『源氏物語』第32帖「梅枝」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第32帖「梅枝」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第32帖「梅枝」現代語訳全文をご覧ください。

目次

御裳着のこと

 御裳着おほんもぎのこと、思おぼしいそぐ御心みこころおきて、世よの常つねならず。春宮とうぐうも同おなじ二月きさらぎに、御おほんかうぶりのことあるべければ、やがて御おほん参まゐりもうち続つづくべきにや。

 正月しゃうがつの晦日つごもりなれば、公私おほやけわたくしのどやかなるころほひに、薫物合たきものあはせたまふ。大弐だいにのたてまつれる香かうども御覧ごらんずるに、「なほ、いにしへのには劣おとりてやあらむ」と思おぼして、二条院にでうのゐんの御倉みくら開あけさせたまひて、唐からの物ものども取とり渡わたさせたまひて、御覧ごらんじ比くらぶるに、

「錦にしき、綾あやなども、なほ古ふるきものこそなつかしうこまやかにはありけれ」

 とて、近ちかき御おほんしつらひの、物ものの覆おほひ、敷物しきもの、茵しとねなどの端はしどもに、故院こゐんの御世みよの初はじめつ方かた、高麗人こまうどのたてまつれりける綾あや、緋金錦ひごんきどもなど、今いまの世よのものに似にず、なほさまざま御覧ごらんじあてつつせさせたまひて、このたびの綾あや、羅うすものなどは、人ひとびとに賜たまはす。

 香かうどもは、昔今むかしいまの、取とり並ならべさせたまひて、御方々おほんかたがたに配くばりたてまつらせたまふ。

「二種ふたくさづつ合あはせさせたまへ」

 と、聞きこえさせたまへり。贈おくり物もの、上達部かむだちめの禄ろくなど、世よになきさまに、内うちにも外とにも、ことしげくいとなみたまふに添そへて、方々かたがたに選えりととのへて、鉄臼かなうすの音おと耳みみかしかましきころなり。

 大臣おとどは、寝殿しんでんに離はなれおはしまして、承和じょうわの御おほんいましめの二ふたつの方はうを、いかでか御耳おほんみみには伝つたへたまひけむ、心こころにしめて合あはせたまふ。

 上うへは、東ひむがしの中なかの放出はなちいでに、御おほんしつらひことに深ふかうしなさせたまひて、八条はちでうの式部卿しきぶきゃうの御方おほんはうを伝つたへて、かたみに挑いどみ合あはせたまふほど、いみじう秘ひしたまへば、

「匂にほひの深ふかさ浅あささも、勝かち負まけの定さだめあるべし」

 と大臣おとどのたまふ。人ひとの御親おほんおやげなき御おほんあらそひ心ごころなり。

 いづ方かたにも、御前おまへにさぶらふ人ひとあまたならず。御調度おほんてうどどもも、そこらのきよらを尽つくしたまへるなかにも、香壺かうごの御筥おほんはこどものやう、壺つぼの姿すがた、火取ひとりの心こころばへも、目馴めなれぬさまに、今いまめかしう、やう変かへさせたまへるに、所々ところどころの心こころを尽つくしたまへらむ匂にほひどもの、すぐれたらむどもを、かぎあはせて入いれむと思おぼすなりけり。

二月の十日

 二月きさらぎの十日とをか、雨あめすこし降ふりて、御前おまへ近ちかき紅梅こうばい盛さかりに、色いろも香かも似にるものなきほどに、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや渡わたりたまへり。御おほんいそぎの今日明日けふあすになりにけることども、訪とぶらひきこえたまふ。昔むかしより取とり分わきたる御仲おほんなかなれば、隔へだてなく、そのことかのこと、と聞きこえあはせたまひて、花はなをめでつつおはするほどに、前斎院さきのさいゐんよりとて、散ちりすきたる梅むめの枝えだにつけたる御文おほんふみ持もて参まゐれり。宮みや、聞きこしめすこともあれば、

「いかなる御消息おほんせうそこのすすみ参まゐれるにか」

 とて、をかしと思おぼしたれば、ほほ笑ゑみて、

「いと馴なれ馴なれしきこと聞きこえつけたりしを、まめやかに急いそぎものしたまへるなめり」

 とて、御文おほんふみは引ひき隠かくしたまひつ。

 沈ぢんの筥はこに、瑠璃るりの坏つき二ふたつ据すゑて、大おほきにまろがしつつ入いれたまへり。心葉こころば、紺瑠璃こんるりには五葉ごえふの枝えだ、白しろきには梅むめを選えりて、同おなじくひき結むすびたる糸いとのさまも、なよびやかになまめかしうぞしたまへる。

「艶えんあるもののさまかな」

 とて、御目止おほんめとめたまへるに、

「花はなの香かは散ちりにし枝えだにとまらねどうつらむ袖そでに浅あさくしまめや」

 ほのかなるを御覧ごらんじつけて、宮みやはことことしう誦ずじたまふ。

 宰相中将さいしゃうのちゅうじゃう、御使おほんつかひ尋たづねとどめさせたまひて、いたう酔よはしたまふ。紅梅襲こうばいがさねの唐からの細長ほそなが添そへたる女をんなの装束さうぞくかづけたまふ。御返おほんかへりもその色いろの紙かみにて、御前おまへの花はなを折をらせてつけさせたまふ。

 宮みや、

「うちのこと思おもひやらるる御文おほんふみかな。何なにごとの隠かくろへあるにか、深ふかく隠かくしたまふ」

 と恨うらみて、いとゆかしと思おぼしたり。

「何なにごとかはべらむ。隈々くまぐましく思おぼしたるこそ、苦くるしけれ」

 とて、御硯おほんすずりのついでに、

「花はなの枝えにいとど心こころをしむるかな人ひとのとがめむ香かをばつつめど」

 とやありつらむ。

「まめやかには、好すき好ずきしきやうなれど、またもなかめる人ひとの上うへにて、これこそはことわりのいとなみなめれと、思おもひたまへなしてなむ。いと醜みにくければ、疎うとき人ひとはかたはらいたさに、中宮ちうぐうまかでさせたてまつりてと思おもひたまふる。親したしきほどに馴なれきこえかよへど、恥はづかしきところの深ふかうおはする宮みやなれば、何なにごとも世よの常つねにて見みせたてまつらむ、かたじけなくてなむ」

 など、聞きこえたまふ。

「あえものも、げに、かならず思おぼし寄よるべきことなりけり」

 と、ことわり申まうしたまふ。

このついでに御方々の

 このついでに、御方々おほんかたがたの合あはせたまふども、おのおの御使おほんつかひして、

「この夕暮ゆふぐれのしめりにこころみむ」

 と聞きこえたまへれば、さまざまをかしうしなしてたてまつりたまへり。

「これ分わかせたまへ。誰たれにか見みせむ」

 と聞きこえたまひて、御火取おほんひとりども召めして、こころみさせたまふ。

「知しる人ひとにもあらずや」

 と卑下ひげしたまへど、言いひ知しらぬ匂にほひどもの、進すすみ遅おくれたる香かう一種ひとくさなどが、いささかの咎とがを分わきて、あながちに劣おとりまさりのけぢめをおきたまふ。かのわが御二種おほんふたくさのは、今いまぞ取とう出いさせたまふ。

 右近うこんの陣ぢんの御溝水みかはみづのほとりになずらへて、西にしの渡殿わたどのの下したより出いづる汀みぎは近ちかう埋うづませたまへるを、惟光これみつの宰相さいしゃうの子この兵衛尉ひゃうゑのじょう、堀ほりて参まゐれり。宰相中将さいしゃうのちゅうじゃう、取とりて伝つたへ参まゐらせたまふ。宮みや、

「いと苦くるしき判者はんざにも当あたりてはべるかな。いと煙けぶたしや」

 と、悩なやみたまふ。同おなじうこそは、いづくにも散ちりつつ広ひろごるべかめるを、人ひとびとの心々こころごころに合あはせたまへる、深ふかさ浅あささを、かぎあはせたまへるに、いと興きょうあること多おほかり。

 さらにいづれともなき中なかに、斎院さいゐんの御黒方おほんくろばう、さいへども、心こころにくくしづやかなる匂にほひ、ことなり。侍従じじうは、大臣おとどの御おほんは、すぐれてなまめかしうなつかしき香かなりと定さだめたまふ。

 対たいの上うへの御おほんは、三種みくさある中なかに、梅花ばいか、はなやかに今いまめかしう、すこしはやき心こころしつらひを添そへて、めづらしき薫かをり加くははれり。

「このころの風かぜにたぐへむには、さらにこれにまさる匂にほひあらじ」

 とめでたまふ。

 夏なつの御方おほんかたには、人ひとびとの、かう心々こころごころに挑いどみたまふなる中なかに、数々かずかずにも立たち出いでずやと、煙けぶをさへ思おもひ消きえたまへる御心おほんこころにて、ただ荷葉かえふを一種ひとくさ合あはせたまへり。さま変かはりしめやかなる香かして、あはれになつかし。

 冬ふゆの御方おほんかたにも、時々ときどきによれる匂にほひの定さだまれるに消けたれむもあいなしと思おぼして、薫衣香くのえかうの方はうのすぐれたるは、前さきの朱雀院すざくゐんのをうつさせたまひて、公忠朝臣きんただのあそんの、ことに選えらび仕つかうまつれりし百歩ひゃくぶの方はうなど思おもひ得えて、世よに似にずなまめかしさを取とり集あつめたる、心こころおきてすぐれたりと、いづれをも無徳むとくならず定さだめたまふを、

「心こころぎたなき判者はんざなめり」

 と聞きこえたまふ。

月さし出でぬれば

 月つきさし出いでぬれば、大御酒おほみきなど参まゐりて、昔むかしの御物語おほんものがたりなどしたまふ。霞かすめる月つきの影かげ心こころにくきを、雨あめの名残なごりの風かぜすこし吹ふきて、花はなの香かなつかしきに、御殿おとどのあたり言いひ知しらず匂にほひ満みちて、人ひとの御心地おほんここちいと艶えんあり。

 蔵人所くらうどどころの方かたにも、明日あすの御遊おほんあそびのうちならしに、御琴おほんことどもの装束さうぞくなどして、殿上人てんじゃうびとなどあまた参まゐりて、をかしき笛ふゑの音ねども聞きこゆ。

 内うちの大殿おほいどのの頭中将とうのちゅうじゃう、弁少将べんのせうしゃうなども、見参げんざんばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、御琴おほんことども召めす。

 宮みやの御前おまへに琵琶びは、大臣おとどに箏さうの御琴おほんこと参まゐりて、頭中将とうのちゅうじゃう、和琴わごん賜たまはりて、はなやかに掻かきたてたるほど、いとおもしろく聞きこゆ。宰相中将さいしゃうのちゅうじゃう、横笛よこぶえ吹ふきたまふ。折をりにあひたる調子てうし、雲居くもゐとほるばかり吹ふきたてたり。弁少将べんのせうしゃう、拍子ひゃうし取とりて、「梅むめが枝え」出いだしたるほど、いとをかし。童わらはにて、韻塞ゐんふたぎの折をり、「高砂たかさご」謡うたひし君きみなり。宮みやも大臣おとどもさしいらへしたまひて、ことことしからぬものから、をかしき夜よの御遊おほんあそびなり。

 御土器おほんかはらけ参まゐるに、宮みや、

「鴬うぐひすの声こゑにやいとどあくがれむ心こころしめつる花はなのあたりに

千代ちよも経へぬべし」

 と聞きこえたまへば、

「色いろも香かもうつるばかりにこの春はるは花はな咲さく宿やどをかれずもあらなむ」

 頭中将とうのちゅうじゃうに賜たまへば、取とりて、宰相中将さいしゃうのちゅうじゃうにさす。

「鴬うぐひすのねぐらの枝えだもなびくまでなほ吹ふきとほせ夜半よはの笛竹ふえたけ」

 宰相中将さいしゃうのちゅうじゃう、

「心こころありて風かぜの避よくめる花はなの木きにとりあへぬまで吹ふきや寄よるべき

情なさけなく」

 と、皆みなうち笑わらひたまふ。弁少将べんのせうしゃう、

「霞かすだに月つきと花はなとを隔へだてずはねぐらの鳥とりもほころびなまし」

 まことに、明あけ方がたになりてぞ、宮みや帰かへりたまふ。御贈おほんおくり物ものに、みづからの御料ごれうの御直衣おほんなほしの御おほんよそひ一領ひとくだり、手触てふれたまはぬ薫物たきもの二壺ふたつぼ添そへて、御車おほんくるまにたてまつらせたまふ。宮みや、

「花はなの香かをえならぬ袖そでにうつしもてことあやまりと妹いもやとがめむ」

 とあれば、

「いと屈くつしたりや」

 と笑わらひたまふ。御車おほんくるまかくるほどに、追おひて、

「めづらしと故里人ふるさとびとも待まちぞ見みむ花はなの錦にしきを着きて帰かへる君きみ

またなきことと思おぼさるらむ」

 とあれば、いといたうからがりたまふ。次々つぎつぎの君達きむだちにも、ことことしからぬさまに、細長ほそなが、小袿こうちきなどかづけたまふ。

かくて西の御殿に

 かくて、西にしの御殿おとどに、戌いぬの時ときに渡わたりたまふ。宮みやのおはします西にしの放出はなちいでをしつらひて、御髪上みぐしあげの内侍ないしなども、やがてこなたに参まゐれり。上うへも、このついでに、中宮ちうぐうに御対面おほんたいめんあり。御方々おほんかたがたの女房にょうばう、押おしあはせたる、数かずしらず見みえたり。

 子ねの時ときに御裳おほんもたてまつる。大殿油おほとなぶらほのかなれど、御おほんけはひいとめでたしと、宮みやは見みたてまつれたまふ。大臣おとど、

「思おぼし捨すつまじきを頼たのみにて、なめげなる姿すがたを、進すすみ御覧ごらんぜられはべるなり。後のちの世よのためしにやと、心狭こころせばく忍しのび思おもひたまふる」

 など聞きこえたまふ。宮みや、

「いかなるべきこととも思おもうたまへ分わきはべらざりつるを、かうことことしうとりなさせたまふになむ、なかなか心こころおかれぬべく」

 と、のたまひ消けつほどの御おほんけはひ、いと若わかく愛敬あいぎゃうづきたるに、大臣おとども、思おぼすさまにをかしき御おほんけはひどもの、さし集つどひたまへるを、あはひめでたく思おぼさる。母君ははぎみの、かかる折をりだにえ見みたてまつらぬを、いみじと思おもへりしも心苦こころぐるしうて、参まう上のぼらせやせましと思おぼせど、人ひとのもの言いひをつつみて、過すぐしたまひつ。

 かかる所ところの儀式ぎしきは、よろしきにだに、いとこと多おほくうるさきを、片端かたはしばかり、例れいのしどけなくまねばむもなかなかにやとて、こまかに書かかず。

春宮の御元服は

 春宮とうぐうの御元服おほんげんぷくは、二十余日にじふよひのほどになむありける。いと大人おとなしくおはしませば、人ひとの女むすめども競きほひ参まゐらすべきことを、心こころざし思おぼすなれど、この殿とのの思おぼしきざすさまの、いとことなれば、なかなかにてや交まじらはむと、左ひだりの大臣おとどなども、思おぼしとどまるなるを聞きこしめして、

「いとたいだいしきことなり。宮仕みやづかへの筋すぢは、あまたあるなかに、すこしのけぢめを挑いどまむこそ本意ほいならめ。そこらの警策きゃうざくの姫君ひめぎみたち、引ひき籠こめられなば、世よに映はえあらじ」

 とのたまひて、御おほん参まゐり延のびぬ。次々つぎつぎにもとしづめたまひけるを、かかるよし所々ところどころに聞ききたまひて、左大臣殿さだいじんどのの三さんの君きみ参まゐりたまひぬ。麗景殿れいけいでんと聞きこゆ。

 この御方おほんかたは、昔むかしの御宿直所おほんとのゐどころ、淑景舎しげいさを改あらためしつらひて、御おほん参まゐり延のびぬるを、宮みやにも心こころもとながらせたまへば、四月うづきにと定さだめさせたまふ。御調度おほんてうどどもも、もとあるよりもととのへて、御おほんみづからも、ものの下形したかた、絵様ゑやうなどをも御覧ごらんじ入いれつつ、すぐれたる道々みちみちの上手じゃうずどもを召めし集あつめて、こまかに磨みがきととのへさせたまふ。

 草子さうしの筥はこに入いるべき草子さうしどもの、やがて本ほんにもしたまふべきを選えらせたまふ。いにしへの上かみなき際きはの御手おほんてどもの、世よに名なを残のこしたまへるたぐひのも、いと多おほくさぶらふ。

よろづのこと昔には

「よろづのこと、昔むかしには劣おとりざまに、浅あさくなりゆく世よの末すゑなれど、仮名かんなのみなむ、今いまの世よはいと際きはなくなりたる。古ふるき跡あとは、定さだまれるやうにはあれど、広ひろき心こころゆたかならず、一筋ひとすぢに通かよひてなむありける。

妙たへにをかしきことは、外とよりてこそ書かき出いづる人ひとびとありけれど、女手をんなでを心こころに入いれて習ならひし盛さかりに、こともなき手本てほん多おほく集つどへたりしなかに、中宮ちうぐうの母はは御息所みやすんどころの、心こころにも入いれず走はしり書かいたまへりし一行ひとくだりばかり、わざとならぬを得えて、際きはことにおぼえしはや。

さて、あるまじき御名おほんなも立たてきこえしぞかし。悔くやしきことに思おもひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり。宮みやにかく後見うしろみ仕つかうまつることを、心深こころふかうおはせしかば、亡なき御影おほんかげにも見直みなほしたまふらむ。

宮みやの御手おほんては、こまかにをかしげなれど、かどや後おくれたらむ」

 と、うちささめきて聞きこえたまふ。

「故入道宮こにふだうのみやの御手おほんては、いとけしき深ふかうなまめきたる筋すぢはありしかど、弱よわきところありて、にほひぞすくなかりし。

院ゐんの尚侍かんこそ、今いまの世よの上手じゃうずにおはすれど、あまりそぼれて癖くせぞ添そひためる。さはありとも、かの君きみと、前斎院さきのさいゐんと、ここにとこそは、書かきたまはめ」

 と、聴ゆるしきこえたまへば、

「この数かずには、まばゆくや」

 と聞きこえたまへば、

「いたうな過すぐしたまひそ。にこやかなる方かたのなつかしさは、ことなるものを。真名まなのすすみたるほどに、仮名かんなはしどけなき文字もじこそ混まじるめれ」

 とて、まだ書かかぬ草子さうしども作つくり加くはへて、表紙へうし、紐ひもなどいみじうせさせたまふ。

「兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや、左衛門督さゑもんのかみなどにものせむ。みづから一具ひとよろひは書かくべし。けしきばみいますがりとも、え書かき並ならべじや」

 と、われぼめをしたまふ。

墨筆並びなく選り出でて

 墨すみ、筆ふで、並ならびなく選えり出いでて、例れいの所々ところどころに、ただならぬ御消息おほんせうそこあれば、人ひとびと、難かたきことに思おぼして、返かへさひ申まうしたまふもあれば、まめやかに聞きこえたまふ。高麗こまの紙かみの薄様うすやうだちたるが、せめてなまめかしきを、

「この、もの好ごのみする若わかき人ひとびと、試こころみむ」

 とて、宰相中将さいしゃうのちゅうじゃう、式部卿宮しきぶきゃうのみやの兵衛督ひゃうゑのかみ、内うちの大殿おほいどのの頭中将とうのちゅうじゃうなどに、

「葦手あしで、歌絵うたゑを、思おもひ思おもひに書かけ」

 とのたまへば、皆みな心々こころごころに挑いどむべかめり。

 例れいの寝殿しんでんに離はなれおはしまして書かきたまふ。花はなざかり過すぎて、浅緑あさみどりなる空そらうららかなるに、古ふるき言ことどもなど思おもひすましたまひて、御心みこころのゆく限かぎり、草さうのも、ただのも、女手をんなでも、いみじう書かき尽つくしたまふ。

 御前おまへに人ひとしげからず、女房にょうばう二ふたり、三人みたりばかり、墨すみなど擦すらせたまひて、ゆゑある古ふるき集しふの歌うたなど、いかにぞやなど選えり出いでたまふに、口惜くちをしからぬ限かぎりさぶらふ。

 御簾みす上あげわたして、脇息けふそくの上うへに草子さうしうち置おき、端近はしぢかくうち乱みだれて、筆ふでの尻しりくはへて、思おもひめぐらしたまへるさま、飽あく世よなくめでたし。白しろき赤あかきなど、掲焉けちえんなる枚ひらは、筆ふでとり直なほし、用意よういしたまへるさまさへ、見知みしらむ人ひとは、げにめでぬべき御おほんありさまなり。

兵部卿宮渡りたまふ

「兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや渡わたりたまふ」と聞きこゆれば、おどろきて、御直衣おほんなほしたてまつり、御おほん茵しとね参まゐり添そへさせたまひて、やがて待まち取とり、入いれたてまつりたまふ。この宮みやもいときよげにて、御階みはしさまよく歩あゆみ昇のぼりたまふほど、内うちにも人ひとびとのぞきて見みたてまつる。うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。

「つれづれに籠こもりはべるも、苦くるしきまで思おもうたまへらるる心こころののどけさに、折をりよく渡わたらせたまへる」

 と、よろこびきこえたまふ。かの御草子おほんさうし待またせて渡わたりたまへるなりけり。やがて御覧ごらんずれば、すぐれてしもあらぬ御手おほんてを、ただかたかどに、いといたう筆ふで澄すみたるけしきありて書かきなしたまへり。歌うたも、ことさらめき、そばみたる古言ふることどもを選えりて、ただ三行みくだりばかりに、文字もじ少すくなに好このましくぞ書かきたまへる。大臣おとど、御覧ごらんじ驚おどろきぬ。

「かうまでは思おもひたまへずこそありつれ。さらに筆ふで投なげ捨すてつべしや」

 と、ねたがりたまふ。

「かかる御中おほんなかに面おもなくくだす筆ふでのほど、さりともとなむ思おもうたまふる」

 など、戯たはぶれたまふ。

 書かきたまへる草子さうしどもも、隠かくしたまふべきならねば、取とう出いたまひて、かたみに御覧ごらんず。

 唐からの紙かみの、いとすくみたるに、草さう書かきたまへる、すぐれてめでたしと見みたまふに、高麗こまの紙かみの、肌はだこまかに和なごうなつかしきが、色いろなどははなやかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手をんなでの、うるはしう心こころとどめて書かきたまへる、たとふべきかたなし。

 見みたまふ人ひとの涙なみださへ、水茎みづぐきに流ながれ添そふ心地ここちして、飽あく世よあるまじきに、また、ここの紙屋かみやの色紙しきしの、色いろあひはなやかなるに、乱みだれたる草さうの歌うたを、筆ふでにまかせて乱みだれ書かきたまへる、見所みどころ限かぎりなし。しどろもどろに愛敬あいぎゃうづき、見みまほしければ、さらに残のこりどもに目めも見みやりたまはず。

左衛門督は

 左衛門督さゑもんのかみは、ことことしうかしこげなる筋すぢをのみ好このみて書かきたれど、筆ふでの掟おきて澄すまぬ心地ここちして、いたはり加くはへたるけしきなり。歌うたなども、ことさらめきて、選えり書かきたり。

 女をんなの御おほんは、まほにも取とり出いでたまはず。斎院さいゐんのなどは、まして取とう出いたまはざりけり。葦手あしでの草子さうしどもぞ、心々こころごころにはかなうをかしき。

 宰相中将さいしゃうのちゅうじゃうのは、水みづの勢いきほひ豊ゆたかに書かきなし、そそけたる葦あしの生おひざまなど、難波なにはの浦うらに通かよひて、こなたかなたいきまじりて、いたう澄すみたるところあり。また、いといかめしう、ひきかへて、文字もじやう、石いしなどのたたずまひ、好このみ書かきたまへる枚ひらもあめり。

「目めも及およばず。これは暇いとまいりぬべきものかな」

 と、興きょうじめでたまふ。何事なにごとももの好ごのみし、艶えんがりおはする親王みこにて、いといみじうめできこえたまふ。

今日はまた手のことども

 今日けふはまた、手てのことどものたまひ暮くらし、さまざまの継紙つぎかみの本ほんども、選えり出いでさせたまへるついでに、御子みこの侍従じじうして、宮みやにさぶらふ本ほんども取とりに遣つかはす。

 嵯峨さがの帝みかどの、古万葉集こまんえふしふを選えらび書かかせたまへる四巻よまき、延喜えんぎの帝みかどの、古今和歌集こきんわかしふを、唐からの浅縹あさはなだの紙かみを継つぎて、同おなじ色いろの濃こき紋もんの綺きの表紙へうし、同おなじき玉たまの軸じく、緞だんの唐組からくみの紐ひもなど、なまめかしうて、巻まきごとに御手おほんての筋すぢを変かへつつ、いみじう書かき尽つくさせたまへる、大殿油おほとなぶら短みじかく参まゐりて御覧ごらんずるに、

「尽つきせぬものかな。このころの人ひとは、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ」

 など、めでたまふ。やがてこれはとどめたてまつりたまふ。

「女子をんなごなどを持もてはべらましにだに、をさをさ見みはやすまじきには伝つたふまじきを、まして、朽くちぬべきを」

 など聞きこえてたてまつれたまふ。侍従じじうに、唐からの本ほんなどのいとわざとがましき、沈ぢんの筥はこに入いれて、いみじき高麗笛こまぶえ添そへて、たてまつれたまふ。

 またこのころは、ただ仮名かんなの定さだめをしたまひて、世よの中なかに手て書かくとおぼえたる、上中下かみなかしもの人ひとびとにも、さるべきものども思おぼしはからひて、尋たづねつつ書かかせたまふ。この御筥おほんはこには、立たち下くだれるをば混まぜたまはず、わざと、人ひとのほど、品分しなわかせたまひつつ、草子さうし、巻物まきもの、皆みな書かかせたてまつりたまふ。

 よろづにめづらかなる御宝物おほんたからものども、人ひとの朝廷みかどまでありがたげなる中なかに、この本ほんどもなむ、ゆかしと心こころ動うごきたまふ若人わかうど、世よに多おほかりける。御絵おほんゑどもととのへさせたまふ中なかに、かの須磨すまの日記にきは、末すゑにも伝つたへ知しらせむと思おぼせど、「今いますこし世よをも思おぼし知しりなむに」と思おぼし返かへして、まだ取とり出いでたまはず。

内の大臣は

 内うちの大臣おとどは、この御おほんいそぎを、人ひとの上うへにて聞ききたまふも、いみじう心こころもとなく、さうざうしと思おぼす。姫君ひめぎみの御おほんありさま、盛さかりにととのひて、あたらしううつくしげなり。つれづれとうちしめりたまへるほど、いみじき御嘆おほんなげきぐさなるに、かの人ひとの御みけしき、はた、同おなじやうになだらかなれば、「心弱こころよわく進すすみ寄よらむも、人ひと笑わらはれに、人ひとのねむごろなりしきざみに、なびきなましかば」など、人ひと知しれず思おぼし嘆なげきて、一方ひとかたに罪つみをもおほせたまはず。

 かくすこしたわみたまへる御みけしきを、宰相さいしゃうの君きみは聞ききたまへど、しばしつらかりし御心みこころを憂うしと思おもへば、つれなくもてなし、しづめて、さすがに他ほかざまの心こころはつくべくもおぼえず、心こころづから戯たはぶれにくき折をり多おほかれど、「浅緑あさみどり」聞きこえごちし御乳母おほんめのとどもに、納言なふごんに昇のぼりて見みえむの御心みこころ深ふかかるべし。

大臣はあやしう浮きたる

 大臣おとどは、「あやしう浮うきたるさまかな」と、思おぼし悩なやみて、

「かのわたりのこと、思おもひ絶たえにたらば、右大臣みぎのおとど、中務宮なかつかさのみやなどの、けしきばみ言いはせたまふめるを、いづくも思おもひ定さだめられよ」

 とのたまへど、ものも聞きこえたまはず、かしこまりたる御おほんさまにてさぶらひたまふ。

「かやうのことは、かしこき御教おほんをしへにだに従したがふべくもおぼえざりしかば、言ことまぜま憂うけれど、今いま思おもひあはするには、かの御教おほんをしへこそ、長ながき例ためしにはありけれ。

つれづれとものすれば、思おもふところあるにやと、世人よひとも推おし量はかるらむを、宿世すくせの引ひく方かたにて、なほなほしきことにありありてなびく、いと尻しりびに、人悪ひとわろきことぞや。

いみじう思おもひのぼれど、心こころにしもかなはず、限かぎりのあるものから、好すき好ずきしき心こころつかはるな。いはけなくより、宮みやの内うちに生おひ出いでて、身みを心こころにまかせず、所狭ところせく、いささかの事ことのあやまりもあらば、軽々かろがろしきそしりをや負おはむと、つつみしだに、なほ好すき好ずきしき咎とがを負おひて、世よにはしたなめられき。

位くらゐ浅あさく、何なにとなき身みのほど、うちとけ、心こころのままなる振ふる舞まひなどものせらるな。心こころおのづからおごりぬれば、思おもひしづむべきくさはひなき時とき、女をんなのことにてなむ、かしこき人ひと、昔むかしも乱みだるる例ためしありける。

さるまじきことに心こころをつけて、人ひとの名なをも立たて、みづからも恨うらみを負おふなむ、つひのほだしとなりける。とりあやまりつつ見みむ人ひとの、わが心こころにかなはず、忍しのばむこと難かたき節ふしありとも、なほ思おもひ返かへさむ心こころをならひて、もしは親おやの心こころにゆづり、もしは親おやなくて世よの中なかかたほにありとも、人柄ひとがら心苦こころぐるしうなどあらむ人ひとをば、それを片かたかどに寄よせても見みたまへ。わがため、人ひとのため、つひによかるべき心こころぞ深ふかうあるべき」

 など、のどやかにつれづれなる折をりは、かかる御心みこころづかひをのみ教をしへたまふ。

かやうなる御諌めにつきて

 かやうなる御諌おほんいさめにつきて、戯たはぶれにても他ほかざまの心こころを思おもひかかるは、あはれに、人ひとやりならずおぼえたまふ。女をんなも、常つねよりことに、大臣おとどの思おもひ嘆なげきたまへる御おほんけしきに、恥はづかしう、憂うき身みと思おぼし沈しづめど、上うへはつれなくおほどかにて、眺ながめ過すぐしたまふ。

 御文おほんふみは、思おもひあまりたまふ折々をりをり、あはれに心深こころふかきさまに聞きこえたまふ。「誰たがまことをか」と思おもひながら、世馴よなれたる人ひとこそ、あながちに人ひとの心こころをも疑うたがふなれ、あはれと見みたまふふし多おほかり。

「中務宮なかつかさのみやなむ、大殿おほとのにも御みけしき賜たまはりて、さもやと、思おぼし交かはしたなる」

 と人ひとの聞きこえければ、大臣おとどは、ひき返かへし御胸おほんむねふたがるべし。忍しのびて、

「さることをこそ聞ききしか。情なさけなき人ひとの御心みこころにもありけるかな。大臣おとどの、口入くちいれたまひしに、執念しふねかりきとて、引ひき違たがへたまふなるべし。心弱こころよわくなびきても、人ひと笑わらへならましこと」

 など、涙なみだを浮うけてのたまへば、姫君ひめぎみ、いと恥はづかしきにも、そこはかとなく涙なみだのこぼるれば、はしたなくて背そむきたまへる、らうたげさ限かぎりなし。

「いかにせまし。なほや進すすみ出いでて、けしきをとらまし」

 など、思おぼし乱みだれて立たちたまひぬる名残なごりも、やがて端近はしぢかう眺ながめたまふ。

「あやしく、心こころおくれても進すすみ出いでつる涙なみだかな。いかに思おぼしつらむ」

 など、よろづに思おもひゐたまへるほどに、御文おほんふみあり。さすがにぞ見みたまふ。こまやかにて、

「つれなさは憂うき世よの常つねになりゆくを忘わすれぬ人ひとや人ひとにことなる」

 とあり。「けしきばかりもかすめぬ、つれなさよ」と、思おもひ続つづけたまふは憂うけれど、

「限かぎりとて忘わすれがたきを忘わするるもこや世よになびく心こころなるらむ」

 とあるを、「あやし」と、うち置おかれず、傾かたぶきつつ見みゐたまへり。

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