
このページでは、『源氏物語』第23帖「初音」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第23帖「初音」原文全文をご覧ください。
新しい年を迎えた六条院
年が改まった元日の朝、空には昨日までの名残など少しもなく、雲ひとつないうららかな光が満ちていた。身分の低い人の家の垣根の内でさえ、雪の間からのぞく草が若々しく色づきはじめ、もう春を待ちきれないように霞が立ち、木の芽もほのかに煙るように萌え出している。そんな景色を見れば、人の心まで自然とのびやかになるものだ。まして、玉を敷きつめたように美しい六条院では、庭をはじめ、どこを見ても目を楽しませるものばかり。そのうえ、新年を迎えていっそう美しく装った女君たちの姿となれば、どれほど言葉を尽くしても、とても語りきれるものではない。
なかでも春の御殿の前庭は格別だった。梅の香りが、御簾の内から漂ってくる薫物の香りと入り混じって吹いてきて、まるで生きながら仏の国にいるように思われる。紫の上は、それほど華やかな場所でありながら、気負うこともなく、ゆったりと落ち着いて暮らしていた。仕えている女房たちも、若くてとりわけ優れた者は姫君のほうへと選んでつけてあるので、こちらに残ったのは少し年長の者たちが中心だったが、それがかえって一人一人に風情があり、装束から立ち居振る舞いまで感じよく整っている。あちらこちらに集まって、歯固めの祝いをし、鏡餅まで取り交ぜながら、千年の寿命にあやかろうと新年の祝いをして、みんなでふざけ合っていた。
そこへ源氏がふと顔をのぞかせたものだから、女房たちは慌てて懐に入れていた手を直しながら、「まあ、なんてきまりが悪いことでしょう」と、口々に困っている。
源氏は笑って、「ずいぶん熱心に、自分たちのための祝いをしているんだね。みんなそれぞれ、願っていることがあるんだろう。少しくらい私にも聞かせておくれ。私からも祝ってあげよう」と言った。その美しい姿を、新しい年の初めのめでたい眺めとして女房たちは仰ぎ見る。なかでも、自分こそはと少し自負のある中将の君が、「先のことまでちゃんと見えますね、などと、鏡に映った自分の顔と話していただけでございますよ。私どもの個人的な願いなど、たいしたものがございましょうか」と答えた。
朝のうちは年賀の人々が大勢入り乱れて、ひどく騒がしかったが、夕方になると、今度は女君たちが集まることになっていたので、それぞれがひときわ心を配って身なりを整え、化粧をした。その姿は、なるほど見る甲斐のあるものだった。
源氏は、「今朝、女房たちがふざけ合って祝いをしているのが、ずいぶん羨ましく見えたからね。あなたには私が見せてあげよう」と、少し戯れめいた言葉も交えながら、紫の上に新年の祝いを述べる。
薄氷解けぬる池の鏡には世に曇りなき影ぞ並べる
薄氷の解けた鏡のような池には、この世に曇るところのない、私たち二人の姿が並んで映っています。
まったく、これ以上ないほど美しく似合ったお二人だった。紫の上も返す。
曇りなき池の鏡によろづ代をすむべき影ぞしるく見えける
曇りひとつない池の鏡には、これから幾千代も、ともに澄み、ともに住んでゆく私たちの姿が、はっきりと映っているのですね。
何につけても、これから先いつまでも続いてほしい二人の契りを願いながら、めでたい言葉を交わす。その日はちょうど子の日でもあった。千年の春にまで思いをかけて祝うには、まことにふさわしい日だったのである。
明石の姫君に届いた鴬の「初音」
源氏が姫君の部屋へ行くと、童女や下仕えの女たちが、庭の築山に生えている小松を引いて遊んでいた。若い者たちはみな、嬉しさを抑えていられないように浮き立っている。北の御殿に住む明石の御方からは、いかにも心をこめて用意したらしい鬚籠や破籠などが、姫君のもとへ贈られていた。見事な五葉の松の枝へ飛び移る鴬まで、まるで人の心を知っているように見える。
年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ
幾年も、松のようにあなたを待ち続けて暮らしてきたこの母に、今日こそ鴬の初音のような、あなたからの便りを聞かせてください。
「音のしない里にいる者へ――」という思いを添えて明石の御方が贈ってきたのを見て、源氏も、なるほどこれは切ない、と胸にしみて感じた。新年には縁起でもない言葉を口にしないよう慎むものなのに、明石の御方も、さすがに思いを抑えきれなかったのだろう。
「このお返事は、あなた自身がお書きなさい。初音を惜しんで聞かせないような相手ではないのだから」と、源氏は自分で硯を用意し、姫君に書かせた。ほんとうにかわいらしい姫君で、朝夕いつも見ている人でさえ飽きることがないほどなのに、生みの母にはこれまでずっと、会うこともままならない年月を過ごさせてしまった。そのことを思うと、源氏も、ひどく罪作りなことをしているようで気の毒に思われる。
ひき別れ年は経れども鴬の巣立ちし松の根を忘れめや
離れてから何年たっても、鴬が自分の巣立った松の根を忘れないように、私も生みの母君を忘れることなどありません。
まだ幼い心のままに、思っていることをそのまま細やかに書いた返事だった。
花散里と玉鬘を訪ねる
続いて夏の御殿へ行ってみると、今は季節外れだからなのだろう、あたりはとても静かだった。ことさらに風流を凝らしているところもないが、どこを見ても上品で、落ち着いて暮らしている気配が漂っている。
花散里とは、年月が重なるほどに心の隔てもなくなり、しみじみと親しい仲になっていた。今ではもう、無理に男女の親しさを求めるようなこともない。世にも珍しいほど睦まじい、夫婦とも兄妹ともつかない深い信頼を、お互いに交わしているだけだった。御几帳が間に立ててあっても、源氏が少し押しやれば、花散里はそのまま落ち着いて座っている。
源氏はその姿を見ながら思う。縹色の衣は、やはりあまり華やかな色合いではないし、髪もずいぶん盛りを過ぎてしまった。上品なやり方とは言えないけれど、添え髪でもして整えたほうがよいのかもしれない。自分以外の男なら、きっと見て興ざめするような姿なのだろう。それでも、こうして気兼ねなくその姿を見ていられることが、自分にはかえって嬉しく、望んでいたとおりなのだ。もしこの人まで浮ついた女で、自分に背を向けるような人だったなら――。
こうして顔を合わせるたびに、源氏はまず、自分が長いあいだ変わらず思い続けてきたことも、花散里の心が落ち着いて変わらなかったことも、どちらも嬉しく、自分の願ったとおりになったものだと思うのだった。二人で過ぎた年のことなどをしみじみと、親しく語り合ってから、源氏は西の対へ向かった。
玉鬘はここへ来てまだそれほど長くないが、住みはじめたころに比べると、もうすっかりあたりを感じよく整えていた。美しい童女たちも艶やかな姿をしていて、人の出入りも多い。部屋のしつらえは必要なものがひととおり揃っているものの、細かな調度まではそれほど念を入れて整えていない。けれど、それがかえってすっきりと清らかな住まいに見える。
玉鬘本人も、一目見ただけで「ああ、美しい」と思わず目を引かれるほどだった。山吹色の衣がその美しさをいっそう引き立て、顔立ちはひどく華やかで、ここだけは曇っている、と思えるような欠点がどこにもない。隅々まで光り輝くようで、いつまでも見ていたくなる姿だった。長く物思いに沈んでいたせいだろうか、髪の裾が少し細くなり、さらりとかかっているのも、かえってすっきりと美しい。どこを見てもくっきりと際立っている。その姿を見るにつけ、もしこうして自分のそばで見ることがなかったなら、と考えると、源氏にはやはり知らぬ顔で通り過ぎることなどできそうもなかった。
これほど隔てなく顔を見ることにも慣れてきたというのに、考えれば考えるほど、二人の間には越えられない隔たりがいくつもある。その不思議さに、源氏自身、現実のこととも思えない。だからこそ、あえてすべてを打ち明けるようには振る舞わず、一線を残して接している。その微妙な距離も、なんとも趣深かった。
源氏は、「もう何年も一緒に暮らしてきたような気がして、こうしてあなたを見るのにもすっかり気が楽になった。ようやく願いがかなった気持ちだよ。もうそんなに遠慮せず、あちらの御殿などへも遊びに行きなさい。まだ幼くて、琴を習いはじめたばかりの人もいるようだから、一緒に聞いて耳を慣らすといい。あそこには、気にかかるような軽はずみな心の者は誰もいないから」と話す。
玉鬘は、「おっしゃるとおりにいたします」と素直に答えた。まったく、それが自然なことだった。
明石の御方のもとで過ごした新年の夜
夕暮れが近くなると、源氏は明石の御方のところへ行った。近くの渡殿の戸を押し開けた途端、御簾の中から風に乗って漂ってくる香りが、しっとりと艶めかしくあたりを満たした。何もかもがほかとは違って、ひときわ気高いように思われる。
当の明石の御方は姿を見せない。「どこにいるのだろう」と源氏があたりを見回すと、硯のまわりには草子などが賑やかに取り散らしてある。源氏はそれを一つ一つ手に取って眺めた。中国の東京錦を使った立派な縁取りのある敷物の上には、美しい琴が置かれている。風情のある火桶には「侍従」の香をくゆらせ、調度の一つ一つにまで香りが染みているところへ、衣被香の香りも入り混じり、なんとも艶やかだった。
書き散らした手習いの紙まで、筆筋にはほかの人とは違う味わいがある。大げさに草書ばかりを走らせて気取るような書き方ではなく、ほどよく整えて、すっきりと書いてあった。
明石の御方は、姫君から届いた小松の返事があまりにも珍しく嬉しかったのだろう。その歌を書き留めたそばに、昔の心にしみる歌の数々まで書き交ぜている。
めづらしや花のねぐらに木づたひて谷の古巣を訪へる鴬
なんと珍しく嬉しいことでしょう。花の咲く美しいねぐらから枝を伝って、鴬が谷間の古い巣を訪ねてきてくれるなんて。
そのほかにも、「声を待ちに待ってようやく聞いた」といった古歌の句や、「咲ける岡辺に家しあれば」などという歌まで、繰り返し自分を慰めるような言葉を書き混ぜてある。源氏がそれを手に取って読みながら微笑んでいる姿は、見ているほうが気後れするほど美しく立派だった。
源氏が筆先を濡らし、気ままに何か書いているうちに、明石の御方が膝を進めて姿を現した。さすがに自分自身の振る舞いにはきちんとした慎みがあり、控えめながら、どこにも見苦しいところがない。源氏は、やはりこの人はほかの人とは違う、と感じる。
白い衣に、はっきりと黒い髪がかかっている。その髪も、少しさらりとして薄くなってきたところが、かえってしっとりした美しさを添えていた。親しみ深く、心を引かれる姿である。新しい年の初めから何かと騒ぎになるのでは、と源氏も少し遠慮はしたものの、その夜はこちらに泊まった。それを知ったほかの女君たちは、やはり明石の御方は格別なのだ、とそれぞれ心穏やかならず思う。
南の御殿では、なおさら面白く思わない人々がいる。源氏はまだ夜の明けきらない、曙のころに戻ってきた。こんなに夜深いうちに帰らなくてもよさそうなものなのにと思えば、別れてきた名残もひとかたならず、明石の御方のことがしみじみと胸に残る。
一方、待っていた紫の上は、少し気に入らないと思っているらしい。その胸の内を源氏にも見抜かれてしまったので、「どういうわけか、ついうたた寝をしてしまってね。若い者みたいにぐっすり眠り込んでしまったのに、あなたもわざわざ起こしてくれなかったじゃないか」と、さりげなく機嫌を取ろうとする。その様子もどこかおかしい。紫の上がこれといった返事をしてくれないので、源氏も気詰まりになり、そのまま寝たふりをして、日が高くなるまで起きなかった。
臨時客でにぎわう六条院
この日は臨時客の行事にかまけて、源氏も紫の上に対する気まずさをごまかしていた。公卿や親王たちなど、いつものように一人残らずというほど大勢が参集する。管弦の遊びもあり、引出物や禄の豪華さも比べるものがなかった。
これほど多くの高貴な人々が集まり、それぞれ自分も人には劣るまいと立派に振る舞っているというのに、その中で源氏に少しでも並んで見える人すらいない。個々に離して見れば、学識にも芸にも優れた人が大勢いる時代なのだが、源氏の前へ出るとなぜかみな気圧されてしまう。それも気の毒なくらいだった。たいした身分でもない下仕えの者でさえ、この院へ参上する日には普段とは違って身なりに気を配る。まして若い公卿たちなどは、胸に思うところでもあるのか、なんとなく浮き立った気持ちで念入りに身支度をしており、いつもの年よりひときわ華やかだった。
花の香りを誘う夕風がのどかに吹き、庭先の梅も次々とほころびはじめる。人の顔も見分けにくくなる薄暮のころ、楽の音がいっそう美しく響き、「この殿」を歌い出す拍子も実に華やかだった。源氏も時折そこへ声を添える。「さき草」の終わり近くなど、その声はことのほか優しく美しく聞こえた。何をするにしても、源氏が加われば、その光に照らし出されるように、色なら色が、音なら音が、いっそう冴えて感じられる。その違いは、はっきりとわかるほどだった。
二条東院の末摘花と空蝉
こうして大勢の馬や車が行き交い、華やかな音を立てているのを、御簾や建物に隔てられた場所から聞いている女君たちは、極楽の蓮の中に生まれながら、まだ花が開かず、外へ出られない人の心とはこんなものだろうか、とでもいうように、もどかしく感じていた。
まして、二条東院に離れて暮らしている女君たちは、年月がたつにつれて、ただ退屈で寂しい日ばかりが増えていく。それでも、ここを「世の憂いを見ることのない山路」のようなものだと思ってしまえば、自分たちに冷淡な源氏の心を、いまさらどうして責められよう。それ以外には、不安で心細いことがあるわけでもない。仏道修行をしたい人は何にも煩わされず修行に打ち込み、仮名で書かれたさまざまな草子を学びたい人は思うままにそれを読み、日々の暮らしにも不自由のないよう取り計らわれている。つまり、それぞれが自分の望むように暮らせる住まいなのだった。正月の騒がしい数日が過ぎたころ、源氏はこちらにもやって来た。
常陸宮の姫君――末摘花については、もともとの身分が高いこともあり、源氏も気の毒に思って、人から見えるところだけはきちんと立派に取り扱っていた。昔、若いころには唯一の見どころとも思われた豊かな髪も、年月とともに衰えている。まして横顔まで見てしまうと、なおさら気の毒になるので、源氏はまともに正面から顔を合わせようとはしなかった。
柳の色の装束は、なるほど確かにぱっとしないものだと思われる。それも結局は、着ている本人のせいなのだろう。艶もなく黒ずんだ掻練を、糊が利いてさやさや音がしそうなほど張らせたものを一襲だけ重ね、その上に例の織物の袿を着ている。その姿はいかにも寒そうで、見ているほうまで気の毒になってくる。中に重ねる衣などを、いったいどうしているのだろう。
ただ鼻の色だけは、春霞にまぎれるはずもなく、ひどく鮮やかだった。源氏は思わずため息をつき、わざわざ御几帳を引き直して間を隔てる。ところが末摘花自身は、それほど気にした様子もない。今では、これほど長い年月変わらず面倒を見てくれる源氏の心を、安心して頼れるものと思い、すっかり気を許している。その様子には、どこかしみじみとしたものがあった。
こうした暮らし向きのことにかけても、末摘花は普通の人とは違って、あまりにも不器用で、かわいそうになるような人だった。それだけに源氏も、「せめて自分だけはこの人を見捨てないでおこう」と心にかけている。その心の長さは、まったく珍しいものだった。末摘花は寒さのためか、声まで震わせながら話している。源氏はとうとう見かねて言った。
「衣類のことなど、きちんとお世話してくれる人はいないのですか。こんなふうに気楽に暮らせる住まいでは、衣も糊気を抜いて、ふっくらと柔らかく着るほうがいい。表面だけ何とか取り繕ったような装いでは、かえってよくありませんよ」
末摘花は、さすがに少しばつが悪かったのか、ぎこちなく笑いながら、「醍醐の阿闍梨の君が私のことを取り仕切ってくれているのですが、衣などもなかなか縫えませんで。それに皮衣まで持っていかれてしまってから、寒くてなりません」と答えた。どうやらその兄は、寒さで鼻を真っ赤にしているような人らしい。末摘花は素直で悪気のない人ではあるけれど、いくらなんでも気を許しすぎている、と源氏は思う。ただし、こういう場では、源氏もいたって真面目で堅苦しいくらいの人として振る舞っている。
「皮衣なら、それでいいでしょう。山伏の蓑代わりに、お兄上へ差し上げてしまえばよろしい。けれど、その代わり、こんな頼りない白い衣なら、どうして七枚でも重ねてお召しにならないのです。必要な時には、私がうっかり忘れているようなら、そちらから知らせてください。もともと私もぼんやりして、つい怠けてしまうところがありますし、ましてあちらこちらの方々のことが重なって取り込んでいると、自然と行き届かないこともありますから」
そう言って源氏は、向かいの院にある自分の倉を開けさせ、絹や綾などを末摘花に贈らせた。
東院には、荒れ果てたところこそないものの、主の住んでいない建物にはやはり静かな気配が漂っていた。ただ、庭先の木立だけはとても趣があり、紅梅が咲き出している。その鮮やかな花も香りも、誰ひとり眺めて褒める人がいない。源氏はあたりを見渡して、ひとり口ずさんだ。
ふるさとの春の梢に訪ね来て世の常ならぬ花を見るかな
昔なじみのこの里へ春の梢を訪ねて来てみれば、世間ではちょっと見られない、なんとも珍しい花を目にすることだ。
もちろん「花」には末摘花のことも重ねているのだが、本人にはその意味はわからなかったことだろう。
源氏は空蝉の尼姿のところにも顔をのぞかせた。空蝉は、自分がこの住まいの主人であるというような構えではなく、奥まった一室を小さく自分の庵のようにして、ただ仏だけを正面に据え、ひたすら勤行に励んでいる。その様子はしみじみと胸に迫るものがあった。経や仏前の飾り、ささやかに整えた閼伽の道具などにも、さりげない美しさと風情がある。出家してもなお、心ばえのある人なのだと感じさせる暮らしぶりだった。
趣のある青鈍色の几帳の奥に深く身を隠し、色の違う袖口だけがのぞいている。その様子がかえって懐かしく、源氏は思わず涙ぐんだ。
「松が浦島を遠くから思うばかりで、このまま終わってしまうはずだったのかもしれないね。昔から、どうにも思うようにならない私たちの縁だった。それでもさすがに、こうして今まで続いているほどの親しみまで、すっかり絶えてしまうものではなかったのだね」
空蝉も、しみじみと心を動かされている様子で、「こうした身になった今も、あなたをお頼り申し上げておりますことで、かえって、いただいてきたご厚情が決して浅いものではなかったのだと、身にしみてわかるのでございます」と答える。
源氏は、「昔、何度も私につらい思いをさせ、心を乱させた、その報いのようにこんな身の上になって、今は仏に申し訳なく思っているのかと考えると、かえって心苦しいよ。自分でもわかっているのかな。もっとも、私だって、そんなに素直に引き下がるような男ではなかった、と、思い合わせることくらいはあるだろうと思うのだけれど」と言った。
空蝉は、あの昔の、思い出すのも恥ずかしいような出来事まで源氏は知っているらしい、と顔を上げることもできず、「このような姿になったところまで、あなたに見届けられてしまったこと以上の報いなど、ほかのどこにございましょう」と言って、本当に泣き出してしまった。
昔よりも物事を深くわきまえ、こちらが気恥ずかしくなるほど立派な人になっている。こうまで俗世を離れてしまったのかと思えば思うほど、源氏にはかえって見放しがたく感じられた。けれど、もう軽い戯れ言などを言いかけるわけにはいかない。昔のこと、今のことを取り混ぜて、差し障りのない話をいろいろとしてから、源氏は向こうの末摘花のいる方角を眺めやった。せめてあちらの人にも、これくらい話の通じるところがあればいいのだが――そんな気持ちだった。
この二人ばかりではなく、こうして源氏の庇護のもとで暮らしている人は大勢いた。源氏は一人一人のところへ顔を出して回り、「なかなか来られない日が重なることもあるけれど、心の中では忘れたことはありません。ただ、どうしても避けられないこの世の別れだけが気がかりなのです。人の命はいつまであるかわからないからね」などと、やさしく語りかける。
どの人のことも、その人なりの境遇に応じて、しみじみと気の毒に思い、大切に扱っている。自分は特別な人間なのだといくらでも尊大に振る舞える身分でありながら、源氏はことさらに大げさな態度を取ることもなく、場所に応じ、人に応じて、誰にでもそれぞれ親しみ深く接した。だからこそ、多くの女たちは、ただこの人の心にかけてもらうことだけを頼みに、長い年月を生きてきたのである。
雪の夜明けを彩る男踏歌
その年は男踏歌が行われた。一行は内裏から朱雀院へ参り、その次に六条院へやって来ることになっている。道のりも遠かったので、六条院へ着くころには、もう夜明け近くになっていた。月はいっそう冴えわたって曇りなく、庭には薄雪が少し積もり、言いようもなく美しい。殿上人たちにも芸の達者な者が大勢揃っていた時期なので、笛も見事に吹き立てる。とりわけ六条院の御前では、皆ひときわ気を引き締めていた。
女君たちにも前もって、「踏歌を御覧になるように」と知らせが届いていたので、左と右の対、渡殿などにそれぞれ臨時の席を設けて待っている。
西の対の玉鬘は、寝殿の南側へ渡り、そこにいる明石の姫君と対面した。紫の上も同じ場所にいるので、玉鬘は御几帳だけを間に置いて言葉を交わした。
踏歌の一行が朱雀院の后のお部屋などを巡っているうちにも夜はだんだん明けてきた。本来なら六条院は「水駅」として、もてなしを少し簡略にするところなのだが、源氏は例年の決まり以上に、特別な趣向まで加え、盛大にもてなさせた。
寒々しいほど冴えた暁の月の下で、雪は次第に降り積もっていく。高い松の梢から風が吹き下ろし、普通ならすっかり興ざめしてもよさそうな寒さだった。踏歌の人々が着ている、少しくたびれたような青色の袍と白い重ねの取り合わせにも、特別な飾りなどあるわけではない。それなのに、この場所では不思議と美しく見える。
冠に挿した綿の飾りなど、何の色艶もないものなのに、六条院という場所のせいなのだろうか、ひどく面白く目に映り、眺めているだけで心が晴れ、寿命まで延びるような気がする。
なかでも源氏の殿の中将の君と、内大臣家の君達は、ひときわ目立って姿がよく、華やかだった。
空がほのぼのと明るくなるころ、雪も少し小降りになった。身にしみる寒さの中で、一行が「竹河」を歌い、声を合わせて動いてゆく。その姿と、耳に心地よく響く声々は、絵に描いて残すことさえできそうにない。それが惜しいほどの眺めだった。
見物する女君たちも、一人としてほかに劣らない美しい袖口を御簾の下からこぼれるほどにのぞかせている。その豊かさと、重なり合う衣の色彩は、曙の空の下、春の錦が霞の中から一面に現れ出たかのようだった。なんとも不思議なくらい、見ていて心の満たされる光景である。
とはいうものの、よく考えてみれば、男踏歌の高い巾子をつけた冠など、ずいぶん浮世離れした奇妙な姿である。寿詞も騒がしく、どこか滑稽な内容を、いかにも大層なもののように歌い上げるのだから、音楽そのものにそれほど感心するような拍子があるわけでもない。それなのに、この夜、この場所では、すべてが見事なものとして感じられたのだった。一行は例のように褒美の綿を頭からかぶせてもらい、次の場所へ退出していった。
女楽へ向けて――源氏の「私の後宴」
すっかり夜が明けると、女君たちもそれぞれ自分の御殿へ帰っていった。源氏は少し眠り、日が高くなってから起きた。
「あの中将の声は、弁少将にもほとんど劣らないようだね。まったく、妙に芸の心得のある若者たちが育ってくる時代になったものだ。昔の人たちは、本当に学問や技芸の優れたところでは、今より立派な人も多かったのだろうけれど、風流や情趣を解する方面まで、今の人たちより必ず優れていたとは限らないのかもしれないね」
源氏はそう言いながら、夕霧のことをひどくかわいく思っている。
「中将については、ひたすら真面目で堅実な朝廷人に育てようと思っていたんだ。私自身の、あまりにも遊び好きで見苦しいところからは遠ざけたいと思っていたのだけれど、それでも心の奥には、ほんのりと風流を好む気質を持っているらしい。表には出さず、落ち着いた真面目な顔ばかりしているのは、むしろ少し堅苦しすぎるくらいだ」
そう話したあとも、「万春楽、万春楽」と口ずさんでいたが、ふと思いついたように、「ちょうど皆がこちらに集まっているのだから、どうにかして一度、楽器の音を聞いてみたいものだな。宮中の後宴とは別に、私のところで私的な後宴をやろう」と言い出した。
そこで、立派な袋に入れて大切にしまってあった琴の数々をすべて取り出させ、きれいに拭わせたり、緩んでいる絃を調整させたりする。女君たちも、それぞれひどく気を配って、演奏にも身支度にも、できる限り心を尽くして準備していることだろう。
