『源氏物語』第20帖「朝顔」現代語訳全文を読む|わかりやすい口語訳

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」尾形月耕『源氏五十四帖』

 このページでは、『源氏物語』第20帖「朝顔」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。

 原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第20帖「朝顔」原文全文をご覧ください。

目次

前斎院への思い、再び

 斎院は喪に服すことになり、その職を退いていた。源氏は、いったん心を寄せた相手のことはなかなか思い切れないいつもの性分から、その後もたびたび見舞いの手紙を送っていた。けれど前斎院の朝顔の君は、昔から源氏のこうした思いを煩わしく感じていたので、返事も決して親しげには書かない。源氏はそれを残念に思い続けていた。

 九月になり、朝顔の君が桃園宮へ移ったと聞いた。そこには女五宮も住んでいたので、源氏はその宮を訪ねるのを口実に出かけることにした。亡き桐壺院はこの皇女たちを特に大切になさっていたので、源氏も今なお親しく便りを交わしている。同じ寝殿の西と東とに、それぞれ住んでいるのだった。桃園宮は、まだそれほど年月もたっていないのに、どこか荒れた感じが漂い、ひっそりと物悲しい。

 女五宮は源氏と対面し、いろいろと昔話をした。かなり年を取った様子で、しきりに咳をしている。年齢そのものは、亡くなったあの宮より上だったが、その方がいつまでも若々しく上品だったのとは違い、声も太く、どことなく無骨なところがある。それはそれで、この宮らしい姿だった。

「院がお亡くなりになってからというもの、何につけても心細く思っておりました。年を重ねるほど涙もろくなり、そうして暮らしてきましたのに、この宮まで私を置いて亡くなってしまわれましたでしょう。今では生きているのかいないのかわからないような身でおります。それでもこうしてあなたがお立ち寄りくださると、しばらくは老いの憂さまで忘れてしまいそうです」

 ずいぶんお年を召されたものだな、と源氏は思ったものの、かしこまって答えた。「院がお亡くなりになってからは、私にとっても世の中がまるでそれまでとは違うものになりました。思いもしなかった罪を負わされ、知らない土地で途方に暮れるような年月まで過ごしました。たまたま朝廷へ戻していただいてからは、今度はあまりの忙しさに取り紛れてしまい、長い間こうして参上し、昔のお話を伺うことさえできませんでした。それをずっと心残りに思っておりました」

 女五宮は、「本当に、何につけても先のわからない世の中です。同じ姿のまま、こんなに長く生き残っている自分が恨めしく思われることもたくさんございます。それでも、あなたがこうして無事に世へお戻りになった姿を見ることができた。それを思えば、あの苦しかった年月の途中で死んでしまわなくてよかったと思います」と、声を震わせ、また涙をこぼした。

「それにしても、本当にお美しく、大人びていらっしゃいましたね。まだ子どもでいらしたころ、初めてお姿を拝見した時にも、この世にこれほど光り輝く方がお生まれになったのかと驚いたものです。それから時々お会いするたび、あまりの美しさに恐ろしくなるほどでした。今の帝があなたによく似ていらっしゃると皆が申しておりますけれど、それでもやはり、あなたよりは少し劣っていらっしゃるのだろうと想像しておりますよ」

 こんなふうに面と向かって延々と容貌を褒める人も珍しい、と源氏はおかしく思った。「私は田舎者のような暮らしをして、すっかり落ち込んでいた年月もありましたから、昔よりずいぶん衰えております。それに比べて帝のお美しさは、昔の世まで探しても並ぶ方がいないのではないかと思うほどです。ずいぶん妙なご想像でございますね」と答えた。

「こうして時々お顔を拝見できれば、そのたびに私の寿命も延びることでしょう。今日は老いも忘れ、このつらい世の嘆きまで全部消えてしまったような気がいたします」

 女五宮はそう言って、また泣く。そして何気ないように続けた。「三宮などはうらやましいこと。あなたと親しくできるだけのご縁がおありですものね。亡くなった方も、時々そういうことを羨ましがっていらしたものです」

 そこだけは源氏も少し耳をそばだてた。

「本当に、昔からもっと親しくお仕えしていれば、今ごろは私も思いどおりになっていたのでしょうに。皆さん、私を遠くへ置いてしまわれて」

 女五宮はどこか恨めしそうに、意味ありげなことまで言う。

朝顔の君のもとへ

 源氏が東の方を眺めると、枯れ始めた庭の草木まで何とも趣深く見渡される。その向こうで朝顔の君も静かに庭を眺めているのだろうか。どんな姿でいるのかと思うと、ますます会ってみたくなり、源氏にはもう我慢ができなかった。

「せっかくここまで参りましたのに、このままお訪ねせず帰ってしまっては、あまりにも心がないようです。あちらにもご挨拶を申し上げてまいりましょう」

 そう言って、簀子を伝ってそのまま朝顔の君のいる東側へ渡った。

 もう薄暗くなっていた。鈍色の御簾越しに黒い几帳の影が透けて見え、どこからともなく薫き物の香りを含んだ風が優しく吹き通してくる。そこにいる人の気配は、想像どおり品がよかった。簀子に源氏を座らせておくのも失礼なので、南の廂へ通された。宣旨という女房が出てきて、朝顔の君との間を取り次ぐ。

 源氏は言った。「この年になって、またこうして御簾の前でお話しするとは、何だか若いころへ戻ったような気持ちがしますね。ずいぶん年月を重ね、もう十分に年季も積んだのですから、そろそろ御簾の内と外を隔てる決まりくらい、お許しいただけるだろうと思っていたのですが」

 いつまでも距離を置かれるのを、いかにも残念そうに言う。

 朝顔の君は女房を介して答えた。「昔のことはすべて夢だったと思っております。今こうして目覚めてみれば、何もかもがはかないことだったのか、それさえ自分では決めかねておりますのに、年月を重ねたからといって、何が許されるようになったと申し上げればよいのでしょう」

 本当に、何一つ定まらない世の中だ、と源氏はこんなやり取りからも、しみじみ感じずにはいられなかった。

 それでも引き下がろうとはせず、源氏は歌を送った。

人知れず神の許しを待ちし間にここらつれなき世を過ぐすかな

人知れず、あなたが神のお務めから解かれる日を待っているうちに、こんなにも長く、あなたのつれないままの年月を過ごしてしまいました。

「もう斎院ではない今となっては、いったい何を神様のお戒めのせいになさるつもりなのでしょう。世の中があれほど煩わしいことになったあと、私もさまざまなことを考えました。せめて、そのほんの一端だけでもお話ししたいのです」

 源氏は熱心に訴え続ける。言葉遣いや物腰には昔以上の艶が加わっていた。もう相当な年齢になっているはずなのに、その官位や立場から考えても不思議なくらい若々しく見える。

 朝顔の君から返歌があった。

なべて世のあはればかりを問ふからに誓ひしことと神やいさめむ

ただ世間並みに、あなたのお身の上を気遣ってお返事するだけなのに、昔の誓いに背くことだと神がお咎めになるでしょうか。

「まあ、ひどい。あのころの罪なら、もうすべて祓いの風に吹き流してしまったはずですよ」

 そう言って笑いを含ませる源氏の愛嬌は、昔にもまして素晴らしい。「その禊を神様が本当にお認めになったかどうかは、わかりませんけれどね」などと、たわいないやり取りをする。けれど本気になって考えれば、こんな会話そのものが少々気恥ずかしい。朝顔の君は年月を経るほど世俗から遠ざかり、ますます奥深く引きこもるようになっていて、源氏がどれほど話しかけても、それ以上はなかなか応じなかった。

「これでは、まるでまた若い恋人のようになってしまいますね」

 源氏は軽い気持ちで言っているのではないというように嘆きながら、とうとう立ち上がった。

「年を取ると、かえって厚かましくなるものなのですね。こんなにもやつれ果てた私を、せめて『昔とは変わりましたね』と一言言ってくださることさえなく、ずっとこんな扱いなのですから」

 そう言って帰っていく。その名残を惜しむように、女房たちはいつものように、あれこれと取り次いでいた。

朝顔の花の贈答

 秋の空も美しく、木の葉の音を聞くだけでも、源氏には過ぎ去った昔の悲しみが次々とよみがえった。その時々に、朝顔の君がどれほど趣深く、心ある人に見えたかということまで思い出される。

 思うように話すこともできないまま帰ってきたことが心残りで、その夜の源氏はなかなか眠れなかった。朝早く格子を上げさせ、朝霧を眺めていると、枯れた草花の中に、朝顔があちらこちらのものへ絡みつきながら、消え入りそうに咲いていた。盛りのころとはすっかり色も変わっている。それを折らせ、朝顔の君へ贈った。

「昨夜はあまりにもきっぱりとしたお扱いでしたので、何とも格好の悪い気持ちで帰りました。後ろ姿まで、さぞおかしくご覧になったことでしょう。それが悔しくてなりません。それでも――」

見し折のつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらむ

昔お会いしたころのあなたを、私は少しも忘れてはいません。けれどあの朝顔の花盛りは、もう過ぎてしまったとお思いなのでしょうか。

「長く積もった年月くらいは、さすがに哀れと思ってくださるだろう――そんな期待も、半分はしております」

 今の源氏らしい、落ち着いた調子の手紙だった。朝顔の君は、このまま返事をしなければ、かえって相手の気持ちがわからないような無風流な人と思われるだろうか、と考えた。女房たちも硯を用意して勧めるので、ほんの短く返した。

秋果てて霧の籬にむすぼほれあるかなきかに移る朝顔

秋も終わり、霧の立つ垣根に絡みながら、朝顔はもう、あるともないともわからないほど色あせております。

「いかにも今の私に似つかわしい花にたとえられたものだと思うと、露に濡れるような心地がいたします」

 それだけの返事で、特に気の利いた言葉があるわけでもない。けれどどういうわけか、源氏には手放しがたく、何度も眺めた。青鈍色の柔らかな紙に、淡い墨で書かれた文字の姿も美しかった。人の身分や筆跡、場面の雰囲気に助けられ、その時には何でもないことまで趣深く語り伝えられることがある。だからこそ、後になって語り直すと形が変わり、何が本当だったのかわからなくなることも多いのだろう。

 今さら若いころのように手紙を重ねて送るのも似つかわしくない、と源氏自身も思った。それでも朝顔の君が昔から一貫して距離を置くまま、何一つ叶わず年月が過ぎてしまったことが、どうにも惜しい。このまま終われそうもない気持ちになり、改めて真剣な言葉を送り続けた。

 朝顔の君は東の対に離れて暮らし、宣旨を呼び寄せては源氏からの手紙について相談した。普通なら、彼ほどの男から熱心に思われれば、身分のさほど高くない女性でさえ心を動かし、間違いを起こすこともあるだろう。けれど朝顔の君は、若いころでさえ源氏からはっきり距離を置いていた。まして今は、恋など思いもしない年齢と立場である。

 草花に添えられた手紙へ、時を外さず返事することさえ、人から軽々しいと見られるのではないか。そんな世間の噂まで気にして、決して源氏へ心を許す様子はなかった。何年たっても少しも変わらないその心を、源氏は世間のほかの女性とは違う珍しさとして面白くも思い、同時に憎らしくも感じていた。

紫の上の胸に生まれた不安

 やがて世間にも噂が漏れた。

「内大臣は前斎院へずいぶん熱心に通っていらっしゃるそうだ。女五宮も悪く思ってはいないらしい。お二人なら身分も釣り合っていて、似つかわしいご縁だろう」

 そんな話を紫の上も耳にした。初めのうちは、もし本当にそういう話があるなら、源氏が自分だけに隠しているはずはない、と思っていた。けれど改めて源氏の様子を注意して見ると、どこかいつもと違い、心が外へさまよっているように見える。それがつらかった。

 今まで戯れのように話していたことも、実は本気だったのではないだろうか。朝顔の君は、これまでの女性たちと同じように源氏と縁のある人ではあっても、その評判や身分は格別で、昔から源氏も特別に重く見ている。その人へ本当に心が移ってしまったなら、自分はどれほど居場所のない思いをするだろう。

 長い年月、自分ほど大切に扱われる人はいないという暮らしに慣れてきた。それなのに今さら、別の女性に押し消されるようなことになったら――。紫の上は、人には言えないまま思い悩んだ。

 源氏が自分との関係を完全に断ち切ることなどないだろう。しかし長年、あまりに身近な相手として見慣れられてきた自分は、かえって軽く扱われる立場になっているのではないか。そんな思いまで重なった。

 普段のちょっとしたことなら、紫の上も恨み言を言い、それさえ源氏には可愛らしく聞こえる。けれど本当に心からつらいと思ってしまうと、かえって何も顔には出さなかった。

 端近くへ出て物思いにふけることが多くなった。源氏は宮中に泊まる日まで増え、その一方では日課のように朝顔の君への手紙を書いている。それを見るたび、紫の上は、「やっぱり世間の噂も嘘ではないのだろう。せめて私にも、何か気づかせるくらいのことは言ってくださればよいのに」と、ますます疎ましく思うようになった。

雪の夕暮れ、桃園宮へ

 夕方になった。神事なども終わり、これといった用事のない時期だったので、源氏は退屈に耐えかね、また女五宮のもとへ出かけようと思い立った。雪がちらちら降る、艶やかな黄昏時である。柔らかく身体に馴染んだ衣にはいつも以上に香を焚きしめ、特別に念入りに身支度をしている。その姿を見れば、少しでも心の弱い女性ならどうなってしまうだろうと思われるほどだった。

 それでも出発前には、紫の上へ一応挨拶をした。

「女五宮が具合を悪くしていらっしゃるそうですから、お見舞いに行ってきます」

 そう言って紫の上の前に座ったが、彼女は源氏のほうを見ようともせず、幼い明石の姫君と遊んで気を紛らわせている。その横顔には、ただならないものがあった。

 源氏は言った。「どうしたのです。ずいぶんご機嫌が変わる時期になったものですね。私は何も悪いことはしていませんよ。あまりに毎日見慣れた私など、塩焼きの衣のように見栄えもしなくなってしまったのかと思って、少し間を置いているだけなのに、それでもいけませんか」

 紫の上はただ一言、「慣れ親しんでゆくということには、本当に、つらいことが多いものなのですね」と答え、源氏に背を向けて横になった。

 そんな紫の上を残して出ていくことが、源氏にもひどく気が重かった。しかしすでに女五宮へ訪問を知らせてしまっているので、結局そのまま出かけた。

 紫の上は、「こんなことが本当にあった世の中だったのね。それなのに私は、何も疑わずに今まで過ごしてきたのだわ」と考えながら横になっていた。喪のための鈍色の衣ではあっても、その重なり具合はかえって美しく、雪の光の中へ出ていく源氏の姿は驚くほど艶やかだった。その後ろ姿を見送りながら、「もし本当に、これからますます私から離れていってしまったら」と思うと、紫の上はとうとう堪えきれなくなった。

 源氏の供は人目につかない者ばかりだった。「最近は宮中以外へ出歩くのも面倒になりましたよ。桃園宮もひどく心細い暮らしでいらっしゃいます。これまでは式部卿宮がいらしたのでお任せしていましたが、今は私を頼りにするとまでおっしゃる。それももっともで、お気の毒ですからね」などと供の者へ説明していたが、彼らは内心、「何をおっしゃる。いつまでもお変わりにならない好色心だけが、せっかくのお方の傷なのだ」「そのうち何か軽々しい騒ぎが起きるのではないか」と囁き合っていた。

 桃園宮では、人の多い北側の門から入るのは軽々しく見えるので、西の立派な門を開けさせた。突然の訪問だったので、宮の側も驚いて準備する。その門番までひどく年老いて寒そうな様子で出てきたが、なかなか門を開けられない。ほかには男手さえいないのだろう。重そうに門を引きながら、「錠がすっかり錆びついてしまいまして、開きません」と困っている。

 源氏はそれを聞くと、何とも哀れになった。つい昨日、一昨日のことのように思っているうちに、もう三年も昔になってしまった。こんな荒れ果てた家を見てもなお、人はこの世を仮の宿だと思い切れず、木や草の色一つにまで心を動かしてしまうのだ――。そんなことを思いながら、口ずさんだ。

いつのまに蓬がもととむすぼほれ雪降る里と荒れし垣根ぞ

いつの間にこんなにも蓬が絡みつき、雪に埋もれる古里のように、垣根まで荒れ果ててしまったのでしょう。

 しばらくかかってようやく門が開き、源氏は中へ入った。

女五宮と、老いた源典侍

 まず女五宮のところへ行き、いつものように話し始めた。昔のことを何となく取り上げ、話題を尽くすほど語ってみるのだが、宮はもう眠そうで、源氏の話にもあまり耳が反応しない。とうとうあくびまでして、「私は宵になるとすぐ眠くなってしまうものですから、もうお話も十分には伺えません」と言ったかと思うと、ほどなく源氏の聞き慣れない音――どうやら鼾らしいものまで聞こえてきた。

 源氏はむしろこれ幸いと立ち上がろうとした。すると今度は、またひどく古めかしい咳払いをしながら、一人の女性が入ってきた。

「恐れ多いことではございますが、昔をご存じのはずと頼みにしておりますのに、今では私など、この世に生きている者の数にも入れてくださらないのですね。亡き院は私のことを『おばあさま』などと笑っていらしたものですのに」

 そこまで名乗られて、源氏もようやく思い出した。昔、源典侍と呼ばれていた女性である。尼になり、今はこの女五宮の弟子として仏道の勤めをしているとは聞いていたが、まさかまだ生きているとは思っていなかったので驚いた。

「あのころのことは、どれもこれも昔話になってしまいました。遥か昔を思い出すだけでも心細くなる今、懐かしいお声を聞けたものです。親もない旅人が寝ていると思って、どうかこれからは親代わりに面倒を見てください」

 源氏がそう言って近くへ寄ると、昔の記憶がいっそう鮮やかによみがえる。源典侍はこんな年齢になっても、相変わらずどこか艶めいたふうに振る舞っていた。歯がすっかり抜け落ちたらしい口元や、年老いた声を想像させながら、それでも舌の動かし方などには昔の癖が残り、なお冗談めいた色気を見せようとしている。

 昔の恋の歌の続きを言いかけたりするのが、さすがに見ていられないような気もする。「まるで今日初めて年を取ったようですね」と笑いたくもなったが、一方では、これもまた何ともいえず哀れだった。

 源氏は思う。この人が若かったころに競い合っていた女御や更衣たちも、ある人はもう亡くなり、ある人は落ちぶれて、頼りないこの世をさまよっているらしい。藤壺の中宮でさえ、あの若さで亡くなった。それなのに、当時からもう先の短そうな年齢に見え、人柄もどこか頼りなく思われたこの源典侍が、今なお生き残り、穏やかに仏道の勤めをしながら暮らしている。やはり人の世というものは、何一つ定まらないものなのだ。

 源氏がそんなふうにしみじみしているのを、源典侍は自分への愛情がよみがえったのだとでも思ったのか、急に若返ったような気分になったらしい。

年経れどこの契りこそ忘られね親の親とか言ひし一言

どれほど年月がたっても、あのころのご縁だけは忘れません。私を「親の親ほどの人だ」とおっしゃった、あの一言まで。

 源氏はさすがにうんざりして、返した。

身を変へて後も待ち見よこの世にて親を忘るるためしありやと

尼姿に身を変えたあとも、ゆっくり待って見ていてください。この世で子が親を忘れる例などあるものかどうかを。

「ずいぶん頼もしいご縁でしょう。続きはまた、いずれゆっくりお話ししますよ」

 そう言って源氏は立ち上がった。

朝顔の君、最後まで心を許さず

 朝顔の君のいる西側では格子を下ろしていたが、あまり露骨に源氏を嫌っているように見えるのもどうかというので、一間、二間ほどは開けてあった。月が昇り、薄く積もった雪の光と溶け合って、かえって美しい夜になっている。

 源氏は先ほどの源典侍の老いらくの恋を思い出した。老年の恋はよくないものの例として昔から言われていたような気がして、つい笑ってしまう。けれど今夜、朝顔の君には冗談ではなく、真剣に思いを伝えた。

「たった一言でいいのです。『嫌です』とでも何とでも、人づてではなく、あなた自身の声で言ってください。それを聞ければ、私も本当に諦めるきっかけにしましょう」

 身を乗り出すほど熱心に迫ったが、朝顔の君の心はまったく動かなかった。若いころ、自分も源氏もまだ若く、少しくらいの恋なら許される時代でさえ、亡き父宮などが源氏との縁を望んでいる気配を見せたのを、朝顔の君は、それでもあってはならない、恥ずかしいことだと思って退けたのである。まして人生も後半になり、こんな年齢で今さら恋人のように一声交わすことなど、ひどく気恥ずかしい――そう思っていた。

 あまりにも頑ななので、源氏には呆れるほどつらかった。

 とはいえ朝顔の君も、相手を完全に突き放して恥をかかせるようなことはしない。女房を通じた返事だけは、感じよく届く。それがかえって源氏にはもどかしかった。夜もずいぶん更け、風も強くなって、本当に心細い夜になってきたので、源氏は涙を少し拭いながら歌った。

つれなさを昔に懲りぬ心こそ人のつらきに添へてつらけれ

昔からあなたのつれなさを知っていながら、少しも懲りなかった自分の心こそ、あなたの冷たさに重なって、いっそう私を苦しめるのですね。

「結局は自分の心から招いた苦しみなのでしょうけれど」

 女房たちは、「本当にお気の毒ですこと」「こちらまでいたたまれません」と、いつものように言う。

 朝顔の君は返した。

あらためて何かは見えむ人のうへにかかりと聞きし心変りを

今になって、どうして私だけが昔と違う姿をお見せしましょう。ほかの女性には心変わりをなさる方だと、ずっと聞いてきたあなたなのですから。

「私は昔から、心を変えるということには慣れておりません」

 もう何を言っても仕方がない。源氏は本気で恨み言を残して帰った。けれど自分でも、こんな年になって何とも若々しい振る舞いをしている、と少し恥ずかしくなる。

 帰り際には、何かを女房たちへしきりに囁き、「こんなことが世間の語り草になるような形で、外へ漏らしてはいけませんよ。絶対に。『いさら川』などという昔の歌のように、馴れ馴れしく言い広めないでください」などと念を押したらしい。何の相談だったのだろう。

 朝顔の君の女房たちの中には、「まあ、恐れ多いこと。いくら何でも、あそこまで情けを知らないようにお扱いするのもどうなのでしょう」「源氏の君だって、無理やり押し入るような軽々しいご様子ではないのに。お気の毒です」と言う者もいた。

 もちろん朝顔の君にも、源氏という人の身分や魅力、人の心を惹きつけるところがわからないわけではなかった。けれど少しでも恋心を理解するような態度を見せれば、世間の女性たちが皆、源氏を慕っているのと同じ列に自分まで数えられるのではないか。また、自分の軽々しい心まで源氏に見抜かれるのではないか。何より、源氏は自分の内面まで見透かしてしまいそうな、気後れする相手だった。

 だから、いくら親しげな情けを示されても、それに応える気はなかった。ただ手紙の返事だけは絶やさず、心配させない程度には返し、女房を介した返答も失礼にならないようにして、このまま過ごそう。そして、これまで世俗に沈んできた罪を消せるほど、これからは仏道に励もう――そう決意した。

 とはいえ、突然この一件だけを理由にして源氏を露骨に遠ざけるのも、かえって今さら恋を意識しているように見え、人の噂を招くだろう。世間の口のうるささをよく知っている朝顔の君は、身近な女房たちにさえ心を許さず、細心の注意を払いながら、次第に仏道の勤めへ心を向けていった。

源氏の執着と、紫の上の嫉妬

 朝顔の君には兄弟の皇子たちが大勢いたが、同じ母から生まれた兄弟ではないので、それほど親しくはなかった。桃園宮そのものも次第に寂れていく。そんな中で、源氏ほどの人が熱心に心を尽くして朝顔の君を思っているので、周囲の人々が皆、その縁を望むようになっていくのも無理はなかった。

 もっとも源氏自身、朝顔の君だけに心を奪われてどうにもならないというほどではない。むしろ彼女のあまりにつれない態度が癪に障り、このまま負けて引き下がるのも悔しかったのである。それに改めて考えてみれば、朝顔の君は身分も世間の評判も申し分なく、物事を深く理解し、長い年月の間にさまざまな人のあり方を見聞きして、昔以上に成熟した女性になっていた。

 今さら新しい恋にのめり込めば世間から何と言われるか、源氏にもわかっている。それでも、「ここまで熱心にして何も得られなかったとなれば、それこそ笑いものではないか。さて、どうしたものか」と心は揺れ、二条院へ帰らない夜が重なるようになった。

 紫の上には、もう冗談として受け流すことができなかった。隠そうとはしていても、どうしても気持ちが漏れることはある。

「このごろのあなたは、本当にいつもと違いますね。どう受け取ればよいのか、私にはわかりません」

 源氏は紫の上の髪を優しくかきやりながら、気の毒そうに見つめた。そんな二人の姿は、そのまま絵に描きたくなるほど美しい。

「中宮がお亡くなりになってから、帝がとても寂しそうに世の中を見ていらっしゃるのも気がかりです。それに太政大臣までいなくなり、仕事を譲れる相手がいないので、何もかも私に集まって忙しいのですよ。このところ家を空けがちなのを、今までにないことだからと寂しく思うのも無理はありません。でも、もう安心していてください」

 丸みを帯びた紫の上の額髪を整えてやっても、彼女はいよいよ背を向け、何も言わない。

「こんなに子どもみたいに拗ねることを、いったい誰に習ったのです」

 そう言ってみるものの、移ろいやすい世の中で、これほどまで心を置かれてしまうのもやるせないことだ、と源氏自身も考え込んだ。

「斎院には、ただちょっとしたことを申し上げているだけですよ。まさか、あなたは何か勘違いしているのですか。それならまったく見当違いです。そのうち自然とわかります。あの方は昔から、驚くほど私に距離を置いた人なのです。退屈な時に、普通以上の気持ちをこめて少し便りを差し上げれば、向こうも寂しい暮らしをしているので、たまには返事をくださる。それだけのことで、真剣な関係などではありません」

「そんなことまで一々、『こうなのですよ』とあなたへ訴えなければならないほどのことですか。何も心配はいりません。そう考え直してください」

 源氏は一日中、あれこれと紫の上をなだめ続けた。

雪の二条院

 雪が深く降り積もり、その上から今もなお静かに降り続けている。松と竹との違いが雪の中にくっきり浮かび上がって美しく見える夕暮れだった。そんな景色の中では、人の顔までいつも以上に光り輝いて見える。

 源氏は言った。「季節ごとに人の心を奪うという春の花や秋の紅葉の盛りもよいけれど、冬の夜の澄んだ月と、雪の光とが重なった空ほど、不思議なものはありませんね。色彩など何もないのに、それがかえって身に染み、この世の外のことにまで思いが流れてゆく。美しさも物悲しさも、何一つ残さず感じさせられる時です。冬をつまらない季節の代表のように言った昔の人は、ずいぶん心が浅かったものですよ」

 そう言って御簾を巻き上げさせた。

 月は曇りなく差し、あたり一面が白一色に見渡される。しおれた庭の草木の影はかえって胸に迫り、遣水もひどくすすり泣くような音を立てていた。池を閉ざした氷の冷たい美しさも言いようがない。源氏は童女たちを庭へ下ろし、雪の玉を転がして遊ばせた。

 可愛らしい姿や髪が月の光に映えている。少し大きな童女たちは、さまざまな色の衵を乱れたまま重ね、帯も緩んだ宿直姿で、それがかえって艶めかしい。長く余った髪の先が真っ白な雪を背景にくっきり浮かび上がる。小さな子たちはいかにも子どもらしく喜んで走り回り、扇まで落として、すっかり気を許した顔で遊んでいた。

 皆で大きな雪の玉を作ろうと、むきになって押すけれど、重すぎて動かせず困っている。その様子をほかの女房たちが東の端などから顔を出し、待ち遠しそうに笑って眺めていた。

源氏が語る、忘れられない女性たち

 その景色を眺めながら、源氏は昔を思い出した。

「ある年、中宮のお庭にも雪の山を作ったことがありましたね。昔からある遊びではあったけれど、あの方がなさると、どんなささやかなことでも不思議なくらい新鮮で美しかった。何かあるたび、もう一度お会いできないことが、どうしようもなく残念に思われます」

「中宮は私をいつも少し遠ざけていらしたから、身近で詳しいお姿を見慣れたわけではありません。それでも同じ宮中で暮らしていたころは、私のことを信用できる相手とは思ってくださっていた。私も中宮を頼りにして、何かあればいつでもご相談していました。表立って才気をひけらかすような方ではなかったけれど、何をしても手応えがあって、ほんの小さなことまで思いどおりの趣に仕立てる方でした。あれほどの女性が、ほかにこの世にいるでしょうか」

「柔らかく、おっとりしていながら、深いところに何ともいえない品格がある。それが本当に並ぶもののない方でした。あなたも、何といっても紫の縁につながる人ですから、あの方とそれほど遠くないものを持っているように思えます。ただあなたには、少し気の強いところがあって、物事をはっきりさせようとする聡さが前へ出すぎることがあります。それが時には、自分を苦しめることになるかもしれませんね」

「前斎院の人柄は、またまったく別の趣があります。私も何となく寂しい時など、特別な話などなくても言葉を交わせば、自然とこちらまで気持ちを引き締めなければと思わされる。今この世に残っている女性で、そんな相手はあの方一人かもしれません」

 紫の上は言った。「尚侍の君こそ、才気があり、風雅で上品なところでは誰より優れていらしたのでしょう。それほど浅はかなところのない方だったのに、あなたとの間では不思議なことになったものですね」

 源氏も頷いた。「そうですね。艶やかで美しい女性の例を挙げるなら、やはりあの人は外せないでしょう。それだけに、思い返せば気の毒で、悔やまれることがいくつもあります。まして少し浮気な性質の人なら、年を重ねるにつれて、どれほど後悔することが増えるのでしょうね。私だって人よりは落ち着いているつもりだったのに――」

 そう言いながら、朧月夜のことを思い出したのだろう。源氏は少し涙までこぼした。

「あなたが人の数にも入れず、少し見下している大堰の山里の人――明石の君も、自分の身分からすれば少し出来すぎなくらい、物事の心をよく理解する人です。ただ人より特別に高い身分ではないので、本人が少し気位高く振る舞うところも、私はあえて大したことではないように見ているのです。どうしようもなく品のない女性というのは、私はまだ身近には知りません。けれど、本当にすべてに優れた人というものも、なかなかいない世の中ですね」

「東の院で静かに暮らしている人――花散里の心ばえこそ、今どき珍しいほど変わらず、いじらしいものです。ほかの人には、ああはいかないでしょう。特別な美しさとはまた別のところで、人としての心遣いを一つ一つ見つけて付き合い始めてから、あの人も私と同じように、長い間ひっそりと世間を憚りながら生きてきました。今ではもう、お互いに背を向けることのできない相手です。本当に深く、愛しい人だと思っています」

 そんなふうに昔と今の女性たちを語りながら、夜は次第に更けていった。

澄みきった月と、藤壺の面影

 月はいよいよ澄み、あたりは静かで美しかった。紫の上が歌った。

氷閉ぢ石間の水は行きなやみ空澄む月の影ぞ流るる

氷に閉ざされて、石の間を流れる水は行き悩んでいますのに、澄んだ空の月の光だけは、滞ることなく流れてゆくのですね。

 外を眺めながら、少し首を傾けた紫の上の姿は、比べるものもないほど可愛らしい。髪の生え際や顔立ちが、源氏が今も恋しく思い続ける藤壺に、ふと重なって見えた。その美しさに心を奪われれば、ほかへ分かれていた思いまで、もう一度すべて紫の上へ重ねてしまえそうだった。

 池では鴛鴦が鳴いた。源氏は歌った。

かきつめて昔恋しき雪もよにあはれを添ふる鴛鴦の浮寝か

昔のことが次々と胸へ集まり、たまらなく懐かしいこの雪の夜に、鴛鴦の水に浮かぶ寝姿まで、さらに悲しみを添えるのですね。

夢に現れた藤壺

 部屋へ入ってからも、源氏は藤壺のことを考えながら眠りについた。

 すると夢とも現ともつかない中で、藤壺の姿がほのかに現れた。ひどく恨めしそうな顔をしている。

「決して人には漏らさないと、あなたはおっしゃいました。それなのに私のつらい名は隠れず、今こうして恥ずかしく、苦しい目に遭っています。そのことを思うと、あなたが恨めしくてなりません」

 源氏は慌てて何か答えようとした。ところが身体を何かに押さえつけられたようになり、その時、そばにいた紫の上が、「まあ、どうしてそんなに……」と声をかけた。

 はっと目を覚ました源氏は、夢がそこで途切れてしまったことが悔しくてならず、胸の置きどころもないほど動揺した。何とか気持ちを抑えようとしたが、涙はもう流れ出している。それからもますます激しく泣き続けた。

 紫の上は、いったい何があったのだろうと思ったが、身じろぎもせず横になったままでいた。

 源氏は歌った。

とけて寝ぬ寝覚めさびしき冬の夜にむすぼほれつる夢の短さ

心をほどいて深く眠ることもできない、寂しい冬の夜。ようやく結ばれたあの人の夢さえ、あまりにも短く終わってしまいました。

 ほんのわずかな夢では、かえって思いが満たされない。悲しさばかりが残った。源氏は早く起き、人にはっきり理由を知らせないまま、あちらこちらの寺に誦経などを命じた。

「『あなたのせいで苦しい目に遭っている』と、あれほど恨めしそうにおっしゃった。きっと本当に、そう感じていらっしゃるのだろう。生前は仏道に励み、ほかには罪も軽そうなお方だった。それなのに、あの一つのこと――私との秘密だけが、この世の濁りとして最後まで洗い清められずに残ってしまったのではないか」

 源氏はその意味を深く考えれば考えるほど、悲しくなった。

「いったい何をすればよいのだろう。今、あの方が誰一人知る人もない世界にいらっしゃるのなら、そこまで訪ねていきたい。できるものなら、その罪まで私が代わって差し上げたい」

 そんなことを、いつまでも考え続けた。

 けれど藤壺のためだと明らかにわかるような特別の供養を行えば、世間が不審に思うだろう。冷泉帝も、ご自分の出生の秘密を知った今では、胸にやましい思いを抱き、何か察するかもしれない。そう考えると、源氏には表立って何もできなかった。ただ阿弥陀仏を心に念じ、「どうか同じ蓮の上に」と願うしかない。

亡き人を慕ふ心にまかせても影見ぬ三つの瀬にや惑はむ

亡くなったあの方を慕う心のままに後を追ったとしても、その面影さえ見えない三途の川の瀬で、私はなお迷い続けるのでしょうか。

 そう思わずにはいられないことこそ、源氏にとって何よりつらいのだった。

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