この記事では、『源氏物語』の「若紫との出会い」について、原文・現代語訳・語釈をわかりやすく紹介します。品詞分解や敬語法については、こちらの記事をご覧ください。

「若紫との出会い」現代語訳(1)日もいと長きに
日もいと長きに、つれづれなれば
原文
日もいと長きに、つれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるに紛れて、かの小柴垣のもとに立ち出でたまふ。人々は帰したまひて、惟光朝臣とのぞきたまへば、ただこの西面にしも持仏据ゑたてまつりておこなふ、尼なりけり。簾すこし上げて、花たてまつるめり。
現代語訳
日もたいそう長いうえに、することもなく退屈なので、源氏は、夕暮れのひどく霞んでいるのに紛れて、あの小柴垣の近くまでお出になった。供の人々はお帰しになり、惟光朝臣と一緒に中をのぞいてみると、ちょうど西側の部屋に持仏をお据え申し上げて勤行している尼がいた。簾を少し上げて、仏前に花を供えているようである。
- つれづれなり:することがなく、退屈である。
- こしばがき【小柴垣】:細い柴で作った低い垣。
- ぢぶつ【持仏】:身近に置いて礼拝する仏像。
- おこなふ【行ふ】:仏道修行をする。勤行する。
- たてまつる【奉る】:ここでは「供える」の謙譲語。
中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて
原文
中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、いと白うあてに痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、「なかなか長きよりも、こよなう今めかしきものかな」とあはれに見たまふ。
現代語訳
中央の柱に寄りかかって座り、脇息の上に経を置いて、ひどく具合が悪そうに読経している尼君は、普通の身分の人とは見えない。40歳を少し過ぎたくらいで、たいそう色白で上品に痩せているが、顔つきはふっくらとしており、目元も美しい。尼削ぎにした髪の毛先も美しく、「長い髪よりも、かえってずっと若々しく華やかに見えるものだな」と源氏はしみじみとご覧になる。
- けふそく【脇息】:座るときに肘をかける道具。
- なやましげ:苦しそうな様子。気分が悪そうな様子。
- ただびと【ただ人】:普通の身分の人。ここでは、高貴な身分ではない人。
- あてなり:上品である。気品がある。
- まみ:目元。目つき。
- いまめかし【今めかし】:若々しく華やかである。現代風である。
「若紫との出会い」現代語訳(2)清げなる大人二人ばかり
清げなる大人二人ばかり
原文
清げなる大人二人ばかり、さては童べぞ出で入り遊ぶ。中に十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなるかたちなり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。
現代語訳
こぎれいな年配の女房が二人ほどいて、そのほかには童女たちが出たり入ったりして遊んでいる。その中に、10歳ほどであろうかと見える少女がいた。白い衣に、山吹色などの着慣れて柔らかくなった衣を重ねて、走って来たその少女は、それまで大勢見えていた子どもたちとは比べものにならず、たいそう将来が楽しみに思われる、かわいらしい顔立ちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらと広がり、顔を真っ赤にして立っている。
- きよげなり【清げなり】:こぎれいである。さっぱりとして美しい。
- おとな【大人】:ここでは年配の女房。
- をんなご【女子】:女の子。少女。ここでは若紫。
- なゆ【萎ゆ】:衣服などが着慣れて柔らかくなる。
- おひさき【生ひ先】:将来。成長した先の見込み。
- うつくし:かわいらしい。愛らしい。
何事ぞや。童べと腹立ちたまへるか
原文
「何事ぞや。童べと腹立ちたまへるか」
とて尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、「子なめり」と見たまふ。
「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを」
とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、
現代語訳
「どうしたのです。童女たちとけんかでもなさったのですか」
そう言って尼君が顔を上げると、その顔には少女と少し似ているところがあるので、源氏は「この少女は尼君の子なのだろう」とお思いになる。
「雀の子を犬君が逃がしてしまったの。伏籠の中に入れておいたのに」
そう言って、少女はたいそう残念そうにしている。そばに座っていた年配の女房が、
- わらはべ【童べ】:子どもたち。ここでは少女に仕える童女たち。
- おぼゆ【覚ゆ】:似る。面影がある。
- なめり:「なるめり」の変化した形。~であるようだ。
- いぬき【犬君】:若紫に仕える童女の名。
- ふせご【伏籠】:伏せた籠。ここでは雀の子を入れていた籠。
- くちをし【口惜し】:残念だ。くやしい。
例の、心なしのかかるわざをして
原文
「例の、心なしのかかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ」
とて立ちてゆく。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。「少納言の乳母」とぞ人言ふめるは、この子の後見なるべし。
現代語訳
「またいつものように、気の利かないことをして叱られるなんて、本当に困ったものですね。どちらへ行ってしまったのでしょう。だんだんかわいらしくなってきたところでしたのに。カラスなどに見つけられたら大変です」
と言って、立ち上がって探しに行く。髪は豊かでたいそう長く、感じのよい人のようである。人々が「少納言の乳母」と呼んでいるらしいこの人は、この少女の世話をしている人なのだろう。
- こころなし【心なし】:思慮がない。気が利かない。
- さいなむ:責める。叱る。
- こころづきなし【心付きなし】:気に入らない。不愉快だ。
- やうやう:だんだん。次第に。
- めやすし【目安し】:見た感じがよい。感じがよい。
- めのと【乳母】:母親に代わって子を育てる女性。
- うしろみ【後見】:世話をする人。保護者。
「若紫との出会い」現代語訳(3)尼君、いで、あな幼や
尼君、いで、あな幼や
原文
尼君、
「いで、あな幼や。言ふかひなうものしたまふかな。おのがかく今日明日におぼゆる命をば何ともおぼしたらで、雀慕ひたまふほどよ。罪得ることぞと、常に聞こゆるを、心憂く」
とて、
「こちや」
と言へば、ついゐたり。
現代語訳
尼君は、
「まあ、なんて幼いのでしょう。どうしようもなく聞き分けのないことですね。私はもう、今日か明日かにも命が尽きるように思っているのに、そんなことは何ともお思いにならず、雀ばかり慕っていらっしゃること。生き物を籠に入れるのは罪になることだと、いつも申し上げているのに、情けないことです」
そう言って、
「こちらへいらっしゃい」
と言うと、少女はすぐに尼君のそばへ座った。
- いで:さあ。まあ。ここでは相手に呼びかける感動詞。
- あな:ああ。まあ。感動を表す。
- いふかひなし【言ふ甲斐なし】:どうしようもない。聞き分けがない。
- こころうし【心憂し】:つらい。情けない。不愉快だ。
- こち:こちら。こちらの方。
- ついゐる【突い居る】:さっと座る。その場に腰を下ろす。
つらつきいとらうたげにて
原文
つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。「ねびゆかむさまゆかしき人かな」と目とまりたまふ。さるは、「限りなう心を尽くしきこゆる人にいとよう似たてまつれるが、まもらるるなりけり」と思ふにも涙ぞ落つる。
現代語訳
顔つきはたいそう愛らしく、眉のあたりはほんのりと煙るように見え、幼く無造作にかき上げた額の様子や髪の生え際も、実にかわいらしい。「これから成長していく姿を見てみたい人だな」と源氏は目をお留めになる。それというのも、「この少女は、源氏がこの上なく心を尽くしてお慕い申し上げている藤壺にとてもよく似ているので、自然と見つめずにはいられないのだ」と思うにつけても、源氏の目から涙がこぼれる。
- らうたげなり:かわいらしい。いとおしい。
- うちけぶる:かすんで見える。ほんのりと煙るように見える。
- いはけなし:幼い。あどけない。
- かいやる:髪などをかき上げる。
- ねびゆく:成長する。大人びていく。
- ゆかし:見たい。知りたい。心が引かれる。
- まもる:じっと見つめる。
尼君、髪をかき撫でつつ
原文
尼君、髪をかき撫でつつ、
「梳ることをうるさがりたまへど、をかしの御髪や。いとはかなうものしたまふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は十ばかりにて殿におくれたまひしほど、いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし。ただいまおのれ見捨てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」
現代語訳
尼君は少女の髪をかき撫でながら、
「髪を梳かすのを面倒がりなさるけれど、なんと美しい御髪でしょう。それなのに、あまりにも頼りなく幼くていらっしゃるのが、しみじみと心配でなりません。このくらいの年になれば、こんなに幼くはない人もいるものなのに。亡くなった姫君、つまりあなたのお母さまは、10歳ほどで父君に先立たれたころには、もうたいそう物事の道理をよく分かっていらっしゃいました。もし今、私まであなたを残して死んでしまったなら、あなたはこの先、どうやって世の中で暮らしていこうとなさるのでしょう」
- けづる【梳る】:髪を櫛でとかす。
- はかなし:頼りない。幼く、しっかりしていない。
- うしろめたし:先行きが心配だ。気がかりだ。
- こひめぎみ【故姫君】:若紫の亡き母。
- おくる【後る】:先立たれる。人に死なれてあとに残される。
とて、いみじく泣くを見たまふも
原文
とて、いみじく泣くを見たまふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪つやつやとめでたう見ゆ。
生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむ空なき
現代語訳
そう言って尼君がひどく泣くのをご覧になると、源氏もわけもなく悲しい気持ちになる。少女も、幼心ながらさすがに尼君をじっと見つめ、やがて目を伏せてうつむいた。こぼれかかる髪がつやつやとして、たいそう美しく見える。
これからどこで育っていくのか、その行く先さえ分からない若草のようなこの子を残して先に消えていく露である私は、安心して消えていける場所さえありません。
- すずろなり:何となくそうなるさま。これといった理由もなく。
- うちまもる:じっと見つめる。
- めでたし:すばらしい。美しい。
- わかくさ【若草】:若紫をたとえた語。
- つゆ【露】:消えやすい露に、死を間近に感じる尼君自身を重ねている。
- おくらす【後らす】:あとに残す。
- きえむそらなし【消えむ空なし】:死のうにも安心して死ねるところがない、の意。
またゐたる大人、げにとうち泣きて
原文
またゐたる大人、
「げに」
とうち泣きて、
初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えむとすらむ
と聞こゆるほどに、
現代語訳
もう一人座っていた年配の女房も、
「本当にそのとおりでございます」
と泣きながら、歌を申し上げる。
まだ芽を出したばかりの草のような姫君が、この先どのように育っていくのかも分からないうちに、どうして露であるあなたが消えてしまおうとなさるのでしょう。
そうして歌を申し上げているところへ、
- げに:本当に。なるほど。
- はつくさ【初草】:生え始めたばかりの草。ここでは若紫のたとえ。
- いかでか:どうして~か。ここでは反語の意を含む。
「若紫との出会い」現代語訳(4)僧都、あなたより来て
僧都、あなたより来て
原文
僧都、あなたより来て、
「こなたはあらはにやはべらむ。今日しも端におはしましけるかな。この上の聖の方に、源氏の中将のわらは病まじなひにものしたまひけるを、ただ今なむ聞きつけはべる。いみじう忍びたまひければ、知りはべらで、ここにはべりながら御とぶらひにもまうでざりける」
とのたまへば、
現代語訳
僧都が向こうからやって来て、
「こちらは外から丸見えではございませんか。今日に限って、こんな端近くにいらしたのですね。この上の聖のところに、源氏の中将が瘧病のまじないを受けにいらしていると、たった今聞きつけました。たいそう人目を忍んでいらしたので、私は存じませんで、この近くにおりますのに、お見舞いにさえ参上しませんでした」
僧都がそうおっしゃると、
- そうづ【僧都】:僧官の一つ。ここでは尼君の兄。
- あらはなり:外からよく見える。隠れていない。
- はし【端】:建物の端近く。人目につきやすい場所。
- わらはやみ【瘧病】:周期的に発熱する病。
- とぶらひ【訪ひ】:見舞い。訪問。
- まうづ【詣づ】:参上する。ここでは光源氏のもとへ伺う意。
あないみじや。いとあやしきさまを人や見つらむ
原文
「あないみじや。いとあやしきさまを人や見つらむ」
とて、簾下ろしつ。
「この世にののしりたまふ光源氏、かかるついでに見たてまつりたまはむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の憂へ忘れ、齢延ぶる人の御ありさまなり。いで、御消息聞こえむ」
とて立つ音すれば、帰りたまひぬ。
現代語訳
「まあ大変。こんなみっともない姿を、人に見られてしまったでしょうか」
と尼君は言って、簾を下ろした。
「世間でたいそう評判になっていらっしゃる光源氏です。このような機会に、一度ご覧になってはいかがですか。世を捨てた法師である私でさえ、あの方を拝見すると、ひどく世の憂さを忘れ、寿命まで延びるように思われるほどのお姿です。さあ、ご挨拶を申し上げてまいりましょう」
と言って僧都が立ち上がる音がしたので、源氏はその場を離れて、お戻りになった。
- あないみじ:まあ大変だ。ああ、ひどいことだ。
- あやし:みすぼらしい。見苦しい。
- つらむ:~たのだろうか。過去の事実について推量する表現。
- ののしる:世間で大いに評判になる。
- みたてまつる【見奉る】:拝見する。
- よのうれへ【世の憂へ】:世の中のつらさ。心配事。
- よはひ【齢】:年齢。寿命。
- せうそこ【消息】:便り。挨拶。ここでは訪問の挨拶。
あはれなる人を見つるかな
原文
「あはれなる人を見つるかな。かかれば、この好き者どもはかかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなることを見るよ」とをかしうおぼす。
現代語訳
「なんとも心を引かれる人を見たものだ。なるほど、こういうことだから、あの恋好きの男たちは、こんなふうにあちこち忍び歩いてばかりいて、普通なら見つけることのできない人までうまく見つけ出すのだな。たまたま外へ出ただけの私でさえ、こんな思いがけないものを見るのだから」と、源氏は興味深くお思いになる。
- あはれなり:しみじみと心を引かれる。趣深い。
- すきもの【好き者】:恋愛や風流を好む人。ここでは好色な男たち。
- ありき【歩き】:出歩くこと。
- たまさかに:たまたま。まれに。
- をかし:興味深い。おもしろい。
さても、いとうつくしかりつる児かな
原文
「さても、いとうつくしかりつる児かな。何人ならむ、かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや」と思ふ心深うつきぬ。
現代語訳
「それにしても、たいそうかわいらしかった子だな。いったい誰なのだろう。あの方――藤壺の代わりに、朝な夕なそばで眺めて、心の慰めにしたいものだ」そう思う気持ちが、源氏の心に深く根づいてしまった。
- ちご【児】:子ども。ここでは若紫。
- かのひと【かの人】:藤壺を指す。
- おほんかはり【御代はり】:身代わり。代わりとなる人。
- あけくれ【明け暮れ】:朝も夕も。いつも。
- ばや:~したい。話し手自身の願望を表す。
「若紫との出会い」の原文全文を通して読む
日もいと長きに、つれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるに紛れて、かの小柴垣のもとに立ち出でたまふ。人々は帰したまひて、惟光朝臣とのぞきたまへば、ただこの西面にしも持仏据ゑたてまつりておこなふ、尼なりけり。簾すこし上げて、花たてまつるめり。
中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、いと白うあてに痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、「なかなか長きよりも、こよなう今めかしきものかな」とあはれに見たまふ。
清げなる大人二人ばかり、さては童べぞ出で入り遊ぶ。中に十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなるかたちなり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。
「何事ぞや。童べと腹立ちたまへるか」
とて尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、「子なめり」と見たまふ。
「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを」
とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、
「例の、心なしのかかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ」
とて立ちてゆく。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。「少納言の乳母」とぞ人言ふめるは、この子の後見なるべし。
尼君、
「いで、あな幼や。言ふかひなうものしたまふかな。おのがかく今日明日におぼゆる命をば何ともおぼしたらで、雀慕ひたまふほどよ。罪得ることぞと、常に聞こゆるを、心憂く」
とて、
「こちや」
と言へば、ついゐたり。
つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。「ねびゆかむさまゆかしき人かな」と目とまりたまふ。さるは、「限りなう心を尽くしきこゆる人にいとよう似たてまつれるが、まもらるるなりけり」と思ふにも涙ぞ落つる。
尼君、髪をかき撫でつつ、
「梳ることをうるさがりたまへど、をかしの御髪や。いとはかなうものしたまふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は十ばかりにて殿におくれたまひしほど、いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし。ただいまおのれ見捨てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」
とて、いみじく泣くを見たまふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪つやつやとめでたう見ゆ。
生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむ空なき
またゐたる大人、
「げに」
とうち泣きて、
初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えむとすらむ
と聞こゆるほどに、僧都、あなたより来て、
「こなたはあらはにやはべらむ。今日しも端におはしましけるかな。この上の聖の方に、源氏の中将のわらは病まじなひにものしたまひけるを、ただ今なむ聞きつけはべる。いみじう忍びたまひければ、知りはべらで、ここにはべりながら御とぶらひにもまうでざりける」
とのたまへば、
「あないみじや。いとあやしきさまを人や見つらむ」
とて、簾下ろしつ。
「この世にののしりたまふ光源氏、かかるついでに見たてまつりたまはむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の憂へ忘れ、齢延ぶる人の御ありさまなり。いで、御消息聞こえむ」
とて立つ音すれば、帰りたまひぬ。
「あはれなる人を見つるかな。かかれば、この好き者どもはかかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなることを見るよ」とをかしうおぼす。
「さても、いとうつくしかりつる児かな。何人ならむ、かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや」と思ふ心深うつきぬ。
「若紫との出会い」の現代語訳全文を通して読む
日もたいそう長いうえに、することもなく退屈なので、源氏は、夕暮れのひどく霞んでいるのに紛れて、あの小柴垣の近くまでお出になった。供の人々はお帰しになり、惟光朝臣と一緒に中をのぞいてみると、ちょうど西側の部屋に持仏をお据え申し上げて勤行している尼がいた。簾を少し上げて、仏前に花を供えているようである。
中央の柱に寄りかかって座り、脇息の上に経を置いて、ひどく具合が悪そうに読経している尼君は、普通の身分の人とは見えない。40歳を少し過ぎたくらいで、たいそう色白で上品に痩せているが、顔つきはふっくらとしており、目元も美しい。尼削ぎにした髪の毛先も美しく、「長い髪よりも、かえってずっと若々しく華やかに見えるものだな」と源氏はしみじみとご覧になる。
こぎれいな年配の女房が二人ほどいて、そのほかには童女たちが出たり入ったりして遊んでいる。その中に、10歳ほどであろうかと見える少女がいた。白い衣に、山吹色などの着慣れて柔らかくなった衣を重ねて、走って来たその少女は、それまで大勢見えていた子どもたちとは比べものにならず、たいそう将来が楽しみに思われる、かわいらしい顔立ちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらと広がり、顔を真っ赤にして立っている。
「どうしたのです。童女たちとけんかでもなさったのですか」
そう言って尼君が顔を上げると、その顔には少女と少し似ているところがあるので、源氏は「この少女は尼君の子なのだろう」とお思いになる。
「雀の子を犬君が逃がしてしまったの。伏籠の中に入れておいたのに」
そう言って、少女はたいそう残念そうにしている。そばに座っていた年配の女房が、
「またいつものように、気の利かないことをして叱られるなんて、本当に困ったものですね。どちらへ行ってしまったのでしょう。だんだんかわいらしくなってきたところでしたのに。カラスなどに見つけられたら大変です」
と言って、立ち上がって探しに行く。髪は豊かでたいそう長く、感じのよい人のようである。人々が「少納言の乳母」と呼んでいるらしいこの人は、この少女の世話をしている人なのだろう。
尼君は、
「まあ、なんて幼いのでしょう。どうしようもなく聞き分けのないことですね。私はもう、今日か明日かにも命が尽きるように思っているのに、そんなことは何ともお思いにならず、雀ばかり慕っていらっしゃること。生き物を籠に入れるのは罪になることだと、いつも申し上げているのに、情けないことです」
そう言って、
「こちらへいらっしゃい」
と言うと、少女はすぐに尼君のそばへ座った。
顔つきはたいそう愛らしく、眉のあたりはほんのりと煙るように見え、幼く無造作にかき上げた額の様子や髪の生え際も、実にかわいらしい。「これから成長していく姿を見てみたい人だな」と源氏は目をお留めになる。それというのも、「この少女は、源氏がこの上なく心を尽くしてお慕い申し上げている藤壺にとてもよく似ているので、自然と見つめずにはいられないのだ」と思うにつけても、源氏の目から涙がこぼれる。
尼君は少女の髪をかき撫でながら、
「髪を梳かすのを面倒がりなさるけれど、なんと美しい御髪でしょう。それなのに、あまりにも頼りなく幼くていらっしゃるのが、しみじみと心配でなりません。このくらいの年になれば、こんなに幼くはない人もいるものなのに。亡くなった姫君、つまりあなたのお母さまは、10歳ほどで父君に先立たれたころには、もうたいそう物事の道理をよく分かっていらっしゃいました。もし今、私まであなたを残して死んでしまったなら、あなたはこの先、どうやって世の中で暮らしていこうとなさるのでしょう」
そう言って尼君がひどく泣くのをご覧になると、源氏もわけもなく悲しい気持ちになる。少女も、幼心ながらさすがに尼君をじっと見つめ、やがて目を伏せてうつむいた。こぼれかかる髪がつやつやとして、たいそう美しく見える。
生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむ空なき
これからどこで育っていくのか、その行く先さえ分からない若草のようなこの子を残して先に消えていく露である私は、安心して消えていける場所さえありません。
もう一人座っていた年配の女房も、
「本当にそのとおりでございます」
と泣きながら、歌を申し上げる。
初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えむとすらむ
まだ芽を出したばかりの草のような姫君が、この先どのように育っていくのかも分からないうちに、どうして露であるあなたが消えてしまおうとなさるのでしょう。
そうして歌を申し上げているところへ、僧都が向こうからやって来て、
「こちらは外から丸見えではございませんか。今日に限って、こんな端近くにいらしたのですね。この上の聖のところに、源氏の中将が瘧病のまじないを受けにいらしていると、たった今聞きつけました。たいそう人目を忍んでいらしたので、私は存じませんで、この近くにおりますのに、お見舞いにさえ参上しませんでした」
僧都がそうおっしゃると、
「まあ大変。こんなみっともない姿を、人に見られてしまったでしょうか」
と尼君は言って、簾を下ろした。
「世間でたいそう評判になっていらっしゃる光源氏です。このような機会に、一度ご覧になってはいかがですか。世を捨てた法師である私でさえ、あの方を拝見すると、ひどく世の憂さを忘れ、寿命まで延びるように思われるほどのお姿です。さあ、ご挨拶を申し上げてまいりましょう」
と言って僧都が立ち上がる音がしたので、源氏はその場を離れて、お戻りになった。
「なんとも心を引かれる人を見たものだ。なるほど、こういうことだから、あの恋好きの男たちは、こんなふうにあちこち忍び歩いてばかりいて、普通なら見つけることのできない人までうまく見つけ出すのだな。たまたま外へ出ただけの私でさえ、こんな思いがけないものを見るのだから」と、源氏は興味深くお思いになる。
「それにしても、たいそうかわいらしかった子だな。いったい誰なのだろう。あの方――藤壺の代わりに、朝な夕なそばで眺めて、心の慰めにしたいものだ」そう思う気持ちが、源氏の心に深く根づいてしまった。
「若紫との出会い」品詞分解
「若紫との出会い」の品詞分解・敬語表現については、こちらの記事をご覧ください。


