無名抄「瀬見の小川」原文・語釈・現代語訳
光行、賀茂社歌合とてはべりし時
原文
光行、賀茂社歌合とてはべりし時、予、月の歌に、
石川や瀬見の小川の清ければ月も流れを尋ねてぞ澄む
と、詠みてはべりしを、判者にて師光入道、
「かかる川やはある」
とて、負けになりはべりにき。
語釈
- 光行:源光行。長寛元(1163)年生まれの歌人。『源氏物語』の研究者。
- 賀茂社:現在の上賀茂神社と下鴨神社の総称。長明の父は下鴨神社の禰宜であった。
- 石川や瀬見の小川:賀茂川の異名。
- 師光入道:源師光。天承元(1131)年頃生まれの歌人。
- やは:⦅反語⦆⋯だろうか、いや⋯ではない。
現代語訳
源光行が、賀茂社奉納の歌合と題して主催された時、私は月の歌に、
石川や瀬見の小川の清ければ月も流れを尋ねてぞ澄む
石川の瀬見の小川が清らかなので、月もその流れを尋ねて来たのか、川面に澄んで映っているよ
と、詠みましたところ、判者だった源師光入道が、
「このような川はない」
と言って、負けになることがありました。
思ふところありて詠みてはべりしかど
原文
思ふところありて詠みてはべりしかど、かくなりにしかば、いぶかしく覚えはべりしほどに、
「その度の判者、すべて心得ぬこと多かり」
とて、また改めて顕昭法師に判せさせはべりし時、この歌の所に判していはく、
語釈
- いぶかし:心が晴れない。不審だ。疑わしい。
- 顕昭法師:顕昭。大治5(1130)年頃生まれの歌人。僧。
現代語訳
思うところがあって詠んだ歌でございましたが、このような結果になったので、心が晴れないでおりましたところ、
「その時の判者には、総じて心得ないことが多い」
ということで、また改めて顕昭法師に判定をさせました時、この歌の箇所に判定をして言うには、
石川、瀬見の小川、いとも聞き及びはべらず
原文
「石川、瀬見の小川、いとも聞き及びはべらず。ただし、をかしく続けたり。かかる川などのはべるにや。所の者に尋ねて定むべし」
とて、ことを切らず。
語釈
- 聞き及ぶ:人づてに聞く。耳にする。
- にや:⋯であろうか。
- 切る:決着をつける。
現代語訳
「石川も瀬見の小川も、まったく聞いたことがありません。ただし、面白く続けている歌です。このような川があるのでしょうか。その土地の者に尋ねて判定するのがよいでしょう」
と言って、決着をつけませんでした。
後に顕昭に会ひたりしとき
原文
後に、顕昭に会ひたりしとき、このこと語り出でて、
「これは賀茂川の異名なり。当社の縁起にはべり」
と申ししかば、驚きて、
「かしこくぞおして難ぜずはべりける。さりとも、顕昭等が聞き及ばぬ名所あらむやはと思ひて、ややもせば難じつべく覚えはべりしかど、誰が歌とは知らねど、歌ざまのよろしく見えしかば、ところおきてさやうに申してはべりしなり。これすでに老の功なり」
となむ申しはべりし。
語釈
- かしこし:好都合である。よいぐあいである。運がよい。
- おして:むりやりに。強引に。
- 難ず:非難する。
- ところおく:遠慮する。一目置く。
- 老の功:年の功。
現代語訳
後日、顕昭に会った時、このことを話題に出して、
「これは賀茂川の異名です。当社の縁起にございます」
と申したところ、顕昭は驚いて、
「幸いにも強引に難をつけずに済みました。そうはいっても、顕昭などが聞き及んでいない名所などありはしないと思って、ややもすれば非難してしまうだろうと思われました。ですが、誰の歌とは知らなくても、歌全体がよろしく見えましたので、一目置いてあのように申した次第でございます。これはひとえに年の功です」
と、申しました。
その後、このことを聞きて
原文
その後、このことを聞きて、禰宜祐兼大きに難じはべりき。
「かやうのことは、いみじからむ晴の会、もしは国王、大臣の御前などにてこそ詠まめ、かかる褻事に詠みたる、無念なることなり」
と申しはべりしほどに、隆信朝臣この川を詠む。
語釈
- 祐兼:鴨祐兼。長明の親戚(曾祖父が兄弟)で、下鴨神社の禰宜の座についた。
- 晴の会:公式の歌会。
- 褻事:褻は晴の対義語。公式でないこと。普段のこと。
- 隆信朝臣:藤原隆信。康治元(1142)年生まれの歌人。
現代語訳
その後、このことを聞いて、禰宜鴨祐兼が大いに非難しました。
「このような縁起は、並々でない公式の歌会、もしくは国王や大臣の御前などで詠むべきであろう。こんな遊びの歌会で詠むとは無念なことだ」
と、申し上げられました一方で、藤原隆信朝臣がこの「石川や瀬見の小川」を詠んだ。
また、顕昭法師、左大将家の百首の歌合の時
原文
また、顕昭法師、左大将家の百首の歌合の時、これを詠む。祐兼いはく、
「さればこそ。我いみじく詠み出だされたりと思はれたれど、代の末には、いづれか先なりけむ、人はいかでか知らむ。何となくまぎれて、やみぬべかめり」
と、本意ながりはべりしを、新古今撰ばれし時、この歌入れられたり。
語釈
- 左大将:九条良経。九条兼実の次男。歌人としては藤原良経と呼ばれることが多い。仁安4(1169)年生まれ。
- 百首の歌合:六百番歌合。建久4(1193)年に開催された。12人の歌人が100首を詠み、左右に分かれて600回勝負した。
- さればこそ:だから言ったではないか。思ったとおりだ。
- 本意なし:不本意だ。残念だ。がっかりだ。
- 新古今:新古今和歌集。
現代語訳
また、顕昭法師も、左大将藤原良経公の邸宅で開催された百首の歌合(六百番歌合)の時にこれを詠んだ。祐兼が言うことには、
「私が言ったとおりではないか。自分でよくぞ最初に詠んだと思ったところで、代の末にはどの歌が先がなんて、人は知りようもないだろう。何となくまぎれて、うやむやになるだろうよ」
と、不本意な様子でございましたが、新古今和歌集が選定された時、この歌が入れられた。
いと人も知らぬことなるを
原文
いと人も知らぬことなるを、取り申す人などのはべりけるにや。すべて、この度の集に十首入りてはべり。これ過分の面目なるうちにも、この歌の入りてはべるが、生死の余執ともなるばかり嬉しくはべるなり。あはれ無益のことどもかな。
語釈
- 取り申す:取り立てて申し上げる。
- 面目:名誉。
- 生死の余執:⦅仏教語⦆来世にまで残る執着。
現代語訳
それほど人も知らないことを、取り立てて申し上げる人などがいたのでしょうか。全部で、この度の和歌集に10首が入りました。これは身に余る名誉であり、10首の中でも特に、この歌が入選したことが、来世にも執着となるほどに嬉しいことでございます。なんて、慰めにもならないことであるな。
無名抄「瀬見の小川」原文全文
光行、賀茂社歌合とてはべりし時、予、月の歌に、
石川や瀬見の小川の清ければ月も流れを尋ねてぞ澄む
と、詠みてはべりしを、判者にて師光入道、
「かかる川やはある」
とて、負けになりはべりにき。思ふところありて詠みてはべりしかど、かくなりにしかば、いぶかしく覚えはべりしほどに、
「その度の判者、すべて心得ぬこと多かり」
とて、また改めて顕昭法師に判せさせはべりし時、この歌の所に判していはく、
「石川、瀬見の小川、いとも聞き及びはべらず。ただし、をかしく続けたり。かかる川などのはべるにや。所の者に尋ねて定むべし」
とて、ことを切らず。
後に、顕昭に会ひたりしとき、このこと語り出でて、
「これは賀茂川の異名なり。当社の縁起にはべり」
と申ししかば、驚きて、
「かしこくぞおして難ぜずはべりける。さりとも、顕昭等が聞き及ばぬ名所あらむやはと思ひて、ややもせば難じつべく覚えはべりしかど、誰が歌とは知らねど、歌ざまのよろしく見えしかば、ところおきてさやうに申してはべりしなり。これすでに老の功なり」
となむ申しはべりし。
その後、このことを聞きて、禰宜祐兼大きに難じはべりき。
「かやうのことは、いみじからむ晴の会、もしは国王、大臣の御前などにてこそ詠まめ、かかる褻事に詠みたる、無念なることなり」
と申しはべりしほどに、隆信朝臣この川を詠む。また、顕昭法師、左大将家の百首の歌合の時、これを詠む。祐兼いはく、
「さればこそ。我いみじく詠み出だされたりと思はれたれど、代の末には、いづれか先なりけむ、人はいかでか知らむ。何となくまぎれて、やみぬべかめり」
と、本意ながりはべりしを、新古今撰ばれし時、この歌入れられたり。いと人も知らぬことなるを、取り申す人などのはべりけるにや。すべて、この度の集に十首入りてはべり。これ過分の面目なるうちにも、この歌の入りてはべるが、生死の余執ともなるばかり嬉しくはべるなり。あはれ無益のことどもかな。

無名抄「瀬見の小川」現代語訳全文
源光行が、賀茂社奉納の歌合と題して主催された時、私は月の歌に、
石川や瀬見の小川の清ければ月も流れを尋ねてぞ澄む
石川の瀬見の小川が清らかなので、月もその流れを尋ねて来たのか、川面に澄んで映っているよ
と、詠みましたところ、判者だった源師行入道が、
「このような川はない」
と言って、負けになることがありました。思うところがあって詠んだ歌でございましたが、このような結果になったので、心が晴れないでおりましたところ、
「その時の判者には、総じて心得ないことが多い」
ということで、また改めて顕昭法師に判定をさせました時、この歌の箇所に判定をして言うには、
「石川も瀬見の小川も、まったく聞いたことがありません。ただし、面白く続けている歌です。このような川があるのでしょうか。その土地の者に尋ねて判定するのがよいでしょう」
と言って、決着をつけませんでした。
後日、顕昭に会った時、このことを話題に出して、
「これは賀茂川の異名です。当社の縁起にございます」
と申したところ、顕昭は驚いて、
「幸いにも強引に難をつけずに済みました。そうはいっても、顕昭などが聞き及んでいない名所などありはしないと思って、ややもすれば非難してしまうだろうと思われました。ですが、誰の歌とは知らなくても、歌全体がよろしく見えましたので、一目置いてあのように申した次第でございます。これはひとえに年の功です」
と、申しました。
その後、このことを聞いて、禰宜鴨祐兼が大いに非難しました。
「このような縁起は、並々でない公式の歌会、もしくは国王や大臣の御前などで詠むべきであろう。こんな遊びの歌会で詠むとは無念なことだ」
と、申し上げられました一方で、藤原隆信朝臣がこの「石川や瀬見の小川」を詠んだ。また、顕昭法師も、左大将藤原良経公の邸宅で開催された百首の歌合(六百番歌合)の時にこれを詠んだ。祐兼が言うことには、
「私が言ったとおりではないか。自分でよくぞ最初に詠んだと思ったところで、代の末にはどの歌が先がなんて、人は知りようもないだろう。何となくまぎれて、うやむやになるだろうよ」
と、不本意な様子でございましたが、新古今和歌集が選定された時、この歌が入れられた。それほど人も知らないことを、取り立てて申し上げる人などがいたのでしょうか。全部で、この度の和歌集に10首が入りました。これは身に余る名誉であり、10首の中でも特に、この歌が入選したことが、来世にも執着となるほどに嬉しいことでございます。なんて、慰めにもならないことであるな。

