『源氏物語』第45帖「橋姫」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第45帖「橋姫」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第45帖「橋姫」現代語訳全文をご覧ください。

目次

そのころ、世に数まへられたまはぬ

 そのころ、世よに数かずまへられたまはぬ古宮ふるみやおはしけり。母方ははかたなども、やむごとなくものしたまひて、筋異すぢことなるべきおぼえなどおはしけるを、時とき移うつりて、世よの中なかにはしたなめられたまひける紛まぎれに、なかなかいと名残なごりなく、御後見おほんうしろみなどももの恨うらめしき心々こころごころにて、かたがたにつけて、世よを背そむき去さりつつ、公私おほやけわたくしに拠より所どころなく、さし放はなたれたまへるやうなり。

 北きたの方かたも、昔むかしの大臣おとどの御女おほんむすめなりける、あはれに心細こころぼそく、親おやたちの思おぼしおきてたりしさまなど思おもひ出いでたまふに、たとしへなきこと多おほかれど、古ふるき御契おほんちぎりの二につなきばかりを、憂うき世よの慰なぐさめにて、かたみにまたなく頼たのみ交かはしたまへり。

 年としごろ経ふるに、御子おほんこものしたまはで心こころもとなかりければ、さうざうしくつれづれなる慰なぐさめに、「いかで、をかしからむ稚児ちごもがな」と、宮みやぞ時々ときどき思おぼしのたまひけるに、めづらしく、女君をんなぎみのいとうつくしげなる、生むまれたまへり。

 これを限かぎりなくあはれと思おもひかしづききこえたまふに、さし続つづきけしきばみたまひて、「このたびは男をとこにても」など思おぼしたるに、同おなじさまにて、平たひらかにはしたまひながら、いといたくわづらひて亡うせたまひぬ。宮みや、あさましう思おぼし惑まどふ。

あり経るにつけても

「あり経ふるにつけても、いとはしたなく、堪たへがたきこと多おほかる世よなれど、見捨みすてがたくあはれなる人ひとの御おほんありさま、心こころざまに、かけとどめらるるほだしにてこそ、過すぐし来きつれ、一人ひとりとまりて、いとどすさまじくもあるべきかな。いはけなき人ひとびとをも、一人ひとりはぐくみ立たてむほど、限かぎりある身みにて、いとをこがましう、人悪ひとわろかるべきこと」

 と思おぼし立たちて、本意ほいも遂とげまほしうしたまひけれど、見み譲ゆづる方かたなくて残のこしとどめむを、いみじう思おぼしたゆたひつつ、年月としつきも経ふれば、おのおのおよすけまさりたまふさま、容貌かたちの、うつくしうあらまほしきを、明あけ暮くれの御慰おほんなぐさめにて、おのづから見み過すぐしたまふ。

 後のちに生むまれたまひし君きみをば、さぶらふ人ひとびとも、「いでや、折をりふし心憂こころうく」など、うちつぶやきつつ、心こころに入いれても扱あつかひきこえざりけれど、限かぎりのさまにて、何なにごとも思おぼし分わかざりしほどながら、これをいと心苦こころぐるしと思おもひて、

「ただ、この君きみを形見かたみに見みたまひて、あはれと思おぼせ」

 とばかり、ただ一言ひとことなむ、宮みやに聞きこえ置おきたまひければ、前さきの世よの契ちぎりもつらき折をりふしなれど、「さるべきにこそはありけめと、今いまはと見みえしまで、いとあはれと思おもひて、うしろめたげにのたまひしを」と、思おぼし出いでつつ、この君きみをしも、いとかなしうしたてまつりたまふ。容貌かたちなむまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでものしたまひける。

 姫君ひめぎみは、心こころばせ静しづかによしある方かたにて、見みる目めもてなしも、気高けだかく心こころにくきさまぞしたまへる。いたはしくやむごとなき筋すぢはまさりて、いづれをも、さまざまに思おもひかしづききこえたまへど、かなはぬこと多おほく、年月としつきに添そへて、宮みやの内うちも寂さびしくのみなりまさる。

 さぶらひし人ひとも、たつきなき心地ここちするに、え忍しのびあへず、次々つぎつぎに従したがひてまかで散ちりつつ、若君わかぎみの御乳母おほんめのとも、さる騷さわぎに、はかばかしき人ひとをしも、選えりあへたまはざりければ、ほどにつけたる心こころ浅あささにて、幼をさなきほどを見捨みすてたてまつりにければ、ただ宮みやぞはぐくみたまふ。

さすがに、広くおもしろき宮

 さすがに、広ひろくおもしろき宮みやの、池いけ、山やまなどのけしきばかり昔むかしに変かはらで、いといたう荒あれまさるを、つれづれと眺ながめたまふ。

 家司けいしなども、むねむねしき人ひともなきままに、草くさ青あをやかに繁しげり、軒のきのしのぶぞ、所ところえ顔がほに青あをみわたれる。折々をりをりにつけたる花はな紅葉もみぢの、色いろをも香かをも、同おなじ心こころに見みはやしたまひしにこそ、慰なぐさむことも多おほかりけれ、いとどしく寂さびしく、寄よりつかむ方かたなきままに、持仏ぢぶつの御飾おほんかざりばかりを、わざとせさせたまひて、明あけ暮くれ行おこなひたまふ。

 かかるほだしどもにかかづらふだに、思おもひの外ほかに口惜くちをしう、「わが心こころながらもかなはざりける契ちぎり」とおぼゆるを、まいて、「何なににか、世よの人ひとめいて今いまさらに」とのみ、年月としつきに添そへて、世よの中なかを思おぼし離はなれつつ、心こころばかりは聖ひじりになり果はてたまひて、故君こきみの亡うせたまひにしこなたは、例れいの人ひとのさまなる心こころばへなど、たはぶれにても思おぼし出いでたまはざりけり。

「などか、さしも。別わかるるほどの悲かなしびは、また世よにたぐひなきやうにのみこそは、おぼゆべかめれど、あり経ふれば、さのみやは。なほ、世人よひとになずらふ御心みこころづかひをしたまひて、いとかく見苦みぐるしく、たつきなき宮みやの内うちも、おのづからもてなさるるわざもや」

 と、人ひとはもどききこえて、何なにくれと、つきづきしく聞きこえごつことも、類るいにふれて多おほかれど、聞きこしめし入いれざりけり。

 御念誦おほんねんずのひまひまには、この君きみたちをもてあそび、やうやうおよすけたまへば、琴こと習ならはし、碁ご打うち、偏へんつきなど、はかなき御遊おほんあそびわざにつけても、心こころばへどもを見みたてまつりたまふに、姫君ひめぎみは、らうらうじく、深ふかく重おもりかに見みえたまふ。若君わかぎみは、おほどかにらうたげなるさまして、ものづつみしたるけはひに、いとうつくしう、さまざまにおはす。

春のうららかなる日影に

 春はるのうららかなる日影ひかげに、池いけの水鳥みづとりどもの、羽はねうち交かはしつつ、おのがじしさへづる声こゑなどを、常つねは、はかなきことに見みたまひしかども、つがひ離はなれぬをうらやましく眺ながめたまひて、君きみたちに、御琴おほんことども教をしへきこえたまふ。いとをかしげに、小ちひさき御おほんほどに、とりどり掻かき鳴ならしたまふ物ものの音ねども、あはれにをかしく聞きこゆれば、涙なみだを浮うけたまひて、

「うち捨すててつがひ去さりにし水鳥みづとりの仮かりのこの世よにたちおくれけむ

心こころ尽つくしなりや」

 と、目めおし拭のごひたまふ。容貌かたちいときよげにおはします宮みやなり。年としごろの御行おほんおこなひにやせ細ほそりたまひにたれど、さてしも、あてになまめきて、君きみたちをかしづきたまふ御心みこころばへに、直衣なほしの萎なえばめるを着きたまひて、しどけなき御おほんさま、いと恥はづかしげなり。

 姫君ひめぎみ、御硯おほんすずりをやをらひき寄よせて、手て習ならのやうに書かき混まぜたまふを、

「これに書かきたまへ。硯すずりには書かきつけざなり」

 とて、紙かみたてまつりたまへば、恥はぢらひて書かきたまふ。

「いかでかく巣す立たちけるぞと思おもふにも憂うき水鳥みづとりの契ちぎりをぞ知しる」

 よからねど、その折をりは、いとあはれなりけり。手ては、生おひ先さき見みえて、まだよくも続つづけたまはぬほどなり。

「若君わかぎみも書かきたまへ」

 とあれば、今いますこし幼をさなげに、久ひさしく書かき出いでたまへり。

「泣なく泣なくも羽はねうち着きする君きみなくはわれぞ巣す守まもになりは果はてまし」

 御衣おほんぞどもなど萎なえばみて、御前おまへにまた人ひともなく、いと寂さびしくつれづれげなるに、さまざまいとらうたげにてものしたまふを、あはれに心苦こころぐるしう、いかが思おぼさざらむ。経きゃうを片かた手てに持もたまひて、かつ読よみつつ唱歌さうがをしたまふ。

 姫君ひめぎみに琵琶びは、若君わかぎみに箏さうの御琴おほんこと、まだ幼をさなけれど、常つねに合あはせつつ習ならひたまへば、聞ききにくくもあらで、いとをかしく聞きこゆ。

父帝にも女御にも

 父帝ちちみかどにも女御にょうごにも、疾とく後おくれきこえたまひて、はかばかしき御後見おほんうしろみの、取とり立たてたるおはせざりければ、才ざえなど深ふかくもえ習ならひたまはず、まいて、世よの中なかに住すみつく御心みこころおきては、いかでかは知しりたまはむ。高たかき人ひとと聞きこゆる中なかにも、あさましうあてにおほどかなる、女をんなのやうにおはすれば、古ふるき世よの御宝物おほんたからもの、祖父大臣おほぢおとどの御処分おほんそうぶん、何なにやかやと尽つきすまじかりけれど、行方ゆくへもなくはかなく失うせ果はてて、御調度おほんてうどなどばかりなむ、わざとうるはしくて多おほかりける。

 参まゐり訪とぶらひきこえ、心こころ寄よせたてまつる人ひともなし。つれづれなるままに、雅楽寮うたづかさの物ものの師しどもなどやうの、すぐれたるを召めし寄よせつつ、はかなき遊あそびに心こころを入いれて、生おひ出いでたまへれば、その方かたは、いとをかしうすぐれたまへり。

 源氏げんじの大殿おとどの御弟おほんおとうとにおはせしを、冷泉院れいぜいゐんの春宮とうぐうにおはしましし時とき、朱雀院すざくゐんの大后おほぎさきの、横よこ様さまに思おぼし構かまへて、この宮みやを、世よの中なかに立たち継つぎたまふべく、わが御時おほんとき、もてかしづきたてまつりける騷さわぎに、あいなく、あなたざまの御仲おほんなからひには、さし放はなたれたまひにければ、いよいよかの御おほんつぎつぎになり果はてぬる世よにて、え交まじらひたまはず。また、この年としごろ、かかる聖ひじりになり果はてて、今いまは限かぎりと、よろづを思おぼし捨すてたり。

 かかるほどに、住すみたまふ宮みや焼やけにけり。いとどしき世よに、あさましうあへなくて、移うつろひ住すみたまふべき所ところの、よろしきもなかりければ、宇治うぢといふ所ところに、よしある山里やまざと持もたまへりけるに渡わたりたまふ。思おぼひ捨すてたまへる世よなれども、今いまはと住すみ離はなれなむをあはれに思おもさる。

 網代あじろのけはひ近ちかく、耳みみかしかましき川かはのわたりにて、静しづかなる思おもひにかなはぬ方かたもあれど、いかがはせむ。花はな紅葉もみぢ、水みづの流ながれにも、心こころをやる便たよりによせて、いとどしく眺ながめたまふより他ほかのことなし。かく絶たえ籠こもりぬる野山のやまの末すゑにも、「昔むかしの人ひとものしたまはましかば」と、思おもひきこえたまはぬ折をりなかりけり。

「見みし人ひとも宿やども煙けぶりになりにしを何なにとてわが身み消きえ残のこりけむ」

 生いけるかひなくぞ、思おぼし焦こがるるや。

いとど、山重なれる御住み処に

 いとど、山やま重かさなれる御住おほんすみ処かに、尋たづね参まゐる人ひとなし。あやしき下衆げすなど、田舎ゐなかびたる山賤やまがつどものみ、まれに馴なれ参まゐり仕つかうまつる。峰みねの朝霧あさぎり晴はるる折をりなくて、明あかし暮くらしたまふに、この宇治うぢ山やまに、聖ひじりだちたる阿闍梨あざり住すみけり。

 才ざえいとかしこくて、世よのおぼえも軽かろからねど、をさをさ公事おほやけごとにも出いで仕つかへず、籠こもりゐたるに、この宮みやの、かく近ちかきほどに住すみたまひて、寂さびしき御おほんさまに、尊たふときわざをせさせたまひつつ、法文ほふもんを読よみならひたまへば、尊たふとがりきこえて、常つねに参まゐる。

 年としごろ学まなび知しりたまへることどもの、深ふかき心こころを解とき聞きかせたてまつり、いよいよこの世よのいとかりそめに、あぢきなきことを申まうし知しらすれば、

「心こころばかりは蓮はちすの上うへに思おもひのぼり、濁にごりなき池いけにも住すみぬべきを、いとかく幼をさなき人ひとびとを見捨みすてむうしろめたさばかりになむ、えひたみちに容貌かたちをも変かへぬ」

 など、隔へだてなく物語ものがたりしたまふ。

この阿闍梨は、冷泉院にも

 この阿闍梨あざりは、冷泉院れいぜいゐんにも親おやしくさぶらひて、御経おほんきゃうなど教をしへきこゆる人ひとなりけり。京きゃうに出いでたるついでに参まゐりて、例れいの、さるべき文ふみなど御覧ごらんじて、問とはせたまふこともあるついでに、

「八はちの宮みやの、いとかしこく、内教ないけうの御才おほんざえ悟さとり深ふかくものしたまひけるかな。さるべきにて、生むまれたまへる人ひとにやものしたまふらむ。心こころ深ふかく思おもひ澄すましたまへるほど、まことの聖ひじりのおきてになむ見みえたまふ」と聞きこゆ。

「いまだ容貌かたちは変かへたまはずや。俗聖ぞくひじりとか、この若わかき人ひとびとの付つけたなる、あはれなることなり」などのたまはす。

 宰相中将さいしゃうのちうじゃうも、御前おまへにさぶらひたまひて、「われこそ、世よの中なかをばいとすさまじう思おもひ知しりながら、行おこなひなど、人ひとに目めとどめらるばかりは勤つとめず、口惜くちをしくて過すぐし来くれ」と、人ひと知しれず思おもひつつ、「俗ぞくながら聖ひじりになりたまふ心こころのおきてやいかに」と、耳みみとどめて聞ききたまふ。

「出家すけの心こころざしは、もとよりものしたまへるを、はかなきことに思おもひとどこほり、今いまとなりては、心苦こころぐるしき女子をんなごどもの御上おほんうへを、え思おもひ捨すてぬとなむ、嘆なげきはべりたうぶ」と奏そうす。

 さすがに、物ものの音ねめづる阿闍梨あざりにて、

「げに、はた、この姫君ひめぎみたちの、琴こと弾ひき合あはせて遊あそびたまへる、川波かはなみにきほひて聞きこえはべるは、いとおもしろく、極楽ごくらく思おもひやられはべるや」

 と、古体こたいにめづれば、帝みかどほほ笑ゑみたまひて、

「さる聖ひじりのあたりに生おひ出いでて、この世よの方かたざまは、たどたどしからむと推おし量はからるるを、をかしのことや。うしろめたく、思おもひ捨すてがたく、もてわづらひたまふらむを、もし、しばしも後おくれむほどは、譲ゆづりやはしたまはぬ」

 などぞのたまはする。この院ゐんの帝みかどは、十じふの御子みこにぞおはしましける。朱雀院すざくゐんの、故こ六条院ろくでうのゐんに預あづけきこえたまひし、入道宮にふだうのみやの御おほん例れいを思おぼほし出いでて、「かの君きみたちをがな。つれづれなる遊あそびがたきに」などうち思おぼしけり。

中将の君、なかなか

 中将ちうじゃうの君きみ、なかなか、親王みこの思おもひ澄すましたまへらむ御心みこころばへを、「対面たいめんして、見みたてまつらばや」と思おもふ心こころぞ深ふかくなりぬる。さて阿闍梨あざりの帰かへり入いるにも、

「かならず参まゐりて、もの習ならひきこゆべく、まづうちうちにも、けしき賜たまはりたまへ」

 など語かたらひたまふ。

 帝みかどの、御言伝おほんことづてにて、「あはれなる御住おほんすまひを、人伝ひとづてに聞きくこと」など聞きこえたまうて、

「世よを厭いとふ心こころは山やまにかよへども八重やへ立たつ雲くもを君きみや隔へだつる」

 阿闍梨あざり、この御使おほんつかひを先さきに立たてて、かの宮みやに参まゐりぬ。なのめなる際きはの、さるべき人ひとの使つかだにまれなる山やま蔭かげに、いとめづらしく、待まちよろこびたまうて、所ところにつけたる肴さかななどして、さる方かたにもてはやしたまふ。御返おほんかへし、

「あと絶たえて心こころ澄すむとはなけれども世よを宇治うぢ山やまに宿やどをこそ借かれ」

 聖ひじりの方かたをば卑下ひげして聞きこえなしたまへれば、「なほ、世よに恨うらみ残のこりける」と、いとほしく御覧ごらんず。

 阿闍梨あざり、中将ちうじゃうの、道心だうしん深ふかげにものしたまふなど、語かたりきこえて、

「法文ほふもんなどの心得こころえまほしき心こころざしなむ、いはけなかりし齢よはひより深ふかく思おもひながら、えさらず世よにあり経ふるほど、公私おほやけわたくしに暇いとまなく明あけ暮くらし、わざと閉とぢ籠こもりて習ならひ読よみ、おほかたはかばかしくもあらぬ身みにしも、世よの中なかを背そむき顔がほならむも、憚はばかるべきにあらねど、おのづからうちたゆみ、紛まぎらはしくてなむ過すぐし来くるを、いとありがたき御おほんありさまを承うけたまはり伝つたへしより、かく心こころにかけてなむ、頼たのみきこえさする、など、ねむごろに申まうしたまひし」など語かたりきこゆ。

 宮みや、

「世よの中なかをかりそめのことと思おもひ取とり、厭いとはしき心こころのつきそむることも、わが身みに愁うれへある時とき、なべての世よも恨うらめしう思おもひ知しる初はじめありてなむ、道心だうしんも起おこるわざなめるを、年とし若わかく、世よの中なか思おもふにかなひ、何なにごとも飽あかぬことはあらじとおぼゆる身みのほどに、さはた、後のちの世よをさへ、たどり知しりたまふらむがありがたさ。

ここには、さべきにや、ただ厭いとひ離はなれよと、ことさらに仏ほとけなどの勧すすめおもむけたまふやうなるありさまにて、おのづからこそ、静しづかなる思おもひかなひゆけど、残のこり少すくなき心地ここちするに、はかばかしくもあらで、過すぎぬべかめるを、来きし方かた行ゆく末すゑ、さらに得えたるところなく思おもひ知しらるるを、かへりては、心こころ恥はづかしげなる法ほふの友ともにこそは、ものしたまふなれ」

 などのたまひて、かたみに御消息おほんせうそこ通かよひ、みづからも参まうでたまふ。

げに、聞きしよりもあはれに

 げに、聞ききしよりもあはれに、住すまひたまへるさまよりはじめて、いと仮かりなる草くさの庵いほりに、思おもひなし、ことそぎたり。同おなじき山里やまざとといへど、さる方かたにて心こころとまりぬべく、のどやかなるもあるを、いと荒あましき水みづの音ね、波なみの響ひびきに、もの忘わすれうちし、夜よなど、心こころ解とけて夢ゆめをだに見みるべきほどもなげに、すごく吹ふき払はらひたり。

「聖ひじりだちたる御おほんために、かかるしもこそ、心こころとまらぬもよほしならめ、女君をんなぎみたち、何なに心地ここちして過すぐしたまふらむ。世よの常つねの女をんなしくなよびたる方かたは、遠とほくや」と推おし量はからるる御おほんありさまなり。

 仏ほとけの御隔おほんへだてに、障子さうじばかりを隔へだててぞおはすべかめる。好すき心こころあらむ人ひとは、けしきばみ寄よりて、人ひとの御心おほんこころばへをも見みまほしう、さすがにいかがと、ゆかしうもある御おほんけはひなり。

 されど、「さる方かたを思おもひ離はなるる願ねがひに、山やま深ふかく尋たづねきこえたる本意ほいなく、好すき好すきしきなほざりごとをうち出いであざればまむも、ことに違たがひてや」など思おもひ返かへして、宮みやの御おほんありさまのいとあはれなるを、ねむごろにとぶらひきこえたまひ、たびたび参まゐりたまひつつ、思おもひしやうに、優婆塞うばそくながら行ゆふ山やまの深ふかき心こころ、法文ほふもんなど、わざとさかしげにはあらで、いとよくのたまひ知しらす。

 聖ひじりだつ人ひと、才ざえある法師ほふしなどは、世よに多おほかれど、あまりこはごはしう、気遠けどほげなる宿徳しうとくの僧都そうづ、僧正そうじゃうの際きはは、世よに暇いとまなくきすくにて、ものの心こころを問とひあらはさむも、ことことしくおぼえたまふ。

 また、その人ひとならぬ仏ほとけの御弟子おほんでしの、忌いむことを保たもつばかりの尊たふとさはあれど、けはひ卑いやしく言葉ことばたみて、こちなげにもの馴なれたる、いとものしくて、昼ひるは、公事おほやけごとに暇いとまなくなどしつつ、しめやかなる宵よひのほど、気け近ちかき御枕上おほんまくらがみなどに召めし入いれ語かたらひたまふにも、いとさすがにものむつかしうなどのみあるを、いとあてに、心苦こころぐるしきさまして、のたまひ出いづる言いの葉はも、同おなじ仏ほとけの御教おほんをしへをも、耳みみ近ちかきたとひにひきまぜ、いとこよなく深ふかき御悟おほんさとりにはあらねど、よき人ひとは、ものの心こころを得えたまふ方かたの、いとことにものしたまひければ、やうやう見み馴なれたてまつりたまふたびごとに、常つねに見みたてまつらまほしうて、暇いとまなくなどしてほど経ふる時ときは、恋こひしくおぼえたまふ。

 この君きみの、かく尊たふとがりきこえたまへれば、冷泉院れいぜいゐんよりも、常つねに御消息おほんせうそこなどありて、年としごろ、音ねにもをさをさ聞きこえたまはず、寂さびしげなりし御住おほんすみ処か、やうやう人目ひとめ見みる時々ときどきあり。折をりふしに、訪とぶらひきこえたまふこと、いかめしう、この君きみも、まづさるべきことにつけつつ、をかしきやうにも、まめやかなるさまにも、心こころ寄よせ仕つかうまつりたまふこと、三年さんねんばかりになりぬ。

秋の末つ方

 秋あきの末すゑつ方かた、四季しきにあててしたまふ御念仏おほんねんぶつを、この川面かはづらは、網代あじろの波なみも、このころはいとど耳みみかしかましく静しづかならぬを、とて、かの阿闍梨あざりの住すむ寺てらの堂だうに移うつろひたまひて、七日なぬかのほど行おこなひたまふ。姫君ひめぎみたちは、いと心細こころぼそく、つれづれまさりて眺ながめたまひけるころ、中将ちうじゃうの君きみ、久ひさしく参まゐらぬかなと、思おもひ出いできこえたまひけるままに、有明ありあけの月つきの、まだ夜よ深ふかくさし出いづるほどに出いで立たちて、いと忍しのびて、御供おほんともに人ひとなどもなくて、やつれておはしけり。

 川かはのこなたなれば、舟ふねなどもわづらはで、御馬おほんむまにてなりけり。入いりもてゆくままに、霧きりふたがりて、道みちも見みえぬ繁木しげきの中なかを分わけたまふに、いと荒あましき風かぜのきほひに、ほろほろと落おち乱みだるる木きの葉はの露つゆの散ちりかかるも、いと冷ひやかに、人ひとやりならずいたく濡ぬれたまひぬ。かかるありきなども、をさをさならひたまはぬ心地ここちに、心細こころぼそくをかしく思おぼされけり。

「山やまおろしに耐たへぬ木きの葉はの露つゆよりもあやなくもろきわが涙なみだかな」

 山賤やまがつのおどろくもうるさしとて、随身ずいじんの音ねもせさせたまはず。柴しばの籬まがきを分わけて、そこはかとなき水みづの流ながれどもを踏ふみしだく駒こまの足音あしおとも、なほ、忍しのびてと用意よういしたまへるに、隠かくれなき御匂おほんにほひぞ、風かぜに従したがひて、主ぬし知しらぬ香かとおどろく寝覚ねざめの家々いへいへありける。

 近ちかくなるほどに、その琴こととも聞きき分わかれぬ物ものの音ねども、いとすごげに聞きこゆ。「常つねにかく遊あそびたまふと聞きくを、ついでなくて、宮みやの御琴おほんことの音ねの名高なだかきも、え聞きかぬぞかし。よき折をりなるべし」と思おもひつつ入いりたまへば、琵琶びはの声こゑの響ひびきなりけり。「黄鐘調わうしきでう」に調しらべて、世よの常つねの掻かき合あはせなれど、所ところからにや、耳みみ馴なれぬ心地ここちして、掻かき返かへす撥ばちの音ねも、ものきよげにおもしろし。箏さうの琴こと、あはれになまめいたる声こゑして、たえだえ聞きこゆ。

しばし聞かまほしきに

 しばし聞きかまほしきに、忍しのびたまへど、御おほんけはひしるく聞ききつけて、宿直人とのゐびとめく男をとこ、なまかたくなしき、出いで来きたり。

「しかしかなむ籠こもりおはします。御消息おほんせうそこをこそ聞きこえさせめ」と申まうす。

「何なにか。しか限かぎりある御行おほんおこなひのほどを、紛まぎらはしきこえさせむにあいなし。かく濡ぬれ濡ぬれ参まゐりて、いたづらに帰かへらむ愁うれへを、姫君ひめぎみの御方おほんかたに聞きこえて、あはれとのたまはせばなむ、慰なぐさむべき」

 とのたまへば、醜みにくき顔かほうち笑ゑみて、

「申まうさせはべらむ」とて立たつを、

「しばしや」と召めし寄よせて、「年としごろ、人伝ひとづてにのみ聞ききて、ゆかしく思おもふ御琴おほんことの音ねどもを、うれしき折をりかな。しばし、すこしたち隠かくれて聞きくべきものの隈くまありや。つきなくさし過すぎて参まゐり寄よらむほど、皆みな琴ことやめたまひては、いと本意ほいなからむ」

 とのたまふ。御おほんけはひ、顔容貌かほかたちの、さるなほなほしき心地ここちにも、いとめでたくかたじけなくおぼゆれば、

「人ひと聞きかぬ時ときは、明あけ暮くれかくなむ遊あそばせど、下人しもびとにても、都みやこの方かたより参まゐり、立たちまじる人ひとはべる時ときは、音ねもせさせたまはず。おほかた、かくて女をんなたちおはしますことをば隠かくさせたまひ、なべての人ひとに知しらせたてまつらじと、思おぼしのたまはするなり」

 と申まうせば、うち笑ゑひて、

「あぢきなき御おほんもの隠かくしなり。しか忍しのびたまふなれど、皆人みなひと、ありがたき世よの例れいに、聞きき出いづべかめるを」とのたまひて、「なほ、しるべせよ。われは、好すき好すきしき心こころなど、なき人ひとぞ。かくておはしますらむ御おほんありさまの、あやしく、げに、なべてにおぼえたまはぬなり」

 とこまやかにのたまへば、

「あな、かしこ。心こころなきやうに、後のちの聞きこえやはべらむ」

 とて、あなたの御前おまへは、竹たけの透垣すいがいしこめて、皆みな隔へだてことなるを、教をしへ寄よせたてまつれり。御供おほんともの人ひとは、西にしの廊らうに呼よび据すゑて、この宿直人とのゐびとあひしらふ。

あなたに通ふべかめる透垣の戸を

 あなたに通かよふべかめる透垣すいがいの戸とを、すこし押おし開あけて見みたまへば、月つきをかしきほどに霧きりわたれるを眺ながめて、簾すだれを短みじかく巻まき上うへげて、人ひとびとゐたり。簀子すのこに、いと寒さむげに、身み細ほそく萎なえばめる童女わらはべ一人ひとり、同おなじさまなる大人おとななどゐたり。内うちなる人ひと一人ひとり、柱はしらに少すくしゐ隠かくれて、琵琶びはを前まへに置おきて、撥ばちを手てまさぐりにしつつゐたるに、雲くも隠かくれたりつる月つきの、にはかにいと明あくさし出いでたれば、

「扇あふぎならで、これしても、月つきは招まねきつべかりけり」

 とて、さしのぞきたる顔かほ、いみじくらうたげに匂にほひやかなるべし。

 添そひ臥ふしたる人ひとは、琴ことの上うへに傾かたぶきかかりて、

「入いる日ひを返かへす撥ばちこそありけれ、さま異ことにも思おもひ及およびたまふ御心みこころかな」

 とて、うち笑ゑひたるけはひ、今いま少すくし重おもりかによしづきたり。

「及およばずとも、これも月つきに離はなるるものかは」

 など、はかなきことを、うち解とけのたまひ交かはしたるけはひども、さらによそに思おもひやりしには似にず、いとあはれになつかしうをかし。

「昔物語むかしものがたりなどに語かたり伝つたへて、若わかき女房にょうばうなどの読よむをも聞きくに、かならずかやうのことを言いひたる、さしもあらざりけむ」と、憎にくく推おし量はからるるを、「げに、あはれなるものの隈くまありぬべき世よなりけり」と、心こころ移うつりぬべし。

 霧きりの深ふかければ、さやかに見みゆべくもあらず。また、月つきさし出いでなむと思おぼすほどに、奥おくの方かたより、「人ひとおはす」と告つげきこゆる人ひとやあらむ、簾すだれ下おろして皆みな入いりぬ。おどろき顔がほにはあらず、なごやかにもてなして、やをら隠かくれぬるけはひども、衣きぬの音ねもせず、いとなよよかに心苦こころぐるしくて、いみじうあてにみやびかなるを、あはれと思おもひたまふ。

 やをら出いでて、京きゃうに、御車みくるま率ゐて参まゐるべく、人ひと走はしらせつ。ありつる侍さぶらひに、

「折をり悪あしく参まゐりはべりにけれど、なかなかうれしく、思おもふことすこし慰なぐさめてなむ。かくさぶらふよし聞きこえよ。いたう濡ぬれにたるかことも聞きこえさせむかし」

 とのたまへば、参まゐりて聞きこゆ。

かく見えやしぬらむとは

 かく見みえやしぬらむとは思おぼしも寄よらで、うちとけたりつることどもを、聞ききやしたまひつらむと、いといみじく恥はづかし。あやしく、香かうばしく匂にほふ風かぜの吹ふきつるを、思おもひかけぬほどなれば、「驚おどろかざりける心こころおそさよ」と、心こころも惑まどひて、恥はぢおはさうず。

 御消息おほんせうそこなど伝つたふる人ひとも、いとうひうひしき人ひとなめるを、「折をりからにこそ、よろづのことも」と思おもいて、まだ霧きりの紛まぎれなれば、ありつる御簾みすの前まへに歩あゆみ出いでて、ついゐたまふ。

 山里やまざとびたる若人わかうどどもは、さしいらへむ言いの葉はもおぼえで、御茵おほんしとねさし出いづるさまも、たどたどしげなり。

「この御簾みすの前まへには、はしたなくはべりけり。うちつけに浅あさき心こころばかりにては、かくも尋たづね参まゐるまじき山やまのかけ路ぢに思おもうたまふるを、さま異ことにこそ。かく露つゆけき度たびを重かさねては、さりとも、御覧ごらんじ知しるらむとなむ、頼たのもしうはべる」

 と、いとまめやかにのたまふ。

 若わかき人ひとびとの、なだらかにもの聞きこゆべきもなく、消きえ返かへりかかやかしげなるも、かたはらいたければ、女をんなばらの奥おく深ふかきを起おこし出いづるほど、久ひさしくなりて、わざとめいたるも苦くるしうて、

「何なにごとも思おもひ知しらぬありさまにて、知しり顔がほにも、いかばかりかは、聞きこゆべく」

 と、いとよしあり、あてなる声こゑして、ひき入いりながらほのかにのたまふ。

「かつ知しりながら、憂うきを知しらず顔がほなるも、世よのさがと思おもうたまへ知しるを、一所ひとところしも、あまりおぼめかせたまふらむこそ、口惜くちをしかるべけれ。ありがたう、よろづを思おもひ澄すましたる御住おほんすまひなどに、たぐひきこえさせたまふ御心みこころのうちは、何なにごとも涼すずしく推おし量はかられはべれば、なほ、かく忍しのびあまりはべる深ふかさ浅あささのほども、分わかせたまはむこそ、かひははべらめ。

世よの常つねの好すき好すきしき筋すぢには、思おぼしめし放はなつべくや。さやうの方かたは、わざと勧すすむる人ひとはべりとも、なびくべうもあらぬ心こころ強つよさになむ。

おのづから聞きこしめし合あはするやうもはべりなむ。つれづれとのみ過すぐしはべる世よの物語ものがたりも、聞きこえさせ所どころに頼たのみきこえさせ、またかく、世よ離はなれて、眺ながめさせたまふらむ御心みこころの紛まぎらはしには、さしも、驚おどろかせたまふばかり聞きこえ馴なれはべらば、いかに思おもふさまにはべらむ」

 など、多おほくのたまへば、つつましく、いらへにくくて、起おこしつる老おい人ひとの出いで来きたるにぞ、譲ゆづりたまふ。

たとしへなくさし過ぐして

 たとしへなくさし過すぐして、

「あな、かたじけなや。かたはらいたき御座おましのさまにもはべるかな。御簾みすの内うちにこそ。若わかき人ひとびとは、物もののほど知しらぬやうにはべるこそ」

 など、したたかに言いふ声こゑのさだすぎたるも、かたはらいたく君きみたちは思おぼす。

「いともあやしく、世よの中なかに住すまひたまふ人ひとの数かずにもあらぬ御おほんありさまにて、さもありぬべき人ひとびとだに、訪とぶらひ数かずまへきこえたまふも、見みえ聞きこえずのみなりまさりはべるめるに、ありがたき御心おほんこころざしのほどは、数かずにもはべらぬ心こころにも、あさましきまで思おもひたまへはべるを、若わかき御心地おほんここちにも思おぼし知しりながら、聞きこえさせたまひにくきにやはべらむ」

 と、いとつつみなくもの馴なれたるも、なま憎にくきものから、けはひいたう人ひとめきて、よしある声こゑなれば、

「いとたづきも知しらぬ心地ここちしつるに、うれしき御おほんけはひにこそ。何なにごとも、げに、思おもひ知しりたまひける頼たのみ、こよなかりけり」

 とて、寄より居ゐたまへるを、几帳きちゃうの側そばより見みれば、曙あけぼの、やうやう物ものの色いろ分わかるるに、げに、やつしたまへると見みゆる狩衣かりぎぬ姿すがたの、いと濡ぬれしめりたるほど、「うたて、この世よの外ほかの匂にほひにや」と、あやしきまで薫かをり満みちたり。

この老い人はうち泣きぬ

 この老おい人ひとはうち泣なきぬ。

「さし過すぎたる罪つみもやと、思おもうたまへ忍しのぶれど、あはれなる昔むかしの御物語おほんものがたりの、いかならむついでにうち出いで聞きこえさせ、片端かたはしをも、ほのめかし知しろしめさせむと、年としごろ念誦ねんずのついでにも、うち交かぜ思おもうたまへわたるしるしにや、うれしき折をりにはべるを、まだきにおぼほれはべる涙なみだにくれて、えこそ聞きこえさせずはべりけれ」

 と、うちわななくけしき、まことにいみじくもの悲かなしと思おもへり。

 おほかた、さだ過すぎたる人ひとは、涙なみだもろなるものとは見み聞ききたまへど、いとかうしも思おもへるも、あやしうなりたまひて、

「ここに、かく参まゐるをば、たび重かさなりぬるを、かくあはれ知しりたまへる人ひともなくてこそ、露つゆけき道みちのほどに、独ひとりのみそほちつれ。うれしきついでなめるを、言いな残のこいたまひそかし」とのたまへば、

「かかるついでしも、はべらじかし。また、はべりとも、夜よの間まのほど知しらぬ命いのちの、頼たのむべきにもはべらぬを。さらば、ただ、かかる古者ふるもの、世よにはべりけりとばかり、知しろしめされはべらなむ。

三条さんでうの宮みやにはべりし小侍従こじじう、はかなくなりはべりにけると、ほの聞ききはべりし。そのかみ、睦むつましう思おもうたまへし同おなじほどの人ひと、多おほく亡うせはべりにける世よの末すゑに、はるかなる世界せかいより伝つたはりまうで来きて、この五いつとせ、六年むとせのほどなむ、これにかくさぶらひはべる。

知しろしめさじかし。このころ、藤大納言とうだいなごんと申まうすなる御兄おほんこのかみの、右衛門督ゑもんのかみにて隠かくれたまひにしは、物もののついでなどにや、かの御上おほんうへとて、聞きこしめし伝つたふることもはべらむ。

過すぎたまひて、いくばくも隔へだたらぬ心地ここちのみしはべる。その折をりの悲かなしさも、まだ袖そでの乾かはく折をりはべらず思おもうたまへらるるを、かくおとなしくならせたまひにける御齢おほんよはひのほども、夢ゆめのやうになむ。

かの権大納言ごんのだいなごんの御乳母おほんめのとにはべりしは、弁べんが母ははになむはべりし。朝夕あさゆふに仕つかうまつり馴なれはべりしに、人数ひとかずにもはべらぬ身みなれど、人ひとに知しらせず、御心みこころよりはた余あまりけることを、折々をりをりうちかすめのたまひしを、今いまは限かぎりになりたまひにし御病おほんやまひの末すゑつ方かたに、召めし寄よせて、いささかのたまひ置おくことなむはべりしを、聞きこしめすべきゆゑなむ、一ひと事ことはべれど、かばかり聞きこえ出いではべるに、残のこりをと思おぼしめす御心みこころはべらば、のどかになむ、聞きこしめし果はてはべるべき。若わかき人ひとびとも、かたはらいたく、さし過すぎたりと、つきじろひはべるも、ことわりになむ」

 とて、さすがにうち出いでずなりぬ。

 あやしく、夢語ゆめがたり、巫女かんなぎやうのものの、問とはず語かたりすらむやうに、めづらかに思おぼさるれど、あはれにおぼつかなく思おぼしわたることの筋すぢを聞きこゆれば、いと奥おくゆかしけれど、げに、人目ひとめもしげし、さしぐみに古ふる物語ものがたりにかかづらひて、夜よを明あかし果はてむも、こちごちしかるべければ、

「そこはかと思おもひ分わくことは、なきものから、いにしへのことと聞ききはべるも、ものあはれになむ。さらば、かならずこの残のこり聞きかせたまへ。霧きり晴はれゆかば、はしたなかるべきやつれを、面おもてなく御覧ごらんじとがめられぬべきさまなれば、思おもうたまふる心こころのほどよりは、口惜くちをしうなむ」

 とて、立たちたまふに、かのおはします寺てらの鐘かねの声こゑ、かすかに聞きこえて、霧きりいと深ふかくたちわたれり。

峰の八重雲、思ひやる隔て多く

 峰みねの八重やへ雲くも、思おもひやる隔へだて多おほく、あはれなるに、なほ、この姫君ひめぎみたちの御心みこころのうちども心苦こころぐるしう、「何なにごとを思おぼし残のこすらむ。かく、いと奥おくまりたまへるも、ことわりぞかし」などおぼゆ。

「あさぼらけ家いへ路ぢも見みえず尋たづね来こし槙まきの尾山をやまは霧きりこめてけり

心細こころぼそくもはべるかな」

 と、立たち返かへりやすらひたまへるさまを、都みやこの人ひとの目め馴なれたるだに、なほ、いとことに思おもひきこえたるを、まいて、いかがはめづらしう見みきこえざらむ。御返おほんかへり聞きこえ伝つたへにくげに思おもひたれば、例れいの、いとつつましげにて、

「雲くものゐる峰みねのかけ路ぢを秋あき霧きりのいとど隔へだつるころにもあるかな」

 すこしうち嘆なげいたまへるけしき、浅あさからずあはれなり。

 何なにばかりをかしきふしは見みえぬあたりなれど、げに、心苦こころぐるしきこと多おほかるにも、明あうなりゆけば、さすがにひた面おもてなる心地ここちして、

「なかなかなるほどに、承うけたまはりさしつること多おほかる残のこりは、今いますこし面おもて馴なれてこそは、恨うらみきこえさすべかめれ。さるは、かく世よの人ひとめいて、もてなしたまふべくは、思おもはずに、もの思おぼし分わかざりけりと、恨うらめしうなむ」

 とて、宿直人とのゐびとがしつらひたる西面にしおもてにおはして、眺ながめたまふ。

「網代あじろは、人ひと騒さわがしげなり。されど、氷魚ひをも寄よらぬにやあらむ。すさまじげなるけしきなり」

 と、御供おほんともの人ひとびと見み知しりて言いふ。

「あやしき舟ふねどもに、柴刈しばかり積つみ、おのおの何なにとなき世よの営いとなみどもに、行ゆき交かふさまどもの、はかなき水みづの上うへに浮うかびたる、誰たれも思おもへば同おなじことなる、世よの常つねなさなり。われは浮うかばず、玉たまの台うてなに静しづけき身みと、思おもふべき世よかは」と思おもひ続つづけらる。

 硯すずり召めして、あなたに聞きこえたまふ。

「橋姫はしひめの心こころを汲くみて高たか瀬せさす棹さをのしづくに袖そでぞ濡ぬれぬる

眺ながめたまふらむかし」

 とて、宿直人とのゐびとに持もたせたまへり。いと寒さむげに、いららぎたる顔かほして持もて参まゐる。御返おほんかへり、紙かみの香かなど、おぼろけならむ恥はづかしげなるを、疾ときをこそかかる折をりには、とて、

「さしかへる宇治うぢの河長かはをさ朝夕あさゆふのしづくや袖そでを朽くたし果はつらむ

身みさへ浮うきて」

 と、いとをかしげに書かきたまへり。「まほにめやすくもものしたまひけり」と、心こころとまりぬれど、

「御車みくるま率ゐて参まゐりぬ」

 と、人ひとびと騒さわがしきこゆれば、宿直人とのゐびとばかりを召めし寄よせて、

「帰かへりわたらせたまはむほどに、かならず参まゐるべし」

 などのたまふ。濡ぬれたる御衣おほんぞどもは、皆みなこの人ひとに脱ぬぎかけたまひて、取とりに遣つかはしつる御直衣おほんなほしにたてまつりかへつ。

老い人の物語、心にかかりて

 老おい人ひとの物語ものがたり、心こころにかかりて思おぼし出いでらる。思おもひしよりは、こよなくまさりて、をかしかりつる御おほんけはひども、面影おもかげに添そひて、「なほ、思おもひ離はなれがたき世よなりけり」と、心こころ弱よわく思おもひ知しらる。

 御文おほんふみたてまつりたまふ。懸想けさうだちてもあらず、白しろき色紙しきしの厚肥あつごえたるに、筆ふでひきつくろひ選えりて、墨すみつき見所みどころありて書かきたまふ。

「うちつけなるさまにやと、あいなくとどめはべりて、残のこり多おほかるも苦くるしきわざになむ。片端かたはし聞きこえおきつるやうに、今いまよりは、御簾みすの前まへも、心こころやすく思おぼし許ゆるすべくなむ。御山籠みやまごもり果はてはべらむ日数ひかずも承うけたまはりおきて、いぶせかりし霧きりの迷まよひも、はるけはべらむ」

 などぞ、いとすくよかに書かきたまへる。左近将監さこんのぞうなる人ひと、御使おほんつかひにて、

「かの老おい人ひと訪たづねて、文ふみも取とらせよ」

 とのたまふ。宿直人とのゐびとが寒さむげにてさまよひしなど、あはれに思おぼしやりて、大おほきなる桧破籠ひわりごやうのもの、あまたせさせたまふ。

 またの日ひ、かの御寺みてらにもたてまつりたまふ。「山籠やまごもりの僧そうども、このころの嵐あらしには、いと心細こころぼそく苦くるしからむを、さておはしますほどの布施ふせ、賜たまふべからむ」と思おぼしやりて、絹きぬ、綿わたなど多おほかりけり。

 御行おほんおこなひ果はてて、出いでたまふ朝あさなりければ、行おこなひ人ひとどもに、綿わた、絹きぬ、袈裟けさ、衣きぬなど、すべて一領ひとくだりのほどづつ、ある限かぎりの大徳だいとこたちに賜たまふ。

 宿直人とのゐびとが、御脱おほんぬぎ捨すての、艶えんにいみじき狩かりの御衣おほんぞども、えならぬ白しろき綾あやの御衣おほんぞの、なよなよといひ知しらず匂にほへるを、移うつし着きて、身みをはた、え変かへぬものなれば、似につかはしからぬ袖そでの香かを、人ひとごとにとがめられ、めでらるるなむ、なかなか所狭ところせかりける。

 心こころにまかせて、身みをやすくも振ふる舞まはれず、いとむくつけきまで、人ひとのおどろく匂にほひを、失うひてばやと思おもへど、所狭ところせき人ひとの御移おほんうつり香かにて、えもすすぎ捨すてぬぞ、あまりなるや。

君は、姫君の御返りこと

 君きみは、姫君ひめぎみの御返おほんかへりこと、いとめやすく子こめかしきを、をかしく見みたまふ。宮みやにも、「かく御消息おほんせうそこありき」など、人ひとびと聞きこえさせ、御覧ごらんぜさすれば、

「何なにかは。懸想けさうだちてもてないたまはむも、なかなかうたてあらむ。例れいの若人わかうどに似にぬ御心みこころばへなめるを、亡なからむ後のちもなど、一言ひとことうちほのめかしてしかば、さやうにて、心こころぞとめたらむ」

 などのたまうけり。御おほんみづからも、さまざまの御おほんとぶらひの、山やまの岩屋いはやにあまりしことなどのたまへるに、参まうでむと思おぼして、「三さんの宮みやの、かやうに奥おくまりたらむあたりの、見みまさりせむこそ、をかしかるべけれと、あらましごとにだにのたまふものを、聞きこえはげまして、御心みこころ騒さわがしたてまつらむ」と思おぼして、のどやかなる夕暮ゆふぐれに参まゐりたまへり。

 例れいの、さまざまなる御物語おほんものがたり、聞きこえ交かはしたまふついでに、宇治うぢの宮みやの御おほんこと語かたり出いでて、見みし暁あかつきのありさまなど、詳くはしく聞きこえたまふに、宮みや、いと切せちにをかしと思おもいたり。

 さればよと、御みけしきを見みて、いとど御心みこころ動うごきぬべく言いひ続つづけたまふ。

「さて、そのありけむ返かへりことは、などか見みせたまはざりし。まろならましかば」と恨うらみたまふ。

「さかし。いとさまざま御覧ごらんずべかめる端はしをだに、見みせさせたまはぬ。かのわたりは、かくいとも埋うづれたる身みに、ひき籠こめてやむべきけはひにもはべらねば、かならず御覧ごらんぜさせばや、と思おもひたまふれど、いかでか尋たづね寄よらせたまふべき。かやすきほどこそ、好すかまほしくは、いとよく好すきぬべき世よにはべりけれ。うち隠かくろへつつ多おほかめるかな。

さるかたに見所みどころありぬべき女をんなの、もの思おもはしき、うち忍しのびたる住すみ処かども、山里やまざとめいたる隈くまなどに、おのづからはべべかめり。この聞きこえさするわたりは、いと世よづかぬ聖ひじりざまにて、こちごちしうぞあらむ、年としごろ、思おもひあなづりはべりて、耳みみをだにこそ、とどめはべらざりけれ。

ほのかなりし月影つきかげの見み劣おとりせずは、まほならむはや。けはひありさま、はた、さばかりならむをぞ、あらまほしきほどとは、おぼえはべるべき」

 など聞きこえたまふ。

 果はて果はては、まめだちていとねたく、「おぼろけの人ひとに心こころ移うつるまじき人ひとの、かく深ふかく思おぼへるを、おろかならじ」と、ゆかしう思おもすこと、限かぎりなくなりたまひぬ。

「なほ、またまた、よくけしき見みたまへ」

 と、人ひとを勧すすめたまひて、限かぎりある御身おほんみのほどのよだけさを、厭いとはしきまで、心こころもとなしと思おぼしたれば、をかしくて、

「いでや、よしなくぞはべる。しばし、世よの中なかに心こころとどめじと思おもうたまふるやうある身みにて、なほざりごともつつましうはべるを、心こころながらかなはぬ心こころつきそめなば、おほきに思おもひに違たがふべきことなむ、はべるべき」

 と聞きこえたまへば、

「いで、あな、ことことし。例れいの、おどろおどろしき聖言葉ひじりことば、見果みはててしがな」

 とて笑ゑひたまふ。心こころのうちには、かの古人ふるびとのほのめかしし筋すぢなどの、いとどうちおどろかれて、ものあはれなるに、をかしと見みることも、めやすしと聞きくあたりも、何なにばかり心こころにもとまらざりけり。

十月になりて、五、六日のほどに

 十月じふがつになりて、五ご、六日ろくにちのほどに、宇治うぢへ参まうでたまふ。

「網代あじろをこそ、このころは御覧ごらんぜめ」と、聞きこゆる人ひとびとあれど、

「何なにか、その蜉蝣ひをむしに争あらそふ心こころにて、網代あじろにも寄よらむ」

 と、そぎ捨すてたまひて、例れいの、いと忍しのびやかにて出いで立たちたまふ。軽かろらかに網代車あじろぐるまにて、かとりの直衣なほし指貫さしぬき縫ぬはせて、ことさらび着きたまへり。

 宮みや、待まち喜よろこびたまひて、所ところにつけたる御饗応おほんあるじなど、をかしうしなしたまふ。暮くれぬれば、大殿油おほとなぶら近ちかくて、さきざき見みさしたまへる文ふみどもの深ふかきなど、阿闍梨あざりも請さうじおろして、義ぎなど言いはせたまふ。

 うちもまどろまず、川風かはかぜのいと荒あらましきに、木きの葉はの散ちりかふ音ね、水みづの響ひびきなど、あはれも過すぎて、もの恐おそろしく心細こころぼそき所ところのさまなり。

 明あけ方かた近ちかくなりぬらむと思おもふほどに、ありししののめ思おもひ出いでられて、琴ことの音ねのあはれなることのついで作つくり出いでて、

「さきのたびの、霧きりに惑まどはされはべりし曙あけぼのに、いとめづらしき物ものの音ね、一声ひとこゑ承うけたまはりし残のこりなむ、なかなかにいといぶかしう、飽あかず思おもうたまへらるる」など聞きこえたまふ。

「色いろをも香かをも思おもひ捨すててし後のち、昔むかし聞ききしことも皆みな忘わすれてなむ」

 とのたまへど、人ひと召めして、琴こと取とり寄よせて、

「いとつきなくなりにたりや。しるべする物ものの音ねにつけてなむ、思おもひ出いでらるべかりける」

 とて、琵琶びは召めして、客人まらうとにそそのかしたまふ。取とりて調しらべたまふ。

「さらに、ほのかに聞ききはべりし同おなじものとも思おもうたまへられざりけり。御琴おほんことの響ひびきからにやとこそ、思おもうたまへしか」

 とて、心こころ解とけても掻かきたてたまはず。

「いで、あな、さがなや。しか御耳おほんみみとまるばかりの手てなどは、何処いづこよりかここまでは伝つたはり来こむ。あるまじき御おほんことなり」

 とて、琴きん掻かきならしたまへる、いとあはれに心こころすごし。かたへは、峰みねの松風まつかぜのもてはやすなるべし。いとたどたどしげにおぼめきたまひて、心こころばへあり。手て一ひとつばかりにてやめたまひつ。

このわたりに、おぼえなくて

「このわたりに、おぼえなくて、折々をりをりほのめく箏さうの琴ことの音ねこそ、心得こころえたるにや、と聞きく折をりはべれど、心こころとどめてなどもあらで、久ひさしうなりにけりや。心こころにまかせて、おのおの掻かきならすべかめるは、川波かはなみばかりや、打うち合あはすらむ。論ろんなう、物ものの用もちにすばかりの拍子ひゃうしなども、とまらじとなむ、おぼえはべる」とて、「掻かき鳴ならしたまへ」

 と、あなたに聞きこえたまへど、「思おもひ寄よらざりし独ひとり言いを、聞ききたまひけむだにあるものを、いとかたはならむ」とひき入いりつつ、皆みな聞ききたまはず。たびたびそそのかしたまへど、とかく聞きこえすさびて、やみたまひぬめれば、いと口惜くちをしうおぼゆ。

 そのついでにも、かくあやしう、世よづかぬ思おもひやりにて過すぐすありさまどもの、思おもひのほかなることなど、恥はづかしう思おもいたり。

「人ひとにだにいかで知しらせじと、はぐくみ過すぐせど、今日けふ明日あすとも知しらぬ身みの残のこり少すくなさに、さすがに、行ゆく末すゑ遠とほき人ひとは、落おちあふれてさすらへむこと、これのみこそ、げに、世よを離はなれむ際きはのほだしなりけれ」

 と、うち語かたらひたまへば、心苦こころぐるしう見みたてまつりたまふ。

「わざとの御後見おほんうしろみだち、はかばかしき筋すぢにははべらずとも、うとうとしからず思おぼしめされむとなむ思おもうたまふる。しばしもながらへはべらむ命いのちのほどは、一言ひとことも、かくうち出いで聞きこえさせてむさまを、違たがへはべるまじくなむ」

 など申まうしたまへば、「いとうれしきこと」と、思おぼしのたまふ。

さて、暁方の、宮の御行ひ

 さて、暁方あかつきがたの、宮みやの御行おほんおこなひしたまふほどに、かの老おい人ひと召めし出いでて、会あひたまへり。

 姫君ひめぎみの御後見おほんうしろみにてさぶらはせたまふ、弁べんの君きみとぞいひける。年としも六ろく十じふにすこし足たらぬほどなれど、みやびかにゆゑあるけはひして、ものなど聞きこゆ。

 故こ権大納言ごんのだいなごんの君きみの、世よとともにものを思おもひつつ、病やまひづき、はかなくなりたまひにしありさまを、聞きこえ出いでて、泣なくこと限かぎりなし。

「げに、よその人ひとの上うへと聞きかむだに、あはれなるべき古事ふるごとどもを、まして、年としごろおぼつかなく、ゆかしう、いかなりけむことの初はじめにかと、仏ほとけにも、このことをさだかに知しらせたまへと、念ねんじつる験げんにや、かく夢ゆめのやうにあはれなる昔語むかしがたりを、おぼえぬついでに聞ききつけつらむ」と思おぼすに、涙なみだとどめがたかりけり。

「さても、かく、その世よの心こころ知しりたる人ひとも残のこりたまへりけるを。めづらかにも恥はづかしうもおぼゆることの筋すぢに、なほ、かく言いひ伝つたふるたぐひや、またもあらむ。年としごろ、かけても聞きき及およばざりける」とのたまへば、

「小侍従こじじうと弁べんと放はなちて、また知しる人ひとはべらじ。一言ひとことにても、また異人ことびとにうちまねびはべらず。かくものはかなく、数かずならぬ身みのほどにはべれど、夜昼よるひるかの御影おほんかげに、つきたてまつりてはべりしかば、おのづからもののけしきをも見みたてまつりそめしに、御心みこころよりあまりて思おぼしける時々ときどき、ただ二人ふたりの中なかになむ、たまさかの御消息おほんせうそこの通かよひもはべりし。かたはらいたければ、詳くはしく聞きこえさせず。

今いまはのとぢめになりたまひて、いささかのたまひ置おくことのはべりしを、かかる身みには、置おき所どころなく、いぶせく思おもうたまへわたりつつ、いかにしてかは聞きこしめし伝つたふべきと、はかばかしからぬ念誦ねんずのついでにも、思おもうたまへつるを、仏ほとけは世よにおはしましけり、となむ思おもうたまへ知しりぬる。

御覧ごらんぜさすべき物ものもはべり。今いまは、何なにかは、焼やきも捨すてはべりなむ。かく朝夕あさゆふの消きえを知しらぬ身みの、うち捨すてはべりなば、落おち散ちるやうもこそと、いとうしろめたく思おもうたまふれど、この宮みやわたりにも、時々ときどき、ほのめかせたまふを、待まち出いでたてまつりてしは、すこし頼たのもしく、かかる折をりもやと、念ねんじはべりつる力ちから出いでまうで来きてなむ。さらに、これは、この世よのことにもはべらじ」

 と、泣なく泣なく、こまかに、生むまれたまひけるほどのことも、よくおぼえつつ聞きこゆ。

空しうなりたまひし騷ぎに

「空そらしうなりたまひし騷さわぎに、母ははにはべりし人ひとは、やがて病やまひづきて、ほども経へず隠かくれはべりにしかば、いとど思おもうたまへしづみ、藤衣ふぢごろもたち重かさね、悲かなしきことを思おもうたまへしほどに、年としごろ、よからぬ人ひとの心こころをつけたりけるが、人ひとをはかりごちて、西にしの海うみの果はてまで取とりもてまかりにしかば、京きゃうのことさへ跡あと絶たえて、その人ひともかしこにて亡うせはべりにし後のち、十年とをとせあまりにてなむ、あらぬ世よの心地ここちして、まかり上のぼりたりしを、この宮みやは、父方ちちかたにつけて、童わらはより参まゐり通かよふゆゑはべりしかば、今いまはかう世よに交まじらふべきさまにもはべらぬを、冷泉院れいぜいゐんの女御殿にょうごどのの御方おほんかたなどこそは、昔むかし、聞きき馴なれたてまつりしわたりにて、参まゐり寄よるべくはべりしかど、はしたなくおぼえはべりて、えさし出いではべらで、深ふか山やま隠かくれの朽く木きになりにてはべるなり。

小侍従こじじうは、いつか亡うせはべりにけむ。そのかみの、若わか盛さかりと見みはべりし人ひとは、数かず少すくなくなりはべりにける末すゑの世よに、多おほくの人ひとに後おくるる命いのちを、悲かなしく思おもひたまへてこそ、さすがにめぐらひはべれ」

 など聞きこゆるほどに、例れいの、明あけ果はてぬ。

「よし、さらば、この昔物語むかしものがたりは尽つきすべくなむあらぬ。また、人ひと聞きかぬ心こころやすき所ところにて聞きこえむ。侍従じじうといひし人ひとは、ほのかにおぼゆるは、五いつつ、六むつばかりなりしほどにや、にはかに胸むねを病やまひみて亡うせにきとなむ聞きく。かかる対面たいめんなくは、罪つみ重おもき身みにて過すぎぬべかりけること」などのたまふ。

ささやかにおし巻き合はせたる反故

 ささやかにおし巻まき合あはせたる反故ほぐどもの、黴臭かびくさきを袋ふくろに縫ぬひ入いれたる、取とり出いでてたてまつる。

「御前おまへにて失うはせたまへ。われ、なほ生いくべくもあらずなりにたりとのたまはせて、この御文おほんふみを取とり集つどめて、賜たまはせたりしかば、小侍従こじじうに、またあひ見みはべらむついでに、さだかに伝つたへ参まゐらせむ、と思おもうたまへしを、やがて別わかれはべりにしも、私事わたくしごとには、飽あかず悲かなしうなむ、思おもうたまふる」

 と聞きこゆ。つれなくて、これは隠かくいたまひつ。

「かやうの古人ふるびとは、問とはず語かたりにや、あやしきことの例れいに言いひ出いづらむ」と苦くるしく思おぼせど、「かへすがへすも、散ちらさぬよしを誓ちかひつる、さもや」と、また思おもひ乱みだれたまふ。

 御粥おほんかゆ、強飯こはいひなど参まゐりたまふ。「昨日きのふは、暇日いとまびなりしを、今日けふは、内裏うちの御物忌おほんものいみも明あきぬらむ。院ゐんの女一をんないちの宮みや、悩なやみたまふ御おほんとぶらひに、かならず参まゐるべければ、かたがた暇いとまなくはべるを、またこのころ過すぐして、山やまの紅葉もみぢ散ちらぬさきに参まゐるべき」よし、聞きこえたまふ。

「かく、しばしば立たち寄よらせたまふ光ひかりに、山やまの蔭かげも、すこしもの明あらむる心地ここちしてなむ」

 など、よろこび聞きこえたまふ。

帰りたまひて、まづこの袋を

 帰かへりたまひて、まづこの袋ふくろを見みたまへば、唐からの浮線綾ふせんりゃうを縫ぬひて、「上じゃう」といふ文字もじを上うへに書かきたり。細ほそき組くみして、口くちの方かたを結ゆひたるに、かの御名おほんなの封ふうつきたり。開あくるも恐おそろしうおぼえたまふ。

 色々いろいろの紙かみにて、たまさかに通かよひける御文おほんふみの返かへりこと、五いつつ、六むつぞある。さては、かの御手おほんてにて、病やまひは重おもく限かぎりになりにたるに、またほのかにも聞きこえむこと難かたくなりぬるを、ゆかしう思おもふことは添そひにたり、御容貌おほんかたちも変かりておはしますらむが、さまざま悲かなしきことを、陸奥紙みちのくにがみ五ご、六枚ろくまいに、つぶつぶと、あやしき鳥とりの跡あとのやうに書かきて、

「目めの前まへにこの世よを背そむく君きみよりもよそに別わかるる魂たましひぞ悲かなしき」

 また、端はしに、

「めづらしく聞ききはべる二葉ふたばのほども、うしろめたう思おもうたまふる方かたはなけれど、

命いのちあらばそれとも見みまし人ひと知しれぬ岩根いはねにとめし松まつの生おひ末すゑ」

 書かきさしたるやうに、いと乱みだりがはしうて、「小侍従こじじうの君きみに」と上うへには書かきつけたり。

 紙魚しみといふ虫むしの棲すみ処かになりて、古ふるめきたる黴臭かびくささながら、跡あとは消きえず、ただ今いま書かきたらむにも違たがはぬ言いの葉はどもの、こまごまとさだかなるを見みたまふに、「げに、落おち散ちりたらましよ」と、うしろめたう、いとほしきことどもなり。

「かかること、世よにまたあらむや」と、心こころ一ひとつにいとどもの思おもはしさ添そひて、内裏うちへ参まゐらむと思おぼしつるも、出いで立たたれず。宮みやの御前おまへに参まゐりたまへれば、いと何心なにごころもなく、若わかやかなるさましたまひて、経きゃう読よみたまふを、恥はぢらひて、もて隠かくしたまへり。「何なにかは、知しりにけりとも、知しられたてまつらむ」など、心こころに籠こめて、よろづに思おもひゐたまへり。

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