第233段「おほきにてよきもの」
大きにて良きもの、家。餌袋。法師。果物。牛。松の木。硯の墨。
男の目の細きは女びたり。また、金椀のやうならむも恐ろし。
火桶。酸漿。山吹の花。桜の花びら。
第234段「短くてありぬべきもの」
短くてありぬべきもの、とみのもの縫ふ糸。下衆女の髪。人の娘の声。灯台。
第235段「人の家につきづきしきもの」
人の家につきづきしきもの、肱折りたる廊。円座。三尺の几帳。大きやかなる童部。良きはした者。
侍の曹司。折敷。懸盤。中の盤。おはらき。衝立障子。かき板。装束よくしたる餌袋。唐傘。棚厨子。提子。銚子。
第236段「ものへ行く路に」
ものへ行く路に、清げなる男の細やかなるが、立文持ちて急ぎ行くこそ、いづちならむと見ゆれ。
また、清げなる童部などの、衵どものいとあざやかなるにはあらで、萎えばみたるに、屐子のつややかなるが歯に土多くつきたるを履きて、白き紙に大きに包みたる物、もしは箱の蓋に草子どもなど入れて持て行くこそ、いみじう、呼び寄せて見まほしけれ。
門近くなる所の前わたりを呼び入るるに、愛敬なく、答へもせで行く者は、使ふらむ人こそ推し量らるれ。
第237段「よろづのことよりも」
よろづのことよりも、侘しげなる車に装束悪くて物見る人、いともどかし。
説経などはいとよし。罪失ふことなれば。それだになほあながちなるさまにては見苦しきに、まして祭などは見でありぬべし。下簾なくて、白き単の袖などをうち垂れてあめりかし。ただその日の料と思ひて、車の簾も仕立てて、いと口惜しうはあらじと出でたるに、まさる車などを見付けては、なにしにと覚ゆるものを、まいて、いかばかりなる心にて、さて見るらむ。
良き所に立てむと急がせば、疾く出でて待つほど、居入り、立ち上がりなど、暑く苦しきに困ずるほどに、斎院の垣下に参りける殿上人、所の衆、弁、少納言など、七つ八つと引続けて、院の方より走らせて来るこそ、ことなりにけりと驚かれて嬉しけれ。
物見の所の前に立てて見るも、いとをかし。殿上人もの言ひに遣せなどし、所の御前どもに水飯食はすとて、階のもとに馬引き寄するに、覚えある人の子どもなどは、雑色など下りて馬の口取りなどしてをかし。さらぬ者の見も入れられぬなどぞいとほしげなる。
御輿の渡らせ給へば、轅どもある限りうち下ろして、過ぎさせ給ひぬれば、惑ひ上ぐるもをかし。その前に立つる車はいみじう制するを、
「などて立つまじき」
とて強ひて立つれば、言ひ煩ひて、消息などするこそをかしけれ。
所もなく立ち重なりたるに、良きところの御車、人だまひ引続きて多く来るを、何処だに立たむとすらむと見るほどに、御前どもただ下りに下りて、立てる車どもをただのけにのけさせて、人だまひまで立続けさせつるこそ、いとめでたけれ。
追ひ避けさせつる車どもの、牛かけて所ある方に揺がし行くこそ、いと侘しげなれ。きらきらしくよきなどをば、いとさしも押し拉がず。
いと清げなれど、また鄙び、怪しき下衆など絶えず呼び寄せ、出だし据ゑなどしたるもあるぞかし。
第238段「細殿にびんなき人なむ」
「細殿に便無き人なむ、暁に傘差して出でける」
と言ひ出でたるを、よく聞けば、わが上なりけり。
地下など言ひても、目安く、人にゆるさるばかりの人にもあらざなるを、怪しのことやと思ふほどに、上より御文持て来て、
「返事、ただ今」
と仰せられたり。
なにごとにかとて見れば、大傘の絵を描きて、人は見えず、ただ手の限り笠を捕へさせて、下に、
山の端明けし朝より
と書かせ給へり。
なほはかなきことにても、ただめでたくのみ覚えさせ給ふに、恥づかしく心付きなきことは、いかでか御覧ぜられじと思ふに、かかる空言の出で来る、くるしけれど、をかしくて、こと紙に雨をいみじう降らせて、下に、
ならぬ名の立ちにけるかな
さてや、
「濡衣にはなり侍らむ」
と啓したれば、右近の内侍などに語らせ給ひて、笑はせ給ひけり。
第239段「三条の宮におはします頃」
三条の宮におはします頃、五日の菖蒲の輿など持て参り、薬玉参らせなどす。
若き人々、御匣殿など、薬玉して姫宮、若宮に着けて奉らせ給ふ。いとをかしき薬玉ども、ほかより参らせたるに、青挿しと言ふ物を持て来たるを、青き薄様を艶なる硯の蓋に敷きて、
「これ、ませ越しに候ふ」
とて参らせたれば、
皆人の花や蝶やと急ぐ日もわが心をば君ぞ知りける
この紙の端を引き破らせ給ひて書かせ給へる、いとめでたし。
第240段「御乳母の大輔の命婦」
御乳母の大輔の命婦、日向へ下るに、賜はする扇どもの中に、片つ方は日いと麗らかにさしたる田舎の館など多くして、今片つ方は京のさるべき所にて、雨いみじう降りたるに、
あかねさす日に向かひても思ひ出でよ都は晴れぬながめすらむと
御手にて書かせ給へる、いみじうあはれなり。さる君を見置き奉りてこそえ行くまじけれ。
第241段「清水にこもりたりしに」
清水に籠もりたりしに、態と御使して賜はせたりし、唐の紙の赤みたるに、草にて、
「山近き入相の鐘の声ごとに恋ふる心の数は知るらむ
ものを、こよなの長居や」
とぞ書かせ給へる。紙などのなのめげならぬも、取り忘れたる旅にて、紫なる蓮の花びらに書きて参らす。
第242段「駅は」
駅は、梨原。望月の駅。山は駅は、あはれなりしことを聞き置きたりしに、またもあはれなることのありしかば、なほ取り集めてあはれなり。
第243段「社は」
社は、布留の社。生田の社。旅の御社。花淵の社。杉の御社は、しるしやあらむとをかし。事任の明神、いと頼もし。
「さのみ聞きけむ」
とや言はれ給はむ、と思ふぞいとほしき。
第244段「蟻通の明神」
蟻通の明神、貫之が馬の煩ひけるに、この明神の病ませ給ふとて、歌詠み奉りけむ、いとをかし。
この蟻通しとつけけるは、誠にやありけむ、昔おはしましける帝の、ただ若き人をのみ思召して、四十になりぬるをば、失はせ給ひければ、人の国の遠きに行き隠れなどして、更に都のうちにさる者のなかりけるに、中将なりける人の、いみじう時の人にて、心なども賢かりけるが、七十近き親二人を持たるに、かう四十をだに制することに、まいて恐ろし、と怖ぢ騒ぐに、いみじく孝なる人にて、遠き所に住ませじ、一日に一たび見ではえあるまじとて、密かに家のうちの地を掘りて、そのうちに屋を建てて、籠め据ゑて、行きつつ見る。人にも、公にも、失せ隠れたる由を知らせてあり。などか、家に入り居たらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。この親は上達部などにはあらむにやありけむ、中将などを子にて持ちたりけるは。心いと賢う、よろづのこと知りたりければ、この中将も若けれど、いと聞こえあり、至り賢くして、時の人に思すなりけり。
唐土の帝、この国の帝を、如何で謀りてこの国討ち取らむとて、常に試み事をし、争ひ事をして恐り給ひけるに、つやつやと円にうつくしげに削りたる木の二尺ばかりあるを、
「これが本末何方」
と問ひに奉れたるに、すべて知るべきやうなければ、帝思召し煩ひたるに、いとほしくて、親の元に行きて、
「かうかうの事なむある」
と言へば、
「ただ、速からむ川に、立ちながら横様に投げ入れて、返りて流れむ方を末と標して遣はせ」
と教ふ。
参りて我が知り顔にて、
「さて、試みはべらむ」
とて、人と具して、投げ入れたるに、先にして行く方に標を付けて遣はしたれば、誠にさなりけり。
また、二尺ばかりなる蛇の、ただ同じ長さなるを、
「これが男女」
とて奉れり。また、更に人え見知らず。例の、中将来て問へば、
「二つを並べて、尾の方に細きすばえをして差し寄せむに、尾働かさむを女と知れ」
と言ひける、やがて、それは内裏の内にて差しけるに、誠に一つは動かず、一つは動かしければ、またさる標付けて、遣はしけり。
ほど久しくして、七曲にわだかまりたる玉の、中通りて左右に口開きたるが小さきを奉りて、
「これに緒通して賜はらむ。この国にみなしみなしはべる事なり」
とて奉りたるに、
「いみじからむものの上手、不用なり」
と、そこらの上達部、殿上人、世にありとある人言ふに、また行きて、
「かくなむ」
と言へば、
「大きなる蟻を捕へて、二つばかりが腰に細き糸を付けて、またそれに、今少し太きを付けて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」
と言ひければ、さ申して、蟻を入れたるに、蜜の香を嗅ぎて、誠にいと疾くあなたの口より出でにけり。さて、その糸の貫かれたるを遣はして後になむ、
「日の本の国は賢かりけり」
とて、後にさる事もせざりける。
この中将をいみじき人に思召して、
「何業をし、いかなる官位をか賜ふべき」
と仰せられければ、
「更に官も冠も賜はらじ。ただ老いたる父母の隠れ失せて侍る、尋ねて、都に住まする事を許させ給へ」
と申しければ、
「いみじうやすき事」
とて許されければ、よろづの人の親これを聞きて喜ぶこといみじかりけり。
中将は上達部、大臣に成させ給ひてなむありける。
さて、その人の神になりたるにやあらむ、その神の御元に詣でたりける人に、夜現れて宣へりける、
七曲に曲がれる玉の緒を抜きてありとほしとは知らずやあるらむ
と宣へりける、と人の語りし。
第245段「一条の院をば今内裏とぞいふ」
一条院をば今内裏とぞ言ふ。おはします殿は清涼殿にて、その北なる殿におはします。西東は渡殿にて、渡らせ給ひ、まう上らせ給ふ道にて、前は壺なれば、前栽植ゑ、笹結ひて、いとをかし。
二月二十日ばかりのうらうらとのどかに照りたるに、渡殿の西の廂にて、上の御笛吹かせ給ふ。高遠兵部卿御笛の師にて物し給ふを、御笛二つして、高砂を折り返して吹かせ給ふは、なほいみじうめでたしと言ふも世の常なり。御笛のことどもなど奏し給ふ、いとめでたし。御簾の元に集まり出でて、見奉る折は、
「芹摘みし」
など覚ゆる事こそなけれ。
資忠は木工の允にてぞ蔵人にはなりたる。いみじく荒々しくうたてあれば、殿上人、女房、
「あらはこそ」
と付けたるを、歌に作りて、
「さうなしの主、尾張人の種にぞありける」
と歌ふは、尾張の兼時が娘の腹なりけり。これを御笛に吹かせ給ふを、添ひに候ひて、
「なほ高く吹かせおはしませ。え聞き候はじ」
と申せば、
「いかが。さりとも、聞き知りなむ」
とて、密かにのみ吹かせ給ふに、あなたより渡りおはしまして、
「かの者なかりけり。ただ今こそ吹かめ」
と仰せられて吹かせ給ふは、いみじうめでたし。
第246段「身をかへて天人などは」
身を変へて、天人などはかうやあらむと見ゆるものは、ただの女房にて候ふ人の、御乳母になりたる。唐衣も着ず、裳をだにも、よう言はば着ぬさまにて御前に添ひ臥し、御帳のうちを居所にして、女房どもを呼び使ひ、局に物を言ひ遣り、文を取り継がせなどして有様、言ひ尽くすべくもあらず。
雑色の蔵人になりたる、めでたし。去年の十一月の臨時の祭に御琴を持ちたりしは、人とも見えざりしに、君達と連立ちて歩くは、何処なる人ぞと覚ゆれ。他より成りたるなどは、いとさしも覚えず。
第247段「雪高う降りて」
雪高う降りて、今もなほ降るに、五位も四位も、色麗しう若やかなるが、上の衣の色いときよらにて、革帯の方付きたるを、宿直姿にて、ひきはこえて、紫の指貫も雪に冴え映えて、濃さ増さりたるを着て、衵の紅ならずは、おどろおどろしき山吹を出だして、唐傘を差したるに、風のいたう吹きて横様に雪を吹掛くれば、少し傾けて歩み来るに、深き履、半靴などの脛巾まで雪のいと白うかかりたるこそをかしけれ。
第248段「細殿の遣戸を」
細殿の遣戸をいと疾う押し開けたれば、御湯殿に馬道より下りて来る殿上人、萎えたる直衣、指貫などの、いみじう綻びたれば、色々の衣どもの溢れ出でたるを押し入れなどして、北の陣ざまに歩み行くに、開きたる戸の前を過ぐとて、纓を引き越して顔に塞ぎて去ぬるもをかし。
第249段「岡は」
岡は、船岡。片岡。鞆岡は、笹の生ひたるがをかしきなり。かたらひの岡。人見の岡。
第250段「降るものは」
降るものは、雪。霰。霙は憎けれど、白き雪のまじりて降る、をかし。
第251段「雪は」
雪は、檜皮葺、いとめでたし。少し消え方になりたるほど。また、いと多うも降らぬが、瓦の目ごとに入りて、黒う円に見えたる、いとをかし。
時雨、霰は、板屋。霜も、板屋。庭。
第252段「日は」
日は、入日。入り果てぬる山の端に、光のなほ留まりて、赤う見ゆるに、薄黄ばみたる雲の棚引き渡りたる、いとあはれなり。
第253段「月は」
月は、有明の東の山際に細くて出づるほど、いとあはれなり。
第254段「星は」
星は、昴。彦星。夕づつ。よばひ星、少しをかし。尾だになからばしかば、まいて。
第255段「雲は」
雲は、白き。紫。黒きもをかし。風吹く折の雨雲、明け離るるほどの黒き雲の漸う消えて白うなりゆくもをかし。
「朝にさる色」
とかや、文にも作りたなる。月のいと明き面に薄き雲、あはれなり。
第256段「さわがしきもの」
騒がしきもの、走り火。板屋の上にて烏の斎の生飯食ふ。十八日に、清水に籠もり合ひたる。暗うなりて、まだ火をともさぬほどに、ほかより人の来合ひたる。まいて、遠き所の人の国などより、家の主の上りたる、いと騒がし。近きほどに火出で来ぬと言ふ。されど、燃えは付かざりけり。
第257段「ないがしろなるもの」
ないがしろなるもの、女官どもの髪上げ姿。唐絵の革帯の後ろ。聖の振舞ひ。
第258段「ことばなめげなるもの」
言葉なめげなるもの、宮のべの祭文読む人。舟漕ぐ者ども。雷鳴の陣の舎人。相撲。
第259段「さかしきもの」
賢しきもの、今様の三歳児。稚児の祈りし、腹など取る女。
物の具ども請ひ出でて、祈り物作る、紙をあまた押し重ねて、いと鈍き刀して切るさまは、一重だに断つべくもあらぬに、さるものの具となりにければ、己が口をさへ引歪めて押切り、目多かる物どもして、掛竹うち割りなどして、いと神々しう仕立てて、うち振るひ祈ることども、いと賢し。
かつは、
「なにの宮、その殿の若君、いみじうおはせしを、掻い拭ひたるやうに止め奉りしかば、禄を多く賜りしこと。その人かの人召したりけれど、験なかりければ、いまに嫗をなむ召す。御徳をなむ見る」
など語り居る顔も怪し。
下衆の家の女主人。痴れたる者、それしも賢しうて、誠にさかしき人を教へなどすかし。
第260段「ただ過ぎに過ぐるもの」
ただ過ぎに過ぐるもの、帆掛けたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。
第261段「ことに人に知られぬもの」
ことに人に知られぬもの、凶会日。人の女親の老いにたる。
第262段「文ことばなめき人こそ」
文言葉なめき人こそいとど憎けれ。世をなのめに書き流したる言葉の憎きこそ。さるまじき人のもとに、あまりかしこまりたるも、げに悪きことぞ。されど、我が得たらむはことわり、人のもとなるさへにくくこそあれ。大方差向かひても、なめきは、などかく言ふらむと傍らいたし。まいて、よき人などをさ申す者はいみじうねたうさへあり。田舎びたる者などの、さあるは、烏滸にていとよし。
男主などのなめく言ふ、いとわるし。我が使ふ者などの、
「なにとおはする」
「宣ふ」
など言ふ、いと憎し。ここもとに
「はべり」
など言ふ文字をあらせばやと聞くこそ多かれ。さも言ひつべき者には、
「あな似げな、愛敬な、などかう、このことばはなめき」
と言へば、聞く人も言はるる人も笑ふ。かう覚ゆればにや、
「あまり見そす」
など言ふも、人悪きなるべし。
殿上人、宰相などを、ただ名のる名を、いささかつつましげならず言ふは、いとかたはなるを、きよう、さ言はず、女房の局なる人をさへ、
「あの御許」
「君」
など言へば、珍かに嬉しと思ひて、褒むる事ぞいみじき。
殿上人、君達、御前よりほかにては官をのみ言ふ。また、御前にてはおのがどちものを言ふとも、聞こし召すには、などてか
「まろが」
など言はむ。さ言はむにかしこく、言はざらむに悪かるべきことかは。
第263段「いみじうきたなきもの」
いみじう汚きもの、なめくぢ。えせ板敷の帚の末。殿上の合子。
第264段「せめておそろしきもの」
せめて恐ろしきもの、夜鳴る神。近き隣に盗人の入りたる。わが住む所に来たるは、物も覚えねば何とも知らず。近き火、また恐ろし。
第265段「たのもしきもの」
頼もしきもの、心地悪しき頃、伴僧あまたして修法しある。心地などのむつかしき頃、誠々しき思ひ人の言ひ慰めたる。
第266段「いみじうしたてて婿とりたるに」
いみじう仕立てて婿取りたるに、程もなく人の婿になりて、ただ一月ばかりも、はかばかしう来で止みにしかば、すべていみじう言ひ騒ぎ、乳母などやうの者は、禍々しき事など言ふもあるに、その帰る正月に蔵人になりぬ。
「浅ましう、かかる習ひには、如何でとこそ人は思ひたれ」
など、言ひ扱ふは聞くらむかし。
六月に人の八講し給ふ所に、人々集まりて聞きしに、蔵人になれる婿の、れうの表の袴、黒半臂などいみじう鮮やかにて、忘れにし人の車の鴟の尾と言ふ物に、半臂の緒を引き掛けつばかりにて居たりしを、如何に見るらむと、車の人々も知りたる限りはいとほしがりしを、異人々も、
「つれなく居たりし者かな」
など、後にも言ひき。
なほ、男は、物のいとほしさ、人の思はむ事は知らぬなめり。
第267段「世の中になほいと心うきものは」
世の中になほいと心憂きものは、人に憎まれむ事こそあるべけれ。誰てふ物狂ひか、我、人にさ思はれむとは思はむ。されど、自然に宮仕所にも、親、同胞の中にても、思はるる思はれぬがあるぞいと侘しきや。
良き人の御ことはさらなり、下衆などのほども、親などのかなしうする子は、目立て耳立てられて、労はしうこそ覚ゆれ。見る甲斐あるは理、如何が思はざらむと覚ゆ。異なる事なきは、また、これをかなしと思ふらむは、親なればぞかしとあはれなり。
親にも、君にも、すべて、うち語らふ人にも、人に思はれむばかりめでたきことはあらじ。
第268段「男こそなほいとありがたく」
男こそ、なほいと有難く怪しき心地したるものはあれ。いと清げなる人を捨てて、憎げなる人を持たるも怪しかし。
公所に入り立ちする男、家の子などは、あるがなかによからむことをこそは、選りて思ひ給はめ。及ぶまじからむ際をだに、めでたしと思はむを、死ぬばかりも思ひ掛かれかし。
人の娘、まだ見ぬ人などをも、良しと聞くをこそは、如何でとも思ふなれ。かつ女の目にも悪しと思ふを思ふは、いかなることにかあらむ。
形いと良く、心もをかしき人の、手も良う書き、歌もあはれに詠みて、恨み遣せなどするを、返事は賢しらにうちするものから、寄り付かず、らうたげにうち嘆きて居たるを、見捨てて行きなどするは、浅ましう、公腹立ちて、見証の心地も心憂く見ゆべけれど、身の上にては、露心苦しさを思ひ知らぬよ。
第269段「よろづのことよりも情けあるこそ」
よろづのことよりも情けあるこそ、男はさらなり、女もめでたく覚ゆれ。なげの言葉なれど、切に心に深く入らねど、いとほしきことをば
「いとほし」
とも、あはれなるをば
「げにいかに思ふらむ」
など言ひけるを、伝へて聞きたるは、差向かひて言ふよりも嬉し。如何でこの人に、思ひ知りけりとも見えにしがな、と常にこそ覚ゆれ。
必ず思ふべき人、問ふべき人は、さるべきことなれば、取り分かれしもせず。さもあるまじき人の、差し答へをも後ろ安くしたるは、嬉しき業なり。いと易き事なれど、さらにえあらぬことぞかし。
大方心良き人の、誠にかどなからぬは、男も女も有難き事なめり。また、さる人多かるべし。
第270段「人のうへいふを」
人の上言ふを腹立つ人こそいとわりなけれ。如何でか言はではあらむ。わが身をば差し置きて、さばかりもどかしく言はまほしきものやはある。されど、怪しからぬやうにもあり、また、自ら聞き付けて、恨みもぞする、あいなし。
また、思ひ放つまじきあたりは、いとほしなど思ひ解けば、念じて言はぬをや。さだになくば、うち出で、笑ひもしつべし。
第271段「人の顔に」
人の顔に、取り分きて良しと見ゆる所は、度ごとに見れども、あなをかし。珍しきとこそ覚ゆれ。絵など、あまた度見れば、目も立たずかし。近う立てたる屏風の絵などは、いとめでたけれども、見も入れられず。
人の形はをかしうこそあれ。憎げなる調度の中にも、一つ良き所のまもらるるよ。見難きもさこそはあらめと思ふこそ侘しけれ。
第272段「古代の人の指貫着たるこそ」
古代の人の指貫着たるこそ、いとたいだいしけれ。前に引き当てて、先づ裾を皆籠め入れて、腰はうち捨てて、衣の前を整へ果てて、腰をおよびてとるほどに、後ろ様に手を差し遣りて、猿の手結はれたるやうに解き立てるは、頓の事に出で立つべくも見えざめり。
第273段「十月十よ日の月の」
十月十余日の月のいと明きに歩きて、女房十五六人ばかり、皆濃き衣を上に着て、引き返しつつありしに、中納言の君の、紅のはりたるを着て、頸よりかみを掻き越し給へりしが、あたらし、そとには、いともよく似たりしかな。
「ひひなのすけ」
とぞ、若き人々付けたりし。後に立ちて笑ふも知らずかし。
第274段「成信の中将こそ」
成信の中将こそ、人の声はいみじう良う聞き知り給ひしか。同じ所の人の声などは、常に聞かぬ人は更にえ聞き分かず。ことに男は人の声をも手をも、見分き聞き分かぬものを、いみじう密かなるも、賢う聞き分き給ひしこそ。
第275段「大蔵卿ばかり」
大蔵卿ばかり耳疾き人はなし。誠に、蚊のまつげの落つるをも聞き付け給ひつべうこそありしか。
職の御曹司の西面に住みし頃、大殿の新中将宿直にて、物など言ひしに、傍にある人の、
「この中将に、扇の絵の事言へ」
と囁けば、
「今、かの君の立ち給ひなむにを」
といと密かに言ひ入るるを、その人だにえ聞き付けで、
「何とか、何とか」
と耳を傾け来るに、遠く居て、
「憎し。さ宣はば、今日は立たじ」
と宣ひしこそ、如何で聞き付け給ふらむと浅ましかりしか。

