『源氏物語』第48帖「早蕨」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第48帖「早蕨」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第48帖「早蕨」現代語訳全文をご覧ください。

目次

薮し分かねば、春の光を

 薮やぶし分わかねば、春はるの光ひかりを見みたまふにつけても、「いかでかくながらへにける月日つきひならむ」と、夢ゆめのやうにのみおぼえたまふ。

 行ゆき交かふ時々ときどきにしたがひ、花はな鳥とりの色いろをも音ねをも、同おなじ心こころに起おき臥ふし見みつつ、はかなきことをも、本末もとすゑをとりて言いひ交かはし、心細こころぼそき世よの憂うさもつらさも、うち語かたらひ合あはせきこえしにこそ、慰なぐさむ方かたもありしか、をかしきこと、あはれなるふしをも、聞きき知しる人ひともなきままに、よろづかきくらし、心こころ一ひとつをくだきて、宮みやのおはしまさずなりにし悲かなしさよりも、ややうちまさりて恋こひしくわびしきに、いかにせむと、明あけ暮くるるも知しらず惑まどはれたまへど、世よにとまるべきほどは、限かぎりあるわざなりければ、死しなれぬもあさまし。

 阿闍梨あざりのもとより、

「年とし改あらたまりては、何なにごとかおはしますらむ。御おほん祈いのりは、たゆみなく仕つかうまつりはべり。今いまは、一所ひとところの御おほんことをなむ、安やすからず念ねんじきこえさする」

 など聞きこえて、蕨わらび、つくづくし、をかしき籠こに入いれて、「これは、童わらはべの供養くやうじてはべる初穂はつほなり」とて、たてまつれり。手ては、いと悪あしうて、歌うたは、わざとがましくひき放はなちてぞ書かきたる。

「君きみにとてあまたの春はるを摘つみしかば常つねを忘わすれぬ初蕨はつわらびなり

御前おまへに詠よみ申まうさしめたまへ」

 とあり。

大事と思ひまはして詠み出だしつらむ

 大事だいじと思おもひまはして詠よみ出いだしつらむ、と思おぼせば、歌うたの心こころばへもいとあはれにて、なほざりに、さしも思おぼさぬなめりと見みゆる言ことの葉はを、めでたく好このましげに書かき尽つくしたまへる人ひとの御おほん文ふみよりは、こよなく目めとまりて、涙なみだもこぼるれば、返かへり事ごと、書かかせたまふ。

「この春はるは誰たれにか見みせむ亡なき人ひとのかたみに摘つめる峰みねの早蕨さわらび」

 使つかに禄ろく取とらせさせたまふ。

 いと盛さかりに匂にほひ多おほくおはする人ひとの、さまざまの御おほんもの思おもひに、すこしうち面痩おもやせたまへる、いとあてになまめかしきけしきまさりて、昔人むかしびとにもおぼえたまへり。並ならびたまへりし折をりは、とりどりにて、さらに似にたまへりとも見みえざりしを、うち忘わすれては、ふとそれかとおぼゆるまでかよひたまへるを、

「中納言ちうなごん殿とのの、骸からをだにとどめて見みたてまつるものならましかばと、朝夕あさゆふに恋こひきこえたまふめるに、同おなじくは、見みえたてまつりたまふ御おほん宿世すくせならざりけむよ」

 と、見みたてまつる人ひとびとは口惜くちをしがる。

 かの御おほんあたりの人ひとの通かよひ来くるたよりに、御おほんありさまは絶たえず聞きき交かはしたまひけり。尽つきせず思おもひほれたまひて、「新あたらしき年としともいはず、いや目めになむ、なりたまへる」と聞ききたまひても、「げに、うちつけの心浅こころあささにはものしたまはざりけり」と、いとど今いまぞあはれも深ふかく、思おもひ知しらるる。

 宮みやは、おはしますことのいと所狭ところせくありがたければ、「京きゃうに渡わたしきこえむ」と思おぼし立たちにたり。

内宴など、もの騒がしきころ過ぐして

 内宴ないえんなど、もの騒さわがしきころ過すぐして、中納言ちうなごんの君きみ、「心こころにあまることをも、また誰たれにかは語かたらはむ」と思おぼしわびて、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやの御おほん方かたに参まゐりたまへり。

 しめやかなる夕暮ゆふぐれなれば、宮みやうち眺ながめたまひて、端近はしぢかくぞおはしましける。箏さうの御琴おほんことかき鳴ならしつつ、例れいの、御心みこころ寄よせなる梅むめの香かをめでおはする、下枝しづえを押おし折をりて参まゐりたまへる、匂にほひのいと艶えんにめでたきを、折をりをかしう思おぼして、

「折をる人ひとの心こころにかよふ花はななれや色いろには出いでず下したに匂にほへる」

 とのたまへば、

「見みる人ひとにかこと寄よせける花はなの枝えだを心こころしてこそ折をるべかりけれ

わづらはしく」

 と、戯たはぶれ交かはしたまへる、いとよき御おほんあはひなり。

 こまやかなる御おほん物語ものがたりどもになりては、かの山里やまざとの御おほんことをぞ、まづはいかにと、宮みやは聞きこえたまふ。中納言ちうなごんも、過すぎにし方かたの飽あかず悲かなしきこと、そのかみより今日けふまで思おもひの絶たえぬよし、折々をりをりにつけて、あはれにもをかしくも、泣なきみ笑わらひみとかいふらむやうに、聞きこえ出いでたまふに、ましてさばかり色いろめかしく、涙なみだもろなる御おほん癖くせは、人ひとの御おほん上うへにてさへ、袖そでもしぼるばかりになりて、かひがひしくぞあひしらひきこえたまふめる。

空のけしきもまた、げにぞあはれ知り顔に

 空そらのけしきもまた、げにぞあはれ知しり顔がほに霞かすみわたれる。夜よるになりて、烈はげしう吹ふき出いづる風かぜのけしき、まだ冬ふゆめきていと寒さむげに、大殿油おほとなぶらも消きえつつ、闇やみはあやなきたどたどしさなれど、かたみに聞ききさしたまふべくもあらず、尽つきせぬ御おほん物語ものがたりをえはるけやりたまはで、夜よるもいたう更ふけぬ。

 世よにためしありがたかりける仲なかの睦むつびを、「いで、さりとも、いとさのみはあらざりけむ」と、残のこりありげに問とひなしたまふぞ、わりなき御心みこころならひなめるかし。さりながらも、ものに心こころえたまひて、嘆なげかしき心こころのうちもあきらむばかり、かつは慰なぐさめ、またあはれをもさまし、さまざまに語かたらひたまふ、御おほんさまのをかしきにすかされたてまつりて、げに、心こころにあまるまで思おもひ結むすぼほるることども、すこしづつ語かたりきこえたまふぞ、こよなく胸むねのひまあく心地ここちしたまふ。

 宮みやも、かの人ひと近ちかく渡わたしきこえてむとするほどのことども、語かたらひきこえたまふを、

「いとうれしきことにもはべるかな。あいなく、みづからの過あやまちとなむ思おもうたまへらるる。飽あかぬ昔むかしの名残なごりを、また尋たづぬべき方かたもはべらねば、おほかたには、何なにごとにつけても、心寄こころよせきこゆべき人ひととなむ思おもうたまふるを、もし便びんなくや思おぼし召めさるべき」

 とて、かの、「異人ことびととな思おもひわきそ」と、譲ゆづりたまひし心こころおきてをも、すこしは語かたりきこえたまへど、岩瀬いはせの森もりの呼子鳥よぶこどりめいたりし夜よのことは、残のこしたりけり。心こころのうちには、「かく慰なぐさめがたき形見かたみにも、げに、さてこそ、かやうにも扱あつかひきこゆべかりけれ」と、悔くやしきことやうやうまさりゆけど、今いまはかひなきものゆゑ、「常つねにかうのみ思おもはば、あるまじき心こころもこそ出いで来くれ。誰たがためにもあぢきなく、をこがましからむ」と思おもひ離はなる。「さても、おはしまさむにつけても、まことに思おもひ後見うしろみきこえむ方かたは、また誰たれかは」と思おぼせば、御おほん渡わたりのことどもも心こころまうけせさせたまふ。

かしこにも、よき若人童など求めて

 かしこにも、よき若人わかうど童わらはなど求もとめて、人ひとびとは心こころゆき顔がほにいそぎ思おもひたれど、今いまはとてこの伏見ふしみを荒あらし果はてむも、いみじく心細こころぼそければ、嘆なげかれたまふこと尽つきせぬを、さりとても、またせめて心こころごはく、絶たえ籠こもりてもたけかるまじく、「浅あさからぬ仲なかの契ちぎりも、絶たえ果はてぬべき御おほん住すまひを、いかに思おぼしえたるぞ」とのみ、怨うらみきこえたまふも、すこしはことわりなれば、いかがすべからむ、と思おもひ乱みだれたまへり。

 如月きさらぎの朔日ついたちごろとあれば、ほど近ちかくなるままに、花はなの木きどものけしきばむも残のこりゆかしく、「峰みねの霞かすみの立たつを見捨みすてむことも、おのが常世とこよにてだにあらぬ旅寝たびねにて、いかにはしたなく人ひと笑わらはれなることもこそ」など、よろづにつつましく、心こころ一ひとつに思おもひ明あかし暮くらしたまふ。

 御おほん服ぶくも、限かぎりあることなれば、脱ぬぎ捨すてたまふに、禊みそぎも浅あさき心地ここちぞする。親おや一所ひとところは、見みたてまつらざりしかば、恋こひしきことは思おぼほえず。その御おほん代かはりにも、この度たびの衣ころもを深ふかく染そめむと、心こころには思おぼしのたまへど、さすがに、さるべきゆゑもなきわざなれば、飽あかず悲かなしきこと限かぎりなし。

 中納言ちうなごん殿とのより、御車みくるま、御前おまへの人ひとびと、博士はかせなどたてまつれたまへり。

「はかなしや霞かすみの衣ころも裁たちしまに花はなのひもとく折をりも来きにけり」

 げに、色々いろいろいときよらにてたてまつれたまへり。御おほん渡わたりのほどの被かづけ物ものどもなど、ことことしからぬものから、品々しなじなにこまやかに思おぼしやりつつ、いと多おほかり。

「折をりにつけては、忘わすれぬさまなる御心みこころ寄よせのありがたく、はらからなども、えいとかうまではおはせぬわざぞ」

 など、人ひとびとは聞きこえ知しらす。あざやかならぬ古人ふるびとどもの心こころには、かかる方かたを心こころにしめて聞きこゆ。若わかき人ひとは、時々ときどきも見みたてまつりならひて、今いまはと異ことざまになりたまはむを、さうざうしく、「いかに恋こひしくおぼえさせたまはむ」と聞きこえあへり。

みづからは、渡りたまはむこと明日とて

 みづからは、渡わたりたまはむこと明日あすとての、まだつとめておはしたり。例れいの、客人居まらうとゐの方かたにおはするにつけても、今いまはやうやうもの馴なれて、「我われこそ、人ひとより先さきに、かうやうにも思おもひそめしか」など、ありしさま、のたまひし心こころばへを思おもひ出いでつつ、「さすがに、かけ離はなれ、ことの外ほかになどは、はしたなめたまはざりしを、わが心こころもて、あやしうも隔へだたりにしかな」と、胸むねいたく思おもひ続つづけられたまふ。

 垣間見かいまみせし障子さうじの穴あなも思おもひ出いでらるれば、寄よりて見みたまへど、この中なかをば下おろし籠こめたれば、いとかひなし。

 内うちにも、人ひとびと思おもひ出いできこえつつうちひそみあへり。中なかの宮みやは、まして、もよほさるる御おほん涙なみだの川かはに、明日あすの渡わたりもおぼえたまはず、ほれぼれしげにてながめ臥ふしたまへるに、

「月つきごろの積つもりも、そこはかとなけれど、いぶせく思おもうたまへらるるを、片端かたはしもあきらめきこえさせて、慰なぐさめはべらばや。例れいの、はしたなくなさし放はなたせたまひそ。いとどあらぬ世よの心地ここちしはべり」

 と聞きこえたまへれば、

「はしたなしと思おもはれたてまつらむとしも思おもはねど、いさや、心地ここちも例れいのやうにもおぼえず、かき乱みだりつつ、いとどはかばかしからぬひがこともやと、つつましうて」

 など、苦くるしげにおぼいたれど、「いとほし」など、これかれ聞きこえて、中なかの障子さうじの口くちにて対面たいめんしたまへり。

 いと心恥こころはづかしげになまめきて、また「このたびは、ねびまさりたまひにけり」と、目めも驚おどろくまで匂にほひ多おほく、「人ひとにも似にぬ用意よういなど、あな、めでたの人ひとや」とのみ見みえたまへるを、姫宮ひめみやは、面影おもかげさらぬ人ひとの御おほんことをさへ思おもひ出いできこえたまふに、いとあはれと見みたてまつりたまふ。

「尽つきせぬ御おほん物語ものがたりなども、今日けふは言忌こといみすべくや」

 など言いひさしつつ、

「渡わたらせたまふべき所ところ近ちかく、このころ過すぐして移うつろひはべるべければ、夜中よなか暁あかつきと、つきづきしき人ひとの言いひはべるめる、何事なにごとの折をりにも、疎うとからず思おぼしのたまはせば、世よにはべらむ限かぎりは、聞きこえさせ承うけたまはりて過すぐさまほしくなむはべるを、いかがは思おぼし召めすらむ。人ひとの心こころさまざまにはべる世よなれば、あいなくやなど、一方ひとかたにもえこそ思おもひはべらね」

 と聞きこえたまへば、

「宿やどをばかれじと思おもふ心深こころぶかくはべるを、近ちかく、などのたまはするにつけても、よろづに乱みだれはべりて、聞きこえさせやるべき方かたもなく」

 など、所々ところどころ言いひ消けちて、いみじくものあはれと思おもひたまへるけはひなど、いとようおぼえたまへるを、「心こころからよそのものに見みなしつる」と、いと悔くやしく思おもひゐたまへれど、かひなければ、その夜よのことかけても言いはず、忘わすれにけるにやと見みゆるまで、けざやかにもてなしたまへり。

御前近き紅梅の、色も香もなつかしきに

 御前おまへ近ちかき紅梅こうばいの、色いろも香かもなつかしきに、鴬うぐひすだに見過みすぐしがたげにうち鳴なきて渡わたるめれば、まして「春はるや昔むかしの」と心こころを惑まどはしたまふどちの御おほん物語ものがたりに、折をりあはれなりかし。風かぜのさと吹ふき入いるるに、花はなの香かも客人まらうとの御おほん匂にほひも、橘たちばなならねど、昔むかし思おもひ出いでらるるつまなり。「つれづれの紛まぎらはしにも、世よの憂うき慰なぐさめにも、心こころとどめてもてあそびたまひしものを」など、心こころにあまりたまへば、

「見みる人ひともあらしにまよふ山里やまざとに昔むかしおぼゆる花はなの香かぞする」

 言いふともなくほのかにて、たえだえ聞きこえたるを、なつかしげにうち誦ずじなして、

「袖そでふれし梅むめは変かはらぬ匂にほひにて根ねごめ移うつろふ宿やどやことなる」

 堪たへぬ涙なみだをさまよくのごひ隠かくして、言こと多おほくもあらず、

「またもなほ、かやうにてなむ、何なにごとも聞きこえさせよかるべき」

 など、聞きこえおきて立たちたまひぬ。

 御おほん渡わたりにあるべきことども、人ひとびとにのたまひおく。この宿守やどもりに、かの鬚ひげがちの宿直人とのゐびとなどはさぶらふべければ、このわたりの近ちかき御荘みさうどもなどに、そのことどもものたまひ預あづけなど、こまやかなることどもをさへ定さだめおきたまふ。

弁ぞ

 弁べんぞ、

「かやうの御おほん供ともにも、思おもひかけず長ながき命いのちいとつらくおぼえはべるを、人ひともゆゆしく見み思おもふべければ、今いまは世よにあるものとも人ひとに知しられはべらじ」

 とて、容貌かたちも変かへてけるを、しひて召めし出いでて、いとあはれと見みたまふ。例れいの、昔物語むかしものがたりなどせさせたまひて、

「ここには、なほ、時々ときどきは参まゐり来くべきを、いとたつきなく心細こころぼそかるべきに、かくてものしたまはむは、いとあはれにうれしかるべきことになむ」

 など、えも言いひやらず泣なきたまふ。

「厭いとふにはえて延のびはべる命いのちのつらく、またいかにせよとて、うち捨すてさせたまひけむ、と恨うらめしく、なべての世よを思おもひたまへ沈しづむに、罪つみもいかに深ふかくはべらむ」

 と、思おもひけることどもを愁うれへかけきこゆるも、かたくなしげなれど、いとよく言いひ慰なぐさめたまふ。

 いたくねびにたれど、昔むかし、きよげなりける名残なごりを削そぎ捨すてたれば、額ひたひのほど、様さま変かはれるに、すこし若わかくなりて、さる方かたに雅みやびかなり。

「思おもひわびては、などかかる様さまにもなしたてまつらざりけむ。それに延のぶるやうもやあらまし。さても、いかに心深こころぶかく語かたらひきこえてあらまし」

 など、一方ひとかたならずおぼえたまふに、この人ひとさへうらやましければ、隠かくろへたる几帳きちゃうをすこし引ひきやりて、こまかにぞ語かたらひたまふ。げに、むげに思おもひほけたるさまながら、ものうち言いひたるけしき、用意ようい、口惜くちをしからず、ゆゑありける人ひとの名残なごりと見みえたり。

「さきに立たつ涙なみだの川かはに身みを投なげば人ひとにおくれぬ命いのちならまし」

 と、うちひそみ聞きこゆ。

「それもいと罪つみ深ふかかなることにこそ。かの岸きしに到いたること、などか。さしもあるまじきことにてさへ、深ふかき底そこに沈しづみ過すぐさむもあいなし。すべて、なべてむなしく思おもひとるべき世よになむ」

 などのたまふ。

「身みを投なげむ涙なみだの川かはに沈しづみても恋こひしき瀬々せぜに忘わすれしもせじ

いかならむ世よに、すこしも思おもひ慰なぐさむることありなむ」

 と、果はてもなき心地ここちしたまふ。

 帰かへらむ方かたもなく眺ながめられて、日ひも暮くれにけれど、すずろに旅寝たびねせむも、人ひとのとがむることやと、あいなければ、帰かへりたまひぬ。

思ほしのたまへるさまを語りて

 思おぼほしのたまへるさまを語かたりて、弁べんは、いとど慰なぐさめがたくくれ惑まどひたり。皆人みなひとは心こころゆきたるけしきにて、もの縫ぬひいとなみつつ、老おいゆがめる容貌かたちも知しらず、つくろひさまよふに、いよいよやつして、

「人ひとはみないそぎたつめる袖そでの浦うらに一人ひとり藻塩もしほを垂たるる海人あまかな」

 と愁うれへきこゆれば、

「塩しほ垂たるる海人あまの衣ころもに異ことなれや浮うきたる波なみに濡ぬるるわが袖そで

世よに住すみつかむことも、いとありがたかるべきわざとおぼゆれば、さまに従したがひて、ここをば荒あれ果はてじとなむ思おもふを、さらば対面たいめんもありぬべけれど、しばしのほども、心細こころぼそくて立たちとまりたまふを見みおくに、いとど心こころもゆかずなむ。かかる容貌かたちなる人ひとも、かならずひたぶるにしも絶たえ籠こもらぬわざなめるを、なほ世よの常つねに思おもひなして、時々ときどきも見みえたまへ」

 など、いとなつかしく語かたらひたまふ。昔むかしの人ひとのもてつかひたまひしさるべき御調度みてうどどもなどは、皆みなこの人ひとにとどめおきたまひて、

「かく、人ひとより深ふかく思おもひ沈しづみたまへるを見みれば、前さきの世よも、取とり分わきたる契ちぎりもや、ものしたまひけむと思おもふさへ、睦むつましくあはれになむ」

 とのたまふに、いよいよ童わらはべの恋こひて泣なくやうに、心こころをさめむ方かたなくおぼほれゐたり。

皆かき払ひ、よろづとりしたためて

 皆みなかき払はらひ、よろづとりしたためて、御車みくるまども寄よせて、御前おまへの人ひとびと、四位しゐ五位ごゐいと多おほかり。御おほんみづからも、いみじうおはしまさまほしけれど、ことことしくなりて、なかなか悪あしかるべければ、ただ忍しのびたるさまにもてなして、心こころもとなく思おぼさる。

 中納言ちうなごん殿とのよりも、御前おまへの人ひと、数かず多おほくたてまつれたまへり。おほかたのことをこそ、宮みやよりは思おぼしおきつめれ、こまやかなるうちうちの御おほん扱あつかひは、ただこの殿とのより、思おもひ寄よらぬことなく訪とぶらひきこえたまふ。

 日暮ひぐれぬべしと、内うちにも外とにも、もよほしきこゆるに、心こころあわたたしく、いづちならむと思おもふにも、いとはかなく悲かなしとのみ思おぼほえたまふに、御車みくるまに乗のる大輔たいふの君きみといふ人ひとの言いふ、

「ありふればうれしき瀬せにも逢あひけるを身みを宇治川うぢがはに投なげてましかば」

 うち笑ゑみたるを、「弁べんの尼あまの心こころばへに、こよなうもあるかな」と、心こころづきなうも見みたまふ。いま一人ひとり、

「過すぎにしが恋こひしきことも忘わすれねど今日けふはたまづもゆく心こころかな」

 いづれも年とし経へたる人ひとびとにて、皆みなかの御おほん方かたをば、心寄こころよせまほしくきこえためりしを、今いまはかく思おもひ改あらためて言忌こといみするも、「心憂こころうの世よや」とおぼえたまへば、ものも言いはれたまはず。

 道みちのほどの、遥はるけくはげしき山路やまぢのありさまを見みたまふにぞ、つらきにのみ思おもひなされし人ひとの御おほん仲なかの通かよひを、「ことわりの絶たえ間まなりけり」と、すこし思おぼし知しられける。七日なぬかの月つきのさやかにさし出いでたる影かげ、をかしく霞かすみたるを見みたまひつつ、いと遠とほきに、ならはず苦くるしければ、うち眺ながめられて、

「眺ながむれば山やまより出いでて行ゆく月つきも世よに住すみわびて山やまにこそ入いれ」

 様さま変かはりて、つひにいかならむとのみ、あやふく、行ゆく末すゑうしろめたきに、年としごろ何なにごとをか思おもひけむとぞ、取とり返かへさまほしきや。

宵うち過ぎてぞおはし着きたる

 宵よひうち過すぎてぞおはし着つきたる。見みも知しらぬさまに、目めもかかやくやうなる殿造とのづくりの、三みつば四しつばなる中なかに引ひき入いれて、宮みや、いつしかと待まちおはしましければ、御車みくるまのもとに、みづから寄よらせたまひて下おろしたてまつりたまふ。

 御おほんしつらひなど、あるべき限かぎりして、女房にょうばうの局々つぼねつぼねまで、御心みこころとどめさせたまひけるほどしるく見みえて、いとあらまほしげなり。いかばかりのことにかと見みえたまへる御おほんありさまの、にはかにかく定さだまりたまへば、「おぼろけならず思おぼさるることなめり」と、世人よひとも心こころにくく思おもひおどろきけり。

 中納言ちうなごんは、三条さんでうの宮みやに、この二十余日にじふよにちのほどに渡わたりたまはむとて、このころは日々ひびにおはしつつ見みたまふに、この院ゐん近ちかきほどなれば、けはひも聞きかむとて、夜よ更ふくるまでおはしけるに、たてまつれたまへる御前おまへの人ひとびと帰かへり参まゐりて、ありさまなど語かたりきこゆ。

 いみじう御心みこころに入いりてもてなしたまふなるを聞ききたまふにも、かつはうれしきものから、さすがに、わが心こころながらをこがましく、胸むねうちつぶれて、「ものにもがなや」と、返かへす返がへす独ひとりごたれて、

「しなてるや鳰にほの湖みづうみに漕こぐ舟ふねのまほならねどもあひ見みしものを」

 とぞ言いひくたさまほしき。

右の大殿は、六の君を宮に

 右みぎの大殿おほいどのは、六ろくの君きみを宮みやにたてまつりたまはむこと、この月つきにと思おぼし定さだめたりけるに、かく思おもひの外ほかの人ひとを、このほどより先さきにと思おぼし顔がほにかしづき据すゑたまひて、離はなれおはすれば、「いとものしげに思おぼしたり」と聞ききたまふも、いとほしければ、御おほん文ふみは時々ときどきたてまつりたまふ。

 御おほん裳着もぎのこと、世よに響ひびきていそぎたまへるを、延のべたまはむも人ひと笑わらへなるべければ、二十日はつかあまりに着きせたてまつりたまふ。

 同おなじゆかりにめづらしげなくとも、この中納言ちうなごんをよそ人びとに譲ゆづらむが口惜くちをしきに、

「さもやなしてまし。年としごろ人ひと知しれぬものに思おもひけむ人ひとをも亡なくなして、もの心細こころぼそくながめゐたまふなるを」

 など思おぼし寄よりて、さるべき人ひとしてけしきとらせたまひけれど、

「世よのはかなさを目めに近ちかく見みしに、いと心憂こころうく、身みもゆゆしうおぼゆれば、いかにもいかにも、さやうのありさまはもの憂うくなむ」

 と、すさまじげなるよし聞ききたまひて、

「いかでか、この君きみさへ、おほなおほな言出こといづることを、もの憂うくはもてなすべきぞ」

 と恨うらみたまひけれど、親したしき御おほん仲なからひながらも、人ひとざまのいと心恥こころはづかしげにものしたまへば、えしひてしも聞きこえ動うごかしたまはざりけり。

花盛りのほど、二条の院の桜を

 花盛はなざかりのほど、二条にでうの院ゐんの桜さくらを見みやりたまふに、主ぬしなき宿やどのまづ思おもひやられたまへば、「心こころやすくや」など、独ひとりごちあまりて、宮みやの御おほんもとに参まゐりたまへり。

 ここがちにおはしましつきて、いとよう住すみ馴なれたまひにたれば、「めやすのわざや」と見みたてまつるものから、例れいの、いかにぞやおぼゆる心こころの添そひたるぞ、あやしきや。されど、実みの御心みこころばへは、いとあはれにうしろやすくぞ思おもひきこえたまひける。

 何なにくれと御おほん物語ものがたり聞きこえ交かはしたまひて、夕ゆふつ方かた、宮みやは内裏うちへ参まゐりたまはむとて、御車みくるまの装束さうぞくして、人ひとびと多おほく参まゐり集あつまりなどすれば、立たち出いでたまひて、対たいの御おほん方かたへ参まゐりたまへり。

 山里やまざとのけはひ、ひきかへて、御簾みすのうち心こころにくく住すみなして、をかしげなる童わらはの、透影すきかげほの見みゆるして、御おほん消息せうそこ聞きこえたまへれば、御おほん茵しとねさし出いでて、昔むかしの心こころ知しれる人ひとなるべし、出いで来きて御おほん返かへり聞きこゆ。

「朝夕あさゆふの隔へだてもあるまじう思おもうたまへらるるほどながら、そのこととなくて聞きこえさせむも、なかなかなれなれしきとがめやと、つつみはべるほどに、世よの中なか変かはりにたる心地ここちのみぞしはべるや。御前おまへの梢こずゑも霞かすみ隔へだてて見みえはべるに、あはれなること多おほくもはべるかな」

 と聞きこえて、うち眺ながめてものしたまふけしき、心苦こころぐるしげなるを、

「げに、おはせましかば、おぼつかなからず行ゆき返かへり、かたみに花はなの色いろ、鳥とりの声こゑをも、折をりにつけつつ、すこし心こころゆきて過すぐしつべかりける世よを」

 など、思おぼし出いづるにつけては、ひたぶるに絶たえ籠こもりたまへりし住すまひの心細こころぼそさよりも、飽あかず悲かなしう、口惜くちをしきことぞ、いとどまさりける。

人びとも

 人ひとびとも、

「世よの常つねに、ことことしくなもてなしきこえさせたまひそ。限かぎりなき御心みこころのほどをば、今いましもこそ、見みたてまつり知しらせたまふさまをも、見みえたてまつらせたまふべけれ」

 など聞きこゆれど、人伝ひとづてならず、ふとさし出いで聞きこえむことの、なほつつましきを、やすらひたまふほどに、宮みや、出いでたまはむとて、御おほんまかり申まうしに渡わたりたまへり。いときよらにひきつくろひ化粧けさうじたまひて、見みるかひある御おほんさまなり。

 中納言ちうなごんはこなたになりけり、と見みたまひて、

「などか、むげにさし放はなちては、出いだし据すゑたまへる。御おほんあたりには、あまりあやしと思おもふまで、うしろやすかりし心寄こころよせを。わがためはをこがましきこともや、とおぼゆれど、さすがにむげに隔へだて多おほからむは、罪つみもこそ得うれ。近ちかやかにて、昔物語むかしものがたりもうち語かたらひたまへかし」

 など、聞きこえたまふものから、

「さはありとも、あまり心こころゆるびせむも、またいかにぞや。疑うたがはしき下したの心こころにぞあるや」

 と、うち返かへしのたまへば、一方ひとかたならずわづらはしけれど、わが御心みこころにも、あはれ深ふかく思おもひ知しられにし人ひとの御心みこころを、今いましもおろかなるべきならねば、「かの人ひとも思おもひのたまふめるやうに、いにしへの御おほん代かはりとなずらへきこえて、かう思おもひ知しりけりと、見みえたてまつるふしもあらばや」とは思おぼせど、さすがに、とかくやと、かたがたにやすからず聞きこえなしたまへば、苦くるしう思おぼされけり。

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