『源氏物語』第41帖「幻」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第41帖「幻」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第41帖「幻」現代語訳全文をご覧ください。

目次

春の光を見たまふにつけても

 春はるの光ひかりを見みたまふにつけても、いとどくれ惑まどひたるやうにのみ、御心みこころひとつは、悲かなしさの改あらたまるべくもあらぬに、外とには、例れいのやうに人ひとびと参まゐりたまひなどすれど、御心地みここち悩なやましきさまにもてなしたまひて、御簾みすの内うちにのみおはします。兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや渡わたりたまへるにぞ、ただうちとけたる方かたにて対面たいめんしたまはむとて、御消息おほんせうそこ聞きこえたまふ。

「わが宿やどは花はなもてはやす人ひともなし何なににか春はるのたづね来きつらむ」

 宮みや、うち涙なみだぐみたまひて、

「香かをとめて来きつるかひなくおほかたの花はなのたよりと言いひやなすべき」

 紅梅こうばいの下したに歩あゆみ出いでたまへる御おほんさまの、いとなつかしきにぞ、これより他ほかに見みはやすべき人ひとなくや、と見みたまへる。花はなはほのかに開ひらけさしつつ、をかしきほどの匂にほひなり。御おほん遊あそびもなく、例れいに変かはりたること多おほかり。

 女房にょうばうなども、年としごろ経へにけるは、墨染すみぞめの色いろこまやかにて着きつつ、悲かなしさも改あらためがたく、思おもひさますべき世よなく恋こひきこゆるに、絶たえて、御方々おほんかたがたにも渡わたりたまはず。紛まぎれなく見みたてまつるを慰なぐさめにて、馴なれ仕つかうまつれる年としごろ、まめやかに御心みこころとどめてなどはあらざりしかど、時々ときどきは見放みはなたぬやうに思おぼしたりつる人ひとびとも、なかなか、かかる寂さびしき御一人寝おほんひとりねになりては、いとおほぞうにもてなしたまひて、夜よるの御宿直おほんとのゐなどにも、これかれとあまたを、御座おましのあたり引ひきさけつつ、さぶらはせたまふ。

つれづれなるままに

 つれづれなるままに、いにしへの物語ものがたりなどしたまふ折々をりをりもあり。名残なごりなき御聖心おほんひじりごころの深ふかくなりゆくにつけても、さしもあり果はつまじかりけることにつけつつ、中なかごろ、もの恨うらめしう思おぼしたるけしきの、時々ときどき見みえたまひしなどを思おぼし出いづるに、

「などて、戯たはぶれにても、またまめやかに心苦こころぐるしきことにつけても、さやうなる心こころを見みえたてまつりけむ。なに事ごともらうらうじくおはせし御心みこころばへなりしかば、人ひとの深ふかき心こころもいとよう見知みしりたまひながら、怨ゑんじ果はてたまふことはなかりしかど、一ひとわたりづつは、いかならむとすらむ」

 と思おぼしたりしを、すこしにても心こころを乱みだりたまひけむことの、いとほしう悔くやしうおぼえたまふさま、胸むねよりもあまる心地ここちしたまふ。その折をりのことの心こころを知しり、今いまも近ちかう仕つかうまつる人ひとびとは、ほのぼの聞きこえ出いづるもあり。

 入道にふだうの宮みやの渡わたりはじめたまへりしほど、その折をりはしも、色いろにはさらに出いだしたまはざりしかど、ことにふれつつ、あぢきなのわざやと、思おもひたまへりしけしきのあはれなりし中なかにも、雪ゆき降ふりたりし暁あかつきに立たちやすらひて、わが身みも冷ひえ入いるやうにおぼえて、空そらのけしき激はげしかりしに、いとなつかしうおいらかなるものから、袖そでのいたう泣なき濡ぬらしたまへりけるをひき隠かくし、せめて紛まぎらはしたまへりしほどの用意よういなどを、夜よもすがら、「夢ゆめにても、またはいかならむ世よにか」と、思おぼし続つづけらる。

 曙あけぼのにしも、曹司ざうしに下おるる女房にょうばうなるべし、

「いみじうも積つもりにける雪ゆきかな」

 と言いふ声こゑを聞ききつけたまへる、ただその折をりの心地ここちするに、御おほんかたはらの寂さびしきも、いふかたなく悲かなし。

「憂うき世よには雪ゆき消きえなむと思おもひつつ思おもひの外ほかになほぞほどふる」

例の、紛らはしには

 例れいの、紛まぎらはしには、御手水みてうづ召めして行おこなひしたまふ。埋うづみたる火ひ起おこし出いでて、御火桶おほんひおけ参まゐらす。中納言ちうなごんの君きみ、中将ちうじゃうの君きみなど、御前おまへ近ちかくて御物語おほんものがたり聞きこゆ。

「独ひとり寝ね常つねよりも寂さびしかりつる夜よるのさまかな。かくてもいとよく思おもひ澄すましつべかりける世よを、はかなくもかかづらひけるかな」

 と、うちながめたまふ。「我われさへうち捨すてては、この人ひとびとの、いとど嘆なげきわびむことの、あはれにいとほしかるべき」など、見みわたしたまふ。忍しのびやかにうち行おこなひつつ、経きゃうなど読よみたまへる御声おほんこゑを、よろしう思おもはむことにてだに涙なみだとまるまじきを、まして、袖そでのしがらみせきあへぬまであはれに、明あけ暮くれ見みたてまつる人ひとびとの心地ここち、尽つきせず思おもひきこゆ。

「この世よにつけては、飽あかず思おもふべきこと、をさをさあるまじう、高たかき身みには生むまれながら、また人ひとよりことに、口惜くちをしき契ちぎりにもありけるかな、と思おもふこと絶たえず。世よのはかなく憂うきを知しらすべく、仏ほとけなどのおきてたまへる身みなるべし。それをしひて知しらぬ顔かほにながらふれば、かく今いまはの夕ゆふべ近ちかき末すゑに、いみじきことのとぢめを見みつるに、宿世すくせのほども、みづからの心こころの際きはも、残のこりなく見果みはてて、心こころやすきに、今いまなむ露つゆのほだしなくなりにたるを、これかれ、かくて、ありしよりけに目馴めならす人ひとびとの、今いまはとて行ゆき別わかれむほどこそ、今いま一際ひときはの心こころ乱みだれぬべけれ。いとはかなしかし。悪わろかりける心こころのほどかな」

 とて、御目おほんめおしのごひ隠かくしたまふに、紛まぎれず、やがてこぼるる御おほん涙なみだを、見みたてまつる人ひとびと、ましてせきとめむかたなし。さて、うち捨すてられたてまつりなむが憂うれはしさを、おのおのうち出いでまほしけれど、さもえ聞きこえず、むせかへりてやみぬ。

 かくのみ嘆なげき明あかしたまへる曙あけぼの、ながめ暮くらしたまへる夕暮ゆふぐれなどの、しめやかなる折々をりをりは、かのおしなべてには思おぼしたらざりし人ひとびとを、御前おまへ近ちかくて、かやうの御物語おほんものがたりなどをしたまふ。

 中将ちうじゃうの君きみとてさぶらふは、まだ小ちひさくより見みたまひ馴なれにしを、いと忍しのびつつ見みたまひ過すぐさずやありけむ、いとかたはらいたきことに思おもひて、馴なれきこえざりけるを、かく亡うせたまひて後のちは、その方かたにはあらず、人ひとよりもらうたきものに心こころとどめたまへりし方かたざまにも、かの御形見おほんかたみの筋すぢにつけてぞ、あはれに思おもほしける。心こころばせ容貌かたちなどもめやすくて、うなゐ松まつにおぼえたるけはひ、ただならましよりは、らうらうじと思おもほす。

疎き人にはさらに見えたまはず

 疎うとき人ひとにはさらに見みえたまはず。上達部かむだちめなども、むつましき御兄弟おほんはらからの宮みやたちなど、常つねに参まゐりたまへれど、対面たいめんしたまふことをさをさなし。

「人ひとに向むかはむほどばかりは、さかしく思おもひしづめ、心こころ収をさめむと思おもふとも、月つきごろにほけにたらむ身みのありさま、かたくなしきひがことまじりて、末すゑの世よの人ひとにもて悩なやまれむ、後のちの名なさへうたてあるべし。思おもひほれてなむ人ひとにも見みえざむなる、と言いはれむも、同おなじことなれど、なほ音おとに聞ききて思おもひやることのかたはなるよりも、見苦みぐるしきことの目めに見みるは、こよなく際きはまさりてをこなり」

 と思おぼせば、大将だいしゃうの君きみなどにだに、御簾みす隔へだててぞ対面たいめんしたまひける。かく、心こころ変がはりしたまへるやうに、人ひとの言いひ伝つたふべきころほひをだに思おもひのどめてこそはと、念ねんじ過すぐしたまひつつ、憂うき世よをも背そむきやりたまはず。御方々おほんかたがたにまれにもうちほのめきたまふにつけては、まづいとせきがたき涙なみだの雨あめのみ降ふりまされば、いとわりなくて、いづ方かたにもおぼつかなきさまにて過すぐしたまふ。

 后きさいの宮みやは、内裏うちに参まゐらせたまひて、三さんの宮みやをぞ、さうざうしき御おほん慰なぐさめには、おはしまさせたまひける。

「婆ばばののたまひしかば」

 とて、対たいの御前おまへの紅梅こうばいは、いと取とり分わきて後見うしろみありきたまふを、いとあはれと見みたてまつりたまふ。

 如月きさらぎになれば、花はなの木きどもの盛さかりなるも、まだしきも、梢こずゑをかしう霞かすみわたれるに、かの御形見おほんかたみの紅梅こうばいに、鴬うぐひすのはなやかに鳴なき出いでたれば、立たち出いでて御覧ごらんず。

「植うゑて見みし花はなのあるじもなき宿やどに知しらず顔がほにて来きゐる鴬うぐひす」

 と、うそぶき歩ありかせたまふ。

春深くなりゆくままに

 春はる深ふかくなりゆくままに、御前おまへのありさま、いにしへに変かはらぬを、めでたまふ方かたにはあらねど、静心しづごころなく、何なにごとにつけても胸むねいたう思おぼさるれば、おほかたこの世よの外ほかのやうに、鳥とりの音ねも聞きこえざらむ山やまの末すゑゆかしうのみ、いとどなりまさりたまふ。

 山吹やまぶきなどの、心地ここちよげに咲さき乱みだれたるも、うちつけに露つゆけくのみ見みなされたまふ。他ほかの花はなは、一重ひとへ散ちりて、八重やへ咲さく花桜はなざくら盛さかり過すぎて、樺桜かばざくらは開ひらけ、藤ふぢは後おくれて色いろづきなどこそはすめるを、その遅おそく疾とき花はなの心こころをよく分わきて、いろいろを尽つくし植うゑおきたまひしかば、時ときを忘わすれず匂にほひ満みちたるに、若宮わかみや、

「まろが桜さくらは咲さきにけり。いかで久ひさしく散ちらさじ。木きのめぐりに帳とばりを立たてて、帷子かたびらを上あげずは、風かぜもえ吹ふき寄よらじ」

 と、かしこう思おもひ得えたり、と思おもひてのたまふ顔かほのいとうつくしきにも、うち笑ゑまれたまひぬ。

「覆おほふばかりの袖そで求もとめけむ人ひとよりは、いとかしこう思おぼし寄よりたまへりしかし」など、この宮みやばかりをぞもてあそびに見みたてまつりたまふ。

「君きみに馴なれきこえむことも残のこり少すくなしや。命いのちといふもの、今いましばしかかづらふべくとも、対面たいめんはえあらじかし」

 とて、例れいの、涙なみだぐみたまへれば、いとものしと思おぼして、

「婆ばばののたまひしことを、まがまがしうのたまふ」

 とて、伏目ふしめになりて、御衣おほんぞの袖そでを引ひきまさぐりなどしつつ、紛まぎらはしおはす。

 隅すみの間まの高欄かうらんにおしかかりて、御前おまへの庭にはをも、御簾みすの内うちをも、見みわたして眺ながめたまふ。女房にょうばうなども、かの御形見おほんかたみの色いろ変かへぬもあり、例れいの色いろあひなるも、綾あやなどはなやかにはあらず。みづからの御直衣おほんなほしも、色いろは世よの常つねなれど、ことさらやつして、無紋むもんをたてまつれり。御おほんしつらひなども、いとおろそかにことそぎて、寂さびしく心細こころぼそげにしめやかなれば、

「今いまはとて荒あらしや果はてむ亡なき人ひとの心こころとどめし春はるの垣根かきねを」

 人ひとやりならず悲かなしう思おぼさるる。

入道の宮の御方に渡りたまふ

 いとつれづれなれば、入道にふだうの宮みやの御方おほんかたに渡わたりたまふに、若宮わかみやも人ひとに抱いだかれておはしまして、こなたの若君わかぎみと走はしり遊あそび、花はな惜をしみたまふ心こころばへども深ふかからず、いといはけなし。

 宮みやは、仏ほとけの御前おまへにて、経きゃうをぞ読よみたまひける。何なにばかり深ふかう思おぼしとれる御道心おほんだうしんにもあらざりしかども、この世よに恨うらめしく御心みこころ乱みだるることもおはせず、のどやかなるままに、紛まぎれなく行おこなひたまひて、一方ひとかたに思おもひ離はなれたまへるも、いとうらやましく、「かくあさへたまへる女をんなの御心みこころざしにだに後おくれぬること」と口惜くちをしう思おぼさる。

 閼伽あかの花はなの、夕映ゆふばえしていとおもしろく見みゆれば、

「春はるに心こころ寄よせたりし人ひとなくて、花はなの色いろもすさまじくのみ見みなさるるを、仏ほとけの御おほん飾かざりにてこそ見みるべかりけれ」とのたまひて、「対たいの前まへの山吹やまぶきこそ、なほ世よに見みえぬ花はなのさまなれ。房ふさの大おほきさなどよ。品しな高たかくなどはおきてざりける花はなにやあらむ、はなやかににぎははしき方かたは、いとおもしろきものになむありける。植うゑし人ひとなき春はるとも知しらず顔がほにて、常つねよりも匂にほひかさねたるこそ、あはれにはべれ」

 とのたまふ。御おほんいらへに、

「谷たにには春はるも」

 と、何心なにごころもなく聞きこえたまふを、「ことしもこそあれ、心憂こころうくも」と思おぼさるるにつけても、「まづ、かやうのはかなきことにつけては、そのことのさらでもありなむかし、と思おもふに、違たがふふしなくてもやみにしかな」と、いはけなかりしほどよりの御おほんありさまを、「いで、何なにごとぞやありし」と思おぼし出いづるには、まづ、その折をりかの折をり、かどかどしうらうらうじう、匂にほひ多おほかりし心こころざま、もてなし、言ことの葉はのみ思おもひ続つづけられたまふに、例れいの涙なみだもろさは、ふとこぼれ出いでぬるもいと苦くるし。

夕暮の霞たどたどしく

 夕暮ゆふぐれの霞かすみたどたどしく、をかしきほどなれば、やがて明石あかしの御方おほんかたに渡わたりたまへり。久ひさしうさしものぞきたまはぬに、おぼえなき折をりなれば、うち驚おどろかるれど、さまようけはひ心こころにくくもてつけて、「なほこそ人ひとにはまさりたれ」と見みたまふにつけては、またかうざまにはあらで、「かれはさまことにこそ、ゆゑよしをももてなしたまへりしか」と、思おぼし比くらべらるるにも、面影おもかげに恋こひしう、悲かなしさのみまされば、「いかにして慰なぐさむべき心こころぞ」と、いと比くらべ苦くるしう、こなたにては、のどやかに昔物語むかしものがたりなどしたまふ。

「人ひとをあはれと心こころとどめむは、いと悪わろかべきことと、いにしへより思おもひ得えて、すべていかなる方かたにも、この世よに執しふとまるべきことなく、心こころづかひをせしに、おほかたの世よにつけて、身みのいたづらにはふれぬべかりしころほひなど、とざまかうざまに思おもひめぐらししに、命いのちをもみづから捨すてつべく、野山のやまの末すゑにはふらかさむに、ことなる障さはりあるまじくなむ思おもひなりしを、末すゑの世よに、今いまは限かぎりのほど近ちかき身みにてしも、あるまじきほだし多おほうかかづらひて、今いままで過すぐしてけるが、心こころ弱よわうも、もどかしきこと」

 など、さして一ひとつ筋すぢの悲かなしさにのみはのたまはねど、思おぼしたるさまのことわりに心苦こころぐるしきを、いとほしう見みたてまつりて、

「おほかたの人目ひとめに、何なにばかり惜をしげなき人ひとだに、心こころのうちのほだし、おのづから多おほうはべるなるを、ましていかでかは心こころやすくも思おぼし捨すてむ。さやうにあさへたることは、かへりて軽々かるがるしきもどかしさなども立たち出いでて、なかなかなることなどはべるを、思おぼしたつほど、鈍にぶきやうにはべらむや、つひに澄すみ果はてさせたまふ方かた、深ふかうはべらむと、思おもひやられはべりてこそ。

いにしへの例ためしなどを聞ききはべるにつけても、心こころにおどろかれ、思おもふより違たがふふしありて、世よを厭いとふついでになるとか。それはなほ悪わるきこととこそ。なほ、しばし思おぼしのどめさせたまひて、宮みやたちなどもおとなびさせたまひて、まことに動うごきなかるべき御おほんありさまに、見みたてまつりなさせたまはむまでは、乱みだれなくはべらむこそ、心こころやすくも、うれしくもはべるべけれ」

 など、いとおとなびて聞きこえたるけしき、いとめやすし。

さまで思ひのどめむ心深さこそ

「さまで思おもひのどめむ心深こころぶかさこそ、浅あさきに劣おとりぬべけれ」

 などのたまひて、昔むかしよりものを思おもふことなど語かたり出いでたまふ中なかに、

「故后こきさいの宮みやの崩かくれたまへりし春はるなむ、花はなの色いろを見みても、まことに心こころあらばとおぼえし。それは、おほかたの世よにつけて、をかしかりし御おほんありさまを、幼をさなくより見みたてまつりしみて、さるとぢめの悲かなしさも、人ひとよりことにおぼえしなり。

みづから取とり分わく心こころざしにも、もののあはれはよらぬわざなり。年とし経へぬる人ひとに後おくれて、心こころ収をさめむ方かたなく忘わすれがたきも、ただかかる仲なかの悲かなしさのみにはあらず。幼をさなきほどより生おほしたてしありさま、もろともに老おいぬる末すゑの世よにうち捨すてられて、わが身みも人ひとの身みも、思おもひ続つづけらるる悲かなしさの、堪たへがたきになむ。すべて、もののあはれも、ゆゑあることも、をかしき筋すぢも、広ひろう思おもひめぐらす方かた、方々かたがた添そふことの、浅あさからずなるになむありける」

 など、夜よ更ふくるまで、昔今むかしいまの御物語おほんものがたりに、「かくても明あかしつべき夜よるを」と思おぼしながら、帰かへりたまふを、女をんなもものあはれに思おもふべし。わが御心みこころにも、「あやしうもなりにける心こころのほどかな」と、思おぼし知しらる。

 さてもまた、例れいの御おほん行おこなひに、夜中よなかになりてぞ、昼ひるの御座おましに、いとかりそめに寄より臥ふしたまふ。つとめて、御文おほんふみたてまつりたまふに、

「なくなくも帰かへりにしかな仮かりの世よはいづこもつひの常世とこよならぬに」

 昨夜よべの御おほんありさまは恨うらめしげなりしかど、いとかく、あらぬさまに思おぼしほれたる御おほんけしきの心苦こころぐるしさに、身みの上うへはさしおかれて、涙なみだぐまれたまふ。

「雁かりがゐし苗代水なはしろみづの絶たえしより映うつりし花はなの影かげをだに見みず」

 古ふりがたくよしある書かきざまにも、なまめざましきものに思おぼしたりしを、末すゑの世よには、かたみに心こころばせを見知みしるどちにて、うしろやすき方かたにはうち頼たのむべく、思おもひ交かはしたまひながら、またさりとて、ひたぶるにはたうちとけず、ゆゑありてもてなしたまへりし心こころおきてを、「人ひとはさしも見知みしらざりきかし」など思おぼし出いづ。

 せめてさうざうしき時ときは、かやうにただおほかたに、うちほのめきたまふ折々をりをりもあり。昔むかしの御おほんありさまには、名残なごりなくなりにたるべし。

夏の御方より

 夏なつの御方おほんかたより、御衣更おほんころもがへの御装束おほんさうぞくたてまつりたまふとて、

「夏衣なつごろも裁たち替かへてける今日けふばかり古ふるき思おもひもすすみやはせぬ」

 御返おほんかへし、

「羽衣はごろもの薄うすきに変かはる今日けふよりは空蝉うつせみの世よぞいとど悲かなしき」

 祭まつりの日ひ、いとつれづれにて、「今日けふは物見ものみるとて、人ひとびと心地ここちよげならむかし」とて、御み社やしろのありさまなど思おぼしやる。

「女房にょうばうなど、いかにさうざうしからむ。里さとに忍しのびて出いでて見みよかし」などのたまふ。

 中将ちうじゃうの君きみの、東面ひむがしおもてにうたた寝ねしたるを、歩あゆみおはして見みたまへば、いとささやかにをかしきさまして、起おき上あがりたり。つらつきはなやかに、匂にほひたる顔かほをもて隠かくして、すこしふくだみたる髪かみのかかりなど、をかしげなり。紅くれなゐの黄きばみたる気け添そひたる袴はかま、萱草色かんざういろの単衣ひとへ、いと濃こき鈍色にびいろに黒くろきなど、うるはしからず重かさなりて、裳も、唐衣からぎぬも脱ぬぎすべしたりけるを、とかく引ひきかけなどするに、葵あふひをかたはらに置おきたりけるを寄よりて取とりたまひて、

「いかにとかや。この名なこそ忘わすれにけれ」とのたまへば、

「さもこそはよるべの水みづに水草みくさゐめ今日けふのかざしよ名なさへ忘わするる」

 と、恥はぢらひて聞きこゆ。げにと、いとほしくて、

「おほかたは思おもひ捨すててし世よなれども葵あふひはなほや摘つみをかすべき」

 など、一人ひとりばかりをば思おぼし放はなたぬけしきなり。

五月雨は

 五月雨さみだれは、いとど眺ながめくらしたまふより他ほかのことなく、さうざうしきに、十余日じふよにちの月つきはなやかにさし出いでたる雲くも間まのめづらしきに、大将だいしゃうの君きみ御前おまへにさぶらひたまふ。

 花橘はなたちばなの、月影つきかげにいときはやかに見みゆる薫かをりも、追風おひかぜなつかしければ、千代ちよを馴ならせる声こゑもせなむ、と待またるるほどに、にはかに立たち出いづる村雲むらくものけしき、いとあやにくにて、いとおどろおどろしう降ふり来くる雨あめに添そひて、さと吹ふく風かぜに灯籠とうろも吹ふきまどはして、空そら暗くらき心地ここちするに、「窓まどを打うつ声こゑ」など、めづらしからぬ古言ふることを、うち誦じゅんじたまへるも、折をりからにや、妹いもが垣根かきねにおとなはせまほしき御声おほんこゑなり。

「独ひとり住ずみは、ことに変かはることなけれど、あやしうさうざうしくこそありけれ。深ふかき山住やまずみせむにも、かくて身みを馴ならはしたらむは、こよなう心こころ澄すみぬべきわざなりけり」などのたまひて、「女房にょうばう、ここに、くだものなど参まゐらせよ。男をのこども召めさむもことことしきほどなり」などのたまふ。

 心こころには、ただ空そらを眺ながめたまふ御おほんけしきの、尽つきせず心苦こころぐるしければ、「かくのみ思おぼし紛まぎれずは、御おほん行おこなひにも心こころ澄すましたまはむこと難かたくや」と、見みたてまつりたまふ。「ほのかに見みし御面影おほんおもかげだに忘わすれがたし。ましてことわりぞかし」と、思おもひゐたまへり。

昨日今日と思ひたまふるほどに

「昨日今日きのふけふと思おもひたまふるほどに、御おほん果はてもやうやう近ちかうなりはべりにけり。いかやうにかおきて思おぼしめすらむ」

 と申まうしたまへば、

「何なにばかり、世よの常つねならぬことをかはものせむ。かの心こころざしおかれたる極楽ごくらくの曼陀羅まんだらなど、このたびなむ供養くやうずべき。経きゃうなどもあまたありけるを、なにがし僧都そうづ、皆みなその心こころくはしく聞ききおきたなれば、また加くはへてすべきことどもも、かの僧都そうづの言いはむに従したがひてなむものすべき」などのたまふ。

「かやうのこと、もとよりとりたてて思おぼしおきてけるは、うしろやすきわざなれど、この世よにはかりそめの御おほん契ちぎりなりけりと見みたまふには、形見かたみといふばかりとどめきこえたまへる人ひとだにものしたまはぬこそ、口惜くちをしうはべれ」

 と申まうしたまへば、

「それは、仮かりならず、命いのち長ながき人ひとびとにも、さやうなることのおほかた少すくなかりける。みづからの口惜くちをしさにこそ。そこにこそは、門かどは広ひろげたまはめ」などのたまふ。

 何なにごとにつけても、忍しのびがたき御心みこころ弱よわさのつつましくて、過すぎにしこといたうものたまひ出いでぬに、待またれつる山やまほととぎすのほのかにうち鳴なきたるも、「いかに知しりてか」と、聞きく人ひとただならず。

「亡なき人ひとを偲しのぶる宵よひの村雨むらさめに濡ぬれてや来きつる山やまほととぎす」

 とて、いとど空そらを眺ながめたまふ。大将だいしゃう、

「ほととぎす君きみにつてなむふるさとの花橘はなたちばなは今いまぞ盛さかりと」

 女房にょうばうなど、多おほく言いひ集あつめたれど、とどめつ。大将だいしゃうの君きみは、やがて御宿直おほんとのゐにさぶらひたまふ。寂さびしき御一人寝おほんひとりねの心苦こころぐるしければ、時々ときどきかやうにさぶらひたまふに、おはせし世よは、いと気遠けどほかりし御座おましのあたりの、いたうも立たち離はなれぬなどにつけても、思おもひ出いでらるることも多おほかり。

いと暑きころ

 いと暑あつきころ、涼すずしき方かたにて眺ながめたまふに、池いけの蓮はちすの盛さかりなるを見みたまふに、「いかに多おほかる」など、まづ思おぼし出いでらるるに、ほれぼれしくて、つくづくとおはするほどに、日ひも暮くれにけり。ひぐらしの声こゑはなやかなるに、御前おまへの撫子なでしこの夕映ゆふばえを、一人ひとりのみ見みたまふは、げにぞかひなかりける。

「つれづれとわが泣なき暮くらす夏なつの日ひをかことがましき虫むしの声こゑかな」

 蛍ほたるのいと多おほう飛とび交かふも、「夕殿せきでんに蛍ほたる飛とんで」と、例れいの、古事ふることもかかる筋すぢにのみ口くち馴なれたまへり。

「夜よるを知しる蛍ほたるを見みても悲かなしきは時ときぞともなき思おもひなりけり」

七月七日も

 七月七日しちがつなぬかも、例れいに変かはりたること多おほく、御おほん遊あそびなどもしたまはで、つれづれに眺ながめ暮くらしたまひて、星ほし逢あひ見みる人ひともなし。まだ夜深よぶかう、一所ひとところ起おきたまひて、妻戸つまど押おし開あけたまへるに、前栽せんざいの露つゆいとしげく、渡殿わたどのの戸とよりとほりて見みわたさるれば、出いでたまひて、

「七夕たなばたの逢あふ瀬せは雲くものよそに見みて別わかれの庭にはに露つゆぞおきそふ」

 風かぜの音おとさへただならずなりゆくころしも、御おほん法事ほふじの営いとなみにて、ついたちころは紛まぎらはしげなり。「今いままで経へにける月日つきひよ」と思おぼすにも、あきれて明あかし暮くらしたまふ。

 御正日おほんしゃうにちには、上下かみしもの人ひとびと皆みな斎いもひして、かの曼陀羅まんだらなど、今日けふぞ供養くやうぜさせたまふ。例れいの宵よひの御おほん行おこなひに、御手水みてうづなど参まゐらする中将ちうじゃうの君きみの扇あふぎに、

「君きみ恋こふる涙なみだは際きはもなきものを今日けふをば何なにの果はてといふらむ」

 と書かきつけたるを、取とりて見みたまひて、

「人ひと恋こふるわが身みも末すゑになりゆけど残のこり多おほかる涙なみだなりけり」

 と、書かき添そへたまふ。

 九月くがつになりて、九日ここぬか、綿わたおほひたる菊きくを御覧ごらんじて、

「もろともにおきゐし菊きくの白露しらつゆも一人ひとり袂たもとにかかる秋あきかな」

神無月には

 神無月かむなづきには、おほかたも時雨しぐれがちなるころ、いとど眺ながめたまひて、夕暮ゆふぐれの空そらのけしきも、えもいはぬ心細こころぼそさに、「降ふりしかど」と独ひとりごちおはす。雲居くもゐを渡わたる雁かりの翼つばさも、うらやましくまぼられたまふ。

「大空おほぞらをかよふ幻まぼろし夢ゆめにだに見みえこぬ魂たまの行方ゆくへたづねよ」

 何なにごとにつけても、紛まぎれずのみ、月日つきひに添そへて思おぼさる。

 五節ごせちなどいひて、世よの中なかそこはかとなく今いまめかしげなるころ、大将殿だいしゃうどのの君きみたち、童殿上わらはてんじゃうしたまへる率ゐて参まゐりたまへり。同おなじほどにて、二人ふたりいとうつくしきさまなり。御叔父おほんをぢの頭中将とうのちうじゃう、蔵人少将くらうどのせうしゃうなど、小忌をみにて、青摺あをずりの姿すがたども、きよげにめやすくて、皆みなうち続つづき、もてかしづきつつ、もろともに参まゐりたまふ。思おもふことなげなるさまどもを見みたまふに、いにしへ、あやしかりし日蔭ひかげの折をり、さすがに思おぼし出いでらるべし。

「宮人みやびとは豊明とよのあかりといそぐ今日けふ日影ひかげも知しらで暮くらしつるかな」

「今年ことしをばかくて忍しのび過すぐしつれば、今いまは」と、世よを去さりたまふべきほど近ちかく思おぼしまうくるに、あはれなること、尽つきせず。やうやうさるべきことども、御心みこころのうちに思おぼし続つづけて、さぶらふ人ひとびとにも、ほどほどにつけて、物もの賜たまひなど、おどろおどろしく、今いまなむ限かぎりとしなしたまはねど、近ちかくさぶらふ人ひとびとは、御おほん本意ほい遂とげたまふべきけしきと見みたてまつるままに、年としの暮くれゆくも心細こころぼそく、悲かなしきこと限かぎりなし。

落ちとまりて

 落おちとまりてかたはなるべき人ひとの御文おほんふみども、破やれば惜をし、と思おぼされけるにや、すこしづつ残のこしたまへりけるを、もののついでに御覧ごらんじつけて、破やらせたまひなどするに、かの須磨すまのころほひ、所々ところどころよりたてまつれたまひけるもある中なかに、かの御手おほんてなるは、ことに結ゆひ合あはせてぞありける。

 みづからしおきたまひけることなれど、「久ひさしうなりける世よのこと」と思おぼすに、ただ今いまのやうなる墨すみつきなど、「げに千年ちとせの形見かたみにしつべかりけるを、見みずなりぬべきよ」と思おぼせば、かひなくて、疎うとからぬ人ひとびと、二に、三人さんにんばかり、御前おまへにて破やらせたまふ。

 いと、かからぬほどのことにてだに、過すぎにし人ひとの跡あとと見みるはあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分みわかれぬまで、降ふりおつる御おほん涙なみだの水茎みづぐきに流ながれ添そふを、人ひともあまり心こころ弱よわしと見みたてまつるべきが、かたはらいたうはしたなければ、押おしやりたまひて、

「死出しでの山やま越こえにし人ひとを慕したふとて跡あとを見みつつもなほ惑まどふかな」

 さぶらふ人ひとびとも、まほにはえ引ひき広ひろげねど、それとほのぼの見みゆるに、心こころ惑まどひどもおろかならず。この世よながら遠とほからぬ御おほん別わかれのほどを、いみじと思おぼしけるままに書かいたまへる言ことの葉は、げにその折をりよりもせきあへぬ悲かなしさ、やらむかたなし。いとうたて、今いまひときはの御心みこころ惑まどひも、女々めめしく人悪ひとわるくなりぬべければ、よくも見みたまはで、こまやかに書かきたまへるかたはらに、

「かきつめて見みるもかひなし藻塩草もしほぐさ同おなじ雲居くもゐの煙けぶりとをなれ」

 と書かきつけて、皆みな焼やかせたまふ。

御仏名も、今年ばかりにこそは

「御仏名おほんぶつみゃうも、今年ことしばかりにこそは」と思おぼせばにや、常つねよりもことに、錫杖しゃくじゃうの声々こゑごゑなどあはれに思おぼさる。行ゆく末すゑながきことを請こひ願ねがふも、仏ほとけの聞ききたまはむこと、かたはらいたし。

 雪ゆきいたう降ふりて、まめやかに積つもりにけり。導師だうしのまかづるを、御前おまへに召めして、盃さかづきなど、常つねの作法さほふよりもさし分わかせたまひて、ことに禄ろくなど賜たまはす。年としごろ久ひさしく参まゐり、朝廷おほやけにも仕つかうまつりて、御覧ごらんじ馴なれたる御導師おほんだうしの、頭かしらはやうやう色いろ変かはりてさぶらふも、あはれに思おぼさる。例れいの、宮みやたち、上達部かむだちめなど、あまた参まゐりたまへり。

 梅むめの花はなの、わづかにけしきばみはじめて雪ゆきにもてはやされたるほど、をかしきを、御おほん遊あそびなどもありぬべけれど、なほ今年ことしまでは、ものの音ねもむせびぬべき心地ここちしたまへば、時ときによりたるもの、うち誦ずんじなどばかりぞせさせたまふ。

 まことや、導師だうしの盃さかづきのついでに、

「春はるまでの命いのちも知しらず雪ゆきのうちに色いろづく梅むめを今日けふかざしてむ」

 御返おほんかへし、

「千世ちよの春はる見みるべき花はなと祈いのりおきてわが身みぞ雪ゆきとともにふりぬる」

 人ひとびと多おほく詠よみおきたれど、もらしつ。

 その日ひぞ、出いでたまへる。御容貌おほんかたち、昔むかしの御光おほんひかりにもまた多おほく添そひて、ありがたくめでたく見みえたまふを、この古ふりぬる齢よはひの僧そうは、あいなう涙なみだもとどめざりけり。

 年とし暮くれぬと思おぼすも、心細こころぼそきに、若宮わかみやの、

「儺なやらはむに、音おと高たかかるべきこと、何なにわざをせさせむ」

 と、走はしりありきたまふも、「をかしき御おほんありさまを見みざらむこと」と、よろづに忍しのびがたし。

「もの思おもふと過すぐる月日つきひも知しらぬまに年としもわが世よも今日けふや尽つきぬる」

 朔日ついたちのほどのこと、「常つねよりことなるべく」と、おきてさせたまふ。親王みこたち、大臣おとどの御引出物ひきいでもの、品々しなじなの禄ろくどもなど、何なにとなう思おぼしまうけて、とぞ。

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