『源氏物語』第5帖「若紫」現代語訳全文を読む|わかりやすい口語訳

 このページでは、『源氏物語』第5帖「若紫」の現代語訳全文を、わかりやすい口語訳で掲載しています。原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第5帖「若紫」原文全文をご覧ください。

目次

北山で若紫を垣間見る

 源氏は瘧病わらわやみを患い、さまざまなまじないや加持かじを受けましたが、少しも効き目がなく、何度も発作を繰り返していました。すると、ある人がこんなことを申し上げました。

「北山の何とかいう寺に、たいそう霊験のある修行者がおります。去年の夏にもこの病が流行し、いろいろなまじないをしても治らず困っていた人たちを、その場ですぐ治した例がたくさんございました。病がこじれてしまってからでは厄介ですから、早いうちに一度お試しになった方がよろしゅうございます」

 そこで使いを出して呼びに行かせましたが、「すっかり年老いて腰も曲がり、庵の外へも出ません」との返事です。

「それでは仕方がない。こちらから、ごく人目を忍んで行こう」

 源氏は親しい供を四、五人ほどだけ連れ、まだ夜の明けないうちに北山へ向かいました。

 その寺は山のかなり奥深くにありました。三月の末なので、都の桜はもう盛りを過ぎていますが、山の桜はまだ満開です。奥へ入っていくにつれて霞のたたずまいも美しく、身分が高いため普段は自由にこうした外出もできない源氏には、何もかもが珍しく感じられました。寺の様子もたいそう趣があります。

 高い峰の、深い岩山の中に、目当てのひじりは籠もっていました。源氏はそこまで登って行き、自分が誰なのか知らせず、かなり質素な姿をしていましたが、それでも隠しきれない気品があります。聖はすぐに源氏と気づき、驚きながらも笑顔になりました。

「これは恐れ多いことでございます。先日、私をお召しになった方でいらっしゃいましょうか。私はもうこの世のことなど考えずにおりますので、病を治すための修行も捨てたように忘れております。それなのに、どうしてこのようなところまでお越しになったのでしょう」

 たいそう徳の高い僧でした。源氏が口にできそうなものを用意して食事を勧め、加持などをしているうちに、日は高く昇っていきました。

明石の入道と娘の噂

 源氏が少し外へ出て周囲を眺めると、高い場所なので、あちらこちらの僧坊が眼下にはっきり見えます。すぐ下の曲がりくねった坂道のあたりには、同じ柴垣でもきちんと美しく作られた垣があり、その内側には清潔そうな建物や廊が続き、木立にも風情のある住まいが見えました。

「あそこには、どんな人が住んでいるのだろう」

 源氏が尋ねると、供の一人が答えました。

「あれは、ある僧都そうずが二年ほど籠もっておられるところだそうでございます」

「ずいぶん気の置ける立派な人が住んでいるらしいところだね。それにしても、私はあまりにみすぼらしい姿をしすぎたかな。こちらにいることを知られなければよいけれど」

 そう言っているうちにも、かわいらしい童女たちが大勢出てきて、仏に供える閼伽あかの水を汲んだり、花を折ったりしている姿がよく見えました。

「あそこには女の人がいるようだ」

「まさか僧都が、そういう女性を住まわせているわけでもないでしょう」

「いったい、どんな人たちなのだろう」

 供の者たちは口々に話し、中には坂を下りてのぞきに行く者までいます。

「きれいな女の人たちや、若い女房、童女などが見えます」

 源氏はその間も祈祷を受けながら、日が高くなっていくにつれて、また発作が起きるのではないかと気にしていました。

「あれこれ気を紛らわせて、病気のことばかり気になさらない方がよろしゅうございます」

 そう勧められ、源氏は寺の裏手の山へ出て、都の方を眺めました。遠くまで一面に霞がたなびき、四方の木々の梢には、どことも知れず煙が立ちのぼっています。

「まるで絵そのもののようだ。こんな場所に住んでいたら、世の中に思い残すことなどなくなりそうだね」

 すると供の者たちは、源氏の気を紛らわせようと、さまざまな土地の話を始めました。富士山をはじめ遠国の山々や、西国の美しい浦や磯の景色などを、次々と語って聞かせます。

 その中の一人が言いました。

「比較的近いところでは、播磨の明石の浦がやはり格別でございます。特別に入り組んだ名所があるというわけではございませんが、ただ海一面を広々と見渡す眺めが、不思議とほかの土地とは違うのでございます。

 あの国の前の国守で、今は出家した新発意しんぼちが、大切に一人娘を育てている家がございます。これがたいそう立派なのです。もともとは大臣の子孫で、もっと出世することもできたはずの人ですが、世間とうまく交わらない変わり者で、近衛中将の職を捨て、自分から播磨守になることを願ったのでございます。

 けれど任国では土地の人々から少し軽く見られ、『今さら、どんな顔をして都へ帰れよう』と言って、そのまま髪を下ろして出家してしまいました。かといって深い山中に籠もることはせず、海辺に住んでおります。少し変わったことのようですが、山奥ではあまりに人里離れて寂しく、若い妻や娘がつらい思いをするだろうと考えたのでしょう。海を眺めて気を晴らすこともできる場所を住まいにしたようでございます。

 少し前、私が播磨へ下りました折に、その家へ立ち寄って様子を見ました。都では居場所のない人のようでございましたのに、あちらでは広い土地を立派に構え、たいそう見事な邸を造っておりました。国司であったころに蓄えたものもあるのでしょう。残りの人生を不自由なく暮らせる備えは申し分なく、来世のための仏道修行にも熱心で、むしろ出家してからの方が立派に見えるほどでございました」

「それで、その娘はどんな人なのだ」

 源氏はすぐに尋ねました。

「悪くはないそうでございます。顔立ちにも性格にも、それなりのよさがあるとか。歴代の国司たちが特別な心づもりで結婚を申し込むこともあるそうですが、父親はまったく承知いたしません。

『自分一人が、こうして世間から外れて沈んでいるだけでも残念なのに、この一人娘だけには別の望みをかけている。もし私が死んだあと、その望みがかなわず、私が思い定めた運命とは違うことになったなら、海へ身を投げなさい』と、いつも言い聞かせているそうでございます」

 源氏も変わった話だと思い、興味深く聞きました。周囲の人々は笑います。

「海の竜王の后にでもするつもりの大切な娘なのでしょう。なんとも高望みなことです」

 この話をしたのは、播磨守の息子で、蔵人からこの年、新しく五位になった男でした。

「あの男もかなりの色好みだから、入道の遺言を破らせたい気くらいはあるのだろう」

「だから、あの家のあたりをうろうろしているのだな」

 などと皆にからかわれます。

「しかし、そうは言っても田舎育ちなのだろう。幼いころからあんな土地で育ち、古風な父親にばかり従っていたのでは」

「母親の方はきちんとした家柄の女性らしい。若い女房や童女なども、都の高貴な家々と縁のある者を探して集め、目を見張るほど大切に育てているそうだ」

 そんな話が続きます。源氏も、

「いったい何を考えて、海の底まで届くように深く娘の将来を思い詰めているのだろう」

 などと冗談を言いましたが、内心ではただならず興味を持っていました。もともと源氏には、ありふれたものより、どこか普通とは違ったものに心を引かれるところがあるのです。こんな話を聞いて、心に留めないはずがありませんでした。

 夕方になっても瘧の発作が起こらなかったので、供の者たちは「もう大丈夫なのでしょう。早くお帰りになった方が」と勧めました。けれど聖は、「物の怪まで加わっていたようにお見受けしました。今夜はもう少し静かに加持を受けてから、お帰りください」と言います。

 皆もそれがよいと言い、源氏自身も、こんな山中で旅寝をすることなどなかったので、珍しくもあり、「それなら明け方に帰ろう」と決めました。

雀を追う少女

 供の者たちをいったん帰してしまうと、源氏はすることもなく退屈になりました。夕暮れの深い霞に紛れ、先ほど見た小柴垣の近くまで出ていきます。惟光と一緒に中をのぞくと、西側の部屋に仏を安置して勤行している尼が見えました。簾を少し上げて、花を供えているようです。

 中央の柱に寄りかかり、脇息きょうそくの上に経を置いて、ひどく具合が悪そうに読んでいる尼君は、とても普通の身分の人には見えません。四十歳を少し過ぎたくらいでしょうか。肌はとても白く、上品に痩せていますが、顔つきはふっくらしています。目元も美しく、短く切った尼の髪の毛先もきれいで、長い髪よりもかえって若々しく見えるものだと、源氏はしみじみ眺めました。

 きちんとした年配の女房が二人ほどおり、そのほかには童女たちが出たり入ったりして遊んでいます。その中に、十歳ほどに見える少女がいました。

 白い衣に、山吹色などの少しくたびれた衣を重ねて、走ってきます。それまで大勢見えた子どもたちとは比べものにならないほど、将来が楽しみに思われる、たいそう愛らしい顔立ちでした。髪は扇を広げたように豊かに揺れ、何かに泣いたのでしょう、顔を真っ赤にして立っています。

 尼君が顔を上げました。

「どうしたのです。童女たちとけんかでもしたのですか」

 その顔立ちに少女と少し似たところがあるので、源氏は尼君の娘なのだろうかと思いました。

「雀の子を、犬君が逃がしてしまったの。伏籠の中に入れておいたのに」

 少女は、本当に残念そうです。

 そばにいた女房が、

「またいつものように、気の利かないことをして叱られるのですから、本当に困った子ですね。雀はどちらへ行ってしまったのでしょう。だんだんかわいらしくなってきたところでしたのに。烏などに見つけられたら大変です」

 と言って探しに立ちました。髪が豊かでとても長く、感じのよい女房です。少納言の乳母と呼ばれているらしく、この少女の世話をしている人なのでしょう。

 尼君は少女に向かって言いました。

「まあ、なんて幼いのでしょう。本当に何も分かっていないのですね。私はもう今日か明日かという命だと思っているのに、そんなことは少しも気にせず雀ばかり追いかけて。生き物を籠に入れるのは罪になると、いつも言っているでしょう。困ったことです。こちらへいらっしゃい」

 少女は尼君のそばへ座りました。顔立ちはなんとも愛らしく、眉のあたりにはまだ幼い柔らかさが漂っています。無造作にかき上げた額の様子も、髪の生え際も、本当にかわいらしいものでした。

「この子が大人になっていく姿を見てみたい」

 源氏は思わず目を留めます。なぜこれほど目が離せないのだろうと思えば、その少女は、源氏が限りなく思いを尽くしている藤壺によく似ていました。それに気づくと、源氏の目には涙まで浮かんできました。

 尼君は少女の髪を撫でながら言います。

「髪を梳かすのを嫌がるけれど、本当にきれいな御髪ですね。それなのに、あまりに頼りなく幼いままなのが心配でなりません。このくらいの年になれば、もっとしっかりしている子もいるものです。亡くなったあなたのお母さまは、十歳くらいで父君を亡くしたころには、もう本当によく物事を分かっていらっしゃいました。もし今、私まであなたを残して死んでしまったら、この先どうやって暮らしていくのでしょう」

 尼君がひどく泣くのを見ると、源氏まで理由もなく悲しくなります。少女も、まだ幼いながら尼君の顔をじっと見つめ、それから目を伏せてうつむきました。肩にこぼれかかった髪がつやつやとして、たいそう美しく見えます。

生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむ空なき

 ――この若草のような子が、これからどこで、どのように育っていくのかも分からないのに、この子をあとに残して先に消えていく露である私は、安心して死ぬことさえできません。尼君はそんな思いを歌にしました。

 もう一人の年配の女房も、「本当にそのとおりでございます」と泣きながら返しました。

初草の生ひ行く末も知らぬ間にいかでか露の消えむとすらむ

 ――まだ生え始めたばかりの草のような姫君が、この先どのように育っていくかも分からないうちに、どうして露であるあなたが消えてしまおうとなさるのでしょう。

 そうしているところへ、僧都が向こうからやって来ました。

「こちらは外から丸見えではありませんか。今日に限って、こんな端近くにいらしたのですね。この上の聖のところへ、源氏の中将が瘧病のまじないを受けに来ていらっしゃると、たった今聞きました。たいそう人目を忍んで来られたので気づかず、私もこの近くにいながら、お見舞いにさえ参りませんでした」

「まあ大変。こんなみっともない姿を、人に見られてしまったでしょうか」

 尼君は慌てて簾を下ろしました。

「世間であれほど評判の光源氏です。せっかくの機会ですから、一度ご覧になってはいかがです。世を捨てた法師の私でさえ、あの方を拝見すると世の憂さを忘れ、寿命まで延びるような気がするほどのお姿ですよ。では、ご挨拶を申し上げてまいりましょう」

 僧都が立ち上がる気配がしたので、源氏は急いでその場を離れました。

若紫の素性と源氏の申し入れ

「なんとも心を引かれる人を見つけたものだ。なるほど、恋好きの男たちはこうしてあちこち忍び歩くから、本来なら知るはずもない女を見つけるのだな。たまたま外へ出ただけの私でさえ、こんな思いがけないものを見たのだから」

 源氏はそうおもしろく思いながらも、何より、さきほどの少女のことが心から離れませんでした。

「本当にかわいらしい子だった。いったい誰なのだろう。あの方――藤壺の代わりに、朝夕そばで眺めて、心の慰めにできたなら」

 そんな思いが、深く心に入り込んでしまいました。

 横になっていると、僧都の弟子が惟光を呼び出しました。すぐ近くなので、伝言の内容は源氏にも聞こえます。

「こちらへお越しになっていたことを、たった今人から聞いて驚いております。この寺に私が籠もっていることをご存じでいらっしゃるのに、ひそかに来られたのを残念に思っております。粗末な席ではございますが、本来なら私の坊にこそお泊まりいただくべきでした。なんとも心残りなことでございます」

 源氏は返事をしました。

「十日あまり前から瘧病に悩まされ、何度も発作が重なって耐えがたかったので、人に教えられるまま急にここまで訪ねて来ました。しかし、こういう修行者の祈祷も効き目がなかったとなれば、その人にとっても体裁が悪いでしょう。普通のこと以上に申し訳なく思い、ひどく人目を忍んでいたのです。これからそちらへも――」

 すると僧都は、すぐに自分からやって来ました。法師ではありますが、気後れするほど立派で、人柄も高く評価されている人物です。源氏は、こんな質素な忍び姿でいることを少しきまり悪く思いました。

 僧都が山に籠もっている暮らしなどについて話をしたあと、「同じ柴の庵ではございますが、こちらより少し涼しい水の流れなどもお目にかけましょう」と熱心に誘いました。源氏は、先ほど僧都が自分のことを奥の女たちに大げさに話していたのを聞いていたので、少し気恥ずかしく思いましたが、あの少女たちのことも気になり、その坊へ向かいました。

 実際、同じ山の木や草を使った住まいでも、そこには特別な趣があります。月のないころなので、遣水のそばには篝火が焚かれ、灯籠にも火がともされています。南向きの部屋はきれいに整えられ、焚きしめた香が奥ゆかしく漂い、名香の匂いが満ちていました。そこへ源氏の衣から流れてくる香りまで加わるので、奥にいる女房たちも、さぞ緊張していることでしょう。

 僧都は、世の中の無常や来世のことなどを源氏に説いて聞かせました。源氏も、自分が重ねてきた罪を思うと恐ろしくなります。むなしい恋に心を奪われ、この先も生きている限り悩み続けるのだろうか。まして死んだあとの世はどれほど恐ろしいことだろう。そんなことを思うと、自分もこういう山中に住んでみたいような気持ちになります。

 けれど、その一方で昼間に見た少女の面影が心にかかり、恋しいほど思い出されるのでした。

僧都から聞く若紫の血筋

「こちらにいらっしゃる女性たちは、どなたなのですか。実は以前、ぜひ尋ねてみたいと思うような夢を見たことがありまして、今日になって、それと何か関係があるような気がしたのです」

 源氏が尋ねると、僧都は笑いました。

「ずいぶん突然な夢のお話でございますね。お尋ねになっても、おそらくご期待には添えませんでしょう。故按察使大納言あぜちのだいなごんは亡くなって久しいので、ご存じではないでしょう。その北の方が、私の妹でございます。大納言が亡くなったあと出家しまして、このところ病気を患っておりますので、都にも戻れず、頼りになるこの寺へ籠もっているのでございます」

「その大納言には、娘がいらしたと聞いたことがありますが。別に色めいた気持ちでお尋ねするのではなく、まじめにお聞きしているのです」

「娘は一人だけおりましたが、亡くなってからもう十年以上になるでしょう。故大納言は、その娘を宮中へ入れたいとたいそう大切に育てておりましたが、願いがかなわないまま亡くなりましたので、この尼君一人で娘を育てていたのでございます。

 ところが、どういう縁だったのでしょう。兵部卿宮ひょうぶきょうのみやが人知れずその娘と親しくなられました。しかし宮には、もともとの北の方という身分の高い方がおられ、穏やかでないことが多くございました。そのため娘は朝から晩まで物思いに沈み、とうとう亡くなってしまったのです。人が物思いによって本当に病気になるということを、私は身近で見たのでございます」

 そこまで聞くと、源氏にはすぐ分かりました。

「それでは、あの少女は、その亡くなった娘の子なのだ」

 父親は親王の血筋であり、藤壺とも同じ一族です。だからあれほど似ているのだろうかと思うと、源氏はいよいよ少女を見たい気持ちになりました。生まれも高貴で愛らしく、まだ余計な知恵もついていません。親しく語り合い、自分の思うように教えながら育ててみたい――そんな思いまで生まれます。

「お気の毒なことでしたね。その亡くなられた方には、形見となるお子さまはいらっしゃらなかったのですか」

 源氏は、先ほどの少女が本当にその子なのか、さらに確かめたくて尋ねました。

「亡くなったころ、子どもが一人おりました。それも女の子です。その子のことがあるからこそ、この尼君も年を取った今まで嘆き続けているのでございましょう」

 やはりそうだった、と源氏は思いました。そして、思い切って僧都に申し出ます。

「妙なお願いなのですが、その幼い姫君の後見役の一人として、私をお考えいただくわけにはいかないでしょうか。私にも心に思うところがあって通っている女性はおりますが、どういうわけか世間一般の夫婦のようには心がなじめず、実際には一人暮らし同然なのです。

 まだ私には似つかわしくないほど幼い、と普通の男女のことのようにお考えになって、迷惑なお話だと思われるでしょうか」

 僧都は少し堅い口調で答えました。

「それはたいへんありがたいお申し出でございます。しかし姫君は、まだ本当に何も分からないほど幼いので、たとえお戯れにせよ、一人の女性としてご覧いただける年齢ではございません。そもそも女というものは、人からどのように扱われるかによって大人になっていくものでもございます。私から詳しくお答えすることはできませんので、あの子の祖母に話して、そのうえでお返事申し上げましょう」

 あまりにきっぱりとした返事なので、まだ若い源氏は少し恥ずかしくなり、それ以上うまく言葉を続けられませんでした。

「阿弥陀仏をお祀りしている堂で、今夜することがございます。まだ初夜の勤行を済ませておりませんので、それが終わってからまた参りましょう」

 僧都はそう言って、上の堂へ戻っていきました。

尼君に思いを伝える

 源氏はまだ体調もすぐれません。そのうえ少し雨が降り、冷たい山風が吹いて、滝も水かさを増し、大きな音を立てています。眠そうな僧たちの読経が途切れ途切れに聞こえてくるのも、山奥だけにもの寂しく、何の悩みもない人でさえ物思いを誘われそうな夜でした。

 まして源氏には考えることが多く、少しも眠れません。初夜の勤行と言っていたのに、もう夜はずいぶん更けています。隣の部屋でもまだ人々が起きている気配があり、ひっそりとしてはいますが、数珠が脇息に触れて鳴る音や、衣の触れ合う柔らかな音がかすかに聞こえ、その様子まで上品に感じられました。

 すぐ近くだったので、源氏は外側に立ててある屏風を少し開き、扇を鳴らしました。中では思いがけない音に驚いたのでしょう。一人の女房が、聞こえなかったふりをするように、少しずつこちらへ出てきます。

「おかしいですね。聞き違いでしょうか」

 少し離れたところで女房がつぶやくと、源氏が声をかけました。

「仏のお導きというものは、たとえ暗い道へ入っても、決して間違うものではないと聞いておりますのに」

 その声がとても若々しく上品なので、女房も自分の声を出すのさえ気恥ずかしく思いながら答えます。

「いったい、どちらへお導きしろというのでしょう。まったく分かりません」

「突然のことで、不思議に思われるのも当然でしょうが――」

初草の若葉の上を見つるより旅寝の袖も露ぞ乾かぬ

 ――生え始めた若草のような姫君を見てからというもの、この旅寝の袖は涙の露に濡れたまま、少しも乾きません。そうお伝えいただけませんか。

「このようなお話を承るような方が、こちらにはいらっしゃらないことはご存じのはずですが。いったい、どなたにお伝えすればよいのでしょう」

「何か理由があって申し上げているのだろうと思ってください」

 女房が中へ戻って伝えると、尼君は驚きました。

「まあ、なんて今風なこと。この子をもう男女のことが分かる年齢だとでも思っていらっしゃるのでしょうか。それにしても、あの『若草』の歌のことを、どうしてお知りなのでしょう」

 不思議なことばかりで思い乱れ、返事が遅くなりました。あまり長く待たせるのも失礼だと思い、尼君は返歌をしました。

枕結ぶ今宵ばかりの露けさを深山の苔に比べざらなむ

 ――あなたが今夜一晩だけこの山で旅寝をして袖を露に濡らしている、その思いを、この深山の苔のように長いあいだ涙に濡れている私の身と同じにはなさらないでください。

「何かお間違いでございましょう」

 そんな返事でした。

「こういう機会に女性へ声をかけるようなことは、私もこれまでしたことがなく、慣れないことなのです。恐れ多いとは思いますが、せっかくの機会ですから、まじめに申し上げたいことがございます」

 源氏が重ねて伝えると、尼君はなおも戸惑いました。

「何か間違ったことをお聞きになったのでしょう。あまりに思いがけないご様子ですので、何とお答えしたらよいものか分かりません」

 周囲の女房たちが、「あまりそっけなくして、失礼だと思われてもいけません」と勧めます。

「そうですね。若い遊び人ならともかく、これほどまじめにおっしゃっているのですから、ありがたいことです」

 尼君はそう言い、自分から少し近くへ出てきました。

「突然で、浅はかな男だと思われても仕方のない機会ではございます。しかし私自身は、決して軽い気持ちではありません。仏も自然と、この心を分かってくださるでしょう」

 そう言いかけたものの、相手が落ち着いた年長者で、気後れするほどきちんとした人なので、源氏もすぐには本題を切り出せません。

「本当に思いもよらないお話です。このようにまでおっしゃってくださるとは、いったいどういうことでございましょう」

 尼君に促され、源氏はようやく言いました。

「あなたのお話をうかがいますと、たいそうお気の毒に思われます。亡くなられたあの姫君の代わりにでも、私をこの幼い姫君の頼りになる者と思っていただけないでしょうか。

 私もまだ幼いころ、親しく頼るべき人に先立たれ、どこか心の落ち着かないまま年月を過ごしてきました。この姫君も同じような境遇だと聞きましたので、互いに身寄りを失った者同士のように、親しい間柄にしていただきたいと、ぜひ申し上げたかったのです。こんなことをお話しできる機会はなかなかありませんから、どう思われるかもかえりみず、口にしてしまいました」

「本当にありがたいお言葉で、うれしく思うべきことなのでございましょう。ただ、何かお聞き違いがあるのではないかと思うと、恐ろしくもございます。

 この頼りない私一人を頼みにしている子が一人おりますが、まだ本当に何も分からない幼い年齢でございます。あなたさまにご覧いただき、認めていただけるようなところもございませんので、今すぐそのお申し出をお受けすることはできそうにございません」

「そのあたりのことは、すべて承知しております。そんなに窮屈にお考えにならず、普通とは違うほど深く思っている私の心を、これからご覧になってください」

 源氏はそう言いましたが、尼君は、「あまりにも幼い子だということを、よく分からずにおっしゃっているのだ」と思い、心を許した返事はしませんでした。そこへ僧都が戻ってきたので、源氏は、

「まあよいでしょう。こうしてお話を始めることができただけでも、私はたいそう心強く思います」

 と、自分の方で話を決めてしまいました。

 もう明け方です。法華三昧を行う堂から聞こえる懺法せんぼうの声が山風に乗って響き、滝の音と溶け合って、たいそう尊く聞こえました。

吹きまよふ深山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音かな

 ――深山を吹き乱れる山風に夢から覚めると、滝の音までが涙を誘うことです。

さしぐみに袖ぬらしける山水に澄める心は騒ぎやはする

 ――急に涙を催して袖を濡らす山の水であっても、澄みきった心まで乱されることがあるでしょうか。

「私はもう、この音には聞き慣れてしまいました」

 僧都はそう答えました。

 夜明けの空には深く霞がかかり、山の鳥たちがあちらこちらでさえずっています。名前も分からない木や草の花が色とりどりに咲きまじり、まるで錦を敷いたようです。鹿がたたずみ歩く姿まで、源氏には珍しく見えました。美しい景色を眺めているうち、病気の苦しさもすっかり紛れてしまいました。

 老いた聖は自由に体を動かすこともできませんが、どうにかして源氏に護身の祈祷をします。枯れた声がひどくかすれているのも、長い修行を重ねた様子が感じられ、ありがたく聞こえました。聖は陀羅尼だらにを唱えました。

 そこへ都から迎えの人々がやって来て、源氏が回復したことを喜びました。宮中からもお見舞いの使いが来ています。僧都は谷の底まで探すようにして珍しい山の果物などを集め、源氏をもてなしました。

「今年いっぱいは深く誓いを立てて山を離れないことにしておりますので、お見送りにも参れません。それがかえって心残りでございます」

 僧都はそう言って酒を勧めます。

「この山の水にも心を引かれましたが、宮中でご心配くださっているのも恐れ多いことですから、今日は帰ります。またこの花の盛りが過ぎないうちに参りましょう」

宮人に行きて語らむ山桜風よりさきに来ても見るべく

 ――都へ帰って宮中の人たちに、この山桜のことを話しましょう。そして、花を散らす風よりも先に、ここへ来て見るべきだと伝えましょう。

 源氏の振る舞いはもちろん、声までがまぶしいほど美しいので、僧都は歌を返しました。

優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそ移らね

 ――三千年に一度咲くという優曇華うどんげの花を待ち得たような心地がして、あなたを拝見した今は、深山の桜などに目を移すことができません。

 源氏は微笑みました。

「時が来れば一度は咲くという花なら、それほど珍しいものでもないでしょう」

 聖も盃を受け取り、涙を浮かべながら歌いました。

奥山の松のとぼそをまれに開けてまだ見ぬ花の顔を見るかな

 ――奥山の松の戸をめったに開くことのない私が、今日はこれまで見たこともない花のようなお顔を拝見することができました。

 聖は源氏のお守りとして独鈷とっこを贈りました。僧都も、聖徳太子が百済から得たという金剛子こんごうじの数珠を、美しく飾られた異国風の箱ごと透ける袋に入れ、五葉の松の枝につけて贈ります。さらに紺瑠璃の壺に薬を入れて藤や桜の枝につけるなど、この山里にふさわしい贈り物をいろいろ用意しました。

 源氏の方でも、聖をはじめ読経をした僧たちへの布施や、さまざまな贈り物を都から取り寄せていました。そのあたりの山人にまで、それぞれふさわしい品を与え、読経への布施なども済ませてから出発することになりました。

 その前に僧都は尼君のところへ入り、昨夜、源氏から聞いた話を伝えました。

「今すぐ、どうこうお答えできることではありません。もし本当にお気持ちがお変わりにならないのなら、あと四、五年も過ぎたころに、そのとき改めて考えましょう」

 結局、尼君の返事は昨夜と同じでした。源氏は思いどおりにならず、残念でなりません。

 そこで僧都のところにいる小さな童を使いにして、少女の方へも手紙を送りました。

夕まぐれほのかに花の色を見て今朝は霞の立ちぞわづらふ

 ――昨日の夕暮れに、ほんのわずか花の色を見ただけなのに、今朝は霞の中を立ち去ることがつらくてなりません。

 返歌には、こうありました。

まことにや花のあたりは立ち憂きと霞むる空の気色をも見む

 ――本当に花のそばから立ち去るのがおつらいというのなら、霞んだ空のようなそのお気持ちがどのようなものか、これから見てみましょう。

 上品で美しい筆跡でしたが、何でもないことのようにさらりと書かれていました。

 源氏が車へ乗ろうとしているところへ、左大臣家から大勢の迎えがやって来ました。「どこへとも知らせず姿を消してしまわれて」と心配したのでしょう。頭中将や左中弁をはじめ、多くの公達まで源氏を慕って来ています。

「こういうお出かけなら、ぜひお供したいと思っておりますのに、ひどいことです。私たちだけ置いて行かれるとは」

「こんな見事な花の陰まで来て、少しも休まず帰るのでは、あまりにもったいないではありませんか」

 そこで岩陰の苔の上に並んで座り、皆で酒を飲むことになりました。水の落ちる姿にも風情のある、美しい滝のそばです。

 頭中将は懐から笛を取り出し、澄んだ音で吹きました。弁の君は扇を軽く鳴らしながら、「豊浦の寺の西なるや」と歌います。どの公達も人並み以上に美しい若者たちでした。

 けれどその中で、まだ病み上がりのため少しつらそうに岩へ寄りかかっている源氏の姿は、この上なく美しく、ほかの誰にも目を移すことができないほどでした。いつもの篳篥を吹く随身や、笙を持っている音楽好きの者などもいます。

 僧都は自ら琴を持ってきました。

「どうか、ほんの一曲だけお弾きください。せっかくですから、山の鳥まで驚かせましょう」

「まだ具合が悪く、とてもつらいのですが」

 源氏はそう言いながらも、少しだけ琴を美しくかき鳴らし、それから皆で立ち上がりました。

 名もない僧や童たちまで、「もっと見ていたかった」と涙を流し合いました。まして奥にいる年老いた尼君たちは、こんな人をこれまで一度も見たことがないので、「この世の人とは思えません」と語り合っています。

 僧都も、

「ああ、いったいどんな因縁で、このようなお姿の方が、こんな濁った末世の日本にお生まれになったのだろうと思うと、なんとも悲しくなります」

 と言って涙をぬぐいました。

 少女も幼い心に、なんてすばらしい人なのだろうと源氏を見て、

「父宮さまよりも、すてきな方ね」

 などと言います。

「それなら、あの方のお子さまになっておしまいなさい」

 女房にそう言われると、少女はうなずき、本当にそれならよいと思っているようでした。その後は雛遊びをするときにも、絵を描くときにも、源氏の君に見立てた人形を作り、美しい衣を着せて大切にするようになりました。

帰京後も消えない若紫の面影

 源氏はまず宮中へ参り、ここ数日のことなどを帝に申し上げました。ひどく痩せてしまった源氏をご覧になり、帝は不吉なことのように心配なさいます。そして、あの聖がどれほど尊い僧だったのかをお尋ねになりました。

 源氏が詳しく申し上げると、帝は、

「それほどの者なら、阿闍梨あじゃりなどになっていてもおかしくない。長年修行を積んでいるのに、朝廷に知られていなかったのだな」

 と感心なさいました。

 ちょうど左大臣も参上してきました。

「お迎えに参ろうかとも思いましたが、ひそかなお出かけでしたので、かえってご迷惑かと思い、遠慮しておりました。ゆっくり一、二日お休みください。そのまま私がお送りいたしましょう」

 源氏は特に左大臣邸へ行きたいと思っていたわけではありませんでしたが、押されるまま一緒に退出しました。左大臣は自分の車に源氏を乗せ、自分は奥へ詰めるようにして同乗します。ここまで大切にしてくれる左大臣の気持ちを、源氏もさすがにありがたく、申し訳なく感じました。

 左大臣邸でも源氏が来るかもしれないと気を配っており、長く訪ねていなかった間に、いっそう玉の御殿のように磨き上げ、何もかも整えてありました。

 けれど葵の上は、いつものように奥へ隠れたまま、すぐには姿を見せません。左大臣が熱心に勧め、ようやく出てきた葵の上は、まるで絵に描かれた姫君のようにきちんと座り、少し身動きすることさえ難しいほどかしこまっています。

 源氏は、思っていることを少しほのめかしたり、山道での出来事を話したりしたいと思いました。葵の上がそれに気の利いた返事をし、少しでも心を開いてくれたなら、どれほど愛しく思えたでしょう。

 しかし葵の上は相変わらず心を許さず、源氏を遠く気恥ずかしい相手のように扱っています。年を重ねるにつれて、むしろ二人の心の隔たりは大きくなっていました。源氏はそれを苦しく思い、言いました。

「時々くらいは、もう少し普通のご様子を見せてほしいものです。私はあれほどひどい病気をしたのに、『具合はいかがですか』とさえ尋ねてくださらない。いつものこととはいえ、やはり恨めしく思います」

 葵の上はようやく、横目で源氏を見て言いました。その目元は、こちらが気後れするほど気高く、美しいものでした。

「お尋ねしないことが、そんなにつらいものなのでしょうか」

「たまにお話しになったと思えば、ずいぶんなお言葉ですね。『尋ねないのがつらい』などという言い方をするような間柄ではないでしょう。いつもこうして冷たく扱われるものですから、いつかお気持ちが変わることもあるだろうかと、あれこれ心を尽くしているのに、ますます嫌われていくようです。まあ、よいでしょう。命さえあれば――」

 源氏はそう言って夜の寝所へ入りました。しかし葵の上はすぐには入ってきません。何度も声をかけた末、源氏はため息をついて横になりました。葵の上のそんな態度が少し気に入らなかったのでしょう。眠そうなふりをしながらも、源氏の心にはあれこれと思い悩むことがありました。

 中でも、あの若草のような少女がこれからどう育っていくのか、やはり見てみたいという思いが離れません。

「尼君が『まだ似つかわしくない年齢だ』と言ったのは、確かにもっともなことだ。まともに話を進めるのは難しい。それなら何とかして、安心できる形で迎え取り、朝夕の慰めとしてそばで見ていられないだろうか」

 父親の兵部卿宮は、たいそう上品で優雅な方ですが、藤壺ほどの華やかな輝きがあるわけではありません。それなのに、どうしてあの少女はこれほど藤壺の一族らしい顔立ちなのだろう――父宮と藤壺が同じ后から生まれた兄妹だからなのだろうか。そう考えると、その血縁までがひどく親しく思われ、少女への思いはいっそう深まりました。

 翌日、源氏は北山へ手紙を送りました。僧都にも、自分の気持ちをそれとなく伝えるよう頼んだのでしょう。尼君にはこう書きました。

「あまりに距離を置かれたご様子が気恥ずかしく、私の思っていることをすべて申し上げることができないまま帰ってしまいました。これほどまで申し上げていることだけでも、普通ではない私の気持ちを分かっていただければ、どれほど嬉しいでしょう」

 その中に、小さく結んだ紙が入っていました。

面影は身をも離れず山桜心の限りとめて来しかど

 ――山桜のようなあの方の面影は、私の身から離れません。心だけはできる限り、あの山に残してきたつもりなのですが。

「一夜の風に、その桜が散ってしまわないか、それさえ心配でございます」

 筆跡の美しさは言うまでもありません。それだけでなく、何気なく紙を包んだ様子まで、年を重ねた女房たちの目にはまぶしいほど魅力的に見えました。

「まあ、困ったこと。何とお返事したらよいのでしょう」

 尼君は悩んだ末、返事をしました。

「お帰りになるときのお言葉は、ほんの軽いお気持ちから出たものだと思っておりました。それなのに、わざわざこうしてお手紙までくださったので、何と申し上げればよいか分かりません。あの子は、まだ『難波津』の歌さえ、きちんと続けて書くことのできないほど幼いのでございます。お相手になる甲斐もございません。それでも――」

嵐吹く尾の上の桜散らぬ間を心とめけるほどのはかなさ

 ――山の峰の桜が嵐に散ってしまわない、その短い間だけ心を留めていらっしゃる。その程度のはかないお気持ちなのではないでしょうか。

「そう思いますと、なおさら心配でございます」

 僧都からの返事も同じような内容だったので、源氏はがっかりしました。

 二、三日して、源氏は惟光を北山へ行かせました。

「少納言の乳母という人がいるはずだ。その人を探して、こちらの気持ちを詳しく話してきてくれ」

 こうしたことになると、どこまでも手を回す源氏です。あれほど幼い様子だったのに――と、はっきり見たわけでもない少女の姿を思い返すだけでも、源氏には楽しいのでした。

 わざわざ源氏から手紙が来たので、僧都も恐縮しました。惟光は少納言の乳母へ連絡を取り、実際に会って、源氏がどれほど深く姫君のことを思っているか、また普段どのような人なのかまで詳しく話しました。惟光はもともと話好きなので、もっともらしく次々と言葉を並べます。

 それでも女房たちは皆、「あれほど幼い姫君を、源氏の君はいったいどうなさるつもりなのだろう」と、不安でなりませんでした。

 源氏の手紙にも、たいそう心を込めた言葉が書かれています。その中には、

「あの姫君が、自由に書いた文字をやはり見てみたいものです」

 とあり、歌も添えられていました。

あさか山浅くも人を思はぬになど山の井のかけ離るらむ

 ――私は浅香山という名のように浅い気持ちであの方を思っているのではありません。それなのに、どうして山の井は遠く離れたままなのでしょう。

 返歌には、

汲み初めてくやしと聞きし山の井の浅きながらや影を見るべき

 ――汲み始めたことを後悔するという山の井。その浅い水のまま、あなたのお姿を映してよいものでしょうか。まだ浅いご縁のうちに、軽々しくお任せするわけにはまいりません。

 惟光も源氏と同じことを繰り返し説得しましたが、返事は、

「こちらの尼君のご病気がよくなりましたら、しばらくして都のお邸へ戻られるでしょう。そのとき改めてお話し申し上げます」

 というものでした。源氏は待ち遠しくてなりません。

藤壺との密会と懐妊

 そのころ、藤壺の宮は体調を崩して、宮中から里の邸へ退出していました。帝が藤壺のことを心配し、恋しがっていらっしゃるご様子を見れば、源氏もたいそう申し訳なく思います。それでも、「せめてこんな機会にでも」と心が浮き立ってしまい、ほかのどこへも出かけず、宮中にいても自邸にいても、昼はただ物思いに沈んで暮らしました。そして夜になると、王命婦おうみょうぶを責め立て、なんとか藤壺に会わせてくれと頼み続けました。

 王命婦がどのように手を尽くしたのでしょう。とうとう無理を重ねて、源氏は藤壺にお会いすることができました。そのひとときさえ、現実のこととは思えないほどでした。

 藤壺は、以前のあの信じがたい出来事を思い出すだけでも、それが一生消えることのない物思いとなっていました。「せめて、あれ一度きりで終わらせよう」と深く決心していたのに、また同じことになってしまったのです。ひどくつらそうな様子をなさっています。

 それなのに、藤壺の姿はやはり優しく愛らしく、だからといって気安く打ち解けることはなく、深い思慮と気品のある振る舞いをしています。そこには、やはり普通の人とはまったく違うものがありました。

「どうしてこの方には、ほんの少しも平凡なところがないのだろう。何か一つくらい普通のところがあってもよかったのに」

 源氏は、そんなことまで恨めしく感じました。

 どれほど思いを語っても語り尽くすことはできません。このまま人目のない暗い山中にでも二人で隠れてしまいたいほどですが、こんなときに限って夏の夜は短く、たちまち明けようとします。会えたことがかえってつらさを増すような逢瀬でした。

見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがて紛るる我が身ともがな

 ――こうしてお会いできても、再び会える夜はめったにないのでしょう。それならいっそ、この夢のようなひとときの中へ、私の身もそのまま消えてしまいたい。

 源氏がむせぶように詠む姿は、藤壺の心にも、さすがに深く迫るものがありました。

世語りに人や伝へむたぐひなく憂き身を覚めぬ夢になしても

 ――たとえこの上なくつらい私の身を、覚めることのない夢の中へ消してしまったとしても、このことが世間の語り草となって人から人へ伝わってしまうのではないでしょうか。

 藤壺がここまで思い乱れるのも、無理のないことでした。王命婦が源氏の直衣などを急いで集めて持ってきます。

 源氏は自邸へ帰ると、泣きながら横になり、そのまま一日を過ごしました。その後も手紙を送りますが、藤壺からは、いつものように「ご覧にならない」という返事しかありません。いつものこととはいえ、源氏はひどくつらく、茫然としたまま、宮中にも二、三日出仕せず自邸へ籠もりました。

 すると帝が、「またどうしたのだろう」と心配なさるに違いない。そのことまで、源氏には恐ろしく感じられました。

 一方の藤壺も、「私は本当に、なんというつらい身の上なのだろう」と嘆いているうちに、体調までますます悪くなりました。帝からは早く宮中へ戻るよう、ひっきりなしに使いが来ますが、とても戻る気にはなれません。

 実際、いつもの病気とはどこか違うようです。藤壺には、人には言えない心当たりもありました。「これは、いったいどうなるのだろう」と、ただ恐ろしく、心を乱すばかりです。暑いころになると、ますます起き上がることさえできなくなりました。

 懐妊して三か月ほどになると、さすがにはっきり分かるようになり、周囲の人々も気づきました。まったく思いもよらないことなので、皆は、

「どうして今月になるまで、ご懐妊のことを帝へ申し上げなかったのでしょう」

 と驚きました。ただ藤壺自身だけは、何が起きたのか、はっきり心の中で分かるところがありました。

 湯殿などにも親しく仕え、普段から藤壺のご様子をよく知っている乳母子の弁や王命婦は、何かおかしいとは感じました。しかし互いに口に出して相談できるようなことではありません。王命婦は、どうしても逃れられなかったこの運命を恐ろしく思いました。

 宮中へは、物の怪に悩まされていたため、長いあいだ懐妊の兆候がはっきりしなかったのだろうと申し上げたのでしょう。周囲の人々も、そのように思いました。

 帝は藤壺を以前にも増して愛しく思われ、限りなく大切になさいます。使いが絶え間なく来ることさえ、藤壺には空恐ろしく、物思いの暇がないほどでした。

 源氏もまた、ひどく異様でただならない夢を見ました。夢占いをする者を呼んで意味を尋ねると、源氏自身もまったく思いもしなかったような、あまりに大それた筋のことを占い出しました。

「ただ、その中に一つ、予定とは違うことの起こる兆しがございます。よくお慎みになる必要がございます」

 そう言われて、源氏は面倒なことになったと思いました。

「これは私自身の夢ではない。別の人のことについて見た夢なのだ。この夢の意味が現実になるまでは、ほかの誰にも話してはならない」

 そう口止めしながらも、源氏は心の中で、「いったい何を意味しているのだろう」と考え続けました。そして藤壺の懐妊を聞くと、「もしかすると――」と、夢の意味と結びつけずにはいられません。

 源氏はますます激しい言葉を尽くして藤壺へ手紙を送りました。しかし王命婦にしてみれば、ただでさえ恐ろしいことが、ますます面倒なことになっていくばかりです。もう二人を会わせる方法など、とても考えられません。

 以前はほんの一行ほど、たまに返事が来ることもありましたが、それさえ完全に途絶えてしまいました。

 七月になって、藤壺はようやく宮中へ戻りました。久しぶりにその姿を見ることができ、源氏の思いはいよいよ深くなります。藤壺は少しふっくらしていましたが、病み疲れて顔が痩せた様子もあり、それがかえって比べるもののないほど美しく見えました。

 帝はいつものように朝から晩まで藤壺のそばにいらっしゃいます。季節もだんだん管弦の遊びにふさわしいころになり、源氏も絶えず呼び寄せられて、琴や笛などをさまざまに演奏しました。

 源氏は必死に思いを隠しています。それでも、どうしても抑えられない気持ちが、ふとした瞬間に表情へ漏れ出してしまうことがありました。藤壺もそれを見るたび、さすがにさまざまなことを心の中で思い続けていたのでした。

尼君の死と若紫への再訪

 一方、北山にいた尼君は病気が少しよくなり、山を出て都へ戻っていました。源氏はその住まいを調べ、時々手紙を送りましたが、あちらからの返事は以前と変わらず慎重なものばかりです。それも無理のないことではありました。

 そのうえ、この数か月は藤壺のことで以前にも増す物思いに沈んでいたため、若紫のこともこれといった進展のないまま日が過ぎていきました。

 秋の終わり近く、源氏はひどく心細い思いに沈んでいました。月の美しい夜、ようやく思い立って、人目を忍んで通っている女性のもとへ出かけたところ、時雨めいた雨がさっと降りかかります。その女性の住まいは六条京極のあたりで、宮中から向かえば少し遠く感じられました。

 途中に、木立まで古び、暗く見える荒れた邸があります。いつものように供をしていた惟光が言いました。

「ここは故按察使大納言のお邸でございます。先日、用事のついでに様子を尋ねましたところ、あの尼上はひどく弱ってしまわれ、もう何も分からないほどだと申しておりました」

「それは気の毒なことだ。お見舞いしなければならなかったのに。なぜ早くそう言わなかったのだ。中へ入って、こちらからの挨拶を伝えてくれ」

 源氏は人を入れて、わざわざ見舞いに立ち寄ったことを伝えさせました。中の人々は驚きます。

「まあ、なんて申し訳ないことでしょう。このところ尼君は本当に頼りないほど弱っていらっしゃいますので、ご対面などはとてもできそうにございません」

 それでも源氏をそのまま帰すのは恐れ多いので、南の廂の間を急いで整え、中へ招きました。

「たいそうむさ苦しいところではございますが、せめてお礼だけでも申し上げたく存じます。思いがけず、こんな奥深いところへお通ししてしまいまして」

 源氏自身も、普段ならこうした場所へ入り込むことはありません。

「以前から何度も伺おうと思っておりましたが、いつも望みのなさそうなお返事ばかりでしたので、遠慮していたのです。これほど重くお患いだとは知らず、ずっと気にかかっておりました」

 源氏が丁寧に見舞いの言葉を述べると、尼君からも返事がありました。

「体調が悪いのはいつものことでございましたが、とうとう命の終わりかと思われるほどになりました。こうして恐れ多くもお立ち寄りくださったのに、自分からお話しできないことを残念に思います。

 以前おっしゃってくださったことが、もし今も少しもお変わりないのでしたら、私がこの世を去ったあと、どうかあの子を忘れず、人並みにお扱いください。ひどく心細そうなあの子を残していくことだけが、私が願っている仏の道の妨げになりそうに思われるのでございます」

 すぐ近くなので、弱った尼君の声が途切れ途切れに源氏にも聞こえました。

「本当にありがたいことでございます。この子がせめて、自分からお礼を申し上げられるくらいの年齢であればよいのですが」

 尼君の言葉を聞いて、源氏も胸を打たれました。

「どうして浅い気持ちであるなら、わざわざこのように色好みと思われかねない姿までお見せして、何度も申し上げましょう。どういう前世からの縁なのか、初めて姫君を拝見したときから、ひどく心にかかるのです。それも、自分でも不思議なほど、この世だけの縁とは思えません。

 こうして伺っても、思いがかなわないことばかりです。せめて、あの幼い姫君の声を一言だけでも聞かせていただけませんか」

「まあ。何も分からないまま、もうお休みになってしまいました」

 ちょうどそう答えているとき、向こうから少女がやって来る音がしました。

「おばあさま、この寺にいた源氏の君がいらしているのでしょう。どうしてご覧にならないの」

 女房たちは、なんてことを言うのだろうと困り、

「しっ、静かになさい」

 と止めます。

「だって、この前あの方を見たら具合の悪いのが少しよくなった、とおばあさまがおっしゃっていたから」

 少女は、自分ではたいそう気の利いたことを言ったつもりなのでしょう。源氏には、その声がなんともかわいらしく聞こえました。しかし女房たちが困っているので、聞こえなかったふりをして、尼君へのまじめな見舞いの言葉を残し、その日は帰りました。

「なるほど、本当にまだ何も分からない子なのだ。それでも私なら、きっときちんと教えて育てられるだろう」

 源氏はそう思います。

 翌日も、たいそう心を込めて見舞いの手紙を送りました。いつものように少女への小さな紙も添え、わざと幼い感じの字で書きます。

いはけなき鶴の一声聞きしより葦間になづむ舟ぞえならぬ

 ――幼い鶴のようなあなたの一声を聞いてから、葦の間で進めずにいる舟のように、私の心はこれまで以上にあなたに引かかり、身動きができません。

「あのとき聞いたのと同じ方でしょうか」

 とまで、わざと子どもっぽく書いてありました。あまりに美しい手紙なので、女房たちは、

「このまま姫君の字のお手本にしてしまいましょう」

 と言いました。

 少納言の乳母から返事が届きました。

「お尋ねくださった尼君は、今日一日さえ越せそうにないご様子で、山寺へお移しするところでございます。このようにお見舞いくださったありがたさは、この世からでなくとも、あの世から申し上げることになるでしょう」

 源氏は、ひどく心を痛めました。

 秋の夕暮れは、ただでさえ人の心を休ませません。まして源氏は、思い乱れている藤壺のことに心を奪われながら、その藤壺につながる少女まで、どうしても自分のそばに置きたいという気持ちがますます強くなっています。

 北山で尼君が「この子を残しては消えていくこともできない」と歌った夕暮れを思い出すと、少女が恋しくてなりません。それでも、「もう一度実際に会ってみたら、最初に見たほどには思えないこともあるだろうか」と、さすがに少し不安にも思います。

手に摘みていつしかも見む紫の根にかよひける野辺の若草

 ――紫草と同じ根につながっている野辺の若草を、早くこの手で摘み取り、そばで眺めてみたい。藤壺につながる少女を、一日も早く自分のもとへ迎えたいという歌でした。

 十月には朱雀院すざくいんへの行幸が予定されていました。舞人には高貴な家の子弟や上達部、殿上人の中から、それぞれふさわしい者が選ばれ、親王や大臣をはじめ、皆さまざまな芸を練習しなければなりません。源氏にも暇がありませんでした。

 そのため長く山里の人々へ便りを出していなかったことを思い出し、わざわざ手紙を送りました。ところが返ってきたのは、僧都からの手紙だけでした。

「先月二十日ごろ、とうとう妹は亡くなりました。世の中の道理とは分かっておりますが、それでも悲しく思っております」

 それを読むと、源氏にもこの世のはかなさがしみじみ感じられました。そして、あれほど少女のことを心配していた尼君が亡くなり、あの子は今どうしているのだろう、まだ幼いのだから祖母を恋しがっているだろうと思いやります。

 自分も幼いころに亡き母に先立たれたことを、はっきりとは覚えていないながらも思い出し、心を込めて弔いの手紙を送りました。少納言の乳母からも、品のある返事がありました。

源氏、若紫のもとへ通う

 喪の忌みが過ぎ、少女たちが都のもとの邸へ戻ったと聞いてから少し日がたち、源氏はある静かな夜、自分からその邸を訪ねました。

 そこはひどく荒れ、人も少なく、もの寂しい場所でした。こんなところで幼い少女が暮らすのは、どれほど恐ろしいことだろうと源氏には思われます。以前と同じ部屋へ通され、少納言の乳母が尼君の最期の様子などを、泣きながら詳しく話しました。聞いている源氏も、いつの間にか袖を涙で濡らしていました。

 少納言は続けて言いました。

「父宮さまは、姫君をご自分のお邸へお移しになるおつもりのようでございます。しかし亡くなった母君は、宮のことを本当に情けなく、つらい方と思っていらっしゃいました。

 姫君はもうまったくの赤子ではありませんが、人の気持ちや世間の事情を十分にお分かりになる年でもなく、ちょうど中途半端に幼い年齢でございます。宮のお邸には大勢のお子さまたちもいらっしゃるそうですから、その中で軽く扱われる一人になってしまうのではないかと、亡くなった母君もずっと心配していらっしゃいました。そして、そうなりそうな気配もいろいろございます。

 ですから、あなたさまがこのようにありがたいお言葉をくださるのは、この先のお気持ちがどうなるのかまでは分からないながら、本当ならたいそううれしく思うべき機会なのかもしれません。けれど姫君は少しも大人びたところがなく、実際の年齢よりもさらに幼く育っていらっしゃいますので、やはり困ってしまうのでございます」

「どうして、これほど繰り返し私の気持ちをお伝えしているのに、まだそんなに遠慮なさるのでしょう。あの何も分からない幼い様子が、かえって愛しく、もっと知りたいと思えること自体、普通ではない縁なのだと、自分でも分かるのです。やはり人づてではなく、自分から直接いろいろお話ししたいものです」

あしわかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへる波かは

 ――和歌の浦で海松布を見ることが難しいように、幼い姫君にお会いするのが難しいとしても、私はこのまま立ったまま引き返していく波ではありません。

「このまま帰されたら、あまりにひどいではありませんか」

 少納言は、「本当に恐れ多いことでございます」と言いながら返しました。

寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかむほどぞ浮きたる

 ――寄せてくる波であるあなたのお心がどのようなものかも分からないまま、和歌の浦の玉藻である姫君がなびいてしまうのは、あまりに頼りないことでございます。

「本当に困ったことでございます」

 少納言の受け答えがずいぶん慣れたものなので、源氏も少し気をよくしました。そして「なぞ越えざらん」と古歌の一節を口ずさみます。その声を聞いた若い女房たちは、胸にしみるように感じました。

 一方、少女は亡くなった尼君を恋しがって、泣き伏していました。遊び相手の童女たちが、

「直衣を着た方がいらっしゃいます。父宮さまがお越しになったのでしょう」

 と言うと、少女は起き上がりました。

「少納言。直衣を着た方はどこ。父宮さまがいらしたの」

 そう言って近づいてくる声まで、たいそうかわいらしく聞こえます。

「父宮ではありませんが、あなたが忘れてよい人でもありませんよ。こちらへいらっしゃい」

 源氏が声をかけると、少女も、北山で見かけて恥ずかしく思ったあの人だと気づきました。さきほど父宮だと思って口にしたことを聞かれてしまったと思い、乳母のそばへ寄ります。

「もう寝ましょう。眠いの」

「今さらどうして隠れるのです。この膝の上でお休みなさい。もう少しこちらへいらっしゃい」

 源氏がそう言うので、乳母も、

「ですから申し上げましたでしょう。本当にまだ世間のことなど何も分からないお年なのです」

 と言いながら、少女を源氏のそばへ押しやりました。

 少女は何も分からないまま座っています。源氏が手を差し入れてそっと髪のあたりを探ってみると、柔らかな衣の上につやつやした髪がかかり、毛先まで豊かにふさふさとしているのが手に触れました。その様子を思うだけでも、ひどくかわいらしく感じられます。

 源氏が手を取ると、少女は、いつもならそばにいない男の人がこんなに近づいてくるのを怖がりました。

「寝るって言っているのに」

 強く奥へ引っ込もうとする少女について、源氏もそのまま中へ滑り込むように入りました。

「今からは、私があなたを大切に思う人なのですよ。嫌わないでください」

 乳母は困り果てました。

「まあ、なんということでしょう。不吉なほど困ったことでございます。いくら姫君にお話しして聞かせても、今はまだ何もお分かりになりませんのに」

「そうはいっても、いつまでもこのまま幼いわけではないでしょう。どうか、これから私がどれほど並外れて大切にするかを見届けてください」

 外では霰が激しく降り、荒れた恐ろしい夜になりました。

「どうしてこんなに人の少ないところで、心細く暮らしていられるのでしょう」

 源氏は涙ぐみました。少女をそのまま置いて帰ることが、どうにもできないほど気がかりになったのです。

「格子を下ろしなさい。こんな恐ろしい夜ですから、私が今夜は宿直人になって泊まりましょう。女房たちも近くに控えていなさい」

 そう言って、まるで以前から住んでいる人のような顔で御帳の中へ入ってしまいました。誰もが、あまりに思いがけないことに呆然としています。乳母は心配でどうしようもありませんが、高貴な源氏を乱暴に追い返すことなどできず、ため息をつきながらそばに控えていました。

 少女はひどく怖がり、「いったいどうなるのだろう」と震えています。そのかわいらしい肌まで寒そうに見えるので、源氏はますます愛しく思い、単衣一枚ほどをかけて包んでやりました。自分でも、こんな振る舞いを少し妙なことだとは感じながらも、優しく話しかけます。

「さあ、私のところへいらっしゃい。きれいな絵がたくさんあって、雛遊びもできるところですよ」

 少女が喜びそうなことを、とても優しい声で話します。その親しみのある様子には、幼い少女もそれほど強く怖がらなくなりました。それでもやはり落ち着かず、眠ることもできず、何度も身じろぎして横になっていました。

 一晩中、風が吹き荒れます。女房たちは小声で、

「本当に、この方がいらっしゃらなかったら、どれほど心細い夜だったでしょう」

「どうせなら、姫君がもう少しふさわしいお年になってからならよかったのに」

 などと話し合っていました。乳母は心配なので、ずっとすぐ近くに控えています。

 風が少し弱まったころ、源氏はまだ夜の深いうちに帰ることにしました。こんな時刻に出ていくのも、まるで本当に深い関係があったかのように見える振る舞いです。

「こんなに心細いご様子を拝見してしまった以上、今からは片時でも気になって仕方がないでしょう。私がいつも暮らしているところへ、お移ししたいものです。このままずっとここにいるのも、どうでしょう。それにしても、思っていたほど私を怖がってはいらっしゃらなかったようですね」

「父宮さまも、お迎えに来ようとおっしゃっているようでございます。ただ、尼君の四十九日が過ぎてからにしようかと思っております」

「父宮なら確かに頼りになる血筋ではあります。しかし、これまで離れて育ってこられたのですから、姫君にしてみれば同じようによそよそしく感じられるでしょう。私は最近知ったばかりですが、姫君を思う気持ちなら、誰にも負けないほど深くなっています」

 源氏は少女を何度も撫で、振り返りながら邸を出ました。

 空には深い霧が立ちこめ、霜は真っ白に降りています。本当の恋人のもとから帰る朝であれば、たいそう風情のある景色でしょう。源氏はどこか物足りない気持ちになりました。

 ちょうどこの道は、以前から人知れず通っている女性の家の近くです。それを思い出して門を叩かせましたが、誰も気づきません。仕方なく、供の中で声のよい者に歌わせました。

朝ぼらけ霧立つ空のまよひにも行き過ぎがたき妹が門かな

 ――朝霧に迷うようなこんな夜明けでも、あなたの家の門だけは、そのまま通り過ぎることができません。

 二度ほど歌わせると、事情の分かる下仕えの女が一人出てきました。

立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは草のとざしにさはりしもせじ

 ――霧のかかった垣根の前で立ち止まり、そのまま通り過ぎるのがおつらいのでしたら、草の戸くらいがあなたの邪魔をすることはないでしょう。

 女はそう言いかけ、そのまま中へ入りました。ほかには誰も出てきません。このまま帰るのも情けないことですが、空はもう明るくなり始めています。源氏は仕方なく、自邸へ帰りました。

 さきほどのかわいらしい少女が恋しく、思い出しては一人微笑みながら横になります。日が高くなってから起き、少女へ手紙を書こうとしましたが、普通の恋文とはまるで勝手が違い、どんな言葉を書けばよいのか分かりません。何度も筆を置きながら、思いつくままに書き、少女が喜びそうな美しい絵なども贈りました。

 ちょうどその日、父の兵部卿宮が少女のところへやって来ました。長い年月の間に以前よりいっそう荒れ、広く古びた邸には、相変わらず人も少ないままです。

「こんなところで、幼い子がどうして少しの間でも暮らしていられるだろう。やはり私の邸へ移してしまおう。何も窮屈なことはない。乳母には部屋を与えてそばに仕えさせればよいし、姫君には若い女房たちもいるから、一緒に遊んで楽しく暮らせるだろう」

 宮が少女を近くへ呼び寄せると、昨夜の源氏から移った香りが少女の衣にたいそう艶やかに染みついています。宮は「なんとよい香りだろう」と思いました。一方で、少女の衣はかなり着くたびれているので、かわいそうにも感じられます。

「これまでも、年を取った人にばかり付き添って暮らしているのは気の毒だから、こちらへ来て人に慣れなさいと言っていたのに、どういうわけか私を嫌っているようで、周囲の人々まで遠慮していたらしい。それでも、こんなときまでここに置いておくのはかわいそうだ」

「いいえ。心細くても、もうしばらくはこちらでお過ごしになってよろしいでしょう。もう少し物事がお分かりになるようになってからお移りになる方が、よろしゅうございます」

「昼も夜も祖母を恋しがって、ろくに食事もなさらないそうではないか」

 実際、少女はひどく顔が痩せていました。けれど、そのためにかえって気品が増し、たいそう美しく見えます。

「どうしてそれほど悲しむのだ。もうこの世にいない人のことを、いくら思っても仕方がない。これからは私がいるのだから」

 宮は優しく話しかけました。そして夕方になって帰ろうとすると、少女はひどく心細くなり、泣き出しました。宮も涙を浮かべ、

「そんなに思い詰めないでおくれ。今日か明日にでも迎えに来よう」

 と何度もなだめて帰っていきました。

 宮が帰ったあとも、少女の悲しみは簡単には慰められません。これから自分の身がどうなるのかなど、まだ考えられる年齢ではありません。ただ、これまで何年も片時も離れず一緒にいた祖母が、もうこの世にいない。そのことだけが悲しくてたまらないのです。

 幼いながら胸がいっぱいになり、いつものように遊ぶこともありません。昼の間はそれでも何かに紛らわせることができますが、夕暮れになるとひどくふさぎ込むので、乳母たちもどう慰めたらよいか分からず、一緒に泣きました。

 そこへ源氏のもとから惟光がやって来ました。

「本当なら自分で伺いたいのですが、宮中からお召しがありまして。昨日、姫君のご様子があまりにおいたわしく見えたので、心配で落ち着いていられません」

 という源氏の伝言とともに、夜の警護をする者まで送ってきました。

 少納言は困ります。

「なんとも困ったことでございます。たとえお戯れにしても、男女のことの始まりが、この姫君のこんなお年であるとは。もし父宮さまがお聞きになれば、『仕えている者たちの世話が行き届かないからだ』と、私たちが責められるでしょう。

 どうか、何かの拍子に姫君が何も分からないまま、このことを口に出してしまわないようにしてください」

 そんな心配をしても、当の少女は、それが何のことなのかさえ分かっていないのです。

 少納言は惟光に事情を話しました。

「何年もたったあとなら、それも運命ということで、逃れられないご縁になることもあるのでしょう。けれど今は、どう考えても姫君にはまったく似つかわしくないお話だと思っております。

 源氏の君が不思議なほど強くおっしゃるので、いったいどういうお気持ちなのか、私にも見当がつかず困っているのです。今日も父宮さまがいらして、『安心してお仕えしなさい。いつまでも幼い子のように扱ってはいけない』とおっしゃいました。それを聞くと、かえって源氏の君のお話まで思い出され、ますます厄介に思われました」

 ただ、「惟光まで、何か重大な事情があると思うだろうか」と考えるのも余計なので、あまり大げさに嘆いている様子は見せませんでした。惟光の方も、源氏がいったい何を考えているのか、よく分かりません。

 惟光が帰って少女の様子を詳しく報告すると、源氏はかわいそうに思いました。しかし毎晩のようにあの邸へ通うのも、さすがに不自然です。「あまりに軽率な変わり者だと人に漏れ聞かれるのも困る」と考え、とうとう、「それなら、もうあの子をこちらへ迎えてしまおう」と思うようになりました。

 手紙だけは何度も送りました。夕方になると、また惟光を使いにします。

「いろいろ差し支えることがあって、自分で伺うことができません。私の気持ちが薄いと思われてはいないでしょうか」

 返事は短いものでした。

「父宮さまが、明日急に姫君をお迎えになるとおっしゃいましたので、こちらは慌ただしくしております。長年住み慣れた蓬の生い茂るこの家を離れるのも、やはり心細く、仕えている者たちも皆思い乱れております」

 中では衣などを縫い、引っ越しの準備をしている気配がはっきりしています。惟光はそのまま源氏のもとへ帰りました。

若紫を二条院へ連れ出す

 そのころ源氏は左大臣邸にいました。葵の上は相変わらず、すぐには顔を合わせようとしません。源氏は面白くなく思い、東琴あずまごとを軽くかき鳴らしながら、「常陸には田をこそ作れ」という歌を、たいそう艶のある声で口ずさんでいました。

 そこへ惟光が戻ってきたので、源氏はそばへ呼び、少女の様子を尋ねました。そして父宮が明日にも迎えに来ると聞くと、ひどく残念に思います。

「父宮の邸へ移ってしまったあとで、わざわざ迎えに行けば、あまりに色好みらしく見えるだろう。幼い子を盗み出したとまで非難されるに違いない。それなら、その前にこちらへ移してしまおう。しばらくは誰にも秘密にしておけばよい」

 そう決心し、惟光に命じました。

「明け方、あの邸へ行く。車の用意はそのままにしておき、随身も一人か二人だけ待機させておけ」

 惟光は承知して退出しました。

 それでも源氏自身、これでよいのだろうかと考えないわけではありません。世間に知られれば、ひどく色好みな男と思われるでしょう。相手の女性に世間のことを理解する分別があり、互いに心を通わせたうえでのことなら、普通の恋として考えてもらえるかもしれません。しかし今回は、相手があまりに幼い少女です。

 父宮が少女の行方を探し出したときにも、なんともきまりの悪いことになるでしょう。源氏はあれこれ思い悩みました。それでも、この機会を逃してしまうことの方が、どうしても残念に思われます。

 まだ夜の深いうちに、源氏は左大臣邸を出ることにしました。葵の上はいつものように不機嫌そうで、心を許さないままです。

「あちらで、どうしても見届けておかなければならないことを思い出しました。すぐに帰ってまいります」

 そう言って出ていったので、左大臣邸の人々でさえ、どこへ行くのか知りませんでした。自分の部屋へ戻って直衣などに着替え、惟光一人だけを馬に乗せて連れていきます。

 少女の邸の門を叩かせると、事情を知らない者が開けました。源氏は車をそっと中へ入れさせます。惟光が妻戸を鳴らして咳払いをすると、少納言が声を聞き分けて出てきました。

「殿がいらっしゃいました」

「幼い姫君はもうお休みになっております。それにしても、どうしてこんな夜の深いうちにいらしたのでしょう」

 少納言は、何か話をするよい機会なのだろうと思っていました。

「父宮のお邸へお移りになるそうですから、その前に申し上げておきたいことがあって来たのです」

「いったい何のお話でございましょう。こんな幼い姫君が、しっかりしたお返事を申し上げられるはずもございませんのに」

 少納言は少し笑いながら座っています。

 ところが源氏がそのまま中へ入ってくるので、少納言はひどく困りました。

「皆、すっかり気を許した姿で、みっともない年寄りたちまでおりますのに」

「姫君はまだお目覚めではないでしょうね。では、私が起こして差し上げよう。こんな朝霧が出ているのに、何も知らずに眠っているものではありませんよ」

 源氏はそのまま奥へ入ってしまいます。誰も、とっさに止めることができませんでした。

 少女は何も知らずに眠っています。源氏が抱き上げて起こすと、寝ぼけた少女は、父宮が迎えに来たのだと思いました。

 源氏は少女の髪などを整えてやり、

「さあ、いらっしゃい。父宮のお使いとして迎えに来たのですよ」

 と言います。しかし父宮ではないと分かると、少女は驚き、怖がりました。

「まあ、ひどい。私だって父宮と同じように、あなたを大切に思う人なのですよ」

 源氏は少女を抱き上げ、そのまま外へ出ました。惟光も少納言も驚きます。

「いったい、これはどういうことでございます」

「ここには、いつでも会いに来られるわけではないので心配なのです。もっと安心できるところへお移ししたいと、前から申し上げていたでしょう。それなのに父宮のところへ移ってしまわれるという。そうなれば、今以上にお話しすることが難しくなります。女房を一人、一緒に来させてください」

 少納言は慌てました。

「今日、こんなふうに急にというのは、あまりに都合が悪うございます。父宮さまがお越しになったとき、いったい何と申し上げればよいのでしょう。自然と年月がたち、姫君もしかるべきお年になってからなら、どのようにもできましょう。

 けれど今は、あまりに思いやりのない急なお話でございます。残される女房たちも、どれほど困ることでしょう」

「分かりました。ほかの人はあとから来ればよいでしょう」

 源氏はそう言って、もう車を寄せさせました。人々は、「なんということ。いったいどうなるのだろう」と呆然としています。少女も何が起こっているのか分からず、不安になって泣き出しました。

 少納言には、もう止める方法がありません。昨夜縫っていた少女の衣を何枚か抱え、自分もきちんとした衣へ着替え、車へ乗り込みました。

二条院で始まる新しい暮らし

 二条院は近いので、まだ空も明るくならないうちに到着しました。車を西の対へ寄せ、源氏は少女を軽々と抱き上げて降ろしました。

 少納言は、まだためらっています。

「本当に夢の中にいるような心地でございます。これから、いったいどうすればよいのでしょう」

「それは、あなたの気持ち次第でしょう。あなた自身が姫君についてここまで来たのですから、どうしても帰るというのなら、送り届けて差し上げますよ」

 源氏がそう言うので、少納言は思わず苦笑し、結局車から降りました。

 あまりに突然のことで、胸は少しも落ち着きません。父宮はこれを何と思われるだろう、姫君はこの先どんな身の上になっていくのだろう――何にせよ、頼りにしていた人々に次々と先立たれてしまったことが、何より悲しく思われました。涙が止まりませんが、新しい場所へ来た早々泣くのは縁起が悪いので、必死にこらえています。

 西の対は、普段源氏が住んでいる場所ではないため、御帳なども用意されていませんでした。源氏は惟光を呼び、御帳や屏風をあちらこちらに立てさせます。几帳の帷子を下ろし、寝床もとりあえず整えただけなので、東の対へ夜具を取りに行かせ、そのまま休むことになりました。

 少女は、あまりに不気味で、いったい何をされるのだろうと震えています。それでも大声を上げて泣くことはできません。

「少納言のところで寝る」

 そう言う声は、本当に幼いものでした。

「今からは、もうそんなふうに少納言のところでばかりお休みになってはいけませんよ」

 源氏にそう言われると、少女はひどく悲しくなり、泣き伏してしまいました。少納言も横になることなどできず、何も考えられないまま起きていました。

 夜が明けて周囲が見えてくると、二条院の建物の造りや室内の飾りは、言うまでもなく見事です。庭の白砂まで、玉を重ねたように輝いて見えました。

 少納言はますます自分が場違いに思われ、きまり悪い気持ちでいましたが、幸い、この西の対には普段から女房たちが仕えているわけではありません。あまり親しくない客人などを迎える折に使う場所だったので、御簾の外に男の使用人たちがいるだけでした。

 それでも、源氏が誰かを連れてきたと聞いた人々は、

「いったい誰なのだろう。普通の人ではあるまい」

 とささやき合っています。手水や粥なども、西の対へ運ばれてきました。

 源氏は日が高くなるまで眠り、起きてから言いました。

「こちらには人がいなくて不便ですね。ふさわしい女房たちを、夕方になったらこちらへ移させましょう」

 そして東の対へ使いを出し、童女たちを呼びました。

「小さい子だけを選んで、こちらへ来させなさい」

 そう言われて、かわいらしい童女が四人やって来ました。

 少女はまだ源氏の衣にくるまるようにして横になっています。源氏はどうにか起こし、今からもう教え始めるように話しかけました。

「そんなに私を嫌ってはいけませんよ。何の縁もない人なら、こんなふうにすると思いますか。女の人は、心が柔らかく素直なのがよいのです」

 近くで改めて見る少女の顔は、遠くから垣間見たときよりもさらに美しく、親しみのあるかわいらしさに満ちていました。源氏は優しく話しかけ、美しい絵や遊び道具を取り寄せて見せ、少女が喜びそうなことを次々としてやります。

 少女もしだいに起き上がり、いろいろなものを見るようになりました。濃い鈍色の喪服の、少しくたびれたものを着ています。それでも、何のわだかまりもなくふっと笑う姿があまりにかわいらしいので、源氏もつられて微笑みながら見つめました。

 源氏が東の対へ行ったあいだ、少女は外へ出て、庭の木立や池の方をのぞいてみました。霜に枯れた前栽も、絵に描いたように美しく見えます。少女の知らない四位や五位の男たちが入り交じって、絶えず出入りしていました。

「本当に、すてきなところだな」

 少女はそう思いました。美しい絵の描かれた屏風などを眺め、少しずつ心を慰めているところにも、まだ幼さがありました。

 源氏は二、三日のあいだ宮中へも参らず、少女を自分になつかせようと、ずっと一緒に過ごしました。そのまま自分自身を手本にして育てるつもりなのでしょう。手習いの文字や絵をさまざまに書いては、少女へ見せました。どれもたいそう美しく書かれています。

 その中に、「武蔵野と言えば、つい紫を思わずにはいられない」という趣向で、紫色の紙に書いたものがありました。墨の色までひときわ美しいので、少女はそれを手に取り、じっと眺めています。少し小さな文字で、歌が書いてありました。

ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを

 ――紫草そのものの根は見たことがなくても、その紫草と同じ根につながる武蔵野の草を、私は愛しく思っています。思うようには会えない藤壺と同じ血につながる少女を、愛しく思うという歌です。

「さあ、あなたも何か書いてください」

「まだ、上手には書けないもの」

 少女が何の疑いもなく源氏を見上げるのがかわいらしく、源氏は微笑みました。

「上手でなくても、まったく書かない方がよくありません。私が教えてあげましょう」

 そう言われ、少女は少し横を向きながら筆を取りました。文字を書く手つきも、筆を持つ姿もあまりに幼く、源氏にはただかわいらしく見えるばかりです。自分の心ながら、どうしてこれほどまで愛しく思うのだろうと不思議にさえ感じました。

「書き損なっちゃった」

 少女は恥ずかしがって、書いたものを隠そうとしました。源氏が無理に見てみると、こうありました。

かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらん

 ――何を理由にそんなふうにおっしゃるのか、私は知らないので分かりません。私はいったい、どんな草とつながりがあるのでしょう。

 まだ幼い字ですが、将来の上達を思わせる、ふっくらとした書き方でした。筆跡は亡くなった尼君によく似ています。今風のよい手本を習わせれば、きっとたいそう上手に書くようになるだろうと、源氏は思いました。

 源氏は雛人形のために、わざわざ家までいくつも作らせ、少女と一緒に遊びました。こうして過ごす時間は、それまで源氏を苦しめていたさまざまな物思いを、ずいぶん紛らわせてくれました。

 一方、もとの邸に残された人々は大変なことになっていました。兵部卿宮が姫君を迎えに訪れ、どこへ行ったのか尋ねたのです。女房たちは何と説明すればよいのか分からず、困り果てました。

 源氏も「しばらくは誰にも知らせないでおこう」と言っており、少納言自身もそうした方がよいと思っていたので、厳しく口止めをしました。そして宮には、

「行方は分かりません。少納言の乳母が姫君を連れて、どこかへ隠してしまったようです」

 とだけ申し上げました。

 兵部卿宮はどうすることもできません。亡くなった尼君が、姫君を自分の邸へ移すことをひどく嫌がっていたことも知っています。

「あの乳母が考えすぎるあまり、素直にこちらへ姫を渡すのはよくないと思い、自分勝手にどこかへ連れて行ってしまったのだろう」

 そう思い、泣きながら帰りました。

「もし姫の居場所が分かったら、必ず知らせなさい」

 そう言い残し、僧都のところへも問い合わせましたが、まったく手がかりはありません。兵部卿宮は、あれほど美しい姫君の行方が分からなくなったことを惜しく、恋しく、悲しく思いました。

 宮の北の方も、以前は少女の母を憎く思っていました。しかしその母も今は亡くなり、これからは少女を自分の思うようにできるだろうと思っていたので、そのあてが外れたことを残念に思いました。

 二条院の西の対には、やがて女房たちも次々と集められました。少女の遊び相手となる童女や子どもたちも、皆新しく華やかな様子です。少女は何の悩みもなく、一緒に遊ぶようになりました。

 源氏がいなくて寂しい夕暮れなどにだけ、亡くなった尼君を恋しがって泣くことはありましたが、父宮のことはそれほど思い出しませんでした。もともと一緒に暮らし、毎日顔を見て育ったわけではなかったからです。

 今では源氏を、ただ一人の新しい親のように思い、深くなついてまとわりつくようになりました。源氏が外から帰ってくると、まず少女が出迎え、親しげにあれこれ話し、源氏の懐へ入り込んで座ります。少しもよそよそしくしたり、恥ずかしがったりしません。その意味でも、本当にかわいらしい少女でした。

 女性がもっと成長し、物事を考える心がついてくれば、男女の間にはいろいろと面倒なことが起こります。こちらも相手の心が変わるのではないかと疑い、相手も恨みがちになり、思いもよらないことが自然と生まれてくるものです。

 それに比べ、今の少女は、源氏にとって何の隔てもなくかわいがることのできる、格別な存在でした。実の娘であっても、このくらいの年齢になれば、父親とこれほど気安く振る舞い、何の隔てもなく一緒に寝起きすることはなかなかできないでしょう。源氏は、この少女を普通とはまったく違った形で大切に育てていこうと思っているのでした。

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