
このページでは、『源氏物語』第31帖「真木柱」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第31帖「真木柱」原文全文をご覧ください。
髭黒大将の妻となった玉鬘
髭黒大将は、「このことが帝のお耳に入るのも恐れ多い。しばらくは広く世間に漏らさないように」と玉鬘に言い聞かせたが、いつまでも隠し通せるものでもなかった。
それから日がたっても、玉鬘は少しも打ち解けた様子を見せない。「思いもしなかった、なんてつらい運命なのだろう」と、ひたすら沈み込んでいる。その様子が少しも変わらないので、大将にはひどくつらく感じられた。それでも、これほどまでに深い縁で結ばれたことそのものは、胸にしみて嬉しく思わずにはいられない。
見れば見るほど玉鬘は美しく、まさに長年思い描いてきたとおりの女性だった。もしこの人を最後までよその男の妻として眺めるだけで終わっていたなら――そう考えるだけで胸がつぶれる。石山寺の仏にも、仲立ちをした弁の御許にも、並べてお礼をしたいくらいだった。
けれど肝心の玉鬘が、大将を心の底から嫌い、遠ざけてしまっている。大将は思うようにそばへ寄ることもできず、ただ籠もるようにして過ごしていた。
なるほど、これまで玉鬘をめぐっては、兵部卿宮をはじめ、いかにも苦しそうな恋をしている男たちが大勢いた。それなのに結局、石山寺の御利益が現れたのは、この思慮の浅い大将のためだったらしい。
源氏も、こんな結果になったのは不本意で、残念に思っていた。しかし、もうどうしようもない。周囲もすでに二人の仲を認める形になっている以上、今さら源氏だけが反対するような態度を見せるのも、大将にとって気の毒で、かえって妙なことになる。そこで婚姻の儀式は、これ以上ないほど立派に整えてやった。
髭黒大将は、一日も早く玉鬘を自分の邸へ迎えたいと思っていた。けれど、いきなり玉鬘が大将の邸へ移ったなら、そこで待ち受けている北の方が、決してよい気持ちはしないだろう。
源氏はそれを気の毒に思い、「やはり急いではいけません。ゆっくり、穏やかに進めなさい。どちらの側からも非難されたり恨まれたりしないよう、目立たずに扱うのがよいでしょう」と大将に言い聞かせた。
実父の内大臣は、この結婚をむしろ悪くないと思っていた。
「かえって安心できるかもしれない。特にしっかりした後見もない女が、中途半端に華やかな宮仕えに出て、つらい思いをすることにならないかと心配していたのだ。私に娘を大事にしたい気持ちはあっても、すでに弘徽殿女御が宮中にいる以上、もう一人の娘をどう扱えばよいものか難しかったからね」
内大臣は人知れず、そんなことを言っていた。
確かに、相手が帝であろうと、軽い扱いを受け、重々しい立場にもしてもらえなければ、かえって軽率な宮仕えと見られかねない。
髭黒大将と玉鬘が、三日目の夜まで正式に消息を交わしたと聞くと、内大臣は、源氏がここまで娘を立派に扱ってくれたことを、本当にありがたく、恐れ多いことだと思った。
二人の仲はひそかに始まったことではあったが、面白い話として人から人へ伝わり、やがて世間の珍しい噂となった。とうとう帝のお耳にも入った。
帝は、「残念なことだ。ずいぶん特別な宿世を持った人だったのだね。しかし、こちらも尚侍として召そうと思っていたのだから。もし普通の女御や更衣のような宮仕えをさせようというのならともかく、尚侍としてなら、結婚したからといって、きっぱり諦めなければならないわけでもあるまい」と仰せになった。
玉鬘にのめり込む髭黒大将
十一月になった。神事も多く、内侍所でも何かと用事の重なるころで、女官や内侍たちが宮中へ出入りし、華やかに人の動く季節である。
そんな時なのに、髭黒大将は昼間まで人目を避けるようにして玉鬘のもとへ籠もっている。玉鬘はそれが、たまらなく嫌だった。
兵部卿宮などは、ましてどれほど残念に思っていたことだろう。式部卿宮の兵衛督も、自分の妹である髭黒の北の方が世間の笑いものになってしまったことまで重なって、いろいろと悩んでいた。しかし今となっては、玉鬘を恨みに行ったところで馬鹿らしく、何の甲斐もないと思い直している。
髭黒大将は、これまで世間でも名高いほどの堅物だった。長い年月、ほんの少しも女関係で乱れた振る舞いをしたことがない。その反動なのか、今では何もかも忘れて恋に夢中になり、これまでとは別人のように艶めいた振る舞いをする。宵にも暁にも人目を忍んで出入りする、その姿まで妙に風流なものになったので、人々は面白がって眺めていた。
一方の玉鬘は、本来なら明るく、のびやかで華やかな性格なのに、それすらすっかり隠して、ひどく思い詰めていた。自分の意思でこうなったのではないことは誰の目にも明らかである。
実父の内大臣がどう思っているだろう。あれほど心深く、情け深く自分を思ってくれていた兵部卿宮はどう感じているだろう。そう思うと、ただ恥ずかしく、残念でならず、髭黒への不快そうな態度が消えることはなかった。
源氏が玉鬘に教える、これからの身の振り方
源氏は、自分と玉鬘との間に何かあるのではないかと人々が疑っていたことを、この結婚によってきれいに晴らすことができた。
「私も私で、いくら自分の心とはいえ、突然筋の違ったことをするのは好きではなかったのだな」
昔からの自分のことまで振り返り、紫の上にも、「あなたはずいぶん疑っていたね」などと話した。
紫の上は、今さらまた源氏の昔からの性癖が出ただけなのでは、と完全には安心できない。それでも以前、自分が苦しい思いをしたころには、本当に二人の間に何か起こるのではないかとまで考えたことがあるので、なお疑いがすっかり消えたわけではなかった。
ある昼間、髭黒大将がいない時を見計らって、源氏は玉鬘のもとへ渡った。
玉鬘はどうにも具合が悪そうで、しゃんとしたところもなく、すっかりしおれている。源氏がやって来たので少し起き上がったが、御几帳の陰へ身を隠して座った。
源氏も今日は特に気をつけ、少しよそよそしいほどの態度で、まずは普通の世間話などをする。
玉鬘は、これまで源氏の美しさと気品をよく知っている。世間の普通の男と比べれば、髭黒などとはさらに比べようもない。それを目の前にすると、思いもよらない運命に落ち着いてしまった自分が恥ずかしく、身の置き所もないように感じられ、涙がこぼれた。
やがて源氏は、少し身近な話をするようになった。近くの脇息に寄りかかり、御几帳の向こうを少し覗きながら話しかける。
玉鬘は頬が痩せ、そのせいでかえって愛らしさが増していた。見ていると、やはりこの人を完全によその男へ渡してしまったのは、あまりにも惜しいことだった――そんな気持ちが、源氏の胸に起こる。
おりたちて汲みは見ねども渡り川人の瀬とはた契らざりしを
私は自分からこの川へ下りて水を汲もうとしたわけではないけれど、だからといって、あなたがほかの人の渡る瀬になるとは思ってもいませんでした。
まったく思いがけないことになったものですね。
源氏が鼻をかむ気配まで、親しみ深く、しみじみとしていた。
玉鬘は顔を隠して答えた。
みつせ川渡らぬさきにいかでなほ涙の澪の泡と消えなむ
三途の川を渡るようなことになるより先に、私はいっそ、この涙の流れに浮かぶ泡のように消えてしまいたいのです。
「まあ、子供のような消え方を願うものですね。とはいえ、あの川も避けて通れる道ではない。せめて手の先くらいは、私が引いて助けて差し上げましょうか」
源氏は微笑み、さらに言った。
「本当のところは、あなたにもわかっていることがあるでしょう。私ほどどうしようもなく愚かな人間も、また、いざとなればこれほど安心して頼れる人間も、この世にはそういない。そのくらいのことは、さすがにわかってくださっていると思っていますよ」
玉鬘には、その言葉がどうにも聞きづらい。
源氏も気の毒になって、話を別の方向へ移した。
「帝からなお宮仕えについてお話があるのが、私としても申し訳なく思うのですが、それでも一度、ほんのしばらく宮中へ参らせようと思っています。髭黒大将が完全に自分の妻として囲い込んでしまってからでは、そういう宮仕えも難しくなるでしょうからね。
「最初にあなたの宮仕えを考えた時とは、もう事情が変わってしまいましたけれど、二条の大臣もこのことを喜んでおられるようなので、その点では気楽です」
源氏はこの先どう振る舞えばよいか、細かく玉鬘に教えた。
玉鬘には、ありがたくもあり、恥ずかしくもある言葉がいろいろあった。しかし何を聞いても涙にまとわりつかれているばかりだった。
あまりにも沈み込んでいるので、源氏も思うままの戯れをすることは控え、ただこれから必要になる心構えを教えるだけにした。髭黒の邸へすぐに移ることについては、簡単に許すつもりのない様子だった。
髭黒大将の北の方
髭黒大将も、玉鬘が宮中へ出ることを快くは思っていなかった。しかし、それを機会に玉鬘を宮中から退出させ、そのまま自分の邸へ連れて帰ればよい、という考えが浮かんだ。それで本当に短い間だけならと、宮仕えを認めた。
大将自身も、六条院へ人目を忍んで通い続ける暮らしには慣れておらず、苦しかった。そこで自邸の内部を修理し、長年荒れたまま放ってあった場所も含め、調度から儀式まで、玉鬘を迎えるためにすっかり整え直した。
そこに昔から暮らしている北の方が、どれほど嘆くか。長年かわいがってきた子供たちがどう思うか。大将はそうしたことには、ほとんど目も向けなかった。
もう少し情の細やかな男なら、自分の行動が人にどれほど恥ずかしい思いやつらい思いをさせるか、あれこれ想像するところもあるだろう。けれど髭黒は、一度思い込めばひたすらその方向へ進む、融通の利かない性格である。そのため、人の心を大きく傷つけるようなことが多かった。
北の方自身は、決して人より劣る女性ではなかった。
高貴な式部卿宮の娘として大切に育てられ、世間の評価も軽くない。顔立ちも十分に美しかった。
ただ、長年しつこい物の怪に悩まされ、時折まるで正気を失ったようになることがあった。そのため夫婦の間も、いつしか隔たりがちになっていた。
それでも髭黒は、正妻としての北の方の身分だけは、誰とも並べるもののないものとして扱ってきた。だからこそ今、初めて心を移した相手が、ただ少し魅力的だという程度ではなく、玉鬘ほど際立って美しい女性であること、しかも世間で噂されていた源氏との関係まで、実際には何事もなく清らかなままだったとわかったことが、いよいよありがたく思われ、髭黒の愛情は増す一方だった。
北の方の父・式部卿宮は、娘の境遇を聞くと腹を立てた。
「今さらあんな若く華やかな女性を連れてきて大切にする、その片隅で、おまえが見苦しく添って暮らしているのも世間体が悪いだろう。私が生きているうちは、そんな笑いものになるような扱いに従って、惨めに暮らす必要などない」
宮は東の対を片づけて娘のために整え、「こちらへ連れ戻そう」と言い出した。
北の方は、実家へ戻るだけのこととはいえ、もうこれで夫との関係も終わりなのだと思うと、さまざまに思い乱れ、ただでさえ悪かった体調がますます崩れ、そのまま長く寝込んでしまった。
本来の北の方は、とても穏やかで素直な、どこか子供っぽいところのある人だった。ただ時々、心が普通ではなくなり、人から疎まれてしまうような振る舞いが混じるのである。
雪の夜、北の方に別れを告げる髭黒
北の方の住まいは、このところ妙に乱れ、調度にも華やかさがなく、本人もひどく沈み込んだ暮らしをしていた。
玉を磨いたような玉鬘の美しさを見慣れた大将の目には、どうしても心惹かれるものではない。それでも長年の夫婦の情というものは、一朝一夕に消えるわけではなく、心の中では北の方をかわいそうに思っていた。
大将は言った。
「昨日今日結ばれたような浅い夫婦でさえ、まともな人たちなら、だんだん気持ちを落ち着かせるところを見つけて最後まで暮らすものです。あなたがこんなに苦しそうにしているから、私も何を言えばよいのか話しづらくなってしまう。
「私たちは、何年夫婦でいたと思っているのです。あなたのように普通とは少し違うところのある人だからこそ、最後まで見届けようと、私はこれまでずっとさまざまなことを我慢してきた。それなのに、これからもそうできるはずがないと決めつけて、私を嫌わないでください。
「子供たちだっているのです。どちらへ転んでも、あなたを軽く扱うつもりなどありません。それなのに、あなたは心の乱れるままに、ずっと私を恨んでいる。今はまだ何も最後まで見ていないのだから、もう少し私に任せて、この先を見ていてください。
「宮が私のことを嫌い、すぐにあなたを引き取ってしまおうと言っていらっしゃるのも、かえって軽率です。本気でそうお考えなのか、それとも私をしばらく懲らしめてやろうというお気持ちなのでしょうか」
笑いながらそう言う様子は、北の方にはひどく憎らしく、腹立たしいものだった。
木工の君や中将の御許など、大将がこれまで親しく召し使ってきた女房たちでさえ、それぞれの立場で「大将はひどい。つらい」と思っている。
その時の北の方は正気で、たいそう穏やかに泣きながら座っていた。
「私のことを、ぼけている、心がおかしいとおっしゃり、恥をかかせるのは仕方のないことなのでしょう。ただ、父宮のことまで混ぜてあれこれおっしゃるのは、もし父上のお耳に入ったらお気の毒です。こんな不幸な娘の身内まで軽い人間のように聞こえてしまいますから。あなたのそういう言葉にはもう慣れていますので、今さら私自身のことでは何とも思いません」
そう言って背を向ける姿は、かわいらしくさえあった。
小柄な人が、長い病で痩せ衰え、ひどく弱々しくなっている。美しく長かった髪も、分け目をつけたように細く抜け落ち、櫛を入れることもほとんどない。その髪が涙に濡れて顔へまとわりついているのは、見るも哀れだった。
華やかな艶のある美貌というわけではないが、父宮に似た上品な顔立ちをしている。それをこれほどやつれさせているのだから、昔の面影など残りようもない。
髭黒も少し声を和らげた。
「宮のことを軽く申し上げるつもりなどありません。人聞きの悪い受け取り方をなさらないでください。
「私が通っている六条院は、あまりにも眩しいほど立派な御殿です。そこへ私が、まだ馴染みもしない堅苦しい顔で出入りするのも、いろいろな人の目に立って気詰まりなのです。だから、あの人をこちらへ移し、もっと気楽に暮らせるようにしようと思っています。
「太政大臣の世にも並ぶもののない御威勢は言うまでもなく、人も気後れするほど思慮深い方です。そんな御方の大切になさっている人について、こちらから少しでも感じの悪いことが聞こえれば、本当に申し訳なく、恐れ多いことになります。
「ですから、あなたも穏やかに、あの人と仲よくしてやってください。たとえあなたが宮のところへ移ったとしても、私はあなたを忘れません。どちらにしても今さら、長年のあなたへの気持ちがなくなることはないのです。世間の噂になり、私まで軽率な男と笑われるようなことだけは避けたい。これまでの夫婦の縁を違えず、お互いに子供たちを見守っていこうと思ってください」
北の方は静かに答えた。
「その方が私につらくなさっているのかどうか、私は何も存じません。ただ、こんな普通でない娘の身の上を、父宮まで嘆いておられ、今さら世間の笑いものになることだと心を痛めていらっしゃる。それが気の毒で、どんな顔をして父にお目にかかればよいのだろうと思うのです。
「それに、六条院の北の方と申し上げる紫の上だって、私にとって赤の他人でしょうか。あの方は私の妹です。父宮は、幼いころから御自分のもとで育てたわけでもない妹が、今になって、あなたが新しく大切になさる女性の親代わりのようになっていることまで、つらいとおっしゃっているそうです。でも私は、そのことを恨んでいるわけではありません。ただ、あなたがこれから私をどう扱うのか、見ているだけです」
髭黒は、「そうやって物事をきちんとおっしゃるのを見ると、またいつもの心の乱れが起こって、余計に苦しいことになりはしないかと心配になります。紫の上は、この件について何も御存じありません。玉鬘を実の娘のように大切になさっているのだから、あなたがこちらで冷遇されていることまで知るはずもない。あの方には人の親のような立場などないのです。こんな話が御耳に入れば、ますます困ったことになるでしょう」などと言い、一日中、北の方の部屋にいて話を続けた。
火取りの灰を浴びせられた大将
夕方になると、髭黒の心はもう玉鬘のほうへ飛んでいた。何とかしてここを出ようと思うのに、外では雪が激しく降り始める。
こんな雪の中を出ていけば、人から見てもあまりに露骨だろう。しかも北の方が、憎々しげに恨み言を言ってくれでもすれば、こちらもそれを口実に腹を立てて出ていけるのだが、今日はひどく穏やかで、何も言わずにいる。その姿がかえって気の毒で、髭黒はどうしたものかと思い乱れながら、格子も下ろさず、端近くで雪を眺めていた。
北の方は、その様子を察した。
「ずいぶん意地の悪い雪が降っていますね。こんな中をどうやってお出かけになるおつもりでしょう。夜も更けてきたようですのに」
いっそ行ってください、と勧めるように言う。「これで最後なのだから、止めたところで仕方がない」――そんなふうに考えているらしい様子が、ひどく哀れだった。
髭黒は、「こんな雪では、さすがにどうにも」と言いながらも、やはり気持ちは玉鬘のほうへ向いている。
「でも、せめてこのところしばらくだけですよ。私の本心を知らない世間の人々があれこれ言い、こちらとあちらの大臣方もどうお考えになるかわからない。だから今ここでぱったり通わなくなるのも、あの人が気の毒なのです。心を落ち着けて、もう少しこの先を見ていてください。いずれあの人をここへ移してしまえば、今よりずっと気楽になるでしょう。
「こうしてあなたが普通の穏やかな顔を見せてくださる時には、ほかの女へ心を分けている気持ちさえ消えてしまって、本当に愛しく思うのです」
北の方は穏やかに言った。
「ここにお残りになったところで、お心がここになければ、かえってつらいだけでしょう。遠くにいらしても、時々私のことを思い出してくださるなら、この袖を凍らせている涙だって解けるでしょうから」
そして火取りを取り寄せ、大将の衣へ念入りに薫物の香を焚きしめさせた。
北の方自身は、しんなりした普段着姿で、以前よりさらに細く、弱々しく見える。涙に濡れた様子が本当に痛ましい。泣き腫らした目だけは少し見苦しくなっていたけれど、かわいそうだと思って眺めれば、それさえ責める気にはなれない。
――どうしてこんな長い年月、この人と暮らしてこられたのだろう。それなのに今、何の名残もなく心を移してしまった自分は、本当に軽い男だ。
そう思う一方で、それでも玉鬘へ向かう心は止まらない。わざとらしくため息をつきながら、結局は出かけるために着替え、小さな火取りを近くへ寄せ、袖に香を移している。
少しくたびれた装束をまとってはいるものの、髭黒自身は鮮やかに男らしく堂々とした姿だった。源氏の並ぶもののない美しさにこそ及ばないが、ただの臣下とは見えないほど威厳がある。
侍のほうから、「雪が少し止んでおります。夜もかなり更けたようでございます」などと、あからさまには言わないながらも出立を促す声が聞こえてきた。
中将や木工の君などは、「ああ、なんということだろう」と嘆きながら話をしていた。
北の方は、ひどく気持ちを抑え、かわいらしく物に寄りかかっているように見えた。
その次の瞬間だった。
北の方は突然起き上がり、大きな籠の下に置いてあった火取りを引き寄せると、大将の後ろへ回り、その中の灰をざっと浴びせかけた。
誰も止める暇などなかった。
髭黒はあまりのことに呆然とした。
細かな灰が目にも鼻にも入り、息もできない。いくら払い落としても、あたり一面に灰が立ちこめている。とうとう衣まで脱がなくてはならなかった。
もし北の方が正気のままこんなことをしたのなら、もう二度と顧みる気にもならないほど、あまりにひどい仕打ちだった。
けれど周囲の女房たちは、「またいつもの物の怪が取りついて、大将に奥方を嫌わせようとしているのです」と、北の方を気の毒に思った。
人々は大騒ぎで大将の衣を替えた。けれど大量の灰が鬢のあたりまで立ちのぼり、体のあちこちに入り込んでいるような気がする。これでは、美しさを極めた玉鬘のところへそのまま出かけるわけにもいかなかった。
髭黒は、「心が普通でないとはいえ、これはまたなんという、見たこともない振る舞いだ」と舌打ちし、すっかり嫌気が差した。それまで北の方をかわいそうに思っていた気持ちも消えてしまった。
それでも、この時期に騒ぎを大きくすれば、本当に取り返しのつかないことになりそうだと思い、自分を抑えた。もう夜中になっていたが、僧を呼び、加持をさせ、大騒ぎとなった。
北の方が叫び、喚き散らす声を聞けば、髭黒がますます疎ましく思うのも無理のないことだった。
雪の夜の手紙
北の方は一晩中、物の怪に打たれたり引かれたりするように暴れ、泣き惑って夜を明かした。少し疲れて休んだころ、髭黒は玉鬘へ手紙を送った。
「昨夜、急に死に入りそうになった人がおりまして、雪の中へ出ることもできず、そのまま留まっているうちに、こちらの身まで冷えきってしまいました。あなたがどう思われたかも心配ですが、周囲の人々がこのことをどう取り沙汰したか、それも気がかりです」
妙に真面目くさった書き方だった。
心さへ空に乱れし雪もよにひとり冴えつる片敷の袖
心まで空の雪のように乱れた昨夜、あなたのいない床で、片袖を敷いて一人冷えきっておりました。
とても耐えがたい夜でした。
白い薄様の紙に、きちんと書かれている。ただ、特に風情のある文というほどでもなかった。筆跡だけはたいそう美しい。髭黒は学問の才などは、非常に優れた人だったのである。
玉鬘のほうは、大将が一晩来なかったことなど、何とも思っていなかった。なのに向こうがこれほど胸を躍らせて手紙を寄こすのも煩わしく、手に取って読むことさえせず、返事もしなかった。
髭黒は胸がつぶれる思いで、一日中悩んでいた。
一方、北の方はまだひどく苦しんでいるので、御修法まで始められた。
髭黒も心の中では、「せめてこの時期だけでも、何事もなく正気でいてくれ」と祈っている。本来の北の方の心が情け深いものであることを知らなかったなら、こんな疎ましいことの多い人を、これほど長いあいだ見捨てずにいられたはずもない――そう思うのだった。
北の方との仲が決定的に崩れる
日が暮れると、髭黒はまた例のように急いで出かけようとした。
しかし北の方は、大将の装束などをきちんと整えてやろうともしない。何もかも妙にちぐはぐなまま不機嫌にしているので、鮮やかな直衣一つすぐに用意できず、ひどくみっともない。
昨夜着ていたものは、灰の火が通って焦げたような嫌な匂いまでしている。衣には煙の匂いも染みつき、どれほど灰をかぶったか人にも知られてしまいそうなので、大将は結局すべて着替え、湯殿にまで入り、念入りに身を整え直した。
木工の君が薫物を焚きながら、歌を詠んだ。
ひとりゐて焦がるる胸の苦しきに思ひあまれる炎とぞ見し
一人取り残され、恋い焦がれる胸があまりにも苦しかったので、とうとう思い余った炎が燃え上がったのだと思いました。
奥方をあれほどすっかりお見捨てになるのでは、そばで見ている者まで平気ではいられません。
木工の君は口元を覆って座っている。その目つきは、かなりきつい。
けれど髭黒には、「私はいったい、どういう気持ちでこんな女に昔はものを言っていたのだろう」としか思えなかった。なんとも情けのないことである。
憂きことを思ひ騒げばさまざまにくゆる煙ぞいとど立ちそふ
つらいことをあれこれ思って心を騒がせると、くすぶる煙がますますいろいろな形で立ちのぼってくるものだ。
「こんな普通ではない騒ぎが世間へ漏れでもしたら、私はどちらにも居場所のない、中途半端な男になってしまいそうだ」
大将はため息をつきながら出ていった。
ほんの一晩離れていただけなのに、玉鬘はまた新鮮なほど美しく感じられた。髭黒には、もうほかへ心を分けることなど到底できないように思われ、それが自分でも恐ろしく、その後は長く玉鬘のもとへ籠もるようになった。
北の方のところでは修法を続けたが、物の怪はひどく荒れ狂い、喚き続けている。それを聞くと髭黒は、これ以上そばへ寄れば何か取り返しのつかない傷を負わされ、世間へ恥をさらすことになるに違いない、と恐ろしくなり、まったく近づかなくなった。
自邸へ戻っても、北の方とは離れた場所にいて、子供たちだけを呼び出して会った。
夫婦には、十二、三歳ほどの姫君が一人、その下に男の子が二人いた。
近年は夫婦の仲も隔たりがちだったとはいえ、北の方は正妻として誰にも並ぶ者のない立場で暮らしてきた。それだけに、「これでもう本当に終わりなのだ」と思うと、仕える女房たちも皆、ひどく悲しんだ。
真木柱の姫君、住み慣れた家を離れる
父の式部卿宮は、このありさまを聞くと、とうとう決断した。
「今ではあれほどはっきり妻を遠ざけて、別の女を表へ出しているというのに、それでもなおそこに残って耐えているなど、あまりに体面の悪い、世間の笑いものになることだ。私が生きている間くらい、何もそこまで一方的に折れて惨めにならなくてもよい」
そう言って、突然、北の方を迎えに人を寄こした。
北の方は、ようやく少し正気を取り戻していた。自分の人生があまりにもひどいものになったと嘆いているところへ、父から迎えが来た。
――無理にここへ残り、夫が完全に自分を捨てていく様子を最後まで見届け、そのうえで諦めるというのも、かえってさらに世間の笑いものだろう。
北の方も、実家へ帰る決心をした。
兄弟たちのうち、兵衛督は上達部なので、大げさになるからと迎えには来なかった。中将、侍従、民部大輔などが、三台ほどの車で迎えに来た。
いつかこうなるのだろうと、女房たちも前から予想していた。それでも、いざ今日を最後にこの家を出るのだと思えば、皆ぽろぽろと泣いた。
「長年慣れ親しんだことのない狭い仮住まいへ移るのですから、大勢が皆ついて行くわけにもいきません。半分ほどはそれぞれ実家へ下がり、姫君方が落ち着かれてから、また考えましょう」
そんなふうに決め、女房たちはそれぞれ、自分のちょっとした持ち物などを実家へ送り始めた。必要な調度は残して整える。上も下も泣きながら慌ただしく動き回る様子は、不吉なほど悲しかった。
子供たちはまだ事情もよくわからず、無邪気に歩き回っている。
北の方は三人を呼び集めた。
「私はこんなつらい運命を、もう最後まで見てしまいました。今さらこの世に何かを残そうとも思いません。これからどうなろうと、流れに任せて生きていくしかないでしょう。ただ、まだ先の長いあなたたちが、このあと離れ離れになってしまうだろうことが悲しくてなりません。
「姫君は、これから何があっても私について来てください。男の子たちは、どうしても父上のところへ出入りすることになるでしょうから、かえって父上も心をかけてくださらず、中途半端な立場で行き場を失うことにならないか心配です。
「父宮が生きていらっしゃる間は形ばかり世間へ出ていくこともできるでしょう。でも、あちらの大臣方が力を持っている世の中で、『あの家は気をつけるべき家だ』と知られてしまえば、立派な大人になるのも難しい。だからといって、皆で山や林へ入って出家してしまうなど、来世まで考えれば簡単にできることではありません」
そう言って北の方が泣くので、子供たちもまだ深い意味はわからないながら、一緒に顔を曇らせ、泣き始めた。
乳母たちも集まって嘆いた。
「昔物語を読んでも、普通なら愛情深い親でさえ、時がたち、心が別の人へ移れば、子供への愛情まで薄くなってしまいます。まして、今でも目の前にいらっしゃる奥方へ、もう何の名残もないほど心変わりなさる方なのですから、子供というつながりがあったところで、どこまで大切にしてくださるでしょう」
日も暮れ、今にも雪が降りそうな空が、ひどく心細く見える夕方になった。
迎えに来た兄弟たちは、「天気がひどく荒れそうです。どうかお早く」と出立を促した。
姫君――真木柱は、父がずっとかわいがってくれたことに慣れていた。
――父上にお会いしないまま、どうしてこの家を出られるだろう。今すぐ出るとも申し上げていない。このまま、もう二度と会えないことになったらどうしよう。
そう思うと、うつ伏して泣き、「私は行けません」と言う。
母は、「そんなふうに思われるのが、私はいちばんつらいのですよ」などと言ってなだめた。
姫君は、今にも父が帰って来てくれないかと待っていた。けれど、もうこれほど日が暮れてしまったのだ。大将が今さらこちらへ戻ってくるはずもなかった。
いつも寄りかかっていた東面の柱まで、誰かに譲って置いていくような気がして悲しくなる。
真木柱の姫君は桧皮色の重ね紙に、ほんの少しだけ文字を書き、柱のひび割れた隙間へ、笄の先でそっと押し込んだ。
今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな
もうこれで、この家を離れてしまうけれど、長いあいだ私が寄り添ってきた真木の柱よ、どうか私を忘れないで。
最後まで書き終えることもできず、姫君は泣いた。
母君も、「そうは言ってもね」と、歌を返した。
馴れきとは思ひ出づとも何により立ちとまるべき真木の柱ぞ
あなたと馴れ親しんだ日々を柱が思い出したとしても、私たちがいなくなったあと、いったい誰を頼りにこの家に立ち続けるというのでしょう。
そばの女房たちも、それぞれに悲しくなった。普段なら何とも思わない庭の木や草の根元まで、これからは恋しく思い出すことになるのだろうと眺め、皆で鼻をすすった。
木工の君は髭黒大将に仕える女房なので、この邸に残ることになっていた。
中将の御許が別れを惜しんで歌った。
浅けれど石間の水は澄み果てて宿もる君やかけ離るべき
浅い流れではあっても、岩の間の水のように澄んだ心でこれまでお仕えしてきましたのに、この家に残るあなたとは、これでもうすっかり離れてしまうのでしょうか。
こんなお別れになるとは思ってもいませんでした。
木工の君も泣きながら返した。
ともかくも岩間の水の結ぼほれかけとむべくも思ほえぬ世を
どちらにしても、岩の間を流れる水のように心は涙でふさがり、何かにすがって引き止められるような世の中とも思えません。
本当に、何ということでしょう。
車が引き出された。
北の方たちは何度も後ろを振り返った。「この家を、もう二度と見ることはないかもしれない」と思うと、何とも頼りない気持ちになる。
木々の梢にまで目を留め、見えなくなるまで何度も振り返った。髭黒大将が住んでいるからというだけではない。これほど長い年月、自分自身が暮らしてきた家なのだ。どうして懐かしくないことがあろう。
式部卿宮に引き取られた北の方
式部卿宮は娘を待ち受け、たいそういたわった。
宮の北の方――母君は、泣きながら怒り続けた。
「太政大臣を、どれほど立派な縁者だとありがたがっていらっしゃるのでしょうけれど、私には、昔からいったいどんな仇敵だったのかと思えてなりません。
「以前も娘の女御を何かにつけてつらく扱いました。それはまだ、夫婦の間の昔の恨みが消えていなかったから、『思い知れ』ということなのだろうと、あなたも世間の人もおっしゃっていました。それだって、どうしてそんなことをしてよいものでしょう。
「普通は、一人を大切にすれば、その人の身内まで恩恵を受けるものではありませんか。それなのに今になって、何の関係もない継子同然の女を大切に育てるために、こちらの古くなった娘など気の毒でもないとでもいうように、本妻として動かしようのないはずの娘から夫まで奪って、その女を引き寄せ、大切にさせる。どうして恨まずにいられましょう」
式部卿宮は聞き苦しくなった。
「まあ、聞くに堪えない。世間から何一つ非難されることのない大臣を、口に任せて悪く言うものではない。あれほど賢い人なのだから、何か昔から思うところがあり、『いつかこんな報いがあれば』と考えたことくらいはあったかもしれない。しかし、そう思われるような自分たちの運の悪さこそ嘆くべきではないか。
「あの方は、昔御自身が沈んでおられたころのことについても、相手を上げたり下げたり、実によく覚えていらっしゃるようだ。私一人に対してだけは、御縁のある人だと思ってくださったからこそ、あの騒がしい時代にも、家から溢れるほどの恩恵をいただいたことさえあった。それをこの世での名誉と思って終わるしかあるまい」
そう言われると母君はますます腹を立て、不吉なことまで次々と言い散らした。この大北の方という人こそ、なかなか激しい性格だったのである。
父を拒む真木柱
髭黒大将は、北の方が本当に式部卿宮へ移ってしまったと聞いた。
「なんともおかしなことをするものだ。まるで若い男女が嫉妬して別れたような顔をして。本人はそこまできっぱり何もかも切ってしまう性格でもないのに、宮があんなに軽率に動かれるとは」
子供たちもいる。世間の目もある。髭黒はさすがに心を乱し、玉鬘へ言った。
「どうも妙なことになりました。こうなった以上、かえって安心だと思おうとしてはいるのですが、あの人は家の片隅に静かに暮らしていても、それほどこちらを煩わせる人ではなかった。それなのに突然、父宮がお迎えになったようです。世間の人がどう見るかも情けないことですから、少し顔を出して、それとなく宮へ申し上げてきます」
そして出かけた。
上質な袍に柳襲の下襲、青鈍の綺の指貫を着て、きちんと整えた姿は実に堂々としていた。周りの女房たちは、「これほど立派な方なら、玉鬘と釣り合わないこともない」と眺めていた。
けれど玉鬘は、こうした家庭の騒ぎを耳にするほど、自分という存在が嫌になってくる。大将の姿をまともに見る気にもなれなかった。
髭黒は宮へ恨みを申し上げようと向かったが、まず自邸へ立ち寄った。木工の君などが出てきて、北の方が出ていった時の様子を詳しく話した。
真木柱の姫君の様子まで聞くと、大将は男らしくこらえようとしたものの、涙がぽろぽろとこぼれた。
「それにしても、長い年月、世間の普通の夫なら耐えられないようなことまで、私はずっと見過ごしてきた。その気持ちを、あの人は少しもわかっていなかったのだろうか。本当に自分の思いどおりだけに生きる男なら、今までこの家にとどまっていたはずがない。
「まあ、本人はもうどうなっても仕方がない。生きながら世を捨てた人のように見えるからね。けれど、幼い子供たちを、いったいこれからどうするつもりなのだろう」
そう嘆きながら、あの真木柱を眺める。姫君の字はまだ幼い。しかし、そこに込められた気持ちを思うとたまらなく恋しくなり、道中も涙をぬぐいながら式部卿宮へ参上した。
ところが北の方は、大将と顔を合わせようとはしなかった。
宮側の人々は言った。
「もう何をおっしゃっても仕方ありません。時とともに心を移していかれるのは、今初めて始まったことではないでしょう。長年、御心がほかへ浮いておられることはこちらも聞いておりました。いったい、いつになったら元へ戻られると待てというのでしょう。このままでは、奥方の御様子はますます普通ではなくなってしまうだけです」
もっともな話だった。
髭黒は困り果てた。
「本当に、自分でも子供じみたことになったと思っています。ただ、見捨てることのできない子供たちもいるからと、私はのんびり構えすぎていました。その油断については、何度お詫びしても言い尽くせません。今はただ、穏やかに許していただき、誰が見ても私が悪かったと納得できるほどになってから、こういう形で別れるのならまだよいでしょう」
髭黒はあれこれ言い続けた。
せめて真木柱の姫君にだけでも会いたいと頼んだが、それさえ許されなかった。
男の子のうち、上の子は十歳で、すでに殿上を許されていた。たいそうかわいらしい。格別の美少年というほどではないが、物腰が洗練され、少しずつ物事もわかる年になっている。
次の男の子は八歳ほどで、たいそう愛らしく、真木柱にもよく似ていた。
髭黒はその子を撫でながら、泣いた。
「おまえを、恋しい姫君の形見のように見ているしかないのだろうね」
式部卿宮にも対面を願ったが、「風邪をひいて、まだ静養しているところなので」と断られた。髭黒は何とも居心地悪く、そのまま退出した。
帰りには小君たちを車に乗せ、いろいろ話をしながら帰った。
玉鬘のいる六条院へ子供たちをそのまま連れていくわけにはいかないので、自邸に残し、「やはりここにいなさい。私が来て会うにも、そのほうが気楽だから」と言った。
子供たちが、ひどく心細そうに父を見送る。その姿を見ると髭黒にはまた物思いが増えた。
それでも六条院へ戻れば、玉鬘の姿は見れば見るほど美しく、北の方の普通ではなかった様子と比べると、あまりにも違う。それだけで、髭黒はすべてを慰められてしまうのだった。
その後、大将は式部卿宮のもとへまったく便りをしなくなった。先に対面を断られたことを口実にしているようにも見える。
宮はそれを、ひどく腹立たしく思い嘆いた。
紫の上もその話を聞き、「こちらまで恨まれる原因の一つになってしまうのがつらいことです」と嘆いた。
源氏は紫の上を気の毒に思い、言った。
「難しいものだね。自分自身の意思だけでどうにかできる人の縁でもないのに、帝までこちらを快く思っておられないようだ。兵部卿宮も恨んでいらしたそうだけれど、あの宮はやはり思慮の深い方だから、事情を聞いて納得し、今では恨みも解けたらしい。男女の仲など隠しているつもりでも、自然と世間へ知られるものだ。あなたが責められる筋合いなどないよ」
玉鬘、尚侍として宮中へ
こうした騒ぎが続くので、玉鬘の表情はいよいよ晴れることがなかった。
髭黒大将はそれを気の毒に思い、考え直した。
――もともと予定されていた宮仕えまで自分が妨げた形になり、このまま途絶えてしまえば、帝にも無礼な心があるように思われるだろう。世間の人々もいろいろ思うに違いない。夫のある女が公の職を務める例がないわけではない。
そこで年が改まると、玉鬘を宮中へ参らせた。
ちょうど男踏歌の行われるころだったので、それに合わせ、宮仕えの儀式はたいそう今風で、これ以上ないほど華やかに整えられた。
源氏や内大臣という両方の大臣の威勢に、夫である髭黒大将の権勢まで加わる。夕霧も細やかに心を配り、内大臣家の兄弟たちも、こんな晴れの機会だからと集まり、玉鬘の世話をして大切に扱った。
玉鬘の局は、承香殿の東面に設けられた。
その西には兵部卿宮の妹である女御がいる。間には馬道一つしかない。それでも二人の心の距離は、はるかに遠かったことだろう。
宮中の女君たちは、どの方も互いに負けまいと美しさを競い合い、そのころの内裏は奥ゆかしく、華やかだった。むやみに大勢の更衣が入り乱れているようなこともない。
中宮、弘徽殿女御、兵部卿宮の妹の女御、左大臣家の女御などがお仕えしており、そのほかには中納言や宰相の娘が二人ほど仕えているだけだった。
踏歌の夜と帝との対面
踏歌の日には、各御殿へ里の女房たちまで参集し、普段とはまったく違う、たいそう華やかな見物になる。そのため誰もが衣装の美しさを尽くし、御簾の下から重なる袖口まで、豪華に整えていた。
春宮の女御の御殿もひときわ華やかだった。春宮はまだお若いけれど、何もかも今風で美しい。
踏歌の一行は帝の御前、中宮の御方、朱雀院などへ参った。夜がたいそう更けたので、六条院へ立ち寄るのは今回は大げさになりすぎるとして省かれた。朱雀院から戻り、春宮の女御たちの局を回っているうちに、夜が明けた。
ほのぼのと明るくなる美しい朝ぼらけ、男たちがひどく酔い乱れた姿で「竹河」を歌っていた。
その中でも、内大臣の息子たち四、五人ほどが、殿上人の中に並び、声も優れ、顔立ちも清らかで、続いて歩いている姿は実に見事だった。
まだ子供の八郎君は、内大臣の正妻腹の子で、たいそう大切に育てられている。かわいらしいその子が、髭黒大将の長男と並んでいるのを見ると、玉鬘ももう他人の子とは思えず、自然と目が留まった。
長年宮仕えをしている高貴な女君たちの局と比べても、玉鬘の局から見える袖口や全体の雰囲気は、ひときわ新鮮で華やかだった。同じような色合い、同じような襲であっても、ほかとは格別に見える。
玉鬘本人も女房たちも、こうしてしばらく心を晴らして過ごせたらよいのに、と思い合っていた。
踏歌の人々へ与える綿も、香りや色合いまでたいそう洗練されている。玉鬘の局は一行が途中で休む「水駅」に当たっていたが、周囲は華やかで、人々も皆晴れの日らしく装い、決められた饗応まで特に心を配って整えてあった。すべて髭黒大将が用意させたのである。
大将は宿直所に詰め、一日中、玉鬘へ同じことばかり言い続けた。
「今夜、そのまま退出させてしまいたい。こんな機会だからと、あなたが宮仕えのほうへ心を移してしまうのが、私は心配でならない」
けれど玉鬘から返事はない。
女房たちは、「大臣も、あまり慌ただしい形ではなく、せっかく久しぶりに宮中へ参られたのだから、御本人のお気持ちが満たされるくらいまではお仕えし、そのうえで退出させてくださいとおっしゃっていました。今夜すぐでは、あまりにも急すぎるのではないでしょうか」と伝えた。
大将はひどく恨めしく思った。
「あれほど前から申し上げていたのに。本当に何一つ自分の思うようにならない世の中だ」
そのころ兵部卿宮も帝の御前の管弦に加わっていたが、気持ちは落ち着かず、玉鬘の局のあたりばかりが思いやられた。とうとう我慢できず、手紙を送った。
髭黒大将は官司の曹司にいた。「宮からです」と手紙が取り次がれると、玉鬘は気が進まないながらも目を通した。
深山木に羽うち交はしゐる鳥のまたなくねたき春にもあるかな
深山の木で羽を交わし寄り添っている鳥のように、あなたとあの方が一緒にいると思えば、この上なく悔しい春でございます。
人々のさえずる声まで、つい耳に留まってしまいます。
玉鬘は宮を気の毒に思い、顔を赤らめながら、どう返せばよいのかわからずにいた。
そこへ帝がお渡りになった。
月の光の中で見る帝の御姿は、言いようもないほど清らかで、源氏と少しも違わないように見える。
――こんな方が、もう一人この世にいらしたのだ。
玉鬘はそう思った。
兵部卿宮の深いお心でさえ、以前は玉鬘に余計な物思いを加えるものだった。しかし帝に対しては、どうしてそこまで心を動かされることがあろうか。
帝は、以前思っていたとおりにならなかったことへの恨みを、たいそう親しげにお話しになる。
玉鬘は恥ずかしくて、顔を上げることもできない。顔を隠したまま返事もできずにいると、帝は言った。
「本当に、いつまでもよくわからない方ですね。こちらには、あなたにも喜んでいただけるようにと思っていることがあるのに、まるで聞き入れるつもりがないようにばかりなさる。どうやら、そういう御性格なのですね」
そして歌を詠まれた。
などてかく灰あひがたき紫を心に深く思ひそめけむ
どうして私は、こんなにも「逢いがたい」紫のあなたを、心の奥深くまで思い染めてしまったのでしょう。
この思いは、最後まで濃く染まりきることができないのでしょうか。
そのお言葉を口になさる帝の姿は若々しく、清らかで、玉鬘には顔を上げられないほど眩しかった。
源氏と少しも違わない御姿だと思えば、いくらか心を落ち着けることができ、玉鬘も返した。
いかならむ色とも知らぬ紫を心してこそ人は染めけれ
どのような色になるかもわからない紫を、それでも心して染めようとなさったのは、そちらではございませんか。
私には、これから初めてわかってまいることでございます。
帝は微笑まれた。
「その『これから染める』というのが、もう甲斐のない話なのですよ。もし私に恨みを言うべき人がいるというなら、その人の言い分も聞いてみたいものですね」
帝が本気で恨めしそうにおっしゃるので、玉鬘にはますます煩わしくなった。
――本当に嫌なこと。人前で少しでも愛嬌のある様子を見せれば、すぐこんなことになる。面倒な世の中なのだ。
そう思って、玉鬘はひたすら真面目な態度で控えていた。
帝も、思うままの戯れ言までは口にできず、「そのうち少しずつ馴染んでくれるだろう」とお考えになった。
髭黒、玉鬘を宮中から連れ出す
髭黒大将は、帝が玉鬘のところへ渡られたと聞くと、ますます気が気でなくなった。急いで何とかしようと騒ぎ始める。
玉鬘自身も、「このままでは、自分の身に似つかわしくないことまで起きかねない」と思うとつらく、長く宮中へとどまりたいとは思わなかった。
そこで髭黒は、退出させるのにもっともらしい口実をあれこれ作り、実父の内大臣とも十分に相談したうえで、とうとう帝から退出の許しを得た。
帝は、「それなら仕方がない。しかし、一度懲りてしまって、もう二度と宮仕えに出そうとしない人もいるだろう。まったくつらいことだ。こちらが誰より先に心を寄せたのに、後から出てきた人に遅れを取り、その顔色を見て従わなければならないとは。昔の誰かの話まで引き合いに出したくなる気分だよ」と、本当に残念そうにされた。
実際に近くで玉鬘を御覧になってみると、以前噂に聞いていた以上の美しさだった。もともと何の御関心もなかったとしても、簡単に見過ごせる女性ではない。まして前々から心にかけていたのだから、帝には悔しく、名残惜しくてならなかった。
それでも、軽いお気持ちから玉鬘に嫌われてしまってはいけないと、たいそう深い思いであるかのように言葉を尽くし、これからも変わらぬ気持ちを約束された。
玉鬘には恐れ多く、「私は私で、もう髭黒大将の妻になっているのに」と思うばかりだった。
迎えの輦車が寄せられた。
こちらからもあちらからも、玉鬘を世話する人々が気を揉み、髭黒大将までひどくうるさくそばに付き添って騒ぐので、帝もなかなか玉鬘から離れることができない。
「こんなに厳しい、間近の番人がいるのは、本当に面倒なことですね」
帝は髭黒を憎らしそうにおっしゃった。
九重に霞隔てば梅の花ただ香ばかりも匂ひ来じとや
九重の宮中とあなたとの間を霞が隔ててしまったなら、梅の花であるあなたは、せめて香りだけでもこちらへ届けてくださらないのでしょうか。
特別に複雑な歌というわけではない。それでも帝の御姿と気配を目の前にして聞けば、どれほど心に響いたことだろう。
玉鬘は、宮中へ出た自分を恨みながら、夜を明かしかねないほど待っている人までいることを思うと、どう返したものか悩んだ。
帝からこれほどのお言葉をいただくこと自体、本当に恐れ多い。
香ばかりは風にもつてよ花の枝に立ち並ぶべき匂ひなくとも
せめて香りくらいは、風に託してお受け取りください。たとえ私自身には、宮中の立派な花々と並ぶほどの美しさなどなくても。
まったく心がないわけではない返歌を、帝はしみじみと嬉しく思い、何度も振り返りながら玉鬘をお送りになった。
その夜のうちに髭黒邸へ
髭黒大将は、もともと今夜そのまま玉鬘を自邸へ連れていこうと決めていた。
しかし前もって源氏たちに言えば、きっと許してもらえない。そこで何も知らせず、退出してから初めてこう言った。
「急にひどい風邪で具合が悪くなりましたので、気楽な自邸で少し休みたいと思います。あなたと別々にいては気がかりですから、一緒に来てください」
いかにも素直な理由のように言い、そのまま玉鬘を自分の邸へ連れて行ってしまった。
実父の内大臣も、あまりに突然なので、「何の儀式もなく移ることになってしまうのではないか」とは思った。しかし、この程度のことまで無理に止めれば、大将も気を悪くするだろう。
「まあ、好きになさるがよい。もともと今では、こちらの思いどおりに進退を決められる娘でもないのだから」
そう返事をした。
源氏だけは、「あまりにも突然で、不本意なことだ」と思った。しかし、もうどうしようもない。
玉鬘自身も、まるで塩焼きの煙が風に流されるように、自分の人生が大将のほうへなびいてしまったことに呆れた。それでも、もし大将が自分を盗み出すように連れて行ったのだと考えれば、六条院のあの微妙な暮らしから離れられたことには、どこかほっとして、ようやく心が落ち着いた。
髭黒は、玉鬘が宮中で帝の御前に出たことをひどく恨んだ。それも玉鬘には不快で、あまりに平凡な男の嫉妬のように感じられた。
玉鬘は世間に対しても、ますます心を閉ざしたような態度になった。
兵部卿宮も、以前はあれほど強いことを言っていたけれど、今ではひどく苦しみながらも、玉鬘にはまったく便りをしなくなった。
髭黒は、ようやく自分の思いどおりになった玉鬘を大切にすることだけに、朝から晩まで心を尽くして過ごした。
春雨のころ、玉鬘を恋しがる源氏
二月になった。
源氏は今になって、「それにしても、なんと薄情な人だろう。私もそこまできっぱり縁を切られるとは思わず、油断していた。それが悔しい」と、人には少し格好の悪いほど、いつも玉鬘が心にかかり、恋しく思い出されていた。
「宿世というものが深いのは確かなのだろう。それでも、結局は私自身が余計な心を持ったために、こんなふうに誰のせいにもできない物思いをしているのだ」
起きても寝ても、玉鬘の面影が目に浮かぶ。
髭黒大将のような、面白みもなく、明るく笑うようなところも少ない男のそばで暮らしているのかと思うと、源氏まで何げない冗談を口にするのをためらうような気がして、どうにもつまらない。
雨がしとしとと降り続き、何をするでもない穏やかなころになると、以前ならこういう退屈な日に玉鬘のところへ渡って話をしたものだ――そんな思い出が、ひどく恋しくなった。
源氏は手紙を書いた。
右近のもとへ人知れず送る。それでも、右近がこの手紙をどう思うだろうと考えると、あれこれ長くは書けず、ただ思わせぶりな言葉だけを添えた。
かきたれてのどけきころの春雨にふるさと人をいかに偲ぶや
静かに降り続く春雨のこんなころ、昔の住まいにいた人々のことを、あなたはどれほど懐かしく思い出しているでしょう。
こちらは退屈な日々につけても、恨めしいほど思い出すことばかりです。いったいどうお伝えすればよいのでしょう。
右近が隙を見てそっと玉鬘へ見せると、玉鬘は泣いた。
玉鬘自身も、時がたつにつれ、源氏の姿を懐かしく思い出すことがあった。
けれど本当の父へ返事を書くように、「恋しい」「お会いしたい」と正面から言うことのできる関係ではない。それだけに、なるほど今となっては、どうやって再び会う機会があるだろうと、しみじみ感じられた。
以前、源氏が時々見せた厄介な恋心を嫌だと思っていたことは、右近にもはっきり知らせていない。それは玉鬘だけの胸に残っている。
ただ右近は、二人の間に何かあったらしい気配だけは薄々感じていた。今でも、本当はいったい何だったのだろうと不思議に思っている。
玉鬘は、「お返事を差し上げるのも恥ずかしいけれど、何も申し上げなければ、さぞ御心配になるでしょう」と、礼儀正しく書いた。
眺めする軒の雫に袖ぬれてうたかた人を偲ばざらめや
降り続く雨を眺め、軒の雫のような涙に袖を濡らしているのです。どうして、ほんのひとときでも昔の人々を懐かしく思わずにいられましょう。
月日がたつにつれ、確かに退屈さもいっそう身にしみてまいります。
源氏はその手紙を広げた。
読むうち、涙が玉のようにこぼれ落ちそうになる。誰かに見られたらみっともないと思い、何でもない顔をしていたが、胸はいっぱいだった。
昔、朧月夜の尚侍を朱雀院の母后が厳しく閉じ込めた時のことまで思い出す。しかし、目の前のことだからだろうか、玉鬘を思う気持ちのほうが、あのころ以上に世間離れしたほど切なかった。
「恋を好む人間というのは、自分から心の休まらない暮らしを作るものなのだな。今さら何をきっかけに、こんな心を乱す必要があるのだろう。まったく似つかわしくない恋の相手だ」
源氏は自分の気持ちを冷まそうとして、和琴を掻き鳴らした。そして、玉鬘が優しく弾いていた爪音を思い出した。
東の調子を軽く掻き鳴らしながら、「玉藻はな刈りそ」と昔の歌を口ずさむ。
もしこの源氏の姿を玉鬘が見たなら、さすがに心を動かさずにはいられなかっただろう。
帝も、宮中でほんのわずかに御覧になった玉鬘の美しさが忘れられなかった。「赤裳垂れ引き去にし姿を」などという古い歌の一節まで、日ごろのお言葉にされ、物思いをなさっていた。
帝からも、人目を忍んだ手紙が時々届いた。
しかし玉鬘は、自分の身の上そのものをつらいものと思い込んでいる。それだけに、こうした恋の戯れまで煩わしく、心を許した返事をすることはなかった。
そのような中でも、源氏がこれまで本当に珍しいほど心を尽くして自分を育ててくれたことだけは、さまざまなことにつけて思い出され、玉鬘にも忘れることができなかった。
山吹の花と「同じ巣」の歌
三月になった。
六条院の庭に咲く藤や山吹が、美しい夕映えに照らされるのを見るにつけても、源氏には、かつてそこに座っていた玉鬘の姿ばかりが思い出された。
源氏は春の御殿を離れ、西の対のほうへ渡って庭を眺めた。
呉竹の垣根に、何げなく咲きかかる山吹の色が、たいそう美しい。
源氏は「色に衣を――」などと古歌を口ずさみ、続けて詠んだ。
思はずに井手の中道隔つとも言はでぞ恋ふる山吹の花
思いがけず、井手の中道のように私たちの間が隔てられてしまったけれど、私は口には出さず、ただ山吹の花――あなたを恋しく思っています。
「顔が目の前に浮かんでくるようだ」などと言っても、聞いてくれる玉鬘はもういない。
これほどきっぱり玉鬘と離れたのは、今回が初めてだった。まったく、源氏の困った心の戯れというほかない。
ある時、雁の卵がたくさんあるのを見て、源氏は柑子や橘などに紛らせ、いかにも特別な贈り物ではないような形で玉鬘へ送った。
人に目をつけられてはいけないと思ったのか、手紙も今度は簡潔で、いかにも親らしく書いた。
「お会いできない月日がずいぶん重なりました。思いもしなかった扱いをなさるものだとお恨み申し上げたいところですが、どうもあなた一人のお考えではないらしいと聞いています。特別な機会でもなければ、これから直接お会いするのも難しいのでしょうね。それが残念です」
同じ巣にかへりしかひの見えぬかないかなる人か手ににぎるらむ
同じ巣の中で孵ったように、あれほど身近に育ててきた甲斐も、今では見えなくなってしまいました。いったいどんな人が、この卵――あなたを自分の手の中に握ってしまったのでしょう。
どうしてここまでなさるのかと、やはり恨めしく思います。
この手紙を髭黒大将も見た。
大将は笑って、「女というものは、本当の父親のところにだって、何かきっかけでもなければ、そう簡単に出かけて会うものではないでしょう。それなのに、どうしてこの大臣は、折々にあなたを手放せないような恨み言ばかりおっしゃるのでしょうね」とつぶやいた。
玉鬘には、その言い方が憎らしく聞こえた。
「お返事は、私はここからは書けません」
玉鬘が書きにくそうにしていると、髭黒が、「では、私が申し上げましょう」と代わりに筆を取った。何とも見ているこちらが気まずい。
巣隠れて数にもあらぬかりの子をいづ方にかは取り隠すべき
巣の中に隠れて、数にも入らないほどの雁の子を、いったい誰がさらにどこへ隠してしまえるというのでしょう。
思いがけない御不興に驚いております。ずいぶん御執心でいらっしゃることですね。
源氏はそれを読むと笑った。
「この大将が、こんな軽い冗談を書いたのは初めて見たな。珍しいことだ」
表向きは笑っていたが、心の中では、玉鬘をすっかり自分のものとして扱う大将が、たまらなく腹立たしく思われた。
父を恋しがる真木柱と、玉鬘の若君
髭黒のもとの北の方は、月日がたつほどに、自分の身の上をあまりにもひどいことだと思い沈み、いよいよ心もぼんやりとしていった。
髭黒は、北の方自身を訪ねることはなくなっても、暮らしに必要なことは細かく手配し、子供たちは以前と変わらず大切にしていた。そのため実生活の頼りという意味では、大将との縁は以前と変わらず続いていた。
ただ真木柱の姫君だけは、父が恋しくてたまらなかった。
ところが母方の人々は誰も髭黒を許さず、恨み続け、姫君を父からますます遠ざける。
姫君は若い心にひどく寂しく、悲しく思っていた。
一方、弟たちはいつも父のところへ出入りしており、自然と玉鬘の様子も話して聞かせる。
「僕たちのことも、とてもかわいがってくださるよ。いつも明るくて、面白いことがお好きな方なんだ」
そんな話を聞くと、真木柱は弟たちが羨ましかった。
――自分も男の子だったなら、こんなふうに母方の家へ閉じ込められず、自由に父上のところへ行けたのに。
そう思って嘆く。
どうも玉鬘という女性は、男にも女にも、その人をきっかけに物思いをさせる運命の人だったらしい。
その年の十一月、玉鬘はたいそうかわいらしい男の子を産んだ。
髭黒大将は、自分の願いがすべてかなったように喜び、若君をこの上なく大切にした。そのころの盛大な祝いのありさまは、細かく書かなくても想像できるだろう。
実父の内大臣も、玉鬘がこうして幸福な宿世に恵まれたのだと喜んだ。
髭黒が以前から特別に大切にしている子供たちと比べても、この若君は顔立ちなど少しも劣らなかった。
柏木も玉鬘をたいそう親しい妹として大切にしながら、それでも時々、少し複雑な気持ちを混ぜてしまう。
「せっかくなら、宮仕えを続けていらっしゃればよかったのに」
このかわいらしい若君を見るにつけても、柏木は言った。
「帝には今まで皇子がお生まれにならず、それを皆が残念に思っている。もしこの子が帝の御子だったなら、どれほど晴れがましいことだっただろう」
少々、言い過ぎた想像である。
玉鬘は尚侍としての公の仕事だけは、必要な形で取り仕切っていた。しかし本人が宮中へ参ることは、その後ほとんどなくなり、このまま終わりそうだった。
それでも別に差し支えのないことだったのだろう。
近江の君、今度は夕霧に恋を仕掛ける
さて、忘れてはいけない。内大臣の娘で、かつて自分も尚侍になりたいと言い出した、あの近江の君である。
もともと何かにつけて極端な人なので、今度はそこへ色恋めいた心まで加わり、内大臣も扱いに困っていた。
弘徽殿女御も、「最後にはこの人が、何か取り返しのつかない軽率な騒ぎを起こすのではないか」と、ことあるごとに胸をひやひやさせていた。
内大臣から、「もう宮中へ出て来ないように」と止められているのに、それさえ聞き入れず、近江の君は相変わらず女御のところへ出てきていた。
ある秋の夕方のことだった。
評判の高い殿上人たちが大勢、弘徽殿女御の御方へ集まり、楽器の調子を合わせ、ほどよく拍子を取りながら管弦の遊びをしていた。
秋の夕暮れそのものが格別に風情のあるころで、夕霧もそこへやって来た。いつもの生真面目な夕霧には珍しく、少し酔ったように打ち解けて、冗談なども口にしている。
女房たちはその様子を珍しがり、「やはりこの方は、ほかの人とは格別ですね」などと褒め合っていた。
すると近江の君が、人々を押し分けるようにして前へ出てきて座った。
「あら、嫌だ。この人は何をするつもりなの」
女房たちは慌てて引き戻そうとしたが、近江の君はひどく気の強い顔で睨み、そこへ居座ってしまう。
「また、とんでもないことを言い出すのでは」
皆が互いにつつき合って止めようとする。
ところが近江の君は、この世でも珍しいほど生真面目な夕霧を指して、「この方よ、この方よ」と、嬉しそうに周りとささやき合う。その声がまた、はっきり聞こえる。
女房たちはもう、いたたまれない。
近江の君は例のよく通る声で、堂々と歌いかけた。
沖つ舟よるべ波路に漂はば棹さし寄らむ泊り教へよ
沖を漂う舟のように、頼るところもなく波の道をさまようことになったら、私は棹を差してあなたのところへ参りましょう。どうか泊まる港を教えてください。
そして、「棚なし小舟が漕ぎ戻ってきて、結局また同じ方なのですね。まあ、嫌だこと」などと、さらに勝手なことを言う。
夕霧は驚いた。
――この女御の御前では、こんな無遠慮なことを言う女房などいないはずだが。
そう考えているうちに、ああ、これが噂の近江の君なのか、と気づいた。
それがおかしくなり、夕霧も返した。
よるべなみ風の騒がす舟人も思はぬ方に磯伝ひせず
頼るところがなく、風に吹かれてさまよう舟人であっても、思ってもいない方角の磯へまで流れ着こうとはいたしません。
どうやら近江の君は、またしても見事に袖にされたらしい――ということである。
