『源氏物語』第19帖「薄雲」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第19帖「薄雲」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第19帖「薄雲」現代語訳全文をご覧ください。

目次

冬になりゆくままに

 冬ふゆになりゆくままに、川かはづらの住すまひいとど心細こころぼそさまさりて、うはの空そらなる心地ここちのみしつつ明あかし暮くらすを、君きみも

「なほ、かくてはえ過すぐさじ。かの近ちかき所ところに思おもひ立たちね」

 と、すすめたまへど、つらき所ところ多おほく、心こころ見み果はてむも、残のこりなき心地ここちすべきをいかに言いひてか、などいふやうに思おもひ乱みだれたり。

「さらばこの若君わかぎみを。かくてのみは便びんなきことなり。思おもふ心こころあればかたじけなし。対たいに聞きき置おきて、常つねにゆかしがるを、しばし見みならはさせて、袴着はかまぎの事ことなども、人ひと知しれぬさまならずしなさむとなむ思おもふ」

 と、まめやかに語かたらひたまふ。さおぼすらむと思おもひわたることなれば、いとど胸むねつぶれぬ。改あらためてやむごとなき方かたにもてなされたまふとも、人ひとの漏もり聞きかむことはなかなかにや、つくろひがたくおぼされむ、とて放はなちがたく思おもひたる、ことわりにはあれど、

「うしろやすからぬ方かたにやなどは、な疑うたがひたまひそ。かしこには、年とし経へぬれどかかる人ひともなきがさうざうしくおぼゆるままに、前斎宮さきのさいぐうのおとなびものしたまふをだにこそ、あながちに扱あつかひきこゆめれば、ましてかくにくみがたげなめるほどを、おろかには見み放はなつまじき心こころばへに」

 など、女君をんなぎみの御おほんありさまの思おもふやうなることも語かたりたまふ。

 げに、いにしへは、いかばかりのことに定さだまりたまふべきにかと、つてにもほの聞きこえし御心みこころの、名残なごりなく静しづまりたまへるは、おぼろけの御宿世おほんすくせにもあらず、人ひとの御おほんありさまもここらの御おほんなかにすぐれたまへるにこそは、と思おもひやられて、数かずならぬ人ひとの並ならびきこゆべきおぼえにもあらぬを、さすがに、立たち出いでて、人ひともめざましとおぼすことやあらむ。わが身みはとてもかくても同おなじこと。生おひ先さき遠どほき人ひとの御おほんうへもつひには、かの御心みこころにかかるべきにこそあめれ。さりとならば、げにかう何心なにごころなきほどにや譲ゆづりきこえまし、と思おもふ。また、手てを放はなちて、うしろめたからむこと。つれづれも慰なぐさむ方かたなくては、いかが明あかし暮くらすべからむ。何なににつけてか、たまさかの御おほん立たち寄よりもあらむ、などさまざまに思おもひ乱みだるるに、身みの憂うきこと、限かぎりなし。

尼君、思ひやり深き人にて

 尼君あまぎみ思おもひやり深ふかき人ひとにて、

「あぢきなし。見みたてまつらざらむことはいと胸むねいたかりぬべけれど、つひにこの御おほんためによかるべからむことをこそ思おもはめ。浅あさくおぼしてのたまふことにはあらじ。ただうち頼たのみきこえて、渡わたしたてまつりたまひてよ。母方ははがたからこそ、帝みかどの御子みこも際々きはぎはにおはすめれ。この大臣おとどの君きみの、世よに二ふたつなき御おほんありさまながら、世よに仕つかへたまふは故大納言こだいなごんの、今いまひときざみなり劣おとりたまひて、更衣腹かういばらと言いはれたまひし、けぢめにこそはおはすめれ。まして、ただ人うどはなずらふべきことにもあらず。また、親王みこたち、大臣おとどの御腹おほんはらといへど、なほさし向むかひたる劣おとりの所ところには、人ひとも思おもひ落おとし、親おやの御おほんもてなしもえ等ひとしからぬものなり。まして、これはやむごとなき御方々おほんかたがたにかかる人ひと出いでものしたまはば、こよなく消けたれたまひなむ。ほどほどにつけて、親おやにもひとふしもてかしづかれぬる人ひとこそ、やがて落おとしめられぬはじめとはなれ。御袴着おほんはかまぎのほども、いみじき心こころを尽つくすとも、かかる深ふか山やま隠かくれにては、何なにの栄はえかあらむ。ただ任まかせきこえたまひて、もてなしきこえたまはむありさまをも、聞ききたまへ」

 と教をしふ。

 さかしき人ひとの心こころの占うらどもにも、もの問とはせなどするにも、なほ、

「渡わたりたまひてはまさるべし」

 とのみ言いへば、思おもひ弱よわりにたり。殿とのもしかおぼしながら、思おもはむところのいとほしさに、しひてもえのたまはで、

「御袴着おほんはかまぎのことは、いかやうにか」

 とのたまへる御返おほんかへりに、

「よろづのこと、かひなき身みにたぐへきこえては、げに生おひ先さきもいとほしかるべくおぼえはべるを、たち交まじりても、いかに人ひと笑ゑへにや」

 と聞きこえたるを、いとどあはれにおぼす。日ひなど取とらせたまひて、忍しのびやかに、さるべきことなどのたまひおきてさせたまふ。放はなちきこえむことはなほいとあはれにおぼゆれど、君きみの御おほんためによかるべきことをこそはと念ねんず。

「乳母めのとをもひき別わかれなむこと。明あけ暮くれのもの思おもはしさ、つれづれをもうち語かたらひて、慰なぐさめならひつるに、いとどたつきなきことさへ取とり添そへ、いみじくおぼゆべきこと」

 と、君きみも泣なく。乳母めのとも

「さるべきにや、おぼえぬさまにて、見みたてまつりそめて、年としごろの御心みこころばへの、忘わすれがたう恋こひしうおぼえたまふべきを、うち絶たえきこゆることはよもはべらじ。つひにはと頼たのみながら、しばしにても、よそよそに、思おもひのほかの交まじらひしはべらむが、安やすからずもはべるべきかな」

 など、うち泣なきつつ過すぐすほどに、師走しはすにもなりぬ。

雪、霰がちに

 雪ゆき、霰あられがちに、心細こころぼそさまさりて、あやしくさまざまに、もの思おもふべかりける身みかな、とうち嘆なげきて、常つねよりもこの君きみを撫なでつくろひつつ見みゐたり。

 雪ゆきかきくらし降ふりつもる朝あした、来きし方かた行ゆく末すゑのこと、残のこらず思おもひつづけて、例れいはことに端近はしぢかなる出いで居ゐなどもせぬを、汀みぎはの氷こほりなど見みやりて、白しろき衣きぬどものなよよかなるあまた着きて、眺ながめゐたる様体やうだい、頭かしらつき、うしろでなど、限かぎりなき人ひとと聞きこゆとも、かうこそはおはすらめ、と人々ひとびとも見みる。落おつる涙なみだをかき払はらひて、

「かやうならむ日ひ、ましていかにおぼつかなからむ」

 とらうたげにうち嘆なげきて、

雪深ゆきふかみ深山みやまの道みちは晴はれずともなほ文ふみかよへ跡あと絶たえずして

 とのたまへば、乳母めのとうち泣なきて、

雪間ゆきまなき吉野よしのの山やまを訪たづねても心こころのかよふ跡あと絶たえめやは

 と言いひ慰なぐさむ。

この雪すこし解けて

 この雪ゆきすこし解とけて渡わたりたまへり。例れいは待まちきこゆるに、さならむとおぼゆることにより、胸むねうちつぶれて、人ひとやりならずおぼゆ。わが心こころにこそあらめ。いなびきこえむをしひてやはあぢきな、とおぼゆれど、軽々かるがるしきやうなりと、せめて思おもひ返かへす。

 いとうつくしげにて、前まへにゐたまへるを見みたまふに、おろかには思おもひがたかりける人ひとの宿世すくせかな、と思おもほす。この春はるより生おふす御髪みぐし、尼削あまそぎのほどにて、ゆらゆらとめでたく、つらつき、まみの薫かをれるほどなど、言いへばさらなり。よそのものに思おもひやらむほどの心こころの闇やみ、推おし量はかりたまふに、いと心苦こころぐるしければ、うち返かへしのたまひ明あかす。

「何なにか、かく口惜くちをしき身みのほどならずだにもてなしたまはば」

 と聞きこゆるものから、念ねんじあへずうち泣なくけはひあはれなり。

 姫ひめ君きみは何心なにごころもなく、御車みくるまに乗のらむことを急いそぎたまふ。寄よせたる所ところに、母君ははぎみみづから抱いだきて出いでたまへり。片言かたことの、声こゑはいとうつくしうて、袖そでをとらへて、

「乗のりたまへ」

 と引ひくもいみじうおぼえて、

末すゑ遠どほき二葉ふたばの松まつに引ひき別わかれいつか木こ高だかきかげを見みるべき

 えも言いひやらず、いみじう泣なけば、さりや、あな苦くるし、とおぼして、

生おひそめし根ねも深ふかければ武隈たけくまの松まつに小松こまつの千代ちよをならべむ

「のどかにを」

 と慰なぐさめたまふ。さることとは思おもひ静しづむれど、えなむ堪たへざりける。乳母めのとの少将せうしゃうとて、あてやかなる人ひとばかり、御佩刀みはかし、天児あまがつやうの物もの取とりて乗のる。人ひとだまひによろしき若人わかうど、童女わらはなど乗のせて、御送おほんおくりに参まゐらす。道みちすがら、とまりつる人ひとの心苦こころぐるしさを、「いかに。罪つみや得うらむ」とおぼす。

暗うおはし着きて

 暗くらうおはし着つきて、御車みくるま寄よするより、はなやかにけはひことなるを、田舎ゐなかびたる心地ここちどもは、はしたなくてや交まじらはむと思おもひつれど、西表にしおもてをことにしつらはせたまひて、小ちひさき御調度おほんでうどども、うつくしげに調ととのへさせたまへり。乳母めのとの局つぼねには、西にしの渡殿わたどのの、北きたに当あたれるをせさせたまへり。

 若君わかぎみは道みちにて寝ねたまひにけり。抱いだき下おろされて、泣なきなどはしたまはず。こなたにて御おほんくだもの参まゐりなどしたまへど、やうやう見みめぐらして、母君ははぎみの見みえぬをもとめて、らうたげにうちひそみたまへば、乳母めのと召めし出いでて、慰なぐさめ紛まぎらはしきこえたまふ。山里やまざとのつれづれ、ましていかに、とおぼしやるはいとほしけれど、明あけ暮くれおぼすさまにかしづきつつ、見みたまふはものあひたる心地ここちしたまふらむ。いかにぞや、人ひとの思おもふべき瑕きずなきことはこのわたりに出いでおはせで、と口惜くちをしくおぼさる。

 しばしは、人々ひとびともとめて泣なきなどしたまひしかど、大方おほかた心こころやすくをかしき心こころざまなれば、上うへにいとよくつき睦むつびきこえたまへれば、いみじううつくしきもの得えたり、とおぼしけり。こと事ごとなく抱いだき扱あつかひ、もてあそびきこえたまひて、乳母めのともおのづから近ちかう仕つかうまつり馴なれにけり。また、やむごとなき人ひとの乳ちある、添そへて参まゐりたまふ。

 御袴着おほんはかまぎは何なにばかりわざとおぼしいそぐことはなけれど、けしきことなり。御おほんしつらひ、雛遊ひひなあそびの心地ここちしてをかしう見みゆ。参まゐりたまへる客人まらうとどもただ明あけ暮くれのけぢめしなければ、あながちに目めも立たたざりき。ただ、姫ひめ君きみの襷たすき引ひき結ゆひたまへる胸むねつきぞ、うつくしげさ添そひて見みえたまひつる。

大堰には、尽きせず恋しきにも

 大堰おほゐには、尽つきせず恋こひしきにも、身みのおこたりを嘆なげき添そへたり。さこそ言いひしか、尼君あまぎみもいとど涙なみだもろなれど、かくもてかしづかれたまふを聞きくはうれしかりけり。何なにごとをか、なかなか訪とぶらひきこえたまはむ、ただ御方おほんかたの人々ひとびとに、乳母めのとよりはじめて、世よになき色いろあひを思おもひいそぎてぞ、贈おくりきこえたまひける。待まち遠どほならむも、いとどさればよ、と思おもはむに、いとほしければ、年としの内うちに忍しのびて渡わたりたまへり。いとどさびしき住すまひに、明あけ暮くれのかしづきぐさをさへ離はなれきこえて、思おもふらむことの心苦こころぐるしければ、御文おほんふみなども絶たえ間まなく遣つかはす。

 女君をんなぎみも今いまはことに怨ゑんじきこえたまはず、うつくしき人ひとに罪つみゆるしきこえたまへり。

年も返りぬ

 年としも返かへりぬ。うららかなる空そらに、思おもふことなき御おほんありさまはいとどめでたく、磨みがき改あらためたる御おほんよそひに、参まゐり集つどひたまふめる人ひとの、おとなしきほどのは七日なぬか、御おほんよろこびなどしたまふ、ひきつれたまへり。若わかやかなるは何なにともなく心地ここちよげに見みえたまふ。次々つぎつぎの人ひとも心こころのうちには思おもふこともやあらむ、うはべは誇ほこりかに見みゆる、ころほひなりかし。

 東ひんがしの院ゐんの対たいの御方おほんかたもありさまは好このましう、あらまほしきさまに、さぶらふ人々ひとびと、童女わらはべの姿すがたなどうちとけず、心こころづかひしつつ過すぐしたまふに、近ちかきしるしはこよなくて、のどかなる御暇おほんいとまの隙ひまなどには、ふとはひ渡わたりなどしたまへど、夜よるたち泊とまりなどやうに、わざとは見みえたまはず。ただ御心みこころざまのおいらかにこめきて、「かばかりの宿世すくせなりける身みにこそあらめ」と思おもひなしつつ、ありがたきまでうしろやすくのどかにものしたまへば、をりふしの御心みこころおきてなども、こなたの御おほんありさまに劣おとるけぢめこよなからずもてなしたまひて、あなづりきこゆべうはあらねば、同おなじごと、人ひと参まゐり仕つかうまつりて、別当べたうどもも事ことおこたらず、なかなか乱みだれたるところなく、目めやすき御おほんありさまなり。

山里のつれづれをも

 山里やまざとのつれづれをも絶たえずおぼしやれば、公私おほやけわたくしもの騒さわがしきほど過すぐして、渡わたりたまふとて、常つねよりことにうち化粧けさうじたまひて、桜さくらの御直衣おほんなほしに、えならぬ御衣おほんぞひき重かさねて、たきしめ、装束さうぞきたまひて、まかり申まうしたまふさま、隈くまなき夕日ゆふひに、いとどしくきよらに見みえたまふ。女君をんなぎみ、ただならず見みたてまつり送おくりたまふ。

 姫ひめ君きみはいはけなく御指貫おほんさしぬきの裾すそにかかりて、慕したひきこえたまふほどに、外とにも出いでたまひぬべければ、立たちとまりて、いとあはれとおぼしたり。こしらへおきて、

「明日あす帰かへり来こむ」

 と、口くちずさびて出いでたまふに、渡殿わたどのの戸口とぐちに待まちかけて、中将ちうじゃうの君きみして聞きこえたまへり。

舟ふねとむる遠どほ方かた人ひとのなくはこそ明日あす帰かへり来こむ夫せなと待まち見みめ

 いたう馴なれて聞きこゆれば、いとにほひやかにほほ笑ゑみて、

行ゆきて見みて明日あすもさね来こむなかなかに遠どほ方かた人ひとは心こころ置おくとも

 何事なにごととも聞きき分わかでされありきたまふ人ひとを、上うへはうつくしと見みたまへば、遠どほ方かた人ひとのめざましきも、こよなくおぼしゆるされにたり。いかに思おもひおこすらむ。われにて、いみじう恋こひしかりぬべきさまを、とうちまもりつつ、ふところに入いれて、うつくしげなる御乳おほんちをくくめたまひつつ、戯たはぶれゐたまへる御おほんさま、見みどころ多おほかり。御前おまへなる人々ひとびとは

「などか、同おなじくは」

「いでや」

 など語かたらひあへり。

かしこには、いとのどやかに

 かしこには、いとのどやかに、心こころばせあるけはひに住すみなして、家いへのありさまもやう離はなれめづらしきに、みづからのけはひなどは見みるたびごとに、やむごとなき人々ひとびとなどに劣おとるけぢめこよなからず、容貌かたち、用意よういあらまほしうねびまさりゆく。ただ、世よの常つねのおぼえにかき紛まぎれたらば、さるたぐひなくやはと思おもふべきを、世よに似にぬひがものなる親おやの聞きこえなどこそ、苦くるしけれ。人ひとのほどなどはさてもあるべきを、などおぼす。

 はつかに、飽あかぬほどにのみあればにや、心こころのどかならず立たち帰かへりたまふも苦くるしくて、

「夢ゆめのわたりの浮橋うきはしか」

 とのみうち嘆なげかれて、箏さうの琴ことのあるを引ひき寄よせて、かの明石あかしにて、小ちひ夜よる更ふけたりし音ねも、例れいのおぼし出いでらるれば、琵琶びはをわりなく責せめたまへば、すこし掻かき合あはせたる、いかで、かうのみひき具ぐしけむ、とおぼさる。若君わかぎみの御おほんことなど、こまやかに語かたりたまひつつおはす。

 ここはかかる所ところなれど、かやうに立たち泊とまりたまふ折々をりをりあれば、はかなき果物くだもの、強飯こはいひばかりはきこしめす時ときもあり。近ちかき御寺みてら、桂殿かつらどのなどにおはしまし紛まぎらはしつつ、いとまほには乱みだれたまはねど、また、いとけざやかにはしたなく、おしなべてのさまにはもてなしたまはぬなどこそは、いとおぼえことには見みゆめれ。

 女をんなもかかる御心みこころのほどを見み知しりきこえて、過すぎたりとおぼすばかりのことはし出いでず、また、いたく卑下ひげせずなどして、御心みこころおきてにもて違たがふことなく、いとめやすくぞありける。おぼろけにやむごとなき所ところにてだに、かばかりもうちとけたまふことなく、気け高たかき御おほんもてなしを聞きき置おきたれば、近ちかきほどに交まじらひては、なかなかいと目め馴なれて、人ひとあなづられなることどももぞあらまし。たまさかにて、かやうにふりはへたまへるこそ、たけき心地ここちすれ、と思おもふべし。明石あかしにも、さこそ言いひしか、この御心みこころおきて、ありさまをゆかしがりて、おぼつかなからず、人ひとは通かよはしつつ、胸むねつぶるることもあり、また、おもだたしく、うれしと思おもふことも多おほくなむありける。

そのころ、太政大臣亡せたまひぬ

 そのころ、太政大臣おほきおとど亡うせたまひぬ。世よの重おもしとおはしつる人ひとなれば、朝廷おほやけにもおぼし嘆なげく。しばし、籠こもりたまひしほどをだに、天あめの下したの騷さわぎなりしかば、まして、悲かなしと思おもふ人ひと多おほかり。源氏げんじの大臣おとどもいと口惜くちをしく、よろづこと、おし譲ゆづりきこえてこそ、暇いとまもありつるを、心細こころぼそく、事ことしげくもおぼされて、嘆なげきおはす。帝みかどは御年おほんとしよりはこよなうおとなおとなしうねびさせたまひて、世よの政事まつりごともうしろめたく思おもひきこえたまふべきにはあらねども、またとりたてて御後見おほんうしろみしたまふべき人ひともなきを、誰たれに譲ゆづりてかは、静しづかなる御本意おほんほいもかなはむ、とおぼすに、いと飽あかず口惜くちをし。

 後のちの御おほんわざなどにも、御子みこども孫むまごに過すぎてなむ、こまやかに弔とぶらひ、扱あつかひたまひける。

 その年とし、大方おほかた世よの中なか騒さわがしくて、朝廷おほやけざまに、もののさとししげく、のどかならで、天あまつ空そらにも、例れいに違たがへる月つき日ひ星ほしの光ひかり見みえ、雲くものたたずまひあり、とのみ、世よの人ひとおどろくこと多おほくて、道々みちみちの勘文かんがへぶみどもたてまつれるにも、あやしく世よになべてならぬことども混まじりたり。内うちの大臣おとどのみなむ御心みこころのうちに、わづらはしくおぼし知しらるることありける。

入道后の宮、春のはじめより

 入道后にふだうきさいの宮みや春はるのはじめより悩なやみわたらせたまひて、三月やよひにはいと重おもくならせたまひぬれば、行幸ぎゃうがうなどあり。院ゐんに別わかれたてまつらせたまひしほどは、いといはけなくて、もの深ふかくもおぼされざりしを、いみじうおぼし嘆なげきたる御みけしきなれば、宮みやもいと悲かなしくおぼしめさる。

「今年ことしはかならず逃のがるまじき年としと思おもひたまへつれど、おどろおどろしき心地ここちにもはべらざりつれば、命いのちの限かぎり知しり顔がほにはべらむも、人ひとやうたて、ことことしう思おもはむと憚はばかりてなむ、功徳くどくのことなども、わざと例れいよりも取とり分わきてしもはべらずなりにける。参まゐりて、心こころのどかに昔むかしの御物語おほんものがたりもなど思おもひたまへながら、うつしざまなる折をり少すくなくはべりて、口惜くちをしく、いぶせくて過すぎはべりぬること」

 と、いと弱よわげに聞きこえたまふ。

 三十七さんじふしちにぞおはしましける。されど、いと若わかく盛さかりにおはしますさまを、惜をしく悲かなしと見みたてまつらせたまふ。

「慎つつしませたまふべき御年おほんとしなるに、晴はれ晴ばれしからで、月つきごろ過すぎさせたまふことをだに、嘆なげきわたりはべりつるに、御慎おほんつつしみなどをも、常つねよりことにせさせたまはざりけること」

 と、いみじうおぼしめしたり。ただこのころぞ、おどろきて、よろづのことせさせたまふ。月つきごろは、常つねの御悩おほんなやみとのみうちたゆみたりつるを、源氏げんじの大臣おとども深ふかくおぼし入いりたり。限かぎりあれば、ほどなく帰かへらせたまふも悲かなしきこと多おほかり。

 宮みやいと苦くるしうて、はかばかしうものも聞きこえさせたまはず。御心みこころのうちにおぼし続つづくるに、「高たかき宿世すくせ、世よの栄はええも並ならぶ人ひとなく、心こころのうちに飽あかず思おもふことも人ひとにまさりける身み」とおぼし知しらる。上うへの夢ゆめのうちにも、かかる事ことの心こころを知しらせたまはぬを、さすがに心苦こころぐるしう見みたてまつりたまひて、これのみぞ、うしろめたくむすぼほれたることに、おぼし置おかるべき心地ここちしたまひける。

大臣は朝廷方ざまにても

 大臣おとどは朝廷おほやけ方がたざまにても、かくやむごとなき人ひとの限かぎり、うち続つづき亡うせたまひなむことをおぼし嘆なげく。人ひと知しれぬあはれ、はた、限かぎりなくて、御祈おほんいのりなどおぼし寄よらぬことなし。年としごろおぼし絶たえたりつる筋すぢさへ、今一度いまひとたび、聞きこえずなりぬるが、いみじくおぼさるれば、近ちかき御几帳みきちゃうのもとに寄よりて、御おほんありさまなども、さるべき人々ひとびとに問とひ聞ききたまへば、親したしき限かぎりさぶらひて、こまかに聞きこゆ。

「月つきごろ悩なやませたまへる御心地みここちに、御行おほんおこなひを時ときの間まもたゆませたまはずせさせたまふ積つもりの、いとどいたうくづほれさせたまふに、このころとなりては、柑子かうじなどをだに、触ふれさせたまはずなりにたれば、頼たのみどころなくならせたまひにたること」

 と、泣なき嘆なげく人々ひとびと多おほかり。

「院ゐんの御遺言ごゆいごんにかなひて、内裏うちの御後見おほんうしろみ仕つかうまつりたまふこと、年としごろ思おもひ知しりはべること多おほかれど、何なににつけてかは、その心寄こころよせことなるさまをも、漏もらしきこえむとのみ、のどかに思おもひはべりけるを、今いまなむあはれに口惜くちをしく」

 と、ほのかにのたまはするも、ほのぼの聞きこゆるに、御応おほんいらへも聞きこえやりたまはず、泣なきたまふさま、いといみじ。などかうしも心こころ弱よわきさまにと、人目ひとめをおぼし返かへせど、いにしへよりの御おほんありさまを、大方おほかたの世よにつけても、あたらしく惜をしき人ひとの御おほんさまを、心こころにかなふわざならねば、かけとどめきこえむ方かたなく、いふかひなくおぼさるること限かぎりなし。

「はかばかしからぬ身みながらも、昔むかしより、御後見おほんうしろみ仕つかうまつるべきことを、心こころのいたる限かぎり、おろかならず思おもひたまふるに、太政大臣おほきおとどの隠かくれたまひぬるをだに、世よの中なか、心こころあわたたしく思おもひたまへらるるに、また、かくおはしませば、よろづに心こころ乱みだれはべりて、世よにはべらむことも残のこりなき心地ここちなむしはべる」

 など聞きこえたまふほどに、燈火ともしびなどの消きえ入いるやうにて果はてたまひぬれば、いふかひなく悲かなしきことをおぼし嘆なげく。

かしこき御身のほど

 かしこき御身おほんみのほどと聞きこゆるなかにも、御心みこころばへなどの、世よのためしにもあまねくあはれにおはしまして、豪家がうけにことよせて、人ひとの愁うれへとあることなどもおのづからうち混まじるを、いささかもさやうなる事ことの乱みだれなく、人ひとの仕つかうまつることをも、世よの苦くるしみとあるべきことをば止とどめたまふ。

 功徳くどくの方かたとても、勧すすむるによりたまひて、いかめしうめづらしうしたまふ人ひとなども、昔むかしのさかしき世よに皆みなありけるを、これはさやうなることなく、ただもとよりの宝物たからもの、得えたまふべき年官つかさ、年爵かうぶり、御封みふの物もののさるべき限かぎりして、まことに心こころ深ふかきことどもの限かぎりをし置おかせたまへれば、何なにとわくまじき山伏やまぶしなどまで惜をしみきこゆ。

 をさめたてまつるにも、世よの中なか響ひびきて、悲かなしと思おもはぬ人ひとなし。殿上人てんじゃうびとなどなべてひとつ色いろに黒くろみわたりて、ものの栄はえなき春はるの暮くれなり。

 二条院にでうのゐんの御前おまへの桜さくらを御覧ごらんじても、花はなの宴えんの折をりなどおぼし出いづ。

「今年ことしばかりは」

 と、一人ひとりごちたまひて、人ひとの見みとがめつべければ、御念誦堂おほんねんずだうに籠こもりゐたまひて、日ひ一日ひとひ泣なき暮くらしたまふ。夕日ゆふひはなやかにさして、山際やまぎはの梢こずゑあらはなるに、雲くもの薄うすくわたれるが、鈍色にびいろなるを、何なにごとも御目おほんめとどまらぬころなれど、いとものあはれにおぼさる。

入いり日ひさす峰みねにたなびく薄雲うすぐもはもの思おもふ袖そでに色いろやまがへる

 人ひと聞きかぬ所ところなれば、かひなし。

御わざなども過ぎて

 御みわざなども過すぎて、事ことども静しづまりて、帝みかどもの心細こころぼそくおぼしたり。この入道にふだうの宮みやの御母后おほんははぎさきの御世みよより伝つたはりて、次々つぎつぎの御祈おほんいのりの師しにてさぶらひける僧都そうづ故宮こみやにもいとやむごとなく親したしきものにおぼしたりしを、朝廷おほやけにも重おもき御おほんおぼえにて、いかめしき御願おほんぐわんども多おほく立たてて、世よにかしこき聖ひじりなりける、年とし七十しちじふばかりにて、今いまは終をはりの行おこなひをせむとて籠こもりたるが、宮みやの御事おほんことによりて出いでたるを、内裏うちよりめしありて、常つねにさぶらはせたまふ。

 このごろは、なほもとのごとく参まゐりさぶらはるべきよし、大臣おとども勧すすめのたまへば、

「今いまは、夜居よゐなど、いと堪たへがたうおぼえはべれど、仰おほせ言ごとのかしこきにより、古ふるき心こころざしを添そへて」

 とてさぶらふに、静しづかなる暁あかつきに、人ひとも近ちかくさぶらはず、あるはまかでなどしぬるほどに、古代こだいにうちしはぶきつつ、世よの中なかのことども奏そうしたまふついでに、

「いと奏そうしがたく、かへりては罪つみにもやまかり当あたらむと思おもひたまへ憚はばかる方かた多おほかれど、知しろしめさぬに、罪つみ重おもくて、天眼てんげん恐おそろしく思おもひたまへらるることを、心こころにむせびはべりつつ、命いのち終をはりはべりなば、何なにの益やくかははべらむ。仏ほとけも心こころぎたなしとやおぼしめさむ」

 とばかり奏そうしさして、えうち出いでぬことあり。

上、何事ならむ

 上うへ、何事なにごとならむ、この世よに恨うらみ残のこるべく思おもふことやあらむ。法師ほふしは聖ひじりといへども、あるまじき横様よこざまの嫉そねみ深ふかく、うたてあるものを、とおぼして、

「いはけなかりし時ときより、隔へだて思おもふことなきを、そこには、かく忍しのび残のこされたることありけるをなむ、つらく思おもひぬる」

 とのたまはすれば、

「あなかしこ。さらに、仏ほとけの諌いさめ守まもりたまふ真言しんごんの深ふかき道みちをだに、隠かくしとどむることなく広ひろめ仕つかうまつりはべり。まして、心こころに隈くまあること、何なにごとにかはべらむ。これは来きし方かた行ゆく先さきの大事だいじとはべることを、過すぎおはしましにし院ゐん、后きさいの宮みや、ただ今いま世よをまつりごちたまふ大臣おとどの御おほんため、すべて、かへりてよからぬ事ことにや漏もり出いではべらむ。かかる老法師おいほふしの身みには、たとひ愁うれへはべりとも、何なにの悔くいかはべらむ。仏天ぶつてんの告つげあるによりて奏そうしはべるなり。わが君きみはらまれおはしましたりし時ときより、故宮こみやの深ふかくおぼし嘆なげくことありて、御祈おほんいのり仕つかうまつらせたまふゆゑなむはべりし。詳くはしくは法師ほふしの心こころにえ悟さとりはべらず。事ことの違たがひめありて、大臣おとど横様よこさまの罪つみに当あたりたまひし時とき、いよいよ懼おぢおぼしめして、重かさねて御祈おほんいのりどもうけたまはりはべりしを、大臣おとども聞きこしめしてなむ、またさらに言い加くはへ仰おほせられて、御位おほんくらゐに即つきおはしまししまで仕つかうまつることどもはべりし。そのうけたまはりしさま」

 とて、詳くはしく奏そうするを聞きこしめすに、あさましうめづらかにて、恐おそろしうも悲かなしうも、さまざまに御心みこころ乱みだれたり。

 とばかり、御応おほんいらへもなければ、僧都そうづ、進すすみ奏そうしつるを便びんなくおぼしめすにや、とわづらはしく思おもひて、やをらかしこまりてまかづるを、めし止とどめて、

「心こころに知しらで過すぎなましかば、後のちの世よまでの咎とがめあるべかりけることを、今いままで忍しのび籠こめられたりけるをなむ、かへりてはうしろめたき心こころなりと思おもひぬる。またこの事ことを知しりて漏もらし伝つたふるたぐひやあらむ」

 とのたまはす。

「さらに、なにがしと王命婦わうみゃうぶとより他ほかの人ひと、この事ことのけしき見みたるはべらず。さるによりなむ、いと恐おそろしうはべる。天変てんぺんしきりにさとし、世よの中なか静しづかならぬは、このけなり。いときなく、ものの心こころ知しろしめすまじかりつるほどこそはべりつれ、やうやう御齢おほんよはひ足たりおはしまして、何事なにごともわきまへさせたまふべき時ときに至いたりて、咎とがをも示しめすなり。よろづのこと、親おやの御世みよより始はじまるにこそはべるなれ。何なにの罪つみとも知しろしめさぬが恐おそろしきにより、思おもひたまへ消けちてしことを、さらに心こころより出いだしはべりぬること」

 と、泣なく泣なく聞きこゆるほどに、明あけ果はてぬれば、まかでぬ。

 上うへは夢ゆめのやうにいみじきことを聞きかせたまひて、いろいろにおぼし乱みだれさせたまふ。故院こゐんの御おほんためもうしろめたく、大臣おとどのかくただ人うどにて世よに仕つかへたまふもあはれにかたじけなかりける事こと、かたがたおぼし悩なやみて、日ひたくるまで出いでさせたまはねば、「かくなむ」と聞ききたまひて、大臣おとども驚おどろきて参まゐりたまへるを、御覧ごらんずるにつけても、いとど忍しのびがたくおぼしめされて、御涙おほんなみだのこぼれさせたまひぬるを、大方おほかた故宮こみやの御事おほんことを、干ひる世よなくおぼしめしたるころなればなめり、と見みたてまつりたまふ。

その日、式部卿の親王亡せたまひぬ

 その日ひ、式部卿しきぶきゃうの親王みこ亡うせたまひぬるよし奏そうするに、いよいよ世よの中なかの騒さわがしきことを嘆なげきおぼしたり。かかるころなれば、大臣おとどは里さとにもえまかでたまはで、つとさぶらひたまふ。

 しめやかなる御物語おほんものがたりのついでに、

「世よは尽つきぬるにやあらむ。もの心細こころぼそく例れいならぬ心地ここちなむするを、天あめの下したもかくのどかならぬに、よろづあわたたしくなむ。故宮こみやのおぼさむところによりてこそ、世間せけんのことも思おもひ憚はばかりつれ、今いまは心こころやすきさまにても過すぐさまほしくなむ」

 と語かたらひきこえたまふ。

「いとあるまじき御おほんことなり。世よの静しづかならぬことはかならず政事まつりごとの直なほく、ゆがめるにもよりはべらず。さかしき世よにしもなむ、よからぬことどももはべりける。聖ひじりの帝みかどの世よにも、横様よこさまの乱みだれ出いで来くること、唐土もろこしにもはべりける。わが国くににもさなむはべる。まして、ことわりの齢よはひどもの、時とき至いたりぬるを、おぼし嘆なげくべきことにもはべらず」

 など、すべて多おほくのことどもを聞きこえたまふ。片端かたはしまねぶも、いとかたはらいたしや。

 常つねよりも黒くろき御装おほんよそひに、やつしたまへる御容貌おほんかたち、違たがふところなし。上うへも年としごろ御鏡おほんかがみにも、おぼしよることなれど、聞きこしめししことの後のちは、またこまかに見みたてまつりたまひつつ、ことにいとあはれにおぼしめさるれば、いかで、このことをかすめ聞きこえばや、とおぼせど、さすがに、はしたなくもおぼしぬべきことなれば、若わかき御心地みここちにつつましくて、ふともえうち出いできこえたまはぬほどは、ただ大方おほかたのことどもを、常つねよりことになつかしう聞きこえさせたまふ。

 うちかしこまりたまへるさまにて、いと御みけしきことなるを、かしこき人ひとの御目おほんめには、あやしと見みたてまつりたまへど、いとかく、さださだと聞きこしめしたらむとはおぼさざりけり。

上は王命婦に詳しきことは

 上うへは王命婦わうみゃうぶに詳くはしきことは、問とはまほしうおぼしめせど、今いまさらに、しか忍しのびたまひけむこと知しりにけりと、かの人ひとにも思おもはれじ。ただ、大臣おとどにいかでほのめかし問とひきこえて、先々さきざきのかかる事ことの例れいはありけりやと問とひ聞きかむ、とぞおぼせど、さらについでもなければ、いよいよ御学問おほんがくもんをせさせたまひつつ、さまざまの書ふみどもを御覧ごらんずるに、唐土もろこしには、現あらはれても忍しのびても、乱みだりがはしき事こといと多おほかりけり。日本ひのもとには、さらに御覧ごらんじ得うるところなし。たとひあらむにても、かやうに忍しのびたらむことをば、いかでか伝つたへ知しるやうのあらむとする。一ひと世よの源氏げんじ、また納言なふごん、大臣だいじんになりて後のちに、さらに親王みこにもなり、位くらゐにも即つきたまひつるもあまたの例れいありけり。人柄ひとがらのかしこきにことよせて、さもや譲ゆづりきこえまし、など、よろづにぞおぼしける。

秋の司召に

 秋あきの司召つかさめしに、太政大臣だいじゃうだいじんになりたまふべきこと、うちうちに定さだめ申まうしたまふついでになむ、帝みかどおぼし寄よする筋すぢのこと、漏もらしきこえたまひけるを、大臣おとどいとまばゆく、恐おそろしうおぼして、さらにあるまじきよしを申まうし返かへしたまふ。

「故院こゐんの御心みこころざし、あまたの皇子みこたちの御おほん中なかに、とりわきておぼしめしながら、位くらゐを譲ゆづらせたまはむことをおぼしめし寄よらずなりにけり。何なにか、その御心みこころ改あらためて、及およばぬ際きはには昇のぼりはべらむ。ただ、もとの御おほんおきてのままに、朝廷おほやけに仕つかうまつりて、今いますこしの齢よはひかさなりはべりなば、のどかなる行おこなひに籠こもりはべりなむと思おもひたまふる」

 と、常つねの御おほん言いの葉はに変かはらず奏そうしたまへば、いと口惜くちをしうなむおぼしける。

 太政大臣だいじゃうだいじんになりたまふべき定さだめあれど、しばしとおぼすところありて、ただ御位みくらゐ添そひて、牛車うしぐるま聴ゆるされて参まゐりまかでしたまふを、帝みかど飽あかず、かたじけなきものに思おもひきこえたまひて、なほ親王みこになりたまふべきよしをおぼしのたまはすれど、世よの中なかの御後見おほんうしろみしたまふべき人ひとなし。権中納言ごんちうなごん、大納言だいなごんになりて、右大将うだいしゃうかけたまへるを、今いま一際ひときはあがりなむに、何なにごとも譲ゆづりてむ。さて後のちに、ともかくも、静しづかなるさまに、とぞおぼしける。

 なほおぼしめぐらすに、故宮こみやの御おほんためにもいとほしう、また上うへのかくおぼしめし悩なやめるを見みたてまつりたまふもかたじけなきに、誰たれかかることを漏もらし奏そうしけむと、あやしうおぼさる。命婦みゃうぶは御匣殿みくしげどのの替かはりたる所ところに移うつりて、曹司ざうしたまはりて参まゐりたり。大臣おとど対面たいめんしたまひて、

「このことを、もし、もののついでに、露つゆばかりにても漏もらし奏そうしたまふことやありし」

 と案内あないしたまへど、

「さらに。かけても聞きこしめさむことを、いみじきことにおぼしめして、かつは、罪つみ得うることにやと、上うへの御おほんためを、なほおぼしめし嘆なげきたりし」

 と聞きこゆるにも、ひとかたならず心こころ深ふかくおはせし御おほんありさまなど、尽つきせず恋こひきこえたまふ。

斎宮の女御は

 斎宮さいぐうの女御にようごはおぼししもしるき御後見おほんうしろみにて、やむごとなき御おほんおぼえなり。御用意おほんようい、ありさまなども思おもふさまにあらまほしう見みえたまへれば、かたじけなきものにもてかしづききこえたまへり。

 秋あきのころ、二条院にでうのゐんにまかでたまへり。寝殿しんでんの御おほんしつらひ、いとど輝かかやくばかりしたまひて、今いまはむげの親おやざまにもてなして、扱あつかひきこえたまふ。秋あきの雨あめいと静しづかに降ふりて、御前おまへの前栽せんざいの色々いろいろ乱みだれたる露つゆのしげさに、いにしへのことどもかき続つづけおぼし出いでられて、御袖おほんそでも濡ぬれつつ、女御にようごの御方おほんかたに渡わたりたまへり。こまやかなる鈍色にびいろの御直衣姿おほんなほしすがたにて、世よの中なかの騒さわがしきなどことつけたまひて、やがて御精進おほんさうじんなれば、数珠ずずひき隠かくして、さまよくもてなしたまへる、尽つきせずなまめかしき御おほんありさまにて、御簾みすの内うちに入いりたまひぬ。

御几帳ばかりを隔てて

 御几帳みきちゃうばかりを隔へだてて、みづから聞きこえたまふ。

「前栽せんざいどもこそ残のこりなく紐ひも解ときはべりにけれ。いとものすさまじき年としなるを、心こころやりて時とき知しり顔がほなるも、あはれにこそ」

 とて、柱はしらに寄よりゐたまへる夕ゆふばえ、いとめでたし。昔むかしの御おほんことども、かの野のの宮みやに立たちわづらひし曙あけぼのなどを、聞きこえ出いでたまふ。いとものあはれとおぼしたり。宮みやも、かくればとにや、すこし泣なきたまふけはひ、いとらうたげにて、うち身みじろきたまふほどもあさましくやはらかになまめきておはすべかめる。見みたてまつらぬこそ、口惜くちをしけれ、と胸むねのうちつぶるるぞ、うたてあるや。

「過すぎにし方かた、ことに思おもひ悩なやむべきこともなくてはべりぬべかりし世よの中なかにも、なほ心こころから、好すき好ずきしきことにつけて、もの思おもひの絶たえずもはべりけるかな。さるまじきことどもの、心苦こころぐるしきが、あまたはべりし中なかに、つひに心こころも解とけず、むすぼほれて止やみぬること、二ふたつなむはべる。一ひとつは、この過すぎたまひにし御おほんことよ。あさましうのみ思おもひつめて止やみたまひにしが、長ながき世よの愁うれはしきふしと思おもひたまへられしを、かうまでも仕つかうまつり、御覧ごらんぜらるるをなむ、慰なぐさめに思おもうたまへなせど、燃もえし煙けぶりの、むすぼほれたまひけむは、なほいぶせうこそ思おもひたまへらるれ」

 とて、今いま一ひとつはのたまひさしつ。

「中なかごろ、身みのなきに沈しづみはべりしほど、方々かたがたに思おもひたまへしことは片端かたはしづつかなひにたり。東ひんがしの院ゐんにものする人ひとのそこはかとなくて、心苦こころぐるしうおぼえわたりはべりしも、おだしう思おもひなりにてはべり。心こころばへの憎にくからぬなど、我われも人ひとも見みたまへあきらめて、いとこそさはやかなれ。かく立たち返かへり、朝廷おほやけの御後見おほんうしろみ仕つかうまつるよろこびなどはさしも心こころに深ふかく染しまず、かやうなる好すきがましき方かたは静しづめがたうのみはべるを、おぼろけに思おもひ忍しのびたる御後見おほんうしろみとは、おぼし知しらせたまふらむや。あはれとだにのたまはせずは、いかにかひなくはべらむ」

 とのたまへば、むつかしうて、御応おほんいらへもなければ、

「さりや、あな心憂こころう」

 とて、異事ことことに言いひ紛まぎらはしたまひつ。

「今いまは、いかでのどやかに、生いける世よの限かぎり、思おもふこと残のこさず、後のちの世よの勤つとめも心こころにまかせて、籠こもりゐなむと思おもひはべるを、この世よの思おもひ出いでにしつべきふしのはべらぬこそ、さすがに口惜くちをしうはべりぬべけれ。かならず、幼をさなき人ひとのはべる、生おひ先さきいと待まち遠どほなりや。かたじけなくとも、なほ、この門かど広ひろげさせたまひて、はべらずなりなむ後のちにも、数かずまへさせたまへ」

 など聞きこえたまふ。御おんいらへはいとおほどかなるさまに、からうして一言ひとことばかりかすめたまへるけはひ、いとなつかしげなるに聞ききつきて、しめじめと暮くるるまでおはす。

はかばかしき方の望みは

「はかばかしき方かたの望のぞみはさるものにて、年としのうち行ゆき交かはる時々ときどきの花紅葉はなもみぢ、空そらのけしきにつけても、心こころの行ゆくこともしはべりにしがな。春はるの花はなの林はやし、秋あきの野のの盛さかりを、とりどりに人ひと争あらそひはべりける、そのころの、げにと心寄こころよるばかりあらはなる定さだめこそはべらざなれ。唐土もろこしには、春はるの花はなの錦にしきに如しくものなしと言いひはべめり。大和やまと言ことの葉はには、秋あきのあはれを取とり立たてて思おもへる。いづれも時々ときどきにつけて見みたまふに、目め移うつりて、えこそ花鳥はなとりの色いろをも音ねをもわきまへはべらね。狭せばき垣根かきねのうちなりとも、その折をりの心こころ見み知しるばかり、春はるの花はなの木きをも植うゑわたし、秋あきの草くさをも堀ほり移うつして、いたづらなる野辺のべの虫むしをも棲すませて、人ひとに御覧ごらんぜさせむと思おもひたまふるを、いづ方かたにか御心みこころ寄よせはべるべからむ」

 と聞きこえたまふに、いと聞きこえにくきこととおぼせど、むげに絶たえて御応おほんいらへ聞きこえたまはざらむもうたてあれば、

「まして、いかが思おもひ分わきはべらむ。げに、いつとなきなかに、あやしと聞ききし夕ゆふべこそ、はかなう消きえたまひにし露つゆのよすがにも、思おもひたまへられぬべけれ」

 と、しどけなげにのたまひ消けつも、いとらうたげなるに、え忍しのびたまはで、

君きみもさはあはれを交かはせ人ひと知しれずわが身みにしむる秋あきの夕風ゆふかぜ

「忍しのびがたき折々をりをりもはべりかし」

 と聞きこえたまふに、いづこの御応おほんいらへかはあらむ、心得こころえず、とおぼしたる御みけしきなり。このついでに、え籠こめたまはで、恨うらみきこえたまふことどもあるべし。

 今いますこし、ひがこともしたまひつべけれども、いとうたてとおぼいたるもことわりに、わが御心みこころも若々わかわかしうけしからず、とおぼし返かへして、うち嘆なげきたまへるさまの、もの深ふかうなまめかしきも心こころづきなうぞおぼしなりぬる。やをらづつひき入いりたまひぬるけしきなれば、

「あさましうも、疎うとませたまひぬるかな。まことに心こころ深ふかき人ひとはかくこそあらざなれ。よし、今いまよりは、憎にくませたまふなよ。つらからむ」

 とて、渡わたりたまひぬ。うちしめりたる御匂おほんにほひのとまりたるさへ、疎うとましくおぼさる。人々ひとびと御格子みかうしなど参まゐりて、

「この御茵おほんしとねの移うつり香が、言いひ知しらぬものかな。いかでかく取とり集あつめ、柳やなぎの枝えだに咲さかせたる御おほんありさまならむ。ゆゆしう」

 と聞きこえあへり。

対に渡りたまひて

 対たいに渡わたりたまひて、とみにも入いりたまはず、いたう眺ながめて、端近はしぢかう臥ふしたまへり。燈ひ籠こ遠どほくかけて、近ちかく人々ひとびとさぶらはせたまひて、物語ものがたりなどせさせたまふ。かうあながちなることに胸むねふたがる癖くせの、なほありけるよ、とわが身みながらおぼし知しらる。これはいと似にげなきことなり。恐おそろしう罪つみ深ふかき方かたは多おほうまさりけめど、いにしへの好すきは思おもひやりすくなきほどの過あやまちに、仏神ほとけかみも許ゆるしたまひけむ、と、おぼしさますも、なほ、この道みちはうしろやすく、深ふかき方かたのまさりけるかな、とおぼし知しられたまふ。

 女御にようごは秋あきのあはれを知しり顔がほに応いらへ聞きこえてけるも、悔くやしう恥はづかしと、御心みこころひとつにものむつかしうて、悩なやましげにさへしたまふを、いとすくよかにつれなくて、常つねよりも親おやがりありきたまふ。

 女君をんなぎみに、

「女御にようごの秋あきに心こころを寄よせたまへりしもあはれに、君きみの春はるの曙あけぼのに心こころしめたまへるもことわりにこそあれ。時々ときどきにつけたる木草きくさの花はなによせても、御心みこころとまるばかりの遊あそびなどしてしがな」と、

「公私おほやけわたくしのいとなみしげき身みこそふさはしからね、いかで思おもふことしてしがな」と、

「ただ、御おほんためさうざうしくやと思おもふこそ、心苦こころぐるしけれ」

 など語かたらひきこえたまふ。

山里の人もいかに

 山里やまざとの人ひともいかに、など絶たえずおぼしやれど、所狭ところせさのみまさる御身おほんみにて、渡わたりたまふこと、いとかたし。世よの中なかをあぢきなく憂うしと思おもひ知しるけしき、などかさしも思おもふべき。心こころやすく立たち出いでて、おほぞうの住すまひはせじと思おもへるを、おほけなしとはおぼすものから、いとほしくて、例れいの、不断ふだんの御念仏おほんねんぶつにことつけて渡わたりたまへり。

 住すみ馴なるるままに、いと心こころすごげなる所ところのさまに、いと深ふかからざらむことにてだに、あはれ添そひぬべし。まして、見みたてまつるにつけても、つらかりける御契おほんちぎりの、さすがに、浅あさからぬを思おもふに、なかなかにて慰なぐさめがたきけしきなれば、こしらへかねたまふ。いと木繁こしげき中なかより、篝火かがりびどもの影かげの、遣水やりみづの螢ほたるに見みえまがふもをかし。

「かかる住すまひにしほじまざらましかば、めづらかにおぼえまし」

 とのたまふに、

漁いさりせし影かげ忘わすられぬ篝火かがりびは身みの浮舟うきふねや慕したひ来きにけむ

「思おもひこそ、まがへられはべれ」

 と聞きこゆれば、

浅あさからぬしたの思おもひを知しらねばやなほ篝火かがりびの影かげは騒さわげる

「誰たれ憂うきもの」

 と、おし返かへし恨うらみたまへる。

 大方おほかたもの静しづかにおぼさるるころなれば、尊たふときことどもに御心みこころとまりて、例れいよりは日ひごろ経へたまふにや、すこし思おもひ紛まぎれけむ、とぞ。

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