
このページでは、『源氏物語』第34帖「若菜上」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第34帖「若菜上」原文全文をご覧ください。
病を深める朱雀院と、女三の宮への心残り
先日の六条院への行幸のあと、そのころから朱雀院はいつになく長く病み続けていた。もともと丈夫な方ではなかったが、今度ばかりは御自身でも心細く感じられ、「長年、出家して仏道修行に専念したいという願いを深く持っていたのだが、母后がおいでになるうちは何かと御遠慮申し上げ、今日まで踏み切れずにいた。こうして病が重くなるのも、やはりそちらへ心を向けよということなのだろうか。この世にそれほど長くはいられないような気がする」とおっしゃり、いよいよ出家に向けての準備を始められた。
朱雀院には、春宮を別にすれば四人の皇女がいらした。その中でも、亡くなった藤壺女御との間に生まれた女三の宮を、ほかの皇女たちとは別格にかわいがっておられた。まだ十三、四歳ほどである。「私がこの世を捨てて山に籠もったあと、この幼い子は誰を頼って生きていくのだろう」と、何よりそのことを気にかけて嘆かれる。
西山に建てていた寺も完成し、そちらへ移る準備を進める一方で、女三の宮の裳着も急がせた。御手元にある大切な宝物や調度はもちろん、ほんの遊び道具に至るまで、少しでも由緒のあるものはほとんどこの姫宮へ譲り、残ったものをほかの皇女たちへ分けるほどの御寵愛だった。
春宮へ託す、父としての最後の願い
春宮は、父院の御病気が重い上に、出家なさる御決心だと聞いてお見舞いに参られた。母女御も付き添っている。朱雀院は春宮へ、これから世を治めていく上での心構えを細かく教えられた。春宮はまだお若いながら年齢以上にしっかりしており、周囲の後見も頼もしい人々なので、その点は安心していらした。
「私自身、この世に特に恨みを残すことはありません。ただ、大勢の皇女たちを残していくことだけが、出家をためらわせるほど気にかかるのです。これまで人の身の上を見聞きしてきても、女というものは自分の意志とは関係なく、軽々しく扱われたり、人から見下されたりする運命に落ちることがある。それが本当に残念で、悲しい。あなたの御代になったら、姉妹たちのことをそれぞれ気にかけ、見守ってください。きちんと後見のある者については、そちらに任せてもよいでしょう。
「けれど女三の宮だけはまだ幼く、これまで父である私一人を頼りに育ってきました。私がいなくなったあと、頼るところもなく漂うような身になりはしないか。それがどうにも心配で、悲しくてならないのです」
朱雀院は涙を拭いながら、春宮にそう言い聞かせた。春宮の母女御にも女三の宮のことを懇ろに頼まれたものの、かつて朱雀院の後宮で女御たちが互いに競い合っていたころの名残もあり、今は憎しみこそなくても、本当に我が子のように心を尽くしてくれるかどうかまでは、やはり不安が残った。
女三の宮の夫に、誰を選ぶべきか
年の暮れが近づくにつれて朱雀院の病はますます重くなり、御簾の外へ出ることさえなくなった。以前にも物の怪などで時折具合を悪くすることはあったが、これほど長く絶え間なく病み続けたことはない。御自身でも、「今度こそ、もう最後なのだろう」と思われた。
六条院の源氏からは何度も見舞いが届いた。源氏自身も参上するつもりだと聞くと、朱雀院はたいそう喜ばれた。その前に夕霧が見舞いに参ったので、御簾の内へ招き入れ、長いあいだ親しく話をされた。
朱雀院は、亡き桐壺院が臨終の時、数々の遺言の中でも特に自分と今の帝のことを源氏へ託していたことを語った。そして源氏と御自身との間に、かつて微妙なわだかまりが生まれたことにも触れながら、「それでもあの方は最後まで胸の内に収め、春宮にも心を尽くしてくださった。今ではこれ以上ないほど親しい間柄になれたことを、私は心から嬉しく思っている。秋の行幸以来、昔のことまで思い出され、ぜひ一度直接お会いして話したい。必ず御本人が見舞いに来られるよう、あなたからも勧めてください」と夕霧へ頼んだ。
朱雀院は、まだ二十歳をわずかに過ぎたばかりながら、すっかり成人し、美しさも今が盛りの夕霧をじっと御覧になった。そして、女三の宮の夫として、この人ならどうだろう、とひそかに考えられたらしい。
「今では太政大臣のところへすっかり婿として落ち着いたそうですね。長年、どうなるのかわからない仲だと聞いて気の毒に思っていたので、それは安心しました。ただ、私としては少し残念なところもあるのですよ」
夕霧はその言葉の意味を測りかねていたが、やがて女三の宮の将来を案じ、「ふさわしい男がいれば、その人に預けて安心して出家したい」と朱雀院が考えていることが耳に入った。なるほど、自分をその候補にという意味だったのか、と察したものの、今さらすぐ乗り気な顔を見せるわけにもいかず、「私のような頼りない者には、そもそも寄る辺を求めてくださる方もございません」とだけ答えた。
女房たちはその夕霧を覗き見て、「なんとめったにないほど美しく、立派な御様子でしょう」「まあ、本当にすばらしい」と褒め合った。年配の女房の中には、「それでも若いころの六条院には及ばないでしょう。あの方は目が眩むほど美しかった」と言う者もいる。それを聞いた朱雀院は、「確かに源氏は格別の人だった。今では年齢を重ねてさらに輝きが増し、『光る』というのはああいう人を言うのだろうと思うほどだ。威儀を正せば近づきがたく、くつろいで冗談を言えば誰にも似ないほど愛嬌がある。あれほどすべてを備えた人は本当に珍しい」と、昔を懐かしみながら源氏を褒められた。
結局、朱雀院の心は源氏へ傾く
女三の宮はひどく愛らしいけれど、まだ幼く無邪気で、世間のことを何も知らない。朱雀院は、「この子の美しさを引き立てながら、未熟なところはうまく隠して教えてやれる、安心できる人に預けたい」と乳母たちに話された。
夕霧についても、「独身だったころに、それとなく話を持ちかけてみるべきだった。若いが本当にしっかりしていて、将来も頼もしい人なのに」と惜しまれた。しかし乳母たちは、「中納言はもともとたいそう実直で、長年あちらの姫君だけを思い続け、ようやく願いがかなったのですから、今さら心が揺れることはないでしょう」と答える。
それに比べれば源氏は、女に心を惹かれる性分が年を取っても少しも衰えない。その中でも前斎院を今なお忘れがたい人として思っているらしい、と聞く。「あのいつまでも古びない色好みこそ、心配ではあるのだが」と朱雀院もおっしゃりながら、それでも、多くの女君の中で不本意な思いをすることがあったとしても、最初から源氏を親のように頼ると決めて託すなら、それも一つの道かもしれない、と考え始めた。
「もし私が少しでも世間に出すつもりの娘を持っているのなら、同じことなら、あの人のそばへ行かせたいと思うでしょうね。この短い人生を、あれほど満ち足りた人のそばで過ごさせたい。もし私が女だったなら、たとえ兄弟であってもきっと親しく近づいていただろう。若いころには本当にそう思ったものです。まして女があの人に心を奪われるのは、無理もありません」
そんな話をされながら、朱雀院は心のどこかで、源氏と深い縁のあった朧月夜のことまで思い出していた。
女三の宮の側近たちの間でも、源氏へ託す話は少しずつ広まった。「たとえ皇女であっても、ただ高貴なだけで世間を渡れるものではない。特別に後見してくれる人がいなければ心細い。まして姫宮はあまりにも幼く、何をなさるにも頼りない。六条院ならば、身分の違いをわきまえながら皆を守っておられる。あの方以上に頼れる人がいるだろうか」という意見が強くなっていった。
兵部卿宮や藤大納言、そして右衛門督の柏木なども候補として取り沙汰された。柏木はまだ若いものの、深い志を抱いて独身を守り、学問や才能にも優れ、いずれ朝廷を支える人物になるだろうと期待されている。朱雀院も心を動かされたが、それでも皇女を任せきるにはまだ若すぎるように思われた。
柏木の父である太政大臣は、息子が皇女でなければ妻にしたくないというほど高望みして独身でいるのを知っているだけに、もし女三の宮の婿に選ばれれば、どれほど家の名誉になるだろう、と大いに期待した。兵部卿宮もまた強く望み、藤大納言も長年朱雀院に仕えてきた縁から、姫宮の後見という形で自分が頼られることを願っている。
夕霧も、朱雀院から直接それらしい御気色を示された以上、まったく心が動かないわけではなかった。しかし、今では雲居雁が心から自分を頼り、ようやく長年の恋が実ったばかりである。「あれほど父君に邪魔されていたころでさえ、ほかの女へ心を移さずにきたのに、今さら突然この人を苦しませるのか。皇女というあまりにも高い方を妻にすれば、何事も自分の思うようにならず、両方に心を悩ませることになるだろう」と考え、思いを押し込めた。それでも女三の宮がほかの男に決まってしまうとなれば、やはり少し心が騒ぐのだった。
朱雀院、女三の宮を源氏へ託す
春宮もこの話を聞き、「これは今だけの問題ではなく、後世の先例にもなることですから、よくお考えになるべきでしょう。どれほど人柄のよい男でも、臣下である以上は限界があります。本当に姫宮の将来をお考えなら、六条院を親代わりとしてお任せになるのがよいのではありませんか」と、それとなく御意向を示された。
それを聞いた朱雀院は、「なるほど、まったくそのとおりだ」と、いよいよ心を決めた。そしてまず、親しい左中弁を通じて源氏へ内意を伝えた。
源氏は以前から朱雀院が女三の宮の行く末を深く心配していることを知っていた。「お気の毒なことだ。しかし院の余命が少ないからといって、私だってどれほど長く生きていられるかわからない。皇女方の後見なら、頼まれればもちろんできる限りのことはするけれど、夫としてただ一人頼られる形で親しくなれば、私がすぐあとを追うように死んだ時、かえって姫宮が気の毒ではないか」と、最初は引き受ける気を見せなかった。
それよりは夕霧のほうが若く、将来も長い。人柄もよく、いずれ朝廷の支えになるだろうから、そちらなら悪くないのではないか、とまで言う。けれど夕霧には長年思い定めた妻がいるので、それを朱雀院が遠慮しているのだろう、と源氏は考えていた。
ところが弁から、朱雀院が単なる後見ではなく、源氏自身へ姫宮を正式に託したいという思いをどれほど深く抱いているかを詳しく聞かされると、源氏もさすがに微笑んだ。「それほど大切にしていらっしゃる皇女なら、昔から先々まで、あれこれ深く考えずにはいられないのでしょう。しかし姫宮ほどの御身分なら、むしろ内裏へお入れになればよいのに。先に高貴な女御方がおいでになったからといって、それで後から入った人が必ず軽く扱われるわけでもないでしょう」と、なお遠回しに言った。
それでも朱雀院の決意は変わらなかった。年の暮れ、病が少しも快方へ向かわない中で、女三の宮の裳着をこれ以上ないほど盛大に行った。御帳や几帳をはじめ、国産の綾や錦をほとんど使わず、唐の后の飾りを思わせるほど華麗にしつらえ、腰結役には太政大臣を頼んだ。帝、春宮をはじめ、親王八人、上達部、殿上人までが集まり、朱雀院最後の大きな晴れの儀式として、これまでにも先にも例がないほどの盛儀となった。
中宮からは、装束と櫛箱が贈られた。そこには昔、中宮自身の髪上げに使われた道具を、古い趣を残したまま新しく整えたものが添えられていた。
さしながら昔を今に伝ふれば玉の小櫛ぞ神さびにける
こうして昔のままの形で今へ伝えてみると、この玉の小櫛も、ずいぶん古びて神々しいものになりました。
朱雀院はその歌を御覧になり、さまざまな昔を思い出された。御返しには、祝いの心を込めて――
さしつぎに見るものにもが万世を黄楊の小櫛の神さぶるまで
どうかこの姫宮があなたに続いて、いつまでも長くこの小櫛を受け継いでゆける身でありますように。櫛がさらに古びて神々しくなるほど、末永く。
朱雀院の出家と、源氏の承諾
御病気の苦しさをこらえて女三の宮の裳着を終えると、その三日後、朱雀院はついに髪を下ろされた。普通の人でさえ、この世を捨て姿を変える時には悲しいものなのに、まして院の出家である。皇女方も、女御、更衣たちも、男も女も、上から下まで声を上げて泣いた。院御自身も、本来なら静かな山寺へ移ってからひっそり出家するつもりだったのに、幼い女三の宮への執着だけが御心を引き止め、予定とは違う形になってしまったと思われた。
少し御気分が落ち着いたと聞いて、源氏も見舞いに参った。准太上天皇としての待遇を受けているとはいえ、正式な上皇ではないので、あえて仰々しい儀礼を避け、簡素な車で出向いた。
朱雀院は心から喜び、病を押して源氏と対面した。出家してすっかり姿の変わった朱雀院を見ると、源氏には過去も未来も暗くなるような悲しさが押し寄せ、すぐには平静を取り戻せなかった。「亡き父院に先立たれて以来、世の無常を痛感し、私もずっと出家を願ってまいりました。それなのに心弱くためらい続け、とうとうあなたがこうなられるまで、俗世に残ってしまった。その心の鈍さを恥ずかしく思います」と言う。
朱雀院も涙ぐみながら、「今日か明日かと思いながら、まだ命が続いてきました。このまま気を緩め、長年の願いを少しも果たせないまま死んではと、思い切ったのです。たとえ残りの命がわずかでも、まず念仏だけでも始めたい。今まで何も修行できなかったことが、どうしても心残りでした」と語った。
そしてついに、女三の宮のことを切り出した。「皇女たちを大勢残していくのは心苦しいのですが、中でも、ほかに頼って任せられる人のいない一人の娘が、どうしても気にかかります」と、はっきりとは言い切らないものの、その思いは十分に伝わってくる。
源氏は答えた。「確かに皇女という御身分だからこそ、私的にしっかり守ってくれる人がいないことは、かえって心細いものです。春宮がおいでになる以上、将来の天下の御主として頼りにはなります。しかし公の立場には限界がありますから、一人の女性を身近で守り続けるという点では、どうしても十分ではありません。女性にとって本当に頼れるのは、やはり深い縁を結んだ人が、離れがたい立場でそばにいて守ることなのでしょう。どうしても御心配が残るなら、ふさわしい人を選び、ひそかに姫宮を託しておかれるのがよいと思います」
朱雀院は、「私もそう考えているのですが、それが難しいのです。今こうして世を離れようとする時になっても、どうしても捨てきれない思いがある。まことに厚かましいお願いですが、この幼い内親王一人だけを特にお引き受けになり、将来の縁まで御心に定めて預かっていただけないでしょうか。中納言が独身だったころなら、そちらへ話を進めたところなのに、太政大臣に先を越されたのが悔しいほどです」と、とうとう正面から源氏へ頼んだ。
源氏は、「中納言なら実直な男ですから、立派にお仕えできるでしょう。ただ、まだ若く経験も少ない。それに比べれば、畏れ多いことながら、私なら深い心で姫宮をお守りすることはできます。院がおいでになる間と変わらないと思っていただけるように努めましょう。ただ私自身の残りの人生が短く、途中でお仕えできなくなることだけが心配です」と答え、とうとう承諾した。
朱雀院は、ようやく胸のつかえが一つ下りた。夜には精進料理のささやかな饗応があり、昔とは違う、出家後の器や膳が並ぶのを見るだけで人々は涙を拭った。源氏が帰ったあと、朱雀院は雪の寒さでさらに御風邪を重くされたが、女三の宮の行く末だけは定まったと、心安らかに思われた。
紫の上が知った「女三の宮降嫁」
源氏の胸には、今度は別の心配が生まれていた。紫の上がこの話をどう受け止めるかである。紫の上も以前から、朱雀院が女三の宮の嫁ぎ先について源氏を考えているらしいとは、うっすら耳にしていた。しかし、「前斎院のことだって、あれほど熱心に思っていたようだったのに、結局本当に妻にしようとはなさらなかったのだから、今回もまさかそこまでは」と思い、源氏に問いただすこともしなかった。
今では二人の間には長年の隔てなどほとんどなく、何でも話す仲である。源氏は、この大事なことだけを一晩胸に隠していることさえ苦しく思った。
翌日は雪が降り、空もしみじみとしていた。二人で昔からこれからのことまで話しているうち、源氏はとうとう切り出した。「朱雀院のお見舞いへ参ったところ、本当に胸の痛むお話がありました。女三の宮をどうしても残していくのが心配だと、私へお託しになったのです。直接あれほど深くお頼みになられては、きっぱり断ることができませんでした。山へお移りになるころには、この六条院へお迎えすることになるでしょう。
「あなたには不愉快なことかもしれませんね。しかし私のあなたへの気持ちは、こんなことがあったからといって少しも変わりません。それどころか、こういうことが起これば、かえってあなたへの思いが深くなるだろうと思っています。だから疑ったり、気を悪くしたりしないでください。あちらの姫宮こそ、まだ幼くて気の毒なのです。きちんとした形で大切に扱います。皆が穏やかに暮らせばよいのです」
紫の上は、ほんの些細な源氏の浮気心でさえ心穏やかではいられない人だった。源氏はどれほど傷つくだろうと身構えていたのだが、紫の上は驚くほど平静に、「本当に大切な方をお預かりになるのですね。私がどうしてお心を置くことがありましょう。私などがこうしてこちらにいることを、あちらから不愉快に思われないのでしたら、それだけで安心です。母女御の御縁から考えても、私のことも身内の一人として数えてくださるでしょうか」と答えた。
源氏はかえって不安になった。「あまりにあっさりお許しになるのも、本当はどう思っているのだろうと心配になりますよ。しかし本当にそう思ってくださり、あなたも私も事情をわきまえて穏やかに過ごせたなら、私はますますあなたを愛しく思うでしょう。人が間に入って、よけいなことを言っても聞かないでください。世間の噂というものは、誰が言い始めるともなく人の仲を歪め、思いがけないことを起こすものですから」
紫の上も心の中では、まったく平気だったわけではない。「これは源氏自身が望んで始めた恋ではなく、朱雀院から空から降ってきたように託された話なのだ。私が止められるものではない。嫉妬に苦しむ姿を人へ見せれば、式部卿宮の大北の方あたりは、きっと『それ見たことか』と思うだろう」――そう自分へ言い聞かせていた。
それでも、これまでは「結局、自分だけは特別なのだ」と何の疑いもなく生きてこられた。その自信が世間の笑いものになるかもしれないという思いは、心の奥に消えずに残った。ただ表には少しも出さず、どこまでも穏やかに振る舞った。
四十歳の若菜――玉鬘との再会
年が改まった。朱雀院では女三の宮を六条院へ移す準備が始まった。姫宮へ思いを寄せていた男たちは皆、残念がって嘆いた。帝も御関心を持っていたが、すでに源氏へ託すと決まったと知り、その御心を引かれた。
この年、源氏は四十歳になった。朝廷でも盛大な賀を催そうとしていたが、源氏は昔から大げさな行事を好まず、ことごとく辞退していた。ところが正月二十三日の子の日、左大将の北の方となっている玉鬘が、前触れもなく若菜を持って参上した。ひそかに準備していたため、源氏も今さら断れない。控えめにしたつもりでも、玉鬘ほどの立場の人が動けば、儀式は自然と華やかなものになった。
南の御殿の西の放出を新しく整え、螺鈿の厨子、衣箱、夏冬の装束、香壺、薬箱、硯、湯を使う器など、内々の品に至るまで美を尽くした。玉鬘はもともと風雅に深く、才気のある人なので、派手に大げさな形にするのではなく、見慣れない新鮮な趣向で、どこまでも洗練していた。
源氏が座へ出る前、玉鬘と対面した。源氏の胸には、昔のことがいろいろと思い出されたことだろう。四十歳の賀など間違いではないかと思うほど、今も若く美しく、とても人の親という年齢には見えない。玉鬘も久しぶりに近くで見るのが恥ずかしかったが、もはや昔のように妙な隔てもなく、穏やかに語り合った。
玉鬘の幼い二人の息子まで連れて来られていた。源氏は、「自分では年を取ったつもりなど少しもないのに、こうして子や孫の世代が育ってくると、さすがに自分の年齢を思い知らされますよ。中納言にもいつの間にか子ができたというのに、あの人はもったいぶって、まだ私に見せない。今日はあなたがわざわざ子の日に私の年を数えに来てくれたのだから、かえって恨めしい。もうしばらく老人になったことなど忘れていたかったのに」と笑った。
玉鬘も、以前よりずっと落ち着きと威厳が加わり、見事な女性になっていた。
若葉さす野辺の小松を引き連れてもとの岩根を祈る今日かな
若葉のような幼い子供たちを連れて、今日はその根元となった岩――あなたの、これからの長寿をお祈りいたします。
沈香の折敷四つに若菜が盛られ、源氏も杯を取って返した。
小松原末の齢に引かれてや野辺の若菜も年を摘むべき
小松のような若い人たちの長い未来に引かれて、私もこの野の若菜を摘みながら、さらに年を重ねていくのでしょうか。
上達部も大勢集まり、玉鬘の父である太政大臣をはじめ、若君たちもそれぞれ役目を引き受けて祝った。朱雀院がまだ病みきっているため、本格的な楽人までは呼ばず、親しい者だけでの管弦となった。それでも選び抜かれた名器がそろい、柏木が和琴を弾くと、父太政大臣の名手ぶりを見事に受け継いだ音色に、人々は感嘆した。
兵部卿宮は宜陽殿に伝わる由緒ある琴を弾いた。昔から代々伝わった名器である。その音を聞けば、誰の胸にも過ぎ去った人々や昔の御代がよみがえり、宮も涙を抑えられない。やがて御遊は「青柳」へ移り、ねぐらの鴬まで目を覚ますかと思うほど、春の夜は美しい音に満たされた。
明け方、玉鬘は帰ることになった。源氏は、「こうして世を捨てたような気分で暮らしていると、年月の流れまでわからなくなるのに、あなたが年を数えに来てくれたおかげで、かえって心細くなりました。時々は、どれほど老人になったか見比べに来てください。私も今では身分ばかり大げさになって、思うまま気軽に会えないのが残念です」と、名残惜しそうに言った。
玉鬘も、実の父への思いはもちろん持っていたが、源氏がかつて自分へ注いでくれた、世にも珍しいほど細やかな愛情は、年月を重ねても決して忘れてはいなかった。
女三の宮、六条院へ降嫁する
二月十日過ぎ、女三の宮がついに六条院へ移った。源氏の側でも、受け入れの準備は並大抵ではない。先日の若菜の賀に使った西の放出へ御帳を立て、一の対、二の対から渡殿、女房たちの局に至るまで念入りに磨き上げた。朱雀院からも、まるで皇女が宮中へ入内する時のように、数々の調度が運び込まれた。
上達部も大勢付き添い、かつて女三の宮を望んでいた藤大納言まで、心穏やかならぬ思いを抱きながら参列した。車が着くと、源氏自身がそこまで迎えに出て、姫宮を降ろした。臣下である源氏の妻になるのだから、普通の入内とも違い、かといって普通の貴族の婿取りとも違う。まったく例のない、不思議な結びつきだった。
三日間は、朱雀院側も六条院側も、これ以上ないほど豪華な儀礼を尽くした。紫の上も、心の中では決して平静ではない。それまで自分と並ぶ女がいないことに慣れ、今も華やかで若々しく、誰にも軽く扱えない存在として六条院に君臨している。そこへ正真正銘の内親王が、源氏の正式な妻として入ってきたのである。
それでも紫の上は少しも嫌な態度を見せず、婚儀の細かなことまで源氏と心を合わせて手伝った。源氏はその姿を見て、ますます「これほどの女性はほかにいない」と思わずにはいられなかった。
女三の宮は、実際に会ってみると、本当に幼かった。まだ身体も心も十分に大人になりきっておらず、ただひたすら若く無邪気である。源氏は、かつて幼い紫の上を見つけて引き取った時のことを思い出した。「紫の上はあのころから機転が利き、相手にする面白さがあったが、この姫宮は本当に幼いだけだ。勝ち気に出しゃばることもなさそうだから、その点は扱いやすいだろう」と思う一方で、「しかし、あまりにも張り合いのない方だな」とも感じた。
紫の上の胸に初めて宿る、本当の嫉妬
三日間、源氏は婚儀の作法として毎夜女三の宮のもとへ通った。紫の上には、これまで一度も経験したことのない夜が続く。耐えてはいるものの、やはり心はしみじみと寂しかった。いつも以上に衣へ香を焚きしめながら、ぼんやり物思いに沈む姿は、見るからに痛々しく、なお美しかった。
「どうして私は、何があっても、ほかの女性をあなたと並べて見るようなことはしないと思っていたのでしょう。自分で自分の心を過信していたのですね。私自身が心弱く、どこかでこんなことを招くような生き方をしてきたから、とうとうこうなったのでしょう。夕霧ほど若い男でさえ、長年思い定めた一人の女を捨てることはできなかったのに」
そんなことを考えると、紫の上は思わず涙ぐんだ。
源氏はその夜も女三の宮のもとへ行かなければならない。「今夜だけは、婚儀の決まりなのだと許してくださいね。これから先まで毎晩離れるようになったら、私自身だって嫌になります。それに、朱雀院のお耳へ入ることも考えなくてはならないでしょう」と言う。
紫の上は少し笑って、「御自分のお心でさえ、これからどうなるかお決めになれないようなのに、まして『当然こうなる』などという理屈が、どこに落ち着くのでしょう」と答えた。
源氏が気まずそうに脇息へ寄りかかると、紫の上は硯を引き寄せて書いた。
目に近く移れば変はる世の中を行く末遠く頼みけるかな
目の前のことさえ、こんなにもすぐ変わってしまう世の中なのに、私はずっと遠い先まで、変わらないものだと頼みにしていたのですね。
源氏はそれを取って読み、ほんの短い歌なのに、まったくそのとおりだと思った。
命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき世の常ならぬ仲の契りを
私の命が絶えることはあっても、私たちの間の契りだけは、この移ろいやすい世の常のものとは違う。決して絶えることはありません。
それでも源氏がなかなか出ようとしないので、紫の上のほうから「もう、あちらがお待ちでしょう。こんなことをしていてはみっともないですよ」と促した。源氏が柔らかく香り立つ姿で廊下を渡っていくのを、紫の上は見送った。やはり心がまったく動かないはずはなかった。
これまでも、いつかこういうことがあるのではないかと思うことはあった。しかし長い年月のうちに、そんな不安ももう過去のものとなり、「このまま二人で老いていくのだろう」と心を許し始めた、その最後になって、世間まで大騒ぎするほどの新しい正妻が現れたのである。世の中とは、やはり最後まで安心できないものなのだ、と紫の上は思い知った。
女房たちも、「思いもしなかった世の中ですね。六条院にはほかにも女君が大勢いらっしゃるけれど、皆この御方へ遠慮して暮らしてこられたから、今まで何事もなく穏やかだったのです。今度の姫宮は、そういう方々とは違う。同じほどの立場どころか、身分だけなら上なのですから、この先きっと難しいことも起こるでしょう」と陰で心配していた。
紫の上はそういう空気を感じると、かえって明るく、「皆さん、妙に心配しすぎですよ。源氏が今までの女君たちに物足りなさを感じていらしたなら、あれほど高貴で若い姫宮がいらしたことは、むしろよいことでしょう。私だって仲よくしてみたいのです。こちらが勝手に隔てを作っているように周りから見られるほうが嫌です」と話した。
けれど夜になり、一人になれば、やはり隣が空いていることは寂しい。源氏が須磨へ去った時のことまで思い出した。「あの時は、もう二度と会えなくなるかもしれないと思った。それに比べれば、今は同じ六条院の中にいる。それだけでも十分ではないか」と何度も自分へ言い聞かせた。
夢に紫の上を見て、源氏は夜明け前に戻る
その夜、女三の宮のもとにいた源氏は、紫の上のことが心にかかっていたせいだろうか、夢に紫の上を見た。はっと目を覚まし、何かよくないことでもあるのではと胸騒ぎがする。鶏の声を待つと、まだ夜が深いのも構わず、急いで姫宮のもとを出た。
女三の宮はまだあまりにも幼いので、乳母たちがすぐ近くで仕えている。妻戸を開けて出ていく源氏を、皆が見送った。明け方の薄闇には残雪が白く光り、源氏の香りだけがいつまでも残っている。乳母の一人は、昔の歌を思い出して、「闇というものは本当に役に立たないものね。姿が見えなくても、香りで誰だかわかってしまう」と、ひとりごちた。
源氏は雪の残る庭を急いで渡り、紫の上の御格子を叩いた。こんな早朝に戻ってくることなど長いことなかったので、女房たちもわざと寝たふりをし、少し待たせてから格子を上げた。
「ずいぶん長く待たされて、身体まで冷えてしまいましたよ。それだけあなたを恐れている証拠でしょう。もっとも私は、何も悪いことなどしていませんけれどね」
源氏はそう言いながら紫の上の衣を少し引きやる。紫の上は涙でわずかに濡れた単衣の袖を隠した。親しげで、いかにも昔からの妻らしく気を許しているのに、それでもどこかきちんとした慎みがあり、源氏が見ても気後れするほど美しい。
高貴な内親王といっても、こういう女性にはなかなかなれないものなのだ、と源氏は女三の宮と紫の上を思わず比べた。その日は昔のさまざまなことを語り、なかなか解けない紫の上の気持ちをなだめ続け、結局一日中こちらにいて、女三の宮のもとへは渡れなかった。
姫宮へは、「今朝の雪で少し具合を悪くし、心安いこちらで休んでおります」と消息を送った。乳母からは「そのように申し上げておきました」とだけ返事が来た。源氏は、「ずいぶん素っ気ない返事だ。朱雀院がお聞きになったら気の毒だ。せめて今のうちくらいはきちんと通わなくては」と思うものの、思うとおりにはならない。「ほら、やはり自分が心配したとおりになってきた」と、一人で苦しくなった。
紫の上も、「あちらへの思いやりのない御心ですね」と、かえって心苦しがった。
源氏から女三の宮へ、朝雪の歌
翌朝、源氏はいつものように起きると、女三の宮へ手紙を書いた。姫宮を特に恐れ多い相手だと思っているわけではないけれど、それでも筆遣いまできちんと整え、白い紙に――
中道を隔つるほどはなけれども心乱るる今朝のあは雪
私たちの間には、遠い道が隔たっているわけでもないのに、今朝の淡雪のように心は乱れております。
梅の枝に結び、西の渡殿から届けさせた。
源氏はそのまま端近くに座り、白い衣を重ね、花を手にしながら庭を眺めていた。若い鴬が近くの紅梅で鳴くと、昔の歌を口ずさみ、御簾を上げて外を見る。その姿は、とても成人した子を持ち、最高の地位にある人とは思えず、若々しく艶やかだった。
女三の宮からの返事が少し遅いように感じられると、源氏は奥へ入り、紫の上に花を見せながら、「花というなら、こういうふうに匂ってほしいものですね。桜へ移ってしまえば、ほかに少しも心を分けずにいられるでしょうか」などと、わざと意味ありげなことまで言う。
そこへ返事が来た。鮮やかな紅の薄様に包まれている。源氏は少し胸が騒いだ。「しばらく紫の上には見せないでおこうか。何も隔てるつもりはないが、何もかもすぐ見せるのも姫宮の御身分に対して軽々しいだろう」と思う。しかし隠せば隠したで、紫の上が心を置くかもしれない。そこで紙の片側だけを広げた。
はかなくてうはの空にぞ消えぬべき風にただよふ春のあは雪
私は頼りなく、空に漂う春の淡雪のように、風のまにまに消えてしまいそうです。
文字は本当に若く、まだ幼い筆跡だった。源氏は、「この年齢になった人なら、普通はもう少ししっかり書くものだが」と目を留めたけれど、見なかったようにして紙を閉じた。ほかの女のことであれば紫の上へあれこれ感想を言うところだが、女三の宮については気の毒で、ただ「あなたは心安く思っていてください」としか言わなかった。
女三の宮の幼さと、深まる紫の上への愛情
その日は昼から女三の宮のもとへ渡った。いつもより心を込めて身を整えた源氏の姿を、初めて近くで見る姫宮付きの女房たちは、どれほど見応えがあると思ったことだろう。ただ年配の乳母たちの中には、「この御方お一人がすばらしいことは間違いないけれど、そのために困ったことも起こるでしょう」と、複雑に眺める者もいた。
女三の宮は本当に愛らしい少女だった。豪華で威厳のある調度の中に、小さく華奢な身体が衣に埋もれるように座っている。特に恥ずかしがることさえ知らず、幼子が人見知りをしないような無邪気さで、源氏にも素直に親しんでくる。聞かれたことには何でもなよなよと答え、覚えていることを幼い言葉のまま口にする。そのため源氏も見捨てる気にはなれず、かわいらしいとは思った。
しかし心の中では、「朱雀院は風雅や優雅さでは人に優れた方なのに、これほど大切な姫宮を、どうしてこんなに無邪気なまま育ててしまわれたのだろう」と、少し物足りなくも思った。
そして、さまざまな女を長年見てきた末に、改めて紫の上を思う。「どんな女性にもそれぞれ長所はある。それでも、長年ずっと身近にいて、毎日見慣れているはずの紫の上が、なお誰にも似ないほどすばらしい。私自身が育てた人だとはいえ、どうしてここまでの女性になったのだろう」。ほんの一夜、朝まで離れただけでも恋しく気にかかる。源氏の紫の上への思いは、女三の宮を迎えたことでかえって異常なほど深くなっていった。
朱雀院から紫の上へ託された言葉
その月のうちに、朱雀院は山寺へ移られた。六条院へは何度も細かな消息を送り、特に女三の宮のことを繰り返し頼まれた。源氏が周囲の思惑を気にしすぎず、すべて自分の心に任せて姫宮を守ってほしいというのである。
紫の上へも、特別に手紙が届いた。「まだ幼く、何もわからないままそちらへ移った人です。どうか罪のない子だと思って許し、見守ってください。あなたがあの子を気にかけてくださる御縁も、きっとあることでしょう」と書かれ――
背きにしこの世に残る心こそ
入る山路のほだしなりけれ
この世を捨てた今も、そこに残してきた娘への心だけが、山深く仏道へ入ろうとする私を引き止める絆となってしまいました。
源氏もこの手紙を見て、「なんと胸の痛む御消息でしょう。丁重に御返事をなさい」と勧めた。紫の上は、大げさに技巧を凝らす場面ではないと、素直な心を込めて返した。
背く世のうしろめたくはさりがたきほだしをしひてかけな離れそ
この世をお捨てになったあとも姫宮のことが御心配なのでしたら、その断ちがたい絆をどうか無理に断とうとなさらないでください。
朱雀院は紫の上の筆跡まで御覧になり、「あれほど何事にも立派で気後れするような女性のそばで、幼い姫宮はどんなふうに見えているのだろう」と、ますます心配になった。
朧月夜との、長い年月を隔てた再会
朱雀院の出家に際しては、かつての女御や更衣たちとの別れにも、胸を打つことが多かった。朧月夜の尚侍は、亡き母后が住んでいた二条宮で暮らしている。朱雀院は女三の宮の次には、この人の将来を特に気にかけていた。
朧月夜自身は尼になろうと思っていたが、朱雀院から「今すぐ後を追うように出家するのは、あまりに慌ただしい」と止められ、少しずつ仏道の準備だけを進めていた。
源氏にとって朧月夜は、昔どうしても忘れきれないまま別れた人である。長年、「何かの機会にもう一度だけ会い、昔のことも話したい」と思い続けてきた。しかし二人とも今では人目を憚る高い立場となり、昔あれほど大騒ぎになった恋であることを思えば、軽々しく会うわけにもいかない。それでも朱雀院が出家し、朧月夜も静かな暮らしに入った今、思いはますます募った。
源氏は朧月夜の兄である前和泉守を呼び、「人づてではなく、物越しにでも直接話したいことがある。うまく説得してもらえないか。今の私は身分が身分だけに、軽々しい外出一つにも人目がある。だからこそ、互いに絶対に人へ漏らさない形なら安心なのだが」と頼んだ。
朧月夜は、「今になって、何を昔話としてお聞きするのでしょう。長年、あの方のつらい御心を思い続けた果てに、今は朱雀院の出家という悲しいことまであるのです。たとえ誰にも知られなくても、自分の心に恥じることになります」と、何度も拒んだ。
けれど源氏は、「昔、もっとどうにもならない立場だった時でさえ、心を通わせなかったわけではない。それなのに今さら突然、何もかも清らかな関係だったようにして、過去に立った自分の悪名まで取り返そうというのですか」と思い直した。そして東院の常陸の君の見舞いへ行くという口実を紫の上に告げ、人目を忍ぶ網代車で夜の二条宮へ向かった。
源氏が来たと聞いて朧月夜は驚き、最初はひどく困った。しかしこのまま帰すのもあまりに失礼だと、とうとう物を隔てたまま対面することを許した。
夜は深くなり、池では鴛鴦の声が聞こえる。静まり返った宮の様子そのものが、過ぎた年月を思わせた。源氏は涙もろくなり、「何年もの月日を隔てて会っているのに、こんなに遠くに座るのですか」と恨んだ。
年月をなかに隔てて逢坂のさも塞きがたく落つる涙か
長い年月を間に隔て、ようやく逢坂まで来たというのに、関はなお固く閉ざされたまま。それでも涙だけは、どうしても堰き止められず流れてしまいます。
朧月夜は、はっきりと線を引くように返した。
涙のみ塞きとめがたき清水にてゆき逢ふ道ははやく絶えにき
堰き止められないのは涙の清水だけです。私たちが行き逢う道は、もうずっと昔に絶えてしまいました。
それでも昔を思い出せば、二人の間に何もなかったことにはできない。朧月夜も、かつては深く考えるより先に動いてしまうところのあった人である。長い年月の中で世の中を知り、過去を悔やみ、すっかり落ち着いてはいたけれど、昔と同じ源氏を目の前にすると、完全に心を固くすることはできなかった。
明け方、昔藤の宴があったころと同じ季節だと源氏は思い出した。戸口の藤を見て、名残惜しく立ち止まる。
沈みしも忘れぬものをこりずまに身も投げつべき宿の藤波
昔、この恋のために身を沈めたことを私は忘れてはいません。それなのに懲りもせず、この家の藤波を見れば、また身を投げてしまいそうです。
朧月夜も、今さらこんな若々しいことをしてよいのかと思いながら、それでも藤の花の昔は懐かしかった。
身を投げむ淵もまことの淵ならでかけじやさらにこりずまの波
身を投げるというその淵も、本当の淵ではないのでしょう。私はもう、懲りない恋の波になど、二度と身を任せるつもりはありません。
そう言いながらも、源氏は長い年月の空白を埋めるように語り、二人の間には昔の情がよみがえった。帰ってきた源氏を紫の上は、何も知らないような顔で迎えた。源氏が朧月夜とのことを、はっきりとは言わないながら少し匂わせると、紫の上は涙ぐみつつ、「まあ、ずいぶん今風の若者のように戻られたのですね。昔の恋に今の恋まで重ねられたら、宙ぶらりんな私には苦しいことです」と言った。
源氏は、「そうやって心を置かれるのがいちばん苦しい。昔のように、もっと気楽に私をつねって叱るくらいでいてください。あなたとの間にこんな隔てがあるなんて、私は慣れていませんよ」と、あれこれ機嫌を取った。結局、紫の上にもほとんど何も隠しきれないままになった。
明石の女御の懐妊と、女三の宮との対面
春宮に仕える明石の女御は、なかなか宮中から退出を許されず、慣れない若い身には苦しい日々を送っていた。夏ごろから体調を崩したのに、それでもすぐには里下がりを許されない。やがて、それがただの病ではなく懐妊だとわかった。まだ本当に若いので、周囲は誰もが恐ろしいことのように心配した。
ようやく六条院へ退出すると、女三の宮の住む御殿の東面に明石の女御の部屋が整えられた。実母の明石の御方も今では娘に付き添って自由に出入りできる。かつての身の上から考えれば、まさに理想的な運命の開け方だった。
紫の上は女御のところへ見舞いに行った折、「せっかく隣に女三の宮がおいでになるのだから、中の戸を開けてお話しできるようにしましょう。以前からそうしたいと思っていましたが、機会もなく遠慮していました。こういう時に親しくなっておけば、お互い気楽でしょう」と源氏に相談した。
源氏は喜び、「まさに理想的なお話し相手でしょう。姫宮は本当に幼い方ですから、あなたが安心して教えて差し上げてください」と賛成した。
その日、紫の上は明石の女御と女三の宮の両方に会うため、いつにも増して髪を美しく整えた。その姿は世に並ぶものもない。源氏は女三の宮へ、「今夕、東の対の人が明石の女御に会いにこちらへ来ます。そのついでに姫宮とも親しくお話ししたいそうです。どうぞ隔てずにお話しください。とても心のよい人ですし、まだ若々しい方ですから、遊び相手としてもお似合いでしょう」と教えた。
女三の宮は、「恥ずかしいです。何をお話ししたらよいのでしょう」と、ただ素直に言う。源氏は、「返事なんて、その時の話に合わせれば自然に出てきます。最初から壁を作ってはいけません」と細かく教えた。
一方の紫の上も、いざとなると心は複雑だった。「私より上の人などいるだろうか、と長年思ってきた。身分が低い自分の出自を源氏に知られている、それだけが弱みだったのに」と、手習いをしても自然と物思いの歌ばかりになる。自分でも、「やはり私には、こんなに思うことがあったのだ」と気づいた。
源氏がそこへ来ると、女三の宮や明石の女御を見た直後だというのに、見慣れた紫の上をなお「やはり比べるものがない」と思う。気品も、洗練も、華やかさも、艶も、すべてが盛りにある。年を重ねるほど美しさが新しくなっていくように見えた。
紫の上が硯の下へ隠した手習いを、源氏は見つけて読んだ。
身に近く秋や来ぬらむ見るままに青葉の山も移ろひにけり
私の身近にも、もう秋が来たのでしょうか。眺めているうちに、青葉だった山まで色を変えてしまいました。
源氏はその横へ書き添えた。
水鳥の青羽は色も変はらぬを萩の下こそけしきことなれ
水鳥の青い羽――私の心は何も変わっていませんよ。変わったように見えるのは、萩の下葉――あなたの心のほうなのではありませんか。
紫の上の胸に苦しさがあることは、何かにつけて自然と源氏にも伝わってくる。それでも少しも騒ぎ立てず、自分で消してしまう。そのあり方が、源氏にはますますありがたく、愛しく思われた。
紫の上と女三の宮、穏やかな交流へ
明石の女御は、実の母である明石の御方以上に、長年自分を育てた紫の上を親しい人として頼っていた。美しく大人びてきた女御を、紫の上も何の隔てもなく愛している。
やがて中の戸を開け、紫の上は女三の宮とも対面した。あまりに幼く見えるため、かえってこちらも気楽になり、年長者として親らしく話しかける。同じ皇族の血筋の縁などもたどりながら、乳母へ「これからは私をよそよそしい人と思わず、何か至らないことがあれば知らせてください」と言った。
朱雀院が紫の上を頼りにしていたことを乳母から聞き、紫の上も「畏れ多い御消息をいただいてから、どうすれば姫宮のお力になれるだろうと考えてきました。ただ私自身がたいした身ではないことが残念です」と、落ち着いた口調で答えた。
姫宮の心に合わせ、絵や人形遊びなどの話まで若々しくしてみせると、女三の宮も「本当に若くて優しい人だ」とすっかり心を許した。それからは二人の間でいつも手紙を交わし、遊びのことなども話し合うようになった。
世間では最初、「紫の上はどれほど不快に思っているだろう。これまでほど源氏の寵愛を独占できなくなり、少しは立場が下がるだろう」と噂した。ところが実際には、源氏の紫の上への思いは以前より深くなっている。そのことを面白くなく言う人もいたが、当の紫の上と女三の宮がここまで穏やかに付き合っているので、やがて世間の口も静まり、六条院は見た目には落ち着いた。
源氏四十賀――紫の上、中宮、帝からの祝い
十月、紫の上は源氏の四十賀として、嵯峨野の御堂で薬師仏の供養を行った。源氏が華美な催しを強く嫌がるため、表向きはひそやかにということだったが、仏や経箱のしつらえから最勝王経、金剛般若経、寿命経などの供養まで、極楽浄土を思わせるような荘厳さである。上達部も大勢参集した。
また源氏の誕生日である二十三日には、源氏が私邸という思いを強く持つ二条院で祝いが行われた。各御方もそれぞれ役目を分け、調度や装束、饗応を用意する。式部卿宮が作った屏風、明石の御方が心を尽くした飾りなど、六条院に関わる人々の技と心が集まった。
楽人たちが「万歳楽」「皇麞」などを舞い、暮れかかるころには「落蹲」が舞われた。夕霧と柏木も「入綾」をわずかに舞って紅葉の陰へ入っていく。その姿を見て、昔の朱雀院行幸で源氏と太政大臣が「青海波」を舞った夕べを知る人々は、時代が移り、今度はその子供たちが並んで立っていることに、深い感慨を覚えた。
夜になれば管弦が始まり、朱雀院から伝わった琵琶や琴、帝から贈られた箏など、どれも昔を思わせる名器が鳴った。源氏は、亡き藤壺中宮がおいでになれば、きっとこの賀を誰より心を込めて祝ってくださっただろうに、と何につけても恋しく思い出した。
十二月二十日過ぎには秋好中宮が六条院へ退出し、父源氏の四十賀と、亡き両親への祈りを兼ね、奈良の七大寺へ布四千反、京の四十寺へ絹四百疋を分けて誦経を行わせた。源氏は四十賀を大げさにすることを嫌っていたものの、中宮という公の身分から行う供養だけに、やはり並々ならぬ盛大さとなった。
帝も、どうしても何か特別の祝いを形にしたいと思われ、折よく右大将が病で辞任したのを機会に、夕霧を急に右大将へ昇進させた。源氏は喜びながらも、「四十の賀にしては、あまりにも急に嬉しいことが重なりすぎて、かえって恐ろしいほどです」とへりくだった。
その日の宴には太政大臣まで勅命で参上し、兵部卿宮が琵琶、源氏が琴、太政大臣が和琴を奏した。昔からの友であり競争相手でもあった者たちが、今では親戚として心を開いて酒を酌み交わす。源氏も太政大臣も、昔を思い出して酔い泣きを抑えられなかった。
明石の女御、懐妊――大尼君が語る明石の昔
年が改まると、明石の女御の出産が近づいた。正月一日から絶え間なく修法を行わせ、寺々、神社への祈願も数え切れない。源氏はかつて葵の上の出産で恐ろしい経験をしているため、若い女御の身をひどく心配した。
二月ごろから様子が変わり、陰陽師から場所を移して慎むようにと言われたので、明石の町の中の対へ移された。そこでは修法の壇が隙間なく設けられ、名高い験者たちが集まった。明石の御方にとっては、自分の娘の宿世がここで明らかになるような大事である。心の限りを尽くして世話をした。
そこには明石の大尼君――女御の祖母もいた。もうかなり老いていたが、女御を間近に見るのが夢のように嬉しく、すぐそばまで近づいては、昔のことを涙ながらに話した。明石の女御は初め、「ずいぶん古めかしく、変わった人だこと」と眺めていたが、自分にこういう祖母がいることは以前からほのかに聞いていたので、やがて親しく接した。
祖母は、女御が生まれたころのこと、源氏が明石の浦にいたころのこと、源氏が都へ帰る日には皆が「これで縁も終わりなのだ」と嘆いたこと、それなのに今こうして孫が春宮の妃となり、新しい命まで宿していることを、一つ一つ語った。
女御は涙を流した。「こんなに胸を打つ昔があったのですね。誰も話してくれなかったなら、私は何も知らないまま過ごしていたでしょう」
そして心の中で、自分の身の上を初めてはっきり知った。「私はもともと、何の疑いもなく高貴な家に生まれた姫君という身分ではなかったのだ。それを紫の上があれほど大切に育ててくださったから、世間も私を不足のない姫君として見てくれたのだ。私はそれを知らず、人より自分が優れているように思っていたことさえあった。世間では陰でいろいろ言う人もいたのだろう」と、過去まで振り返るようになった。
母の明石の御方が少し低い身分の出であることは知っていたけれど、自分が明石という都から遠い土地で生まれたことまでは知らなかった。あまりに何も知らず育った自分が、今さら不思議に思われた。
ある日、大尼君があまり近くに寄りすぎているのを見て、明石の御方が「短い几帳でも寄せて、その向こうにお座りなさい。風などで隙間ができたらみっともないでしょう。お医者様のように近すぎますよ。もういいお年なのに」と少し気恥ずかしそうに言った。
大尼君は六十五、六歳ほどで、そこまで見苦しい老人でもない。尼姿はさっぱりと品があり、泣き腫らした目にも昔の面影があった。明石の御方の美しく落ち着いた姿を見れば、自分の娘とは思えないほど立派で、かえって恐れ多く感じられる。
大尼君は涙を流しながら詠んだ。
老いの波かひある浦に立ち出でてしほたるる海人を誰かとがめむ
老いの波を越え、こうして生きてきた甲斐のある浦へ出てきて、涙に濡れている老いた海人を、いったい誰が責められるでしょう。
明石の女御も紙を取り、祖母へ返した。
しほたるる海人を波路のしるべにて尋ねも見ばや浜の苫屋を
涙に濡れる海人であるあなたを道しるべにして、いつか私も、昔自分が生まれたという浜辺の苫屋を訪ねてみたいものです。
母の明石の御方もこらえきれず泣き、遠い山に籠もった父入道を思って――
世を捨てて明石の浦に住む人も心の闇ははるけしもせじ
世を捨て、明石の浦に暮らしたあの人でさえ、子を思う親の心の闇だけは、きっと晴らすことができないのでしょう。
明石の女御、皇子を産む
三月十日過ぎ、明石の女御は無事に出産した。あれほど大騒ぎして祈っていたのが拍子抜けするほど、ひどく苦しむこともなく、しかも生まれたのは男の皇子だった。源氏の願いどおりのことが続き、ようやく心から安心した。
この町は本来、人目を避けた静かな一角だったが、御産養の儀式が次々と行われ、華やかな音が絶えない。大尼君にとっては、本当に長生きした甲斐のある出来事だった。
紫の上もすぐに渡って来た。白い装束で、まるで本当の祖母のように若宮をしっかり抱いて座る姿が、とても美しい。紫の上自身は出産を経験したこともなく、人の赤子をこれほど身近に世話したこともないので、何もかも珍しく、かわいくてならない。赤子が少しむずかるたび、誰にも渡さず自分で抱こうとするほどだった。
実の祖母である明石の御方は紫の上へすっかり任せ、自分は湯殿の世話など細かな役目を務めた。春宮付きの典侍も迎え湯に立ち働き、若宮の気高さを見て、「もし少しでも不足のある御子だったなら、女御が気の毒だったでしょうに。本当に驚くほど高貴で、この方は特別な宿世をお持ちなのだ」と感心した。
七夜には帝をはじめ、中宮、親王、大臣家から次々と産養が行われ、源氏も今回は少しも控えめにせず、世に響き渡るほど盛大に祝わせた。源氏自身も若宮を早くから抱き、「夕霧には子が大勢いるそうなのに、一人も私へ見せてくれないのが恨めしかった。ようやく、こんなにかわいい人を抱けましたよ」と、本当に愛しそうにかわいがった。
若宮は日ごとに、引き伸ばすように成長していく。乳母も誰でもよいわけではなく、身分も心も優れた女性だけを厳しく選んだ。
明石の御方の人柄も、世間からますます高く評価された。物事に慣れ、気高く、おっとりとしているのに、出しゃばるべきでないところではきちんと身を引く。誰も彼女を悪く言う者はいなかった。
紫の上も、以前は明石の御方を完全には心へ入れられないところがあった。しかし今では若宮のおかげもあり、本当に親しく、大切な人と思うようになった。赤子をかわいがる心が強く、自分で天児まで作り、明けても暮れても若宮の世話を楽しんでいた。
明石入道の夢――すべてはこの日のために
遠い明石にも、娘が春宮の女御となり、さらに男皇子を産んだという知らせが届いた。世を捨てた聖のような明石入道でさえ、この時ばかりは喜びを抑えられなかった。
「これでようやく、この世から心安く離れていける」
入道は弟子たちへそう言い、明石の家を寺にし、周囲の田畑もその寺へ寄進した。そして国のさらに奥、人が通うことも難しい深山へ、本当に二度と世間へ姿を見せないつもりで籠もることを決めた。
都へいる娘、明石の御方へ、最後の長い手紙を書いた。
「この何年か、同じ世に生きてはいても、私はすでに別の身になったつもりで、よほどのことでなければ便りもいたしませんでした。仮名の手紙を読むだけでも、目がそちらへ向き、念仏を怠るような気がしたからです。それでも人づてに、あなたの姫君が春宮へ参られ、男皇子がお生まれになったと聞き、心から喜んでおります。
「私がこの世の栄華を望んでいるからではありません。昔、あなたが生まれることになったその年の二月、私は不思議な夢を見ました。自分が須弥山を右の手に捧げ、その山の左右から月と日の光が明るく差し出して世を照らしている。ところが自分自身は山の下の陰に隠れ、その光には当たらない。やがて山を広い海へ浮かべ、自分は小さな舟に乗って西へ向かって漕いでいく――そんな夢でした。
「朝になって、数にも入らない自分の身に、何か途方もなく大きな望みが生まれたように思われました。しかし、何を待てばその夢がかなうのかわからなかった。やがてあなたが生まれ、夢について書物や仏教の教えを調べれば調べるほど、ただの夢ではないと思うようになりました。だからこそ私は、身分の低い田舎者の胸のうちで、あなたを畏れ多いほど大切にし、どうにも自分の力ではかなえられない願いを仏神へ託し、出家の道へ入ったのです。
「明石に沈んで暮らしながらも、私はあなたの姫君を頼みとして数多くの願を立てました。その願いが今、次々とかなっています。姫君がいつか国の母となられ、すべての願いが満ちた時には、住吉の社をはじめ、私が立てた願を必ず果たしてください。もはや何を疑うことがありましょう。
「この一つの願いが現世でかなった以上、はるか西方、十万億の国を隔てた極楽浄土の上品の往生も、私にはもう疑いありません。今はただ、迎えの蓮を待つ夕べまで、清らかな山の果てで修行しようと思います」
光出でむ暁近くなりにけり
今ぞ見し世の夢語する
あの夢に見た光が現れる夜明けは、もう近くなった。だからこそ今、私は昔見た夢のことを語るのです。
入道はさらに、「私が死ぬ月日など、決して知ろうとなさらないでください。昔から人がするように喪服などを着て悲しむ必要もありません。私のことは、もうこの世の者ではない別の存在だと思い、老法師のために功徳を積んでください。この世の幸福が増せば増すほど、来世を忘れてはいけません。私が願う場所へたどり着けたなら、必ずまた会えるでしょう。娑婆の向こう岸で早く再会しようと思ってください」と書いた。
そして長年住吉の社に納めてきた願文を、大きな沈香の文箱に封じ、娘へ送った。妻の大尼君へは、「今月十四日、草の庵を離れ、さらに深山へ入ります。この役に立たない身は熊や狼に施してもよい。あなたはなお、生きて願った世を見届けてください。明るい世界でまた会いましょう」とだけ書き残した。
父と生き別れになった明石の御方
大尼君が使いの老僧へ尋ねると、入道は手紙を書いた三日後、本当に人の通わない峰へ移ってしまったという。弟子たちは麓まで見送ったが、そこから先は皆帰され、僧一人と童二人だけを連れて行った。
「出家なさった時を最後の別れと思っておりましたのに、まだこんな別れが残っておりました。長年、修行の合間に弾いていらした琴や琵琶も、最後に調べて仏へ別れを申し、そのまま御堂へ施入されました。そのほかの物も弟子たちへ分け、残りを都へ送られたのです。もう今では、深い山の雲霞の中へ入ってしまわれました」
大尼君の悲しみは尽きなかった。世を捨てた聖でさえ、死を前にした別れに心が動くものなのだ。まして長年夫婦として頼り合ってきた人が、生きたまま二度と会えない山へ消えたのである。
明石の御方もその知らせを受け、ひそかに大尼君のもとへ来た。文を読むと、もう涙を止めることができない。世間の人にとっては古い山僧の手紙にすぎなくても、娘である明石の御方には、今まで思い続けてきた父と結局一度も再会できないまま、この世での縁が終わってしまったことを突きつける手紙だった。
それでも夢の意味を思えば、「かつて父が、身のほども知らず私を高く望みすぎているのではないかと思ったことがあった。けれど、あの夢へ望みをかけていたからこそ、自分でも異常なほど高い理想を捨てなかったのだ」と、今になって初めて腑に落ちることもあった。
大尼君は長いこと泣き、ようやく言った。「あなたのおかげで、私は身に余る幸福を見ました。それは本当に嬉しく、誇らしいことです。でも、その幸福の陰に、こんなにも深い悲しみがあったのですね。若いころ、二人で都を捨てて明石へ下った時でさえ、世間とは違う運命だと思いました。それでも生きて同じ世にいるうちに、夫とここまで離れ、生きながら二度と会えない仲になるなどとは思わなかった。来世は同じ蓮の上に生まれようと、それだけを頼りに長い年月を過ごしてきたのに」
明石の御方も泣いた。「どれほど世に優れた身になることよりも、父上がどこにいるかもわからないまま、こうして会えずに終わることのほうが悲しく思われます。すべては姫君のためにと考えてきたことでしたのに、父上があのまま山へ籠もり、そのまま亡くなってしまわれたら、何の甲斐もありません」
二人は夜通し昔を語り、泣きながら明かした。
明石の御方、娘へ父の遺言を託す
明石の女御は宮中から早く戻るよう催促されていた。紫の上は、「女御がまだ身体も十分戻っていないのだから、もう少しこちらで休ませたほうがよい」と言いながら、せめて若宮だけでも大尼君に見せようと考えていた。
ある静かな夕方、明石の御方は女御の前へ出て、父から送られてきた文箱のことを打ち明けた。
「すべての願いが本当にかなうまでは、隠しておこうかとも思いました。しかし世の中は何が起こるかわかりません。私のような者が先に死ねば、臨終の時に必ずあなたのおそばにいられるとも限らない。だから自分の心が確かなうちに、伝えるべきことはお伝えしておこうと思ったのです。
「この古びた文も御覧ください。願文は身近な御厨子へしまい、しかるべき時が来たら必ず開いて、そこに書かれた願を果たしてください。他人には決して漏らしてはなりません。
「それから、紫の上のお心を少しも軽く思ってはいけません。あれほどありがたいほど深い御心を私は長年見てきました。自分の命より、あの方に長く生きていただきたいと思うほどです。もともと私は自分の身分をわきまえ、あなたを紫の上へお譲りしたのですが、まさかここまで心を尽くして育ててくださるとは思っていませんでした。今では、過去も将来も何の不安もありません」
女御は涙ぐみながら聞いていた。
そこへ源氏が女三の宮の方からふいに入ってきた。明石の御方は慌てて隠れようとしたが、文箱まで急に隠すのも不自然なので、そのままにしていた。
源氏はすぐ箱へ目を留め、「何の箱ですか。ずいぶん深い秘密でも入っていそうですね。恋人が長歌でも書いて封じ込めたように見えますよ」と冗談を言う。
明石の御方は、「まあ、何をおっしゃるのでしょう。このごろまた若いころへ戻られたようで、今まで聞いたこともない冗談までおっしゃいますね」と微笑んだものの、涙の跡が顔に残っていたので、源氏は不思議そうにした。
仕方なく、「明石の岩屋から、昔ひそかに立てていた願の巻数や、まだ果たしていない願文などが送られてきたのです。姫君にもいつかお知らせするべきかと思って持ってまいりましたが、今すぐ開けていただくほどのものでもございません」と話した。
源氏は、明石入道がさらに人も通わぬ山へ入ったと聞き、深く感じ入った。「あれほど思慮深く、ただの俗人とは違う人だった。世間にいるいわゆる賢人や聖の中にも、結局この世への濁りを完全には捨てられない者が多い。それなのにあの人は、昔から心の奥は別の世界へ通じているように見えた。今では娘や孫への心残りまでなくなり、本当にすべてを捨てられたのでしょうね。私が自由な身なら、ひそかにでも会いに行きたいくらいだ」と言った。
源氏が知った、明石入道の予言
源氏も年を重ね、世の中を知れば知るほど、明石入道のことを不思議と懐かしく思い出すようになっていた。明石の御方は、それならばあの夢の話も何か心当たりがあるだろうかと思い、「梵字のような妙な筆跡でございますが、御覧になるべきところがあるかもしれません。父と別れた時、もうこれで最後と思ったのに、やはり今になっても情は残るものなのですね」と、文を差し出した。
源氏は読み進め、夢のところで目を止めた。
「なるほど――。昔、私はなぜか身分不相応なほど高い望みを持ち、自分でも『こんなことを望むのはおかしい』と思ったことがありました。あなたの姫君が生まれた時に、何か深い宿縁があることは私なりに感じていたけれど、目に見えない未来のことはわからなかった。入道はこの夢を頼みにしていたからこそ、あれほど強く願い続けたのですね。
「私が都を離れ、ひどい目に遭い、海辺をさすらうことになったのも、結局はあの姫君一人へつながる運命だったのかもしれない。いったい、どんな願を立てていたのだろう」
源氏は心の中で入道を拝むような気持ちになり、願文の箱を受け取った。そして明石の女御へ、改めて母を大切にするよう諭した。
「これで昔のことは、あなたにもだいたいわかったでしょう。でも実のお母上のお気持ちを、決して軽く考えてはいけません。血のつながりだけが人の縁ではない。何の関係もない人が、ほんの一言情をかけてくれたことさえ、一生忘れられないことがあります。
「ましてこの方は、あなたのそばに仕えながら、最初から少しも気持ちを変えず、心の底からあなたを思ってこられた。そういう人を疑いもせず粗末に扱う者は、あとになって自分が悪かったと気づくものです。
「人間にはそれぞれ長所があります。誰にでも取るところはあるけれど、本当に一生の後見として信頼できる人を選ぼうと思えば、なかなかいないものです。私が見てきた中で、本当に心に癖がなく、まっすぐに善い人だと思えるのは、紫の上だけです。ああいう人をこそ『おおらかな人』というのでしょう。もっとも、善良でもあまりに頼りなさすぎるのは困りますけれどね」
源氏は明石の御方にも、「あなたは世間のこともよくわかっている。紫の上と本当に親しくし、女御の後見も同じ心でしてほしい」とひそかに頼んだ。
明石の御方は、「言われなくても、あの方のありがたい御心は毎日のように娘にも話しております。私などを快く思ってくださらないなら、こんなに近くでお仕えできるはずもありません。それを、こちらが恥ずかしくなるほど人の数に入れてくださり、ずっと何もないように守ってくださってきました」と答えた。
こうして長年抱えていた身分への引け目さえ、今ではほとんど消えていた。明石の御方は、自分の宿世の強さをしみじみ思った。ただ一つ心に残るのは、二度と姿を見せない深山へ入ってしまった父のことだけだった。
夕霧と柏木、それぞれが見る女三の宮
右大将となった夕霧も、女三の宮のことをまったく考えたことがなかったわけではない。今では同じ六条院の中に住んでいるので、何かの折には自然と姫宮の御殿へも出入りし、遠くから様子を知ることができる。
夕霧が見るところ、女三の宮は本当に若く、おっとりと一筋に育てられた人だった。表向きの儀式や扱いだけは世に例のないほど立派なのに、本人には人を圧するほどの深みも、目を見張る才気もない。仕える女房も年長の落ち着いた者が少なく、若く華やかな娘たちばかりが大勢集まり、毎日遊びに夢中になっているような御殿だった。
源氏は、姫宮本人へはさまざま教えて少しずつ形を整えさせていたものの、女房たちの自由な雰囲気まで厳しく直そうとはしなかった。人それぞれのあり方を一つの型へ押し込めないのが、源氏の生来の性格でもあった。
夕霧はそれを見るにつけても、あの野分の日に垣間見た紫の上の姿を忘れられない。「何年たっても、あの方は少しも隙を見せない。いつも静かで慎み深いのに、それでいて人を冷たく押しのけることもなく、自分の品位だけは絶対に崩さない。本当に珍しい人なのだ」と、改めて思った。
自分の妻の雲居雁も愛しい気持ちは深いけれど、物事への洗練や行き届いた才気という点では紫の上ほどではない。女三の宮はさらに高貴な御身分ながら、源氏があれほど特別に夢中になっているようにも見えない。夕霧は、「結局あちらは世間への体裁として、礼を尽くして大切にしている面が強いのだろう」と見ていた。
柏木もまた、朱雀院に昔から親しく仕え、父院が女三の宮をどれほど大事に育ててきたかをよく知っている。結婚相手を探していたころ、自分も候補としてまったく嫌われてはいないと聞いていた。それだけに、結局源氏へ決まったことが残念でならず、今も思いを切ることができなかった。
姫宮付きの小侍従という女房を以前から頼りにし、女三の宮の様子を聞くことだけを慰めにしていた。「紫の上にはどうしても押されていらっしゃるらしい」と世間の噂を聞けば、「自分なら、たとえ恐れ多い皇女でも、そんなつらい思いはさせないのに。あれほどの身分の方が、なんともったいないことだ」と思い、小侍従にも「世の中は何が起こるかわからない。六条院がいつか本来のお望みどおり出家なさることだってあるだろう」と、諦めず言い続けていた。
春の蹴鞠――猫が開いた御簾
三月ごろの、空がうららかな日だった。六条院へ兵部卿宮や柏木たちが訪れ、源氏も出てきて話をしていた。「このごろは本当に何もなく、静かな暮らしも退屈ですね。公にも私にも特に用事がない。何をして日を暮らしましょう」と源氏は言い、「今朝、右大将が来ていたけれど、どこへ行ったのでしょう。小弓でも射させて見物すればよかった。若い人たちも大勢来ていたのに」と尋ねた。
夕霧は丑寅の町で、大勢の若者たちに蹴鞠をさせて見ているという。源氏は「そういう少し乱れた遊びも、目が覚めて面白いものですよ。こちらへ呼びなさい」と消息を送り、夕霧たちも庭へ集まってきた。
太政大臣家の若君たち、柏木をはじめ、頭弁、兵衛佐、大夫の君など、成人した者からまだ若い者まで、どの人も人並み以上に美しい。夕暮れが近づき、風もない絶好の鞠日和なので、普段なら上達部として慎むはずの夕霧や柏木まで庭へ降りた。
花の陰を行き交う若者たちの姿は、少し乱れた遊びなのに、その場所と人々が人々だけに、ひどく美しく見える。霞のこもった由緒ある庭に、さまざまな花がほころび、そのわずかな緑の下で腕前を競っている。中でも柏木がふと立ち混じった姿には、並ぶ者がなかった。清らかで艶やかな顔立ちの人が、いつもは慎み深いのに、今だけ少し乱れて動いているのがかえって魅力的だった。
源氏と兵部卿宮は高欄近くへ出て、その様子を見物していた。鞠が続くにつれ、上臈たちも少し冠が乱れるほど熱が入る。夕霧も右大将という地位には似つかわしくないほど夢中になっているが、見た目は誰より若々しく、桜襲の直衣が少しくたびれ、指貫の裾をわずかにたくし上げた姿にも少しも軽薄さがない。
花びらが雪のように降りかかると、夕霧は枝を少し折って御階の中段近くに腰を下ろした。続いて柏木も、「花がひどく散りますね。桜は避けなくては」と言いながら、ふと女三の宮のいる方へ目をやった。
そちらでは若い女房たちがあまりきっちり御簾の内へ隠れておらず、色とりどりの衣が御簾の端からこぼれるように見えている。春の手向けの幣袋のように華やかだった。
その時、小さな唐猫を、少し大きな猫が追いかけ、二匹が突然御簾の端から外へ飛び出した。人々は驚いて身を動かし、衣擦れの音が騒がしく響く。
小さな猫には長い綱がついていた。その綱が何かへ引っかかり、猫が逃げようと引っ張ったため、御簾の端が大きく引き開けられてしまった。女房たちも猫に驚いていて、すぐ御簾を直す者がいない。
柏木が初めて見た、女三の宮の姿
几帳の際から少し奥へ入ったところに、袿姿で立っている女性が一人いた。御階から見れば、西の二の間の東側に当たり、隠れるものもなく、はっきり視界へ入ってしまう。
紅梅襲だろうか。濃い紅、薄い紅と何枚も重なった衣の端が、草子の小口のように鮮やかに見える。その上には桜の織物の細長を着ているらしい。髪は毛先までくっきり見え、撚り合わせた糸のように滑らかに流れ、豊かに切りそろえられた裾が衣より七、八寸ほど長く余っていた。
衣に包まれて身体はほとんどないように細く華奢で、髪のかかる横顔は言いようもなく上品でかわいらしい。ただ夕暮れの光なので顔立ちは完全には見えず、奥も暗い。それがかえって、見足りない思いを強くした。
女三の宮は蹴鞠に夢中になる若者たちを眺めていたらしく、自分の姿が外から見えていることに気づかない。猫が強く鳴いたので振り返った。その顔の動きも物腰も、おっとりしていて若く、本当にかわいらしい人だと、一目でわかった。
夕霧は見ていて気まずくなった。しかし自分からそこへ近づいて御簾を直すわけにもいかないので、事情を悟らせるよう、わざと咳払いをした。女三の宮はようやく気づき、静かに奥へ引っ込んだ。
夕霧自身も、もう少し見たかったという思いがまったくないわけではない。猫の綱が外れて御簾が戻った時には、思わず小さくため息が出たほどだった。
まして、長年女三の宮へ思いを寄せ続けてきた柏木は、胸が突然塞がった。今見えたのが誰なのか、考えるまでもない。大勢の女房の中で、あれほど際立った袿姿がほかの誰であるはずもなかった。知らない顔を装っているものの、どうしてあの姿を心から追い出せよう。
夕霧はそれを見て、柏木が何を考えているかをほとんど察した。そして姫宮のあまりにも不用心な振る舞いを気の毒に思った。
柏木は苦しさを紛らわせるため、あの小さな唐猫を呼び寄せて抱いた。猫には女三の宮の御殿の香が深く移っており、柔らかく鳴く。その小さな身体まで姫宮に重なって感じられ、懐かしく愛しく思われる――なんとも恋に迷った男らしいことである。
夕霧は女三の宮の幼さに不安を覚える
やがて源氏から、「上達部がそんなところに座っていては軽々しい。こちらへいらっしゃい」と声がかかり、皆は南面へ移った。
柏木はそのあとも物思いに沈み、何度も花の木の方へ目をやっていた。夕霧は事情を知っているだけに、「さっきの御簾の中を思い出しているのだろう」と気の毒に思う。
同時に、夕霧の中には女三の宮に対する評価も生まれた。「あれほど端近くにいた姿を、柏木は軽率だと思っただろう。紫の上なら、まずあんな隙は見せない。だからこそ、女三の宮はあれほど高貴な御身分なのに、源氏の内々の御愛情が紫の上ほど深くないのかもしれない。幼くてかわいいことはかわいいが、内にも外にも慎みが足りないのは、やはり心配なことだ」
一方の柏木には、そんな欠点などほとんど目に入らなかった。思いもしない隙から、ほんの一瞬でも本人を見られたことを、「長年の願いに何か意味があるのではないか」とさえ思い、ただ嬉しく、恋しさを募らせていた。
源氏は昔の蹴鞠の話をし、「太政大臣とは何でも競い合ったものだが、蹴鞠だけは私はとうとう敵わなかった。こんな遊びの技など後世へ伝えるものでもないけれど、何事でも極めた人の腕というのは、やはり驚くものだ」と笑った。
若者たちは源氏の変わらない美しさを見ながら、「この人のような方を長年そばで見ている女性が、いったいどんな男へ心を移せるというのだろう。何をすれば、自分などを少しでも『よい』と思っていただけるのか」と、改めて自分たちとの距離を思い知らされた。
柏木が夕霧へ漏らす、女三の宮への思い
帰り道、夕霧と柏木は同じ車に乗った。「これから退屈な時には、六条院へ参って過ごすのがいちばんだね」「今日のように暇な日を待って、花の盛りを逃さずまた来いとおっしゃっていました。今月のうちに、小弓でも持って参りましょう」などと話した。
柏木は、どうしても女三の宮のことを口にしたくなった。「六条院は、やはり今でも紫の上のいる東の対にばかりいらっしゃるようですね。あちらへの御愛情は本当に特別なのでしょう。姫宮はどう思っていらっしゃるのだろう。父院から並ぶもののないほど大切に育てられた方なのに、こちらへ来てからはそれほどでもないとしたら、お気の毒ですね」と、それとなく言った。
夕霧は、「何を馬鹿なことを言うのです。そんなはずはありません。紫の上とは幼いころから御自身が育てられた特別な結びつきがある、それだけのことでしょう。姫宮のことも、御身分から何から、本当に大切にしていらっしゃいますよ」と答えた。
柏木は、「まあ、やめてください。こちらにはいろいろ聞こえてきているのですよ。姫宮がお気の毒らしい時もあるとか。それにしても世に並ばぬ御身分の方なのに、本当に不思議なものですね」と、なお言い募った。
そして口ずさんだ。
いかなれば花に木づたふ鴬の桜をわきてねぐらとはせぬ
花から花へ木伝いに飛ぶ鴬は、どうして桜だけを特別にねぐらとはしないのでしょう。
つまり源氏は、なぜ女三の宮ほどの女性一人へ心を定めないのか、と言いたいのである。夕霧は、余計なことを扱う男だと思いながら返した。
深山木にねぐら定むるはこ鳥もいかでか花の色に飽くべき
たとえ深山の木をねぐらと定めた鳥であっても、どうして美しい花々の色に飽きることができるでしょう。
一つだけを見ていろというのも無理な話ではありませんか。
夕霧はそれ以上話を続けるのが面倒になり、別の話題へ移した。しかし柏木の心には、もう女三の宮しかなかった。
柏木から小侍従へ、消えない恋文
柏木は今も太政大臣邸の東の対で、一人暮らしを続けていた。長年、自分なりの高い望みがあって独身を通してきたので、寂しい時には「自分ほどの身分になれば、望むことがかなわないはずがない」と、どこかで自負していた。
しかしあの夕暮れ以来、すっかり気持ちが沈んだ。
――いったい、次はいつ、あれほどわずかにでも姫宮の姿を見ることができるだろう。普通の身分の女なら、方違えや物忌みなど、ちょっとしたきっかけで邸を移ることもあるし、その隙を探ることもできる。けれど深い御簾の内に守られた内親王へ、どういうきっかけで「これほど深く思っている男がいる」とさえ知らせられるのか。
胸が塞がり、小侍従へいつものように手紙を送った。
「先日、風に誘われるように御垣の内へ入る機会がございました。それで私は、ますますどれほど見下されてしまったことでしょう。その夕方から心が乱れ、目の前も暗くなるようで、今日は何も手につかず、一日中物思いに暮れております」
よそに見て折らぬ嘆きはしげれどもなごり恋しき花の夕かげ
遠くから眺めるだけで、手折ることもできない嘆きはますます深くなるばかりです。それでも、あの日夕暮れに見た花の面影が、どうしても恋しくて忘れられません。
小侍従は、あの日何があったかまでは知らないので、またいつもの恋の嘆きだろうと思った。
女三の宮の前に人が少ない時、小侍従はその手紙を持って行った。「この方は、いつまでも姫宮を忘れられず、こうして何度もお便りをくださるので、本当に困ってしまいます。あまりにお気の毒な御様子を見ておりますと、私自身まで、少しお力になりたいと思ってしまうのかどうか、自分でもわかりません」と笑って差し出した。
女三の宮は、「まあ、嫌なことを言うのね」と、何のことかわからないように答えながら、広げられた手紙へ目を落とした。
そこに「見もしない」といった意味の言葉があるのを読んだ瞬間、あの恐ろしいほど御簾が開いた夕暮れを思い出し、顔を赤くした。源氏が日ごろ、「右大将などに姿を見られないように気をつけなさい。あなたはまだ幼く、何かの拍子に外から見られることもあるでしょう」と繰り返し教えていたことも思い出す。
けれど姫宮がまず心配したのは、柏木に見られたことそのものではない。「右大将が、あの日こんなことがあったと源氏へ話したら、どれほど叱られるだろう」ということだった。その幼さこそ、いかにも女三の宮らしい。
いつも以上に何も返事をしないので、小侍従も無理に言わせることはできない。仕方なく、いつものように自分でひそかに返事を書いた。
「あの日は、何も知らない顔でいらしたのですよ。ひどいことだとお責め申し上げたのですが、まったく見なかったわけでもないのでしょうか。まあ、ずいぶん意味ありげなこと」
いまさらに色にな出でそ山桜およばぬ枝に心かけきと
今さら、その思いを顔色に出したりなさらないでください。手の届かない山桜の枝へ心をかけていたなどと。
「どうにも甲斐のないことなのですから」
