『源氏物語』第26帖「常夏」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第26帖「常夏」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第26帖「常夏」現代語訳全文をご覧ください。

目次

いと暑き日、東の釣殿に

 いと暑あつき日ひ、東ひむがしの釣殿つりどのに出いでたまひて涼すずみたまふ。中将ちうじゃうの君きみもさぶらひたまふ。親したしき殿上人てんじゃうびとあまたさぶらひて、西川にしかはよりたてまつれる鮎あゆ、近ちかき川かはのいしぶしやうのもの、御前おまへにて調てうじて参まゐらす。例れいの大殿おほとのの君達きむだち、中将ちうじゃうの御おほんあたり尋たづねて参まゐりたまへり。

「さうざうしくねぶたかりつる、折をりよくものしたまへるかな」

 とて、大御酒おほみき参まゐり、氷水ひみづ召めして、水飯すいはんなど、とりどりにさうどきつつ食くふ。

 風かぜはいとよく吹ふけども、日ひのどかに曇くもりなき空そらの、西日にしびになるほど、蝉せみの声こゑなどもいと苦くるしげに聞きこゆれば、

「水みづの上うへ無徳むとくなる今日けふの暑あつかはしさかな。無礼むらいの罪つみは許ゆるされなむや」

 とて、寄より臥ふしたまへり。

「いとかかるころは、遊あそびなどもすさまじく、さすがに、暮くらしがたきこそ苦くるしけれ。宮仕みやづかへする若わかき人ひとびと堪たへがたからむな。帯おびも解ほどかぬほどよ。ここにてだにうち乱みだれ、このころ世よにあらむことの、すこし珍めづらしく、ねぶたさ覚さめぬべからむ、語かたりて聞きかせたまへ。何なにとなく翁おきなびたる心地ここちして、世間せけんのこともおぼつかなしや」

 などのたまへど、珍めづらしきこととて、うち出いで聞きこえむ物語ものがたりもおぼえねば、かしこまりたるやうにて、皆みないと涼すずしき高欄かうらんに、背中せなか押おしつつさぶらひたまふ。

いかで聞きしことぞや

「いかで聞ききしことぞや、大臣おとどのほか腹ばらの娘むすめ尋たづね出いでて、かしづきたまふなるとまねぶ人ひとありしかば、まことにや」

 と、弁少将べんのせうしゃうに問とひたまへば、

「ことことしく、さまで言いひなすべきことにもはべらざりけるを。この春はるのころほひ、夢語ゆめがたりしたまひけるを、ほの聞きき伝つたへはべりける女をんなの、われなむかこつべきことあると、名なのり出いではべりけるを、中将ちうじゃうの朝臣あそんなむ聞ききつけて、まことにさやうに触ふればひぬべきしるしやあると、尋たづねとぶらひはべりける。詳くはしきさまは、え知しりはべらず。げに、このころ珍めづらしき世語よがたりになむ、人ひとびともしはべるなる。かやうのことにぞ、人ひとのため、おのづから家損けそんなるわざにはべりけれ」

 と聞きこゆ。「まことなりけり」と思おぼして、

「いと多おほかめる列つらに、離はなれたらむ後おくるる雁かりを、強しひて尋たづねたまふが、ふくつけきぞ。いとともしきに、さやうならむもののくさはひ、見出みいでまほしけれど、名なのりももの憂うき際きはとや思おもふらむ、さらにこそ聞きこえね。さても、もて離はなれたることにはあらじ。らうがはしくとかく紛まぎれたまふめりしほどに、底そこ清きよく澄すまぬ水みづにやどる月つきは、曇くもりなきやうのいかでかあらむ」

 と、ほほ笑ゑみてのたまふ。中将ちうじゃうの君きみも、詳くはしく聞ききたまふことなれば、えしもまめだたず。少将せうしゃうと藤侍従とうじじうとは、いとからしと思おもひたり。

「朝臣あそんや、さやうの落葉おちばをだに拾ひろへ。人悪ひとわろき名なの後のちの世よに残のこらむよりは、同おなじかざしにて慰なぐさめむに、なでふことかあらむ」

 と、弄ろうじたまふやうなり。かやうのことにてぞ、うはべはいとよき御仲おほんなかの、昔むかしよりさすがに隙ひまありける。まいて、中将ちうじゃうをいたくはしたなめて、わびさせたまふつらさを思おぼしあまりて、「なまねたしとも、漏もり聞ききたまへかし」と思おぼすなりけり。

 かく聞ききたまふにつけても、

「対たいの姫君ひめぎみを見みせたらむ時とき、またあなづらはしからぬ方かたにもてなされなむはや。いとものきらきらしく、かひあるところつきたまへる人ひとにて、善よし悪あしきけぢめも、けざやかにもてはやし、またもて消けち軽かろむることも、人ひとに異ことなる大臣おとどなれば、いかにものしと思おもふらむ。おぼえぬさまにて、この君きみをさし出いでたらむに、え軽かろくは思おぼさじ。いときびしくもてなしてむ」など思おぼす。

夕つけゆく風、いと涼しくて

 夕ゆふつけゆく風かぜ、いと涼すずしくて、帰かへり憂うく若わかき人ひとびとは思おもひたり。

「心こころやすくうち休やすみ涼すずまむや。やうやうかやうの中なかに、厭いとはれぬべき齢よはひにもなりにけりや」

 とて、西にしの対たいに渡わたりたまへば、君達きむだち、皆みな御送おほんおくりに参まゐりたまふ。

 たそかれ時どきのおぼおぼしきに、同おなじ直衣なほしどもなれば、何なにともわきまへられぬに、大臣おとど、姫君ひめぎみを、

「すこし外と出いでたまへ」

 とて、忍しのびて、

「少将せうしゃう、侍従じじうなど率ゐてまうで来きたり。いと翔かけり来こまほしげに思おもへるを、中将ちうじゃうの、いと実法じほふの人ひとにて率ゐて来こぬ、無心むじんなめりかし。

この人ひとびとは、皆みな思おもふ心こころなきならじ。なほなほしき際きはをだに、窓まどの内うちなるほどは、ほどに従したがひて、ゆかしく思おもふべかめるわざなれば、この家いへのおぼえ、うちうちのくだくだしきほどよりは、いと世よに過すぎて、ことことしくなむ言いひ思おもひなすべかめる。かたがたものすめれど、さすがに人ひとの好すきごと言いひ寄よらむにつきなしかし。

かくてものしたまふは、いかでさやうならむ人ひとのけしきの、深ふかさ浅あささをも見みむなど、さうざうしきままに願ねがひ思おもひしを、本意ほいなむ叶かなふ心地ここちしける」

 など、ささめきつつ聞きこえたまふ。

 御前おまへに、乱みだれがはしき前栽せんざいなども植うゑさせたまはず、撫子なでしこの色いろをととのへたる、唐からの、大和やまとの、籬ませいとなつかしく結ゆひなして、咲さき乱みだれたる夕ゆふばえ、いみじく見みゆ。皆みな、立たち寄よりて、心こころのままにも折をり取とらぬを、飽あかず思おもひつつやすらふ。

「有職いうそくどもなりな。心こころもちゐなども、とりどりにつけてこそめやすけれ。右みぎの中将ちうじゃうは、ましてすこし静しづまりて、心恥こころはづかしき気けまさりたり。いかにぞや、おとづれ聞きこゆや。はしたなくも、なさし放はなちたまひそ」

 などのたまふ。

 中将ちうじゃうの君きみは、かくよきなかに、すぐれてをかしげになまめきたまへり。

「中将ちうじゃうを厭いとひたまふこそ、大臣おとどは本意ほいなけれ。交まじりものなく、きらきらしかめるなかに、大君おほきみだつ筋すぢにて、かたくななりとにや」

 とのたまへば、

「来きまさば、といふ人ひともはべりけるを」

 と聞きこえたまふ。

「いで、その御肴みさかなもてはやされむさまは願ねがはしからず。ただ、幼をさなきどちの結むすびおきけむ心こころも解とけず、年月としつき、隔へだてたまふ心こころむけのつらきなり。まだ下臈げらふなり、世よの聞きき耳みみ軽かろしと思おもはれば、知しらず顔がほにて、ここに任まかせたまへらむに、うしろめたくはありなましや」

 など、うめきたまふ。「さは、かかる御心みこころの隔へだてある御仲おほんなかなりけり」と聞ききたまふにも、親おやに知しられたてまつらむことのいつとなきは、あはれにいぶせく思おぼす。

月もなきころなれば、燈籠に御殿油

 月つきもなきころなれば、燈籠とうろに御殿油おほんとなぶら参まゐれり。

「なほ、気近けぢかくて暑あつかはしや。篝火かがりびこそよけれ」

 とて、人ひと召めして、

「篝火かがりびの台だい一ひとつ、こなたに」

 と召めす。をかしげなる和琴わごんのある、引ひき寄よせたまひて、掻かき鳴ならしたまへば、律りちにいとよく調しらべられたり。音ねもいとよく鳴なれば、すこし弾ひきたまひて、

「かやうのことは御心みこころに入いらぬ筋すぢにやと、月つきごろ思おもひおとしきこえけるかな。秋あきの夜よの月影つきかげ涼すずしきほど、いと奥おく深ぶかくはあらで、虫むしの声こゑに掻かき鳴ならし合あはせたるほど、気近けぢかく今いまめかしきものの音ねなり。ことことしき調しらべ、もてなししどけなしや。

このものよ、さながら多おほくの遊あそび物ものの音ね、拍子はうしを調ととのへとりたるなむいとかしこき。大和琴やまとごととはかなく見みせて、際きはもなくしおきたることなり。広ひろく異国ことくにのことを知しらぬ女をんなのためとなむおぼゆる。

同おなじくは、心こころとどめて物ものなどに掻かき合あはせて習ならひたまへ。深ふかき心こころとて、何なにばかりもあらずながら、またまことに弾ひき得うることはかたきにやあらむ、ただ今いまは、この内大臣うちのおとどになずらふ人ひとなしかし。

ただはかなき同おなじ菅掻すががきの音ねに、よろづのものの音ね、籠こもり通かよひて、いふかたもなくこそ、響ひびきのぼれ」

 と語かたりたまへば、ほのぼの心得こころえて、いかでと思おぼすことなれば、いとどいぶかしくて、

「このわたりにて、さりぬべき御遊おほんあそびの折をりなど、聞ききはべりなむや。あやしき山賤やまがつなどのなかにも、まねぶものあまたはべるなることなれば、おしなべて心こころやすくやとこそ思おもひたまへつれ。さは、すぐれたるは、さまことにやはべらむ」

 と、ゆかしげに、切せちに心こころに入いれて思おもひたまへれば、

「さかし。あづまとぞ名なも立たち下くだりたるやうなれど、御前ごぜんの御遊おほんあそびにも、まづ書司ふみのつかさを召めすは、人ひとの国くには知しらず、ここにはこれをものの親おやとしたるにこそあめれ。

そのなかにも、親おやとしつべき御手おほんてより弾ひき取とりたまへらむは、心こころことなりなむかし。ここになども、さるべからむ折をりにはものしたまひなむを、この琴ことに、手て惜をしまずなど、あきらかに掻かき鳴ならしたまはむことやかたからむ。ものの上手じゃうずは、いづれの道みちも心こころやすからずのみぞあめる。

さりとも、つひには聞ききたまひてむかし」

 とて、調しらべすこし弾ひきたまふ。ことつひいと二になく、今いまめかしくをかし。「これにもまされる音ねや出いづらむ」と、親おやの御おほんゆかしさたち添そひて、このことにてさへ、「いかならむ世よに、さてうちとけ弾ひきたまはむを聞きかむ」など、思おもひゐたまへり。

「貫河ぬきかはの瀬々せぜのやはらた」と、いとなつかしく謡うたひたまふ。「親おや避さくるつま」は、すこしうち笑わらひつつ、わざともなく掻かきなしたまひたる菅掻すががきのほど、いひ知しらずおもしろく聞きこゆ。

「いで、弾ひきたまへ。才ざえは人ひとになむ恥はぢぬ。「想夫恋さうふれん」ばかりこそ、心こころのうちに思おもひて、紛まぎらはす人ひともありけめ、おもなくて、かれこれに合あはせつるなむよき」

 と、切せちに聞きこえたまへど、さる田舎ゐなかの隈くまにて、ほのかに京人きゃうひとと名なのりける、古大君ふるおほぎみ女をんな教をしへきこえければ、ひがことにもやとつつましくて、手て触ふれたまはず。

「しばしも弾ひきたまはなむ。聞きき取とることもや」と心こころもとなきに、この御琴おほんことによりぞ、近ちかくゐざり寄よりて、

「いかなる風かぜの吹ふき添そひて、かくは響ひびきはべるぞとよ」

 とて、うち傾かたぶきたまへるさま、火影ほかげにいとうつくしげなり。笑わらひたまひて、

「耳みみ固かたからぬ人ひとのためには、身みにしむ風かぜも吹ふき添そふかし」

 とて、押おしやりたまふ。いと心こころやまし。

人びと近くさぶらへば

 人ひとびと近ちかくさぶらへば、例れいの戯たはぶれごともえ聞きこえたまはで、

「撫子なでしこを飽あかでも、この人ひとびとの立たち去さりぬるかな。いかで、大臣おとどにも、この花園はなぞの見みせたてまつらむ。世よもいと常つねなきをと思おもふに、いにしへも、もののついでに語かたり出いでたまへりしも、ただ今いまのこととぞおぼゆる」

 とて、すこしのたまひ出いでたるにも、いとあはれなり。

「撫子なでしこのとこなつかしき色いろを見みばもとの垣根かきねを人ひとや尋たづねむ

このことのわづらはしさにこそ、繭まゆごもりも心苦こころぐるしう思おもひきこゆれ」

 とのたまふ。君きみ、うち泣なきて、

「山賤やまがつの垣かきほに生おひし撫子なでしこのもとの根ねざしを誰たれか尋たづねむ」

 はかなげに聞きこえないたまへるさま、げにいとなつかしく若わかやかなり。

「来こざらましかば」

 とうち誦ずじたまひて、いとどしき御心みこころは、苦くるしきまで、なほえ忍しのび果はつまじく思おぼさる。

渡りたまふことも、あまりうちしきり

 渡わたりたまふことも、あまりうちしきり、人ひとの見みたてまつり咎とがむべきほどは、心こころの鬼おにに思おぼしとどめて、さるべきことをし出いでて、御文おほんふみの通かよはぬ折をりなし。ただこの御おほんことのみ、明あけ暮くれ御心みこころにはかかりたり。

「なぞ、かくあいなきわざをして、やすからぬもの思おもひをすらむ。さ思おもはじとて、心こころのままにもあらば、世よの人ひとのそしり言いはむことの軽々かるがるしさ、わがためをばさるものにて、この人ひとの御おほんためいとほしかるべし。限かぎりなき心こころざしといふとも、春はるの上うへの御おほんおぼえに並ならぶばかりは、わが心こころながらえあるまじく」思おぼし知しりたり。「さて、その劣おとりの列つらにては、何なにばかりかはあらむ。わが身みひとつこそ、人ひとよりは異ことなれ、見みむ人ひとのあまたが中なかに、かかづらはむ末すゑにては、何なにのおぼえかはたけからむ。異ことなることなき納言なふごんの際きはの、二心ふたごころなくて思おもはむには、劣おとりぬべきことぞ」

 と、みづから思おぼし知しるに、いといとほしくて、「宮みや、大将だいしゃうなどにや許ゆるしてまし。さてもて離はなれ、いざなひ取とりては、思おもひも絶たえなむや。いふかひなきにて、さもしてむ」と思おぼす折をりもあり。

 されど、渡わたりたまひて、御容貌おほんかたちを見みたまひ、今いまは御琴おほんこと教をしへたてまつりたまふにさへことづけて、近ちかやかに馴なれ寄よりたまふ。

 姫君ひめぎみも、初はじめこそむくつけく、うたてとも思おもひたまひしか、「かくても、なだらかに、うしろめたき御心みこころはあらざりけり」と、やうやう目め馴なれて、いとしも疎うとみきこえたまはず、さるべき御応おほんいらへも、馴なれ馴なれしからぬほどに聞きこえかはしなどして、見みるままにいと愛敬あいぎゃうづき、薫かをりまさりたまへれば、なほさてもえ過すぐしやるまじく思おぼし返かへす。

「さはまた、さて、ここながらかしづき据すゑて、さるべき折々をりをりに、はかなくうち忍しのび、ものをも聞きこえて慰なぐさみなむや。かくまだ世馴よなれぬほどの、わづらはしさにこそ、心苦こころぐるしくはありけれ、おのづから関守せきもり強つよくとも、ものの心こころ知しりそめ、いとほしき思おもひなくて、わが心こころも思おもひ入いりなば、しげくとも障さはらじかし」と思おぼし寄よる、いとけしからぬことなりや。

 いよいよ心こころやすからず、思おもひわたらむ苦くるしからむ。なのめに思おもひ過すぐさむことの、とざまかくざまにもかたきぞ、世よづかずむつかしき御おほん語かたらひなりける。

内の大殿は、この今の御女のことを

 内うちの大殿おほとのは、この今いまの御女おほんむすめのことを、「殿とのの人ひとも許ゆるさず、軽かろみ言いひ、世よにもほきたることと誹そしりきこゆ」と、聞ききたまふに、少将せうしゃうの、ことのついでに、太政大臣おほきおとどの「さることや」ととぶらひたまひしこと、語かたりきこゆれば、

「さかし。そこにこそは、年としごろ、音おとにも聞きこえぬ山賤やまがつの子こ迎むかへ取とりて、ものめかしたつれ。をさをさ人ひとの上うへもどきたまはぬ大臣おとどの、このわたりのことは、耳みみとどめてぞおとしめたまふや。これぞ、おぼえある心地ここちしける」

 とのたまふ。少将せうしゃうの、

「かの西にしの対たいに据すゑたまへる人ひとは、いとこともなきけはひ見みゆるわたりになむはべるなる。兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやなど、いたう心こころとどめてのたまひわづらふとか。おぼろけにはあらじとなむ、人ひとびと推おし量はかりはべめる」

 と申まうしたまへば、

「いで、それは、かの大臣おとどの御女おほんむすめと思おもふばかりのおぼえのいといみじきぞ。人ひとの心こころ、皆みなさこそある世よなめれ。かならずさしもすぐれじ。人ひとびとしきほどならば、年としごろ聞きこえなまし。

あたら、大臣おとどの、塵ちりもつかず、この世よには過すぎたまへる御身おほんみのおぼえありさまに、おもだたしき腹はらに、女むすめかしづきて、げに疵きずなからむと、思おもひやりめでたきがものしたまはぬは。

おほかたの、子この少すくなくて、心こころもとなきなめりかし。劣おとり腹ばらなれど、明石あかしの御許おもとの産うみ出いでたるはしも、さる世よになき宿世すくせにて、あるやうあらむとおぼゆかし。

その今姫君いまひめぎみは、ようせずは、実じちの御子おほんこにもあらじかし。さすがにいとけしきあるところつきたまへる人ひとにて、もてないたまふならむ」

 と、言いひおとしたまふ。

「さて、いかが定さだめらるなる。親王みここそまつはし得えたまはむ。もとより取とり分わきて御仲おほんなかよし、人柄ひとがらも警策きゃうざくなる御おほんあはひどもならむかし」

 などのたまひては、なほ、姫君ひめぎみの御おほんこと、飽あかず口惜くちをし。「かやうに、心こころにくくもてなして、いかにしなさむなど、やすからずいぶかしがらせましものを」とねたければ、位くらゐさばかりと見みざらむ限かぎりは、許ゆるしがたく思おぼすなりけり。

 大臣おとどなども、ねむごろに口入くちいれかへさひたまはむにこそは、負まくるやうにてもなびかめと思おぼすに、男方をとこがたは、さらに焦いられきこえたまはず、心こころやましくなむ。

とかく思しめぐらすままに

 とかく思おぼしめぐらすままに、ゆくりもなく軽かるらかにはひ渡わたりたまへり。少将せうしゃうも御供おほんともに参まゐりたまふ。

 姫君ひめぎみは、昼寝ひるねしたまへるほどなり。羅うすものの単衣ひとへを着きたまひて臥ふしたまへるさま、暑あつかはしくは見みえず、いとらうたげにささやかなり。透すきたまへる肌はだつきなど、いとうつくしげなる手てつきして、扇あふぎを持もたまへりけるながら、かひなを枕まくらにて、うちやられたる御髪みぐしのほど、いと長ながくこちたくはあらねど、いとをかしき末すゑつきなり。

 人ひとびとものの後うしろに寄より臥ふしつつうち休やすみたれば、ふともおどろいたまはず。扇あふぎを鳴ならしたまへるに、何心なにごころもなく見上みあげたまへるまみ、らうたげにて、つらつき赤あかめるも、親おやの御目おほんめにはうつくしくのみ見みゆ。

「うたた寝ねはいさめきこゆるものを。などか、いとものはかなきさまにては大殿籠おほとのごもりける。人ひとびとも近ちかくさぶらはで、あやしや。

女をんなは、身みを常つねに心こころづかひして守まもりたらむなむよかるべき。心こころやすくうち捨すてざまにもてなしたる、品しななきことなり。

さりとて、いとさかしく身みかためて、不動ふどうの陀羅尼だらに誦よみて、印いんつくりてゐたらむも憎にくし。うつつの人ひとにもあまり気遠けどほく、もの隔へだてがましきなど、気高けだかきやうとても、人ひとにくく、心こころうつくしくはあらぬわざなり。

太政大臣おほきおとどの、后きさきがねの姫君ひめぎみならはしたまふなる教をしへは、よろづのことに通かよはしなだらめて、かどかどしきゆゑもつけじ、たどたどしくおぼめくこともあらじと、ぬるらかにこそ掟おきてたまふなれ。

げに、さもあることなれど、人ひととして、心こころにもするわざにも、立たててなびく方かたは方かたとあるものなれば、生おひ出いでたまふさまあらむかし。この君きみの人ひととなり、宮仕みやづかへに出いだし立たてたまはむ世よのけしきこそ、いとゆかしけれ」

 などのたまひて、

「思おもふやうに見みたてまつらむと思おもひし筋すぢは、難かたうなりにたる御身おほんみなれど、いかで人ひと笑わらはれならずしなしたてまつらむとなむ、人ひとの上うへのさまざまなるを聞きくごとに、思おもひ乱みだれはべる。

試こころみ事ごとにねむごろがらむ人ひとのねぎごとに、なしばしなびきたまひそ。思おもふさまはべり」

 など、いとらうたしと思おもひつつ聞きこえたまふ。

「昔むかしは、何なにごとも深ふかくも思おもひ知しらで、なかなか、さしあたりていとほしかりしことの騒さわぎにも、おもなくて見みえたてまつりけるよ」と、今いまぞ思おもひ出いづるに、胸むねふたがりて、いみじく恥はづかしき。

 大宮おほみやよりも、常つねにおぼつかなきことを恨うらみきこえたまへど、かくのたまふるがつつましくて、え渡わたり見みたてまつりたまはず。

大臣、この北の対の今姫君を

 大臣おとど、この北きたの対たいの今姫君いまひめぎみを、

「いかにせむ。さかしらに迎むかへ率ゐて来きて。人ひとかく誹そしるとて、返かへし送おくらむも、いと軽々かるがるしく、もの狂ぐるほしきやうなり。かくて籠こめおきたれば、まことにかしづくべき心こころあるかと、人ひとの言いひなすなるもねたし。女御にょうごの御方おほんかたなどに交まじらはせて、さるをこのものにしないてむ。人ひとのいとかたはなるものに言いひおとすなる容貌かたち、はた、いとさ言いふばかりにやはある」

 など思おぼして、女御にょうごの君きみに、

「かの人ひと参まゐらせむ。見苦みぐるしからむことなどは、老おいしらへる女房にょうばうなどして、つつまず言いひ教をしへさせたまひて御覧ごらんぜよ。若わかき人ひとびとの言種ことぐさには、な笑わらはせさせたまひそ。うたてあはつけきやうなり」

 と、笑わらひつつ聞きこえたまふ。

「などか、いとさことのほかにははべらむ。中将ちうじゃうなどの、いと二になく思おもひはべりけむかね言ごとに足たらずといふばかりにこそははべらめ。かくのたまひ騒さわぐを、はしたなう思おもはるるにも、かたへはかかやかしきにや」

 と、いと恥はづかしげにて聞きこえさせたまふ。この御おほんありさまは、こまかにをかしげさはなくて、いとあてに澄すみたるものの、なつかしきさま添そひて、おもしろき梅むめの花はなの開ひらけさしたる朝あさぼらけおぼえて、残のこり多おほかりげにほほ笑ゑみたまへるぞ、人ひとに異ことなりける、と見みたてまつりたまふ。

「中将ちうじゃうの、いとさ言いへど、心若こころわかきたどり少すくなさに」

 など申まうしたまふも、いとほしげなる人ひとの御おほんおぼえかな。

やがて、この御方のたよりに

 やがて、この御方おほんかたのたよりに、たたずみおはして、のぞきたまへば、簾すだれ高たかくおし張はりて、五節ごせちの君きみとて、されたる若人わかうどのあると、双六すぐろくをぞ打うちたまふ。手てをいと切せちにおしもみて、

「せうさい、せうさい」

 とこふ声こゑぞ、いと舌疾したどきや。「あな、うたて」と思おぼして、御供おほんともの人ひとの前駆さき追おふをも、手てかき制せいしたまうて、なほ、妻戸つまどの細目ほそめなるより、障子さうじの開あきあひたるを見入みいれたまふ。

 この従姉妹いとこも、はた、けしきはやれる、

「御返おほんかへしや、御返おほんかへしや」

 と、筒とうをひねりて、とみに打うち出いでず。中なかに思おもひはありやすらむ、いとあさへたるさまどもしたり。

 容貌かたちはひちちかに、愛敬あいぎゃうづきたるさまして、髪かみうるはしく、罪つみ軽かろげなるを、額ひたひのいと近ちかやかなると、声こゑのあはつけさとにそこなはれたるなめり。取とりたててよしとはなけれど、異人ことびととあらがふべくもあらず、鏡かがみに思おもひあはせられたまふに、いと宿世すくせ心こころづきなし。

「かくてものしたまふは、つきなくうひうひしくなどやある。ことしげくのみありて、訪とぶらひまうでずや」

 とのたまへば、例れいの、いと舌疾したどにて、

「かくてさぶらふは、何なにのもの思おもひかはべらむ。年としごろ、おぼつかなく、ゆかしく思おもひきこえさせし御顔おほんかほ、常つねにえ見みたてまつらぬばかりこそ、手て打うたぬ心地ここちしはべれ」

 と聞きこえたまふ。

「げに、身みに近ちかく使つかふ人ひともをさをさなきに、さやうにても見みならしたてまつらむと、かねては思おもひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。なべての仕つかうまつり人びとこそ、とあるもかかるも、おのづから立たち交まじらひて、人ひとの耳みみをも目めをも、かならずしもとどめぬものなれば、心こころやすかべかめれ。それだに、その人ひとの女むすめ、かの人ひとの子こと知しらるる際きはになれば、親おや兄弟はらからの面伏おもてぶせなる類たぐひ多おほかめり。まして」

 とのたまひさしつる、御みけしきの恥はづかしきも知しらず、

「何なにか、そは、ことことしく思おもひたまひて交まじらひはべらばこそ、所狭ところせからめ。大御大壺取おほみおほつぼとりにも、仕つかうまつりなむ」

 と聞きこえたまへば、え念ねんじたまはで、うち笑わらひたまひて、

「似につかはしからぬ役やくななり。かくたまさかに会あへる親おやの孝けうせむの心こころあらば、このもののたまふ声こゑを、すこしのどめて聞きかせたまへ。さらば、命いのちも延のびなむかし」

 と、をこめいたまへる大臣おとどにて、ほほ笑ゑみてのたまふ。

舌の本性にこそははべらめ

「舌したの本性ほんじゃうにこそははべらめ。幼をさなくはべりし時ときだに、故母こははの常つねに苦くるしがり教をしへはべりし。妙法寺みゃうほふじの別当大徳べたうだいとこの、産屋うぶやにはべりける、あえものとなむ嘆なげきはべりたうびし。いかでこの舌疾したどさやめはべらむ」

 と思おもひ騒さわぎたるも、いと孝養けうやうの心こころ深ふかく、あはれなりと見みたまふ。

「その、気近けぢかく入いり立たちたりけむ大徳だいとここそは、あぢきなかりけれ。ただその罪つみの報むくいななり。唖おし、言吃ことどもりとぞ、大乗だいじやう誹そしりたる罪つみにも、数かずへたるかし」

 とのたまひて、「子こながら恥はづかしくおはする御おほんさまに、見みえたてまつらむこそ恥はづかしけれ。いかに定さだめて、かくあやしきけはひも尋たづねず迎むかへ寄よせけむ」と思おぼし、「人ひとびともあまた見みつぎ、言いひ散ちらさむこと」と、思おもひ返かへしたまふものから、

「女御にょうご里さとにものしたまふ時々ときどき、渡わたり参まゐりて、人ひとのありさまなども見みならひたまへかし。ことなることなき人ひとも、おのづから人ひとに交まじらひ、さる方かたになれば、さてもありぬかし。さる心こころして、見みえたてまつりたまひなむや」

 とのたまへば、

「いとうれしきことにこそはべるなれ。ただ、いかでもいかでも、御方々おほんかたがたに数かずまへしろしめされむことをなむ、寝ねても覚さめても、年としごろ何なにごとを思おもひたまへつるにもあらず。御許おほんゆるしだにはべらば、水みづを汲くみいただきても、仕つかうまつりなむ」

 と、いとよげに、今いますこしさへづれば、いふかひなしと思おぼして、

「いとしか、おりたちて薪たきぎ拾ひろひたまはずとも、参まゐりたまひなむ。ただかのあえものにしけむ法のりの師しだに遠とほくは」

 と、をこごとにのたまひなすをも知しらず、同おなじき大臣おとどと聞きこゆるなかにも、いときよげにものものしく、はなやかなるさまして、おぼろけの人ひと見みえにくき御みけしきをも見知みしらず、

「さて、いつか女御殿にょうごどのには参まゐりはべらむずる」

 と聞きこゆれば、

「よろしき日ひなどやいふべからむ。よし、ことことしくは何なにかは。さ思おもはれば、今日けふにても」

 とのたまひ捨すてて渡わたりたまひぬ。

よき四位五位たちの

 よき四位しゐ五位ごゐたちの、いつききこえて、うち身みじろきたまふにも、いといかめしき御勢おほんいきほひなるを見送みおくりきこえて、

「いで、あな、めでたのわが親おやや。かかりける胤たねながら、あやしき小家こいへに生おひ出いでけること」

 とのたまふ。五節ごせち、

「あまりことことしく、恥はづかしげにぞおはする。よろしき親おやの、思おもひかしづかむにぞ、尋たづね出いでられたまはまし」

 と言いふも、わりなし。

「例れいの、君きみの、人ひとの言いふこと破やぶりたまひて、めざまし。今いまは、ひとつ口くちに言葉ことばな交まぜられそ。あるやうあるべき身みにこそあめれ」

 と、腹立はらだちたまふ顔かほやう、気近けぢかく、愛敬あいぎゃうづきて、うちそぼれたるは、さる方かたにをかしく罪つみ許ゆるされたり。

 ただ、いと鄙いなかび、あやしき下人しもびとの中なかに生おひ出いでたまへれば、もの言いふさまも知しらず。ことなるゆゑなき言葉ことばをも、声こゑのどやかに押おししづめて言いひ出いだしたるは、打うち聞ぎき、耳みみ異ことにおぼえ、をかしからぬ歌語うたがたりをするも、声こゑづかひつきづきしくて、残のこり思おもはせ、本もと末すゑ惜をしみたるさまにてうち誦ずじたるは、深ふかき筋すぢ思おもひ得えぬほどの打うち聞ぎきには、をかしかなりと、耳みみもとまるかし。

 いと心こころ深ふかくよしあることを言いひゐたりとも、よろしき心地ここちあらむと聞きこゆべくもあらず、あはつけき声こわざまにのたまひ出いづる言葉ことばこはごはしく、言葉ことばたみて、わがままに誇ほこりならひたる乳母めのとの懐ふところにならひたるさまに、もてなしいとあやしきに、やつるるなりけり。

 いといふかひなくはあらず、三十文字みそもじあまり、本もと末すゑあはぬ歌うた、口疾くちとくうち続つづけなどしたまふ。

さて、女御殿に参れとのたまひつるを

「さて、女御殿にょうごどのに参まゐれとのたまひつるを、しぶしぶなるさまならば、ものしくもこそ思おぼせ。夜よさりまうでむ。大臣おとどの君きみ、天下てんがに思おぼすとも、この御方々おほんかたがたのすげなくしたまはむには、殿とののうちには立たてりなむはや」

 とのたまふ。御おほんおぼえのほど、いと軽かろらかなりや。

 まづ御文おほんふみたてまつりたまふ。

「葦垣あしがきのま近ぢかきほどにはさぶらひながら、今いままで影かげ踏ふむばかりのしるしもはべらぬは、勿来なこその関せきをや据すゑさせたまへらむとなむ。知しらねども、武蔵野むさしのといへばかしこけれども。あなかしこや、あなかしこや」

 と、点てんがちにて、裏うらには、

「まことや、暮くれにも参まゐり来こむと思おもうたまへ立たつは、厭いとふにはゆるにや。いでや、いでや、あやしきは水無川みなせがはにを」

 とて、また端はしに、かくぞ、

「草くさ若わかみ常陸ひたちの浦うらのいかが崎さきいかであひ見みむ田子たごの浦波うらなみ

大川水おほかはみづの」

 と、青あをき色紙しきし一重ひとかさねに、いと草さうがちに、いかれる手ての、その筋すぢとも見みえず、ただよひたる書かきざまも下長しもながに、わりなくゆゑばめり。行くだりのほど、端はしざまに筋交すぢかひて、倒たふれぬべく見みゆるを、うち笑ゑみつつ見みて、さすがにいと細ほそく小ちひさく巻まき結むすびて、撫子なでしこの花はなにつけたり。

樋洗童しも、いと馴れてきよげなる

 樋洗童ひすましわらはしも、いと馴なれてきよげなる、今参いままゐりなりけり。女御にょうごの御方おほんかたの台盤所だいばんどころに寄よりて、

「これ、参まゐらせたまへ」

 と言いふ。下仕しもづかへ見知みしりて、

「北きたの対たいにさぶらふ童わらはなりけり」

 とて、御文おほんふみ取とり入いる。大輔たいふの君きみといふ、持もて参まゐりて、引ひき解ときて御覧ごらんぜさす。

 女御にょうご、ほほ笑ゑみてうち置おかせたまへるを、中納言ちうなごんの君きみといふ、近ちかくゐて、そばそば見みけり。

「いと今いまめかしき御文おほんふみのけしきにもはべめるかな」

 と、ゆかしげに思おもひたれば、

「草さうの文字もじは、え見知みしらねばにやあらむ、本もと末すゑなくも見みゆるかな」

 とて、賜たまへり。

「返かへりこと、かくゆゑゆゑしく書かかずは、悪わろしとや思おもひおとされむ。やがて書かきたまへ」

 と、譲ゆづりたまふ。もて出いでてこそあらね、若わかき人ひとは、ものをかしくて、皆みなうち笑わらひぬ。御返おほんかへり乞こへば、

「をかしきことの筋すぢにのみまつはれてはべめれば、聞きこえさせにくくこそ。宣旨書せんじがきめきては、いとほしからむ」

 とて、ただ、御文おほんふみめきて書かく。

「近ちかきしるしなき、おぼつかなさは、恨うらめしく、

常陸ひたちなる駿河するがの海うみの須磨すまの浦うらに波なみ立たち出いでよ筥崎はこざきの松まつ」

 と書かきて、読よみきこゆれば、

「あな、うたて。まことにみづからのにもこそ言いひなせ」

 と、かたはらいたげに思おぼしたれど、

「それは聞きかむ人ひとわきまへはべりなむ」

 とて、おし包つつみて出いだしつ。

 御方おほんかた見みて、

「をかしの御口おほんくちつきや。待まつとのたまへるを」

 とて、いとあまえたる薫物たきものの香かを、返かへす返がへす薫たきしめゐたまへり。紅べにといふもの、いと赤あからかにかいつけて、髪かみけづりつくろひたまへる、さる方かたににぎははしく、愛敬あいぎゃうづきたり。御対面おほんたいめんのほど、さし過すぐしたることもあらむかし。

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