をとこ女をんな、上かみ下しもゆすり満みちて泣なきとよむに、いと心こころあわたたしう、かからで、静しづやかなる所ところに、やがて籠こもるべく思おぼしまうけける本意ほい違たがひて思おぼし召めさるるも、「ただ、この幼をさなき宮みやにひかされて」と思おぼしのたまはす。

 内裏うちよりはじめたてまつりて、御おほんとぶらひのしげさ、いとさらなり。

六条院も、すこし御心地よろしくと聞きたて

 六条院ろくでうのゐんも、すこし御心地みここちよろしくと聞ききたてまつらせたまひて、参まゐりたまふ。御賜おほんたうばりの御封みふなどこそ、皆みな同おなじごと、下おりゐの帝みかどと等ひとしく定さだまりたまへれど、まことの太上天皇だいじゃうてんわうの儀式ぎしきにはうけばりたまはず。世よのもてなし思おもひきこえたるさまなどは、心こころことなれど、ことさらに削そぎたまひて、例れいの、ことことしからぬ御車みくるまにたてまつりて、上達部かむだちめなど、さるべき限かぎり、車くるまにてぞ仕つかうまつりたまへる。

 院ゐんには、いみじく待まちよろこびきこえさせたまひて、苦くるしき御心地みここちを思おぼし強つよりて、御対面おほんたいめんあり。うるはしきさまならず、ただおはします方かたに、御座おましよそひ加くはへて、入いれたてまつりたまふ。

 変かはりたまへる御おほんありさま見みたてまつりたまふに、来きし方かた行ゆく先さき暮くれて、悲かなしくとめがたく思おぼさるれば、とみにもえためらひたまはず。

「故院こゐんにおくれたてまつりしころほひより、世よの常つねなく思おもうたまへられしかば、この方かたの本意ほい深ふかく進すすみはべりにしを、心弱こころよわく思おもうたまへたゆたふことのみはべりつつ、つひにかく見みたてまつりなしはべるまで、おくれたてまつりはべりぬる心こころのぬるさを、恥はづかしく思おもうたまへらるるかな。

身みにとりては、ことにもあるまじく思おもうたまへたちはべる折々をりをりあるを、さらにいと忍しのびがたきこと多おほかりぬべきわざにこそはべりけれ」

 と、慰なぐさめがたく思おぼしたり。

院も、もの心細く思さるるに

 院ゐんも、もの心細こころぼそく思おぼさるるに、え心強こころづよからず、うちしほれたまひつつ、いにしへ、今いまの御物語おほんものがたり、いと弱よわげに聞きこえさせたまひて、

「今日けふか明日あすかとおぼえはべりつつ、さすがにほど経へぬるを、うちたゆみて、深ふかき本意ほいの端はしにても遂とげずなりなむこと、と思おもひ起おこしてなむ。

かくても残のこりの齢よはひなくは、行おこなひの心こころざしも叶かなふまじけれど、まづ仮かりにても、のどめおきて、念仏ねんぶつをだにと思おもひはべる。はかばかしからぬ身みにても、世よにながらふること、ただこの心こころざしにひきとどめられたると、思おもうたまへ知しられぬにしもあらぬを、今いままで勤つとめなき怠おこたりをだに、安やすからずなむ」

 とて、思おぼしおきてたるさまなど、詳くはしくのたまはするついでに、

「女をんな皇女みこたちを、あまたうち捨すてはべるなむ心苦こころぐるしき。中なかにも、また思おもひ譲ゆづる人ひとなきをば、取とり分わきうしろめたく、見みわづらひはべる」

 とて、まほにはあらぬ御みけしき、心苦こころぐるしく見みたてまつりたまふ。

御心のうちにも

 御心みこころのうちにも、さすがにゆかしき御おほんありさまなれば、思おぼし過すぐしがたくて、

「げに、ただ人うどよりも、かかる筋すぢには、私わたくしざまの御後見おほんうしろみなきは、口惜くちをしげなるわざになむはべりける。春宮とうぐうかくておはしませば、いとかしこき末すゑの世よの儲まうけの君きみと、天あめの下したの頼たのみどころに仰あふぎきこえさするを。

まして、このことと聞きこえ置おかせたまはむことは、一ひと事こととして疎おろそかに軽かろめ申まうしたまふべきにはべらねば、さらに行ゆく先さきのこと思おぼし悩なやむべきにもはべらねど、げに、こと限かぎりあれば、公おほやけとなりたまひ、世よの政事まつりごと御心みこころにかなふべしとは言いひながら、女をんなの御おほんために、何なにばかりのけざやかなる御心みこころ寄よせあるべきにもはべらざりけり。

すべて、女をんなの御おほんためには、さまざま真まことの御後見おほんうしろみとすべきものは、なほさるべき筋すぢに契ちぎりを交かはし、えさらぬことに、育はぐくみきこゆる御護おほんまもりめはべるなむ、うしろやすかるべきことにはべるを、なほ、しひて後のちの世よの御おほん疑うたがひ残のこるべくは、よろしきに思おぼし選えらびて、忍しのびて、さるべき御おほん預あづかりを定さだめおかせたまふべきになむはべなる」

 と、奏そうしたまふ。

さやうに思ひ寄る事はべれど

「さやうに思おもひ寄よる事ことはべれど、それも難かたきことになむありける。いにしへの例ためしを聞ききはべるにも、世よをたもつ盛さかりの皇女みこにだに、人ひとを選えらびて、さるさまのことをしたまへるたぐひ多おほかりけり。

ましてかく、今いまはとこの世よを離はなるる際きはにて、ことことしく思おもふべきにもあらねど、また、しか捨すつる中なかにも、捨すてがたきことありて、さまざまに思おもひわづらひはべるほどに、病やまひは重おもりゆく。また取とり返かへすべきにもあらぬ月日つきひの過すぎゆけば、心こころあわたたしくなむ。

かたはらいたき譲ゆづりなれど、このいはけなき内親王ないしんわう、一人ひとり、分わきて育はぐくみ思おぼして、さるべきよすがをも、御心みこころに思おぼし定さだめて預あづけたまへ、と聞きこえまほしきを。

権中納言ごんのちうなごんなどの独ひとりものしつるほどに、進すすみ寄よるべくこそありけれ。大臣おほいまうちぎみに先せんぜられて、ねたくおぼえはべる」

 と聞きこえたまふ。

「中納言ちうなごんの朝臣あそん、まめやかなる方かたは、いとよく仕つかうまつりぬべくはべるを、何なにごともまだ浅あさくて、たどり少すくなくこそはべらめ。

かたじけなくとも、深ふかき心こころにて後見うしろみきこえさせはべらむに、おはします御蔭おほんかげに変かはりては思おぼされじを、ただ行ゆく先さき短みじかくて、仕つかうまつりさすことやはべらむと、疑うたがはしき方かたのみなむ、心苦こころぐるしくはべるべき」

 と、受うけ引ひき申まうしたまひつ。

夜に入りぬれば

 夜よに入いりぬれば、主人あるじの院ゐん方がたも、客人まらうとの上達部かむだちめたちも、皆みな御前おまへにて、御饗おほんあるじのこと、精進物しゃうじものにて、うるはしからず、なまめかしくせさせたまへり。院ゐんの御前おまへに、浅香せんかうの懸盤かけばんに御鉢みはちなど、昔むかしに変かはりて参まゐるを、人ひとびと、涙なみだおし拭のごひたまふ。あはれなる筋すぢのことどもあれど、うるさければ書かかず。

 夜よ更ふけて帰かへりたまふ。禄ろくども、次々つぎつぎに賜たまふ。別当べたう大納言だいなごんも御送おほんおくりに参まゐりたまふ。主人あるじの院ゐんは、今日けふの雪ゆきにいとど御おほん風邪かぜ加くははりて、かき乱みだり悩なやましく思おぼさるれど、この宮みやの御おほん事こと、聞きこえ定さだめつるを、心こころやすく思おぼしけり。

六条院は、なま心苦しう

 六条院ろくでうのゐんは、なま心苦こころぐるしう、さまざま思おぼし乱みだる。

 紫むらさきの上うへも、かかる御おほん定さだめなむと、かねてもほの聞ききたまひけれど、

「さしもあらじ。前斎院さきのさいゐんをも、ねむごろに聞きこえたまふやうなりしかど、わざとしも思おぼし遂とげずなりにしを」

 など思おぼして、「さることもやある」とも問とひきこえたまはず、何心なにごころもなくておはするに、いとほしく、

「この事ことをいかに思おぼさむ。わが心こころはつゆも変かはるまじく、さることあらむにつけては、なかなかいとど深ふかさこそまさらめ、見定みさだめたまはざらむほど、いかに思おもひ疑うたがひたまはむ」

 など安やすからず思おぼさる。

 今いまの年としごろとなりては、ましてかたみに隔へだてきこえたまふことなく、あはれなる御仲おほんなかなれば、しばし心こころに隔へだて残のこしたることあらむもいぶせきを、その夜よはうち休やすみて明あかしたまひつ。

またの日、雪うち降り

 またの日ひ、雪ゆきうち降ふり、空そらのけしきもものあはれに、過すぎにし方かた行ゆく先さきの御物語おほんものがたり聞きこえ交かはしたまふ。

「院ゐんの頼たのもしげなくなりたまひにたる、御おほんとぶらひに参まゐりて、あはれなることどものありつるかな。女をんな三さんの宮みやの御おほんことを、いと捨すてがたげに思おぼして、しかしかなむのたまはせつけしかば、心苦こころぐるしくて、え聞きこえ否いなびずなりにしを、ことことしくぞ人ひとは言いひなさむかし。

今いまは、さやうのことも初うひ初うひしく、すさまじく思おもひなりにたれば、人伝ひとづてにけしきばませたまひしには、とかく逃のがれきこえしを、対面たいめんのついでに、心深こころふかきさまなることどもを、のたまひ続つづけしには、えすくすくしくも返かへさひ申まうさでなむ。

深ふかき御み山住やまずみに移うつろひたまはむほどにこそは、渡わたしたてまつらめ。あぢきなくや思おぼさるべき。いみじきことありとも、御おほんため、あるより変かはることはさらにあるまじきを、心こころなおきたまひそよ。

かの御おほんためこそ、心苦こころぐるしからめ。それもかたはならずもてなしてむ。誰たれも誰たれも、のどかにて過すぐしたまはば」

 など聞きこえたまふ。

 はかなき御おほんすさびごとをだに、めざましきものに思おぼして、心こころやすからぬ御心みこころざまなれば、「いかが思おぼさむ」と思おぼすに、いとつれなくて、

「あはれなる御譲おほんゆづりにこそはあなれ。ここには、いかなる心こころをおきたてまつるべきにか。めざましく、かくてなど、咎とがめらるまじくは、心こころやすくてもはべなむを、かの母はは女御にょうごの御方おほんかたざまにても、疎うとからず思おぼし数かずまへてむや」

 と、卑下ひげしたまふを、

「あまり、かう、うちとけたまふ御おほんゆるしも、いかなればと、うしろめたくこそあれ。まことは、さだに思おぼしゆるいて、われも人ひとも心得こころえて、なだらかにもてなし過すぐしたまはば、いよいよあはれになむ。

ひがこと聞きこえなどせむ人ひとの言こと、聞きき入いれたまふな。すべて、世よの人ひとの口くちといふものなむ、誰たが言いひ出いづることともなく、おのづから人ひとの仲なからひなど、うちほほゆがみ、思おもはずなること出いで来くるものなるを、心こころひとつにしづめて、ありさまに従したがふなむよき。まだきに騒さわぎて、あいなきもの怨うらみしたまふな」

 と、いとよく教をしへきこえたまふ。

心のうちにも、かく空より出で来にたるやう

 心こころのうちにも、

「かく空そらより出いで来きにたるやうなることにて、逃のがれたまひがたきを、憎にくげにも聞きこえなさじ。わが心こころに憚はばかりたまひ、いさむることに従したがひたまふべき、おのがどちの心こころより起おこれる懸想けさうにもあらず。せかるべき方かたなきものから、をこがましく思おもひむすぼほるるさま、世人よひとに漏もり聞きこえじ。

式部卿宮しきぶきゃうのみやの大北おほきたの方かた、常つねにうけはしげなることどもをのたまひ出いでつつ、あぢきなき大将だいしゃうの御おほんことにてさへ、あやしく恨うらみ嫉そねみたまふなるを、かやうに聞ききて、いかにいちじるく思おもひ合あはせたまはむ」

 など、おいらかなる人ひとの御心おほんこころといへど、いかでかはかばかりの隈くまはなからむ。今いまはさりともとのみ、わが身みを思おもひ上あがり、うらなくて過すぐしける世よの、人ひと笑わらへならむことを、下したには思おもひ続つづけたまへど、いとおいらかにのみもてなしたまへり。

年も返りぬ。朱雀院には

 年としも返かへりぬ。朱雀院すざくゐんには、姫宮ひめみや、六条院ろくでうゐんに移うつろひたまはむ御おほんいそぎをしたまふ。聞きこえたまへる人ひとびと、いと口惜くちをしく思おぼし嘆なげく。内裏うちにも御心みこころばへありて、聞きこえたまひけるほどに、かかる御おほん定さだめを聞きこし召めして、思おぼし止とまりにけり。

 さるは、今年ことしぞ四十よそぢになりたまひければ、御賀おほんがのこと、朝廷おほやけにも聞きこし召めし過すぐさず、世よの中なかの営いとなみにて、かねてより響ひびくを、ことのわづらひ多おほくいかめしきことは、昔むかしより好このみたまはぬ御心みこころにて、皆みなかへさひ申まうしたまふ。

 正月しゃうがつ二十三日にじふさんにち、子ねの日ひなるに、左大将殿さだいしゃうどのの北きたの方かた、若菜わかな参まゐりたまふ。かねてけしきも漏もらしたまはで、いといたく忍しのびて思おぼしまうけたりければ、にはかにて、えいさめ返かへしきこえたまはず。忍しのびたれど、さばかりの御勢おほんいきほひなれば、渡わたりたまふ御おほん儀式ぎしきなど、いと響ひびきことなり。

 南みなみの御殿おとどの西にしの放出はなちいでに御座おましよそふ。屏風びゃうぶ、壁代かべしろよりはじめ、新あたらしく払はらひしつらはれたり。うるはしく倚子いしなどは立たてず、御地敷おほんぢしき四十枚しじふまい、御茵おほんしとね、脇息けふそくなど、すべてその御おほん具ぐども、いときよらにせさせたまへり。

 螺鈿らでんの御厨子みづし二具ふたよろひに、御おほん衣筥ころもばこ四よつ据すゑて、夏なつ冬ふゆの御装束おほんさうぞく。香壺かうご、薬くすりの筥はこ、御硯おほんすずり、ゆする坏つき、掻上かかげの筥はこなどやうのもの、うちうちきよらを尽つくしたまへり。御おほん插頭かざしの台だいには、沈ぢん、紫檀したんを作つくり、めづらしきあやめを尽つくし、同おなじき金かねをも、色いろ使つかひなしたる、心こころばへあり、今いまめかしく。

 尚侍かんの君きみ、もののみやび深ふかく、かどめきたまへる人ひとにて、目馴めなれぬさまにしなしたまへる、おほかたのことをば、ことさらにことことしからぬほどなり。

人びと参りなどしたまひて

 人ひとびと参まゐりなどしたまひて、御座おましに出いでたまふとて、尚侍かんの君きみに御対面おほんたいめんあり。御心みこころのうちには、いにしへ思おぼし出いづることもさまざまなりけむかし。

 いと若わかくきよらにて、かく御賀おほんがなどいふことは、ひが数かぞへにやと、おぼゆるさまの、なまめかしく、人ひとの親おやげなくおはしますを、めづらしくて年月としつき隔へだてて見みたてまつりたまふは、いと恥はづかしけれど、なほけざやかなる隔へだてもなくて、御物語おほんものがたり聞きこえ交かはしたまふ。

 幼をさなき君きみも、いとうつくしくてものしたまふ。尚侍かんの君きみは、うち続つづきても御覧ごらんぜられじとのたまひけるを、大将だいしゃう、かかるついでにだに御覧ごらんぜさせむとて、二人ふたり同おなじやうに、振分髪ふりわけがみの何心なにごころなき直衣なほし姿すがたどもにておはす。

「過すぐる齢よはひも、みづからの心こころにはことに思おもひとがめられず、ただ昔むかしながらの若々わかわかしきありさまにて、改あらたむることもなきを、かかる末々すゑずゑのもよほしになむ、なまはしたなきまで思おもひ知しらるる折をりもはべりける。

中納言ちうなごんのいつしかとまうけたなるを、ことことしく思おもひ隔へだてて、まだ見みせずかし。人ひとよりことに、数かぞへ取とりたまひける今日けふの子ねの日ひこそ、なほうれたけれ。しばしは老おいを忘わすれてもはべるべきを」

 と聞きこえたまふ。

尚侍の君も、いとよくねびまさり

 尚侍かんの君きみも、いとよくねびまさり、ものものしきけさへ添そひて、見みるかひあるさましたまへり。

「若葉わかばさす野辺のべの小松こまつを引ひき連つれてもとの岩根いはねを祈いのる今日けふかな」

 と、せめておとなび聞きこえたまふ。沈ぢんの折敷をしき四よつして、御おほん若菜わかなさまばかり参まゐれり。御土器おほんかはらけ取とりたまひて、

「小松原こまつばら末すゑの齢よはひに引ひかれてや野辺のべの若菜わかなも年としを摘つむべき」

 など聞きこえ交かはしたまひて、上達部かむだちめあまた南みなみの廂ひさしに着つきたまふ。

 式部卿宮しきぶきゃうのみやは、参まゐりにくく思おぼしけれど、御消息おほんせうそこありけるに、かく親したしき御仲おほんなからひにて、心こころあるやうならむも便びんなくて、日ひたけてぞ渡わたりたまへる。

 大将だいしゃうのしたり顔がほにて、かかる御仲おほんなからひに、うけばりてものしたまふも、げに心こころやましげなるわざなめれど、御孫おほんまごの君きみたちは、いづ方かたにつけても、おり立たちて雑役ざふやくしたまふ。籠物こもの四十枝よそえだ、折櫃物をりびつもの四十よそぢ。中納言ちうなごんをはじめたてまつりて、さるべき限かぎり取とり続つづきたまへり。御土器おほんかはらけくだり、若菜わかなの御羹おほんあつもの参まゐる。御前おまへには、沈ぢんの懸盤かけばん四よつ、御おほん坏つきどもなつかしく、今いまめきたるほどにせられたり。

朱雀院の御薬のこと

 朱雀院すざくゐんの御おほん薬くすりのこと、なほたひらぎ果はてたまはぬにより、楽人がくにんなどは召めさず。御笛おほんふえなど、太政大臣おほきおとどの、その方かたは整ととのへたまひて、

「世よの中なかに、この御賀おほんがよりまためづらしくきよら尽つくすべきことあらじ」

 とのたまひて、すぐれたる音ねの限かぎりを、かねてより思おぼしまうけたりければ、忍しのびやかに御遊おほんあそびあり。

 とりどりにたてまつる中なかに、和琴わごんは、かの大臣おとどの第一だいいちに秘ひしたまひける御琴おほんことなり。さるものの上手じゃうずの、心こころをとどめて弾ひき馴ならしたまへる音ね、いと並ならびなきを、異人ことびとは掻かきたてにくくしたまへば、衛門督ゑもんのかみの固かたく否いなぶるを責せめたまへば、げにいとおもしろく、をさをさ劣おとるまじく弾ひく。

「何なにごとも、上手じゃうずの嗣つぎといひながら、かくしもえ継つがぬわざぞかし」と、心こころにくくあはれに人ひとびと思おぼす。調しらべに従したがひて、跡あとある手てども、定さだまれる唐土もろこしの伝つたへどもは、なかなか尋たづね知しるべき方かたあらはなるを、心こころにまかせて、ただ掻かき合あはせたるすが掻がきに、よろづの物ものの音ね調ととのへられたるは、妙たへにおもしろく、あやしきまで響ひびく。

 父大臣ちちおとどは、琴ことの緒をもいと緩ゆるに張はりて、いたう下くだして調しらべ、響ひびき多おほく合あはせてぞ掻かき鳴ならしたまふ。これは、いとわららかに昇のぼる音ねの、なつかしく愛敬あいぎゃうづきたるを、「いとかうしもは聞きこえざりしを」と、親王みこたちも驚おどろきたまふ。

 琴きんは、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや弾ひきたまふ。この御琴おほんことは、宜陽殿ぎやうでんの御おほん物ものにて、代々だいだいに第一だいいちの名なありし御琴おほんことを、故院こゐんの末すゑつ方かた、一品宮いつぽんのみやの好このみたまふことにて、賜たまはりたまへりけるを、この折をりのきよらを尽つくしたまはむとするため、大臣おとどの申まうし賜たまはりたまへる御おほん伝つたへ伝つたへを思おぼすに、いとあはれに、昔むかしのことも恋こひしく思おぼし出いでらる。

 親王みこも、酔ゑひ泣なきえとどめたまはず。御みけしきとりたまひて、琴きんは御前おまへに譲ゆづりきこえさせたまふ。もののあはれにえ過すぐしたまはで、めづらしきもの一ひとつばかり弾ひきたまふに、ことことしからねど、限かぎりなくおもしろき夜よの御遊おほんあそびなり。

 唱歌さうがの人ひとびと御階みはしに召めして、すぐれたる声こゑの限かぎり出いだして、返かへり声ごゑになる。夜よの更ふけ行ゆくままに、物ものの調しらべども、なつかしく変かはりて、「青柳あをやぎ」遊あそびたまふほど、げに、ねぐらの鴬うぐひすおどろきぬべく、いみじくおもしろし。私事わたくしごとのさまにしなしたまひて、禄ろくなど、いと警策きゃうざくにまうけられたりけり。

暁に、尚侍君帰りたまふ

 暁あかつきに、尚侍かん君きみ帰かへりたまふ。御贈おほんおくり物ものなどありけり。

「かう世よを捨すつるやうにて明あかし暮くらすほどに、年月としつきの行方ゆくへも知しらず顔がほなるを、かう数かぞへ知しらせたまへるにつけては、心細こころぼそくなむ。

時々ときどきは、老おいやまさると見みたまひ比くらべよかし。かく古ふるめかしき身みの所狭ところせさに、思おもふに従したがひて対面たいめんなきも、いと口惜くちをしくなむ」

 など聞きこえたまひて、あはれにもをかしくも、思おもひ出いできこえたまふことなきにしもあらねば、なかなかほのかにて、かく急いそぎ渡わたりたまふを、いと飽あかず口惜くちをしくぞ思おぼされける。

 尚侍かんの君きみも、まことの親おやをばさるべき契ちぎりばかりに思おもひきこえたまひて、ありがたくこまかなりし御心みこころばへを、年月としつきに添そへて、かく世よに住すみ果はてたまふにつけても、おろかならず思おもひきこえたまひけり。

かくて、如月の十余日に

 かくて、如月きさらぎの十余日とをよかに、朱雀院すざくゐんの姫宮ひめみや、六条院ろくでうゐんへ渡わたりたまふ。この院ゐんにも、御心みこころまうけ世よの常つねならず。若菜わかな参まゐりし西にしの放出はなちいでに御帳みちゃう立たてて、そなたの一いち、二にの対たい、渡殿わたどのかけて、女房にょうばうの局々つぼねつぼねまで、こまかにしつらひ磨みがかせたまへり。内裏うちに参まゐりたまふ人ひとの作法さほふをまねびて、かの院ゐんよりも御調度みてうどなど運はこばる。渡わたりたまふ儀式ぎしき、言いへばさらなり。

 御送おほんおくりに、上達部かむだちめなどあまた参まゐりたまふ。かの家司けいし望のぞみたまひし大納言だいなごんも、やすからず思おもひながらさぶらひたまふ。御車おほんくるま寄よせたる所ところに、院ゐん渡わたりたまひて、下おろしたてまつりたまふなども、例れいには違たがひたることどもなり。

 ただ人うどにおはすれば、よろづのこと限かぎりありて、内裏うち参まゐりにも似にず、婿むこの大君おほきみといはむにもこと違たがひて、めづらしき御仲おほんなかのあはひどもになむ。

三日がほど、かの院よりも

 三日みかがほど、かの院ゐんよりも、主人あるじの院ゐん方かたよりも、いかめしくめづらしきみやびを尽つくしたまふ。

 対たいの上うへも、ことに触ふれてただにも思おぼされぬ世よのありさまなり。げに、かかるにつけて、こよなく人ひとに劣おとり消けたるることもあるまじけれど、また並ならぶ人ひとなくならひたまひて、はなやかに生おひ先さき遠とほく、あなづりにくきけはひにて移うつろひたまへるに、なまはしたなく思おぼさるれど、つれなくのみもてなして、御渡おほんわたりのほども、もろ心こころにはかなきこともし出いでたまひて、いとらうたげなる御おほんありさまを、いとどありがたしと思おもひきこえたまふ。

 姫宮ひめみやは、げに、まだいと小ちひさく、片かたなりにおはするうちにも、いといはけなきけしきして、ひたみちに若わかびたまへり。

 かの紫むらさきのゆかり尋たづね取とりたまへりし折をり思おぼし出いづるに、

「かれはされていふかひありしを、これは、いといはけなくのみ見みえたまへば、よかめり。憎にくげにおしたちたることなどはあるまじかめり」

 と思おぼすものから、「いとあまりものの栄はえなき御おほんさまかな」と見みたてまつりたまふ。

三日がほどは、夜離れなく渡りたまふを

 三日みかがほどは、夜離よがれなく渡わたりたまふを、年としごろさもならひたまはぬ心地ここちに、忍しのぶれど、なほものあはれなり。御衣おほんぞどもなど、いよいよ薫たきしめさせたまふものから、うち眺ながめてものしたまふけしき、いみじくらうたげにをかし。

「などて、よろづのことありとも、また人ひとをば並ならべて見みるべきぞ。あだあだしく、心弱こころよわくなりおきにけるわがおこたりに、かかることも出いで来くるぞかし。若わかけれど、中納言ちうなごんをばえ思おぼしかけずなりぬめりしを」

 と、われながらつらく思おぼし続つづくるに、涙なみだぐまれて、

「今宵こよひばかりは、ことわりと許ゆるしたまひてむな。これより後のちのとだえあらむこそ、身みながらも心こころづきなかるべけれ。また、さりとて、かの院ゐんに聞きこし召めさむことよ」

 と、思おもひ乱みだれたまへる御心みこころのうち、苦くるしげなり。すこしほほ笑ゑみて、

「みづからの御心みこころながらだに、え定さだめたまふまじかなるを、ましてことわりも何なにも、いづこにとまるべきにか」

 と、いふかひなげにとりなしたまへば、恥はづかしうさへおぼえたまひて、つらづゑをつきたまひて、寄より臥ふしたまへれば、硯すずりを引ひき寄よせたまひて、

「目めに近ちかく移うつれば変かはる世よの中なかを行ゆく末すゑ遠とほく頼たのみけるかな」

 古言ふることなど書かき交まぜたまふを、取とりて見みたまひて、はかなき言ことなれど、げにと、ことわりにて、

「命いのちこそ絶たゆとも絶たえめ定さだめなき世よの常つねならぬ仲なかの契ちぎりを」

 とみにもえ渡わたりたまはぬを、

「いとかたはらいたきわざかな」

 と、そそのかしきこえたまへば、なよよかにをかしきほどに、えならず匂にほひて渡わたりたまふを、見出みいだしたまふも、いとただにはあらずかし。

年ごろ、さもやあらむと思ひしことどもも

 年としごろ、さもやあらむと思おもひしことどもも、今いまはとのみもて離はなれたまひつつ、さらばかくにこそはとうちとけゆく末すゑに、ありありて、かく世よの聞きき耳みみもなのめならぬことの出いで来きぬるよ。思おもひ定さだむべき世よのありさまにもあらざりければ、今いまより後のちもうしろめたくぞ思おぼしなりぬる。

 さこそつれなく紛まぎらはしたまへど、さぶらふ人ひとびとも、

「思おもはずなる世よなりや。あまたものしたまふやうなれど、いづ方かたも、皆みなこなたの御おほんけはひにはかたさり憚はばかるさまにて過すぐしたまへばこそ、ことなくなだらかにもあれ、おしたちてかばかりなるありさまに、消けたれてもえ過すぐしたまふまじ」

「また、さりとて、はかなきことにつけても、安やすからぬことのあらむ折々をりをり、かならずわづらはしきことども出いで来きなむかし」

 など、おのがじしうち語かたらひ嘆なげかしげなるを、つゆも見知みしらぬやうに、いとけはひをかしく物語ものがたりなどしたまひつつ、夜よ更ふくるまでおはす。

かう人のただならず言ひ思ひたるも

 かう人ひとのただならず言いひ思おもひたるも、聞ききにくしと思おぼして、

「かく、これかれあまたものしたまふめれど、御心みこころにかなひて、今いまめかしくすぐれたる際きはにもあらずと、目馴めなれてさうざうしく思おぼしたりつるに、この宮みやのかく渡わたりたまへるこそ、めやすけれ。

なほ、童わらは心ごころの失うせぬにやあらむ、われも睦むつびきこえてあらまほしきを、あいなく隔へだてあるさまに人ひとびとやとりなさむとすらむ。ひとしきほど、劣おとりざまなど思おもふ人ひとにこそ、ただならず耳みみたつことも、おのづから出いで来くるわざなれ、かたじけなく、心苦こころぐるしき御おほんことなめれば、いかで心こころおかれたてまつらじとなむ思おもふ」

 などのたまへば、中務なかつかさ、中将ちうじゃうの君きみなどやうの人ひとびと、目めをくはせつつ、

「あまりなる御思おほんおもひやりかな」

 など言いふべし。昔むかしは、ただならぬさまに使つかひならしたまひし人ひとどもなれど、年としごろはこの御方おほんかたにさぶらひて、皆みな心寄こころよせきこえたるなめり。

 異こと御方々おほんかたがたよりも、

「いかに思おぼすらむ。もとより思おもひ離はなれたる人ひとびとは、なかなか心こころ安やすきを」

 など、おもむけつつ、とぶらひきこえたまふもあるを、

「かく推おし量はかる人ひとこそ、なかなか苦くるしけれ。世よの中なかもいと常つねなきものを、などてかさのみは思おもひ悩なやまむ」

 など思おぼす。

 あまり久ひさしき宵居よひゐも、例れいならず人ひとやとがめむと、心こころの鬼おにに思おぼして、入いりたまひぬれば、御衾おほんふすま参まゐりぬれど、げにかたはらさびしき夜よな夜よな経へにけるも、なほ、ただならぬ心地ここちすれど、かの須磨すまの御おほん別わかれの折をりなどを思おぼし出いづれば、

「今いまはと、かけ離はなれたまひても、ただ同おなじ世よのうちに聞ききたてまつらましかばと、わが身みまでのことはうち置おき、あたらしく悲かなしかりしありさまぞかし。さて、その紛まぎれに、われも人ひとも命いのち堪たへずなりなましかば、いふかひあらまし世よかは」

 と思おぼし直なほす。

 風かぜうち吹ふきたる夜よのけはひ冷ひややかにて、ふとも寝ね入いられたまはぬを、近ちかくさぶらふ人ひとびと、あやしとや聞きかむと、うちも身みじろきたまはぬも、なほいと苦くるしげなり。夜深よぶかき鶏とりの声こゑの聞きこえたるも、ものあはれなり。

わざとつらしとにはあらねど

 わざとつらしとにはあらねど、かやうに思おもひ乱みだれたまふけにや、かの御夢おほんゆめに見みえたまひければ、うちおどろきたまひて、いかにと心こころ騒さわがしたまふに、鶏とりの音ね待まち出いでたまへれば、夜深よぶかきも知しらず顔がほに、急いそぎ出いでたまふ。いといはけなき御おほんありさまなれば、乳母めのとたち近ちかくさぶらひけり。

 妻戸つまど押おし開あけて出いでたまふを、見みたてまつり送おくる。明あけぐれの空そらに、雪ゆきの光ひかり見みえておぼつかなし。名残なごりまでとまれる御匂おほんにほひ、

「闇やみはあやなし」

 と独ひとりごたる。

 雪ゆきは所々ところどころ消きえ残のこりたるが、いと白しろき庭にはの、ふとけぢめ見みえわかれぬほどなるに、

「なほ残のこれる雪ゆき」

 と忍しのびやかに口くちずさびたまひつつ、御格子みかうしうち叩たたきたまふも、久ひさしくかかることなかりつるならひに、人ひとびとも空そら寝ねをしつつ、やや待またせたてまつりて、引ひき上あげたり。

「こよなく久ひさしかりつるに、身みも冷ひえにけるは。懼おぢきこゆる心こころのおろかならぬにこそあめれ。さるは、罪つみもなしや」

 とて、御衣おほんぞひきやりなどしたまふに、すこし濡ぬれたる御おほん単衣ひとへの袖そでをひき隠かくして、うらもなくなつかしきものから、うちとけてはたあらぬ御用意おほんよういなど、いと恥はづかしげにをかし。

「限かぎりなき人ひとと聞きこゆれど、難かたかめる世よを」

 と、思おぼし比くらべらる。

 よろづいにしへのことを思おぼし出いでつつ、とけがたき御みけしきを怨うらみきこえたまひて、その日ひは暮くらしたまひつれば、え渡わたりたまはで、寝殿しんでんには御消息おほんせうそこを聞きこえたまふ。

「今朝けさの雪ゆきに心地ここちあやまりて、いと悩なやましくはべれば、心こころ安やすき方かたにためらひはべる」

 とあり。御乳母おほんめのと、

「さ聞きこえさせはべりぬ」

 とばかり、言葉ことばに聞きこえたり。

「異ことなることなの御返おほんかへりや」と思おぼす。「院ゐんに聞きこし召めさむこともいとほし。このころばかりつくろはむ」と思おぼせど、えさもあらぬを、「さは思おもひしことぞかし。あな苦くるし」と、みづから思おもひ続つづけたまふ。

 女君をんなぎみも、「思おもひやりなき御心おほんこころかな」と、苦くるしがりたまふ。

今朝は、例のやうに大殿籠もり起きさせたま

 今朝けさは、例れいのやうに大殿籠おほとのごもり起おきさせたまひて、宮みやの御方おほんかたに御文おほんふみたてまつれたまふ。ことに恥はづかしげもなき御おほんさまなれど、御おほん筆ふでなどひきつくろひて、白しろき紙かみに、

「中なか道みちを隔へだつるほどはなけれども心こころ乱みだるる今朝けさのあは雪ゆき」

 梅むめに付つけたまへり。人ひと召めして、

「西にしの渡殿わたどのよりたてまつらせよ」

 とのたまふ。やがて見出みいだして、端近はしぢかくおはします。白しろき御衣おほんぞどもを着きたまひて、花はなをまさぐりたまひつつ、「友とも待まつ雪ゆき」のほのかに残のこれる上うへに、うち散ちり添そふ空そらを眺ながめたまへり。鴬うぐひすの若わかやかに、近ちかき紅梅こうばいの末すゑにうち鳴なきたるを、

「袖そでこそ匂にほへ」

 と花はなをひき隠かくして、御簾みす押おし上あげて眺ながめたまへるさま、夢ゆめにも、かかる人ひとの親おやにて、重おもき位くらゐと見みえたまはず、若わかうなまめかしき御おほんさまなり。

 御返おほんかへり、すこしほど経ふる心地ここちすれば、入いりたまひて、女君をんなぎみに花はな見みせたてまつりたまふ。

「花はなといはば、かくこそ匂にほはまほしけれな。桜さくらに移うつしては、また塵ちりばかりも心こころ分わくる方かたなくやあらまし」

 などのたまふ。

「これも、あまた移うつろはぬほど、目めとまるにやあらむ。花はなの盛さかりに並ならべて見みばや」

 などのたまふに、御返おほんかへりあり。紅くれなゐの薄様うすやうに、あざやかにおし包つつまれたるを、胸むねつぶれて、御手おほんてのいと若わかきを、

「しばし見みせたてまつらであらばや。隔へだつとはなけれど、あはあはしきやうならむは、人ひとのほどかたじけなし」

 と思おぼすに、ひき隠かくしたまはむも心こころおきたまふべければ、かたそば広ひろげたまへるを、しりめに見みおこせて添そひ臥ふしたまへり。

「はかなくてうはの空そらにぞ消きえぬべき風かぜにただよふ春はるのあは雪ゆき」

 御手おほんて、げにいと若わかく幼をさなげなり。「さばかりのほどになりぬる人ひとは、いとかくはおはせぬものを」と、目めとまれど、見みぬやうに紛まぎらはして、止やみたまひぬ。

 異人ことひとの上うへならば、「さこそあれ」などは、忍しのびて聞きこえたまふべけれど、いとほしくて、ただ、

「心こころ安やすくを、思おもひなしたまへ」

 とのみ聞きこえたまふ。

今日は、宮の御方に昼渡りたまふ

 今日けふは、宮みやの御方おほんかたに昼ひる渡わたりたまふ。心こころことにうち化粧けさうじたまへる御おほんありさま、今いま見みたてまつる女房にょうばうなどは、まして見みるかひありと思おもひきこゆらむかし。御乳母おほんめのとなどやうの老おいしらへる人ひとびとぞ、

「いでや。この御おほんありさま一所ひとところこそめでたけれ、めざましきことはありなむかし」

 と、うち混まぜて思おもふもありける。

 女をんな宮みやは、いとらうたげに幼をさなきさまにて、御おほんしつらひなどのことことしく、よだけくうるはしきに、みづからは何心なにごころもなく、ものはかなき御おほんほどにて、いと御衣おほんぞがちに、身みもなく、あえかなり。ことに恥はぢなどもしたまはず、ただ稚児ちごの面嫌おもぎらひせぬ心地ここちして、心こころ安やすくうつくしきさましたまへり。

「院ゐんの帝みかどは、ををしくすくよかなる方かたの御おほん才ざえなどこそ、心こころもとなくおはしますと、世人よひと思おもひためれ、をかしき筋すぢ、なまめきゆゑゆゑしき方かたは、人ひとにまさりたまへるを、などて、かくおいらかに生おほしたてたまひけむ。さるは、いと御心みこころとどめたまへる皇女みこと聞ききしを」

 と思おもふも、なま口惜くちをしけれど、憎にくからず見みたてまつりたまふ。

 ただ聞きこえたまふままに、なよなよとなびきたまひて、御おほんいらへなどをも、おぼえたまひけることは、いはけなくうちのたまひ出いでて、え見放みはなたず見みえたまふ。

 昔むかしの心こころならましかば、うたて心こころ劣おとりせましを、今いまは、世よの中なかを皆みなさまざまに思おもひなだらめて、

「とあるもかかるも、際きは離はなるることは難かたきものなりけり。とりどりにこそ多おほうはありけれ、よその思おもひは、いとあらまほしきほどなりかし」

 と思おぼすに、差さし並ならび目め離かれず見みたてまつりたまへる年としごろよりも、対たいの上うへの御おほんありさまぞなほありがたく、「われながらも生おほしたてけり」と思おぼす。一夜ひとよのほど、朝あしたの間まも、恋こひしくおぼつかなく、いとどしき御心みこころざしのまさるを、「などかくおぼゆらむ」と、ゆゆしきまでなむ。

院の帝は、月のうちに御寺に移ろひたまひぬ

 院ゐんの帝みかどは、月つきのうちに御寺みてらに移うつろひたまひぬ。この院ゐんに、あはれなる御消息おほんせうそこども聞きこえたまふ。姫宮ひめみやの御おほんことはさらなり。

 わづらはしく、いかに聞きくところやなど、憚はばかりたまふことなくて、ともかくも、ただ御心みこころにかけてもてなしたまふべくぞ、たびたび聞きこえたまひける。されど、あはれにうしろめたく、幼をさなくおはするを思おもひきこえたまひけり。

 紫むらさきの上うへにも、御消息おほんせうそこことにあり。

「幼をさなき人ひとの、心地ここちなきさまにて移うつろひものすらむを、罪つみなく思おぼしゆるして、後見うしろみたまへ。尋たづねたまふべきゆゑもやあらむとぞ。

背そむきにしこの世よに残のこる心こころこそ入いる山路やまみちのほだしなりけれ

闇やみをえはるけで聞きこゆるも、をこがましくや」

 とあり。大殿おとども見みたまひて、

「あはれなる御消息おほんせうそこを。かしこまり聞きこえたまへ」

 とて、御使おほんつかひにも、女房にょうばうして、土器かはらけさし出いでさせたまひて、しひさせたまふ。「御返おほんかへりはいかが」など、聞きこえにくく思おぼしたれど、ことことしくおもしろかるべき折をりのことならねば、ただ心こころをのべて、

「背そむく世よのうしろめたくはさりがたきほだしをしひてかけな離はなれそ」

 などやうにぞあめりし。

 女をんなの装束さうぞくに、細長ほそなが添そへてかづけたまふ。御手おほんてなどのいとめでたきを、院ゐん御覧ごらんじて、何なにごともいと恥はづかしげなめるあたりに、いはけなくて見みえたまふらむこと、いと心苦こころぐるしう思おぼしたり。

今はとて、女御

 今いまはとて、女御にょうご、更衣かういたちなど、おのがじし別わかれたまふも、あはれなることなむ多おほかりける。

 尚侍ないしのかんの君きみは、故后こきさいの宮みやのおはしましし二条にでうの宮みやにぞ住すみたまふ。姫宮ひめみやの御おほんことをおきては、この御おほんことをなむかへりみがちに、帝みかども思おぼしたりける。尼あまになりなむと思おぼしたれど、

「かかるきほひには、慕したふやうに心こころあわたたしく」

 と諌いさめたまひて、やうやう仏ほとけの御おほんことなどいそがせたまふ。

 六条ろくでうの大殿おとどは、あはれに飽あかずのみ思おぼしてやみにし御おほんあたりなれば、年としごろも忘わすれがたく、

「いかならむ折をりに対面たいめんあらむ。今いま一ひとたびあひ見みて、その世よのことも聞きこえまほしく」のみ思おぼしわたるを、かたみに世よの聞きき耳みみも憚はばかりたまふべき身みのほどに、いとほしげなりし世よの騷さわぎなども思おぼし出いでらるれば、よろづにつつみ過すぐしたまひけるを、かうのどやかになりたまひて、世よの中なかを思おもひしづまりたまふらむころほひの御おほんありさま、いよいよゆかしく、心こころもとなければ、あるまじきこととは思おぼしながら、おほかたの御おほんとぶらひにことつけて、あはれなるさまに常つねに聞きこえたまふ。

 若々わかわかしかるべき御おほんあはひならねば、御返おほんかへりも時々ときどきにつけて聞きこえ交かはしたまふ。昔むかしよりもこよなくうち具ぐし、ととのひ果はてにたる御おほんけはひを見みたまふにも、なほ忍しのびがたくて、昔むかしの中納言ちうなごんの君きみのもとにも、心深こころふかきことどもを常つねにのたまふ。

かの人の兄なる和泉の前の守を召し寄せて

 かの人ひとの兄せうとなる和泉いづみの前さきの守かみを召めし寄よせて、若々わかわかしく、いにしへに返かへりて語かたらひたまふ。

「人伝ひとづてならで、物越ものごしに聞きこえ知しらすべきことなむある。さりぬべく聞きこえなびかして、いみじく忍しのびて参まゐらむ。

今いまは、さやうのありきも所狭ところせき身みのほどに、おぼろけならず忍しのぶれば、そこにもまた人ひとには漏もらしたまはじと思おもふに、かたみにうしろやすくなむ」

 とのたまふ。尚侍かんの君きみ、

「いでや。世よの中なかを思おもひ知しるにつけても、昔むかしよりつらき御心みこころを、ここら思おもひつめつる年としごろの果はてに、あはれに悲かなしき御おほんことをさし置おきて、いかなる昔むかし語がたりをか聞きこえむ。

げに、人ひとは漏もり聞きかぬやうありとも、心こころの問とはむこそいと恥はづかしかるべけれ」

 とうち嘆なげきたまひつつ、なほ、さらにあるまじきよしをのみ聞きこゆ。

いにしへ、わりなかりし世にだに

「いにしへ、わりなかりし世よにだに、心こころ交かはしたまはぬことにもあらざりしを。げに、背そむきたまひぬる御おほんためうしろめたきやうにはあれど、あらざりしことにもあらねば、今いましもけざやかにきよまはりて、立たちにしわが名な、今いまさらに取とり返かへしたまふべきにや」

 と思おぼし起おこして、この信太しのだの森もりを道みちのしるべにて参まうでたまふ。女君をんなぎみには、

「東ひむがしの院ゐんにものする常陸ひたちの君きみの、日ひごろわづらひて久ひさしくなりにけるを、もの騒さわがしき紛まぎれに訪とぶらはねば、いとほしくてなむ。昼ひるなど、けざやかに渡わたらむも便びんなきを、夜よの間まに忍しのびてとなむ、思おもひはべる。人ひとにもかくとも知しらせじ」

 と聞きこえたまひて、いといたく心懸想こころげさうしたまふを、例れいはさしも見みえたまはぬあたりを、あやし、と見みたまひて、思おもひ合あはせたまふこともあれど、姫宮ひめみやの御おほん事ことの後のちは、何事なにごとも、いと過すぎぬる方かたのやうにはあらず、すこし隔へだつる心こころ添そひて、見知みしらぬやうにておはす。

その日は、寝殿へも渡りたまはで

 その日ひは、寝殿しんでんへも渡わたりたまはで、御文おほんふみ書かき交かはしたまふ。薫たき物ものなどに心こころを入いれて暮くらしたまふ。

 宵よひ過すぐして、睦むつましき人ひとの限かぎり、四し、五人ごにんばかり、網代車あじろぐるまの、昔むかしおぼえてやつれたるにて出いでたまふ。和泉守いづみのかみして、御消息おほんせうそこ聞きこえたまふ。かく渡わたりおはしましたるよし、ささめき聞きこゆれば、驚おどろきたまひて、

「あやしく。いかやうに聞きこえたるにか」

 とむつかりたまへど、

「をかしやかにて帰かへしたてまつらむに、いと便びんなうはべらむ」

 とて、あながちに思おもひめぐらして、入いれたてまつる。御おほんとぶらひなど聞きこえたまひて、

「ただここもとに、物越ものごしにても。さらに昔むかしのあるまじき心こころなどは、残のこらずなりにけるを」

 と、わりなく聞きこえたまへば、いたく嘆なげく嘆なげくゐざり出いでたまへり。

「さればよ。なほ、気近けぢかさは」

 と、かつ思おぼさる。かたみに、おぼろけならぬ御おほんみじろきなれば、あはれも少すくなからず。東ひむがしの対たいなりけり。辰巳たつみの方かたの廂ひさしに据すゑたてまつりて、御障子みさうじのしりばかりは固かためたれば、

「いと若わかやかなる心地ここちもするかな。年月としつきの積つもりをも、紛まぎれなく数かぞへらるる心こころならひに、かくおぼめかしきは、いみじうつらくこそ」

 と怨うらみきこえたまふ。

夜いたく更けゆく

 夜よいたく更ふけゆく。玉藻たまもに遊あそぶ鴛鴦をしの声々こゑごゑなど、あはれに聞きこえて、しめじめと人目ひとめ少すくなき宮みやの内うちのありさまも、「さも移うつりゆく世よかな」と思おぼし続つづくるに、平中へいちうがまねならねど、まことに涙なみだもろになむ。昔むかしに変かはりて、おとなおとなしくは聞きこえたまふものから、「これをかくてや」と、引ひき動うごかしたまふ。

「年月としつきをなかに隔へだてて逢坂あふさかのさも塞せきがたく落おつる涙なみだか」

 女をんな、

「涙なみだのみ塞せきとめがたき清水しみづにてゆき逢あふ道みちははやく絶たえにき」

 などかけ離はなれきこえたまへど、いにしへを思おぼし出いづるも、

「誰たれにより、多おほうはさるいみじきこともありし世よの騷さわぎぞは」と思おもひ出いでたまふに、「げに、今いま一ひとたびの対面たいめんはありもすべかりけり」

 と、思おぼし弱よわるも、もとよりづしやかなるところはおはせざりし人ひとの、年としごろは、さまざまに世よの中なかを思おもひ知しり、来きし方かたを悔くやしく、公私おほやけわたくしのことに触ふれつつ、数かずもなく思おぼし集あつめて、いといたく過すぐしたまひにたれど、昔むかしおぼえたる御対面おほんたいめんに、その世よのことも遠とほからぬ心地ここちして、え心強こころづよくももてなしたまはず。

 なほ、らうらうじく、若わかうなつかしくて、一方ひとかたならぬ世よのつつましさをもあはれをも、思おもひ乱みだれて、嘆なげきがちにてものしたまふけしきなど、今いま始はじめたらむよりもめづらしくあはれにて、明あけゆくもいと口惜くちをしくて、出いでたまはむ空そらもなし。

朝ぼらけのただならぬ空に

 朝あさぼらけのただならぬ空そらに、百千鳥ももちどりの声こゑもいとうららかなり。花はなは皆みな散ちり過すぎて、名残なごりかすめる梢こずゑの浅緑あさみどりなる木立こだち、「昔むかし、藤ふぢの宴えんしたまひし、このころのことなりけりかし」と思おぼし出いづる、年月としつきの積つもりにけるほども、その折をりのこと、かき続つづけあはれに思おぼさる。

 中納言ちうなごんの君きみ、見みたてまつり送おくるとて、妻戸つまど押おし開あけたるに、立たち返かへりたまひて、

「この藤ふぢよ。いかに染そめけむ色いろにか。なほ、えならぬ心こころ添そふ匂にほひにこそ。いかでか、この蔭かげをば立たち離はなるべき」

 と、わりなく出いでがてに思おぼしやすらひたり。

 山際やまぎはよりさし出いづる日ひのはなやかなるにさしあひ、目めもかかやく心地ここちする御おほんさまの、こよなくねび加くははりたまへる御おほんけはひなどを、めづらしくほど経へても見みたてまつるは、まして世よの常つねならずおぼゆれば、

「さる方かたにても、などか見みたてまつり過すぐしたまはざらむ。御宮仕おほんみやづかへにも限かぎりありて、際きはことに離はなれたまふこともなかりしを。故宮こみやの、よろづに心こころを尽つくしたまひ、よからぬ世よの騷さわぎに、軽々かろがろしき御名おほんなさへ響ひびきてやみにしよ」

 など思おもひ出いでらる。名残なごり多おほく残のこりぬらむ御物語おほんものがたりのとぢめには、げに残のこりあらせまほしきわざなめるを、御身おほんみ、心こころにえまかせたまふまじく、ここらの人目ひとめもいと恐おそろしくつつましければ、やうやうさし上あがり行ゆくに、心こころあわたたしくて、廊らうの戸とに御車みくるまさし寄よせたる人ひとびとも、忍しのびて声こわづくりきこゆ。

 人ひと召めして、かの咲さきかかりたる花はな、一枝ひとえだ折をらせたまへり。

「沈しづみしも忘わすれぬものをこりずまに身みも投なげつべき宿やどの藤ふぢ波なみ」

 いといたく思おぼしわづらひて、寄よりゐたまへるを、心苦こころぐるしう見みたてまつる。女君をんなぎみも、今いまさらにいとつつましく、さまざまに思おもひ乱みだれたまへるに、花はなの蔭かげは、なほなつかしくて、

「身みを投なげむ淵ふちもまことの淵ふちならでかけじやさらにこりずまの波なみ」

 いと若わかやかなる御おほん振ふる舞まひを、心こころながらもゆるさぬことに思おぼしながら、関守せきもりの固かたからぬたゆみにや、いとよく語かたらひおきて出いでたまふ。

 そのかみも、人ひとよりこよなく心こころとどめて思おもうたまへりし御心みこころざしながら、はつかにてやみにし御仲おほんなからひには、いかでかはあはれも少すくなからむ。

いみじく忍び入りたまへる御寝くたれのさま

 いみじく忍しのび入いりたまへる御おほん寝ねくたれのさまを待まち受うけて、女君をんなぎみ、さばかりならむと心得こころえたまへれど、おぼめかしくもてなしておはす。なかなかうちふすべなどしたまへらむよりも、心苦こころぐるしく、「など、かくしも見放みはなちたまへらむ」と思おぼさるれば、ありしよりけに深ふかき契ちぎりをのみ、長ながき世よをかけて聞きこえたまふ。

 尚侍かんの君きみの御おほんことも、また漏もらすべきならねど、いにしへのことも知しりたまへれば、まほにはあらねど、

「物越ものごしに、はつかなりつる対面たいめんなむ、残のこりある心地ここちする。いかで人目ひとめ咎とがめあるまじくもて隠かくしては、今いま一ひとたびも」

 と、語かたらひきこえたまふ。うち笑わらひて、

「今いまめかしくもなり返かへる御おほんありさまかな。昔むかしを今いまに改あらため加くはへたまふほど、中空なかぞらなる身みのため苦くるしく」

 とて、さすがに涙なみだぐみたまへるまみの、いとらうたげに見みゆるに、

「かう心こころ安やすからぬ御みけしきこそ苦くるしけれ。ただおいらかに引ひき抓つみなどして、教をしへたまへ。隔へだてあるべくも、ならはしきこえぬを、思おもはずにこそなりにける御心みこころなれ」

 とて、よろづに御心みこころとりたまふほどに、何なにごともえ残のこしたまはずなりぬめり。

 宮みやの御方おほんかたにも、とみにえ渡わたりたまはず、こしらへきこえつつおはします。姫宮ひめみやは、何なにとも思おぼしたらぬを、御後見おほんうしろみどもぞ安やすからず聞きこえける。わづらはしうなど見みえたまふけしきならば、そなたもまして心苦こころぐるしかるべきを、おいらかにうつくしきもて遊あそびぐさに思おもひきこえたまへり。

桐壺の御方は、うちはへえまかでたまはず

 桐壺きりつぼの御方おほんかたは、うちはへえまかでたまはず。御暇おほんいとまのありがたければ、心こころ安やすくならひたまへる若わかき御心みこころに、いと苦くるしくのみ思おぼしたり。

 夏なつごろ、悩なやましくしたまふを、とみにも許ゆるしきこえたまはねば、いとわりなしと思おぼす。めづらしきさまの御心地みここちにぞありける。まだいとあえかなる御おほんほどに、いとゆゆしくぞ、誰たれも誰たれも思おぼすらむかし。からうしてまかでたまへり。

 姫宮ひめみやのおはします御殿おとどの東面ひんがしおもてに、御方おほんかたはしつらひたり。明石あかしの御方おほんかた、今いまは御身おほんみに添そひて、出いで入いりたまふも、あらまほしき御宿世おほんすくせなりかし。

対の上、こなたに渡りて対面したまふついで

 対たいの上うへ、こなたに渡わたりて対面たいめんしたまふついでに、

「姫宮ひめみやにも、中なかの戸と開あけて聞きこえむ。かねてよりもさやうに思おもひしかど、ついでなきにはつつましきを、かかる折をりに聞きこえ馴なれなば、心こころ安やすくなむあるべき」

 と、大殿おとどに聞きこえたまへば、うち笑ゑみて、

「思おもふやうなるべき御おほん語かたらひにこそはあなれ。いと幼をさなげにものしたまふめるを、うしろやすく教をしへなしたまへかし」

 と、許ゆるしきこえたまふ。宮みやよりも、明石あかしの君きみの恥はづかしげにて交まじらむを思おぼせば、御髪みぐしすましひきつくろひておはする、たぐひあらじと見みえたまへり。

 大殿おとどは、宮みやの御方おほんかたに渡わたりたまひて、

「夕ゆふ方かた、かの対たいにはべる人ひとの、淑景舎しげいさに対面たいめんせむとて出いで立たつ。そのついでに、近ちかづききこえさせまほしげにものすめるを、許ゆるして語かたらひたまへ。心こころなどはいとよき人ひとなり。まだ若々わかわかしくて、御遊おほんあそびがたきにもつきなからずなむ」

 など、聞きこえたまふ。

「恥はづかしうこそはあらめ。何なにごとをか聞きこえむ」

 と、おいらかにのたまふ。

「人ひとのいらへは、ことにしたがひてこそは思おぼし出いでめ。隔へだて置おきてなもてなしたまひそ」

 と、こまかに教をしへきこえたまふ。「御仲おほんなかうるはしくて過すぐしたまへ」と思おぼす。

 あまりに何心なにごころもなき御おほんありさまを見みあらはされむも、恥はづかしくあぢきなけれど、さのたまはむを、「心こころ隔へだてむもあいなし」と、思おぼすなりけり。

対には、かく出で立ちなどしたまふものから

 対たいには、かく出いで立たちなどしたまふものから、

「我われより上かみの人ひとやはあるべき。身みのほどなるものはかなきさまを、見みえおきたてまつりたるばかりこそあらめ」

 など、思おもひ続つづけられて、うち眺ながめたまふ。手習てならひなどするにも、おのづから古言ふることも、もの思おもはしき筋すぢにのみ書かかるるを、「さらば、わが身みには思おもふことありけり」と、身みながらぞ思おぼし知しらるる。

 院ゐん、渡わたりたまひて、宮みや、女御にょうごの君きみなどの御おほんさまどもを、「うつくしうもおはするかな」と、さまざま見みたてまつりたまへる御目おほんめうつしには、年としごろ目馴めなれたまへる人ひとの、おぼろけならむが、いとかくおどろかるべきにもあらぬを、「なほ、たぐひなくこそは」と見みたまふ。ありがたきことなりかし。

 あるべき限かぎり、気高けだかう恥はづかしげにととのひたるに添そひて、はなやかに今いまめかしく、にほひなまめきたるさまざまの香かをりも、取とりあつめ、めでたき盛さかりに見みえたまふ。去年こぞより今年ことしはまさり、昨日きのふより今日けふはめづらしく、常つねに目馴めなれぬさまのしたまへるを、「いかでかくしもありけむ」と思おぼす。

 うちとけたりつる御手習おほんてならひを、硯すずりの下したにさし入いれたまへれど、見みつけたまひて、引ひき返かへし見みたまふ。手てなどの、いとわざとも上手じゃうずと見みえで、らうらうじくうつくしげに書かきたまへり。

「身みに近ちかく秋あきや来きぬらむ見みるままに青葉あをばの山やまも移うつろひにけり」

 とある所ところに、目めとどめたまひて、

「水鳥みづとりの青羽あをばは色いろも変かはらぬを萩はぎの下したこそけしきことなれ」

 など書かき添そへつつすさびたまふ。ことに触ふれて、心苦こころぐるしき御みけしきの、下したにはおのづから漏もりつつ見みゆるを、ことなく消けちたまへるも、ありがたくあはれに思おぼさる。

 今宵こよひは、いづ方かたにも御暇おほんいとまありぬべければ、かの忍しのび所どころに、いとわりなくて、出いでたまひにけり。「いとあるまじきこと」と、いみじく思おぼし返かへすにも、かなはざりけり。

春宮の御方は、実の母君よりも

 春宮とうぐうの御方おほんかたは、実じちの母君ははぎみよりも、この御方おほんかたをば睦むつましきものに頼たのみきこえたまへり。いとうつくしげにおとなびまさりたまへるを、思おもひ隔へだてず、かなしと見みたてまつりたまふ。

 御物語おほんものがたりなど、いとなつかしく聞きこえ交かはしたまひて、中なかの戸と開あけて、宮みやにも対面たいめんしたまへり。

 いと幼をさなげにのみ見みえたまへば、心こころ安やすくて、おとなおとなしく親おやめきたるさまに、昔むかしの御筋おほんすぢをも尋たづねきこえたまふ。中納言ちうなごんの乳母めのとといふ召めし出いでて、

「同おなじかざしを尋たづねきこゆれば、かたじけなけれど、分わかぬさまに聞きこえさすれど、ついでなくてはべりつるを、今いまよりは疎うとからず、あなたなどにもものしたまひて、おこたらむことは、おどろかしなどもものしたまはむなむ、うれしかるべき」

 などのたまへば、

「頼たのもしき御蔭おほんかげどもに、さまざまに後おくれきこえたまひて、心細こころぼそげにおはしますめるを、かかる御おほんゆるしのはべめれば、ますことなくなむ思おもうたまへられける。背そむきたまひにし上うへの御心おほんこころ向むけも、ただかくなむ御心みこころ隔へだてきこえたまはず、まだいはけなき御おほんありさまをも、はぐくみたてまつらせたまふべくぞはべめりし。うちうちにも、さなむ頼たのみきこえさせたまひし」

 など聞きこゆ。

「いとかたじけなかりし御消息おほんせうそこの後のちは、いかでとのみ思おもひはべれど、何なにごとにつけても、数かずならぬ身みなむ口惜くちをしかりける」

 と、安やすらかにおとなびたるけはひにて、宮みやにも、御心みこころにつきたまふべく、絵ゑなどのこと、雛ひひなの捨すてがたきさま、若わかやかに聞きこえたまへば、「げに、いと若わかく心こころよげなる人ひとかな」と、幼をさなき御心地みここちにはうちとけたまへり。

さて後は、常に御文通ひなどして

 さて後のちは、常つねに御文おほんふみ通かよひなどして、をかしき遊あそびわざなどにつけても、疎うとからず聞きこえ交かはしたまふ。世よの中なかの人ひとも、あいなう、かばかりになりぬるあたりのことは、言いひあつかふものなれば、初はじめつ方かたは、

「対たいの上うへ、いかに思おぼすらむ。御おほんおぼえ、いとこの年としごろのやうにはおはせじ。すこしは劣おとりなむ」

 など言いひけるを、今いますこし深ふかき御心みこころざし、かくてしも勝まさるさまなるを、それにつけても、また安やすからず言いふ人ひとびとあるに、かく憎にくげなくさへ聞きこえ交かはしたまへば、こと直なほりて、目め安やすくなむありける。

神無月に、対の上

 神無月かみなづきに、対たいの上うへ、院ゐんの御賀おほんがに、嵯峨さが野のの御堂みだうにて、薬師仏供養やくしぼとけくやうじたてまつりたまふ。いかめしきことは、切せちにいさめ申まうしたまへば、忍しのびやかにと思おぼしおきてたり。

 仏ほとけ、経箱きゃうばこ、帙簀ぢすのととのへ、まことの極楽ごくらく思おもひやらる。最勝王経さいそうわうきゃう、金剛般若こんがうはんにゃ、寿命経ずみゃうきゃうなど、いとゆたけき御おほん祈いのりなり。上達部かむだちめいと多おほく参まゐりたまへり。

 御堂みだうのさま、おもしろくいはむかたなく、紅葉もみぢの蔭かげ分わけゆく野辺のべのほどよりはじめて、見物みものなるに、かたへは、きほひ集あつまりたまふなるべし。

 霜枯しもがれわたれる野の原はらのままに、馬むま車くるまの行ゆきちがふ音おとしげく響ひびきたり。御誦経みずきゃうわれもわれもと、御方々おほんかたがたいかめしくせさせたまふ。

二十三日を御としみの日にて

 二に十三日じふさんにちを御おほんとしみの日ひにて、この院ゐんは、かく隙間すきまなく集つどひたまへるうちに、わが御私おほんわたくしの殿とのと思おぼす二条にでうの院ゐんにて、その御おほんまうけせさせたまふ。御装束おほんさうぞくをはじめ、おほかたのことどもも、皆みなこなたにのみしたまふ。御方々おほんかたがたも、さるべきことども分わけつつ望のぞみ仕つかうまつりたまふ。

 対たいどもは、人ひとの局々つぼねつぼねにしたるを払はらひて、殿上人てんじゃうびと、諸大夫しょたいふ、院司ゐんじ、下人しもびとまでのまうけ、いかめしくせさせたまへり。

 寝殿そんでんの放出はなちいでを、例れいのしつらひにて、螺鈿らでんの倚子いし立たてたり。

 御殿おとどの西にしの間まに、御衣おほんぞの机つくゑ十二じふに立たてて、夏なつ冬ふゆの御おほんよそひ、御衾おほんふすまなど、例れいのごとく、紫むらさきの綾あやの覆おほひどもうるはしく見みえわたりて、うちの心こころはあらはならず。

 御前おまへに置物おきものの机つくゑ二ふたつ、唐からの地ぢの裾濃すそごの覆おほひしたり。插頭かざしの台だいは、沈ぢんの花足けそく、黄金こがねの鳥とり、銀しろがねの枝えだにゐたる心こころばへなど、淑景舎しげいさの御おほんあづかりにて、明石あかしの御方おほんかたのせさせたまへる、ゆゑ深ふかく心こころことなり。

 うしろの御屏風みびゃうぶ四帖しでふは、式部卿宮しきぶきゃうのみやなむせさせたまひける。いみじく尽つくして、例れいの四し季きの絵ゑなれど、めづらしき山水せんずい、潭たんなど、目馴めなれずおもしろし。北きたの壁かべに添そへて、置物おきものの御厨子みづし、二具ふたよろひ立たてて、御調度みてうどども例れいのことなり。

 南みなみの廂ひさしに、上達部かむだちめ、左右ひだりみぎの大臣おとど、式部卿宮しきぶきゃうのみやをはじめたてまつりて、次々つぎつぎはまして参まゐりたまはぬ人ひとなし。舞台ぶたいの左右ひだりみぎに、楽人がくにんの平張ひらばり打うちて、西にし東ひむがしに屯食とんじき八はち十じふ具ぐ、禄ろくの唐櫃からびつ四十しじふづつ続つづけて立たてたり。

未の時ばかりに楽人参る

 未ひつじの時ときばかりに楽人がくにん参まゐる。「万歳楽まんざいらく」、「皇麞わうじゃう」など舞まひて、日ひ暮くれかかるほどに、高麗こまの乱声らんじゃうして、「落蹲らくそん」舞まひ出いでたるほど、なほ常つねの目馴めなれぬ舞まひのさまなれば、舞まひ果はつるほどに、権中納言ごんのちうなごん、衛門督ゑもんのかみ下おりて、「入綾いりあや」をほのかに舞まひて、紅葉もみぢの蔭かげに入いりぬる名残なごり、飽あかず興きょうありと人ひとびと思おぼしたり。

 いにしへの朱雀院すざくゐんの行幸みゆきに、「青海波せいがいは」のいみじかりし夕ゆふべ、思おもひ出いでたまふ人ひとびとは、権中納言ごんのちうなごん、衛門督ゑもんのかみ、また劣おとらず立たち続つづきたまひにける、世々よよのおぼえありさま、容貌かたち、用意よういなどもをさをさ劣おとらず、官位つかさくらゐはやや進すすみてさへこそなど、齢よはひのほどをも数かぞへて、「なほ、さるべきにて、昔むかしよりかく立たち続つづきたる御仲おほんなからひなりけり」と、めでたく思おもふ。

 主人あるじの院ゐんも、あはれに涙なみだぐましく、思おぼし出いでらるることども多おほかり。

夜に入りて、楽人どもまかり出づ

 夜よに入いりて、楽人がくにんどもまかり出いづ。北きたの政所まんどころの別当べたうども、人ひとびと率ひきゐて、禄ろくの唐櫃からびつに寄よりて、一ひとつづつ取とりて、次々つぎつぎ賜たまふ。白しろきものどもを品々しなじなかづきて、山際やまぎはより池いけの堤つつみ過すぐるほどのよそ目めは、千歳ちとせをかねて遊あそぶ鶴つるの毛衣けごろもに思おもひまがへらる。

 御遊おほんあそび始はじまりて、またいとおもしろし。御琴おほんことどもは、春宮とうぐうよりぞ調ととのへさせたまひける。朱雀院すざくゐんよりわたり参まゐれる琵琶びは、琴きん。内裏うちより賜たまはりたまへる箏さうの御琴おほんことなど、皆みな昔むかしおぼえたるものの音ねどもにて、めづらしく掻かき合あはせたまへるに、何なにの折をりにも、過すぎにし方かたの御おほんありさま、内裏うちわたりなど思おぼし出いでらる。

「故入道こにうだうの宮みやおはせましかば、かかる御賀おほんがなど、われこそ進すすみ仕つかうまつらましか。何なにごとにつけてかは心こころざしも見みえたてまつりけむ」

 と、飽あかず口惜くちをしくのみ思おもひ出いできこえたまふ。

 内裏うちにも、故宮こみやのおはしまさぬことを、何なにごとにも栄はえなくさうざうしく思おぼさるるに、この院ゐんの御おほんことをだに、例れいの跡あとをあるさまのかしこまりを尽つくしてもえ見みせたてまつらぬを、世よとともに飽あかぬ心地ここちしたまふも、今年ことしはこの御賀おほんがにことつけて、行幸みゆきなどもあるべく思おぼしおきてけれど、

「世よの中なかのわづらひならむこと、さらにせさせたまふまじくなむ」

 と否いなび申まうしたまふこと、たびたびになりぬれば、口惜くちをしく思おぼしとまりぬ。

師走の二十日余りのほどに

 師走しはすの二十日はつか余あまりのほどに、中宮ちうぐうまかでさせたまひて、今年ことしの残のこりの御おほん祈いのりに、奈良ならの京きゃうの七大寺しちだいじに、御誦経みずきゃう、布ぬの四千反よんせんたん、この近ちかき都みやこの四十寺しじふじに、絹きぬ四百疋よんひゃくひきを分わかちてせさせたまふ。

 ありがたき御おほんはぐくみを思おぼし知しりながら、何なにごとにつけてか、深ふかき御心みこころざしをもあらはし御覧ごらんぜさせたまはむとて、父宮ちちみや、母はは御息所みやすんどころのおはせまし御おほんための心こころざしをも取とり添そへ思おぼすに、かくあながちに、朝廷おほやけにも聞きこえ返かへさせたまへば、ことども多おほくとどめさせたまひつ。

「四十しじふの賀がといふことは、さきざきを聞ききはべるにも、残のこりの齢よはひ久ひさしき例ためしなむ少すくなかりけるを、このたびは、なほ、世よの響ひびきとどめさせたまひて、まことに後のちに足たらむことを数かぞへさせたまへ」

 とありけれど、公おほやけざまにて、なほいといかめしくなむありける。

宮のおはします町の寝殿に

 宮みやのおはします町まちの寝殿しんでんに、御おほんしつらひなどして、さきざきにこと変かはらず、上達部かむだちめの禄ろくなど、大饗だいきゃうになずらへて、親王みこたちにはことに女をんなの装束さうぞく、非参議ひさんぎの四位しゐ、まうち君達きむだちなど、ただの殿上人てんじゃうびとには、白しろき細長ほそなが一襲ひとかさね、腰差こしざしなどまで、次々つぎつぎに賜たまふ。

 装束さうぞく限かぎりなくきよらを尽つくして、名高なだかき帯おび、御佩刀みはかしなど、故前坊こぜんばうの御方おほんかたざまにて伝つたはり参まゐりたるも、またあはれになむ。古ふるき世よの一いちの物ものと名なある限かぎりは、皆みな集つどひ参まゐる御賀おほんがになむあめる。昔物語むかしものがたりにも、もの得えさせたるを、かしこきことには数かぞへ続つづけためれど、いとうるさくて、こちたき御仲おほんなからひのことどもは、えぞ数かぞへあへはべらぬや。

内裏には、思し初めてしことどもを

 内裏うちには、思おぼし初そめてしことどもを、むげにやはとて、中納言ちうなごんにぞつけさせたまひてける。そのころの右大将うだいしゃう、病やまひして辞じしたまひけるを、この中納言ちうなごんに、御賀おほんがのほどよろこび加くはへむと思おぼし召めして、にはかになさせたまひつ。

 院ゐんもよろこび聞きこえさせたまふものから、

「いと、かく、にはかに余あまる喜よろこびをなむ、いちはやき心地ここちしはべる」

 と卑下ひげし申まうしたまふ。

 丑寅うしとらの町まちに、御おほんしつらひまうけたまひて、隠かくろへたるやうにしなしたまへれど、今日けふは、なほかたことに儀式ぎしきまさりて、所々ところどころの饗きゃうなども、内蔵寮くらづかさ、穀倉院こくさうゐんより、仕つかうまつらせたまへり。

 屯食とんじきなど、公おほやけざまにて、頭中将とうのちうじゃう宣旨せんじうけたまはりて、親王みこたち五人ごにん、左右ひだりみぎの大臣おとど、大納言だいなごん二人ふたり、中納言ちうなごん三さん人にん、宰相さいしゃう五人ごにん、殿上人てんじゃうびとは、例れいの、内裏うち、春宮とうぐう、院ゐん、残のこる少すくなし。

 御座おまし、御調度みてうどどもなどは、太政大臣おほきおとど詳くはしくうけたまはりて、仕つかうまつらせたまへり。今日けふは、仰おほせ言ごとありて渡わたり参まゐりたまへり。院ゐんも、いとかしこくおどろき申まうしたまひて、御座おほんざに着つきたまひぬ。

 母屋もやの御座おほんざに向むかへて、大臣おとどの御座おほんざあり。いときよらにものものしく太ふとりて、この大臣おとどぞ、今いま盛さかりの宿徳しうとくとは見みえたまへる。

 主人あるじの院ゐんは、なほいと若わかき源氏げんじの君きみに見みえたまふ。御屏風みびゃうぶ四帖しでふに、内裏うちの御手おほんて書かかせたまへる、唐からの綾あやの薄毯うすだんに、下した絵ゑのさまなどおろかならむやは。おもしろき春秋しゅんじうの作つくり絵ゑなどよりも、この御屏風みびゃうぶの墨すみつきのかかやくさまは、目めも及およばず、思おもひなしさへめでたくなむありける。

 置物おきものの御厨子みづし、弾ひき物もの、吹ふき物ものなど、蔵人所くらうどどころより賜たまはりたまへり。大将だいしゃうの御勢おほんいきほひ、いといかめしくなりたまひにたれば、うち添そへて、今日けふの作法さほふいとことなり。御馬おほんむま四十疋しじふひき、左右ひだりみぎの馬寮むまづかさ、六衛府ろくゑふの官人くわんにん、上かみより次々つぎつぎに牽ひきととのふるほど、日ひ暮くれ果はてぬ。

例の、万歳楽、賀王恩などいふ舞

 例れいの、「万歳楽まんざいらく」、「賀王恩がわうおん」などいふ舞まひ、けしきばかり舞まひて、大臣おとどの渡わたりたまへるに、めづらしくもてはやしたまへる御遊おほんあそびに、皆人みなひと、心こころを入いれたまへり。琵琶びはは、例れいの兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや、何なにごとにも世よに難かたきものの上手じゃうずにおはして、いと二になし。御前おまへに琴きんの御琴おほんこと。大臣おとど、和琴わごん弾ひきたまふ。

 年としごろ添そひたまひにける御耳おほんみみの聞ききなしにや、いと優いうにあはれに思おぼさるれば、琴きんも御手おほんてをさをさ隠かくしたまはず、いみじき音ねども出いづ。

 昔むかしの御物語おほんものがたりどもなど出いで来きて、今いまはた、かかる御仲おほんなからひに、いづ方かたにつけても、聞きこえかよひたまふべき御睦おほんむつびなど、心こころよく聞きこえたまひて、御酒おほんみきあまたたび参まゐりて、もののおもしろさもとどこほりなく、御おほん酔ゑひ泣なきどもえとどめたまはず。

 御贈おほんおくり物ものに、すぐれたる和琴わごん一ひとつ、好このみたまふ高麗笛こまぶえ添そへて。紫檀したんの箱はこ一具ひとよろひに、唐からの本ほんども、ここの草さうの本ほんなど入いれて。御車みくるまに追おひてたてまつれたまふ。御馬おほんむまども迎むかへ取とりて、右馬寮みぎのつかさども、高麗こまの楽がくして、ののしる。六衛府ろくゑふの官人くわんにんの禄ろくども、大将だいしゃう賜たまふ。

 御心みこころと削そぎたまひて、いかめしきことどもは、このたび停とどめたまへれど、内裏うち、春宮とうぐう、一院いちのゐん、后きさいの宮みや、次々つぎつぎの御おほんゆかりいつくしきほど、いひ知しらず見みえにたることなれば、なほかかる折をりには、めでたくなむおぼえける。

大将の、ただ一所おはするを

 大将だいしゃうの、ただ一所ひとところおはするを、さうざうしく栄はえなき心地ここちせしかど、あまたの人ひとにすぐれ、おぼえことに、人柄ひとがらもかたはらなきやうにものしたまふにも、かの母はは北きたの方かたの、伊勢いせの御息所みやすんどころとの恨うらみ深ふかく、挑いどみかはしたまひけむほどの御宿世おほんすくせどもの行ゆく末すゑ見みえたるなむ、さまざまなりける。

 その日ひの御装束おほんさうぞくどもなど、こなたの上うへなむしたまひける。禄ろくどもおほかたのことをぞ、三条さんでうの北きたの方かたはいそぎたまふめりし。折をり節ふしにつけたる御おほんいとなみ、うちうちのもののきよらをも、こなたにはただよそのことにのみ聞ききわたりたまふを、何事なにごとにつけてかは、かかるものものしき数かずにもまじらひたまはましと、おぼえたるを、大将だいしゃうの君きみの御おほんゆかりに、いとよく数かずまへられたまへり。

年返りぬ。桐壺の御方近づきたまひぬるによ

 年とし返かへりぬ。桐壺きりつぼの御方おほんかた近ちかづきたまひぬるにより、正月しゃうがつ朔日ついたちより、御修法みすほふ不断ふだんにせさせたまふ。寺々てらでら、社々やしろやしろの御おほん祈いのり、はた数かずも知しらず。大殿おとどの君きみ、ゆゆしきことを見みたまへてしかば、かかるほどのこと、いと恐おそろしきものに思おぼししみたるを、対たいの上うへなどのさることしたまはぬは、口惜くちをしくさうざうしきものから、うれしく思おぼさるるに、まだいとあえかなる御おほんほどに、いかにおはせむと、かねて思おぼし騒さわぐに、二月きさらぎばかりより、あやしく御みけしき変かはりて悩なやみたまふに、御心みこころども騒さわぐべし。

 陰陽師おみゃうじどもも、所ところを変かへてつつしみたまふべく申まうしければ、他ほかのさし離はなれたらむはおぼつかなしとて、かの明石あかしの御町おほんまちの中なかの対たいに渡わたしたてまつりたまふ。こなたは、ただおほきなる対たい二ふたつ、廊らうどもなむめぐりてありけるに、御修法みすほふの壇だん隙ひまなく塗ぬりて、いみじき験者げんざども集つどひて、ののしる。

 母君ははぎみ、この時ときにわが御宿世おほんすくせも見みゆべきわざなめれば、いみじき心こころを尽つくしたまふ。

かの大尼君も、今はこよなきほけ人にてぞあ

 かの大おほ尼君あまぎみも、今いまはこよなきほけ人びとにてぞありけむかし。この御おほんありさまを見みたてまつるは、夢ゆめの心地ここちして、いつしかと参まゐり、近ちかづき馴なれたてまつる。

 年としごろ、母君ははぎみはかう添そひさぶらひたまへど、昔むかしのことなど、まほにしも聞きこえ知しらせたまはざりけるを、この尼君あまぎみ、喜よろこびにえ堪たへで、参まゐりては、いと涙なみだがちに、古ふるめかしきことどもを、わななき出いでつつ語かたりきこゆ。

 初はじめつ方かたは、あやしくむつかしき人ひとかなと、うちまもりたまひしかど、かかる人ひとありとばかりは、ほの聞ききおきたまへれば、なつかしくもてなしたまへり。

 生むまれたまひしほどのこと、大殿おとどの君きみのかの浦うらにおはしましたりしありさま、

「今いまはとて京きゃうへ上のぼりたまひしに、誰たれも誰たれも、心こころを惑まどはして、今いまは限かぎり、かばかりの契ちぎりにこそはありけれと嘆なげきしを、若君わかぎみのかく引ひき助たすけたまへる御宿世おほんすくせの、いみじくかなしきこと」

 と、ほろほろと泣なけば、

「げに、あはれなりける昔むかしのことを、かく聞きかせざらましかば、おぼつかなくても過すぎぬべかりけり」

 と思おぼして、うち泣なきたまふ。心こころのうちには、

「わが身みは、げにうけばりていみじかるべき際きはにはあらざりけるを、対たいの上うへの御おほんもてなしに磨みがかれて、人ひとの思おもへるさまなども、かたほにはあらぬなりけり。人ひとびとをばまたなきものに思おもひ消けち、こよなき心こころおごりをばしつれ。世人よひとは、下したに言いひ出いづるやうもありつらむかし」

 など思おぼし知しり果はてぬ。

 母君ははぎみをば、もとよりかくすこしおぼえ下くだれる筋すぢと知しりながら、生むまれたまひけむほどなどをば、さる世離よばなれたる境さかひにてなども知しりたまはざりけり。いとあまりおほどきたまへるけにこそは。あやしくおぼおぼしかりけることなりや。

 かの入道にふだうの、今いまは仙人せんにんの、世よにも住すまぬやうにてゐたなるを聞ききたまふも、心苦こころぐるしくなど、かたがたに思おもひ乱みだれたまひぬ。

いとものあはれに眺めておはするに

 いとものあはれに眺ながめておはするに、御方おほんかた参まゐりたまひて、日中にちうの御加持おほんかぢに、こなたかなたより参まゐり集つどひ、もの騒さわがしくののしるに、御前おまへにこと人びともさぶらはず、尼君あまぎみ、所得ところえていと近ちかくさぶらひたまふ。

「あな、見苦みぐるしや。短みじかき御几帳みきちゃう引ひき寄よせてこそ、さぶらひたまはめ。風かぜなど騒さわがしくて、おのづからほころびの隙ひまもあらむに。医師くすしなどやうのさまして。いと盛さかり過すぎたまへりや」

 など、なまかたはらいたく思おもひたまへり。よしめきそして振ふる舞まふと、おぼゆめれども、もうもうに耳みみもおぼおぼしかりければ、「ああ」と、傾かたぶきてゐたり。

 さるは、いとさ言いふばかりにもあらずかし。六ろく十五じふご、六ろくのほどなり。尼あま姿すがた、いとかはらかに、あてなるさまして、目め艶つややかに泣なき腫はれたるけしきの、あやしく昔むかし思おもひ出いでたるさまなれば、胸むねうちつぶれて、

「古代こだいのひが言ことどもや、はべりつらむ。よく、この世よのほかなるやうなるひがおぼえどもにとり混まぜつつ、あやしき昔むかしのことどもも出いでまうで来きつらむはや。夢ゆめの心地ここちこそしはべれ」

 と、うちほほ笑ゑみて見みたてまつりたまへば、いとなまめかしくきよらにて、例れいよりもいたくしづまり、もの思おぼしたるさまに見みえたまふ。わが子こともおぼえたまはず、かたじけなきに、

「いとほしきことどもを聞きこえたまひて、思おぼし乱みだるるにや。今いまはかばかりと御位みくらゐを極きはめたまはむ世よに、聞きこえも知しらせむとこそ思おもへ、口惜くちをしく思おぼし捨すつべきにはあらねど、いといとほしく心こころ劣おとりしたまふらむ」

 とおぼゆ。

御加持果ててまかでぬるに

 御加持おほんかぢ果はててまかでぬるに、御おほんくだものなど近ちかくまかなひなし、「こればかりをだに」と、いと心苦こころぐるしげに思おもひて聞きこえたまふ。

 尼君あまぎみは、いとめでたううつくしう見みたてまつるままにも、涙なみだはえとどめず。顔かほは笑ゑみて、口くちつきなどは見苦みぐるしくひろごりたれど、まみのわたりうちしぐれて、ひそみゐたり。

「あな、かたはらいた」

 と、目めくはすれど、聞ききも入いれず。

「老おいの波なみかひある浦うらに立たち出いでてしほたるる海人あまを誰たれかとがめむ

昔むかしの世よにも、かやうなる古人ふるびとは、罪つみ許ゆるされてなむはべりける」

 と聞きこゆ。御硯おほんすずりなる紙かみに、

「しほたるる海人あまを波路なみぢのしるべにて尋たづねも見みばや浜はまの苫屋とまやを」

 御方おほんかたもえ忍しのびたまはで、うち泣なきたまひぬ。

「世よを捨すてて明石あかしの浦うらに住すむ人ひとも心こころの闇やみははるけしもせじ」

 など聞きこえ、紛まぎらはしたまふ。別わかれけむ暁あかつきのことも、夢ゆめの中なかに思おぼし出いでられぬを、「口惜くちをしくもありけるかな」と思おぼす。

弥生の十余日のほどに

 弥生やよひの十余日とをよかのほどに、平たひらかに生むまれたまひぬ。かねてはおどろおどろしく思おぼし騷さわぎしかど、いたく悩なやみたまふことなくて、男をとこ御子みこにさへおはすれば、限かぎりなく思おぼすさまにて、大殿おとども御心みこころ落おちゐたまひぬ。

 こなたは隠かくれの方かたにて、ただ気近けぢかきほどなるに、いかめしき御産養おほんうぶやしなひなどのうちしきり、響ひびきよそほしきありさま、げに「かひある浦うら」と、尼君あまぎみのためには見みえたれど、儀式ぎしきなきやうなれば、渡わたりたまひなむとす。

 対たいの上うへも渡わたりたまへり。白しろき御装束おほんさうぞくしたまひて、人ひとの親おやめきて、若わか宮みやをつと抱いだきてゐたまへるさま、いとをかし。みづからかかること知しりたまはず、人ひとの上うへにても見みならひたまはねば、いとめづらかにうつくしと思おもひきこえたまへり。むつかしげにおはするほどを、絶たえず抱いだきとりたまへば、まことの祖母おば君ぎみは、ただ任まかせたてまつりて、御湯殿おほんゆどのの扱あつかひなどを仕つかうまつりたまふ。

 春宮とうぐうの宣旨せんじなる典侍ないしのすけぞ仕つかうまつる。御迎湯おほんむかへゆに、おりたちたまへるもいとあはれに、うちうちのこともほの知しりたるに、

「すこしかたほならば、いとほしからましを、あさましく気高けだかく、げに、かかる契ちぎりことにものしたまひける人ひとかな」

 と見みきこゆ。このほどの儀式ぎしきなども、まねびたてむに、いとさらなりや。

六日といふに、例の御殿に渡りたまひぬ

 六日むいかといふに、例れいの御殿おとどに渡わたりたまひぬ。七日なぬかの夜よ、内裏うちよりも御産養おほんうぶやしなひのことあり。

 朱雀院すざくゐんの、かく世よを捨すておはします御代おほんかはりにや、蔵人所くらうどどころより、頭弁とうのべん、宣旨せんじうけたまはりて、めづらかなるさまに仕つかうまつれり。禄ろくの衣きぬなど、また中宮ちうぐうの御方おほんかたよりも、公事おほやけごとにはたちまさり、いかめしくせさせたまふ。次々つぎつぎの親王みこたち、大臣おとどの家々いへいへ、そのころのいとなみにて、われもわれもと、きよらを尽つくして仕つかうまつりたまふ。

 大殿おとどの君きみも、このほどのことどもは、例れいのやうにもこと削そがせたまはで、世よになく響ひびきこちたきほどに、うちうちのなまめかしくこまかなるみやびの、まねび伝つたふべき節ふしは、目めも止とまらずなりにけり。大殿おとどの君きみも、若わか宮みやをほどなく抱いだきたてまつりたまひて、

「大将だいしゃうのあまたまうけたなるを、今いままで見みせぬがうらめしきに、かくらうたき人ひとをぞ得えたてまつりたる」

 と、うつくしみきこえたまふは、ことわりなりや。

 日々ひびに、ものを引ひき伸のぶるやうにおよすけたまふ。御乳母おほんめのとなど、心こころ知しらぬはとみに召めさで、さぶらふ中なかに、品しな、心こころすぐれたる限かぎりを選えりて、仕つかうまつらせたまふ。

御方の御心おきての

 御方おほんかたの御心みこころおきての、らうらうじく気高けだかく、おほどかなるものの、さるべき方かたには卑下ひげして、憎にくらかにもうけばらぬなどを、褒ほめぬ人ひとなし。

 対たいの上うへは、まほならねど、見みえ交かはしたまひて、さばかり許ゆるしなく思おぼしたりしかど、今いまは、宮みやの御徳おほんとくに、いと睦むつましく、やむごとなく思おぼしなりにたり。稚児ちごうつくしみたまふ御心みこころにて、天児あまがつなど、御手おほんてづから作つくりそそくりおはするも、いと若々わかわかし。明あけ暮くれこの御おほんかしづきにて過すぐしたまふ。

 かの古代こだいの尼君あまぎみは、若わか宮みやをえ心こころのどかに見みたてまつらぬなむ、飽あかずおぼえける。なかなか見みたてまつり初そめて、恋こひきこゆるにぞ、命いのちもえ堪たふまじかめる。

かの明石にも、かかる御こと伝へ聞きて

 かの明石あかしにも、かかる御おほんこと伝つたへ聞ききて、さる聖ひじり心地ごこちにも、いとうれしくおぼえければ、

「今いまなむ、この世よの境さかひを心こころやすく行ゆき離はなるべき」

 と弟子でしどもに言いひて、この家いへをば寺てらになし、あたりの田たなどやうのものは、皆みなその寺てらのことにしおきて、この国くにの奥おくの郡こほりに、人ひとも通かよひがたく深ふかき山やまあるを、年としごろも占しめおきながら、あしこに籠こもりなむ後のち、また人ひとには見みえ知しらるべきにもあらずと思おもひて、ただすこしのおぼつかなきこと残のこりければ、今いままでながらへけるを、今いまはさりともと、仏ほとけ神かみを頼たのみ申まうしてなむ移うつろひける。

 この近ちかき年としごろとなりては、京きゃうに異ことなることならで、人ひとも通かよはしたてまつらざりつ。これより下くだしたまふ人ひとばかりにつけてなむ、一行ひとくだりにても、尼君あまぎみさるべき折をり節ふしのことも通かよひける。思おもひ離はなるる世よのとぢめに、文ふみ書かきて、御方おほんかたにたてまつれたまへり。

この年ごろは、同じ世の中のうちにめぐらひ

「この年としごろは、同おなじ世よの中なかのうちにめぐらひはべりつれど、何なにかは、かくながら身みを変かへたるやうに思おもうたまへなしつつ、させることなき限かぎりは、聞きこえうけたまはらず。

仮名かな文ぶみ見みたまふるは、目めの暇いとまいりて、念仏ねんぶつも懈台けたいするやうに、益やくなうてなむ、御消息おほんせうそこもたてまつらぬを、伝つてにうけたまはれば、若君わかぎみは春宮とうぐうに参まゐりたまひて、男をとこ宮みや生むまれたまへるよしをなむ、深ふかく喜よろこび申まうしはべる。

そのゆゑは、みづからかくつたなき山伏やまぶしの身みに、今いまさらにこの世よの栄さかえを思おもふにもはべらず。過すぎにし方かたの年としごろ、心こころぎたなく、六時ろくじの勤つとめにも、ただ御おほんことを心こころにかけて、蓮はちすの上うへの露つゆの願ねがひをばさし置おきてなむ念ねんじたてまつりし。

わがおもと生むまれたまはむとせし、その年としの二月にがつのその夜よの夢ゆめに見みしやう、

みづから須弥すみの山やまを、右みぎの手てに捧ささげたり。山やまの左右さいうより、月日つきひの光ひかりさやかにさし出いでて世よを照てらす。みづからは山やまの下しもの蔭かげに隠かくれて、その光ひかりにあたらず。山やまをば広ひろき海うみに浮うかべおきて、小ちひさき舟ふねに乗のりて、西にしの方かたをさして漕こぎゆく

となむ見みはべし。

夢ゆめ覚さめて、朝あしたより数かずならぬ身みに頼たのむところ出いで来きながら、何なにごとにつけてか、さるいかめしきことをば待まち出いでむと、心こころのうちに思おもひはべしを、そのころより孕はらまれたまひにしこなた、俗ぞくの方かたの書ふみを見みはべしにも、また内教ないけうの心こころを尋たづぬる中なかにも、夢ゆめを信しんずべきこと多おほくはべしかば、賤いやしき懐ふところのうちにも、かたじけなく思おもひいたづきたてまつりしかど、力ちから及およばぬ身みに思おもうたまへかねてなむ、かかる道みちに赴おもむきはべりにし。

また、この国くにのことに沈しづみはべりて、老おいの波なみにさらに立たち返かへらじと思おもひとぢめて、この浦うらに年としごろはべしほども、わが君きみを頼たのむことに思おもひきこえはべしかばなむ、心こころ一ひとつに多おほくの願ぐわんを立たてはべし。その返かへり申まうし、平たひらかに思おもひのごと時ときにあひたまふ。

若君わかぎみ、国くにの母ははとなりたまひて、願ねがひ満みちたまはむ世よに、住吉すみよしの御み社やしろをはじめ、果はたし申まうしたまへ。さらに何なにごとをかは疑うたがひはべらむ。

この一ひとつの思おもひ、近ちかき世よにかなひはべりぬれば、はるかに西にしの方かた、十万億じふまんおくの国くに隔へだてたる、九品くほんの上うへの望のぞみ疑うたがひなくなりはべりぬれば、今いまはただ迎むかふる蓮はちすを待まちはべるほど、その夕ゆふべまで、水みづ草くさ清きよき山やまの末すゑにて勤つとめはべらむとてなむ、まかり入いりぬる。

光ひかり出いでむ暁あかつき近ちかくなりにけり今いまぞ見みし世よの夢語ゆめがたりする」

 とて、月日つきひ書かきたり。

命終らむ月日も

「命いのち終おはらむ月日つきひも、さらにな知しろしめしそ。いにしへより人ひとの染そめおきける藤衣ふぢごろもにも、何なにかやつれたまふ。ただわが身みは変化へんげのものと思おぼしなして、老おい法師ほふしのためには功徳くどくをつくりたまへ。この世よの楽たのしみに添そへても、後のちの世よを忘わすれたまふな。

願ねがひはべる所ところにだに至いたりはべりなば、かならずまた対面たいめんははべりなむ。娑婆さばの他ほかの岸きしに至いたりて、疾とくあひ見みむとを思おぼせ」

 さて、かの社やしろに立たて集あつめたる願ぐわん文ぶみどもを、大おほきなる沈ぢんの文箱ふばこに、封ふんじ籠こめてたてまつりたまへり。

 尼君あまぎみには、ことごとにも書かかず、ただ、

「この月つきの十四日じふよにちになむ、草くさの庵いほりまかり離はなれて、深ふかき山やまに入いりはべりぬる。かひなき身みをば、熊狼くまおほかみにも施せしはべりなむ。そこには、なほ思おもひしやうなる御世みよを待まち出いでたまへ。明あきらかなる所ところにて、また対面たいめんはありなむ」

 とのみあり。

尼君、この文を見て

 尼君あまぎみ、この文ふみを見みて、かの使つかひの大徳だいとこに問とへば、

「この御文おほんふみ書かきたまひて、三日みかといふになむ、かの絶たえたる峰みねに移うつろひたまひにし。なにがしらも、かの御送おほんおくりに、麓ふもとまではさぶらひしかど、皆みな返かへしたまひて、僧そう一人ひとり、童わらは二人ふたりなむ、御供おほんともにさぶらはせたまふ。今いまはと世よを背そむきたまひし折をりを、悲かなしきとぢめと思おもうたまへしかど、残のこりはべりけり。

年としごろ行おこなひの隙々ひまひまに、寄より臥ふしながら掻かき鳴ならしたまひし琴きんの御琴おほんこと、琵琶びはとり寄よせたまひて、掻かい調しらべたまひつつ、仏ほとけにまかり申まうしたまひてなむ、御堂みだうに施入せにふしたまひし。さらぬものどもも、多おほくはたてまつりたまひて、その残のこりをなむ、御弟子みでしども六ろく十余人じふよにんなむ、親したしき限かぎりさぶらひける、ほどにつけて皆みな処分そうぶんしたまひて、なほし残のこりをなむ、京きゃうの御料ごれうとて送おくりたてまつりたまへる。

今いまはとてかき籠こもり、さるはるけき山やまの雲くも霞かすみに混まじりたまひにし、むなしき御おほん跡あとにとまりて、悲かなしび思おもふ人ひとびとなむ多おほくはべる」

 など、この大徳だいとこも、童わらはにて京きゃうより下くだりし人ひとの、老おい法師ほふしになりてとまれる、いとあはれに心細こころぼそしと思おもへり。仏ほとけの御弟子みでしのさかしき聖ひじりだに、鷲わしの峰みねをばたどたどしからず頼たのみきこえながら、なほ薪たきぎ尽つきける夜よの惑まどひは深ふかかりけるを、まして尼君あまぎみの悲かなしと思おもひたまへること限かぎりなし。

御方は、南の御殿におはするを

 御方おほんかたは、南みなみの御殿おとどにおはするを、「かかる御消息おほんせうそこなむある」とありければ、忍しのびて渡わたりたまへり。重々おもおもしく身みをもてなして、おぼろけならでは、通かよひあひたまふこともかたきを、「あはれなることなむ」と聞ききて、おぼつかなければ、うち忍しのびてものしたまへるに、いといみじく悲かなしげなるけしきにてゐたまへり。

 火ひ近ちかく取とり寄よせて、この文ふみを見みたまふに、げにせきとめむかたぞなかりける。よその人ひとは、何なにとも目めとどむまじきことの、まづ、昔むかし来きし方かたのこと思おもひ出いで、恋こひしと思おもひわたりたまふ心こころには、「あひ見みで過すぎ果はてぬるにこそは」と、見みたまふに、いみじくいふかひなし。

 涙なみだをえせきとめず、この夢語ゆめがたりを、かつは行ゆく先さき頼たのもしく、

「さらば、ひが心こころにて、わが身みをさしもあるまじきさまにあくがらしたまふと、中なかごろ思おもひただよはれしことは、かくはかなき夢ゆめに頼たのみをかけて、心高こころたかくものしたまふなりけり」

 と、かつがつ思おもひ合あはせたまふ。

尼君、久しくためらひて

 尼君あまぎみ、久ひさしくためらひて、

「君きみの御徳おほんとくには、うれしくおもだたしきことをも、身みにあまりて並ならびなく思おもひはべり。あはれにいぶせき思おもひもすぐれてこそはべりけれ。

数かずならぬ方かたにても、ながらへし都みやこを捨すてて、かしこに沈しづみゐしをだに、世人よひとに違たがひたる宿世すくせにもあるかな、と思おもひはべしかど、生いける世よにゆき離はなれ、隔へだてたるべき仲なかの契ちぎりとは思おもひかけず、同おなじ蓮はちすに住すむべき後のちの世よの頼たのみをさへかけて年月としつきを過すぐし来きて、にはかにかくおぼえぬ御おほんこと出いで来きて、背そむきにし世よに立たち返かへりてはべる、かひある御おほんことを見みたてまつりよろこぶものから、片かたつかたには、おぼつかなく悲かなしきことのうち添そひて絶たえぬを、つひにかくあひ見みず隔へだてながらこの世よを別わかれぬるなむ、口惜くちをしくおぼえはべる。

世よに経へし時ときだに、人ひとに似にぬ心こころばへにより、世よをもてひがむるやうなりしを、若わかきどち頼たのみならひて、おのおのはまたなく契ちぎりおきてければ、かたみにいと深ふかくこそ頼たのみはべしか。いかなれば、かく耳みみに近ちかきほどながら、かくて別わかれぬらむ」

 と言いひ続つづけて、いとあはれにうちひそみたまふ。御方おほんかたもいみじく泣なきて、

「人ひとにすぐれむ行ゆく先さきのことも、おぼえずや。数かずならぬ身みには、何なにごとも、けざやかにかひあるべきにもあらぬものから、あはれなるありさまに、おぼつかなくてやみなむのみこそ口惜くちをしけれ。

よろづのこと、さるべき人ひとの御おほんためとこそおぼえはべれ、さて絶たえ籠こもりたまひなば、世よの中なかも定さだめなきに、やがて消きえたまひなば、かひなくなむ」

 とて、夜よもすがら、あはれなることどもを言いひつつ明あかしたまふ。

昨日も、大殿の君の

「昨日きのふも、大殿おとどの君きみの、あなたにありと見み置おきたまひてしを、にはかにはひ隠かくれたらむも、軽々かろがろしきやうなるべし。身みひとつは、何なにばかりも思おもひ憚はばかりはべらず。かく添そひたまふ御おほんためなどのいとほしきになむ、心こころにまかせて身みをももてなしにくかるべき」

 とて、暁あかつきに帰かへり渡わたりたまひぬ。

「若わか宮みやはいかがおはします。いかでか見みたてまつるべき」

 とても泣なきぬ。

「今いま見みたてまつりたまひてむ。女御にょうごの君きみも、いとあはれになむ思おぼし出いでつつ、聞きこえさせたまふめる。院ゐんも、ことのついでに、もし世よの中なか思おもふやうならば、ゆゆしきかね言ごとなれど、尼君あまぎみそのほどまでながらへたまはなむ、とのたまふめりき。いかに思おぼすことにかあらむ」

 とのたまへば、またうち笑ゑみて、

「いでや、さればこそ、さまざま例ためしなき宿世すくせにこそはべれ」

 とて喜よろこぶ。この文箱ふばこは持もたせて参まう上のぼりたまひぬ。

宮より、とく参りたまふべきよしのみあれば

 宮みやより、とく参まゐりたまふべきよしのみあれば、

「かく思おぼしたる、ことわりなり。めづらしきことさへ添そひて、いかに心こころもとなく思おぼさるらむ」

 と、紫むらさきの上うへものたまひて、若宮わかみや忍しのびて参まゐらせたてまつらむ御心みこころづかひしたまふ。

 御息所みやすんどころは、御暇おほんいとまの心こころやすからぬに懲こりたまひて、かかるついでに、しばしあらまほしく思おぼしたり。ほどなき御身おほんみに、さる恐おそろしきことをしたまへれば、すこし面痩おもやせ細ほそりて、いみじくなまめかしき御おほんさましたまへり。

「かく、ためらひがたくおはするほど、つくろひたまひてこそは」

 など、御方おほんかたなどは心苦こころぐるしがりきこえたまふを、大殿おとどは、

「かやうに面痩おもやせて見みえたてまつりたまはむも、なかなかあはれなるべきわざなり」

 などのたまふ。

対の上などの渡りたまひぬる夕つ方

 対たいの上うへなどの渡わたりたまひぬる夕ゆふつ方かた、しめやかなるに、御方おほんかた、御前おまへに参まゐりたまひて、この文箱ふばこ聞きこえ知しらせたまふ。

「思おもふさまにかなひ果はてさせたまふまでは、取とり隠かくして置おきてはべるべけれど、世よの中なか定さだめがたければ、うしろめたさになむ。何なにごとをも御心みこころと思おぼし数かずまへざらむこなた、ともかくも、はかなくなりはべりなば、かならずしも今いまはのとぢめを、御覧ごらんぜらるべき身みにもはべらねば、なほ、うつし心ごころ失うせずはべる世よになむ、はかなきことをも、聞きこえさせ置おくべくはべりける、と思おもひはべりて。

むつかしくあやしき跡あとなれど、これも御覧ごらんぜよ。この願ぐわん文ぶみは、近ちかき御厨子みづしなどに置おかせたまひて、かならずさるべからむ折をりに御覧ごらんじて、このうちのことどもはせさせたまへ。

疎うとき人ひとには、な漏もらさせたまひそ。かばかりと見みたてまつりおきつれば、みづからも世よを背そむきはべなむと思おもうたまへなりゆけば、よろづ心こころのどかにもおぼえはべらず。

対たいの上うへの御心みこころ、おろかに思おもひきこえさせたまふな。いとありがたくものしたまふ、深ふかき御みけしきを見みはべれば、身みにはこよなくまさりて、長ながき御世みよにもあらなむとぞ思おもひはべる。もとより、御身おほんみに添そひきこえさせむにつけても、つつましき身みのほどにはべれば、譲ゆづりきこえそめはべりにしを、いとかうしも、ものしたまはじとなむ、年としごろは、なほ世よの常つねに思おもうたまへわたりはべりつる。

今いまは、来きし方かた行ゆく先さき、うしろやすく思おもひなりにてはべり」

 など、いと多おほく聞きこえたまふ。涙なみだぐみて聞ききおはす。かくむつましかるべき御前おまへにも、常つねにうちとけぬさましたまひて、わりなくものづつみしたるさまなり。この文ふみの言葉ことば、いとうたてこはく、憎にくげなるさまを、陸奥国紙みちのくにがみにて、年とし経へにければ、黄きばみ厚肥あつごえたる五ご、六枚ろくまい、さすがに香かうにいと深ふかくしみたるに書かきたまへり。

 いとあはれと思おぼして、御額髪おほんひたひがみのやうやう濡ぬれゆく、御おほん側目そばめ、あてになまめかし。

院は、姫宮の御方におはしけるを

 院ゐんは、姫宮ひめみやの御方おほんかたにおはしけるを、中なかの御障子みさうじよりふと渡わたりたまへれば、えしも引ひき隠かくさで、御几帳みきちゃうをすこし引ひき寄よせて、みづからははた隠かくれたまへり。

「若わか宮みやは、おどろきたまへりや。時ときの間まも恋こひしきわざなりけり」

 と聞きこえたまへば、御息所みやすんどころはいらへも聞きこえたまはねば、御方おほんかた、

「対たいに渡わたしきこえたまひつ」

 と聞きこえたまふ。

「いとあやしや。あなたにこの宮みやを領らうじたてまつりて、懐ふところをさらに放はなたずもて扱あつかひつつ、人ひとやりならず衣きぬも皆みな濡ぬらして、脱ぬぎかへがちなめる。軽々かろがろしく、などかく渡わたしたてまつりたまふ。こなたに渡わたりてこそ見みたてまつりたまはめ」

 とのたまへば、

「いと、うたて。思おもひぐまなき御おほんことかな。女をんなにおはしまさむにだに、あなたにて見みたてまつりたまはむこそよくはべらめ。まして男をとこは、限かぎりなしと聞きこえさすれど、心こころやすくおぼえたまふを。戯たはぶれにても、かやうに隔へだてがましきこと、なさかしがり聞きこえさせたまひそ」

 と聞きこえたまふ。うち笑わらひて、

「御仲おほんなかどもにまかせて、見放みはなちきこゆべきななりな。隔へだてて、今いまは、誰たれも誰たれもさし放はなち、さかしらなどのたまふこそ幼をさなけれ。まづは、かやうにはひ隠かくれて、つれなく言いひ落おとしたまふめりかし」

 とて、御几帳みきちゃうを引ひきやりたまへれば、母屋もやの柱はしらに寄よりかかりて、いときよげに、心恥こころはづかしげなるさましてものしたまふ。

ありつる箱も、惑ひ隠さむもさま悪しければ

 ありつる箱はこも、惑まどひ隠かくさむもさま悪あしければ、さておはするを、

「なぞの箱かこ。深ふかき心こころあらむ。懸想人けさうびとの長歌ながうた詠よみて封ふんじこめたる心地ここちこそすれ」

 とのたまへば、

「あな、うたてや。今いまめかしくなり返かへらせたまふめる御心みこころならひに、聞きき知しらぬやうなる御おほんすさび言ごとどもこそ、時々ときどき出いで来くれ」

 とて、ほほ笑ゑみたまへれど、ものあはれなりける御みけしきどもしるければ、あやしとうち傾かたぶきたまへるさまなれば、わづらはしくて、

「かの明石あかしの岩いは屋やより、忍しのびてはべし御おほん祈いのりの巻数くわんじゅ、また、まだしき願ぐわんなどのはべりけるを、御心みこころにも知しらせたてまつるべき折をりあらば、御覧ごらんじおくべくやとてはべるを、ただ今いまは、ついでなくて、何なにかは開あけさせたまはむ」

 と聞きこえたまふに、「げに、あはれなるべきありさまぞかし」と思おぼして、

「いかに行おこなひまして住すみたまひにたらむ。命いのち長ながくて、ここらの年としごろ勤つとむる罪つみも、こよなからむかし。世よの中なかに、よしあり、賢さかしき方々かたがたの、人ひととて見みるにも、この世よに染そみたるほどの濁にごり深ふかきにやあらむ、賢かしこき方かたこそあれ、いと限かぎりありつつ及およばざりけりや。

さもいたり深ふかく、さすがに、けしきありし人ひとのありさまかな。聖ひじりだち、この世離よばなれ顔がほにもあらぬものから、下したの心こころは、皆みなあらぬ世よに通かよひ住すみにたるとこそ、見みえしか。

まして、今いまは心苦こころぐるしきほだしもなく、思おもひ離はなれにたらむをや。かやすき身みならば、忍しのびて、いと会あはまほしくこそ」

 とのたまふ。

「今いまは、かのはべりし所ところをも捨すてて、鳥とりの音ね聞きこえぬ山やまにとなむ聞ききはべる」

 と聞きこゆれば、

「さらば、その遺言ゆいごんななりな。消息せうそこは通かよはしたまふや。尼君あまぎみ、いかに思おもひたまふらむ。親子おやこの仲なかよりも、またさるさまの契ちぎりは、ことにこそ添そふべけれ」

 とて、うち涙なみだぐみたまへり。

年の積もりに、世の中のありさまを

「年としの積つもりに、世よの中なかのありさまを、とかく思おもひ知しりゆくままに、あやしく恋こひしく思おもひ出いでらるる人ひとの御みありさまなれば、深ふかき契ちぎりの仲なからひは、いかにあはれならむ」

 などのたまふついでに、「この夢語ゆめがたりも思おぼし合あはすることもや」と思おもひて、

「いとあやしき梵字ぼんじとかいふやうなる跡あとにはべめれど、御覧ごらんじとどむべき節ふしもや混まじりはべるとてなむ。今いまはとて別わかれはべりにしかど、なほこそ、あはれは残のこりはべるものなりけれ」

 とて、さまよくうち泣なきたまふ。寄よりたまひて、

「いとかしこく、なほほれぼれしからずこそあるべけれ。手てなども、すべて何なにごとも、わざと有職いうそくにしつべかりける人ひとの、ただこの世よ経ふる方かたの心こころおきてこそ少すくなかりけれ。

かの先祖せんぞの大臣おとどは、いとかしこくありがたき心こころざしを尽つくして、朝廷おほやけに仕つかうまつりたまひけるほどに、ものの違たがひめありて、その報むくいにかく末すゑはなきなりなど、人ひと言いふめりしを、女子をんなごの方かたにつけたれど、かくていと嗣つぎなしといふべきにはあらぬも、そこらの行おこなひのしるしにこそはあらめ」

 など、涙なみだおし拭のごひたまひつつ、この夢ゆめのわたりに目めとどめたまふ。

「あやしくひがひがしく、すずろに高たかき心こころざしありと人ひとも咎とがめ、また我われながらも、さるまじき振ふる舞まひを、仮かりにてもするかな、と思おもひしことは、この君きみの生むまれたまひし時ときに、契ちぎり深ふかく思おもひ知しりにしかど、目めの前まへに見みえぬあなたのことは、おぼつかなくこそ思おもひわたりつれ、さらば、かかる頼たのみありて、あながちには望のぞみしなりけり。

横よこさまに、いみじき目めを見み、ただよひしも、この人ひと一人ひとりのためにこそありけれ。いかなる願ぐわんをか心こころに起おこしけむ」

 とゆかしければ、心こころのうちに拝おがみて取とりたまひつ。

これは、また具してたてまつるべきものはべ

「これは、また具ぐしてたてまつるべきものはべり。今いままた聞きこえ知しらせはべらむ」

 と、女御にょうごには聞きこえたまふ。そのついでに、

「今いまは、かく、いにしへのことをもたどり知しりたまひぬれど、あなたの御心みこころばへを、おろかに思おぼしなすな。もとよりさるべき仲なか、えさらぬ睦むつびよりも、横よこさまの人ひとのなげのあはれをもかけ、一言ひとことの心寄こころよせあるは、おぼろけのことにもあらず。

まして、ここになどさぶらひ馴なれたまふを見みる見みるも、初はじめの心こころざし変かはらず、深ふかくねむごろに思おもひきこえたるを。

いにしへの世よのたとへにも、さこそはうはべには育はぐくみけれと、らうらうじきたどりあらむも、賢かしこきやうなれど、なほあやまりても、わがため下したの心こころゆがみたらむ人ひとを、さも思おもひ寄よらず、うらなからむためは、引ひき返かへしあはれに、いかでかかるにはと、罪つみ得えがましきにも、思おもひ直なほることもあるべし。

おぼろけの昔むかしの世よのあだならぬ人ひとは、違たがふ節々ふしぶしあれど、ひとりひとり罪つみなき時ときには、おのづからもてなす例ためしどもあるべかめり。さしもあるまじきことに、かどかどしく癖くせをつけ、愛敬あいぎゃうなく、人ひとをもて離はなるる心こころあるは、いとうちとけがたく、思おもひぐまなきわざになむあるべき。

多おほくはあらねど、人ひとの心こころの、とあるさまかかるおもむきを見みるに、ゆゑよしといひ、さまざまに口惜くちをしからぬ際きはの心こころばせあるべかめり。皆みなおのおの得えたる方かたありて、取とるところなくもあらねど、また、取とり立たてて、わが後見うしろみに思おもひ、まめまめしく選えらび思おもはむには、ありがたきわざになむ。

ただまことに心こころの癖くせなくよきことは、この対たいをのみなむ、これをぞおいらかなる人ひとといふべかりける、となむ思おもひはべる。よしとて、またあまりひたたけて頼たのもしげなきも、いと口惜くちをしや」

 とばかりのたまふに、かたへの人ひとは思おもひやられぬかし。

そこにこそ、すこしものの心得てものしたま

「そこにこそ、すこしものの心得こころえてものしたまふめるを、いとよし、睦むつび交かはして、この御後見おほんうしろみをも、同おなじ心こころにてものしたまへ」

 など、忍しのびやかにのたまふ。

「のたまはせねど、いとありがたき御みけしきを見みたてまつるままに、明あけ暮くれの言種ことぐさに聞きこえはべる。めざましきものになど思おぼしゆるさざらむに、かうまで御覧ごらんじ知しるべきにもあらぬを、かたはらいたきまで数かずまへのたまはすれば、かへりてはまばゆくさへなむ。

数かずならぬ身みの、さすがに消きえぬは、世よの聞きき耳みみも、いと苦くるしく、つつましく思おもうたまへらるるを、罪つみなきさまに、もて隠かくされたてまつりつつのみこそ」

 と聞きこえたまへば、

「その御おほんためには、何なにの心こころざしかはあらむ。ただ、この御おほんありさまを、うち添そひてもえ見みたてまつらぬおぼつかなさに、譲ゆづりきこえらるるなめり。それもまた、とりもちて、掲焉けちえんになどあらぬ御おほんもてなしどもに、よろづのことなのめに目めやすくなれば、いとなむ思おもひなくうれしき。

はかなきことにて、ものの心得こころえずひがひがしき人ひとは、立たち交まじらふにつけて、人ひとのためさへからきことありかし。さ直なほしどころなく、誰たれもものしたまふめれば、心こころやすくなむ」

 とのたまふにつけても、

「さりや、よくこそ卑下ひげしにけれ」

 など、思おもひ続つづけたまふ。対たいへ渡わたりたまひぬ。

さも、いとやむごとなき御心ざしのみまさる

「さも、いとやむごとなき御心みこころざしのみまさるめるかな。げにはた、人ひとよりことに、かくしも具ぐしたまへるありさまの、ことわりと見みえたまへるこそめでたけれ。

宮みやの御方おほんかた、うはべの御おほんかしづきのみめでたくて、渡わたりたまふことも、えなのめならざめるは、かたじけなきわざなめりかし。同おなじ筋すぢにはおはすれど、今一いまひと際きはは心苦こころぐるしく」

 としりうごちきこえたまふにつけても、わが宿世すくせは、いとたけくぞ、おぼえたまひける。

「やむごとなきだに、思おぼすさまにもあらざめる世よに、まして立たちまじるべきおぼえにしあらねば、すべて今いまは、恨うらめしき節ふしもなし。ただ、かの絶たえ籠こもりにたる山やま住ずみを思おもひやるのみぞ、あはれにおぼつかなき」

 尼君あまぎみも、ただ、「福地ふくぢの園そのに種たねまきて」とやうなりし一言ひとことをうち頼たのみて、後のちの世よを思おもひやりつつ眺ながめゐたまへり。

大将の君は、この姫宮の御ことを

 大将だいしゃうの君きみは、この姫宮ひめみやの御おほんことを、思おもひ及およばぬにしもあらざりしかば、目めに近ちかくおはしますを、いとただにもおぼえず、おほかたの御おほんかしづきにつけて、こなたにはさりぬべき折々をりをりに参まゐり馴なれ、おのづから御おほんけはひ、ありさまも見聞みききたまふに、いと若わかくおほどきたまへる一筋ひとすぢにて、上うへの儀式ぎしきはいかめしく、世よの例ためしにしつばかりもてかしづきたてまつりたまへれど、をさをさけざやかにもの深ふかくは見みえず。

 女房にょうばうなども、おとなおとなしきは少すくなく、若わかやかなる容貌かたち人びとの、ひたぶるにうちはなやぎ、さればめるはいと多おほく、数かず知しらぬまで集つどひさぶらひつつ、もの思おもひなげなる御おほんあたりとはいひながら、何なにごとものどやかに心こころしづめたるは、心こころのうちのあらはにしも見みえぬわざなれば、身みに人ひと知しれぬ思おもひ添そひたらむも、またまことに心地ここちゆきげに、とどこほりなかるべきにしうち混まじれば、かたへの人ひとにひかれつつ、同おなじけはひもてなしになだらかなるを、ただ明あけ暮くれは、いはけたる遊あそび戯たはぶれに心こころ入いれたる童女わらはべのありさまなど、院ゐんは、いと目めにつかず見みたまふことどもあれど、一ひとつさまに世よの中なかを思おぼしのたまはぬ御本性ごほんじゃうなれば、かかる方かたをもまかせて、さこそはあらまほしからめ、と御覧ごらんじゆるしつつ、戒いましめととのへさせたまはず。

 正身さうじみの御おほんありさまばかりをば、いとよく教をしへきこえたまふに、すこしもてつけたまへり。

かやうのことを

 かやうのことを、大将だいしゃうの君きみも、

「げにこそ、ありがたき世よなりけれ。紫むらさきの御用意おほんようい、けしきの、ここらの年とし経へぬれど、ともかくも漏もり出いで見みえ聞きこえたるところなく、しづやかなるをもととして、さすがに、心こころうつくしう、人ひとをも消けたず、身みをもやむごとなく、心こころにくくもてなし添そへたまへること」

 と、見みし面影おもかげも忘わすれがたくのみなむ思おもひ出いでられける。

「わが御おほん北きたの方かたも、あはれと思おぼす方かたこそ深ふかけれ、いふかひあり、すぐれたるらうらうじさなど、ものしたまはぬ人ひとなり。おだしきものに、今いまはと目馴めなるるに、心こころゆるびて、なほかくさまざまに、集つどひたまへるありさまどもの、とりどりにをかしきを、心こころひとつに思おもひ離はなれがたきを、ましてこの宮みやは、人ひとの御おほんほどを思おもふにも、限かぎりなく心こころことなる御おほんほどに、取とり分わきたる御みけしきしもあらず、人目ひとめの飾かざりばかりにこそ」

 と見みたてまつり知しる。わざとおほけなき心こころにしもあらねど、「見みたてまつる折をりありなむや」と、ゆかしく思おもひきこえたまひけり。

衛門督の君も、院に常に参り

 衛門督ゑもんのかんの君きみも、院ゐんに常つねに参まゐり、親したしくさぶらひ馴なれたまひし人ひとなれば、この宮みやを父帝ちちみかどのかしづきあがめたてまつりたまひし御心みこころおきてなど、詳くはしく見みたてまつりおきて、さまざまの御おほん定さだめありしころほひより聞きこえ寄より、院ゐんにも、「めざましとは思おぼし、のたまはせず」と聞ききしを、かくことざまになりたまへるは、いと口惜くちをしく、胸むねいたき心地ここちすれば、なほえ思おもひ離はなれず。

 その折をりより語かたらひつきにける女房にょうばうのたよりに、御おほんありさまなども聞きき伝つたふるを慰なぐさめに思おもふぞ、はかなかりける。

「対たいの上うへの御おほんけはひには、なほ圧おされたまひてなむ」と、世人よひともまねび伝つたふるを聞ききては、

「かたじけなくとも、さるものは思おもはせたてまつらざらまし。げに、たぐひなき御身おほんみにこそ、あたらざらめ」

 と、常つねにこの小侍従こじじうといふ御乳主おほんちぬしをも言いひはげまして、

「世よの中なか定さだめなきを、大殿おとどの君きみ、もとより本意ほいありて思おぼしおきてたる方かたに赴おもむきたまはば」

 と、たゆみなく思おもひありきけり。

弥生ばかりの空うららかなる日

 弥生やよひばかりの空そらうららかなる日ひ、六条ろくでうの院ゐんに、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや、衛門督ゑもんのかみなど参まゐりたまへり。大殿おとど出いでたまひて、御物語おほんものがたりなどしたまふ。

「静しづかなる住すまひは、このごろこそいとつれづれに紛まぎるることなかりけれ。公私おほやけわたくしにことなしや。何なにわざしてかは暮くらすべき」

 などのたまひて、

「今朝けさ、大将だいしゃうのものしつるは、いづ方かたにぞ。いとさうざうしきを、例れいの、小弓こゆみ射いさせて見みるべかりけり。好このむめる若人わかうどどもも見みえつるを、ねたう出いでやしぬる」

 と、問とはせたまふ。

「大将だいしゃうの君きみは、丑寅うしとらの町まちに、人ひとびとあまたして、鞠まりもて遊あそばして見みたまふ」と聞きこしめして、

「乱みだりがはしきことの、さすがに目め覚さめてかどかどしきぞかし。いづら、こなたに」

 とて、御消息おほんせうそこあれば、参まゐりたまへり。若わか君達きむだちめく人ひとびと多おほかりけり。

「鞠まり持もたせたまへりや。誰々たれだれかものしつる」

 とのたまふ。

「これかれはべりつ」

「こなたへまかでむや」

 とのたまひて、寝殿しんでんの東面ひんがしおもて、桐壺きりつぼは若宮わかみや具ぐしたてまつりて、参まゐりたまひにしころなれば、こなた隠かくろへたりけり。遣水やりみづなどのゆきあひはれて、よしあるかかりのほどを尋たづねて立たち出いづ。太政大臣殿おほきおほいどのの君達きむだち、頭弁とうのべん、兵衛佐ひゃうゑのすけ、大夫たいふの君きみなど、過すぐしたるも、まだ片かたなりなるも、さまざまに、人ひとよりまさりてのみものしたまふ。

やうやう暮れかかるに

 やうやう暮くれかかるに、「風かぜ吹ふかず、かしこき日ひなり」と興きょうじて、弁君べんのきみもえしづめず立たちまじれば、大殿おとど、

「弁官べんくわんもえをさめあへざめるを、上達部かむだちめなりとも、若わかき衛府司ゑふづかさたちは、などか乱みだれたまはざらむ。かばかりの齢よはひにては、あやしく見過みすぐす、口惜くちをしくおぼえしわざなり。さるは、いと軽々きゃうきゃうなりや。このことのさまよ」

 などのたまふに、大将だいしゃうも督君かんのきみも、皆みな下おりたまひて、えならぬ花はなの蔭かげにさまよひたまふ夕ゆふばえ、いときよげなり。をさをささまよく静しづかならぬ、乱みだれごとなめれど、所ところから人ひとからなりけり。

 ゆゑある庭にはの木立こだちのいたく霞かすみこめたるに、色々いろいろ紐ひもときわたる花はなの木きども、わづかなる萌黄もえぎの蔭かげに、かくはかなきことなれど、善よき悪あしきけぢめあるを挑いどみつつ、われも劣おとらじと思おもひ顔がほなる中なかに、衛門督ゑもんのかみのかりそめに立たち混まじりたまへる足あしもとに、並ならぶ人ひとなかりけり。

 容貌かたちいときよげに、なまめきたるさましたる人ひとの、用意よういいたくして、さすがに乱みだりがはしき、をかしく見みゆ。

 御階みはしの間まにあたれる桜さくらの蔭かげに寄よりて、人ひとびと、花はなの上うへも忘わすれて心こころに入いれたるを、大殿おとども宮みやも、隅すみの高欄かうらんに出いでて御覧ごらんず。

いと労ある心ばへども見えて

 いと労らうある心こころばへども見みえて、数かず多おほくなりゆくに、上臈じゃうらふも乱みだれて、冠かうぶりの額ひたひすこしくつろぎたり。大将だいしゃうの君きみも、御位おほんくらゐのほど思おもふこそ、例れいならぬ乱みだりがはしさかなとおぼゆれ、見みる目めは、人ひとよりけに若わかくをかしげにて、桜さくらの直衣なほしのやや萎なえたるに、指貫さしぬきの裾すそつ方かた、すこしふくみて、けしきばかり引ひき上あげたまへり。

 軽々かるがるしうも見みえず、ものきよげなるうちとけ姿すがたに、花はなの雪ゆきのやうに降ふりかかれば、うち見上みあげて、しをれたる枝えだすこし押おし折をりて、御階みはしの中なかのしなのほどにゐたまひぬ。督かんの君きみ続つづきて、

「花はな、乱みだりがはしく散ちるめりや。桜さくらは避よきてこそ」

 などのたまひつつ、宮みやの御前おまへの方かたを後しり目めに見みれば、例れいの、ことにをさまらぬけはひどもして、色々いろいろこぼれ出いでたる御簾みすのつま、透影すきかげなど、春はるの手向たむけの幣袋ぬさぶくろにやとおぼゆ。

御几帳どもしどけなく引きやりつつ

 御几帳みきちゃうどもしどけなく引ひきやりつつ、人ひと気け近ちかく世よづきてぞ見みゆるに、唐から猫ねこのいと小ちひさくをかしげなるを、すこし大おほきなる猫ねこ追おひ続つづきて、にはかに御簾みすのつまより走はしり出いづるに、人ひとびとおびえ騒さわぎて、そよそよと身みじろきさまよふけはひども、衣きぬの音おとなひ、耳みみかしかましき心地ここちす。

 猫ねこは、まだよく人ひとにもなつかぬにや、綱つないと長ながく付つきたりけるを、物ものにひきかけまつはれにけるを、逃にげむとひこしろふほどに、御簾みすの側そばいとあらはに引ひき開あけられたるを、とみにひき直なほす人ひともなし。この柱はしらのもとにありつる人ひとびとも、心こころあわたたしげにて、もの懼おぢしたるけはひどもなり。

几帳の際すこし入りたるほどに

 几帳きちゃうの際きはすこし入いりたるほどに、袿うちき姿すがたにて立たちたまへる人ひとあり。階はしより西にしの二にの間まの東ひむがしの側そばなれば、まぎれどころもなくあらはに見入みいれらる。

 紅梅こうばいにやあらむ、濃こき薄うすき、すぎすぎに、あまた重かさなりたるけぢめ、はなやかに、草子さうしのつまのやうに見みえて、桜さくらの織物おりものの細長ほそながなるべし。御髪みぐしのすそまでけざやかに見みゆるは、糸いとをよりかけたるやうになびきて、裾すそのふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七しち、八寸はちすんばかりぞ余あまりたまへる。御衣おほんぞの裾すそがちに、いと細ほそくささやかにて、姿すがたつき、髪かみのかかりたまへる側目そばめ、言いひ知しらずあてにらうたげなり。夕ゆふ影かげなれば、さやかならず、奥おく暗くらき心地ここちするも、いと飽あかず口惜くちをし。

 鞠まりに身みを投なぐる若わか君達きむだちの、花はなの散ちるを惜をしみもあへぬけしきどもを見みるとて、人ひとびと、あらはをふともえ見みつけぬなるべし。猫ねこのいたく鳴なけば、見み返かへりたまへる面おももち、もてなしなど、いとおいらかにて、若わかくうつくしの人ひとやと、ふと見みえたり。

大将、いとかたはらいたけれど

 大将だいしゃう、いとかたはらいたけれど、はひ寄よらむもなかなかいと軽々かるがるしければ、ただ心こころを得えさせて、うちしはぶきたまへるにぞ、やをらひき入いりたまふ。さるは、わが心地ここちにも、いと飽あかぬ心地ここちしたまへど、猫ねこの綱つなゆるしつれば、心こころにもあらずうち嘆なげかる。

 まして、さばかり心こころをしめたる衛門督ゑもんのかみは、胸むねふとふたがりて、誰たればかりにかはあらむ、ここらの中なかにしるき袿うちき姿すがたよりも、人ひとに紛まぎるべくもあらざりつる御おほんけはひなど、心こころにかかりておぼゆ。

 さらぬ顔かほにもてなしたれど、「まさに目めとどめじや」と、大将だいしゃうはいとほしく思おぼさる。わりなき心地ここちの慰なぐさめに、猫ねこを招まねき寄よせてかき抱いだきたれば、いと香かうばしくて、らうたげにうち鳴なくも、なつかしく思おもひよそへらるるぞ、好すき好ずきしきや。

大殿御覧じおこせて

 大殿おとど御覧ごらんじおこせて、

「上達部かむだちめの座ざ、いと軽々かろがろしや。こなたにこそ」

 とて、対たいの南面みなみおもてに入いりたまへれば、みなそなたに参まゐりたまひぬ。宮みやもゐ直なほりたまひて、御物語おほんものがたりしたまふ。

 次々つぎつぎの殿上人てんじゃうびとは、簀子すのこに円座わらふだ召めして、わざとなく、椿餅つばいもちひ、梨なし、柑子かうじやうのものども、さまざまに箱はこの蓋ふたどもにとり混まぜつつあるを、若わかき人ひとびとそぼれ取とり食くふ。さるべき乾物からものばかりして、御土器おほんかはらけ参まゐる。

 衛門督ゑもんのかみは、いといたく思おもひしめりて、ややもすれば、花はなの木きに目めをつけて眺ながめやる。大将だいしゃうは、心こころ知しりに、「あやしかりつる御簾みすの透影すきかげ思おもひ出いづることやあらむ」と思おもひたまふ。

「いと端近はしぢかなりつるありさまを、かつは軽々かろがろしと思おもふらむかし。いでや。こなたの御おほんありさまの、さはあるまじかめるものを」と思おもふに、「かかればこそ、世よのおぼえのほどよりは、うちうちの御心みこころざしぬるきやうにはありけれ」

 と思おもひ合あはせて、

「なほ、内うち外との用意ようい多おほからず、いはけなきは、らうたきやうなれど、うしろめたきやうなりや」

 と、思おもひ落おとさる。

 宰相さいしゃうの君きみは、よろづの罪つみをもをさをさたどられず、おぼえぬものの隙ひまより、ほのかにもそれと見みたてまつりつるにも、「わが昔むかしよりの心こころざしのしるしあるべきにや」と、契ちぎりうれしき心地ここちして、飽あかずのみおぼゆ。

院は、昔物語し出でたまひて

 院ゐんは、昔物語むかしものがたりし出いでたまひて、

「太政大臣おほきおとどの、よろづのことにたち並ならびて、勝かち負まけの定さだめしたまひし中なかに、鞠まりなむえ及およばずなりにし。はかなきことは、伝つたへあるまじけれど、ものの筋すぢはなほこよなかりけり。いと目めも及およばず、かしこうこそ見みえつれ」

 とのたまへば、うちほほ笑ゑみて、

「はかばかしき方かたにはぬるくはべる家いへの風かぜの、さしも吹ふき伝つたへはべらむに、後のちの世よのため、異ことなることなくこそはべりぬべけれ」

 と申まうしたまへば、

「いかでか。何なにごとも人ひとに異ことなるけぢめをば、記しるし伝つたふべきなり。家いへの伝つたへなどに書かき留とどめ入いれたらむこそ、興きょうはあらめ」

 など、戯たはぶれたまふ御おほんさまの、匂にほひやかにきよらなるを見みたてまつるにも、

「かかる人ひとにならひて、いかばかりのことにか心こころを移うつす人ひとはものしたまはむ。何なにごとにつけてか、あはれと見みゆるしたまふばかりは、なびかしきこゆべき」

 と、思おもひめぐらすに、いとどこよなく、御おほんあたりはるかなるべき身みのほども思おもひ知しらるれば、胸むねのみふたがりてまかでたまひぬ。

大将の君一つ車にて

 大将だいしゃうの君きみ一ひとつ車くるまにて、道みちのほど物語ものがたりしたまふ。

「なほ、このころのつれづれには、この院ゐんに参まゐりて、紛まぎらはすべきなりけり」

「今日けふのやうならむ暇いとまの隙ひま待まちつけて、花はなの折をり過すぐさず参まゐれ、とのたまひつるを、春はる惜をしみがてら、月つきのうちに、小弓こゆみ持もたせて参まゐりたまへ」

 と語かたらひ契ちぎる。おのおの別わかるる道みちのほど物語ものがたりしたまうて、宮みやの御おほん事ことのなほ言いはまほしければ、

「院ゐんには、なほこの対たいにのみものせさせたまふなめりな。かの御おほんおぼえの異ことなるなめりかし。この宮みやいかに思おぼすらむ。帝みかどの並ならびなくならはしたてまつりたまへるに、さしもあらで、屈くしたまひにたらむこそ、心苦こころぐるしけれ」

 と、あいなく言いへば、

「たいだいしきこと。いかでかさはあらむ。こなたは、さま変かはりて生おほしたてたまへる睦むつびのけぢめばかりにこそあべかめれ。宮みやをば、かたがたにつけて、いとやむごとなく思おもひきこえたまへるものを」

 と語かたりたまへば、

「いで、あなかま。たまへ。皆みな聞ききてはべり。いといとほしげなる折々をりをりあなるをや。さるは、世よにおしなべたらぬ人ひとの御おほんおぼえを。ありがたきわざなりや」

 と、いとほしがる。

「いかなれば花はなに木こづたふ鴬うぐひすの桜さくらをわきてねぐらとはせぬ

春はるの鳥とりの、桜さくら一ひとつにとまらぬ心こころよ。あやしとおぼゆることぞかし」

 と、口くちずさびに言いへば、

「いで、あなあぢきなのもの扱あつかひや、さればよ」と思おもふ。

「深山木みやまぎにねぐら定さだむるはこ鳥どりもいかでか花はなの色いろに飽あくべき

わりなきこと。ひたおもむきにのみやは」

 といらへて、わづらはしければ、ことに言いはせずなりぬ。異事ことごとに言いひ紛まぎらはして、おのおの別わかれぬ。

督の君は、なほ大殿の東の対に

 督かんの君きみは、なほ大殿おほいどのの東ひむがしの対たいに、独ひとり住ずみにてぞものしたまひける。思おもふ心こころありて、年としごろかかる住すまひをするに、人ひとやりならずさうざうしく心細こころぼそき折々をりをりあれど、

「わが身みかばかりにて、などか思おもふことかなはざらむ」

 とのみ、心こころおごりをするに、この夕ゆふべより屈くしいたく、もの思おもはしくて、

「いかならむ折をりに、またさばかりにても、ほのかなる御おほんありさまをだに見みむ。ともかくもかき紛まぎれたる際きはの人ひとこそ、かりそめにもたはやすき物もの忌いみ、方かた違たがへの移うつろひも軽々かるがるしきに、おのづからともかくものの隙ひまをうかがひつくるやうもあれ」

 など思おもひやる方かたなく、

「深ふかき窓まどのうちに、何なにばかりのことにつけてか、かく深ふかき心こころありけりとだに、知しらせたてまつるべき」

 と胸痛むねいたくいぶせければ、小侍従こじじうがり、例れいの、文ふみやりたまふ。

「一日ひとひ、風かぜに誘さそはれて、御み垣かきの原はらをわけ入いりてはべしに、いとどいかに見み落おとしたまひけむ。その夕ゆふべより、乱みだり心地ごこちかきくらし、あやなく今日けふは眺ながめ暮くらしはべる」

 など書かきて、

「よそに見みて折をらぬ嘆なげきはしげれどもなごり恋こひしき花はなの夕ゆふかげ」

 とあれど、侍従じじうは一日ひとひの心こころも知しらねば、ただ世よの常つねの眺ながめにこそはと思おもふ。

御前に人しげからぬほどなれば

 御前おまへに人ひとしげからぬほどなれば、かの文ふみを持もて参まゐりて、

「この人ひとの、かくのみ、忘わすれぬものに、言こと問とひものしたまふこそわづらはしくはべれ。心苦こころぐるしげなるありさまも見みたまへあまる心こころもや添そひはべらむと、みづからの心こころながら知しりがたくなむ」

 と、うち笑わらひて聞きこゆれば、

「いとうたてあることをも言いふかな」

 と、何心なにごころもなげにのたまひて、文ふみ広ひろげたるを御覧ごらんず。

「見みもせぬ」と言いひたるところを、あさましかりし御簾みすのつまを思おぼし合あはせらるるに、御面おほんおもて赤あかみて、大殿おとどの、さばかりことのついでごとに、

「大将だいしゃうに見みえたまふな。いはけなき御おほんありさまなんめれば、おのづからとりはづして、見みたてまつるやうもありなむ」

 と、戒いましめきこえたまふを思おぼし出いづるに、

「大将だいしゃうの、さることのありしと語かたりきこえたらむ時とき、いかにあはめたまはむ」

 と、人ひとの見みたてまつりけむことをば思おぼさで、まづ、憚はばかりきこえたまふ心こころのうちぞ幼をさなかりける。

 常つねよりも御おほんさしらへなければ、すさまじく、しひて聞きこゆべきことにもあらねば、ひき忍しのびて、例れいの書かく。

「一日ひとひは、つれなし顔がほをなむ。めざましうと許ゆるしきこえざりしを、見みずもあらぬやいかに。あな、かけかけし」

 と、はやりかに走はしり書かきて、

いまさらに色いろにな出いでそ山桜やまざくらおよばぬ枝えだに心こころかけきと

「かひなきことを」

 とあり。

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