
このページでは、『源氏物語』第30帖「藤袴」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第30帖「藤袴」原文全文をご覧ください。
宮仕えを前に、思い悩む玉鬘
玉鬘が尚侍として宮仕えする話は、周囲の誰もが口を揃えて勧めていた。けれど玉鬘自身は、そう簡単には心を決められなかった。
――親だと思って頼ってきた人の心でさえ、すっかり安心して信じてはいけない世の中なのだ。まして宮中のような場所へ入って、思いもよらない厄介なことが起きたらどうなるのだろう。中宮にも、弘徽殿女御にも、それぞれの立場から自分を快く思われないようなことになれば、身の置き所もなくなってしまう。
自分には、今のところどちらの家にも、何があっても守ってもらえるほど深く根を張った立場があるわけではない。世間での評判もまだ浅い。それなのに、自分を普通でない目で見て噂し、何とかして笑いものにしてやろうと悪意を向ける人だって大勢いるだろう。何をするにしても、心の休まらないことばかり起こりそうだった。
もう、そういうことが何もわからないほど幼い年齢ではない。玉鬘はさまざまに考え、誰にも知られず物思いに沈んでいた。
だからといって、このまま六条院で暮らし続けることに不満があるわけではない。ただ、源氏が自分に向けてくるあの厄介で好ましくない思いを、いつまでも避け続けられるとも思えなかった。いったいどんな機会に、この関係からきっぱり離れることができるのだろう。世間が怪しんでいるようなことなど何もない、清らかな関係のまま最後まで押し通すことが、本当にできるのだろうか。
実の父である内大臣にしても、源氏がどう思うかを気にしているため、娘なのだからと堂々と引き取り、はっきり自分の家の人として扱うこともできない。結局どちらへ進んでも、自分は中途半端で人目を引く立場のまま心を悩ませ、世間から騒がれる運命なのだろう――。
実の父を探し当ててもらってからは、源氏も以前ほど遠慮する様子を見せなくなった。それまで抱えていた心配にそのことまで加わり、玉鬘はますます人知れず嘆くようになった。
せめて胸の内のすべてでなくても、その一端だけでも打ち明けられる母親がいたなら、どれほど違っただろう。けれど、その母もいない。源氏にしても内大臣にしても、あまりに立派で威厳があり、近づくだけでも気後れするような方々である。こんなことを、どうして「実はこうなのです」と話せよう。
玉鬘は、世の普通の女性とは違う自分の身の上を思いながら、夕暮れのもの悲しい空を、端近くに座って眺めていた。その姿はひどく美しかった。
喪の色に包まれた玉鬘と夕霧
玉鬘は薄い鈍色の衣を着ていた。喪の色なので、いつもより控えめで地味な装いである。それなのに、普段とは違うその色合いがかえって華やかな顔立ちを引き立て、そばに仕える女房たちは思わず微笑みながら見とれていた。
そこへ宰相中将――夕霧がやって来た。こちらも同じ鈍色だが、玉鬘よりもう少し濃い直衣姿で、纓を巻いた姿が、また実に艶やかで清らかだった。
夕霧は初めから玉鬘に対して、真面目で親しみのある態度を取ってきた。これまでまったく他人のように遠ざけていたわけではない。そのため、玉鬘が源氏の実の娘ではなかったとわかったからといって、突然態度を大きく変えるのも妙である。今も御簾に几帳を添えた向こうからではあるが、人づてではなく、直接言葉を交わせる程度の対面は許されていた。
この日の夕霧は、源氏からの使いだった。帝から玉鬘の宮仕えについて仰せがあったことを、源氏が伝えさせたのである。
玉鬘の返事は、おっとりとしていながら実に感じがよく、受け答えの気配にも洗練された親しみやすさがある。
その声を聞くにつけても、夕霧の胸には、あの野分の翌朝に見た美しい姿が思い出された。
あのころは、玉鬘を父・源氏の娘だと思っていた。それなのに心を惹かれてしまう自分を、なんと嫌な、あってはならない心だろうと思っていたのである。ところが今では、玉鬘は実の妹などではなく、内大臣の娘――自分とは従姉妹の間柄だとわかった。
そう知ってしまってからは、かえって心にもう一つ、抑えがたい思いが加わっていた。
――この人が宮仕えすることを、父上もただ公的な役目だけとはお考えではないだろう。これほど魅力のある女性が宮中へ出れば、きっと面倒なことも起こる。帝のお心だって、ただでは済むまい。
夕霧はそう考えると、胸の塞がるような気持ちになった。それでも表面には出さず、いつものように生真面目で落ち着いた顔をしている。
「人には聞かせないようにと父上から申しつけられておりますことを、お話ししたいのですが、よろしいでしょうか」
夕霧がそれらしい気配を見せると、近くにいた女房たちは少し離れ、几帳の後ろなどへ退いた。
夕霧は、あらかじめ言いつけられた消息をよどみなく取り次ぎ、詳しく話した。帝が玉鬘に対して、ただ尚侍として召そうとしているだけではないらしいこと、そういうお心もあるのだから、そのつもりでいるように――おおよそそんな内容だった。
玉鬘には、何と答えてよいのかわからない。ただ小さくため息をついた。その姿が、ひっそりとして、愛らしく、実に親しみ深く見える。
同じ喪服をきっかけに、夕霧が思いを明かす
夕霧はとうとう、それだけでは帰れなくなった。
「喪のお召し物も、今月にはお脱ぎになるはずなのですが、ちょうどよい日がないそうです。十三日に河原へお出になって、喪をお改めになるようにとのことでした。私も御一緒しようと思っております」
玉鬘は、「あなたまで一緒では、かえって大げさになってしまいませんか。ひっそりと済ませたほうがよいのではないでしょうか」と答えた。
自分がどういう縁でこの喪に服しているのか、できるだけ世間には広く知らせたくないらしい。その慎重な態度は、いかにも行き届いていた。
夕霧は言った。
「そこまで隠そうとなさるのが、かえって恨めしいのです。私にとっても忘れがたい大切な方の形見なのですから、喪服を脱ぎ捨てることさえ、とてもつらく感じております。それにしても不思議ですね。これほど近い縁がありながら、長いあいだ何も知らずにいたなんて。この喪服の色が、こうして私たちの縁を表してくれなかったなら、私にはとうとう何もわからないままだったかもしれません」
玉鬘も、「私は物事をきちんと見分けられるような心ではございませんから、何をどう考えればよいのか、ますますわからなくなっております。ただ、こういう喪の色というものは、不思議に人の心を悲しくさせるものなのですね」と答えた。
いつもよりしっとりと沈んだ表情が、ひどく愛らしく美しい。
藤袴に託された夕霧の恋
夕霧は、こんな機会はもうないと思ったのだろうか。手にしていた藤袴の花がたいそう美しく咲いていたので、御簾の端から差し入れた。
「これにも、御覧いただかなければならない理由があるのですよ」
そう言って、なかなか手を離さない。
玉鬘はそんな意味があるとも思わず、花を受け取ろうと袖を出した。その袖を、夕霧がそっと引いた。
同じ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかことばかりも
同じ野の露に濡れ、同じ喪の色に身をやつしている藤袴なのです。せめて哀れと思う気持ちだけでも、たとえ口実ほどのものであっても、私にかけてください。
「道の果てなる――」とでも続けたいような様子で、玉鬘にはひどく不愉快なことになってきた。
それでも気づかないふりをして、そっと袖を引き入れ、返した。
尋ぬるにはるけき野辺の露ならば薄紫やかことならまし
もし私が、遠い野辺までわざわざ尋ねて行かなければならない露のような身でしたなら、この薄紫の縁も、何かの口実にはなったでしょうけれど。
「こうして普通にお話しできる間柄なのですもの。それ以上に深い理由など、いったい何がございますの」
夕霧は少し笑った。
「浅いか深いかくらいは、あなたにもおわかりいただけると思っています。本当のことを申せば、こんな思いを持つのも申し上げるのも恐れ多いことだと、私自身よくわかっております。それなのに、どうしても心を抑えられない。その胸の内を、どうすればあなたに知っていただけるでしょう。
「嫌われてしまうのが何よりつらくて、今までひたすら隠してきました。けれど、もう同じことだ、どうしても隠しきれないと、とうとう思い余ってしまったのです。
「頭中将が以前あなたにどんな思いを寄せていたか、御存じでしたか。あのころ私は、人のことだと思って、なんと馬鹿げたことだろうなどと考えていたのでしょう。ところが自分の身になって初めて、それがどれほど愚かしく、どうにもならないものなのか、思い知らされました。
「かえってあの人のほうは、今ではあなたが実の妹だとわかって、恋心をきっぱり冷まし、これから先も兄妹としてあなたのおそばを離れずにいられる、そのことを頼りに慰められているようです。それを見ると、私はひどく羨ましく、悔しくてなりません。せめて私のことも、かわいそうな人間だと思って、心のどこかに置いておいてください」
このほかにも、夕霧は細かくさまざまなことを打ち明けた。けれど、聞いているこちらが気恥ずかしくなるほどなので、すべてを書き記すのはやめておこう。
玉鬘は少しずつ奥へ身を引き、もう聞くのも面倒だという様子を見せた。
「ずいぶん冷たい御様子ですね。決して間違いを起こすまいと自分を抑えていることは、いつか自然とおわかりいただけるでしょうに」
夕霧は、せっかくここまで言ったのだから、もう少し胸の内を明かしたかった。
けれど玉鬘が、「どうも気分が悪くて」と言い、そのまますっかり奥へ入ってしまったので、夕霧は深くため息をつき、立ち上がった。
夕霧、告白を悔やみながら源氏のもとへ
――むしろ、何も言わないほうがよかったのではないか。
夕霧は後悔した。
それにつけても、あの野分の折、玉鬘以上にさらに深く胸へ染みついた紫の上の気配まで思い出される。御簾一つ、物一つ隔てたところからでもよい。せめてあの方の声だけでも、いったいどんな機会なら聞くことができるのだろう――そんな、心の休まらない思いまで浮かんできた。
源氏の前へ参上すると、源氏が出てきて、玉鬘からの返事などを夕霧から聞いた。
「どうもあの人は、この宮仕えをあまり気が進まないように思っているらしいね。兵部卿宮があれほど恋に慣れた方で、深い情を尽くして言葉を尽くしていらっしゃるから、そちらへ心が染みつつあるのではないかと思うと、それも気の毒なのだ。
「ただ、大原野への行幸で帝を拝見してからは、『本当に素晴らしい方だった』と思っていたよ。若い女というものは、一目でも帝を拝見すれば、宮仕えのことを完全に心から切り離して考えることなどできないだろう。そう思ったからこそ、私も今回の話をここまで進めたのだよ」
夕霧は落ち着いて答えた。
「それにしても、宮中での御立場を考えれば、いったいどのようになるのでしょう。中宮は今、並ぶ方もないほど格別のお立場でいらっしゃいますし、弘徽殿女御も高い御身分で、帝から特別に大切にされています。帝がどれほど玉鬘をお思いになったとしても、そのお二方と肩を並べることはなかなか難しいでしょう。
「それに兵部卿宮は、本当に熱心に思っておられるようです。玉鬘がもともと普通の女房として宮仕えを望んでいたわけでもないのに、思いがけず別の方向へ進んでしまえば、宮がお心を傷めるのも、お二人があれほど近い間柄であるだけに、お気の毒なことではないでしょうか」
源氏は言った。
「難しいね。私一人の心だけで決められる人のことではないのに、右大将まで私を恨んでいるそうだ。まったく、こういう人の恋の苦しさを見過ごせない性分のために、関係のない人からまで恨みを受ける。かえって軽々しいことだったのかもしれないね。
「あの人の母君が昔、しみじみと言い残したことを私は忘れられなかった。それで、娘が寂しい山里で暮らしているらしいと聞き、内大臣もまさか簡単に引き取ってくださるまいと心配して、かわいそうになり、こちらへ迎えた。それが始まりなのだ。私がこうして世間並み以上に大切に扱っているからこそ、内大臣もようやく立派な娘として認め、大切になさるようになったのだろう。
「人柄だけを言えば、兵部卿宮の奥方になるのに、とてもよい女性だと思うよ。今風で艶やかで、それでいて賢く、軽率な失敗をするような人ではない。宮との取り合わせも、きっと感じのよいものになるだろう。
「一方、宮仕えをする女性としても、十分すぎるほどだろうね。顔立ちは美しく、物事に慣れていて、公の仕事にもまごつくような人ではない。しっかり仕事もできる。帝が日ごろ、こういう女性がほしいとお考えになっている、そのお気持ちにもきっとかなうだろう」
源氏がそんなふうに言うのを見て、夕霧は、もう少し本心を探りたくなった。
「父上が何年もあの方を大切に育ててこられた御気持ちを、世間では違う意味に取って噂する者もいるようです。内大臣も、どうやらそういうふうにお考えになっているらしく、右大将が内大臣家のつてから探りを入れた時にも、そのような返事をなさったとか」
源氏は笑った。
「どちらにしても、ずいぶん似つかわしくない想像だね。やはり宮仕えするかどうかについても、今では本当の父上のお考えを尊重して、その御意向に従うのがよいだろう。女は三つのものに従うと言うではないか。順序を飛ばして、本人一人の心だけに任せてしまうなどということは、するべきではないよ」
内大臣が疑う、源氏と玉鬘の本当の関係
夕霧はさらに、内大臣の内々の言葉を伝えた。
「内大臣は、『六条院にはすでに高貴な女君が何人も長年いらっしゃる。玉鬘をその方々と同じような女君の一人に加えるわけにはいかないので、半ば手放すように自分へ引き渡し、表向きは普通の宮仕えをさせながら、なお御自身のもとに置いておこうと考えているのだろう。それは実に賢く、よく考えたことだ』とおっしゃったそうです。確かな筋から、そのように聞きました」
源氏は、なるほど内大臣ならそんなふうに考えそうだ、と思うと、玉鬘が気の毒になった。
「なんとも忌まわしい方向へまで想像なさったものだ。ずいぶん深読みするのが、あの方の昔からの癖なのだろう。そのうち、玉鬘がどちらへ進むにしても、本当のことは自然とはっきりするだろうに。何もそこまで隅々まで疑わなくてもよいものを」
源氏の表情はきっぱりしていた。それでも夕霧の心には、まだ少し疑いが残った。
源氏自身も考えた。
――そうだ。もし世間の推量どおりのことが本当にあったなら、自分でもなんと情けなく、ひねくれたことになっていただろう。何とかして内大臣には、自分が玉鬘を清らかな気持ちで扱っているところを、はっきり見せておきたい。
そう考えると、宮仕えという進路は、曖昧な噂をきっぱり消す意味でも、確かによく考えた道だったのだと改めて思われる。内大臣がそこまで見越しているのかと思うと、少し気味が悪いほどだった。
十月の宮仕えを前に、求婚者たちが動き出す
こうして玉鬘は喪服を脱いだ。
ただ、月が改まってすぐに宮中へ入るのは、まだ忌むべきことがあるというので、宮仕えは十月ごろにしようと源氏は決めた。
帝も、その日を待ち遠しく思っていらっしゃる。
一方、玉鬘に思いを寄せる男たちは、誰も彼も残念でならない。このまま宮中へ入ってしまう前に何とかしたいと、それぞれのつてを頼って懸命に働きかけた。
けれど仲介する人々は、「吉野の滝の流れを堰き止めるよりも難しいことでございます。どうしようもありません」と、それぞれ答えるしかなかった。
夕霧もまた、自分から余計なことを打ち明けてしまったあとだけに、玉鬘がいったいどう思っているのかと苦しくてならなかった。そのため、あちらこちらへ足を運び、玉鬘の宮仕え全般を世話する頼もしい後見役であるかのように振る舞いながら、何かと細やかに気を配っていた。
ただし、いったん胸の内を明かしたからといって、気軽に恋の言葉をかけるようなことはしない。そこは夕霧らしく、きちんと自分を抑え、見苦しくない態度を守っていた。
柏木、妹となった玉鬘を訪ねる
玉鬘の本当の兄弟たちは、そう簡単には近くへ寄って来られなかった。それでも、玉鬘が宮仕えすることになれば、自分たちも兄弟として何か後見をしてやりたいと、それぞれ気にかけていた。
なかでも頭中将――柏木は、以前あれほど玉鬘へ思いを寄せ、心を尽くして苦しんでいた。その恋心は、実の妹だとわかって以来、すっかり絶えていたので、周囲の者たちは、「ずいぶん急に冷めたものだ」と面白がっていた。
ある時、柏木は内大臣の使者として六条院へやって来た。
玉鬘との関係は、まだ世間へ大っぴらにしていない。そのため兄妹の消息も、今なお人目を避け、ひっそりと交わしていた。
月の明るい夜、柏木は桂の木陰に身を隠すようにして玉鬘を訪ねた。これまではほとんど近づけてもらえなかったのに、今夜は南の御簾のすぐ前に座を用意された。
それでも、柏木自身が直接話しかけるのは、まだ何となく気恥ずかしい。宰相の君を介して返事をさせた。
柏木は言った。
「父上がわざわざ私を選んで使いにお出しになったのですから、これは人を介して伝えるような消息ではありますまい。こんなに遠く離れていて、どうやって申し上げればよいのでしょう。私はたいした人間ではありませんけれど、兄妹の縁はいつまでも切れないものだと言うではありませんか。古めかしい話ではありますが、私はそれを頼みにしていたのですよ」
どうやら、今のよそよそしい扱いが面白くないらしい。
玉鬘は真面目に答えた。
「本当に、長年お会いできなかった年月のこともございますから、いろいろお話ししたくは思います。ただ、この何日かどうも具合が悪く、起き上がることもできませんでした。そこまで遠いとお責めになりますと、かえって本当によそよそしくなったような心地がいたします」
「それほど御気分がお悪いなら、せめて御几帳のそばくらいまで近づくことも許してくださらないのですか。もういい。なるほど、こうしてお話しするこちらまで具合が悪くなりそうだ」
柏木はそう恨みながら、それでも内大臣からの消息を、誰にも劣らない細やかな心づかいで、ひっそりと玉鬘へ伝えた。
「宮仕えなさる時の詳しい予定について、私はまだ何も聞かされていません。内々にでも教えてくださったほうがよいのではありませんか。父上も、何事も世間の目を気になさって、こちらへ簡単にお越しになることができず、あなたと直接お話しできないことを、かえって気がかりに思っておられます」
そんな話をしたついでに、柏木はまた自分の扱いへの不満を言い始めた。
「それにしても、何という扱いでしょうね。どんな縁であろうと、少しくらい情けをかけてくださってもよいのではないかと、ますます恨めしくなりますよ。まず今夜のこの扱いです。北面のようなところへ通されて、兄君たちが私を不愉快にお思いになるというなら、せめて下仕えの女房たちとでも話をさせてほしいものです。こんなことは、そう何度もあるまいと思いますからね。まったく、いろいろ珍しいことばかりの世の中です」
首を傾けながら恨み続ける様子がおかしいので、その言葉を玉鬘へ伝えた。
玉鬘は答えた。
「本当に、世間から突然のことだと思われるのではないかと気にしておりますうちに、長い年月、埋もれるように暮らしていたことまで、まだきちんと御説明できずにおります。かえって何かと難しいことが多いのでございます」
どこまでも生真面目に答えるので、柏木もこれ以上押すことができない。
妹背山深き道をば尋ねずて緒絶の橋に踏み迷ひける
本当は兄と妹として結ばれていた、その深い妹背山の道を探しもせず、私は縁の途切れた危うい橋の上を、恋に迷って歩いていたのですね。
自分で間違った道へ迷い込んだのだから、誰のせいにもできない恨みだった。
惑ひける道をば知らず妹背山たどたどしくぞ誰も踏み見し
あなたがどんな道に迷っていらしたのか、私は知りませんでした。兄妹であることさえ知らなかった妹背山の道を、誰もが手探りで歩いてきたのですもの。
「こちらも、何が原因でこうなっているのか、長いあいだよくわからなかったのです。何事にも父上があまりに世間体を気になさるので、簡単に事情を明かすことができません。ただ、いつまでもこんなふうにしているわけではございませんから」
そう伝えられると、確かにもっともなことなので、柏木も諦めた。
「まあいいでしょう。これ以上長居するのも間が悪い。そのうち兄としての経験をもう少し積んでから、恨み言を言うことにしますよ」
そう言って立ち上がった。
月は隅々まで明るく照らし、空も艶やかだった。その光の中に立つ柏木は、高貴で清らかな顔立ちをして、直衣姿も華やかで美しい。
夕霧の気品と美しさには及ばないものの、こちらも十分に魅力のある若君だった。若い女房たちは例によって、「どうしてこんな立派な方々が御兄弟なのかしら」と、別に感心しなくてもよさそうなことまで取り上げて、皆で褒め合っていた。
右大将も玉鬘を求める
右大将は、柏木が自分と同じ右近衛府の次将である関係から、日ごろからよく呼び寄せて親しく話をし、内大臣への仲介も頼んでいた。
右大将は人柄もたいそうよく、いずれ朝廷を支える重臣になるだろうと思わせる人物である。内大臣も、相手として悪いとは思っていなかった。
ただ、源氏が玉鬘のことをあのように扱っている以上、自分からそれに逆らうわけにもいかない。何か事情があってのことだろう、と考え、その処置は源氏に任せていた。
この右大将は、春宮に仕える女御の兄にあたる。大臣たちを除けば、朝廷での評価もひときわ高い人だった。年は三十二、三歳ほどである。
その北の方は、紫の上の姉だった。式部卿宮の大君である。右大将より三、四歳ほど年上ではあるが、それだけなら何の問題もないはずだった。ところが右大将は、本人の性格が気に入らないためなのか、「年寄り女」のように扱って心にもかけず、何とか別れたいとさえ思っていた。
その縁があるため、源氏は右大将が玉鬘と結婚することについて、「紫の上の姉君にあまりにも似つかわしくなく、気の毒なことになる」と思っているらしい。
右大将自身は、派手に女遊びをするような人ではない。けれど玉鬘のことだけは、驚くほど心を尽くし、熱心に求め続けていた。
そして詳しい内情を知るつてがあったため、「内大臣も玉鬘を完全に遠ざけようとは思っていらっしゃらないらしい。それに本人は宮仕えをあまり望んでいないそうだ」と聞きつけた。
「結局は六条院の大殿のお考えだけが特別なのだろう。実の父上さえ反対なさらなければ」
そう言って、仲介する弁の御許にも熱心に働きかけた。
九月、宮仕えを目前に届く恋文
九月になった。
初霜が降りた、ひときわ趣深い朝だった。
いつものように、それぞれの求婚者について世話をする女房たちが、人に見えないように隠しながら、玉鬘のもとへ何通もの手紙を持って来る。
玉鬘は自分でそれを見ることさえせず、女房たちが読み上げるのを聞いているだけだった。
右大将からの手紙には、こうあった。
「これまでずっと期待し続けてきましたのに、時が過ぎていく空の様子を見ていますと、もう心を尽くし果てるばかりです」
数ならば厭ひもせまし長月に命をかくるほどぞはかなき
せめて求婚者の一人に数えていただけるのなら、嫌ってお断りになることもできるでしょう。それさえかなわず、この長月いっぱい命まで懸けて待っている自分の身が、なんともむなしく思われます。
「次の月になれば宮仕え」という予定を、どうやら右大将も詳しく聞きつけているらしい。
兵部卿宮からは――
「もうどう申し上げても甲斐のない世の中になってしまい、何とお伝えすればよいのかわかりません」
朝日さす光を見ても玉笹の葉分けの霜を消たずもあらなむ
たとえ朝日のように輝く帝の御光を仰がれることになっても、玉笹の葉の間に降りた霜のような私の思いまで、どうか消してしまわないでください。
「せめて私がこれほど思っていることだけでも、おわかりくださるなら、それを慰めにすることもできるでしょう」
使いの者まで歌に合わせ、霜のびっしり降りた、しおれた草を、霜一つ落とさないよう大切に持って来ている。その念の入れようも、いかにも宮らしかった。
式部卿宮の左兵衛督も、玉鬘へ思いを寄せる一人だった。紫の上の兄にあたり、六条院へも親しく出入りする人なので、自然と玉鬘をめぐる事情にも詳しい。それだけに、ひどく思い悩んでいた。
長い恨み言を連ねた末に、こう詠んだ。
忘れなむと思ふもものの悲しきをいかさまにしていかさまにせむ
いっそあなたを忘れてしまおうと思うことさえ悲しくてなりません。私はいったい、どうすればよいのでしょう。どうしたらこの思いをどうにかできるのでしょう。
手紙はそれぞれ、紙の色も、墨の濃淡も、焚きしめた香りも違い、どれも趣向を凝らしてある。
女房たちは、「皆様、このまま諦めてしまわれるのでしょうか。それでは何だか寂しくなりますね」などと言い合っていた。
玉鬘は多くの手紙に返事をしなかった。
ただ兵部卿宮にだけ、いったいどんな気持ちからだったのだろう、ほんのわずかな返事をした。
心もて光に向ふ葵だに朝おく霜をおのれやは消つ
自分から太陽の光に向かって咲く葵でさえ、朝に降りた霜を、自分の心で消してしまうわけではありません。私が帝のもとへ参るとしても、それであなたのお心を自分から捨てるということではございません。
ほんのわずかな返事ではあったが、兵部卿宮にはたいそう珍しいことだった。玉鬘にも自分の思いを哀れと思ってくれる心が少しはあるらしい――その気配が感じられただけで、宮はひどく嬉しかった。
このほかにも、取り立てて何というほどではないが、さまざまな男たちが、それぞれの思いを訴えてくることは多かった。
女性の心というものは、こういう玉鬘のようなあり方をこそ手本にすべきだ――大臣たちは、そんなふうに評していたということである。
