『源氏物語』第11帖「花散里」現代語訳全文を読む|わかりやすい口語訳

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」尾形月耕『源氏五十四帖』

 このページでは、『源氏物語』第11帖「花散里」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。

 原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第11帖「花散里」原文全文をご覧ください。

目次

五月雨の晴れ間、花散里のもとへ

 誰にも知られない、いわば自分の心から招いている物思いは、源氏にとって今に始まったことではなかった。それにこのごろは、世の中全体のことまで何かとわずらわしく、心を乱されることばかりが増えている。ひどく心細くなり、この世のすべてが嫌になってしまいそうに思われるのだが、それでもやはり、この世に心を残すことは多かった。

 かつて麗景殿の女御と呼ばれていた方には、桐壺院との間に皇子も皇女もいらっしゃらなかった。院がお亡くなりになってからは、ますます寂しく心細い境遇になっていたが、今ではただ源氏の心遣いに支えられながら、ひっそりと暮らしていらっしゃるらしい。その麗景殿の妹である三の君とは、以前、宮中で源氏がほんのわずかに思いを通わせたことがあった。いつもの源氏のことなので、その名残をさすがにきれいさっぱり忘れてしまったわけではない。けれど、わざわざ大切な恋人として通うほどの扱いもしないため、どうやら相手の女性にばかり心を尽くさせてしまいそうな関係になっていた。

 今はもう、何も残らないほどさまざまなことに心を乱され、この世の悲しさが何につけても胸に迫ってくる。そんな折に三の君のことを思い出すと、さすがにそのままではいられなかった。五月雨の続いていた空が珍しく晴れ、雲の切れ間から明るさののぞいた日に、源氏は麗景殿と三の君の住む邸へ出かけていった。

中川の垣根で聞いた琴の音

 この日は特別に装いを凝らすこともなく、目立たない姿に身をやつし、先払いの者さえつけずに忍んで出かけた。中川のあたりを通り過ぎようとしたとき、こぢんまりした家の木立がどことなく風情ありげに見え、その中から、よく響く琴を「あづま」の調べに合わせ、にぎやかに弾いている音が聞こえてきた。思わず耳を留めた源氏は、門に近い家だったので少し身を乗り出すようにして中を眺めた。大きな桂の木を渡ってくる風に、ふと賀茂祭のころのことが思い出される。何とはなしに趣のあるたたずまいを見ているうち、ここは以前、ただ一度、ちらりと人の姿を見たことのある家だった、と気づいた。

 まったく何の縁もない家ではない。それでも、あれからずいぶん時がたってしまっているので、今さら訪ねたところで、いったい誰だったかと怪しまれるのではないかと思うと気が引けた。けれど、そのまま通り過ぎることもできず、ためらいながら車を止めていると、折も折、ほととぎすが鳴いて空を渡っていった。まるで「訪ねてみては」と源氏の心を誘っているように聞こえたので、とうとう車を引き返させ、いつものように惟光を家の中へ向かわせた。

をちかへりえぞ忍ばれぬ郭公ほの語らひし宿の垣根に

こうしてまた昔に立ち返るような気持ちになると、懐かしく思わずにはいられません。かつてほんのわずかに言葉を交わしたこの家の垣根で、ほととぎすの声まで聞けばなおさらです。

 寝殿らしい建物の西の端には、何人かの女房が座っていた。惟光には以前にも聞いた覚えのある声だったらしく、わざと咳払いをしてこちらの気配を知らせ、様子をうかがいながら源氏からの言葉を取り次いだ。中では若々しい女房たちが、いったいどなたなのでしょう、というふうに、わざとわからない顔をしているらしい。

郭公こととふ声はそれなれどあなおぼつかな五月雨の空

訪ねてくるほととぎすの声には、たしかに聞き覚えがあるようです。それでも五月雨の空のようにはっきりせず、いったいどなたなのか心もとなく思われます。

 いかにもわざと知らないふりをしているとわかったので、惟光は「よしよし、以前植えた垣根まで……」と、言葉を最後まで言わずに出てきた。けれど家の中の女性は、人には明かせない胸のうちで、源氏がそうして帰ってしまうことを悔しくも、また悲しくも思っていたのだった。もっとも、こういう関係なら簡単には人を近づけず、用心するのも当然である。それでも、いざそうされてみれば、やはり心に残るものはあった。

 こういう身分の女性ということでいえば、筑紫の五節も可愛らしい人だったな、と源氏は真っ先に思い出す。何をきっかけにしても次から次へと昔の女性が心に浮かび、源氏の胸には休まる暇がないようだった。年月がたっても、ひとたび見知った女性のことをすっかり忘れ、情もかけずに通り過ぎることができない。その源氏の性分が、かえって多くの女性に長い物思いの種を残すことにもなっていた。

花散る里に残る、昔の面影

麗景殿と偲ぶ桐壺院

 本来訪ねるつもりだった邸へ着いてみると、源氏が想像していたとおり、人の出入りもほとんどなく、ひっそりと静まり返っていた。その中で麗景殿が暮らしていらっしゃる様子を見ると、源氏はひどく胸を打たれた。まず麗景殿のところへ伺い、桐壺院がお元気だったころの昔話などをしているうちに、夜もすっかり更けていった。

 二十日ごろの月が昇り始めると、高く茂った木々の影はいっそう深く暗く見え、近くに咲く橘の花の香りが、懐かしくあたりに漂っていた。麗景殿は年齢を重ねてはいたものの、どこまでも身のこなしに気を配り、気品があって可憐な感じのする方だった。桐壺院からひときわ華やかな寵愛を受けた方ではなかったけれど、院はこの女御の親しみやすく心なごむところを、好ましく思っていらしたものだった――。そんなことを思い出すにつけても、源氏の胸には昔の出来事が次々と連なってよみがえり、思わず涙がこぼれた。

 すると、先ほど中川の垣根で聞いたのと同じほととぎすの声が、また聞こえてきた。まるで源氏のあとを慕ってここまでついてきたように思われ、その折の風情も何ともいえず美しい。「どうしてここだと知ったのだろう」などと、源氏は小さな声で口ずさみ、それから麗景殿へ歌を詠んだ。

橘の香をなつかしみ郭公花散る里をたづねてぞとふ

懐かしい橘の香りに心ひかれて、ほととぎすは花の散ったこの里を訪ねてくるのです。私もまた、忘れられない昔を懐かしんで、こうしてこちらへ参りました。

「忘れることのできない昔を思う慰めには、やはりもっとこちらへ伺うべきだったのでしょうね。けれど私のほうは、以前とは比べものにならないほど、気を紛らわせることも、心にかかることも増えてしまいました。人はどうしても世の中の移り変わりに従わずにはいられませんから、昔話を気軽に語り合って心を慰められる相手も、だんだん少なくなっていきます。ましてこちらでは、何にも心を紛らわせるものがなく、さぞ昔のことばかり思い出されるのでしょう」

 源氏がそう申し上げると、今さら嘆いたところでどうにもならない世の中ではあるけれど、麗景殿が一つ一つのことを深く胸にとどめ、しみじみと昔を思い続けている様子が伝わってきた。その思いの深さも、この方の人柄からくるものなのだろう。そう思うと、源氏の胸にはさらに悲しみが重なった。

人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ

訪ねてくる人もなく、荒れてしまったこの住まいでは、軒端に咲く橘の花だけが、今では私に寄り添う友となりました。

 麗景殿がお答えになったのは、それだけだった。けれど、やはり普通の女性とはまるで違う。控えめな言葉の中にもこの方ならではの品格があり、源氏はほかの人々と比べても、やはり格別な方なのだと思わずにはいられなかった。

花散里との静かな再会

 そのあと源氏は、西側にいる三の君のもとへ向かった。わざわざ訪ねてきたという改まった様子は見せず、あくまで忍びやかに振る舞いながら、そっと中をのぞくようにして姿を見せる。三の君にしてみれば、源氏がこうして訪ねてくれること自体が久しくなかったうえ、世間でもめったに目にすることのできないほど美しいその姿が目の前に現れたのだから、これまで待たされてきたつらささえ、思わず忘れてしまいそうになるのも無理はなかった。

 源氏はいつものように、あれこれと親しみ深く、優しく語りかけた。それも決して、まるで心にもないことを言っているわけではなかったのだろう。そもそも源氏が、たとえほんの一時でも目を留めた女性たちは、身分にせよ人柄にせよ、まったくありふれた人ばかりではなかった。それぞれに違ったよさがあり、何の取り柄もないと思われるような女性はいなかったからなのだろう。だから源氏も相手の女性たちも、互いにあからさまに嫌い合うことなく、何かしらの情を交わしたまま年月を過ごしていくのだった。

 そうした源氏との関係を、かえって張り合いのないことだと思う女性が、やがて何かの形で変わっていったとしても、源氏はそれを、そうなるのもこの世の中では当然のことなのだと受け止めていた。先ほど立ち寄った中川の垣根の家も、まさにそうして、以前とはすっかり事情の変わってしまったところだったのである。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次