『平家物語』原文・現代語訳を全文公開! 品詞分解も順次追加中! 『平家物語』を読む

『平家物語』第1巻 現代語訳全文

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目次

祇園精舎

 祇園精舎の鐘の音には、すべてのものは移り変わり、永遠に変わらないものはないという響きがある。娑羅双樹の花の色は、栄える者も必ず衰えるという道理を表している。思い上がった者の栄華も長くは続かず、ただ春の夜の夢のようである。勢いの激しい者もついには滅びてしまう。まったく風の前の塵と同じである。

 遠く中国の例を調べてみると、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山がいる。これらはみな、かつての主君や先の皇帝の政治に従わず、楽しみの限りを尽くし、人の忠告を心に留めず、天下が乱れるであろうことにも気づかず、民が苦しんでいることを知らなかったため、長くは続かずに滅びた者たちである。

 近く日本の例を見ると、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼がいる。これらの者は、思い上がった心も勢いの激しさもそれぞれであったが、近い時代では六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公という方のありさまを伝え聞くと、想像することも言葉に表すこともできないほどである。

 その先祖をたどると、清盛は桓武天皇の第5皇子である一品式部卿葛原親王の9代後の子孫に当たり、讃岐守正盛の孫で、刑部卿忠盛朝臣の嫡男である。その葛原親王の御子、高視王は官職も位階もないまま亡くなられた。その御子である高望王の代になって初めて平の姓を授けられ、上総介になられたことから、すぐに王族の身分を離れて臣下の列に加わった。

 その子は鎮守府将軍義茂で、後に国香と名を改めた。国香から正盛に至るまでの6代は諸国の受領を務めていたが、殿上人の名簿に名を連ねることはまだ許されていなかった。

殿上闇討

 ところが、忠盛が備前守であった時、鳥羽院のご願による得長寿院を造って献上し、33間の御堂を建て、1,001体の仏像を安置した。供養は天承元年3月13日である。褒美には、国司の空席がある国を与えるようにと仰せが下された。ちょうど但馬国の国司が空席だったので、その国を賜った。上皇は深く感心され、内裏での昇殿をお許しになった。忠盛は36歳で初めて昇殿した。殿上人たちはこれをねたみ、同じ年の11月23日、五節の豊明の節会の夜に、忠盛を闇討ちにしようと企てた。忠盛はこれを伝え聞いて、

「私は文筆を仕事にする者ではなく、武勇の家に生まれた者だ。今、思いがけない恥を受けることになれば、家にとっても、自分にとってもつらいことだ。つまるところ、自分の身を無事に保って主君に仕えるという教えがある」

 と、あらかじめ準備を整えた。参内した時から大きな鞘巻を用意して、束帯の下に無造作に差していた。そして明かりの薄暗い方に向かって、静かにその刀を抜き出し、鬢に引き当てると、氷のように光って見えた。人々は目を凝らした。

 そのうえ、忠盛の郎等に、もとは一門であった木工助平貞光の孫、しんの三郎太夫家房の子で、左兵衛尉家貞という者がいた。薄青の狩衣の下に萌黄威の腹巻を着て、弦袋をつけた太刀を脇に挟み、殿上の小庭にかしこまって控えていた。貫首以下の殿上人たちは怪しんで、

「うつぼ柱より内側、鈴の綱の辺りに、布衣の者が控えているのは何者だ。無礼である。退出せよ」

 と、六位の者を通じて言わせたところ、家貞はこう答えた。

「代々お仕えしている主君の備前守殿が、今夜、闇討ちにされると伺いましたので、どうなるか見届けようと、こうして控えております。退出するわけにはまいりません」

 と、かしこまって控え続けた。こうした様子を見て、手出しをしても仕方がないと思ったのだろうか。その夜の闇討ちはなかった。

 忠盛が御前のお召しによって舞うと、人々は拍子を変えて、

「伊勢平氏は、すがめであったよ」

 とはやしたてた。この人たちは、口にするのも恐れ多い柏原天皇の子孫ではあるが、近ごろは都で暮らすことも少なく、昇殿を許されない者として振る舞うことに慣れ、伊勢国に長く住んでいた。それで、その国で作られる瓶にかこつけて、伊勢平氏と呼んだのである。そのうえ、忠盛は斜視であったので、このようにはやしたてた。

 忠盛はどうすることもできず、宴もまだ終わらないうちに、ひそかに退出された。その際、横向きに差していた刀を、紫宸殿の後ろで、そばにいる殿上人たちに見えるように、主殿司を呼んで預けてから出られた。家貞はお待ちしていて、

「それで、いかがでございましたか」

 と申し上げた。忠盛は、こんなことがあったと言いたかったが、言えば、そのまま殿上へ斬り込んで行きかねない者であるので、

「別に何もなかった」

 とお答えになった。

 五節では、

「白い薄様紙、こぜむじの紙、巻上の筆、鞆絵を描いた筆の軸」

 など、さまざまな面白いことを歌いながら舞うものだが、近ごろ、太宰権帥季仲卿という方がいた。あまりに色が黒かったので、見る人は黒帥と呼んだ。その方がまだ蔵人頭だった時、五節で舞うと、それも拍子を変えて、

「ああ、黒々とした、黒い頭だな。どんな人が漆を塗ったのだろう」

 とはやしたてた。また、花山院の前太政大臣忠雅公は、まだ10歳の時に父の中納言忠宗卿に先立たれ、父のない身でおられた。亡き中御門藤中納言家成卿が、まだ播磨守であった時、この方を婿に迎え、華やかにお世話したので、それも五節で、

「播磨の米は、砥草か、椋の葉か。人のきらびやかさを磨き出すとは」

 とはやしたてた。昔はこのようなことがあっても、問題は起こらなかった。今の世ではどうなるだろうか。心配だと人々は言った。

 案の定、五節が終わると、殿上人たちは口をそろえて、

「そもそも剣を帯びて朝廷の宴に列席し、武器を与えられて宮中を出入りするのは、いずれも格式の礼に従い、天皇の命令に根拠のある先例です。ところが忠盛朝臣は、代々仕える郎従だと称して、布衣の武者を殿上の小庭に呼び置き、また、腰の刀を横向きに差して節会の席に列なりました。この2件は前代未聞の無礼な振る舞いです。罪はすでに重なっており、処罰を免れることはできません。速やかに殿上人の名札を削り、官職を解いて任官を停止されるべきです」

 と、それぞれ訴え申し上げた。上皇は大いに驚かれ、忠盛を召してお尋ねになった。忠盛は弁明して申し上げた。

「まず、郎従が小庭に控えていたことは、まったく存じません。ただ、近ごろ人々がともに企てておられることに、事情があるようですので、長年仕えている家人がそのことを伝え聞き、私の恥を防ごうとして、忠盛に知られないよう、ひそかに参ったのでしょう。それは私にはどうしようもないことです。それでもなお罪があるというのでしたら、その者を召し出して差し上げるべきでしょうか。次に刀のことですが、主殿司に預けてあります。それをお取り寄せになり、本物の刀かどうかによって、おとがめの有無をお決めいただくべきかと存じます」

 と申し上げた。もっともだということで、その刀を取り寄せて上皇がご覧になると、外側は黒塗りの鞘巻だったが、中身は木刀に銀箔を貼ったものだった。

「その場で恥を受けるのを免れるために、刀を帯びているように見せながら、後で訴えられることを考えて木刀を差していたとは、その用意は見事である。武芸に携わる者の思慮は、まさにこのようであってほしい。また、郎従が小庭に控えていたことも、武士の郎等としては当然の行動である。忠盛の罪ではない」

 と、かえって上皇のお褒めにあずかったので、処罰の話はまったくなかった。

鱸

 忠盛の子たちは諸衛府の次官となり、昇殿したが、殿上で交わることを人から嫌われることもなくなった。

 そのころ、忠盛が備前国から都へ上った時、鳥羽院が、

「明石浦はどうであったか」

 とお尋ねになったので、

「有明の月も明るく照る明石の浦で、浦風に吹かれて、波ばかりが岸に寄ってくると見えました」

 と歌を詠んで申し上げると、お褒めにあずかった。この歌は『金葉集』に収められた。

 忠盛はまた、仙洞御所に、こよなく愛する女房がいて、そのもとに通っておられた。ある時、その女房の部屋に、端に月を描いた扇を忘れて出られた。そばの女房たちが、

「これはどこから来た月の光でしょう。出てきたところがわかりませんね」

 などと笑い合うと、その女房は、

「宮中の雲の上から、ただ漏れてきた月の光なのですから、軽々しくは口にするまいと思います」

 と詠んだ。それで忠盛は、ますます深く愛するようになられた。薩摩守忠度の母は、この女房である。似た者が友になるとかいうとおり、忠盛も風流を好んだので、この女房も優雅な人であった。こうして忠盛は刑部卿になり、仁平3年1月15日、58歳で亡くなった。清盛は嫡男であったので、その跡を継いだ。

 保元元年7月、宇治の左大臣が世を乱された時、清盛は安芸守として天皇方に付き、手柄を立てたので、播磨守に移り、同3年には太宰大弐となった。次に平治元年12月、信頼卿が謀反を起こした時にも、天皇方に付いて賊徒を討ち平らげた。手柄は一つではなく、恩賞も重くするべきだということで、翌年、正三位に叙せられた。続いて宰相、衛府督、検非違使別当、中納言、大納言と次々に昇進し、そのうえ大臣の位にまで至り、右大臣、左大臣を経ずに、内大臣から太政大臣、従一位に上った。大将ではないが武器を賜って、随身を連れて歩いた。牛車や輦車に乗ることを許す宣旨を受け、車に乗ったまま宮中を出入りした。まったく政治を執り行う最高の臣下のようである。

「太政大臣は天皇のお手本となり、天下の模範となる。国を治め、道を論じ、陰陽を調和させて整える。ふさわしい人物がいなければ、その職は空けておけ」

 と定められている。そのため、則欠の官とも名づけられている。ふさわしい人物でなければ就いてはならない官職だが、清盛は天下を手の中に握っておられたので、とやかく言う余地はなかった。

 平家がこのように繁栄されたのも、熊野権現のご利益によるものだと言われていた。その理由は、以前、清盛公がまだ安芸守だった時、伊勢の海から船で熊野へ参詣されたところ、大きな鱸が船に跳び込んできた。先達は、

「これは権現のご利益です。早く召し上がるべきです」

 と申し上げた。すると清盛は、

「昔、周の武王の船には、白い魚が跳び込んできたそうだ。これはめでたいことだ」

 とおっしゃった。それで、厳しく十戒を守り、精進潔斎をしている参詣の道中であったが、その魚を料理し、一族も侍も、ともに食べさせられた。そのためだろうか。めでたいことばかりが続き、太政大臣にまで昇り詰められた。子孫の昇進も、竜が雲に上るより、さらに速かった。9代にわたる先祖の歩みを越えられたことは、まことにめでたい。

禿髪

 こうして清盛公は、仁安3年11月11日、51歳の時に病気になり、命を長らえるため、すぐに出家して入道となった。法名は浄海と名乗られた。その効き目だろうか。長く患っていた病もたちまち治り、命を全うした。人々が従い、付き従う様子は、吹く風が草木をなびかせるようである。世の人々が広く仰ぎ見る様子は、降る雨が国土を潤すのと同じである。

 六波羅殿のご一門の公達といえば、名門の貴族も英雄も、正面から向き合ったり、肩を並べたりする人はいなかった。それで、入道相国の妻の弟、平大納言時忠卿は、

「この一門でない者は、皆、人間のうちには入らないだろう」

 とおっしゃった。そういうありさまだったので、どんな人も、なんとかして平家と縁を結ぼうとした。衣服のひだの整え方や烏帽子の形の整え方をはじめ、何事も六波羅風と呼ばれれば、天下の人々は皆それをまねた。

 また、どれほど賢い帝の政治や摂政、関白の裁きであっても、世間からはみ出した無頼の者などが、人の聞かない所でなんとなく悪口を言い、非難するのはいつものことである。だが、この入道の勢いが盛んな間は、少しでも軽々しくものを言う者はいなかった。

 その理由は、入道相国の策で、14、15、16歳の子どもを300人そろえ、髪をおかっぱ頭に切りそろえ、赤い直垂を着せて使っておられたが、それが都中に満ちて行き来していたからである。たまたま平家の悪口を言う者がいると、誰か一人が聞きつけるまでは何もないが、聞きつければ仲間に触れ回り、その家へ押し入り、財産や家財道具を取り押さえ、その者を捕らえて六波羅へ連れて行った。それで、目に見、心でわかっていても、言葉に出して言う者はいなかった。六波羅殿の禿といえば、道を行く馬や車も、道をよけて通った。宮門を出入りしても姓名を尋ねられることはなく、都を取り締まる役人たちも、そのために目をそらしているように見えた。

吾身栄花

 清盛は自分一人の栄華を極めるだけでなく、一門もともに繁栄した。嫡男重盛は内大臣、左大将、次男宗盛は中納言、右大将、三男知盛は三位中将、嫡孫維盛は四位少将となった。一門の公卿は合わせて16人、殿上人は30余人。諸国の受領、衛府、諸司の官職に就いた者は、合計60余人である。世には、ほかに人がいないかのように見えた。

 昔、奈良の帝の御代、神亀5年に、朝廷で初めて中衛の大将を置き、大同4年に中衛を近衛と改められて以来、兄弟が左右の大将として並んだことは、わずか3、4度である。文徳天皇の御代には、左は良房、右大臣で左大将、右は良相、大納言で右大将。この二人は閑院の左大臣冬嗣の御子である。朱雀院の御代には、左は実頼、小野宮殿、右は師輔、九条殿で、貞信公の御子である。御冷泉院の御代には、左は教通、大二条殿、右は頼宗、堀河殿で、御堂の関白の御子である。二条院の御代には、左は基房、松殿、右は兼実、月輪殿で、法性寺殿の御子である。これらは皆、摂政、関白を務めた臣下のご子息で、それ以外の人には例がない。

 殿上で交わることさえ嫌われた人の子孫が、禁色や雑袍の着用を許され、綾、薄絹、錦、刺繡の衣を身にまとい、大臣、大将になって、兄弟で左右に並ぶとは、末の世とはいえ、不思議なことであった。

 そのほかに、娘が8人おられた。皆、それぞれに幸せな身分となられた。一人は、桜町の中納言重教卿の妻になられるはずだったが、8歳の時に約束をしただけで、平治の乱の後に婚約が変わり、花山院の左大臣殿の奥方になられ、子どもが多くおられた。

 そもそも、この重教卿を桜町の中納言と呼んだのは、たいそう風流を好まれる方で、いつも吉野山を恋しく思い、邸内に桜を植え並べ、その中に家を建てて住んでおられたからである。翌年から春が来るたびに、見る人は桜町と呼んだ。桜は咲いて7日で散るが、名残を惜しんで天照御神にお祈り申し上げたところ、21日まで花が残った。帝も賢いお方であられたので、神も神徳を輝かせ、花にも心があったので、20日の命を保った。

 一人は后に立たれた。皇子がお生まれになり、皇太子となって、帝の位にお就きになったので、院号を賜り、建礼門院と申し上げた。入道相国の娘であるうえ、天下の国母であられたので、とやかく申し上げるまでもない。一人は六条の摂政殿の北政所になられた。高倉院が在位しておられた時、御母代として准三后の宣旨を受け、白河殿と呼ばれる重んじられたお方であった。一人は普賢寺殿の北政所になられた。一人は冷泉大納言隆房卿の妻。一人は七条修理大夫信隆卿の妻になられた。また、安芸国厳島の内侍との間に一人おられた娘は、後白河法皇のもとへ差し上げられ、女御のような身分でおられた。そのほか、九条院の雑仕である常葉との間にも一人おられた。この方は花山院殿に上臈女房として仕え、廊の御方と呼ばれた。

 日本、秋津島はわずか66か国。そのうち平家が支配する国は30余か国で、すでに国全体の半分を越えていた。そのほかの荘園、田畑は、いくらあるのか数もわからない。美しく着飾った人々が満ち、御殿の中は花のようであった。車や馬が群れ集まり、門前は市のようなにぎわいを見せた。楊州の黄金、荊州の真珠、呉郡の綾、蜀江の錦。あらゆる珍宝は、一つとして欠けるものがなかった。歌や舞を楽しむ御殿の構え、魚竜爵馬の見せ物。おそらく内裏も仙洞御所も、これ以上ではないだろうと思われた。

祇王

 入道相国は、天下を手の中に握っておられた間、世間の非難もはばからず、人の嘲りも気にせず、道理に外れたことばかりなさった。たとえば、そのころ都で評判だった白拍子の名手に、祇王、祇女という姉妹がいた。とぢという白拍子の娘である。姉の祇王を入道相国がこよなく愛されたので、妹の祇女も世間の人からたいそう大切にされた。母のとぢにも立派な家を建てて与え、毎月、米100石、銭100貫を送られたので、一家は富み栄え、暮らしの楽しさは並々でなかった。

 そもそも日本で白拍子が始まったのは、昔、鳥羽院の御代に、島の千歳、和歌の前という二人が舞い始めた時である。初めは水干に立烏帽子をかぶり、白鞘巻を差して舞ったので、男舞と呼んだ。それが近ごろになって烏帽子と刀を取り除き、水干だけを用いるようになった。そうして白拍子と名づけられたのである。

 都中の白拍子たちは、祇王の幸運のすばらしさを聞いて、うらやむ者も、ねたむ者もいた。うらやむ者たちは、

「ああ、祇王御前の幸運は、なんとすばらしいのでしょう。同じ遊女になるなら、誰もが皆、あのようでありたいものです。きっとこれは、祇という字を名につけたので、こんなに幸せなのでしょう。さあ、私たちもつけてみましょう」

 と言って、祇一、祇二と名づけたり、祗福、祗徳などと名乗る者もいた。ねたむ者たちは、

「どうして名前や文字によるものでしょう。幸運はただ、前世からの定めによるものなのでしょう」

 と言って、つけない者も多かった。

 こうして3年目に、また都で評判となる白拍子の名手が一人現れた。加賀国の者で、名を仏といった。年は16歳だと聞いている。

「昔から大勢の白拍子がいたが、これほどの舞は、まだ見たことがない」

 と、都中の身分の高い人も低い人も、たいそうもてはやした。仏御前は、

「私は天下に名が知られていますが、今、あれほどすばらしく栄えておられる平家の太政の入道殿に呼ばれないのが残念です。芸をする者の習いですから、何をためらうことがありましょう。こちらから参ってみましょう」

 と言って、ある時、西八条へ参った。人が入道のもとへ参って、

「今、都で評判の仏御前が参っております」

 と申し上げると、入道は、

「何を言うか。そのような芸をする者は、人に呼ばれてこそ参るものだ。勝手に押しかけてくることがあるか。祇王のいる所へは、神といおうが仏といおうが、入れるわけにはいかぬ。早く退出せよ」

 とおっしゃった。仏御前は冷たく言われ、もう帰ろうとしていたが、祇王は入道殿に申し上げた。

「芸をする者が自分から参るのは、いつものことでございます。そのうえ、年もまだ幼いそうですが、思い立って参りましたのに、冷たくおっしゃってお帰しになるのは、かわいそうです。どれほど恥ずかしく、いたたまれない思いをしていることでしょう。私も歩んできた道ですので、人ごととは思えません。たとえ舞をご覧にならず、歌をお聞きにならなくても、お会いになるだけでお帰しになれば、たいそうありがたいお情けでございましょう。どうかお考えを曲げて、呼び戻してお会いになってください」

 と申し上げると、入道は、

「そうか、そうか。そなたがそこまで言うのなら、会って帰そう」

 と、使いを立てて呼ばれた。仏御前は冷たく言われ、車に乗って、もう出ようとしていたが、呼ばれて戻って参った。入道は出て会い、

「今日、会うはずではなかったが、祇王が何を思ったのか、しきりに勧めるので、こうして会った。会った以上、声も聞かずにいられるものか。今様を一つ歌ってみよ」

 とおっしゃると、仏御前は、

「かしこまりました」

 と言って、今様を一つ歌った。

「初めてお目にかかるあなた様は、千年も生き続けるであろう姫小松のようです。御前の池の亀岡には、鶴が群れ集まって遊んでいるようです」

 と、繰り返し3度、見事に歌い上げたので、見聞きしていた人々は皆、驚嘆した。入道もすばらしいと思われ、

「そなたは今様が上手であったな。この様子では、舞もきっとよいだろう。一番見たい。鼓打ちを呼べ」

 と言って呼ばれた。仏御前は鼓を打たせ、一番舞った。

 仏御前は髪の様子をはじめ、顔立ちも姿も美しく、声がよく、節回しも上手だったので、どうして舞をしくじることがあろうか。想像も及ばないほど見事に舞い終えたので、入道相国はその舞に見とれ、仏に心を移された。仏御前は、

「いったい、これはどういうことでございましょう。もともと私は、勝手に参った者として追い返されましたが、祇王御前のお口添えによって呼び戻されたのです。こうしてお留めになるなら、祇王御前がどうお思いになるか、恥ずかしゅうございます。どうか早くお暇をいただき、退出させてください」

 と申し上げた。入道は、

「まったく、そのようなことはならぬ。ただ祇王がいるので遠慮しているのか。そういうことなら、祇王を退出させよう」

 とおっしゃった。仏御前は、

「それも、どうしてそのようなことができましょう。二人一緒にお留めになるだけでも心苦しゅうございますのに、まして祇王御前をお出しになって、私一人をお留めになれば、祇王御前のお気持ちを思うと恥ずかしゅうございます。もし後までお忘れにならないのでしたら、お召しがあれば、また参りましょうが、今日はお暇をいただきとうございます」

 と申し上げた。入道は、

「何を言うか。そんなことはならぬ。祇王は早く退出せよ」

 と、使いを重ねて3度まで立てられた。祇王も、もともと覚悟していたことではあったが、まさか、すぐにそうなるとは思っていなかった。急いで出るようにとしきりに言われるので、掃き、拭き、塵を拾わせ、見苦しい物を片づけて、出て行くことに決まった。

 一本の木の陰でともに休み、同じ流れの水をすくって飲んだだけでも、別れは悲しいものだ。まして、この3年の間住み慣れた所なので、名残惜しく悲しくて、どうにもならない涙がこぼれた。そうしているわけにもいかず、祇王は、もうこれまでと出て行こうとしたが、自分がいなくなった後の形見にでもと思ったのだろうか。泣きながら障子に一首の歌を書きつけた。

「芽を出す草も枯れてゆく草も、同じ野辺の草です。どの草も、秋を迎えずに終わることはありません」

 そして車に乗って自分の家へ帰り、障子の内側に倒れ伏し、ただ泣くばかりだった。母や妹はこれを見て、

「どうしたのです、どうしたのです」

 と尋ねたが、何の返事もできなかった。付き添っていた女に尋ねて、そのようなことがあったと知った。そのうちに、毎月送られていた米100石、銭100貫も止められ、仏御前と縁のある者たちが、初めて豊かに栄えるようになった。都中の身分の高い人も低い人も、

「祇王は入道殿から暇を出され、帰ってきたそうだ。さあ、会って遊ぼう」

 と言って、手紙を送る人も、使いを立てる者もいた。しかし祇王は、だからといって今さら人に会って遊び興じる気にもなれず、手紙を受け取ることもなく、まして使いに応対することもなかった。こうしたことにつけても悲しく、ますます涙に沈むばかりだった。

 こうしてこの年も暮れた。翌年の春ごろ、入道相国は祇王のもとへ使者を立て、

「どうだ、その後、変わりはないか。仏御前がたいそう退屈そうに見えるので、参って今様を歌い、舞などを舞って、仏を慰めよ」

 とおっしゃった。祇王は何の返事もできなかった。入道は、

「なぜ祇王は返事をしないのだ。参らないつもりか。参らないのなら、そう申せ。浄海にも考えがある」

 とおっしゃった。母のとぢはこれを聞いて悲しく、どうしたらよいかもわからなかった。泣きながら言い聞かせた。

「ねえ、祇王御前。どうとでもお返事を申し上げなさい。そのように叱られるよりは」

 と言うと、祇王は、

「参ろうと思っているなら、すぐに参るとも申し上げましょう。参らないのですから、どうお返事を申し上げればよいかもわかりません。今度、お召しに応じて参らなければ考えがあるとおっしゃるのは、都の外へ追い出されるか、そうでなければ命を取られるか、この二つを越えることは、よもやないでしょう。たとえ都を追い出されても、嘆くことはありません。たとえ命を取られても、この身を惜しむこともありません。一度お嫌いになられた以上、再び顔を合わせるわけにはいきません」

 と言って、なお返事を申し上げなかった。母のとぢは重ねて言い聞かせた。

「この世で暮らす間は、どうあっても入道殿のお言いつけに背いてはならないのですよ。男女の縁や前世からの定めは、今に始まったことではありません。千年、万年と約束しても、すぐに別れる仲もあります。ほんの一時と思っていても、最後まで続くこともあります。世の中で定まらないものは、男女の仲なのです。それなのに、お前はこの3年まで愛していただいたのですから、ありがたいお情けではありませんか。

お召しに応じて参らないからといって、命を取られることまでは、よもやないでしょう。ただ都の外へ追い出されるのでしょう。たとえ都を追い出されても、お前たちは若いから、どんな岩や木の間でも暮らしていくのは難しくないでしょう。けれど、年老いて衰えた母も、都の外へ追い出されるのでしょう。慣れない旅暮らしは、前もって考えるだけでも悲しいのです。どうか私を、都の中で最後まで暮らさせてください。それこそ、この世でも来世でも、親孝行だと思います」

 と言うと、祇王は、つらいと思っていた道ではあったが、親の言いつけには背くまいと、泣きながらまた出かけた。その心の内は、まことに痛ましい。一人で参るのはあまりにつらいので、妹の祇女も連れて行った。そのほかに白拍子二人、合わせて4人が一つの車に乗って、西八条へ参った。以前いつも呼ばれていた所には入れてもらえず、はるかに下座の所に席を設けて、そこへ置かれた。祇王は、

「いったい、これはどういうことなのだろう。私に過ちがあるわけではないのに、捨てられただけでもつらいことなのに、席まで下げられるとは、なんと悲しいことか。どうしたらよいのだろう」

 と思い、人に気づかれまいと袖で押さえても、その隙間からあふれて涙がこぼれた。仏御前はこれを見て、あまりに気の毒に思い、

「あれはどういうことでしょう。いつもお召しにならなかった方なら、あの席でもよいでしょうが。どうかこちらへお呼びください。そうでなければ、私にお暇をください。私が出てお会いしましょう」

 と申し上げた。入道は、

「まったく、そのようなことはならぬ」

 とおっしゃったので、どうすることもできず、仏御前は出なかった。その後、入道は祇王の心の内もおわかりにならず、

「どうだ、その後、変わりはないか。さて、仏御前がたいそう退屈そうに見えるので、今様を一つ歌ってくれ」

 とおっしゃった。祇王は、参った以上は、どうあっても入道殿のお言いつけに背くまいと思い、落ちる涙を押さえて、今様を一つ歌った。

「仏も昔は普通の人だった。私たちも、ついには仏となる。誰もが仏となる性質を備えた身なのに、隔てをつけることこそ悲しい」

 と、泣きながら2度歌うと、その席に大勢並んでおられた平家一門の公卿、殿上人、諸大夫から侍に至るまで、皆、感動の涙を流された。入道もすばらしいと思われ、

「今、この場にふさわしい歌を、見事に歌った。さて、舞も見たいが、今日はほかに取り込むことができた。この後は、呼ばなくてもいつも参って、今様を歌い、舞などを舞って、仏を慰めよ」

 とおっしゃった。祇王は何の返事もできず、涙を押さえて退出した。

「親の言いつけに背くまいと、つらい所へ出向いて、二度も悲しい目に遭ったことがつらくてなりません。このままこの世に生きていれば、またつらい目に遭うでしょう。今はただ、身を投げようと思います」

 と言うと、妹の祇女も、

「姉が身を投げるなら、私も一緒に身を投げましょう」

 と言った。母のとぢはこれを聞いて悲しく、どうしたらよいかもわからなかった。泣きながら、また言い聞かせた。

「本当に、お前が恨むのももっともです。そのようなことがあるとは知らず、言い聞かせて参らせてしまったことが、つらくてなりません。お前が身を投げるなら、妹も一緒に身を投げると言います。二人の娘にともに先立たれた後、年老いて衰えた母が生きていても、何になるでしょう。私も一緒に身を投げようと思います。まだ死ぬ時も来ていない親に身を投げさせることは、五逆罪になるのではないでしょうか。

この世は仮の宿です。いくら恥を受けても、どうということはありません。ただ、長く続く来世の闇こそ、つらいものです。この世だけのことならともかく、来世までも悪道へ向かうことになるとは、なんと悲しいことでしょう」

 と、さめざめと泣きながら訴えたので、祇王は涙を押さえて、

「確かに、そのようなことになれば、五逆罪であることに疑いはありません。それなら、自害は思いとどまります。このまま都にいれば、またつらい目に遭うでしょう。今は都の外へ出ましょう」

 と言って、祇王は21歳で尼になり、嵯峨野の奥の山里に粗末な庵を結んで、念仏を唱えて暮らした。妹の祇女も、

「姉が身を投げるなら、私も一緒に身を投げようと約束したのです。まして、世を捨てることなら、どうして私が後れを取るでしょう」

 と言って、19歳で尼になり、姉と同じ所にこもって来世の幸せを願う姿は、しみじみと心を打つものだった。母のとぢはこれを見て、若い娘たちさえ尼になる世の中で、年老いて衰えた母が白髪を生やしていても何になろうと、45歳で髪を剃った。そして二人の娘とともに、ひたすら念仏を唱え、ただ来世の幸せを願った。

 こうして春が過ぎ、夏も盛りとなった。秋の初風が吹くと、牽牛と織女が出会う空を眺め、天の川を渡る舟の梶にちなむ梶の葉に、願い事を書くころである。夕日が西の山の端に隠れるのを見ても、日の沈む所は西方浄土なのだろう、いつか私たちもそこに生まれ、物思いをせずに暮らせるだろうかと、こうしたことにつけても過ぎ去ったつらい出来事を次々と思い出し、ただ尽きないものは涙であった。

 たそがれ時も過ぎたので、竹を編んだ戸を閉ざし、灯をかすかに明るくして、親子3人が念仏を唱えていたところ、竹の編戸をとんとんとたたく者が現れた。その時、尼たちは肝をつぶし、

「ああ、これは、取るに足らない私たちが念仏を唱えているのを妨げようと、魔物が来たのでしょう。昼でさえ人が訪ねてこない山里の粗末な庵ですから、夜が更けてから誰が訪ねてくるでしょう。薄い竹の編戸ですから、開けなくても押し破るのは簡単でしょう。かえって、そのまま開けて入れようと思います。もし相手が情けをかけず、私たちの命を奪うようなら、長年おすがりしている阿弥陀仏の本願を強く信じ、絶え間なくお名を唱えましょう。その声を頼りに迎えに来てくださるという聖衆の来迎なのですから、どうして浄土へお導きくださらないことがありましょう。くれぐれも念仏を怠らないでください」

 と、互いに心を戒めて竹の編戸を開けると、魔物ではなかった。仏御前が来たのである。祇王は、

「まあ、どうしたことでしょう。仏御前とお見受けするのは、夢でしょうか、現実でしょうか」

 と言った。仏御前は涙を押さえて、

「このようなことを申し上げるのは、今さらのことでございますが、申し上げなければ、人の気持ちをわからない者と思われてしまいましょうから、初めからお話しします。

もともと私は勝手に参った者として追い返されましたが、祇王御前のお口添えによって呼び戻されたのです。それなのに、女の身の力なさから、自分の思うままにもならず、引き留められてしまったことが心苦しゅうございました。先日、あなたがまたお呼び出しを受け、今様をお歌いになった時にも、身にしみて感じました。いつか私の身にも起こることだと思うと、少しもうれしくはありません。障子にまた、『どの草も、秋を迎えずに終わることはありません』と書き残された筆の跡も、まことにそのとおりだと思いました。

その後は、どこにお住まいか存じませんでしたが、こうして尼になり、一緒にお暮らしだと伺ってからは、たいそううらやましく、いつもお暇を願いました。けれど、入道殿はまったくお聞き入れになりませんでした。

つくづく考えてみますと、この世の栄華は夢の中の夢です。楽しく栄えても、何になりましょう。人として生まれることは難しく、仏の教えに出会うことも難しい。このたび地獄に沈んでしまえば、幾度も生まれ変わり、果てしない年月を経ても、浮かび上がるのは難しいのです。若さを頼みにするべきではありません。老いた者も若い者も、いつ死ぬかわからない世の中で、吐いた息をまた吸うまで生きられるとも限りません。命は、かげろうや稲妻よりも、さらに、はかないものです。一時の楽しみにおごって来世を顧みないことが悲しく、今朝、人目を紛れて出て、このような姿になって参りました」

 と言って、頭からかぶっていた衣を取り除いた。その姿を見ると、尼になって来たのであった。

「こうして尼の姿になって参りましたから、これまでの罪をお許しください。許すとおっしゃってくださるなら、ともに念仏を唱え、同じ蓮の上に生まれる身となりましょう。それでもなおお気がすまないのなら、ここからどこへでもさまよって行き、どんな苔の上や松の根元にも倒れ伏し、命のある限り念仏を唱えて、往生の願いを遂げようと思います」

 と、さめざめと泣きながら訴えたので、祇王は涙を押さえて、

「本当に、あなたがこれほどまでに思っておられたとは、夢にも知りませんでした。つらい世の中の習いなのですから、自分の身の不幸と思うべきなのに、何かというとあなたのことばかりが恨めしく、往生の願いを遂げられるとも思えず、この世も来世も、かえって損なってしまった気がしていました。けれど、こうして尼の姿になっておいでになったので、これまでの罪は露や塵ほども残りません。今は往生できることに疑いはありません。今度こそ願いを遂げられることが、何よりもうれしいのです。

私たちが尼になったことを、世に例のないことのように人も言い、自分でも思っていました。けれど、それは世を恨み、自分の身を恨んでなったのですから、尼になるのも当然でした。今、あなたの出家に比べれば、物の数にも入りません。あなたには恨みもなく、嘆きもありません。今年わずか17歳になる方が、このように穢れた世を嫌い、浄土に生まれることを願おうと、深く心に思われることこそ、本当に大きな仏道への志だと思います。なんとうれしい、仏道へ導いてくださる方でしょう。さあ、一緒に願いましょう」

 と言って、4人は同じ所にこもり、朝夕、仏前に花や香を供え、ほかのことを思わず往生を願った。早い遅いの違いはあったが、4人の尼は皆、往生の願いを遂げたと聞いている。それで、後白河法皇の長講堂の過去帳にも、祇王、祇女、仏、とぢの尊霊として、4人一緒に記された。しみじみと心を打つ出来事であった。

二代后

 昔から今に至るまで、源氏と平氏の両氏は朝廷に仕え、天皇の教化に従わず、朝廷の権威を軽んじる者には、それぞれに罰を加えたので、世の乱れもなかった。ところが、保元の乱で為義が斬られ、平治の乱で義朝が処刑されてからは、その下の源氏たちも、流されたり、殺されたりした。今は平家の一族だけが繁栄し、頭をもたげる者もいない。どれほど先の世まで行っても、何事も起こらないだろうと思われた。

 しかし、鳥羽院がお亡くなりになってからは、戦乱が続き、死罪、流刑、官職の剝奪、任官の停止がいつも行われ、国内も静かではなく、世の中もまだ落ち着かなかった。とりわけ永暦、応保のころから、院のお側に仕える者は天皇からとがめられ、天皇のお側に仕える者は院からとがめられたので、身分の高い者も低い者も恐れおののき、安心することもなかった。まるで深い淵に臨み、薄い氷を踏むのと同じである。

 天皇と上皇は親子であられたので、お二人の間に何の隔たりがあるはずもないのだが、思いがけないことが起こった。これも、世が衰えた末の時代となり、人々が悪事を優先するためである。天皇は上皇のお言葉にいつも反対なさっていたが、その中でも、人々の耳目を驚かせ、世間が大いに非難することがあった。

 亡き近衛院の后で、太皇太后宮と申し上げる方は、大炊御門右大臣公能公の娘である。先帝に先立たれてからは、宮中の外、近衛川原の御所に移り住んでおられた。前の后として、ひっそりとしたお暮らしであったが、永暦のころには、22、23歳になられていたのだろうか。女盛りも少し過ぎられるころであった。

 それでも天下第一の美人との評判であったので、天皇は色恋にばかり染まったお心で、ひそかに高力士に命じて宮外に女性を求めさせたように、この大宮へ恋文をお送りになった。大宮はまったくお聞き入れにならなかった。そこで天皇は、もっぱら公然と事を進め、后が入内するよう、右大臣家に宣旨を下された。これは天下において異例の大事なので、公卿たちが評議し、それぞれ意見を述べた。

「まず外国の先例を尋ねると、中国の則天皇后は唐の太宗の后で、高宗皇帝の継母です。太宗の崩御後、高宗の后に立たれたことがあります。しかし、それは外国の先例であるうえ、事情の異なることです。日本では、神武天皇以来、人皇70余代に至るまで、まだ二代の帝の后に立たれた例を聞きません」

 と、公卿たちは口をそろえて申し上げた。上皇も、そのようなことはしてはならないと説得されたが、天皇は、

「天子に父母はない。私は十善の戒を守った功徳によって、天皇の尊い位を保っている。これほどのことを、どうして私の思うままにできないのか」

 とおっしゃり、すぐに入内の日が宣下されたので、上皇もどうすることもできなかった。

 大宮は、こうなったとお聞きになってから、涙に沈んでおられた。先帝に先立たれた久寿の秋の初めに、同じ野原の露となって消え、あるいは家を出て世を逃れていたなら、このようなつらい知らせを聞かなかっただろうにと、お嘆きになった。父の大臣は、お慰めして申し上げた。

「世に従わない者を狂人とする、と書物にもございます。すでに天皇の命令が下されています。事情を申し立てる余地はありません。ただ速やかに宮中へお入りになるべきです。もし皇子がお生まれになり、あなたも国母と呼ばれ、この老いぼれも外祖父として仰がれることになる、その吉兆なのでございましょうか。これは、ひとえにこの老いぼれを助けてくださる、至上の親孝行となりましょう」

 と申し上げたが、お返事もなかった。大宮はそのころ、何気なく文字を書いておられたついでに、歌を記された。

「つらい節目に、沈んで消えてしまうこともできず、河竹のように、世に例のない名を流してしまうのでしょうか」

 世間には、どうして漏れたのだろうか。人々は、心を打つ、優美な歌の例として語り合った。

 いよいよ入内の日になったので、父の大臣は、お供する公卿や出車の儀式などを、格別に立派に整えてお送りした。大宮には気の進まないお出かけなので、すぐには車にお乗りにならなかった。夜もすっかり更け、夜半になってから、そっと車に乗せられた。入内の後は、麗景殿にお住まいになった。もっぱら天皇が政務に励まれるよう、お勧めになるご様子であった。

 紫宸殿の天皇のお住まいには、賢聖の障子が立てられていた。伊尹、第伍倫、虞世南、太公望、甪里先生、李勣、司馬、手長、足長、馬形の障子、鬼の間、李将軍の姿をそのまま写した障子もある。尾張守小野道風が、7度、賢聖の障子を書いたことも、もっともなことと思われた。

 清涼殿の絵を描いた御障子には、昔、金岡が描いた、遠山の有明の月もあるという。亡き近衛院がまだ幼い帝であられたころ、何気ないお手遊びのついでに、その月を曇らせるようにお描きになったものが、昔のまま少しも変わらないのをご覧になり、先帝のいらした昔が恋しく思われたのだろうか。

「思ってもみませんでした。つらい身のまま再び宮中に戻り、同じ雲の上の月を見ることになろうとは」

 その間、生き長らえてこられたことは、言いようもなく、哀れで奥ゆかしいことであった。

 そのうち、永万元年の春ごろから、天皇がご病気と伝えられていたが、夏の初めになると、ひどく重くなられた。そのため、大蔵大輔伊吉兼盛の娘との間に、今上天皇の第一皇子で2歳になられる方がおられたので、皇太子に立てられるだろうと聞いていたところ、同年6月25日、急に親王の宣旨が下され、その夜のうちに皇子が皇位を受け継がれた。天下は、なんとなく慌ただしい様子だった。

 その時、朝廷の故実に詳しい人々が語り合った。日本で幼い帝の例を尋ねると、清和天皇は9歳で文徳天皇から皇位を受け継がれた。それは、かの周公旦が成王に代わり、君主の座に就いて、日々のあらゆる政務を治めたことにならい、外祖父の忠仁公が幼い帝を支えられたのである。これが摂政の始まりである。鳥羽院は5歳、近衛院は3歳で皇位にお就きになった。それをさえ早すぎると言ったのに、今度は2歳になられたばかりである。先例はない。騒がしいなどという言葉では、到底言い尽くせない。

額打論

 そのうち、同年7月27日、上皇はついに崩御された。お年は23歳。まだつぼみの花が散ったようであった。玉の簾、錦の帳の内では、皆、涙にむせんでおられた。その夜のうちに、香隆寺の北東、蓮台野の奥にある船岡山にお葬り申し上げた。

 ご葬送の時、延暦寺と興福寺の大衆が、額を打ちつける順序をめぐる争いを起こし、互いに乱暴な行いに及んだ。天下の君主が崩御され、ご遺骸を墓所へお移し申し上げる時の作法として、南都と北都の大衆が皆お供をして、墓所の周りにそれぞれの寺の額を打ちつけることになっている。まず、聖武天皇のご願による寺で、これに張り合うべき寺はないので、東大寺の額を打ちつける。次に、淡海公のご願による寺として、興福寺の額を打ちつける。北都側には、興福寺の額に向かい合わせて延暦寺の額を打ちつける。次に、天武天皇のご願による寺で、教待和尚、智証大師が創建したとして、園城寺の額を打ちつける。

 ところが、山門の大衆はどう思ったのだろうか。先例に背いて、東大寺の次、興福寺の上に延暦寺の額を打ちつけたので、南都の大衆は、こうしようか、ああしようかと評議していた。そこに、興福寺の西金堂の衆で、観音房、勢至房という、名の知られた力の強い僧が二人いた。観音房は黒糸威の腹巻を着て、白柄の長刀を柄を短く持ち、勢至房は萌黄威の腹巻を着て、黒漆の大太刀を持っていた。二人はさっと走り出て、延暦寺の額を斬り落とし、散々に打ち割って、

「うれしい水だ、音を立てるのは滝の水。日が照っても絶えないと歌え」

 とはやしながら、南都の衆徒の中へ入っていった。

清水寺炎上

 山門の大衆は、乱暴を受けたなら反撃するはずなのに、心の奥に何か深い狙いがあったのだろうか。一言も言わなかった。帝がお亡くなりになったからには、心のない草木でさえ悲しみの色を見せるべきなのに、この騒動のあまりのひどさに、身分の高い者も低い者も肝をつぶし、皆、四方へ退散した。

 同月29日の正午ごろ、山門の大衆が大勢、都へ下ってくるとの知らせがあった。武士や検非違使が西坂本へ駆けつけて防いだが、大衆はものともせず押し破って乱入した。誰が言い出したのだろうか。一院が山門の大衆に命じて平家を追討されるという噂が立ったので、軍兵は内裏に集まり、四方の門の入口を警護した。平氏の一族は皆、六波羅へ駆け集まった。一院も急いで六波羅へお出ましになった。清盛公はそのころ、まだ大納言でおられたが、大いに恐れ、騒がれた。小松殿は、

「どうして今、そんなことがあるでしょう」

 と、なだめられたが、身分の高い者も低い者も、騒ぎ立てることは甚だしかった。山門の大衆は六波羅へは攻め寄せず、関わりのない清水寺へ押し寄せ、仏閣や僧房を一棟も残さず焼き払った。これは先日のご葬送の夜に受けた屈辱を晴らすためと聞いている。清水寺は興福寺の末寺だったからである。

 清水寺が焼けた朝、誰の仕業だったのだろうか。

「観音が火の穴を池に変えるというのは、どうしたのか」

 と札に書いて大門の前に立てると、翌日、また、

「永い年月を経て備わった不思議な力も、及ばなかった」

 と、返しの札を打ちつけた。

 衆徒が山へ帰り上ると、一院は六波羅からお帰りになった。重盛卿だけがお供をして参った。父の清盛卿は参らなかった。なお用心のためだろうと聞いている。重盛卿が院をお送りして帰られると、父の大納言はおっしゃった。

「一院のお出ましは、たいそう恐ろしく思われる。以前からお考えになり、何かご命令があったからこそ、こういう噂が立ったのだろう。それについても、油断してはならぬ」

 とおっしゃると、重盛卿は申し上げた。

「このことは、決して表情にも言葉にもお出しになってはなりません。人に気づかせるようで、かえってよくないことです。そうしたことにつけても、院のお考えに背かず、人々にお情けをおかけになれば、神々と仏・法・僧の三宝のご加護がありましょう。そうなれば、お身に危険はございません」

 と言って立ち去られたので、

「重盛卿は、たいそうおおらかな者だな」

 と、父の清盛卿もおっしゃった。

 一院がお帰りになった後、御前に親しい近臣たちが多く控えていた。院が、

「それにしても、不可解なことを言い出したものだ。私は少しも考えていないのに」

 と仰せになると、院の御所に才知の鋭い者として、西光法師という者がいた。ちょうど御前近くに控えていて、

「天には口がない。人を通じて語らせよ、と申します。平家の振る舞いがあまりに度を越しておりますから、天のお計らいなのでしょうか」

 と申し上げた。人々は、

「この話はするべきではありません。壁に耳があります。恐ろしい、恐ろしい」

 と、互いに言い合った。

東宮立

 その年は帝の喪中だったので、御禊も大嘗会も行われなかった。同年12月24日、当時はまだ東の御方と呼ばれていた建春門院と、一院との間にお生まれになった皇子が、親王の宣旨を受けられた。

 翌年、改元があり、仁安と名づけられた。同年10月8日、前年に親王の宣旨を受けられた皇子が、東三条で皇太子に立たれた。皇太子は天皇の伯父で6歳、天皇は皇太子の甥で3歳。どちらも親族の世代の順序に合わない。ただし、寛和2年には一条院が7歳で即位され、三条院が11歳で皇太子に立たれたので、先例がまったくないわけではない。

 天皇は2歳で皇位を受け継がれたが、わずか5歳になる年の2月19日に皇太子が皇位にお就きになったので、位を退かれ、新院と申し上げた。まだ元服もなさらないうちに、太上天皇の尊号を受けられた。中国でも日本でも、これが初めてだろうか。

 仁安3年3月20日、新帝は大極殿で即位の儀を行われた。この君が皇位にお就きになったのは、ますます平家の栄華を示すものと思われた。御母の建春門院は平家の一門であるうえ、ことに入道相国の妻、二位殿の妹である。また、平大納言時忠卿も女院の兄なので、天皇の母方の親族である。宮中の内外に関わる、権力を握った臣下と思われた。位階を授けることも官職を任じることも、まったく時忠卿の思うままだった。楊貴妃が寵愛された時に、楊国忠が栄えたようなものである。世間から重んじられ、その時の華やかさはすばらしかった。入道相国が天下の大小の事を相談されたので、当時の人々は平関白と呼んだ。

殿下乗合

 そのうち、嘉応元年7月16日、一院は出家された。出家の後も、あらゆる政務をお執りになっていたので、院と内裏の政治に区別はなかった。院のお側近く仕える公卿、殿上人から、上北面、下北面の者に至るまで、官位も俸禄も、皆、身に余るほどだった。しかし、人の心の習いで、なお満足せず、

「ああ、あの人が滅びれば、その国が空くだろう。あの人が死ねば、その官職に就けるだろう」

 などと、親しい者同士が寄り集まっては、ささやき合った。法皇も内々におっしゃった。

「昔から、代々の朝敵を平らげた者は多いが、まだこのようなことはない。貞盛、秀郷が将門を討ち、頼義が貞任、宗任を滅ぼし、義家が武平、家平を攻めた時も、褒美として与えられた官職は受領を越えなかった。清盛がこのように思うままに振る舞うのは、あってはならない。これも世が末となり、天皇の治める道が尽きたためである」

 とおっしゃったが、機会がなかったので、おとがめもなかった。平家もまた、格別、朝廷を恨むこともなかったが、世が乱れ始めたきっかけは、先の嘉応2年10月16日のことである。

 小松殿の次男、新三位中将資盛卿は、その時はまだ越前守で13歳になられたところだった。雪はまばらに降っていた。枯野の景色がまことに美しかったので、若い侍たちを30騎ほど連れて、蓮台野や紫野、右近馬場へ馬で出かけ、多くの鷹を据えさせ、鶉や雲雀を次々に追い立て、一日中狩りをして過ごした。夕暮れになり、六波羅へ帰られた。

 その時の摂政、関白の職にあられたのは松殿で、中御門東洞院の御所から参内されるところだった。郁芳門からお入りになる予定で、東洞院を南へ、大炊御門を西へ進まれた。資盛朝臣は、大炊御門猪熊で、殿下のお出ましに真正面から行き会った。お供の人々は、

「何者だ。無礼である。殿下のお出ましだ。乗り物から下りよ、下りよ」

 と言ったが、資盛はあまりに得意になり、世間をものともしていなかったうえ、連れていた侍たちも、皆20歳未満の若者で、礼儀作法をわきまえた者は一人もいなかった。殿下のお出ましも気にかけず、下馬の礼もまったくせず、馬で突き破って通ろうとした。辺りは暗く、殿下の供人は入道の孫とはまったく知らなかった。また、少しは知っている者もいたが、知らないふりをして、資盛朝臣をはじめ、侍たちを皆、馬からつかんで引き落とし、ひどい恥をかかせた。

 資盛朝臣は、這うようにして六波羅へ帰られ、祖父の相国入道に事情を訴え申し上げた。入道は大いに怒って、

「たとえ殿下であっても、浄海の身内には遠慮なさるべきなのに、幼い者にいきなり恥辱を与えられたとは、恨めしいことだ。このようなことから、人に侮られるのだ。このことを思い知らせずにはいられない。殿下に恨みを晴らしたい」

 とおっしゃった。重盛卿は申し上げた。

「これは少しも問題にすることではございません。頼政、光基などという源氏たちに侮られたのでしたら、まことに一門の恥辱でもございましょう。しかし、重盛の子である者が、殿下のお出ましに行き会って、乗り物から下りないことこそ無礼でございます」

 と言って、その時に居合わせた侍たちを呼び寄せ、

「今後も、お前たちはよくよく心得ておけ。こちらからおわびをして、殿下に無礼を働いたことを申し上げたいと思っている」

 と言って帰られた。

 その後、入道相国は小松殿には相談もせず、片田舎の侍たちで、気性が荒く、入道殿の命令以外には、ほかに恐ろしいものはないと思う者たちを、難波、妹尾をはじめ、合わせて60余人呼び寄せ、

「来る21日、天皇の元服のご相談のため、殿下がお出ましになるそうだ。どこででも待ち伏せをして、先払いと随身たちの髻を切り、資盛の恥を晴らせ」

 とおっしゃった。殿下はこのことを夢にもご存じなく、天皇が翌年元服される時の加冠や拝官の儀について相談するため、しばらく直盧においでになる予定で、いつものお出ましより立派に装いを整えられた。今度は待賢門から入られる予定で、中御門を西へ進まれた。

 猪熊、堀川の辺りで、六波羅の武者たちが、直冑姿の300余騎で待ち受け、殿下を中に取り囲んで、前後から一斉に、どっと鬨の声を上げた。先払いと随身たちが、今日を晴れの場として装っていたのを、あちらに追いかけ、こちらに追い詰め、馬からつかんで引き落とし、散々に辱めて、一人一人の髻を切った。随身10人のうち、右府生武基の髻も切られた。その中で、藤蔵人大夫隆教の髻を切る時には、

「これはお前の髻と思うな。主君の髻と思え」

 と言い聞かせて切った。その後、車の中へも弓の筈を突き入れるなどして、簾を乱暴に引き落とし、牛の鞦や胸懸を切り離して、散々に荒らした。そして喜びの鬨を上げ、六波羅へ帰った。入道は、

「よくやった」

 とおっしゃった。車に付き添う者には、因幡のさい使、鳥羽の国久丸という男がいた。身分は低かったが、情けのある者で、泣きながら車を扱い、中御門の御所へ殿下をお帰し申し上げた。殿下は束帯の袖で涙を押さえながらお帰りになった。そのお帰りのありさまの痛ましさは、言葉にしても、とても言い尽くせない。

 大織冠や淡海公については、取り上げて申し上げるまでもなく、忠仁公、昭宣公以来、摂政、関白がこのような目に遭われたことは、まだ聞いたこともない。これこそ平家の悪行の始まりである。

 小松殿は大いに騒がれた。襲撃に向かった侍たちを、皆、勘当された。

「たとえ入道がどのような理不尽な命令をなさろうとも、なぜ重盛に少しも知らせなかったのだ。そもそも資盛がけしからぬ。栴檀は二葉のころから香ばしいと言われている。すでに12、13歳になる者なら、もう礼儀をわきまえて振る舞うべきなのに、このような無礼を働き、入道の悪名を立てる。不孝の極みは、お前一人にあるのだ」

 と言って、しばらく伊勢国へ追いやられた。それで、この大将には、天皇も臣下も感心されたと聞いている。

鹿谷

 このため、天皇の元服についての相談は、その日は延期された。同月25日、院の殿上で元服の相談が行われた。摂政殿も、いつまでもそのままでいられるわけではないので、同年12月9日にあらかじめ宣旨を受け、14日に太政大臣へ昇られた。そして同月17日にお礼を申し上げたが、世間は苦々しく見ていた。

 そのうち、この年も暮れた。翌年、嘉応3年1月5日、天皇は元服された。同月13日には、父母にお会いになるためのお出ましがあった。法皇と女院はお待ちしておられ、初めて冠をつけられたお姿を、どれほどかわいらしくお思いになったことだろう。入道相国の娘が、女御として参内された。お年は15歳。法皇の猶子という形であった。

 そのころ、妙音院の太政大臣殿は、まだ内大臣、左大将であられたが、大将の職を辞されることがあった。その時、徳大寺の大納言実定卿が、その職に就かれるという噂があった。また、花山院の中納言兼雅卿も希望していた。そのほか、亡き中御門藤中納言家成卿の三男、新大納言成親卿も、ひたすら願い出られた。院のご意向がよかったので、さまざまな祈りを始められた。

 まず八幡に100人の僧をこもらせ、『大般若経』を7日間、省略せずに読ませていた最中に、甲良の大明神の御前にある橘の木へ、男山の方から山鳩が3羽飛んできて、互いにつつき合って死んでしまった。鳩は八幡大菩薩の第一の使者である。宮寺でこのような異変はなかったとして、その時の検校匡清法印が奏上した。神祇官で占いを行うと、天下に騒ぎが起こると申し上げた。

「ただし、君主が慎むべきことではなく、臣下が慎むべきことです」

 と申し上げた。新大納言はこれを恐れることもなく、昼は人目が多いので、夜ごと徒歩で、中御門烏丸の家から賀茂の上の社へ、7夜続けて参られた。7夜目の参詣を終えた夜、家に帰り、疲れて横になり、少しまどろまれた。すると夢の中で、賀茂の上の社に参ったように思われ、御宝殿の戸が押し開かれ、たいそう気高い声が聞こえた。

「桜の花よ、賀茂の川風を恨むな。散るのを、とどめることはできなかったのだから」

 新大納言はそれでも恐れることなく、賀茂の上の社に、ある聖をこもらせ、御宝殿の後ろの杉の洞に壇を設け、拏吉尼の法を100日間行わせた。その間に、その大杉へ雷が落ち、雷の火が激しく燃え上がって、社の内がすでに危うく見えた。宮人たちが大勢駆け集まって消し止めた。その異端の法を行っていた聖を追い出そうとすると、

「私はこの社に100日間こもるという大願がある。今日は75日目になる。決して出ない」

 と言って動かなかった。このことを社家から内裏へ奏上すると、

「ただ法に従って追い出せ」

 と宣旨が下された。その時、神人が白杖で聖のうなじを打ち、一条大路より南へ追い出してしまった。神は礼に外れた願いをお受けにならないというが、この大納言は身にふさわしくない大将の職を祈り願われたためだろうか。このような異変も起こった。

 そのころ、位階を授け、官職を任じることは、院や天皇のお計らいでもなく、摂政、関白の裁定にもよらず、ただひたすら平家の思うままだった。徳大寺も花山院も大将にはなれず、入道相国の嫡男、小松殿が右大将から左大将に移り、次男宗盛が中納言でおられたのに、多くの先輩を飛び越えて右大将に加わられた。まったく言うべき言葉もなかった。

 中でも徳大寺殿は筆頭の大納言で、名門の出で、すぐれた人物であり、学問にも抜きんで、家を継ぐ嫡男であられたが、追い越されたことが恨めしかった。きっと出家などをなさるだろうと、人々は内々に語り合っていたが、しばらく世の成り行きを見ようと、大納言の職を辞し、家にこもっておられると聞いている。

 新大納言成親卿はおっしゃった。

「徳大寺や花山院に追い越されたのなら、どうしようもない。だが、平家の次男に追い越されるのは、心穏やかではいられない。これも、あらゆることが思いどおりになっているからだ。なんとしても平家を滅ぼし、本望を遂げよう」

 とおっしゃったのは恐ろしいことである。父の卿は中納言までしか昇られなかった。その末子でありながら、位は正二位、官職は大納言に上り、大国を多く賜り、子息も従者も朝廷の恩恵に誇っていた。何が不足で、このような心を持たれたのだろう。これはひとえに天魔の仕業と思われた。

 平治の乱でも、越後中将として信頼卿に同心したので、すでに処刑されるはずだったが、小松殿がさまざまに取りなして、命をつないでくださった。それなのに、その恩を忘れ、よその人のいない所で武具を整え、軍兵を誘い集め、その準備のほかには何もしなかった。

 東山の麓にある鹿の谷という所は、背後が三井寺に続き、たいそう堅固な城郭となっていた。そこに俊寛僧都の山荘があった。いつもそこに寄り集まって、平家を滅ぼす計画をめぐらしていた。ある時、法皇もお出ましになった。亡き少納言入道信西の子息、浄憲法印がお供をした。その夜の酒宴で、このことを浄憲法印にご相談になると、

「ああ、なんということでしょう。大勢の人が承ってしまいました。すぐに漏れ伝わり、天下の大事になってしまいましょう」

 と、大いに騒いで申し上げた。新大納言は顔色を変え、さっと立ち上がられたが、御前に置いてあった瓶子に狩衣の袖を引っかけ、引き倒された。法皇が、

「あれはどうしたのか」

 とおっしゃると、大納言は戻って来て、

「平氏が倒れました」

 と申し上げた。法皇はすっかりお笑いになり、

「者ども、参って猿楽をせよ」

 とおっしゃった。すると平判官康頼が参って、

「ああ、あまりに瓶子が多いので、酔ってしまいました」

 と申し上げた。俊寛僧都が、

「それでは、それをどういたしましょう」

 と申し上げると、西光法師は、

「首を取るのが一番よい」

 と言って、瓶子の首を取って、奥へ入った。浄憲法印はあまりのことに、何も申し上げられなかった。つくづく恐ろしい出来事であった。

 協力した者は誰々か。近江中将入道蓮浄、俗名成正、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、摂津国の源氏、多田蔵人行綱をはじめ、多くの北面の者たちが協力していた。

鵜川軍

 この法勝寺の執行というのは、京極の源大納言雅俊卿の孫で、木寺の法印寛雅の子であった。祖父の大納言は、特に武芸に携わる家の者ではなかったが、ひどく気性の荒い人で、三条坊門京極の家の前を、人にもたやすく通らせず、いつも中門に立ち、歯を食いしばって怒っておられた。そのような人の孫だからだろうか。この俊寛も、僧ではあったが、気性が激しく、おごった人で、無益な謀反にも加わったのであろう。新大納言成親卿は、多田蔵人行綱を呼んで、

「そなたを一軍の大将として頼みにしている。このことを成し遂げたなら、国でも荘園でも、望みどおりにしよう。まず、弓袋を作るために」

 と言って、白布50端を送られた。

 安元3年3月5日、妙音院殿が太政大臣に移られた代わりに、大納言定房卿を追い越して、小松殿が内大臣になられた。大臣であり大将でもあることは、すばらしいことだった。すぐに大饗が行われた。主賓は、大炊御門左大臣経宗公であったと聞いている。妙音院殿も、本来は一のかみが昇進の行き着く先ではあったが、父の宇治の悪左府の例には、はばかりがあった。

 北面は昔にはなかった。白河院の御代に初めて置かれてから、多くの衛府の者が仕えた。為俊、盛重は、童のころから千手丸、今犬丸と呼ばれ、まったく並ぶ者のない才知ある者であった。鳥羽院の御代にも、季教、季頼の父子がともに朝廷に仕え、奏上の取次をすることもあったと聞いている。しかし、皆、身のほどをわきまえて振る舞っていた。

 ところが、この時の北面の者たちは、あまりに度を越し、公卿や殿上人もものともせず、礼儀も礼節もなかった。下北面から上北面に上がり、上北面から殿上での交わりを許される者もいた。こうしたことばかりが行われるので、おごる心も生まれ、無益な謀反にも加わったのであろう。

 中でも、亡き少納言入道信西のもとで使われていた、師光、成景という者がいた。師光は阿波国の在庁、成景は都の者で、生まれも育ちも卑しい下臈である。健児童や恪勤者などとして使われていたが、利口だったので、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉となり、二人が一度に靱負尉になった。信西が災難に遭った時、二人とも出家して、左衛門入道西光、右衛門入道西敬と名乗った。この二人は出家の後も、院の御倉の管理を任されていた。

 その西光の子に、師高という者がいた。この者も才知があり、検非違使、五位の尉へと昇り、安元元年12月29日、追儺の日の除目で加賀守となった。国の政務を行う間、法にも礼にも背く行いを押し通し、神社や仏寺、権勢のある家の荘園を奪い、ひどい振る舞いばかりだった。

 たとえ、せう公の治績には遠く及ばないにしても、穏やかな政治を行うべきであった。ところが、このように思うままに振る舞っていたところ、同2年の夏ごろ、国司師高の弟、近藤判官師経が加賀の目代に任じられた。

 目代が赴任したばかりの時、国府の近くに鵜川という山寺があった。寺の僧たちが、ちょうど湯を沸かして浴びていたところへ押し入り、僧たちを追い上げて自分が浴び、下働きの者たちも浴槽に入らせ、馬を洗わせたりもした。寺の僧たちは怒って、

「昔から、この所には国司方の者が立ち入ることはない。速やかに先例に従い、立ち入って妨害することをやめよ」

 と言った。

「以前の目代は、ふがいなかったから侮られたのだ。今の目代には、そのようなことはない。ただ法に従え」

 と言うやいなや、寺の僧たちは国司方の者を追い出そうとし、国司方の者たちは、この機会に押し入ろうとした。互いに殴り合い、張り合っているうち、目代師経が大切にしていた馬の足を打ち折った。その後は、互いに弓矢や武器を持って、射合い、斬り合い、数刻にわたって戦った。目代は勝てないと思ったのだろうか。夜になって引き退いた。

 その後、国の在庁たちを呼び集め、1,000余騎の軍勢で鵜川へ押し寄せ、僧坊を一棟も残さず焼き払った。鵜川は白山の末寺である。このことを訴えようと進み出た老僧は誰々か。智釈、学明、宝台房、正智、学音、土佐阿闍梨が進み出た。白山三社、八院の大衆がことごとく立ち上がり、合わせて2,000余人の勢力で、同年7月9日の夕暮れ、目代師経の館近くへ押し寄せた。

 今日は日が暮れたので、明日戦おうと決め、その日は攻め寄せず、待機していた。露を吹き結ばせる秋風は、鎧の左の袖を翻し、空を照らす稲妻は、兜の星を輝かせる。目代は勝てないと思ったのだろうか。夜逃げをして都へ上った。翌朝、卯の刻に大衆が押し寄せ、どっと鬨の声を上げたが、館の中には物音もない。人を入れて見させると、皆、逃げておりますと言う。大衆はどうすることもできず、引き退いた。

 それでは山門へ訴えようと、白山中宮の神輿を飾り、比叡山へ担ぎ上げた。同年8月12日の正午ごろ、白山の神輿が比叡山の東坂本にお着きになると、北国の方から雷が激しく鳴り、都を目指して鳴り上った。白い雪が降って地面を埋め、山上も都の中も一様に、常緑の山の梢まで、すべて真っ白になった。

願立

 神輿は客人の宮へお入れ申し上げた。客人というのは、白山妙理権現であられる。いわば親子の間柄である。訴えの成否はともかく、この世でお会いになった喜びは、ただこのことにあった。浦島の子が7代後の孫に会った喜びにもまさり、胎内にいた子が霊山の父に会った喜びをも越えていた。3,000人の衆徒が後から後から続き、七社の神人が袖を並べて、いつも絶えず経を読み、祈りをささげた。そのありさまは、言葉では言い尽くせない。

 山門の大衆は、国司の加賀守師高を流罪にし、目代の近藤判官師経を投獄するよう奏上した。ご裁定が遅れたので、しかるべき公卿や殿上人は、

「ああ、早くお裁きを下されるべきなのに。昔から山門の訴えは、ほかとは異なる。大蔵卿為房や太宰権帥季仲は、あれほど朝廷の重臣であったが、山門の訴えによって流罪にされた。まして師高などは、物の数に入るだろうか。とやかく論じることがあろうか」

 と語り合ったが、

「位の高い臣下は俸禄を大事にして諫めず、位の低い臣下は罰を恐れて申し出ない」

 ということなので、皆、口を閉ざしておられた。

「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これこそ、私の思いどおりにならないものだ」

 と、白河院もおっしゃったという。鳥羽院の御代、越前の平泉寺を山門に所属させられた時には、比叡山への帰依が浅くなかったので、

「道理に外れたことも、道理にかなうものとする」

 と宣下され、院宣を下された。江帥匡房卿が申し上げたことには、

「神輿を宮門の入口へ担いで来て、訴え申し上げることになったら、君はどのようにお取り計らいになりますか」

 と申し上げたので、

「確かに、山門の訴えは見過ごせない」

 とおっしゃった。

 先の嘉保2年3月2日、美濃守源義綱朝臣が、その国で新しく立てられた荘園を廃止した際、比叡山の久住者円応を殺害した。このため、日吉の社司と延暦寺の寺官、合わせて30余人が訴状をささげ、宮門の入口に集まった。後二条関白殿は、大和源氏の中務権少輔頼春に命じて防がせた。頼春の郎等が矢を放ち、その場で射殺された者が8人、傷を負った者が10余人。社司や役人は四方へ散った。

 山門の上綱たちが、事情を奏上するために都へ下ると聞こえたので、武士と検非違使が西坂本へ駆けつけ、皆を追い返した。

 山門では、ご裁定が遅れていたので、七社の神輿を根本中堂へ担ぎ上げ、その前で『大般若経』を7日間、省略せずに読み、関白殿を呪い申し上げた。祈りを終える日の導師は、仲胤法印、そのころはまだ仲胤供奉と呼んでいたが、高座に上がり、鐘を打ち鳴らして、祈願の趣旨を述べる言葉の中で、

「私たちを菜種の二葉のように小さいころから育ててくださった神々よ。後二条の関白殿に、鏑矢を一本、放ち当ててください。大八王子権現よ」

 と、高らかに祈り誓った。その夜のうちに不思議なことがあった。八王子の御殿から鏑矢の音がして、都へ向かって飛んでいったと、人が夢に見た。翌朝、関白殿の御所の格子を上げると、たった今山から取ってきたような、露に濡れた樒の枝が一本立っていたことは恐ろしい。

 すぐに山王のおとがめとして、後二条関白殿が重い病にかかられたので、母上の、大殿の北政所は大いに嘆かれた。姿をやつし、身分の低い者のふりをして、日吉の社にこもり、7日7夜の間、祈られた。表立っての祈りとしては、芝田楽100番、一物100番、競馬、流鏑馬、相撲をそれぞれ100番、仁王講100座、薬師講100座を行い、高さ一搩手半の薬師像100体、等身大の薬師像1体、さらに釈迦、阿弥陀の像を、それぞれ造って供養された。

 また、心の内で三つの願を立てられた。心の中のことなので、人がどうして知ることができようか。ところが不思議なことに、7日目の夜、八王子の社に大勢いた参詣人の中で、陸奥からはるばる上って来た童神子が、夜半ごろ急に気を失った。遠くへ運び出して祈ると、間もなく息を吹き返し、そのまま立ち上がって舞を舞った。人々は不思議に思って見ていた。半時ほど舞った後、山王がお降りになり、さまざまな託宣をされたことは恐ろしかった。

「人々よ、確かに聞け。大殿の北政所は、今日まで7日間、私の前にこもっておられる。立てられた願は三つある。

一つ目は、今度、殿下の命をお助けください、そうしてくだされば、下殿にいる身体の不自由な人々に交じり、1,000日の間、朝夕お仕え申し上げようというものだ。大殿の北政所として、世間をものともせず暮らしておられるお心が、子を思う道に迷ったために、うっとうしいことも忘れ、痛ましい姿の身体の不自由な人々に交じって、1,000日の間、朝夕お仕え申し上げようとおっしゃることは、まことに心を打たれる。

二つ目は、大宮の波止土濃から八王子の社まで、回廊を造って差し上げようというものだ。3,000人の大衆が、雨の日にも晴れの日にも社へ参るのは苦労だと思うが、回廊が造られたなら、どれほどすばらしいだろう。

三つ目は、今度、殿下の命をお助けくだされば、八王子の社で法花問答講を毎日欠かさず行おうというものだ。どれもおろそかではないが、初めの二つは、なくてもよい。毎日の法花問答講は、まことに望ましいと思う。

ただ、今度の訴えは、たいそう簡単に処理できることだったのに、ご裁定もなく、神人や宮仕えの者が射殺され、傷を負い、泣きながら参って訴えたことが、あまりにつらく、どれほど先の世になっても忘れられるとは思えない。そのうえ、彼らに当たった矢は、すべて、仏が神として現れたこの身の肌に刺さったのだ。本当か、嘘か、これを見よ」

 と言って肩をはだけた姿を見ると、左の脇の下に、大きな土器の口ほどのえぐれた傷が見えた。

「これがあまりにつらいので、どれほど願っても、最後まで命を助けることはできない。法花問答講を必ず行うなら、3年の命を延ばして差し上げよう。それで足りないと思うなら、どうすることもできない」

 と言って、山王はお帰りになった。母上は、立てた願について人にも話しておられなかったので、誰が漏らしたのかと疑うことも少しもなかった。心の内のことを、そのまま託宣されたので、胸に深くしみて、ことに尊くお思いになり、泣きながら申し上げた。

「たとえ一日、ほんのわずかな時間であっても、ありがたいことでございます。まして3年の命を延ばしてくださることは、まことに結構でございます」

 と言って、泣きながらお帰りになった。急いで都へお入りになり、殿下の所領である紀伊国の田中庄という所を、八王子の社へ永代にわたって寄進された。それ以来、法花問答講は今の世に至るまで、毎日欠かさず行われていると伺っている。

 こうして、後二条関白殿の病は軽くなり、元のようになられた。身分の高い者も低い者も喜び合っていたが、3年が過ぎるのは夢のようで、永長2年になっていた。6月21日、後二条関白殿の髪の生え際に、また悪い腫れ物ができ、寝込まれた。同月27日、38歳で、ついにお亡くなりになった。

 気性が強く、理を曲げない、あれほどすぐれた方であられたが、本当に事態が切迫すると、命を惜しまれたのである。まことに惜しまれることである。40歳にさえ満たないうちに、父の大殿に先立たれたのは悲しい。必ず父が先に死ななければならないということではないが、生死の定めに従う習いは、あらゆる徳を備えた釈迦も、修行の最高の段階を極めた菩薩たちも、どうすることもできないことである。慈悲を備えた山王は、人々を救うため、仮に神の姿を取っておられるので、おとがめがないとは思えない。

御輿振

 そのうち、山門の大衆は、国司の加賀守師高を流罪にし、目代の近藤判官師経を投獄するよう、何度も奏上したが、ご裁定がなかった。そこで日吉の祭礼を中止し、安元3年4月13日、辰の一点に、十禅師、客人、八王子の三社の神輿を飾り、宮門の入口へ担いで行った。

 下松、きれ堤、賀茂の川原、糺、梅ただ、柳原、東北院の辺りには、官位のない下級の僧、神人、宮仕えの者、専当が満ち、どれほどいるのか数もわからない。神輿は一条を西へ進まれた。神宝が空に輝き、太陽や月が地上に落ちてこられたのかと驚かれるほどだった。

 このため、源氏と平氏の両家の大将軍に、四方の宮門の入口を固めて大衆を防ぐよう、命令が下された。平家では、小松の内大臣、左大将重盛公が、3,000余騎の軍勢で、大宮側の陽明、待賢、郁芳の三つの門を固められた。弟の宗盛、知盛、重衡、伯父の頼盛、教盛、経盛などは、西と南の門を固められた。源氏では、内裏を守護する源三位頼政卿が、渡辺の省授を主力とし、わずか300余騎の軍勢で、北の門、縫殿の陣を固められた。場所は広く、軍勢は少ないので、まばらに見えた。

 大衆は、守る軍勢が少ないので、北の門、縫殿の陣から神輿を入れようとした。頼政卿はさすがの人で、馬から下り、兜を脱いで神輿を拝まれた。武者たちも皆、そのようにした。衆徒の中へ使者を立て、言い送ることがあった。その使いは、渡辺の長七唱という者である。

 唱はその日、きちんの直垂に、小桜を黄に替えた鎧を着て、赤銅作りの太刀を帯び、白羽の矢を背負い、滋籐の弓を脇に挟み、兜は脱いで高紐に掛け、神輿の前にかしこまって、こう申し上げた。

「衆徒の皆様に、源三位殿から申し上げるよう命じられました。今度の山門のお訴えが道理にかなっていることは、申すまでもありません。お裁きが遅れていることは、よそから見ても残念に思っております。

さて、神輿をお入れすることについて、とやかく申し上げるつもりはありません。ただ、頼政は軍勢が少のうございます。そのうえ、門を開けてお入れする所からお入りになれば、『山門の大衆は、弱みにつけこんで得意になっていた』などと都の人々が申すことが、後日の非難になりはしないでしょうか。

神輿をお入れすれば、天皇の命令に背くようなものです。また、お止めすれば、長年、医王、山王に頭を下げてまいった身が、今日から後、弓矢の道を失うことになりましょう。あれやこれや、どちらにしても処置しがたいようにございます。東の門は、小松殿が大軍で固めておられます。その門からお入りになってはいかがでしょうか」

 と言い送ったので、唱のこの言葉に押しとどめられ、神人や宮仕えの者は、しばらく待機した。

 若い大衆たちは、

「何を言うか。そんなことはない。ただこの門から神輿をお入れせよ」

 と言う者が多かった。しかし、老僧の中で、比叡山三塔第一の評議の名手と評判の、摂津の堅者豪雲が進み出て言った。

「まことに、もっともなことを言われた。神輿を先に立てて訴えをするなら、大軍の中を打ち破ってこそ、後の世の評判にもなるだろう。とりわけ、この頼政卿は、六孫王以来、代々嫡男が継いできた源氏の正統で、弓矢を取って、まだ失敗を聞いたことがない。武芸だけでなく、和歌にもすぐれている。近衛院が在位しておられた時、その場で歌を詠む歌会があり、『深山花』という題を出された。人々が詠むのに苦しんでいたところ、この頼政卿は、

『深山の木々の中で、その梢とも見えなかった桜が、花を咲かせたことで姿を現した』

という名歌を詠み、お褒めにあずかった。それほど風流な男に、この時に当たって、情けもなく恥辱を与えるべきではない。この神輿を担いで引き返せ」

 と評議したので、数千人の大衆は、先陣から後陣まで、皆、もっともだ、もっともだと同意した。そして神輿を先に立て、東の門、待賢門からお入れしようとすると、たちまち争いが起こり、武士たちが散々に矢を射かけた。十禅師の神輿にも、多くの矢が突き立った。神人や宮仕えの者が射殺され、衆徒も大勢、傷を負った。わめき叫ぶ声は梵天にまで聞こえ、堅牢地神も驚かれるだろうと思われた。大衆は神輿を宮門の入口に置き捨て、泣きながら本山へ帰り上った。

内裏炎上

 蔵人、左少弁兼光に命じ、殿上で急に公卿の評議が行われた。保安4年7月、神輿が都に入った時には、座主に命じて赤山の社へお入れ申し上げた。また、保延4年4月、神輿が都に入った時には、祇園の別当に命じて祇園の社へお入れ申し上げた。今度は保延の先例によることにし、祇園の別当、権大僧都澄兼に命じ、灯をともすころ、祇園の社へお入れ申し上げた。神輿に突き立っていた矢は、神人に抜かせた。

 山門の大衆が日吉の神輿を宮門の入口へ担いで来たことは、永久から治承までに6度ある。そのたびに武士を呼んで防がれたが、神輿に矢を射かけたのは、これが初めてと伺っている。

「霊妙な神がお怒りになると、災害が道に満ちるという。恐ろしい、恐ろしい」

 と、人々は語り合った。

 同月14日の夜半ごろ、山門の大衆がまた都へ下るという知らせがあったので、夜中に天皇は腰輿にお乗りになり、院の御所、法住寺殿へお出ましになった。中宮は車にお乗りになって、お出ましになった。小松の大臣は、直衣に矢を背負ってお供をされた。嫡男の権亮少将維盛は、束帯に平胡録を背負って参った。関白殿をはじめ、太政大臣以下の公卿、殿上人が、我も我もと駆けつけた。都中の身分の高い者も低い者も、宮中の上の者も下の者も、騒ぎ立てることは甚だしかった。

 山門では、神輿に矢が立ち、神人や宮仕えの者が射殺され、衆徒も大勢傷を負ったので、大宮、二宮をはじめ、講堂、中堂、すべての堂を一棟も残さず焼き払い、山野に身を隠そうと、3,000人が一致して評議した。このため、大衆の訴えについてお裁きがあるだろうと聞こえたので、山門の上綱たちが、事情を衆徒に知らせようと山へ登った。しかし、大衆は怒って、西坂本から皆を追い返した。

 平大納言時忠卿は、その時はまだ左衛門督でおられたが、上卿に立たれた。大講堂の庭に三塔の大衆が集まり、上卿を捕らえて、責めさいなもうとした。

「さあ、冠を打ち落とせ。身柄を縛り、湖に沈めよ」

 などと評議していた。すでにそうなりそうに見えたところで、時忠卿は、

「しばらくお静まりください。衆徒の皆様に申し上げたいことがあります」

 と言って、懐から小硯と畳紙を取り出し、一筆書いて大衆の中へ送られた。開いて見ると、

「衆徒が乱暴な悪事を行うのは、魔物の仕業である。賢明な帝がこれを制止なさるのは、仏のご加護である」

 と書いてあった。これを見て、責めさいなむこともなく、皆、もっともだ、もっともだと同意し、谷々へ下り、それぞれの僧坊へ入った。一枚の紙に記した一つの言葉で、三塔の3,000人の怒りを鎮め、公にも私にも恥を受けることを免れた時忠卿は、まことにすぐれていた。人々も、山門の大衆は騒々しく押しかけるだけかと思っていたが、道理もわきまえていたのだと感心した。

 同月20日、花山院権中納言忠親卿を上卿として、国司の加賀守師高は、ついに官職を解かれ、尾張の井戸田へ流された。目代の近藤判官師経は投獄された。また、去る13日に神輿へ矢を射かけた武士6人の投獄が決まった。左衛門尉藤原正純、右衛門尉正季、左衛門尉大江家兼、右衛門尉大江家国、左兵衛尉清原康家、右兵衛尉清原康友。これらは皆、小松殿の侍である。

 同年4月28日、亥の刻ごろ、樋口富小路から火が出た。南東の風が激しく吹いたので、都の多くが焼けた。大きな車輪のような炎が、3町、5町を隔て、北西の方へ斜めに飛び越えながら燃え広がった。恐ろしいなどという言葉では、言い尽くせない。

 具平親王の千種殿、北野の天神の紅梅殿、橘逸勢のはひ松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公の堀川殿をはじめ、昔から今までの名所30余か所、公卿の家だけでも16か所まで焼けた。そのほか、殿上人や諸大夫の家々は、書き記すこともできない。

 ついには火が内裏へ吹きつけ、朱雀門をはじめ、応天門、会昌門、大極殿、豊楽院、諸司、八省、朝所が、一時のうちに灰となった。家々の日記、代々の文書、あらゆる珍宝が、すべて塵や灰となった。その損失は、どれほどだったろう。焼け死んだ人は数百人、牛や馬は数もわからない。

 これはただごとではなく、山王のおとがめとして、比叡山から大きな猿たちが2,000、3,000と下り、それぞれ手に松明をともして都中を焼いたと、人の夢に見えたのであった。

 大極殿は、清和天皇の御代、貞観18年に初めて焼けたので、同19年1月3日、陽成院の即位の儀は豊楽院で行われた。元慶元年4月9日に再建に着手し、同2年10月8日に完成した。後冷泉院の御代、天喜5年2月26日に、また焼けた。治歴4年8月14日に再建に着手したが、完成しないうちに後冷泉院が崩御された。後三条院の御代、延久4年4月15日に完成し、文人は詩を作って差し上げ、楽人は音楽を奏で、天皇を新しい大極殿へお迎え申し上げた。今は世が末になり、国の力もすっかり衰えたので、その後はついに再建されなかった。

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