『源氏物語』第54帖「夢浮橋」現代語訳全文を読む|わかりやすい口語訳

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」尾形月耕『源氏五十四帖』

 このページでは、『源氏物語』第54帖「夢浮橋」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。

 原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第54帖「夢浮橋」原文全文をご覧ください。

目次

薫、横川の僧都を訪ねる

 薫は比叡山へ上り、いつものように経や仏の供養をさせた。その翌日は横川へ足を延ばしたので、僧都は驚き、恐縮して迎えた。

 これまでにも薫は祈祷などを頼み、僧都とは何かと縁があったが、特別に親しい間柄というほどではなかった。けれど先ごろ、一品宮が病んだ時に僧都が祈祷に仕え、そのすぐれた験力を目の当たりにして以来、薫はいっそう僧都を尊敬し、以前より深い縁を結んでいた。

 そんな重々しい身分の薫が、わざわざ横川まで訪ねて来たのだから、僧都の側でも大騒ぎである。二人は親しく話を交わし、薫には湯漬けなどが出された。

 人々が少し遠ざかり、あたりが静かになったところで、薫は尋ねた。

 「小野のあたりに、僧都が御存じの住まいがありますか」

 「ございます。たいそう変わった山里でしてね。私の母である老尼がおります。京にはきちんとした住まいもございませんので、私が山へ籠もっている間、夜中や明け方にでも訪ねられるよう、あちらに住ませております」

 僧都がそう答えると、薫は、「あのあたりも、つい最近まではかなり多くの人が住んでいたようですが、今ではずいぶん寂しくなったようですね」などと何気なく話した。

 それから少し僧都の近くへ寄り、声を落とした。

 「ひどく頼りない話で、また、こちらから尋ねれば、『いったい何を考えているのだ』と不審に思われることでもあり、いろいろ遠慮していたのですが――あの山里に、私の知っているはずの人が人知れず暮らしているらしいと聞きました。

 本当にその人だと確かめてから、どんな事情だったのかまで申し上げようと思っていたのです。ところが、その人を僧都が御弟子になさり、戒まで授けて出家させたと聞きました。それは本当でしょうか。まだ若く、母親も生きている人なのです。こちらでは、その人を亡くしたものとして、深く悲しんでいる人までおります」

僧都、浮舟を救ったいきさつを語る

 僧都は、――やはりそうだったのか。最初から普通の人とは思えない姿だった。この殿がここまで尋ねてくださるのなら、決して軽く思っていた人ではなかったのだ――と気づき、胸を突かれた。

 法師の身とはいえ、何も知らずに、あれほど若く美しい人の姿をすぐ尼に変えてしまったことが、今さら申し訳なく思われる。どう答えればよいのか、しばらく考え込んだ。

 だが薫がここまで事情を知ったうえで訪ねて来ているのなら、隠し通せることでもない。かえって否定するほうがおかしいと思い、僧都は話し始めた。

 「どういう事情の方であったのか、私には今もわかりません。ただ、この数か月、私たちも不思議に思い続けている人のことでございましょう。

 こちらにおります尼たちが、願をかけて初瀬へ参詣し、その帰り道、宇治院という所へ泊まりました。そこで母の尼が突然ひどく患ったと知らせが来たので、私も宇治へ下ったのです。ところがそこで、まず何とも不思議なことがございました」

 僧都は声をひそめ、宇治院の木の下で浮舟を見つけた夜のことを詳しく語った。

 「母が死にそうになっていることまで後回しにして、皆でその方の世話をいたしました。亡くなった人のような姿なのに、かすかに息だけは通っていたのです。昔物語に、魂が体から抜けたままになった人の話がありましたでしょう。あれのようなことではないかと、皆で驚きました。そこで弟子の中でも験力のある者を次々と呼び、交替で加持をさせたのでございます。

 私はもう自分の命を惜しむような年でもありませんが、その時は旅先で重く患った母を何とか助け、心乱れず念仏を唱えさせたいと、そればかり仏へ祈っておりました。ですから、女君のお姿を初めから詳しく拝見したわけではありません。

 けれど後から事情を考え合わせますと、天狗か木霊のようなものが欺いて、あそこまで連れて来たのではないかと聞いております。

 助け出してこちらへ連れて来たあとも、三か月ほどは、ほとんど亡くなった人のような状態でございました。私の妹は、昔、衛門督の北の方だった者ですが、出家しております。その妹が一人娘を亡くしてから、長い年月が過ぎても悲しみに耐えられずにおりました。

 そこへ、その亡き娘と同じくらいの年に見える、あれほど清らかで美しい方を思いがけず見つけたものですから、『観音さまが授けてくださった人だ』と大喜びし、何とか死なせまいと必死になったのです。泣きながら、私にもいろいろ頼み込んできました。

 その後、私も坂本へ下り、護身の祈りなどをいたしましたところ、少しずつ意識を取り戻し、人らしくなられました。それでもなお、最初に取り憑いていたものが体から離れきらないように感じられました。

 御本人も、『あの悪いものの妨げから逃れて、これからは後の世だけを思いたい』と、たいそう悲しそうにおっしゃいます。それなら法師としては、出家をお勧めしてもよいことだろうと思い、本当に尼になっていただいたのでございます。

 その方が、あなたさまのお知りになる人だったなどと、私がどうして何もないところから悟れたでしょう。あまりに珍しい出来事でしたから、普通なら世間話として語りたくなるようなことでした。しかし妙な噂が立てば厄介でしょうから、老尼たちにもあれこれ言われ、この数か月は誰にも話さずにおりました」

「では、本当にあの人なのだ」

 薫は、――やはりそうだったのだ――と思った。

 噂を聞き、それを頼りにここまで尋ねて来たとはいえ、完全に亡くなったものと思い切っていた浮舟が、本当に生きている。そのことが夢のようで、あまりに信じられず、薫は思わず涙ぐんだ。

 けれど僧都を前にして、ここまで取り乱した顔を見せてよいものかと思い直し、何でもないように振る舞った。

 一方の僧都は、薫がこれほど深く思っていた女性を、世間では死んだ人同然にしてしまったことが、今になって自分の過ちのように感じられた。

 「悪いものに取り憑かれたことも、前世からの何かの因縁だったのでしょう。それにしても、きっと身分の高い家の御娘だったのでしょうね。いったいどんな行き違いから、あれほどまで落ちぶれた境遇になられたのでしょう」

 僧都が尋ねると、薫は答えた。

 「まあ、皇族の血筋につながる人とでも申せばよいのでしょうか。私とのことも、最初から深く考えて始まったわけではありません。ほんのはかないきっかけから知り合った人でした。

 それでも、あれほどまで身を落とすような人だとは思っておりませんでした。突然、跡形もなく消えてしまったので、身を投げたのではないかなど、いろいろ疑いましたが、とうとう確かなことは何もわからないままでした。

 今、こうして出家し、罪を軽くする道に入っているのなら、それはかえってよかったと、私自身は安心できるようにも思います。ただ、その母親がひどく恋しがり、悲しんでいるのです。

 このことを聞き出したと、母へ知らせてやりたい気持ちはあります。けれど、何か月も人に知られぬよう隠れて暮らしてきた本人の気持ちに反して、大騒ぎになってしまうでしょうか。親子の情は簡単には絶ち切れません。母親は悲しみに耐えられず、きっと訪ねて行くでしょうから」

薫、僧都に小野への案内を頼む

 薫はさらに言った。

 「厄介な道案内を頼むのだと思われるでしょうが、どうかあの坂本へ下りてください。これほどの話を聞いて、何でもないことのように済ませられる相手ではなかったのです。夢のように不思議だったことを、今さらでも本人と語り合わせたいと思っています」

 その様子があまりに切実なので、僧都は心を動かされた。

 けれど、同時に迷いも生じる。

 ――姿を変え、すでに世を捨てた人とはいっても、髪も鬚も剃った男の法師でさえ、妙な執着心がなくならない者もいる。まして若い女性の身なら、どうなることか。ここで自分が二人を引き合わせることが、かえって罪になるのではないか。

 僧都は、「今日明日は、すぐに下山することができません。月が改まるころに、こちらから御消息を差し上げましょう」と答えた。

 薫には待ち遠しくてならなかったが、ここで「今すぐ、今すぐ」と焦る姿を見せるのもみっともない。仕方なく「それでは」と言い、その日は帰ることにした。

浮舟の弟を使いにしようとする薫

 薫はその日、浮舟の弟にあたる少年を供に連れて来ていた。ほかの兄弟たちよりも顔立ちのきれいな子だった。

 薫は少年を呼び出し、僧都へ言った。

 「この子は、あの人の近い身内なのです。ひとまずこの子を行かせましょう。僧都からも、一行だけでも手紙を書いてください。その人が誰であるとは書かず、ただ『あなたを尋ねている人がいる』ということだけでも知らせていただければ」

 僧都は困った。

 「私がこんな道案内をすれば、きっと罪を負うことになるでしょう。事情はすでに詳しく申し上げました。今となっては、あなたさま御自身がお立ち寄りになり、今後どうなさるべきかお決めになればよいのではありませんか。それのどこに問題がございましょう」

 薫は少し笑った。

 「私が何か罪深いことをするために、僧都を道案内に使おうとしていると思われているのが、恥ずかしいですね。私はむしろ、こうして今まで俗人の姿のまま暮らしていることのほうが、自分でも不思議なくらいなのです。

 幼いころから仏道へ向かう気持ちは深く持っていました。それでも三条の宮が心細い御身で、頼りにならない私一人をよすがと思ってくださっている。それがどうしても断ち切れない絆となり、世間に関わっているうち、自然と位も高くなり、自分の人生を思いどおりにはできなくなりました。

 そうしている間には、避けられない公私の務めも次々増えました。しかし、それ以外では、仏が禁じていることだとほんの少しでも聞き知ったものなら、決して犯すまいと慎んでいます。心の中だけなら、聖にも負けないつもりなのです。

 まして、こんな私的な男女のことで、わざわざ重い罪を得ようなどと、どうして考えるでしょう。そんなことは決してありません。疑わないでください。ただ、かわいそうな母親が今も悲しんでおりますので、そのためにも事情をはっきりさせたい。それだけなのです」

 昔から自分の中にあった深い仏道への思いまで薫が語ると、僧都も「なるほど」とうなずき、「それはまことに尊い御心です」と感心した。

 話しているうちに日が暮れてきた。薫は途中で泊まってもよかったが、何もわからないまま心ここにあらずの状態で泊まっているのも落ち着かないと思い、帰ることにした。

 僧都は浮舟の弟に目を留め、「なかなかよい子ですね」と褒めた。そして薫から、「この子を通じて、まず事情をほのめかしてやってください」と重ねて頼まれたため、一通の手紙を書いて少年に持たせた。

 僧都は少年へも、「時々は山へ遊びにいらっしゃい。こうしてあなたと話すことにも、ただの偶然ではない縁があったようですよ」と優しく声をかけた。少年には何のことかわからない。それでも手紙を受け取り、薫とともに横川を出た。

小野で、薫の一行の気配を聞く浮舟

 小野では、深く茂った青葉の山に向かい、浮舟が静かに座っていた。人の気を紛らわせるものといえば、遣水のあたりを飛ぶ蛍くらいである。それを昔の記憶を慰めるものとして眺めていた。

 すると、遥か谷の向こうの軒端のあたりに、大勢の先払いを伴った一行が見えた。灯火がいくつも灯り、穏やかならぬ明るさである。尼君たちも、「誰がお通りになるのでしょう。先払いの人がずいぶん多いですね」と端へ出て見ていた。

 「あちらで今日、干物を差し上げたお返しに、大将殿がおいでになったそうですよ。急いで御馳走の支度をしているとか。ちょうどよい時にいらしたと言っていました」

 「大将殿というのは、女二宮さまの御夫君だったかしら」

 尼たちはそんな話をしている。

 浮舟には、その会話そのものが、もう遠い別世界のことのように聞こえた。

 けれど本当に薫なのだろうか。かつて薫が山道を分けて宇治へ通って来た時、いつも聞こえていた随身のよく通る声が、一行の中から不意に聞こえてきた。

 月日が過ぎても、こんなに昔のことを忘れられない自分が、浮舟にはつらかった。

 ――今さら、何のために思い出すの。

 そう思い、ひたすら阿弥陀仏へ心を向けて、いっそう口を閉ざした。

弟を小野へ向かわせる薫

 薫はそのまま浮舟の弟を小野へ行かせようとも思っていた。しかし人目が多く、都合が悪い。いったん自邸へ戻り、翌日、あらためて少年を出発させることにした。

 供には、薫が親しく思っている者を大げさにならないよう二、三人だけつけた。さらに、昔から宇治への使いにもよく使っていた随身を一人添えた。

 人の聞いていない場所へ少年を呼び、薫は念を押した。

 「亡くなったお姉さんの顔は覚えているか。もうこの世にはいない人だと完全に諦めていたのだが、どうやら確かに生きているらしい。ほかの人には絶対に聞かせたくない。行って、よく確かめておいで。

 まだ母上には言ってはいけない。あまり早く知らせれば、驚いて大騒ぎするだろう。その騒ぎのうちに、知らなくてもよい人まで知ることになる。母上が今も悲しんでいるのがかわいそうだからこそ、こうして尋ねようとしているのだ」

 少年はまだ幼い。しかし兄弟は大勢いても、浮舟の美しさには誰も似るものがないと思っていた。その姉が亡くなったと聞いて以来、ずっと悲しく思っていたのである。

 生きていると聞かされ、嬉しさに思わず涙が落ちた。しかしそれを恥ずかしく思い、「はい、はい」と、わざとぶっきらぼうな返事をした。

僧都の手紙で、すべてが知られたと悟る

 小野には早朝、まず横川の僧都から手紙が届いた。

 「昨夜、右大将殿の御使いとして、小君がおいでになりました。事情を伺いましたところ、何とも困ったことになったと思い、かえって気後れしております、と姫君へ申し上げてください。私自身から申し上げたいことも多くございますので、今日明日を過ぎたころには参上いたしましょう」

 尼君は、「これはいったい何のことなの」と驚き、浮舟のところへ持って来て見せた。

 浮舟は顔を赤くした。

 ――とうとう、何か噂が耳に入ったのだ。僧都は、私が何もかも隠していたと恨まれるようなことまで話してしまったのだろうか。

 どう返事をすればよいのかわからず、黙り込んでいると、尼君はいっそう気を揉んだ。

 「まだ何もおっしゃってくださらないの。私にまで心を隔てているなんて、つらいことです」

 事情を知らない尼君は、今にも取り乱しそうなほどだった。

 そこへ、「横川の僧都からの御消息を持って来た人がおります」と取り次ぎが入った。

小君、姉のもとへ

 それなら、この使いこそ確かなものだろうというので、「こちらへ」と呼び入れた。

 現れたのは、たいそう清らかでしなやかな少年だった。見事な装束を身につけている。円座を差し出すと、簾のそばへ座り、

 「こんな所でお待ちするのではないと、僧都さまはおっしゃっていました」

 と言う。

 尼君が代わって受け答えし、少年の持参した手紙を受け取った。

 表には「入道の姫君の御方へ。山より」とあり、僧都自身の名まで書いてある。

 もう「自分ではありません」と言い逃れることもできない。

 浮舟はひどく気まずくなり、ますます奥へ引っ込み、人と顔も合わせようとしなかった。

 「僧都さまは普段から少し強引なところがおありだけれど、これはあんまりだわ。何てつらいことをなさるのでしょう」

 尼君がそう言いながら僧都の手紙を開く。

 そこには、こう書かれていた。

 「今朝、こちらへ右大将殿がおいでになり、あなたの御様子を尋ねられましたので、最初からのことを詳しくすべて申し上げました。大将殿とそれほど深い御縁で結ばれていらしたのに、その方に背を向け、このような山人の中に入って出家なさったことは、かえって仏からお咎めを受けてもおかしくないことと知り、私も驚いております。

 今となっては仕方ありません。もとの御縁を間違った形になさらず、愛執から生じる罪を晴らして差し上げてください。一日の出家による功徳だけでも計り知れないものですから、どうかそれを頼みになさってください。詳しいことは私自身が参上して申し上げます。ひとまず、この小君からお聞きになってください」

 僧都は、何もかもはっきり書いてしまっていた。

 尼君たちは事情を理解できず、「この若君は、いったいどなたなのです。今になってまで、こんなに私たちへ隠していらっしゃるなんて、本当にひどい」と浮舟を責める。

弟の顔に、母を思い出す浮舟

 浮舟は少し顔をそむけながら、少年を見た。

 その瞬間、思い出した。

 ――この子は、あの夜、もう自分の命もこれまでだと思った時、たまらなく恋しかった人の一人ではないか。

 同じ家で暮らしていたころには、生意気で、いたずらばかりする憎らしい弟だと思うこともあった。それでも母がこの子をたいそう可愛がり、宇治へも時々連れて来ていた。少し大きくなるにつれ、姉弟らしく互いに親しく思うようになっていた。

 少年のことを思い出しただけでも、すべてが夢のようだった。

 何よりまず、母が今どうしているのか聞きたかった。

 ほかの人々については、少しずつ世間話から耳にすることもあった。けれど母がどこでどのように暮らしているのかだけは、かすかにも知ることができなかった。

 そう思ってこの弟の顔を見ていると、悲しさに耐えられず、浮舟の目から涙がぽろぽろ落ちた。

 少年はたいそうかわいらしく、どこか浮舟に似たところもある。

 尼君たちは、「きっと御兄弟なのでしょう。お聞きになりたいこともあるでしょうから、中へ入れて差し上げましょう」と勧めた。

 しかし浮舟はためらった。

 ――世間ではもう死んだ人と思われているのに、こんな尼姿に変わった自分を突然弟に見せるのも、ひどく恥ずかしい。

 しばらくして、浮舟はようやく尼君へ話した。

 「私がいろいろ隠しているとお思いになるのがつらくて、何も言えずにおりました。あの恐ろしい出来事のころから、私は正気も失い、魂というものまで普通ではなくなってしまったのでしょうか。過ぎた日のことを、今でも自分ながらまったく思い出せないのです。

 以前、紀伊守という人が世間話をしているのを聞いていた時、その話の中に、昔自分がいたあたりのことではないかと、ほんの少し思い当たるような気がしたことがありました。

 それ以来、あれこれ思い出そうとしているのですが、やはりはっきりとは浮かびません。ただ一人、昔とても深く私のことを思ってくれていた人がいました。その人が、今も生きているのだろうか――それだけは心を離れず、悲しい時にはいつも思い出すのです。

 今日、この少年を見ると、確かに幼いころに見た顔だと思われ、さすがに涙をこらえられません。それでも今さら、この子にまで自分が生きていると知られず、このまま終わりたいと思っています。

 あの人――母がもしまだ生きているのなら、その人一人だけには会いたいと思います。でも、この僧都がおっしゃっている大将殿などには、絶対に知られたくありません。

 どうかうまく、『人違いだったらしい』とでも言って、隠してしまってください」

 尼君たちは騒いだ。

 「それはとても無理でしょう。僧都さまは聖と呼ばれる方々の中でも、あまりに何事にも裏表のない方です。大将殿へ全部お話しになったあとで、どうして今さら隠せるでしょう。いずれ必ず知られてしまいます。それに、相手は軽々しい身分の方でもないのでしょう」

 「それにしても、本当に世にも珍しいほど強情な御心ですね」

 皆がそう言い合い、母屋との境に几帳を立てて、少年を近くまで入れた。

小君、薫の手紙を直接渡そうとする

 少年も、姉が生きているらしいとは聞かされて来たものの、まだ幼いので、いきなり「姉上」と声をかけるのは気恥ずかしい。

 伏し目になりながら言った。

 「もう一通、御手紙がございます。どうやってお渡しすればよいのでしょう。僧都さまの御案内で間違いないはずなのに、こうしてはっきりしないままでは困ります」

 尼君たちは、「まあ、本当にかわいらしい方」と少年を褒め、浮舟へ言った。

 「お手紙を御覧になる方は、ここにいらっしゃるようです。ただ、私たち立会人には何の話なのかさっぱりわかりません。どうかもう少しお話しになってください。まだお若い方ですけれど、こうしてわざわざ使いとして頼りになさっているのですから」

 少年は、「姉上がこうして私を遠ざけ、何もわからないように扱われるのなら、何を申し上げればよいのでしょう。もう私を他人のように思っておられるのでしょうから、お話しすることもありません。ただ、この手紙だけは人づてにせず直接渡してこいと言われているのです。どうすればよいでしょう」と言った。

 「本当にもっともです。もう、そこまで意地を張らないでください。いくら何でも、少し恐ろしいほど頑なですよ」

 尼君たちにあれこれ言われ、少年は几帳のそばまで押し進められた。

 浮舟は我を失ったように座っている。その気配は、ほかの誰とも違う。少年は几帳のすぐそばまで近づき、手紙を差し出した。

 「お返事を早くいただいて、帰りたいのです」

 あまりに姉が他人行儀なので、少年も悲しくなり、急かすように言った。

薫から浮舟への手紙

 尼君が手紙を開き、浮舟へ差し出した。

 昔と少しも変わらない薫の筆跡だった。紙には、あの人らしい香りが、世間離れしたほど深く染み込んでいる。

 ほんの少し見ただけでも、物好きな人なら「こんなに美しい手紙は滅多にない」と感心せずにはいられないだろう。

 薫はこう書いていた。

 「もう、何をどう申し上げればよいのかわかりません。あなたのあまりにさまざまな、罪深いほどの御心についても、僧都に免じて許そうと思っています。ただ今は、せめてあの驚くべき過去を、夢物語としてでも語り合いたい――そんなふうに急いている自分の心が、自分でももどかしくてなりません。まして世間の人の目には、どう見えることでしょう」

法の師と尋ぬる道をしるべにて思はぬ山に踏み惑ふかな

仏法の師を訪ねた道を導きとして、私は思いもしなかった山の奥へ、あなたを求めて迷い込んでしまいました。

 さらに、弟のことにも触れていた。

 「この人のことも、もう見忘れてしまわれたでしょうか。こちらでは、行方知れずになったあなたの形見と思って、ずっと大切に見てきました」

 細やかに心を尽くした手紙だった。

それでも薫へ返事をしない浮舟

 ここまで一つ一つ具体的に書かれている以上、もう人違いだと言い紛らわせる余地などない。

 それでも浮舟は思い乱れた。

 ――本当に自分なのに、自分ではない人のような姿になってしまった。その自分を、思いがけずあの方に見つけられた。それがどれほど気まずく、恥ずかしいことだろう。

 気持ちはますます晴れず、浮舟はとうとう泣き伏した。

 尼君たちは、「本当に世間離れした御様子だこと」と、どう扱えばよいのか困り果てる。

 「いったい、何とお返事なさるのです」

 何度も責められて、浮舟はようやく答えた。

 「今は、気持ちがひどく乱れておりますので、少し落ち着いてからお返事いたします。昔のことを思い出そうとしても、何一つはっきりとは浮かびません。ただ、いったいどんな夢だったのだろうと、自分でもわからないのです。

 もう少し心が静まれば、この御手紙にも何か見覚えを感じることがあるかもしれません。今日は、そのままお持ち帰りください。もし本当に人違いだったなら、あまりに恥ずかしいことでしょうから」

 そう言って、手紙を広げたまま尼君のほうへ押しやった。

 尼君は呆れた。

 「何という見苦しいことをなさるのです。あまりにひどいことをしていると、見ている私たちまで罪を負わずにはいられませんよ」

 皆が口々に言うのさえ、浮舟にはひどく耳障りだった。顔まで衣の中へ隠し、そのまま横になってしまった。

小君、姉の確かな返事を得られないまま帰る

 主人の尼君は、代わりに少年へ少し事情を話した。

 「何か物の怪にでも取り憑かれていらっしゃるのでしょうか。普通の御様子に見える時がなく、ずっと患っていらっしゃいました。御容貌まで以前とは変わってしまったので、もし誰かがこの方を尋ねて来れば、いろいろ面倒なことになるだろうと、私たちも心配していたのです。

 それが本当に、こんなに深く、気の毒な事情を抱えた方だったとは、今になって初めて知りました。もともと長く御病気が続いておりましたのに、今回のことでさらに心を乱されたのでしょう。今日はいつも以上に、何もおわかりにならないような御様子なのです」

 山里なりに心を尽くした御馳走も用意されたが、幼い少年には何もかも落ち着かず、ただ気ばかりが急いた。

 「わざわざ私を使いに出されたのですから、何と御報告すればよいのでしょう。せめて一言だけでも、おっしゃってください」

 少年はそう頼んだ。

 尼君たちも、「本当にそうです」と浮舟へ伝えたが、浮舟は結局、何も答えなかった。

 少年にはどうしようもない。

 「どうやら、このはっきりしない御様子を、そのまま大将殿へ申し上げるしかないようですね。ここから都までは、雲の彼方というほど遠く離れているわけでもありません。また山風が吹くことがあったとしても、大将殿はきっと、もう一度お立ち寄りになるでしょう」

 いつまでも当てもなく座っているわけにもいかず、少年は帰ることにした。

 せっかくここまで来たのに、人知れず知りたくてならなかった姉の今の姿を、結局はっきり見ることもできない。それが心残りで、納得できないまま薫のもとへ戻っていった。

薫の疑い――夢浮橋

 薫は、使いが戻るのを今か今かと待ち続けていた。

 ところが、小君は事情もはっきりしないまま帰って来た。浮舟からはまともな返事もなく、会えたとも会えなかったとも言い切れない。

 薫には、ひどく興ざめなことだった。

 ――こんなことなら、かえって知らないままのほうがよかったのかもしれない。

 そう思う一方で、さまざまな疑いが次々と浮かぶ。

 ――もしかすると、誰か別の男があの人を隠し、囲っているのではないか。

 薫自身、これまで人の心の隅々まで疑い、考え抜くことに慣れていた。それだけに、自分には思いつかないことなどないというように、最後にはそんなところへまで疑いを巡らせたということである。

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